福翁自伝

福翁自伝

福澤諭吉




 慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々みずから伝記を記すの例あるをもって、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しくこれを勧めたるものありしかども、先生の平生はなはだ多忙にして執筆の閑を得ずそのままに経過したりしに、一昨年の秋、る外国人のもとめに応じて維新前後の実歴談を述べたる折、と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、みずから校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、あたかも一場の談話にして、もとより事の詳細をくしたるにあらず。れば先生のかんがえにては、新聞紙上に掲載を終りたる後、らにみずから筆をとりてその遺漏いろうを補い、又後人の参考のめにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実にり、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編とし、自伝の後に付するの計画にして、すでにその腹案も成りたりしに、昨年九月中、にわかに大患にかかりてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世におおやけにし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。

明治三十二年六月
時事新報社 石河幹明いしかわみきあき 記
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幼少の時


 福澤諭吉の父は豊前ぶぜん中津奥平おくだいら藩の士族福澤百助ひゃくすけ、母は同藩士族、橋本浜右衛門はしもとはまえもんの長女、名を於順おじゅんと申し、父の身分はヤット藩主に定式じょうしきの謁見が出来るとうのですから足軽あしがるよりは数等よろしいけれども士族中の下級、今日で云えばず判任官の家でしょう。藩で云う元締役もとじめやくを勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷くらやしきに長く勤番して居ました。れゆえ家内残らず大阪に引越ひきこして居て、私共わたしどもは皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子ばっし。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡にのこるは母一人に子供五人、兄は十一歳、私はかぞえ年で三つ。くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。

兄弟五人中津の風に合わず

さて中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所いっしょ混和こんかすることが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟いとこ沢山たくさんある、父方ててかたの従兄弟もあれば母方ははかたの従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許いくらもある、あるけれどもその者等ものらとゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑おかしい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」とう所を、私共は「そうでおます」なんと云うようなけで、お互に可笑おかしいからず話が少ない。れから又母はと中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪のふうに慣れて、小供の髪の塩梅式あんばいしき、着物の塩梅式、一切大阪風の着物よりほかにない。有合ありあいの着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中ひとなかに出るのを気恥かしいようにおもって、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。

儒教主義の教育

夫れからう一つこれに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持かねもち加島屋かじまやこういけというような者に交際して藩債の事をつかさどる役であるが、元来父はコンナ事が不平でたまらない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいというかんがえであるに、ぞんかけもなく算盤そろばんとって金の数を数えなければならぬとか、藩借はんしゃく延期の談判をしなければならぬとかう仕事で、今の洋学者とはおおいに違って、昔の学者は銭を見るもけがれると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云うけであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、う云うことがある。私は勿論もちろん幼少だから手習てならいどころの話でないが、う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷くらやしきの中に手習の師匠があって、其家そこには町家ちょうかの小供も来る。其処そこでイロハニホヘトを教えるのはよろしいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然あたりまえの話であるが、その事を父が聞て、しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせるとうのはもってのほかだ。う処に小供はやって置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速さっそく取返せといって取返した事があると云うことは、のちに母に聞きました。何でも大変やかましい人物であったことは推察が出来る。その書遺かきのこしたものなどを見れば真実正銘しょうみょうの漢儒で、こと堀河ほりかわ伊藤東涯いとうとうがい先生が大信心だいしんじんで、誠意誠心、屋漏おくろうじずということばか心掛こころがけたものと思われるから、その遺風はおのずから私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合つきあいは少く、あけても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であるとおもって、骨肉こつにく従兄弟いとこに対してさえ、心の中には何となくこれ目下めした見下みくだして居て、夫等それらの者のすることは一切とがめもせぬ、多勢たぜい無勢ぶぜい咎立とがめだてをしようといっても及ぶ話でないとあきらめて居ながら、心の底には丸で歯牙しがに掛けずに、わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、饒舌しゃべりもし、飛びわりね廻わりして、至極しごく活溌にてありながら、木に登ることが不得手ふえてで、水を泳ぐことが皆無かいむ出来ぬと云うのも、兎角とかく同藩中の子弟と打解うちとけて遊ぶことが出来ずに孤立した所為せいでしょう。

厳ならずして家風正し

今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗をことにして、他人の知らぬ処に随分さびしい思いをしましたが、その淋しいあいだにも家風は至極しごく正しい。厳重な父があるでもないが、母子むつまじく暮して兄弟喧嘩などただの一度もしたことがない。のみか、仮初かりそめにも俗な卑陋びろうな事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決してやかましいむずかしい人でないのに、自然にうなったのは、矢張やはり父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物なりものなどの一条で、三味線しゃみせんとか何とかうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様かようなものは全体私なんぞの聞くべきものでない、いわんもてあそぶべき者でないと云うかんがえを持て居るから、ついぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令ふれが出る。芝居は何日なんかあいだあるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成あいならぬ、住吉すみよしやしろの石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、はなはだ厳重なようにあるが、ただ一片いっぺん布令だけの事であるから、俗士族は脇差わきざしを一本して頬冠ほほかむりをして颯々さっさつと芝居の矢来やらいやぶっ這入はいる。しそれをとがめればかえっしかり飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金をはらって行くに、士族は忍姿しのびすがたで却て威張いばっただ這入はいっる。しかるに中以下俗士族ぞくしぞくの多い中で、その芝居に行かぬのはおよそ私のところ一軒ぐらいでしょう。決して行かない。此処ここからきは行くことはならぬとえば、一足ひとあしでも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらもつい一口ひとくちでも芝居の事を子供に云わず、兄もまた行こうと云わず、家内中かないじゅう一寸ちょいとでも話がない。夏、暑い時の事であるからすずみには行く。しかしその近くで芝居をして居るからといって見ようともしない、どんな芝居をやって居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。

成長の上、坊主にする

ぜん申す通り、亡父ぼうふ俗吏ぞくりを勤めるのが不本意であったに違いない。れば中津を蹴飛けとばして外に出ればい。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何いかなる事にも不平をんで、チャント小禄しょうろくやすんじて居たのは、時勢のめに進退不自由なりし故でしょう。私は今でもひとり気の毒で残念に思います。例えば父の生前にう云う事がある。今から推察すれば父の胸算きょうさんに、福澤の家は総領に相続させるつもりでよろしい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きなせた骨太ほねぶとな子で、産婆さんばの申すに、この子は乳さえ沢山たくさん呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層たいそう喜んで、れはい子だ、この子が段々成長してとおか十一になれば寺にやって坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父おとっさんは何故なぜ坊主にするとっしゃったか合点がてんが行かぬが、今御存命ごぞんめいなればお前は寺の坊様ぼうさまになってるはずじゃと、何かの話のはしには母がう申して居ましたが、私が成年ののちその父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年たっても一寸ちょいとも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽あしがるの家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、そのあいだはさまって居る者も同様、何年経ても一寸ちょいとも変化とうものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見ればここに坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋さかなやの息子が大僧正になったと云うような者が幾人いくらもある話、それゆえに父が私を坊主にするといったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。

門閥制度は親の敵

如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、むなしく不平をんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじ行末ゆくすえはかり、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度をいきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察してひとり泣くことがあります。私のめに門閥制度は親のかたきで御座る。

年十四、五歳にして始めて読書に志す

私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人してがない。私の兄だからといって兄弟の長少わずか十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母もまたたった一人ひとりで、下女下男を置くとうことの出来る家ではなし、母が一人でめしいたりおさいこしらえたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じがけもない。云わばヤリはなしである。藩のふうで幼少の時から論語を続むとか大学を読むくらいの事はらぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。ことに誰だって本を読むことのすきな子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私ははなはだ嫌いであったからやすんでばかり居て何もしない。手習てならいもしなければ本も読まない。っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処きんじょしって居る者は皆な本をよんで居るのに、自分ひとり読まぬと云うのは外聞がいぶんが悪いとか恥かしいとかおもったのでしょう。れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始ゆきはじめました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。ほかの者は詩経しきょうを読むの書経しょきょうを読むのとうのに、私は孟子もうし素読そどくをすると云う次第である。所がここな事は、その塾で蒙求もうぎゅうとか孟子とか論語とかの会読かいどく講義をすると云うことになると、私は天禀てんりん、少し文才があったのか知らん、の意味をして、朝の素読に教えてれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりでその意味は受取うけとりの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗ならけはない。

左伝通読十一偏

その中、塾も二度か三度かえた事があるが、最も多く漢書をならったのは、白石しらいしと云う先生である。其処そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味をすことは何の苦労もなく存外ぞんがい早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何いかなるものをよんだかと申すと、経書けいしょを専らにして論語、孟子は勿論もちろん、すべて経義けいぎの研究をつとめ、ことに先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をしてもらっく読みました。ソレカラ蒙求、世説せせつ左伝さでん戦国策せんごくさく老子ろうし荘子そうしと云うようなものもく講義を聞き、そのきは私ひとりの勉強、歴史は史記を始め前後漢書ぜんごかんしょ晋書しんしょ五代史ごだいし元明史略げんみんしりゃくと云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞しまうのを、私は全部通読、およそ十一び読返して、面白い処は暗記して居た。れでト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井かめいふうで、私の先生は亀井が大信心だいしんじんで、余り詩を作ることなどは教えずにむしろ冷笑して居た。広瀬淡窓ひろせたんそうなどの事は、彼奴あいつ発句師ほっくし、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもないやつだといって居られました。先生がえば門弟子もんていしまた爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽らいさんようなどもはなはだ信じない、誠に目下めした見下みくだして居て、「何だ粗末な文章、山陽さんようなどの書いたものが文章とわれるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令たとい舌足らずでどもった所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造たいそうな剣幕で、先生から教込おしえこまれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石しらいし先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非ぜひ交際しなければならぬはずであるに一寸ちょいとも付合わぬ。野田笛浦のだてきほと云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外そがいして笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前ちくぜん亀井かめい先生なども朱子学を取らずに経義けいぎに一説を立てたと云うから、そのりゅうを汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。

手端器用なり

以上は学問の話しですが、ほかに申せば、私は旧藩士族の小供にくらべて見ると手のきの器用なやつで、物の工夫をするような事が得意でした。例えば井戸に物がちたと云えば、如何どう塩梅あんばいにしてこれげるとか、箪笥たんすじょうかぬと云えば、くぎさきなどを色々にげて遂に見事に之を明けるとか云う工風くふうをして面白がって居る。た障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論もちろん、親類へやとわれて張りに行くこともある。かくに何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ段々としを取るに従て仕事も多くなって、もとより貧士族ひんしぞくのことであるから、自分で色々工風して、下駄げた鼻緒はなおもたてれば雪駄せったはがれたのも縫うとうことは私の引受ひきうけで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものもつくろうてる。あるい畳針たたみばりかって来て畳のおもてえ、又或は竹を割っておけたがを入れるような事から、そのほかの破れ屋根のりを繕うまで当前あたりまえの仕事で、皆私が一人ひとりでして居ました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄をこしらえたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀のぐことは知らぬが、さやを塗りつかを巻き、その外、金物かなものの細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私のぬっ虫喰塗むしくいぬりの脇差わきざしの鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。すべてコンナ事は近処きんじょに内職をする士族があってその人に習いました。

鋸鑢に驚く

金物かなもの細工をするにやすりは第一の道具で、れも手製に作って、その製作には随分苦心して居た所が、そののち年経としへて私が江戸に来てず大に驚いたことがある、と申すはただの鑢は鋼鉄はがねうして斯う遣れば私の手にもヲシ/\出来るが、のこぎりやすりばかりはむずかしい。ソコデ江戸に這入はいったとき、今思えば芝の田町たまち、処も覚えて居る、江戸に這入て往来の右側の家で、小僧がのこぎりやすりの目をたたいて居る。皮を鑢の下に敷いてたがねで刻んで颯々さっさつと出来る様子だから、私は立留たちどまっこれを見て、心の中で扨々さてさて大都会なるかな、途方もない事が出来るもの哉、自分等は夢にも思わぬ、鋸の鑢をこしらえようとうことは全く考えたこともない、しかるに小供がアノ通りやって居るとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思て、江戸に這入たその日に感心したことがあると云うようなけで、少年の時から読書のほかは俗な事ばかりして俗な事ばかり考えて居て、年をとっても兎角とかく手先てさきの細工事さいくごとが面白くて、ややもすればかんなだののみだの買集かいあつめて、何か作って見よう、つくろうて見ようと思うその物はな俗な物ばかり、所謂いわゆる美術と云う思想は少しもない。平生へいぜい万事至極しごく殺風景で、衣服住居などに一切頓着とんじゃくせず、如何どういう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。して流行の縞模様など考えて見たこともない程の不風流ぶふうりゅうなれども、何か私に得意があるかと云えば、刀剣とうけんこしらえとなれば、れはく出来たとか、小道具の作柄さくがら釣合つりあい如何どうとか云うかんがえはある。是れは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。

青天白日に徳利

れから私が世間に無頓着むとんちゃくと云うことは少年からもって生れた性質、周囲の事情に一寸ちょいとも感じない。藩の小士族などは酒、油、醤油などを買うときは、自分みずから町に使つかいに行かなければならぬ。所がその頃の士族一般のふうとして、頬冠ほほかむりをしてよる出掛でかけて行く。私は頬冠は大嫌いだ。生れてからしたことはない。物を買うに何だ、ぜにやって買うに少しも構うことはないとう気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小はすが、徳利とくりさげて、夜は扨置さておき白昼公然、町の店に行く。銭はうちの銭だ、盗んだ銭じゃないぞと云うような気位きぐらいで、かえって藩中者の頬冠をして見栄みえをするのを可笑おかしくおもったのは少年の血気、自分ひと自惚うぬぼれて居たのでしょう。ソレカラ又家に客を招く時に、大根や牛蒡ごぼうを煮てくわせると云うことについて、必要があるから母の指図さしずに従て働て居た。所で私は客などがウヂャ/\酒をむのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早くのんかえっ仕舞しまえばいと思うのに、中々帰らぬ。家は狭くて居処いどころもない。仕方しかたないから客の呑でるあいだは、私は押入の中に這入はいって寝て居る。何時いつでも客をする時には、客の来るまでは働く、けれども夕方になると、自分も酒がすきだから颯々さっさつと酒を呑でめしくっ押入おしいれ這入はいって仕舞い、客が帰た跡で押入から出て、何時いつも寝る処に寝直すのが常例でした。
 れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就てくちばしれるような地位でない。ただ追使おいつかわれるばかり。その時、中津の人気にんき如何どうかとえば、学者はこぞって水戸の御隠居様ごいんきょさますなわ烈公れっこうの事と、越前の春嶽しゅんがく様の話が多い。学者は水戸の老公ろうこうと云い、俗では水戸の御隠居様と云う。御三家ごさんけの事だから譜代ふだい大名の家来は大変にあがめて、仮初かりそめにも隠居などゝ呼棄よびすてにする者は一人ひとりもない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も左様そうおもって居ました。ソレカラ江川太郎左衛門えがわたろうざえもんも幕府の旗本はたもとだから、江川様とかげでもきっ様付さまづけにして、これも中々評判が高い。或時あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中あわせ一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私がそばから一寸ちょいと聞て、にそのくらいの事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻かいまき一枚いちまい敷蒲団しきぶとんも敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くといって、しきりにめるけれども、トウ/\聴かずに一冬ひとふゆ通したことがあるが、れも十五、六歳の頃、ただ人に負けぬ気でやったので身体からだも丈夫であったと思われる。

兄弟問答

又当時世間一般の事であるが、学問とえば漢学ばかり、私の兄も勿論もちろん漢学一方いっぽうの人で、ただ他の学者と違うのは、豊後ぶんご帆足万里ほあしばんり先生のりゅうんで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々大儒だいじゅでありながら数学をよろこび、先生の説に、鉄砲と算盤そろばんは士流の重んずべきものである、その算盤を小役人こやくにんに任せ、鉄砲を足軽あしがるに任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張やはり先輩にならうて算盤そろばんの高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂いわゆる孝悌こうてい忠信で、純粋の漢学者に相違ない。或時あるとき兄が私にといを掛けて、「お前はれから先き何になる積りかとうから、私が答えて、「左様さようさ、ず日本一の大金持おおがねもちになって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔してしかったから、私が返問はんもんして、「にいさんは如何どうなさると尋ねると、真面目まじめに、「死に至るまで孝悌忠信とただ一言いちごんで、私は「ヘーイといった切りそのまゝになった事があるが、ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。或時あるとき私にむかって、「乃公おれは総領で家督をして居るが、如何どうかしてむずかしい家の養子になって見たい。何ともわれない頑固な、ゴクやかましい養父母につかえて見たい。決して風波ふうはを起させないと云うのは、畢竟ひっきょう養父母と養子との間柄あいだがらの悪いのは養子の方の不行届ふゆきとどきだと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子はいやな事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説がちがって居ました。これれは[#「これれは」はママ]私の十六、七の頃と思います。
 母もまた随分妙な事をよろこんで、世間並せけんなみには少し変わって居たようです。一体下等社会の者に附合つきあうことが数寄すきで、出入りの百姓町人は無論むろん穢多えったでも乞食でも颯々さっさつと近づけて、軽蔑もしなければいやがりもせず言葉など至極しごく丁寧でした。又宗教について、近処きんじょの老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは可笑おかしくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共にいながら、毎月米を袋に入れて寺にもっいって墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺だんなでらの和尚は勿論もちろん、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んでこれ取持とりもっ馳走ちそうでもすると云うようなふうで、コンナ所を見ればただ仏法が嫌いでもないようです。かくに慈善心はあったに違いない。

乞食の虱をとる

ここに誠にきたない奇談があるから話しましょう。中津に一人ひとりの女乞食があって、馬鹿のような狂者きちがいのような至極しごく難渋者なんじゅうもので、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\といって、毎日市中をもらっわる。所が此奴こいつきたないとも臭いともいようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪にしらみがウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気のい日などには、おチエ此方こっち這入はいって来いと云て、表の庭に呼込よびこんで土間どまの草の上に坐らせて、自分は襷掛たすきがけに身構えをして乞食の虱狩しらみがりを始めて、私は加勢に呼出よびだされる。拾うように取れる虱をとっては庭石の上に置き、マサカつめつぶすことは出来ぬから、私をそばに置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石をもって構えて居る。母が一疋いっぴき取て台石だいいしの上に置くと私はコツリと打潰うちつぶすと云う役目で、五十も百もずその時に取れるけ取て仕舞しまい、ソレカラ母も私も着物を払うてぬかで手を洗うて、乞食には虱を取らせてれた褒美ほうびめしると云うきまりで、れは母のたのしみでしたろうが、私はきたなくて穢なくてたまらぬ。今思出おもいだしても胸が悪いようです。

反故を踏みお札を踏む

又私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か反古ほごそろえて居る処を、私がドタバタ踏んで通った所が兄が大喝たいかつ一声、コリャ待てとひどしかり付けて、「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫おくだいらだいぜんのたいふ御名おながあるではないかと大造たいそうな権幕だから、「アヽ左様そう御在ございましたか、私は知らなんだとうと、「知らんといってもがあれば見えるはずじゃ、御名を足で踏むとは如何どう云う心得である、臣子しんしの道はと、なにむずかしい事を並べて厳しく叱るから謝らずには居られぬ。「私が誠に悪う御在ましたから堪忍かんにんして下さいと御辞儀おじぎをして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何の事だろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだとはなはだ不平で、ソレカラ子供心にひとり思案して、にいさんの云うように殿様の名の書いてある反古を踏んで悪いと云えば、神様の名のある御札おふだを踏んだら如何どうだろうとおもって、人の見ぬ処で御札を踏んで見た所が何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度は之を洗手場ちょうずばもっいっろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は如何どうかあろうかと少し怖かったが、あとで何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんな事を云わんでもいのじゃと独り発明したようなものだが、ばかりは母にも云われず姉にも云われず、云えばきっと叱られるから、一人ひとりそっと黙って居ました。

稲荷様の神体を見る

ソレカラ一つも二つも年を取ればおのずから度胸もくなったと見えて、年寄としよりなどの話にする神罰しんばつ冥罰みょうばつなんとうことは大嘘だいうそだとひとみずから信じきって、今度は一つ稲荷いなり様を見てろうと云う野心を起して、私の養子になって居た叔父様おじさまの家の稲荷のやしろの中には何が這入はいって居るか知らぬとけて見たら、石が這入て居るから、その石を打擲うちやって仕舞しまって代りの石を拾うて入れて置き、又隣家の下村しもむらと云う屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木のふだで、これとってゝ仕舞しまい平気な顔して居ると、もなく初午はつうまになって、のぼりを立てたり大鼓たいこを叩いたり御神酒おみきを上げてワイ/\して居るから、私は可笑おかしい。「馬鹿め、乃公おれの入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白いと、ひとり嬉しがって居たと云うようなけで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が有難ありがたいだの云うことは一寸ちょいともない。卜筮うらない呪詛まじない一切不信仰で、狐狸きつねたぬきが付くと云うようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。小供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。或時あるときに大阪から妙な女が来たことがあるその女と云うのは、私共が大阪に居る時にやしき出入でいりをする上荷頭うわにかしら伝法寺屋松右衛門でんぽうじやまつえもんと云うものゝ娘で、年の頃三十ぐらいでもあったかと思う。その女が中津に来て、お稲荷様いなりさまを使うことをしって居ると吹聴ふいちょうするその次第は、誰にでも御幣ごへいを持たして置て何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠とっつくとか何とかいって、しきりに私のうちに来て法螺ほらふいて居る。れからその時に私は十五、六の時だと思う。「ソリャ面白い、やっもらおう、乃公おれがその御幣を持とう、持て居る御幣が動き出すとうのは面白い、サア持たしてれろと云うと、その女がつく/″\と私を見て居て、「ぼんさんはイケマヘンと云うから、私は承知しない。「今誰にでもと云たじゃないか、サア遣て見せろと、ひどくその女を弱らして面白かった事がある。

門閥の不平

ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終しじゅう不平でたまらぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族のあいだに門閥制度がチャンとまって居て、その門閥の堅い事はただに藩の公用についてのみならず、今日わたくしの交際上、小供の交際つきあいに至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私のうちのような下士族の者にむかっては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何どうなすって、うなすってと云えば、先方むこうでは貴様がやって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもないただ小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何どうしても不平がなくては居られない。そのくせ今の貴様とか何とかう上士族の子弟と学校にいって、読書会読かいどくと云うような事になれば、何時いつでも此方こっちが勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。れがその交際つきあい朋友ほういう互に交って遊ぶ小供遊こどもあそびあいだにも、ちゃんと門閥と云うものをもっ横風おうふう至極しごくだから、小供心に腹がたって堪らぬ。

下執事の文字に叱かられる

して大人同士おとなどうし、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々やかまましいことで、私が覚えて居るが、或時あるとき私の兄が家老の処に手紙をやって、少し学者風でその表書うわがきに何々様下執事かしつじと書いてやったらおおいしかられ、下執事とは何の事だ、御取次衆おとりつぎしゅうしたためて来いといって、手紙を突返つきかえして来た。私はこれを見てもそばからひとり立腹してないたことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何どうしたってれはモウ出るよりほか仕様しようがないと、始終しじゅう心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事がわかるようになる中に、私の従兄弟いとこなどにも随分一人ひとり二人ふたりは学者がある。く書を読む男がある。もとより下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風がくないとか何とかいろ/\不平をらして居るのを聞いて、私は始終ソレをめて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞しまうい、出なければ不平をわぬがよいと、毎度とめて居たことがあるが、れはマア私の生付うまれつきの性質とでも云うようなものでしょう。

喜怒色に顕わさず

或時あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怨いろあらわさずと云う一句をよんで、その時にハット思うておおいに自分で安心決定あんしんけつじょうしたことがある。「是れはドウモ金言きんげんだと思い、始終忘れぬようにしてひとりこのおしえを守り、ソコデ誰が何といっめてれても、ただ表面うわべほどよく受けて心の中には決して喜ばぬ。又何と軽蔑されても決しておこらない。どんな事があっても怒った事はない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたと云うことはただの一度もない。ツイゾ人と掴合つかみあったの、打ったの、打たれたのと云うことは一寸ちょいともない。是れは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手はいかりに乗じて人の身体からだに触れたことはない。所が先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方しかたのない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をしてるにもかかわらず、再三再四の不埓ふらちるときそのものが何処どこに何をしたか夜中やちゅう酒によって生意気なふうをしてかえって来たゆえ、貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座して居ろと申渡もうしわたしておいて、すこしして行て見ればグウ/″\いびきをして居る。この不埓者ふらちものめといって、その肩の処をつらまえて引起ひきおこして、目のめてるのを尚おグン/″\ゆたぶってやったことがある。その時あとひとり考えて、「コリャ悪い事をした、乃公おれは生涯、人にむかっ此方こっちから腕力を仕掛しかけたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬ事をしたとおもって、何だか坊主が戒律でもやぶったような心地こころもちがして、今に忘れることが出来ません。そのくせ私は少年の時から饒舌しゃべり、人並ひとなみよりか口数くちかずの多い程に饒舌って、うして何でもることは甲斐々々かいがいしく遣て、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論とうことをしない。似合たとい議論すればといっても、ほんとうに顔をあからめて如何どうあっても勝たなければならぬと云う議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起やっきとなって来れば、此方こちらはスラリと流して仕舞しまう。「の馬鹿が何を馬鹿を云て居るのだとう思て、とんと深く立入ると云うことは決して遣らなかった。ソレでモウ自分の一身は何処どこに行て如何どん辛苦しんくいとわぬ、ただこの中津に居ないで如何どうかして出てきたいものだと、独りればかり祈って居た処が、とうと長崎に行くことが出来ました。

長崎遊学


 それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、すなわち私の年二十一歳(正味しょうみ十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学とうものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置さておき、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ちょうどペルリの来た時で、亜米利加アメリカの軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆しって、同時に砲術と云うことが大変やかましくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭オランダ流について学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何どうしても原書を読まなければならぬと云うから、私にはわからぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本おおもとの蘭文の書を読まなければならぬ。れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私はと漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時いつも出来がくて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然たのみにする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度ちょうど兄が長崎に行くついでに任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付おちつき、始めて横文字の abcうものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利とくり貼紙はりがみを見ても横文字は幾許いくらもある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々むずかしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞しまうまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程さほどでもなく、次第々々にやすくなって来たが、その蘭学修業の事は扨置さておき、も私の長崎にいったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのがいやで/\たまらぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有ありがたいと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯こんなところに誰が居るものか、一度いちど出たらば鉄砲玉で、再びかえって来はしないぞ、今日こそ心地こころもちだとひとり心で喜び、後向うしろむつばきして颯々さっさつ足早あしばやにかけ出したのは今でも覚えて居る。

活動の始まり

れから長崎にいって、そうして桶屋町おけやまち光永寺こうえいじうお寺を便たよったと云うのは、その時に私の藩の家老のせがれ奥平壹岐おくだいらいきと云う人はそのお寺と親類で、其処そこに寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候いそうろうになって居るその中に、小出町おいでまち山本物次郎やまもとものじろうと云う長崎両組りょうぐみ役人で砲術家があって、其処そこに奥平が砲術を学んで居るその縁をもって、奥平の世話で山本のいえ食客しょっかく入込いりこみました。れが私の生来しょうらい活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生がが悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅があっ独息子ひとりむすこ、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えてらなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計くらしは大きい。借金もある様子で、その借金の云延いいのばし、あらたに借用の申込みに行き、又金談きんだんの手紙の代筆もする。其処そこの家に下婢かひが一人に下男が一人ある。〔所で〕ややもするとその男が病気とか何とかう時には、男のだいをして水も汲む。朝夕あさゆうの掃除は勿論もちろん、先生が湯に這入はいる時は背中せなかを流したり湯をとったりしてらなければならぬ。又その内儀おかみさんが猫が大好き、ちんが大好き、生物いきものが好きで、猫も狆も犬も居るその生物いきもの一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けてやって居たから、ひどく調法な男だ、何ともわれない調法な血気の少年でありながら、その少年の行状がはなはよろしい、甚だ宜しくて甲斐々々かいがいしく働くと云うので、ソコデもって段々その山本の家の気にいって、仕舞しまいには先生が養子にならないかと云う。私はまえにも云う通り中津の士族で、ついぞ自分は知りはせぬがちいさい時から叔父おじの家の養子になって居るから、その事を云うと、先生がれなら尚更なおさ乃公おれの家の養子になれ、如何どうでも乃公おれが世話をしてるからと度々たびたび云われた事がある。
 その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物しゃもつとって貸す。写したいとえば、写すめの謝料を取ると云うのが、ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生はが悪いから皆私の手をる。それで私は砲術家の一切の元締もとじめになって、何もかも私が一切取扱とりあつかって居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島うわじま藩、五島ごとう藩、佐賀さが藩、水戸みと藩などの人々が来て、あるい出島でじま和蘭オランダ屋敷にいって見たいとか、或は大砲をるから図を見せてれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私がる。私は本来素人しろうとで、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのはけはない。颯々さっさつと図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けてもひとまかて、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られるくらいに挨拶をしたり世話をしたりするとう調子である。ところで私を山本の居候いそうろうに世話をして入れて呉れた人、すなわ奥平壹岐おくだいらいきだ。壹岐と私とは主客しゅかくところえて、私が主人見たようになったから可笑おかしい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家たいけの子だから如何どう我儘わがままだ。もう一つは私の目的は原書を読むにあって、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞つうじの家に行ったりして一意専心いちいせんしん原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日をるに従て、次第に意味がわかるようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読めるけはない。その中に此方こちらは余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深いたくらみのある悪人ではない。ただ大家たいけの我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時にうまく私を籠絡ろうらくして生捕いけどって仕舞しまえば譜代ふだいの家来同様に使えるのに、かえってヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私よりとおばかり上だが、何分なにぶん気分が子供らしくて、ソコデ私を中津にえすような計略をめぐらしたのが、私の身には一大災難。

長崎に居ること難し

ソリャう次第になって来た。その奥平壹岐おくだいらいきと云う人に与兵衛よへえと云う実父じっぷの隠居があって、私共はこれを御隠居様とあがめて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長ののちに父のするような事をして、又大阪にいっ勤番きんばんをして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆かたずいて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄いとこ藤本元岱ふじもとげんたいと云う医者がただ一人、く事がわかり書も能く読める学者であるが、そこで中津に在るの御隠居様が無法な事をしたと云うは、いずれ長崎のせがれ壹岐の方から打合うちあわせのあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本をよびに来て、隠居の申すに、諭吉を呼還よびかえせ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々そうそう呼還せ、但しソレについては母が病気だと申遣もうしつかわせと云う御直おじきの厳命がくだったから、もとよりいなむことは出来ず、ただかしこまりましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送よこして、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向おもてむきの手紙と、又別紙に、実は隠居からう/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなとつまびらかに事実を書いてれたから、私はこれを見て実に腹が立った。何だ、鄙劣ひれつ千万な、計略をめぐらして母の病気とまでうそわせる、ソンナ奴があるものか、モウけだ、大議論をしてろうかとおもったが、イヤ/\左様そうでない、今アノ家老と喧嘩をした所が、負けるにきまって居る、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思直おもいなおして、れからシラバクレてきもつぶしたふうをして奥平の処に行て、さて中津から箇様かよう申して参りました、母がにわかに病気になりました、平生へいぜい至極しごく丈夫なほうでしたが、実に分らぬものです、今頃は如何どう云う容体ようだいでしょうか、遠国えんごくに居て気になりますなんて、心配そうな顔してグチャ/\述立のべたてると、奥平もおおいに驚いた顔色がんしょくを作り、左様そうか、ソリャ気の毒な事じゃ、さぞ心配であろう、かくに早く帰国するがかろう、しかし母の病気全快の上は又再遊さいゆうの出来るようにして遣るからと、なぐさめるように云うのは、狂言がうまく行われたと心中得意になって居るに違いない。ソレカラ又私は言葉を続けて、唯今ただいま御指図おさしずの通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言は御在ございませんか、いずれ帰れば御目おめに掛ります、又何か御品おしながあれば何でももって帰りますといって、ず別れて翌朝よくあさいって見ると、主公が家にる手紙を出して、之を屋敷に届けて呉れ、親仁おやじう/\伝言をして呉れと云い、又別に私の母の従弟いとこ大橋六助おおはしろくすけと云う男に遣る手紙を渡して、これを六助の処に持て行け、うすると貴様の再遊に都合がかろうといって、故意わざとその手紙に封をせずにけて見よがしにしてあるから、何もかも委細いさい承知して丁寧に告別して、宿にかえって封なしの手紙をひらいて見れば、「諭吉は母の病気に付き是非ぜひ帰国とうからその意に任せてかえすが、修業勉強中の事ゆえ再遊の出来るようそのほうにて取計とりはからえと云う文句。私はこれを見てます/\しゃくさわる。「この猿松さるまつめ馬鹿野郎めとひとり心の中でののしり、ソレカラ山本の家にも事実は云われぬ、れがあらわれて奥平の不面目ふめんもくにもなれば、わざわいかえって私の身にふって来て如何どんな目に逢うか知れない、ソレガ怖いからただ母の病気とばかり云て暇乞いとまごいをしました。

江戸行を志す

丁度ちょうどそのとき中津から鉄屋惣兵衛くろがねやそうべえと云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、かくも之と同伴と約束をしておいて、ソコデ私の胸算きょうさんもとより中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、れから真直まっすぐに江戸に行きましょうと決心はしたが、この事については誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た岡部同直おかべどうちょくと云う蘭学書生がある。是れは医者の子で至極しごく面白いたしかな人物と見込んだから、この男に委細いさいの内情を打明けて、「う/\う次第で僕は長崎にられぬ、余りしゃくさわるからこのまゝ江戸に飛出とびだつもりだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人おとっさんは開業医と開いたが、君の家に食客しょっかくに置てれる事は出来まいか。僕は医者でないが丸薬がんやくを丸めるぐらいの事はきっと出来るから、何卒どうか世話をしてもらいたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ容易たやすく私の云う事を請合うけあい、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁おやじは日本橋檜物ひもの町に開業してるから、手紙を書いてろうといって、親仁名当なあての一封を呉れたから私は喜んでこれ請取うけとり、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、ればかりは奥平にも山本にも一切たれにも云わずに、君一人ひとり呑込のみこんで居てほからさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船にのっず大阪に行く、およそ十日か十五日もかかれば着くだろう。その時を見計みはかろうて中村(諭吉、当時は中村の姓をおかす)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れもいささか面当つらあてだと互にわらって、朋友と内々ないないの打合せは出来た。

諫早にて鉄屋と別る

それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙にしたためて仕舞しまい、れは例の御隠居様にらなければならぬ。「私は長崎を出立しゅったつして中津に帰る所存つもり諫早いさはやまで参りました処が、その途中で不図ふと江戸にきたくなりましたから、是れから江戸に参ります。ついては壹岐いき様から斯様かよう々々の伝言で、お手紙はれですからお届け申すと丁寧にしたためてって、ソレカラ封をせずに渡したすなわ大橋六助おおはしろくすけあてた手紙を本人に届けるめに、私が手紙を書添かきそえて、「この通りに封をせぬのは可笑おかしい、こんな馬鹿な事はないがこのまま御届おとどけ申します。もとはとえば自分の方で呼還よびかえすようにくわだてゝ置きながら、うわべに人をあざむくと云うのは卑劣ひれつ至極なやつだ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅あんばいしたためて、万事の用意は出来て、鉄屋くろがねや惣兵衛と一処に長崎を出立しゅったつして諫早いさはやまで――このあいだは七里ある――来た。丁度ちょうど夕方ついたが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「さて鉄屋、乃公おれは長崎を出る時は中津に帰る所存つもりであったが、是れから中津に帰るはいやになった。貴様の荷物と一処に乃公おれのこの葛籠つづらついでもっかえっれ。乃公おれはもう着換きがえが一、二枚あれば沢山たくさんだ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿はあきれて仕舞しまい、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京にのぼる、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津にかえっておふくろさんにいいようがない。「なあに構うものか、乃公おれしにも何もせぬからうちのおッさんによろしくいっれ、ただ江戸に参りましたとえばれで分る。鉄屋くろがねやも何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公おれは是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関にしってる船宿ふなやどはないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門せんばやすぐえもんと云う船宿があります、其処そこへお入来いでなされば宜しいと云う。もこの事を態々わざわざ鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中かいちゅうに金がない。内から呉れた金が一もあったか、そのほか和蘭オランダの字引の訳鍵やくけんと云う本をうって、掻集かきあつめた所で二しゅか三朱しかない。それで大阪まで行くには如何どうしても船賃が足らぬと云う見込みこみだから、そこで一寸ちょいと船宿の名をきいおいて、れから鉄屋に別れて、諫早いさはやから丸木船まるきぶねと云う船が天草あまくさの海を渡る。五百八十もん出してその船に乗れば明日あしたの朝佐賀まで着くと云うので、その船にのった所が、浪風なみかぜなく朝佐賀について、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々しゅくじゅくの順も知らずに、ただ東の方にむいて、小倉こくらには如何どう行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府だざいふの近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めについた。

贋手紙を作る

そのあいだの道中と云うものは随分困りました。一人旅、こと何処どこの者とも知れぬ貧乏そうな若侍、行倒ゆきだおれになるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪よしあしえらぶにいとまなく、ただ泊めて呉れさえすれば宜しいとうので無暗むやみ歩行あるいて、どうこうか二晩とまって三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いてすなわ鉄屋くろがねや惣兵衛のにせ手紙をこしらえて、「この御方おかたは中津の御家中ごかちゅう、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入でいりして決して間違まちがいなき御方おんかただから厚く頼むと鹿爪しかつめらしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門せんばやすぐえもんへ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日あす下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉こくらまでたどり付てとまった時はおかしかった。彼方此方あっちこっちマゴマゴして、小倉じゅう、宿をさがしたが、何処どこでも泊めない。ヤット一軒泊めてれた所が薄汚ない宿屋で、相宿あいやど同間どうまに人が寝て居る。スルト夜半よなか枕辺まくらもとで小便する音がする。何だと思うと中風病ちゅうふうやみ老爺おやじが、しびんにやってる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くてたまらなかったのはく覚えて居ます。
 それから下ノ関の渡場わたしばを渡て、船場屋せんばやさがし出して、兼て用意のにせ手紙をもっいった所が、成程なるほど鉄屋くろがねやとは懇意な家と見える、手紙を一見して早速さっそく泊めてれて、万事く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱いちぶにしゅまかないの代は一日若干いくら、ソコデ船賃を払うたほかに二百文か三百文しか残らぬ。しかし大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、れも船宿ふなやど心能こころよく承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。

馬関の渡海

小倉こくらから下ノ関に船で来る時は怖い事がありました。途中に出た所が少し荒く風がふいなみたって来た。スルトそのつな引張ひっぱって呉れ、其方そっちの処を如何どうして呉れと、船頭せんどうが何か騒ぎ立て乗組のりくみの私に頼むから、ヨシ来たとうので纜を引張たり柱を起したり、面白半分に様々加勢かせいをしてとどこおりなく下ノ関の宿について、「今日の船は如何どうしたのか、う/\云う浪風なみかぜで、斯う云う目にあった、しおかぶって着物が濡れたと云うと、宿の内儀かみさんが「それはお危ない事じゃ、れが船頭ならいが実は百姓です。この節ひまなものですから内職にそんな事をします。百姓が農業のあいだに慣れぬ事をするから、少し浪風があると毎度大きな間違いを仕出来しでかしますと云うのをきいて、実に怖かった。成程奴等やつらが一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。

馬関より乗船

れから船場屋寿久右衛門せんばやすぐえもんの処からのった船には、三月の事で皆上方かみがた見物、夫れは/\種々しゅじゅ様々な奴が乗て居る。間抜まぬけな若旦那も乗て居れば、頭の禿はげ老爺じじいも乗て居る、上方辺かみがたへん茶屋女ちゃやおんなも居れば、下ノ関の安女郎やすじょろうも居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物がそろうて、其奴等そいつらが狭い船の中で、酒を飲み、博奕ばくちをする。くだらぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端とっつきはがない。船は安芸あき宮島みやじまついた。私は宮島に用はない。ただ来たから唯島を見にあがる。ほか連中れんじゅうはお互に朋友だからいだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくてたまらぬけれども、金がないからただ宮島を見たばかりで、船にかえって来てむしゃ/\船のめしくってるから、船頭せんどうもこんな客はやだろう、妙な顔をして私をにらんで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋きんたいばし余儀よぎなく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅こんぴら様だ。多度津たどつに船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。ほかの奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。うすると一晩ひとばんとまって、どいつもこいつもグデン/\によって陽気になって帰て来る。しゃくさわるけれども何としても仕様しようがない。

明石より上陸

う不愉快な船中で、如何どうやらうやら十五日目に播州明石あかしついた。朝五ツ時、今の八時頃、明旦あした順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中れんじゅうのお供をしては際限がない。れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公おれれから大阪まで歩いて行く。ついては是迄これまで勘定かんじょうは、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭せんどうが中々聞かない。「爾ううまくは行かぬ、一切勘定をはらって行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗さらさの着物と絹紬けんちゅうの着物と二枚あって、それを風呂敷に包んでもって居るから、「ここに着物が二枚ある、是れでまかないの代ぐらいはあるだろう、ほか書籍ほんもあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小をあずければいが、是れはして行かねばならぬ。何時いつでもよろしい、船が大阪にちゃく次第しだいに中津屋敷で払てるから取りに来いと云うも、船頭は頑張がんばって承知しない。「中津屋敷はしってるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船にのって行きなさい。賄の代金は大阪で請取うけとると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日なんかかかっても構わぬ、途中からあがることは出来ぬと云う。此方こっち只管ひたすら頼むと小さくなってけを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情をはって段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人あきんど風の男が出て来て、乃公が請合うけあうとず発言して船頭に向い、「コレお前もう、いんごうな事をうものじゃない。賄代まかないだい抵当かたに着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達をだま所存つもりではないように見受ける。若し騙したら乃公おれが払う、サアおあがりなさいといって、船頭もれに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼をのべて船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
 そこで明石から大阪まで十五里のあいだと云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭でとても一晩とまることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何とう処か知らぬが、左側の茶店ちゃみせで、一合いちごう十四文の酒を二合飲んで、大きなたけのこの煮たのを一皿と、飯を四、五杯くって、れからグン/″\歩いて、今の神戸あたりは先だかあとだか、どうとおったか少しもわからぬ。うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川いくつわたって、有難ありがたい事にお侍だから船賃はただかったが、日は暮れて暗夜やみよ真暗まっくら、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中やちゅうさびしい処で変な奴に逢えばかえって気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差わきざし祐定すけさだの丈夫なであったが、刀は太刀作たちづくりの細身ほそみでどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実をえば大阪近在に人殺しの無暗むやみに出るけもない、ソンナに怖がる事はないはずだが、ひとり旅の夜道、真暗ではあるし臆病神おくびょうがみが付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えればかえって危ない事だと思う。ソレカラ始終しじゅう道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島どうじま玉江橋たまえばしうことをしってるから、ただ大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷について兄にあったが、大変に足が痛かった。

大阪着

大阪に着て久振ひさしぶりで兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山たくさんある。私は三歳の時に国にかえって二十二歳に再びいったのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私のかお何処どこ幼顔おさながおて居ると云うそのうちには、私に乳をましてれた仲仕なかし内儀かみさんもあれば、又今度こんど兄の供をして中津から来て居る武八ぶはちと云うごく質朴な田舎男いなかおとこは、先年も大阪の私の家に奉公して私のおもりをした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身おりゃ夜中よなかにこの横町よこちょう産婆ばばさんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身おりゃお前をだいて毎日々々みなとの部屋(勧進元かんじんもと)に相撲の稽古を見にいった、その産婆さんのうち彼処あすこじゃ湊の稽古場は此処こっちの方じゃと、指をさして見せたときには、私もむかしおもうて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。すべ如斯こんけで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷にかえった通りで誠に心地こころもち。それから兄が私に如何どうして貴様きさまは出し抜けに此処ここに来たのかという。兄の事であるから構わずう次第で参りましたといったら、「乃公おれが居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッさんの処をよけて来たではないか。それも乃公おれが此処に居なければかく、乃公が此処で貴様に面会しながらこれ手放てばなして江戸にけと云えば兄弟共謀だ。如何いかにも済まぬではないか。おッ母さんは夫程それほどに思わぬだろうが、如何どうしても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生をさがしたら緒方おがたと云う先生のある事を聞出ききだした。

長崎遊学中の逸事

鄙事多能ひじたのうは私の独得どくとく、長崎に居るあいだは山本先生の家に食客生しょっかくせいり、無暗むやみに勉強して蘭学もようやく方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引請ひきうけて、れは出来ない、れはいやだといったことはない。丁度ちょうど上方辺かみがたへん大地震おおじしんのとき、私は先生家の息子に漢書の素読そどくをしてやった跡で、表の井戸端で水をんで、大きな荷桶にないかついで一足ひとあし跡出ふみだすその途端にガタ/″\と動揺ゆれて足がすべり、誠に危ない事がありました。
 寺の和尚、今はすで物故ぶっこしたそうですが、れは東本願寺の末寺まつじ光永寺こうえいじと申して、下寺したでらの三ヶ寺ももって居るず長崎では名のある大寺おおでら、そこの和尚が京にのぼって何か立身してかえって来て、長崎の奉行所に廻勤かいきんに行くその若党わかとうに雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長いころもか装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で駕籠かごを出ると、私があとからそのすそを持てシヅ/″\と附いて歩いてく。吹出ふきだしそうに可笑おかしい。又その和尚が正月になると大檀那だいだんなの家に年礼ねんれいに行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でものんでる供待ともまちあいだに、供の者にも膳を出して雑煮ぞうになどわせる。是れは難有ありがたいただきました。
 又節分せつぶん物貰ものもらいをしたこともある。長崎のふうに、節分の晩に法螺ほらの貝をふいて何か経文きょうもんのような事を怒鳴どなってわる、東京でえば厄払やくはらい、その厄払をして市中の家のかどに立てば、ぜにれたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の隣家りんか杉山松三郎すぎやままつさぶろう(杉山徳三郎とくさぶろうの実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、勿論もちろん同意。ソレカラ何処どこかで法螺ほらの貝を借りて来て、かおを隠して二人ふたりで出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦あんしょうして蒙求もうぎゅうの表題と千字文せんじもん請持うけもち、王戎簡要おうじゅうかんよう天地玄黄てんちげんこうなんぞ出鱈目でたらめ怒鳴どなり立てゝ、誠に上首尾、ぜにだの米だの随分相応にもらって来て、餅を買い鴨を買い雑煮ぞうにこしらえてタラフクくった事がある。

師弟アベコベ

私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うとうときに、薩州の医学生に松崎鼎甫まつざきていほと云う人がある。その時に藩主薩摩守さつまのかみは名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えてもらうがかろうと云うのでいった所が、松崎が abc を書いて仮名を附けてれたのにはず驚いた。れが文字とは合点がてんかぬ。二十何字なんじを覚えて仕舞しまうにも余程手間がかかったが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語のつづりわかるようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相にんそうを見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。よって私の心中ひそかに、「れはたかの知れた人物だ。今でも漢書をよんで見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭ひとしく字を読み義を解することゝすれば、までこの先生を恐るゝことはない。如何どうかしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々なまなまの初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達がすこぶる速くて、両三年のあいだに同窓生八、九十人の上に頭角あたまを現わした。所が人事のまわり合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入はいり、私はその時ズット上級で、下級生の会頭かいとうをして居るその会読かいどくに、松崎も出席することになって、三、四年のあいだ今昔こんせきの師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、もとより人にはわれず、又云うべきことでないからだまって居たが、その時の愉快はたまらない。ひとり酒をのんで得意がって居ました。れば軍人の功名こうみょう手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、いずれも熱心で、一寸ちょいと見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張やはり同じことで、世間なみに俗な馬鹿毛ばかげた野心があるから可笑おかしい。

大阪修業


 兄の申すことには私もさからうことが出来ず、大阪に足をめまして、緒方おがた先生の塾に入門したのは安政二年卯歳うどしの三月でした。その前長崎に居る時には勿論もちろん蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林ならばやしと云う和蘭オランダ通詞つうじうち、同じく楢林と云う医者のうち、それから石川桜所いしかわおうしょと云う蘭法らんぽう医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸をはって居る大家たいかであるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処そこの玄関にいっ調合所ちょうごうじょの人などに習って居たので、う云うように彼方此方あちこちにちょい/\と教えてれるような人があれば其処そこへ行く。何処どこ何某なにがしに便り誰の門人になってミッチリ蘭書をよんだと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのはれが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えてもらいました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢おおぜい書生があるけれども、その中ではマア出来のい方であったと思う。

兄弟共に病気

ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々ここに大なる不仕合ふしあわせな事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯リューマチスかかり病症がはなはだ軽くない。トウ/\手足もかなわぬと云う程になって、追々おいおい全快するがごとく全快せざるが如くして居るあいだに、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆をもって書くと云うような容体ようだい。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、かねて世話になって居た加州の岸直輔きしなおすけと云う人が、ちょう窒扶斯チブスに罹って中々の難症。ソコデ私は平生へいぜいの恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六すずきぎろくと云う者があって、れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、およそ三週間も手を尽したけれども、如何どうしても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元におくっろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日せんにちの火葬場にもっいっやいて、骨を本国に送り、ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイとわずらついた。容体ようだいがドウもただの風邪でない。熱があり気分がはなはだ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見てもらった所が、れは腸窒扶斯ちょうチブスだ、岸の熱病が伝染したのだといって居るあいだに、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、いよいよ腸窒扶斯に違いない、本当に療治りょうじしなければ是れは馬鹿にならぬ病気であるとう。

緒方先生の深切

れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公おれはお前の病気をきっる。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞しまう。の薬の薬と迷うて、あとになってうでもなかったといって又薬の加減をするとうようなけで、仕舞しまいには何の療治をしたかけがわからぬようになると云うのは人情のまぬかれぬ事であるから、病はるが執匙しっぴほかの医者に頼む。そのつもりにしてれと云て、先生の朋友、梶木町かじきまち内藤数馬ないとうかずまと云う医者に執匙を託し、内藤のうちから薬をもらって、先生はただ毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図さしずするだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多くとても手に及ばない事で、その師弟のあいだおのずからおおやけなものになって居る、けれども昔の学塾の師弟はまさしく親子の通り、緒方おがた先生が私の病を見て、どうも薬をさずけるに迷うと云うのは、自分のうちの子供を療治してるに迷うと同じ事で、そのあつかい実子じっしと少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞しまいましょう。私が緒方の塾に居た時の心地こころもちは、今の日本国中の塾生にくらべて見て大変にちがう。私は真実緒方のうちの者のように思いまた思わずにはられません。ソレカラ唯今ただいま申す通り実父じっぷ同様の緒方先生が立会たちあいで、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。わずらい付て四、五日目から人事不省ふせいおよそ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、さいわいにして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生へいぜい身体からだの強壮なそのめでしょう、恢復かいふくは中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、そのあいだに兄は僂麻質斯レウマチスわずらっり、私は熱病の大病後である、如何どうにも始末が付かない。

