ひらめの学校

林芙美子




 ひらめの学校の女の校長先生は、このごろお年をとって眼鏡をかけました。とても大きい眼鏡なので、生徒はびっくりしていました。
「まア、何て大きい眼鏡でしょうねえ。あれでは陸の上まで見えるでしょうよ。此の間、校長会議で竜宮へいらっした時、竜宮の街で、あの眼鏡を貰っていらっしゃった[#「しゃった」は底本では「しゃつた」]ンですって。」
 生徒たちは、海の底の砂地に腹這ってそんな話をしていました。とてもいいお天気で、海の底にもガラスのようなまっさおい光りが透けて、水泡がぷつぷつと舞いあがっているといった気持ちのいいお天気です。
「あっ、体操の先生よ。」
 この間、ハイキングにいらっして、ちょっと、尻尾をお怪我なすった体操の男の先生は、大きい尻尾にほうたいをしていらっしゃいました。
「先生、おはようございます。」
「先生、おはよう。」
 体操の先生はちょこんと紅白の運動帽をかぶって生徒たちのところへいらっしゃいました。
「今日は、みなさんを連れて、鯖村まで見学に行きます。みなさんが、いままでに見たこともない大きい怪物が天界から降って来たそうです。飛魚さんのようなかっこうをして、何だかものすごく大きくて動く事も出来ないものだそうです。」
 小さいひらめの生徒は、わあっと声をあげてよろこびました[#「よろこびました」は底本では「よろこまびした」]。気の早い生徒はもう浮きたって、ごぼごぼと舞い上ってゆくものもありました。
 体操の先生は、急に、ピリピリと笛を鳴らしました。
「あわてものは誰ですか、みんな二列に並んで、きちんと列をくずさないように泳ぐのですよ。この間みたいに、おこぜにいじめられると困るでしょう。いいですか、先生の後からしずかに泳ぐのですよ。鯖村では、村長さんがみんなに御馳走して下さるそうです。校長先生もいらっしゃるのですよ。鯖村まで、約二キロです。正しく列を組んで泳ぎましょう。」
 ひらめの学校の生徒は、さあっと二列に並びました。校長先生が、大きい眼鏡をかけて出ていらっしゃいました。生徒はいっせいに、平べったい尻尾をひらひらとうち振って校長先生をお迎えしました。校長先生の眼鏡はとても重いので、眼鏡のつるに、木で出来たブイがついていました。ブイが両側についているので、大きい眼鏡はゆらゆらと、校長先生のひくいおはなのまわりに、丁度都合よくつりあっています。
 海のなかでは、食べものも何も持って歩くことがないのです。何でもお金と云うものがいらないので、どこでも自由に食べる事が出来ました。
 ひらめの生徒の行列は校長先生の後から、愉しそうに泳いでゆきました。
 昆布の林を抜けたり、サンゴの森をくぐって行きました。時々、ぶりの家族が泳いで来ます。すると、体操の先生が、ピッと笛を吹きます。生徒は校長先生をまんなかにして、岩の上にぺたっと張りついて、ぶりの家族をやりすごしてやります。
 やっと鯖村へ着くと、青いユニホームの鯖の子供が沢山岩の門まで迎えに来ました。岩の門をくぐると、驚いた事に、銀色の大きい怪物が、羽根に真紅なまるいマークをつけてどっかりと砂地にころんでいました。
 まことに珍らしいものです。校長先生は、眼鏡のブイを握ってじいっと見とれていました。鯖村の村長さんも女の方です。とてもよくふとった方で、きれいな藻で首巻きをつくって、それを自慢そうに脊中にかけていらっしゃいました。
「みなさん、よくいらっしゃいましたね。これは、ごらんのような妙なものですが、陸上の人間のつくった飛行機と云うものだそうで、竜宮の鯛王も、先日わざわざ見にいらっしゃいました。いま、陸上では人間が戦争と云うものを始めているのだそうです。鱶さんはとても面白がって、鱶村全部で南の海へ戦争を見に行ったそうです。鯛王も、なるべく鱶族が長く南にたいざいしてくれるといいとおっしゃっていました。さア、みなさん、御自由に、飛行機と云うものをごらん下さい。」
 ひらめの生徒はよろこんで飛行機のまわりを泳ぎはじめました。
「ねえ、これは何だろう?」
 大きい円いゴムの車輪が上を向いています。
「これはすべり台かもわからないわ。」
 みんな珍らしくて仕方がありません。ガラスの窓から中へはいると、小さい人形がぶらさがっています。とても可愛いので、鯖村の村長さんにうかがって、ひらめ学校の生徒はそれを記念にいただきました。
 見物が済むと、岩の中の食堂で、ひらめ学校の生徒は沢山御馳走になって、夕方ぢかくひらめ村へみんなで戻って来ました。
 学校には夜光虫の灯がついていました。
 みんな灯のそばへあつまって歌をうたいました。
とこしえにうつくしき海の国
あらそいをさけ手をつなぎ
海の神に祈る海のはらから
われらたのしくまなび
われらたのしくはたらく海の国
 女の先生が昆布で出来た楽器を鳴らしています。校長先生は、鯖村で貰った人形と云うものを村の衆にみせました。
「人間というものは尻尾がねえンだな。おかしなものだね。尻尾がないと、こっけいに見えるね。戦争って何だろうね。どうして戦争するンだろうね。いっぺんでいいから、人間の国に遊びに行ってみたいものだね。」
 ひらめの村の衆がささやいています。すると、ひらめの村の老村長は、えへんと咳ばらいをして、
「よその世界をのぞきに行くのは地獄に行くようなものです。海の世界ほどよいところはありません。この間も、話にきくと、南に行った鱶村の衆は、人間の戦争を見に行って随分殺ろされたそうです。近々に帰えって来るということです。鱶村の衆でさえ住めないものを、私達がだいそれた事を考えてはいけません。さア、今日の祈りをいたしましょう。」
 村の衆も、学校の生徒も、輪になって、暗い海の底で祈りの歌をうたいました。夜がふけてくるにつけ、今夜は月あかりなのでしょうか、海の底がぼおっと明るくなりました。
 隣り村のたこさんの部落からもお祈りの声がしています。
 魚の国ではどこの部落も、よく神様にお祈りをあげました。神様が、みんなを可愛がって下さるからです。
 竜宮の鯛の王様も、お祈りが好きです。ひらめの学校からは、毎年、竜宮へ留学生を出しますけれど、しばらくして戻って来るひらめの学校の生徒は、みんな立派になって戻って来ました。
 そして、いつでも村の為になることばかりしよう[#「しよう」は底本では「しょう」]と競走します。魚の国にはお金はないけれど、みんなよく働き、みんな仲よしでした。校長先生はいつも、眼鏡をかけたまま学校のなかをゆらゆら泳いでいらっしゃいます。本当に、その眼鏡はひらめ学校の校長先生にふさわしのものでした。





底本:「林芙美子全集 第15巻」文泉堂出版
   1974(昭和52)年4月20日発行
入力:林 幸雄
校正:川向直樹
2004年4月29日作成
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