自序
あゝ二十五の女心の痛みかな!
細々と海の色透きて見ゆる
黍畑に立ちたり二十五の女は
玉蜀黍よ玉蜀黍!
かくばかり胸の痛むかな
廿五の女は海を眺めて
只呆然となり果てぬ。
一ツ二ツ三ツ四ツ
玉蜀黍の粒々は二十五の女の
侘しくも物ほしげなる片言なり
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな。
海ぞひの黍畑に
何の願ひぞも
固き葉の颯々と吹き荒れて
二十五の女は
真実命を切りたき思ひなり
真実死にたき思ひなり。
延びあがり延びあがりたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ
こゝまでたどりつきたる
二十五の女の心は
真実男はゐらぬもの
そは悲しくむつかしき玩具ゆゑ
真実世帯に疲れる時
生きやうか死なうか
さても侘しきあきらめかや
真実友はなつかしけれど
一人一人の心故――
黍の葉のみんな気ぜはしい
やけなそぶりよ
二十五の女心は
一切を捨て走りたき思ひなり
片瞳をつむり
片瞳を開らき
あゝ術もなし
男も欲しや旅もなつかし。
あゝもせやう
かうもせやう
おだまきの糸つれづれに
二十五の呆然と生き果てし女は
黍畑のあぜくろに寝ころび
いつそ深くと眠りたき思ひなり。
あゝかくばかり
せんもなき
二十五の女心の迷ひかな。
――一九二八、九――
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目次
自序
蒼馬を見たり
蒼馬を見たり
赤いマリ
ランタンの蔭
お釈迦様
帰郷
苦しい唄
疲れた心
鯛を買ふ
鯛を買ふ
馬鹿を言ひたい
酔醒
恋は胸三寸のうち
女王様のおかへり
生胆取り
一人旅
善魔と悪魔
灰の中の小人
秋のこゝろ
接吻
ロマンチストの言葉
ほがらかなる風景
いとしのカチユーシヤ
いとしのカチユーシヤ
海の見へない街
情人
雪によせる熱情
酔ひどれ女
乗り出した船だけど
赤いスリツパ
朱帆は海へ出た
朱帆は海へ出た
静心
燃へろ!
火花の鎖
失職して見た夢
月夜の花
後記
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蒼馬を見たり
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蒼馬を見たり
古里の厩は遠く去つた
花が皆ひらいた月夜
港まで走りつゞけた私であつた
朧な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻きをまいて
汽船を恋ひした私だつた。
だけれど……
腕の痛む留置場の窓に
遠い古里の蒼い馬を見た私は
父よ
母よ
元気で生きて下さいと呼ぶ。
忘れかけた風景の中に
しほしほとして歩ゆむ
一匹の蒼馬よ!
おゝ私の視野から
今はあんなにも小さく消へかけた
蒼馬よ!
古里の厩は遠く去つた
そして今は
父の顔
母の顔が
まざまざと浮かんで来る
やつぱり私を愛してくれたのは
古里の風景の中に
細々と生きてゐる老いたる父母と
古ぼけた厩の
老いた蒼馬だつた。
めまぐるしい騒音よみな去れつ!
生長のない廃屋を囲む樹を縫つて
蒼馬と遊ぼうか!
豊かなノスタルヂヤの中に
馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!
私は留置場の窓に
遠い厩の匂ひをかいだ。
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赤いマリ
私は野原へほうり出された赤いマリだ!
力強い風が吹けば
大空高く
鷲の如く飛び上る。
おゝ風よ叩け!