兄弟中津に帰る

その中に丁度ちょうど兄の年期とうものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私もまた病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、かくに帰国がかろうと云うので、兄弟一緒に船にのって中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復かいふくして、兄の僂麻質斯リューマチスも全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。れでは私は又大阪に参りましょうといって出たのがその歳、すなわち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気がくて、大阪についたその時に、私は中津屋敷の空長屋あきながやを借用して独居自炊、すなわち土鍋でめしたいくって、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。

家兄の不幸再遊困難

所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻かえって来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方しかたがない。取るものも取りえずスグ船に乗て、このたびは誠に順風で、すみやかに中津の港について、うちに帰て見ればモウ葬式は勿論もちろん、何もかたつい仕舞しまった後の事で、ソレカラ私は叔父おじの処の養子になって居た、所が自分の本家、すなわち里の主人が死亡して、娘が一人ひとりあれども女の子では家督相続は出来ない、れは弟が相続する、当然あたりまえの順序だとうので、親類相談の上、私は知らぬにチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国をまって相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせてれるくらいの事だ。てその跡をついだ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服きふくを勤めねばならぬ。れから家督相続と云えばれ相応のつとめがなくてはならぬ、藩中小士族こしぞく相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里てんがいばんり、何もかも浮足うきあしになって一寸ちょいとも落付おちつかぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命をこばむことは出来ない。ただ言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何どうしても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付よりつかれもしない。藩中一般の説はしばら差措さしおき、近い親類の者までも西洋は大嫌だいきらいで、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処そこいって何か話をして、ついでながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛いいかけて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭からしかられた。「けしからぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をするはずのものだ。ソレに和蘭オランダの学問とは何たる心得こころえ違いか、呆返あきれかえった話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私をひやかして、貴様のようなやつ負角力まけずもう瘠錣やせしこうものじゃと苦々にがにがしくにらみ付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。とても叔父さんに賛成してもらおうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居ればおのずから口のはしにも出る。出れば狭い所だからぐ分る。近処きんじょあたりに何処どことなく評判する。平生へいぜい私の処にく来るおばばさんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重やえさんと云う人。今でもの人のかおを覚えて居る。つい向うのお婆さんで、るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般ずソンナふうで、その時の私の身の上を申せば寄辺汀よるべなぎさ捨小舟すておぶね、まるでうたの文句のようだ。

母と直談

ソコデ私はひとり考えた。「れはとて仕様しようがない。ただ頼む所は母一人だ。母さえ承知してくれれば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッさん。今私が修業して居るのはう有様、斯う云う塩梅あんばいで、長崎から大阪にいって修業してります。自分で考えるには、如何どうしても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭のあが気遣きづかいはない。しん朽果くちはつると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒どうぞ私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にするとおっしゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったとあきらめて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母とただ二人ふたりで、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」といったら、母も中々思切おもいきりのい性質で、「ウムよろしい。「アナタさえ左様そう云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方しかたがない。お前もまた余所よそに出て死ぬかも知れぬが、死生しにいきの事は一切言うことなし。何処どこへでも出て行きなさい」。ソコデ母子のあいだと云うものはちゃんと魂胆こんたんが出来て仕舞しまって、ソレカラいよいよ出ようと云うことになる。

四十両の借金家財を売る

出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中のれの入費にゅうひおよそ四十両借金がある。この四十両とうものは、その時代に私などの家にとっては途方心ない大借だいしゃく。これをこのままにして置てはとても始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何どうしよう。ほかに仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、いささか頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書をもって居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間にるいの少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の、私が誕生したその日に、父が多年所望しょもうして居た明律みんりつ上諭条例じょうゆじょうれいと云う全部六、七十冊ばかりの唐本とうほん買取かいとって、大造たいそう喜んで居る処に、その男子なんし出生しゅっしょうして重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事があるくらいで、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、軸物じくもののような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば頼山陽らいさんよう半切はんせつ掛物かけものきんに売り、大雅堂たいがどう柳下人物りゅうかじんぶつの掛物を二両二分、徂徠そらいの書、東涯とうがいの書もあったが、誠にがない、見るに足らぬ。その他はごた/\した雑物ぞうもつばかり。覚えて居るのは大雅堂たいがどう山陽さんよう。刀は天正祐定てんしょうすけさだ二尺五寸拵付こしらえつきく出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何どうしたって何十両とう金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、白石しらいしと云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追出おいだされて豊後の臼杵うすき藩の儒者になって居たから、この先生に便たよって行けば売れるだろうとおもって、臼杵まで態々わざわざ出掛けていって、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩にかっもらい、一口ひとくち大金たいきん十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口ちょくも一切うって、ようやく四十両の金がそろい、その金で借金は奇麗にすんだが、その蔵書中に易経集註えききょうしっちゅう十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々こまごま書入かきいれをした見事なものがある。れは亡父ぼうふが存命中大阪で買取かいとっことほか珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆をもって、この東涯先生書入の易経十三冊は天下稀有けうの書なり、子孫つつしんで福澤の家におさむべしと、あたかも遺言のようなことが害いてある。私もこれを見ては何としても売ることが出来ません。是れけはと思うて残しておいたその十三冊は今でも私の家にあります。れと今に残って居るのは唐焼とうやきの丼が二つある。是れは例の雑物売払うりはらいのとき道具屋がを付けて丼二つ三分さんぶんと云うその三分とは中津の藩札はんさつぜににすれば十八もんのことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかりあっても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗ふであらいになって居るのも可笑おかしい。

築城書を盗写す

れは夫れとして、私が今度不幸で中津にかえって居るそのあいだに一つ仕事をしました、とうのはその時に奥平壹岐おくだいらいきと云う人が長崎から帰て居たから、勿論もちろん私は御機嫌伺ごきげんうかがいに出なければならぬ。或日あるひ奥平の屋敷に推参すいさんして久々の面会、四方山よもやまの話のついでに、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公おれが長崎からもって来た和蘭オランダ新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理きゅうり書のほかついぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だとず私は感心しなければならぬ、とうのはその時は丁度ちょうどペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々やかましいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書がよんで見たくてたまらない。けれどもれは貸せといった所が貸す気遣きづかいはない。れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんとうたのには、実に貧書生のきもつぶすばかり。とても自分に買うことは出来ず、ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私はただ原書を眺めて心の底でひとり貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策をやって見た。「成程なるほど是れは結構な原書で御在ございます。迚もこれよん仕舞しまうと云うことは急な事では出来ません。めては図と目録とでも一通ひととおり拝見したいものですが、四、五日拝借はかないますまいかと手軽にあたって見たらば、「よし貸そう」と云て貸してれたこそ天与の僥倖ぎょうこう、ソレカラ私はうちもっかえって、即刻鵞筆がペンと墨と紙を用意してその原書をはじめからうつし掛けた。およそ二百ページのものであったと思う。それを写すについては誰にも言われぬのは勿論もちろん、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込ひきこんで一切客にわずに、昼夜精切せいぎり一杯、こんのあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をするつとめがあって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になればそっ写物うつしもの持出もちだして、朝、城門のくまで写して、一目ひとめも眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳ありもあり、すでに人に悟られて今にも原書を返せとか何とかいって来はしないだろうか、いよ/\露顕ろけんすればただ原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々むずかしくなるだろうと思えば、その心配はたまらない。生れてから泥坊どろぼうをしたことはないが、泥坊の心配も大抵たいていこんなものであろうと推察しながら、とう/\写し終りて、図が二枚あるその図も写して仕舞しまって、サア出来上った。出来上ったが読合よみあわせに困る。れが出来なくては大変だとうと、妙な事もあるもので、中津に和蘭オランダのスペルリングの読めるものがたっ一人ひとりある。それは藤野啓山ふじのけいざんと云う医者で、この人ははなはだ私の処に縁がある、と云うのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私のうちに寄宿して、母も常に世話をしてやったと云う縁故からして、もとより信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の処に行て、「だい秘密をお前に語るが、実はう/\云うことで、奥平の原書を写して仕舞た。所が困るのはその読合せだが、お前はどうか原書を見て居てれぬか、私が写したのを読むから。実は昼りたいが、昼は出来られない。ヒョッとわかっては大変だから、夜分私が来るから御苦労だが見て居て呉れよと頼んだら、藤野がよろしいと快く請合うけあって呉れて、ソレカラ私は其処そこの家に三晩か四晩読合よみあわせにいって、ソックリ出来て仕舞しまった。モウ連城れんじょうたまを手に握ったようなもので、れから原書は大事にしてあるから如何どうにも気遣きづかいはない。しらばくれて奥平壹岐おくだいらいきの家に行て、「誠に難有ありがとうございます。お蔭で始めてこんな兵書を見ました。う新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、さぞマア海防家には有益の事でありましょう。しかしこんな結構なものは貧書生の手に得らるゝものでない。有難ありがとうございました。返上致しますといって奇麗に済んだのは嬉しかった。この書を写すに幾日かゝったかく覚えないが、何でも二十日以上三十日足らずのあいだに写して仕舞しまうて、原書の主人に毛頭もうとう疑うような顔色がんしょくもなく、マンマとその宝物ほうもつ正味しょうみぬすとって私の物にしたのは、悪漢わるものが宝蔵に忍びいったようだ。

医家に砲術修業の願書

その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩かしてろくもしないじゃないか。何の事だ。風邪かぜでも引くとくない。勉強にも程のあったものだとやかましく云う。「なあに、おッさん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。このくらいの事で私の身体からだは何ともなるものじゃない。御安心下さい。決してわずらいはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラいよいよ大阪に出ようとすると、ここ可笑おかしい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。れまで私は部屋住へやずみだからほかに出るからと云てとどけねがいらぬ、颯々さっさつ出入でいりしたが、今度は仮初かりそめにも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。れから私はかねて母との相談が済んでるから、叔父おじにも叔母おばにも相談は要りはしない。出抜だしぬけに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々ないない知らせてれるに、「それはイケない。蘭学修業とうことは御家おいえに先例のない事だと云う。「そんなら如何どうすればいかと尋れば、「左様さようさ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども緒方おがたと云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。れこそかえって不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても御例ごれいのない事は仕方がない。事実相違してもよろしいから、矢張やはり砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。如何どうでもましょうといって、ソレカラ私儀わたくしぎ大阪おもて緒方洪庵こうあんもとに砲術修業に罷越まかりこしたい云々うんぬんと願書を出して聞済ききずみになって、大阪に出ることになった。大抵たいてい当時の世の中の塩梅式あんばいしきが分るであろう、と云うのはれは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中ことごとく漢学の世の中で、西洋流など云うことは仮初かりそめにも通用しない。俗に云う鼻掴はなつまみの世の中に、ただペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、わば一線いっせん血路けつろが開けて、ソコで砲術修業の願書でおだやかに事が済んだのです。

母の病気

ねがいが済んでいよいよ船にのって出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、の医者を頼みの医者に相談、様々に介抱した所が虫だとう。虫なれぼ如何いかなる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネと云うものはない、セメンシーナが妙薬だと云う。この薬は至極しごくあたいの高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津にたった一軒あるばかりだけれども、母の病気に薬のが高いの安いのといっられぬ。私は今こそ借金を払ったあとでなけなしの金を何でも二朱にしゅ一歩いちぶ出して、そのセメンシーナをかって母に服用させて、れがいたのか何かわからぬ、田舎いなか医者の言うことももとより信ずるに足らず、私はただ運を天に任せて看病大事と昼夜番をして居ましたが、さいわいに難症でもなかったと見えて日数ひかずおよそ二週間ばかりで快くなりましたから、いよいよ大阪へ出掛けると日をめて、出立しゅったつのときわかれを惜しみ無事を祈ってれる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送みおくり扨置さておき見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、もなく家財は残らず売払うりはろうて諸道具もなければ金もなし、赤貧せきひん洗うがごとくにして、他人の来て訪問おとずれて呉れる者もなし、寂々寥々せきせきりょうりょう古寺ふるでら見たような家に老母と小さいめいとタッタ二人残して出て行くのですから、流石さすが磊落らいらく書生もれには弱りました。

先生の大恩、緒方の食客となる

船中無事大阪についたのはよろしいが、ただ生きて身体からだついばかりで、て修業をするとう手当は何もない。ハテ如何どうしたものかとおもった所が仕方しかたがない。なにしろ先生の処へいってこの通り言おうと思て、それから、大阪ちゃくはその歳の十一月頃と思う、その足で緒方おがたへ行て、「私は兄の不幸、う/\云う次第でまた出て参りましたとず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、うちの借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明うちあけて、の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写ぬすみうつしてこの通りもって参りましたといった所が、先生はわらって、「うか、ソレは一寸ちょいとのあいだしからぬ悪い事をしたような又い事をしたような事じゃ。何は扨置さておき貴様は大造たいそう見違えたように丈夫になった。「左様さよう御在ございます。身体からだは病後ですけれども、今歳ことしの春大層たいそう御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切きいて見ると如何いかにしても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をしてりたい、けれどもほかの書生に対して何かお前一人に贔屓ひいきするようにあってはくない。待て/\。その原書は面白い。ついては乃公おれがお前に云付いいつけてこの原書を訳させると、うことによう、そのつもりでなさいといって、ソレカラ私は緒方の食客生しょっかくせいになって、医者のうちだから食客生と云うのは調合所の者よりほかにありはしませぬが、私は医者でなくてただ飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくてもいのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞しまいました。

書生の生活酒の悪癖

私はれまで緒方の塾に這入はいらずに屋敷からかよって居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に這入はいっない塾生となり、是れがそもそも私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌有為ゆういの人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々一筋縄ひとすじなわでも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟そうくつ、その中に私が飛込とびこんで共に活溌に乱暴を働いた、けれども又おのずからほかの者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。ず第一に私の悪い事を申せば、生来せいらい酒をたしなむと云うのが一大欠点、成長したのちにはみずからその悪い事をしっても、悪習すでせいを成してみずから禁ずることの出来なかったと云うことも、あえて包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事をおおやけにするは余り面白くもないが、正味しょうみを言わねば事実談にならぬから、ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。そもそも私の酒癖しゅへきは、年齢の次第に成長するにしたがっのみ覚え、飲慣れたとうでなくして、うまれたまゝ物心ものごころの出来た時から自然に数寄すきでした。今に記憶してる事を申せば、幼少の頃、月代さかいきるとき、頭のぼんくぼを剃ると痛いから嫌がる。スルトそっれる母が、「酒をべさせるから此処ここを剃らせろとうその酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事はかすかに覚えて居ます。天性の悪癖、誠にずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、ほかに何も法外な事は働かず行状はず正しいつもりでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見てはほとんど廉恥れんちを忘れるほどの意気地いくじなしと申してよろしい。
 ソレカラ長崎に出たとき、二十一歳とはいながらその実は十九歳余り、マダ丁年ていねんにもならぬ身で立派な酒客しゅかくただ飲みたくてたまらぬ。所がかねての宿願を達して学問修業とあるから、自分の本心に訴えて何としても飲むことは出来ず、滞留一年のあいだ、死んだ気になって禁酒しました。山本先生のうち食客しょっかく中も、大きな宴会でもあればその時に盗んで飲むことは出来る。又ぜにさえあれば町に出て一寸ちょいますすみからるのもやすいが、何時いつか一度は露顕ろけんするとおもって、トウ/\辛抱しんぼうして一年のあいだ、正体を現わさずに、翌年の春、長崎をさっ諫早いさはやに来たとき始めてウント飲んだ事がある。その後程経ほどへて文久元年の冬、洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度洋行の次第を語り、そのとき始めて酒の事を打明うちあけ、下戸げことはいつわり実は大酒飲おおざけのみだと白状して、飲んだも飲んだか、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かした事を覚えて居ます。

血に交わりて赤くならず

この通り幼少の時から酒が数寄すきで酒のめにはらん限りの悪い事をして随分不養生もおかしましたが、又一方から見ると私の性質として品行は正しい。れだけは少年時代、乱暴書生にまじわっても、家を成してのち、世の中に交際しても、少し人に変って大きな口がかれる。滔々とうとうたる濁水どろみず社会にチト変人のように窮屈なようにあるが、ればとて実際浮気うわき花柳談かりゅうだんうことは大抵たいてい事細ことこまかしって居る。何故なぜと云うに他人の夢中になって汚ない事を話して居るのをく注意してきいて心にめて置くから、何でも分らぬことはない。例えば、私は元来囲碁いごを知らぬ、少しも分らないけれども、塾中の書生仲間に囲碁が始まると、ジャ/″\巧者こうしゃなことをいって、ヤア黒のその手は間違いだ、れ又やられたではないか、油断をすると此方こっちの方があぶないぞ、馬鹿なやつだあれを知らぬかなどゝ、い加減に饒舌しゃべれば、書生の素人しろうとへた囲碁で、助言じょげんもとより勝手次第で、何方どっちが負けそうなとう事は双方の顔色かおいろを見てわかるから、勝つ方の手を誉めて負ける方を悪くさえ云えば間違いはない。ソコデ私は中々囲碁が強いように見えて、「福澤一番ろうかと云われると、「馬鹿云うな、君達を相手にするのは手間潰てまつぶしだ、そんなひまはないと、高くとまってすまし込んで居るから、いよ/\上手じょうずのように思われておよそ一年ばかりは胡摩化ごまかして居たが、何かの拍子ひょうしにツイばけの皮が現われて散々さんざんののしられたことがある、と云うようなもので、花柳社会の事も他人の話を聞きその様子を見て大抵こまかにしって居る、知て居ながら自分一身は鉄石てっせきごとく大丈夫である。マア申せば血に交わりて赤くならぬとは私の事でしょう。自分でも不思議のようにあるが、れは如何どうしても私の家のふうだと思います。幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ない事は仮初かりそめにもかげにも日向ひなたにも家の中できいたこともなければ話した事もない。清浄しょうじょう潔白、おのずから同藩普通の家族とはいろことにして、ソレカラ家をさって他人に交わっても、そのふうをチャントまもって、別につつしむでもない、当然あたりまえな事だとおもって居た。ダカラ緒方の塾に居るそのあいだも、つい茶屋遊ちゃやあそびをするとかうような事は決してない、と云いながらまえにも云う通り何も偏屈でれを嫌って恐れて逃げて廻って蔭で理屈らしく不平な顔をして居ると云うような事もとんとしない。遊廓の話、茶屋の話、同窓生と一処いっしょになってドシ/″\話をして問答して、そうして私は夫れを又ひやかして、「君達は誠に野暮やぼな奴だ。茶屋にいってフラレて来ると云うような馬鹿があるか。僕は登楼とうろうない。為ないけれども、僕が一度ひとたび奮発して楼に登れば、君達の百倍被待もてて見せよう。君等のようなソンナ野暮な事をするならして仕舞しまえ。ドウセ登楼などの出来そうながらでない。田舎者いなかものめが、都会に出て来て茶屋遊の ABC を学んで居るなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞと云うような調子で哦鳴がなり廻って、実際においてその哦鳴る本人は決して浮気でない。ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。く世間にある徳行の君子なんて云う学者が、ムヅ/\してシント考えて、他人のることを悪い/\と心の中で思て不平をのんで居る者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒にたわぶれて洒蛙々々しゃあしゃあとして居るからかえって面白い。

書生を懲らしめる

酒の話はいくらもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日そくじつに、在塾の一書生が始めて私にあっうには、「君は何処どこから来たか。「長崎から来たとうのが話の始まりで、その書生の云うに、「うか、以来は懇親にお交際つきあいしたい。ついては酒を一献いっこんもうではないかと云うから、私がこれに答えて、「始めてお目にかかって自分の事を云うようであるが、私は元来の酒客しゅかくかも大酒たいしゅだ。一献酌もうとは有難ありがたい、是非ぜひともいたしたい、早速さっそくお供致したい。だが念のめに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえはなはだ怪しい。有るか無いか分らない。いわんや酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにおさそいとは誠にかたじけない。是非お供致そうとう出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金のるのは当然あたりまえの話だ。ればかりの金のないはずはないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、折角せっかく飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが物分ものわかれでその日は仕舞しまい、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に出遇であい、「昨日のお話は立消たちぎえになったが、如何どうだろうか。私は今日も酒が飲みたい連れていっれないか、どうも行きたいと此方こっちからうながした処が、馬鹿うなとうような事で、お別れになって仕舞しまった。
 ソレカラ一月ひとつき二月ふたつき三月みつき経って、此方こっちもチャント塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知ると云うことになって当り前に勉強して居る。一日あるひその今の男を引捕ひっつかまえた。引捕まえて面談、「お前は覚えてるだろう、乃公おれが長崎から来て始めて入門したその日に何といった、酒を飲みに行こうと云たじゃないか。その意味は新入生と云うものは多少金がある、これ誘出さそいだして酒を飲もうとう云うかんがえだろう。言わずともわかって居る。の時に乃公が何と云た、乃公は酒は飲みたくてたまらないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎付はねつけて、その翌日は又此方こっちから促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。く考えて見ろ。はばかながら諭吉だからそのくらいに強く云たのだ。乃公はその時にはみずから決する処があった。お前が愚図々々ぐずぐず云うなら即席に叩倒たたきたおして先生の処に引摺ひきずっいっろうと思ったその決心が顔色がんしょくあらわれて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引込ひきこんで仕舞しまった。如何いかにしても済まないやつだ。斯う云う奴のあるのは塾のめには獅子しし身中しんちゅうの虫と云うものだ。こんな奴が居て塾を卑劣にするのだ。以来新入生にあっ仮初かりそめにも左様さような事を云うと、乃公は他人の事とは思わぬぞ。ぐにお前をつかまえて、誰とも云わず先生の前に連れて行て、先生に裁判してもらうがよろしいか。心得て居ろとひどこらしめてやった事があった。

塾長になる

その後私の学問も少しは進歩した折柄おりから、先輩の人は国に帰る、塾中無人にてついに私が塾長になった。さて塾長になったからといって、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、ただ塾中一番むずかしい原書を会読かいどくするときその会頭かいとうを勤めるくらいのことで、同窓生の交際つきあいに少しも軽重けいじゅうはない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強のあいだにはあらん限りの活動ではないどうかとえばず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義をもって人を感化するなど云う鹿爪しかつめらしい事を考えるけもない。又塾風をくすれば先生に対しての御奉公、御恩報ごおんほうじになると、そんな老人めいた心のあろうはずもないが、唯私の本来仮初かりそめにも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物をむさぼらず、人の金を借用せず、唯の百文ひゃくもんも借りたることはないその上に、品行は清浄しょうじょう潔白にして俯仰ふぎょう天地にはじずと云う、おのずからほかの者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口ひとくちに云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにしてろうと云うような血気の威張いばりであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又大恩だいおんの先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事はらに覚えはなかったのです。しかし何でもう威張り廻って暴れたのが、塾のめに悪い事もあろう、又おのずから役にたったこともあるだろうと思う。し役に立て居ればれは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。

緒方の塾風


 左様そうえば何か私が緒方塾の塾長でしきりに威張いばって自然に塾のふう矯正きょうせいしたようにきこゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても相替あいかわらず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩からもらう少々ばかりの家禄かろくで暮して居る、私は塾長になってから表向おもてむきに先生まかないを受けて、その上に新書生が入門するとき先生束脩そくしゅうを納めて同時に塾長へもきん貳朱にしゅ[#「貳朱を」は底本では「※[#「弋+頁」、74-10]朱を」]ていすと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分いちぶ二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭こづかいせんには沢山たくさんで、れが大抵たいてい酒の代になる。衣服きものは国の母が手織木綿ておりもめんしなおくっれてれには心配がないから、少しでも手許てもとに金があればすぐに飲むことを考える。是れがめには同窓生の中で私に誘われてツイ/\のんだ者も多かろう。さてその飲みようも至極しごくお租末、殺風景で、ぜにの乏しいときは酒屋で三合さんごうか五合かって来て塾中でひとり飲む。れから少し都合のい時には一朱か二朱もっ一寸ちょいと料理茶屋に行く、是れは最上のおごりで容易に出来兼ねるから、度々たびたびくのは鶏肉屋とりや、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で牛鍋うしなべわせる処はただ二軒ある。一軒は難波橋なにわばし南詰みなみづめ、一軒は新町しんまちくるわそばにあって、最下等の店だから、およそ人間らしい人で出入でいりする者は決してない。文身ほりものだらけの町の破落戸ごろつきと緒方の書生ばかりが得意の定客じょうきゃくだ。何処どこから取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着とんじゃくなし、一人前ひとりまえ百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。

塾生裸体

当時は士族の世の中だから皆大小はして居る、けれども内塾生ないじゅくせい五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀そうとうはチャントもって居るそのほか、塾中に二腰ふたこし腰もあったが、あとは皆質におい仕舞しまって、塾生のたれか所持して居るその刀があたかも共有物で、れでも差支さしつかえのないと云うは、銘々めいめい倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、不断は脇差わきざし一本、たゞ丸腰にならぬけの事であったから。れから大阪はあったかい処だから冬は難渋な事はないが、夏は真実の裸体はだかふんどし襦袢じゅばんも何もない真裸体まっぱだか勿論もちろん飯をう時と会読かいどくをする時にはおのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引掛ひっかける、中にもの羽織を真裸体の上に着てる者が多い。れは余程おかしなふうで、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。食事の時にはとても座ってうなんとうことは出来た話でない。足も踏立ふみたてられぬ板敷いたじきだから、皆上草履うわぞうり穿はいたって喰う。一度は銘々にけてやったこともあるけれども、うは続かぬ。お鉢が其処そこに出してあるから、銘々に茶碗にもっ百鬼ひゃくき立食りっしょく。ソンナけだから食物しょくもつも勿論安い。おさいは一六がねぎと薩摩芋の難波煮なんばに、五十が豆腐汁とうふじる、三八が蜆汁しじみじると云うようになって居て、今日は何か出ると云うことはきまって居る。

裸体の奇談失策

裸体はだかの事について奇談がある。る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人ひとり思付おもいつきに、この酒をの高い物干ものほしの上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出もちだそうとした処が、物干の上に下婢げじょが三、四人涼んで居る。れはこまった、今彼処あそこで飲むと彼奴等きゃつらが奥にいって何か饒舌しゃべるに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州せい松岡勇記まつおかゆうきと云う男がある。至極しごく元気のい活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事にの女共を物干から逐払おいはらって見せようと云いながら、真裸体まっぱだかで一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向あおむきに大の字なりになって倒れた。この風体ふうていを見ては流石さすが下婢げじょ其処そこに居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆りて仕舞しまった。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いとう合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快にのんだことがある。
 又るときれは私の大失策、或る私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒をのんで今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。れから真裸体まっぱだかで飛起て、階子段はしごだん飛下とびおりて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。うにもうにも逃げようにも逃げられず、真裸体まっぱだかで座ってお辞儀も出来ず、進退きゅうして実に身の置処おきどころがない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込ひきこん仕舞しまった。翌朝御託おわびに出て昨夜は誠に失礼つかまつりましたとべるけにも行かず、到頭とうとう末代まつだい御挨拶なしにすんで仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪にいって緒方の家を尋ねて、この階子段はしごだんしただったと四十年ぜんの事を思出して、独り心の中で赤面しました。

不潔に頓着せず

塾員は不規則とわんか不整頓と云わんか乱暴狼藉ろうぜき、丸で物事に無頓着むとんじゃく。その無頓着のきょくは世間でうように潔不潔、汚ないと云うことを気にめない。例えば、塾の事であるから勿論もちろんおけだのどんぶりだの皿などの、あろうはずはないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪しちりんもあれば鍋もあって、物を煮てうと云うような事を不断やって居る、そのおもむきあたかも手鍋世帯じょたいの台所見たような事を机の周囲まわりやって居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥ちょうずだらい金盥かなだらいも一切食物しょくもつ調理の道具になって、暑中など何処どこからか素麺そうめんを貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮ゆでて貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥をもって来て、その中でひや素麺にして、つゆこしらえるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、そのほかさかなを拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。
 どころではない。しらみは塾中永住の動物で、れ一人もこれまぬかれることは出来ない。一寸ちょい裸体はだかになれば五疋ごひきも十疋もるに造作ぞうさはない。春先はるさき少し暖気になると羽織の襟に匍出はいだすことがある。る書生の説に、ドウダ、吾々われわれの虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中ふゆじゅう真盛まっさかりで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月のみと交代して引込ひっこみ、九月頃新芋しんいもが町に出ると吾々の虱もた出て来るのは可笑おかしいといった事がある。私は一案を工風くふうし、も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆せんたくばばあの旧筆法で面白くない、乃公おれが一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜しもよ襦袢じゅばん物干ものほしさらして虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、かつれかにきいたことがあるからやって見たのです。

豚を殺す

そんなけだから塾中の書生に身なりの立派な者はず少ない。そのくせ市中の縁日などえば夜分屹度きっと出て行く。行くと往来の群集、就中なかんずく娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方にけるその様子は、何か穢多でも出て来てれをきたながるようだ。如何どう仕方しかたがない。往来の人から見て穢多のように思うはずだ。るとき難波橋なにわばし吾々われわれ得意の牛鍋屋うしなべや親爺おやじが豚を買出して来て、牛屋うしや商売であるが気の弱いやつで、自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。夫れから親爺にあって、「殺してるが、殺す代りに何をれるか」――「左様さようですな」――「頭を呉れるか」――「頭なら上げましょう。」夫れから殺しにいった。此方こっち流石さすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞ちっそくさせればけはないと云うことをしって居る。幸いその牛屋は河岸端かしばたであるから、其処そこつれいって四足をしばって水に突込つっこぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥からなたを借りて来て、ず解剖的に脳だの眼だのく/\調べて、散々さんざんいじくった跡を煮てくったことがある。れは牛屋の主人から穢多のように見込みこまれたのでしょう。

熊の解剖

それから又或時あるときにはう事があった。道修町どしょうまち薬種屋やくしゅやに丹波か丹後から熊が来たと云う触込ふれこみ。る医者の紹介で、後学こうがくめ解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖してれぬかと塾にいって来た。「それは面白い」。当時緒方の書生は中々解剖と云うことに熱心であるから、早速さっそく行てろうと云うので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。それから解剖してれが心臓で是れが肺、是れがかんと説明してやった所が、「誠に有難ありがたい」と云て薬種屋も医者もふっと帰って仕舞しまった。その実は彼等のかんがえに、緒方の書生に解剖して貰えば無疵むきず熊胆くまのいが取れると云うことを知て居るものだから、解剖に託して熊胆くまのいが出るやいなかえって仕舞たと云う事がチャンとわかったから、書生さん中々了簡りょうけんしない。是れは一番こねくって遣ろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれ/″\かかりの手分てわけをした。塾中に雄弁滔々とうとう喋舌しゃべって誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎たなかはつたろう(今は新吾しんごと改名して加賀金沢に居る)と云う、是れが応接掛おうせつがかり、それから私が掛合かけあい手紙の原案者で、信州飯山から来て居る書生で菱湖風りょうこふうの書をく書く沼田芸平ぬまたうんぺいう男が原案の清書する。れから先方へ使者に行くのはれ、脅迫するのは誰れと、どうにもうにも手に余るやつばかりで、ややもすれば手短てみじか打毀うちこわしに行くと云うようなふうを見せる奴もある。又彼方あちらから来ればこねくる奴が控えて居る。何でも六、七人手勢てぜいそろえて拈込ねじこんで、理屈を述べることは筆にも口にもすきはない。応接掛りは不断の真裸体まっぱだかに似ず、袴羽織はかまはおりにチャント脇差わきざしして緩急剛柔、ツマリ学医の面目ねんもく云々うんぬんたてにして剛情な理屈を云うから、サア先方の医者もこまっ仕舞しまい、そこでひらあやまりだと云う。ただあやまるだけで済めばいが、酒を五しょうにわとりと魚か何かをもって来て、それで手をうって塾中でおおいに飲みました。

芝居見物の失策

それに引換ひきかえて此方こっちから取られたことがある。道頓堀どうとんぼりの芝居に与力よりき同心どうしんのような役人が見廻りに行くと、スット桟敷さじきとおって、芝居の者共ものどもが茶をもって来る菓子を持て来るなどして、大威張おおいばりで芝居をたゞ見る。兼てその様子をしって居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小をして宗十郎頭巾そうじゅうろうずきんかむって、その役人の真似をして度々たびたびいって、首尾く芝居見物して居た。所がたび重なればあらわれるのことわざれず、る日、本者ほんものが来た。サア此方こっちは何ともわれないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退きわまり大騒ぎになって、れから玉造たまつくりの与力に少し由縁ゆかりを得て、ソレに泣付なきつい内済ないさいたのんで、ヤット無事に収まった。そのとき酒をもって行たりさかなを持て行たりして、何でも金にして三歩さんぶばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益たかはしじゅんえきと云う男が頭取とうどりであったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余りくなかろう、マサカの時は大変だからといったがきかない。「けはない、おのずから方便ありなんてヅウ/″\しくやって居たが、とう/\つかまったのが可笑おかしいどころか一時おお心配をした。

喧嘩の真似

それから時としてはう云う事もあった。その乱暴さ加減は今人の思寄おもいよらぬことだ。警察がなかったから云わば何でも勝手次第である。元来大阪の町人はきわめて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬やじうまが出て来て滅茶苦茶にして仕舞しまうが、大阪では野次馬はても出て来ない。夏の事で夕方めしくってブラ/\出て行く。申合もうしあわせをして市中で大喧嘩の真似をする。お互に痛くないように大造たいそうな剣幕で大きな声で怒鳴どなっ掴合つかみあ打合うちあうだろう。うするとその辺の店はバタ/\片付けて戸を締めて仕舞うてひっそりとなる。喧嘩といった所がただそれだけの事でほかに意味はない。その法は同類が二、三人ずつわかれて一番繁昌なにぎやかな処で双方から出逢うような仕組しくみにするから、賑やかな処とえばず遊廓の近所、新町しんまち九軒くけんへん常極じょうきまりにやって居たが、しかし余り一箇所で遣てばけの皮があらわれるとイカヌから、今夜は道頓堀でろう、順慶町じゅんけいまちで遣ろうと云て遣たこともある。信州の沼田芸平ぬまたうんぺいなどはほど喧嘩の上手じょうずであった。

弁天小僧

それから一度はう事があった。私と先輩の同窓生で久留米くるめ松下元芳まつしたげんぽうと云う医者と二人づれで、御霊ごりょうと云う宮地みやちに行て夜見世よみせの植木をひやかしてる中に、植木屋が、「旦那さん悪さをしてはいけまへんといったのは、吾々われわれ風体ふうていを見て万引をしたとう意味だから、サア了簡りょうけんしない。丸で弁天小僧見たように拈繰返ねじくりかえした。「何でもこの野郎を打殺うちころして仕舞しまえ。理屈を云わずに打殺して仕舞えと私が怒鳴る。松下はなだめるようなふうをして、「マア殺さぬでもいじゃないか。「ヤア面倒めんどうだ、一打ひとうち打殺うちころして仕舞うからめなさんなと、れする中に往来の人は黒山のように集まっておお混雑になって来たから、此方こっちお面白がって威張いばって居ると、御霊の善哉屋ぜんざいや餅搗もちつきか何かして居る角力取すもうとりが仲裁に這入はいって来て、「どうかゆるしてやって下さいと云うから、「よし貴様がなか這入はいれば宥してる。しかし明日の晩此処ここに見世を出すと打ころして仕舞うぞ。折角中に這入はいったから今夜は宥して遣るからと云て、翌晩いって見たら、正直な奴だ、植木屋の処だけ土場見世どばみせを休んで居た。今のように一寸ちょいとも警察と云うものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪い事をしない、一寸ちょいとこの植木見世ぐらいの話でのある悪事は決してしない。

チボと呼ばれる

私が一度おおいに恐れたことは、れも御霊ごりょうの近処で上方かみがたに行われる砂持すなもちと云う祭礼のような事があって、町中まちじゅうの若い者が百人も二百人も灯籠とうろうを頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人してこれを見物して居る中に、私が如何どういう気であったか、いずれ酒の機嫌でしょう、つえか何かでその頭の灯籠を打落ぶちおとしてやった。スルトその連中れんじゅうやつと見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)とえば、理非をわかたず打殺して川にほうり込むならわしだから、私は本当に怖かった。何でもげるにかずと覚悟をして、はだしになって堂島の方に逃げた。その時私は脇差わきざしを一本して居たから、追付おいつかるようになれば後向うしろむいすすんるよりほか仕方しかたがない。きっては誠に不味まずい。仮初かりそめにも人にきずを付ける了簡りょうけんはないから、ただ一生懸命にけて、堂島五丁目の奥平おくだいらの倉屋敷に飛込とびこんでホット呼吸いきをした事がある。

無神無仏

又大阪の東北のほう葭屋橋あしやばしと云う橋があるその橋手前の処を築地といって、在昔むかしは誠に如何いかがうちばかり並んで居て、マア待合まちあいをする地獄屋とでも云うような内実きたない町であったが、その築地の入口のかどに地蔵様か金比羅様こんぴらさまか知らん小さな堂がある。中々繁昌の様子で、其処そこに色々ながくが上げてある。あるいは男女の拝んでる処がえがいてある、何か封書が順に貼付はりつけてある、又はもとどりきっい付けてある。れを昼のうちに見て置て、夜になるとその封書や髻のあるのをひっさらえて塾にもって帰て開封して見ると、種々しゅじゅ様々のがんが掛けてあるから面白い。「ハヽアれは博奕ばくちうった奴がやめると云うのか。是れは禁酒だ。是れは難船に助かったお礼。此方こっちのは女狂おんなぐるいにこり/\した奴だ。れは何歳の娘が妙な事を念じて居るなどゝ、ただそれを見るのが面白くて毎度やった事だが、かくに人の一心をめた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生にあっては仕方しかたがない。

遊女の贋手紙

夫れから塾中の奇談をうと、そのときの塾生は大抵たいていみな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪そうはつで国から出て来るけれども、大阪の都会に居るあいだ半髪はんぱつになって天下普通の武家のふうがして見たい。今の真宗坊主が毛を少しばして当前あたりまえの断髪の真似をするようなけで、内実の医者坊主が半髪になって刀をして威張いばるのを嬉しがって居る。その時、江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男はる徳川家の藩医の子であるから、親の拝領したあおい紋付もんつきを着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作たちづくりの刀をさしてると云う風だから、如何いかにも見栄みえがあって立派な男であるが、如何どう身持みもちくない。ソコデ私が或る日、手塚にむかって、「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何は扨置さておき北の新地に行くことはしなさいといったら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて「アヽ新地か、今思出してもいやだ。決して行かない。「それなら屹度きっと君に教えてるけれども、マダ疑わしい。行かないと云う証文しょうもんを書け。「よろしい如何どんな事でも書くと云うから、云々うんぬん今後屹度勉強する、し違約をすれば坊主にされてもくるしからずと云う証文を書かせて私の手にとって置て、約束の通りに毎日別段に教えて居た所が、その後手塚が真実勉強するから面白くない。うのは全く此方こっちが悪い。人の勉強するのを面白くないとはしからぬ事だけれども、何分きょうがないからそっと両三人に相談して、「彼奴あいつ馴染なじみの遊女は何と云う奴から。「それはぐにわかる、何々という奴。「よし、それならば一つ手紙をろうと、れから私が遊女風の手紙を書く。片言交かたことまじりに彼等の云いそうな事を並べ立て、何でもの男は無心むしんを云われて居るに相違ないその無心は、屹度きっと麝香じゃこうれろとか何とか云われた事があるに違いないと推察して、文句の中に「ソレあのとき役足やくそくのじゃこはどておますと云うような、判じて読まねば分らぬような事を書入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、しかし私の手蹟じゃ不味まずいから長州の松岡勇記まつおかゆうきと云う男が御家流おいえりゅうで女の手にまぎらわしく書いて、ソレカラ玄関の取次とりつぎをする書生に云含いいふくめて、「れを新地から来たといっもって行け。併し事実を云えば打撲ぶちなぐるぞ。よろしいかと脅迫して、夫れから取次が本人の処に持ていって、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見えがくれに様子をうかがうて居た所が、本人の手塚は一人ひとりしきりにその手紙を見て居る。麝香じゃこうの無心があった事か如何どうか分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益じゅんえき思付おもいつきほどく出来てる。そんな事で如何どうやらうやらついに本人をしゃくり出して仕舞しまったのは罪の深い事だ。二、三日はまって居たが果していったから、ソリャめたと共謀者はまって居る。翌朝よくちょうかえって平気で居るから、此方こっちも平気で、私がはさみを持ていってひょいと引捕ひっつかまえた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろといって、もとどりつかまえて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目まじめになって手を合せて拝む。そうすると共謀者ちゅうから仲裁人が出て来て、「福澤、余りひどいじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の中に、馴合なれあい中人ちゅうにんが段々取持とりもつような風をして、果ては坊主の代りに酒やにわとりを買わして、一処に飲みながら又ひやかして、「お願いだ、もう一度行てれんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それがおのずから切諫いけんになって居たこともあろう。

御幣担ぎを冷かす

同窓生のあいだには色々な事のあるもので、肥後から来て居た山田謙輔やまだけんすけと云う書生は極々ごくごく御幣担ごへいかつぎで、の字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の海老蔵えびぞうが道頓堀の芝居に出て居るときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよばいを見るなんて云うくらいな御幣担だから、性質は至極しごく立派な人物だけれとも、如何どうも蘭学書生の気に入らぬはずだ。何か話のはしにはこれ愚弄ぐろうして居ると、山田の云うに「福澤々々、君のように無法な事ばかりうが、マアく考えて見給みたまえ。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うと鶴を台に戴せてかついで来るのを見ると何方どっちいかと云うから、私は、「れは知れた事だ。死人しびとわれんから鶴の方がい。けれども鶴だって乃公おれに喰わせなければ死人しにんも同じ事だと答えたような塩梅式あんばいしきで、何時いつひやかして面白がって居る中に、るとき長与専斎ながよせんさいれかと相談して、彼奴あいつを一番大にやってやろうじゃないかと一工風ひとくふうして、当人の不在のあいだにそのすずりに紙を巻いて位牌いはいこしらえて、長与の書がうまいから立派に何々院何々居士こじと云う山田の法名ほうみょうを書いて机の上に置て、当人のめしを喰う茶碗に灰を入れて線香を立てゝ位牌の前にチャント供えて置た所が、かえって来て之を見ていやな顔をしたとも何とも、真青まっさおになって腹を立てゝ居たが、私共は如何どうも怖かった。しも短気な男なら切付きりつけて来たかも知れないから。

欺て河豚を喰わせる

れから又一度やっあとで怖いとおもったのは人をだまして河豚ふぐわせた事だ。私は大阪に居るとき颯々さっさと河豚も喰えば河豚のきもくって居た。る時、芸州げいしゅう仁方にがたから来て居た書生、三刀元寛みとうげんかんう男に、たい味噌漬みそづけもらって来たが喰わぬかとうと、「有難ありがたい、成程い味がすると、よろこんで喰て仕舞しまって二時間ばかりたってから、「イヤ可愛かあいそうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物しょくもつの消化時間は大抵たいていしってるだろう、今吐剤とざいのんでも無益だ。河豚の毒がかれるならはいて見ろといったら、三刀も医者の事だからわかって居る。サア気をもんで私に武者振付むしゃぶりつくように腹を立てたが、私もあとになって余り洒落しゃれに念が入過いりすぎたと思て心配した。随分間違まちがいの生じやすい話だから。

料理茶屋の物を盗む

前にう通り御霊ごりょうの植木見世みせで万引と疑われたが、疑われるはずだ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、呉服店ごふくや反物たんものなんど云う念のいった事ではない、料理茶屋でのんだ帰りに猪口ちょこだの小皿だの色々手ごろな品をそっと盗んで来るような万引である。同窓生互にれを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには穫物えものも多い。中には昨夜ゆうべの会で団扇うちわの大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し吸物椀すいものわんふたたもとにする者もある。又る奴は、君達がそんな半端物はんぱものを挙げて来るのはまだつたない。乃公おれの獲物を拝見し給えといって、小皿を十人前そろえて手拭てぬぐいに包んで来たこともある。今思えばれは茶屋でもトックにしって居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定もはらいの内に這入はいって居るに相違ない、毎度の事でおきまりの盗坊どろぼうだから。

難波橋から小皿を投ず

その小皿に縁のある一奇談は、る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、嗚呼ああ飲みたいと一人がうと、僕もうだと云う者がすぐに四、五人出来た。ところがチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理にけさして、鍋島なべしまの浜と云う納涼すずみ葭簀張よしずばりで、不味まずいけれども芋蛸汁いもだこじるか何かで安い酒をのんで、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時すぎでもあったか、難波橋なにわばしの上に来たら、下流かわしもの方で茶船ちゃぶねのってジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。此方こっちは百五十か其処辺そこらの金を見付出みつけだしてようや一盃いっぱい飲で帰る所だ。忌々敷いまいましい奴等だ。あんな奴があるから此方等こちらが貧乏するのだと云いさま、私のもってる小皿を二、三枚投付なげつけたら、一番仕舞しまいの一枚で三味線のがプッツリんだ。その時は急いで逃げたから人が怪我けがをしたかどうかわからなかった。ところが不思議にも一箇月ばかりたっれがわかった。塾の一書生が北の新地にいっ何処どこかの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中にはひどい奴もある。一箇月ばかり前のばんに私がお客さんと舟で難波橋なにわばしの下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、丁度ちょうど私の三味線にあたって裏表うらおもての皮を打抜うちぬきましたが、本当に危ない事で、ず/\怪我をせんのが仕合しあわせでした。何処どこやつか四、五人連れでその皿を投げておいて南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、う/\芸者が話して居たとうのを、私共はれをきい下手人げしゅにんにはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。

禁酒から煙草

又私は酒のめに生涯の大損おおぞんをして、その損害は今日までも身について居ると云うその次第は、緒方おがたの塾に学問修業しながら兎角とかく酒をのんいことは少しもない。れはまぬ事だと思い、あだかも一念こゝに発起ほっきしたように断然酒をめた。スルト塾中のおお評判ではない大笑おおわらいで、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑おかしい。何時いつまで続くだろう。とても十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんてひやかす者ばかりであるが、私も中々剛情に辛抱しんぼうして十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋順益じゅんえきが、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げてるぞ。所がおよそ人間の習慣は、仮令たとい悪い事でもとんに禁ずることはよろしくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに烟草タバコを始めろ。何か一方に楽しみが無くてはかなわぬと親切らしくう。ところが私は烟草が大嫌いで、れまでも同塾生の烟草をむのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生なわけの分らぬ物をやつの気が知れない。何は扨置さておき臭くてきたなくてたまらん。乃公おれそばでは喫んでれるななんて、愛想あいそづかしの悪口わるくちいって居たから、今になって自分が烟草を始めるのは如何どうもきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理でもない。「そんならやって見ようかといってそろ/\こころみると、塾中の者が烟草を呉れたり、烟管キセルを貸したり、中にはれはく軽い烟草だと云て態々わざわざかって来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は彼奴あいつ喫烟者タバコのみにしてろうと、寄ってかかって私を愚弄ぐろうするのは分って居るけれども、此方こっちは一生懸命禁酒の熱心だから、いやけむりを無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭いからいものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味がくなって来た。およそ一箇月ばかりたって本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯ひきょうとは知りながら一寸ちょい一盃いっぱいやって見るとたまらない。モウ一盃、これでお仕舞しまいりきんでも、徳利とくりふって見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合さんごうの酒を皆のん仕舞しまって、又翌日は五合飲む。五合、三合、従前もとの通りになって、らば烟草の方はまぬむかしの通りにしようとしてもれも出来ず、馬鹿々々しいとも何ともけがわからない。とてかなわぬ禁酒の発心ほっしん、一箇月の大馬鹿をして酒と烟草タバコと両刀づかいに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草はみそうにもせず、衛生のみずからせる損害と申して一言いちごんの弁解はありません。

桃山から帰て火事場に働く

塾中兎角とかく貧生ひんせいが多いので料理茶屋にいって旨い魚をうことはむずかしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰はしづめ魚市さかないちが立つ。マアわば魚の残物ひけもののようなものでが安い。れをかって来て洗水盥ちょうずだらいあらって、机のこわれたのか何かをまないたにして、小柄こづかもっこしらえるとうような事は毎度やって居たが、私は兼て手のきがいてるから何時いつでも魚洗さかなあらいの役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山ももやまと云う処があって、さかりだと云うから花見に行こうと相談が出来た。とて彼方あっちいって茶屋で飲食のみくいしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物ひけものを買て来て、そのほか、氷豆腐だの野葉物やさいものだの買調かいととのえて、朝早くから起きて怱々そうそうに拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、およそ十四、五人も同伴つれがあったろう、弁当を順持じゅんもちにして桃山に行て、さん/″\飲食いしてい機嫌になって居るその時に、不図ふと西の方を見ると大阪の南にあたって大火事だ。日は余程よほど落ちて昔の七ツすぎ。サア大変だ。丁度ちょうどその日に長与専斎ながよせんさいが道頓堀の芝居を見に行て居る。吾々われわれ花見連中れんじゅうは何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、長与ながよいって居る。しや長与が焼死やけじにはせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬとうので、桃山ももやまから大阪まで、二、三里の道をどん/″\けて、道頓堀に駈付かけつけて見た所が、うに焼けて仕舞しまい、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に焼延やけのびて居る。長与は如何どうしたろうかと心配したものゝ、とてさがけに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は仕方しかたがない。「火事を見物しようじゃないかといって、その火事の中へどん/\這入はいって行た。所が荷物にもつを片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んでろうと云うので、夜具包やぐづつみか何の包か、風呂敷包をかついだり箪笥たんすを担いだり中々働いて、段々すすんで行くと、その時大阪では焼ける家の柱につなを付けて家を引倒ひきたうすと云うことがあるその網を引張ひっぱってれと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が握飯にぎりめしくわせる、酒を飲ませる。如何どうこたえられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯をくって八時頃にもなりましたろう。れから一同塾にかえった。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の周囲まわりだけは大変騒々しいが、火の中へ這入はいると誠にしずかなもので、一人ひとりも人が居らぬくらい。どうもない。ただその周囲の処に人がドヤ/″\群集ぐんしゅうして居るだけである。れゆえ大きな声を出して蹴破けやぶって中へ飛込とびこみさえすれば誠に楽な話だ。中には火消ひけし黒人くろうとと緒方の書生だけでおおいに働いた事があるとうようなけで、随分活溌な事をやったことがありました。
 一体塾生の乱暴と云うものはれまで申した通りであるが、その塾生同士相互あいたがい間柄あいだがらと云うものはいたって仲のいもので、決してあらそいなどをしたことはない。勿論もちろん議論はする、いろ/\の事について互に論じ合うと云うことはあっても、決して喧嘩をするような事はたえてない事で、ことに私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。仮令たとい議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂あこう義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでもよろしい、義不義、口のきで自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来てもくるしくないといって、敵にり味方に為り、散々論じてかったり負けたりするのが面白いと云うくらいな、毒のない議論は毎度大声でやって居たが、本当に顔をあからめて如何どうあっても是非をわかってしまわなければならぬと云ういった議論をしたことは決してない。

