夜
原民喜
樟の大きな影が地面を覆って、薄暗い街燈が霧で曇ってゐた。雨に濡れた落葉がその辺には多い。月が雲の奔流に乗って、時々奇妙な光線を投げかける。そこは坂を登って、横に折れた路で、人はあんまり通らなかった。
しかし、今誰かやって来るらしい靴の音がきこえる。すると今度は反対の方角からまた靴の音がする。と、二つの音は互に一寸立留る。一方が立留ったのと同時に一方も立留った。それから一方が進み出すと、むかふからも進んで来る。生憎、月が隠されてしまったので、相手の姿が何かけしからん塊りのやうに想へる。しかし両方から今度は決然と進んで来る。靴の音がはっきりと近づいてしまふ。その時、チラリと月の光が地面に落ちた。
「キャッ!」
「キャッ!」
二人は同時に電流に打たれたやうに飛上ると、互に反対の方向へ逃げ出してしまふ。相手の逃げて行く跫音がこちらを追跡するやうに響いて、とにかく大通りまでは一呼吸に逃げる。
大通りへ出てしまふと、一人の紳士は早速流しの自動車を呼び留める。それからもう一人の紳士はぶるぶる顫へながら支那そばの屋台店へ首を突込む。
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