燃えるやうな空気をはらんで
おゝ風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ。
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ランタンの蔭
キングオブキングを十杯呑ませてくれたら
私は貴方に接吻を一ツ上げませう
おゝ哀れな給仕女
青い窓の外は雨のキリコダマ
さあ街も人間も××××も
ランタンの灯の下で
みんな酒になつてしまつた。
カクメイとは北方に吹く風か……
酒をぶちまけてしまつたんです
テーブルの酒の上に真紅な口を開いて
火を吐いたのです。
青いエプロンで舞ひませうか
金婚式! それともキヤラバン……
今晩の舞踊曲は――
さあまだあと三杯
しつかりしてゐるかつて
えゝ大丈夫よ。
私はおりこうな人なのに
ほんとにおりこうな人なのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のやうな男達へ
おしげもなく切り花のやうに
ふりまいてゐるんです。
カクメイとは北方に吹く風か……
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お釈迦様
私はお釈迦様に恋をしました
仄かに冷たい唇に接吻すれば
おゝもつたいない程の
痺れ心になりまする。
ピンからキリまで
もつたいなさに
なだらかな血潮が逆流しまする
蓮華に座した
心にくいまで落付きはらつた
その男ぶりに
すつかり私の魂はつられてしまひました。
お釈迦様
あんまりつれないではござりませぬか!
蜂の巣のやうにこわれた
私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無情を悟すのが
能でもありますまいに
その男ぶりで炎の様な私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱き締めて下さりませ。
ナムアミダブツの
お釈迦様!
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帰郷
古里の山や海を眺めて泣く私です
久々で訪れた古里の家
昔々子供の飯事に
私のオムコサンになつた子供は
小さな村いつぱいにツチの音をたてゝ
大きな風呂桶にタガを入れてゐる
もう大木のやうな若者だ。
崩れた土橋の上で
小指をつないだかのひとは
誰も知らない国へ行つてゐるつてことだが。
小高い蜜柑山の上から海を眺めて
オーイと呼んでみやうか
村の人が村のお友達が
みんなオーイと集つて来るでせう。
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苦しい唄
隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であらふ――
生活の中の食ふと言ふ事が満足でなかつたら
描いた愛らしい花はしぼんでしまふ
快活に働きたいものだと思つても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしやがんでゐる。
両手を高くさし上げてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切つて行く人間ばかりなのか!
いつまでも人形を抱いて沈黙つてゐる私ではない。
お腹がすいても
職がなくつても
ウヲオ! と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死したつて
ビクともする大地ではないんです
後から後から
彼等は健康な砲丸を用意してゐる。
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間は何とまあ
ピヤノのやうに軽やかに美しいのでせう。
そこで始めて
神様コンチクシヨウと吐鳴りたくなります。
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疲れた心
その夜――
カフエーのテーブルの上に
盛花のやうな顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて
夜は辛い――
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色のお白粉に疲れ
十二時の針をひつぱつてゐた。
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鯛を買ふ
[#改丁]
鯛を買ふ
――たいさんに贈る――
一種のコオフンは私達には薬かも知れない。
二人は幼稚園の子供のやうに
足並そろへて街の片隅を歩いてゐた
同じやうな運命を持つた女が
同じやうに瞳と瞳をみあはせて淋しく笑つたのです
なにくそ!
笑へ! 笑へ! 笑へ!
たつた二人の女が笑つたつて
つれない世間に遠慮は無用だ。
私達も街の人に負けないで
国へのお歳暮をしませう。
鯛はいゝな
甘い匂ひが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには
父もあり
母もあり
家も垣根も井戸も樹木も……
ねえ小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいつた
大きな広告を張つておくれ
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜こんで遠い近所に吹ちようして歩く事でせう
―娘があなた、お江戸の日本橋から買つて送つて下れましたが、まあ一ツお上りなしてハイ……
信州の山深い古里を持つ
かの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
―明日は明日の風が吹くから、ありつたけのぜにで買つて送りませう……
小僧さんの持つた木箱には
さつまあげ、鮭のごまふり、鯛の飴干し
二人は同じやうな笑ひを感受しあつて
日本橋に立ちました。
日本橋! 日本橋
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでゐた。
二人はなぜか淋しく手を握りあつて歩いたのです
ガラスのやうに固い空気なんて突き破つて行かう
二人はどん底を唄ひながら
気ぜはしい街ではじけるやうに笑ひました。
[#改ページ]
馬鹿を言ひたい
――古里の両親に――
千も万も馬鹿を言ひたい……
千も万も馬鹿を吐鳴りたい……
只何とはなしに……
こんなにも元気な親子三人がゐて
一升の米の買へる日を数へるのは
何と云ふ切ない生きかただらう。
呆然と生きて来たのではないが
働き馬のやうに朝から晩まで
四足をつゝぱつて
がむしやらに
食べたい為に
只呆然と生きて来てしまつた!
