西南北東

原民喜




時計のない朝


 私は焼跡から埋めておいた小さな火鉢を掘出したが、八幡村までは持って帰れないので姉の家にあずけておいた。冬を予告するような木枯が二三日つづいた揚句、とうとう八幡村にも冬がやって来た。洗濯ものを川に持って行って洗うと指が捩げそうに冷たい。火鉢のない二階でひとり蹲っているうち、私の掌には少年のように霜焼が出来てしまった。年が明けて正月を迎えたが、正月からして飢えた気持は救えなかった。だが、戦災以来この身にふりかかった不自由を一つ一つ数えてみたら、殆ど限りがないのであった。
 所用があって、私は広島駅から汽車に乗ろうと思った。切符は早朝並ばないと手に入らないので、焼残っている舟入川口の姉の家に一泊して駅に行くことにした。天井の墜ち壁の裂けている姉の家は灯を消すと鼠がしきりに暴れて、おちおち睡れなかった。姉は未明に起出して、朝餉の支度にとりかかったが、柱時計が壊れたままになっているので、一向に時刻が分らないのであった。私ももとより懐中時計は原子爆弾の日に紛失していた。近所に灯がついているから朝の支度をしているのかとも思えたが、雨もよいの空は真暗で、遠い山脈の方にうすら明りが見える。朝食をすますと、甥は近所に時間を訊きに行ってくれたが、その家にも時計はなかった。何にしろ早目に出掛けた方がいいので、私は暗がりの表通りを歩いて行った。暫くすると向うから男が来たので時刻を訊ねてみた。すると相手は曖昧なことを云って立去ってしまった。電車通に添って行くうち、あちこちの水溜に踏込んで靴はずぶ濡れになり、寒さが足の裏に沁みるのであった。
 私は真暗な惨劇の跡の世界を急ぎ足に歩いていた。ある都市が一瞬にして廃墟と化すような幻想なら以前私は漠然と思い浮べていたことがあったし、死の都市の夜あけの光景も想像の上では珍しくなかった。しかし今こうして実際、人一人いない焼跡を歩いていると、何か奇異なものが附纏って来るので、相生橋を渡りながらも、これが相生橋であったのかしらと錯覚に陥りそうであった。がやがて八丁堀のところで灯をつけている自動車と出逢うと、寂寥のなかに烈しくエンジンの音をたぎらせているので、漸く人心地に還った。京橋あたりから駅の方へ行くらしい人の姿も見かけられた。
 駅に来てみると六時前であったが、窓口にはもう人が集まっていた。切符は七時から売出すので、その間、私は杜詩を読んで過した。汽車に乗ってからも、目的地に着いてからも、帰りの汽車でも、私は無性に杜甫の行路難にひきつけられていた。

蜜柑


 西広島の蜜柑をみかけるようになったのは十二月のはじめ頃からだったが、暫くは私は何気なく見ているにすぎなかった。私が蜜柑に惹きつけられたのは廿日市で五百目五円で買った時からだ。飢えて衰弱している体が要求するのか、ほかに胃の腑を満たすものがないのでこうなのか、とにかく、私は自分でも驚くほど、その時から蜜柑を貪りだした。そうして、私は妻が死ぬる前、頻りに果物を恋していたことを憶い出すと、その分のとりかえしまでするような気持になっていた。私は八幡村から廿日市まで一里半の道を往来しては、一貫目ずつ蜜柑を買ってもどった。「戦争が終ってよかったですな、こうして蜜柑がいただけますもの」と云っている人の言葉まで、何だか私には身に沁みるようであった。
 いつのまにか私がいる二階の縁側には、蜜柑の皮が一杯になっていた。すると、夜毎、鼠がやって来て、その皮を引掻きまわし、残っている袋をむしゃむしゃ食うのであった。鼠はしまいには障子に穴をあけ、室内に侵入するようになった。私は障子を破る鼠というのをはじめて知った。古雑誌でその穴を修繕しておいても、つぎつぎに紙の弱っているところを破って行った。この村の鼠は私同様飢えていた。ある朝、階下の押入にはカチカチになって死んでいる鼠がみつかったが、「食いものがないからよ」と人々は笑っていた。

