静三が学校から帰って来た時、店の前にいた笠岡が彼の姿を認めると「恰度いい処へお帰りね、今、写真撮ろうとしている処なのよ」と云って、早速彼を自転車の脇に立たせた。その時(それは明治四十三年のことであった)出来上った写真は、店先の自転車に
馬車がその店先に停まると、忽ち土間のところは荷物で一杯になる。すると真上の天井板が二三枚、取はずされ、二階から綱がおりて来て、ほどかれた荷物はこの綱に括られ、するすると二階の方へ滑車で持上げられて行くのであった。静三にとっては、この二階からぶらさがって来る綱は、夜、店が退けてから、鞦韆のかわりになった。夜、ここは静三たちの遊び場であった。どうかすると、荷物は土間一めんにぎっしり積重ねられていて、天井まで届きそうなことがあった。そんな時、静三は荷物の山を見上げて何か歓呼を感じる。その
静三は夕方店が退ける前の雑然とした空気が好きであった。大人たちはそわそわと忙しそうに立働いていたが、静三は店先に佇んでぼんやり往来を眺めている。すると、
彼はそこで何か素晴しいものを見つけた。昼間の商品がその儘になっていると、それはすぐ遊び道具に役立ったし、きちんと板の間が片づいていると、静三は棚の方を見上げて「梅津商店」と屋号の入っている弓張提灯を取出したり、商品戸棚の

ある日、静三は電話室の脇にある戸棚の抽斗の前に屈んでいた。恰度その辺まで庭の青葉の光がこぼれてくる昼すぎであった。その抽斗の中にはテイプとか、ハトメ、肩章、襟章などが一杯詰っているのだったがたまたま、赤い紙にぎっしり並べられた釦の一組が彼の目についた。その銀色のキラキラする釦の一つの中には静三の顔が小さく写っていた。それから更に気がつくとどの釦の中にも彼の顔が――その少し歪んで縮まった大勢の顔は静三が口をあければ、やはり赤い小さな唇を動かし静三の吃驚した眼より更に吃驚したような眼つきで、――映っているのであった。……だが、この発見よりもっと素晴しかったのは、電話室の中で見つけた一葉の色刷写真であった。はじめ修造が見つけたのを奪いとって眺めているといきなり静三の魂を惹きつけてしまった。それは軍楽隊の服装を撮った写真であったが、綺麗な服装ときらびやかな楽器の中央に立って、指揮棒を振っている隊長の姿は、烈しい憧憬を静三に植えつけてしまった。「軍楽隊長、軍楽隊長」と彼は弟の修造と囁き合った。同じような熱狂が弟の眼にも宿り、二人はどうかして、すぐにも軍楽隊長になりたかった。静三はよく小さな紙片に軍楽隊の絵を描いては娯しんだ。その小さな絵の中から
静三の高まってゆく気分を、うまく
……だが、あの辺があんなに素晴しくおもえたのは、そっくり父の影響だったのかもしれなかった。静三の父は前からこの工場の土つづきの空地にいくつも借家を建てていたし、工場の畑も父が気晴しにやっているのだった。そして、父もそこへ出掛けて行く時には何か解放された気分になるらしく、子供らしい身振りなどするので、急に静三と父との距離が縮まることがあった。あの辺で父と行逢う人は大抵相手の方が腰が低かったが、途上で立留まって話込む大人達の話を静三は一生懸命理解しようとした。いつの間にか静三は父の姿勢を模倣していた。両手を後で組み合わせて、ものを眺めている父のやり方を、そっくり意識しながら、静三は店先に立って外を眺めているのだった。
だが、店の奥に居る時の父は無表情で、静三には殆ど接近し難い存在だった。父の部屋は事務室の隣の引込んだところにあった。北向の硝子窓の庭の築山の裏側の佗しい眺めだったし、窓から射して来る静かな光線は大きな机の上に漾い、壁際に据えられた金庫や硝子戸棚もみんな冷んやりした感覚だった。それから、その硝子戸棚の上には、金米糖、蓬莱豆――どうして、そんなものがあったのか静三は奇妙におもった――などを容れた玻璃の容器が置いてあった。父の机の上にはインク壺・海綿・硯箱・金銭容器・複写紙・ホチキンスなどがきちんと並べてある。よく静三は昼の三時頃、母の