塾生の勉強

およう云うふうで、外に出てもまた内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸ちょい一目いちもく見た所では――今までの話だけをきいた所では、如何いかにも学問どころの事ではなくただワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処そこの一段に至ては決してうでない。学問勉強とうことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病をわずろうてさいわいに全快に及んだが、病中は括枕くくりまくら坐蒲団ざぶとんか何かをくくって枕にして居たが、追々おいおい元の体に恢復かいふくして来た所で、ただの枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人ひとりあるその家来に、只の枕をして見たいからもって来いといったが、枕がない、どんなにさがしてもないと云うので、不図ふと思付おもいついた。れまで倉屋敷に一年ばかり居たがついぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時なんどきでも構わぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わずしきりに書を読んで居る。読書に草臥くたびれ眠くなって来れば、机の上に突臥つっぷして眠るか、あるいは床の間の床側とこふちを枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度いちどもしたことがない。その時に始めて自分で気がついて、「成程なるほど枕はないはずだ、れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵たいていおもむきが分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、およそ勉強とうことについては実にこの上にようはないと云う程に勉強して居ました。
 それから緒方の塾に這入はいってからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分にし酒があれば酒をのん初更よいに寝る。一寝ひとねして目がさめると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明よあけまで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊めしたきがコト/\飯を仕度したくをする音が聞えると、それを相図あいずに又寝る。寝て丁度ちょうど飯の出来上った頃起きて、そのまま湯屋にいっ朝湯あさゆに這入て、それから塾にかえっ朝飯あさめしべて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極じょうきまりであった。勿論もちろん衛生などゝ云うことはとんと構わない。全体は医者の塾であるから衛生論もやかましく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのかあるい思出おもいださなかったのか、一寸ちょいとでもやかましくいったことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体からだが丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇むやみに喧しく云えばかえっ身体からだが弱くなるとおもって居たのではないかと思われる。

原本写本会読の法

それから塾で修行するその時の仕方しかた如何どう塩梅あんばいであったかと申すと、ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何どうして教えるかと云うと、その時江戸で飜刻ほんこくになって居る和蘭オランダの文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者にはずそのガランマチカを教え、素読そどくさずけかたわらに講釈をもして聞かせる。これを一冊読了よみおわるとセインタキスを又そのとおりにして教える。如何どうやらうやら二冊の文典がせるようになった所で会読かいどくをさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭かいとう一人ひとりあって、その会読するのをきいて居て、出来不出来によっ白玉しろだまを附けたり黒玉くろだまを付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、れから以上はもっぱら自身自力じりきの研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問をこころみるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類のほかに何もない。ソレモ取集とりあつめてわずか十部に足らず、もとより和蘭から舶来の原書であるが、一種類ただ一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何どうしてもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本をもって毎月六才ぐらい会読をするのであるが、これを写すに十人なら十人一緒に写すけに行かないから、誰が先に写すかとうことはくじめるので、さてその写しようは如何どうすると云うに、その時には勿論もちろん洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙をすっ真書しんかきで写す。それはどうもらちが明かないから、その紙に礬水どうさをして、れから筆は鵞筆がぺんで以て写すのがず一般の風であった。その鵞筆がぺんと云うのは如何どう云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋やくしゅやか何かに、鶴かがんかは知らぬが、三寸ばかりにきった鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。れはかつお釣道具つりどうぐにするものとやら聞て居た。あたい至極しごく安い物で、それをかって、磨澄とぎすました小刀こがたなで以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられようけはない。日本の墨壺すみつぼと云うのは、磨た墨汁すみ綿わた毛氈もうせん切布きれしたして使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、ただ墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。う云う次第で、塾中誰でも是非ぜひ写さなければならぬから写本は中々上達して上手じょうずである。一例をぐれば、一人ひとりの人が原書を読むそのそばで、その読む声がちゃんと耳に這入はいって、颯々さっさと写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅あんばいに読むと写すと二人掛ふたりがかりで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁うつしおわると又その次の人が写すとうように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚かあるいは四、五枚より多くはない。

自身自力の研究

さてその写本の物理書、医書の会読かいどく如何どうするかと云うに、講釈の為人してもなければ読んで聞かしてれる人もない。内証ないしょで教えることも聞くことも書生間の恥辱ちじょくとして、万々一もこれを犯す者はない。ただ自分一人ひとりもってそれを読砕よみくだかなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便たよほかに道はない。その辞書と云うものは、此処ここにヅーフと云う写本の字引じびきが塾に一部ある。れは中々大部なもので、日本の紙でおよそ三千枚ある。之を一部こしらえると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭オランダのドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸ドイツ和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書とあがめられ、れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲まわり寄合よりあって見て居た。夫れからモウ一歩立上のぼるとウエーランドと和蘭オランダの原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフでわからなければウエーランドを見る。ところが初学のあいだはウエーランドを見ても分る気遣きづかいはない。それゆえ便たよる所はただヅーフのみ。会読かいどくは一六とか三八とか大抵たいてい日がきまって居て、いよ/\明日あすが会読だと云うその晩は、如何いか懶惰らいだ生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人もぐんをなして無言で字引をひきつゝ勉強して居る。夫れから翌朝よくあさの会読になる。会読をするにもくじもっ此処ここから此処までは誰とめてする。会頭かいとう勿論もちろん原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中でし得た者は白玉しろたまそこなうた者は黒玉くろだま、夫れから自分の読む領分を一寸ちょっとでもとどこおりなく立派に読んでしまったと云う者は白い三角を付ける。れは只の丸玉まるだまの三倍ぐらい優等なしるしで、およそ塾中の等級は七、八級ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三ヶ月しめて居れば登級とうきゅうすると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審もきい至極しごく深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力じりきに任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験にうようなものだ。けで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読尽よみつくして云わば手をむなしうするような事になる、その時には何かむずかしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言ちょげんとか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読かいどくをしたり、又は先生に講義をねがったこともある。私などはすなわちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密ちみつなることその放胆ほうたんなること実に蘭学界の一大家いちだいか、名実共にたがわぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾にかえって朋友相互あいたがいに、「今日の先生のの卓説は如何どうだい。何だか吾々われわれとんに無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
 市中に出ておおいに酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵たいてい会読を仕舞しまったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日もひまがあると云う時に勝手次第に出ていったので、会読の日に近くなると所謂いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物をく読むといなとは人々の才不才さいふさいにもりますけれども、かくも外面を胡魔化ごまかして何年居るから登級とうきゅうするの卒業するのとうことは絶えてなく、正味しょうみの実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生はく原書を読むことに達して居ました。

写本の生活

ヅーフの事についついでながら云うことがある。如何どうかするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写してもらいたいと云う注文を申込もうしこんで来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の種子たねになった。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で何文なんもんと云う相場である。ところがヅーフ一枚は横文字三十行くらいのもので、れだけの横文字を写すと一枚十六もん、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、ただの写本にくらべると余程よほど割りがよろしい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値はんね八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな金高きんだかになって、おのずから書生の生活を助けて居ました。今日こんにちよりかんがうれば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば白米はくまい一石いっこく三分二朱さんぶにしゅ、酒が一升いっしょう百六十四文から二百文で、書生在塾の入費にゅうひは一箇月一分貳しゅから[#「貳朱から」は底本では「※[#「弋+頁」、104-12]朱から」]一分三朱あれば足る。一分貳朱は[#「貳朱は」は底本では「※[#「弋+頁」、104-13]朱は」]その時の相場でおよ二貫にかん四百文であるから、一日が百文より安い。しかるにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝうことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレについて一例をげればうことがある。江戸は流石さすがに大名の居る処で、ただにヅーフばかりでなく蘭学書生のめに写本の注文はさかんにあったものでおのずからあたいが高い。大阪とくらべて見れば大変高い。加賀の金沢の鈴木儀六すずきぎろくと云う男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸に居て、辛苦しんくして写本でもって自分の身を立てたその上に金を貯えた。およそ一、二年辛抱して金を二十両ばかりこしらえて、大阪に出て来て到頭とうとうその二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢にかえった。れなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木のかんがえでは、写本をして金を取るのは江戸がいが、修業するには如何どうしても大阪でなければ本当な事が出来ないと目的を定めて、ソレでその金をもって来たのであると話して居ました。

工芸伎術に熱心

れから又一方では今日のようにすべて工芸技術の種子たねと云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようといってもありはせぬ。化学ケミストの道具にせよ、何処どこにもそろったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれどもう中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理はしって居るから、如何どうかして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して似寄によりの物をこしらえると云うことについては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸亜鉛あえんがあれば鉄にもすずを附けることが出来ると云うことをきいしって居る。れまで日本では松脂まつやにばかりを用いて居たが、松脂ではあかがねるいに錫を流して鍍金めっきすることは出来る。唐金からかねなべしろみを掛けるようなもので、鋳掛屋いかけやの仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、薬店くすりやに行ても塩酸のある気遣きづかいはない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法によっうやらうやら塩酸を拵えて、これに亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くてたまらぬ。あるいは又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々書籍しょじゃく取調とりしらべ、天満てんま八百屋市やおやいちに行て昆布荒布あらめのような海草類をかって来て、れを炮烙ほうろくいっ如何どう云うふうにすれば出来ると云うので、真黒まっくろになってやったけれどもれは到頭とうとう出来ない。それから今度は※(「石+鹵」、第4水準2-82-52)どうしゃ製造の野心を起して、ず第一の必要は塩酸暗謨尼亜アンモニアであるが、是れも勿論もちろん薬店くすりやにある品物でない。その暗謨尼亜を造るには如何どうするかと云えば、こつ……骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋べっこうやなどに馬爪ばづ削屑けずりくずがいくらもあって只呉ただくれる。肥料にするかせぬかわからぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリもらって来て徳利とくりに入れて、徳利の外面そとに土を塗り、又素焼の大きなかめを買て七輪にして沢山たくさん火を起し、そのかめの中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物のくだを附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火をあうぎ立てると管のきからタラ/\液が出て来る。すなわれが暗謨尼亜アンモニアである。至極しごく旨く取れることは取れるが、ここに難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何ともいようがない。馬爪ばづ、あんな骨類こつるいを徳利に入れて蒸焼むしやきにするのであるから実に鼻持はなもちもならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処でるのであるから奥でもったまらぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石さすがの乱暴書生もれには辟易へきえきしてとても居られない。夕方湯屋ゆやに行くと着物が臭くって犬が吠えると云うけ。仮令たと真裸体まっぱだかやっても身体からだが臭いといって人にいやがられる。勿論もちろん製造の本人如何どうでもうでもして※(「石+鹵」、第4水準2-82-52)どうしゃと云う物をこしらえて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、しきりに試みて居るけれども、何分なにぶん周辺まわりの者がやかましい。下女下男までも胸が悪くて御飯ごはんべられないと訴える。れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、のような物ばかりで結晶しない。如何どうしても完全な※(「石+鹵」、第4水準2-82-52)どうしゃにならない、くわうるにやかましくて/\たまらぬから一旦めにした。けれども気強きづよい男はマダ罷めない。折角せっかく仕掛しかかった物が出来ないといっては学者の外聞がいぶんが悪いとか何とかうようなけで、私だの久留米の松下元芳まつしたげんぽう鶴田仙庵つるたせんあん等は思切おもいきったが、二、三の人はやった。如何どうしたかと云うと、淀川よどがわの一番粗末な船を借りて、船頭を一人ひとり雇うて、その船に例のかめ七輪しちりん積込つみこんで、船中で今の通りの臭い仕事をるはいが、矢張やっぱり煙がたって風が吹くと、その煙がおかの方へ吹付ふきつけられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川をのぼったりくだったり、川上かわかみの天神橋、天満橋てんまばしから、ズットしも玉江橋たまえばし辺まで、上下かみしもげてまわっやったことがある。その男は中村恭安なかむらきょうあんと云う讃岐の金比羅こんぴらの医者であった。このほかにも犬猫は勿論もちろん、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は如何いかにも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事についても中々勉強したものだ。
 製薬の事についても奇談がある。るとき硫酸りゅうさんを造ろうと云うので、様々大骨おおぼねおって不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬと云うので、その日はず茶碗に入れて棚の上に上げておいた処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かのはずみにその茶椀を棚から落して硫酸を頭からかぶり、身体からだまでの径我けがはなかったが、丁度ちょうど旧暦四月の頃で一枚のあわせをヅタ/″\にした事がある。
 製薬には兎角とかく徳利とくり入用にゅうようだから、丁度よろしい、塾の近所きんじょ丼池筋どぶいけすじ米藤こめとうと云う酒屋が塾の御出入おでいり、この酒屋から酒を取寄せて、酒はのん仕舞しまって徳利は留置とめおき、何本でもみんな製薬用にして返さぬと云うのだから、酒屋でも少し変におもったと見え、内々ないない塾僕に聞合ききあわせると、このせつ書生さんは中実なかみの酒よりも徳利の方に用があると云うので、酒屋は大に驚き、その後何としても酒をもって来なくなってこまった事がある。

黒田公の原書を引取る

筑前ちくぜんの国主、黒田美濃守くろだみののかみう大名は、今の華族、黒田のお祖父じいさんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入しゅつにゅうして、勿論もちろん筑前にくでもなければ江戸に行くでもない、ただ大阪に居ながら黒田家の御出入医おでいりいと云うことであった。故に黒田の殿様が江戸出府しゅっぷあるいは帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度きっと中ノ嶋なかのしまの筑前屋敷に伺候しこうして御機嫌ごきげんを伺うと云う常例であった。或歳あるとし、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例のごとく中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅早々そうそう私を呼ぶから、何事かと思ていって見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、う云う原書が黒田侯の手に這入はいったといって見せてれられたから、一寸ちょいと借りて来たとう。これを見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭オランダに翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中なかんずくエレキトルの事が如何いかにもつまびらかに書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事をしったと云うのは、ただわずかに和蘭の学校読本どくほんの中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。ところがこの新舶来の物理書は英国の大家フ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何ともただ驚くばかりで、一見ただちたましいを奪われた。れから私は先生にむかって、「れは誠に珍らしい原書で御在ございますが、何時いつまで此処ここに拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様さようさ。いずれ黒田侯は二晩ふたばんとやら大阪に泊ると云う。御出立ごしゅったつになるまでは、彼処あちら入用にゅうようもあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へもって来て、「如何どうだ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞うんかごとく集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。見ることはめにして、サア写すのだ。しかし千頁もある大部の書を皆写すことはとて出来できられないから、末段のエレキトルの処け写そう。一同みんなふでかみすみの用意して愡掛そうがかりだと云た所でここに一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書をこわすことが出来ない。毀して手分てわければ、三十人も五十人も居るからまたたに出来て仕舞しまううが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れてみょうを得て居るから、一人ひとりが原書を読むと一人はこれを耳にきいて写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆がにぶって来るとすぐほかの者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でもすぐに寝ると仕組しくみにして、昼夜の別なく、めし煙草タバコも休まず、一寸ちょいともひまなしに、およ二夜三日にやさんにちあいだに、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合よみあわせまで出来て仕舞しまって、紙数かみかずは凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることならほかの処も写したいといったが時日じじつが許さない。マア/\れだけでも写したのは有難いとうばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等はただ驚くのみ。もとより自分に買うと云う野心も起りはしない。いよい今夕こんせき、侯の御出立ごしゅったつまり、私共はその原書をなでくりまわし誠に親に暇乞いとまごいをするようにわかれおしんでかえしたことがございました。れからのちは塾中にエレキトルの説が全く面目めんもくあらたにして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申してはばかりません。私などが今日でも電気の話をきいおよそその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭おかげである。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々たびたび今の黒田侯の方へ、ひょっとの原書はなかろうかと問合せましたが、彼方あっちでも混雑の際であったから如何どうなったか見当らぬとう。可惜おしい事で御在ございます。

大阪書生の特色

只今ただいま申したような次第で、緒方の書生は学問上の事については一寸ちょいともおこたったことはない。その時の有様ありさまを申せば、江戸に居た書生が折節おりふし大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々わざわざ江戸に学びに行くと云うものはない。行けばすなわち教えると云う方であった。れば大阪にかぎって日本国中粒選つぶえりのエライ書生の居ようけはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。しかるに何故なぜソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論もちろんその時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、れは人物の相違ではない。江戸と大阪とおのずから事情がちがって居る。江戸の方では開国のはじめとは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広くきゅうである。従ていささかでも洋書をすことの出来る者を雇うとか、あるいは飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合のい者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百こくさぶらいになったとうこともまれにはあった。れに引換ひきかえて大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術をろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程なにほどエライ学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、しからば何のめに苦学するかと云えば一寸ちょいと説明はない。前途自分の身体からだ如何どうなるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、すですでに焼けになって居る。ただ昼夜苦しんでむずかしい原書を読んで面白がって居るようなもので実にけの分らぬ身の有様ありさまとは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底をたたいて見れば、おのずから楽しみがある。これ一言いちげんすれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間にかぎっ斯様こんな事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見かげもない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人きにん眼下がんか見下みくだすと云う気位きぐらいで、ただ六かしければ面白い、苦中有楽くちゅううらく苦即楽くそくらくう境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何にくか知らぬけれども、自分達よりほかにこんなにがい薬をむ者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっとのんると云うくらいの血気であったに違いはない。

漢家を敵視す

しも真実その苦学の目的如何いかんなんて問う者あるも、返答はただ漠然ばくぜんたる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖かいさ論を云えばもとより開国なれども、はなはだしくこれを争う者もなく、唯とうの敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でもでも支那流は一切打払うちはらいとうことは何処どことなくまって居たようだ。儒者が経史けいしの講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯可笑おかしく思うのみ。ことに漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈ばりして少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島なかのしま花岡はなおかと云う漢医の大家があって、その塾の書生はいずれも福生ふくせいと見え服装みなりも立派で、中々もっ吾々われわれ蘭学生のたぐいでない。毎度往来に出逢であうて、もとより言葉も交えず互に睨合にらみあうて行違ゆきちがうその跡で、「ざま如何どうだい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々くうくうじゃくじゃくチンプンカンの講釈をきいて、その中で古く手垢てあかついてるやつが塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染あかじみた傷寒しょうかん論を土産にして、国にかえって人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等あいつらを根絶やしにして呼吸いきめてるからなんてワイ/\いったのは毎度の事であるが、れとても此方こっち如斯こうと云う成算せいさんも何もない。ただ漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔きえんを吐くばかりの事である。

目的なしの勉強

かくに当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえっ仕合しあわせで、江戸の書生よりもく勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ゆくさきばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。ればといっただ迂闊うかつに本ばかり見て居るのは最もよろしくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末ゆくすえのみ考えて、如何どうしたらば立身が出来るだろうか、如何どうしたらば金が手に這入はいるだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何どうすれば旨い物をい着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪あくせく勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はみずからしずかにして居らなければならぬと云う理屈がここに出て来ようと思う。

大阪を去て江戸に行く


 私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の奥平おくだいらやしきから、御用ごようがあるから来いといって、私をよびに来た。それは江戸の邸に岡見彦曹おかみひこぞうう蘭学ずきの人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何どうかして江戸藩邸に蘭学の塾を開きたいと云うので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をして居た。ところで奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木まつき〔安〕杉亨二すぎこうじと云うような学者をやとうて居たようなけで、私が大阪に居ると云うことがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べと云うことになって、ソレで私を呼びに来たので、その時江戸づめの家老には奥平壹岐おくだいらいきが来て居る。壹岐と私との関係については、私はみずから自慢をしてもいことがある。れは如何どうしても悪感情がなければならぬはず、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と一寸ちょいともたたかったことがない。彼は私を敵視し愚弄ぐろうして居ると云うことは長崎を出た時のさまでチャントわかって居る。長崎を立つ時に、「貴様は中津に帰れ。かえったら誰にこの手紙を渡せ。誰にう伝言せよと命ずるからヘイ/\とかしこまりながら、心の中では舌を出して、「馬鹿言え、乃公おれは国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞと云わぬばかりに、席を蹴立けたてゝ出たことも、のちになれば先方さきでもしって居る。けれどもその後私は毎度本人にうて仮初かりそめにも怨言えんげんを云た事のない所ではない、わざと旧恩を謝すると云うおもむきばかり装うて居る中に、又もやその大切な原書を盗写ぬすみうつしたこともある。先方さきも悪ければ此方こっちも十分悪い。けれどもただ私がその事を人に語らず顔色かおいろにも見せずに、御家老様ごかろうさまと尊敬して居たから、所謂いわゆる国家老くにがろうのおぼうさんで、今度私を江戸に呼寄よびよせる事についても、家老に異議なくすぐに決してさいわいであったが、実を申せば壹岐いきよりも私の方がかえって罪が深いようだ。

三人同行

大阪から江戸に来るに就ては、何は扨置さておき中津にかえって一度母にうてわかれを告げて来ましょうとうので、中津に帰たその時は虎列拉コレラ真盛まっさかりで、私の家の近処きんじょまで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病最中さいちゅう、船にのって大阪につい暫時ざんじ逗留とうりゅう、ソレカラ江戸にむかっ出立しゅったつと云うことにした所が、およそ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中ならびに在勤中家来を一人れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人ぶりの金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何もらぬ。けれどもここに旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何どうだ、実はけで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れていっれといったが岡本周吉おかもとしゅうきちすなわ古川節蔵ふるかわせつぞうである(広島の人)。よし連れて行てろう。連れて行くが、君はめしかなければならぬがよろしいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。鍋釜なべかまも貸して呉れるが、本当の家来をめにすれば飯炊めしたきがない。そのかわりに連れて行くのだが如何どうだ。「飯を炊くぐらいの事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、れから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連みちづれは私と岡本、もう一人ひとり備中の者で原田磊蔵はらだらいぞうと云う矢張やはり緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論もちろん歩く。その時は丁度ちょうど十月下旬で少々寒かったが小春こはるの時節、一日も川止かわどめなど云う災難にわずとどこおりなく江戸に着て、木挽町こびきちょう汐留しおどめの奥平屋敷に行た所が、鉄砲洲てっぽうずに中屋敷がある、其処そこの長屋を貸すと云うので、早速さっそく岡本と私とその長屋に住込すみこんで、両人自炊の世帯持しょたいもちになった、夫れから同行の原田は下谷したや練塀小路ねりべいこうじ大医たいい大槻俊斎おおつきしゅんさい先生の処へ入込いりこんだ。江戸へ参れば知己ちき朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。

江戸に学ぶに非ず教るなり

さて私が江戸にまいって鉄砲洲の奥平中屋敷にすまって居ると云ううちに、藩中の子弟が三人、五人ずつ学びに来るようになり、又他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授して居たが、前にもう通り大阪の書生は修業するために江戸に行くのではない、行けば教えに行くのだと云うおのずから自負心があった。私も江戸に来て見た処で、全体江戸の蘭学社会は如何どう云うものであるか知りたいものだとおもって居るうちに、る日島村鼎甫しまむらていほの家に尋ねて行たことがある。勿論もちろん緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の飜訳などして居た。私もはなはしって居るので、尋ねて参れば何時いつも学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の飜訳最中さいちゅう、その原書を持出もちだして云うには、この文の一節が如何どうしてもわからないと云う。れから私がこれを見た所が、成程なるほどにくい所だ。よって主人にむかって、れはほかの朋友にも相談して見たかとえば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たが如何どうしてもわからぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕がこれして見せようといって、本当に見た所が中々むずかしい。およそ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体れはう云う意味であるが如何どうだ、物事はわかって見ると造作ぞうさのないものだと云て、主客しゅかく共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、蝋燭ろうそくを二本けてその灯光あかりをどうかすると影法師が如何どうとかなると云う随分むずかしい処で、島村の飜訳した生理発蒙せいりはつもうと云う訳書中にあるはずです。この一事で私もひそかに安心して、れならば江戸の学者もまで恐れることはないと思うたことがある。
 それから又原書の不審な処を諸先輩に質問して窃にその力量を試したこともある。大阪に居るうちに毎度人の読損よみそこなうた処か人の読損いそうな処を選出えりだして、そうしてれを私は分らない顔して不審を聞きに行くと、毎度の事で、学者先生と称して居る人が読損うて居るから、此方こっちかえって満足だ。実はあざむいて人を試験するようなもので、徳義上におい相済あいすまぬ罪なれども、壮年血気の熱心、みずから禁ずることが出来ない。畢竟ひっきょう私が大阪に居るあいだは同窓生と共に江戸の学者を見下みくだして取るに足らないものだとう思うて居ながらも、ただソレをくうに信じてい気になって居ては大間違おおまちがいが起るから、大抵たいてい江戸の学者の力量を試さなければならぬと思て、悪いこととは知りながら試験をやって見たのです。

英学発心

ソコデもって蘭学社会の相場は大抵分てず安心ではあったが、さて此処ここだい不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国ごこく条約とうものが発布になったので、横浜はまさしくひらけたばかりの処、ソコデ私は横浜に見物にいった。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るけで、堀立小屋ほったてごや見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処そこすんで店を出して居る。其処そこへ行て見た所が一寸ちょいとも言葉が通じない。此方こっちの云うこともわからなければ、彼方あっちの云うことも勿論もちろん分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙はりがみも分らぬ。何を見ても私のしって居る文字もんじと云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩くうち独逸ドイツ人でキニツフルと云う商人の店に打当ぶちあたった。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方こっちの言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸ちょいと買物をしたりして江戸にかえって来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度ちょうど一昼夜歩いて居たけだ。

小石川に通う

横浜からかえって、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞しまった。れは/\どうも仕方しかたがない、今まで数年すねんあいだ死物狂しにものぐるいになって和蘭オランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処あすこおこなわれて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居るとうことはかねしって居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んでひらけかゝって居る、すればこのは英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければとても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むよりほか仕方しかたがないと、横浜から帰た翌日だ、一度ひとたびは落胆したが同時に又あらたこころざしを発して、れから以来は一切万事英語と覚悟をめて、さてその英語を学ぶと云うことについ如何どうしていい取付端とりつきはがない。江戸中に何処どこで英語を教えて居ると云う所のあろうけもない。けれども段々きいて見ると、その時に条約を結ぶと云うがめに、長崎の通詞つうじ森山多吉郎もりやまたきちろうと云う人が、江戸に来て幕府の御用を勤めて居る。その人が英語をしって居ると云う噂を聞出ききだしたから、ソコで森山の家にいって習いましょうとう思うて、その森山と云う人は小石川の水道町に住居して居たから、早速さっそくその家に行て英語教授の事を頼入たのみいると、森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角せっかく習おうとうならば教えて進ぜよう、ついては毎日出勤前、朝早く来いと云うことになって、その時私は鉄砲洲てっぽうずすまって居て、鉄砲洲から小石川までやがて二里もありましょう、毎朝早く起きて行く。所が今日はもう出勤前だから又明朝来てれ、くる朝早く行くと、人が来て居て行かないと云う。如何どうしても教えてれるひまがない。ソレは森山の不親切と云うけではない、条約を結ぼうと云う時だから中々忙くて実際に教えるひまがありはしない。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来て呉れぬかと云う。ソレじゃ晩に参りましょうといって、今度は日暮ひぐれから出掛けて行く。あの往来は丁度ちょうど今の神田橋一橋外の高等商業学校のあるあたりで、護持院ごじいんはらと云う大きな松の樹などが生繁おいしげって居る恐ろしい淋しい処で、追剥おいはぎでも出そうな処だ。其処そこを小石川から帰途かえりみちに夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さと云うものは今でもく覚えて居る。所がこの夜稽古よけいこ矢張やはり同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外国がた(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬと云うような訳けで、とん仕方しかたがない。およ其処そこ二月ふたつき三月みつき通うたけれども、どうにも暇がない。とてもこんな事では何も覚えることも出来ない。加うるに森山とう先生も何も英語を大層たいそう知て居る人ではない、ようやく少し発音を心得て居ると云うぐらいとてれは仕方しかたないと、余儀なく断念。

蕃書調所に入門

その前に私が横浜にいった時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊かって来た。ソレをひとりよむとした所で字書じしょがない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人ひとりすることが出来るから、どうか字書をほしいものだといった所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所ばんしょしらべじょと云う幕府の洋学校がある。其処そこには色々な字書があると云うことを聞出ききだしたから、如何どうかしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜だしぬけに公儀(幕府)の調所しらべしょに入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門ねがいにはその藩の留守居るすいと云うものが願書に奥印おくいんをしてしかのちに入門を許すと云う。れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私は※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもを着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥みつくりりんしょうのお祖父じいさんの箕作阮甫げんぽと云う人が調所の頭取とうどりで、早速さっそく入門を許してれて、入門すれば字書をることが出来る。すぐに拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取うけとって、通学生の居る部屋があるから其処そこしばらく見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書をつつんで帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処ここで見るならば許して苦しくないが、家に持帰もちかえることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲てっぽうずから九段阪下まで毎日字引じびきを引きに行くとうことはとてあわぬ話だ。ソレもようやく入門してたった一日いっぎりで断念。
 さて如何どうしたらかろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書じしょはないかと頼んで置た所が、ホルトロツプとう英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれどもあたい五両と云う。れから私は奥平おくだいらの藩に歎願して買取かいとっもらって、サアもうれでよろしい、この字引さえあればもう先生はらないと、自力じりき研究の念を固くして、ただその字引と首引くびっぴきで、毎日毎夜ひとり勉強、又あるいは英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。

英学の友を求む

そこで自分の一身はめた所で、れは如何どうしても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者はことごとく不便を感じて居るに違いない。とても今までまなんだのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見ようとう思うたが、この事も中々やすくないとうのは、その時の蘭学者全体のかんがえは、私をはじめとして皆、数年すねんあいだ刻苦こっく勉強した蘭学が役に立たないから、丸でこれてゝ仕舞しまって英学に移ろうとすれば、あらたに元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ない、つらい話である、たとえば五年も三年も水練すいれんを勉強してようやく泳ぐことが出来るようになった所で、その水練をめて今度は木登りを始めようと云うのと同じ事で、以前の勉強が丸でくうになると、う考えたものだから如何いかにも決断がむずかしい。ソコデ学友の神田孝平かんだたかひらに面会して、如何どうしても英語をろうじゃないかと相談を掛けると、神田の云うに、イヤもう僕もうから考えて居て実は少し試みた。試みたが如何いかにも取付端とりつきはがない。何処どこから取付とりついいか実にけが分らない。しかし年月をれば何か英書を読むと云う小口こぐちが立つに違いないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気がいからやっれ、大抵たいてい方角が付くと僕もきっるから、ダガ今の処では何分自分で遣ろうと思わないと云う。れから番町の村田むらた〔蔵〕六(後に大村益次郎おおむらますじろう)の処へ行て、その通りに勧めた所が、れは如何どうしても遣らぬと云うかんがえで、神田とは丸で説が違う。「無益な事をするな。僕はそんな物は読まぬ。らざる事だ。何もそんな困難な英書を辛苦しんくして読むがものはないじゃないか。必要な書は皆和蘭オランダ人が飜訳するから、その飜訳書を読めばソレで沢山たくさんじゃないかとう。「成程なるほどそれも一説だが、けれども和蘭人が何もも一々飜訳するものじゃない。僕は先頃せんころ横浜にいっあきれて仕舞しまった。この塩梅あんばいではとても蘭学は役に立たぬ。是非ぜひ英書を読まなくてはならぬではないかと勧むれども、村田は中々同意せず、「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。るなら君達は遣り給え。僕は必要があれば蘭人の飜訳したのを読むから構わぬと威張いばって居る。れはとて仕方しかたがないと云うので今度は小石川に居る原田敬策はらだけいさくにその話をすると、原田はごく熱心で、何でも遣ろう。誰がどう云うても構わぬ。是非遣ろうと云うから、「うか、ソレは面白い。そんなら二人ふたりで遣ろう。どんな事があっても遣遂やりとげようではないかと云うので、原田とはごくせつが合うて、いよいよ英書を読むとう時に、長崎から来て居た小供があって、その小供が英語をしって居ると云うので、そんな小供をよんで来て発音を習うたり、又あるいは漂流人で折節おりふし帰るものがある、長く彼方あっちへ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋にたずねていっきいたこともある。その時に英学で一番むずかしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、小供でもければ漂流人でも構わぬ、う云う者をさがまわっては学んで居ました。始めはず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字をひいてソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。ただその英文の語音ごいんを正しくするのにくるしんだが、れも次第にいとぐちひらけて来ればれはどの難渋でもなし、つまる処は最初私共が蘭学をてゝ英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を棄てゝ仕舞しまい、数年すねん勉強の結果をむなしうして生涯二度の艱難辛苦かんなんしんくと思いしは大間違おおまちがいの話で、実際を見れば蘭と云い英と云うも等しく横文にして、その文法もほぼあい同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは一時いちじまよいであったと云うことを発明しました。

始めて亜米利加に渡る


咸臨丸

ソレカラ私が江戸に来た翌年、すなわち安政六年冬、徳川政府から亜米利加アメリカに軍艦をるとう日本開闢かいびゃく以来、未曾有みぞうの事を決断しました。さてその軍艦と申しても至極しごく小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入でいりに蒸気をくばかり、航海中はただ風を便たよりに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭オランダから買入れ、あたいは小判で二万五千両、船の名を咸臨丸かんりんまると云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎にいって、蘭人に航海術を伝習してその技術もようやく進歩したから、このたび使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海とう云うけで幕議ばくぎ一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守きむらせっつのかみ、これに随従する指揮官は勝麟太郎かつりんたろう、運用方は佐々倉桐太郎ささくらきりたろう浜口興右衛門はまぐちおきえもん鈴藤勇次郎すずふじゆうじろう、測量は小野友五郎おのともごろう伴鉄太郎ばんてつたろう松岡磐吉まつおかばんきち、蒸気は肥田浜五郎ひだはまごろう山本金次郎やまもときんじろう、公用方には吉岡勇平よしおかゆうへい小永井五八郎こながいごはちろう、通弁官は中浜万次郎なかはままんじろう、少年士官には根津欽次郎ねづきんじろう赤松大三郎あかまつだいざぶろう岡田井蔵おかだせいぞう小杉雅之進こすぎまさのしんと、医師二人、水夫火夫かふ六十五人、艦長の従者をあわせて九十六人。船のわりにしては多勢たぜい乗組人のりくみにんでありしが、この航海の事については色々お話がある。
 今度咸臨丸かんりんまるの航海は日本開闢かいびゃく以来、初めての大事業で、乗組士官の面々はもとより日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加アメリカ甲比丹カピテンブルツクとう人が、太平洋の海底測量のめに小帆前船しょうほまえせんヘネモコパラ号にのって航海中、薩摩の大島沖おおしまおきで難船してさいわいに助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留たいりゅう折柄おりから、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便こうびんだからこれのって帰国したいと云うので、その事がまろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのはいやだと云う。何故なぜかと云うに、しその人達を連れて帰れば、かえっ銘々共めいめいどもが亜米利加人に連れていっもらったように思われて、日本人の名誉にかかるから乗せないと剛情を張る。れで政府も余程こまった様子でありしが、到頭とうとうソレを無理圧付おしつけにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆ぎりょう覚束おぼつかなく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうとう老婆心であったと思われる。

木村摂津守

艦長木村摂津守きむらせっつのかみう人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れてくに違いない。れから私はどうもその船にのっ亜米利加アメリカいって見たいこころざしはあるけれども、木村と云う人は一向いっこう知らない。去年大阪から出て来たばかりで、そんな幕府の役人などに縁のあるけはない。所がさいわいに江戸に桂川かつらがわと云う幕府の蘭家らんかの侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名をけてよろしい名家であるから、江戸は扨置さておき日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレゆえ私なども江戸にれば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々たびたびその家に出入しゅつにゅうして居る。その桂川の家と木村の家とは親類――ごく近い親類である。れから私は桂川にたのんで、如何どうかして木村さんの御供おともをして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙をもらって木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許してれて、連れて行てろうとう云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態せたい人情において、外国航海など云えば、開闢かいびゃく以来の珍事と云おうか、むしろ恐ろしい命掛いのちがけの事で、木村は勿論もちろん軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初かりそめにも自分からすすんで行きたいと云うのであるから、実は彼方あっちでも妙なやつだ、さいわいと云うくらいなことであったろうと思う。すぐに許されて私は御供をすることになった。

浦賀に上陸して酒を飲む

咸臨丸かんりんまるの出帆は万延元年の正月で、品川沖を出てず浦賀にいった。同時に日本から亜米利加アメリカに使節がたっくので、亜米利加からその使節の迎船むかいせんが来た。ポーハタンとうその軍艦にのって行くのであるが、そのポーハタンはあとから来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀にとまった。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組のりくんで居る人は皆若い人で、もうれが日本の訣別おわかれであるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかといいした者がある。いずれも同説で、れからおかあがって茶屋見たような処に行て、散々さんざん酒をのんでサア船に帰ると云う時に、誠に手癖てくせの悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀うがいぢゃわんが一つあった、れは船の中で役に立ちそうな物だとおもって、一寸ちょいと私がそれぬすんで来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐おおあらし、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀にめしもって本式にべるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、たっう。誠に世話のない話で、大層たいそう便利を得て、亜米利加アメリカまで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭とうとう日本までもっかえって、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経ほどへて聞けばその浦賀で上陸して飲食のみくいした処は遊女屋だとう。れはその当時私は知らなかったが、そうして見るとの大きな茶椀は女郎の嗽茶椀うがいぢゃわんであったろう。思えばきたないようだが、航海中は誠に調法、唯一ゆいいち宝物たからものであったのが可笑おかしい。

銀貨狼藉

さてそれから船が出てずっと北の方に乗出のりだした。その咸臨丸かんりんまると云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭をくと云うことは出来ない。ただ港を出るとき這入はいるときに焚くけで、沖に出れば丸で帆前船ほまえせん、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船にのって太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船はしけぶね四艘しそうあったが激浪げきろうめに二艘取られて仕舞しまうた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船のともの方の部屋に居るので、る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋にいった、所がその部屋にドルラルが何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何どうしたのかと思うと、前夜の大嵐おおあらしで、袋に入れて押入おしいれの中に積上げてあった弗、さだめしじょうおろしてあったに違いないが、はげしい船の動揺で、弗の袋が戸を押破おしやぶって外に散乱したものと見える。れは大変な事と思て、すぐ引返ひきかえしておもての方に居る公用方の吉岡勇平よしおかゆうへいにその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付かけつけ、私も加勢かせいしてその弗を拾集ひろいあつめて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替かわせと云う事につい一寸ちょいとも考えがないので、旅をすれば金がる、金がれば金をもっくと云うごく簡単な話で、何万ドルラルだか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋におさめておいたその金が、嵐のめにあふれ出たと云うような奇談を生じたのである。れでも大抵たいてい四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向いっこうけはない。為替で一寸ちょいおくっれば、何も正金しょうきんを船につんで行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋たいよう立浪たつなみく見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、さいわいに大きなわざわいもなくただその航路をすすんく。進で行く中に、何も見えるものはないその中でもって、一度帆前船ほまえせんうたことがあった。ソレは亜米利加アメリカの船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見たり、ほかには何も見ない。

牢屋に大地震の如し

所で三十七日かかっ桑港サンフランシスコついた。航海中私は身体からだが丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入はいって毎日毎夜おお地震にあって居ると思えばいじゃないかとわらって居るくらいな事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるのねんが骨に徹して居たものと見えて、一寸ちょいとも怖いとおもったことがない。れから途中で水が乏しくなったので布哇ハワイに寄るか寄らぬかとう説がおこった。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、ごく用心をすれば寄港して水をとっく、如何どうしようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港サンフランシスコに直航とう決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むよりほかは一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時におおいに人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加アメリカの水夫が四、五人居ましたその水夫が、ややもすると水を使うので、甲比丹カピテンブルックに、どうも水夫が水を使うて困るといったら甲比丹の云うには、水を使うたらすぐに鉄砲で撃殺うちころしてれ、れは共同の敵じゃから説諭もらなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫をよんで、水を使えは鉄砲で撃殺すからう思えと云うようなけで水を倹約したから、如何どうやら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢どうぜい合せて九十六人無事に亜米利加についた。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖つつそでの着物は着て居るけれども穿物はきもの草鞋わらじだ。草鞋が何百何千そくも貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつかっやって夫れから大に体裁がくなった)。

日本国人の大胆

しかしこの航海についてはおおいに日本のめに誇ることがある、とうのはも日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎におい和蘭オランダ人から伝習したのがそもそも事の始まりで、そのぎょうなって外国に船を乗出のりだそうと云うことを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛あしかけ七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手をらずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆ぎりょうと云い、れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の甲比丹カピテンブルックの助力はらないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加アメリカの人もまた自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合みあわせるけの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸ちょっとでもなかった。ソレけは大に誇てもい事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年まなんで太平海を乗越のりこそうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレどころではない。昔々むかしむかし露西亜ロシアのペートル帝が和蘭オランダに行て航海術を学んだとうが、ペートル大帝だいていでもこの事は出来なかろう。仮令たとい大帝は一種絶倫の人傑じんけつなりとするも、当時の露西亜において日本人のごとく大胆にしてつ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。

米国人の歓迎祝砲

海上つつがなく桑港サンフランシスコに着た。着くやいなや土地の重立おもだったる人々は船まで来て祝意をひょうし、これを歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山くろやまの如し。ついで陸から祝砲を打つとうことになって、彼方あちらから打てば咸臨丸かんりんまるから応砲せねばならぬと、この事について一奇談がある。勝麟太郎かつりんたろうと云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極しごく船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端ばんたん差図さしずする中に、の祝砲の事がおこった。所で勝の説に、ソレはとても出来る事でない、ナマジ応砲などしてそこなうよりも此方こちらは打たぬ方がいと云う。うすると運用がた佐々倉桐太郎ささくらきりたろうは、イヤ打てないことはない、乃公おれうって見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら乃公おれの首をるとひやかされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、れから水夫どもを差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計をもって時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張いばり出した。首尾く出来たから勝の首は乃公おれの物だ。しかし航海中、用も多いからしばらの首を当人に預けて置くといって、大に船中を笑わした事がある。かくもマア祝砲だけは立派に出来た。
 ソコで無事に港についたらば、サアどうも彼方あっちの人の歓迎とうものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様しようがないと云うほどの歓迎。亜米利加アメリカ人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云うけであるから、丁度ちょうど自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じ事をすると同様、乃公おれがその端緒たんちょを開いたと云わぬばかり心持こころもちであったに違いない。ソコでもう日本人をてのひらの上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港サンフランシスコに上陸するやいなや馬車をもって迎いに来て、取敢とりあえず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立おもだった人が雲霞うんかごとく出掛けて来た。様々の接待饗応きょうおう。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸かんりんまる一行の止宿所ししゅくじょに貸してれ、船は航海中なか/\損所そんしょが出来たからとて、船渠ドックに入れて修覆をしてれる。逗留とうりゅう中は勿論もちろん彼方あっちまかないも何もそっくりて呉れるはずであるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張やはり日本のめしでなければえないと云うので、自分賄と云うけにした所が、亜米利加アメリカの人はかねて日本人の魚類を好むとうことをしって居るので、毎日々々魚をもって来てれたり、あるいは日本人は風呂に這入はいることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うようなけ。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節おりふし今日は桑港サンフランシスコに来いといって誘う。れから船にのって行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。

敷物に驚く

所が此方こっちは一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処そこに車があって馬が付て居れば乗物だと云うことはわかりそうなものだが、一見したばかりでは一寸ちょいかんがえが付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出かけだす。成程なるほどれは馬のく車だと始めて発明するような訳け。いずれも日本人は大小をして穿物はきもの麻裏草履あさうらぞうり穿はいて居る。ソレでホテルに案内されていって見ると、絨氈じゅうたん敷詰しきつめてあるその絨氈はどんな物かと云うと、ず日本で云えば余程の贅沢者ぜいたくもの一寸いっすん四方幾干いくらいって金を出して買うて、紙入かみいれにするとか莨入たばこいれにするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々さてさて途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加アメリカ人が往来を歩いた靴のまま颯々さっさつあがるから此方こっちも麻裏草履でその上にあがった。上ると突然いきなり酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何かういて居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々めいめいの前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様ありさまを申せば、列座の日本人中で、ずコップに浮いて居るものを口の中に入れてきもつぶして吹出ふきだす者もあれば、口から出さずにガリ/″\む者もあるとうようなけで、ようやく氷が這入はいって居ると云うことがわかった。ソコで又煙草タバコを一服とおもった所で、煙草盆がない、灰吹はいふきがないから、そのとき私はストーヴの火で一寸ちょいけた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付すいつけた所が、どうも灰吹がないので吸殻すいがらすてる所がない。れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出ふきだして、念を入れてもんで/\火の気のないように捩付ねじつけてたもとに入れて、しばらくして又あとの一服をろうとするその時に、袂からけぶりが出て居る。何ぞはからん、く消したと思たその吸殻の火が紙にうつって煙が出て来たとはおおいに胆を潰した。

磊落書生も花嫁の如し

すべてこんな事ばかりで、私は生れてから嫁入よめいりをしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば雑談ぞうだんを云う者もあるその中で、お嫁さんばかりひとしずかにしてお行儀をつくろい、人に笑われぬようにしようとしてかえってマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、およそ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張いばって居た磊落らいらく書生も、始めて亜米利加アメリカに来て花嫁のように小さくなって仕舞しまったのは、自分でも可笑おかしかった。れから彼方あちらの貴女紳士が打寄うちよりダンシングとかいって踊りをして見せるとうのは毎度の事で、さていって見た処が少しもわからず、妙な風をして男女なんにょが座敷中を飛廻とびまわるその様子は、どうにもうにもただ可笑おかしくてたまらない、けれどもわらっては悪いと思うからるたけ我慢して笑わないようにして見て居たが、れも初めの中は随分苦労であった。

女尊男卑の風俗に驚

一寸ちょっとした事でも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗はすこしも分らない。る時にメールアイランドの近処きんじょにバレーフォーとう処があって、其処そこ和蘭オランダの医者が居る。和蘭人は如何どうしても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待しょうたいしたいから来てれないかと云うので、その医者のうちいった所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の御馳走ごちそうが出る中に、如何いかにも不審な事には、お内儀かみさんが出て来て座敷に坐り込んでしきりに客の取持とりもちをすると、御亭主が周旋奔走して居る。是れは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然あたりまえであるに、りとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かと云うと、豚の子の丸煮が出た。是れにもきもつぶした。如何どうだ、マア呆返あきれかえったな、丸で安達あだちはらに行たようなけだと、う思うた。散々さんざん馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかとう。ソレは面白い、久振ひさしぶりだから乗ろうといって、その馬を借りてのって来た。艦長木村は江戸の旗本はたもとだから、馬に乗ることは上手じょうずだ。江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。れからその馬に乗てどん/\けて来ると、亜米利加アメリカ人が驚いて、日本人が馬に乗ることをしって居ると云うて不思議の顔をして居る。う云う訳けで双方共に事情が少しも分らない。

事物の説明に隔靴の歎あり

夫れから又、亜米利加アメリカ人が案内して諸方の製作所などを見せてれた。その時は桑港サンフランシスコ地方にマダ鉄道が出来ない時代である。工業は様々の製作所があって、ソレを見せて呉れた。其処そこがどうも不思議なけで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。夫れからガルヴァニの鍍金めっき法とうものも実際におこなわれて居た。亜米利加人のかんがえに、そう云うものは日本人の夢にも知らない事だろうとおもって見せてくれた所が、此方こっちはチャントしって居る。れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力でう云うことをして居るのだ。又砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするとうことをやって居る。ソレを懇々こんこんと説くけれども、此方こっちしって居る、真空にすれば沸騰が早くなると云うことは。つその砂糖を清浄しょうじょうにするには骨炭こったんせば清浄になると云うこともチャントしって居る。先方ではう云う事は思いも寄らぬ事だとう察して、ねんごろに数えてれるのであろうが、此方こっちは日本に居る中に数年すねんあいだそんな事ばかり穿鑿せんさくして居たのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。ただ驚いたのは、掃溜はきだめいって見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の※(「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22)あきがらなどが沢山たくさんてゝある。れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾くぎひろいがウヤ/\出て居る。所で亜米利加アメリカに行て見ると、鉄は丸で塵埃ごみ同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。
 れから物価の高いにも驚いた。牡蠣かき一罎いちびん買うと、半ドル、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒ぐらいしかない。日本では二十四もんか三十文と云うその牡蠣が、亜米利加では一分いちぶ二朱にしゅもする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、あきれた話だと思たような次第で、社会上、政治上、経済上の事は一向いっこう分らなかった。

ワシントンの子孫如何と問う

所で私が不図ふと胸に浮かんで或人あるひときいて見たのはほかでない、今華盛頓ワシントンの子孫は如何どうなって居るかと尋ねた所が、その人のうに、華盛頓の子孫には女があるはずだ、今如何どうして居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る容子ようすだと如何いかにも冷淡な答で、何ともおもって居らぬ。れは不思議だ。勿論もちろん私も亜米利加アメリカは共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、此方こっちの脳中には源頼朝みなもとのよりとも徳川家康とくがわいえやすと云うようなかんがえがあって、ソレから割出わりだして聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でもく覚えて居る。理学上の事については少しもきもつぶすと云うことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方角が付かなかった。或時あるときにメールアイランドの海軍港に居る甲比丹カピテンのマツキヅガルと云う人が、日本の貨幣を見たいと云うので、艦長はかねてそんな事のめに用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判を始めとして万延年中迄の貨幣をそろえて甲比丹の処へおくっやった。所が珍らしい/\とばかりで、宝をもらったとかんがえ一寸ちょいとも顔色かおいろに見えない。昨日は誠に有難うといってその翌朝よくあさ内儀かみさんが花をもって来てれた。私はその取次とりつぎをしてひとひそかに感服した。人間とうものはアヽありたい、如何いかにも心の置き所が高尚だ、金や銀を貰たからと云てキョト/\よろこぶと云うのは卑劣な話だ、アヽありたいものだ、大きに感心したことがある。

軍艦の修繕に価を求めず

前にうた通り亜米利加アメリカ人は誠にく世話をして呉れた。軍艦を船渠ドックに入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用にゅうような箱をこしらえて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度したくも出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用にゅうようを払いたいと云うと、彼方あっちの人はわらって居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸ちょっとも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。

始めて日本に英辞書を入る

その時に私と通弁つうべん中浜万次郎なかはままんじろうと云う人と両人がウエブストルの字引じびきを一冊ずつかって来た。れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウほかには何も残ることなく、首尾く出帆して来た。

義勇兵

所で私が二度目に亜米利加アメリカいったとき、甲比丹カピテンブルックに再会して八年目にきいた話がある。それは最初日本の咸臨丸かんりんまるが亜米利加についたとき、桑港サンフランシスコで中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待をさかんにしなければならぬとうので、彼処あすこに陸軍の出張所を見たようなものがある。其処そこ甲比丹カピテンブルックがいって、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓ワシントンうかがうた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断でれと談じても、兎角とかくらちかないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方こっち仕様しようがあるといって、れから方向を転じて桑港サンフランシスコの義勇兵に持込もちこんで、どうだう云うけであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦おおよろこびですぐに用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断軍役ぐんえきのあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋そめものやの主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服ももって居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何かひまな時か又は月夜などに操練そうれんをして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時はず若い者の道楽仕事であるから、折角せっかくこしらえた軍服も滅多めったに着ることがない所に、今度甲比丹カピタンブルックの話をきいて千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。