親子三人そろつて
せめて
千も万も 千も万も
馬鹿を吐鳴つたらゆかいだらう。
[#改ページ]
酔醒
なつかしい世界よ!
わたしは今酔つてゐるんです。
下宿の壁はセンベイのやうに青くて
わたしの財布に三十銭はいつてゐる。
雨が降るから下駄を取りに行かう
私を酔はせてあの人は
何も言はないから愛して下さいと云ふから
何も言はないで愛してゐるのに
悲しい……
明日の夜は結婚バイカイ所へ行つて
男をみつけませう――
わたしの下宿料は三十五円よ
あゝ狂人になりそうなの
一月せつせと働いても
海鼠のやうに私の主人はインケンなんです。
煙草を吸ふやうな気持ちで接吻でもしてみたい
恋人なんていらないの
たつた一月でいゝから
平和に白い御飯がたべたいね
わたしの母さんはレウマチで
わたしはチカメだけど
酒は頭に悪いのよ――
五十銭づゝ母さんへ送つてゐたけど
今はその男とも別れて
私は目がまひそうなんです
五十銭と三十五円!
天から降つてこないかなあ――
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恋は胸三寸のうち
処女何と遠い思ひ出であらふ……
男の情を知りつくして
この汚らはしい静脈に蛙が泳いでゐる。
こんなに広い原つぱがあるが
貴方は真実の花をどこに咲かせると云ふのです
きまぐれ娘はいつも飛行機を見てゐますよ
真実のない男と女が千万人よつたつて
戦争は当分お休みですわ。
七面鳥と狸!
何だイ! 地球飛んじまえ
真実と真実の火花をやう散らさない男と女は
パンパンとまつぷたつに割れつちまへ!
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女王様のおかへり
男とも別れだ!
私の胸で子供達が赤い旗を振る
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振つて暮らさう。
皆そうして飛びだしてくれ!
そうして石を運んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上にのせてくれ。
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しつかり しつかり
旗を振つてくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。
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生胆取り
の生胆に花火が散つて夜が来た
東西!
東西!
そろそろ男との大詰が近かづいて来た
一刀両断にたちわつた
男の腸に
メダカがピンピン泳いでゐる。
くさい くさい夜だ
誰も居なければ泥棒にはいりますぞ!
私はビンボウ故
男も逃げて行きました
まつくらい頬かむりの夜だ。
[#改ページ]
一人旅
風が鳴る白い空だ
冬のステキに冷たい海だ
狂人だつてキリキリ舞ひをして
目の覚めさうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ
毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばかりかけたどぜう鍋のやうに
ものすごいフツトウだ
しぶきだ
雨のやうなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握つてゐた。
あゝバツトでも吸ひたい
ウヲオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ
白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく あんなに大きく
あゝやつぱり淋しい一人旅だ。
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善魔と悪魔
まあ兎に角貴方との邂逅を祝しませう
―淋しい人生ぢやありませんか
全く生きてゐる事が
イリウジヨンではないかと思ふ事さへありますよ
或ひはそうかも知れないけれど
此頃つくづく性慾から離れた
心臓が機関車になるやうな
恋がしてみたいと思ひます。
性慾アナーキズム
貞操共産主義も鼻について来ましたからね
やつぱり私の心臓の中にも
善魔がゐるんですね。
―驚きましたね
悪魔が私を裸踊りさせるやうに
善魔は私をおだてあげるのです。
まつて下さい!