それから、どうかすると事務室の方に夜遅くまで灯がつけられていることもあった。こういう時、父も事務室の方へ姿を現わすのだったが、時には母や姉たちまでやって来て、かっかと燃える火鉢をとり囲んでいた。夜業の机には大人たちがせっせと算盤を弾いたり、帳簿を繰って、一しきり傍目も振らない事務がつづいているが、やがて帳簿の打合せが済むと、くつろぎの一ときがやって来る。その潮時を見計って、静三は大人たちの間へ割込んで行くのだが、そこでは夜の空気が急に親和的に感じられる。大人たちの膝は大概、黒羅紗のずぼんを穿いていたが、妙に静三には温かく感じられたし、やに臭いにおいと羅紗のにおいがうれしく鼻さきに漾った。赧ら顔の笠岡の頬には豆粒位の赤いほくろがあったし、額の禿上った吉田は大きな掌で

「入札」「被服支廠」「経理部」……彼等の間でよくとりかわされる言葉を静三はまだ理解できなかったが、とにかく、大人たちは昔から絶えず動き廻っていて、静三がまだ生れて来ない前から、大人たちは働いていて、みんなでこんな店を作ったらしかった。はじめ、ここの店は何処か遠くから引ぱって来たような気もした。それはひどく真暗な夜のこと、大人たちは台八を牽いたり、自転車を押し、てんでに白い息を吐きながら勇しく進んで行った。提灯の灯がさっと行手を照らし、みんなの頬はてらてら燃えていた。――静三は何となくそんな風な童話を感じるのであったが、夜更の事務室でお茶を飲んでいる大人たちは勇しかった昔の面影をどこかに潜めていた。静三にとっては、笠岡の頬にある赤いほくろまで神秘におもえた。
実際、笠岡は時折、静三の虚を衝いて、風のように現れることがあった。ある夕方も笠岡は静三が往来にいるのを見つけると、何か誘うように手招きした。彼に従いて、とっとと橋の方へ歩いて行くと、橋の袂から石段を伝い、大きな船の中に連れて行かれた。入口の手すりに烏が括りつけてあるのが静三の眼に奇怪におもえたが、船の内部は畳敷の部屋になっていて、そこには父をはじめ店の人たちが集まっていた。後から思い出すと、そこは牡蠣船だったのだ。……それから静三は学校の帰り路でよく自転車に乗っている笠岡と出逢った。笠岡は後からさっとやって来ると、ひょいと謎のような表情をして自転車をとめる。それから静三を
二階は電話室の裏側から階段になっていて、表は往来に面した格子だが大きな看板で遮られ、裏は静三の家の二階と遥かに対いあっていた。夏の夕暮、家の玄関に立って、その二階の方を眺めると、簷のところに蚊柱が揺れていて、蝙蝠の姿も閃いた。往来に面した側の簷には燕の巣もあった。そのだだっ広い板の間には大きな裁物台が置いてあって、いつもズックや木綿の裁ち屑が散乱していた。チャコで青いしるしをつけ大きな裁物庖丁でぎゅっぎゅっと竹村は布を切って行く。すると部厚な裁ち屑が瞬く間に出来上る。竹村は宴会の席などでよく手品をして皆を喜ばしたが、ひとりで洟水を啜りながら、せっせと裁ちものをしているのも、いくぶん手品のようなところがあった。
工場の花畑の井戸のところで父は誰かと頻りに戦争のことを話合っていた。井戸のところには紅い夾竹桃が燃えていて、頭上にはくらくらするような雲が浮んでいる真昼だった。時々、号外が出たし、遥かに遠い後方で戦争があるのを静三も知っていた。戦争はしかし夕焼の空のむこうにあるもののように(殆どその夕焼と同じもののように)静三にはおもえた。それが大正三年のことであった。……その頃から店の模様はだんだん変って行った。薄暗い父の部屋の続に応接室が新築された。以前は庭に面した粗末な廊下で、夜静三が通る時など物凄い感じのした場所だったが、今度は新しい白壁と硝子窓の部屋になり、すっかりハイカラな感じになった。往来の方からも、その店の奥にある応接室の硝子越に庭の緑が幽邃に見えたし、静三の家の座敷の方からも、庭を隔てて、その応接室を眺めるのは趣があった。部屋にはストーブが焚かれ、隅の新しい本棚には、美しい挿絵の一杯ある、ネルソン百科辞典や国民文庫が飾られていた。父は新しい背広を着て金口のタバコを吸った。もうその頃になると、店員たちの服装もすっかり新しくなっていて、その頃撮られた写真には、叔父や従兄の良一など新しい店員の顔も加わっている。