悲鳴


 車内は台湾からの復員兵がぎっしり詰っていたがあれは何という怕しい列車だったのだろう。朝から昇降口に立ちづめのまま、私はそこで揉み合う沢山の人間を見た。若い男が年寄を呶鳴りつけていた。呶鳴られた年寄はおとなしく身を縮め、なるべくそちらへ触るまいとした。だが、どうかすると、押してくる人のためにそちら側へ押されて行くのだった。便所の中にはトランクやリュックが持込まれ、そこにも四五人が陣どっていた。私が漸く列車の車内に這入れるようになったのは、その日の夕刻からであったが、そこは濛々として荷物やら人の顔やら見わけもつかぬもので満されていた。
 次の駅に着くと昇降口のところではまた紛争が繰返されているらしかった。何か頓狂な叫びと、それを罵る大勢の声がしていたが、やがて、ドカドカと車内へ割込んでくる防空頭巾の奇妙な男と、その配偶らしい婦人があった。はじめここへ割込んでくる仕草のうちにも何かヒステリックなものがあったが、すぐにその男は絶えまなく、この混乱についての泣きごとを呟きだしたのである。これでは全く、どうにもこうにも致しかたがない。生れて以来こんなひどい目に遇おうとは思ってもみなかった。――そういう意味のことを述べるのに、その男のうわずった大阪弁は真に迫るものがあった。それから、配偶の婦人が何か云うと、すぐそれにむかっても――殆どこの男が今日の一切の悲惨を背負わされているかのように――泣声で抗議するのであった。だが、どういうものか、この男はあたりの反感を買うらしかった。
「万才はやめろ」と誰かが呶鳴った。しばらくすると、さきほど点いていた電灯も消え、それきり車内は真暗になってしまった。すると、また、防空頭巾の男の悲鳴がおこった。
「痛たた、誰かがわての頭なぐった」たちまち誰かが闇のなかから厳しく叫んだ。「誰だ……そんなわるいことをする奴は」
 が、それは弱い子供を庇ってやるような、ある調子が含まれているのだった。ふと私には、あの弱い男の過去が解るような気持がした。多分、あの男もたったこの間まで安逸に馴れていたのだが、急に悲惨に突落されたもので、こうして身も世もあらぬおもいで、旅に出掛けなければならなくなったのだろう。
 真暗な列車は真暗なところを走りつづけて行った。


 もう都会からは米というものが姿を消して、その味も忘れられている頃のことであった。彼は電車の中で二人の女が、こんなことを云い合っているのを耳にした。この頃では素人の女でも月に米一斗あてがってもらえば喜んでお妾さんになるそうです。
 それから彼はある夜、駅のベンチに寝そべっている酔ぱらいの老人がこんなことを喚いているのをきいた。俺には妾が四人あるんだぞ。――その時、彼は妾四人という言葉ですぐ米四斗を思い浮べた。
 痩せ細った彼はある日、闇市の食べもの小路に這入って行って見た。半びらきになっている扉の蔭から、テーブルの上にある丼の白米の姿がふと彼の眼に灼きつくように飛込んで来た。その瞬間、彼は何ともいえぬ羞恥感に全身がガタガタ顫えそうになるのであった。

溜息


 列車が京都に着いたのは夜半だったが、ホームの側の窓はどの窓も申合せたように、ぴったり閉ざされていた。私の席のところの窓は木の窓だったので外の様子は見えなかったが、間もなく外からガタガタと揺さぶる音がきこえ、忽ちそれは乱打となり、あけろ、あけろ、あけろ、と叫喚しだした。これでは今にも窓は壊れそうだったが、あの騒ぎでは、もし窓をあけたら一たいどうなるのかともおもわれた。あけろ、あけろ、あけろ、は耳をつんざくように突撃してくる。すると向の人混みの中に立っていた男がこちらへやって来て、「あけてやりなさい」と云いながら窓を開ける手真似をした。その様子はいかにも自信たっぷりで何か目論見があったらしかったが、とうとう自分でそこの窓を少し持上げたのである。彼が窓から首を差出すと、外では「もっとあけろ、もっとあけろ」と怒りだす声がきこえた。
「窓から乗る法はないよ、昇降口から乗り給え」
 首を外に出している男の云う言葉がきこえた。だが、男の首の出ている隙間から、小さな荷物が放り込まれると、いつの間にか窓はこじ開けられ、二三人の人間が瞬く間に私の膝の上に滑り込んで来た。隣の方の窓も開放たれていた。そこではまだ飛込もうとするものを拒もうとしていたが、見ると外側では駅員が必死になって声援しているのだ。「これは駅員の命令ですぞ、駅員の命令を拒むのですか」
 とうとうその窓からもぞろぞろと雪崩なだれ込んで来た。汽車が動きだすと、私の前に飛込んで来た男は、
「えらい、すみませんな、喰べものがないばっかしに、ああ、こうしてみんな苦労しやんす」と、溜息まじりに口をきくのであった。