布哇寄港

祝砲と共に目出度めでたく桑港サンフランシスコを出帆して、今度は布哇ハワイ寄港とまり、水夫は二、三人亜米利加アメリカから連れて来たけれども、甲比丹カピタンブルックはらず、本当の日本人ばかりで、どうやらうやら布哇を捜出さがしだして、其処そこへ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗については物珍しくう程の要用はないだろう、と思うのは、三十年ぜんの布哇も今もかわったことはなかろう、その土人の風俗は汚ない有様ありさまで、一見蛮民ばんみんと云うよりほか仕方しかたがない。王様にもうたが、れも国王陛下と云えば大層たいそうなようだけれども、其処そこいって見れば驚く程の事はない。夫婦づれで出て来て、国王はただ羅紗ラシャの服を着て居ると云うくらいな事、家も日本で云えば中位ちゅうぐらいの西洋造り、宝物たからものを見せると云うから何かとおもったら、鳥の羽でこしらえた敷物しきものもって来て、れが一番のお宝物だと云う。あれが皇弟か、その皇弟がざるげて買物にくようなけで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。

少女の写真

それから布哇で石炭を積込つみこんで出帆した。その時に一寸ちょいした事だが奇談がある。私はかねて申す通り一体の性質が花柳かりゅうたわぶれるなどゝ云うことは仮初かりそめにも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな如何いかがわしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云うくらいには思うて居たろう。れから布哇ハワイを出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。れはどうだ(その写真は此処ここに在りと、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年ぜんの福澤先生のかたわらに立ち居るは十五、六の少女なり)。その写真とうのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かは勿論もちろんその時に見さかいのあるけはない――お前達は桑港サンフランシスコに長く逗留して居たが、婦人と親しく相並あいならんで写真をるなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕あさゆう口でばかりくだらない事をいって居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、おおいひやかしてやった。れは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にもいったことがあるが、丁度ちょうど雨の降る日だ、その時私ひとりで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、亜米利加アメリカの娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒にとったのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、口惜くやしくも出来なかろう、と云うのは桑港でこの事を云出いいだすとすぐ真似まねをする者があるからだまって隠しておいて、いよ/\布哇を雛れてもう亜米利加にも何処どこにも縁のないと云う時に見せてやって、一時のたわぶれに人を冷かしたことがある。

不在中桜田の事変

帰る時は南の方をとおったと思う。行くときとはちがっ至極しごく海上は穏かで、何でもそのとしにはうるうがあって、うるうめて五月五日の午前に浦賀にちゃくした。浦賀には是非ぜひいかりおろすとうのがおきまりで、浦賀に着するやいなや、船中数十日のその間は勿論もちろん湯に這入はいると云うことの出来るけもない、口嗽うがいをする水がヤット出来ると云うくらいな事で、身体からだは汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は扨置さておき一番先に月代さかいきをしてれから風呂に這入ろうと思うて、小舟こぶねのっおかに着くと、木村のおむかえが数十日前から浦賀に詰掛つめかけて居て、木村の家来に島安太郎しまやすたろうと云う用人ようにんがある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸にあがってその島にうた。正月のはじめ亜米利加アメリカに出帆して浦賀にくまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。そのあいだわずかに六箇月のあいだであるが、故郷の様子は何も聞かないから、ほとんど六ヶ年も遇わぬような心地こころもち。ヒョイと浦賀の海岸で島にあって、イヤ誠にお久振ひさしぶり、時に何か日本にかわった事はないかと尋ねた所が、島安太郎が顔色かおいろを変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、一寸ちょいと島さんまっれ、云うて呉れるな、私がてゝ見せよう、大変と云えば何でもれは水戸の浪人が掃部様かもんさまやしき暴込あばれこんだと云うような事ではないかと云うと、島はらに驚き、どうしてお前さんはそんな事をしって居る、何処どこれにきいた、聞たってきかないたって分るじゃないか、私はマア雲気うんきを考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤれはどうも驚いた、やしきに暴込んだ所ではない、う/\けだと云て、桜田騒動の話をした。そのとしの三月三日に桜田におお騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは大凡おおよそ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だとおもって居たから、偶然にもあたったので誠に面白かった。
 その前年から徐々そろそろ攘夷説がおこなわれると云う世の中になって来て、亜米利加アメリカに逗留中、艦長が玩具おもちゃ半分はんぶん蝙蝠傘かわほりがさを一本かった。珍しいものだといって皆よっひねくって見ながら、如何どうだろうこれを日本にもっかえってさしてまわったら、イヤそれは分切わかりきって居る、新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行くあいだに浪人者にられて仕舞しまうに違いない、ず屋敷の中で折節おりふしひろげて見るよりほかに用のない品物だと云たことがある。およそこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論がさかんになって来た。

幕府に雇わる

亜米利加アメリカからかえってから塾生も次第に増して相替あいかわらず教授して居るうちに、私は亜米利加渡航をさいわいに彼の国人こくじんに直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないでことごとく英書を教える。所がマダなか/\英書がむずかしくて自由自在に読めない。読めないから便たよる所は英蘭対訳の字書のみ。教授とはいながら、実は教うるがごとく学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方がいこくがた(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の閣老かくろう又は外国奉行へ差出す書翰しょかんを飜訳するめである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず和蘭オランダの飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字よこもじ読む者とては一人ひとりもなく、むを得ず吾々われわれ如き陪臣ばいしん(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたについてはおのずから利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。如何どうかしてこの飜訳文を見ずに直接じかに英文を飜訳してやりたいものだとおもって試みる、試みて居るあいだわからぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うようなけで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省にはおのずから書物がある、種々しゅじゅ様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは勿論もちろん、借りて自家うちもって来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身のめに大に便利になりました。

欧羅巴各国に行く


 私が亜米利加アメリカからかえったのは万延元年、その年に華英通語かえいつうごと云うものを飜訳して出版したことがある。れがそもそも私が出版の始まり、ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分でもって英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴ヨーロッパ諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時にはひそか木村摂津守きむらせっつのかみに懇願して、その従僕と云うことにして連れていっもらったが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴ゆきを命ぜられたのであるから、おのずから一人前いちにんまえの役人のような者になって、金も四百両ばかりもらったかと思う。旅中は一切官費で、ただ手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生へいぜいとんと金のらない男で、いたずらに金を費すとうことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国にる母におくってやった。如何いかにも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加アメリカからかえってマダ国へ親の機嫌を聞きにきもせずに、重ねて欧羅巴ヨーロッパに行くと云うのだから、如何いかにも済まない。而已のみならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞ふうぶんを立てゝ、亜米利加にいっの地で死んだと云い、はなはだしきに至れば現在の親類の中の一人ひとりが私共の母にむかって、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体からだしおづけにして江戸にもって帰たそうだなんと、おどすのかひやかすのかソンな事までいって母をなぶって居たと云うような事で、れも時節がらで我慢してだまって居るよりほか仕方しかたがないとして居ながら、母に対しては如何いかにも気が済まない。金をやったからと云てソレでつぐなえるけのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送てろうと思て、幕府から請取うけとった金をけて送りました。
 それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。このたびの船は日本の使節がくと云うめに、英吉利イギリスから迎船むかいぶねのようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦にのっ香港ホンコン新嘉堡シンガポールと云うような印度インド洋の港々みなとみなとに立寄り、紅海に這入はいって、蘇士スエズから上陸して蒸気車に乗て、埃及エジプトのカイロ府につい二晩ふたばんばかり泊り、それから地中海に出て、其処そこから又船に乗て仏蘭西フランス馬塞耳マルセイユ、ソコデ蒸汽車に乗て里昂リオンに一泊、巴里パリに着て滞在およそ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利イギリスに渡り、英吉利から和蘭オランダ、和蘭から普魯西プロスの都の伯林ベルリンに行き、伯林から露西亜ロシアのペートルスボルグ、れから再び巴里にかえって来て、仏蘭西から船にのって、葡萄牙ポルトガルに行き、ソレカラ地中海に這入はいって、元の通りの順路をて帰て来たその間の年月はおよそ一箇年、すなわち文久二年一杯、推詰おしつまってから日本に帰て来ました。
 さて今度の旅行について申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語るとうことが徐々そろそろ出来て、れから前に申す通りに金もいささもって居るその金は何もつかい所はないから、ただ日本を出る時に尋常一様の旅装をしたけで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金のけがない、そのあまった金は皆たずさえて行て竜動ロンドンに逗留中、ほかに買物もない、ただ英書ばかりを買て来た。れがそもそも日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのもれからの事である。
 れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、れは後の話にして、ず使節一行の有様ありさまを申さんに、その人員は、
竹内下野守たけのうちしもつけのかみ(正使)松平石見守まつだいらいわみのかみ(副使)京極能登守きょうごくのとのかみ(御目付)柴田貞太郎しばたさだたろう(組頭)日高圭三郎ひたかけいざぶろう(御勘定)福田作太郎ふくださくたろう(御徒士目付)水品楽太郎みずしならくたろう(調役)岡綺藤左衛門おかざきとうざえもん(同)高嶋祐啓たかしまゆうけい(御医師但し漢方医なり)川崎道民かわさきどうみん(雇医)益頭駿次郎ましずすんじろう(御普請役)上田友助うえだゆうすけ(定役元締)森鉢太郎もりはちたろう(定役)福地源一郎ふくちげんいちろう(通弁)立広作たちこうさく(同)太田源三郎おおたげんざぶろう(同)斎藤大之進さいとうだいのしん(同心)高松彦三郎たかまつひこさぶろう(御小人目付)山田八郎やまだはちろう(同)松木弘安まつきこうあん(反訳方)箕作秋坪みつくりしゅうへい(同)福澤諭吉ふくざわゆきち(同)
 右のほかに三使節の家来両三人ずつと、まかない小使こづかい六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等はず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂いわゆる陪臣ばいしんの身分であるから、一行中の一番下席かせき惣人数そうにんず凡そ四十人足らず、いずれも日本服に大小をよこたえて巴里パリ竜動ロンドン闊歩かっぽしたも可笑おかしい。

旅行中用意の品々失策又失策

日本出発ぜんに外国は何でも食物が不自由だからとうので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧ひょうろうを貯え、又旅中止宿ししゅくの用意と云うので、廊下にとも金行灯かなあんどん二尺にしゃく四方もある鉄網てつあみ作りの行灯を何十台も作り、そのほか提灯ちょうちん手燭てしょく、ボンボリ、蝋燭ろうそく等に至るまで一切取揃とりそろえて船に積込つみこんだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅しゅくえきの本陣に止宿するくらい胸算きょうさんに違いない。れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて此方こっちよりの所望しょもうは、随行員も多勢たぜいなり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むとうのは、万事不取締ふとりしまり不安心だから、一行の者を使節の近処きんじょに置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、ず人数を聞糺ききただし、惣勢そうぜい三十何人とわかって、「ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組とくみや二十組は引受けますとの答に、何の事やらけがわからぬ。ソレカラ案内につれられて止宿した旅館は、巴里パリの王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕ひぼく五百余人、旅客は千人以上差支さしつかえなしと云うので、日本の使節などは何処どこに居るやら分らぬ。ただ旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室にはあたためた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯ガスとうは室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何いかなる西洋嫌いも口腹こうふくに攘夷の念はない、皆喜んでこれあじわうから、ここ手持不沙汰てもちぶさたなるは日本から脊負しょって来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯かなあんどんけるにも及ばず、ホテルの台所で米のめしくことも出来ず、とう/\仕舞しまいには米を始め諸道具一切の雑物ぞうぶつを、接待がかりの下役したやくのランベヤと云う男に進上して、ただもらっもらうたのも可笑おかしかった。
 ずこんな塩梅式あんばいしきだから、吾々われわれ一行の失策物笑ものわらいはかず限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草タバコを買いにやって砂糖をもって来るもあり、医者は人参にんじんおもっかって来て生姜しょうがであったこともある。又るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリをもっ御供おともをして、便所の二重の戸を明放あけはなしにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来ははかま着用ちゃくよう、殿様の御腰おこしの物を持て、便所の外の廊下にひらなおってチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来るがごとくにして、便所の内外瓦斯ガス光明こうめい昼よりもあきらかなりとうからたまらない。私は丁度ちょうど其処そこを通りかかって、驚いたとも驚くまいとも、ず表に立塞たちふさがって物も言わずに戸を打締ぶちしめて、れからそろ/\その家来殿に話したことがある。

欧洲の政風人情

政治上の事については竜動ロンドン巴里パリとうに在留中、色々な人に逢うて色々な事をきいたが、もとよりその事柄の由来を知らぬからわかけもない。当時は仏蘭西フランスの第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家と持囃もてはやされてエライ勢力であったが、隣国の普魯士プロスも日の出の新進国で油断はならぬ。墺地利オーストリアとの戦争、又アルサス、ローレンスの事なども国交際こっこうさいの問題として、いずれ後年には云々の変乱が生ずるであろうなんとうことは朝野ちょうや政通せいつうの予言する所で、私の日記覚書おぼえがきにもチョイ/\記してある。又竜動に居るとき、る社中の人が社名をもって議院に建言したとうて、その草稿を日本使節におくって来た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本に居て乱暴無状、あたかも武力をもって征服したる国民に臨むがごとし云々とて、種々しゅじゅ様々の証拠を挙げて公使の罪を責るその証拠の一つに、公使アールコツクが日本国民の霊場として尊拝そんぱいする芝の山内さんないに騎馬にて乗込のりこみたるが如き言語ごんごに絶えたる無礼なりと痛論したるふしもある。私はこの建言書を見ておおいに胸がさがった。るほど世界は鬼ばかりでない、れまで外国政府の仕振しぶりを見れば、日本の弱身に付込み日本人の不文ふぶん殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛しかけて真実こまって居たが、その本国に来て見れば〔おのずから〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ます/\平生へいぜいの主義たる開国一偏の説を堅固けんごにしたことがある。

土地の売買勝手次第

又各国巡回中、待遇の最もこまやかなるは和蘭オランダの右にいずるものはない。是れは三百年来特別の関係でうなければならぬ。ことに私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば欧羅巴ヨーロッパ中第二の故郷にかえったようなけで自然に居心いごころい。れは扨置さておき和蘭滞留中に奇談がある。るとき使節がアムストルダムにいって地方の紳士紳商に面会、四方八方よもやまの話のついでに、使節のといに、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかとうに、の人答えて、「もとより自由自在。「外国人へも売るか。「値段ねだん次第、誰にでも、又何ほどにても。「ればここに外国人が大資本を投じて広く上地を買占かいしめ、これに城廓砲台でも築くことがあったら、れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事はれまで考えたことはない。如何いかに英仏その他の国々に金満家きんまんかが多いとて、他国の地面をかって城を築くような馬鹿気ばかげた商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に可笑おかしかったが、当時日本の外交政略はおよそこの辺から割出したものであるからたまらないけさ。

見物自由の中又不自由

夫れは扨居さておき、私がこの前亜米利加アメリカいったときには、カリフ※[#小書き片仮名ヲ、160-9]ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論もちろん鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士スエズあがって始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴ヨーロッパ各国を彼方此方あちこちと行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部クラブ等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、あるいは名ある人の家に晩餐ばんさん饗応きょうおう、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、かえって招待の多いのに草臥くたびれると云う程の次第であったが、ただこゝに一つ可笑おかしいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角とかく外国人にうことをめようとするのが可笑おかしい。使節は竹内たけのうち松平まつだいら京極きょうごくの三使節、その中の京極は御目附おめつけう役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を張子ぱりこで見て居るので、なか/\外国人に遇うことがむずかしい。同行者はいずれも幕府の役人連で、その中にず同志同感、互に目的を共にするとうのは箕作秋坪みつくりしゅうへい松木弘安まつきこうあんと私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方あちらに居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようとばかりして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、ことに三人とも陪臣ばいしんで、かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方おめつけがた下役したやくが附いて行かなければならぬと云う御定おさだまりで始終ついまわる。此方こっちもとより密売しようではなし、国の秘密をらす気遣きづかいもないが、妙な役人が附て来ればただ蒼蠅うるさい。蒼蠅いのはマダいが、その下役が何かほか差支さしつかえがあると、私共も出ることが出来ない。ソレははなはだ不自由でした。私はその時に==れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝかついで来て、欧羅巴ヨーロッパ各国を巡回するようなものだといって、三人でわらったことがあります。

血を恐れる

ソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事はきいたが、ついでながらこの見聞けんもんのことについて私の身の恥をわねばならぬ。私は少年の時から至極しごく元気のい男で、時として大言壮語たいげんそうごしたことも多いが、天禀うまれつき気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは※(「月+各」、第3水準1-90-45)しらく流行の時代で、同窓生は勿論もちろん私も腕の脈に針をして血をとったことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持こころもちくないから、刺※(「月+各」、第3水準1-90-45)と云えばチャントを閉じて見ないようにして居る。腫物しゅもつが出来ても針をすることはず見合せたいとい、一寸ちょっとした怪我でも血が出ると顔色がんしょくが青くなる。毎度都会の地にある行倒ゆきだおれ首縊くびくくり、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜ロシアに滞留中、る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作みつくり松木まつきも医者だからぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入はいって見れば石淋せきりんを取出す手術で、執刀の医師は合羽かっぱを着て、病人をばまないたのような台の上に寝かして、コロヽホルムをがせてこれを殺して、れからその医師が光りかがやとうとってグット制すと、大造たいそうな血がほとばしって医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口きりぐち釘抜くぎぬきのようなものを入れて膀胱ぼうこうの中にある石を取出すとかう様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎やまだはちろうう男が私を助けて室外に連出つれだし、水などましてれてヤット正気にかえった。その前独逸ドイツ伯林ベルリンがん病院でも、欹目やぶにらみの手術とて子供のとうを刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木まつき箕作みつくりも私に意気地いくじがないといっしきりにひやかすけれども、もって生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

事情探索の胸算

れは扨置さておき私の欧羅巴ヨーロッパ巡回中の胸算きょうさんは、およ書籍しょじゃく上で調べられる事は日本に居ても原書をよんわからぬ処は字引じびきを引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分りやすい事でほとんど字引にもせないとうような事が此方こっちでは一番むずかしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだとおもって、その方向でもっれは相当の人だと思えばその人について調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々ちょいちょいう云うように(この時先生細長ほそながくして古々ふるぶるしき一小冊子を示す)記しておいて、夫れから日本にかえってからソレを台にしてお色々な原書を調べ又記憶する所を綴合つづりあわせて西洋事情と云うものが出来ました。およそ理化学、器械学の事において、あるいはエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくてもよろしいとうのは、元来私が専門学者ではなし、きいた所が真実深い意味の分るけはない、ただ一通ひととおりの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易にわかるから、コンナ事の詮索せんさくず二の次にして、ほかに知りたいことが沢山たくさんある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費にゅうひの金はどんな塩梅あんばいにして誰が出して居るのか、又銀行バンクと云うものがあってその金の支出入は如何どうしてるか、郵便法がおこなわれて居てその法は如何どう云う趣向にしてあるのか、仏蘭西フランスでは徴兵令を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)れいこうして居るが英吉利イギリスには徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、如何どう云う趣向にしてあるのか、その辺の事情がとんと分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無かいむ分らない。分らないから選拳法とは如何どんな法律で議院とは如何どんな役所かと尋ねると、彼方あっちの人はただわらって居る、何を聞くのか分りきった事だと云う様なわけ。ソレが此方こっちでは分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らずしのぎけずって争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しもかんがえの付こうはずがない。の人との人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒をのんで飯をくって居る。少しも分らない。ソレがほぼ分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、そのいわれ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組いりくんだ事柄になると五日も十日もかかってヤット胸に落るとうようなわけで、ソレが今度洋行の利益でした。

樺太の境界談判

それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論がさかんになって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節が露西亜ロシアいった時に此方こっちから樺太カラフト境論さかいろん持出もちだして、その談判の席には私も出て居たので、日本の使節がソレを云出いいだすと先方は少しも取合わない。あるいは地図などを持出して、地図の色はう/\云う色ではないか、おのずから此処ここが境だと云うと、露西亜人の云うには、地図の色で境がきまれば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜の領分になって仕舞しまうだろう、又これを青くすれば世界中日本領になるだろうと云うような調子で漫語放言まんごほうげんとて寄付よりつかれない。マアにもかくにもお互に実地を調べたその上の事にようと云うので、樺太の境はめずに宜加減いいかげんにして談判はやめになりましたが、ソレを私がそばから聞て居て、れは迚も仕様しようがない、一切万事便たよる所なし、日本の不文不明の奴等やつら※(「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22)威張からいばりして攘夷論がさかんになればなる程、日本の国力は段々弱くなるけの話で、仕舞しまいには如何どう云うようになり果てるだろうかとおもって、実に情けなくなりました。

露政府の厚遇

国交際こっこうさいの談判は右の通りに水臭みずくさい次第であるが、使節に対するわたくしの待遇はうでない。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行のめに特に官舎を貸渡かしわたして、接待委員とう者が四、五人あってその官舎に詰切つめきりで、いろ/\饗応きょうおうするその饗応の仕方しかたと云うはすこぶる手厚く、に一つ遺憾はないと云う有様。ソレで御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場と云うような所に案内して見せてれる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々しゅじゅ様々な話もしたが、そのせつ露西亜ロシアに日本人が一人ると云ううわさきいたその噂は、どうも間違ない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないと云う。勿論もちろんその噂は接待委員からきいたのではない。そのほかの人かられたのであるが、ず公然の秘密と云うくらいな事で、チャントわかって居た。そのヤマトフにあって見たいと思うけれどもなか/\われない。到頭とうとう逗留中出てない。出て来ないがその接待中の模様にいたってはややもすると日本風の事がある。例えば室内に刀掛かたなかけがあり、寝床ベッドには日本流の木の枕があり、湯殿ゆどのにはぬかを入れた糟袋があり、食物もつとめて日本調理のふうにしてはし茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の思付おもいつく物でない。シテ見ると噂の通り何処どこにか日本人の居るのは間違いない、あきらかわかって居るけれども、到頭分らずにかえっ仕舞しまいました。私の西航日記にこの事を記して、そのかたわらに詩のようなものが一寸ちょいと書てある。
起来就食々終眠、飽食安眠過一年、
他日若遇相識問、欧天不異故郷天
今日になって一々記憶もないが、余程よほど日本流の事が多かったと思われます。

露国に止まることを勧む

れから或日あるひの事で、その接待委員の一人が私の処に来て、一寸ちょいとこちらに来てれろといって、一間ひとまに私を連れていった。何だと云て話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこのたび使節に付て来たが、れから先は日本にかえって何をする所存つもりかソリャ勿論もちろん知らないが、お前は大層たいそう金持かねもちかと尋ねるから、「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をして居る、用をして居ればおのずからその報酬とうものがあるから衣食の道に差支さしつかえはないものだと、う私は答えた。所が接待委員の云うに、「日本の事だから我々にくわしい事情のわかけはない、分りはしないけれども、どうも大体を考えて見た所で日本は小国だ、アヽう小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイとここに心を変えてこの露西亜ロシアまらないかと云うから、私は答えて、「自分の身は使節に随従して来て居るものであるから、う勝手にまられるけのものじゃないと有りのまゝに云うと、「イヤれは造作ぞうさもない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になればぐに私が隠してる。どうせ使節は長く此処ここに居る気遣きづかいはない、間もなく帰る。帰ればソレきりだ。そうしてお前は露西亜人になって仕舞しまいなさい。この露西亜には外国の人は幾らも来て居る、就中なかんずく独逸ドイツの人などは大変に多い、そのほか和蘭オランダ人も来て居れば英吉利イギリス人も来て居る。だから日本人が来て居たからといって何も珍しい事はない、是非ぜひ此処ここまれ。いよ/\とまると決すれば、その上はどんな仕事でもようと思えば面白い愉快な仕事は沢山たくさんある。衣食住の安心は勿論もちろん、随分金持かねもちになる事も出来るから止まれとねんごろに説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント一間ひとまの中に差向さしむかいで真面目まじめになって話したのである。けれども私がその時に止まると云う必要もなければ、又止まろうと云う気もない。い加減に返答をして置くと、その二、三度同じような事をいって来たが、もとより話はまとまらず。その時に私は大に心付こころづきました、成程なるほど露西亜ロシア欧羅巴ヨーロッパの中で一種風俗のかわった国だとうが、ソレに違いない。例えば今度英仏にもしばらく滞留し、又前年亜米利加アメリカいったときにも、人にいさえすれば日本にこう/\と云う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れていっれないかと、ソリャもう先々さきざきでうるさいようにう者はあれども、ついまれと云うことをただの一度もいった人はない。露西亜ロシアに来て始めて止まれと云う話を聞た、そのおもむきを推察すれば、決してれは商売上の話ではない、如何どうしても政治上又国交際上の意味を含んで居るに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれと云う所を見れば、あるいは陰険の手段を施すめではないか知らんと思うた事があった。けれどもそんな事をきいたと云うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑をこうむるまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論もちろん、日本にかえって来ても人に云わずにだまって居ました。あるいう云うことを云われたのは私一人でなく、同行の者も同じ事を云われて、私と同じ考えで黙て居た者があったかも知れない。かくに気の知れぬ国だと思われる。

生麦の報道到来して使節苦しむ

れから露西亜ロシアを去て仏蘭西フランスに帰り、いよ/\出発と云うその時は生麦なまむぎおお騒動、すなわち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩のさむらいきったと云うことが丁度ちょうど彼方あっちに報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が吾々われわれ日本人に対して気不味きまずくなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡不愛相ふあいそうになった事ははなはだしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何どうにもい様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっとならべて見送らした。れは敬礼を尽すのではなくして日本人をおどかしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つけでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々にがにがしい有様と云うものは実にたまらないけであった。私の西航記中の一節に、
 うるう八月十三日(文久二年)朝八時ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトにちゃく。ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトは巴里パリより仏里にて九十里の処にある仏蘭西フランスの海軍港なり。蒸気車よりり船に乗るまでのみち十余町、このあいださかんに護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似てあるいは威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処ここに着して暫時も休息せしめず車よりりてただちに又船に乗らしむ。つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。
 ソレカラ仏蘭西を出発して葡萄牙ポルトガルのリスボンに寄港し、使節の公用をすまして又船に乗り、地中海に入り、印度インド洋に出て、海上無事、日本にかえって見れば攘夷論の真盛りだ。

攘夷論


攘夷論の鋒先洋学者に向う

井伊掃部頭いいかもんのかみはこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守あんどうつしまのかみが浪人にきずを付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駈込かけこんだとか何とかう話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も矢張やはり攘夷の仲間に這入はいって居るのかとう思たことがある。にもかくにも日本国中攘夷の真盛まっさかりでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、れまでは世間に攘夷論があると云うけの事で、自分の身についあやういことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないとばかおもって居た所が、サア今度欧羅巴ヨーロッパからかえって来たその上はなか/\うでない。段々やかましくなって、外国貿易をする商人がにわかに店を片付けて仕舞しまうなどゝうような事で、浪人となづくる者がさかんに出て来て、何処どこに居て何をして居るのか分らない。丁度今の壮士そうしと云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、して外国の書をよん欧羅巴ヨーロッパの制度文物をれと論ずるような者は、どうも彼輩あいつ不埒ふらちな奴じゃ、畢竟ひっきょう彼奴等あいつら虚言うそついて世の中を瞞着まんちゃくする売国奴ばいこくどだと云うような評判がソロ/\おこなわれて来て、ソレから浪士の鋒先ほこさきが洋学者の方に向いて来た。是れは誠に恐入おそれいった話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなればまぬかるゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。到頭とうとう仕舞しまいには洋書を読むことをめて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはおわびが済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。此方こっち無頓着むとんじゃくに思う事をろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。すでに私共と同様幕府に雇われて居る飜訳方ほんやくがたの中に手塚律蔵てづかりつぞうと云う人があって、その男が長州の屋敷にいって何か外国の話をしたら、屋敷の若者等がきって仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀をぬい追蒐おっかける、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷そとの濠の中へ飛込んでようやく助かった事もある。夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵とうじょうれいぞうと云う人も矢張やはり私と同僚飜訳方ほんやくがたで、小石川の蜀山人しょくさんじん住居すまいう家にすんで居た。所がその家に所謂いわゆる浮浪の徒が暴込あばれこんで、東条は裏口から逃出してやったすかったと云うようなけで、いよ/\洋学者の身がはなはあやうくなって来て油断がならぬ。ればとて自分の思う所、す仕事はめられるものじゃない。れから私は構わない、構おうといった所が構われもせず、めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語げんぎょ挙動をやわらかにして決して人にさからわないように、社会の利害と云うような事はず気の知れない人には云わないようにして、つつしめるけ自分の身を慎んで、ソレと同時に私はもっぱら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条については今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版かいはんした福澤全集の緒言ちょげんつまびらかかいてあるかられは見合せるとして、その著訳事業中、すなわち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々にえるからその教授法に力をつくし、又家の活計くらしは幕府に雇われて扶持米ふちまいもらうてソレで結構暮らせるから、世間の事にはとん頓着とんじゃくせず、怖い半分、面白い半分に歳月としつきおくって居る。或時あるとき可笑おかしい事があった。私が新銭座に一寸ちょいと住居すまいの時(新銭座塾にあらず)、誰方どなたか知らないが御目に掛りたいといっておさむらいが参りましたと下女が取次とりつぎするから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼かためで、長い刀をして居ますとうから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰おっしゃいません==どうも気味の悪い奴だとおもって、れから私はそっと覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山はらだすいざん、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わずののしった。この馬鹿野郎、貴様は何だ、ぜ名を云てれんか、乃公おれは怖くてたまらなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑たいしょうした事がある。う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。

英艦来る

夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂いえもち公の上洛となり、続いて御親発ごしんぱつとして長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、英吉利イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩のさむらいが英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親こんしんもって交ろうと思うてれまでも有らん限りやわらかな手段ばかりをとって居た、しかるに日本の国民が乱暴をしてあまつさえ人を殺した、如何いかにしてもそのせめは日本政府にあっまぬかるべからざる罪であるから、こののち二十日はつかを期して決答せよとう次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を召捕めしとって眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文こうぶんが来た。その時に私共が飜訳ほんやくする役目にあたって居るので、夜中に呼びに来て、赤坂にすんで居る外国奉行松平石見守まつだいらいわみのかみの宅にいったのが、私と杉田玄端すぎたげんたん高畑五郎たかばたけごろう、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、れはマアどうなる事だろうか、大変な事だとひそかに心配した所が、その翌々二十一日には将軍が危急ききゅう存亡の大事を眼前がんぜんに見ながられをてゝおいて上洛して仕舞しまうた。うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日まっれろ、ソレは待つの待たないのと捫着もんちゃくの末、どうやらうやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかとう幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどと云う評判、その二十日の期間もすで過去すぎさって、又十日と云うことになって、始終しじゅう十日と二十日の期限をもって次第々々に返辞へんじのばして行く。私はその時に新銭座にすんで居たから、とてもこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるよりほか仕様しようがないと、ソロ/\にげ仕度をすると云うような事で、ソコでいよいよ期日も差迫さしせまって、今度はもう掛値かけねなし、一日もからないと云う日になった、と云うのを私は政府の飜訳局ほんやくきょくに居てつまびらかしって居るからたまらない。

仏国公使無法に威張る

その飜訳をするあいだに、時の仏蘭西フランスのミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事について仏蘭西は全く英吉利イギリスと同説だ、愈よ戦端せんたんを開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖をまわると、乱暴な事を云うて来た。誠にいわれのない話で、丸でそのおもむきは今の西洋諸国の政府が支那人をおどすと同じ事で、政府はただ英仏人の剣幕を見て心配するばかり。私にはくその事情がわかる、分れば分るほど気味が悪い。

事態いよ/\迫る

れはいよ/\るに違いないと鑑定かんていして、内の方の政府を見れば何時迄いつまでも説が決しない。事がやかましくなれば閣老は皆病気と称して出仕する者がないから、政府の中心は何処どこるかわけが分らず、ただ役人達が思い/\に小田原評議のグヅ/\で、いよいよ期日が明後日とうような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私の処にきずつい箪笥たんすがある。愈よ荷物を片付けようと云うので箪笥を細引ほそびきしばって、青山の方へもって行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣きづかいはないからと云うので、青山の穏田おんでんと云う処に呉黄石くれこうせきと云う芸州げいしゅうの医者があって、その人は箕作の親類で、私は兼て知て居るから、呉の処に行てどうかしばら此処ここ立退場たちのきばを頼むと相談も調ととのい、愈よ青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担出かつぎだばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場にいって見れば、大砲の口を海の方に向けてつような構えにしてある。れは今明日こんみょうにちの中にいよ/\事は始まると覚悟を定めた。その前に幕府から布令ふれが出てある。いよい兵端へいたんを開く時には浜御殿はまごてん、今の延遼館えんりょうかんで、火矢ひやげるから、ソレを相図あいずに用意致せとう市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので、「瓢箪ひょうたん(兵端)の開け初めは冷(火矢)でやる」と川柳があったが、是れでも時の事情は分る。

米と味噌と大失策

れから又可笑おかしい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうとおもって、出入でいりの米屋に申付もうしつけて米を三十俵かって米屋に預け、仙台味噌を一樽買て納屋ものおきに入れておいた。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何どうすると云うた所が、かついで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負せおって駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があればいといったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽はてゝ行くよりほかはないと云て、その騒動の真盛まっさかりに大笑いをもよおした事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時二分金にぶきんで百両か百五十両もって居たから、この金をひとりで持て居ても策でない、イザとえば誰が何処どこにどう行くか分らない、金があればかつえることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人でもって居るよりか、れは銘々めいめいに分けて持つがかろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、頭割あたまわりにして銘々ソレを腰にまいて行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日はいよいよ戦争の始まり、ほかに道はないと覚悟した所が、ここに幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守おがさわらいきのかみと云う閣老がある。れから横浜に浅野備前守あさのびぜんのかみと云う奉行がある。

小笠原壱岐守

ソレ等の人が極秘密に云合いいあわせた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だといって寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦にのって品川沖を出て行く。スルト英吉利イギリス砲艦ガンボートが壹岐守の船の尻にいて走ると云うのは、壹岐守は上方かみがたに行くと云て品川湾を出発したから、し本当にその方針をとっ本牧ほんもくの鼻をまわれば英人は後から砲撃するはずであったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入はいって、自分の独断で即刻そっこくに償金をはらうて仕舞しまった。十万ポンドを時の相場にすればメキシコドルで四十万になるその正銀しょうぎんを、英公使セント・ジョン・ニールに渡してず一段落を終りました。

鹿児島湾の戦争

幕府に要求した十万ポンドの償金は五月十日に片付かたづけて、れから今度はその英軍艦が鹿児島にいって、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよとう掛合のめに、六艘の軍艦は鹿児島湾にまわっいかりおろした。スルト薩摩藩からただちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦きかんの水師提督はクーパー、司令長官はウ※[#小書き片仮名ヰ、180-7]ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、書翰しょかんを薩摩の役人に渡し、応否の返答如何いかんまって居る。所がなか/\容易な事に返辞へんじが出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、すなわち西洋から薩摩藩に買取かいとった船が二艘あるその二艘の船を談判だんぱんの抵当に取ると云う趣意しゅいで、桜島の側に碇泊ていはくしてあった〔三〕艘の船を英の軍艦が引張ひっぱって来ると云う手詰てづめの場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\大合戦おおかっせんになった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝおもって錨をげずに居た所が、にわかに陸の方で撃始うちはじめたものだから、サア錨を上げようとすると生憎あいにくその時は大変な暴風、くわうるに海が最も深いからドウも錨を上げるいとまがないと云うので、錨のくさりきって夫れから運動するようになった。れが例の英吉利イギリスの軍艦のいかりが薩摩の手にはいった由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、もっぱら旗艦をねらうて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾がうまく発して怪我人が出来た中に、司令長官と甲比丹カピテンと二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸にむかっての砲撃もなか/\はげしく、海岸の建物は大抵焼払やきはらうて是れも容易ならぬ損害であったが、つまる所、勝負なしの戦争とうのは、薩摩の方は英吉利イギリスの軍艦をうって二人の将官まで殺したけれどもその船を如何どうすることも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜にかえったのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の砕片かけを見て、船中の英人等がしきりに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来るわけはない。イヤく見れば露西亜ロシア製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議区々まちまちなりしとう。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来がんらい英吉利イギリスと露西亜との間柄は犬と猿のようで、相互あいたがいに色々な猜疑心さいぎしんがある。今日に至るまでも仲はくないように見える。

松木、五代、英艦に投ず

それはさて置きここに薩摩の船を二艘此方こちら引張ひっぱって来ると云う時に、その船長の松木弘安まつきこうあん(後に寺嶋陶蔵てらじまとうぞう又後に宗則むねのり)、五代才助ごだいさいすけ(後に五代友厚ともあつ)の両人が、船奉行と云う名義でわば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込のりこみの水夫などは其処そこから上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申しだんじてひそかにその船の火薬車に導火みちびけておいたから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞しまった。れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜ほりょでもなければ御客おきゃくでもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たにちがいはない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレり少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴ヨーロッパに一緒にいったのみならず、以前から私と箕作みつくりと松木と云うものははなはだ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船にのったと云うが如何どうしたろうかとただそのうわさをするばかりで尋ねる所もない。英人がしこの両人を薩摩の方へかえせば、ソリャもう若武者共がぐに殺すにきまって居る。ればといいこれを幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑けんぎの筋があるとか取調べるかどがあるとかいっ取敢とりあえず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩にかえしたと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何どうしたろうか、如何いかにも不審な事じゃとただ箕作と私と始終しじゅうその話をして居た。所がおよそこの事が済んで一年ばかりたってから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。

薩人、英人と談判

松木の話は次にしておいて、横浜に英吉利イギリスの軍艦がかえって来た跡で、薩摩から談判のめに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門いわしたさじうえもん重野孝之丞しげのこうのじょう(後に安繹あんえき)、そのほかに黒幕見たような役目をびて来たのが大久保市蔵おおくぼいちぞう(後に利通としみち)、その三人が出て来たところで、第一番に薩摩の望む所はにもかくにもこの戦争をしばら延引えんいんしてもらいたいと云う注文なれども、その周旋をたれに頼むとう手掛りもなく当惑の折柄おりから、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎しみずうさぶろう瑞穂屋みずほや卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事については至極しごく熱心、ず当時においてはその身分に不似合ふにあいな有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、し薩摩の方から日本文の書翰しょかんを出されたときにはこれを読むに困る。通弁つうべんにはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支さしつかえないけれども、日本文の書翰を颯々さっさつと読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生へいぜい勇気もあり随分ずいぶんそんな事の好きな人で、れは面白いいって見ようと容易たやすく承諾し、横浜税関の免状を申受もうしうけて旗艦きかんに乗込み、先方にちゃくして親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵おおくぼいちぞう取敢とりあえず清本卯三郎を頼み、かくにこの戦争をしばら延引えんいんして貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次とりつぎの者の言うに、かかる重大事件をだんずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たらかろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重けいじゅうはない、談判の委任を受けて居れば沢山たくさんだ、夫れでも拙者せっしゃと話は出来ないかと少しく理屈をいった所が、そう云うけなら直ぐにうと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛はなしかけると、なか/\聞きそうにもない。イヤもうすでに印度洋から軍艦を増発して何千の兵士はただ今支度最中、しかるにこの戦争の時期をのばして待つなどゝはいわれのない話だ云々うんぬんと、思うさま威嚇おどして聞きそうな顔色がんしょくがない。ソコで清水はその挨拶をうけたまわって薩人に報告すると、重野が、とてもこりゃむずかしそうだ、かくに自分達がみずから談判して見ようといって、ついに薩英談判会を開き、種々しゅじゅ様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、たかは二万五千ポンド、時の相場にしておよそ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守しまずさつまのかみの名義では払われないとうので、分家の島津淡路守あわじのかみの名をもって金を渡すことにして、つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処どこにか逃げて分らないから、わかったらば死刑と云うことでもって事が収まった。その談判の席には大久保市蔵おおくぼいちぞうは出ない。岩下いわした重野しげのの両人、それから幕府の外国方がいこくがたから鵜飼弥市うかいやいち監察方かんさつがたから斎藤金吾さいとうきんごう人が立会い、いよ/\書面を取換とりかわして事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日ついたちか二日頃であった。

松木、五代、埼玉郡に潜む

さてれから私の気になる松木まつきすなわ寺島てらしまの話はう次第である。松木、五代ごだいが薩摩の船から英の軍艦に乗移のりうつった所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木にきいて居たこともある至極しごく懇意こんいな間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何どうして此処ここに居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うようなけで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、このまま何時迄いつまでもこの船の中に居られるものでない。マア如何どうかして上陸したい、と云うその事については清水卯三郎が一切いっさい引受ける。それは松木と五代は極々日蔭者ひかげもので、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水がず横浜にあがって、夫れから亜米利加アメリカ人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何どうでも周旋しよう、かく艀船はしけぶねのって神奈川の方に上る趣向によう、その船も何も世話をしてろうと云うことになった。所でアドミラルが如何どう云うかソレにきいて見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸差支さしつかえなしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートとしめし合せて、落人おちうど両人の者は夜分ひそかにその艀船はしけに乗り移り、神奈川以東の海岸からのぼる積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目ごとに今の巡査じゅんさ交番所見たようなものがずっとたって居て、一人でも径しいものは通行をとがめるとうことになって居るから、なか/\大小などをして行かれるものでない。ソコで大小も陣笠じんがさ一切いっさいの物はヴエンリートの家にあずけて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東にくだってとう/\羽根田はねだの浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入はいるとした所で、マダ幕府の探偵がはなはだ恐ろしい。ただの宿屋には泊られないから、江戸に這入はいったらば堀留ほりどめ鈴木すずきと云う船宿に清水が先へいっまって居るから其処そこへ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中やちゅう勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方にむかって足を進める中に夜が明けて仕舞しまい、コリャ大変とれから駕籠にのっかおを隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待て居るので万事の都合よろしく、その船宿に二晩ひそかとまって、れから清水の故郷武州ぶしゅう埼玉ごおり羽生村はにゅうむらまで二人を連れて来て、其処そこも何だか気味が悪いとうので、又その清水しみずの親類で奈良村に吉田一右衛門よしだいちえもんう人がある、その別荘に移して、此処ここごく淋しいところで見付かるような気遣きづかいはないと安心して二人とも収め込んで仕舞しまい、五代ごだいはその後五、六ヶ月してひそかに長崎の方に行き、松木まつきおよそ一年ばかりも其処そこに居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭しんとうに掛けてその所在を探索し、大久保おおくぼ岩下いわした重野しげのを始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門ひごしちざえもん南部弥八なんぶやはちなど云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎うさぶろうしっはしないかと思いついて、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くてわれない、不意ふいと捕まえられて首をられるのではなかろうかとおもって真実がかれない。一応はただ知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々うたがって居る様子。うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何どうしようとも考えが付かない。殺さないなら早く出してりたいが、殺すような事なら今まで助けておいたものだから出したくないと、自分の思案にあまって、れから江戸の洋学の大家川本幸民かわもとこうみん先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談にいった所が、先生の説に、「ソリャ出すがかろう、薩藩人が爾う云うならありのまゝにあかして渡してるが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何もも自分が世話をした事で一切いっさい知て居る、早速御引渡し申すが、ただ約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木まつきが始めて薩人に面会して、この時から松木弘安こうあんを改めて寺島陶蔵てらしまとうぞうと化けたのです。右の一条は薩州の方でもはなはだ秘密にして、事実をしって居る者は藩中にただ七人しかないと清水がきいたそうだが、その七人とは多分大久保おおくぼ岩下いわしたなぞでしょう。

始めて松木に逢う

その時はすでに文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門ひごしちざえもん不意ふいと私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支さしつかえはないかとう。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作みつくりいさえすればそのうわさをして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処どこに居るか。「江戸に居る、かく此処ここに来て宜いか。「宜いとも、大宜おおよしだ。何もはばかることはない、少しも構わない、ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土めいどの人にあったような気がして、ソレカラいろ/\な話をきいて、清水と一緒になったと云うことも分れば何もわかっ仕舞しまった。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振ひさしぶりで飲食を共にして、何処どこに居るかと聞けば、白銀台町しろかねだいまちそうなにがしう医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家にひそんで居ると云う。その日はずそのまま分れて、れから私はぐに箕作みつくりの処に事の次第をいっやって、箕作もぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島かごしま戦争の話などもあって、その戦争の事についてはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処こここれを略し、さて寺島てらしまの身の上は如何どうだと云うに、薩摩の方は大抵れでよろしいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないからう恐れる事もないけ。ソコで寺島は何をしてくって居るかと聞けば、今は本藩の飜訳ほんやくなどして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公おれは鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火みちびけるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金をもって上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊ていはく菓物くだものが欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機にじょうじて斬込きりこもうとして出来なかったと云うような種々しゅじゅ様々な話がありますが、それはマア止めにしていかりの話。

夢中で錨を還す

そのいかりきったと云うことは清水卯三郎しみずうさぶろうが船にのって見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人にあって、の時に英艦の方では錨をきったのだから拾いげておいたらかろうといった所が、薩摩でも余り気にめなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に這入はいったが、二万五千ポンドの金を渡して和睦わぼくをしたその時に、英人が手軽に錨をかえして貰いたいと云うと、やすい事だといって何とも思わずに古鉄ふるがねでも渡す積りで返して仕舞しまった様子だが、前にも云う通り戦争の負勝まけかちは分らなかったのでしょう、何方どっちかったでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア負師まけいくされから又薩摩の方も陸を荒されて居ながらかえって行く船を追蒐おっかけて行くこともせず打遣うちやっておいたのみならず、戦争の翌朝英艦から陸にむかって発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば何方どちらも勝た、負けたと云えば何方どちらも負けた、つまり勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して仕舞しまったと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、加之しかのみならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害のめに大層な事を日本政府に云掛いいかけて、到頭とうとう十二万五千ポンドとったとうのは理か非か、はなはだ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、吾々われわれ日本人は今日に至るまでも不平である。れから薩摩から戦の日延べを云出いいだしたその時に、英公使の云振いいぶりが威嚇おどしたにも威嚇おどさぬにもマア大変な剣幕で、悪くえば日本人はその威嚇おどしを喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事がおわっ仕舞しまった。今ならばこんな馬鹿げた事は勿論もちろんなかろうが、すでにその時にも亜米利加アメリカ人などは日本政府で払わなければいがといって居たことがある。英公使は威嚇おどぬいて、その上に仏蘭西フランスのミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰でけが分らない。ソレで事が済んだのは今更いまさら何とも評論のしようがない。

緒方先生の急病村田蔵六の変態

所で京都の方ではいよいよ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで和蘭オランダの商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を打掛うちかけた。けれども幸に和蘭オランダ船は沈みもせずにとおったが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は益々ますます恐ろしい事になって来た。所でそのとしの六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て下谷したやに居た緒方先生が、急病で大層吐血とけつしたと云う急使きゅうつかいに、私は実にきもつぶした。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子をしって居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも取敢とりあえず即刻そっこくうちを駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から下谷したやまで駈詰かけづめで緒方の内に飛込んだ所が、もう縡切こときれて仕舞しまった跡。れはマア如何どうしたらかろうかと丸で夢を見たようなけ。道の近い門人共はく先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、ほかに用事もなし、今夜はずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢すわる処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の敷台しきだいの処に腰を掛けて居たら、その時に村田蔵六むらたぞうろく(後に大村益次郎おおむらますじろう)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は何時いつ長州からかえって来たか。「この間かえった。「ドウダエ馬関ばかんでは大変な事をやったじゃないか。何をするのか気狂きぐるい共が、呆返あきれかえった話じゃないかと云うと、村田が眼にかどを立て、「何だと、遣たら如何どうだ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、しからん事を云うな。長州ではチャント国是こくぜが極まってある。あんな奴原やつばら我儘わがままをされてたまるものか。こと和蘭オランダの奴が何だ、小さい癖に横風なつらして居る。これ打攘うちはらうのは当然あたりまえだ。モウ防長の士民はことごと死尽しにつくしても許しはせぬ、何処どこまでもるのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は宜加減いいかげんに話を結んで、れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕はれ/\の話だ、実に驚いた、とうのはその前から村田が長州にいったと云うことをきいて、朋友は皆心配して、あの攘夷の真盛まっさかりに村田がその中に呼込よびこまれては身があやうい、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触るとうわさをして居る其処そこに、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実にけが分らぬ。一体村田は長州に行て如何いかにも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の仮面めんかぶっわざとりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を気遣きづかいはあるまい、どうもあれの気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。にもかくにも一切の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、しばらく別ものにして置くがいと、箕作みつくりと私と二人云合いいあわして、れからほかの朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身防禦ぼうぎょめに攘夷の仮面めんを冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒をめれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪そのほかの者は、一時いちじ彼に驚かされてそのままソーッと棄置すておいたことがあります。

外交機密を写取る

文久三年癸亥みずのといとしは一番やかましい歳で、日本では攘夷をするとい、又英の軍艦は生麦一件につい大造たいそうな償金を申出もうしだして幕府に迫るとう、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の飜訳局ほんやくきょくに居たから、その外国との往復書翰しょかんは皆見てことごとしって居る。すなわち英仏その他の国々からう云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う返辞へんじやった。又此方こっちから斯う云う事を諸外国の公使に掛合かけあい付けると、彼方あっちから斯う返答して来たと云う次第、すなわち外交秘密があきらかわかって居なければならぬはず勿論もちろんその外交秘密の書翰を宅にもって帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するかあるいは又外国奉行の宅にいって飜訳するときに、私はちゃんとソレを諳記あんきしておいて、宅にかえってからその大意をかいて置く。例えば生麦の一件について英の公使から来たその書翰の大意は斯様かよう々々、ソレにむかっ此方こっちから斯う返辞をつかわしたと云うその大意、一切いっさい外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては薄葉うすよう罫紙けいし書記かきしるしておいた。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。ただ親友間の話の種にする位の事にして置たが、随分ずいぶん面白いものである。所が私はその書付かきつけ一日あるひ不意とやい仕舞しまった。

脇屋卯三郎の切腹

焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事がおこった、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、脇屋卯三郎わきやうさぶろうと云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州にあって、これに手紙をやった所が、その手紙を不意ふいと探偵に取られた。その手紙は普通の親類にる手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠におだやかならぬ御時節柄ごじせつがらで心配の事だ、どうか明君めいくん賢相けんしょうが出て来て何とか始末をしなければならぬ云々うんぬんかいてあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が騒々敷そうぞうしい、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいとえば、れは公方様くぼうさまないがしろにしたものだ、すなわち公方様を無きものにして明君を欲すると所謂いわゆる謀反人むほんにんだと云う説になって、ぐに脇屋わきやを幕府の城中で捕縛して仕舞しまった。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が捕縛ほばくされたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者がついて脇屋が廊下をとおっいった。いずれも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だといいて、その翌日になってきいた所が、今の手紙の一件でう/\云う嫌疑けんぎだそうだと云う。れから脇屋を捕まえると同時に家捜やさがしをして、そうしてそのまま当人は伝馬町に入牢にゅうろう申付もうしつけられ、何かタワイもない吟味ぎんみの末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視にいっ高松彦三郎たかまつひこさぶろうと云う人は御小人目付おこびとめつけで私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋卯三郎うさぶろうがいよ/\殺されたと云うことを聞てひどく恐れた、その恐れたと云うのはほかではない、明君云々うんぬんいっけの話でかれが伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、うすると私の書記かきしるしておいたものは外交の機密にかかる恐ろしいものである、しこれが分りでもすればぐにろう打込ぶちこまれて首をられて仕舞しまうにちがいないとおもったから、その時は私は鉄砲洲に居たが、早々そうそうその書付かきつけやい仕舞しまったけれども、何分気になってたまらぬとうのは、私がその書付の写しか何かを親類の者にやったことがある、れから又肥後ひごの細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと如何どうも気になってたまらない、といって今頃からソレを荒立てゝ聞きにれば又その手紙が邪魔になる、すでに原本は焼て仕舞たがその写しなどが出てれなければいが、出て来られた日には大変な事になるとおもって誠に気懸きがかりであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに安堵あんどして、今では颯々さっさつとそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決してうでない、自分からつくっわざわいで、文久三年亥歳いどしから明治元年まで五、六年のあいだと云うものは、時の政府に対してあたかも首の負債を背負しょいながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身をくるしめて居たのは随分ずいぶん悪い心持でした。脇屋わきやの罪にくらべて五十歩百歩でない、外交機密をもらした奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方はうままぬかれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、無惨むざんではないか。人間の幸不幸は何処どこるか分らない、所謂いわゆる因縁いんねんでしょう。この一事でも王政維新は私の身のめに難有ありがたい。れはさて置き、今日でもかいたものを見れば、文久三年の事情はよくわかって、外交歴史の材料にもなり、すこぶる面白いものであるが、何分にも首にはえられずやい仕舞しまったが、しも今の世の中に誰かもって居る人があるなら見たいものと思います。