今に人間生死薬を発明するつもりです
全くいつも思ふ事ですが
広い海の上をひとつぱしり
歩ける機械が欲しいですね
―まあゆつくり話しませう
まだ生きてゐるんでせう……
貴方も私もまだ二三十年あるんです。
小さな地球の上ではからずも
貴方と邂逅したことは
因果を説かなくても当然の事ですよ
人間万事タナカラボタモチ主義
思切れば数へ切れない程の主義がありますね
それも皆善魔と悪魔の戦ひです。
結局は大口いつぱいの空です
どうです十本入り六銭の
蒼ざめたバツトでも吸ひません
そして愉快に
笑つて今日の邂逅を祝しませう。
[#改ページ]
灰の中の小人
今日も日暮れだ
仄白い薄暗の中で
火鉢の灰を見つめてゐたら
凸凹の灰の上を
小人がケシ粒のやうな荷物をもつて
ヒヨコヒヨコ歩いてゐる。
―姉さんくよくよするもんぢやないよ
貧しき者は幸なりつてねヘツヘツ
あゝ疲れた
私はあんまり淋しくて泣けて来た
ポタポタ大粒の涙が灰に落ちると
小人はジユンジユン消へてゐつてしまつた。
[#改ページ]
秋のこゝろ
秋の空や
樹や空気や水は
山の肌のやうに冷く清らかだ。
女のやうにうるんだ夜空は
たまらなくいゝな
朝の空も
夜の空も
秋はいゝな。
青い薬ビンの中に
朱いランタンの灯が
フラリフラリ
ステツキを振つて歩るく街の恋人達は
古いマツチのからに入れて
私は少女のやうにクルリクルリ
黄色い木綿糸を巻きませう。
夜明近くの森の色や鳥の声を見たり聞いたりすると
私のこゝろが真紅に破けそうだ
夜更けの田舎道を歩いて
虫の声を聞くと
切なかつた恋心が塩つぱい涙となつて
風に吹かれる
秋はいゝな
朝も夜も
私の命がレールのやうにのびて行きます。
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接吻
はじめて接吻を知つた夜
桜がランマンと咲いて
月は赤かつた――
血をすゝるやうな男の唇に
わけても
わけても
月はくるくる舞つてゐた。
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ロマンチストの言葉
―これでもか!
―まだまだ……
―これでもへこたれないか!
―まだまだ……
貧乏神がうなつて私の肩を叩いてゐる
そこで笑つて私は質屋の門へ
『弱き者よ汝の名は女なり』と大書した。
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ほがらかなる風景
出帆だ! と吐唸つてゐるやうな百貨店の口
その口つぺたにツバを吐いて
小石のやうに私を蹴つた
ふそろいな流行の旗を立て沢山の不幸人が行くよ。
暮色に包まれた街の音に押されると
私は郊外の白い御飯を思ふ。
艶々とした健康な住家を思ひ浮べると
空高く口笛を吹いて銅貨の音が恋しくなつた
だが過失の卵ばかり生んでゐる
私はメンだと思ふと泣けてしまふ。
だがその小さな汚れた卵はメリケン袋へ入れて
ほら百貨店の口へ
群集の頭へほうり投げてやらう。
くるりと廻転機をまはして私は風のやうに
爽やかに郊外の花畑を吹く。
真実生る楽しみは
嘘を言はないで毎日白い御飯が食べられることだ
ところで芙美子さんは幸福なんだよ
と誰かに一ツ呼びかけてやりたいね。
[#改丁]
いとしのカチユーシヤ
[#改丁]
いとしのカチユーシヤ
1
ぐいぐい陽向葵の花は延びて行つた
油陽照りの八月だ!
鼠色の風呂敷を背負つて
私は何度あの隧道を越へたらう。
その頃
釜の底のやうな直方の町に
可愛やカチユーシヤの唄が流行つて来た
炭坑の坑夫達や
トロツコを押す女房連まで
可憐な此唄を愛してゐた。
2
私は固い玉葱のやうに元気だつた
月の出かけた山脈を背に
せめて淡雪とけぬまに……
炭坑から町までは小一里の道のりだ。
鯉の絵や富士山の絵の一本拾銭の白い扇子は
毎日々々私の根気と平行して売れて行つた
破船のやうな青いペンキ塗りの社宅を越すと
千軒長屋の汚ない坑夫部屋が芋虫のやうに並んでゐて
お上さん達は皆私を待つてゐてくれた。
3
昼食時になると
炭坑いつぱいに銅羅が鳴り響いて
待ちかまへてゐたやうに
土の中からまるで石ころのやうな人間が飛び出して来る
『オーイ! カチユーシヤ飯にしろい!』
陽向葵はどんな荒れた土の上にも咲いてゐた
自由な空気をいつぱい吸つた坑夫達は
飯を頬ばつたり
女房の鼻をつまんだりして
キビキビした笑ひを投げあつてゐる
油陽照りの八月だ!
