藤の花
原民喜
運動場の白い砂の上では四十人あまりの男女が体操をしてゐた。藤棚の下で見てゐると微風が睡気を運んで来るので、体操の時間は停まったままでちっとも動かない。機械体操から墜ちて手首を挫いた豊が、ネルの着物の上に袴を穿いて、手を※[#「糸+朋」、U+7DB3、57-1]帯で首から吊ってゐた。そのすぐ側には女の子が二人、やはり体操を休んでゐた。一人の女の子は髪が日向の枯草のやうに乾いてゐて、顔が年寄のやうに落着いてゐた。もう一人の女の子は何となく朝顔の芽に似た顔をしてゐた。豊の頭の上には藤の花が垂れ下ってゐる。その藤の花を裂いて蜜を舐めることを、豊は佐藤から教はってゐた。佐藤は熊の子のやうな恰好で今も体操の列にゐた。(さやえんどう、さくらんぼう、どうしてこのごろは、うっとりとろりのしたきりすずめ)豊はちいちく、ちいちく啼く雀の声を眼をひらいたまま、夢のやうに聴いてゐた。すると、なにがどうかなしいのかわからないが、とにかくかなしい。
…………はっと思ふと、すべてが彼の趾の裏から墜落して行くのであった。女の子の一人は縦縞のじみな着物を着て、鼻に小皺を寄せたまま、もう一人の女の子は赤い襷を掛けて、煤けた腕を露出したまま、熊の子のやうに佐藤はもぢゃもぢゃに頬鬚を伸し、歯をタバコの脂だらけにして、その他四十人あまりの顔がみんなそれぞれ変ってゐるのに気も着かず、まだ体操を続けてゐた。そして、どしどし運動場は墜落して行く。豊は耐りかねて、負傷してゐないほうの手で、藤の花にぶらさがった。
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