慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々
自から伝記を記すの例あるを
以て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく
之を勧めたるものありしかども、先生の平生
甚だ多忙にして執筆の閑を得ずその
儘に経過したりしに、一昨年の秋、
或る外国人の
需に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、
風と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、
自から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、
恰も一場の談話にして、
固より事の詳細を
悉くしたるに
非ず。
左れば先生の
考にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、
更らに
自から筆を
執てその
遺漏を補い、又後人の参考の
為めにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実に
拠り、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編と
為し、自伝の後に付するの計画にして、
既にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、
遽に大患に
罹りてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世に
公にし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。
明治三十二年六月
時事新報社 石河幹明 記
[#改ページ]
福澤諭吉の父は
豊前中津
奥平藩の士族福澤
百助、母は同藩士族、
橋本浜右衛門の長女、名を
於順と申し、父の身分はヤット藩主に
定式の謁見が出来ると
云うのですから
足軽よりは数等
宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば
先ず判任官の家でしょう。藩で云う
元締役を勤めて大阪にある中津藩の
倉屋敷に長く勤番して居ました。
夫れゆえ家内残らず大阪に
引越して居て、
私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は
末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に
遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は
数え年で三つ。
斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。
扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と
一所に
混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、
従兄弟が
沢山ある、
父方の従兄弟もあれば
母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も
幾許もある、あるけれどもその
者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が
可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と
云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような
訳けで、お互に
可笑しいから
先ず話が少ない。
夫れから又母は
素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の
風に慣れて、小供の髪の
塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より
外にない。
有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか
人中に出るのを気恥かしいように
思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。
夫れから
最う一つ
之に加えると、私の父は学者であった。
普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の
金持、
加島屋、
鴻ノ
池というような者に交際して藩債の事を
司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で
堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという
考であるに、
存じ
掛もなく
算盤を
執て金の数を数えなければならぬとか、
藩借延期の談判をしなければならぬとか
云う仕事で、今の洋学者とは
大に違って、昔の学者は銭を見るも
汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う
訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、
斯う云うことがある。私は
勿論幼少だから
手習どころの話でないが、
最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、
倉屋敷の中に手習の師匠があって、
其家には
町家の小供も来る。
其処でイロハニホヘトを教えるのは
宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは
当然の話であるが、その事を父が聞て、
怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると
云うのは
以ての
外だ。
斯う
云う処に小供は
遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。
早速取返せと
云て取返した事があると云うことは、
後に母に聞きました。何でも大変
喧ましい人物であったことは推察が出来る。その
書遺したものなどを見れば真実
正銘の漢儒で、
殊に
堀河の
伊藤東涯先生が
大信心で、誠意誠心、
屋漏に
愧じずということ
許り
心掛たものと思われるから、その遺風は
自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の
附合は少く、
明ても暮れても
唯母の話を聞く
許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると
思て、
骨肉の
従兄弟に対してさえ、心の中には何となく
之を
目下に
見下して居て、
夫等の者のすることは一切
咎もせぬ、
多勢に
無勢、
咎立をしようと
云ても及ぶ話でないと
諦らめて居ながら、心の底には丸で
歯牙に掛けずに、
云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、
能く
饒舌りもし、飛び
廻わり
刎ね廻わりして、
至極活溌にてありながら、木に登ることが
不得手で、水を泳ぐことが
皆無出来ぬと云うのも、
兎角同藩中の子弟と
打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した
所為でしょう。
今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を
殊にして、他人の知らぬ処に随分
淋しい思いをしましたが、その淋しい
間にも家風は
至極正しい。厳重な父があるでもないが、母子
睦じく暮して兄弟喧嘩など
唯の一度もしたことがない。のみか、
仮初にも俗な
卑陋な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して
喧しい
六かしい人でないのに、自然に
爾うなったのは、
矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、
鳴物などの一条で、
三味線とか何とか
云うものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。
斯様なものは全体私なんぞの聞くべきものでない、
矧や
玩ぶべき者でないと云う
考を持て居るから、
遂ぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から
布令が出る。芝居は
何日の
間あるが、藩士たるものは決して立寄ることは
相成らぬ、
住吉の
社の石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、
甚だ厳重なようにあるが、
唯一片の
御布令だけの事であるから、俗士族は
脇差を一本
挟して
頬冠りをして
颯々と芝居の
矢来を
破て
這入る。
若しそれを
咎めれば
却て
叱り飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を
払て行くに、士族は
忍姿で却て
威張て
只這入て
観る。
然るに中以下
俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは
凡そ私のところ一軒
位でしょう。決して行かない。
此処から
先きは行くことはならぬと
云えば、
一足でも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも
遂ぞ
一口でも芝居の事を子供に云わず、兄も
亦行こうと云わず、
家内中一寸でも話がない。夏、暑い時の事であるから
凉には行く。
併しその近くで芝居をして居るからと
云て見ようともしない、どんな芝居を
遣て居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。
前申す通り、
亡父は
俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。
左れば中津を
蹴飛して外に出れば
宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。
如何なる事にも不平を
呑んで、チャント
小禄に
安んじて居たのは、時勢の
為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも
独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に
斯う云う事がある。今から推察すれば父の
胸算に、福澤の家は総領に相続させる
積りで
宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな
療せた
骨太な子で、
産婆の申すに、この子は乳さえ
沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が
大層喜んで、
是れは
好い子だ、この子が段々成長して
十か十一になれば寺に
遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時
阿父さんは
何故坊主にすると
仰っしゃったか
合点が行かぬが、今
御存命なればお前は寺の
坊様になってる
筈じゃと、何かの話の
端には母が
爾う申して居ましたが、私が成年の
後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年
経ても
一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、
足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その
間に
挟まって居る者も同様、何年経ても
一寸とも変化と
云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば
茲に坊主と云うものが一つある、何でもない
魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が
幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると
云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、
空しく不平を
呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又
初生児の
行末を
謀り、
之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を
憤ると共に、
亡父の心事を察して
独り泣くことがあります。私の
為めに門閥制度は親の
敵で御座る。
私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の
為人がない。私の兄だからと
云て兄弟の長少
僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も
亦たった
一人で、下女下男を置くと
云うことの出来る家ではなし、母が一人で
飯を
焚いたりお
菜を
拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ
掛もない。云わばヤリ
放しである。藩の
風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む
位の事は
遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。
殊に誰だって本を読むことの
好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は
甚だ嫌いであったから
休でばかり居て何もしない。
手習もしなければ本も読まない。
根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、
近処に
知て居る者は皆な本を
読で居るのに、自分
独り読まぬと云うのは
外聞が悪いとか恥かしいとか
思たのでしょう。
夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ
行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。
外の者は
詩経を読むの
書経を読むのと
云うのに、私は
孟子の
素読をすると云う次第である。所が
茲に
奇な事は、その塾で
蒙求とか孟子とか論語とかの
会読講義をすると云うことになると、私は
天禀、少し文才があったのか知らん、
能く
其の意味を
解して、朝の素読に教えて
呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む
許りでその意味は
受取の悪い書生だから、
之を相手に会読の勝敗なら
訳けはない。
その中、塾も二度か三度か
更えた事があるが、最も多く漢書を
習たのは、
白石と云う先生である。
其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を
解すことは何の苦労もなく
存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は
如何なるものを
読だかと申すと、
経書を専らにして論語、孟子は
勿論、すべて
経義の研究を
勉め、
殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして
貰て
善く読みました。ソレカラ蒙求、
世説、
左伝、
戦国策、
老子、
荘子と云うようなものも
能く講義を聞き、その
先きは私
独りの勉強、歴史は史記を始め
前後漢書、
晋書、
五代史、
元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で
仕舞うのを、私は全部通読、
凡そ十一
度び読返して、面白い処は暗記して居た。
夫れで
一ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は
亀井風で、私の先生は亀井が
大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに
寧ろ冷笑して居た。
広瀬淡窓などの事は、
彼奴は
発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない
奴だと
云て居られました。先生が
爾う
云えば
門弟子も
亦爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、
頼山陽なども
甚だ信じない、誠に
目下に
見下して居て、「何だ粗末な文章、
山陽などの書いたものが文章と
云われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。
仮令い舌足らずで
吃た所が意味は通ずると云うようなものだなんて
大造な剣幕で、先生から
爾う
教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。
白石先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、
是非交際しなければならぬ
筈であるに
一寸とも付合わぬ。
野田笛浦と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を
疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、
筑前の
亀井先生なども朱子学を取らずに
経義に一説を立てたと云うから、その
流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。
以上は学問の話しですが、
尚お
此の
外に申せば、私は旧藩士族の小供に
較べて見ると手の
先きの器用な
奴で、物の工夫をするような事が得意でした。例えば井戸に物が
墜ちたと云えば、
如何云う
塩梅にして
之を
揚げるとか、
箪笥の
錠が
明かぬと云えば、
釘の
尖などを色々に
抂げて遂に見事に之を明けるとか云う
工風をして面白がって居る。
又た障子を張ることも器用で、自家の障子は
勿論、親類へ
雇われて張りに行くこともある。
兎に
角に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ段々
年を取るに従て仕事も多くなって、
固より
貧士族のことであるから、自分で色々工風して、
下駄の
鼻緒もたてれば
雪駄の
剥れたのも縫うと
云うことは私の
引受けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも
繕うて
遣る。
或は
畳針を
買て来て畳の
表を
附け
替え、又或は竹を割って
桶の
箍を入れるような事から、その
外、
戸の破れ屋根の
漏りを繕うまで
当前の仕事で、皆私が
一人でして居ました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を
拵えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の
身を
磨ぐことは知らぬが、
鞘を塗り
柄を巻き、その外、
金物の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私の
塗た
虫喰塗りの
脇差の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。
都てコンナ事は
近処に内職をする士族があってその人に習いました。
金物細工をするに
鑢は第一の道具で、
是れも手製に作って、その製作には随分苦心して居た所が、その
後、
年経て私が江戸に来て
先ず大に驚いたことがある、と申すは
只の鑢は
鋼鉄を
斯うして斯う遣れば私の手にもヲシ/\出来るが、
鋸鑢ばかりは
六かしい。ソコデ江戸に
這入たとき、今思えば芝の
田町、処も覚えて居る、江戸に這入て往来の右側の家で、小僧が
鋸の
鑢の目を
叩て居る。皮を鑢の下に敷いて
鏨で刻んで
颯々と出来る様子だから、私は
立留て
之を見て、心の中で
扨々大都会なる
哉、途方もない事が出来るもの哉、自分等は夢にも思わぬ、鋸の鑢を
拵えようと
云うことは全く考えたこともない、
然るに小供がアノ通り
遣て居るとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思て、江戸に這入たその日に感心したことがあると云うような
訳けで、少年の時から読書の
外は俗な事ばかりして俗な事ばかり考えて居て、年を
取ても
兎角手先きの
細工事が面白くて、
動もすれば
鉋だの
鑿だの
買集めて、何か作って見よう、
繕うて見ようと思うその物は
皆な俗な物ばかり、
所謂美術と云う思想は少しもない。
平生万事
至極殺風景で、衣服住居などに一切
頓着せず、
如何いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。
況して流行の縞模様など考えて見たこともない程の
不風流なれども、何か私に得意があるかと云えば、
刀剣の
拵えとなれば、
是れは
善く出来たとか、小道具の
作柄釣合が
如何とか云う
考はある。是れは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。
夫れから私が世間に
無頓着と云うことは少年から
持て生れた性質、周囲の事情に
一寸とも感じない。藩の小士族などは酒、油、醤油などを買うときは、自分
自から町に
使に行かなければならぬ。所がその頃の士族一般の
風として、
頬冠をして
宵出掛て行く。私は頬冠は大嫌いだ。生れてからしたことはない。物を買うに何だ、
銭を
遣て買うに少しも構うことはないと
云う気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は
挟すが、
徳利を
提て、夜は
扨置き白昼公然、町の店に行く。銭は
家の銭だ、盗んだ銭じゃないぞと云うような
気位で、
却て藩中者の頬冠をして
見栄をするのを
可笑しく
思たのは少年の血気、自分
独り
自惚て居たのでしょう。ソレカラ又家に客を招く時に、大根や
牛蒡を煮て
喫せると云うことに
就て、必要があるから母の
指図に従て働て居た。所で私は客などがウヂャ/\酒を
呑むのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早く
呑で
帰て
仕舞えば
宜いと思うのに、中々帰らぬ。家は狭くて
居処もない。
仕方ないから客の呑でる
間は、私は押入の中に
這入て寝て居る。
何時でも客をする時には、客の来る
迄は働く、けれども夕方になると、自分も酒が
好だから
颯々と酒を呑で
飯を
喰て
押入に
這入て仕舞い、客が帰た跡で押入から出て、
何時も寝る処に寝直すのが常例でした。
夫れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就て
喙を
容れるような地位でない。
只追使れる
許り。その時、中津の
人気は
如何かと
云えば、学者は
挙て水戸の
御隠居様、
即ち
烈公の事と、越前の
春嶽様の話が多い。学者は水戸の
老公と云い、俗では水戸の御隠居様と云う。
御三家の事だから
譜代大名の家来は大変に
崇めて、
仮初にも隠居などゝ
呼棄にする者は
一人もない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も
左様思て居ました。ソレカラ
江川太郎左衛門も幕府の
旗本だから、江川様と
蔭でも
屹と
様付にして、
之も中々評判が高い。
或時兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中
袷一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私が
側から
一寸と聞て、
何にその
位の事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩
掻巻一枚着て
敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くと
云て、
頻りに
止めるけれども、トウ/\聴かずに
一冬通したことがあるが、
是れも十五、六歳の頃、
唯人に負けぬ気で
遣たので
身体も丈夫であったと思われる。
又当時世間一般の事であるが、学問と
云えば漢学ばかり、私の兄も
勿論漢学
一方の人で、
只他の学者と違うのは、
豊後の
帆足万里先生の
流を
汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々
大儒でありながら数学を
悦び、先生の説に、鉄砲と
算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を
小役人に任せ、鉄砲を
足軽に任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も
矢張り先輩に
傚うて
算盤の高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は
所謂孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。
或時兄が私に
問を掛けて、「お前は
是れから先き何になる積りかと
云うから、私が答えて、「
左様さ、
先ず日本一の
大金持になって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔して
叱ったから、私が
返問して、「
兄さんは
如何なさると尋ねると、
真面目に、「死に至るまで孝悌忠信と
唯一言で、私は「ヘーイと
云た切りそのまゝになった事があるが、
先ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。
或時私に
向て、「
乃公は総領で家督をして居るが、
如何かして
六かしい家の養子になって見たい。何とも
云われない頑固な、ゴク
喧しい養父母に
事えて見たい。決して
風波を起させないと云うのは、
畢竟養父母と養子との
間柄の悪いのは養子の方の
不行届だと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子は
忌な事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説が
違て居ました。
是れは
[#「是れは」はママ]私の十六、七の頃と思います。
母も
亦随分妙な事を
悦んで、
世間並には少し変わって居たようです。一体下等社会の者に
附合うことが
数寄で、出入りの百姓町人は
無論、
穢多でも乞食でも
颯々と近づけて、軽蔑もしなければ
忌がりもせず言葉など
至極丁寧でした。又宗教に
就て、
近処の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むこと
許りは
可笑しくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共に
云いながら、毎月米を袋に入れて寺に
持て
行て墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。
旦那寺の和尚は
勿論、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んで
之を
取持て
馳走でもすると云うような
風で、コンナ所を見れば
唯仏法が嫌いでもないようです。
兎に
角に慈善心はあったに違いない。
茲に誠に
穢い奇談があるから話しましょう。中津に
一人の女乞食があって、馬鹿のような
狂者のような
至極の
難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\と
云て、毎日市中を
貰て
廻わる。所が
此奴が
穢いとも臭いとも
云いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に
虱がウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気の
好い日などには、おチエ
此方に
這入て来いと云て、表の庭に
呼込んで
土間の草の上に坐らせて、自分は
襷掛けに身構えをして乞食の
虱狩を始めて、私は加勢に
呼出される。拾うように取れる虱を
取ては庭石の上に置き、マサカ
爪で
潰すことは出来ぬから、私を
側に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石を
以て構えて居る。母が
一疋取て
台石の上に置くと私はコツリと
打潰すと云う役目で、五十も百も
先ずその時に取れる
丈け取て
仕舞い、ソレカラ母も私も着物を払うて
糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせて
呉れた
褒美に
飯を
遣ると云う
極りで、
是れは母の
楽みでしたろうが、私は
穢なくて穢なくて
堪らぬ。今
思出しても胸が悪いようです。
又私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か
反古を
揃えて居る処を、私がドタバタ踏んで通った所が兄が
大喝一声、コリャ待てと
酷く
叱り付けて、「お前は眼が見えぬか、
之を見なさい、何と書いてある、
奥平大膳大夫と
御名があるではないかと
大造な権幕だから、「アヽ
左様で
御在ましたか、私は知らなんだと
云うと、「知らんと
云ても
眼があれば見える
筈じゃ、御名を足で踏むとは
如何云う心得である、
臣子の道はと、
何か
六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずには居られぬ。「私が誠に悪う御在ましたから
堪忍して下さいと
御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何の事だろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだと
甚だ不平で、ソレカラ子供心に
独り思案して、
兄さんの云うように殿様の名の書いてある反古を踏んで悪いと云えば、神様の名のある
御札を踏んだら
如何だろうと
思て、人の見ぬ処で御札を踏んで見た所が何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度は之を
洗手場に
持て
行て
遣ろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は
如何かあろうかと少し怖かったが、
後で何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんな事を云わんでも
宜いのじゃと独り発明したようなものだが、
是れ
許りは母にも云われず姉にも云われず、云えば
屹と叱られるから、
一人で
窃と黙って居ました。
ソレカラ一つも二つも年を取れば
自から度胸も
好くなったと見えて、
年寄などの話にする
神罰冥罰なんと
云うことは
大嘘だと
独り
自から信じ
切て、今度は一つ
稲荷様を見て
遣ろうと云う野心を起して、私の養子になって居た
叔父様の家の稲荷の
社の中には何が
這入て居るか知らぬと
明けて見たら、石が這入て居るから、その石を
打擲って
仕舞て代りの石を拾うて入れて置き、又隣家の
下村と云う屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の
札で、
之も
取て
棄てゝ
仕舞い平気な顔して居ると、
間もなく
初午になって、
幟を立てたり
大鼓を叩いたり
御神酒を上げてワイ/\して居るから、私は
可笑しい。「馬鹿め、
乃公の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白いと、
独り嬉しがって居たと云うような
訳けで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が
有難いだの云うことは
一寸ともない。
卜筮呪詛一切不信仰で、
狐狸が付くと云うようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。小供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。
或時に大阪から妙な女が来たことがあるその女と云うのは、私共が大阪に居る時に
邸に
出入をする
上荷頭の
伝法寺屋松右衛門と云うものゝ娘で、年の頃三十
位でもあったかと思う。その女が中津に来て、お
稲荷様を使うことを
知て居ると
吹聴するその次第は、誰にでも
御幣を持たして置て何か祈ると、その人に稲荷様が
憑拠くとか何とか
云て、
頻りに私の
家に来て
法螺を
吹て居る。
夫れからその時に私は十五、六の時だと思う。「ソリャ面白い、
遣て
貰おう、
乃公がその御幣を持とう、持て居る御幣が動き出すと
云うのは面白い、サア持たして
呉れろと云うと、その女がつく/″\と私を見て居て、「
坊さんはイケマヘンと云うから、私は承知しない。「今誰にでもと云たじゃないか、サア遣て見せろと、
酷くその女を弱らして面白かった事がある。
ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、
始終不平で
堪らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の
間に門閥制度がチャンと
定まって居て、その門閥の堅い事は
啻に藩の公用に
就てのみならず、今日
私の交際上、小供の
交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の
家のような下士族の者に
向ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが
如何なすって、
斯うなすってと云えば、
先方では貴様が
爾う
為やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない
只小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、
如何しても不平がなくては居られない。その
癖今の貴様とか何とか
云う上士族の子弟と学校に
行て、読書
会読と云うような事になれば、
何時でも
此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。
夫れがその
交際、
朋友互に交って遊ぶ
小供遊の
間にも、ちゃんと門閥と云うものを
持て
横風至極だから、小供心に腹が
立て堪らぬ。
況して
大人同士、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々
喧ましいことで、私が覚えて居るが、
或時私の兄が家老の処に手紙を
遣て、少し学者風でその
表書に何々様
下執事と書いて
遣たら
大に
叱られ、下執事とは何の事だ、
御取次衆と
認めて来いと
云て、手紙を
突返して来た。私は
之を見ても
側から
独り立腹して
泣たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、
如何したって
是れはモウ出るより
外に
仕様がないと、
始終心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が
分るようになる中に、私の
従兄弟などにも随分
一人や
二人は学者がある。
能く書を読む男がある。
固より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が
善くないとか何とかいろ/\不平を
洩らして居るのを聞いて、私は始終ソレを
止めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て
仕舞が
宜い、出なければ不平を
云わぬが
宜と、毎度
止て居たことがあるが、
是れはマア私の
生付きの性質とでも云うようなものでしょう。
或時私が何か漢書を読む中に、喜怨
色に
顕さずと云う一句を
読で、その時にハット思うて
大に自分で
安心決定したことがある。「是れはドウモ
金言だと思い、始終忘れぬようにして
独りこの
教を守り、ソコデ誰が何と
云て
賞めて
呉れても、
唯表面に
程よく受けて心の中には決して喜ばぬ。又何と軽蔑されても決して
怒らない。どんな事があっても怒った事はない。
矧や朋輩同士で喧嘩をしたと云うことは
只の一度もない。ツイゾ人と
掴合ったの、打ったの、打たれたのと云うことは
一寸ともない。是れは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は
怒に乗じて人の
身体に触れたことはない。所が先年二十何年前、塾の書生に何とも
仕方のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をして
遣るにも
拘わらず、再三再四の
不埓、
或るときそのものが
何処に何をしたか
夜中酒に
酔て生意気な
風をして
帰て来たゆえ、貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座して居ろと
申渡して
置て、
少して行て見ればグウ/″\
鼾をして居る。この
不埓者めと
云て、その肩の処をつらまえて
引起して、目の
醒めてるのを尚おグン/″\ゆたぶって
遣たことがある。その時
跡で
独り考えて、「コリャ悪い事をした、
乃公は生涯、人に
向て
此方から腕力を
仕掛けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬ事をしたと
思て、何だか坊主が戒律でも
破たような
心地がして、今に忘れることが出来ません。その
癖私は少年の時から
能く
饒舌り、
人並よりか
口数の多い程に饒舌って、
爾うして何でも
為ることは
甲斐々々しく遣て、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論と
云うことをしない。
似合い議論すればと
云ても、ほんとうに顔を
赧めて
如何あっても勝たなければならぬと云う議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が
躍起となって来れば、
此方はスラリと流して
仕舞う。「
彼の馬鹿が何を馬鹿を云て居るのだと
斯う思て、
頓と深く立入ると云うことは決して遣らなかった。ソレでモウ自分の一身は
何処に行て
如何な
辛苦も
厭わぬ、
唯この中津に居ないで
如何かして出て
行きたいものだと、独り
夫ればかり祈って居た処が、とうと長崎に行くことが出来ました。
それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、
即ち私の年二十一歳(
正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と
云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は
扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は
丁度ペルリの来た時で、
亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆
知て、同時に砲術と云うことが大変
喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆
和蘭流に
就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには
如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には
分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその
大本の蘭文の書を読まなければならぬ。
夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は
素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では
何時も出来が
好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然
頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時
丁度兄が長崎に行く
序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に
落付き、始めて横文字の
abc と
云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、
徳利の
貼紙を見ても横文字は
幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々
六かしい。廿六文字を習うて覚えて
仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又
左程でもなく、次第々々に
易くなって来たが、その蘭学修業の事は
扨置き、
抑も私の長崎に
往たのは、
唯田舎の中津の窮屈なのが
忌で/\
堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば
難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、
如斯処に誰が居るものか、
一度出たらば鉄砲玉で、再び
帰て来はしないぞ、今日こそ
宜い
心地だと
独り心で喜び、
後向て
唾して
颯々と
足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
夫れから長崎に
行て、そうして
桶屋町の
光永寺と
云うお寺を
便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の
倅で
奥平壹岐と云う人はそのお寺と親類で、
其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の
居候になって居るその中に、
小出町に
山本物次郎と云う長崎
両組の
地役人で砲術家があって、
其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を
以て、奥平の世話で山本の
家に
食客に
入込みました。
抑も
是れが私の
生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が
眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が
在て
独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて
遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども
活計は大きい。借金もある様子で、その借金の
云延し、
新に借用の申込みに行き、又
金談の手紙の代筆もする。
其処の家に
下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕
動もするとその男が病気とか何とか
云う時には、男の
代をして水も汲む。
朝夕の掃除は
勿論、先生が湯に
這入る時は
背中を流したり湯を
取たりして
遣らなければならぬ。又その
内儀さんが猫が大好き、
狆が大好き、
生物が好きで、猫も狆も犬も居るその
生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて
遣て居たから、
酷く調法な男だ、何とも
云われない調法な血気の少年であり
乍ら、その少年の行状が
甚だ
宜しい、甚だ宜しくて
甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ
以て段々その山本の家の気に
入て、
仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は
前にも云う通り中津の士族で、
遂ぞ自分は知りはせぬが
少さい時から
叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が