4
直方の町は海鼠のやうに侘しい。
飯をしまつて石油を買ひに出ると
解放された夜の微風が
海月のやうなお月さんをかすめてゐる。
坑夫相手の淫売屋の行灯も
貝のやうに白々とさへて来る。
私の義父や母は
町や村を幾つも幾つも越して
陶器製造所や下駄工場へ
荷車を引いて行商に行つてゐた。
待ち侘びて道へ立つてゐると
軽そうな荷車を引いた義父の提灯が見へる
すると私は犬のやうに走つて
車を押してゐる母へすがりついた。
5
雨が何日も降り続くと
暑苦しい木賃宿の二階で
永住の地を私達親子はどんなに恋しがつた事だらう。
町へ出ると
雪が降つてゐる停車場で
汽車の窓を叩いてゐる可憐な異人娘の看板を見た
その頃の私の雑記帳は
どの頁もカチユーシヤの顔でいつぱいだつた。
6
『今日は事務所をぶつこはしに行くんだ。』
或日
口笛を吹き鳴らし吹き鳴らし炭坑へ行くと
あんなに静かだつた坑夫部屋の窓々が
皆殺気立つて
糸巻きのやうに空つぽのトロツコがレールに浮いてゐた。
重たい荷を背負つて隧道を越すと
頬かぶりをした坑夫達が
『おい! カチユーシヤ早く帰らねえとあぶねえぞ!』
私は十二の少女
カチユーシヤと云はれた事は
お姫様と言われた事より嬉しかつた
『あんやんしつかりやつておくれつ!』
7
純情な少女には
あの直情で明るく自由な坑夫達の顔から
正義の微笑を見逃しはしなかつた。
木賃宿へ帰つた私は
髪を二ツに分けてカチユーシヤの髪を結んでみた。
いとしのカチユーシヤよ!
農奴の娘カチユーシヤはあんなに不幸になつてしまつた。
吹雪、シベリヤ、監獄、火酒、ネフリユウドフ
だが何も知らない貧しい少女だつた私は
洋々たる望を抱いて野菜箱の玉葱のやうに
くりくり大きくそだつて行つた。
[#改ページ]
海の見へない街
凍つた空に響くのは
固い銅羅の音だ
街路樹が冬になると
人間の胃袋が汚れて来る。
すりきれた
すりきれた
都会の奈落にひしめきあふロボツト
ロボツトの足につないだプラチナの鎖は
金にあかした電流だ。
波の音が未来も過古もない荒んだ都会のセメントをザザザと崩す日を思へ!
大理石もドームも打破つてトンネルを造れ
海へ続くユカイなトンネルを造れ
海は波は
新しい芝居のやうに泡をたて
腰をゆり肩を怒らせ
胸を張り
真実切ないものを空へぶちまけてゐる。
汚れた土を崩す事は気安めではない
大きい冷い屋根を引つぺがへして
浪の泡沫をふりかけやうか!
それとも長い暗いトンネルの中へ
鎖の鍵を持つてゐるムカデを
トコロテンのやうに押し込んでやらうか!
奈落にひしめきあふ不幸な電気人形よ
波を叩いて飛ぶ荒鷲のツバサを見よ
海よ海!
