忘れがたみ

原民喜




飛行機雲


 大学病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見ていた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢いに行った。その頃と変って今では病院の壁も黒く迷彩が施されてはいるが、その方へ行くとやはり懐しいものが残っていそうで……しかし、私がもう此処を訪れるのも今日をかぎりにそう滅多にあるまい。玄関ではもう穿き替えの草履を呉れないことになっていた、これも、以前と変ったことがらである。私は川島先生に逢って、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行った。
 翌日、新聞に飛行機雲の写真が出ていた。さては昨日見た雲は飛行機雲というものなのかとひとり頷いたが、仮りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑ったかもしれないのだ。

財布


 初七日が過ぎて、妻の財布を開けてみた。枕頭に置いて金の出入を司っていた、この大きな財布はもう外側などボロボロになっている。死ぬる二三日前はもう小銭の扱いも面倒くさがっていたが、患ってはいても長い間、几帳面に銭勘定をしてくれたものだ。
 財布の内側には二十円なにがし金が残っていた。もっと内側のかすかに含らんでいるところには……何が這入っているのだろうと、私は一つ一つ調べてみた。竹村章一という印の捺された水道料金の受領証、それも昨年の六月分だけ一枚それから四年前の書留の受取、そうした無意味な紙片にまじって、大切そうに半紙に包んだ小さなものが出て来た。私は何だろうと思いながらそれを開けてみた。鹿島神宮武運長久御守……はっとして、眼頭の熱くなるものがあった。


「花というものが人間の生活に必要だということをつくづく感じるようになった、以前は何だかつまらないものだと思っていたが……」
 柩に入れる花を求めて帰る途中、私の友人はふとそんなことを呟いた。
 妻の霊前には花が絶やされなかったが、四十九日になるとあちこちから沢山の花を貰った。仏壇は花で埋れそうであった。雨気の多い日には障子の開けたてに菊の香が動いた。夜一人で寝ていると、いろんな花のけはいが闇の中にちらついて、何か睡眠を妨げるようであった。花が枯れて行くに随って香りも錆びてゆくのであった。
 新しい花を求めてまた花屋に行った。近頃花屋にも花は乏しく、それに値段は驚くほど高くなっている。しかし、大輪の黄菊と紅白のカーネーションなど掌に持ち歩いていると、年寄の女など嘆声をあげて珍しがるのであった。

南瓜


 寝ていて見える半間の窓に這い登っていた南瓜は、嵐で地面に叩き落されてしまった。後にはよごれたトタン塀が白々と残されていた。折角あれが見えるのを娯しみにしていたのに、と妻は病床でかこった。
 木戸の方に這っている南瓜には、しっかりとした実がついた。その実はどの位の大きさになったかと妻はよく訊ね、私は寸法を計っては病床に報告した。
 ある日、信州にいる義弟から南瓜の菰包こもづつみを送って来た。開けてみると、やや長目のもの、球形のもの、淡い青に白く斑点の浮出たもの、僧に似た褐色のもの、形も色も珍しく、畳の上に並べてみたが、どう並べてみてもしっくりと落着くのであった。
 私は家に成っている一つを捩ぎとって、そのほとりに並べた。妻はうれしげにしげしげ眺めていたが、隣の奥さんを呼んで来てくれと云う。やがて隣の細君の姿が現れると「いずれいて食べる時には少しずつお頒けしますよ」と妻は晴れ晴れと云うのであった。――死ぬる六日前のことであった。

写真


 その写真はいくつ位の時のものであろうか、娘の時撮ったものには違いないのだが、不思議に変らぬ一つの相を湛えていたし、妻の顔というものは時にさまざまに変っていたような気もするが、やはり一つを貫いて流れるものがあったらしい。最近の写真とても無かったので、仏壇のほとりにその写真を飾った。見れば無邪気な表情のなかにも、神経質らしい閃きがあった。義母も一枚その複製が欲しいと云うので、街の写真屋に持って行って頼むと、期日は請合かねるが一ヵ月もしたら来てみてくれと云った。
 その後一ヵ月もたったが写真屋の前を通れば大概戸を鎖めているのであった。私はふとあの写真が紛失するのではないかと不安になった。ある朝思いたって行ってみると、今年中は出来ないと写真屋の返事であった。それで、一まず写真を返してもらった。オーバーのポケットに入れて、急いで家に帰ると、早速とり出して眺めた。すると、その写真は長い間不自由な場所にいて漸く帰って来たような、吻として多少呼吸困難を訴えているような、病み上りのいじらしい姿に見えるのであった。