夫れなら
尚更ら
乃公の家の養子になれ、
如何でも
乃公が世話をして
遣るからと
度々云われた事がある。
その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の
謝物を
取て貸す。写したいと
云えば、写す
為めの謝料を取ると云うのが、
先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は
眼が悪いから皆私の手を
経る。それで私は砲術家の一切の
元締になって、何もかも私が一切
取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば
宇和島藩、
五島藩、
佐賀藩、
水戸藩などの人々が来て、
或は
出島の
和蘭屋敷に
行て見たいとか、或は大砲を
鋳るから図を見せて
呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が
遣る。私は本来
素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは
訳けはない。
颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても
独り
罷り
出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる
位に挨拶をしたり世話をしたりすると
云う調子である。
処で私を山本の
居候に世話をして入れて呉れた人、
即ち
奥平壹岐だ。壹岐と私とは
主客処を
易えて、私が主人見たようになったから
可笑しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも
大家の子だから
如何も
我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに
在て、蘭学医の家に通うたり和蘭
通詞の家に行ったりして
一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を
経るに従て、次第に意味が
分るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める
訳けはない。その中に
此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い
巧みのある悪人ではない。
唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に
旨く私を
籠絡して
生捕って
仕舞えば
譜代の家来同様に使えるのに、
却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より
十ばかり上だが、
何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に
還えすような計略を
運らしたのが、私の身には一大災難。
ソリャ
斯う
云う次第になって来た。その
奥平壹岐と云う人に
与兵衛と云う
実父の隠居があって、私共は
之を御隠居様と
崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の
後に父のするような事をして、又大阪に
行て
勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆
嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の
従兄の
藤本元岱と云う医者が
唯一人、
能く事が
分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る
彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、
何れ長崎の
倅壹岐の方から
打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を
呼に来て、隠居の申すに、諭吉を
呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから
早々呼還せ、但しソレに
就ては母が病気だと
申遣わせと云う
御直の厳命が
下ったから、
固より
否むことは出来ず、
唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を
寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う
表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から
斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと
詳に事実を書いて
呉れたから、私は
之を見て実に腹が立った。何だ、
鄙劣千万な、計略を
運らして母の病気とまで
偽を
云わせる、ソンナ奴があるものか、モウ
焼けだ、大議論をして
遣ろうかと
思たが、イヤ/\
左様でない、今アノ家老と喧嘩をした所が、負けるに
極って居る、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと
思直して、
夫れからシラバクレて
胆を
潰した
風をして奥平の処に行て、
扨中津から
箇様申して参りました、母が
俄に病気になりました、
平生至極丈夫な
方でしたが、実に分らぬものです、今頃は
如何云う
容体でしょうか、
遠国に居て気になりますなんて、心配そうな顔してグチャ/\
述立てると、奥平も
大に驚いた
顔色を作り、
左様か、ソリャ気の毒な事じゃ、
嘸心配であろう、
兎に
角に早く帰国するが
宜かろう、
併し母の病気全快の上は又
再遊の出来るようにして遣るからと、
慰さめるように云うのは、狂言が
旨く行われたと心中得意になって居るに違いない。ソレカラ又私は言葉を続けて、
唯今御指図の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言は
御在ませんか、
何れ帰れば
御目に掛ります、又何か
御品があれば何でも
持て帰りますと
云て、
一ト
先ず別れて
翌朝又
行て見ると、主公が家に
遣る手紙を出して、之を屋敷に届けて呉れ、
親仁に
斯う/\伝言をして呉れと云い、又別に私の母の
従弟の
大橋六助と云う男に遣る手紙を渡して、これを六助の処に持て行け、
爾うすると貴様の再遊に都合が
宜かろうと
云て、
故意とその手紙に封をせずに
明けて見よがしにしてあるから、何もかも
委細承知して丁寧に告別して、宿に
帰て封なしの手紙を
開て見れば、「諭吉は母の病気に付き
是非帰国と
云うからその意に任せて
還すが、修業勉強中の事ゆえ再遊の出来るようその
方にて
取計らえと云う文句。私は
之を見てます/\
癪に
障る。「この
猿松め馬鹿野郎めと
独り心の中で
罵り、ソレカラ山本の家にも事実は云われぬ、
若し
是れが
顕われて奥平の
不面目にもなれば、
禍は
却て私の身に
降て来て
如何な目に逢うか知れない、ソレガ怖いから
唯母の病気とばかり云て
暇乞をしました。
丁度そのとき中津から
鉄屋惣兵衛と云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、
兎も
角も之と同伴と約束をして
置て、ソコデ私の
胸算は
固より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、
是れから
真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事に
就ては誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た
岡部同直と云う蘭学書生がある。是れは医者の子で
至極面白い
慥かな人物と見込んだから、この男に
委細の内情を打明けて、「
斯う/\
云う次第で僕は長崎に
居られぬ、余り
癪に
障るからこのまゝ江戸に
飛出す
積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、
大人は開業医と開いたが、君の家に
食客に置て
呉れる事は出来まいか。僕は医者でないが
丸薬を丸める
位の事は
屹と出来るから、
何卒世話をして
貰いたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ
容易く私の云う事を
請合い、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の
親仁は日本橋
檜物町に開業して
居るから、手紙を書いて
遣ろうと
云て、親仁
名当の一封を呉れたから私は喜んで
之を
請取り、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、
是ればかりは奥平にも山本にも一切
誰にも云わずに、君
一人で
呑込んで居て
外に
洩らさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船に
乗て
先ず大阪に行く、
凡そ十日か十五日も
掛れば着くだろう。その時を
見計ろうて中村(諭吉、当時は中村の姓を
冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れも
聊か
面当だと互に
笑て、朋友と
内々の打合せは出来た。
それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に
認めて
仕舞い、
是れは例の御隠居様に
遣らなければならぬ。「私は長崎を
出立して中津に帰る
所存で
諫早まで参りました処が、その途中で
不図江戸に
行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。
就ては
壹岐様から
斯様々々の
御伝言で、お手紙は
是れですからお届け申すと丁寧に
認めて
遣って、ソレカラ封をせずに渡した
即ち
大橋六助に
宛た手紙を本人に届ける
為めに、私が手紙を
書添えて、「この通りに封をせぬのは
可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの
儘御届け申します。
原はと
云えば自分の方で
呼還すように
企てゝ置きながら、
表べに人を
欺くと云うのは
卑劣至極な
奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような
塩梅に
認めて、万事の用意は出来て、
鉄屋惣兵衛と一処に長崎を
出立して
諫早まで――この
間は七里ある――来た。
丁度夕方
着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「
扨鉄屋、
乃公は長崎を出る時は中津に帰る
所存であったが、是れから中津に帰るは
忌になった。貴様の荷物と一処に
乃公のこの
葛籠も
序に
持て
帰て
呉れ。
乃公はもう
着換が一、二枚あれば
沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、
夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は
呆れて
仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に
上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に
帰てお
母さんにいい
様がない。「なあに構うものか、
乃公は
死も何もせぬから
内のおッ
母さんに
宜しく
云て
呉れ、
唯江戸に参りましたと
云えば
夫れで分る。
鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、
乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に
知てる
船宿はないか。「私の懇意な内で
船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、
其処へお
入来なされば宜しいと云う。
抑もこの事を
態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の
懐中に金がない。内から呉れた金が一
歩もあったか、その
外に
和蘭の字引の
訳鍵と云う本を
売て、
掻集めた所で二
歩二
朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには
如何しても船賃が足らぬと云う
見込だから、そこで
一寸と船宿の名を
聞て
置て、
夫れから鉄屋に別れて、
諫早から
丸木船と云う船が
天草の海を渡る。五百八十
文出してその船に乗れば
明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に
乗た所が、
浪風なく朝佐賀に
着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず
宿々の順も知らずに、
唯東の方に
向て、
小倉には
如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分
太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに
着た。
その
間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、
殊に
何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、
若し
行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の
善悪は
択ぶに
暇なく、
只泊めて呉れさえすれば宜しいと
云うので
無暗に
歩行いて、
何か
斯か二晩
泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて
即ち
鉄屋惣兵衛の
贋手紙を
拵えて、「この
御方は中津の
御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に
出入して決して
間違なき
御方だから厚く頼むと
鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関
船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、
明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、
小倉までたどり付て
泊った時はおかしかった。
彼方此方マゴマゴして、小倉
中、宿を
捜したが、
何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて
呉れた所が薄汚ない宿屋で、
相宿の
同間に人が寝て居る。スルト
夜半に
枕辺で小便する音がする。何だと思うと
中風病の
老爺が、しびんに
遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて
堪らなかったのは
能く覚えて居ます。
それから下ノ関の
渡場を渡て、
船場屋を
捜し出して、兼て用意の
贋手紙を
持て
行た所が、
成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して
早速泊めて
呉れて、万事
能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が
一分二朱、
賄の代は一日
若干、ソコデ船賃を払うた
外に二百文か三百文しか残らぬ。
併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、
是れも
船宿で
心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
小倉から下ノ関に船で来る時は怖い事がありました。途中に出た所が少し荒く風が
吹て
浪が
立て来た。スルトその
纜を
引張て呉れ、
其方の処を
如何して呉れと、
船頭が何か騒ぎ立て
乗組の私に頼むから、ヨシ来たと
云うので纜を引張たり柱を起したり、面白半分に様々
加勢をして
先ず
滞りなく下ノ関の宿に
着て、「今日の船は
如何したのか、
斯う/\云う
浪風で、斯う云う目に
遇た、
潮を
冠って着物が濡れたと云うと、宿の
内儀さんが「それはお危ない事じゃ、
彼れが船頭なら
宜いが実は百姓です。この節
暇なものですから内職にそんな事をします。百姓が農業の
間に慣れぬ事をするから、少し浪風があると毎度大きな間違いを
仕出来しますと云うのを
聞て、実に怖かった。成程
奴等が一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。
夫れから
船場屋寿久右衛門の処から
乗た船には、三月の事で皆
上方見物、夫れは/\
種々様々な奴が乗て居る。
間抜けな若旦那も乗て居れば、頭の
禿た
老爺も乗て居る、
上方辺の
茶屋女も居れば、下ノ関の
安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が
揃うて、
其奴等が狭い船の中で、酒を飲み、
博奕をする。
下らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で
取付端がない。船は
安芸の
宮島へ
着た。私は宮島に用はない。
唯来たから唯島を見に
上る。
外の
連中はお互に朋友だから
宜いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて
堪らぬけれども、金がないから
只宮島を見たばかりで、船に
帰て来てむしゃ/\船の
飯を
喰てるから、
船頭もこんな客は
忌やだろう、妙な顔をして私を
睨んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の
錦帯橋も
余儀なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の
金比羅様だ。
多度津に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。
外の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。
爾うすると
一晩泊て、どいつもこいつもグデン/\に
酔て陽気になって帰て来る。
癪に
障るけれども何としても
仕様がない。
爾う
云う不愉快な船中で、
如何やら
斯うやら十五日目に播州
明石に
着た。朝五ツ時、今の八時頃、
明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ
連中のお供をしては際限がない。
是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ
乃公は
是れから大阪まで歩いて行く。
就ては
是迄の
勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、
船頭が中々聞かない。「爾う
旨くは行かぬ、一切勘定を
払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は
更紗の着物と
絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで
持て居るから、「
茲に着物が二枚ある、是れで
賄の代
位はあるだろう、
外に
書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を
預ければ
宜いが、是れは
挟して行かねばならぬ。
何時でも
宜しい、船が大阪に
着次第に中津屋敷で払て
遣るから取りに来いと云うも、船頭は
頑張て承知しない。「中津屋敷は
知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に
乗て行きなさい。賄の代金は大阪で
請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。
何日掛ても構わぬ、途中から
上ることは出来ぬと云う。
此方は
只管頼むと小さくなって
訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を
張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の
商人風の男が出て来て、乃公が
請合うと
先ず発言して船頭に向い、「コレお前も
爾う、いんごうな事を
云うものじゃない。
賄代の
抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を
騙す
所存ではないように見受ける。若し騙したら
乃公が払う、サアお
上りなさいと
云て、船頭も
是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を
述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
そこで明石から大阪まで十五里の
間と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で
迚も一晩
泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と
云う処か知らぬが、左側の
茶店で、
一合十四文の酒を二合飲んで、大きな
筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯
喰て、
夫れからグン/″\歩いて、今の神戸
辺は先だか
後だか、どう
通たか少しも
分らぬ。
爾うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を
幾川も
渡て、
有難い事にお侍だから船賃は
只で
宜かったが、日は暮れて
暗夜で
真暗、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、
夜中淋しい処で変な奴に逢えば
却て気味が悪い。その時私の指してる大小は、
脇差は
祐定の丈夫な
身であったが、刀は
太刀作りの
細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を
云えば大阪近在に人殺しの
無暗に出る
訳けもない、ソンナに怖がる事はない
筈だが、
独旅の夜道、真暗ではあるし
臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば
却て危ない事だと思う。ソレカラ
始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪
堂島玉江橋と
云うことを
知てるから、
唯大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に
着て兄に
逢たが、大変に足が痛かった。
大阪に着て
久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が
沢山ある。私は三歳の時に国に
帰て二十二歳に再び
行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の
面が
何処か
幼顔に
肖て居ると云うその
中には、私に乳を
呑まして
呉れた
仲仕の
内儀さんもあれば、又
今度兄の供をして中津から来て居る
武八と云う
極質朴な
田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお
守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に
我身夜中にこの
横町の
彼の
産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、
此身お前をだいて毎日々々
湊の部屋(
勧進元)に相撲の稽古を見に
行た、その産婆さんの
家は
彼処じゃ湊の稽古場は
此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も
旧を
懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。
都て
如斯な
訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に
帰た通りで誠に
宜い
心地。それから兄が私に
如何して
貴様は出し抜けに
此処に来たのかという。兄の事であるから構わず
斯う
云う次第で参りましたと
云たら、「
乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ
母さんの処を
避て来たではないか。それも
乃公が此処に居なければ
兎も
角、乃公が此処で貴様に面会しながら
之を
手放して江戸に
行けと云えば兄弟共謀だ。
如何にも済まぬではないか。おッ母さんは
夫程に思わぬだろうが、
如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を
捜したら
緒方と云う先生のある事を
聞出した。
鄙事多能は私の
独得、長崎に居る
間は山本先生の家に
食客生と
為り、
無暗に勉強して蘭学も
漸く方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生
家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも
引請けて、
是れは出来ない、
其れは
忌だと
云たことはない。
丁度上方辺の
大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の
素読をして
遣た跡で、表の井戸端で水を
汲んで、大きな
荷桶を
担いで
一足跡出すその途端にガタ/″\と
動揺て足が
滑り、誠に危ない事がありました。
寺の和尚、今は
既に
物故したそうですが、
是れは東本願寺の
末寺、
光永寺と申して、
下寺の三ヶ寺も
持て居る
先ず長崎では名のある
大寺、そこの和尚が京に
上って何か立身して
帰て来て、長崎の奉行所に
廻勤に行くその
若党に雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長い
衣か装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で
駕籠を出ると、私が
後からその
裾を持てシヅ/″\と附いて歩いて
行く。
吹出しそうに
可笑しい。又その和尚が正月になると
大檀那の家に
年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも
飲でる
供待の
間に、供の者にも膳を出して
雑煮など
喰わせる。是れは
難有く
戴きました。
又
節分に
物貰いをしたこともある。長崎の
風に、節分の晩に
法螺の貝を
吹て何か
経文のような事を
怒鳴って
廻わる、東京で
云えば
厄払い、その厄払をして市中の家の
門に立てば、
銭を
呉れたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の
隣家に
杉山松三郎(杉山
徳三郎の実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、
勿論同意。ソレカラ
何処かで
法螺の貝を借りて来て、
面を隠して
二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に
暗誦して
居た
蒙求の表題と
千字文で
請持ち、
王戎簡要天地玄黄なんぞ
出鱈目に
怒鳴り立てゝ、誠に上首尾、
銭だの米だの随分相応に
貰て来て、餅を買い鴨を買い
雑煮を
拵えてタラフク
喰た事がある。
私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと
云うときに、薩州の医学生に
松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主
薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて
貰うが
宜かろうと云うので
行た所が、松崎が
abc を書いて仮名を附けて
呉れたのには
先ず驚いた。
是れが文字とは
合点が
行かぬ。二十
何字を覚えて
仕舞うにも余程手間が
掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の
綴も
分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の
人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。
依て私の心中
窃に、「
是れは
高の知れた人物だ。今でも漢書を
読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭
等しく字を読み義を解することゝすれば、
左までこの先生を恐るゝことはない。
如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、
生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が
頗る速くて、両三年の
間に同窓生八、九十人の上に
頭角を現わした。所が人事の
廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に
這入り、私はその時ズット上級で、下級生の
会頭をして居るその
会読に、松崎も出席することになって、三、四年の
間に
今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、
固より人には
云われず、又云うべきことでないから
黙て居たが、その時の愉快は
堪らない。
独り酒を
飲で得意がって居ました。
左れば軍人の
功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、
孰れも熱心で、
一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、
矢張り同じことで、世間
並に俗な
馬鹿毛た野心があるから
可笑しい。
兄の申すことには私も
逆らうことが出来ず、大阪に足を
止めまして、
緒方先生の塾に入門したのは安政二年
卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には
勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は
楢林と云う
和蘭通詞の
家、同じく楢林と云う医者の
家、それから
石川桜所と云う
蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を
張て居る
大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで
其処の玄関に
行て
調合所の人などに習って居たので、
爾う云うように
彼方此方にちょい/\と教えて
呉れるような人があれば
其処へ行く。
何処の
何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を
読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは
是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて
貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には
大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の
宜い方であったと思う。
ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々
茲に大なる
不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が
僂麻質斯に
罹り病症が
甚だ軽くない。トウ/\手足も
叶わぬと云う程になって、
追々全快するが
如く全快せざるが如くして居る
間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を
持て書くと云うような
容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、
予て世話になって居た加州の
岸直輔と云う人が、
腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は
平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に
鈴木儀六と云う者があって、
是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、
凡そ三週間も手を尽したけれども、
如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に
送て
遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の
千日の火葬場に
持て
行て
焼て、骨を本国に送り、
先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと
煩い
付た。
容体がドウも
只の風邪でない。熱があり気分が
甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て
貰た所が、
是れは
腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと
云て居る
間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、
愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に
療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると
云う。
夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「
乃公はお前の病気を
屹と
診て
遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて
仕舞う。
此の薬
彼の薬と迷うて、
後になって
爾うでもなかったと
云て又薬の加減をすると
云うような
訳けで、
仕舞には何の療治をしたか
訳けが
分らぬようになると云うのは人情の
免れぬ事であるから、病は
診て
遣るが
執匙は
外の医者に頼む。そのつもりにして
居れと云て、先生の朋友、
梶木町の
内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の
家から薬を
貰て、先生は
只毎日来て容体を診て病中の摂生法を
指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く
迚も手に及ばない事で、その師弟の
間は
自から
公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は
正しく親子の通り、
緒方先生が私の病を見て、どうも薬を
授るに迷うと云うのは、自分の
家の子供を療治して
遣るに迷うと同じ事で、その
扱は
実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって
仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の
心地は、今の日本国中の塾生に
較べて見て大変に
違う。私は真実緒方の
家の者のように思い
又思わずには
居られません。ソレカラ
唯今申す通り
実父同様の緒方先生が
立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。
煩い付て四、五日目から人事
不省、
凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、
幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、
平生身体の強壮なその
為めでしょう、
恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その
間に兄は
僂麻質斯を
煩て
居り、私は熱病の大病後である、
如何にも始末が付かない。
その中に
丁度兄の年期と
云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も
亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、
兎に
角に帰国が
宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に
乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に
恢復して、兄の
僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。
夫れでは私は又大阪に参りましょうと
云て出たのがその歳、
即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が
能くて、大阪に
着たその時に、私は中津屋敷の
空長屋を借用して独居自炊、
即ち土鍋で
飯を
焚て
喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻
帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども
仕方がない。取るものも取り
敢えずスグ船に乗て、この
度は誠に順風で、
速に中津の港に
着て、
家に帰て見ればモウ葬式は
勿論、何も
斯も
片が
付て
仕舞た後の事で、ソレカラ私は
叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、
即ち里の主人が死亡して、娘が
一人あれども女の子では家督相続は出来ない、
是れは弟が相続する、
当然の順序だと
云うので、親類相談の上、私は知らぬ
間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を
待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて
呉れる
位の事だ。
扨てその跡を
襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の
忌服を勤めねばならぬ。
夫れから家督相続と云えば
其れ相応の
勤がなくてはならぬ、藩中
小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは
天外万里、何もかも
浮足になって
一寸とも
落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を
拒むことは出来ない。
唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には
如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々
寄付かれもしない。藩中一般の説は
姑く
差措き、近い親類の者までも西洋は
大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、
其処に
行て何か話をして、
序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり
言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から
叱られた。「
怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする
筈のものだ。ソレに
和蘭の学問とは何たる
心得違いか、
呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を
冷かして、貴様のような
奴は
負角力の
瘠錣と
云うものじゃと
苦々しく
睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。
迚も叔父さんに賛成して
貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば
自から口の
端にも出る。出れば狭い所だから
直ぐ分る。
近処辺りに
何処となく評判する。
平生私の処に
能く来るお
婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お
八重さんと云う人。今でも
其の人の
面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、
或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般
先ずソンナ
風で、その時の私の身の上を申せば
寄辺汀の
捨小舟、まるで
唄の文句のようだ。
ソコデ私は
独り考えた。「
是れは
迚も
仕様がない。
唯頼む所は母一人だ。母さえ承知して
呉れば誰が何と云うても怖い者はないと。ソレカラ私は母にとっくり話した。「おッ
母さん。今私が修業して居るのは
斯う
云う有様、斯う云う
塩梅で、長崎から大阪に
行て修業して
居ります。自分で考えるには、
如何しても修業は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居た所が何としても頭の
上る
気遣はない。
真に
朽果つると云うものだ。どんな事があっても私は中津で朽果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、
何卒私を手放して下さらぬか。私の産れたときにお父ッさんは坊主にすると
仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと
諦めて下さい」。その時私が出れば、母と死んだ兄の娘、産れて三つになる女の子と五十有余の老母と
唯の
二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して、「どうぞ二人で留主をして下さい、私は大阪に行くから」と
云たら、母も中々
思切りの
宜い性質で、「ウム
宜しい。「アナタさえ
左様云て下されば、誰が何と云ても怖いことはない。「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは
仕方がない。お前も
亦余所に出て死ぬかも知れぬが、
死生の事は一切言うことなし。
何処へでも出て行きなさい」。ソコデ母子の
間と云うものはちゃんと
魂胆が出来て
仕舞て、ソレカラ
愈よ出ようと云うことになる。
出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末と云うのは、兄の病気や勤番中の
其れ
是れの
入費、
凡そ四十両借金がある。この四十両と
云うものは、その時代に私などの家に
取ては途方心ない
大借。これをこの
儘にして置ては
迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。
如何しよう。
外に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、
聊か頼みがあると云うのは、私の父は学者であったから、藩中では中々蔵書を
持て居る。凡そ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に
類の少ない本もある。例えば私の名を諭吉と云うその諭の字は天保五年十二月十二日の
夜、私が誕生したその日に、父が多年
所望して居た
明律の
上諭条例と云う全部六、七十冊ばかりの
唐本を
買取て、
大造喜んで居る処に、その
夜男子が
出生して重ね/″\の喜びと云う所から、その上諭の諭の字を取て私の名にしたと母から聞いた事がある