海には自由で軽快な帆船がいつぱいだ。
[#改ページ]
情人
船の上から
一直線に飛びこんだ私――
上手に起きやうとすると
ふくらはぎに海鼠が這つて
私は恥かしくて
両手で乳房を抱きました。
波が荒くなつてくると
私は髪をほどいて
もうステバチになつたんです
ドンと突き当れば
ドンとはねつ返すパツシヨン
あゝ私は強い波の
打たれるやうな接吻を恋ひした。
ビロードのやうに青い波の上だよ
私は裸身を水にしぶかせて
只呆然と波に溺れたのです。
さあ私は人魚
抱きしめておくれ
私の新らしい恋人よ
船に置忘れた
可愛い水夫の夢もあつたが
私のことづけは白い鴎に
―いゝ情人が出来ました
あゝ私はうらぶれた人魚
遠くい遠くい飛んだ鴎よ
かへつておいでヒーロヒロ
―やつぱり淋しく候
―悲しく候
―青い人魚は死んでしまひ候。
[#改ページ]
雪によせる熱情
茫漠たる吹雪の野に
私は只一羽の荒鷲となつて
ゐつぱいの羽根
ゐつぱいの魂
せいゐつぱいの情熱を拡げて
ひと打ち!
ビユンと私は野を越へやう――
キリキリ キリキリ
美しい雪の砲丸
私は真赤な帽子をかぶつて
ゐつぱいの両手
ゐつぱいの心臓
せいゐつぱいの瞳を開いて
ころころ私は雪にまみれやう。
あの真蒼い雪!
雪の上からのし上がる断雲
あゝもれもれと上がる私の顔のスフインクス
野も山も雪も家も呑んでしまほう。
雪の上のスフインクスは
涙をふりちぎつて大空に息した
ゐつぱいの口
ゐつぱいの息
せいゐつぱいの胸をゆする。
ランマンと咲いた地球の上に
ランマンと飛ぶ雪の砲丸
さあゐつぱいの力だ
ゐつぱいに足をふまへて
私はせいゐつぱいに弓を張らう!
[#改ページ]
酔ひどれ女
鉄くづのやうにさびた木の葉が
ハラ/\散つてゆくと
街路樹は林立した帆柱のやうに
毎日毎日風の唄だ。
紫の羽織に黒いボアのうつるお嬢さん!
私はその羽織や肩掛けに熱い思ひをするのです。
美しい女
美しい街
お腹はこんなにからつぽなんです。
私は不思議でならない
働らいても働らいても御飯の食へない私と
美しい秋の服装と――
たつぷり栄養をふくんだ貴女の
頬つぺたのはり具合
貴女と私の間は何百里もあるんでせうかね――
つまらなくつて男を盗んだのです
そしてお酒に溺れたんですが
世間様は皆して
地べたへ叩きつけて
この私をふみたくつてしまふのです。
お嬢さん!
ますます貴女はお美しくサンゼンとしてゐます。
あゝこの寂しい酔ひどれ女は
血の涙でも流さねば狂人になつてしまふ
チクオンキの中にはいつて
吐唸りたくつても
冷たくて月のある夜は恥かしい
嘲笑したヨワミソの男や女達よ!
この酔ひどれ女の棺桶でもかつがして
林立した街の帆柱の下を
スツトトン
スツトトンでにぎはせてあげませう。
[#改ページ]
乗り出した船だけど
それはどろどろの街路であつた
こわれた自動車のやうに私はつゝ立つてゐる
今度こそ身売りをして金をこしらへ
皆を喜ばせてやらうと
今朝はるばると
幾十日めで東京へ旅立つて来たのではないか
どこをさがしたつて私を買つてくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたらもう死んでもいゝと云つた
今朝の男の言葉を思ひ出して
私はサンサンと涙をこぼしました。
男は下宿だし
私が居れば宿料が嵩むし
私は豚のやうに臭みをかぎながら
カフエーからカフエーを歩きまはつた
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
縁遠いやうな気がします。
叫ぶ勇気もない故
死にたいと思つてもその元気もない
私の裾にまつはつてじやれてゐた
四国にのこした
小猫のオテクさんはどうしたらう……
時計屋の飾り窓に私は女泥棒になつた目つきをしてみやうと思ひました
何とうはべばかりの人間がウヨウヨしてゐることよ
肺病は馬の糞汁を呑むとなほるつて
辛い辛い男に呑ませるのは
心中つてどんなものだらう……
ヘイヘイ金でございますよ
金だ金だつて言ふけれど
私は働いても働いてもまはつてこない
金は天下のまはりものだつて言ふのにね。
何とかキセキは現はれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働らいてゐる金はどこへ逃げて行くのか
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフエーだの女中だの女工だの
ボロカス女で
私は働き死にしなければならないのか!