下ノ関の攘夷

夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関ではただ和蘭オランダ船を撃つばかりでなく、そののち亜米利加アメリカの軍艦にも発砲すれば、英吉利イギリスの軍艦にも発砲するとうようなけで、到頭とうとうその尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に捩込ねじこんで、三百万円の償金を出せと云うことになって、捫着もんちゃくの末、ついにその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭仕舞しまいには鎖国攘夷と云うことを云わずにあらたに鎖港とう名を案じ出して、ソレで幕府から態々わざわざ池田播磨守いけだはりまのかみと云う外国奉行を使節として仏蘭西フランスまで鎖港の談判につかわすと云うような騒ぎで、一切いっさい滅茶苦茶めちゃくちゃ、暗殺はほとんど毎日のごとく、実に恐ろしい世の中になって仕舞しまった。う云う時勢であるから、私はただ一身をつつしんでドウでもしてわざわい※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれさえすればいと云うことに心掛けて居ました。

剣術の全盛

かく癸亥みづのといの前後と云うものは、世の中は唯無闇に武張ぶばるばかり。その武張ると云うのもおのずから由来がある。徳川政府は行政外交の局にあたって居るからよんどころなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだとうと、ソリャ鎖国家の巣窟そうくついっても有様ありさまで、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭をもたげる時代でない。当時少しく世間に向くような人間はことごと長大小ながだいしょうよこたえる。れから江戸市中の剣術家は幕府に召出めしだされてはばかせて、剣術おお流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも体度たいどを改めて来た。元来がんらいその坊主と云うものは城内に出仕して大名旗本はたもとの給仕役を勤める所謂いわゆる茶道坊主であるから、平生へいぜいは短い脇差わきざしして大名にもらっ縮緬ちりめんの羽織を着てチョコ/\歩くと云うのがれが坊主の本分であるのに、世間が武張ぶばるとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、御家人ごけにん旗本のあいだには黄平きびらの羽織に漆紋うるしもん、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が始終しじゅうソレをして居たとかと云うような云伝いいつたえで、ソレが武家社会一面のおお流行。ソレカラ江戸市中七夕たなばたの飾りには、笹に短冊を付けて西瓜すいかきれとかうり張子はりことか団扇うちわとか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀たちとかかぶととかうようなものを吊すようになって、全体の人気にんきがすっかり昔の武士風になって仕舞しまった。とてれでは寄付よりつきようがない。

刀剣を売払う

ソコで私はただ独りの身をつつしむと同時に、是れはドウしたって刀はらない、馬鹿々々ばかばかしい、刀はうっ仕舞しまえと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前しんめいまえ田中重兵衛たなかじゅうべえと云う刀屋をよんで、ことごと売払うりはらっ仕舞しまった。けれどもその時分はマダ双刀だいしょうさなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀ちいさがたなすなわ※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもを着るとき挟す脇差のさやを少し長くして刀に仕立て、れから神明前の金物屋で小刀こがたなかって短刀作りにこしらえて、ただしるけの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取うけとったことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それぎりほかには何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、たわむれに居合をぬいて、随分ずいぶん好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合がたなはすっかり奥に仕舞しまい込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うようなふうをして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年のあいだと云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だとうと、ただ著書飜訳ほんやくにのみ屈託くったくして歳月をおくって居ました。

再度米国行


 それから慶応三年になって又私は亜米利加アメリカいった。れで三度目の外国こう。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加行についてもまたなか/\話がある。と云うのは、先年亜米利加の公使ロペルト・エーチ・プラインと云う人が来て居て、その時に幕府で軍艦をこしらえなければならぬと云うことで、亜米利加の公使にその買入方かいいれかたを頼んで、数度すうどに渡したその金高は八十万ドルラル、そうして追々おいおいにその軍艦が出来て来るはず。ソレで文久三、四年の頃、富士山ふじやまと云う船が一艘出来て来て、そのあたいは四十万弗。所がその後幕府はなか/\な混雑、又亜米利加にも南北戦争と云う内乱がおこったと云うようなわけで、その後一向便りもない。何しろ金は八十万弗渡したその中で、四十万弗の船が来たけでその後は何も来ない。りとはらちが明かぬから、アトの軍艦は此方こっちからいっ請取うけとろう。そのついでに鉄砲もかって来ようとうような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは小野友五郎おのともごろう、この人は御勘定吟味役ごかんじょうぎんみやくと云う役目で御勘定奉行の次席、なか/\時の政府においては権力もあり地位も高い役人である。その人が委員長を命ぜられて、その副長には松本寿太夫まつもとじゅだいふと云う人が命ぜられたと云うことは、その前年の冬にまった。れから私もモウ一度行て見たいものだとおもって、小野の家に度々どど行て頼んだ。何卒どうぞ一緒に連れて行てれないかといった所が、連れて行こうと云うことになって、私は小野に随従ずいじゅうして行くことになりました。そのほか同行の人は、船を請取るのですから海軍の人も両人ばかり、又通弁つうべんの人も行きました。

太平海の郵便汽船始めて通ず

この時には亜米利加アメリカと日本とのあいだに太平海の郵便船が始めて開通したそのとしで、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日もかかったと云うのが、今度のコロラドは四千トンの飛脚船、船中の一切いっさい万事、実に極楽世界で、廿二にじゅうに日目に桑港サンフランシスコついた。着たけれども今とはちがってその時分はマダ鉄道のないときで、パナマにまわらなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留とうりゅうして、其処そこで太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車にのってあの地峡ちきょうえて、向側むこうがわに出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育ニューヨークに着き、華聖頓ワシントン落付おちついて、取敢とりあえず亜米利加の国務卿にうて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様がく分る。此方こっち出立しゅったつする時から、先方の談判には八十万ドルラル渡したとう請取がなければならぬと云うことは能くわかって居る。所がどうも丸で一寸ちょいとした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中にはかも三角の紙切にわずかに何万弗請取りと記してただプラインと云う名ばかりかいてあるのが何枚もある。何のめにどうして請取たと云う約定やくじょうもなければ何にもない。ただ金を請取たと云うけの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱なほとんど無証拠といってもい位。ソコでその事については出発ぜん随分ずいぶん議論しました。かえっれがよろしい、此方こっちでは一切いっさい万事、亜米利加アメリカの公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、ただ口で請取たら請取たとうたけで沢山だ、是れは只覚書にすうを記したけの事、もとよりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談をめて、彼方あっちへ行てからその話に及ぶと、ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでもいと、文句なしに立派に出掛けて来た。

吾妻艦を買う

れで安心であるとした所で、此方こっちでは軍艦一艘欲しい。れから諸方の軍艦を見てまわって、是れがかろうといって、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦あずまかんとなりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、そのほか小銃何百ちょうか何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方あっちに七、八万ドルラル残て居る。是れは亜米利加アメリカの政府に預けておいて、その船を廻航かいこうするについて、私共は先にかえったが、海軍省からいった人はアトにのこって、そうして亜米利加の船長を一人やとうて此方こっちに廻航することになって、夫れで事がんだ。丁度船の日本についたのは王政維新の明治政府になってから、すなわち明治元年であるが、その事について当時会計をつかさどって居た由利公正ゆりきみまささんにあって後にきいた所が、ドウもあの時金を払うには誠にこまった、明治政府には金がない。如何どうやらうやらヤット何十万弗こしらえてはらったと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金があまっ彼方あっちに預けてあるはずだと云うたら、うかと云って、由利は大造たいそう驚いて居ました。何処どこにドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加アメリカ人が取るけはない、何処どこかに舞込まいこんで仕舞しまうたにちがいない。

幕府人の無法を厭う、安いドルラル

それはさて置き、私の一身についてその時はなはだ穏かならぬ事があった、とうのは私は幕府の用をして居るけれども、如何いかなこと幕府をたすけなければならぬとか云うような事を考えたことがない。私の主義にすれば第一鎖国が嫌い、古風の門閥無理圧制が大嫌いで、何でもこの主義にそむく者は皆敵のように思うから、此方こっちが思う通りに、先方さきの鎖国家古風家もまた洋学者を外道げどうのようににくむだろう。所で私が幕府の様子を見るに、全く古風のそのまゝで、少しも開国主義と思われない、自由主義と見えない。例えば年来、政府の御用達は三井八郎右衛門みついはちろうえもんで、政府の用を聞くのみならず、役人等の私用をも周旋するの慣行でした。ソコで今度の米国こうついても、役人が幕府から手当の金を一歩銀で請取うけとれば、亜米利加アメリカに行くときにはこれを洋銀のドルラルえなければならぬ。しかるにその時はドル相場の毎日変化する最中で、両替がはなはだ面倒である。スルト一行中のる役人が三井の手代を横浜の旅宿に呼出よびだし、色々ドルの相場を聞糺ききただしてさてうよう、「成程昨今のドルラルは安くない、しかし三井にはズットその前安い時に買入れた弗もあるだろう、拙者せっしゃのこの一歩銀いちぶぎんはその安い弗と両替して貰いたいと云うと、三井の手代は平伏して、かしこまりました、お安い弗と両替いたしましょうといって、いくらか割合を安くして弗をもって来た。私はそばに居てこの様子を見て居て「ドウモ無鉄砲な事を言う奴だ、金の両替をするに、安いときに買入れた金といって、ドウ云う印があるか、安いも高いもその日の相場にまったものを、夫れを相場はずれにせよと云いながら、はず気色けしきもなく平気な顔をして居るのみならず、その人の平生へいぜいいやしからぬ立派な士君子であるとは驚いた。又三井の手代も算盤そろばんを知るまいことか、チャントしって居ながら平気で損をして何とも云わぬ。畢竟ひっきょう人の罪でない、時の気風のしからしむる所、腐敗の極度だ、こんな政府の立行たちゆこうはずはないとおもったことがある。

御国益論に抵抗す

れから私共が亜米利加アメリカいった所で、その時に日本は国事多端の折柄、徳川政府の方針に万事倹約は勿論、仮令たとい政府であろうとも利益あることには着手せねばならぬと云うので、その掛の役人を命じて御国益掛ごこくえきがかりと云うものが出来た。種々しゅじゅ様々な新工夫の新策をたてまつる者があれば、ソレを政府に採用していろ/\な工夫をする。例えば江戸市中の何処どこの所に掘割ほりわりをして通船かよいせん運上うんじょうを取るがよろしいと云う者もあり、又あるい新川しんかわ這入はいる酒に税を課したらかろうとか、何処どこの原野の開墾かいこんを引受けてソレで幾らかの運上を納めようとう者もあり、又る時江戸市中の下肥しもごえを一手に任せてその利益を政府にめようではないかと云う説がおこった。スルトる洋学者が大に※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)きえんはいて、政府が差配人さはいにんを無視して下肥の利をもっぱらにせんとは、れは所謂いわゆる圧制政府である、昔し/\亜米利加アメリカ国民はその本国英の政府より輸入の茶に課税したるをいきどおり、貴婦人達は一切いっさい茶をのまずして茶話ちゃわ会の楽しみをも廃したとうことをきいた、れば吾々もこの度は米国人のひんならい、一切※(「囗<睛のつくり」、第3水準1-15-33)じょうせいを廃して政府をこまらしてろうではないか、この発案の可否如何いかんとて、一座大笑たいしょうもよおしたことがある。政府の事情がおよう云う風であるから、今度の一行中にも例の御国益掛ごこくえきがかりの人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書のあたいは次第に高くなるに違いない、よりて今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない。「原書買入ははなはよろしい。日本には原書が払底ふっていであるから一冊でも余計に輸入したいと思う所に、さいわいなるかな、今度米国に来て官金をもっ沢山たくさんに買入れ、日本にもっかえって原価でドシ/\うっろう、左様そうなれば誠に難有ありがたい。如何いかようにも勉強して、安いもの適当なものを買入れよう。この儀は如何どうで御座るとたずぬれば、「イヤ左様そうでない、おのずから御国益ごこくえきにする積りだとう。「すれば政府は商売をするのだ。私は商売の宰取さいとりをするめに来たのではない、けれども政府がすでに商売をするときって出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。いずれでもよろしい、政府がかっままあたいで売てれるとえば、私はどんなにでも骨をおって、本を吟味ぎんみして値切り値切ねぎって安く買うて売てるようにするが、政府がもうけると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サアここが官商分れ目だ。如何いかが御座ござるとねじり込んで、大変やかましい事になって、大に重役の歓心を失うて仕舞しまったが、今日より考えれば事の是非ぜひかかわらず、随行の身分にしてはなはくない事だと思います。

幕府を倒せ

れから又斯う云う事がある。同行の尺振八せきしんぱちなどゝ飲みながら壮語快談、ソリャもう官費の酒だから、船中の事で安くはないが何に構うものか、ドシ/\飲み次第喰い次第で、颯々さっさと酒を注文して部屋にとって飲む。サアそれからいろ/\な事をかたり出して、「ドウしたってこの幕府と云うものはつぶさなくてはならぬ。も今の幕政のざまを見ろ。政府の御用と云えば、何品なにしなを買うにも御用だ。酒や魚を買うにも自分で勝手なを付けて買て居るではないか、上総房州から船が這入はいると、幕府の御用だといって一番先にその魚をただもって行くようなことをして居る。ソレも将軍様がうならばマアいとするが、うではない、料理人とか云うような奴が只とって来て、その魚を又うって居るではないか。この一事して他を知るべし、実に鼻持のならぬ政府だ。ソレも宜いとしておいて、この攘夷はドウだ。自分がその局にあたって居るからよんどころなく渋々しぶしぶ開国論を唱えて居ながら、その実をたたいて見ると攘夷論の張本だ。の品川の海鼠台場なまこだいば、マダあれでも足りないと云てこしらえ掛けて居るではないか。れから又勝麟太郎かつりんたろうが兵庫にいって、七輪見たような丸い白い台場を築くなんて何だ。攘夷の用意をするのではないか。そんな政府なら叩き潰して仕舞うが宜いじゃないかと云うと、尺振八が、爾うだ、その通りに違いない。けれどもうして船にのっ亜米利加アメリカに往来するのも、幕府から入用にゅうようを出して居ればこそだ。御同前ごどうぜんくって居るものも着て居るものも幕府の物ではないか。夫れを衣食して居ながら、ソレを潰すと云うのは何だか少し気に済まないようではないか。「それは構わぬ。御同前にこの身等みらが政府の御用をすると云うのは、何も人物がエライと云て用いられて居るのではない、れは横文字をしって居るからとうに過ぎない。

穢多に革細工

これたとえば革細工かわざいくだから穢多えたにさせるとうと同じ事で、マア御同前ごどうぜん雪駄せった直しを見たような者だ。幕府の殿様方は汚い事が出来ない、幸い此処ここに革細工をする奴が居るからソレにさせろと云うので、デイ/\が大きな屋敷の御出入おでいりになったのと少しも変ったことはない。ソレに遠慮会釈も糸瓜へちまるものか、颯々さっさ打毀ぶちこわしてれ。ただ此処で困るのは、たれこれを打毀すか、ソレに当惑して居る。乃公等おれらは自分でその先棒さきぼうになろうとは思わぬ。だれが之を打毀うちこわすか、之が大問題である。今の世間を見るに、之を毀そうといって騒いで居るのは所謂いわゆる浮浪の徒、すなわち長州とか薩州とか云う攘夷藩の浪人共であるが、しもの浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりもマダ今の幕府の方がしだ。けれども如何どうしたって幕府は早晩そうばん倒さなければならぬ、ただ差当さしあたり倒す人間がないから仕方なしに見て居るのだ。こまった話ではないかなどゝ、つ飲み且つ語り、部屋の中とは云いながら、人の出入りをめるでもなし、傍若無人ぼうじゃくぶじん、大きな声でドシ/\論じて居たのだから、う云うような話もチラホラ重役の耳に聞えたことがあるにちがいない。

謹慎を命ぜらる

サアれから江戸にかえった所が、前にもう通り私は幕府の外務省に出て飜訳ほんやくをして居たのであるが、外国奉行からとがめられた。ドウも貴様は亜米利加アメリカこうの御用中不都合があるから引込ひっこんで謹慎せよと云う。勿論もちろん幕府の引込めと云うのは誠に楽なもので、外に出るのは一向構わぬ。ただ役所に出さえしなければよろしいのであるから、一身のめには何ともない。かえって暇になって難有ありがたい位のことだから、命令の通りぐ引込んで、その時に西洋旅案内と云う本をかいて居ました。

福澤の実兄薩州に在り

亜米利加からかえって日本についたのはそのとしの六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\やかましい。私はただうち引籠ひきこもって生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島にいって居るとか何とかう途方もない評判をして居る。兄が薩藩にみして居るから弟も変だと云うのは、私がややもすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府はつぶすがなど云うから、おのずからそんな評判も立つのであろうが、何はさて置き十余年前にこの世をさった兄が鹿児島に居るけもなし、俗世界の流言としていささか弁解もせず、又幕府に対しても所謂いわゆる有志者中には種々しゅじゅ様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切いっさい関係せず、ただひとり世の中を眺めて居るうちに、段々時勢が切迫して来て、或日あるひ〔島〕三郎助さぶろうすけう人が私の処に来て、ドウして引込ひっこんで居るか。「う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「よろしい、拙者がすぐに出してると云て、れからその時に稲葉美濃守いなばみののかみと云う老中があって、ソコへ中嶋がいって、福澤を引込ひっこまして置かないで出すようにしたらかろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢とうのさわに隠居して居るあの老爺おじいさんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力よりき、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園にたってある。

長官に対して不従順

全体今度の亜米利加アメリカこうついく私が擯斥ひんせきされたと云うのは、何か私が独りいようにあるけれども、実を申せば左様そうでない、と云うのはと私は亜米利加に行きたい/\と云て小野友五郎おのともごろうに頼み、同人の信用を得て随行員となった一人であれば、一切万事長者の命令に従いその思う通りの事をしなければまないけだ。所が実際はうでなく、始終しじゅう逆らうような事をするのみか、あきらかに命令にそむいたこともある。例えば彼の在留中、小野おのも立腹したと見え、私にむかって、最早もはや御用も済みたればお前は今からきに帰国するがよろしいとうと、私が不服だ。「此処ここまで連れて来て散々御用を勤めさせて、用が少なくなったからといって途中で帰れと云う権力は長官にもなかろう。私は日本を出るとき閣老にお暇乞いとまごいをして出て来た者である、早く云えば御老中から云付いいつけられて来たのだ。お前さんが帰れと云ても私は帰らないとリキンダのは、私の方が無法であろう。また或日あるひ食事の時に私が何か話のついでに、全体今の幕府の気が知れない、攘夷鎖港とは何の趣意しゅいだ、これめに品川の台場の増築とは何のたわぶれだ、その台場を築いた者はこのテーブルの中にも居るではないか、こんな事で日本国がてると思うか、日本は大切な国だぞなどゝ、公衆の前で公言したような事は、私の方こそ気違いの沙汰さたである。成程小野は頑固な人にちがいない、けれども私の不従順と云うことも十分であるから、始終しじゅう嫌われたのはもっと至極しごく、少しもうらむ所はない。

王政維新


 そのとしも段々せまって、とう/\慶応三年のくれになって、世の中が物騒ぶっそうになって来たから、生徒も自然にその影響をこうむらなければならぬ。国に帰るもあれば方々ほうぼうに行くもあるとうようなけで、学生は次第々々にすくなくなると同時に、今まで私のすんで居た鉄砲洲てっぽうず奥平おくだいらやしきは、外国人の居留地になるので幕府から上地じょうちを命ぜられ、すでに居留地になれば私も其処そこに居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、新銭座しんせんざ有馬ありまと云う大名の中屋敷を買受かいうけて、引移ひきうつるやいなや鉄砲洲は居留地になり、くれば慶応四年、すなわち明治元年の正月早々、伏見ふしみの戦争が始まって、将軍慶喜よしのぶ公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって仕舞しまった。即ちれが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。そもそも王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末てんまつあきらかにしなければならぬ。

維新の際に一身の進退

と私は小士族の家にうまれ、その頃は封建時代の事で日本国中いずれも同様、藩の制度は守旧しゅきゅう一偏いっぺんの有様で、藩士銘々めいめいの分限がチャントまって、上士じょうしは上士、下士かしは下士と、箱に入れたようにして、そのあいだに少しも融通ゆうづうがあられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年たってもその分限は変らない。したがって小士族の家に生れた者は、おのずから上流士族の者から常に軽蔑けいべつを受ける。人々の智愚ちぐ賢不肖けんふしょうかかわらず、上士は下士を目下に見くだすとふうもっぱら行われて、私は少年の時からソレについ如何いかにも不平でたまらない。

門閥の人を悪まずしてその悪習を悪む

所がその不平のきょくは、人から侮辱されるその侮辱の事柄をにくみ、ついには人を忘れてただその事柄を見苦しきことゝ思い、門閥のゆえもっみだりに威張るは男子のずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士相対あいたいして上士が横風おうふうである、私はこれを見てその上士の傲慢無礼ごうまんぶれいいきどおると同時に、心の中では思直おもいなおして、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に威張いばって居る、見苦しい奴だとかえって気の毒に思うて、心中却て此方こっちから軽蔑けいべつして居ました。私がその時老成人ろうせいじんであるかまた仏者ぶっしゃであったら、人道世教せきょうめに如何どうとか、又は平等を愛して差別を排するとか何とかう説もあろうが、十歳以上十九か二十歳はたちの少年にそんなむずかしい奥ゆかしいかんがえのあるべきはずはない。ただ人間の殻威張からいばりは見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかりおもって居たから、れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人をはずかしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者にむかって自分が軽蔑されたけソレ丈け軽蔑してれば、所謂いわゆる江戸のかたきを長崎でうって、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私はしもの方に向て大変丁寧にして居ました。

父母の遺伝

れは私独りの発明でない、私の父母共にう云う風があったと推察が出来ます。前にもいった通り、私の父は勿論もちろん漢学者で、身分は私と同じ事であるから、さだめて上流士族から蔑視べっしされて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば江州ごうしゅう水口みなくち碩学せきがく中村栗園なかむらりつえんは父の実弟のように親しくして居ましたが、元来がんらい栗園の身分は豊前ぶぜん中津なかつ染物屋そめものやの息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違をわず大層たいそう丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に寄寓きぐうさせて種々しゅじゅに周旋して、とう/\水口みなくちの儒者になるように取持ち、その間柄とうものはまことに骨肉の兄弟にもおとらず、父の死後私の代になって、栗園りつえん先生は福澤の家を第二の実家のような塩梅あんばいにして、死ぬまで交際して居ました。シテ見るとれは決して私の発明でない、父母からゆずられた性質であると思う。ソレで私は中津なかつに居て上流士族から蔑視べっしされて居ながら、私の身分以下の藩士は勿論もちろん、町人百姓にむかっても、仮初かりそめにも横風おうふうに構えてその人々を目下に見下みくだして、威張るなどゝ云うことは一寸ちょいともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないからただモウさわらぬように相手にならぬようと、独りみずから安心決定あんじんけつじょうして居る。

本藩に対して功名心なし

すでに心に決定して居れば、藩に居て功名心こうめいしんと云うものはらにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦がかえって恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞しまけの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしとう安心をめて居ましたので、れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うるとうことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊たんぱくで、長い歳月のあいだただの一度も建白なんと云うことをしたことはない。く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学をさかんにするがいとか、兵制を改革するがいとか云うことは書生のることだ、けれども私に限り只の一度も云出いいだしたことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩にむかって求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝもらいたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、いんにもようにもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸にまいってからも、本藩の様子を見れば種々しゅじゅな事をこころみて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレをいといっめもしなければ悪いと云てめたこともなし、又あるいは大に漢学をさかんにすると云てしきりに学校の改革などを企てたこともある。あるいは兵制は甲州流がいと云て法螺ほらの貝をふいて藩中で調練をしたこともある。ソレも私はただ目前もくぜんに見て居るばかりで、いとも悪いとも一寸ちいとも云たことがない。或時あるときに家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家にいったらば、その隠居が、ドウも公武こうぶあいだはなはだ穏かでない、全体どうも近衛様このえさまうも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中がつまらないとか云うような慷慨こうがい談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何いかにも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、さてソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダしていこともあるだろう、なくていこともあるだろう、傍観者からこれを見たらばさぞがたいことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見ればまたう思う通りに行かないもので、矢張り今の通りよりほか仕様しようがない。余り人の事を批評してもつまらぬ事です。私は一体そんな事については何を議論しようとも思わぬといって、少しも相手にならなかった。

拝領の紋服をその日に売る

爾う云う風に構えて、一切いっさい政治の事について口を出そうと思わない。思わないから奥平のやしきで立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、ただ屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時あるとき私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸おこなんどの処へまいった所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋のついて居る縮緬ちりめんの羽織をれた。即ち御紋服ごもんぷく拝領はいりょうだ。まで喜びもしなければ、品物が粗末だといって苦情もわず、ただ難有ありがとうございますと云て拝領はいりょうして、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄ぼうけいの朋友菅沼孫右衛門すがぬままごえもんと云う人の勤番きんばん長屋に何か用があってよった所が、其処そこに出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレをきいて居ると羽織をこしらえると云うような様子。れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様さようさ。「うか、羽織には縮緬ちりめんの売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付ごもんつきだから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャい、爾う云う売物があるならかくも見たいものだ。「買うと云いなされば此処ここに持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支さしつかえない、買おう。ついては此処ここに呉服屋が来て居るが、あたいはドウだ。「は呉服屋に付けて貰えばいと云て、夫れからどの位のあたいかと云たら、ひとえ羽織の事だから一両三分だとう。スグ相談が出来て、その羽織をうって一両三分の金を持て、私は鉄砲洲てっぽうずの中屋敷にかえったことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまでしたためて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日きのう見たの原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極しごく無邪気な事であった。

主従の間も売言葉に買言葉

う風であるから藩に対してはなはだ淡白、淡白と云えば言葉がいけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を吹掛ふっかけることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様にむかって悪い事をしたことはない、一寸ちょいとでも藩政の邪魔をしたことはない、ただ命令のままに堅くまもって居るのだ。この上に親切といってドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、これを不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、一寸ちょいとでも求めたことがなかろう、あるいは身分を取立てれろ、禄を増して呉れろと云うような事は、かげにも日向ひなたにも一言いちごんでも云たことがあるか。その言葉をきいた人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るがい。厚かましく親切をつくして、厚かましく泣付なきつくと云うことは、自分の性質において出来ない。れで悪いと云うならば追出すよりほかに仕方はあるまい。追出せばつつしんでめいを奉じて出て行くけの話だ。およそ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から数代すだい御奉公を仰付おおせつけられて難有ありがた仕合しあわせであろうとひどく恩にせれば、失敬ながら此方こっちにも言葉がある、数代すだい家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくてもかろうとわねばならぬ。これに反して藩の方から手前達のような家来が数代すだい神妙に奉公してれたからこの藩も行立ゆきたつとう云えば、此方こっちまた言葉を改め、数代すだい御恩をこうむっ難有ありがた仕合しあわせに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにもかかわらず下さるけの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、此方こっちも小さくなってお礼を申上げる。これれが[#「これれが」はママ]すなわち売言葉に買言葉だ。ソレけの事はわたくししって居る。無闇むやみに恩に被せる事ばかりいって、ただ漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、始終しじゅう問答をして居ました。

長州征伐に学生の帰藩を留める

れから長州藩が穏かでない。朝敵とめいついて、ソコで将軍御親発ごしんぱつとなり、又幕府から九州の諸大名にも長州にむかって兵を出せと云う命令がくだって、豊前ぶぜん中津なかつ藩からも兵を出す。ついては江戸に留学して居る学生、小幡篤次郎おばたとくじろうを始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て呼還よびかえしに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が戦争いくさに出るとは誠に危ない話で、流丸りゅうがんあたっても死んで仕舞しまわなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲をかつがせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生にかえって鉄砲をかつげなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、仮令たとい弾丸にあたらないでも、足に踏抜ふみぬきしても損だ、構うことはない病気といっことわっ仕舞しまえ、一人もかえさない、ソレがまかり間違えば藩から放逐ほうちくけの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでもよろしい、かくに学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと頑張がんばった所が、藩の方でも因循いんじゅんであったのか、いて呼返すとうこともせずに、その罪は中津なかつに居る父兄の身に降りきたって、その方共の子弟がめいそむいて帰藩せぬのは平生へいぜいの教訓よろしからざるに云々うんぬんの文句で、何でも五十日か六十日の閉門を申付もうしつけられたことがある。およそ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を如何どうしようとも思わず、立身出世して威張いばろうとも思わず、世間で云う功名こうみょう心は腹の底からあらったように何にもなかった。

幕府にも感服せず

藩に対しての身の成行なりゆき、心のおきどころは右の通りで、さて江戸に来て居る中に幕府にやとわれて、後にはいよ/\幕府の家来になって仕舞しまえとうので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米をもらっ一寸ちょい旗本はたもとのような者になって居たことがある。けれどもまた、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、したがって自分の身分が何であろうとも気にめたことがない。一寸ちょいとした事だが可笑おかしい話があるその次第は、江戸で御家人ごけにんの事を旦那だんない、旗本はたもとの事を殿様とのさまと云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、もとより自分で殿様なんて馬鹿気ばかげたことを考えるけもなければ、家内の者もその通りで、平生へいぜいと少しもかわった事はない。うすると或日あるひ知己の幕人(たしか福地源一郎であったかと覚ゆ)が玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女としきりに問答して居る様子、狭い家だからスグ私が聞付ききつけて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様といって下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければきいた者もない言葉だから。

洋行船中の談話

れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安まつきこうあん箕作秋坪みつくりしゅうへいと私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだとても幕府の一手持いってもちむずかしい、ず諸大名を集めて独逸ドイツ聯邦れんぽうのようにしては如何いかんと云うに、松木まつき箕作みつくりも、マアそんな事が穏かだろうとう。れから段々身の上話に及んで、今日吾々われわれ共の思う通りをえば、正米しょうまいを年に二百俵もらうて親玉おやだま将軍の事)の御師匠番になって、思うように文明開国の説を吹込ふきこんで大変革をさして見たいと云うと、松木が手をうって、左様そうだ/\、れはやって見たいといったのは、松木の功名こうめい心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者のかんがえは大抵皆大同小異、一身のめに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則てらしまむねのりとなって、参議さんぎとか外務卿がいむきょうとかう実際の国事に当たのは、実は本人のがらおいて商売ちがいであったと思います。
 れはさて置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪すなわち有志者は京都にあつまって居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論もちろん時の政府でリキンで居ると云うけで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処そこいたって私が如何どうするかと云うに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いでこれに力をつくす気はない。
第二、ればとての勤王家とう一類を見れば、幕府よりお一層はなはだしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。
第三、東西二派の理非曲直はしばら扨置さておき、男子が所謂いわゆる宿昔青雲しゅくせきせいうんこころざしを達するは乱世にり、勤王でも佐幕でもこころみにあたって砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。
 今その次第を語りましょう。も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸ちょい旗本はたもと御家人ごけにん出遇であう所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌もく行儀も立派であるが、何分にも外辺うわべばかりで、物事を微密ちみつに考える脳力のうりょくもなければまた腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方こちらは又る影もない陪臣だから手のけようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅あんばい式は、京都の御公卿様おくげさまを取扱うように、ただ見た所ばかりを丁寧にして心の中では見くびぬいて居た。

葵の紋の御威光

所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々大造たいそうのものである。些細ささいな事のようだが、当時最もしゃくに障るのは旅行の道中で、幕人の威張いばり方と云うものはとても今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの蛆虫うじむし同様、幕府の役人は勿論、およそ葵の紋所のついて居る御三家と云い、れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に打付ぶっつかろうものならソリャたまらない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうとおもって寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのをまって居る、ヤッと船がついて、やれ嬉しやこの船に乗ろうとう時に、不意と後ろから葵の紋のさむらいが来るとその者がきへその船にのっ仕舞しまう、又アト一時間も待たなければならぬ。駕籠かごかつぐ人足でも無人のときには吾々われわれ問屋場といやばいって頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。如何どんなお心善こころよしでも腹を立てずには居られない。およそ幕府の圧制殻威張からいばりは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に侮辱ぶじょく軽蔑けいべつを受けたのは、道中の一事でも血気の熱心はおのずから禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、ただ癇癪かんしゃくの余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。

幕府の攘夷主義

幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、れは此方こっちの血気の熱心であるとしてしばら差置さしおき、さてこの日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、如何どうも見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書をよんで、れから亜米利加アメリカに行き、その次には欧羅巴ヨーロッパに行き、又亜米利加に行て、ただ学問ばかりでなく実地を見聞けんもんして見れば、如何どうしても対外国是こくぜうように仕向しむけなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法とうことに気の付くは当然あたりまえの話であろう。ソコでその私のかんがえから割出わりだして、この徳川政府を見るとほとんど取所とりどころのない有様で、当時日本国中の輿論よろんすべて攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であるといって間違いはあるまい。あるいは後年にいたって大老井伊掃部頭いいかもんのかみは開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で吹聴ふいちょうする人もあればほんあらわした者もあるが、開国主義なんて大嘘だいうそかわ、何が開国論なものか、存じけもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、申分もうしぶんのない参河武士みかわぶしだ。江戸の大城たいじょう炎上のとき幼君を守護して紅葉山もみじやま立退たちのき、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中不用心ぶようじんなりとて、みずから腰の一刀をぬいてその草を切払きりはらい、手に幼君をようして終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、れは攘夷論をにくめではない、浮浪の処士が横議おうぎして徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。是等の事実を見ても、井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論にいたっては、真闇まっくらな攘実家とうよりほかに評論はない。ただその徳川が開国であると云うのは、外国交際のしょうあたって居るから余儀なく渋々しぶしぶ開国論にしたがって居たけの話で、一幕まくっ正味しょうみ楽屋がくやを見たらば大変な攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないとうのも無理はなかろう。ずその時の徳川政府の頑固な一例を申せばうことがある。私がチエーンバーの経済論を一冊もって居て、何か話のついでに御勘定方の有力な人、すなわち今で申せば大蔵省中の重要の職に居る人にその経済書の事を語ると、大造たいそうよろこんで、ドウか目録だけでもいから是非見たいと所望するから、早速飜訳ほんやくする中に、コンペチションと云う原語に出遭であい、色々考えた末、競争と云う訳字を造り出してこれ当箝あてはめ、前後二十条ばかりの目録を飜訳して之を見せた所が、その人が之を見てしきりに感心して居たようだが、「イヤここあらそいと云う字がある、ドウもれが穏かでない、どんな事であるか。「どんな事ッて是れは何も珍らしいことはない、日本の商人のして居る通り、隣で物を安く売ると云えば此方こっちの店ではソレよりも安くしよう、また甲の商人が品物をくするとえば、乙はソレよりも一層くして客を呼ぼうとうので、又る金貸が利息を下げれば、隣の金貸も割合を安くして店の繁昌をはかると云うような事で、たがいに競い争うて、ソレでもってちゃんと物価もまれば金利もまる、これなづけて競争と云うので御座ござる。「成程、うか、西洋の流儀はキツイものだね。「何もキツイ事はない、ソレですべて商売世界の大本おおもとまるのである。「成程なるほど、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウもあらそいと云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間たがい相譲あいゆずるとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家のめには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支おさしつかえならば、外に飜訳ほんやくの致しようもないから、丸でれは削りましょうといって、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時あるとき英人であったか米人であったか幕府に書翰をいだし、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレをうけたまわりたいと云て来た。うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞へんじやったその返辞の中に、開鎖論と云うことをとんと云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとかいそうなものであるに、ソンな事は一言いちごん半句もわないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、あるいは勅命にもと台命たいめいそむき、その罪南山なんざんの竹をつくすも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書てやった。私はその返辞へんじを見て、コリャどうも仕様しようがない、表面うわべには開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷がたくてたまらないのだ、とてもモウ手のけようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。
 しからばすなわこれとって代ろうと云う上方かみがたの勤王家はドウだと云うに、彼等がかわったらかえっておつりの出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、つまる所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩がついに上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実において人殺しもすれば放火つけびもして居る、その目的を尋ねて見ると、仮令たといこの国を焦土にしてもくまで攘夷をしなければならぬと触込ふれこみで、一切いっさい万事一挙一動ことごとく攘夷ならざるはなし。しかるに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としてもこれに同情を表して仲間になるような事は出来られない。れこそ実に国を滅す奴等やつらだ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だとかんがえ[#ルビの「かんがえ」は底本では「かんが」]始終しじゅう胸に染込んで居たから、何としても上方かみがたの者に左袒さたんする気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は阿母おっかさんのようにして居る恩人である。ある時に隠居が私と箕作みつくりを呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、馬鹿々々ばかばかしいしなさい、ソレよりか上方にいって御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々きいて見ると村田むらた〔蔵〕すなわ大村益次郎おおむらますじろうとか佐野栄寿さのえいじゅ常民つねたみ)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんがしって居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に難有ありがとうございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、うじゃないかと、箕作といって断わったことがありましたが、その位のけで、ドウしてもその上方勢にみすることは出来なかった。
 それからモウ一つ私の身について云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞しまったので、所謂いわゆる藩の役人らしい公用を勤めたことがない。れから前にもう通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからといった所が、れはわば筆執る飜訳ほんやくの職人で、政治にあずかろうけもない。ただ職人の積りで居るのだから、政治のかんがえと云うものは少しもない。自分でもようとも思わなければ、また私は出来ようとも思わない。仮令たとい又私が奮発して、幕府なり上方かみがたなり何でも都合のい方に飛出すとした処が、人の下流について仕事をすることはもとより出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱ぶじょく軽蔑けいべつされたその不平不愉快は骨にてっして忘れられないから、今ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。ればおおいに立身して所謂いわゆる政治界の大人たいじんとならんか、是れもはなはだ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式ばっ横風おうふうな顔をして人を目下もくかに見下だすこともまた甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄よびすてにしたことがない。車夫、馬丁ばてい人足にんそく小商人こあきんどごとき下等社会の者は別にして、いやしくも話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論もちろん、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄よびすてにすることは出来ない。かわりに政治社会の歴々とか何とかう人を見ても何ともない。れも白髪の老人とでもえば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすればただ可笑おかしいばかりで、話をするのも面白くない。れは私がもって生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、これを要するに如何どうしても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にもひとり別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
 さて慶喜けいきさんが京都から江戸にかえって来たとうその時には、サア大変。朝野ちょうや共に物論沸騰して、武家は勿論もちろん、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論にいそがわしく、酔えるがごとく狂するが如く、人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生ふだんなれば大広間、たまりの間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々やかましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐あぐらかいて、怒鳴る者もあれば、ソットたもとから小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方がいこくがた飜訳ほんやくなどの用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之かとうひろゆきと今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処そこいって、「イヤ加藤かとう君、今日はお※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)かみしもで何事に出て来たのかとうと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、の時に慶喜けいきさんがかえって来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気やっきとなって、上方かみがたの賊軍が出発したから何でもれは富士川ふじがわで防がなければならぬとか、イヤうでない、箱根の嶮阻けんそよっ二子山ふたこやまの処で賊を鏖殺みなごろしにするがい、東照神君とうしょうしんくん三百年の洪業は一朝にしてつべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するにかずなんて、種々しゅじゅ様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨こうがい気焔きえんを吐く者が多いから、わずと知れた加藤等もその連中れんじゅうで、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵たいてい分るだろうから、ドウぞれを僕に知らしてたまえ、是非ぜひ聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッてわかってるではないか、是れがいよ/\戦争にまれば僕は荷物をこしらえて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付おちついて居る。その和戦如何いかんはなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事をいって居る時勢ではないぞ、馬鹿々々ばかばかしい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻そっこくげて行くのだからといったら、加藤がプリ/\おこって居たことがあります。
 れからまた或日あるひ外国方がいこくがたの小役人が出て来て、時に福澤さんは家来は何人お召連めしつれになるかとうから、「家来とは何だとうと、「イヤ事急なれば皆この城中にめる方々におまかないを下さるので人数にんずを調べて居る処です。「うかソレは誠に難有ありがたい、難有ありがたいが私は勿論もちろん家来もなければ主人もない。ドウぞ福澤のお賄だけはおめにして下さい。弥々いよいよ戦争が始まると云うのに、この城の中に来て悠々と弁当などくって居られるものか、始まろうと云う気振けぶりが見えれば何処どこかへぐに逃出して行きます。ず私のお賄はらないものとして下さいと、わらって茶をんで居た。全体を云うと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許すけはない、ぐ一刀の下に首が夫くなるはずだけれども、れが所謂いわゆる幕末の形勢で、とても本式に戦争などの出来る人気にんきでなかった。
 その前に慶喜けいきさんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々しゅじゅ様々な役人が出来た。可笑おかしくてたまらない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処どこの代官に誰がなる。はなはだしきにいたっては逃去て来たあとの兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方こっちに出来て居る。れから又御目附おめつけになるもあれば、御使番おつかいばんになるものもある。何でも加藤弘之かとうひろゆき津田真一つだしんいち真道まみち)なども御目附か御使番おつかいばんかになって居たと思う。私にも御使番になれとう。奉書到来と云う儀式で、夜中やちゅう差紙さしがみが来たが、真平まっぴら御免だ、私は病気で御座ござるといって取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方かみがた勢)が這入はいり込んで、ソロ/\鎮将府ちんじょうふうようなものが江戸に出来て、慶喜けいきさんは水戸の方に行くとうなったので、れは慶応四年すなわち明治元年春からの騒ぎで、その時に私はしば新銭座しんせんざに屋敷が買ってあったから引越ひっこさなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒のめに塾舎もこしらえなければならず、又私の住居すまいも拵えなければならぬ。さてその普請ふしんの一段になった所で、江戸市中おお騒動の最中、かえって都合がい。八百八町ただの一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物をからげて田舎に引越ひっこすとうような者ばかり、手まわしのい家ではかまど銅壺どうこまではずして仕舞しまって、自分は土竈どべっついこしらえて飯をたいて居る者もある。この最中に私が普請ふしんを始めた処が、大工や左官のよろこびと云うものは一方ひとかたならぬ。安いにも/\、何でも飯がわれさえすればい、米の代さえあれば働くとけで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々さっさつと出来る。その建物も新たに拵えるのではない。奥平屋敷の古長屋をもらって来て、およそ百五十坪も普請したが、入費にゅうひわずか四百両ばかりで一切いっさい仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などはわざめに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処どこでも家をわして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウするつもりだとうから、私は答えて、「ソリャうでない、今僕があらたに普請するから可笑おかしいように見えるけれども、去年普請をしておいたらドウする。いよ/\戦争になってげる時にその家をかついで行かれるものでない。成程なるほど今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令たとい焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないといって颯々と普請をして、果して何のわざわいもなかったのは投機商売のあたったようなものです。何でも私の処で普請をしために、新銭座しんせんざ辺は余程立退きがすくなかった。彼処あすこの内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越ひきこしを見合せようといっ思止おもいとまった者も大分だいぶあったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処どこから焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処どこかにげる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴をほって隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵のえんの下に這入はいって居ようか、し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州きしゅうの屋敷(今の芝離宮しばりきゅう)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見にいった所が、広い庭で土手が二重に喰違くいちがいになって居る処がある。此処ここかろう、まかちがっていよ/\ドン/″\るようにならば、此処ここへ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くよりほかないとうので、いよ/\セッパつまったその時に、私は伝馬船てんまぶねを五、六日の間やとって、新銭座しんせんざの浜辺につないでおいたことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へいって、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、いち(総領の一太郎いちたろう氏なり)とすて(次男の捨次郎すてじろう氏なり)、家内と子供を連れて其処そこへ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が入込いりこんで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。すでに奥平の屋敷が汐留しおどめにあって、彼処あすこに居る(別室に居る年寄を指して)一太郎いちたろうのお祖母ばばさんがその屋敷に居るので、五歳いつつばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処にとまって居た所が、奥平おくだいら屋敷のツヒ近所に[#「ツヒ近所に」はママ]増山ますやまと云う大名屋敷があって、その屋敷へ不逞ふていの徒が何人とかこもって居るとうので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\やって居る。れからつかまえられたとか斬られたとか、あるいは奥平屋敷の溝の中に人が斬倒きりたおされて、ソレをまた上からやりついたと云うようなおお騒動。所で私のせがれはお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞しまうだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いにろうといっても遣ることも出来ない。れする中に夕方になった所で事はしずまって仕舞しまったが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあってしまりがついて居るから安心しなさいとしきりになだめて一寸ちょいとも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前におもったとは大違い、何ともない。

義塾次第に繁昌

さて四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞しまって、のこった者はわずかに十八人、夫れから四月になった所が段々かえって来て、追々塾の姿を成して次第にさかんになる。又盛になるけもある、とうのは今度私が亜米利加アメリカに行た時には、それ以前、亜米利加に行た時よりも多く金をもらいました。ところで旅行中の費用はすべて官費であるから、政府から請取うけとった金は皆手元に残るゆえ、その金をもって今度こそは有らん限りの原書をかって来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、そのほか法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人とう生徒に銘々めいめいその版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加アメリカ出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟ひっきょう私が始めてもっかえったのが因縁いんえんになったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々ほうぼうに出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布るふして広く行われたと云うのも、事の順序はよくわかって居ます。

官賊の間に偏せず党せず

それでず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。しかし政治上の事は極めて鋭敏なもので、嫌疑けんぎと云うことがあってはれは容易ならぬけであるから、ソレをあきらかにするめに、私は一切いっさい万事何もも打明けて、一口にえば塾も住居すまい殻明からあきにして仕舞しまい、何処どこを捜した所で鉄砲は勿論もちろん一挺いっちょうもなし、刃物はものもなければ飛道具とびどうぐもない、一目明白、すぐに分るようにしました。始終しじゅうう身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も颯々さっさと来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも一切いっさい構わぬ、何方どちらに向ても依怙贔屓えこひいきなしにあつかって居るから、双方共に朋友でした。その時にう云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野にこもらぬ前に、市川辺に小競合こぜりあいがありました。爾うすると賊軍方の者が夜は其処そこいったたかって、昼はねむいからといって塾に来て寝て居た者があったが、ねっから構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マアよしにした方がかろうと云たくらいのことである。

古川節蔵脱走

れから古川節蔵ふるかわせつぞうは長崎丸と云う船の艦長であったが、榎本釜次郎えのもとかまじろうよりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切にめました。「ソリャすがい、とても叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云ういきおいになったからは、モウ船にのって脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思いまるがいと云た所が、節蔵はマダなか/\強気つよきで、「ナアに屹度きっと勝つ、れから出掛けていって、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地にげて、官軍が江戸の方にやって来るその裏をついて、れから大阪湾にいっ掻廻かきまわせば官軍が狼狽するとうような事になって、屹度きっと勝算はありますといって、中々私の云うことを聞かないから、「うか、ソレならば勝手にするがい、乃公おれはモウ負けてもかっても知らないぞ。だが乃公おれ足下そくかを助けようとは思わぬ。ただ可哀かあいそうなのはおまささんだ(節蔵せつぞう氏の内君)、ソレけは生きて居られるように世話をしてる、足下は何としてもう事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。

発狂病人一条米国より帰来

もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居てれから亜米利加アメリカに留学して居た一条いちじょう某と云うものがあって、ソレが亜米利加からかえって来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病してれたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎やぎもとなおたろうれはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎やぎもとなおたろうが親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度ちょうど仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付みつけ次第捕縛ほばくうことになって居る。ソコで横浜に来た所が、まさしく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、まがう方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣うちやって置けと云うような事でそのままにしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があるといっ一切いっさい受付けず、およそ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからそのままてゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\となだめて勧めたけれども何としても喰わない。うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生にいたいと云うことをいい出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々さっさと連れて行けと云うので、ソレから新銭座しんせんざに連れて来た。ソレが面白い、来た所で取敢とりあえず久振りといって茶を出して、茶も飲め、ついでに飯も喰えと勧めて、れから握飯を出して、私もべるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことでこころみた所が、ソコでくい出した。くって見れば気狂いの事だから、今までおもって居たことは忘れて仕舞しまい、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何をり出すか知れない、昼夜番がる。所が可笑おかしい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようとう位な病人をたすけて看柄して居る。うすると仙台の者が忍んで来る。大槻おおつきせがれなども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混りあって、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波ふうはもなければ苦味にがみもない。ソンナ事が塾の安全であったけでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべきたねがない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入はいって居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、う云う事はつくったのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗へんぱな考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々めいめい勝手にしろと、裏も表もなくその趣意しゅいで貫いて居たから、私の身も塾もあやうい所を無難ぶなんに過したことゝ思う。

新政府の御用召

れからいよ/\王政維新とまって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令がくだった。御用があるから出て来いと一番始めに沙汰さたのあったのが、神田孝平かんだたかひら柳川春三やながわしゅんさんと私と三人。所が柳川春三はドウも大阪に行くのはいやだ、だから命は奉ずるけれども御用があればドウゾ江戸に居て勤めたいとう注文。神田孝平は命に応じて行くと云う。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸にうつって来て、江戸の新政府から又御用召ごようめし度々たびたび呼びに来ましたけれども、始終しじゅう断るばかり。或時あるとき神田孝平が私の処へ是非ぜひ出ろといって勧めに来たから、私はこれに答えて、「一体君はう思うか、男子の出処進退は銘々めいめいの好む通りにするがいではないか、世間一般そうありたいものではないか、之に異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の平生へいぜい好む所を実行して居るのだから僕ははなはだ賛成するけれども、僕の身には夫れが嫌いだ、嫌いであるから出ないと云うものも是亦これまた自分の好む所を実行するのだから、君の出て居るのと同じ趣意しゅいではないか。れば今僕は君の進退を賛成して居るから、君もまた僕の進退を賛成して、福澤は引込ひっこんで居る、うまいといって誉めてこそれそうなものだ。夫れを誉めもせずに呼出しに来るとは友達甲斐がいがないじゃないかとおおいに論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく刎付はねつけたことがある。