位で、随分珍らしい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようと云うことになって、
先ず手近な物から売れるだけ売ろうと云うので、
軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば
頼山陽の
半切の
掛物を
金二
分に売り、
大雅堂の
柳下人物の掛物を二両二分、
徂徠の書、
東涯の書もあったが、誠に
値がない、見るに足らぬ。その他はごた/\した
雑物ばかり。覚えて居るのは
大雅堂と
山陽。刀は
天正祐定二尺五寸
拵付、
能く出来たもので四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。
如何したって何十両と
云う金を出す藩士はありはせぬ。所で私の先生、
白石と云う漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を
追出されて豊後の
臼杵藩の儒者になって居たから、この先生に
便って行けば売れるだろうと
思て、臼杵まで
態々出掛けて
行て、先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に
買て
貰い、
先ず
一口に
大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も
猪口も一切
売て、
漸く四十両の金が
揃い、その金で借金は奇麗に
済だが、その蔵書中に
易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で
細々と
書入をした見事なものがある。
是れは
亡父が存命中大阪で
買取て
殊の
外珍重したものと見え、蔵書目録に父の筆を
以て、この東涯先生書入の易経十三冊は天下
稀有の書なり、子孫
謹で福澤の家に
蔵むべしと、
恰も遺言のようなことが害いてある。私も
之を見ては何としても売ることが出来ません。是れ
丈けはと思うて残して
置たその十三冊は今でも私の家にあります。
夫れと今に残って居るのは
唐焼の丼が二つある。是れは例の雑物
売払のとき道具屋が
直を付けて丼二つ
三分と云うその三分とは中津の
藩札で
銭にすれば十八
文のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり
有ても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は
筆洗になって居るのも
可笑しい。
夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に
帰て居るその
間に一つ仕事をしました、と
云うのはその時に
奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、
勿論私は
御機嫌伺に出なければならぬ。
或日奥平の屋敷に
推参して久々の面会、
四方山の話の
序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は
乃公が長崎から
持て来た
和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、
窮理書の
外に
遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと
先ず私は感心しなければならぬ、と
云うのはその時は
丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々
喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が
読で見たくて
堪らない。けれども
是れは貸せと
云た所が貸す
気遣はない。
夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと
云うたのには、実に貧書生の
胆を
潰すばかり。
迚も自分に買うことは出来ず、
左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は
唯原書を眺めて心の底で
独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を
遣て見た。「
成程是れは結構な原書で
御在ます。迚も
之を
読で
仕舞うと云うことは急な事では出来ません。
責めては図と目録とでも
一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は
叶いますまいかと手軽に
触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して
呉れたこそ天与の
僥倖、ソレカラ私は
家に
持て
帰て、即刻
鵞筆と墨と紙を用意してその原書を
初から
写掛けた。
凡そ二百
頁余のものであったと思う。それを写すに
就ては誰にも言われぬのは
勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に
引込んで一切客に
遇わずに、昼夜
精切り一杯、
根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする
勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば
窃と
写物を
持出して、朝、城門の
明くまで写して、
一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり
眼もあり、
既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか
云て来はしないだろうか、いよ/\
露顕すれば
唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々
六かしくなるだろうと思えば、その心配は
堪らない。生れてから
泥坊をしたことはないが、泥坊の心配も
大抵こんなものであろうと推察しながら、とう/\写し終りて、図が二枚あるその図も写して
仕舞て、サア出来上った。出来上ったが
読合せに困る。
是れが出来なくては大変だと
云うと、妙な事もあるもので、中津に
和蘭のスペルリングの読めるものが
只た
一人ある。それは
藤野啓山と云う医者で、この人は
甚だ私の処に縁がある、と云うのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私の
家に寄宿して、母も常に世話をして
遣たと云う縁故からして、
固より信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の処に行て、「
大秘密をお前に語るが、実は
斯う/\云うことで、奥平の原書を写して仕舞た。所が困るのはその読合せだが、お前はどうか原書を見て居て
呉れぬか、私が写したのを読むから。実は昼
遣りたいが、昼は出来られない。ヒョッと
分っては大変だから、夜分私が来るから御苦労だが見て居て呉れよと頼んだら、藤野が
宜しいと快く
請合って呉れて、ソレカラ私は
其処の家に三晩か四晩
読合せに
行て、ソックリ出来て
仕舞た。モウ
連城の
璧を手に握ったようなもので、
夫れから原書は大事にしてあるから
如何にも
気遣はない。しらばくれて
奥平壹岐の家に行て、「誠に
難有うございます。お蔭で始めてこんな兵書を見ました。
斯う
云う新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、
嘸マア海防家には有益の事でありましょう。
併しこんな結構なものは貧書生の手に得らるゝものでない。
有難うございました。返上致しますと
云て奇麗に済んだのは嬉しかった。この書を写すに幾日かゝったか
能く覚えないが、何でも二十日以上三十日足らずの
間に写して
仕舞うて、原書の主人に
毛頭疑うような
顔色もなく、マンマとその
宝物の
正味を
偸み
取て私の物にしたのは、
悪漢が宝蔵に忍び
入たようだ。
その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩
夜を
更かして
碌に
寝もしないじゃないか。何の事だ。
風邪でも引くと
宜くない。勉強にも程のあったものだと
喧しく云う。「なあに、おッ
母さん、大丈夫だ。私は写本をして居るのです。この
位の事で私の
身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して
煩いはしませぬと云うたことがありましたが、ソレカラ
愈よ大阪に出ようとすると、
茲に
可笑しい事がある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも云いようがない。
是れまで私は
部屋住だから
外に出るからと云て
届も
願も
要らぬ、
颯々と
出入したが、今度は
仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。
夫れから私は
兼て母との相談が済んで
居るから、
叔父にも
叔母にも相談は要りはしない。
出抜けに蘭学の修業に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が
内々知らせて
呉れるに、「それはイケない。蘭学修業と
云うことは
御家に先例のない事だと云う。「そんなら
如何すれば
宜いかと尋れば、「
左様さ。砲術修業と書いたならば済むだろうと云う。「けれども
緒方と云えば大阪の開業医師だ。お医者様の処に鉄砲を習いに行くと云うのは、世の中に余り例のない事のように思われる。
是れこそ
却て不都合な話ではござらぬか。「イヤ、それは何としても
御例のない事は仕方がない。事実相違しても
宜しいから、
矢張り砲術修業でなければ済まぬと云うから、「エー宜しい。
如何でも
為ましょうと
云て、ソレカラ
私儀大阪
表緒方
洪庵の
許に砲術修業に
罷越したい
云々と願書を出して
聞済になって、大阪に出ることになった。
大抵当時の世の中の
塩梅式が分るであろう、と云うのは
是れは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中
悉く漢学の世の中で、西洋流など云うことは
仮初にも通用しない。俗に云う
鼻掴みの世の中に、
唯ペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、
云わば
一線の
血路が開けて、ソコで砲術修業の願書で
穏に事が済んだのです。
願が済んで
愈よ船に
乗て出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、
此の医者を頼み
彼の医者に相談、様々に介抱した所が虫だと
云う。虫なれぼ
如何なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネと云うものはない、セメンシーナが妙薬だと云う。この薬は
至極価の高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津に
只た一軒ある
計りだけれども、母の病気に薬の
価が高いの安いのと
云て
居られぬ。私は今こそ借金を払った
後でなけなしの金を何でも
二朱か
一歩出して、そのセメンシーナを
買て母に服用させて、
其れが
利いたのか何か
分らぬ、
田舎医者の言うことも
固より信ずるに足らず、私は
唯運を天に任せて看病大事と昼夜番をして居ましたが、
幸に難症でもなかったと見えて
日数凡そ二週間ばかりで快くなりましたから、
愈よ大阪へ出掛けると日を
定めて、
出立のとき
別を惜しみ無事を祈って
呉れる者は母と姉とばかり、知人朋友、
見送は
扨置き見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後、
間もなく家財は残らず
売払うて諸道具もなければ金もなし、
赤貧洗うが
如くにして、他人の来て
訪問て呉れる者もなし、
寂々寥々、
古寺見たような家に老母と小さい
姪とタッタ二人残して出て行くのですから、
流石磊落書生も
是れには弱りました。
船中無事大阪に
着たのは
宜しいが、
唯生きて
身体が
着た
計りで、
扨て修業をすると
云う手当は何もない。ハテ
如何したものかと
思た所が
仕方がない。
何しろ先生の処へ
行てこの通り言おうと思て、
夫から、大阪
着はその歳の十一月頃と思う、その足で
緒方へ行て、「私は兄の不幸、
斯う/\云う次第で
又出て参りましたと
先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、
家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも
打明けて、
彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を
盗写してこの通り
持て参りましたと
云た所が、先生は
笑て、「
爾うか、ソレは
一寸との
間に
怪しからぬ悪い事をしたような又
善い事をしたような事じゃ。何は
扨置き貴様は
大造見違えたように丈夫になった。「
左様で
御在ます。
身体は病後ですけれども、
今歳の春
大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切
聞て見ると
如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして
遣りたい、けれども
外の書生に対して何かお前一人に
贔屓するようにあっては
宜くない。待て/\。その原書は面白い。
就ては
乃公がお前に
云付けてこの原書を訳させると、
斯う
云うことに
仕よう、そのつもりで
居なさいと
云て、ソレカラ私は緒方の
食客生になって、医者の
家だから食客生と云うのは調合所の者より
外にありはしませぬが、私は医者でなくて
只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても
宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して
仕舞いました。
私は
是れまで緒方の塾に
這入らずに屋敷から
通って居たのであるが、安政三年の十一月頃から塾に
這入て
内塾生となり、是れが
抑も私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾と云うものは真実日進々歩主義の塾で、その中に這入て居る書生は皆活溌
有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、中々
一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の
巣窟、その中に私が
飛込で共に活溌に乱暴を働いた、けれども又
自から
外の者と少々違って居ると云うこともお話しなければならぬ。
先ず第一に私の悪い事を申せば、
生来酒を
嗜むと云うのが一大欠点、成長した
後には
自からその悪い事を
知ても、悪習
既に
性を成して
自から禁ずることの出来なかったと云うことも、
敢て包み隠さず明白に自首します。自分の悪い事を
公けにするは余り面白くもないが、
正味を言わねば事実談にならぬから、
先ず
一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。
抑も私の
酒癖は、年齢の次第に成長するに
従て
飲覚え、飲慣れたと
云うでなくして、
生れたまゝ
物心の出来た時から自然に
数寄でした。今に記憶して
居る事を申せば、幼少の頃、
月代を
剃るとき、頭の
盆の
窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト
剃て
呉れる母が、「酒を
給べさせるから
此処を剃らせろと
云うその酒が飲みたさ
計りに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事は
幽に覚えて居ます。天性の悪癖、誠に
愧ずべき事です。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、
外に何も法外な事は働かず行状は
先ず正しい
積りでしたが、俗に云う酒に目のない少年で、酒を見ては
殆んど
廉恥を忘れるほどの
意気地なしと申して
宜しい。
ソレカラ長崎に出たとき、二十一歳とは
云いながらその実は十九歳余り、マダ
丁年にもならぬ身で立派な
酒客、
唯飲みたくて
堪らぬ。所が
兼ての宿願を達して学問修業とあるから、自分の本心に訴えて何としても飲むことは出来ず、滞留一年の
間、死んだ気になって禁酒しました。山本先生の
家に
食客中も、大きな宴会でもあればその時に盗んで飲むことは出来る。又
銭さえあれば町に出て
一寸と
升の
角から
遣るのも
易いが、
何時か一度は
露顕すると
思て、トウ/\
辛抱して一年の
間、正体を現わさずに、翌年の春、長崎を
去て
諫早に来たとき始めてウント飲んだ事がある。その後
程経て文久元年の冬、洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度洋行の次第を語り、そのとき始めて酒の事を
打明け、
下戸とは
偽り実は
大酒飲だと白状して、飲んだも飲んだか、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かした事を覚えて居ます。
この通り幼少の時から酒が
数寄で酒の
為めには
有らん限りの悪い事をして随分不養生も
犯しましたが、又一方から見ると私の性質として品行は正しい。
是れだけは少年時代、乱暴書生に
交っても、家を成して
後、世の中に交際しても、少し人に変って大きな口が
利かれる。
滔々たる
濁水社会にチト変人のように窮屈なようにあるが、
左ればとて実際
浮気な
花柳談と
云うことは
大抵事細に
知て居る。
何故と云うに他人の夢中になって汚ない事を話して居るのを
能く注意して
聞て心に
留めて置くから、何でも分らぬことはない。例えば、私は元来
囲碁を知らぬ、少しも分らないけれども、塾中の書生仲間に囲碁が始まると、ジャ/″\
張り
出て
巧者なことを
云て、ヤア黒のその手は間違いだ、
夫れ又やられたではないか、油断をすると
此方の方が
危いぞ、馬鹿な
奴だあれを知らぬかなどゝ、
宜い加減に
饒舌れば、書生の
素人の
拙囲碁で、
助言は
固より勝手次第で、
何方が負けそうなと
云う事は双方の
顔色を見て
能く
分るから、勝つ方の手を誉めて負ける方を悪くさえ云えば間違いはない。ソコデ私は中々囲碁が強いように見えて、「福澤一番
遣ろうかと云われると、「馬鹿云うな、君達を相手にするのは
手間潰しだ、そんな
暇はないと、高くとまって
澄し込んで居るから、いよ/\
上手のように思われて
凡そ一年ばかりは
胡摩化して居たが、何かの
拍子にツイ
化の皮が現われて
散々罵しられたことがある、と云うようなもので、花柳社会の事も他人の話を聞きその様子を見て大抵こまかに
知て居る、知て居ながら自分一身は
鉄石の
如く大丈夫である。マア申せば血に交わりて赤くならぬとは私の事でしょう。自分でも不思議のようにあるが、
是れは
如何しても私の家の
風だと思います。幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ない事は
仮初にも
蔭にも
日向にも家の中で
聞たこともなければ話した事もない。
清浄潔白、
自から同藩普通の家族とは
色を
異にして、ソレカラ家を
去て他人に交わっても、その
風をチャント
守て、別に
慎むでもない、
当然な事だと
思て居た。ダカラ緒方の塾に居るその
間も、
遂ぞ
茶屋遊をするとか
云うような事は決してない、と云いながら
前にも云う通り何も偏屈で
夫れを嫌って恐れて逃げて廻って蔭で理屈らしく不平な顔をして居ると云うような事も
頓としない。遊廓の話、茶屋の話、同窓生と
一処になってドシ/″\話をして問答して、
而して私は夫れを又
冷かして、「君達は誠に
野暮な奴だ。茶屋に
行てフラレて来ると云うような馬鹿があるか。僕は
登楼は
為ない。為ないけれども、僕が
一度び奮発して楼に登れば、君達の百倍
被待て見せよう。君等のようなソンナ野暮な事をするなら
止して
仕舞え。ドウセ登楼などの出来そうな
柄でない。
田舎者めが、都会に出て来て茶屋遊の
ABC を学んで居るなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞと云うような調子で
哦鳴り廻って、実際に
於てその哦鳴る本人は決して浮気でない。ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。
能く世間にある徳行の君子なんて云う学者が、ムヅ/\してシント考えて、他人の
為ることを悪い/\と心の中で思て不平を
呑で居る者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒に
戯れて
洒蛙々々として居るから
却て面白い。
酒の話は
幾らもあるが、安政二年の春、始めて長崎から出て緒方の塾に入門したその
即日に、在塾の一書生が始めて私に
遇て
云うには、「君は
何処から来たか。「長崎から来たと
云うのが話の始まりで、その書生の云うに、「
爾うか、以来は懇親にお
交際したい。
就ては酒を
一献酌もうではないかと云うから、私が
之に答えて、「始めてお目に
掛て自分の事を云うようであるが、私は元来の
酒客、
然かも
大酒だ。一献酌もうとは
有難い、
是非お
供致したい、
早速お供致したい。だが念の
為めに申して置くが、私には金はない、実は長崎から出て末たばかりで、塾で修業するその学費さえ
甚だ怪しい。有るか無いか分らない。
矧や酒を飲むなどゝ云う金は一銭もない。
是れだけは念の為めにお話して置くが、酒を飲みにお
誘とは誠に
辱ない。是非お供致そうと
斯う出掛けた。所がその書生の云うに、「そんな馬鹿げた事があるものか、酒を飲みに行けば金の
要るのは
当然の話だ。
夫ればかりの金のない
筈はないじゃないかと云う。「何と云われても、ない金はないが、
折角飲みに行こうと云うお誘だから是非行きたいものじゃと云うのが
物分れでその日は
仕舞い、翌日も屋敷から通って塾に行てその男に
出遇い、「昨日のお話は
立消になったが、
如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい連れて
行て
呉れないか、どうも行きたいと
此方から
促した処が、馬鹿
云うなと
云うような事で、お別れになって
仕舞た。
ソレカラ
一月経ち
二月、
三月経って、
此方もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知れば顔も知ると云うことになって当り前に勉強して居る。
一日その今の男を
引捕まえた。引捕まえて面談、「お前は覚えて
居るだろう、
乃公が長崎から来て始めて入門したその日に何と
云た、酒を飲みに行こうと云たじゃないか。その意味は新入生と云うものは多少金がある、
之を
誘出して酒を飲もうと
斯う云う
考だろう。言わずとも
分て居る。
彼の時に乃公が何と云た、乃公は酒は飲みたくて
堪らないけれども金がないから飲むことは出来ないと
刎付けて、その翌日は又
此方から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。
能く考えて見ろ。
憚り
乍ら諭吉だからその
位に強く云たのだ。乃公はその時には
自から決する処があった。お前が
愚図々々云うなら即席に
叩倒して先生の処に
引摺て
行て
遣ろうと思ったその決心が
顔色に
顕れて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに
引込んで
仕舞た。
如何にしても済まない
奴だ。斯う云う奴のあるのは塾の
為めには
獅子身中の虫と云うものだ。こんな奴が居て塾を卑劣にするのだ。以来新入生に
遇て
仮初にも
左様な事を云うと、乃公は他人の事とは思わぬぞ。
直ぐにお前を
捕まえて、誰とも云わず先生の前に連れて行て、先生に裁判して
貰うが
宜しいか。心得て居ろと
酷く
懲しめて
遣た事があった。
その後私の学問も少しは進歩した
折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて
遂に私が塾長になった。
扨塾長になったからと
云て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、
唯塾中一番
六かしい原書を
会読するときその
会頭を勤める
位のことで、同窓生の
交際に少しも
軽重はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の
間にはあらん限りの活動ではないどうかと
云えば
先ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を
以て人を感化するなど云う
鹿爪らしい事を考える
訳けもない。又塾風を
善くすれば先生に対しての御奉公、
御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう
筈もないが、唯私の本来
仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を
貪らず、人の金を借用せず、唯の
百文も借りたることはないその上に、品行は
清浄潔白にして
俯仰天地に
愧ずと云う、
自から
外の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア
一口に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして
遣ろうと云うような血気の
威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又
大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は
更らに覚えはなかったのです。
併し何でも
爾う威張り廻って暴れたのが、塾の
為めに悪い事もあろう、又
自から役に
立たこともあるだろうと思う。
若し役に立て居れば
夫れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
左様云えば何か私が緒方塾の塾長で
頻りに
威張て自然に塾の
風を
矯正したように
聞ゆるけれども、又一方から見れば酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う。塾長になっても
相替らず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から
貰う少々ばかりの
家禄で暮して居る、私は塾長になってから
表向に先生
家の
賄を受けて、その上に新書生が入門するとき先生
家に
束脩を納めて同時に塾長へも
金貳朱を
[#「貳朱を」は底本では「※[#「弋+頁」、74-10]朱を」]呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には
一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから
小遣銭には
沢山で、
是れが
大抵酒の代になる。
衣服は国の母が
手織木綿の
品を
送て
呉れて
夫れには心配がないから、少しでも
手許に金があれば
直に飲むことを考える。是れが
為めには同窓生の中で私に誘われてツイ/\
飲だ者も多かろう。
扨その飲みようも
至極お租末、殺風景で、
銭の乏しいときは酒屋で
三合か五合
買て来て塾中で
独り飲む。
夫れから少し都合の
宜い時には一朱か二朱
以て
一寸と料理茶屋に行く、是れは最上の
奢で容易に出来兼ねるから、
先ず
度々行くのは
鶏肉屋、夫れよりモット便利なのは牛肉屋だ。その時大阪中で
牛鍋を
喰わせる処は
唯二軒ある。一軒は
難波橋の
南詰、一軒は
新町の
廓の
側にあって、最下等の店だから、
凡そ人間らしい人で
出入する者は決してない。
文身だらけの町の
破落戸と緒方の書生ばかりが得意の
定客だ。
何処から取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には
頓着なし、
一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬くて臭かった。
当時は士族の世の中だから皆大小は
挟して居る、けれども
内塾生五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、
双刀はチャント
持て居るその
外、塾中に
二腰か
三腰もあったが、
跡は皆質に
置て
仕舞て、塾生の
誰か所持して居るその刀が
恰も共有物で、
是れでも
差支のないと云うは、
銘々倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、不断は
脇差一本、たゞ丸腰にならぬ
丈けの事であったから。
夫れから大阪は
暖い処だから冬は難渋な事はないが、夏は真実の
裸体、
褌も
襦袢も何もない
真裸体。
勿論飯を
喫う時と
会読をする時には
自から遠慮するから何か一枚ちょいと
引掛ける、中にも
絽の羽織を真裸体の上に着てる者が多い。
是れは余程おかしな
風で、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。食事の時には
迚も座って
喰うなんと
云うことは出来た話でない。足も
踏立てられぬ
板敷だから、皆
上草履を
穿て
立て喰う。一度は銘々に
別けてやったこともあるけれども、
爾うは続かぬ。お鉢が
其処に出してあるから、銘々に茶碗に
盛て
百鬼立食。ソンナ
訳けだから
食物の
価も勿論安い。お
菜は一六が
葱と薩摩芋の
難波煮、五十が
豆腐汁、三八が
蜆汁と云うようになって居て、今日は何か出ると云うことは
極って居る。
裸体の事に
就て奇談がある。
或る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると
一人の
思付に、この酒を
彼の高い
物干の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに
持出そうとした処が、物干の上に
下婢が三、四人涼んで居る。
是れは
困た、今
彼処で飲むと
彼奴等が奥に
行て何か
饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州
生に
松岡勇記と云う男がある。
至極元気の
宜い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に
彼の女共を物干から
逐払て見せようと云いながら、
真裸体で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ
傾向きに大の字なりに
成て倒れた。この
風体を見ては
流石の
下婢も
其処に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆
下りて
仕舞た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと
云う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に
飲だことがある。
又
或るとき
是れは私の大失策、或る
夜私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を
飲で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。
夫れから
真裸体で飛起て、
階子段を
飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。
何うにも
斯うにも逃げようにも逃げられず、
真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退
窮して実に身の
置処がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に
引込で
仕舞た。翌朝
御託に出て昨夜は誠に失礼
仕りましたと
陳べる
訳けにも行かず、
到頭末代御挨拶なしに
済で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に
行て緒方の家を尋ねて、この
階子段の
下だったと四十年
前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。
塾員は不規則と
云わんか不整頓と云わんか乱暴
狼藉、丸で物事に
無頓着。その無頓着の
極は世間で
云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に
止めない。例えば、塾の事であるから
勿論桶だの
丼だの皿などの、あろう
筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら
七輪もあれば鍋もあって、物を煮て
喰うと云うような事を不断
遣て居る、その
趣は
恰も手鍋
世帯の台所見たような事を机の
周囲で
遣て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで
洗手盥も
金盥も一切
食物調理の道具になって、暑中など
何処からか
素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で
湯煮て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を
持て来て、その中で
冷素麺にして、
汁を
拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その
外、
肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。
夫れ
所ではない。
虱は塾中永住の動物で、
誰れ一人も
之を
免かれることは出来ない。
一寸と
裸体になれば
五疋も十疋も
捕るに
造作はない。
春先き少し暖気になると羽織の襟に
匍出すことがある。
或る書生の説に、ドウダ、
吾々の虱は大阪の焼芋に似て居る。
冬中が
真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月
蚤と交代して
引込み、九月頃
新芋が町に出ると吾々の虱も
復た出て来るのは
可笑しいと
云た事がある。私は一案を
工風し、
抑も虱を殺すに熱湯を用うるは
洗濯婆の旧筆法で面白くない、
乃公が一発で殺して見せようと云て、厳冬の
霜夜に
襦袢を
物干に
洒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、
曾て
誰れかに
聞たことがあるから
遣て見たのです。
そんな
訳けだから塾中の書生に身なりの立派な者は
先ず少ない。そのくせ市中の縁日など
云えば夜分
屹度出て行く。行くと往来の群集、
就中娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方に
避けるその様子は、何か穢多でも出て来て
夫れを
穢ながるようだ。
如何も
仕方がない。往来の人から見て穢多のように思う
筈だ。
或るとき
難波橋の
吾々得意の
牛鍋屋の
親爺が豚を買出して来て、
牛屋商売であるが気の弱い
奴で、自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。夫れから親爺に
逢て、「殺して
遣るが、殺す代りに何を
呉れるか」――「
左様ですな」――「頭を呉れるか」――「頭なら上げましょう。」夫れから殺しに
行た。
此方は
流石に生理学者で、動物を殺すに
窒塞させれば
訳けはないと云うことを
知て居る。幸いその牛屋は
河岸端であるから、
其処へ
連て
行て四足を
縛て水に
突込で
直ぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥から
鉈を借りて来て、
先ず解剖的に脳だの眼だの
能く/\調べて、
散々いじくった跡を煮て
喰たことがある。
是れは牛屋の主人から穢多のように
見込れたのでしょう。
それから又
或時には
斯う
云う事があった。
道修町の
薬種屋に丹波か丹後から熊が来たと云う
触込み。
或る医者の紹介で、
後学の
為め解剖を拝見致したいから誰か来て熊を解剖して
呉れぬかと塾に
云て来た。「それは面白い」。当時緒方の書生は中々解剖と云うことに熱心であるから、
早速行て
遣ろうと云うので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。
夫から解剖して
是れが心臓で是れが肺、是れが
肝と説明して
遣た所が、「誠に
有難い」と云て薬種屋も医者もふっと帰って
仕舞た。その実は彼等の
考に、緒方の書生に解剖して貰えば
無疵に
熊胆が取れると云うことを知て居るものだから、解剖に託して
熊胆が出るや
否や
帰て仕舞たと云う事がチャンと
分たから、書生さん中々
了簡しない。是れは一番こねくって遣ろうと、塾中の衆議一決、
直にそれ/″\
掛りの
手分けをした。塾中に雄弁
滔々と
能く
喋舌て誠に剛情なシツコイ男がある、
田中発太郎(今は
新吾と改名して加賀金沢に居る)と云う、是れが
応接掛、それから私が
掛合手紙の原案者で、信州飯山から来て居る書生で
菱湖風の書を
善く書く
沼田芸平と
云う男が原案の清書する。
夫れから先方へ使者に行くのは
誰れ、脅迫するのは誰れと、どうにも
斯うにも手に余る
奴ばかりで、
動もすれば
手短に
打毀しに行くと云うような
風を見せる奴もある。又
彼方から来れば
捏くる奴が控えて居る。何でも六、七人
手勢を
揃えて
拈込で、理屈を述べることは筆にも口にも
隙はない。応接掛りは不断の
真裸体に似ず、
袴羽織にチャント
脇差を
挟して緩急剛柔、ツマリ学医の
面目云々を
楯にして剛情な理屈を云うから、サア先方の医者も
困て
仕舞い、そこで
平あやまりだと云う。
只謝るだけで済めば
宜いが、酒を五
升に
鶏と魚か何かを
持て来て、それで手を
拍て塾中で
大に飲みました。
それに
引換えて
此方から取られたことがある。
道頓堀の芝居に
与力や
同心のような役人が見廻りに行くと、スット
桟敷に
通て、芝居の
者共が茶を
持て来る菓子を持て来るなどして、
大威張りで芝居をたゞ見る。兼てその様子を
知て居るから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を
挟して
宗十郎頭巾を
冠て、その役人の真似をして
度々行て、首尾
能く芝居見物して居た。所が
度重なれば
顕われるの
諺に
洩れず、
或る日、
本者が来た。サア
此方は何とも
云われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時はこねくられたとも何とも、進退
谷まり大騒ぎになって、
夫れから
玉造の与力に少し
由縁を得て、ソレに
泣付て
内済を
頼で、ヤット無事に収まった。そのとき酒を
持て行たり
肴を持て行たりして、何でも金にして
三歩ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の
高橋順益と云う男が
頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、この事を不安心に思うて、「それは余り
宜くなかろう、マサカの時は大変だからと
云たが
肯ない。「
何に
訳けはない、
自から方便ありなんてヅウ/″\しく
遣て居たが、とう/\
捕まったのが
可笑しい
所か一時
大心配をした。
それから時としては
斯う云う事もあった。その乱暴さ加減は今人の
思寄らぬことだ。警察がなかったから云わば何でも勝手次第である。元来大阪の町人は
極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると
野次馬が出て来て滅茶苦茶にして
仕舞うが、大阪では野次馬は
迚ても出て来ない。夏の事で夕方
飯を
喰てブラ/\出て行く。
申合をして市中で大喧嘩の真似をする。お互に痛くないように
大造な剣幕で大きな声で
怒鳴て
掴合い
打合うだろう。
爾うするとその辺の店はバタ/\片付けて戸を締めて仕舞うて
寂りとなる。喧嘩と
云た所が
唯それだけの事で
外に意味はない。その法は同類が二、三人ずつ
分れて一番繁昌な
賑やかな処で双方から出逢うような
仕組にするから、賑やかな処と
云えば
先ず遊廓の近所、
新町九軒の
辺で
常極りに
遣て居たが、
併し余り一箇所で遣て
化の皮が
顕れるとイカヌから、今夜は道頓堀で
遣ろう、
順慶町で遣ろうと云て遣たこともある。信州の
沼田芸平などは
余ほど喧嘩の
上手であった。
それから一度は
斯う
云う事があった。私と先輩の同窓生で
久留米の
松下元芳と云う医者と二人
連で、
御霊と云う
宮地に行て
夜見世の植木を
冷かしてる中に、植木屋が、「旦那さん悪さをしてはいけまへんと
云たのは、
吾々の
風体を見て万引をしたと
云う意味だから、サア
了簡しない。丸で弁天小僧見たように
拈繰返した。「何でもこの野郎を
打殺して
仕舞え。理屈を云わずに打殺して仕舞えと私が怒鳴る。松下は
慰めるような
風をして、「マア殺さぬでも
宜いじゃないか。「ヤア
面倒だ、
一打に
打殺して仕舞うから
止めなさんなと、
夫れ
是れする中に往来の人は黒山のように集まって
大混雑になって来たから、
此方は
尚お面白がって
威張て居ると、御霊の
善哉屋の
餅搗か何かして居る
角力取が仲裁に
這入て来て、「どうか
宥して
遣て下さいと云うから、「よし貴様が
中に
這入れば宥して
遣る。
併し明日の晩
此処に見世を出すと打
殺して仕舞うぞ。折角中に
這入たから今夜は宥して遣るからと云て、翌晩
行て見たら、正直な奴だ、植木屋の処だけ
土場見世を休んで居た。今のように
一寸も警察と云うものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪い事をしない、
一寸この植木見世
位の話で
実のある悪事は決してしない。
私が一度
大に恐れたことは、
是れも
御霊の近処で
上方に行われる
砂持と云う祭礼のような事があって、
町中の若い者が百人も二百人も
灯籠を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人して
之を見物して居る中に、私が
如何いう気であったか、
何れ酒の機嫌でしょう、
杖か何かでその頭の灯籠を
打落して
遣た。スルトその
連中の
奴と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と
云えば、理非を
分たず打殺して川に
投り込む
習わしだから、私は本当に怖かった。何でも
逃げるに
若かずと覚悟をして、
跣になって堂島の方に逃げた。その時私は
脇差を一本
挟して居たから、
若し
追付かるようになれば
後向て
進で
斬るより
外仕方がない。
斬ては誠に
不味い。
仮初にも人に
疵を付ける
了簡はないから、
唯一生懸命に
駈けて、堂島五丁目の
奥平の倉屋敷に
飛込でホット
呼吸をした事がある。
又大阪の東北の
方に
葭屋橋と云う橋があるその橋手前の処を築地と
云て、
在昔は誠に
如何な
家ばかり並んで居て、マア
待合をする地獄屋とでも云うような内実
穢ない町であったが、その築地の入口の
角に地蔵様か
金比羅様か知らん小さな堂がある。中々繁昌の様子で、
其処に色々な
額が上げてある。
或は男女の拝んでる処が
描いてある、何か封書が順に
貼付けてある、又は
髻が
切て
結い付けてある。
夫れを昼の
中に見て置て、夜になるとその封書や髻のあるのを
引さらえて塾に
持て帰て開封して見ると、
種々様々の
願が掛けてあるから面白い。「ハヽア
是れは
博奕を
打た奴が
止ると云うのか。是れは禁酒だ。是れは難船に助かったお礼。
此方のは
女狂にこり/\した奴だ。
夫れは何歳の娘が妙な事を念じて居るなどゝ、
唯それを見るのが面白くて毎度
遣た事だが、
兎に
角に人の一心を
籠めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生に
逢ては
仕方がない。
夫れから塾中の奇談を
云うと、そのときの塾生は
大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か
総髪で国から出て来るけれども、大阪の都会に居る
間は
半髪になって天下普通の武家の
風がして見たい。今の真宗坊主が毛を少し
延ばして
当前の断髪の真似をするような
訳けで、内実の医者坊主が半髪になって刀を
挟して
威張るのを嬉しがって居る。その時、江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男は