虚脱


 目白駅の陸橋にはゼネストのビラがべたべたと貼りつけてあった。二月一日からゼネスト突入とあるから、もうあと幾日もない日のことであった。私は雑司ヶ谷に人を訪ね、それから再び駅の方へ引かえして来ると、恰度もう日も傾きかかった頃だったが、駅前の広場に人だかりがしている。何気なくその人垣の方へ近づき円陣の外に立留まって眺めると、実に意外な光景であった。そこには七八人の男女が入乱れて、南無妙法蓮華経を低唱しながら、てんでに勝手な舞踊をつづけている。舞踊というのか、祈祷というのか、ものにとり憑かれているというのか、両手で円い環を描いたり、足をゆさぶってみたり、さまざまの恰好をつくるのだが、大概のものが、眼は軽く閉じていて、動作は頗る緩慢なのだ。戦災者らしい汚れた服装の娘もいたし、薄化粧をした振袖の女もいる。そうかと思うと、人垣の方からフラフラと誘われて踊りながら円陣の中に吸込まれる口鬚の親爺もいた。しかし誘われる人には誘うところの光景だったのだろう。
 ところが私は、ふと円陣の外で、これよりもっと興味ありそうな事が起りかけているのに気づいた。先程から背の高い頑強そうな男と中年の婦人と、何か押問答していたが、そのうちに数珠を持った婦人はいきなり、その男の顔の真中を目がけて合掌すると、南無妙法蓮華経を唱えだしたのである。これは一体どうなるのだろうか、今に相手の男は念仏の力に感動して何かやり出すのだろうか。それともそれは始めから仕組まれ打合わされている芝居なのだろうか。そう思いながら、婦人の顔をみると、ふとこの顔は私の親戚の狂信家の、熱狂はしている癖にとりつく島のないような淋しい顔を連想させた。それから今度は相手の男を眺めると、これはまた私の知人の、いつでも顔はむかっ腹立てながら心中では巫山戯ふざけている人物をしのばせた。これでは、もう大概さきが知れていて大したことも起るまいと思えたが、やはり私は次に起ることを待っていた。
 暫く婦人の念仏は恍惚とつづけられていたが、相手の男は一向に動ずる色も浮ばない。やがて、この厳しい顔をした男は唇を突出すと、べっと舌を、出したのである。「罰あたりめ」婦人は軽くその男を撲るような身振りをしたが、相手はもう颯爽と立退って行くのであった。

浴衣


 体の調子がよかったので、久振りに寝巻を洗濯した。襟の方にしみついた垢はいくら石鹸で揉んでも落ちなかったが、一時間あまりも屈んでいると、いい加減くたびれる。私はいい加減にして、その浴衣を木蔭へ吊しておいた。それから私は狭い部屋で寝転んで窓の外の青空を眺めていた。洗濯もののよく乾きそうな気持のいい日だった。夕方、私は木蔭のところへ行くと、ハッとした。浴衣は無くなっていた。足袋や靴下やハンカチなどこまごましたものは残っていたが、一目で目につく浴衣はなかった。
 あの浴衣を盗まれたからには、もう私には肩のところの透きとおった、穴だらけの、よれよれの浴衣しか残っていないのだ。私はそのぼろぼろの浴衣をとり出して手にとって眺め、だんだん自分が興奮しだすのを覚えた。盗むよりほか手段を持たない人が盗んで、あれを着るのなら、たとえば貧しい母親が子供の襁褓にするため盗んだのなら、私の心はまだ穏かであり得る。だが、どうもあれは専門家の手によって古着屋へ五十円位で売払われ、一杯のカスとり焼酎にされてしまったのではないか。





底本:「原民喜戦後全小説」講談社文芸文庫、講談社
   2015(平成27)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「定本原民喜全集※(ローマ数字1、1-13-21)」青土社
   1978(昭和53)年8月1日発行
初出:「詩風土 第十九輯 十二月號」臼井書房
   1947(昭和22)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:竹井真
校正:砂場清隆
2022年2月25日作成
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