金銭登録器が使用されたのも、その頃だが、これはすぐ壊れてそのまま物置に放ってあった。……そのうちに、あの、川の近くにあった縫工場が店のすぐ隣へ移転して来た。これははじめ静三にはあの工場へ通う道の歓声がその儘ここへやって来たようにおもえた。実際、店は工場と連結されたため急に賑やかになった。台八に積まれた服地の山や、大きな籠に一杯詰まった軍帽が、つぎつぎに現れ、夕方の店先では女工たちと店員のとりかわす浮々した声がきこえた。梅津商店という屋号の上に合名会社という肩書が加えられるようになった。静三は会社という名称に何か朧気ながらハイカラなものを感じた。
その翌年の春、この街に物産陳列館が建てられた。その高く聳える円屋根にはイルミネーションが飾られ、それがすぐ前の川の水に映っていた。静三たちは父に連れられて、対岸の料理屋の二階からその賑いを眺めていた。夜桜の川ふちを人がぞろぞろと犇いて通った。その円屋根の珍しい建物は、まだあまり大きな建物の現れない頃のことで、静三の家の二階の窓からも遥かに
父の葬儀が済むと、お供に持込まれていた俵の米を、街の貧窮者に頒けることになった。市から配られた引換券と米袋を持って、そこの店先には佗しそうな人たちが入替り立替り現れた。店先では、店員たちが米俵を解いては、馴れない手つきで米を測っていた。これは父の遺言によって行われたのだが、その情景は何となく目に泌みるものがあった。店の奥でこれを眺めていた叔父がふと感に堪えないように云った。「義挙だな、これは」叔父はかなり酔っているようであった。「これは新聞社へ知らせてやろう」そう呟くと、もう電話室の方へ行っていた。すると従兄の良一が遽かに荒々しく立上った。「よしなさい、よして下さい、そんなことは」電話室で憤然と叔父を抱きとめて宥めている声がした。その時の従兄の気持は静三にもよく解るような気がしたし、後になってもよくこの光景を思い出すのだった。
それから静三にはもっと忘れられないことがあった。恰度、父の四十九日の日に大勢の人が集まっていたが、家に集まった大人たちの騒ぎに少し興奮していた彼は、弟の修造とちょっとした悶着をひき起した。店員の吉田が割込んで仲裁しようとした。静三はふと大人の干渉に反撥をおぼえ、吉田に喰ってかかろうとした。すると酔っていた吉田はふと乱暴に彼を跳ね飛ばした。静三は嚇となってしまった。が、何度突進して行ってもその度に一層手荒く跳ね返されるばかりだった。とうとう泣号が塞を切った。すると兄の敬一がやって来て、いきなりまた彼を叱りつけるのであった。が、静三は吉田のやり方にこれまでにないものを感じ――それは何といって人に説明していいのかわからなかった――口惜しくてたまらないのであった。恰度、店の応接室と家の玄関をつなぐ石畳の上であったが、吉田の妙に意地わるい微笑が、泣狂う彼の眼さきに執拗にちらついていた。急に静三の世界は真暗になって、引裂かれてしまったのだった。
それから暫くすると、静三と店との関係はすっかり変って行った。もう彼も中学生であったが、以前あれほど心を跳らせた夜の遊び場が今ではけろりと忘れられてしまった。すると、弟の修造も自然、彼を
店員との親しみもすっかり薄れてしまった。庭を隔てて、応接室の方に店の人の姿を見かけることはあっても、静三は座敷の縁側に立って別の世界を眺めるような気持しかしなかった。どうかすると、往来で店員と出逢っても中学生の静三は素知らぬ顔でいた。しかし、代表社員の叔父が営業上のことで母のところへ相談に来ると、そんな時、静三はすぐ隣室で漠然とした不安にとらわれるのであった。何かもう店の破滅が近づいている、そういう妄想がふと彼には湧くのであった。まだ明るいうちから店が退けることもあった。退ける時には誰かが静三の家の玄関の閾のところまで、金庫の鍵とその日の新聞を置いて行った。彼はその鍵の鳴る音で玄関のところへのそっと行き、その日の新聞を展げてみるのだった。工場と商店に挿まれた狭い門から這入って行く石畳の奥に静三の家の玄関はあったが、兄の敬一は東京の学校へ行っていたし、中学生の静三がその頃この奥まった家の仮りの主であった。母は大人の男下駄をわざわざ、ひっそりとした玄関に並べた。彼は学校から戻って来るとすぐ自分の部屋に引籠り、もう滅多に誰とも口をきかなかった。親しい友も持てずただ何か青白い薄弱な気分と熱っぽい憧れに鎖されていた。ある日、珍しく店の慰労会に誘われて、店員たちと一緒に船遊に出たことがある。陽気に浮かれて騒ぎ廻る大人たちの姿が静三には一向なじめず、何か淡い軽蔑の念をよぶのであったが、島々に咲きほこる桃の花だけが烈しく彼の眼に焼つけられた。