或る徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した
葵の
紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で
太刀作の刀を
挟てると云う風だから、
如何にも
見栄があって立派な男であるが、
如何も
身持が
善くない。ソコデ私が或る日、手塚に
向て、「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何は
扨置き北の新地に行くことは
止しなさいと
云たら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて「アヽ新地か、今思出しても
忌だ。決して行かない。「それなら
屹度君に教えて
遣るけれども、マダ疑わしい。行かないと云う
証文を書け。「
宜しい
如何な事でも書くと云うから、
云々今後屹度勉強する、
若し違約をすれば坊主にされても
苦からずと云う証文を書かせて私の手に
取て置て、約束の通りに毎日別段に教えて居た所が、その後手塚が真実勉強するから面白くない。
斯う
云うのは全く
此方が悪い。人の勉強するのを面白くないとは
怪しからぬ事だけれども、何分
興がないから
窃と両三人に相談して、「
彼奴の
馴染の遊女は何と云う奴か
知ら。「それは
直ぐに
分る、何々という奴。「よし、それならば一つ手紙を
遣ろうと、
夫れから私が遊女風の手紙を書く。
片言交りに彼等の云いそうな事を並べ立て、何でも
彼の男は
無心を云われて居るに相違ないその無心は、
屹度麝香を
呉れろとか何とか云われた事があるに違いないと推察して、文句の中に「ソレあのとき
役足のじゃこはどておますと云うような、判じて読まねば分らぬような事を書入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、
併し私の
手蹟じゃ
不味いから長州の
松岡勇記と云う男が
御家流で女の手に
紛らわしく書いて、ソレカラ玄関の
取次をする書生に
云含めて、「
是れを新地から来たと
云て
持て行け。併し事実を云えば
打撲るぞ。
宜しいかと脅迫して、夫れから取次が本人の処に持て
行て、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え
隠れに様子を
窺うて居た所が、本人の手塚は
一人で
頻りにその手紙を見て居る。
麝香の無心があった事か
如何か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋
順益の
思付で
余ほど
善く出来てる。そんな事で
如何やら
斯うやら
遂に本人をしゃくり出して
仕舞たのは罪の深い事だ。二、三日は
止まって居たが果して
行たから、ソリャ
締めたと共謀者は
待て居る。
翌朝帰て平気で居るから、
此方も平気で、私が
鋏を持て
行てひょいと
引捕えた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと
云て、
髻を
捕えて鋏をガチャ/\云わせると、当人は
真面目になって手を合せて拝む。そうすると共謀者
中から仲裁人が出て来て、「福澤、余り
酷いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の中に、
馴合の
中人が段々
取持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や
鶏を買わして、一処に飲みながら又
冷かして、「お願いだ、もう一度行て
呉れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが
自から
切諫になって居たこともあろう。
同窓生の
間には色々な事のあるもので、肥後から来て居た
山田謙輔と云う書生は
極々の
御幣担で、
しの字を言わぬ。その時、今の市川団十郎の親の
海老蔵が道頓堀の芝居に出て居るときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵の
よばいを見るなんて云う
位な御幣担だから、性質は
至極立派な人物だけれとも、
如何も蘭学書生の気に入らぬ
筈だ。何か話の
端には
之を
愚弄して居ると、山田の云うに「福澤々々、君のように無法な事ばかり
云うが、マア
能く考えて
見給え。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼に逢うと鶴を台に戴せて
担で来るのを見ると
何方が
宜いかと云うから、私は、「
夫れは知れた事だ。
死人は
喰われんから鶴の方が
宜い。けれども鶴だって
乃公に喰わせなければ
死人も同じ事だと答えたような
塩梅式で、
何時も
冷かして面白がって居る中に、
或るとき
長与専斎か
誰れかと相談して、
彼奴を一番大に
遣てやろうじゃないかと
一工風して、当人の不在の
間にその
硯に紙を巻いて
位牌を
拵えて、長与の書が
旨いから立派に何々院何々
居士と云う山田の
法名を書いて机の上に置て、当人の
飯を喰う茶碗に灰を入れて線香を立てゝ位牌の前にチャント供えて置た所が、
帰て来て之を見て
忌な顔をしたとも何とも、
真青になって腹を立てゝ居たが、私共は
如何も怖かった。
若しも短気な男なら
切付けて来たかも知れないから。
夫れから又一度
遣た
後で怖いと
思たのは人をだまして
河豚を
喰わせた事だ。私は大阪に居るとき
颯々と河豚も喰えば河豚の
肝も
喰て居た。
或る時、
芸州仁方から来て居た書生、
三刀元寛と
云う男に、
鯛の
味噌漬を
貰て来たが喰わぬかと
云うと、「
有難い、成程
宜い味がすると、
悦んで喰て
仕舞て二時間ばかり
経てから、「イヤ
可愛そうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。
食物の消化時間は
大抵知てるだろう、今
吐剤を
飲でも無益だ。河豚の毒が
嘔かれるなら
嘔て見ろと
云たら、三刀も医者の事だから
能く
分て居る。サア気を
揉で私に
武者振付くように腹を立てたが、私も
後になって余り
洒落に念が
入過ぎたと思て心配した。随分
間違の生じ
易い話だから。
前に
云う通り
御霊の植木
見世で万引と疑われたが、疑われる
筈だ、緒方の書生は本当に万引をして居たその万引と云うは、
呉服店で
反物なんど云う念の
入た事ではない、料理茶屋で
飲だ帰りに
猪口だの小皿だの色々手ごろな品を
窃と盗んで来るような万引である。同窓生互に
夫れを手柄のようにして居るから、送別会などゝ云う大会のときには
穫物も多い。中には
昨夜の会で
団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し
吸物椀の
蓋を
袂にする者もある。又
或る奴は、君達がそんな
半端物を挙げて来るのはまだ
拙ない。
乃公の獲物を拝見し給えと
云て、小皿を十人前
揃えて
手拭に包んで来たこともある。今思えば
是れは茶屋でもトックに
知て居ながら黙って通して、実はその盗品の勘定も
払の内に
這入て居るに相違ない、毎度の事でお
極りの
盗坊だから。
その小皿に縁のある一奇談は、
或る夏の事である、夜十時過ぎになって酒が飲みたくなって、
嗚呼飲みたいと一人が
云うと、僕も
爾うだと云う者が
直に四、五人出来た。
所がチャント門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に
開けさして、
鍋島の浜と云う
納涼の
葭簀張で、
不味いけれども
芋蛸汁か何かで安い酒を
飲で、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時
過でもあったか、
難波橋の上に来たら、
下流の方で
茶船に
乗てジャラ/\三味線を鳴らして騒いで居る奴がある。「あんな事をして居やがる。
此方は百五十か
其処辺の金を
見付出して
漸く
一盃飲で帰る所だ。
忌々敷い奴等だ。あんな奴があるから
此方等が貧乏するのだと云いさま、私の
持てる小皿を二、三枚
投付けたら、一番
仕舞の一枚で三味線の
音がプッツリ
止んだ。その時は急いで逃げたから人が
怪我をしたかどうか
分らなかった。
所が不思議にも一箇月ばかり
経て
其れが
能く
分った。塾の一書生が北の新地に
行て
何処かの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に、「世の中には
酷い奴もある。一箇月ばかり前の
夜に私がお客さんと舟で
難波橋の下で涼んで居たら、橋の上からお皿を投げて、
丁度私の三味線に
中って
裏表の皮を
打抜きましたが、本当に危ない事で、
先ず/\怪我をせんのが
仕合でした。
何処の
奴か四、五人連れでその皿を投げて
置て南の方にドン/″\逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるものと、
斯う/\芸者が話して居たと
云うのを、私共は
夫れを
聞て
下手人にはチャント覚えがあるけれども、云えば面倒だからその同窓の書生にもその時には隠して置いた。
又私は酒の
為めに生涯の
大損をして、その損害は今日までも身に
附て居ると云うその次第は、
緒方の塾に学問修業しながら
兎角酒を
飲で
宜いことは少しもない。
是れは
済まぬ事だと思い、
恰も一念こゝに
発起したように断然酒を
止めた。スルト塾中の
大評判ではない
大笑で、「ヤア福澤が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ
可笑しい。
何時まで続くだろう。
迚も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いないなんて
冷かす者ばかりであるが、私も中々剛情に
辛抱して十日も十五日も飲まずに居ると、親友の高橋
順益が、「君の辛抱はエライ。能くも続く。見上げて
遣るぞ。所が
凡そ人間の習慣は、
仮令い悪い事でも
頓に禁ずることは
宜しくない。到底出来ない事だから、君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに
烟草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては
叶わぬと親切らしく
云う。
所が私は烟草が大嫌いで、
是れまでも同塾生の烟草を
喫むのを散々に悪く云うて、「こんな無益な不養生な
訳の分らぬ物を
喫む
奴の気が知れない。何は
扨置き臭くて
穢なくて
堪らん。
乃公の
側では喫んで
呉れるななんて、
愛想づかしの
悪口を
云て居たから、今になって自分が烟草を始めるのは
如何もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けば
亦無理でもない。「そんなら
遣て見ようかと
云てそろ/\
試ると、塾中の者が烟草を呉れたり、
烟管を貸したり、中には
是れは
極く軽い烟草だと云て
態々買て来て呉れる者もあると云うような騒ぎは、何も本当な深切でも何でもない。実は私が不断烟草の事を悪くばかり云て居たものだから、今度は
彼奴を
喫烟者にして
遣ろうと、寄って
掛って私を
愚弄するのは分って居るけれども、
此方は一生懸命禁酒の熱心だから、
忌な
烟を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らして居る中に、臭い
辛いものが自然に臭くも辛くもなく、段々風味が
善くなって来た。
凡そ一箇月ばかり
経て本当の喫烟客になった。処が例の酒だ。何としても忘れられない。
卑怯とは知りながら
一寸と
一盃遣て見ると
堪らない。モウ一盃、これでお
仕舞と
力んでも、
徳利を
振て見て音がすれば我慢が出来ない。とう/\
三合の酒を皆
飲で
仕舞て、又翌日は五合飲む。五合、三合、
従前の通りになって、
去らば烟草の方は
喫まぬむかしの通りにしようとしても
是れも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも
訳けが
分らない。
迚も
叶わぬ禁酒の
発心、一箇月の大馬鹿をして酒と
烟草と両刀
遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども烟草は
止みそうにもせず、衛生の
為め
自から
作せる損害と申して
一言の弁解はありません。
塾中
兎角貧生が多いので料理茶屋に
行て旨い魚を
喰うことは
先ず
六かしい。夜になると天神橋か天満橋の
橋詰に
魚市が立つ。マア
云わば魚の
残物のようなもので
直が安い。
夫れを
買て来て
洗水盥で
洗て、机の
毀れたのか何かを
俎にして、
小柄を
以て
拵えると
云うような事は毎度
遣て居たが、私は兼て手の
先きが
利いてるから
何時でも
魚洗の役目に廻って居た。頃は三月、桃の花の時節で、大阪の城の東に
桃山と云う処があって、
盛りだと云うから花見に行こうと相談が出来た。
迚も
彼方に
行て茶屋で
飲食いしようと云うことは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の
残物を買て来て、その
外、氷豆腐だの
野葉物だの
買調えて、朝早くから起きて
怱々に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから酒を買て、
凡そ十四、五人も
同伴があったろう、弁当を
順持にして桃山に行て、さん/″\飲食いして
宜い機嫌になって居るその時に、
不図西の方を見ると大阪の南に
当て大火事だ。日は
余程落ちて昔の七ツ
過。サア大変だ。
丁度その日に
長与専斎が道頓堀の芝居を見に行て居る。
吾々花見
連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも構わないけれども、
長与が
行て居る。
若しや長与が
焼死はせぬか。何でも長与を枚い出さなければならぬと
云うので、
桃山から大阪
迄、二、三里の道をどん/″\
駈けて、道頓堀に
駈付けて見た所が、
疾うに焼けて
仕舞い、三芝居あったが三芝居とも焼けて、段々北の方に
焼延びて居る。長与は
如何したろうかと心配したものゝ、
迚も
捜す
訳けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与の事は
仕方がない。「火事を見物しようじゃないかと
云て、その火事の中へどん/\
這入て行た。所が
荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んで
遣ろうと云うので、
夜具包か何の包か、風呂敷包を
担いだり
箪笥を担いだり中々働いて、段々
進で行くと、その時大阪では焼ける家の柱に
綱を付けて家を
引倒すと云うことがあるその網を
引張って
呉れと云う。「よし来たとその綱を引張る。所が
握飯を
喰せる、酒を飲ませる。
如何も
堪えられぬ面白い話だ。散々酒を飲み握飯を
喰て八時頃にもなりましたろう。
夫れから一同塾に
帰た。所がマダ焼けて居る。「もう一度行こうではないかと又出掛けた。その時の大阪の火事と云うものは誠に楽なもので、火の
周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ
這入ると誠に
静なもので、
一人も人が居らぬ
位。どうもない。
只その周囲の処に人がドヤ/″\
群集して居るだけである。
夫れゆえ大きな声を出して
蹴破って中へ
飛込みさえすれば誠に楽な話だ。中には
火消の
黒人と緒方の書生だけで
大に働いた事があると
云うような
訳けで、随分活溌な事をやったことがありました。
一体塾生の乱暴と云うものは
是れまで申した通りであるが、その塾生同士
相互の
間柄と云うものは
至て仲の
宜いもので、決して
争などをしたことはない。
勿論議論はする、いろ/\の事に
就て互に論じ合うと云うことはあっても、決して喧嘩をするような事は
絶てない事で、
殊に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。
仮令い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば
赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでも
宜しい、義不義、口の
先きで自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても
苦くないと
云て、敵に
為り味方に為り、散々論じて
勝たり負けたりするのが面白いと云う
位な、毒のない議論は毎度大声で
遣て居たが、本当に顔を
赧らめて
如何あっても是非を
分って
了わなければならぬと云う
実の
入た議論をしたことは決してない。
凡そ
斯う云う
風で、外に出ても
亦内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故
一寸と
一目見た所では――今までの話だけを
開た所では、
如何にも学問どころの事ではなく
唯ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、
其処の一段に至ては決して
爾うでない。学問勉強と
云うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を
煩うて
幸に全快に及んだが、病中は
括枕で
坐蒲団か何かを
括って枕にして居たが、
追々元の体に
恢復して来た所で、
只の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が
一人あるその家来に、只の枕をして見たいから
持て来いと
云たが、枕がない、どんなに
捜してもないと云うので、
不図思付いた。
是れまで倉屋敷に一年ばかり居たが
遂ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は
何時でも構わぬ、
殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず
頻りに書を読んで居る。読書に
草臥れ眠くなって来れば、机の上に
突臥して眠るか、
或は床の間の
床側を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の
一度もしたことがない。その時に始めて自分で気が
付て、「
成程枕はない
筈だ、
是れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも
大抵趣が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、
凡そ勉強と
云うことに
就ては実にこの上に
為ようはないと云う程に勉強して居ました。
それから緒方の塾に
這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に
若し酒があれば酒を
飲で
初更に寝る。
一寝して目が
覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。
夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の
飯炊がコト/\飯を
焚く
仕度をする音が聞えると、それを
相図に又寝る。寝て
丁度飯の出来上った頃起きて、その
儘湯屋に
行て
朝湯に這入て、それから塾に
帰て
朝飯を
給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間
殆んど
常極りであった。
勿論衛生などゝ云うことは
頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も
喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか
或は
思出さなかったのか、
一寸でも
喧しく
云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば
身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを
無闇に喧しく云えば
却て
身体が弱くなると
思て居たのではないかと思われる。
それから塾で修行するその時の
仕方は
如何云う
塩梅であったかと申すと、
先ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に
如何して教えるかと云うと、その時江戸で
飜刻になって居る
和蘭の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には
先ずそのガランマチカを教え、
素読を
授る
傍に講釈をもして聞かせる。
之を一冊
読了るとセインタキスを又その
通にして教える。
如何やら
斯うやら二冊の文典が
解せるようになった所で
会読をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に
会頭が
一人あって、その会読するのを
聞て居て、出来不出来に
依て
白玉を附けたり
黒玉を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、
夫れから以上は
専ら自身
自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を
試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の
外に何もない。ソレモ
取集めて
僅か十部に足らず、
固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類
唯一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば
如何してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を
以て毎月六才
位会読をするのであるが、
之を写すに十人なら十人一緒に写す
訳けに行かないから、誰が先に写すかと
云うことは
籤で
定めるので、
扨その写しようは
如何すると云うに、その時には
勿論洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を
能く
磨て
真書で写す。それはどうも
埓が明かないから、その紙に
礬水をして、
夫れから筆は
鵞筆で以て写すのが
先ず一般の風であった。その
鵞筆と云うのは
如何云うものであるかと云うと、その時大阪の
薬種屋か何かに、鶴か
雁かは知らぬが、三寸ばかりに
切た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。
是れは
鰹の
釣道具にするものとやら聞て居た。
価は
至極安い物で、それを
買て、
磨澄ました
小刀で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう
訳けはない。日本の
墨壺と云うのは、磨た
墨汁を
綿か
毛氈の
切布に
浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、
只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。
斯う云う次第で、塾中誰でも
是非写さなければならぬから写本は中々上達して
上手である。一例を
挙ぐれば、
一人の人が原書を読むその
傍で、その読む声がちゃんと耳に
這入て、
颯々と写してスペルを誤ることがない。斯う云う
塩梅に読むと写すと
二人掛りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が
写丁ると又その次の人が写すと
云うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か
或は四、五枚より多くはない。
扨その写本の物理書、医書の
会読を
如何するかと云うに、講釈の
為人もなければ読んで聞かして
呉れる人もない。
内証で教えることも聞くことも書生間の
恥辱として、万々一も
之を犯す者はない。
唯自分
一人で
以てそれを
読砕かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に
便る
外に道はない。その辞書と云うものは、
此処にヅーフと云う写本の
字引が塾に一部ある。
是れは中々大部なもので、日本の紙で
凡そ三千枚ある。之を一部
拵えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た
和蘭のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う
独逸和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と
崇められ、
夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの
周囲に
寄合て見て居た。夫れからモウ一歩
立上るとウエーランドと
云う
和蘭の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで
分らなければウエーランドを見る。
所が初学の
間はウエーランドを見ても分る
気遣はない。
夫ゆえ
便る所は
只ヅーフのみ。
会読は一六とか三八とか
大抵日が
極って居て、いよ/\
明日が会読だと云うその晩は、
如何な
懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も
群をなして無言で字引を
引つゝ勉強して居る。夫れから
翌朝の会読になる。会読をするにも
籤で
以て
此処から此処までは誰と
極めてする。
会頭は
勿論原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、
若しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で
解し得た者は
白玉、
解し
傷うた者は
黒玉、夫れから自分の読む領分を
一寸でも
滞りなく立派に読んで
了ったと云う者は白い三角を付ける。
是れは只の
丸玉の三倍ぐらい優等な
印で、
凡そ塾中の等級は七、八級
位に分けてあった。
而して毎級第一番の上席を三ヶ月
占て居れば
登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も
聞て
遣り
至極深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の
自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に
逢うようなものだ。
爾う
云う
訳けで次第々々に昇級すれば、
殆んど塾中の原書を
読尽して云わば手を
空うするような事になる、その時には何か
六かしいものはないかと云うので、実用もない原書の
緒言とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで
会読をしたり、又は先生に講義を
願たこともある。私などは
即ちその講義聴聞者の一人でありしが、
之を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その
緻密なることその
放胆なること実に蘭学界の
一大家、名実共に
違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に
帰て朋友
相互に、「今日の先生の
彼の卓説は
如何だい。何だか
吾々は
頓に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
市中に出て
大に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、
大抵会読を
仕舞たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も
暇があると云う時に勝手次第に出て
行たので、会読の日に近くなると
所謂月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を
能く読むと
否とは人々の
才不才にも
依りますけれども、
兎も
角も外面を
胡魔化して何年居るから
登級するの卒業するのと
云うことは絶えてなく、
正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は
能く原書を読むことに達して居ました。
ヅーフの事に
就て
序ながら云うことがある。
如何かするとその時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して
貰いたいと云う注文を
申込で来たことがある。ソコでその写本と云うことが又書生の生活の
種子になった。当時の写本代は半紙一枚十行二十字詰で
何文と云う相場である。
処がヅーフ一枚は横文字三十行
位のもので、
夫れだけの横文字を写すと一枚十六
文、夫れから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、
只の写本に
較べると
余程割りが
宜しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその
半値八十文になる。註を写す者もあれば横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すと云うのであるから、合計して見ると中々大きな
金高になって、
自から書生の生活を助けて居ました。
今日より
考れば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば
白米一石が
三分二朱、酒が
一升百六十四文から二百文で、書生在塾の
入費は一箇月一分貳
朱から
[#「貳朱から」は底本では「※[#「弋+頁」、104-12]朱から」]一分三朱あれば足る。一分貳朱は
[#「貳朱は」は底本では「※[#「弋+頁」、104-13]朱は」]その時の相場で
凡そ
二貫四百文であるから、一日が百文より安い。
然るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余る程あるので、凡そ尋常一様の写本をして塾に居られるなどゝ
云うことは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレに
就て一例を
挙げれば
斯う
云うことがある。江戸は
流石に大名の居る処で、
啻にヅーフ
計りでなく蘭学書生の
為めに写本の注文は
盛にあったもので
自から
価が高い。大阪と
較べて見れば大変高い。加賀の金沢の
鈴木儀六と云う男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男が元来一文なしに江戸に居て、
辛苦して写本で
以て自分の身を立てたその上に金を貯えた。
凡そ一、二年辛抱して金を二十両ばかり
拵えて、大阪に出て来て
到頭その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に
帰た。
是れなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木の
考では、写本をして金を取るのは江戸が
宜いが、修業するには
如何しても大阪でなければ本当な事が出来ないと目的を定めて、ソレでその金を
持て来たのであると話して居ました。
夫れから又一方では今日のように
都て工芸技術の
種子と云うものがなかった。蒸気機関などは日本国中で見ようと
云てもありはせぬ。
化学の道具にせよ、
何処にも
揃ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれども
爾う
云う中に居ながら、器械の事にせよ化学の事にせよ大体の道理は
知て居るから、
如何かして実地を試みたいものだと云うので、原書を見てその図を写して
似寄の物を
拵えると云うことに
就ては中々骨を折りました。私が長崎に居るとき塩酸
亜鉛があれば鉄にも
錫を附けることが出来ると云うことを
聞て
知て居る。
夫れまで日本では
松脂ばかりを用いて居たが、松脂では
銅の
類に錫を流して
鍍金することは出来る。
唐金の
鍋に
白みを掛けるようなもので、
鋳掛屋の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くと云うので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとした所が、
薬店に行ても塩酸のある
気遣はない。自分で拵えなければならぬ。塩酸を拵える法は書物で分る。その方法に
依て
何うやら
斯うやら塩酸を拵えて、
之に亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬ事が立派に出来たと云うようなことが面白くて
堪らぬ。
或は又ヨジユムを作って見ようではないかと、色々
書籍を
取調べ、
天満の
八百屋市に行て昆布
荒布のような海草類を
買て来て、
夫れを
炮烙で
煎て
如何云う
風にすれば出来ると云うので、
真黒になって
遣たけれども
是れは
到頭出来ない。それから今度は
砂製造の野心を起して、
先ず第一の必要は塩酸
暗謨尼亜であるが、是れも
勿論薬店にある品物でない。その暗謨尼亜を造るには
如何するかと云えば、
骨……骨よりもっと世話なしに出来るのは
鼈甲屋などに
馬爪の
削屑がいくらもあって
只呉れる。肥料にするかせぬか
分らぬが行きさえすれば呉れるから、それをドッサリ
貰て来て
徳利に入れて、徳利の
外面に土を塗り、又素焼の大きな
瓶を買て七輪にして
沢山火を起し、その
瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の
管を附けて瓶の外に出すなど色々趣向して、ドシ/″\火を
扇ぎ立てると管の
先きからタラ/\液が出て来る。
即ち
是れが
暗謨尼亜である。
至極旨く取れることは取れるが、
爰に難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも
云いようがない。
那の
馬爪、あんな
骨類を徳利に入れて
蒸焼にするのであるから実に
鼻持もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処で
遣るのであるから奥で
以て
堪らぬ。奥で堪らぬばかりではない。
流石の乱暴書生も
是れには
辟易して
迚も居られない。夕方
湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えると云う
訳け。
仮令い
真裸体で
遣ても
身体が臭いと
云て人に
忌がられる。
勿論製造の本人
等は
如何でも
斯うでもして
砂と云う物を
拵えて見ましょうと云う熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、
頻りに試みて居るけれども、
何分周辺の者が
喧しい。下女下男
迄も胸が悪くて
御飯が
給べられないと訴える。
其れ
是れの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、
粉のような物ばかりで結晶しない。
如何しても完全な
砂にならない、
加うるに
喧しくて/\
堪らぬから一旦
罷めにした。けれども
気強い男はマダ罷めない。
折角仕掛った物が出来ないと
云ては学者の
外聞が悪いとか何とか
云うような
訳けで、私だの久留米の
松下元芳、
鶴田仙庵等は
思切たが、二、三の人は
尚お
遣た。
如何したかと云うと、
淀川の一番粗末な船を借りて、船頭を
一人雇うて、その船に例の
瓶の
七輪を
積込んで、船中で今の通りの臭い仕事を
遣るは
宜いが、
矢張り煙が
立て風が吹くと、その煙が
陸の方へ
吹付けられるので、陸の方で喧しく云う。喧しく云えば船を動かして、川を
上ったり
下ったり、
川上の天神橋、
天満橋から、ズット
下の
玉江橋辺まで、
上下に
迯げて
廻て
遣たことがある。その男は
中村恭安と云う讃岐の
金比羅の医者であった。この
外にも犬猫は
勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度の事であったが、シテ見ると当時の蘭学書生は
如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬ処に読書研究、又実地の事に
就ても中々勉強したものだ。
製薬の事に
就ても奇談がある。
或るとき
硫酸を造ろうと云うので、様々
大骨折て不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、
之を精製して透明にしなければならぬと云うので、その日は
先ず茶碗に入れて棚の上に上げて
置た処が、鶴田仙庵が自分で之を忘れて、何かの
機にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から
冠り、
身体に
左までの
径我はなかったが、
丁度旧暦四月の頃で一枚の
袷をヅタ/″\にした事がある。
製薬には
兎角徳利が
入用だから、丁度
宜しい、塾の
近所の
丼池筋に
米藤と云う酒屋が塾の
御出入、この酒屋から酒を取寄せて、酒は
飲で
仕舞て徳利は
留置き、何本でもみんな製薬用にして返さぬと云うのだから、酒屋でも少し変に
思たと見え、
内々塾僕に
聞合せると、この
節書生さんは
中実の酒よりも徳利の方に用があると云うので、酒屋は大に驚き、その後何としても酒を
持て来なくなって
困た事がある。
又
筑前の国主、
黒田美濃守と
云う大名は、今の華族、黒田のお
祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に
出入して、
勿論筑前に
行くでもなければ江戸に行くでもない、
只大阪に居ながら黒田家の
御出入医と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸
出府、
或は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は
屹度中ノ嶋の筑前屋敷に
伺候して
御機嫌を伺うと云う常例であった。
或歳、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の
如く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅
早々私を呼ぶから、何事かと思て
行て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、
斯う云う原書が黒田侯の手に
這入ったと
云て見せて
呉れられたから、
一寸と借りて来たと
云う。
之を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を
和蘭に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、
就中エレキトルの事が
如何にも
詳に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を
知たと云うのは、
只纔に和蘭の学校
読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。
所がこの新舶来の物理書は英国の大家フ

ラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも
唯驚くばかりで、一見
直に
魂を奪われた。
夫れから私は先生に
向て、「
是れは誠に珍らしい原書で
御在ますが、
何時まで
此処に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「
左様さ。
何れ黒田侯は
二晩とやら大阪に泊ると云う。
御出立になるまでは、
彼処に
入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ
持て来て、「
如何だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は
雲霞の
如く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を
唯見たって何にも役に立たぬ。見ることは
止めにして、サア写すのだ。
併し千頁もある大部の書を皆写すことは
迚も
出来られないから、末段のエレキトルの処
丈け写そう。
一同筆紙墨の用意して
愡掛りだと云た所で
茲に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を
毀すことが出来ない。毀して
手分て
遣れば、三十人も五十人も居るから
瞬く
間に出来て
仕舞うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて
妙を得て居るから、
一人が原書を読むと一人は
之を耳に
聞て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が
鈍て来ると
直に
外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも
直に寝ると
斯う
云う
仕組にして、昼夜の別なく、
飯を
喰う
間も
煙草を
喫む
間も休まず、
一寸とも
隙なしに、
凡そ
二夜三日の
間に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して
読合まで出来て
仕舞て、
紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら
外の処も写したいと
云たが
時日が許さない。マア/\
是れだけでも写したのは有難いと
云うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は
唯驚くのみ。
固より自分に買うと云う野心も起りはしない。
愈よ
今夕、侯の
御出立と
定まり、私共はその原書を
撫くり
廻し誠に親に
暇乞をするように
別を
惜んで
還したことがございました。
夫れから
後は塾中にエレキトルの説が全く
面目を
新にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して
憚りません。私などが今日でも電気の話を
聞て
凡そその方角の分るのは、全くこの写本の
御蔭である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後
度々今の黒田侯の方へ、ひょっと
彼の原書はなかろうかと問合せましたが、
彼方でも混雑の際であったから
如何なったか見当らぬと
云う。
可惜い事で
御在ます。
只今申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に
就ては
一寸とも
怠ったことはない。その時の
有様を申せば、江戸に居た書生が
折節大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から
態々江戸に学びに行くと云うものはない。行けば
則ち教えると云う方であった。
左れば大阪に
限て日本国中
粒選のエライ書生の居よう
訳けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。
然るに
何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。
勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、
夫れは人物の相違ではない。江戸と大阪と
自から事情が
違て居る。江戸の方では開国の
初とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く
且つ
急である。従て
聊かでも洋書を
解すことの出来る者を雇うとか、
或は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が
自から生計の道に近い。
極都合の
宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百
石の
侍になったと
云うことも
稀にはあった。
夫れに
引換て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を
遣ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。
夫れゆえ緒方の書生が幾年勉強して
何程エライ学者になっても、
頓と実際の仕事に縁がない。
即ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、
然らば何の
為めに苦学するかと云えば
一寸と説明はない。前途自分の
身体は
如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、
既に
已に焼けに
成て居る。
唯昼夜苦しんで
六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に
訳けの分らぬ身の
有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を
叩いて見れば、
自から楽しみがある。
之を
一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に
限て
斯様事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見
看る
影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯
貴人も
眼下に
見下すと云う
気位で、
唯六かしければ面白い、
苦中有楽、
苦即楽と
云う境遇であったと思われる。
喩えばこの薬は何に
利くか知らぬけれども、自分達より
外にこんな
苦い薬を
能く
呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと
呑で
遣ると云う
位の血気であったに違いはない。
若しも真実その苦学の目的
如何なんて問う者あるも、返答は
唯漠然たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の
開鎖論を云えば
固より開国なれども、
甚だしく
之を争う者もなく、唯
当の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも
蚊でも支那流は一切
打払いと
云うことは
何処となく
定まって居たようだ。儒者が
経史の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯
可笑しく思うのみ。
殊に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を
罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、
中ノ島に
花岡と云う漢医の大家があって、その塾の書生は
孰れも
福生と見え
服装も立派で、中々
以て
吾々蘭学生の
類でない。毎度往来に
出逢うて、
固より言葉も交えず互に
睨合うて
行違うその跡で、「
彼の
様ァ
如何だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。
空々寂々チンプンカンの講釈を
聞て、その中で古く
手垢の
附てる
奴が塾長だ。こんな奴等が二千年来
垢染みた
傷寒論を土産にして、国に
帰て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、
彼奴等を根絶やしにして
呼吸の
音を
止めて
遣るからなんてワイ/\
云たのは毎度の事であるが、
是れとても
此方に
如斯と云う
成算も何もない。
唯漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の
気焔を吐くばかりの事である。
兎に
角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが
却て
仕合で、江戸の書生よりも
能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の
行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。
左ればと
云て
只迂闊に本ばかり見て居るのは最も
宜しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の
行末のみ考えて、
如何したらば立身が出来るだろうか、
如何したらば金が手に
這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、
如何すれば旨い物を
喰い
好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、
齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は
自から
静にして居らなければならぬと云う理屈が
茲に出て来ようと思う。
私が大阪から江戸へ来たのは安政五年、二十五歳の時である。同年、江戸の
奥平の
邸から、
御用があるから来いと
云て、私を
呼に来た。それは江戸の邸に
岡見彦曹と
云う蘭学
好の人があって、この人は立派な身分のある上士族で、
如何かして江戸藩邸に蘭学の塾を開きたいと云うので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をして居た。
所で奥平家が私をその教師に使うので、その前、
松木弘
庵、
杉亨二と云うような学者を
雇うて居たような
訳けで、私が大阪に居ると云うことが
分たものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福澤を呼べと云うことになって、ソレで私を呼びに来たので、その時江戸
詰の家老には
奥平壹岐が来て居る。壹岐と私との関係に
就ては、私は
自から自慢をしても
宜いことがある。
是れは
如何しても悪感情がなければならぬ
筈、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と
一寸とも
戦たことがない。彼は私を敵視し
愚弄して居ると云うことは長崎を出た時の
様でチャント
分って居る。長崎を立つ時に、「貴様は中津に帰れ。
帰たら誰にこの手紙を渡せ。誰に
斯う伝言せよと命ずるからヘイ/\と
畏りながら、心の中では舌を出して、「馬鹿言え、
乃公は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞと云わぬばかりに、席を
蹴立てゝ出たことも、
後になれば
先方でも
知て居る。けれどもその後私は毎度本人に
逢うて
仮初にも
怨言を云た事のない所ではない、
態と旧恩を謝すると云う
趣ばかり装うて居る中に、又もやその大切な原書を
盗写したこともある。
先方も悪ければ
此方も十分悪い。けれども
唯私がその事を人に語らず
顔色にも見せずに、
御家老様と尊敬して居たから、
所謂国家老のお
坊さんで、今度私を江戸に
呼寄せる事に
就ても、家老に異議なく
直に決して
幸であったが、実を申せば
壹岐よりも私の方が
却て罪が深いようだ。
大阪から江戸に来るに就ては、何は
扨置き中津に
帰て一度母に
逢うて
別を告げて来ましょうと
云うので、中津に帰たその時は
虎列拉の
真盛りで、私の家の
近処まで病人だらけ、バタ/″\死にました。その流行病
最中、船に
乗て大阪に
着て
暫時逗留、ソレカラ江戸に
向て
出立と云うことにした所が、
凡そ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば道中
並に在勤中家来を一人
呉れるのが定例で、今度も私の江戸勤番に付て家来一人
振の金を渡して呉れた。けれども家来なんぞと云うことは思いも寄らぬ事で何も
要らぬ。けれども
茲に旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが
如何だ、実は
斯う
云う
訳けで金はあるぞと云うと、即席にどうぞ連れて
行て
呉れと
云たが
岡本周吉、
即ち
古川節蔵である(広島の人)。よし連れて行て
遣ろう。連れて行くが、君は
飯を
炊かなければならぬが
宜しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある。
鍋釜も貸して呉れるが、本当の家来を
止めにすれば
飯炊がない。その
代に連れて行くのだが
如何だ。「飯を炊く
位の事は何でもない、飯を炊こう。「それじゃ一緒に来いと云て、
夫れから私の荷物は同藩の人に頼んで、
道連は私と岡本、もう
一人備中の者で
原田磊蔵と云う
矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、
勿論歩く。その時は
丁度十月下旬で少々寒かったが
小春の時節、一日も
川止など云う災難に
遇わず
滞おりなく江戸に着て、
先ず
木挽町汐留の奥平屋敷に行た所が、
鉄砲洲に中屋敷がある、
其処の長屋を貸すと云うので、
早速岡本と私とその長屋に
住込で、両人自炊の
世帯持になった、夫れから同行の原田は
下谷練塀小路の
大医大槻俊斎先生の処へ
入込だ。江戸へ参れば
知己朋友は幾人も居て、段々面白くなって来た。
扨私が江戸に
参て鉄砲洲の奥平中屋敷に
住て居ると云う
中に、藩中の子弟が三人、五人ずつ学びに来るようになり、又他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授して居たが、前にも
云う通り大阪の書生は修業する
為に江戸に行くのではない、行けば教えに行くのだと云う
自から自負心があった。私も江戸に来て見た処で、全体江戸の蘭学社会は
如何云うものであるか知りたいものだと
思て居る
中に、
或る日
島村鼎甫の家に尋ねて行たことがある。
勿論緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の飜訳などして居た。私も
甚だ
能く
知て居るので、尋ねて参れば
何時も学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の飜訳
最中、その原書を
持出して云うには、この文の一節が
如何しても
分らないと云う。
夫れから私が
之を見た所が、
成程解し
悪い所だ。
依て主人に
向て、
是れは
外の朋友にも相談して見たかと
云えば、イヤもう親友誰々四、五人にも相談をして見たが
如何しても
分らぬと云うから、面白い、ソレじゃ僕が
之を
解して見せようと
云て、本当に見た所が中々
六かしい。
凡そ半時間ばかりも無言で考えた所で、チャント分った。一体
是れは
斯う云う意味であるが
如何だ、物事は
分て見ると
造作のないものだと云て、
主客共に喜びました。何でもその一節は光線と視力との関係を論じ、
蝋燭を二本
点けてその
灯光をどうかすると影法師が
如何とかなると云う随分
六かしい処で、島村の飜訳した
生理発蒙と云う訳書中にある
筈です。この一事で私も
窃に安心して、
先ず
是れならば江戸の学者も
左まで恐れることはないと思うたことがある。
それから又原書の不審な処を諸先輩に質問して窃にその力量を試したこともある。大阪に居る
中に毎度人の
読損うた処か人の読損いそうな処を
選出して、そうして
其れを私は分らない顔して不審を聞きに行くと、毎度の事で、学者先生と称して居る人が読損うて居るから、
此方は
却て満足だ。実は
欺て人を試験するようなもので、徳義上に
於て
相済まぬ罪なれども、壮年血気の熱心、
自から禁ずることが出来ない。
畢竟私が大阪に居る
間は同窓生と共に江戸の学者を
見下だして取るに足らないものだと
斯う思うて居ながらも、
只ソレを
空に信じて
宜い気になって居ては
大間違が起るから、
大抵江戸の学者の力量を試さなければならぬと思て、悪いこととは知りながら試験を
遣て見たのです。
ソコデ
以て蘭学社会の相場は大抵分て
先ず安心ではあったが、
扨又
此処に
大不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、
即ち安政六年、
五国条約と
云うものが発布になったので、横浜は
正しく
開けた
計りの処、ソコデ私は横浜に見物に
行た。その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居る
丈けで、
堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が
其処に
住で店を出して居る。
其処へ行て見た所が
一寸とも言葉が通じない。
此方の云うことも
分らなければ、
彼方の云うことも
勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの
貼紙も分らぬ。何を見ても私の
知て居る
文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。居留地をブラ/\歩く
中に
独逸人でキニツフルと云う商人の店に
打当た。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。
此方の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、
一寸と買物をしたりして江戸に
帰て来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、
丁度一昼夜歩いて居た
訳けだ。
横浜から
帰て、私は足の疲れではない、実に落胆して
仕舞た。
是れは/\どうも
仕方がない、今まで
数年の
間、
死物狂いになって
和蘭の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、
左りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。
彼処に
行れて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると
云うことは
予て
知て居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで
開けかゝって居る、
左すればこの
後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ
迚も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより
外に
仕方がないと、横浜から帰た翌日だ、
一度は落胆したが同時に又
新に
志を発して、
夫れから以来は一切万事英語と覚悟を
極めて、
扨その英語を学ぶと云うことに
就て
如何して
宜か
取付端がない。江戸中に
何処で英語を教えて居ると云う所のあろう
訳けもない。けれども段々
聞て見ると、その時に条約を結ぶと云うが
為めに、長崎の
通詞の
森山多吉郎と云う人が、江戸に来て幕府の御用を勤めて居る。その人が英語を
知て居ると云う噂を
聞出したから、ソコで森山の家に
行て習いましょうと
斯う思うて、その森山と云う人は小石川の水道町に住居して居たから、
早速その家に行て英語教授の事を
頼入ると、森山の云うに、昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども
折角習おうと
云うならば教えて進ぜよう、
就ては毎日出勤前、朝早く来いと云うことになって、その時私は
鉄砲洲に
住て居て、鉄砲洲から小石川まで
頓て二里
余もありましょう、毎朝早く起きて行く。所が今日はもう出勤前だから又明朝来て
呉れ、
明くる朝早く行くと、人が来て居て行かないと云う。
如何しても教えて
呉れる
暇がない。ソレは森山の不親切と云う
訳けではない、条約を結ぼうと云う時だから中々忙くて実際に教える
暇がありはしない。そうすると、こんなに毎朝来て何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来て呉れぬかと云う。ソレじゃ晩に参りましょうと
云て、今度は
日暮から出掛けて行く。あの往来は
丁度今の神田橋一橋外の高等商業学校のある
辺で、
素と
護持院ヶ
原と云う大きな松の樹などが
生繁って居る恐ろしい淋しい処で、
追剥でも出そうな処だ。
其処を小石川から
帰途に夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さと云うものは今でも
能く覚えて居る。所がこの
夜稽古も
矢張り同じ事で、今晩は客がある、イヤ急に外国
方(外務省)から呼びに来たから出て行かなければならぬと云うような訳けで、
頓と
仕方がない。
凡そ
其処に
二月か
三月通うたけれども、どうにも暇がない。
迚もこんな事では何も覚えることも出来ない。加うるに森山と
云う先生も何も英語を
大層知て居る人ではない、
漸く少し発音を心得て居ると云う
位。
迚も
是れは
仕方ないと、余儀なく断念。
その前に私が横浜に
行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊
買て来た。ソレを
独で
読とした所で
字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分
一人で
解することが出来るから、どうか字書を
欲いものだと
云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に
蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。
其処には色々な字書があると云うことを
聞出したから、
如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が
出抜けに公儀(幕府)の
調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門
願にはその藩の
留守居と云うものが願書に
奥印をして
然る
後に入門を許すと云う。
夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私は


を着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には
箕作麟祥のお
祖父さんの箕作
阮甫と云う人が調所の
頭取で、
早速入門を許して
呉れて、入門すれば字書を
借ることが出来る。
直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に
請取て、通学生の居る部屋があるから
其処で
暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を
包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、
此処で見るならば許して苦しくないが、家に
持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、
鉄砲洲から九段阪下まで毎日
字引を引きに行くと
云うことは
迚も
間に
合ぬ話だ。ソレも
漸く入門してたった一日
行た
切で断念。
扨如何したら
宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の
字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと
云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども
価五両と云う。
夫れから私は
奥平の藩に歎願して
買取て
貰て、サアもう
是れで
宜しい、この字引さえあればもう先生は
要らないと、
自力研究の念を固くして、
唯その字引と
首引で、毎日毎夜
独り勉強、又
或は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。
そこで自分の一身は
爾う
定めた所で、
是れは
如何しても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は
悉く不便を感じて居るに違いない。
迚も今まで
学だのは役に立たない。何でも朋友に相談をして見ようと
斯う思うたが、この事も中々
易くないと
云うのは、その時の蘭学者全体の
考は、私を
始として皆、
数年の
間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸で
之を
棄てゝ
仕舞て英学に移ろうとすれば、
新に元の通りの苦みをもう一度しなければならぬ、誠に情ない、つらい話である、
譬えば五年も三年も
水練を勉強して
漸く泳ぐことが出来るようになった所で、その水練を
罷めて今度は木登りを始めようと云うのと同じ事で、以前の勉強が丸で
空になると、
斯う考えたものだから
如何にも決断が
六かしい。ソコデ学友の
神田孝平に面会して、
如何しても英語を
遣ろうじゃないかと相談を掛けると、神田の云うに、イヤもう僕も
疾うから考えて居て実は少し試みた。試みたが
如何にも
取付端がない。
何処から
取付て
宜いか実に
訳けが分らない。
併し年月を
経れば何か英書を読むと云う
小口が立つに違いないが、今の処では何とも仕方がない。マア君達は元気が
宜いから
遣て
呉れ、
大抵方角が付くと僕も
屹と
遣るから、ダガ今の処では何分自分で遣ろうと思わないと云う。
夫れから番町の
村田造六(後に
大村益次郎)の処へ行て、その通りに勧めた所が、
是れは
如何しても遣らぬと云う
考で、神田とは丸で説が違う。「無益な事をするな。僕はそんな物は読まぬ。
要らざる事だ。何もそんな困難な英書を
辛苦して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆
和蘭人が飜訳するから、その飜訳書を読めばソレで
沢山じゃないかと
云う。「
成程それも一説だが、けれども和蘭人が何も
角も一々飜訳するものじゃない。僕は
先頃横浜に
行て
呆れて
仕舞た。この
塩梅では
迚も蘭学は役に立たぬ。
是非英書を読まなくてはならぬではないかと勧むれども、村田は中々同意せず、「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。
遣るなら君達は遣り給え。僕は必要があれば蘭人の飜訳したのを読むから構わぬと
威張て居る。
是れは
迚も
仕方がないと云うので今度は小石川に居る
原田敬策にその話をすると、原田は
極熱心で、何でも遣ろう。誰がどう云うても構わぬ。是非遣ろうと云うから、「
爾うか、ソレは面白い。そんなら
二人で遣ろう。どんな事があっても
遣遂げようではないかと云うので、原田とは
極説が合うて、
愈よ英書を読むと
云う時に、長崎から来て居た小供があって、その小供が英語を
知て居ると云うので、そんな小供を
呼で来て発音を習うたり、又
或は漂流人で
折節帰るものがある、長く
彼方へ漂流して居た者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に
訪ねて
行て
聞たこともある。その時に英学で一番
六かしいと云うのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうと云うのではない、
只スペルリングを学ぶのであるから、小供でも
宜ければ漂流人でも構わぬ、
爾う云う者を
捜し
廻ては学んで居ました。始めは
先ず英文を蘭文に飜訳することを試み、一字々々字を
引てソレを蘭文に書直せば、ちゃんと蘭文になって文章の意味を取ることに苦労はない。
唯その英文の
語音を正しくするのに
苦んだが、
是れも次第に
緒が
開けて来れば
夫れはどの難渋でもなし、
詰る処は最初私共が蘭学を
棄てゝ英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を棄てゝ
仕舞い、
数年勉強の結果を
空うして生涯二度の
艱難辛苦と思いしは
大間違の話で、実際を見れば蘭と云い英と云うも等しく横文にして、その文法も
略相同じければ、蘭書読む力は
自から英書にも適用して決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは
一時の
迷であったと云うことを発明しました。
ソレカラ私が江戸に来た翌年、
即ち安政六年冬、徳川政府から
亜米利加に軍艦を
遣ると
云う日本
開闢以来、
未曾有の事を決断しました。
扨その軍艦と申しても
至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の
出入に蒸気を
焚くばかり、航海中は
唯風を
便りに運転せねばならぬ。二、三年前、
和蘭から買入れ、
価は小判で二万五千両、船の名を
咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に
行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も
漸く進歩したから、この
度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と
斯う云う
訳けで
幕議一決、艦長は時の軍艦奉行
木村摂津守、これに随従する指揮官は
勝麟太郎、運用方は
佐々倉桐太郎、
浜口興右衛門、
鈴藤勇次郎、測量は
小野友五郎、
伴鉄太郎、
松岡磐吉、蒸気は
肥田浜五郎、
山本金次郎、公用方には
吉岡勇平、
小永井五八郎、通弁官は
中浜万次郎、少年士官には
根津欽次郎、
赤松大三郎、
岡田井蔵、
小杉雅之進と、医師二人、水夫
火夫六十五人、艦長の従者を
併せて九十六人。船の
割にしては
多勢の
乗組人でありしが、この航海の事に
就ては色々お話がある。
今度
咸臨丸の航海は日本
開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は
固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時
亜米利加の
甲比丹ブルツクと
云う人が、太平洋の海底測量の
為めに
小帆前船ヘネモコパラ号に
乗て航海中、薩摩の
大島沖で難船して
幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく
滞留の
折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、
幸便だから
之に
乗て帰国したいと云うので、その事が
定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは
厭だと云う。
何故かと云うに、
若しその人達を連れて帰れば、
却て
銘々共が亜米利加人に連れて
行て
貰たように思われて、日本人の名誉に
係るから乗せないと剛情を張る。
夫れ
是れで政府も余程
困た様子でありしが、
到頭ソレを無理
圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の
伎倆を
覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと
云う老婆心であったと思われる。
艦長
木村摂津守と
云う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて
行くに違いない。
夫れから私はどうもその船に
乗て
亜米利加に
行て見たい
志はあるけれども、木村と云う人は
一向知らない。去年大阪から出て来た
計りで、そんな幕府の役人などに縁のある
訳けはない。所が
幸に江戸に
桂川と云う幕府の
蘭家の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を
命けて
宜しい名家であるから、江戸は
扨置き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ
故私なども江戸に
来れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、
度々その家に
出入して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――
極近い親類である。
夫れから私は桂川に
頼で、
如何かして木村さんの
御供をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を
貰て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して
呉れて、連れて行て
遣ろうと
斯う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の
世態人情に
於て、外国航海など云えば、
開闢以来の珍事と云おうか、
寧ろ恐ろしい
命掛けの事で、木村は
勿論軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、
仮初にも自分から
進で行きたいと云うのであるから、実は
彼方でも妙な
奴だ、
幸と云う
位なことであったろうと思う。
直に許されて私は御供をすることになった。
咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て
先ず浦賀に
行た。同時に日本から
亜米利加に使節が
立て
行くので、亜米利加からその使節の
迎船が来た。ポーハタンと
云うその軍艦に
乗て行くのであるが、そのポーハタンは
後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に
泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に
乗組で居る人は皆若い人で、もう
是れが日本の
訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと
云出した者がある。
何れも同説で、
夫れから
陸に
上て茶屋見たような処に行て、
散々酒を
飲でサア船に帰ると云う時に、誠に
手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に
嗽茶椀が一つあった、
是れは船の中で役に立ちそうな物だと
思て、
一寸と私が
夫を
盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が
大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に
飯を
盛て本式に
喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、
立て
喰う。誠に世話のない話で、
大層便利を得て、
亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、
到頭日本まで
持て
帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。
程経て聞けばその浦賀で上陸して
飲食いした処は遊女屋だと
云う。
夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると
彼の大きな茶椀は女郎の
嗽茶椀であったろう。思えば
穢ないようだが、航海中は誠に調法、
唯一の
宝物であったのが
可笑しい。
扨それから船が出てずっと北の方に
乗出した。その
咸臨丸と云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭を
焚くと云うことは出来ない。
只港を出るとき
這入るときに焚く
丈けで、沖に出れば丸で
帆前船、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に
乗て太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、
艀船が
四艘あったが
激浪の
為めに二艘取られて
仕舞うた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の
艫の方の部屋に居るので、
或る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋に
行た、所がその部屋に
弗が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。
如何したのかと思うと、前夜の
大嵐で、袋に入れて
押入の中に積上げてあった弗、
定めし
錠も
卸してあったに違いないが、
劇しい船の動揺で、弗の袋が戸を
押破て外に散乱したものと見える。
是れは大変な事と思て、
直に
引返して
舳の方に居る公用方の
吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に
駈付け、私も
加勢してその弗を
拾集めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国
為替と云う事に
就て
一寸とも考えがないので、旅をすれば金が
要る、金が
要れば金を
持て
行くと云う
極簡単な話で、何万
弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に
蔵めて
置たその金が、嵐の
為めに
溢れ出たと云うような奇談を生じたのである。
夫れでも
大抵四十年前の事情が分りましょう。今ならば
一向訳けはない。為替で
一寸と
送て
遣れば、何も
正金を船に
積で行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から
大洋の
立浪が
能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、
幸に大きな
災もなく
只その航路を
進で
行く。進で行く中に、何も見えるものはないその中で
以て、一度
帆前船に
遇うたことがあった。ソレは
亜米利加の船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見た
切り、
外には何も見ない。
所で三十七日
掛て
桑港に
着た。航海中私は
身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「
是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に
這入て毎日毎夜
大地震に
遇て居ると思えば
宜いじゃないかと
笑て居る
位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの
念が骨に徹して居たものと見えて、
一寸とも怖いと
思たことがない。
夫れから途中で水が乏しくなったので
布哇に寄るか寄らぬかと
云う説が
起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、
極用心をすれば寄港して水を
取て
行く、
如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに
桑港に直航と
斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより
外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に
大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に
亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫
等が、
動もすると水を使うので、
甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると
云たら甲比丹の云うには、水を使うたら
直に鉄砲で
撃殺して
呉れ、
是れは共同の敵じゃから説諭も
要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を
呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから
爾う思えと云うような
訳けで水を倹約したから、
如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、
同勢合せて九十六人無事に亜米利加に
着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆
筒袖の着物は着て居るけれども
穿物は
草鞋だ。草鞋が何百何千
足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ
買て
遣て夫れから大に体裁が
好くなった)。
併しこの航海に
就ては
大に日本の
為めに誇ることがある、と
云うのは
抑も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に
於て
和蘭人から伝習したのが
抑も事の始まりで、その
業成て外国に船を
乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、
即ち目に蒸気船を見てから
足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、
夫れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を
藉らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその
伎倆と云い、
是れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の
甲比丹ブルックの助力は
仮らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。
亜米利加の人も
亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で
見合せる
丈けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは
一寸でもなかった。ソレ
丈けは大に誇ても
宜い事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年
学で太平海を
乗越そうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレ
所ではない。
昔々露西亜のペートル帝が
和蘭に行て航海術を学んだと
云うが、ペートル
大帝でもこの事は出来なかろう。
仮令い大帝は一種絶倫の
人傑なりとするも、当時の露西亜に
於て日本人の
如く大胆にして
且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。
海上
恙なく
桑港に着た。着くやいなや土地の
重立たる人々は船まで来て祝意を
表し、
之を歓迎の始めとして、陸上の見物人は
黒山の如し。
次で陸から祝砲を打つと
云うことになって、
彼方から打てば
咸臨丸から応砲せねばならぬと、この事に
就て一奇談がある。
勝麟太郎と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、
至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として
万端差図する中に、
彼の祝砲の事が
起た。所で勝の説に、ソレは
迚も出来る事でない、ナマジ応砲などして
遣り
傷うよりも
此方は打たぬ方が
宜いと云う。
爾うすると運用
方の
佐々倉桐太郎は、イヤ打てないことはない、
乃公が
打て見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら
乃公の首を
遣ると
冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、
夫れから水夫
共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計を
以て時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が
威張り出した。首尾
克く出来たから勝の首は
乃公の物だ。
併し航海中、用も多いから
暫く
彼の首を当人に預けて置くと
云て、大に船中を笑わした事がある。
兎も
角もマア祝砲だけは立派に出来た。
ソコで無事に港に
着たらば、サアどうも
彼方の人の歓迎と
云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の
仕様がないと云う
程の歓迎。
亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う
訳けであるから、
丁度自分の学校から出た生徒が実業に
着て自分と同じ事をすると同様、
乃公がその
端緒を開いたと云わぬ
計の
心持であったに違いない。ソコでもう日本人を
掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、
桑港に上陸するや
否や馬車を
以て迎いに来て、
取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の
重立た人が
雲霞の
如く出掛けて来た。様々の接待
饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を
咸臨丸一行の
止宿所に貸して
呉れ、船は航海中なか/\
損所が出来たからとて、
船渠に入れて修覆をして
呉れる。
逗留中は
勿論彼方で
賄も何もそっくり
為て呉れる
筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、
矢張り日本の
飯でなければ
喰えないと云うので、自分賄と云う
訳けにした所が、
亜米利加の人は
兼て日本人の魚類を好むと
云うことを
能く
知て居るので、毎日々々魚を
持て来て
呉れたり、
或は日本人は風呂に
這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような
訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、
折節今日は
桑港に来いと
云て誘う。
夫れから船に
乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
所が
此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。
其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは
分りそうなものだが、一見したばかりでは
一寸と
考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が
駈出す。
成程是れは馬の
挽く車だと始めて発明するような訳け。
何れも日本人は大小を
挟して
穿物は
麻裏草履を
穿て居る。ソレでホテルに案内されて
行て見ると、
絨氈が
敷詰めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、
先ず日本で云えば余程の
贅沢者が
一寸四方
幾干と
云て金を出して買うて、
紙入にするとか
莨入にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、
扨々途方もない事だと実に驚いた。けれども
亜米利加人が往来を歩いた靴の
儘で
颯々と
上るから
此方も麻裏草履でその上に
上た。上ると
突然酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、
先ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か
浮て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと
銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の
有様を申せば、列座の日本人中で、
先ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて
胆を
潰して
吹出す者もあれば、口から出さずにガリ/″\
噛む者もあると
云うような
訳けで、
漸く氷が
這入て居ると云うことが
分った。ソコで又
煙草を一服と
思た所で、煙草盆がない、
灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火で
一寸と
点けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで
吸付けた所が、どうも灰吹がないので
吸殻を
棄る所がない。
夫れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を
吹出して、念を入れて
揉で/\火の気のないように
捩付けて
袂に入れて、