手帳


 枕頭においていた小さな手帳には遺言状をしたためていた。その手帳の第一頁に、
そはもし衣にだにもさはらばいえんとおもへばなりイエスふりかへりをんなを見て曰けるはむすめよ心安かれ爾の信仰なんぢを愈せり即ち婦この時よりいゆ
と鉛筆で書いてあり「昭和十九年三月二十九日午後八時四十分」とある。私は妻が入院中糖尿の食餌療法のために誌していた、もう一つの手帳で、三月二十九日はどんな日だったか調べてみた。すると、三度の食事を記入した欄外に「夜法話を聞き眠れなく気分悪し、ホテリ」とある。ホテリというのは頬が火照って苦しいことである。
「蓋もし衣にだにも……」という一節はマタイ伝の中に見つかった。が「十二年血漏を患へる婦うしろに来て其衣の裾に捫れり」という句に続くものであった。
 十二年血漏を患へる婦――それを凝と睡れないで考え詰めていた顔が、私には何だか怕しい。三月二十九日午後八時四十分、その時から妻も心安らかであったのだろうか。

きもの


 大学から大先生が来診して下さると決まると、妻は急いで新しい寝巻にとりかえた。鋭い麻の葉模様の浴衣であった。それを着たまま三日後には死んで行った。が、あの浴衣はたしか昨年、大学に入院した最初の日にも着ていたものであった。麻の葉模様の青地に白く浮出た鋭い線が、痩せた躯に喰い込むように絡んでいて、それはふと私の心をかきむしったのであった。妻も悲壮な気持であったのに違いない。
 小豆色のぱっと明るい、鹿子絞かのこしぼりの羽織を妻は好んで病院では着ていた。齢にも似合わない派手なものであったが、それをかたきのように身に着けていたのも、今にして思えば、悲壮な心からかもしれない。
 白いフランネルの寝巻。これはむかし新婚の旅先で彼女がトランクからとり出して着、「この寝巻のことをいつかはきっと書いて下さい」と云っていたものだ。それほど好きだった寝巻も病床で着古し、今はすっかりすりきれたようになっている。

日和下駄


 もう五年も前のことになるが、弟の入営を郷里まで見送りその帰りに日和下駄を一足買って戻った。軽い桐の台の、赤い緒の、値段も廉いものであったが、どこか、がっちりとした恰好が好もしく、気軽に足を載せてみたくなるような品であった。病床の妻はそれがよほど気に入ったらしく、気分のいい時など畳の上で履いてみたりしたが、早くその歯をじかに黒土に触れる日を待ち望むように、そっと履物を労わっては仕舞込んで置くのであった。
 けれども下駄の履ける日はなかなかやって来なかった。重態になってからも、妻はよくその下駄を枕頭に持って来て見せてくれと云った。緒の色も今は少し派手であった。が、矢張その下駄をきりっと履きしめて歩ける日を夢みていたようだ。
 天気のいい日など、私は今もあの下駄を履いて身軽に歩き廻る姿を思い浮かべ、その足音を耳の底に聴きとろうとするのである。


 いたずらっぽい、小さな手であった。指もすんなりとして指さきは円々としていた。どの爪も、爪のつけ根にある三日月型のところが、はっきりと白かった。器用で、敏捷で、可憐な手だった。その手は、活花や習字やお茶の稽古にいそしんで来た手だった。その手は指にふっくらと肉が盛り上り、笑靨えくぼの浮んだような、健やかな手になりたがっていた。
「よく写真を視てみると、どの写真もお茶の手つきをしている」と嫂は云った。発病する前、睡れない床で、その手は茶の湯の手前のことばかりを考えていたのだ。
 不思議なことに、どんなに容態が悪い時でも、爪のつけ根の三日月型は白く冴えて美しかった。死んで行った時も、その三日月は消えなかった。
 私は古い写真をとりだして、指のところを注意して視た。やっぱり、くっきりと白い三日月は昨日のように残っているのであった。


 よく働く眼であった。ちらっとものを窃視ぬすみみることも出来たし、静かにものを見詰めることもできる眼であった。どんな細かなものも見落すまいと褐色の眸は輝き、一眼でものの姿を把えようと勝気なまつげは瞬いた。手先仕事のちょっとしたこつなら傍から見ていて、すぐに覚えとってしまう眼であった。眼分量のよくきく眼であった。マッチの大箱に軸が何本這入っているか、眼で測って、後で数えてみると殆ど差がなかった。
 熱が出ると、その眼は潤んで、大きく見開かれた。頬の火照りをじっとこらえていて、何かを一心に祈っている眼であった。
 人の気持に先廻りしようとする眼であった。その眼からはとげとげしいもの、やさしいもの、うれしげなものがいつも活溌に飛び出た。
 私はその眼が末期の光を湛えて、大きく虚ろに見開かれたのを忘れはしないが、あの時の相は私の心に正確には映らなかった。むしろ、夜の闇の中で考えていると、まざまざと甦って来るまなざしの方がかなしいのである。