病にひがんだ男は
お前は赤い豚だと云ひます
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪い男や女の前に
芙美子さんの腸を見せてやりたい。
[#改ページ]
赤いスリツパ
地球の廻転椅子に腰をかけて
ガタンとひとまはりすれば
引きづる赤いスリツパが
かたいつぽ飛んでしまつた。
淋しいなあ……
オーイと呼んでも
誰も飛んだスリツパを取つてはくれぬ
度胸をきめて廻転椅子から飛び降りて
片つ方のスリツパを取りに行かうか
あゝ臆病な私の手は
しつかり廻転椅子にすがりついてゐる。
オーイ誰でもいゝ
思ひ切り私の横面をはりとばしてくれ
そしてはいてゐるも一ツのスリツパも飛ばしてくれ
私はゆつくり眠りたい。
[#改丁]
朱帆は海へ出た
[#改丁]
朱帆は海へ出た
潮鳴りの音を聞いたか!
茫漠と拡つた海の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散し
夕焼けた浜辺へ集つた。
遠い潮鳴りの音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
こゝは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまつたやうな
因の島の細い町並に
油で汚れたヅボンや菜つ葉服の旗がひるがへつて
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン ワアン
島いつぱいに吠へてゐた。
ド……ドツ ド……ドツ
青いペンキ塗りの通用門が群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかゝえて
雪夜の狐のやうにヒヨイヒヨイ
ランチへ飛び乗つて行つてしまふ。
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒の涙がほとばしつて
プチプチ音をたてゝゐるではないか
逃げたランチは
投網のやうに拡がつた○○○の船に横切られてしまふとさても
此小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまふ。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――
昨日も今日も変りのない
平凡な雲の流れだ
そこで!
頭のもげそうな狂人になつた職工達は
波に呼びかけ海に吠へ
ドツクの破船の中に渦をまいて雪崩てゐつた。
潮鳴りの音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れツ!
うんと空高く旗を振れツ
元気な若者達が
キンキラ光つた肌をさらして
カラヽ カラヽ カラヽ
破れた赤い帆の帆縄を力いつぱい引きしぼると
海水止めの関を喰ひ破つて
朱船は風の唸る海へ出た!
それツ! 旗を振れツ!
○○歌を唄へツ!
朽ちてはゐるが
元気に風をいつぱい孕んだ朱船は
白いしぶきを蹴つて海へ!
海の只中へ矢のやうに走つて出た。
だが……
オーイ オーイ
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでゐる
波のやうに元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背のびして
空高く空高く呼んでゐるではないか!
遠い潮鳴りの音を聞いたか!
波の怒号するを聞いたか!
…………
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手を振つてゐる女房子供の目の底には
火の粉のやうにつゝ走つて行く
赤い帆がいつまでも写つてゐたよ。
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静心
夜が更けて
遠くで鷄が鳴いてゐる
明日はこれでお米を買ひませう
私は蜜柑箱の机の上で
匂ひやかな子供の物語りを書いたのです
もしこれがお金になつたならば
私の空想は夜更けの白々した電気に消へてしまふのです
私は疲れて指を折つて見ました
二日も御飯を食べないので
とても寒くて
ホラ私の胃袋は鐘のやうに
ゴオンゴオンと鳴つてゐます。
火鉢に鍋をのせ
うどんの玉を入れて食べませう
外は風が寒むそうだが
すばらしい月夜です。
この白い糸のやうな湯気を見てゐると
私は赤ん坊のやうに楽しいんです。
童話も書きあがつてしまつたし
うどんもぐつぐつ煮へて来たし……。
一週間も前にさした枯々の水仙が
馬鹿に悲しい心情をそゝるのですが
明日の事を思ふとじつと涙をこらへて
私は白い手を見ました
あゝ昔私に恋文をくれた人もあつたつけ……。
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燃へろ!