暫くして又
後の一服を
遣ろうとするその時に、袂から
煙が出て居る。何ぞ
図らん、
能く消したと思たその吸殻の火が紙に
移て煙が出て来たとは
大に胆を潰した。
都てこんな事ばかりで、私は生れてから
嫁入をしたことはないが、花嫁が勝手の分らぬ家に住込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ云われて、笑う者もあれば
雑談を云う者もあるその中で、お嫁さんばかり
独り
静にしてお行儀を
繕い、人に笑われぬようにしようとして
却てマゴツイて顔を赤くするその苦しさはこんなものであろうと、
凡そ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと
威張て居た
磊落書生も、始めて
亜米利加に来て花嫁のように小さくなって
仕舞たのは、自分でも
可笑しかった。
夫れから
彼方の貴女紳士が
打寄りダンシングとか
云て踊りをして見せると
云うのは毎度の事で、
扨行て見た処が少しも
分らず、妙な風をして
男女が座敷中を
飛廻るその様子は、どうにも
斯うにも
唯可笑くて
堪らない、けれども
笑ては悪いと思うから
成るたけ我慢して笑わないようにして見て居たが、
是れも初めの中は随分苦労であった。
一寸した事でも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は
少も分らない。
或る時にメールアイランドの
近処にバレーフォーと
云う処があって、
其処に
和蘭の医者が居る。和蘭人は
如何しても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを
招待したいから来て
呉れないかと云うので、その医者の
家に
行た所が、田舎相応の流行家と見えて、中々の
御馳走が出る中に、
如何にも不審な事には、お
内儀さんが出て来て座敷に坐り込んで
頻りに客の
取持をすると、御亭主が周旋奔走して居る。是れは可笑しい。丸で日本とアベコベな事をして居る。御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが
当然であるに、
左りとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かと云うと、豚の子の丸煮が出た。是れにも
胆を
潰した。
如何だ、マア
呆返たな、丸で
安達ヶ
原に行たような
訳けだと、
斯う思うた。
散々馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと
云う。ソレは面白い、
久振りだから乗ろうと
云て、その馬を借りて
乗て来た。艦長木村は江戸の
旗本だから、馬に乗ることは
上手だ。江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。
夫れからその馬に乗てどん/\
駆けて来ると、
亜米利加人が驚いて、日本人が馬に乗ることを
知て居ると云うて不思議の顔をして居る。
爾う云う訳けで双方共に事情が少しも分らない。
夫れから又、
亜米利加人が案内して諸方の製作所などを見せて
呉れた。その時は
桑港地方にマダ鉄道が出来ない時代である。工業は様々の製作所があって、ソレを見せて呉れた。
其処がどうも不思議な
訳けで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。夫れからガルヴァニの
鍍金法と
云うものも実際に
行れて居た。亜米利加人の
考に、そう云うものは日本人の夢にも知らない事だろうと
思て見せて
呉た所が、
此方はチャント
知て居る。
是れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力で
斯う云うことをして居るのだ。又砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くすると
云うことを
遣て居る。ソレを
懇々と説くけれども、
此方は
知て居る、真空にすれば沸騰が早くなると云うことは。
且つその砂糖を
清浄にするには
骨炭で
漉せば清浄になると云うこともチャント
知て居る。先方では
爾う云う事は思いも寄らぬ事だと
斯う察して、
懇ろに数えて
呉れるのであろうが、
此方は日本に居る中に
数年の
間そんな事ばかり
穿鑿して居たのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。
只驚いたのは、
掃溜に
行て見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の
空
などが
沢山棄てゝある。
是れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に
釘拾いがウヤ/\出て居る。所で
亜米利加に行て見ると、鉄は丸で
塵埃同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。
夫れから物価の高いにも驚いた。
牡蠣を
一罎買うと、半
弗、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒
位しかない。日本では二十四
文か三十文と云うその牡蠣が、亜米利加では
一分二朱もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、
呆れた話だと思たような次第で、社会上、政治上、経済上の事は
一向分らなかった。
所で私が
不図胸に浮かんで
或人に
聞て見たのは
外でない、今
華盛頓の子孫は
如何なって居るかと尋ねた所が、その人の
云うに、華盛頓の子孫には女がある
筈だ、今
如何して居るか知らないが、何でも誰かの内室になって居る
容子だと
如何にも冷淡な答で、何とも
思て居らぬ。
是れは不思議だ。
勿論私も
亜米利加は共和国、大統領は四年交代と云うことは百も承知のことながら、華盛頓の子孫と云えば大変な者に違いないと思うたのは、
此方の脳中には
源頼朝、
徳川家康と云うような
考があって、ソレから
割出して聞た所が、今の通りの答に驚いて、是れは不思議と思うたことは今でも
能く覚えて居る。理学上の事に
就ては少しも
胆を
潰すと云うことはなかったが、一方の社会上の事に就ては全く方角が付かなかった。
或時にメールアイランドの海軍港に居る
甲比丹のマツキヅガルと云う人が、日本の貨幣を見たいと云うので、艦長は
予てそんな事の
為めに用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判を始めとして万延年中迄の貨幣を
揃えて甲比丹の処へ
送て
遣た。所が珍らしい/\と
計りで、宝を
貰たと
云う
考は
一寸とも
顔色に見えない。昨日は誠に有難うと
云てその
翌朝お
内儀さんが花を
持て来て
呉れた。私はその
取次をして
独り
窃に感服した。人間と
云うものはアヽありたい、
如何にも心の置き所が高尚だ、金や銀を貰たからと云てキョト/\
悦ぶと云うのは卑劣な話だ、アヽありたいものだ、大きに感心したことがある。
前に
云うた通り
亜米利加人は誠に
能く世話をして呉れた。軍艦を
船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に
入用な箱を
拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の
仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の
入用を払いたいと云うと、
彼方の人は
笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で
一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。
その時に私と
通弁の
中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの
字引を一冊ずつ
買て来た。
是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ
外には何も残ることなく、首尾
克く出帆して来た。
所で私が二度目に
亜米利加に
行たとき、
甲比丹ブルックに再会して八年目に
聞た話がある。それは最初日本の
咸臨丸が亜米利加に
着たとき、
桑港で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を
盛にしなければならぬと
云うので、
彼処に陸軍の出張所を見たようなものがある。
其処へ
甲比丹ブルックが
行て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、
華盛頓に
伺うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で
遣れと談じても、
兎角埓が
明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ
此方に
仕様があると
云て、
夫れから方向を転じて
桑港の義勇兵に
持込んで、どうだ
斯う云う
訳けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は
大悦びで
直に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断
軍役のあるではなし、大将は御医者様で、少将は
染物屋の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も
持て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か
暇な時か又は月夜などに
操練をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は
先ず若い者の道楽仕事であるから、
折角拵えた軍服も
滅多に着ることがない所に、今度
甲比丹ブルックの話を
聞て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。
祝砲と共に
目出度桑港を出帆して、今度は
布哇寄港と
定まり、水夫は二、三人
亜米利加から連れて来たけれども、
甲比丹ブルックは
居らず、本当の日本人ばかりで、
何やら
斯うやら布哇を
捜出して、
其処へ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗に
就ては物珍しく
云う程の要用はないだろう、と思うのは、三十年
前の布哇も今も
変たことはなかろう、その土人の風俗は汚ない
有様で、一見
蛮民と云うより
外仕方がない。王様にも
遇うたが、
是れも国王陛下と云えば
大層なようだけれども、
其処へ
行て見れば驚く程の事はない。夫婦
連で出て来て、国王は
只羅紗の服を着て居ると云う
位な事、家も日本で云えば
中位の西洋造り、
宝物を見せると云うから何かと
思たら、鳥の羽で
拵えた
敷物を
持て来て、
是れが一番のお宝物だと云う。あれが皇弟か、その皇弟が
笊を
提げて買物に
行くような
訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。
それから布哇で石炭を
積込んで出帆した。その時に
一寸した事だが奇談がある。私は
予て申す通り一体の性質が
花柳に
戯れるなどゝ云うことは
仮初にも身に犯した事のないのみならず、口でもそんな
如何わしい話をした事もない。ソレゆえ同行の人は妙な男だと云う
位には思うて居たろう。
夫れから
布哇を出帆したその日に、船中の人に写真を出して見せた。
是れはどうだ(その写真は
此処に在りと、福澤先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年
前の福澤先生の
傍に立ち居るは十五、六の少女なり)。その写真と
云うのはこの通りの写真だろう。ソコでこの少女が芸者か女郎か娘かは
勿論その時に見さかいのある
訳けはない――お前達は
桑港に長く逗留して居たが、婦人と親しく
相並んで写真を
撮るなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、
朝夕口でばかり
下らない事を
云て居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、
大に
冷かして
遣た。
是れは写真屋の娘で、歳は十五とか云た。その写真屋には前にも
行たことがあるが、
丁度雨の降る日だ、その時私
独りで行た所が娘が居たから、お前さん一緒に取ろうではないかと云うと、
亜米利加の娘だから何とも思いはしない、取りましょうと云うて一緒に
取たのである。この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、
口惜しくも出来なかろう、と云うのは桑港でこの事を
云出すと
直に
真似をする者があるから
黙て隠して
置て、いよ/\布哇を雛れてもう亜米利加にも
何処にも縁のないと云う時に見せて
遣て、一時の
戯に人を冷かしたことがある。
帰る時は南の方を
通たと思う。行くときとは
違て
至極海上は穏かで、何でもその
歳には
閏があって、
閏を
罩めて五月五日の午前に浦賀に
着した。浦賀には
是非錨を
卸すと
云うのがお
極りで、浦賀に着するや
否や、船中数十日のその間は
勿論湯に
這入ると云うことの出来る
訳けもない、
口嗽をする水がヤット出来ると云う
位な事で、
身体は汚れて居るし、髪はクシャ/\になって居る、何は
扨置き一番先に
月代をして
夫れから風呂に這入ろうと思うて、
小舟に
乗て
陸に着くと、木村のお
迎が数十日前から浦賀に
詰掛けて居て、木村の家来に
島安太郎と云う
用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に
上てその島に
遇うた。正月の
初に
亜米利加に出帆して浦賀に
着くまでと云うものは風の便りもない、郵便もなければ船の交通と云うものもない。その
間は
僅に六箇月の
間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、
殆んど六ヶ年も遇わぬような
心地。ヒョイと浦賀の海岸で島に
遇て、イヤ誠にお
久振り、時に何か日本に
変た事はないかと尋ねた所が、島安太郎が
顔色を変えて、イヤあったとも/\大変な事が日本にあったと云うその時、私が、
一寸と島さん
待て
呉れ、云うて呉れるな、私が
中てゝ見せよう、大変と云えば何でも
是れは水戸の浪人が
掃部様の
邸に
暴込んだと云うような事ではないかと云うと、島は
更らに驚き、どうしてお前さんはそんな事を
知て居る、
何処で
誰れに
聞た、聞たって
聞ないたって分るじゃないか、私はマア
雲気を考えて見るに、そんな事ではないかと思う、イヤ
是れはどうも驚いた、
邸に暴込んだ所ではない、
斯う/\
云う
訳けだと云て、桜田騒動の話をした。その
歳の三月三日に桜田に
大騒動のあった時であるから、その事を話したので、天下の治安と云うものは
大凡そ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えて見るとゞうせ騒動がありそうな事だと
思て居たから、偶然にも
中たので誠に面白かった。
その前年から
徐々攘夷説が
行れると云う世の中になって来て、
亜米利加に逗留中、艦長が
玩具半分に
蝙蝠傘を一本
買た。珍しいものだと
云て皆
寄て
拈くって見ながら、
如何だろう
之を日本に
持て
帰てさして
廻たら、イヤそれは
分切て居る、新銭座の艦長の屋敷から日本橋まで行く
間に浪人者に
斬られて
仕舞うに違いない、
先ず屋敷の中で
折節ひろげて見るより
外に用のない品物だと云たことがある。
凡そこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が
盛になって来た。
亜米利加から
帰てから塾生も次第に増して
相替らず教授して居る
中に、私は亜米利加渡航を
幸に彼の
国人に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで
悉く英書を教える。所がマダなか/\英書が
六かしくて自由自在に読めない。読めないから
便る所は英蘭対訳の字書のみ。教授とは
云いながら、実は教うるが
如く学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の
外国方(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の
閣老又は外国奉行へ差出す
書翰を飜訳する
為めである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず
和蘭の飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に
横文字読む者とては
一人もなく、
止むを得ず
吾々如き
陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたに
就ては
自から利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。
如何かしてこの飜訳文を見ずに
直接に英文を飜訳してやりたいものだと
思て試みる、試みて居る
間に
分らぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うような
訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には
自から書物がある、
種々様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは
勿論、借りて
自家へ
持て来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身の
為めに大に便利になりました。
私が
亜米利加から
帰たのは万延元年、その年に
華英通語と云うものを飜訳して出版したことがある。
是れが
抑も私が出版の始まり、
先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で
以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から
欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には
私に
木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて
行て
貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴
行を命ぜられたのであるから、
自から
一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり
貰たかと思う。旅中は一切官費で、
只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は
平生頓と金の
要らない男で、
徒に金を費すと
云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に
居る母に
送てやった。
如何にも母に対して気の毒だと云うのは、
亜米利加から
帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに
行きもせずに、重ねて
欧羅巴に行くと云うのだから、
如何にも済まない。
而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な
風聞を立てゝ、亜米利加に
行て
彼の地で死んだと云い、
甚だしきに至れば現在の親類の中の
一人が私共の母に
向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、
身体は
醢けにして江戸に
持て帰たそうだなんと、
威すのか
冷すのかソンな事まで
云て母を
嬲て居たと云うような事で、
是れも時節
柄で我慢して
黙て居るより
外に
仕方がないとして居ながら、母に対しては
如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで
償える
訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て
遣ろうと思て、幕府から
請取た金を
分けて送りました。
それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この
度の船は日本の使節が
行くと云う
為めに、
英吉利から
迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に
乗て
香港、
新嘉堡と云うような
印度洋の
港々に立寄り、紅海に
這入て、
蘇士から上陸して蒸気車に乗て、
埃及のカイロ府に
着て
二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、
其処から又船に乗て
仏蘭西の
馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て
里昂に一泊、
巴里に着て滞在
凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て
英吉利に渡り、英吉利から
和蘭、和蘭から
普魯西の都の
伯林に行き、伯林から
露西亜のペートルスボルグ、
夫れから再び巴里に
帰て来て、仏蘭西から船に
乗て、
葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に
這入て、元の通りの順路を
経て帰て来たその間の年月は
凡そ一箇年、
即ち文久二年一杯、
推詰てから日本に帰て来ました。
扨今度の旅行に
就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると
云うことが
徐々出来て、
夫れから前に申す通りに金も
聊か
持て居るその金は何も
遣い所はないから、
只日本を出る時に尋常一様の旅装をした
丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の
要る
訳けがない、その
余た金は皆
携えて行て
竜動に逗留中、
外に買物もない、
唯英書ばかりを買て来た。
是れが
抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも
是れからの事である。
夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、
是れは後の話にして、
先ず使節一行の
有様を申さんに、その人員は、
竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同)
右の
外に三使節の家来両三人ずつと、
賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は
先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、
所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番
下席で
惣人数凡そ四十人足らず、
孰れも日本服に大小を
横えて
巴里、
竜動を
闊歩したも
可笑しい。
日本出発
前に外国は何でも食物が不自由だからと
云うので、白米を箱に詰めて何百箱の
兵糧を貯え、又旅中
止宿の用意と云うので、廊下に
灯す
金行灯=
二尺四方もある
鉄網作りの行灯を何十台も作り、その
外提灯、
手燭、ボンボリ、
蝋燭等に至るまで一切
取揃えて船に
積込んだその趣向は、大名が東海道を通行して
宿駅の本陣に止宿する
位の
胸算に違いない。
夫れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて
先ず
此方よりの
所望は、随行員も
多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと
云うのは、万事
不取締不安心だから、一行の者を使節の
近処に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、
先ず人数を
聞糺し、
惣勢三十何人と
分て、「
是ればかりの人数なれば一軒の旅館に
十組や二十組は引受けますとの答に、何の事やら
訳けが
分らぬ。ソレカラ案内に
連られて止宿した旅館は、
巴里の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、
婢僕五百余人、旅客は千人以上
差支なしと云うので、日本の使節などは
何処に居るやら分らぬ。
唯旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には
温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の
瓦斯灯は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、
如何なる西洋嫌いも
口腹に攘夷の念はない、皆喜んで
之を
味うから、
爰に
手持不沙汰なるは日本から
脊負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に
金行灯を
点けるにも及ばず、ホテルの台所で米の
飯を
炊くことも出来ず、とう/\
仕舞には米を始め諸道具一切の
雑物を、接待
掛りの
下役のランベヤと云う男に進上して、
唯貰て
貰うたのも
可笑しかった。
先ずこんな
塩梅式だから、
吾々一行の失策
物笑いは
数限りもない。シガーとシュガーを間違えて
烟草を買いに
遣て砂糖を
持て来るもあり、医者は
人参と
思て
買て来て
生姜の
粉であったこともある。又
或るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを
持て
御供をして、便所の二重の戸を
明放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は
袴着用、殿様の
御腰の物を持て、便所の外の廊下に
平き
直てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来
織るが
如くにして、便所の内外
瓦斯の
光明昼よりも
明なりと
云うから
堪らない。私は
丁度其処を通り
掛て、驚いたとも驚くまいとも、
先ず表に
立塞がって物も言わずに戸を
打締めて、
夫れからそろ/\その家来殿に話したことがある。
政治上の事に
就ては
竜動、
巴里等に在留中、色々な人に逢うて色々な事を
聞たが、
固よりその事柄の由来を知らぬから
能く
分る
訳けもない。当時は
仏蘭西の第三世ナポレヲンが欧洲第一の政治家と
持囃されてエライ勢力であったが、隣国の
普魯士も日の出の新進国で油断はならぬ。
墺地利との戦争、又アルサス、ローレンスの事なども
国交際の問題として、
何れ後年には云々の変乱が生ずるであろうなんと
云うことは
朝野政通の予言する所で、私の日記
覚書にもチョイ/\記してある。又竜動に居るとき、
或る社中の人が社名を
以て議院に建言したと
云うて、その草稿を日本使節に
送て来た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコツクが新開国たる日本に居て乱暴無状、
恰も武力を
以て征服したる国民に臨むが
如し云々とて、
種々様々の証拠を挙げて公使の罪を責るその証拠の一つに、公使アールコツクが日本国民の霊場として
尊拝する芝の
山内に騎馬にて
乗込たるが如き
言語に絶えたる無礼なりと痛論したる
節もある。私はこの建言書を見て
大に胸が
下った。
成るほど世界は鬼ばかりでない、
是れまで外国政府の
仕振を見れば、日本の弱身に付込み日本人の
不文殺伐なるに乗じて無理難題を
仕掛けて真実
困て居たが、その本国に来て見れば〔
自から〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ます/\
平生の主義たる開国一偏の説を
堅固にしたことがある。
又各国巡回中、待遇の最も
濃なるは
和蘭の右に
出るものはない。是れは三百年来特別の関係で
爾うなければならぬ。
殊に私を始め同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語で云えば
欧羅巴中第二の故郷に
帰たような
訳けで自然に
居心が
宜い。
夫れは
扨置き和蘭滞留中に奇談がある。
或るとき使節がアムストルダムに
行て地方の紳士紳商に面会、
四方八方の話の
序に、使節の
問に、「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるかと
云うに、
彼の人答えて、「
固より自由自在。「外国人へも売るか。「
値段次第、誰にでも、又何ほどにても。「
左れば
爰に外国人が大資本を投じて広く上地を
買占め、
之に城廓砲台でも築くことがあったら、
夫れでも勝手次第かと云うに、彼の人も妙な顔をして、「ソンナ事は
是れまで考えたことはない。
如何に英仏その他の国々に
金満家が多いとて、他国の地面を
買て城を築くような
馬鹿気た商人はありますまいと答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共は之を見て実に
可笑しかったが、当時日本の外交政略は
凡そこの辺から割出したものであるから
堪らない
訳けさ。
夫れは
扨居き、私がこの前
亜米利加に
行たときには、カリフ※
[#小書き片仮名ヲ、160-9]ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、
勿論鉄道を見たことがない、けれども今度は
蘇士に
上て始めて鉄道に乗り、ソレカラ
欧羅巴各国を
彼方此方と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、
倶楽部等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、
或は名ある人の家に
晩餐の
饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、
却て招待の多いのに
草臥れると云う程の次第であったが、
唯こゝに一つ
可笑しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら
兎角外国人に
遇うことを
止めようとするのが
可笑しい。使節は
竹内、
松平、
京極の三使節、その中の京極は
御目附と
云う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を
目ッ
張子で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが
六かしい。同行者は
何れも幕府の役人連で、その中に
先ず同志同感、互に目的を共にすると
云うのは
箕作秋坪と
松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、
彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと
計りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、
殊に三人とも
陪臣で、
然かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず
御目附方の
下役が附いて行かなければならぬと云う
御定まりで始終
附て
廻る。
此方は
固より密売しようではなし、国の秘密を
洩らす
気遣いもないが、妙な役人が附て来れば
只蒼蠅い。蒼蠅いのはマダ
宜いが、その下役が何か
外に
差支があると、私共も出ることが出来ない。ソレは
甚だ不自由でした。私はその時に==
是れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ
担いで来て、
欧羅巴各国を巡回するようなものだと
云て、三人で
笑たことがあります。
ソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は
聞たが、
序ながらこの
見聞のことに
就て私の身の恥を
云わねばならぬ。私は少年の時から
至極元気の
宜い男で、時として
大言壮語したことも多いが、
天禀気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは
刺
流行の時代で、同窓生は
勿論私も腕の脈に針をして血を
取たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て
心持が
善くないから、刺

と云えばチャント
眼を閉じて見ないようにして居る。
腫物が出来ても針をすることは
先ず見合せたいと
云い、
一寸とした怪我でも血が出ると
顔色が青くなる。毎度都会の地にある
行倒、
首縊、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が
露西亜に滞留中、
或る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に
箕作も
松木も医者だから
直ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に
這入て見れば
石淋を取出す手術で、執刀の医師は
合羽を着て、病人をば
俎のような台の上に寝かして、コロヽホルムを
臭がせて
先ず
之を殺して、
夫れからその医師が光り
燿く
刀を
執てグット制すと、
大造な血が
迸って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の
切口に
釘抜のようなものを入れて
膀胱の中にある石を取出すとか
云う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の
山田八郎と
云う男が私を助けて室外に
連出し、水など
呑まして
呉れてヤット正気に
返た。その前
独逸の
伯林の
眼病院でも、
欹目の手術とて子供の
眼に
刀を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。
松木も
箕作も私に
意気地がないと
云て
頻りに
冷かすけれども、
持て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。
夫れは
扨置き私の
欧羅巴巡回中の
胸算は、
凡そ
書籍上で調べられる事は日本に居ても原書を
読で
分らぬ処は
字引を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り
易い事で
殆んど字引にも
載せないと
云うような事が
此方では一番
六かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと
思て、その方向で
以て
是れは相当の人だと思えばその人に
就て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て
一寸々々斯う云うように(この時先生
細長くして
古々しき一小冊子を示す)記して
置て、夫れから日本に
帰てからソレを台にして
尚お色々な原書を調べ又記憶する所を
綴合せて西洋事情と云うものが出来ました。
凡そ理化学、器械学の事に
於て、
或はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても
宜しいと
云うのは、元来私が専門学者ではなし、
聞た所が真実深い意味の分る
訳けはない、
唯一通りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に
分るから、コンナ事の
詮索は
先ず二の次にして、
外に知りたいことが
沢山ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその
入費の金はどんな
塩梅にして誰が出して居るのか、又
銀行と云うものがあってその金の支出入は
如何して
居るか、郵便法が
行れて居てその法は
如何云う趣向にしてあるのか、
仏蘭西では徴兵令を
行して居るが
英吉利には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、
抑も
如何云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が
頓と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が
皆無分らない。分らないから選拳法とは
如何な法律で議院とは
如何な役所かと尋ねると、
彼方の人は
只笑て居る、何を聞くのか分り
切た事だと云う様な
訳。ソレが
此方では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず
鎬を
削て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも
考の付こう
筈がない。
彼の人と
此の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を
飲で飯を
喰て居る。少しも分らない。ソレが
略分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その
謂れ因縁が少しずつ分るようになって来て、
入組んだ事柄になると五日も十日も
掛てヤット胸に落ると
云うような
訳で、ソレが今度洋行の利益でした。
それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中、次第々々に攘夷論が
盛になって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節が
露西亜に
行た時に
此方から
樺太の
境論を
持出して、その談判の席には私も出て居たので、日本の使節がソレを
云出すと先方は少しも取合わない。
或は地図などを持出して、地図の色は
斯う/\云う色ではないか、
自から
此処が境だと云うと、露西亜人の云うには、地図の色で境が
極れば、この地図を皆赤くすれば世界中露西亜の領分になって
仕舞うだろう、又これを青くすれば世界中日本領になるだろうと云うような調子で
漫語放言、
迚も
寄付かれない。マア
兎にも
角にもお互に実地を調べたその上の事に
為ようと云うので、樺太の境は
極めずに
宜加減にして談判は
罷になりましたが、ソレを私が
傍から聞て居て、
是れは迚も
仕様がない、一切万事
便る所なし、日本の不文不明の
奴等が
威張りして攘夷論が
盛になればなる程、日本の国力は段々弱くなる
丈けの話で、
仕舞には
如何云うようになり果てるだろうかと
思て、実に情けなくなりました。
国交際の談判は右の通りに
水臭い次第であるが、使節に対する
私の待遇は
爾うでない。ペートルスボルグ滞在中は日本使節一行の
為めに特に官舎を
貸渡して、接待委員と
云う者が四、五人あってその官舎に
詰切りで、いろ/\
饗応するその饗応の
仕方と云うは
頗る手厚く、
何に一つ遺憾はないと云う有様。ソレで御用がない時は名所旧跡を始め諸所の工場と云うような所に案内して見せて
呉れる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって
種々様々な話もしたが、その
節露西亜に日本人が一人
居ると云う
噂を
聞たその噂は、どうも間違ない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないと云う。
勿論その噂は接待委員から
聞たのではない。その
外の人から
洩れたのであるが、
先ず公然の秘密と云う
位な事で、チャント
分て居た。そのヤマトフに
遇て見たいと思うけれどもなか/\
遇われない。
到頭逗留中出て
来ない。出て来ないがその接待中の模様に
至ては
動もすると日本風の事がある。例えば室内に
刀掛があり、
寝床には日本流の木の枕があり、
湯殿には
糟を入れた糟袋があり、食物も
勉めて日本調理の
風にして
箸茶椀なども日本の物に似て居る。どうしても露西亜人の
思付く物でない。シテ見ると噂の通り
何処にか日本人の居るのは間違いない、
明に
分て居るけれども、到頭分らずに
帰て
仕舞いました。私の西航日記にこの事を記して、その
傍に詩のようなものが
一寸と書てある。
起来就食々終眠、飽食安眠過一年、
他日若遇相識問、欧天不異故郷天
今日になって一々記憶もないが、
余程日本流の事が多かったと思われます。
夫れから
或日の事で、その接待委員の一人が私の処に来て、
一寸こちらに来て
呉れろと
云て、
一間に私を連れて
行た。何だと云て話をすると、私の一身上の事に及んで、お前はこの
度使節に付て来たが、
是れから先は日本に
帰て何をする
所存かソリャ
勿論知らないが、お前は
大層金持かと尋ねるから、「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をして居る、用をして居れば
自らその報酬と
云うものがあるから衣食の道に
差支はないものだと、
斯う私は答えた。所が接待委員の云うに、「日本の事だから我々に
委しい事情の
分る
訳けはない、分りはしないけれども、どうも大体を考えて見た所で日本は小国だ、アヽ
云う小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイと
茲に心を変えてこの
露西亜に
止まらないかと云うから、私は答えて、「自分の身は使節に随従して来て居るものであるから、
爾う勝手に
止まられる
訳けのものじゃないと有りのまゝに云うと、「イヤ
夫れは
造作もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば
直ぐに私が隠して
遣る。どうせ使節は長く
此処に居る
気遣はない、間もなく帰る。帰ればソレ
切だ。そうしてお前は露西亜人になって
仕舞いなさい。この露西亜には外国の人は幾らも来て居る、
就中独逸の人などは大変に多い、その
外和蘭人も来て居れば
英吉利人も来て居る。だから日本人が来て居たからと
云て何も珍しい事はない、
是非此処に
止まれ。いよ/\
止ると決すれば、その上はどんな仕事でも
為ようと思えば面白い愉快な仕事は
沢山ある。衣食住の安心は
勿論、随分
金持になる事も出来るから止まれと
懇に説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント
一間の中に
差向いで
真面目になって話したのである。けれども私がその時に止まると云う必要もなければ、又止まろうと云う気もない。
宜い加減に返答をして置くと、その
後二、三度同じような事を
云て来たが、
固より話は
纏らず。その時に私は大に
心付きました、
成程露西亜は
欧羅巴の中で一種風俗の
変た国だと
云うが、ソレに違いない。例えば今度英仏にも
暫く滞留し、又前年
亜米利加に
行たときにも、人に
逢いさえすれば日本に
行こう/\と云う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて
行て
呉れないかと、ソリャもう
行く
先々でうるさいように
云う者はあれども、
遂ぞ
止まれと云うことを
只の一度も
云た人はない。
露西亜に来て始めて止まれと云う話を聞た、その
趣を推察すれば、決して
是れは商売上の話ではない、
如何しても政治上又国交際上の意味を含んで居るに違いない。こりゃどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれと云う所を見れば、
或は陰険の手段を施す
為めではないか知らんと思うた事があった。けれどもそんな事を
聞たと云うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を
蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは
勿論、日本に
帰て来ても人に云わずに
黙て居ました。
或は
爾う云うことを云われたのは私一人でなく、同行の者も同じ事を云われて、私と同じ考えで黙て居た者があったかも知れない。
兎に
角に気の知れぬ国だと思われる。
夫れから
露西亜を去て
仏蘭西に帰り、いよ/\出発と云うその時は
生麦の
大騒動、
即ち生麦で英人のリチヤードソンと云うものを薩摩の
侍が
斬たと云うことが
丁度彼方に報告になった時で、サア仏蘭西のナポレオン政府が
吾々日本人に対して