 もともと、よく訓練された耳ではなかった。人の云うことを聞き違えることもなかったかわりに、人の口真似を巧みにこなすことは出来なかった。活々した抑揚とか、快い発声法はなく、ただ内に閃くもの、ほとばしるものに随って声を出すのであった。その調子は時に唐突でもあった。
 音楽も語学も身につけることが出来なかったが、それだけに名曲を聴きたがったり、英語の単語を覚え込もうとした。その耳が、病気のすすむに随って、だんだん冴えて行った。見えない所でする微かなもの音で、人の立居振舞や気分まで察することが出来たし、他所の家のラジオではっきりと報道を聴きとることもあった。耳はまた、しーんとして夜の静寂を貫き流れる声なき声に聴き入ろうとしていた。
 私はその耳にあまり優しい言葉を囁かなかったが、だが、窃かにこの頃懐うことがらを、その耳は他界にあって聴きとるであろうか。

知慧


 妻は私にとって、なかなかの知慧袋であった。私は妻から障子の貼り方、キセル掃除の仕方、アイロンの掛け方、字画の順序、算盤の加算などを教わった。字画の順序とか、算盤とかいうものは子供の時に教え込まれて居なければならない筈だと、妻は病床で歯痒がった。
 火のおこし方とか、米の磨き方とか、洗濯・掃除なども、女中が雇えなくなってから私は習い覚えた。
 そのほか、一つ一つは憶い出せぬ細かなことを教わったと思うし、もっと妻が生きていて呉れたら、まだまだ何かを教わったであろう。実際、人生に於ては常に教わらねばならぬこまかな事柄があるのに、私はこの齢になって驚かされるのである。

読書


 妻はあまり読書家ではなかった。範囲も狭く、好みも偏っていたし、それに病気してからは余程気分がいい時でないと読書しなかった。
「ドルジェル伯の舞踏会」を読んで興奮して熱を出したことがある。チェーホフや、モーパッサンの短篇を好み、シェークスピヤの豊饒さに驚き、健康になったらこれはみんな読んでみたいと云っていた。どうも、読んだ後で鬱屈した気分を解放してくれるものを好んだようだ。
 鏡花の「高野聖」の頓智や芥川の「河童」の機智を愛し、里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)の弾むような文体に惹かれ、十和田操を期待していた。それから、堀辰雄のものも読んでいた。
 おもうに、機智や諧謔の表面的な面白さより、それを創り出す人間性の逞しさに憧れていたのかもしれない。私はいつかはセルバンテスを読ませたかった。
 死ぬる半年程前のこと、妻はプーシキンの「ベールキン物語」を読んでひどく喜んだ。いかにもプーシキンの短篇は病人に読ませていい書だ。私は病人に向く小説というものを考えてみたし、そんなものを書いてみたかった。


「勘がないのですか、打てば響くというようになって下さい」と、病妻はよく私のことを零した。こまごました看病と体を使う雑用のため、頭は茫として、私の勘はだんだん鈍って行った。が、妻の方は反対に病気が進んでゆくに随って、直覚力が冴えて行った。あの病気につきものの、極微なものをしつこく穿鑿せんさくしようとする癖や、遠方にいる人の気持まで透視しようとする望みが、死期の近づくとともに募って行ったのである。そうして、大概の場合、妻の予言は的中していた。
 箪笥や、押入の中にある品物の数量と位置をちゃんと記憶しているのも、街の路筋や、どこの店には何があり、どこそこの家の隣りは誰が棲んでいるかということなど、或は過去の忘れはてた瑣事をふと記憶の底から呼び起すのも、寝た儘動けない病人の方であった。それ故、私は妻を喪ったことに依って、何か大きな空隙ができてしまった。

こころ


 わたしが詩を書いて病院に持って行くと、妻はベットで顔の上にそれをひらいて読み、読んでからよくこう云ったものだ「わたしの気持とそっくりではないのかしら、これは……」そうして、妻は不思議そうな顔をした。その顔が私には不思議でならなかった。

