少年

原民喜




 空地へ幕が張られて、自動車の展覧会があった。誰でも勝手に這入れるので、藤一郎もいい気持で見て歩いた。ピカピカ光るおなかや、澄ましたつらした自動車を見ると、藤一郎の胸にはふんわりと訳のわからぬ感情が浮き上るのであった。いくら見惚れたって自分の所有にはならないのだが、ああ云ふ立派な自動車に乗って走れたら、どんなに素晴しいだらうか――藤一郎はその素晴しさを想像して一人でいい気持になった。美しい女が、たしかにああ云ふ自動車には乗ってゐて、彼の知らない世界を走ってゐるのだ。藤一郎はついさうした夢想に耽り出すと、眼の前が早くも茫として額に微熱を覚えた。その時、遙かに遠い空間に一つの点が見えて、その点が彼の運命らしく感じられた。だから万が一には彼だって、その美しい女と一緒に自動車に乗って走るかも知れないのだ。いや、たしかに、そこにはさう云ふうらなひがあった。はっと気がつくと、眼の前には一匹の蜻蛉が飛んでゐて、そこは展覧会の出口だった。藤一郎は今迄引張廻してゐた自転車に乗ると、忘れてゐた用件を思ひ出して、滅茶苦茶に走り出した。

 やがて店へ戻ると、案の定、藤一郎は主人から叱られた。どうして主人には彼が道草食ってゐるのがわかるのか、藤一郎にはわからなかったが、「君は一体此頃ぼやっとしてるぞ。」と云はれた時にはギョクッとした。さっきまで目が眩むほど美しい女のことを考へてたのだが、さう云ふことまで主人にはわかるのかしら。自分の不甲斐なさを思ふと、少しづつ慄へる唇を藤一郎は努めて慄はせまいとした。恰度いいことに、藤一郎はまた用件をいひつかった。今度はしくじるまいと、藤一郎は自転車に燈をつけた。
 幾台も自動車が彼を追越した。何だ、ボロ自動車。や、今度は素適な奴が抜いた。あ、あの自動車に乗ってる男、女の肩へ手を掛けてゐた。その次は、何だまたボロ自動車か。また来た、ボロ自動車。……何時の間にか藤一郎は自分が立派な自動車に乗ってゐるつもりでペダルを踏んだ。口笛が、ハーモニカのかはりに吹かれて、雑沓に紛れた。ハーモニカを吹いて、夜の田舎の海岸を走ってゐるやうな気もした。実際のところ、藤一郎は何時の間にか雑沓を抜けて、豪華な邸宅地の滑らかな路に出てゐた。霧がハンドルにかかって、眼の前がはっきりしなかった。突然後から一台の流線型が音もなく光って来た。その車が背を見せた時、藤一郎は女を見た。若い綺麗な女がたった一人乗ってゐた。あ、あの女だ――と藤一郎は遽かに頬笑むと、夢中で追跡を試みた。光が遠のいて行くばかりで、呼吸が切れさうになった。その時背後から襲った光の洪水に藤一郎は絶望を感じた。次いで烈しい罵倒が彼の全身をガーンと打った。





底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年6月18日作成
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