よく彼は二階の窓から夕暮の空を眺めた。低い山脈に囲まれた甍の波の中に、物産陳列館の円屋根が見え、盛場のクラリオネットの音が風に吹きちぎられてここまできこえてくる。山脈と空との接するあたりに、まだ見ぬ遠国への憧れがあり、夕ぐれの光線は心を遥かなところへ連れて行こうとするのだ。……だが、階下の方へ降りて行くと、静三は居間のところで忽ち陰気な気持に引戻されることがあった。電灯がともる頃まで、借家管理人と静三の母はだらだらと対談していた。その痘痕だらけの老人はキセルをはたきながら、乾からびた声で、借家人の誰彼を罵っている。それから大きな革の鞄を
休暇で東京から兄の敬一が帰って来るたびに、兄は新しい刺戟を静三に与えた。新しい時代がもう始まろうとしていた。敬一はやはりその頃覚えたばっかしの社会主義の理論を口にし、家族制度の崩壊を予言したりするのだった。……やがて、静三にも飛躍の季節が訪れた。中学を卒えると、京都の学校へ入っていたのだが、間もなく彼は社会運動の群に加わっていた。いつも善意の眼を輝かし、ものに駆られるように動きまわった。それは一面、感傷的のものでもあったが、この頃ほど、人間と人間の核心がぴったり結びついている時期はなかった。恰度、関東大震災の疲れはてた罹災者を乗せた列車が京都駅を通過する時、学生の静三はホームに立って、茶菓の接待をしていた。疲れきっている人の眼の中にも、もう明日の希望のあかりが見えるような気持がした。そういう希望のやりとりを一人の女生徒と手紙で繰返した。すると、猛然と恋情が点ぜられた。それから彼は或る教授の選挙運動のため寝食を忘れて奔走した。だが、感激の日も長くはつづかなかった。ひどい喀血がすっかり躯の自信を奪った。突然、矢も楯もたまらぬホームシックに陥り、静三は広島の家へ戻って来た。すると、もう女生徒からの文通もなかった。
それから静三は父の写真が長押に懸けてある仏間に寝起しながらぶらぶら暮した。東京の学校を卒えて戻って来た兄の敬一は間もなく結婚して、これも同じ家の二階で暮すようになった。敬一はすぐ梅津商店へ出るようになった。すると、代表社員だった叔父はあたふたと店から身を退いてしまった。「資本を喰込んで配当するなんて、随分勝手なやり方じゃないか」と敬一は従兄に
その薄暗い部屋は北庭に面していて、いつも冷やりした空気を湛えていた。父が死んだのもそこであったが、静三はどうかすると自分がこの儘ここで廃人になってしまうのではないかと思った。ついこの間まで元気だった従兄の良一が彼と同じような病気で、若い細君を残して急にポックリ死んでいた。静三はチェーホフの戯曲に出てくる哀しい人物の心がそっくり彼の気持になっていることもあった。いずれは没落してゆく階級の挽歌――それがもう寒々と襖のまわりに聞えてくるようなおもいもした。ふと突拍子もない家の崩壊がねつけない頭に描かれることもあった。……だが、夏になると、店の方の窓が開放たれるので、ひっそりとした庭を隔てて、卓上電話の声がよくききとれる。寝そべったまま静三は、その声に耳を傾けていると、癇高い声で応答しているのは、昔からその店に通っている今泉であった。その声をきいていると、毎日何もしないでいる静三は暗に自分が
安静に慣れた彼は容易に躯の自信が得られなかったし、何一つ積極的な気持は生じなかった。だが、三十歳をすぎた彼の顔は円々と肥満していて、それは学生時代の面影と較べるともう別人の観があった。医者も健康を保証していたし、静三は周囲の奨める儘に、ふと妻を娶って別家する気になったのである。――それが昭和六年のことであった。世帯を持った静三は就職のことで、暫く迷っていたが、結局彼も梅津商店へ出るようになった。それから以後のことはもう、こまごまと回想するまでもなく、つい最近まで連続して彼の目の前にあった。