学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ

夫れから幾ら呼びに来ても政府へはモウ一切いっさい出ないと説をめて居た所が、或日あるひ細川潤次郎ほそかわじゅんじろうが私の処へ来たことがある。その時はマダ文部省とうものゝない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと云う。イヤそれはけない、自分は何もそんな事はしないと答え、れからいろ/\の話もあったが、細川の云うに、ドウしても政府においただてゝ置くと云う理屈はないのだから、政府から君が国家につくした功労を誉めるようにしなければならぬと云うから、私は自分の説を主張して、誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何の事だ、人間が人間当前あたりまえの仕事をして居るに何も不思議はない、車屋は車をき豆腐屋は豆腐をこしらえて書生は書を読むと云うのは人間当前あたりまえの仕事として居るのだ、その仕事をして居るのを政府が誉めると云うなら、ず隣の豆腐屋から誉めてもらわなければならぬ、ソンな事は一切いっさいしなさいといっことわったことがある。れも随分ずいぶん暴論である。
 マアうような調子で、私はひどく政府を嫌うようにあるけれども、その真実の大本たいほんえば、前に申した通りドウしても今度の明治政府は古風一〔点〕張りの攘夷政府と思込おもいこんで仕舞しまったからである。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では仮令たとい政府はかわってもとても国は持てない、大切な日本国を滅茶苦茶にして仕舞しまうだろう本当におもった所が、後にいたってその政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだと云うのは、実に難有ありがた目出めでたい次第であるが、その目出たかろうと云うことが私には始めから測量が出来ずに、ただその時に現れた実の有様にを付けて、コンな古臭い攘夷政府をつくって馬鹿な事を働いて居る諸藩の分らず屋は、国を亡ぼしねぬ奴等やつらじゃとおもって、身は政府に近づかずに、ただ日本に居て何かつとめて見ようと安心決定けつじょうしたことである。

英国王子に潔身の祓

私が明治政府を攘夷政府と思たのは、決してくうに信じたのではない、おのずからうれうべき証拠がある。ここいっ奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったかとしは覚えませぬが、英吉利イギリスの王子が日本に来遊、東京城に参内さんだいすることになり、表面は外国の貴賓を接待することであるからもとより故障はなけれども、何分にもけがれた外国人を皇城に入れると云うのはドウも不本意だと云うような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で潔身みそぎはらいをして内に入れたことがある、と云うのは夷狄いてきの奴は不浄の者であるからおはらいをしてたいを清めて入れるとう意味でしょう。所がソレがい物笑いの種サ。その時に亜米利加アメリカの代理公使にポルトメンと云う人が居まして、毎度ワシントン政府に自分の任所にんしょの模様を報知してる、けれども余り必要でない事は大統領がその報告書を見ない、此方こっちでは又ソレを見てもらうのが公使の名誉としてある。ソコで公使が今度英の王子入城に付き潔身みそぎの祓云々うんぬんの事を探り出しておおいよろこび、れはめた、この大奇談を報告すれば大統領が見てれるにちがいないと云うので、その表書うわがきすなわちエッヂンボルフ王子のきよめと云う可笑しな不思議な文字をかいて、中の文句はドウかと云うに、この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取扱うの常なり、すでにこの程英吉利イギリスの王子入城謁見のとき、城門外において潔身の祓を王子の身辺に施したり、も潔身の祓とは上古けがれたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来紙をもって御幣なるものを作り、その御幣を以て人の身体をで、水の代用として一切いっさいの不浄不潔を払うの故実あり、故に今度英の王子に施したるはその例にることにして、日本人のまなこを以て見れば王子もまたただ不浄の畜生たるに過ぎず云々うんぬんとて、筆をたくみに事細かにかいやったことがある。ソレは私が尺振八せきしんぱちからつまびらかに聞きました。この尺振八とう人はその時、亜米利加アメリカ公使館の通弁をして居たので、尺が私の処に来てこのあいだれ/\の話、大笑いではないかといって、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私はこれきいて笑い所ではない泣きたく思いました。

米国前の国務卿又日本を評す

又その頃、亜米利加の前国務卿シーワルトと云う人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがある。この人は米国有名の政治家で、の南北戦争のときもっぱら事にあたって、リンコルンの遭難と同時に兇徒にきずつけられたこともある。元来がんらい英国人とは反りが合わずに、わば日本贔屓びいきの人でありながら、今度来遊、その日本の実際を見て何分にも贔屓が出来ぬ、こんな根性の人民では気の毒ながら自立はむずかしいと断言したこともある。ソコデ私の見る所で、新政府人の挙動はすべて儒教の糟粕そうはくめ、古学の固陋ころう主義より割出して空威張からいばりするのみ。かえりみて外国人の評論を聞けば右の通り。とてれは仕方がないと真実落胆したれども、りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治はかくこれを成行に任せて、自分は自分にていささか身に覚えたる洋学を後進生に教え、又根気のあらん限り著書飜訳ほんやくの事をつとめて、万が一にもこのたみを文明に導くの僥倖ぎょうこうもあらんかと、便り少なくも独り身構えした事である。

子供の行末を思う

その時の私の心事は実に淋しい有様ありさまで、人に話したことはないが今打明けて懺悔ざんげしましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、とてもこの有様では国の独立はむずかしい、他年一日外国人から如何いかなる侮辱ぶじょくこうむるかも知れぬ、左ればとて今日全国中の東西南北いずれを見ても共に語るべき人はない、自分一人では勿論もちろん何事も出来ずまたその勇気もない、実に情ない事であるが、いよ/\外人が手を出して跋扈ばっこ乱暴と云うときには、自分は何とかしてそのわざわいを避けるとするも、きの永い子供は可愛かあいそうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない、あるい耶蘇宗やそしゅうの坊主にして政事人事の外に独立させては如何いかん、自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主と云えばおのずからはずかしめをまぬかるゝこともあらんかと、自分に宗教の信心しんじんはなくして、子を思うの心より坊主にしようなどゝ種々しゅじゅ無量に考えたことがあるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢のごとし、ただ今日は世運の文明開化を難有ありがたく拝するばかりです。

授業料の濫觴

さて鉄砲洲てっぽうずの塾をしば新銭座しんせんざに移したのは明治元年すなわち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号にとって慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第にさかんになる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものをかいて、れも写本は手間が取れるとうので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾がはじめた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩そくしゅうを納めて、教授する人を先生とあおたてまつり、入学の後も盆暮ぼんくれ両度ぐらいに生徒銘々めいめいの分に応じて金子きんすなり品物なり熨斗のしを附けて先生に進上する習わしでありしが、私共の考えに、とてもこんな事では活溌かっぱつに働く者はない、教授も矢張やはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然あたいめて取るがいと云うので、授業料と云う名をつくって、生徒一人から毎月きん二分にぶずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒のもって来た授業料をき集めて、教師の頭に四両ずついき渡ればしにはせぬと大本だいほんさだめて、その上にお余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然とうぜんのようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒にむかって金二分持て来い、水引みずひきも要らなければ熨斗のしも要らない、一両もって来ればつりるぞとうように触込ふれこんでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があるとさつあらためる邪魔になるといって、わざと上包をかえして遣るなどは随分ずいぶん殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事にらず新工風しんくふうめぐらしてこれを実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。る代りにれが首尾まいって、何時いつの間にか世間一般のふうになれば、私のめにはあたかも心願成就で、こんな愉快なことはありません。

上野の戦争

新銭座しんせんざの塾は幸に兵火のめに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々やかましい。明治元年の五月、上野におお戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席よせも見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞しまって、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をめない。上野ではどん/″\鉄砲をうって居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉のとんで来る気遣きづかいはないと云うので、丁度あの時私は英書で経済エコノミーの講釈をして居ました。大分騒々敷そうぞうし容子ようすだがけぶりでも見えるかと云うので、生徒は面白がって梯子はしごのぼって屋根の上から見物する。何でも昼からくれ過ぎまでの戦争でしたが、此方こちらに関係がなければ怖い事もない。

日本国中唯慶應義塾のみ

此方こっちがこの通りに落付払おちつきはらって居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいとう気風は何処どこかに流行して、上野の騒動がむと奥州の戦争とり、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\さかんになりました。かえりみて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも行衛ゆくえが分らぬ位、して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中いやしくも書をよんで居る処はただ慶應義塾ばかりと云う有様ありさまで、その時に私が塾の者にかたったことがある。昔し/\拿破翁ナポレオンの乱に和蘭オランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度インド地方までことごとく取られて仕舞しまって、国旗をげる場所がなくなった。所が、世界中わずかに一箇処をのこした。ソレはすなわち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭ひゃくしゃくかんとう飜々へんぺんして和蘭王国はかつて滅亡したることなしと、今でも和蘭人がほこって居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学のめには和蘭の出島と同様、世の中に如何いかなる騒動があっても変乱があってもいまかつて洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着とんじゃくするなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。

塾の始末に困る、楽書無用

れはそれとしてまた一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かとうに、去年から出陣してさん/″\奥州地方でたたかっようやく除隊になって、国には帰らずに鉄砲をてゝそのまま塾に来たとうような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘しゅざやの大小をして、鉄砲こそ持たないが今にもきっかかろうと云うような恐ろしい顔色がんしょくをして居る。うかと思うとその若武者があかい女の着物を着て居る。れはドウしたのかと云うと、会津あいづで分捕りした着物だといっ威張いばって居る。実に血腥ちなまぐさい怖い人物で、一見ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時にきわめて簡単な塾則をこしらえて、塾中金の貸借かしかり一切いっさい相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、うときにはさだめの時間に食堂に出る、れから楽書らくがき一切いっさい相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論もちろん、自分所有の行灯あんどうにも机にも一切の品物に楽書は相成あいならぬとうくらいの箇条で、すでに規則をめた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀をもっ其処そこだけ切破きりやぶって、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付もうしつける。夫れから行灯にかいてあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主をとがめると、時としてはその者が、「れは自分でない、人のかいたのですといっても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳いいわけにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるがよろしい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトをはって置きなさいと云うようにして、寸毫すんごうさない。如何いか血腥ちなまぐさい若武者が何とおうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付やっつけてる。名は忘れたが、不図ふと見た所が桐の枕に如何いかがな楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々めいめいの私有品でも楽書は一切相成らぬといったではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀ぶちこわすから代りをとって来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰ふみつぶして、サアどうでもしろ、つかかかって来るなら相手になろうとわぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格からだは少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人をうったこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうなつかみ掛りそうな気色けしきで、口の法螺ほらでなくして身体からだの法螺でふき倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血なまぐさい奴もおのずから静になって塾の治まりが付き、その中には真成ほんとう大人おとなしい学者風の少年も多く、至極しごく勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座しんせんざに居ました。

始めて文部省

維新の騒乱も程なく治まって天下太平にむいて来たが、新政府はマダマダ跡の片付かたづけが容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないで、もっぱら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。何でも廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省とうものが出来て、政府も大層たいそう教育に力を用うることになって来た。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えて居て、生徒の数も段々えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うる所の事は一切いっさい英学とさだめ、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬと云うふうにしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことの出来ぬ者が随分ずいぶんあります。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云うような少年が出来て来た。物事がアベコベになって、世間では漢書をよんでから英書を学ぶとうのを、此方こちらには英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。波多野承五郎はたのしょうごろうなどは小供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかったが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学のあとで漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今ではの通り何でも不自由なく立派な学者になって居ます。

教育の方針は数理と独立

畢竟ひっきょう私がこの日本に洋学をさかんにして、如何どうでもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、あたかも東道の主人とり、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事をやって居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来がんらい私の教育主義は自然の原則に重きをおいて、数と理とこの二つのものをもとにして、人間万事有形の経営はすべてソレから割出して行きたい。又一方の道徳論においては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重じちょういやしくも卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事はたれに頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚至極しごくにし所謂いわゆる独立の点に安心するようにしたいものだと、ず土台を定めて、一心不乱にただこの主義にのみ心を用いたと云うそのけは、古来東洋西洋相対あいたいしてその進歩の前後遅速を見れば、実に大造たいそうな相違である。双方共々に道徳のおしえもあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、さて国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段いつだんに至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何いかんは果して国民の教育よりるものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形において数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒だんらんの情にこまやかなるも、その大本たいほんたずねればおのずから由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂いわゆる立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理のほかいっすることは叶わず、独立の外にる所なしとうべきこの大切なる一義を、我日本国に於てはかろて居る。れでは差向き国をひらいて西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深くみずから信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどはとても及ばぬ事ながら、出来る限りは数理をもとにして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕ちょうせき一寸ちょっとした話のはしにもその必要を語り、あるいは演説にあるいは筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々工風くふうして躬行実践きゅうこうじっせんつとめ、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何いかんかかわらず物の数理に迂闊うかつならず、気品高尚にしてく独立の趣意しゅいを全うする者ありと聞けば、れが老余の一大楽事です。
 右の通り私はただ漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬばかりでない、一歩を進めて所謂いわゆる腐儒の腐説を一掃してろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞つうじなどうような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分ずいぶん漢書をよんで居る。読で居ながら知らないふうをして毒々い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵しって居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時からむずかしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論もちろん、詩経、書経のような経義けいぎでも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前ぶぜん中津なかつの大儒白石しらいし先生のたまものである。どの経史の義をしって、知らぬふうをして折々漢学の急処のような所を押えて、話にもかいたものにも無遠慮に攻撃するから、れぞ所謂いわゆる獅子身中しんちゅうの虫で、漢学のめには私は実に悪い外道げどうである。くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、ふるく腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることが出来ないとくまでも信じて疑わず、如何いかにもして彼等を救出すくいだして我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力をつくし、私の真面目しんめんもくを申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公おれが一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々ややあまねしといえども、中年以上のおもなる人は迚も洋学の佳境に這入はいることは出来ず、なんか事をはかり事を断ずる時には余儀よぎなく漢書を便たよりにして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分ずいぶん危ない事である。

著書飜訳一切独立

また維新前後は私が著書飜訳ほんやくつとめた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言ちょげんに記してあるからこれを略しますが、元来がんらい私の著訳は真実私一人の発意ほついで、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、して序文題字など頼んだこともない。れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とかう人に序文でも書かせた方がかったか知れないが、私はれが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何いかんかかわらず古風な人の気に入るはずはない。ソレでもその書が殊更ことさらにおおいに流行したのは、文明開国のいきおいに乗じたことでありましょう。

義塾三田に移る

慶應義塾がしば新銭座しんせんざを去て三田のただ今の処にうつったのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私がひどい熱病にかかり、病後神経が過敏になった所為せいか、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから何処どこかに引移りたいと思い、飯倉いいくらの方に相当の売家うりや捜出さがしだしてほぼ相談をめようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾をてゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説がおこって、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々ほうぼう明屋敷あきやしきを捜してわり、彼処そこでもない此処ここでもないと勝手次第にさそうな地所じしょを見立てゝ、いよ/\芝の三田みたにある島原しまばら藩の中屋敷が高燥こうそうの地で海浜かいひんの眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方こっちの説が決したばかりで、その屋敷は他人の屋敷であるから、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原しまばら藩に上地じょうちを命じて、改めて福澤に貸渡すとう趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るようにこしらえねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込たのみこむは勿論もちろん、私の平生へいぜいしって居る佐野常民さのつねたみその他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛そうがか[#「特のへん+怱」、U+3E45、263-4]りにて運動する中に、或日あるひ私は岩倉いわくら公の家に参り、初めて推参なれども御目おめに掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、つまり島原藩の屋敷を拝借したいとう事を内願して、れも快く引受けてれる。何処どこ此処ここ至極しごく都合のい折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒らそつとか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲をかついで市中を巡廻じゅんかいして居るその有様ありさまの殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府もこれくないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組しくみに改革しようと心付きはしたが、さてそのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でもよろしい、取調べてれぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調とりしらべさえ出来れば何か礼をするとうように見えるから、此方こっちは得たり賢し、おやすい御用で御座ござる、早速さっそく取調べて上げましょうが、私の方からもねがいすじがある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田みた島原しまばらの屋敷地を拝借いたしたい、けは厚く御含おふくみを願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅あんばい持掛もちかけて、役人もいなと云わずに黙諾もくだくして帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳ほんやくし、つづり合せて一冊にしたため早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳をたねにしてお市中の実際を斟酌しんしゃくし様々に工風くふうして、断然の兵士の巡廻じゅんかいを廃し、改めて巡邏じゅんらうものを組織し、後にこれを巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対しておのずから義理が出来たようなけで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂いわゆる大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。

敬礼を止める

引越ひきこして見れば誠に広々とした屋敷で申分もうしぶんなし。御殿を教場にし、長局ながつぼねを書生部屋にして、お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取かいとって寄宿舎を作りなどして、にわかに大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙をもって慶應義塾の面目をあらたにしました。ついでながらいっ奇談を語りましょう。新銭座しんせんざ入塾から三田みた引越ひっこし、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧くらべものにならぬ。新塾の教場すなわち御殿の廊下などは九尺巾きゅうしゃくはばもある。私は毎日塾中を見廻り、日曜はことに掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々あらため、大小便所の内まで私が自分で戸をけてこまかに見るとうようにして居たから、一日に幾度いくたび廊下をとおって幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢ゆきあごとに、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀じぎをする。先方さきから丁寧にれば、此方こっちこれに応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクてまらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀じぎに困りはせぬか、双方の手間潰てまつぶしだがとうと、いずれも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公おれが広告を掲示してるといって、
 塾中の生徒は長者に対するのみならず相互あいたがいの間にも粗暴無礼はもとより禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁ひんぱんの場所にては、仮令たとい教師先進者に行逢ゆきあうとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰さたなり、たがいに相見て互に目礼をもって足るべし。えきもなき虚飾に時を費すは学生の本色にあらず。この段心得のめに掲示す。
張紙はりがみして、生徒のお辞儀をめた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風おうふうになれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決してうでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌かっぱつに導かんとするには、お辞儀の廃止もおのずから一時の方便で、その功能はたしかに見えました。今でも塾にはコンな風がのこって、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付やりつけて寸毫すんごうさず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方こっちは何ともないと、チャンと説をめて思う様に制御してれども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣において許さない。ればとて本塾の生徒にかぎって粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳くどくであろうと思われる。

地所払下

三田みたの屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなしあたかも私有地のようではあるが、何分にも拝借とえば何時いつ立退たちのきを命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者ははなはだ多い、いずれも不安心にちがいないと推察が出来る。如何どうかしてこれ御払下おはらいさげにして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものがたって居て、その左院の議員中に懇意こんいの人があるからその人に面会、何か話のついでには拝借地の有名無実なるをき、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして銘々めいめいに地所保存のはかりごとさしむるにかずと、しきりに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人または縁故ある者に払下げるとの風聞ふうぶんが聞える。れは妙なりとおおいに喜び、その時東京府の課長に福田と云う人がもっぱら地所の事を取扱うと云う事を聞伝ききつたえ、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らしてれることに約束して、帰宅して日々便りをまって居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、暫時しばし猶予ゆうよは出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し御払下おはらいさげを願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令したばかりで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずとうから、その正式の請取は後日の事として今日はただ金子きんすけの御収納を願うといって、いて金を渡してり御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書もくだりて、いよ/\私の私有地とり、地券面ちけんめん本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付きあたい十五円、町地まちぢの方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、ほとんど無代価と申してよろしい。その代価の事はかくもとして、く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居じゅうきょすればするほどいよ/\ます/\い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないとみずから感心して、塾員と共に満足すると同時に、これを私有地にするとえば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅あんばいで、何だか気になるから無暗に急いでらちを明けた所が、果してしかり、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れわたったその時に、島原藩士何某が私方にやって来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方こっち御譲渡ごじょうとし下されいと捩込ねじこんで来たから、私は一切いっさい知らず、この地所のむかしがたれのものでありしやれさえ心得て居ない、かくに私は東京府から御払の地所を買請かいうけたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召おぼしめしもあらば府庁へ御談おだんしかるべしとはね付ける。スルと先方も中々しぶとい。再三再四やって来て、とう/\仕舞しまいには屋敷を半折して半分ずつ持とうとうから、れも不承知。地所の事は島原しまばら藩と福澤と直談じきだんすべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切いっさい万事君[#ルビの「こ」はママ]を東京府に聞けとう調子に構えて居て、むずかしい談判も立消になったのは難有ありがたい。今日になって見れば、東京中を尋ねまわっても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥こうそうにして平面、海に面して前にさえぎるものなし、空気清く眺望なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下おはらいさげの原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張よくばり、時節をまって千倍にも二千倍にもしてろうと、若い塾員達はリキンで居ます。

教員金の多少を争う

右の通り三田みたの新塾は万事都合く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めてこれを教師に分配して、如何どうやらうやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云うかんがえはない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請ふしんの時などには毎度此方こっちから金を出してる。教師達もその通りで、外に出れば随分ずいぶん給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、れも私金を出すと同じ事である。およそコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目しんめんもくを申せば、月末などに金を分配するとき、ややもすれば教師の間に議論が起るその議論はすなわち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取るけはない、君の方が少ないとうと、「イヤうでない、僕はれで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のようにいってるから、私はそばから見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だからい加減にして分けて仕舞しまえ、争う程の事でもないと毎度わらって居ました。この通りで慶應義塾の成立なりたちは、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、また大学部のめにもつのり、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切いっさいの事を塾出身の若い人に任せて居ます。

暗殺の心配


 れまで御話し申した通り、私の言行は有心故造ゆうしんこぞうわざと敵を求めるけではもとよりないが、鎖国風の日本に居て一際ひときわ目立つように開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も口で彼是かれこれやかましくうて罵詈ばりする位は何でもないが、ただ怖くてたまらぬのは襲撃暗殺の一事です。れから少しその事を述べましょうが、およそ世の中に我身にとって好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者よりほかに分るまいと思う。実に何とも口にも言われず筆にも書かれません。是れが病気をわずらうとか、痛所いたみどころがあるとか何とかえば、家内に相談し朋友にはかると云う様なこともあるが、暗殺ばかりは家内の者へ云えば当人よりはかえって家の者が心配しましょう、心配してれてソレが何にも役に立たぬ、ダカラ私はそんな事を家内の者にいった事もなければ親友に告げた事もない。もとよりこの身に罪はない、仮令たとい粗われても恥かしい事ではないと云うことは分切わかりきって居ても、人にかたって無益の事であるから、心配するのは自分一人である。私が暗殺を心配したのは毎度の事で、あるい風声鶴唳ふうせいかくれいにも驚きました。丁度今の狂犬を見たようなもので、おとなしい犬でも気味が悪いとうようなけで、どうも人を見ると気味がわるい。

床の下から逃げる積り

ソレについては色々面白い話がある。今この三田みたの屋敷の門を這入はいって右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請ふしんをするとき、私は大工に命じて家のゆかを少し高くして、押入の処に揚板あげいたつくっおいたと云うのは、し例の奴等やつらに踏込まれた時に、うまく逃げられゝばいが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処そこから逃出にげだそうと云う私の秘計で、今でも彼処あすこの家はうなって居ましょう。

暗殺の歴史

その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、つまり私独りの苦労で、実に馬鹿気ばかげた事ですが、れは差置さしおき、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初はただ新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人はけがれた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々おりおり外国人を暗打やみうちにしたこともある。しかしその若武者も日本人を憎むけはないから、私などが仮令たとい時の洋学書生であっても災にかかる筈はない。大阪修業中は勿論もちろん、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜ロシア人の斬られたことなどは、ただその事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神はにわかに進歩して殺人ひとごろしの法が綿密になり、筋道すじみちわかり、区域が広くなり、これくわうるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊いい大老の事変後は世上何となく殺気をもよおして、手塚律蔵てづかりつぞう東条礼蔵とうじょうれいぞうは洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎はなわじろうは国学者として不臣なりとて何者かに首をられ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝとうような風潮になって来ました。れがすなわち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、しかるに幕府の攘夷論は兎角とかく因循姑息いんじゅんこそくに流れてらちが明かぬ、即ち京都の御趣意ごしゅいそむくものである、尊王の大義をわきまえぬものである、外国人に媚びるものである、とえば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。ことに私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。

廻国巡礼を羨む

又真実怖い事もある。およそ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀よぎなく旅行するときは姓名をいつわり、荷物にも福澤と記さず、コソ/\して往来するその有様ありさまは、欠落者かけおちものが人目を忍び、泥坊どろぼうが逃げてわるようなふうで、誠に面白くない。そのとき途中で廻国巡礼に出逢い、その笠を見れば何の国何都何村の何某なにがしと明白にかいてある。「さてうらやましい事だ、乃公おれもアヽう身分になって見たいと、自分の身を思い又世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えて居ます。

長州室津の心配

れも私が姓名を隠して豊前ぶぜん中津なかつから江戸にかえって来た時の事です。元治元年、私が中津にいって、小幡篤次郎おばたとくじろう兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津からず船にのっ出帆しゅっぱんすると、二、三日天気が悪くて、風次第で何処どこの港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の長州ちょうしゅう室津むろつと云う港に船がついた。そのとき私は同行少年の名を借りて三輪光五郎みわみつごろう(今日は府下目黒のビール会社に居る)と名乗なのって居たが、一寸ちょいと上陸して髪結床かみゆいどこいった所が、床の親仁おやじ喋々ちょうちょう述べて居る、「幕府を打潰ぶっつぶす――毛唐人を追巻おいまくると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて長門ながとは江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な服装なりをして鉄砲をかついで威張いばって居るから、しも福澤とう正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、ここが大事と思いわざと平気な顔をして、ただ順風をいのって船の出られるのをまって居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、躄者いざり病犬やまいぬに囲まれたようなものでした。

箱根の心配

ソレから船は大阪について上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋はふやと云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某なにがしと云う人が江戸の方から来てきにとまって居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢ついて居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出かけだしてコソ/\逃げたことがある。

中村栗園先生の門を素通り

その時の道中であったか、江州ごうしゅう水口みなくち中村栗園なかむらりつえん先生の門前を素通すどおりしましたが、れははなはだ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処そこへ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父ごしんぷの大阪で御不幸の時は、私はぐ大阪にいって、ソレからお前達が船にのって中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口あじかわぐちの船までいって別れた。そのときお前は年弱としよわの三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親にあったような心持がして、今晩は是非ぜひ泊れといって、中村の家に一泊しました。くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来もっぱら孫子の講釈をして、玄関には具足ぐそくなどがかざってあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄たちよって訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子もんていし沢山たくさん居るから、立寄ればとても助からぬとおもって、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、ついに故人になられました。今日に至るまでもはなはだ心残りで不愉快に思います、

増田宗太郎に窺わる

以上は維新前の事で、ただちに私の身に害を及ぼしたでもなし、ただ無暗むやみに私が怖くおもったばかり、所謂いわゆる世間の風声鶴唳ふうせいかくれいに臆病心を起したのかも知れないが、維新後になってもいやな風聞は絶えず行われて、何分にも不安心のみか、歳月をて後に聞けば、実際恐るべき事も毎度のことでした。頃は明治三年、私が豊前ぶぜん中津なかつへ老母の迎いにまいって、母と姪と両人を守護して東京にかえったことがあります。その時は中津滞留もまで怖いとも思わず、ず安心して居ましたが、数年の後にいたって実際の話を聞けば、恐ろしいとも何とも、実に命拾いをしたような事です。私の再従弟またいとこ増田ますだ〔宋〕太部と云う男があります。この男は後に九州西南の役に賊軍に投じて城山で死についた一種の人物で、世間にも名を知られて居ますが、私が中津にいったときはマダ年も若く、私より十三、四歳も下ですから、私はこれを子供のように思い、つ住居の家も近処きんじょで朝夕往来して交際は前年の通り、そうさん/\といって親しくして居ましたが、元来がんらいこの〔宋〕太郎の母は神官の家の妹で、その神官のせがれすなわち宗太郎の従兄いとこに水戸学風の学者があって、宗太郎はその従兄を先生にして勉強したから中々エライ、その上に増田ますだの家は年来堅固なる家風で、封建の武家としては一点もはじる所はない。宗太郎の実父は私の母の従兄ですから、私もその風采ふうさいしって居ますが、ソレハソレハ立派なさむらいと申してよろしい。この父母に養育せられた宗太郎が水戸学国学を勉強したとあれば、所謂いわゆる尊攘家に違いはあるまい。ソコで私は今度中津にかえっても宗太郎をば乳臭にゅうしゅうの小児と思い、相替らずそうさん/\で待遇して居た処が、何ぞはからん、この宗さんが胸に一物、恐ろしい事をたくらんで居て、そのニコ/\優しい顔をして私方に出入しゅつにゅうしたのは全く探偵のめであったとう。さて探偵も届いたか、いよ/\今夜は福澤を片付けるとうので、忍び/\に動静ようすうかがいに来た、田舎の事で外廻りの囲いもなければ戸締りもない、所が丁度ちょうどそのは私の処に客があって、その客は服部五郎兵衛はっとりごろべえと云う私の先進先生、至極しごく磊落らいらくな人で、主客しゅかく相対あいたいして酒を飲みながら談論はなしは尽きぬ。その間宗太郎は外にたって居たが、十二時になっても寝そうにもしない、一時になっても寝そうにもしない、何時いつまでも二人差向いで飲んで話をして居るので、余儀よぎなくおめになったと云う。れは私が大酒たいしゅ夜更よふかしの功名ではない僥倖ぎょうこうである。

一夜の危険

ソレから家の始末も大抵たいてい出来て、いよ/\中津の廻米船にのって神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗る積りで、サア乗船とう所が、中津なかつの海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりの処にしまと云う港があって、其処そこに船がかかって居ると云うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島にいって一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩鵜ノ島の船宿のような家に泊りましたが、知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったと云うは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしい、私の一行は老母と姪とそのほかに近親今泉いまいずみの後室と小児(小児は秀太郎六歳)役に立ちそうな男は私一人、れも病後のヒョロ/\と云うその人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に使つかいを走らして、「今夜は上都合云々うんぬんと内通したからたまらない。ソコデもって中津の有志者すなわち暗殺者は、金谷かなやう処に集会をもよおして、今夜いよ/\しまに押掛けて福澤を殺すことに議決した、その理由は、福澤が近来奥平おくだいらの若殿様を誘引そそのかして亜米利加アメリカろうなんと云う大反だいそれた計画をして居るのはしからぬ、不臣な奴だと云う罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。
 福澤の運命はいよ/\切迫した、老人子供の寝て居る処に血気の壮士が暴れ込んではとても助かる道はない、所がここに不思議とやわん、天のめぐみとや云わん、壮士連の中に争論を生じたと云うのは、如何いかにも今夜は好機会で、きさえすれば必ず上首尾ときまって居るから、功名手柄を争うは武士の習いで、仲間中の両三人が、「乃公おれさきがけすると云えば、又一方の者は、「う甘くは行かん、乃公の腕前でやって見せると言出して、負けず劣らず、とう/\仲間喧嘩が始まって、深更に及ぶまで如何どうしても決しない、余り喧嘩が騒々しく、大きな声が近処きんじょまで聞えると、その隣家に中西与太夫なかにしよだいふと云う人の住居がある、この人は私などより余程年をとって居る、その人が何の事か知らんといって見た所が、う/\けだと云う。中西は流石さすがに老成の士族だけあって、「人を殺すと云うのはよろしくない事だ、思止まるがいと云うと、壮士等は中々聞入れず、「イヤ思止おもいとまらぬと威張いばる、ヤレ止まれ、イヤ止まらぬと、今度は老人を相手に大議論を始めて、れと悶着もんちゃくして居る間にが明けて仕舞しまい、私は何にも知らずにその朝船にのって海上無事神戸に着きました。

老母の大坂見物も叶わず

さて神戸こうべついた処で、母は天保七年、大阪をさってから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都方々ほうぼうを思うさま見物させてよろこばせようと、中津なかつ出帆しゅっぱんの時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して旅宿やどやついて見ると、東京の小幡篤次郎おばたとくじろうから手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間はなはだ穏かならず、少々聞込ききこみし事もあれば、神戸に着船したらばるたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\またしても面百くないしらせだ、ればとてこんないやな事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ口実こうじつつくって、折角楽しみにした上方かみがた見物もめにして、空しく東京にかえって来ました。

警戒却て無益なり

前のしまの話に引替えて、誠に馬鹿々々ばかばかしい事もあります。明治五年かと思う。私が中津なかつの学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家こぞって東京に引越ひきこし、私が供をして参るとうことになった。ところで藩主が藩地を去るはもとより士族のよろこぶことでない。私もくその情実はしって居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平おくだいら家の維持が出来ない、思切おもいきって断行せよとうので、疾雷しつらい耳をおおうにいとまあらず、わずか六、七日間の支度したくで、御隠居様も御姫様も中津なかつの浜から船にのっ馬関ばかんに行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸こうべと、すべての用意調ととのい、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎あいにく風がない、夜中水尾木みずおぎところにボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、ここにグヅ/\して居ると例の若武者がきっやって来るに違いない、来ればその目指すかたきは自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船をあがって陸行するにくはなしと決断して、極暑ごくしょの時であったが、払暁ふつぎょうマダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極しごく穏かで何の議論もなかったと云う。此方こっちが邪推をめぐらして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番あやうい、実にこまったものです。

疑心暗鬼互に走る

時は違うが維新前、文久三、四年の頃、江戸深川六軒掘に藤沢志摩守ふじさわしまのかみと云う旗本はたもとがある。れは時の陸軍の将官を勤め、ごくの西洋家で、或日あるひその人の家に集会をもよおし、客は小出播磨守こいではりまのかみ成島柳北なるしまりゅうほくを始め、そのほか皆むかしの大家と唱うる蘭学医者、私とも合して七、八名でした。その時の一体の事情を申せば、前に申した通り、私は十二、三年間、夜分外出しないと云う時分で、最もみずからいましめて、内々ないない刀にも心を用い、がせてれるようにして居ます。あえこれを頼みにするではなけれども、集会の話が面白く、ツイ/\怖い事を忘れて思わず夜をかして、十二時にもなった所で、座中みな気がついて、サア帰りが怖い。きず持つ身とけではないが、いずれも洋学臭い連中だからな怖がって、「大分おそうなったが如何どうだろうと云うと、主人が気をかして屋根舟を用意し、七、八人の客を乗せて、六軒堀の川岸かしから市中の川、すなわ堀割ほりわりを通り、行く/\成島なるしま柳橋やなぎばしからあがり、それから近いもの/\と段々に上げて、仕舞しまい戸塚とつかと云う老医と私と二人になり、新橋の川岸について、戸塚は麻布に帰り私は新銭座しんせんざに帰らねばならぬ。新橋から新銭座までおよそ十丁もある。時刻はハヤ一時過ぎ、かもその夜は寒い晩で、冬の月が誠にく照して何となく物凄い。新橋の川岸へ上って大通りを通り、おのずから新銭座の方へ行くのだから、此方側こっちがわすなわち大通り東側の方をとおって四辺を見れば人はただの一人も居ない。その頃は浪人者が徘徊して、其処そこにも此処ここにも毎夜のように辻斬つじぎりとて容易に人を斬ることがあって、物騒とも何ともうに云われぬ、れからはかま股立ももひきとって進退に都合のいように趣向して、颯々さっさと歩いてくと丁度ちょうど源助町げんすけちょうなかばあたりと思う、むこうから一人やって来るその男は大層たいそう大きく見えた。実は如何どうだか知らぬが、大男に見えた。「ソリや来た、どうもこれは逃げた所がおっつけない。今ならば巡査が居るとか人の家に駈込かけこむとか云うこともあるが、如何どうして/\騒々しい時だから不意に人の家に入られるものでない、かえって戸をたっ仕舞しまって、出て加勢しようなんと云うものゝないのは分りきってる。「コリャこまった、今から引返すと却て引身ひけみになって追駈けられて後からられる、いっそ大胆に此方から進むにかず、進むからには臆病な風を見せると付上つけあがるから、衝当つきあたるように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、ななめに道の真中へ出掛けると、彼方の奴もななめに出て来た。コリャ大変だとおもったが、う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となればかねて少し居合の心得もあるから、如何どうしてれようか、これは一ツ下からねてりましょうと云うかんがえで、一生懸命、イザとえば真実ほんとう所存つもりで行くと、先方もノソ/\って来る。私は実に人をきると云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、いよい先方むこう抜掛ぬきかかれば背に腹は換えられぬ、此方こっちぬいて先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人をきったからといっとがめられもせぬ、ただその場を逃げさえすればよろしいと覚悟して、段々行くと一歩々々ひとあしひとあし近くなって、到頭とうとうすれ違いになった、所が先方あっちの奴も抜かん、此方こっち勿論もちろん抜かん、所で擦違すれちがったから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どのくらい足が早かったか覚えはない、五、六けん先へいっ振返ふりかえって見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何どうも何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、ずホッと呼吸いきをついて安心して可笑おかしかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、こしらえた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑おかしい芝居はない。初めから此方こっちは斬る気はない、ただ逃げては不味まずい、きっられるとおもったから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心わ/\表面颯々さっさと出て来て、丁度ちょうど抜きさえすれば切先きっさきの届く位すれ/\になったところで、身をひるがえして逃出にげだしたのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方こっちも怖かったが、彼方あっちもさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処どこに居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減をたがいに話したら面白い事でしょう。

雑記


暗殺の患は政治家の方に廻わる

およそ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、したがって執政者の権力も重きを成して、おのずから威福の行われるようになると同時に、天下の耳目じもくは政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何ももその原因を政府の当局者に帰して、これくわうるに羨望せんぼう嫉妬しっとの念をもってして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方はおおいに楽になりました。喰違くいちがい岩倉いわくら公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保おおくぼ内務卿の暗殺以来、毎度の兇変きょうへんは皆政治上の意味を含んで居るから、わば学者の方は御留主おるすになって、政治家のめには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人にうらやまれる事がないから、もって今日は安心と思います。

剣を棄てゝ剣を揮う

私がしば源助げんすけ町で人をろうと決心した、居合いあいも少し心得て居るなんてえば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、うではないどころか、日本武士の大小を丸でめて仕舞しまいたいとは私の宿願でした。源助町のときには成程なるほど双刀をして、刀は金剛兵衛盛高こんごうびょうえもりたか、脇差は備前祐定びぜんすけさだず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんなうっ仕舞しまって、短かい脇差のような物を刀にして御印おしるしに挟して居たが、れについても話がある。或日あるひ、本郷に居る親友高畑五郎たかばたけごろうを訪問していろ/\話をして居る中に、不図ふと気がついて見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本かざってあるから、私が高畑にむいて、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術がさかんになって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからといって負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私はこれを打消し、「ソレはつまらない、君はこれもっおどすつもりだろうが、長い刀を家において今の浪人者をおどそうといっても、威嚇おどかしの道具になりはしない。つまらぬ話だ、しなさい。僕は家にある刀剣はみんなうっ仕舞しまって、今して居るこの大小二本きりしかない。かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀かつおぶしこがたなさやおさめておかざりに挟して居るのだ。ソレに君がこんな大造たいそうな長い刀をいじくると云うのは、君に不似合だ、すがい、御願おねがいだからしてれ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないにきまって居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、とてもこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものをかざって置くとう馬鹿者があるか。僕は一切刀をめて居るが、はばかりながら抜くことはしって居るぞ、ぬいて見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭にりて、かねて少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見たまえ、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者はくに刀を売て仕舞しまったのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。れは独り吾々われわれ洋学者ばかりでない、日本国中の刀をみんなうっちゃって仕舞しまうと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは颯々さっさと片付けて仕舞うがよろしい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りにさなければならんと云うなら、小刀でも何でもよろしいと云て、大きに論じた事がある。

扇子から懐剣が出る

れも大抵たいてい同時代と思う。幕府の飜訳局ほんやくきょくに雇れて其処そこに出て居た時、或人あるひとが私に話すに、「近来なか/\面白い扇子せんす流行はやる。鉄扇てっせんうものは昔から行われて居たが、今はソレがおおいに進歩して、ただの扇子と見せておいて、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る、なか/\面白い事を発明したとうわさして居る。ソコで私が大にまぜかえしてやった。「扇子の中から懐剣の出るのが何がめた話だ。それよりも懐剣として置て、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ、さかさまにしろ、うしたら賞めてる、そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか、面白くもないといって、打毀うちこわした事を覚えて居ます。
 幕府が倒れると私はスグ帰農して、り双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。所がこの廃刀と云う事は中々容易な事でない。実を申せば持兇器をめるのだから、世間の人はよろこびそうなものだが、決してうでない。私が始めて腰の物なしで汐留しおどめの奥平屋敷にいった所が、同藩士は大に驚き、丸腰で御屋敷に出入しゅつにゅうするとは殿様に不敬ではないかなどゝ議論する者もありました。又るとき塾の小幡仁三郎おばたじんざぶろうと誰か二、三人で散歩中、その廃刀を何処どこかの壮士に見とがめられて怖い思いをした事もある、けれども私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に頓着とんじゃくせず、「文明開国の世の中に難有ありがたそうに兇器きょうきを腰にして居る奴は馬鹿だ、その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀はこれを名けて馬鹿メートルとうが好かろうなどゝ放言して居れば、塾中にもおのずから同志がある。

和田与四郎壮士を挑む

明治四年、新銭座しんせんざから今の三田みたに移転した当分の事と思う、或日あるひ和田義郎わだよしろう(今は故人になりました)と云う人が、思切おもいきったわぶれをして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質きわめて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒もまた舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、ことに柔術は最も得意で、所謂いわゆる怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、しば松本まつもと町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しとやって来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便をけて左右に道を開くか、何かとがめ立てしてくって掛るか、ここが喧嘩の間一髪、いよ/\かかって来れば五人でも十人でもほうり出して殺して仕舞しまうと云う意気込いきごみが、先方の若武者共にわかったか、何にも云わずに避けてとおったと云う。大道で小便とは今から考えれば随分ずいぶん乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴がかえって塾の独立を保つめになりました。

百姓に乗馬を強ゆ

相手は壮士ばかりでない、ただの百姓町人に対しても色々こころみた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、七里ヶ浜しちりがはまを通るとき、向うから馬にのって来る百姓があって、私共を見るやいなや馬から飛下りたから、私がとがめて、「れ、貴様は何だといって、馬の口を押えて止めると、百姓がわそうな顔をしてしきりにわびるから、私が、「馬鹿え、うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分がのったら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ打撲ぶんなぐるぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せてりましたが、その時私の心の中でひとり思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のないばかりで物が分らずに法律のあることも知らない。下々しもじもの人民がこんなでは仕方しかたがないと余計な事を案じた事がある。

路傍の人の硬軟を試る

れからまたう面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州せっしゅう三田さんだ藩の九鬼くきと云う大名はかね懇意こんいの間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にもいって見たし、かた/″\ず大阪まで出掛けて、大阪から三田までおよそ十五里、途中名塩なしおに一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば何時いつでも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛してれるから、大阪に着くと取敢とりあえず緒方に行て、三田に遊び有馬ありまに行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠かごを貸してろうとわれるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠にい時候で、私はパッチを穿はいて羽織か何か着て蝙蝠かわほり傘をもって、駕籠にのって行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠はらぬ、駕籠屋、先へ行け、乃公おれは一人で行くからといって、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男にむかって道をきいたら、そのとき私の素振りが何か横風おうふうで、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えてれてお辞儀じぎをして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見ればもって居るものは蝙蝠かわほり傘一本きりで何にもない、も一度やって見ようと思うて、そのぎに来る奴にむかって怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数はおよそ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝくだらぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答おこたえ申上げますとうような様子だ。此方こっちはます/\面白くなって、今度はさかさまに遣て見ようと思付おもいつき、又向うから来る奴に向て、「モシモシはばかりながら一寸ちょとものをお尋ね申しますと云うような口調に出掛けて、相替あいかわらず下らぬ問答を始め、私は大阪生れで又大阪にも久しく寄留して居たから、その時には大抵たいてい大阪の言葉もしって居たから、すべて奴の調子に合せてゴテ/\話をすると、奴は私を大阪の町人が掛取かけとりにでも行く者と思うたか、中々横風おうふうでろくに会釈もせずに颯々さっさつと別れて行く、そこで今度は又その次ぎの奴に横風をきめ込み、又その次ぎには丁寧に出掛け、一切いっさい先方の面色かおいろに取捨なく誰でもただ向うから来る人間一匹ずつ一つ置きとめて遣て見た所が、およそ三里ばかり歩く間、思う通りに成たが、ソコデ私の心中ははなはだ面白くない。如何いかにもれは仕様のない奴等やつらだ、誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風おうふうならば横風でし、うも先方の人を見て自分の身を伸縮のびちぢみするような事では仕様しようがない、して知るべし地方小役人等こやくにんら威張いばるのも無理はない、世間に圧制政府とう説があるが、れは政府の圧制ではない人民の方から圧制を招くのだ、これうしてれようか、捨てようといっもとより見捨てられる者でない、ればとて之を導いてにわかに教えようもない、如何いかに百千年来の余弊よへいとはいながら、無教育の土百姓がただ無闇むやみに人にあやまるばかりならよろしいが、き次第で驕傲きょうごうになったり柔和になったり、丸でゴムの人形見るようだ、如何いかにも頼母たのもしくないとおおいに落胆したことがあるが、変れば変る世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民となって学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命をかろんじて国のめに水火にも飛込む。福澤が蝙蝠かわほり傘一本で如何いかに士族の仮色こわいろを使うても、之に恐るゝ者は全国一人もあるまい。れぞ文明開化のたまものでしょう。