気不味くなって来た。人民はどうか知らないが政府の待遇の冷淡
不愛相になった事は
甚だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと
如何にも
云い様がない。日本の使節が港から船に乗ろうと云うその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと
并べて見送らした。
是れは敬礼を尽すのではなくして日本人を
威かしたに違いない。兵士を幾ら并べたって鉄砲を撃つ
訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その
苦々しい有様と云うものは実に
堪らない
訳けであった。私の西航記中の一節に、
閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトに着。ロシフ※[#小書き片仮名ヲ、170-7]ルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛に護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或は威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大に疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直に又船に乗らしむ。且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。
ソレカラ仏蘭西を出発して
葡萄牙のリスボンに寄港し、使節の公用を
済して又船に乗り、地中海に入り、
印度洋に出て、海上無事、日本に
帰て見れば攘夷論の真盛りだ。
井伊掃部頭はこの前殺されて、今度は老中の
安藤対馬守が浪人に
疵を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に
駈込んだとか何とか
云う話を聞て、私はその時始めて心付いた、成るほど長州藩も
矢張り攘夷の仲間に
這入て居るのかと
斯う思たことがある。
兎にも
角にも日本国中攘夷の
真盛りでどうにも手の着けようがない。所で私の身にして見ると、
是れまでは世間に攘夷論があると云う
丈けの事で、自分の身に
就て
危いことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などゝ云うことのあろう筈はない。又江戸に出て来たからとて怖い敵もなければ何でもないと
計り
思て居た所が、サア今度
欧羅巴から
帰て来たその上はなか/\
爾うでない。段々
喧しくなって、外国貿易をする商人が
俄に店を片付けて
仕舞うなどゝ
云うような事で、浪人と
名くる者が
盛に出て来て、
何処に居て何をして居るのか分らない。丁度今の
壮士と云うようなもので、ヒョコ/\妙な処から出て来る。外国の貿易をする商人さえ店を仕舞うと云うのであるから、
況して外国の書を
読で
欧羅巴の制度文物を
夫れ
是れと論ずるような者は、どうも
彼輩は
不埒な奴じゃ、
畢竟彼奴等は
虚言を
吐て世の中を
瞞着する
売国奴だと云うような評判がソロ/\
行れて来て、ソレから浪士の
鋒先が洋学者の方に向いて来た。是れは誠に
恐入た話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。是れはマア何処まで小さくなれば
免るゝかと云うと、幾ら小さくなっても免れない。
到頭仕舞には洋書を読むことを
罷めて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお
詫が済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。
此方が
無頓着に思う事を
遣ろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。
既に私共と同様幕府に雇われて居る
飜訳方の中に
手塚律蔵と云う人があって、その男が長州の屋敷に
行て何か外国の話をしたら、屋敷の若者等が
斬て仕舞うと云うので、手塚はドン/″\駈出す、若者等は刀を
抜て
追蒐る、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃切れずに、寒い時だが日比谷
外の濠の中へ飛込んで
漸く助かった事もある。夫れから同じ長州の藩士で
東条礼蔵と云う人も
矢張り私と同僚
飜訳方で、小石川の
素と
蜀山人の
住居と
云う家に
住で居た。所がその家に
所謂浮浪の徒が
暴込んで、東条は裏口から逃出して
漸と
助ったと云うような
訳けで、いよ/\洋学者の身が
甚だ
危くなって来て油断がならぬ。
左ればとて自分の思う所、
為す仕事は
罷められるものじゃない。
夫れから私は構わない、構おうと
云た所が構われもせず、
罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\
言語挙動を
柔かにして決して人に
逆わないように、社会の利害と云うような事は
先ず気の知れない人には云わないようにして、
慎める
丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は
専ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に
就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年
開版した福澤全集の
緒言に
詳に
書てあるから
是れは見合せるとして、その著訳事業中、
即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に
殖えるからその教授法に力を
尽し、又家の
活計は幕府に雇われて
扶持米を
貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には
頓と
頓着せず、怖い半分、面白い半分に
歳月を
送て居る。
或時可笑い事があった。私が新銭座に
一寸住居の時(新銭座塾に
非ず)、
誰方か知らないが御目に掛りたいと
云てお
侍が参りましたと下女が
取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が
片眼で、長い刀を
挟して居ますと
云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て
被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと
思て、
夫れから私は
窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で
原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず
罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、
何ぜ名を云て
呉れんか、
乃公は怖くて
堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に
大笑した事がある。
爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
夫れから攘夷論と云うものは次第々々に増長して、徳川将軍
家茂公の上洛となり、続いて
御親発として長州征伐に出掛けると云うような事になって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、
英吉利の軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の
侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人は
只懇親を
以て交ろうと思うて
是れまでも有らん限り
柔かな手段ばかりを
執て居た、
然るに日本の国民が乱暴をして
剰え人を殺した、
如何にしてもその
責は日本政府に
在て
免るべからざる罪であるから、この
後二十日を期して決答せよと
云う次第は、政府から十万
磅の償金を取り、
尚お二万五千磅は薩摩の大名から取り、その上罪人を
召捕て眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の
公文が来た。その時に私共が
飜訳する役目に
当て居るので、夜中に呼びに来て、赤坂に
住で居る外国奉行
松平石見守の宅に
行たのが、私と
杉田玄端、
高畑五郎、その三人で出掛けて行て、夜の明けるまで飜訳したが、
是れはマアどうなる事だろうか、大変な事だと
窃に心配した所が、その翌々二十一日には将軍が
危急存亡の大事を
眼前に見ながら
其れを
棄てゝ
置て上洛して
仕舞うた。
爾うするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、所がもう二十日
待て
呉れろ、ソレは待つの待たないのと
捫着の末、どうやら
斯うやら待て貰うことになった。所でいよ/\償金を払うか払わないかと
云う幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動と云うものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争がある
抔と云う評判、その二十日の期間も
既に
過去て、又十日と云うことになって、
始終十日と二十日の期限を
以て次第々々に
返辞を
延して行く。私はその時に新銭座に
住で居たから、
迚もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより
外に
仕様がないと、ソロ/\
迯仕度をすると云うような事で、ソコで
愈よ期日も
差迫て、今度はもう
掛値なし、一日も
負からないと云う日になった、と云うのを私は政府の
飜訳局に居て
詳に
知て居るから
尚お
堪らない。
その飜訳をする
間に、時の
仏蘭西のミニストル・ベレクルと云う者が、どう云う気前だか知らないが大層な手紙を政府に出して、今度の事に
就て仏蘭西は全く
英吉利と同説だ、愈よ
戦端を開く時には英国と共々に軍艦を以て品川沖を
暴れ
廻ると、乱暴な事を云うて来た。誠に
謂れのない話で、丸でその
趣は今の西洋諸国の政府が支那人を
威すと同じ事で、政府は
唯英仏人の剣幕を見て心配する
計り。私には
能くその事情が
分る、分れば分るほど気味が悪い。
是れはいよ/\
遣るに違いないと
鑑定して、内の方の政府を見れば
何時迄も説が決しない。事が
喧しくなれば閣老は皆病気と称して出仕する者がないから、政府の中心は
何処に
在るか
訳が分らず、
唯役人達が思い/\に小田原評議のグヅ/\で、
愈よ期日が明後日と
云うような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私の処に
疵の
付た
箪笥がある。愈よ荷物を片付けようと云うので箪笥を
細引で
縛て、青山の方へ
持て行けば大丈夫だろう、何も
只の人間を害する
気遣はないからと云うので、青山の
穏田と云う処に
呉黄石と云う
芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私は兼て知て居るから、呉の処に行てどうか
暫く
此処に
立退場を頼むと相談も
調い、愈よ青山の方と思うて荷物は一切
拵えて名札を付けて
担出す
計りにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に
行て見れば、大砲の口を海の方に向けて
撃つような構えにしてある。
是れは
今明日の中にいよ/\事は始まると覚悟を定めた。その前に幕府から
布令が出てある。
愈よ
兵端を開く時には
浜御殿、今の
延遼館で、
火矢を
挙げるから、ソレを
相図に用意致せと
云う市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので、「
瓢箪(兵端)の開け初めは冷
(火矢)でやる」と川柳があったが、是れでも時の事情は分る。
夫れから又
可笑しい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと
思て、
出入の米屋に
申付けて米を三十俵
買て米屋に預け、仙台味噌を一樽買て
納屋に入れて
置た。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を
如何すると云うた所が、
担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を
背負て駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば
宜いと
云たが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽は
棄てゝ行くより
外はないと云て、その騒動の
真盛りに大笑いを
催した事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時
二分金で百両か百五十両
持て居たから、この金を
独りで持て居ても策でない、イザと
云えば誰が
何処にどう行くか分らない、金があれば
先ず
餒えることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人で
持て居るよりか、
是れは
銘々に分けて持つが
宜かろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、
頭割にして銘々ソレを腰に
巻て行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は
愈よ戦争の始まり、
外に道はないと覚悟した所が、
茲に幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で
小笠原壹岐守と云う閣老がある。
夫れから横浜に
浅野備前守と云う奉行がある。
ソレ等の人が極秘密に
云合せた事と見えて、五月の初旬、十日前後と思いますが、愈よ今日と云う日に、前日まで大病だと
云て寝て居た小笠原壹岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に
乗て品川沖を出て行く。スルト
英吉利の
砲艦が壹岐守の船の尻に
尾いて走ると云うのは、壹岐守は
上方に行くと云て品川湾を出発したから、
若し本当にその方針を
取て
本牧の鼻を
廻れば英人は後から砲撃する
筈であったと云う。所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ
這入て、自分の独断で
即刻に償金を
払うて
仕舞た。十万
磅を時の相場にすればメキシコ
弗で四十万になるその
正銀を、英公使セント・ジョン・ニールに渡して
先ず一段落を終りました。
幕府に要求した十万
磅の償金は五月十日に
片付て、
夫れから今度はその英軍艦が鹿児島に
行て、被害者遺族の手当として二万五千磅を要求し、
且つその罪人を英国人の見て居る所で死刑に処せよと
云う掛合の
為めに、六艘の軍艦は鹿児島湾に
廻て
錨を
卸した。スルト薩摩藩から
直ちに来意訪問の使者が来る。英の
旗艦の水師提督はクーパー、司令長官はウ※
[#小書き片仮名ヰ、180-7]ルモット、船長はジヨスリングと云う人で、
書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答
如何と
待て居る。所がなか/\容易な事に
返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、
即ち西洋から薩摩藩に
買取た船が二艘あるその二艘の船を
談判の抵当に取ると云う
趣意で、桜島の側に
碇泊してあった
二艘の船を英の軍艦が
引張て来ると云う
手詰の場合になった。スルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/″\
大合戦になった、と云うのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日頃である。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことゝ
思て錨を
挙げずに居た所が、
俄に陸の方で
撃始めたものだから、サア錨を上げようとすると
生憎その時は大変な暴風、
加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる
遑がないと云うので、錨の
鎖を
切て夫れから運動するようになった。
是れが例の
英吉利の軍艦の
錨が薩摩の手に
入た由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、
専ら旗艦を
狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が
旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官と
甲比丹と二人の将官が即死して船中の騒動、又船から陸に
向ての砲撃もなか/\
劇しく、海岸の建物は大抵
焼払うて是れも容易ならぬ損害であったが、
詰る所、勝負なしの戦争と
云うのは、薩摩の方は
英吉利の軍艦を
撃て二人の将官まで殺したけれどもその船を
如何することも出来ない、又軍艦の方でも陸を焼払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に
帰たのは六月十日前の頃であったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだ後で彼の旗艦に命中した破裂弾の
砕片を見て、船中の英人等が
頻りに語り合うに、「こんな弾丸が日本で出来る
訳はない。イヤ
能く見れば
露西亜製のものじゃ。露西亜から日本に送ったのであろうなどゝ評議
区々なりしと
云う。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、
元来英吉利と露西亜との間柄は犬と猿のようで、
相互に色々な
猜疑心がある。今日に至るまでも仲は
好くないように見える。
それは
扨置き
茲に薩摩の船を二艘
此方に
引張て来ると云う時に、その船長の
松木弘安(後に
寺嶋陶蔵又後に
宗則)、
五代才助(後に五代
友厚)の両人が、船奉行と云う名義で
云わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、
乗込の水夫などは
其処から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し
談じて
窃にその船の火薬車に
導火を
点けて
置たから、間もなく船は二艘とも焼けて
仕舞た。
夫れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは
捕虜でもなければ
御客でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに
違はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ
切り少しも消息が分らない。私はその前年松木と
欧羅巴に一緒に
行たのみならず、以前から私と
箕作と松木と云うものは
甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に
乗たと云うが
如何したろうかと
只その
噂をするばかりで尋ねる所もない。英人が
若しこの両人を薩摩の方へ
還せば、ソリャもう若武者共が
直ぐに殺すに
極て居る。
然ればと
云て
之を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア
嫌疑の筋があるとか取調べる
廉があるとか
云て
取敢えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に
還したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。
如何したろうか、
如何にも不審な事じゃと
唯箕作と私と
始終その話をして居た。所が
凡そこの事が済んで一年ばかり
経てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
松木の話は次にして
置て、横浜に
英吉利の軍艦が
帰て来た跡で、薩摩から談判の
為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、
岩下佐治右衛門、
重野孝之丞(後に
安繹)、その
外に黒幕見たような役目を
帯びて来たのが
大久保市蔵(後に
利通)、その三人が出て来た
処で、第一番に薩摩の望む所は
兎にも
角にもこの戦争を
暫く
延引して
貰いたいと云う注文なれども、その周旋を
誰に頼むと
云う手掛りもなく当惑の
折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは
清水卯三郎(
瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に
付ては
至極熱心、
先ず当時に
於てはその身分に
不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、
若し薩摩の方から日本文の
書翰を出されたときには
之を読むに困る。
通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから
差支ないけれども、日本文の書翰を
颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は
平生勇気もあり
随分そんな事の好きな人で、
夫れは面白い
行て見ようと
容易承諾し、横浜税関の免状を
申受けて
旗艦に乗込み、先方に
着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の
大久保市蔵は
取敢えず清本卯三郎を頼み、
兎に
角にこの戦争を
暫く
延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、
取次の者の言うに、
斯る重大事件を
談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら
宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小
軽重はない、談判の委任を受けて居れば
沢山だ、夫れでも
拙者と話は出来ないかと少しく理屈を
云た所が、そう云う
訳けなら直ぐに
遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を
話掛けると、なか/\聞きそうにも
為ない。イヤもう
既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は
唯今支度最中、
然るにこの戦争の時期を
延して待つなどゝは
謂れのない話だ
云々と、思うさま
威嚇して聞きそうな
顔色がない。ソコで清水はその挨拶を
承って薩人に報告すると、重野が、
迚もこりゃ
六かしそうだ、
兎に
角に自分達が
自から談判して見ようと
云て、
遂に薩英談判会を開き、
種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、
高は二万五千
磅、時の相場にして
凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして
島津薩摩守の名義では払われないと
云うので、分家の島津
淡路守の名を
以て金を渡すことにして、
且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも
何処にか逃げて分らないから、
若し
分たらば死刑と云うことで
以て事が収まった。その談判の席には
大久保市蔵は出ない。
岩下と
重野の両人、それから幕府の
外国方から
鵜飼弥市、
監察方から
斎藤金吾と
云う人が立会い、いよ/\書面を
取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の
朔日か二日頃であった。
扨夫れから私の気になる
松木、
即ち
寺島の話は
斯う
云う次第である。松木、
五代が薩摩の船から英の軍艦に
乗移た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に
聞て居たこともある
至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ
如何して
此処に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような
訳けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この
儘に
何時迄もこの船の中に居られるものでない。マア
如何かして上陸したい、と云うその事に
付ては清水卯三郎が
一切引受ける。それは松木と五代は極々
日蔭者で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が
先ず横浜に
上て、夫れから
亜米利加人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、
如何でも周旋しよう、
兎に
角に
艀船に
乗て神奈川の方に上る趣向に
為よう、その船も何も世話をして
遣ろうと云うことになった。所でアドミラルが
如何云うかソレに
聞て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸
差支なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと
諜し合せて、
落人両人の者は夜分
窃にその
艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から
上る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目
毎に今の
巡査交番所見たようなものがずっと
建て居て、一人でも径しいものは通行を
咎めると
云うことになって居るから、なか/\大小などを
挟して行かれるものでない。ソコで大小も
陣笠も
一切の物はヴエンリートの家に
預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に
下てとう/\
羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に
這入るとした所で、マダ幕府の探偵が
甚だ恐ろしい。
只の宿屋には泊られないから、江戸に
這入たらば
堀留の
鈴木と云う船宿に清水が先へ
行て
待て居るから
其処へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は
夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に
向て足を進める中に夜が明けて
仕舞い、コリャ大変と
夫れから駕籠に
乗て
面を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待て居るので万事の都合
宜く、その船宿に二晩
窃に
泊て、
夫れから清水の故郷
武州埼玉
郡羽生村まで二人を連れて来て、
其処も何だか気味が悪いと
云うので、又その
清水の親類で奈良村に
吉田一右衛門と
云う人がある、その別荘に移して、
此処は
極淋しい
処で見付かるような
気遣いはないと安心して二人とも収め込んで
仕舞い、
五代はその後五、六ヶ月して
窃に長崎の方に行き、
松木は
凡そ一年ばかりも
其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を
心頭に掛けてその所在を探索し、
大久保、
岩下、
重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には
肥後七左衛門、
南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水
卯三郎が
知て
居はしないかと思い
付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて
云われない、
不意と捕まえられて首を
斬られるのではなかろうかと
思て真実が
吐かれない。一応は
唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々
疑て居る様子。
爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、
如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して
遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて
置たものだから出したくないと、自分の思案に
余て、
夫れから江戸の洋学の大家
川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に
行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが
宜かろう、薩藩人が爾う云うなら
有のまゝに
明して渡して
遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も
斯も自分が世話をした事で
一切知て居る、早速御引渡し申すが、
只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ
松木が始めて薩人に面会して、この時から松木
弘安を改めて
寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも
甚だ秘密にして、事実を
知て居る者は藩中に
唯七人しかないと清水が
聞たそうだが、その七人とは多分
大久保、
岩下なぞでしょう。
その時は
既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日
肥後七左衛門が
不意と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても
差支はないかと
云う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、
箕作と
遇いさえすればその
噂をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「
何処に居るか。「江戸に居る、
兎に
角に
此処に来て宜いか。「宜いとも、
大宜しだ。何も
憚ることはない、少しも構わない、
直ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に
冥土の人に
遭たような気がして、ソレカラいろ/\な話を
聞て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も
箇も
分て
仕舞た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア
久振りで飲食を共にして、
何処に居るかと聞けば、
白銀台町に
曹某と
云う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に
潜んで居ると云う。その日は
先ずその
儘分れて、
夫れから私は
直ぐに
箕作の処に事の次第を
云て
遣て、箕作も
直ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の
麑島戦争の話などもあって、その戦争の事に
就てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから
此処で
之を略し、
扨寺島の身の上は
如何だと云うに、薩摩の方は大抵
是れで
宜しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから
爾う恐れる事もない
訳け。ソコで寺島は何をして
喰て居るかと聞けば、今は本藩の
飜訳などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも
乃公は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に
導火を
点けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を
持て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に
碇泊中
菓物が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に
乗じて
斬込もうとして出来なかったと云うような
種々様々な話がありますが、それはマア止めにして
錨の話。
その
錨を
切たと云うことは
清水卯三郎が船に
乗て見て居たばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に
遇て、
那の時に英艦の方では錨を
切たのだから拾い
挙げて
置たら
宜かろうと
云た所が、薩摩でも余り気に
留めなかったと見えて、その錨は何でも漁夫が挙げたと云う話だ。ソレで錨は薩摩の手に
這入たが、二万五千
磅の金を渡して
和睦をしたその時に、英人が手軽に錨を
還して貰いたいと云うと、
易い事だと
云て何とも思わずに
古鉄でも渡す積りで返して
仕舞た様子だが、前にも云う通り戦争の
負勝は分らなかったのでしょう、
何方が
勝たでもない、錨を切て将官が二人死んで水兵は上陸も出来ずに帰たと云えばマア
負師、
夫れから又薩摩の方も陸を荒されて居ながら
帰て行く船を
追蒐けて行くこともせず
打遣って
置たのみならず、戦争の翌朝英艦から陸に
向て発砲しても陸から応砲もせぬと云えばこりゃ薩摩の負師のように当る、勝たと云えば
何方も勝た、負けたと云えば
何方も負けた、
詰り勝負なしとした所で、何でも錨と云うものは大事な物である、ソレを浮か/\と還して
仕舞たと云うのは誠に馬鹿げた話だけれども、当時の日本人が国際法と云うことを知らないのはマアこの位なもので、
加之ならず本来今度の生麦事件で英国が一私人殺害の
為めに大層な事を日本政府に
云掛けて、
到頭十二万五千
磅取たと
云うのは理か非か、
甚だ疑わしい。三十余年前の時節柄とは云え、
吾々日本人は今日に至るまでも不平である。
夫れから薩摩から戦の日延べを
云出したその時に、英公使の
云振りが
威嚇したにも
威嚇さぬにもマア大変な剣幕で、悪く
云えば日本人はその
威嚇を喰たようなもので、必竟何も知らずに夢中でこの事が
終て
仕舞た。今ならばこんな馬鹿げた事は
勿論なかろうが、
既にその時にも
亜米利加人などは日本政府で払わなければ
宜いがと
云て居たことがある。英公使は
威嚇し
抜て、その上に
仏蘭西のミニストルなどが横合から出て威張るなんと云うのは、丸で狂気の沙汰で
訳けが分らない。ソレで事が済んだのは
今更ら何とも評論のしようがない。
所で京都の方では
愈よ五月十日(文久三年)が攘夷の期限だと云う。ソレで
和蘭の商船が下ノ関を通ると、下ノ関から鉄砲を
打掛けた。けれども幸に
和蘭船は沈みもせずに
通たが、ソレがなか/\大騒ぎになって、世の中は
益々恐ろしい事になって来た。所でその
歳の六月十日に緒方洪庵先生の不幸。その前から江戸に出て来て
下谷に居た緒方先生が、急病で大層
吐血したと云う
急使に、私は実に
胆を
潰した。その二、三日前に先生の処へ行てチャント様子を
知て居るのに、急病とは何事であろうと、取るものも
取敢えず
即刻宅を駈出して、その時分には人力車も何もありはしないから、新銭座から
下谷まで
駈詰で緒方の内に飛込んだ所が、もう
縡切れて
仕舞た跡。
是れはマア
如何したら
宜かろうかと丸で夢を見たような
訳け。道の近い門人共は
疾く先に来て、後から来る者も多い。三十人も五十人も詰掛けて、
外に用事もなし、今夜は
先ずお通夜として皆起きて居る。所が狭い家だから大勢
坐る処もないような次第で、その時は恐ろしい暑い時節で、坐敷から玄関から台所まで一杯人が詰て、私は夜半玄関の
敷台の処に腰を掛けて居たら、その時に
村田蔵六(後に
大村益次郎)が私の隣に来て居たから、「オイ村田君――君は
何時長州から
帰て来たか。「この間
帰た。「ドウダエ
馬関では大変な事を
遣たじゃないか。何をするのか
気狂共が、
呆返た話じゃないかと云うと、村田が眼に
角を立て、「何だと、遣たら
如何だ。「如何だッて、この世の中に攘夷なんて丸で気狂いの沙汰じゃないか。「気狂いとは何だ、
怪しからん事を云うな。長州ではチャント
国是が極まってある。あんな
奴原に
我儘をされて
堪るものか。
殊に
和蘭の奴が何だ、小さい癖に横風な
面して居る。
之を
打攘うのは
当然だ。モウ防長の士民は
悉く
死尽しても許しはせぬ、
何処までも
遣るのだと云うその剣幕は以前の村田ではない。実に思掛けもない事で、是れは変なことだ、妙なことだと思うたから、私は
宜加減に話を結んで、
夫れから箕作の処に来て、大変だ/\、村田の剣幕は
是れ/\の話だ、実に驚いた、と
云うのはその前から村田が長州に
行たと云うことを
聞て、朋友は皆心配して、あの攘夷の
真盛りに村田がその中に
呼込まれては身が
危い、どうか径我のないようにしたいものだと、寄ると触ると
噂をして居る
其処に、本人の村田の話を聞て見れば今の次第、実に
訳けが分らぬ。一体村田は長州に行て
如何にも怖いと云うことを知て、そうして攘夷の
仮面を
冠て
態とりきんで居るのだろうか、本心からあんな馬鹿を
云う
気遣はあるまい、どうも
彼の気が知れない。「そうだ、実に分らない事だ。
兎にも
角にも一切
彼の男の相手になるな。下手な事を云うとどんな間違いになるか知れぬから、
暫く別ものにして置くが
宜いと、
箕作と私と二人
云合して、
夫れから
外の朋友にも、村田は変だ、滅多な事を云うな、何をするか知れないからと気を付けた。
是れがその時の実事談で、今でも不審が晴れぬ。当時村田は自身
防禦の
為めに攘夷の
仮面を冠て居たのか、又は長州に行て、どうせ毒を
舐めれば皿までと云うような訳けで、本当に攘夷主義になったのか分りませぬが、何しろ私を始め箕作秋坪その
外の者は、
一時彼に驚かされてその
儘ソーッと
棄置たことがあります。
文久三年
癸亥の
歳は一番
喧しい歳で、日本では攘夷をすると
云い、又英の軍艦は生麦一件に
就て
大造な償金を
申出して幕府に迫ると
云う、外交の難局と云うたらば、恐ろしい怖い事であった。その時に私は幕府の外務省の
飜訳局に居たから、その外国との往復
書翰は皆見て
悉く
知て居る。
即ち英仏その他の国々から
斯う云う書翰が来た、ソレに対して幕府から斯う
返辞を
遣た。又
此方から斯う云う事を諸外国の公使に
掛合付けると、
彼方から斯う返答して来たと云う次第、
即ち外交秘密が
明に
分て居なければならぬ
筈。
勿論その外交秘密の書翰を宅に
持て帰ることは出来ない、けれども役所に出て飜訳するか
或は又外国奉行の宅に
行て飜訳するときに、私はちゃんとソレを
諳記して
置て、宅に
帰てからその大意を
書て置く。例えば生麦の一件に
就て英の公使から来たその書翰の大意は
斯様々々、ソレに
向て
此方から斯う返辞を
遣わしたと云うその大意、
一切外交上往復した書翰の大意を、宅に帰ては
薄葉の
罫紙に
書記して
置た。ソレは勿論ザラに人に見せられるものでない。
唯親友間の話の種にする位の事にして置たが、
随分面白いものである。所が私はその
書付を
一日不意と
焼て
仕舞た。
焼て仕舞たと云うことに就て話がある。その時に何とも云われぬ恐ろしい事が
起た、と云うのは神奈川奉行組頭、今で云えば次官と云うような役で、
脇屋卯三郎と云う人があった。その人は次官であるから随分身分のある人で、その人の親類が長州に
在て、
之に手紙を
遣た所が、その手紙を
不意と探偵に取られた。その手紙は普通の親類に
遣る手紙であるから何でもない事で、その文句の中に、誠に
穏かならぬ
御時節柄で心配の事だ、どうか
明君賢相が出て来て何とか始末をしなければならぬ
云々と
書てあった。ソコで幕府の役人がこの手紙を見て、何々、天下が
騒々敷い、ドウカ明君が出て始末を付けて貰うようにしたいと
云えば、
是れは
公方様を
蔑ろにしたものだ、
即ち公方様を無きものにして明君を欲すると
云う
所謂謀反人だと云う説になって、
直ぐに
脇屋を幕府の城中で捕縛して
仕舞た。丁度私が城中の外務省に出て居た日で、大変だ、今脇屋が
捕縛されたと云う中に、縛られては居ないが同心を見たような者が
付て脇屋が廊下を
通て
行た。
何れも皆驚いて、神奈川の組頭が捕まえられたと云うは何事だと
云て、その翌日になって
聞た所が、今の手紙の一件で
斯う/\云う
嫌疑だそうだと云う。
夫れから脇屋を捕まえると同時に
家捜しをして、そうしてその
儘当人は伝馬町に
入牢を
申付けられ、何かタワイもない
吟味の末、牢中で切腹を申付られた。その時に検視に
行た
高松彦三郎と云う人は
御小人目付で私の知人だ。伝馬町へ検視には行たが誠に気の毒であったと、後で彦三郎が私に話しました。ソコで私も脇屋
卯三郎がいよ/\殺されたと云うことを聞て
酷く恐れた、その恐れたと云うのは
外ではない、明君
云々と
云た
丈けの話で
彼が伝馬町の牢に入れられて殺されて仕舞た、
爾うすると私の
書記して
置たものは外交の機密に
係る恐ろしいものである、
若しこれが分りでもすれば
直ぐに
牢に
打込まれて首を
斬られて
仕舞うに
違いないと
斯う
思たから、その時は私は鉄砲洲に居たが、
早々その
書付を
焼て
仕舞たけれども、何分気になって
堪らぬと
云うのは、私がその書付の写しか何かを親類の者に
遣たことがある、
夫れから又
肥後の細川藩の人にソレを貸したことがある、貸したその時にアレを写しはしなかったろうかと
如何も気になって
堪らない、と
云て今頃からソレを荒立てゝ聞きに
遣れば又その手紙が邪魔になる、
既に原本は焼て仕舞たがその写しなどが出て
呉れなければ
宜いが、出て来られた日には大変な事になると
思て誠に
気懸りであった。所が幸に何事もなく王政維新になったので、大きに
安堵して、今では
颯々とそんな事を人に話したりこの通りに速記することも出来るようになったけれども、幕府の末年には決して
爾うでない、自分から
作た
災で、文久三年
亥歳から明治元年まで五、六年の
間と云うものは、時の政府に対して
恰も首の負債を
背負ながら、他人に言われず家内にも語らず、自分で自分の身を
窘めて居たのは
随分悪い心持でした。
脇屋の罪に
較べて五十歩百歩でない、外交機密を
漏した奴の方が余程の重罪なるに、その罪の重い方は
旨く
免かれて、何でもない親類に文通した者は首を取られたこそ気の毒ではないか、
無惨ではないか。人間の幸不幸は
何処に
在るか分らない、
所謂因縁でしょう。この一事でも王政維新は私の身の
為めに
難有い。
夫れは
扨置き、今日でも
彼の
書たものを見れば、文久三年の事情はよく
分て、外交歴史の材料にもなり、
頗る面白いものであるが、何分にも首には
易えられず
焼て
仕舞たが、
若しも今の世の中に誰か
持て居る人があるなら見たいものと思います。
夫れから世の中はもう引続いて攘夷論ばかり、長州の下ノ関では
只和蘭船を撃つばかりでなく、その
後亜米利加の軍艦にも発砲すれば、
英吉利の軍艦にも発砲すると
云うような
訳けで、
到頭その尻と云うものは英仏蘭米四ヶ国から幕府に
捩込んで、三百万円の償金を出せと云うことになって、
捫着の末、
遂にその償金を払うことになった。けれども国内の攘夷論はなか/\収まりが付かないで、到頭
仕舞には鎖国攘夷と云うことを云わずに
新に鎖港と
云う名を案じ出して、ソレで幕府から
態々池田播磨守と云う外国奉行を使節として
仏蘭西まで鎖港の談判に
遣わすと云うような騒ぎで、
一切滅茶苦茶、暗殺は
殆んど毎日の
如く、実に恐ろしい世の中になって
仕舞た。
爾う云う時勢であるから、私は
唯一身を
慎んでドウでもして
災を

れさえすれば
宜いと云うことに心掛けて居ました。
兎に
角に
癸亥の前後と云うものは、世の中は唯無闇に
武張るばかり。その武張ると云うのも
自から由来がある。徳川政府は行政外交の局に
当て居るから
拠ろなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだと
云うと、ソリャ鎖国家の
巣窟と
云ても
宜い
有様で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭を
