街の断片

原民喜





 相手の声がコックだったので彼女は自分の声に潤ひと弾みとを加へた。その方が料理に念を入れて来るだらうし、――マネージャー達だって私の声を聴いてゐるのだから――さあ、もっとだらだら喋ってやらう。
 ――ちょっと、ポテトは狐色に焼くのよ、え、解った? 卵は二つね、卵、あんまり焦さないでね、いいこと? モシモシ、ええ、卵よ、黄味を崩したりなんかしちゃ嫌よ。ちょっとそれからライスは焚きたてがある? あ、さう、今から凡そ何分ぐらゐで出来るの? あ、さう、ぢゃお願ひするわ。
 口のなかに唾液が溜ったのをこくりと呑み込むと彼女は受話機を置いた。私はこんなに食べものにだって注意してゐるし、どんなに私が熱心なダンサーかマネージャーだって知ってゐる――彼女は男達の注意がみんな自分に集中されてゐるものと思って、悠々と事務室を出ると、ジャズの洩れる階段を昇って行った。後から昇って来るお客達だって皆私のなよやかな肩の線を視てゐるのだ、私の肩には男達の燃える視線の焼け跡が、ホラ、一つ二つ三つ……数へて行くうちにそれはジャズに紛れてしまった。
 フライ・エッグを入れた箱を提げて、出前持の女は事務室の親爺とぱったり出逢った。何時もの癖で彼女はにんまり笑ひたさうにした。――何時見てもいい女だなあ、と親爺は云ふ。――ホホ、彼女は軽く笑って階段を昇って行く。私のお尻が大きいものだから、あの爺さんは冷かすのだらう。私のお尻ばっかし男達は気にして視るのだもの。ホホ、彼女はもう一度哂って階段を昇って行く。


 電車通りの果てに蜃気楼が出来たのかと私は錯覚した。暑いから眼に幻覚が生じたのかとも思った。久し振りに質屋の冷んやりした玄関を訪れて、着物の包みを受取って、それが無性に重たかったが、ついでに昔歩き慣れた場所だからと思って、ぶらぶらと札の辻の方へ近づくとこれだ。
 実際そこには一つの新しい道が開けて、高いコンクリートの橋が浮上り、橋の上の並木が緑色に空を点綴してゐる。かう云ふものが出来たのだな、と私は今更驚きながら橋の方へ行ってみた。
 それは省線の線路の上に架けられた橋で、遙か芝浦の方へ路が通じてゐる。トラックがそこを走る。と、兵隊が喇叭を吹きながらやって来る。兵隊は橋を渡って三田通りの方へ行く。来てみれば別に変ったところでもなかった訳だ。私は汗みどろになってゐた。


 便所の敷石と柱の隙間に出来た小さな穴から、蜥蜴は毎歳夏になると顔を現はす。熱い砂地を辷ひ廻ったり、梅の樹の枝高く登ったり、時には雀に追駈けられたりして、蜥蜴は再びその小さな穴に尻尾を引込める。彼等にとってはあそこが長い伝統の巣である、そして田舎の街は毎年変ってもまだ庭の隅々までは変らないのだ。
 ところが東京はどうであるか――と詩人は嘆かねばならぬことのやうに嘆く。昨日そこで見た女が今日は居らず、明日そこにはどんな女が入替って来ることやら、全く到るところの女がそこではよく入れ替る。で、都会に居ると、人に対するよりも場所に対する愛着が段々強くなる。たとへば神楽坂の坂の構造が面白いとか、麻布十番街がエロチックであるとか、蒲田駅の西口が気に入ったとか、そして同じ地点をぐるぐる辷ひ廻る一匹の蜥蜴が彼のなかには存在する。





底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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