静三の母が昭和十年の秋に死んだ。その頃彼は既に四人の子供の父親であり、梅津商店の支配人であった。社長の敬一にくらべて、この支配人はどことなし物腰は柔かであったが、敏捷に自転車で飛廻ることも出来た。自宅附近で遊んでいる長男を認めると、さっと自転車を停めて、相手を掬い上げるところなど、それは静三が嘗て笠岡から伝授されたものであった。その笠岡も老耄してしまって滅多に店にはやって来なかったが、今泉はまだ昔どおりの神経質な顔つきで几帳面に事務を執っていた。支配人の静三もいつのまにか計算を身につけ、殖財に熱を持つようになっていた。漸く固い蕊が出来たのだと静三はその頃思った。すると静三たちが母の二回忌を迎えた頃から、商店は遽かに活気づいて来たので、それはよく母が回想して息子たちにきかせていた、日露戦争頃の忙しさの再来かとおもわれた。一時に殺到する註文のため夜業が毎日つづき、縫工場の方も足踏式ミシンだった工場にモーターミシンが取つけられ、就業人員もぐっと増加して行った。てんてこ舞いの昼夜がつづき、どうなることかと思っていると、それも間もなく下火となりやがて夜業は廃止された。すると今度は絶えず統制や法規がここを襲い営業の模様をつぎつぎに変えて行った。静三は役所へ提出する書類に忙殺され、防空演習をはじめ各種の行事に悩まされた。やがて、梅津商店もその頃の流儀に従って、梅津製作所と改名された。……今はその建物も改築されていたので、静三が昔憶えている姿とはひどく懸隔れていた。だが、戸棚の隅などからまだ子供の時見つけた商品が出てくることもあったし、どこか手の届かない柱の上などには昔の塵がその儘残っているようにも思えるのだった。
さて、昭和十九年の暮れは梅津製作所創立五十周紀念の祝賀が賑やかに行われた。すると、その祝いの最中、急に空襲警報が鳴り出した。がそれは、その時九州が空襲されたため、少し
その頃、長い間他郷に出ていた弟の修造が徴用のがれの為に、ここへ戻って来た。するとまた東京の下宿先を焼かれた甥の周一も、入営までの日を親許で過すために戻って来た。このもう殆ど一人前になりかかっている敬一の長男と、何時までたってものらくら者の叔父の修造とは、何となく話のうまが合うらしかった。……この頃になると、静三の気持もやはりぐらぐらと揺れ返っていた。ある晩も静三は拠りどころを失ったような気分で家を出ると、ふらふらと本家に立寄ってみた。敬一は嫂の疎開先に行って留守だったが、修造と周一は遮光された食堂で頻りに何か話合っていた。
「マルクスの資本論も疎開させておくといいよ、今に値うちが出る」修造がこう云うと、周一は大きく頷く。そんな本を兄の敬一が持っていたことも静三はもう忘れかけていたところだったが、
「そうさ、何でも彼でも疎開させておくに限る、戦争が済めばそれを又再分配さ」と、静三も傍から話に割込もうとした。しかし、どういうものか、この二人はいま何かもの狂おしい感情にとり憑かれて、頻りに戦争を呪っているのであった。ことに若い周一は忿懣のかぎりをこめて軍人を罵った。
「まあ、待ち給え、そんなこと云ったって、君は一体誰のお蔭で今日まで生きて来たのかね」静三は熱狂する甥をふと
「誰って、僕を養ってくれたのは無論親父さ」
「うん、親父だろう、その親父の商売は、あれは君が一番きらいな軍人を相手の商売じゃないかね」
すると、周一は噛みつくような調子で抗議するのであった。
「だから、だからよ、僕が後とりになったらその日から即刻あんな店きっぱり廃めてしまうさ」
静三は腹の底で、その若い甥の言葉をちょっと美しいなとおもった。だが、梅津製作所は、その後間もなく原子爆弾で跡形をとどめず焼失した。つづいて、製作所は残務整理の後その年の末に解散された。
罹災者として、寒村の農家の離れに侘住居をつづけるようになった静三は時折、ぼんやりと昔の店のことを憶い出すのであった。