心を高めるやうな無窮の愉しみと云ふものは、いまだに何一つ身につけてはをりませんが、小説書きの小説識らずで、まして音楽にしても絵画にしましてもわたくしは一文字も解らない童児なのです。だけど、それらのものは不思議に愛情をもつて観たり聴いたりすることが出来ます。世間ではよく趣味のあるなしを論じるひともあるけれども、眼の高さ、学問の高さをとりのぞいたならば、君子も乞食も、絵や音楽や文学は一様にきらひなものではないでせう。
遠州流の祖小堀政一侯の壁書のなかに、「君に忠孝をつくし、家々の業を懈怠なく殊に旧友の交りを失ふなかれ、春はかすみ、夏は青葉がくれのほとゝぎす、秋はいとゞさびしさまさる夕の空、冬は雪のあかつき、いづれも茶の湯の風情ぞかし、道具とてもさして珍らしきによるべからず。名物とてもかはりたることなし、古きとてもその昔は新らしく、唯家に久しく伝はりたる道具こそ名物なれ、古きとて形いやしきは用ひず、新らしきとて姿よろしきときはすつべからず、数多きことをうらやまず少きをいとはず、一品一色の道具なりとも、幾度ももてはやしてこそ、末々子孫までも伝はる道もあるべけれ、一飯をすゝむとても志厚きをよしとす、多味なりとも主たるものの志うすきは、早瀬の鮎、水底の鯉、迚も味ひあるべからず。籬の露、山路のつたかづら、明暮こぬ人をまつ葉風の釜のにえ音たゆることなかれ」
と云ふことがありましたが、身に徹するよい一章とおもひをります。
このごろ、薄茶をたてることを少しばかり習ひかけてをりますが、朴念仁のわたしの日常にも、これはまことに明るい清々としたすくひだとおもひをります。
茶をたててゐて感じますことは、日常、満ちたものよりも足りぬものに、何か魅力を感じ、発足と云つたものを感じますがどうでせう。
頃日、「ものを知らぬ」と云ふことは名誉なことではないが別に不名誉なことでもないとおもふやうになりました。浅く広くものを沢山識る苦労よりも、小さなことでも一つ一つ心の髄に銘じることは中々のうれしさです。厨女であれば、あれもこれも百貨店のやうなおそろしい心臓を持たなくてもよろしく、よくぞ女に生れけると幸福なおもひを愉しむ時があります。
お碗でお茶をたてるもよいでせうし、床の間に何もない淋しさをかこつも亦面白いとおもつたりしてをります。先日も、私の茶の師匠である禅寺の和尚が、わざわざ東京へ出て来て、一日ある名家に茶をよばれて帰つての話に、
「位のある人間や、金を持つてゐる人間は、どうも中腰で茶をたててゐて困る。たいこもちのやうな男が出て来て、このなつめは五万円だとか、この建水は二万円、茶碗がいくら、うるさいことぢや、あれならいつそ
さう云つて、わたしのたてた貧しい茶碗の茶を両手にかかへて、喫してくれるのですが、一寸面白い言葉とおもひました。
ところで、こゝでは南画のことに就いて何か書かなければならないのでせうが、わたくしは、南画と云ふものに就ては何も識りません。支那から来たもので元南宗と北宗にわかれてゐた画の派が、南画と云はれるやうになつたのだと何かで昔読んだことがあつたやうに思ひますがその記憶もあてにはなりません。水墨としては、これほどりゝしいものはないとおもひますがどうでせう。童児の眼識しかありませんのでむづかしい事は云へませんが南画は大変徹した処があつて好きです。――先日
先月も或ひとに話したことでしたが、わたくしは、此頃非常に墨の絵が好きになりました。展覧会に油絵を観に参りますとすぐ疲れて参りますが、水墨には心慰められて帰つて来ます。さうして、水墨の絵のなかからは、絵の
平凡に徹したつゝましい奥さんが、良人の蔭のうちで、絵画や、音楽、文学、色々なことをひそやかにたしなみ愛してゐる姿は清楚で愛らしいとおもひますがどうでせうか。此様な気持ちは文化運動にたづさはつてゐる知識婦人達には、進歩的ではないと嗤はれることかもしれませんけれども、わたしは阿米夜宗慶の女房つくる尼焼茶碗のやうに、孤独で自然のすべてを愛し愛せられたら
女の愛情で充ちた、世の中のことを考へるだけでも素敵ではないでせうか。