燃へろ!
燃へろ!
それ火だ火の粉だ
憂鬱を燃やせ!
真実の心は火花だ心だ!
馬鹿にするな
馬鹿にするな
貧しくつても
生きるのだ!
大きな樹の上に止つて
私の子供のやうな心は
ねー狂人のやうにこんなに叫びたいのです。
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火花の鎖
大根畑が白く凍つてゐる朝
米をといでゐる私は
赤い肩掛けがほしくなりました
仄かに音もなく降る雪の中に
赤い肩掛けをして
恋人と旅に出たならば……。
私は顔をあかめて心のふるへをたゝみ
そつと涙ぐむのです。
此朝の米をかしぐ間の私の幻想は
急行列車の中に空想の玩具を積みあげて
火花の鎖のやうに燃へて
走つて行きます。
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失職して見た夢
燃へるやうに暗い夜
月がトンネルにくゞりこんで
沖では白帆がコトコト滑つてゐた
そこでセツケン工場を止めさせられた私が
ソーダでカルメラのやうに荒れた手を
香水の中にひたして泣いてゐた。
どこまで歩いたか知らないが
とにかく暗に火が見へる
おあつらへ向きに腹がへつて
そこは支那料理店だつた
焼きたての豚肉がいつぱい盛られて
一皿八銭
目の光る支那人のコツクに
私は熱い思ひをした
ぢつとふれあつてゐる腕に
支那人のコツクは蛇を巻きつかせてヘツヘツ……
長い髪を上へかき上げたら
私の可愛い恋人であつた。
手品の蛇が飛んぢやつた!
青い泡が固いセツケンになつてしまつた。
私と恋人は野に転び小指をつなぎ合はせて接吻したが
恋人は此世ではとても食つて行けないからと
私の小さい胸をぶち抜かうとした
赤い火花が固いセツケンになつてしまつた
私は支那料理が食ひたくなつて
海上を一目散に逃げ出した
ズドン一散! 私の貞操は飛んぢやつた。
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月夜の花
女郎買ひの帰りに
俺は雪の小道を
狐が走つてゐるのを見たよ
彼の人は凍ほつた道を子供のやうに蹴つてゐた。
郊外の町を歩いて
私は彼の人と赤い花を買ひに行つた
幾年にもない心の驚異である
明日は花の静物でも描かうや……
彼の人は月に引つかけるつもりか
マントを風にゆすつてゐる。
雪の小道を狐が走つてゐるのを見た
丁度波のやうに体をくねらせて走つて行つたよ
彼の人の山国の女郎屋の風景を思ひ浮べ乍ら
台所の野菜箱のやうな私を侘しく思つた
しめつた野菜箱の中に白つぽい蒼ざめた花を
咲かせては泣いた私であつたに
ね…… オイ! 沈丁花の花が匂ふよ
暗い邸の中から
仄かな淋しい花の匂ひがする
私は赤い花を月にかざしてみた
貧しい画かきに買はれた花は
プチプチ音をたてゝ月に開いてゐる。
雪も降つてゐない
狐も通つてゐない
月の明るい郊外の田舎道だ。
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後記
拾年間の作品の中で、好きなのだけ集めてみました。何だか始めてお嫁入りするやうで恥かしいのです。
此詩集の中の詩は、全部発表したものばかりです。皆働らいてゐる時に書きましたので、この詩稿は真黄にやけて、私と転々苦労を共にして来ました。
何も云はないで只万歳と叫びませう。
序を書いて下さいました、石川三四郎氏、辻潤氏は、私の最も尊敬する方でございます。
詩壇の誰もに私は相手にされなかつたのに、かくまで親切なる序文を戴いた事は、私の拾年あまりの詩の苦行も、無駄ではなかつたと思つております。
私は誰よりも私を愛して下さつた、私の多くの女友達に、此せいゐつぱいの詩集をおくり日頃の友情に報ひたいと思ひます。
――昭和四年・五月・林芙美子――