独立敢て新事例を開く

私のかんがえは塾に少年を集めて原書を読ませるばかりが目的ではない。如何様いかようにもしてこの鎖国の日本をひらいて西洋流の文明に導き、富国強兵もって世界中におくれを取らぬようにしたい。りとてただこれを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初かりそめにも言行齟齬そごしてはまぬ事だと、ず一身の私をつつしみ、一家の生活法をはかり、他人の世話にならぬようにと心掛けて、さて一方に世の中を見て文明改進のめに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着とんじゃくせず思切おもいきっこころみました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀をてゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人にといこれを実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法をやぶって平易なる通俗文を用うる事なり、およ是等これらは当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱たいかんに夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳ほんやくしたって、私の出版書のように売れようけはない。畢竟ひっきょう私の才力がエライとうよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱せいうんねつに浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。にもかくにも著訳書が私の身を立て家をす唯一の基本になって、ソレで私塾をひらいても、生徒からわずかばかりの授業料をかき集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師の所得にすることが出来たその上に、折々おりおり私の財嚢ざいのうから金を出して塾用を弁ずることも出来ました。
 所で私の性質は全体放任主義とおうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事について朝夕心を用いて一生懸命、些細ささいの事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、是非ぜひとも慶應義塾を永久にのこして置かなければならぬとう義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定あんしんけつじょうして居るから、したがって世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中おのずから独立の気風を生じて世間のりに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々さっさつと言論して、時としてはその言論が政府のしゃくに障ることもあろう。実をえば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切いっさい既往をわず、ただ今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営してれゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野ちょうやとかいやに区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、はなはだしきはこれを妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉もきたなくなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺かんぺんふうおおいに改まりて、余りひどい事はない。いずれ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。
 また私は知る人のめに尽力したことがあります。れは唯私の物数寄ものずきばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽とおうか、慈悲と云おうか、癇癪かんしゃくと云おうか、マアそんな所からおおいに働いたことがあります。仙台藩の留守居るすい役を勤めて居た大童信太夫おおわらしんだゆうう人があって、旧幕府時代から私はその人とごく懇意こんいにして居ました、といってその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれどもかくに西洋文明のふうを好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申してよろしい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓ひいきにするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから随分ずいぶん金廻わりもかったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、ただ何でも書生をやしなって遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、およそ当時仙台の書生で大童の家の飯をわない者はなかろう。今の富田鉄之助とみたてつのすけを始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担してたちまち失敗して、その謀主は但木土佐ただきとさう家老であると定まって、その人は腹をきっ仕舞しまったその後で、但木土佐が謀主だとうけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに大童信太夫おおわらしんだゆう松倉良助まつくらしょうすけの両人だとう云うけで、維新後その両人は仙台にかえって居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌しゃべり出した、すでに政府は朝敵の処分をして事済ことずみになっては居るが、内からそんなことを云出いいだして、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、久我大納言こがだいなごんを勅使として下向を命じた、と云う政府の趣意しゅいはなはだ旨い、この時に政府はすでに処分済の後だから、け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、すれば怪我人も少ないだろうとめに、わざと久我をえらんだと云うことは、その時私もひそかに聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向ときいて景気をもよおし、生首を七ツとやらもって出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士がやった。その時に松倉も大童も、居れば危ないから脊戸口せどぐちから駈出かけだして、東京まで逃げて来た、と云うのは両人ともモウちゃんと首をられる中に数えられて居たその次第を、誰か告げてれる者があって、そのまま家を飛出して東京へ来てひそんで居るその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、すで熱海貞爾あつみていじう男は或夜今其処そこで同藩士に追駈けられたと申して、私方に飛込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、大童おおわら松倉まつくらはどうやらうやら久しくまぬかれて居て、私はもとより懇意こんいだからその居処いどころしって居れば私の家にも来る。政府の人から見られるのは苦しくない、政府はそんな野暮はしない、そんな者を見ようともしないが、何分にも同藩の者がるので誠に危ない。引捕ひきとらえて、れが罪人でございとえば、如何いかに優しい大目おおめな政府でもただ見ては居られない。実にこまった身の有様ありさまだと、毎度両人と話す中に、私は両人のめに同情を表するとうよりも、むしろこの仙台藩士の無情残酷と云うことにひどく腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖にひどい事をする奴だ、ドウかしてれたいものだと斯う考えた所で、れから私が大童に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ、私が一つこころみて見よう、何でもれは一番、藩主を引捕ひっとらえて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労なけだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷にいって、藩主に御目おめかかりたいと触込ふれこんで、藩主に面会した。ソコで私がこの藩主にむかって大に談じられる由縁ゆかりのあるとうのは、その藩主と云う者は伊達だて家の分家宇和島うわじま藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私があずかっおおいに力がある、と云うのは当時大童おおわらが江戸屋敷の留守居るすいで世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時あるとき私に談じて、「お前さんの処(奥平おくだいら家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何いかんきいもらいたいと云うから、早速取調べて返事をして、ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、れから又私は麻布あざぶ竜土りゅうどの宇和島の屋敷にいって、家老の桜田大炊さくらだおおいと云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだからただ難有ありがたいとの即答、一切いっさい大童と私と二人で周旋して、れから表向きになってもらったその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主にうて、時に尊藩の大童、松倉まつくらの両人が、この間仙台から逃げてまいったのは、彼方あっちに居れば殺されるから此方こっちに飛出して来たのであるが、の両人は今でも見付け出せば藩主において本当に殺す気があるのか、ただし殺したくないのか、ソレをうけたまわりたい。「イヤ決して殺したいなどゝう意味はない。「しからばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命のつながるようにしてやっては如何いかが御座ござる。実はお前さんは大童おおわらむかっおおいに報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家おいえに養子に来たのはう由来、れ/\の次第であったが、れを思うても殺すことは出来まい。屹度きっと御決答ごけっとうを伺いたいと、顔色がんしょくを正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、れは大参事にかしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論もちろん異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「しからばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならばよろしい、大参事におうといって、そばの長屋に居たから其処そこ捻込ねじこんだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。しからばすなわち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処をしって居る、捜せるならこころみに捜して見るがい、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽いんぺいして見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時いつまでたっても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでもいだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州あたりから何とか口を添えてれると都合が宜いなんてまた弱い事を云うから、よろしいとてゝ、れから私は薩州の屋敷にいって、う/\云う次第柄だから助けてやって呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何もむずかしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者について政府の内意をきいて上げるからといって、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知してれたには、かくも自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞しまうと云うことがわかった。れから念のめ私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、これにお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩のわたくしもって八十日を八年にしてろうなんと云うお負けをりはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後にはし違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童おおわら松倉まつくら旧時むかしの属官ばかりがならんで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑おかしかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事がんで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでももとの通りに交際してたがいに文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。ただこの事たるや仙台藩の無気力残酷をいきどおると同時に、藩中稀有けうの名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分ずいぶん彼方此方あちこちと歩きまわりましたが、口でえば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切いっさい歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
 れから榎本えのもと(当年の釜次郎かまじろう、今の武揚たけあき)の話をしましょう。前に申す通りに古川節蔵ふるかわせつぞうは私の家から脱走したようなもので、後できいて見れば榎本よりかきに脱走したそうで、房州ぼうしゅう鋸山のこぎりやまとか何処どことかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動がおこったので、あれは古川節蔵がやったのだと申します。節蔵が脱走した後でもって、脱走艦は追々函館はこだていって、れから古川ふるかわの長崎丸と一処いっしょまた此方こっちへ侵しに来た、とうのは官軍方のあずま艦、すなわち私などが亜米利加アメリカからもって来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを分捕ぶんどりしようと云うことを企てゝ、そうして奥州おうしゅう宮古みやこと云う港で散々たたかった所が、負けて仕舞しまっ到頭とうとう降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所きゅうもんじょと云う牢屋ろうやのようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川節蔵せつぞうと、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵おがさわらけんぞうと云う海軍士官と、二人ふたり連れで霞ヶ関の芸州げいしゅうの屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなといっめたのであるけれども、監禁されて居るとえば可哀想かわいそうだ。幸い芸州の屋敷に懇意こんいな医者が居るから、その医者の処にいって、ドウかして古川にいたいものだがわしてれぬかといったらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと這入はいって居るから、私がず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、仕様しようがないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公おれが止めたじゃないか。今ら云たって仕方しかたはないが、何しろ喰物くいものが不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、れから宅にかえっ毛布ケットもって行てやったり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減をきいたりした事があるので、私は〔く〕糺問所の有様ありさましって居ます。
 所が榎本釜次郎えのもとかまじろうだ。釜次郎は節蔵せつぞうよりか少し遅れて此方こっちかえって来て同じく糺問所きゅうもんじょの手にかかって居る。所がとんおとづれが分らない、と云うのは私は榎本とう男はしって居ることは知て居る、途中であっ一寸ちょと挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対あいたいして共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気にめて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本おおもとを云うと、あの阿母おっかさんと云う人はと一橋家の御馬方おんまかた林代次郎はやしだいじろうと云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士おかちの榎本円兵衛えんべえと云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁かいえんの遠い続合つづきあいになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母おばあさんに連れられて榎本の家にいったことがあると云うので、少し往来の道筋がとおって居て全く知らぬ人でない。所が榎本えのもとが今度糺問所きゅうもんじょの手にかかって居て、そのせつ、榎本の阿母おっかさんもあねさんもお内儀かみさんも静岡に居るが、一向釜次郎かまじろうの処から便りがないのでおおいに案じて居ると、丁度ちょうどその時に榎本の妹の良人おっと江連えづれ加賀守かがのかみう人があって、この人はと幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方がいこくがたの飜訳方であったからしって居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越よこして、榎本はこの節どうして居るだろうか、とんと便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云ううわさは風の便りにきいたけれども、ソレも確めることが出来ない、れについて江戸に親戚身寄みよりの者に問合といあわせたけれども、嫌疑けんぎを恐れてかただの一度も返辞へんじを寄越した者がない、ソコで君の処に聞きにやったら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らしてれぬかと云うことを縷々こまごまかいて来ました。所で私はその手紙を見てず立腹したと申すは、榎本はかくも、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、乃公おれが一人で引受けてると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵ふるかわせつぞうの一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入はいって居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろわずらいもしなければ何もせずに無事に居るので御座ござる、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えてれよと云てると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京してもよろしかろうかといって来たから、颯々さっさつ御出おいでなさい、私方に嫌疑けんぎもなんにもない、公然と出て御出おいでなさいと返辞へんじをすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所きゅうもんじょの様子もわか差入物さしいれものなどして居る中に、阿母おっかさんが是非ぜひ釜次郎かまじろうに逢いたいと云出いいだした。所が法律も何もない世の中で、何処どこに訴えて如何どうしようとう方角が分らない。ソコで私が一案を工風くふうして、老母から哀願書を差出すことにして、私がしたためた案文のその次第は、云々うんぬん今般こんぱんせがれ釜次郎犯罪の儀、誠にもって恐れ入ります、同人事は実父円兵衛えんべえ存命中斯様かよう々々、至極しごく孝心深き者で、父につかえて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯すはずはない、れにかぎって悪い根性の者では御在ござません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座ござるから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意しゅいで、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましくかいて、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからおばあさんがつえをついて哀願書をもって糺問所に出掛けた処が、コレは余程よほど監守の人を感動さしたと見え、もとよりこんな事で罪人の助かるけはないが、とう/\仕舞しまい獄窓ごくそうを隔てゝ母子ぼし面会だけは叶いました。れする中にここに妙な都合のい事が出来ましたその次第は、榎本えのもと箱館はこだてで降参のとき、自分がかつ和蘭オランダ在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国のめにとて官軍におくって、その書が官軍の将官黒田良助くろだりょうすけ(黒田清降きよたか)の手にあるとうことを聞きました。所で人は誰か忘れたが、或日あるひその書を私方に持参して、何の書だか分らぬがこの蘭文を飜訳ほんやくしてもらいたいと云うから、これを見ればかねうわさきいた榎本の講義筆記に違いない。れは面白いと思い、蘭文飜訳はやすいことであるのを、私は先方に気をませる積りでわざと手を着けない。初めのほう四、五枚だけ丁寧に分るように飜訳して、原本に添えて返してやって、れは如何いかにも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分る、所が版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分り兼ねる、誠に可惜おしい宝書で御座ござるといって、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をしてただ飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、わば伏線の計略をめぐらした積りである。又その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家にいったこともある。何時いつ何処どこか時も処も忘れましたが、払が黒田に写真をおくったことがあるその写真は、亜米利加アメリカの南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けて居る写真で、私がその前年、亜米利加から持てかえって一枚あったから黒田くろだおくって、れは亜米利加アメリカの南部の何とう人で、逃げる時にう云う姿で逃げたと云う、あえて命を惜むでもなかろうけれども、又一方から云えば命は大切な者だ、何としても助かろうと思えばく見苦しい姿をしても逃げるのが当然あたりまえの道である。人間と云うものは一度ひとたび命を取れば後で幾ら後悔しても取返しが付かない。ドウも榎本えのもとは大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか、何しろこの写真を進上するから御覧ごらんなさいと云て、こまやかに話したこともある。うした所で、ドウやら斯うやらする間にいよ/\助かることになった、けれどもその助かると云うのはもとより私の周旋したばかりで助かったと云うけではない、その時の真実内情のうわさを聞けば長州勢はドウも榎本等を殺すようないきおいがあった、ソコで薩州の藩士がソレを助けようと云う意味があったと云うから、長州勢に任かせたらあるいは殺されたかも知れぬ。いずれ大西郷さいごうなどがリキンでとう/\助かるようになったのでしょう。れは私のめには大童信太夫おおわらしんだゆうよりか余程よほど骨の折れた仕事でした。れする中に私がわずらついて、その事は病後まで引張ひっぱって居て、病気全快に及ぶとうときだから、明治三年にいよ/\放免になりましたが、ただ残念で気の毒なのは、阿母おっかさんは愛子あいしの出獄前に病死しました。
 所が前申す通り榎本釜次郎えのもとかまじろうと私とは刎頸ふんけいまじわりと云うけではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、ただ仙台藩士の腰抜けをいきどおったと同じ事で、幕府の奴の如何いかにも無気力不人情と云うことがしゃくさわったので、ソコでどうでもうでも助けてろうとおもっ駈廻かけまわりましたが、そのせつ、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、さて榎本のめに今日はこの通りに骨をおって居るが、れはただ人間一人の命を助けるばかりの志でほかになんにも趣意しゅいはない、元来がんらい榎本と云う男は深く知らないが随分ずいぶん何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色けいろかわった男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人ごけにんだから殿様好きだ、今こそろう這入はいって居るけれども、れが助かって出るようになれば、後日あるいは役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たりきいたりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑おかしいだのと云う念がの毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方こっちの卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日ただ今から一切いっさいの周旋をめるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様そんな浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日ごにちいたって私のいった通りになったのが面白い。榎本えのもとが段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦うらないはっけの名人のようだけれども、私の処にはチャント説がまって居て、一切いっさいの事情を知る者は私と妻と両人よりほかにないから、榎本がドウなろうと私の家でうわさをする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点がてんするでしょう。

一身一家経済の由来


頼母子の金弐朱を返す

れから私が一身一家の経済の事をべましょう。およそ世の中に何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済あいすまぬ事と決定けつじょうすれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味をつくして、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難かんなんの中に、母の精神をもっおのずから私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付いいつけられて金子きんす返済の使つかいをしたことがあります。その次第柄しだいがらうことです。天保七年、大阪において私共が亡父の不幸で母にしたがって故郷の中津なかつに帰りましたとき、家の普請ふしんをするとか何とか云うに、勝手向かってむき勿論もちろん不如意ふにょいですから、人の世話で頼母子講たのもしこうこしらえて一口ひとくち金二朱きんにしゅずつで何両とやらまとまった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄もちより、鬮引くじびきにて満座に至りて皆済かいさいになる仕組しくみであるが、大家の人は二朱ばかりの金のめに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金かけきんを出したまゝに手を引く者がある。これ掛棄かけすてと云います。その実は講主が人に金をただ貰うような事なれども、一般の風俗でまで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子たのもし大阪屋おおさかや五郎兵衛ごろうべえと云う廻船屋かいせんやが一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論もちろん私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日あるひ母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気にまぬ。武家が町人から金を恵まれてれをただ貰うてだまって居ることは出来ません。うから返したい/\と思ては居たがドウもう行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋にもっいっあつう礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋おおさかやまいって金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済などかえっ痛入いたみいります。最早もはや古い事です。決してそんな御心配には及びませんといっしきりに辞退すれども、私は母のうことをきいて居るから、是非ぜひ渡さねばならぬと、たがいに押し返して口喧嘩のように争うて、金をおいかえったことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付いいつけられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前ぶぜん中津なかつ下小路しもこうじの西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛ごろべえの家にいって主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中にのこって居るから、金銭の事については何としても大胆な横着な挙動は出来られません。

金がなければ出来る時まで待つ

ソレから段々成長して、中津なかつに居る間は漢学修業のかたわらに内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米もき飯も炊き、鄙事ひじ多能たのう、あらん限りの辛苦しんくして貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎にいって、勿論もちろん学費のあろうけもない、寺の留守番をしたり砲術家の食客しょっかくになったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の緒方おがた先生の塾に修業中も、相替あいかわらず金の事は恐ろしくてただの一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然あたりまえのことでかわきって居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節までまって居て借金はしないと、う覚悟をめて、ソコで二朱や一分はさて置き、百文ひゃくもんの銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。れから又私はしちおいたことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が夏冬なつふゆ手織ており木綿もめんの品をおくっれましたが、ソレを質に置くとえば何時か一度は請還うけかえさなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るがいと斯う思うから、金の入用はあってもただの一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金にせまっ如何どうしてもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくてたまらないと云うようなことがあれば、思切おもいきってその着物をうっ仕舞しまいます。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば弐朱にしゅ貸して呉れる、これを手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにするとうような経済法にして、また私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身をもって銭のめに時を費すは勿体もったいない、吾身わがみの為めには一刻千金の時である、金がなければただ使わぬと覚悟をめて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、仮初かりそめにも人に借用したことはない。折節おりふし自分で想像してはただ怖くてたまらない、借金が出来て人から催促されたら如何どうだろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬといって、此方こっちから借りては彼方あっちに返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんてさぞ忙しい事であろう、くもアレで一日でも半日でもやすんじて居られたものだと思うて、ほとんど推量が出来ない。一口ひとくちに云えば私は借金の事について大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、あたか白刃はくじんもって後ろから追蒐おっかけられるような心地こころもちがするだろうと思います。

駕籠に乗らず下駄、傘を買う

ソコで私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸にまいってから下谷したや練塀小路ねりべいこうじ大槻俊斎おおつきしゅんさい先生の塾に朋友があって、私はその時鉄砲洲てっぽうずに居たが、その朋友の処へ話にいって、夜になって練塀小路を出掛けて、和泉橋いずみばしの処に来ると雨が降出ふりだした。こりゃドウもこまったことが出来た、とても鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋のわきに辻駕籠かごが居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞たら、三しゅだと云う。ドウも三朱と云う金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少しきに下駄屋が見えるから、下駄屋へよって下駄一足に傘一本かって両方で二しゅ余り、三朱出ない。れから雪駄をふところに入れて、下駄を穿はいて傘をさして鉄砲洲てっぽうずまでかえって来た。デその途中私はひと首肯うなずき、この下駄と傘が又役に立つ、駕籠にのったって何も後に残るものはない、こんな処がつつしむべきことだとおもったことがあります、マアそのくらいに注意して居たから、ほかして知るべし、一切いっさい無駄な金を使つかったことがない。紙入かみいれに金を入れて置く、ソレは二か三分か入れてある、入れてあるけれども何時いつまでたってもその金のなくなったことがない。酒はもとより好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンな時には金も入りますが、ただ独りでブラリと料理茶屋に這入はいって酒を飲むなぞとうことは仮初かりそめにもしたことがない。ソレ程に私が金を大事にするから、又同時に人の金も決してむさぼらない。ソリャ以前奥平家に対して朝鮮人を気取たのは別な話にして、その外と云うのは決して金は貪らないと、自身独立、自力自活と覚悟をめました。

事変の当日、約束の金を渡す

ソコでもって慶応三年、すなわち王政維新の前年の冬、しば新銭座しんせんざ有馬ありま家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律にると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金をもって売買勝手次第とうことになって、新銭座しんせんざ有馬ありまの中屋敷が売物になると人の話をきいて、同じ新銭座住居の木村摂津守きむらせっつのかみの用人大橋栄次おおはしえいじと云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、あたいは三百五十五両、その時の事だから買うといった所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろうけはない、ただ売りましょうしからばすなわち買いましょうと云うけの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時いつだと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、れから私はその前日、三百五十五両の金をそろえて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷にいって見ると、門がしまっ潜戸くぐりどまで鎖してある。れから門番に、此処ここを明けてれ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は亜米利加アメリカ行の由縁で、木村家には常に出入しゅつにゅうして家の者のようにして居たから、門番も福澤ときいて潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタやって居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関にあがって大橋にあって、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井さかいの人数が三田みたの薩州の屋敷を焼払おうとう、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座ござると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、れは夫れとして、時にあの屋敷の金をもって来たから渡しておんなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭のあたいなしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切めだ、マアそんな事をなさるなといっ取合とりあわぬから、私は不承知だ。ソリャうでない、今日わたすと云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋おおはしは脇の方にむいて、「約束したからと云て時勢によったものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気ばかげたことがあるものか。仮令たとい今買えばと云ても、三百五十五両を半価にしろと云えば半価にするに違いない、ただの百両でもよろこんで売るだろう、かくに見合せだ、めだ/\と云て相手にならぬから、私は押返して、「イヤそれは出来ません。大橋さん、くお聞きなさい。先達せんだってこれを有馬から買おうと云うときに、何と貴方は約束なすったか、只十二月の廿五日すなわち今日、金を渡そう、受取ろうと、ソレよりほかに何にも約束はなかった。し万が一、世の中に変乱があれば破約する、その価を半分にすると云う言葉が、約束の中にあるかないかと云うに、そんな約束はないではないか。仮令たとい約条書がなかろうと、人と人と話したのが何寄なによりの証拠だ、売買の約束をした以上は当然あたりまえに金を払わぬこそ大きな間近いだ、何でも払わんければならぬ。加之しかのみならず、マダ私がうことがある。大橋おおはしさんの言う通りにこの三百五十五両を半価にせよとか百両にせよとかえば、時節柄有馬ありま家では承知するであろう。ソコで私が三百五十五両の物を百両にかったとうした所で、この変乱がどんなになるかわからない。今あの通り酒井さかいの人数が三田みたの薩州屋敷を焼払やきはらって居るが、れが何でもない事で天下奉平たいへい、安全の世の中になるまいものでもない。さていよ/\天下泰平になって、私がの買屋敷の内にすまい込んで居る。スルと有馬の家来も大勢あるから、私の処の門前を通るたびにらんで通るだろう、彼の屋敷は三百五十五両の約束をしたが、金の請取渡うけとりわたしのその日に三田に大変乱があったそのめに百両で売た、福澤は二百五十五両得をして、有馬家では二百五十五両損をしたと、通る度に睨んで通るに違いない。口に言わないでも心におもっいやな顔をするにきまって居る。私はソンな不愉快な屋敷に住もうと思わない。何はさて置き、構うことはない、ドウぞこの金を渡してださい。皆無かいむ損をしてもよろしい。この金をただ渡したばかりで、その屋敷に住まうどころではない、逃出して行くと云うような大騒動があるかも知れない。有ればあった時の話だ。人間世界の事は何が何やら分らない、確かに生きて居ると思う人が死んだりする。いわんや金だ、渡さなければならぬとねじくれ込んで、到頭とうとうもっいって貰いました。けで誠に私が金と云うことについきわめて律義に正しくやって居たと云うのは、れは矢張やはり昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすは卑劣だ、気がえると云うような事をおもったものと見えます。

子供の学資金を謝絶す

それにまた似寄によったことがある。明治の初年に横浜のる豪商が学校をこしらえて、この慶應義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をして居ました。うするとその主人は私にみずから新塾に出張して監督をして貰いたいと云う意があるように見える。私の家にはそのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳ななつに弟が五歳いつつぐらい。是れも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいとおもって居る、所が世間一般の風を見るに、学者とか役人とか云う人がややもすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることをいのって、ドウやらうやら周旋が行届いきとどいて目的を達すると獲物でもあったように悦ぶ者が多い。嗚呼ああ見苦しい事だ、自分の産んだ子ならば学問修業のめに洋行させるもよろしいが、貧乏で出来なければせぬがよろしい、れを乞食のように人に泣付なきついて修業をさせて貰うとはさても/\意気地のない奴共だと、心ひそかこれ愍笑びんしょうして居ながら、私にも男子が二人ふたりある、この子が十八、九歳にもなれば是非ぜひとも外国にらなければならぬが、さきだつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途はなははるかなり、二人ふたりやって何年間の学費は中々の大金、自分の腕で出来ようか如何どうだろうか誠に覚束おぼつかない、こまったことだと常に心におもって居るから、あえはじることでもなし、颯々さっさつと人に話して、金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳ななつ五歳いつつだとうけれども、モウ十年てば仕度したくをしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来ればいがと、人に話して居ると、誰かこの話を例の豪商にも告げた者があるか、或日あるひ私の処に来て商人の云うに、お前さんにの学校の監督をお頼み申したい、く申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、態々わざわざ月給といっては取りもしなかろうが、ここに一案があります、ほかではない、お前さんの小供両人、のお坊ッちゃん両人を外国にるその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何どうだろう、此処ここで今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、所で今らない金だからソレを何処どこへか預けて置く、預けて置くうちに小供衆が成長する、成長して外国に行こうと云うときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何いかが御座ござるとい出した。成程れはい話で、此方こっちはモウ実に金にこがれて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天からふって来たようなもので、即刻そっこく応と返辞へんじをしなければならぬ処だが、私は考えました。待て霎時しばし、どうもうでない、そもそ乃公おれの学校の監督をしないとうものは、ない所以ゆえんがあってないとチャンと説をめて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督のもとめに応じようとえば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請取うけとるのが間違いである。金のめに変説と云えば、金さえ見れば何でもするとう成らなければならぬ。れは出来ない。つ又今日金の欲しいと云うのは何のめに欲しいかと云えば、小供のめだ。小供を外国で修業させて役に立つようによう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子にちがいない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何どうあっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分にみずから信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退するといっては、所謂いわゆる独立心の居処いどころが分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めにせつを屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。よろしい、今後乃公おれの子が金のないめに十分の教育を受けることが出来なければ、れはその子の運命だ。さいわいにして金が出来れば教育してる、出来なければ無学文盲のまゝにして打遣うちやって置くと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してれたので、もとより私の心事を知るけもないから、体能ていよく礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前がんぜんに子供を見てその行末を思い、又かえりみて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分ずいぶん心を悩ましました。その話は相済あいすみ、その後も相替あいかわらず真面目に家を治めて著書飜訳ほんやくの事をつとめて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして中上川彦次郎なかみがわひこじろうを英国にりました。彦次郎は私のめにたった一人の甥で、彼方あちらまた只た一人の叔父さんでほかに叔父はない、私もまた彦次郎の外に甥はないから、ず親子のようなものです。れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加アメリカに六年ばかりやって置きました。私は今思い出しても誠にい心持がします。くあの時に金をもらわなかった、貰えば生涯気掛りだが、い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉にきずを付けなかったような心持がします。

乗船切符を偽らず

右様な大金の話でない、極々ごくごく些細の事でも一寸ちょい胡麻化ごまかしてむさぼるようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男一太郎いちたろうと次男捨次郎すてじろうと両人を連れて上方かみがた見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、金場小平次きんばこへいじかね懇意こんいの問屋に一泊、ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸にかえって来て、た三菱の船に乗込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗込みと云うときにその切符を請取うけとって見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚のはずだ、何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、番頭は落付払おちつきはらい、「ナーニ間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの御年おとし誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然あたりまえです。規則には満十二歳以上なんてかいてありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんとうから、私は承知しない。「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、是非ぜひ規則通りに払うとうと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんといって議論のように威張いばるから、「何でもよろしい。乃公おれは乃公の金を出して払うものを払い、貴様にはただその周旋を頼むけだ。何も云わずにれろと申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。れは何も珍らしくない、買物の代を当然あたりまえに払うまでの事だから、世間の人も左様さようであろうと思うけれども、今日例えば汽車にのって見ると、青い切符をもっ一寸ちょいと上等に乗込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札あおふだを以て上等に飛込み神奈川にあがった奴がある。私は箱根帰りに丁度ちょうどその列車に乗て居て、ソット奴の手ににぎってる中等切符を見て、扨々さてさていやしい人物だと思いました。

本藩の扶持米を辞退す

是れまで申した所では何だか私が潔白な男のように見えるが、中々うでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動ふるまいをして居ました。話は少々長いが、私が金銭の事に付き数年の間に豹変ひょうへんしたその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、第一、王臣になるか、第二、幕臣になって静岡に行くか、第三、帰農して平に民になるかといって来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小をてゝ丸腰になって仕舞しまい、ソコでれまで幕府の家来になって居るとはいながら、奥平おくだいらからも扶持米ふちまいもらって居たので、幕臣でありながらなかばは奥平家の藩臣である。しかるに今度いよ/\帰農とえば、勿論もちろん幕府の物を貰うけもないから、同時に奥平家の方からもらって居る六人扶持ふちか八人扶持の米も、御辞退申すといって返して仕舞しまいました、と申すはその時に私の生活はカツ/\出来るか出来ないかとう位であるが、しかしドウかしたなら出来ないことはないと大凡おおよその見込みこみついて居ました。前にも云う通り私は一体金のらない男で、一方では多少の著訳書をうって利益を収め、又一方ではとんと無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。れからき無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれるとかんがえを定めて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルと奥平の役人達はかえっこれを面白く思わぬ。「ソンナにしなくてもい、れまで通りろうといいて、その押問答がなか/\やかましい。妙なもので、此方こっちが貰おうと云うときには容易に呉れぬものだが、要らないと云うと向うがしきりにうる。ソレで仕舞しまいには、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと云うまでになって来た。れから此方も意地になって、「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米をしらげてもらいたい。モ一つついでにその米をめしか粥にたいて貰いたい。イヤ毎月と云わずに毎日もらいたい。すべての失費は皆米の内でつぐのいさえすればいからうして貰いたい。ソレでドウだと申すに、御扶持おふちを貰わなければ不親切不忠とわれる、不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程のかんがえはないからつつしんで戴きます。願の通りその御扶持まいめしか粥になって来れば、私は新銭座しんせんざ私宅近処きんじょの乞食にふれを出して、毎朝来い、わしてると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前において難渋者共に戴かせます積りですとうような乱暴な激論で、役人達もこまったと見え、とう/\私のう通りに奥平藩の縁も切れて仕舞しまいました。

本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し

う云えば私が如何いかにも高尚廉潔の君子のように見えるが、この君子の前後を丸出しにすると実は大笑いの話だ。れは私一人でない、同藩士も同じことだ。イヤ同藩士ばかりでない、日本国中の大名の家来は大抵たいてい皆同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領といって、これに返礼する気はない。馳走ちそうになれば御酒ごしゅくだされなんと云て、気の毒にも思わずただ難有ありがたいと御辞儀じぎをするばかりで、その実は人間相互あいたがいの附合つきあいと思わぬから、金銭の事についてもまたその通りでなければならぬ。私が中津なかつ藩に対する筆法は、金の辞退どころかただ取ることばかり考えて、何でも構わぬ、取れるけ取れとう気で、一両でも十両でもうまく取出せば、何だかかりいっ獲物えもののあったような心持こころもちがする。拝借といって金を借りた以上は此方こっちのもので、返すと云う念は万々ない。仮初かりそめにも自分の手に握れば、借りた金ももらった金も同じことで、あとの事は少しも思わず、義理も廉恥れんちもないその有様ありさまは、今の朝鮮人が金をむさぼると何にもかわったことはない。嘘もけばこびも献じ、散々さんざんなことをして、藩の物をただ取ろう/\とばかり考えて居たのは可笑おかしい。

百五十両を掠め去る

その二、三ヶ条を云えば、小幡おばたそのほかの人が江戸に来て居て、私が一切いっさい引受けて世話をして居るときに、藩から勿論もちろんソレに立行くけの金をれようけはない。ドウやらうやら種々様々に、私が有らん限りの才覚をして金をつくった。例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、ソレを飜訳ほんやくしては、佐賀藩の留守居るすいとか仙台藩の留守居とか、その外一、二藩もありました、ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳をかって貰いたいと云て多少の金にするような工風くふうをしたり、又は私が外国からもっかえった原書の中の不用物をうったりして金策をして居ましたが、何分大勢おおぜいの書生の世話だからその位の事ではとて追付おいつく訳けのものでない。所でその時江戸の藩邸に金のあることを聞込ききこんだから、即案にい加減な事を書立かきたて、何月何日頃何の事で自分の手に金の這入はいる約束があると云うような嘘をこしらえて、誠めかしく家老の処にいって、散々御辞儀じぎをして、う/\けですから暫時ざんじ百五十両けの御振替おふりかえを願いますとごく手軽に話をすると、家老は逸見志摩へんみしまと云う誠に正しい気のい人で、暫時ざんじのことならば拝借仰付おおせつけられてもかろうと云うような曖昧な答をしたから、その笞を聞くやいなやすぐにその次の元締役もとじめやくの奉行の処に行て、今御家老ごかろう志摩殿に斯う云う話をした所が、貸して苦しくないと御聞済おききずみになったから、今日その御金を請取うけとりたいと云うと、奉行は不審をいだき、ソレは何時いつの事だか知らぬがマダそのすじから御沙汰さたにならぬと妙な顔色かおして居るから、仮令たとい御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、ただ金をさえ渡して下さればよろしい、何もむずかしい事はないと段々といた、所が家老衆がえば、御金のないことはない、余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、此方こっちはモウ済んだ事にして仕舞しまって、その足でまたその下役の元締小吟味こぎんみれが真実その金庫の鍵をもって居る人であるその小吟味方の処へ行て、ただ今金を出してもらいたい、斯う/\云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、正当な手順で、わずか三ヶ月てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、何の事はない、疾雷しつらい耳をおおうにいとまあらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両とう大金をかすめてもって来たその時は、あたかも手に竜宮のたまを握りたるがごとくにして、かつ[#「かつつ」はママ]そのにぎった珠を竜宮へえそうなんと云う念は毛頭もうとうない。誠に不埒ふらちな奴さ。れでもって一年ばかりおおいに楽をしたことがあります。

原書を名にして金を貪る

またる時、家老奥平壱岐おくだいらいきの処に原書を持参して、御買上おかいあげを願うと持込んだ所が、この家老は中々黒人くろうと、その原書を見て云うに、れはい原書だ、大層たいそう高価のものだろうとしきりにめるから、此方こっちはチャンと向うの腹をしって居る、有益な本で実価は安いなどと威張いばって出掛けると、ソレじゃほかへ持て行けと云うにきまって居るから、一番、その裏をかいて、「左様さようです、原書は誠に必要な原書ですが、これを私が奥平様にお買上げを願うと云うのは、この代金を私が請取うけとって、その金は私が使つかって、うしてその御買上おかいあげげに[#「御買上おかいあげげに」はママ]なった原書を私が拝借しようとう云うので、正味を申せば私がマア金をただ貰おうと云う策略でござる。くの通り平たく心の実を明らさまに申上げるのだから、ドウかこの原書を名にして金を下さい。一口に申せば私は体の宜い乞食、おもらい見たようなものでござると打付ぶっつけた所が、家老も仕方しかたがない、そのけは、家老が以前に自分の持て居る原書一冊を奥平藩に二十何両かで売付けたことがあるその事を聞込ききこんだから私がいったので、しも否めばお前さんはドウだと暴れてろうと云う強身つよみの伏線がある、丸で脅迫手段だから、家老も仕方なしに承知して、私も矢張やはりその原書を名にして先例にり二十何両かの金をとって、その内十五両を故郷の母の方におくって一時の窮をしのぎました。

人間は社会の虫なり

うような次第で、ソレはソレは卑劣とも何とも実にいようのない悪い事をして一寸ちょいともじない。仮初かりそめにもれはドウも有間敷あるまじきことだなんとおもったことがない。取らないのは損だとばかり、かりに行けば雀をうったより雁をとった方がエライと云う位の了簡で、うまく大金をかすめ取れば心ひそかほこって居るとは、実に浅ましい事であるのみならず、本来私の性質がソレ程卑劣とも思わない、随分ずいぶん家風の悪くない家に生れて、幼少の時から心正しき母に育てられて、いやしくも人にまじわっむさぼることはしないと説を立てゝ居る者が、何故に藩庁に対してばかりくまでに破廉恥はれんちなりしや、とんけが分らぬ。シテ見ると人間と云う者はコリャ社会の虫に違いない。社会の時候が有りのまゝに続けば、その虫が虫を産んで際限のない所に、この蛆虫うじむしすなわち習慣の奴隷が、不図ふと面目を改めると云うには、社会全体に大なる変革激動がなければならぬと思われる。ソコで三百年の幕府が潰れたと云えば、れは日本社会の大変革で、随分ずいぶん私の一身も始めて夢がめて、藩庁に対する挙動きょどうも改まらなければならぬ。是れまで自分が藩庁にむかっずべき事を犯したのは、畢竟ひっきょう藩の殿様などう者をあがたてまつって、その極度はその人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物と思い、知らずらずみずから鄙劣ひれつに陥りしことなるが、れからは藩主も平等の人間なりと一念こゝに発起して、この平等の主義からして物をむさぼるは男子の事にあらずと云う考えが浮かんだのだろうと思われる。その時には特に考えたこともない、説を付けたこともないが、私の心の変化は恐ろしい。何故なにゆえに以前藩に対してあれほど卑劣な男が後にいたっては折角せっかくれようと云う扶持方ふちかたをも一酷いっこくに辞退したか、辞退しなくっても世間に笑う者もないのに、うっかわった人物になって、この間まで丸で朝鮮人見たような奴が、恐ろしい権幕をもって呉れる物を刎返はねかえして、伯夷はくい叔斉しゅくせいのような高潔の士人に変化へんかしたとは、何と激変ではあるまいか。他人の話ではない、私が自分で自分を怪しむことであるが、畢竟ひっきょう封建制度の中央政府を倒してその倒るゝと共に個人の奴隷心を一掃したと云わなければならぬ。

支那の文明、望むべからず

これを大きく論ずれば、の支那の事だ、支那の今日の有様を見るに、何としても満清まんしん政府をあのままに存じておいて、支那人を文明開化に導くなんと云うことは、コリや真実無益な話だ。何はさて置き老大政府を根絶やしにして仕舞しまって、ソレから組立てたらば人心こゝに一変することもあろう。政府に如何いかなるエライ人物が出ようとも、百の李鴻章りこうしょうが出て来たって何にも出来はしない。その人心をあらたにして国を文明にしようとならば、何はもあれ、こころみに中央政所を潰すよりほかに妙策はなかろう。これを潰して果して日本の王政維新のようにうまく参るか参らぬか、きっと請合はかたけれども、一国独立のめとあればこころみにも政府を倒すに会釈はあるまい、国の政府か、政府の国か、このくらいの事は支那人にも分るはずと思う。

旧藩の平穏は自から原因あり

私の経済話から段々えだがさいて長くなりましたが、ついでながら中津藩の事について、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極しごく淡泊にあったと云うそのめに、ここ随分ずいぶん心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論がさかんで、ややもすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断をもって藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すとうようなことは、いずれの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、し私に政治上の功名心があって、藩にいって佐幕とか勤王とか何か云出いいだせば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私はだまって居て一寸ちょいとも発言せず、人がうわさをすれば、やかましく云わんでもい、てゝ置きなさいと云うように、ごく淡泊にして居たから、中津なかつの藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレがめだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟ちっちょくしたと云うこともなかった。

藩の重役に因循姑息説を説く

ソコで私が明治三年、中津に母を迎えにいったことがある、所がその時は藩政も大いにかわって居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老のやしきに呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処そこに出て居る。案ずるに、私が行たらばさぞドウも大変な事を云うだろうと待受まちうけて居たに違いない。れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたらかろうか、方向にまよって五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私はこれに答えて、イヤもうれはドウするにも及ばぬことだ、く諸藩ではあるいは禄を平均すると云うような事で大分騒々そうぞうしいが、私の考えでは何にもせずに今日のこのままで、千こくとって居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々ゆうゆうとして居るが上策だと、その説をつまびらかに陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、れは/\穏かなことを云うものかなと云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。

武器売却を勧む

れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今う通り禄も身分も元の通りにして置くがかろう、ソレはよろしいが、ここに一つ忠告したいことがある。今この中津なかつ藩には小銃もあれば大砲もあり、武をもって国を立てようと云うそのおもむきはチャンと見えて居るが、しかし今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、れば今日ただ今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来せめくればこれにも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩つみなし武器わざわいをなすと云わねばならぬ、ダカラいっそこの鉄砲を皆うっ仕舞しまいたい、見れば大砲はいずれもクルップだ、これを売れば三千五千あるいは一万円になるかも知れぬから、一切いっさい売て仕舞しまって昔の琉球見たようになって仕舞うがい、うしておいて長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩からやって来たら、ヘイ/\、ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州にいっじかに話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談じきだんを頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方こっちはドウでも宜いと、う仕向けがかろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないからう云うようにしたい、そうして一方においてはドウしてもこの世の中は文明開化になるにきまってるから、学校をこしらえて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針をるが一番大事である、さて爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞しまえば、余り割合が宜過よすぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくてこまって居る、ソコで一片の願書なり届書なりしたためて出して見るがよろしい、その次第はこの中津なかつ藩は武備を廃したるめに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでもすって下さいと斯うえば、海陸軍では大によろこぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々おのおの色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末にまるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略において有るにきまっけではないか、しかるに此処ここではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処あすこでは仏蘭西フランスの小銃、此方こっち和蘭オランダからむかし輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府においてイザ事といっても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるがい、爾うすれば独り政府がよろこぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂いわゆる一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。

武士の丸腰

所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門すがぬましんごえもんう人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士にむかって丸腰になれと云うような説で、ソレばかりは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければなさるな、ドウでもよろしい、御勝手になさい、ただ私はうしたらば便利だと思うけの話だからといって、ソレめになって仕舞しまいましたが、しかし私はその政治論に熱しなかったと云うめに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、れは事実において間違いないことで、おのずから藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津なかつ藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合がかった。例えば私の妻の里などは二百五十石とって居て三千円ばかりの公債証書をもらい、今泉いまいずみ(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石かとって居たが四千円ももらいましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身にかずとうようなけで、ついにはなくして仕舞しまって何もありはしない。かく中津なかつ藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。

商売の実地を知らず

話は以前もと立還たちかえった経済を語りましょう。私は金銭の事を至極しごく大切にするが、商売ははなはだ不得手である、その不得手とはあえて商売の趣意を知らぬではない、その道理は一通ひととお心得こころえて居るつもりだが、自分に手を着けて売買ばいばい貸借かしかりは何分ウルサクて面倒臭くてる気がない。つむかしの士族書生の気風として、利をむさぼるは君子の事にあらずなんと云うことがあたま染込しみこんで、商売ははずかしいような心持こころもちがして、れもおのずから身に着きまとうて居るでしょう。すでに江戸に始めて来たとき、同藩の先輩岡見おかみ〔三〕と云う人が、和蘭オランダ辞書の原書を飜刻ほんこくして一冊の代価五両、その時には安いもので随分望む人もある中に、私が世話をして朋友に一冊買わせて、その代金五両を岡見にもって行くと、主人が金一分、紙に包んでれたから驚いた、是れは何の事か少しも分らん、本の世話をしてうったその礼とは呆れた話だ、畢竟ひっきょう主人が少年書生と見縊みくびって金を恵む了簡であろう、無礼な事をするものかなと少し心に立腹して、真面目になって争う事があると云うような次第で、物の売買に手数料などゝ云うことは町人共の話として、書生の身には夢ほども知らない。

火斗を買て貨幣法の間違いを知る

れども是等これらは唯書生の一身に直接してしかるのみ。さて経済の理窟においては当時町人共の知らぬ処にかんがえの届くことがある。るとき私が鍛冶橋かじばしそとの金物屋にいっ台火斗だいじゅうのうかって、価が十二もんめと云うその時、どう云うけだか供の者に銭を持たせて、十二匁なればおよそ一貫二、三百文になるから、その銭を店の者に渡したときに、私が不図ふと心付た。この銭の目方はおよそ七、八百目から一貫目もある、しかるに銭の代りに請取うけとった台火斗は二、三百目しかない、銭も火斗も同じ銅でありながら、通用の貨幣は安くて売買の品は高い、れこそ経済法の大間違いだ、こんな事が永く続けば銭を鋳潰して台火斗を作るが利益だ、何としても日本の銭の価は騰貴するに違いないと説を定めて、一歩を進めて金貨と銀貨との目方、性合を比較して見て、西洋の金一銀十五の割合にすれば、日本の貨幣法は間違いも間違いか大間違いで、私が首唱して云うにも及ばず、外国の商人は開国その時から大判小判の輸出で利を占めて居るとの風聞。ソレから私もしって居る金持の人にしきりに勧めて金貨を買わせた事があるが、れもただ人に話をするばかりで自分には何にもようとも思付おもいつかぬ。ただ私の覚えて居るのは安政六年の冬、米国行の前、ある人に金銀の話をして、翌年夏、帰国して見れば、その人がおおいに利益を得た様子で、御礼おれいに進上するといって、一朱銀の数もかぞえず私の片手に山盛り一杯金をれたから、深く礼をうにも及ばず、何はさて置き早速さっそく朋友を連れて築地の料理茶屋にいって、思うさま酒を飲ませたことがある。

簿記法を飜訳して簿記を見るに面倒なり

ずこの位なことで、その癖私は維新後早く帳合之法ちょうあいのほうと云う簿記法の書を飜訳ほんやくして、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例にならうてかいたものである。ダカラ私は簿記の黒人くろうとでなければならぬ、所が読書家のかんがえと商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見てもはなはだ受取が悪い。ウンと考えればもとより分らぬことはない、きっと分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体のしめて何々と云う数を見るばかり。こんな事で商売の出来ないのは私もしって居る。例えば塾の書生などが学費金をもって来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいとう者がある。今の貴族院議員の滝口吉良たきぐちよしろうなども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の袖斗ひきだしに入れておいて、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで仕舞しまって置く。その金を銀行に預けて如何どうすれば便利だとうことを知るまい事か、百も承知で心にしって居ながら、手でることが出来ない。銀行に預けるはさて置き、そのあずけた紙幣の大小を一寸ちょいと私に取替えてもとの姿を変えることも気がまない。如何どうでもれはもって生れた藩士の根性か、しからざれば書生の机の抽斗ひきだしの会計法でしょう。

借用証書があらば百万円遣ろう

ソコである時例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目にみるような混雑な事を云うから、て/\如何どうもウルサイ事だ、この金を彼方あっちに向けて、の金は此方こっちえすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくてもさそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私もく知て居るが、いやしくも人に金を貸すと云うことはあまった金があるから貸すのだ、仮令たとい商売人でも貸す金があるならけソレを自分に運転して、他人の金をば成るけ借用しないようにするのが本意ではないか、しかるに自分に資本を持て居ながら、態々わざわざ人に借用とは入らざる事をしたものだ、余計な苦労を求めるようなものだと云うと、その人がおおいわらって、迂闊うかつ千万、途方もない事を云う、商売人と云うものは入組いりくんで/\滅茶々々めちゃめちゃになったとうその間に、又種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか、ただに商売人に眼らず、およそ人の金を借用せずに世の中を渡ると云うことが出来るものか、ソンな人が何処どこに在るかといって私を冷却するから、私はその時始めてヒョイと思付おもいついた。今御話を聞けば、世の中に借金しない者が何処に在るかと云うが、その人は今こゝに居ます。私はれまでただの一度も人の金を借りたことがない。「そんな馬鹿な事を云いなさるな。「イヤ如何どうしてもない。生れて五十年(是れは十四、五年前の話)人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘ならば、こころみに私の印形のすわって居るものとは云わない、反古ほごでも何でもよろしい、ソレを捜してもって来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤のかいた借用証文と云うものはソレこそ有る気遣いはないが如何どうだ、と云うようなけで、その時に私も始めて思い出したが、私は生れてこのかたついぞ金を借りたことがない。是れはマア私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらばはなはだ尋常一様でないのかも知れぬ。

金を預けるも面倒なり

ソレで私は今でも多少の財産を持て居る、持て居たけれども私ところの会計と云うものは至極しごく簡単で、少しも入込んだことはない。この金を誰にえさなければならぬ、これ此方こちらに振向けなければならぬと云うような事は絶えてない。ソレでわずか[#「わずかか」はママ]ばかり二百円とか三百円とかう金が、手元にあってもなくても構わない、ソレを銀行に預けて、必要のとき小切手で払いをすれば利息が徳になると云う、ソレは私もしって居て、世間一体そう云うふうになりたいとは思えども、さて自分には小面倒こめんどう臭い、ソンな事にドタバタするよりか、金は金で仕舞しまっおいて、払うときにはその紙幣さつかぞえて渡してると、う云う趣向にして、私も家内もその通りな考えで、真実封建武士の机の抽斗ひきだしの会計と云うことになって、その話になると丸で別世界のようで、文明流の金融法は私の家に這入はいりません。

仮初にも愚痴を云わず

れからして、世間の人が私に対して推察する所を、私が又推察して見るに、ドウも世人の思う所は決して無理でない、と云うのは私が若い時からこまったと云うことを一言いちごんでも云うたことがない、誠に家事多端で金の入用が多くて困るとか、今歳ことしは斯う云う不時な事があって困却致すとか云うような事を、仮初かりそめにも口外したことがない、私の眼には世間が可笑おかしく見える、世間多数の人がややもすれば貧乏で困る、金が不自由だ、無力だ、不如意だ、なんかんと愚痴をこぼすのは、あるいは金を貸してもらいたいと云うような意味で言うのか、ただしは洒落しゃれに言うのか、飾りに言うのか、私の眼から見れば何の事だか少しもけが分らない、自分の身に金があろうとなかろうとあえて他人に関係したことでない、自分一身の利害を下らなく人に語るのは独語ひとりごとを言うようなもので、こんな馬鹿気ばかげた事はない、私の流儀にすれば金がなければ使わない、あっても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切いっさい世間の人のお世話に相成あいならぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、かつて人に相談しようとも思わなければ、人にくちばしれさせようとも思わぬ、貧富苦楽、共に独立独歩、ドンな事があっても、一寸ちょいとでもこまったなんて泣言をわずに何時も悠々として居るから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持かねもちだと測量する人もありましょう。所が私は又その測量者があろうとなかろうと、その推測があたろうと中るまいと、少しも頓着とんじゃくなしに相替らず悠々として居ます。すでに先年、所得税法の始めて発布せられた時などは可笑おかしい、区内の所得税掛りとか何とか云う人が、私の家には財産がおよそ七十万円あるその割合で税を取ると、内々いって来た者があるから、私がその者に云うに、何卒どうぞその言葉を忘れてれるな、見て居る前で福澤の一家残らず裸体はだかになって出て行くから、七十万でかって貰いたい、財産は帳面のまゝ渡して、家も倉も衣服も諸道具も鍋も釜も皆るから、ソックリ買取かいとって七十万円の金にえたい、ただ漠然たる評価は迷惑だ、現金で売買したい、うなれば生来始めての大儲けで、生涯さぞ安楽であろうと云て、大笑いしたことがあります。

他人に私事を語らず

私が経済上に堅固をまもって臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、また身の境遇に駈られてついに堅くり固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家をさって以来、みずから一身のはかりごとし、二十三歳、家兄かけいうしないしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身にになうて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初かりそめにも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図さしずを受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、つとめることはくまでも根気つとめて、種々様々の方便をめぐらし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並にりながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、おそれ以上に進んで哀願はしない、ただ元に立戻たちもどっひとしずか思止おもいとどまるのみ。つまる所、他人の熱にらぬとうのが私の本願で、この一義は私が何時いつ発起したやら、自分にもれと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。

按摩を学ぶ

中津なかつに居て十六、七歳のとき、白石しらいしと云う漢学先生の塾に修業中、同塾生の医者か坊主か二人、至極しごくの貧生で、二人とも按摩あんまをしてしのいで居る者がある。その時、私は如何どうでもして国を飛出そうと思て居るから、これを見ておおいに心を動かし、コリャ面白い、一文なしに国を出て、まかちがえば按摩あんまをしてもうことは出来るとおもって、ソレから二人の者に按摩の法を習い、しきりに稽古けいこして随分ずいぶん上達しました。さいわいにその後按摩の芸が身を助ける程の不仕合ふしあわせもなしにみましたが、習うた芸は忘れぬもので、今でも普通の田舎按摩よりかエライ。湯治などにいって家内子供を揉んでやって笑わせる事があります。こんな事がマア私の常に云う自力自活の姿とでもうべきものか、是れが故人の伝を書くとか何とか云えば、何々氏つとに独立の大志あり、とし何歳その学塾に在るや按摩法を学んで云々うんぬんなんと、鹿爪しかつめらしく文字を並べるであろうが、私などは十六、七のとき大志も何もありはせぬ、ただ貧乏でその癖、学問修業はしたい、人に話しても世話をしてれる気遣いなし、しょうことなしに自分で按摩と思付おもいついた事です。およそ人の志はその身の成行なりゆき次第によって大きくもなり又小さくもなるもので、子供の時に何を言おうと何を行おうと、その言行が必ずしも生涯の抵当になるものではない、唯先天の遺伝、現在の教育にしたがって、根気つとめて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。

一大投機

私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことをこころみて、首尾く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書飜訳ほんやくを勉めて、その製本売捌うりさばきの事をばすべて書林にまかしてある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角とかく人を馬鹿にするふうがある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木はんぎ版摺はんずりの職人を雇うにも、またその製本の紙を買入るゝにも、すべて書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本おおもとの著訳者は当合扶持あてがいぶちを授けられるとうのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、これを人仕せにして不利益はわかって居る。書林の奴等やつらに何程の智恵もありはしない、たかの知れた町人だ、何でも一切いっさいの権力を取揚とりあげて此方こっちのものにしてろうと説をさだめた。定めたはいが実は望洋の歎で、少しも取付端とっつきはがない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中にはさまって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参おじきさんでなく、向う河岸に居るようなものだから、れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向さしむきの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、これかき集めて千両ばかり出来たから、れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人をやって、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙とうものは実に人の耳目じもくを驚かす。如何いかなる大書林といえども、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへもって来て千両現金、ぐに渡してると云うのだから、も安くする、品物もい物を寄越すにきまってる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座しんせんざ引取ひきとって、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸してれと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督において仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入だしいれをするから、蔵に這入はいってその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するにちがいないとず信仰して、此方こっちでは払いをキリ/\してると云うようなけで、れが端緒いとぐちになって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞しまう。此方の監督者は利いたふうをして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、れまで書林のすべき事はすべて此方の直轄にして、書林にはただ出版物の売捌うりさばきを命じて手数料を取らせるばかりのことにしたのは、れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売をこころみた一例です。

品行家風


莫逆の友なし

経済の事は右のごとくにして、私は私の流義をまもって生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレからまた自分の一身の行状は如何どうであったか、家を成した後に家の有様は如何どうかとうことについて、有りのまゝの次第を語りましょう。さて私の若い時は如何どうだと申すに、中津なかつに居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る所謂いわゆる莫逆ばくげきの友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、といって私が偏窟へんくつ者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお饒舌しゃべりの方であったが、本当を云うと表面うわむきばかりで、実はこの人の真似をして見たい、の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、すべ無頓着むとんじゃくで、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、仮初かりそめにも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をしてないて家にかえっ阿母おっかさんに言告いいつけると云うようなことはただの一度もない。口先きばかり達者で内実は無難無事な子でした。

大言壮語の中、忌むべきを忌む

ソレから国をさって長崎に行き大阪に出てその修業中も、ワイ/\朋友と共に笑い共にかたっ浮々うか/\して居るようにあるけれども、身の行状をつつしみ品行を正しくするとうことは、つとめずして自然にソレが私の体にそなわって居るといってもよろしい。モウそれはさん/″\な乱暴な話をして、大言壮語、至らざる所なしと云う中にも、いやらしい汚ない話と云うことは一寸ちょいとでもたことがない。同窓生の話にくある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんと云うような事を云出いいだそうとすると、私はわざ其処そこを去らずに大箕坐あぐらをかいてワイ/\とその話を打消し、「馬鹿野郎、余計なことを口走るな、と云うような調子でぜ返して仕舞しまう。ソレから江戸に出て来ても相替あいかわらずその通り、朋友も多い事だから相互あいたがいに往来するのは不断の事で、しきりに飛廻とびまわって居たけれども、さて例の吉原とか深川とか云う事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。そのくせ私は能く事情をしって居る。誠に事細ことこまかに知て居るそのけは、小本こほんなんぞ読むにも及ばず、近く朋友共が馬鹿話に浮かれて饒舌しゃべるのを、だまっきいて居れば容易に分る。むずかしい事も何にもない、チャンと呑込んでしって居るけれども、如何いかなこと、左様さような事を思出したこともないのみならず、吉原深川はさて置き、上野の花見にいったこともない。