ある朝


 庭の酸漿ほおずきが赤く色づき、葉がむしばまれたまま、すがれてゆく頃、私は旅に出て、山の宿でさびしい鳥の啼声を聴いた。夜のあけがた、何か訴えるような、かすかな、せつなげな声が夢うつつに私の耳に入り、それがいつまでも魂にこびりついた。
 その頃、妻はよくものごとに苛立っていた。見慣れた顔ながらときにひどく濃艶であったり、どうかすると透き徹ったような謎の顔つきをしていた。眼球が大きくなり、ギラギラ燃えていた。
 ある朝(それは昭和十四年九月十日のことであった)私はまだ床にいて、よく目も覚めきらなかったが、とくに起出してごそごそやっている妻のけはいを隣室に感じているうち、ふと、かすかな、せつなげな、絶え入るばかりの咳の声を聞いた。私は寝巻のまま飛出して隣室に行ってみた。妻はぐったりとして、かすかに笑顔をした。それはたった今生じたことを容易に信じかねるような、稍うわずって美しい顔であった。だがこれが我々の身の上を訪れた最初の霹靂へきれきであった。

けはい


 ごそっと机の引出を開ける音がする。紙をめくっているけはいがする。……私が徹夜して書いた原稿を読んでいるのだ。紙をめくる音も歇む。障子にはたきをかけだしたようだ。……その頃私は床にいて、妻の動作をぼんやり感じているのが好きだった。
 いいものが書けた時は、妻の顔色も爽やかであった。私も救われるような気持がした。だが、いいものは書けず、徹夜しても白紙のままのことが多かった。そんな時、私は妻の動作の微細なところまで気に懸った。……まないたでコトコト菜葉を庖丁で叩いている。コトコトという細かい音の中に何ともしれぬ憂鬱が籠っている。私は暗黙に咎められているのだった。
 このようにして、昔の月日は水のように流れて行った。……だが、近頃でもひとり家にいると、私はどこか見えない片隅に懐しいもののけはいを感じる。自分の使うペンの音とか、紙をめくる音のなかに、いつのまにやら、ふと若い日の妻の動作の片割れが潜んでいる。

椅子


 おまえが静かに椅子に横たわり、あたりもひっそりとして吐く息、吸う息を数えながら、うっとりとしていると、空気も爽やかに澄み亘り、おまえのふるさとの山のはざまの青空が浮かび、とびかう小鳥のさえずりもきこえ。

 おまえが椅子のうえで頬を火照らしているとき、海の近いこの土地の、わるい湿気や、南風や、苛立たしい光線などが皮膚のすみずみに甦り、何もかも堪え忍ばねばならぬ人間のかなしさがむねをふさぎ。
 おまえの嘆き、歓び、背の恰好をのこしている椅子。

霜の宿


 私は十年あまり住み慣れた、この借家を近いうちに引上げようかと思っていた。寒い夜半、ふと六畳の方の窓辺にある木瓜ぼけの木と芙蓉の木が思い出された。あの木も今はみんな落葉して裸木になっているのだが、毎年春さきには木瓜の木が朱い蕾をもち、厚ぼったい花をひらいたし、秋になると芙蓉の淡い花が、つぎつぎに咲いては墜ちて行った。そして、木瓜の花も芙蓉の花も、ある時のある気分の、亡妻の面影に似かようているのであった。そう思うと、窓辺にある裸木の姿が頻りと気に懸った。
 翌朝窓辺に立って、しみじみと眺めれば、ひどい霜に土は歪んで、木瓜も芙蓉も寒々としている。
さればこそ荒れたきままの霜の宿
 ふと、芭蕉の句が思い出されたのである。


 見たこともない土地の夕暮であった。若い男がとぼとぼと砂の道を歩いて行った。ぬかのような砂は男の踵を没し、一足ごとに疲れは加わっていた。それでも男は歩いて行かなければならなかった。炎暑のほとぼりをもった空には低く雲が迷ってい、行手は茫漠として果しもないようであった。
 若者は立留まって、ふと、
「遠い遠い道だなあ」と嘆息した。
「どこを歩いているのです」と、その時頭上の雲の裂間から母親の声が洩れた。
「遠い、遠い道……」若者はしずかに答えた。
 しばらくすると、若者の目の前には大きな大きな琥珀色の石の砦が現れて来た。彼はやや嬉しげにその城門を見上げようとした。だが、城門のてっぺんは目もとどかない大空の高みにあった。
「高い高い門だなあ」と彼は力無げに呟いた。
「どんな風な門なのです」と今度は前よりもっと感動にふるえる母親の声がした。
「大きな、大きな門……」彼は低く低くうなだれるように応えた。
 息子を喪った婦人が私の妻の七七忌にやって来て、臨終の話をしていた。その話を私はいつのまにか、こんな風な夢につくりかえていた。





底本:「原民喜戦後全小説」講談社文芸文庫、講談社
   2015(平成27)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「定本原民喜全集※(ローマ数字2、1-13-22)」青土社
   1978(昭和53)年9月20日発行
初出:「三田文学」能楽社
   1946(昭和21)年3月
入力:竹井真
校正:高辻巴
2021年2月26日作成
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