始めて上野、向島を見る

私は安政〔五〕年、江戸に出て来て、ただ酒が好きだから所謂いわゆる口腹こうふくの奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友相会あいかいすれば飲みに行くとうような事は、ソリャて居るけれども、ついぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷したやの自宅出棺、駒込の寺に葬式執行しっこうのその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。すなわち私が江戸に来てから六年目である。「る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年ひどちょう窒扶斯チフスわずらい、病後の運動には馬に乗るのが最もよろしいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬にのって諸方を乗廻のりまわり、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処どこでも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬をこころみて、向島を廻って上野の方にかえって来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処あれが吉原かと心付こころづいて、ソレではこのまゝ馬にのって吉原見物をようじゃないかと云出いいだしたら、連騎の者が場所柄に騎馬では余りふうが悪いとめて、ソレ切りになっていまだに私は吉原とう処を見たことがない。

小僧に盃を差す

う云うような次第で、一寸ちょいと人が考えると私は奇人偏窟へんくつ者のように思われましょうが、決してうでない。私の性質は人に附合つきあいして愛憎あいそうのない積りで、貴賤貧富、君子も小人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃もこれを見て何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。此奴こいつけがれた動物だ、同席は出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリ/\怒ると云うような事は決してない。古いむかしの事であるが、四十余年前、長崎に居るとき、光永寺と云う真宗寺しんしゅうでらに同藩の家老が滞留中、ある日市中の芸妓げいぎか女郎か五、六人も変な女を集めて酒宴の愉快、私はその時酒を禁じて居るけれども陪席御相伴ごしょうばんおおせ付けられ、一座杯盤狼藉はいばんろうぜきの最中、家老が私に杯をさして、「この酒を飲んで、その杯を座中の誰でもよろしい、足下そくかの一番好いてる者へさすがかろうと云うのは、実は其処そこに美人が幾人いくたりも居る、私はその杯を美人にさしても可笑おかしい、わざと避けてさゝなくても可笑しい、きっと困るであろうとなぶるのはチャントわかって居る。所が私は少しも困らない。杯をグイと干して、大夫さんの命に従い一番好いた人に上げます、ソレたかさん、といって杯をさしたのは、六、七歳ばかりの寺の末子ばっしで、私が瀉蛙々々しゃあしゃあとしてわらって居たから家老殿も興にならぬ。すでに今年春ジャパン・タイムス社の山田季治やまだすえじが長崎へ行くと聞き、不図ふと光永寺の事を思出して、あの時は如何どうなってるか、たかさんとう小僧があったはずだが、如何どうして居るか尋ねて見たいと申したら、山田の返事に、寺はもとの通り焼けもせず、高さんも無事息災、今は五十一歳の老僧で隠居して居るとて写真など寄送よこしましたが、右の一件も私の二十一歳の時だから、かぞえて見ると高さんは七歳でしたろうに、恐ろしい古い話です。

嫌疑を憚らず

左様そういうけで私は若い時から婦人に対して仮初かりそめにも無礼はしない。仮令たとい酒によってもつつしむ所はきっと謹しみ、女のいやがるような禁句を口外したことはない。上戸じょうご本性で、謹みながら女を相手に話もすれば笑いもして談笑自在、何時いつも慣れ/\しくして、そのきわみは世間で云う嫌疑けんぎと云うような事を何とも思わぬ。血に交わりて赤くならぬこそ男子たる者の本領であると、チャンと自分に説をめてあるから、男女夜行くときはともしびを照らすとか、物を受授するに手より手にせずとか、アンなふるめかしい教訓は、私の眼から見るとただ可笑おかしいばかり。さても/\卑怯なるかな、ソンな窮窟な事で人間世界が渡れるものか、世間の人が妙な処に用心するのはサゾ忙しいことであろう、自分は古人のおしえしばられる気はないと、みずから自分の身を信じて颯々さっさつと人の家に出入でいりして、其処そこにお嬢さんが居ようと、若い内君おかみさんが独り留守して居ようと、又は杯盤狼藉はいばんろうぜきの常に芸妓とか何とかう者が騒いで居ようと、少しも遠慮はしない。酒をのんで大きな声をしてドン/\話をして、酔えば面白くなって戯れて居ると云うようなふうであるから、あるいは人が見たらば変に思うこともありましょう。

醜声外聞の評判却て名誉

ソコである時奥平藩の家老が態々わざわざ私を呼びによこして、さて云うよう、足下そくかは近来某々それそれの家などに毎度出入して、例のごとく夜分晩くまで酒を飲で居るとの風聞、某家には娘もあり、某家は何時いつ芸妓げいぎなど出入でいりして家風がよろしくない、足下がそんな処に近づいて醜声外聞とは残念だ、君子は瓜田かでんくつを結ばず、李下りかに冠を正さずと云うことがある、年若い大事な身体からだである、少し注意致したらかろうと、真面目まじめになって忠告したから、私はその時少しもあやまらない。左様さようで御在ますか、コリャ面白い。私は今まで随分ずいぶん太平楽をいったとか、恐ろしい声高こわだかに話をして居たとか云て、毎度人からいやがられたこともありましょうが、しか艶男いろおとこわれたのは今日が生れてから始めて。コリャ私の名誉で、至極しごく面白い話だから私はめますまい。相替あいかわらずその家に出入しましょう。此処ここで御注意をこうむっれで前非を改めてめるなんて、ソンな弱い男ではござらぬ。ただし御親切は難有ありがたい、御礼は申上げましょうが、実は私は何とも思わぬ。かえって面白いから、モッと評判を立てゝもらいたいといって、冷かしてかえった事があります。

始めて東京の芝居を観る

前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの野暮やぼだから、勿論もちろん芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩中津なかつで、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居をもよおし、藩士ばかりに陪観ばいかんさせる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の市川団十郎いちかわだんじゅうろうの実父海老蔵えびぞうが道頓堀の興行中、る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒ときいて応と答え、ソレから行く道で酒を一升かって、徳利をたずさえて二、三人連れで芝居に這入はいり、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ることおよそ十五、六年前、不図ふとした事で始めて東京の芝居を見て、その時たわぶれに、
誰道名優伎絶倫
先生遊戯事尤新
春風五十独醒客
却作梨園一酔人
う詩が出来ました。これを見ると私が変人のようにあるが、実は鳴物なりものはなはだ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分におどりの稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。

不風流の由来

元来がんらい私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞しまったのでしょう。ず第一に私は幼少の時から教育の世話をしてれる者がないので、ロクに手習てならいをせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本をならったらさそうなものだが、その時はすでに洋学の門にはいって天下の儒者流を目のかたきにして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中なかんずくその行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌しゃべりながら、サアとうときにはれ程に意気地いくじはない。ことに不品行で酒をのんで詩をつくって書が旨いとえば評判がい。すべて気にわぬ。よし/\洋学流の吾々われわれは反対に出掛けてろうとう気になって、あたかも江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払うりはらっ仕舞しまい、兼てきな居合いあいめて知らぬふうをして居たような塩梅あんばい式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方こっちわざと作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方はこと更らに等閑なおざりにして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込りきみこんで手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、ことに兄は書も善くし、も出来、篆刻てんこくも出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画はさて置き骨董も美術品も一切いっさい無頓着むとんじゃく住居すまいの家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、ただ人の着せてれるものを着て居る。ある時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥たんすの引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だといっおおいに笑われたことがある。殺風景も念入ねんいりの殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟ひっきょう少年の時から種々様々の事情にわれてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角とかく世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫まごこを集めて共にたわぶれ、色々な芸をさせたりきな物を馳走ちそうしたりして、一家内の長少睦しくたがいに打解けてかたり笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。

妻を娶て九子を生む

ソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁をもって同藩士族江戸定府じょうふ土岐太郎八ときたろはちの次女をめとり、れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合ふつりあいのようにあるが、血統は両人共すこぶよろしく、往古はイザ知らず、およそ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病にかかりたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎いちたろう、その次は捨次郎すてじろうと、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、さいわいにして九人とも生れたまゝ皆無事で一人もけない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生のめに乳母を雇うて育てました。

子供の活動を妨げず

養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物はきっと与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。またその躾方しつけかたは温和と活溌かっぱつとを旨とし、大抵たいていの処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂すえふろそばに大きな水桶をおいて、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、ればとて食物を勝手にまかせて何品でも喰い次第にすると云うけではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などはとても手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙からかみを破り諸道具にきず付けてもず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。ひどく剛情を張るような事があれば、父母の顔色をむずかしくして睨む位が頂上で、如何いかなる場合にも手をくだしてうったことは一度もない。又親が実子にむかっても嫁に接しても、また兄姉が弟妹に対しても名を呼棄よびすてにせず、家の中に厳父慈母げんぷじぼの区別なく、厳とえば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母おっかさんはどうかすると怖いけれども、お祖父じいさんが一番怖くないといって居る。世間なみにすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子まごこかぎって別段に我儘わがままでもなし、長少たわぶれながら長者の真面目に言う事はきいて逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。

家に秘密事なし

又家の中に秘密事なしとうのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、れはの子に話しての子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届をとがめてれば、子供もまた親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目をもって見ると一寸ちょいと尊卑の礼儀がないように見えましょう。

礼儀足らざるが如し

その礼儀の事について申せば、家の主人が出入でいりするとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀じぎをすると云うような事がく世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りでただ足のむいた方に這入はいって来る。あるいは車にのっかえって来た時に、車夫また別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事をいっれるな、とけであるから、幾ら玄関で怒鳴どなっても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母おばばさんがあやしんで居ましょう。この老人は土岐とき家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、ればとてれが悪いと云う箇条もない、妙な事だとおもって居るだろうと、私はひそかに推察します。

子女の間に軽重なし

ソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎けいじゅうあいそうと云うことは真実一寸ちょいともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度めでたがり、女の子でも無病なればず/\目出度めでたいなんて、おのずから軽重があるようだが、コンな馬鹿気ばかげた事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。ただ今日では男の子が四人、女の子が五人、塩梅あんばいに振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底からこれを愛しての毛ほども分隔わけへだてはない。道徳学者はややもすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事をいってるではないか。して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬとうような浅ましい事があられるものか。ただ私のかんがえに、総領もその他の子供も同じとはいながら、私が死ねば総領が相続する、相続すればおのずから中心になるから、財産を分配するにも、ほかの子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にもりようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎がとっかろうと云うくらいな事で、そのほかには何も変ることはない。例えばう云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家にいって見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活はないけだのゴテ/\一杯にならべてある。コリャ何だときいて見れば、亜米利加アメリカに輸出する品だと云う。れから私が不図ふとした出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、かくこれを亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何どうだ、かったからと云てソレをまた儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞しまい込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加にやっ仕舞しまえばけの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるかろくに品も見ないで皆かっ仕舞しまったが、れから私がその品を見て楽むではなし、品柄もく知らず数も覚えず、ただ邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けてとっ仕舞しまえと申して、小供がワイ/\よって、その品を九に分けて、ソレをくじとって、今では皆小供が銘々めいめいに引受けて、家をもって居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、とうのがおよそ私の財産分配法で、如何いかにもその子に厚薄と云うものは一寸ちょいともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られたけのものでないと思て居ます。

西洋流の遺言法に感服せず

近来遺言も書きました。遺言の事については、能く西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けて見てワッと驚いたなんて云う事は毎度きいてるが、私ははなはだ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは可笑おかしい。畢竟ひっきょう西洋人が習慣に迷うて馬鹿をして居るのだ、乃公おれはソンな馬鹿の真似はしないぞといって、家内子供に遺言の書付を見せて、この遺言書は箪笥たんすのこの抽斗ひきだし這入はいって居るから皆能く見て置け、また説が変れば又書替かきかえて又見せるから、能く見ておいて、乃父おれの死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申してわらって居ます。

体育を先にす

さて又子供の教育法については、私はもっぱら身体の方を大事にして、幼少の時からいて読書などさせない。獣身じゅうしんを成して後に人心を養うとうのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習てならいをさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。れまではただ暴れ次第に暴れさせて、唯衣食にはく気を付けてり、又子供ながらも卑劣な事をしたりいやしい言葉を真似たりすればこれとがむるのみ、そのほか一切いっさい投遣なげやりにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。すなわれがず獣身を成すの法にして、さいわいに犬猫のように長成ちょうせいして無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。おその時にも身体の事は決して等閑なおざりにしない。世間の交母はややもすると勉強々々といって、子供がしずかにして読書すればこれめる者が多いが、私方の子供は読書勉強してついぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之をめて居る。小供はすでに通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張やはり同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとかえば、褒美でも与えてめてるけれども、本をく読むといって賞めたことはない。すでに二十年前の事です。長男一太郎いちたろうと次男捨次郎すてじろうと両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角とかく胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第にくなる。宜くなるからまた入れると又悪くなる。到頭とうとう三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿たなかふじまろう人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにしてやって行けば、生徒を殺すにきまって居る。殺さなければ気狂いになるか、しからざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞しまうに違いない。丁度ちょうどこの予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうとおもって、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正してもらいたい。このままで置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名してよろしい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意こんいの間柄で遠慮なく話はしたが、何分らちが明かず、子供は相替あいかわらず三ヶ月やって置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うようなけで、何としても予備門の修業にえず、私もついに断念して仕舞うて、れから此方こちらの塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加アメリカに遣ての大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様しようが余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。

子女幼時の記事

又私のかんがえに、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様ありさまを知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様そう思うから、筆まめな事だが私は小供の生立おいたちの模様をかいて置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々うんぬん、幼少の時の健康はく/\、気質の強弱、生付うまれつきの癖など、ザッと荒増あらまし記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、このかいたものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、おのずから又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父のかおも知らず、画像えぞうに写したものもなし、又私がドンな子供であったか母にきいたばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳をかたむけてきいて、ただ残念にばかり思うて、ひとり身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供のめにし、また先年小供の生立の事をもしたためておいたからず遺憾はない積りです。

三百何十通の手紙

又親子の間は愛情一偏で、何ほど年をとってもたがいに理窟らしい議論は無用の沙汰さたである。れは私も妻も全く同説で、親子の間を成るけ離れぬようにするばかり。例えば先年、長男次男が六年の間亜米利加アメリカいって居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度とう位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論もちろん仮令たとい用事がなくても毎便必ず手紙をらない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放かきはなしにして家内が校合方きょうごうかたになって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方あちらの小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越よこす。この事は両人出発の節堅く申付もうしつけて、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないといって寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になってかえって来るより、筋骨たくましき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程よろこばしい。仮初かりそめにも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処どこまでも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何どうにもなると云うことならば思いきって金を使え、少しも構わぬからとう云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。

一身の品行、亦自から効力あり

また私の内が夫婦親子むつまじくて私の行状が正しいからといって、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私もまた、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて能事のうじ終るなんて自慢をするような馬鹿でもないとみずから信じて居るが、さて又これが妙なもので、社会の交際に関係する所ははなはだ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は如何いかなる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、あるいは外国に行き、又あるいは外国の書を飜訳ほんやくして大言を吐散はきちらし、あまつさえ儒流を軽蔑けいべつしてはばかる所を知らずとえば、れは所謂いわゆる異端いたん外道げどうちがいない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が這入はいって居るか知れない。かくに福澤諭吉は大変な奴だと折紙がついて居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論もおのずから面目を改め、世間一般西洋流のやかましい今日、福澤もマンザラでなし、あるいこれを近づけて何かの役に立つこともあろうとうような説がチラホラとわいて来たその時に、〔島〕祐太郎すけたろうと云う奥平家の元老は、すこぶる事のく分る、わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外そがいするは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に芳蓮院ほうれんいん様と云う女隠居がある、この貴婦人は一橋ひとつばし家から奥平家にくだって来た由緒ある身分で、最早もはや余程の老年でもあり、一家無上の御方様おんかたさまあがめられて居る。ソコで嶋津しまづずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、の国には文学武備、富国強兵、医術もくわしく航海術もたくみなり、その中には随分ずいぶん日本の風俗習慣にちがった事も数々ありますが、ここに西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女相互あいたがいに軽重なく、如何いかなる身分の人でも一夫一婦にかぎって居ます、けは西洋の特色で御座ござるとう所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話をきいて心を動かさずには居られない。あたか豁然かつぜん発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め所謂いわゆる御上通おかみどおりの人に逢うて見れば、福澤の外道もただの人間で、つのも生えて居なければ尻尾しっぽのある者でもない、至極しごく穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、程経ほどへて後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も隠然いんぜんの中には随分勢力のあるもので、ついては今の世に多妻の悪弊をのぞいて文明風にするなんと論ずるは野暮やぼだと云うような説があるけれども、畢竟ひっきょう負借まけおしみの苦しいげ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して野暮やぼでない、世間の多数は同主義で、ことに上流の婦人はことごと此方こっちの味方であるから、私の身がこの何時いつまで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右をかえりみずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるようなふうにしてろうとおもって居ます。

老余の半生


仕官を嫌う由縁

私の生涯は終始しゅうしかわることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽をめて、今日に至るまで大にはじることもなく大に後悔することもなく、こころしずかに月日を送りしは、もって身の仕合しあわせとわねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中なかんずく私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分ずいぶん知て居ながら、ついに政府の役人にならぬとうは可笑おかしい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるそのところに、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、かげひそかに評論するばかりでない、現に直接に私にむかって質問する者もある。ただに日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故なぜ政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位にたって思う事を行えば、名誉にもり金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私はただわらっ取合とりあわぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、れは旧幕府にみさおを立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治をよろこんで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣とう者があるが、福澤もその遺臣を気取きどって、物外に瓢然ひょうぜんとして居ながら心中無限の不平を抱いて居るにちがいない、心に不平があれば新政府のめにいことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像をめぐらして居る者の多いのは、私も大抵たいていしって居る。所がく評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士がさかんに忠義論を論じて佐幕の気焔きえんはいて脱走までする時に、私はしいて議論もせず、脱走連中にしって居る者があれば、余計な事をするな、負けるからよしにしろといいめて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度ちょうど適当の嵌役はまりやくなれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、れも遺臣とわれぬ。その遺臣論はしばらさしおき、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底からきらいだから佐幕の気がない。ればとて勤王家の挙動きどう[#ルビの「きどう」はママ]を見れば、幕府にくらべてお釣りの出る程の鎖国攘夷、もとよりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、ただジッと中立独立と説をめて居ると、今度の新政府は開国に豹変ひょうへんした様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北いずれを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独ただひとりで身に叶うけの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一〔点〕張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成ほんとうのものになって来て、一切いっさい万事改進ならざるはなし、所謂いわゆる文明駸々乎しんしんことして進歩するの世の中になったこそ実にがた仕合しあわせで、実に不思議な事で、わば私の大願も成就したようなものだから、最早もはや一点の不平は云われない。

問題更らに起る

ソコで私の身の進退についても更らに問題が起る。れまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるからこれを嫌うたのだ、仮令たとい開国と触出ふれだしてもその内実は鎖攘の根性、信ずるに足らずと見縊みくびったのである、しかるに政府の方針がいよ/\開国文明と決して着々事実にあらわるゝにおいては、官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないかと世間の人の思うのは、一寸ちょいもっとものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。

殻威張の群に入るべからず

従前これまでかつて人に語らず、また語る必要もないからだまって居て、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心において何としても仕官が出来られないその真面目しんめんぼくを丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と決定けっていしておおいに国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗に威張いばる、その威張るのも行政上の威厳と云えばおのずから理由もあるが、実際はうでない、ただ殻威張からいばりをして喜んで居る。例えば位記などは王政維新、文明の政治と共にめそうなことを罷めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざる処に上下貴賤の区別を立てゝ、役人と人民と人種の違うような細工をして居る。すでに政府がたっといとえば政府に入る人も自然に貴くなる、貴くなれば自然に威張るようになる、その威張りはすなわから[#ルビの「から」は底本では「かつ」]威張で、誠によろしくないと知りながら、なにも自然のいきおいで、役人の仲間になれば何時いつの間にか共に殻威張をるように成り行く。かのみならず、自分より下にむかって威張れば上に向ては威張られる。いたちこっこねずみこっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に這入りさえせねば馬鹿者の威張るのを唯見物して唯わらって居るばかりなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、仮令たとい最上の好地位に居てもかく殻威張からいばりと名づくる醜体しゅうたいを犯さねばならぬ。れが私の性質において出来ない。

身の不品行は人種を殊にするが如し

これを第一として、第二にははなはだ申し憎いことだが、役人全体の風儀を見るに気品が高くない。その平生美衣美食、大きな邸宅に住居して散財の法も奇麗で、万事万端思切おもいきりがくて、世に処しまつりごとを料理するにも卑劣でない、至極しごく面白い気風であるが、何分にも支那流の磊落らいらくを気取て一身の私をつつしむことに気が付かぬ。ややもすれば酒を飲んで婦人にたわぶれ、肉慾をもって無上の快楽事として居るように見える。家の内外にしょうなどを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥かしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに横風おうふうな顔をして居るのは、一方に西洋文明の新事業を行い、他の一方には和漢の旧醜体を学ぶものとわねばならぬ。ダカラほかの事を差置さしおいてこの一点について見れば、何だか一段さがった下等人種のように見える。れも世の中の流俗として遠方から眺めて居ればまで憎らしくもなく又とがめようとも思わぬ、時に往来して用事も語り談笑妨げなけれども、さていよ/\この人種の仲間になって一つかまどめしい本当に親しく近くなろうとうには、何処どことなくきたないように汚れたように思われてツイいやになる。是れは私の潔癖とでも云うようなもので、全体を申せば度量の狭いのでしょうが、何分にも生れつきの性質とあれば仕方しかたがない。

忠臣義士の浮薄を厭う

第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に立分たちわかれて居るその時に、私はただ古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、もとより幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して仕舞しまうがいと不断気焔きえんはいて居たが、ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段もはげしいから、固よりコンな連中に心を寄せるはずはない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げてかえって来た。スルと幕府の人は勿論もちろん、諸方の佐幕連が中々やかましくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にしてつべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる三河みかわ譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、大造たいそうな剣幕で、薩長の賊軍を東海道にむかうたんとする者もあれば、軍艦をもって脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、諫争かんそうきょく、声をはなって号泣するなんぞは、如何いかにもエライ有様ありさまで、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦にのっ箱館はこだてに居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地といって、東京で出来た物は菓子もわぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口がけがれる、話を聞けば耳が汚れると塩梅あんばい式は、丸で今世の伯夷はくい叔斉しゅくせい、静岡はあたかも明治初年の首陽山しゅようざんであったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山にわらびの乏しいのを感じたか、ソロ/\山のふもとに下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、身体からだ丸出まるだしにして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も杓子しゃくしも政府の辺に群れあつまって、以前の賊徒今の官員衆に謁見、れは初めて御目おめに掛るともわれまい、兼て御存じの日本臣民で御座ござると云うような調子で、君子は既往を語らず、前言ぜんげん前行ぜんこうただたわぶれのみと、双方打解けて波風なみかぜなく治まりのついたのは誠に目出度めでたい、何もとがめ立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。も王政維新のあらそいが、政治主義の異同からおこって、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、ついに幕府の敗北とり、その後にいたって勤王家もおおいに悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、これと共に爾後じごの方針をともにすると云えば至極しごくもっともに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の沙汰さたは少しもない。佐幕家の進退は一切いっさい万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下云々うんぬんと争いながら、その天下が無くなったらあらそいの点も無くなって平気の平左衛門へいざえもんとは可笑おかしい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならばもとよりよろしいが、争論の発起人でしきりに忠義論を唱えて伯夷はくい叔斉しゅくせいを気取り、又はそのみずから脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運にる、負けても恥かしいことはない、議論があたらなかっても構わないが、遣傷やりそこなったらその身の不運と諦らめて、山に引込ひきこむか、寺の坊主にでもなって、生涯を送ればいと思えども、中々もって坊主どころか、洒蛙々々しゃあしゃあと高い役人になって嬉しがって居るのが私の気にわぬ。さて々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンなうすっぺらな人間と伍をすよりも独りで居る方が心持が宜いと説をめて、初一念を守り、政治の事は一切いっさい人に任せて、自分は自分だけの事をつとめるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情をしって居るから、忠臣義士の成行なりゆきを見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいとおもっても思われてたまらない。全く私の癇癪かんしゃくでしょうが、れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。

独立の手本を示さんとす

第四には、勤王佐幕などやかましい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字もんじでも分る奴は皆役人になりたいと云う。仮令たとい役人にならぬでも、かくに政府に近づいて何か金儲でもしようと云う熱心で、その有様ありさまは臭い物にはえのたかるようだ。全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないように思うて、一身独立とかんがえは少しもない。たまたま外国修業の書生などがかえって来て、僕は畢生ひっせい独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ、なんかんと鹿爪しかつめらしく私方へ来て満腹の気焔きえんを吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずにい加減に聞流して居ると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けばその男はチャンと何省の書記官にり、運のい奴は地方官になって居ると云うようなふうで、何もこれとがめるではない、人々の進退はその人の自由自在なれども、全国の人がただ政府の一方を目的にしてほかに立身の道なしと思込おもいこんで居るのは、畢竟ひっきょう漢学教育の余弊で、所謂いわゆる宿昔しゅくせき青雲の志と云うことが先祖以来の遺伝に存して居る一種のまよいである。今この迷をまして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、またおのずからその方針に向う者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心からわいて出てることだ、国中を挙げて古風の奴隷根性ではとても国が持てない、出来ることか出来ないことかソンな事に躊躇ちゅうちょせず、自分がその手本になって見ようと思付おもいつき、人間万事無頓着むとんじゃくと覚悟をめて、唯独立独歩と安心決定けつじょうしたから、政府に依りすがる気もない、役人達に頼む気もない。貧乏すれば金を使わない、金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには出来るけの誠を尽して交わる、ソレでもいやえば交わってれなくてもよろしい。客を招待すれば此方こっちの家風の通りに心を用いて饗応する、その風が嫌いなら来てれなくても苦しうない。此方こっちの身に叶うけを尽して、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなりそしるなり喜ぶなりいかるなり勝手次第にしろ、誉められてまで歓びもせず、譏られて左まで腹も立てず、いよ/\気が合わねば遠くに離れて附合わぬばかりだ。一切いっさい万事、人にも物にもぶら下らずに、わば捨身になって世の中を渡るとチャンと説を定めて居るから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果して世の中の手本になってい事か、悪い事か、ソレも無頓着むとんじゃくだ、ければはなはよろしい、悪るければソレまでの事だ、そのきまで責任を脊負せおい込もうとは思いません。
 右の通り条目を並べて第一から第四まで述立のべたてゝ見れば、私の政府に出ないのは初めからチャンと理窟をめて箇様々々と自から自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟なけではない、ソレホドむずかしい事でもない。ただ今日これを筆記して人に分るようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで久しい前年から今日に至るまで、物に触れ事に当り、人と談論した事などを思出して、彼の時はアヽであった、この時はうであったと、記憶中に往来するものを取集めて見ると、前に記した通りになる。つまる所、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが政界に近づかぬ原因でしょう。たとえば人の性質に下戸げこ上戸じょうごがあって、下戸は酒屋に入らず上戸は餅屋に近づかぬとう位のもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。

政治の診察医にして開業医に非ず

とは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。ただし談論書記するばかりで、みずからその事に当ろうと思わぬそのおもむきは、あたかも診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実において療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無かいむ素人しろうとでも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの沙汰さたです。

明治十四年の政変

この事につい一寸ちょいと語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動がおこって、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政せっせい大隈おおくま伊藤いとう井上いのうえの三人から私方に何か申してまいって、る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任してれろと云う。一向趣意しゅいが分らぬからず御免と申して去ると、その後度々たびたび人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞しまいに、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意のめに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようとおよそ約束は出来たが、マダ何時いつからと云う期日はさだまらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年とり、十四年も春去秋来しゅんきょしゅうらいとんらちの明かぬ様子なれども、此方こっちまで急ぐ事でないから打遣うちやって置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極しごく同主義でありし隈伊井の三人がようやく不和になって、その果ては大隈おおくまが辞職することになりました。さて大隈の辞職はまで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、したがって又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるそのうしろには、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎いわさきやたろうが金主になってすでに三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻ふれまわして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂いわゆる儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙なふうになって来て、そのふうが全国の隅々までもなびかして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。およそ当時の政変は政府人の発狂とでもうような有様ありさまで、私はその後岩倉いわくらから度々たびたび呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりもむずかしいなんかんと話すのを聞けば、余程よほど騒いだものと察しられる。実に馬鹿気ばかげたことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応するといって案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向しむけて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出おいだしたり、マダれでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、れ見よがしに殻威張からいばりやって居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬきに角突合いになって居るから可笑おかしい。十四年の真面目しんめんもくの事実は、私がつまびらかに記して家に蔵めてあるけれども、今ら人のいやがる事を公けにするでもなしだまって居ますが、そのとき私は寺島てらしまと極懇意こんいだから何もも話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌しゃべって廻ると政府の中に随分ずいぶん困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めてきいて驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分きたないものとはいながら、れはアンマリひどい。少しねじくって遣てもいじゃないかと、わざと勧めるようなふうであったけれども、私はれ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、ず/\ソンナ無益な殺生はやめにしようといって、わらって分れたことがある。

保安条例

コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない、俗界にう政治上の野心などおもいも寄らぬ事だから誠に平気で、ただ他人のドタバタするのを見物して居るけれども、政府の目をもってこの見物人を見れば、又不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の科人とがにんになって東京を逐出おいだされると云う風聞。ソレはその時塾に居た小野友次郎おのともじろうが警視庁に懇意こんいの人があって、極内々その事を聞出して、私と同時に後藤象次郎ごとうしょうじろうも共に放逐ほうちくたしかに云うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けばいと申して居る中、その翌日か翌々日か小野おのまた来て、前の事は取消しになったとうので事はみました。又その後明治二十年頃かと思う、井上角五郎いのうえかくごろうが朝鮮で何とやらしたと云うのでとらえられて、その時の騒動と云うものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。それから井上が何か吟味に逢うて、福澤諭吉に証人になって出て来いといって、私を態々わざわざ裁判所に呼出よびだして、タワイもない事を散々たずねて、ドウかしたら福澤も科人とがにんの仲間にしたいと云うようなふうが見えました。すべてコンな事はただ大間違おおまちがいで、私の身には何ともない。かえって世の中の人心の動くその運動の方向緩急を視察して面白くおもって居るが、又一歩を進めて虚心平気きょしんへいきに考うれば、私が兎角とかく政界の人に疑われると云うのも全く無理はない。第一私は何としても役人になる気がない、れは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、ひとりこれが嫌いと云えば、一寸ちょいと見て不審を起さねばならぬ。ソレもいよ/\官途に気がないとならば田舎にでも引込ひっこんで仕舞しまえばいに、都会の真中に居てかも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、洒蛙々々しゃあしゃあ饒舌しゃべったりかいたりするから、世間の目に触れやすく、したがって人に不審をいだかせるのも自然のいきおいである。

一片の論説能く天下の人心を動かす

これを第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論をもって政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えばれまでとんと人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付かたづいて後、世の中は静になって、人間がかえって無事に苦しむとうとき、私が不図ふと思付おもいついて、れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、随分ずいぶん面白かろうとおもって、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆藤田茂吉ふじたもきち箕浦勝人みのうらかつんどにその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、きっと世間の人がよろこぶに違いない。ただしこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の趣意しゅいは無論、字句までも原稿の通りにして、ただ意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、こころみに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかとうと、年の若い元気の藤田ふじた箕浦みのうらだから、おおいに悦んで草稿をもっかえって、早速さっそく報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、または何でもない事になって仕舞しまうやら、とんと見込みが付かぬ。およそ一週間ばかり毎日のように社説欄内をうずめて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を煽動せんどうするように書立かきたてゝ、世間の形勢如何いかんと見て居た所が、不思議なるかなおよそ二、三ヶ月もつと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論がやかましくなって来て、ついには例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイとかんがえ直して見れば、仮令たとい文明進歩の方針とはいながら、ただちに自分の身に必要がなければ物数寄ものずきわねばならぬその物数寄な政治論をはいて、はからずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、あたかも秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。しかし国会論の種は維新の時からまいてあって、明治の初年にも民選議院云々うんぬんの説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図ふとした事で私が筆をとって、事の必要なる理由を論じて喋々喃々ちょうちょうなんなん数千言、んでくゝめるようにいって聞かせた跡で、間もなく天下の輿論よろんが一時に持上もちあがって来たから、如何どうしても報知新聞の論説が一寸ちょい導火くちびになって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達せんだって箕浦みのうらに面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸してれて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々とかき並べて、一寸ちょい辻褄つじつまあって居ます。れが今の帝国議会を開くめの加勢になったかと思えば自分でも可笑おかしい。シテ見るときの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんとわれて、その後も兎角とかく私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とはいながら、間接にはおのずから因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国のめに利益なればこそけれ、れが実際の不利益ならば、私は現世の罪はまぬかれても死後閻魔えんまの庁でひどい目に逢うはずでしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上について私の言行はすべてコンな塩梅あんばい式で、自分の身の私に利害はない所謂いわゆる診察医のかんがえで、政府の地位を占めてみずから政権を振廻ふりまわして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何どうでもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいとばかり、れが大本願で、自分独り自分の身に叶うけの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分にやすんじて平気で居るから、かんがえの違う役人達が私の平生を見たりきいたりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実において私は政府に対して少しもうらみはない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何いかなる憂き目にあって居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律のたまものおもって喜んで居ます。

時事新報

ソレから明治十五年に時事新報とう新聞紙を発起しました。丁度ちょうど十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来てしきりにこの事を勧める。私もまた自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互あいたがいに敵味方が出来て議論は次第にかまびすしくなるに違いない。すでに前年の政変もいづれが是か非かソレは差置さしおき、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\はなはだしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂いわゆる不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれてはとても公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中にいささかながら独立の生計をして多少の文思ぶんしもありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、※呼おこ[#「口+烏」、U+55DA、389-1]がましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものがすなわち時事新報です。すでに決断した上は友人中これをめる者もありしが、一切いっさい取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令たとい失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるにあらず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟をもって、世間の風潮に頓着とんじゃくなしに今日までも首尾やって来たことですが、畢竟ひっきょう私の安心決定けつじょうとは申しながら、その実は私の朋友には正直有為ゆういの君子が多くて、何事を打任せても間違いなどいやな心配はいささかもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎なかみがわひこじろうが引受け、その後は伊藤欽亮いとうきんすけ、今は次男の捨次郎すてじろうこれに任じ、会計は本山彦一もとやまひこいち、次で坂田実さかたみのる、今は戸張志智之助とばりしちのすけ等がもっぱら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目をきいたこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせておいて、かつて一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続するけでしょう。又編輯へんしゅうの方について申せば、私の持論に、執筆者は勇をして自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対あいたいして直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何いかなる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、さてその相手の人に面会したとき自分の良心にじて率直にべることの叶わぬ事をかいて居ながら、遠方から知らぬ風をしてあたかも逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶かげべんけいの筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論とり、罵言讒謗ばりざんぼうの毒筆とる、君子のずべき所なりと常にいましめて居ます。しかし私も次第に年をとり、何時いつまでもコンな事に勉強するでもなし、老余は成るけ閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明いしかわみきあき北川礼弼きたがわれいすけ堀江帰一ほりえきいちなどが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々ちょいちょい加筆する位にして居ます。

事を為すに極端を想像す

さてこれまで長々と話を続けて、私の一身の事、又私に関係した世の中の事をも語りましたが、私の生涯中に一番骨をおったのは著書飜訳ほんやくの事業で、れには中々話が多いが、その次第は本年再版した福澤全集の緒言ちょげんに記してあればこれを略し、著訳の事を別にして、元来がんらい私が家にり世に処するの法を一括して手短てみじかに申せば、すべて事の極端を想像して覚悟をめ、マサカの時に狼狽ろうばいせぬように後悔せぬようにとばかり考えて居ます。生きて居る身はいつ何時なんどき死ぬかも知れぬから、その死ぬ時に落付おちついて静にしようとうのは誰も考えて居ましょう。れと同様に、例えば私が自身自家の経済については、何としても他人に対して不義理はせぬと心に決定けつじょうして居るから、危い事を犯すことが出来ない。うすれば利益がある、うすれば金が出来るなどいっても、危険を犯して失敗したときには必ず狼狽ろうばいすることがあろう、後悔することがあろうとおもって、手を出すことが出来ない。金を得て金を使うよりも、金がなければ使わずに居る。按摩按腹あんぷくをしても餓えて死ぬ気遣きづかいはない、粗衣粗食などに閉口する男でないと力身込りきみこんで居るようなけで、私が経済上に不活溌かっぱつなのは失敗の極端を恐れて鈍くして居るのですが、そのほか直接に一身の不義理にならぬ事に就ては必ずしも不活溌でない。トヾの詰り遣傷やりそこなっても自身独立の主義に妨げのない限りは颯々さっさつります。例えば慶應義塾を開いて何十年来様々変化は多い。時としては生徒の減ることもあればふえることもある。ただ生徒ばかりでない、会計上からして教員の不足することも度々たびたびでしたが、ソンな時にも払は少しも狼狽しない。生徒が散ずれば散ずるまゝにして置け、教員が出て行くなら行くまゝにして留めるな、生徒散じ教員さって塾が空屋あきやになれば、残る者は乃公おれ一人だ、ソコで一人の根気で教えられるけの生徒を相手に自分が教授してる、ソレも生徒がなければいて教授しようとはわぬ、福澤諭吉は大塾をひらいて天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない、塾の盛衰に気をむような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟をめて、塾をひらいたその時から、何時なんどきでもこの塾を潰して仕舞しまうと始終しじゅう考えて居るから、少しも怖いものはない。平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当に私の心事の真面目しんめんもくを申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮りの相ですから、つとめながらも誠に安気です。近日は又慶應義塾の維持のめとて、本塾出身の先進輩がしきりに資金を募集して居ます。れが出来ればこのみちめに誠に有益な事で、私もおおいに喜びますが、果して出来るか出来ないか、私はただしずかにして見て居ます。又時事新報の事も同様、最初から是非とも永続させねばならぬとちかいを立てたけでもなし、あるいは倒れることもあろう、その時に後悔せぬようにと覚悟をして居るから、是れもまでの心配にならぬ。又私の著訳書に他人の序文を求めたことのないのも矢張り同じ趣意しゅいであると申すは、人の序文題字などをもって出版書の信用を増すはおのずから名誉でもあろうが、内実は発売を多くせんとするの計略といってもよろしい。所が私のかんがえ左様そうでない。自分の著訳書が世間に流行すればいともとより心の中に願いながらも、また一方から考えてれが全く売れなくても後悔はしないと、例の極端を覚悟して居るから、実際の役にも立たぬ余計な文字もんじを人にかいもらったことはない。又他人に交わるの法もこの筆法に従い、私は若い時からドチラかとえば出しゃばる方で、交際の広い癖に、ついぞ人と喧嘩をしたこともない。親友もはなはだ多いが、この交際についても矢張やはり極端説は忘れない。今日までこの通りに仲好く附合つきあいはして居るが、先方の人がいつ何時なんどき変心せぬとう請合はむずかしい。左様そうなれば交際はめなければならぬ。交際を罷めても此方こっちの身に害を加えぬ限りは相手の人を憎むには及ばぬ、ただ近づかぬようにするばかりだ。コンな事で朋友が一人ひとりなくなり二人なくなり次第に淋しくなって、自分ひとり孤立するようになっても苦しうない、決して後悔しない、自分の節を屈して好かぬ交際は求めずと、少年の時から今に至るまでチャンと説はめてありながら、さて実際にはとんとソンな必要はない。生来六十余年の間に、知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともないのが面白い。すべう云う塩梅あんばい式で、私の流儀は仕事をするにも朋友に交わるにも、最初から棄身になってとって掛り、仮令たとい失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽くると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るにまでの困難もなく、安気に今日まで消光くらして来ました。

身体の養生

さて又心の養生法は右のごとしとして、身の養生は如何どうだと申すに、私の身に極めてよろしくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、かも図抜ずぬけの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくてもいとう人があるが、私は左様そうでない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠にく分る。先年中一樽のあたい七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人くろうとで、その上等の酒をウンと飲んで、さかなも良い肴を沢山たくさんくらい、満腹飲食のみくいした跡で飯もドッサリべて残す所なしと云う、誠に意地のきたない所謂いわゆる牛飲馬食とも云うべき男である。おその上に、この賤しむべき男が酒によって酔狂でもすれば自からいましめると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えばただ大きな声をして饒舌るばかり、つひ[#ルビの「つひ」はママ]ぞ人の気になるようないやがるような根性の悪いことをいって喧嘩をしたこともなければ、上戸じょうご本性真面目まじめになって議論したこともないから、人に邪魔にされない。れがかえって不幸で、本人はい気になって、酒とさええば一番きに罷出まかりでて、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\もはずかしい事であるが、酒の事をのぞいてそのほかになれば、私は少年の時からい加減な摂生家といってもよろしい。何も別段に摂生をしようなんてソンなむずかしいかんがえのあろうようもないが、日に三度の食事のほかにメッタに物を食わない。あるいは母がべさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。ことに晩食の後、夜になれば如何いかなる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜をかすとかして、自然に其処そこに食物が出て来ても食う気にならぬ。れは母に仕込まれた習慣が生涯のこって居るのでしょう。摂生のめには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早くるとふうで、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化へんげして、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯はやめしと何とやらは武士のたしなみなんといって、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいとおもって居たが、何分にも頬張ほおばっ生噛なまがみにして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事をしって、始めてれはかえって自分の悪い癖がい事になったと合点しておおきに悦び、爾来じらいはばかる所もなくゆる/\食事をして、およそ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生のめにはなはだ宜しい。

漸く酒を節す

ソレカラ又酒の話になって、私が生得しょうとく酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分ずいぶん自由に飲むことは飲んだが、兎角とかく銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中のうちゅうも少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強のかたわら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むとうようなけで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わずくも飲みました。れから三十二、三歳の頃と思う。ひとおおいに発明して、う飲んではとても寿命を全くすることは叶わぬ、ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、ただ一時の事で永続きが出来ぬ、つまり生涯の根気でそろ/\みずから節するのほかに道なしと決断したのは、支那人が阿片あへんめるようなもので随分苦しいが、ず第一に朝酒を廃し、しばらくしてぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張やはり客来を名にして飲んで居たのを、ようやく我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、けは如何どうやら斯うやら首尾く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反あいはんして喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のときひどい熱病にかかって、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒のたまものに相違ないといったのを覚えて居るから、私が生涯鯨飲げいいんの全盛はおよそ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎とうよりも年齢老却の所為せいでしょう。かくに人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、ついにはただの清酒はきが鈍いなんてブランデーだのウ※[#小書き片仮名ヰ、398-4]スキーだの飲む者があるが、アレはくない。苦しかろうがめるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、して今の大酒家といっても私より以上の者はず少ない、高の知れた酒客の葉武者はむしゃだ、そろ/\れば節酒も禁酒もきっと出来ましょう。

身体運動

ソレから私の身体運動は如何どうだとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になると※(「やまいだれ+(冢−冖)」、第4水準2-81-56)あかぎれが切れて血が出る、スルと木綿糸で※(「やまいだれ+(冢−冖)」、第4水準2-81-56)切口きれくちぬっ熱油にえあぶららして手療治てりょうじをして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、る時、
鄙事多能年少春
立身自笑却壊身
浴余閑坐肌全浄
曾是綿糸縫※(「やまいだれ+(冢−冖)」、第4水準2-81-56)
う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないようにふうが悪いから、中村庄兵衛なかむらしょうべえと云う居合の先生について少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終しじゅう居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節おりふしはドタバタやって居ました。れから江戸に来て世間に攘夷論がさかんになってから居合はめにして、兼て腕に覚えのある米搗こめつきを始めて、折々やって居た所が、明治三年、大病をわずらうて、病後何分にももとのようにならぬ。その年か翌年か岩倉いわくら大使が欧行に付き、親友の長与専斎ながよせんさいも随行を命ぜられ、近々きんきん出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節にると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。これるから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当おもいあたることがあろうとうのは実に朋友の親切なれども、私はかえって喜ばぬ。「馬鹿なことをいっれるな。病気全快の僕の身に薬なんぞるものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与ながよわらって、「知らぬ事を云うな。きっと役に立つことがあるからだまっとって置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果してしかり、長与の外行留主るす中、毎度発熱して、れキニーネまたキニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。

病に媚びず

横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引ももひきもフラネルでこしらえ、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身をまとうて居た所が、とんと効能が見えぬ。ドウかすると風をひい悪寒おかんを催して熱が昇る。毎度の事で、およそ二年余り三年になっても同様であるから、或日あるひ私がおおいに奮発して、れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、わば病に媚るようなものだ。此方こっちから媚るから病は段々付揚つけあがる。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中にはもとより医命に服することなれども、今日は病後の摂生よりほかに要はないから、自分で摂生をこころみましょう。そもそも自分のもとは田舎士族で、少年のとき如何いかなる生活して居たかとえば、麦飯をくら唐茄子とうなすの味噌汁をすすり、衣服は手織ており木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑おかしい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞しまう。すなわち今日かぜひいたり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過るあやまちであるから、ただちに前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引ももひきも脱ぎ棄てゝ仕舞しまって、ただの木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時ばかり、騎馬の服とめて、不断ふだんは純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通ふきとおしても構わず家にも居れば外にも出る。ただ食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切いっさいむかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗こめつき薪割まきわりに身を入れて、少年時代の貧乏世帯じょたいと同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身のけは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫にくだったこともない。随分調子のよろしいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンともとの通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。さて私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。かくに生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないとうことけは確かに分る。ただし肌に寒風の吹通しが有益であるか、または外の摂生をもって体力が強くなって、実際害にるべき寒風にもく抵抗してこれたえうるのであるか、すなわち寒風その物は薬にあらず、寒風をも犯して無頓着むとんじゃくと云うその全般の生活法が有益であるか、およそこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレはさて置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、ことに十年間鯨飲げいいんの悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文をつとめることにしました。

居合、米搗

今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかりしば三光さんこうから麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合をぬいたり米をついたり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨がふっても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋たわむれに、
一点寒鐘声遠伝
半輪残月影猶鮮
草鞋竹策侵秋暁
歩自三光渡古川
なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時いつまで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。

行路変化多し

回顧すれば六十何年、人生既往を想えばこうとして夢のごとしとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極しごく変化の多いにぎやかな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込つめこまれて、藩政の楊枝をもって重箱のすみをほじくるその楊枝のきにかかった少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流のおしえをも打遣うちやって西洋学の門に入り、以前にかわった書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すればかんがえは段々広くなって、旧藩はさて置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。あるいはその間に艱難かんなん辛苦など述立てれば大造たいそうのようだが、咽元のどもと通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞しまええば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎさった後で昔の貧苦を思出おもいだして何が苦しいか、かえって面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやらうやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就とおもって居た処に、またはからずも王政維新、いよ/\日本国をひらいて本当の開国となったのは難有ありがたい。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時のかんがえには、天下にコンなものを読む人が有るか無いかれも分らず、仮令たとい読んだからとてこれを日本の実際にこころみるなんてもとより思いも寄らぬことで、一口ひとくちに申せば西洋の小説、夢物語の戯作げさくくらいにみずからしたためて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段もきに進んで思切おもいきった事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私もまた以前の大願成就にやすんじて居られない。コリャ面白い、このいきおいに乗じて更におおいに西洋文明の空気を吹込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、相対あいたいしておくれを取らぬようになられないものでもないと、ここに第二の誓願を起して、さて身に叶う仕事は三寸の舌、一本の筆よりほかに何もないから、身体の健康を頼みにしてもっぱら塾務を務め、又筆をもてあそび、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、又演説などして所思しょしを伝え、又一方には著書飜訳ほんやく随分ずいぶん忙しい事でしたが、れも所謂いわゆる万分一をつとめる気でしょう。所でかえりみて世の中を見ればがたいことも多いようだが、一国全体の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形にあらわれたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有ありがたいともいようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、さきに死んだ同志の朋友が不幸だ、アヽ見せてりたいと、毎度私は泣きました。実を申せば日清戦争何でもない。ただれ日本の外交の序開じょびらきでこそあれ、ソレほど喜ぶけもないが、その時の情にまれば夢中にならずには居られない。およそコンなけで、その原因は何処いづくに在るかと云えば、新日本の文明富強はすべて先人遺伝の功徳に由来し、吾々われわれ共は丁度ちょうど都合のい時代に生れて祖先のたまものただ貰うたようなものに違いはないが、かくに自分のがんに掛けて居たその願が、天の恵み、祖先の余徳によって首尾く叶うたことなれば、私のめには第二の大願成就とわねばならぬ。

人間の慾に際限なし

れば私は自分の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかりであるが、さて人間のよくには際限のないもので、不平をわすればマダ/\幾らもある。外国交際又は内国の憲法政治などについれと云う議論は政治家の事として差置さしおき、私の生涯の中に出来でかして見たいと思う所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名にはずかしくないようにする事と、仏法にても耶蘇やそ教にてもいづれにてもよろしい、これを引立てゝ多数の民心をやわらげるようにする事と、おおいに金を役じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、およそこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りはただ安閑としては居られず、私も今の通りに健全なる間は身に叶うけの力を尽すつもりです。

福翁自伝 終





底本:「福澤諭吉著作集 第12巻 福翁自伝 福澤全集緒言」慶應義塾大学出版会
   2003(平成15)年11月17日初版第1刷発行
底本の親本:「福翁自傳」時事新報社
   1899(明治32)年6月15日発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1898(明治31)年7月1日号〜1899(明治32)年2月16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「長崎遊学中の逸事」の「三ヶ寺」
「兄弟中津に帰る」の「二ヶ年」
「小石川に通う」の「護持院ごじいんはら
「女尊男卑の風俗に驚」の「安達あだちはら
「不在中桜田の事変」の「六ヶ年」
「松木、五代、埼玉郡に潜む」の「六ヶ月」
「下ノ関の攘夷」の「英仏蘭米四ヶ国」
「剣術の全盛」の「関ヶ原合戦」
「発狂病人一条米国より帰来」の「一ヶ条」
※「翻」と「飜」、「子供」と「小供」、「煙草」と「烟草」、「普魯西」と「普魯士」、「華盛頓」と「華聖頓」、「大阪」と「大坂」、「函館」と「箱館」、「気※(「火+稲のつくり」、第4水準2-79-87)」と「気焔」、「まぬかれ」と「まぬかれ」、「一寸ちょいと」と「一寸ちょいと」と「一寸ちょっと」、「つもり」と「つもり」の混在は、底本通りです。
※底本の編者による語注は省略しました。
※窓見出しは、自筆草稿にある書き入れに従って底本編集時に追加されたもので、文章の途中に挿入されているものもあります。本テキストでは富田正文校注「福翁自伝」慶應義塾大学出版会、2003(平成15)年4月1日発行を参考に該当箇所に近い文章の切れ目に挿入しました。
※底本では正誤訂正を〔 〕に入れてルビのように示しています。補遺は自筆草稿に従って〔 〕に入れて示しています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:田中哲郎
校正:りゅうぞう
2017年5月17日作成
2017年7月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「弋+頁」    74-10、104-12、104-13
小書き片仮名ヲ    160-9、170-7、170-7
小書き片仮名ヰ    180-7、398-4
「特のへん+怱」、U+3E45    263-4
「口+烏」、U+55DA    389-1


●図書カード