擡げる時代でない。当時少しく世間に向くような人間は
悉く
長大小を
横える。
夫れから江戸市中の剣術家は幕府に
召出されて
巾を
利かせて、剣術
大流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも
体度を改めて来た。
元来その坊主と云うものは城内に出仕して大名
旗本の給仕役を勤める
所謂茶道坊主であるから、
平生は短い
脇差を
挟して大名に
貰た
縮緬の羽織を着てチョコ/\歩くと云うのが
是れが坊主の本分であるのに、世間が
武張るとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、
御家人旗本の
間には
黄平の羽織に
漆紋、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が
始終ソレを
召して居たとかと云うような
云伝えで、ソレが武家社会一面の
大流行。ソレカラ江戸市中
七夕の飾りには、笹に短冊を付けて
西瓜の
切とか
瓜の
張子とか
団扇とか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の
太刀とか
兜とか
云うようなものを吊すようになって、全体の
人気がすっかり昔の武士風になって
仕舞た。
迚も
是れでは
寄付きようがない。
ソコで私は
只独りの身を
慎むと同時に、是れはドウしたって刀は
要らない、
馬鹿々々しい、刀は
売て
仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、
神明前の
田中重兵衛と云う刀屋を
呼で、
悉く
売払て
仕舞た。けれどもその時分はマダ
双刀を
挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た
小刀、
即ち


を着るとき挟す脇差の
鞘を少し長くして刀に仕立て、
夫れから神明前の金物屋で
小刀を
買て短刀作りに
拵えて、
唯印し
丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両
請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ
切で
外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、
戯に居合を
抜て、
随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合
刀はすっかり奥に
仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような
風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、
凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の
間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと
云うと、
唯著書
飜訳にのみ
屈託して歳月を
送て居ました。
夫から慶応三年になって又私は
亜米利加に
行た。
是れで三度目の外国
行。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加行に
就ても
亦なか/\話がある。と云うのは、先年亜米利加の公使ロペルト・エーチ・プラインと云う人が来て居て、その時に幕府で軍艦を
拵えなければならぬと云うことで、亜米利加の公使にその
買入方を頼んで、
数度に渡したその金高は八十万
弗、そうして
追々にその軍艦が出来て来る
筈。ソレで文久三、四年の頃、
富士山と云う船が一艘出来て来て、その
価は四十万弗。所がその後幕府はなか/\な混雑、又亜米利加にも南北戦争と云う内乱が
起たと云うような
訳で、その後一向便りもない。何しろ金は八十万弗渡したその中で、四十万弗の船が来た
丈けでその後は何も来ない。
左りとは
埓が明かぬから、アトの軍艦は
此方から
行て
請取ろう。その
序に鉄砲も
買て来ようと
云うような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは
小野友五郎、この人は
御勘定吟味役と云う役目で御勘定奉行の次席、なか/\時の政府に
於ては権力もあり地位も高い役人である。その人が委員長を命ぜられて、その副長には
松本寿太夫と云う人が命ぜられたと云うことは、その前年の冬に
定まった。
夫れから私もモウ一度行て見たいものだと
思て、小野の家に
度々行て頼んだ。
何卒一緒に連れて行て
呉れないかと
云た所が、連れて行こうと云うことになって、私は小野に
随従して行くことになりました。その
外同行の人は、船を請取るのですから海軍の人も両人ばかり、又
通弁の人も行きました。
この時には
亜米利加と日本との
間に太平海の郵便船が始めて開通したその
歳で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も
掛たと云うのが、今度のコロラドは四千
噸の飛脚船、船中の
一切万事、実に極楽世界で、
廿二日目に
桑港に
着た。着たけれども今とは
違てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに
廻らなければならぬから、桑港に二週間ばかり
逗留して、
其処で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に
乗てあの
地峡を
踰えて、
向側に出て又船に乗て、丁度三月十九日に
紐育に着き、
華聖頓に
落付て、
取敢えず亜米利加の国務卿に
遇うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が
能く分る。
此方を
出立する時から、先方の談判には八十万
弗渡したと
云う請取がなければならぬと云うことは能く
分て居る。所がどうも丸で
一寸とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には
而かも三角の紙切に
僅に何万弗請取りと記して
唯プラインと云う名ばかり
書てあるのが何枚もある。何の
為めにどうして請取たと云う
約定もなければ何にもない。
只金を請取たと云う
丈けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な
殆んど無証拠と
云ても
宜い位。ソコでその事に
就ては出発
前に
随分議論しました。
却て
是れが
宜しい、
此方では
一切万事、
亜米利加の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、
只口で請取たら請取たと
云うた
丈けで沢山だ、是れは只覚書に
数を記した
丈けの事、
固よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を
極めて、
彼方へ行てからその話に及ぶと、
直ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも
宜いと、文句なしに立派に出掛けて来た。
先ず
是れで安心であるとした所で、
此方では軍艦一艘欲しい。
夫れから諸方の軍艦を見て
廻て、是れが
宜かろうと
云て、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て
東艦となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その
外小銃何百
挺か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が
彼方に七、八万
弗残て居る。是れは
亜米利加の政府に預けて
置て、その船を
廻航するに
付て、私共は先に
帰たが、海軍省から
行た人はアトに
残て、そうして亜米利加の船長を一人
雇うて
此方に廻航することになって、夫れで事が
済んだ。丁度船の日本に
着たのは王政維新の明治政府になってから、
即ち明治元年であるが、その事に
就て当時会計を
司って居た
由利公正さんに
遇て後に
聞た所が、ドウもあの時金を払うには誠に
困た、明治政府には金がない。
如何やら
斯うやらヤット何十万弗
拵えて
払たと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が
余て
彼方に預けてある
筈だと云うたら、
爾うかと云って、由利は
大造驚いて居ました。
何処にドウなったか、二重に金を払たことがある。
亜米利加人が取る
訳けはない、
何処かに
舞込んで
仕舞たに
違いない。
それは
扨置き、私の一身に
就てその時
甚だ穏かならぬ事があった、と
云うのは私は幕府の用をして居るけれども、
如何なこと幕府を
佐けなければならぬとか云うような事を考えたことがない。私の主義にすれば第一鎖国が嫌い、古風の門閥無理圧制が大嫌いで、何でもこの主義に
背く者は皆敵のように思うから、
此方が思う通りに、
先方の鎖国家古風家も
亦洋学者を
外道のように
悪むだろう。所で私が幕府の様子を見るに、全く古風のそのまゝで、少しも開国主義と思われない、自由主義と見えない。例えば年来、政府の御用達は
三井八郎右衛門で、政府の用を聞くのみならず、役人等の私用をも周旋するの慣行でした。ソコで今度の米国
行に
付ても、役人が幕府から手当の金を一歩銀で
請取れば、
亜米利加に行くときには
之を洋銀の
弗に
替えなければならぬ。
然るにその時は
弗相場の毎日変化する最中で、両替が
甚だ面倒である。スルト一行中の
或る役人が三井の手代を横浜の旅宿に
呼出し、色々
弗の相場を
聞糺して
扨云うよう、「成程昨今の
弗は安くない、
併し三井にはズットその前安い時に買入れた弗もあるだろう、
拙者のこの
一歩銀はその安い弗と両替して貰いたいと云うと、三井の手代は平伏して、
畏りました、お安い弗と両替いたしましょうと
云て、
幾らか割合を安くして弗を
持て来た。私は
傍に居てこの様子を見て居て「ドウモ無鉄砲な事を言う奴だ、金の両替をするに、安いときに買入れた金と
云て、ドウ云う印があるか、安いも高いもその日の相場に
定まったものを、夫れを相場
外れにせよと云いながら、
愧る
気色もなく平気な顔をして居るのみならず、その人の
平生も
賤しからぬ立派な士君子であるとは驚いた。又三井の手代も
算盤を知るまいことか、チャント
知て居ながら平気で損をして何とも云わぬ。
畢竟人の罪でない、時の気風の
然らしむる所、腐敗の極度だ、こんな政府の
立行こう
筈はないと
思たことがある。
夫れから私共が
亜米利加に
行た所で、その時に日本は国事多端の折柄、徳川政府の方針に万事倹約は勿論、
仮令い政府であろうとも利益あることには着手せねばならぬと云うので、その掛の役人を命じて
御国益掛と云うものが出来た。
種々様々な新工夫の新策を
奉る者があれば、ソレを政府に採用していろ/\な工夫をする。例えば江戸市中の
何処の所に
掘割をして
通船の
運上を取るが
宜しいと云う者もあり、又
或は
新川に
這入る酒に税を課したら
宜かろうとか、
何処の原野の
開墾を引受けてソレで幾らかの運上を納めようと
云う者もあり、又
或る時江戸市中の
下肥を一手に任せてその利益を政府に
占めようではないかと云う説が
起た。スルト
或る洋学者が大に
気
を
吐て、政府が
差配人を無視して下肥の利を
専らにせんとは、
是れは
所謂圧制政府である、昔し/\
亜米利加国民はその本国英の政府より輸入の茶に課税したるを
憤り、貴婦人達は
一切茶を
喫ずして
茶話会の楽しみをも廃したと
云うことを
聞た、
左れば吾々もこの度は米国人の
顰に
傚い、一切
上
を廃して政府を
困らして
遣ろうではないか、この発案の可否
如何とて、一座
大笑を
催したことがある。政府の事情が
凡そ
斯う云う風であるから、今度の一行中にも例の
御国益掛の人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の
価は次第に高くなるに違いない、
依て今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない。「原書買入は
甚だ
宜しい。日本には原書が
払底であるから一冊でも余計に輸入したいと思う所に、
幸なる
哉、今度米国に来て官金を
以て
沢山に買入れ、日本に
持て
帰て原価でドシ/\
売て
遣ろう、
左様なれば誠に
難有い。
如何ようにも勉強して、安いもの適当なものを買入れよう。この儀は
如何で御座ると
尋れば、「イヤ
左様でない、
自から
御国益にする積りだと
云う。「
左すれば政府は商売をするのだ。私は商売の
宰取りをする
為めに来たのではない、けれども政府が
既に商売をすると
切て出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。
何れでも
宜しい、政府が
買た
儘の
価で売て
呉れると
云えば、私はどんなにでも骨を
折て、本を
吟味して値切り
値切て安く買うて売て
遣るようにするが、政府が
儲けると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サア
爰が官商分れ目だ。
如何で
御座ると
捩り込んで、大変
喧しい事になって、大に重役の歓心を失うて
仕舞たが、今日より考えれば事の
是非に
拘わらず、随行の身分にして
甚だ
宜くない事だと思います。
夫れから又斯う云う事がある。同行の
尺振八などゝ飲みながら壮語快談、ソリャもう官費の酒だから、船中の事で安くはないが何に構うものか、ドシ/\飲み次第喰い次第で、
颯々と酒を注文して部屋に
取て飲む。サアそれからいろ/\な事を
語出して、「ドウしたってこの幕府と云うものは
潰さなくてはならぬ。
抑も今の幕政の
様を見ろ。政府の御用と云えば、
何品を買うにも御用だ。酒や魚を買うにも自分で勝手な
値を付けて買て居るではないか、上総房州から船が
這入ると、幕府の御用だと
云て一番先にその魚を
只持て行くようなことをして居る。ソレも将軍様が
喰うならばマア
宜いとするが、
爾うではない、料理人とか云うような奴が只
取て来て、その魚を又
売て居るではないか。この一事
推して他を知るべし、実に鼻持のならぬ政府だ。ソレも宜いとして
置て、この攘夷はドウだ。自分がその局に
当て居るから
拠ろなく
渋々開国論を唱えて居ながら、その実を
叩いて見ると攘夷論の張本だ。
彼の品川の
海鼠台場、マダあれでも足りないと云て
拵え掛けて居るではないか。
夫れから又
勝麟太郎が兵庫に
行て、七輪見たような丸い白い台場を築くなんて何だ。攘夷の用意をするのではないか。そんな政府なら叩き潰して仕舞うが宜いじゃないかと云うと、尺振八が、爾うだ、その通りに違いない。けれども
斯うして船に
乗て
亜米利加に往来するのも、幕府から
入用を出して居ればこそだ。
御同前に
喰て居るものも着て居るものも幕府の物ではないか。夫れを衣食して居ながら、ソレを潰すと云うのは何だか少し気に済まないようではないか。「それは構わぬ。御同前に
此身等が政府の御用をすると云うのは、何も人物がエライと云て用いられて居るのではない、
是れは横文字を
知て居るからと
云うに過ぎない。
之を
喩えば
革細工だから
穢多にさせると
云うと同じ事で、マア
御同前は
雪駄直しを見たような者だ。幕府の殿様方は汚い事が出来ない、幸い
此処に革細工をする奴が居るからソレにさせろと云うので、デイ/\が大きな屋敷の
御出入になったのと少しも変ったことはない。ソレに遠慮会釈も
糸瓜も
要るものか、
颯々と
打毀して
遣れ。
只此処で困るのは、
誰が
之を打毀すか、ソレに当惑して居る。
乃公等は自分でその
先棒になろうとは思わぬ。
誰が之を
打毀すか、之が大問題である。今の世間を見るに、之を毀そうと
云て騒いで居るのは
所謂浮浪の徒、
即ち長州とか薩州とか云う攘夷藩の浪人共であるが、
若しも
彼の浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりもマダ今の幕府の方が
勝しだ。けれども
如何したって幕府は
早晩倒さなければならぬ、
唯差当り倒す人間がないから仕方なしに見て居るのだ。
困た話ではないかなどゝ、
且つ飲み且つ語り、部屋の中とは云いながら、人の出入りを
止めるでもなし、
傍若無人、大きな声でドシ/\論じて居たのだから、
爾う云うような話もチラホラ重役の耳に聞えたことがあるに
違いない。
サア
夫れから江戸に
帰た所が、前にも
云う通り私は幕府の外務省に出て
飜訳をして居たのであるが、外国奉行から
咎められた。ドウも貴様は
亜米利加行の御用中不都合があるから
引込んで謹慎せよと云う。
勿論幕府の引込めと云うのは誠に楽なもので、外に出るのは一向構わぬ。
只役所に出さえしなければ
宜しいのであるから、一身の
為めには何ともない。
却て暇になって
難有い位のことだから、命令の通り
直ぐ引込んで、その時に西洋旅案内と云う本を
書て居ました。
亜米利加から
帰て日本に
着たのはその
歳の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\
喧しい。私は
唯家に
引籠て生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に
行て居るとか何とか
云う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に
与みして居るから弟も変だと云うのは、私が
動もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は
潰すが
宜い
杯云うから、
自からそんな評判も立つのであろうが、何は
扨置き十余年前にこの世を
去た兄が鹿児島に居る
訳けもなし、俗世界の流言として
聊か弁解もせず、又幕府に対しても
所謂有志者中には
種々様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は
一切関係せず、
唯独り世の中を眺めて居る
中に、段々時勢が切迫して来て、
或日中
嶋三郎助と
云う人が私の処に来て、ドウして
引込んで居るか。「
斯う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、
直ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「
宜しい、拙者がすぐに出して
遣ると云て、
夫れからその時に
稲葉美濃守と云う老中があって、ソコへ中嶋が
行て、福澤を
引込まして置かないで出すようにしたら
宜かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根
塔沢に隠居して居るあの
老爺さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の
与力、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に
立てある。
全体今度の
亜米利加行に
就て
斯く私が
擯斥されたと云うのは、何か私が独り
宜いようにあるけれども、実を申せば
左様でない、と云うのは
元と私は亜米利加に行きたい/\と云て
小野友五郎に頼み、同人の信用を得て随行員となった一人であれば、一切万事長者の命令に従いその思う通りの事をしなければ
済まない
訳けだ。所が実際は
爾うでなく、
始終逆らうような事をするのみか、
明に命令に
背いたこともある。例えば彼の在留中、
小野も立腹したと見え、私に
向て、
最早や御用も済みたればお前は今から
先きに帰国するが
宜しいと
云うと、私が不服だ。「
此処まで連れて来て散々御用を勤めさせて、用が少なくなったからと
云て途中で帰れと云う権力は長官にもなかろう。私は日本を出るとき閣老にお
暇乞をして出て来た者である、早く云えば御老中から
云付けられて来たのだ。お前さんが帰れと云ても私は帰らないとリキンダのは、私の方が無法であろう。
又或日食事の時に私が何か話の
序に、全体今の幕府の気が知れない、攘夷鎖港とは何の
趣意だ、
之が
為めに品川の台場の増築とは何の
戯れだ、その台場を築いた者はこのテーブルの中にも居るではないか、こんな事で日本国が
保てると思うか、日本は大切な国だぞなどゝ、公衆の前で公言したような事は、私の方こそ気違いの
沙汰である。成程小野は頑固な人に
違いない、けれども私の不従順と云うことも十分であるから、
始終嫌われたのは
尤も
至極、少しも
怨む所はない。
その
歳も段々
迫て、とう/\慶応三年の
暮になって、世の中が
物騒になって来たから、生徒も自然にその影響を
蒙らなければならぬ。国に帰るもあれば
方々に行くもあると
云うような
訳けで、学生は次第々々に
少くなると同時に、今まで私の
住で居た
鉄砲洲の
奥平の
邸は、外国人の居留地になるので幕府から
上地を命ぜられ、
既に居留地になれば私も
其処に居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、
新銭座の
有馬と云う大名の中屋敷を
買受けて、
引移るや
否や鉄砲洲は居留地になり、
明くれば慶応四年、
即ち明治元年の正月早々、
伏見の戦争が始まって、将軍
慶喜公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって
仕舞た。即ち
是れが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。
抑も王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない
顛末を
明にしなければならぬ。
素と私は小士族の家に
生れ、その頃は封建時代の事で日本国中
何れも同様、藩の制度は
守旧一偏の有様で、藩士
銘々の分限がチャント
定まって、
上士は上士、
下士は下士と、箱に入れたようにして、その
間に少しも
融通があられない。ソコで上士族の家に生れた物は親も上士族であれば子も上士族、百年
経てもその分限は変らない。
従て小士族の家に生れた者は、
自から上流士族の者から常に
軽蔑を受ける。人々の
智愚賢不肖に
拘わらず、上士は下士を目下に見
下すと
云う
風が
専ら行われて、私は少年の時からソレに
就て
如何にも不平で
堪らない。
所がその不平の
極は、人から侮辱されるその侮辱の事柄を
悪み、
遂には人を忘れて
唯その事柄を見苦しきことゝ思い、門閥の
故を
以て
漫に威張るは男子の
愧ずべき事である、見苦しきことであると云う観念を生じ、例えば上士下士
相対して上士が
横風である、私は
之を見てその上士の
傲慢無礼を
憤ると同時に、心の中では
思直して、この馬鹿者めが、何も知らずに夢中に
威張て居る、見苦しい奴だと
却て気の毒に思うて、心中却て
此方から
軽蔑して居ました。私がその時
老成人であるか
又は
仏者であったら、人道
世教の
為めに
如何とか、又は平等を愛して差別を排するとか何とか
云う説もあろうが、十歳以上十九か
二十歳の少年にそんな
六かしい奥ゆかしい
考のあるべき
筈はない。
唯人間の
殻威張は見苦しいものだ、威張る奴は恥知らずの馬鹿だとばかり
思て居たから、
夫れゆえ藩中に居て人に軽蔑されても侮辱されても、その立腹を他に移して他人を
辱かしめると云うことはドウしても出来ない。例えば私が小士族の身分で上流に対しては小さくなって居なければならぬけれども、順を云えば又私より以下の者が幾らもあるから、その以下の者に
向て自分が軽蔑された
丈けソレ丈け軽蔑して
遣れば、
所謂江戸の
敵を長崎で
討て、勘定の立つようなものだが、ソレが出来ない。出来ない所ではない、その反対に私は
下の方に向て大変丁寧にして居ました。
是れは私独りの発明でない、私の父母共に
爾う云う風があったと推察が出来ます。前にも
云た通り、私の父は
勿論漢学者で、身分は私と同じ事であるから、
定めて上流士族から
蔑視されて居たでしょう。所が私の父は決して他人を軽蔑しない。例えば
江州水口の
碩学中村栗園は父の実弟のように親しくして居ましたが、
元来栗園の身分は
豊前中津の
染物屋の息子で、所謂素町人の子だから、藩中士族は誰も相手になるものがない、けれども私の父はその人物を愛して、身分の相違を
問わず
大層丁寧に取扱うて、大阪の倉屋敷の家に
寄寓させて
尚お
種々に周旋して、とう/\
水口の儒者になるように取持ち、その間柄と
云うものは
真に骨肉の兄弟にも
劣らず、父の死後私の代になって、
栗園先生は福澤の家を第二の実家のような
塩梅にして、死ぬまで交際して居ました。シテ見ると
是れは決して私の発明でない、父母から
譲られた性質であると思う。ソレで私は
中津に居て上流士族から
蔑視されて居ながら、私の身分以下の藩士は
勿論、町人百姓に
向ても、
仮初にも
横風に構えてその人々を目下に
見下して、威張るなどゝ云うことは
一寸ともしたことがない。勿論上の者に向て威張りたくも威張ることが出来ない、出来ないから
唯モウ
触らぬように相手にならぬようと、独り
自から
安心決定して居る。
既に心に決定して居れば、藩に居て
功名心と云うものは
更らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が
却て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て
仕舞う
丈けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと
斯う安心を
極めて居ましたので、
夫れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると
云うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に
淡泊で、長い歳月の
間只の一度も建白なんと云うことをしたことはない。
能く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を
盛にするが
宜いとか、兵制を改革するが
宜いとか云うことは書生の
能く
遣ることだ、けれども私に限り只の一度も
云出したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に
向て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ
貰いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、
陰にも
陽にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に
参てからも、本藩の様子を見れば
種々な事を
試みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを
宜いと
云て
誉めもしなければ悪いと云て
止めたこともなし、又
或は大に漢学を
盛にすると云て
頻りに学校の改革などを企てたこともある。
或は兵制は甲州流が
宜いと云て
法螺の貝を
吹て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は
只目前に見て居るばかりで、
善いとも悪いとも
一寸とも云たことがない。
或時に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に
行たらば、その隠居が、ドウも
公武の
間が
甚だ穏かでない、全体どうも
近衛様が
爾うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が
詰らないとか云うような
慷慨談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。
如何にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、
扨ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして
宜いこともあるだろう、
為なくて
宜いこともあるだろう、傍観者から
之を見たらば
嘸堪え
難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば
又爾う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより
外に
仕様がない。余り人の事を批評しても
詰らぬ事です。私は一体そんな事に
就ては何を議論しようとも思わぬと
云て、少しも相手にならなかった。
爾う云う風に構えて、
一切政治の事に
就て口を出そうと思わない。思わないから奥平の
邸で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、
左ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、
唯屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、
或時私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の
御小納戸の処へ
参た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の
付て居る
縮緬の羽織を
呉れた。即ち
御紋服拝領だ。
左まで喜びもしなければ、品物が粗末だと
云て苦情も
云わず、
只難有うございますと云て
拝領して、その帰りに屋敷内に国から来て居る
亡兄の朋友
菅沼孫右衛門と云う人の
勤番長屋に何か用があって
寄た所が、
其処に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを
聞て居ると羽織を
拵えると云うような様子。
夫れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「
左様さ。「
爾うか、羽織には
宜い
縮緬の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は
御紋付だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ
宜い、爾う云う売物があるなら
兎も
角も見たいものだ。「買うと云いなされば
此処に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから
差支ない、買おう。
就ては
此処に呉服屋が来て居るが、
価はドウだ。「
値は呉服屋に付けて貰えば
宜いと云て、夫れからどの位の
価かと云たら、
単羽織の事だから一両三分だと
云う。スグ相談が出来て、その羽織を
売て一両三分の金を持て、私は
鉄砲洲の中屋敷に
帰たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで
認めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。
夫れよりか金の方が宜い。一両三分あれば
昨日見た
彼の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、
至極無邪気な事であった。
爾う
云う風であるから藩に対して
甚だ淡白、淡白と云えば言葉が
宜いけれども、同藩士族の眼から見れば不親切な薄情な奴と見えるも道理で、藩中の若い者等が酒席などで毎度議論を
吹掛ることがあるその時に、私は答えて「不親切薄情と云うけれども、私は何も奥平様に
向て悪い事をしたことはない、
一寸とでも藩政の邪魔をしたことはない、
只命令の
儘に堅く
守て居るのだ。この上に親切と
云てドウ云うことをするのか。私は厚かましい事は出来ない、
之を不親切と云えば仕方がない。今も申す通り私は藩に向て悪い事をしないのみか、
一寸とでも求めたことがなかろう、
或は身分を取立て
呉れろ、禄を増して呉れろと云うような事は、
蔭にも
日向にも
一言でも云たことがあるか。その言葉を
聞た人がこの藩中に在るかドウか、御家老以下の役人に聞て見るが
宜い。厚かましく親切を
尽して、厚かましく
泣付くと云うことは、自分の性質に
於て出来ない。
是れで悪いと云うならば追出すより
外に仕方はあるまい。追出せば
謹んで
命を奉じて出て行く
丈けの話だ。
凡そ人間の交際は売言葉に買言葉で、藩の方から
数代御奉公を
仰付けられて
難有い
仕合せであろうと
酷く恩に
被せれば、失敬ながら
此方にも言葉がある、
数代家来になって正直に勤めたぞ、そんなに恩に被せなくても
宜かろうと
云わねばならぬ。
之に反して藩の方から手前達のような家来が
数代神妙に奉公して
呉れたからこの藩も
行立つと
斯う云えば、
此方も
亦言葉を改め、
数代御恩を
蒙て
難有い
仕合せに存じ奉ります、累代の間には役に立たぬ小供もありました、病人もありました、ソレにも
拘わらず下さる
丈けの家禄はチャンと下さって家族一同安楽に生活しました、主恩海より深し山より高しと、
此方も小さくなってお礼を申上げる。
是れが
[#「是れが」はママ]即ち売言葉に買言葉だ。ソレ
丈けの事は
私も
能く
知て居る。
爾う
無闇に恩に被せる事ばかり
云て、
只漠然と不親切と云うような事を云て貰いたくないと云うような調子で、
始終問答をして居ました。
夫れから長州藩が穏かでない。朝敵と
銘が
付て、ソコで将軍
御親発となり、又幕府から九州の諸大名にも長州に
向て兵を出せと云う命令が
下て、
豊前中津藩からも兵を出す。
就ては江戸に留学して居る学生、
小幡篤次郎を始め十人も居ました、ソレを出兵の御用だから帰れと云て
呼還しに来たその時にも、私は不承知だ。この若い者が
戦争に出るとは誠に危ない話で、
流丸に
中ても死んで
仕舞わなければならぬ、こんな分らない戦争に鉄砲を
担がせると云うならば、領分中の百姓に担がせても同じ事だ、この大事な留学生に
帰て鉄砲を
担げなんて、ソンな不似合な事をするには及ばぬ、
仮令い弾丸に
中らないでも、足に
踏抜きしても損だ、構うことはない病気と
云て
断て
仕舞え、一人も
還さない、ソレが
罷り間違えば藩から
放逐丈けの話だ、長州征伐と云う事の理非曲直はどうでも
宜しい、
兎に
角に学者書生の関係すべき事でないから決して帰らせないと
頑張た所が、藩の方でも
因循であったのか、
強いて呼返すと
云うこともせずに、その罪は
中津に居る父兄の身に降り
来て、その方共の子弟が
命に
背いて帰藩せぬのは
平生の教訓
宜しからざるに
由る
云々の文句で、何でも五十日か六十日の閉門を
申付けられたことがある。
凡そ私の心事はこんな風で、藩に仕えて藩政を
如何しようとも思わず、立身出世して
威張ろうとも思わず、世間で云う
功名心は腹の底から
洗たように何にもなかった。
藩に対しての身の
成行、心の
置どころは右の通りで、
扨江戸に来て居る中に幕府に
雇われて、後にはいよ/\幕府の家来になって
仕舞えと
云うので、高百五十俵、正味百俵ばかりの米を
貰て
一寸と
旗本のような者になって居たことがある。けれども
是れ
亦、藩に居るときと同様、幕臣になって功名手柄をしようと云うような野心はないから、
随て自分の身分が何であろうとも気に
留めたことがない。
一寸とした事だが
可笑しい話があるその次第は、江戸で
御家人の事を
旦那と
云い、
旗本の事を
殿様と云うのが一般の慣例である、所が私が旗本になったけれども、
固より自分で殿様なんて
馬鹿気たことを考える
訳けもなければ、家内の者もその通りで、
平生と少しも
変た事はない。
爾うすると
或日知己の幕人
(たしか福地源一郎であったかと覚ゆ)が玄関に来て殿様はお内か。「イーエそんな者は居ません。「お内においでなさらぬか、殿様は御不在か。「そんな人は居ませんと、取次の下女と
頻に問答して居る様子、狭い家だからスグ私が
聞付けて、玄関に出てその客を座敷に通したことがあるが、成るほど殿様と
云て下女に分る訳けはない、私の家の中で云う者もなければ
聞た者もない言葉だから。
夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で
松木弘安と
箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ
迚も幕府の
一手持は
六かしい、
先ず諸大名を集めて
独逸聯邦のようにしては
如何と云うに、
松木も
箕作も、マアそんな事が穏かだろうと
云う。
夫れから段々身の上話に及んで、今日
吾々共の思う通りを
云えば、
正米を年に二百俵
貰うて
親玉(
将軍の事)の御師匠番になって、思う
様に文明開国の説を
吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を
拍て、
左様だ/\、
是れは
遣て見たいと
云たのは、松木の
功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の
考は大抵皆大同小異、一身の
為めに大きな事は考えない。後にその松木が
寺島宗則となって、
参議とか
外務卿とか
云う実際の国事に当たのは、実は本人の
柄に
於て商売
違いであったと思います。
夫れは
扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪
即ち有志者は京都に
集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが
勿論時の政府でリキンで居ると云う
訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア
其処に
至て私が
如何するかと云うに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。
第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。
第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。
今その次第を語りましょう。
抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。
一寸と
旗本御家人に
出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も
好く行儀も立派であるが、何分にも
外辺ばかりで、物事を
微密に考える
脳力もなければ
又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、
此方は又る影もない陪臣だから手の
着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその
塩梅式は、京都の
御公卿様を取扱うように、
唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見
縊り
抜て居た。
所がその無脳力、無腕力と思う幕府人の剣幕は中々
大造のものである。
些細な事のようだが、当時最も
癪に障るのは旅行の道中で、幕人の
威張り方と云うものは
迚も今時の人に想像は出来ない。私などは譜代大名の家来だから丸で人種違いの
蛆虫同様、幕府の役人は勿論、
凡そ葵の紋所の
付て居る御三家と云い、
夫れから徳川親藩の越前家と云うような大名か又はその家来が道中をして居る処に
打付かろうものならソリャ
堪らない。寒中朝寒い時に宿屋を出て、河を渡ろうと
思て寒風の吹く処に立て一時間も船の来るのを
待て居る、ヤッと船が
着て、やれ嬉しやこの船に乗ろうと
云う時に、不意と後ろから葵の紋の
侍が来るとその者が
先きへその船に
乗て
仕舞う、又アト一時間も待たなければならぬ。
駕籠を
舁ぐ人足でも無人のときには
吾々は
問屋場に
行て頼んでヤッと出来た処に、アトから例の葵の紋が来ると、出来たその人足を横合から取られて仕舞う。
如何なお
心善でも腹を立てずには居られない。
凡そ幕府の圧制
殻威張りは際限のない事ながら、私共が若い時に直接に
侮辱軽蔑を受けたのは、道中の一事でも血気の熱心は
自から禁ずることが出来ず、前後左右に深い考えもなく、
唯癇癪の余りに、こんな悪政府は世界中にあるまいと腹の底から観念して居た。
幕政の殻威張りが癇癪に障ると云うのは、
是れは
此方の血気の熱心であるとして
姑く
差置き、
扨この日本を開いて外国交際をドウするかと云うことになっては、
如何も見て居られない、と云うのは私は若い時から洋書を
読で、
夫れから
亜米利加に行き、その次には
欧羅巴に行き、又亜米利加に行て、
只学問ばかりでなく実地を
見聞して見れば、
如何しても対外
国是は
斯う
云うように
仕向けなければならぬと、ボンヤリした処でも外国交際法と
云うことに気の付くは
当然の話であろう。ソコでその私の
考から
割出して、この徳川政府を見ると
殆んど
取所のない有様で、当時日本国中の
輿論は
都て攘夷で、諸藩残らず攘夷藩で徳川幕府ばかりが開国論のように見えもすれば聞えもするようでありますけれども、正味の精神を吟味すれば天下随一の攘夷藩、西洋嫌いは徳川であると
云て間違いはあるまい。
或は後年に
至て大老
井伊掃部頭は開国論を唱えた人であるとか開国主義であったとか云うような事を、世間で
吹聴する人もあれば
書に
著わした者もあるが、開国主義なんて
大嘘の
皮、何が開国論なものか、存じ
掛けもない話だ。井伊掃部頭と云う人は純粋無雑、
申分のない
参河武士だ。江戸の
大城炎上のとき幼君を守護して
紅葉山に
立退き、周囲に枯草の繁りたるを見て非常の最中
不用心なりとて、
親から腰の一刀を
抜てその草を
切払い、手に幼君を
擁して終夜家外に立詰めなりしと云う話がある。又この人が京都辺の攘夷論者を捕縛して刑に処したることはあれども、
是れは攘夷論を
悪む
為めではない、浮浪の処士が
横議して徳川政府の政権を犯すが故にその罪人を殺したのである。是等の事実を見ても、井伊大老は真実間違いもない徳川家の譜代、豪勇無二の忠臣ではあるが、開鎖の議論に
至ては、
真闇な攘実家と
云うより
外に評論はない。
唯その徳川が開国であると云うのは、外国交際の
衝に
当て居るから余儀なく
渋々開国論に
従て居た
丈けの話で、一幕
捲て
正味の
楽屋を見たらば大変な攘夷藩だ。こんな政府に私が同情を表することが出来ないと
云うのも無理はなかろう。
先ずその時の徳川政府の頑固な一例を申せば
斯う
云うことがある。私がチエーンバーの経済論を一冊
持て居て、何か話の
序に御勘定方の有力な人、
即ち今で申せば大蔵省中の重要の職に居る人にその経済書の事を語ると、
大造悦んで、ドウか目録だけでも
宜いから是非見たいと所望するから、早速
飜訳する中に、コンペチションと云う原語に
出遭い、色々考えた末、競争と云う訳字を造り出して
之に
当箝め、前後二十条ばかりの目録を飜訳して之を見せた所が、その人が之を見て
頻りに感心して居たようだが、「イヤ
茲に
争と云う字がある、ドウも
是れが穏かでない、どんな事であるか。「どんな事ッて是れは何も珍らしいことはない、日本の商人のして居る通り、隣で物を安く売ると云えば
此方の店ではソレよりも安くしよう、
又甲の商人が品物を
宜くすると
云えば、乙はソレよりも一層
宜くして客を呼ぼうと
斯う
云うので、又
或る金貸が利息を下げれば、隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を
謀ると云うような事で、
互に競い争うて、ソレで
以てちゃんと物価も
定まれば金利も
極まる、
之を
名けて競争と云うので
御座る。「成程、
爾うか、西洋の流儀はキツイものだね。「何もキツイ事はない、ソレで
都て商売世界の
大本が
定まるのである。「
成程、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも
争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間
互に
相譲るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の
為めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、
夫れは出来ないから、「ドウも争と云う字が
御差支ならば、外に
飜訳の致しようもないから、丸で
是れは削りましょうと
云て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、
或時英人であったか米人であったか幕府に書翰を
出し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを
承りたいと云て来た。
爾うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と
返辞を
遣たその返辞の中に、開鎖論と云うことを
頓と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか
云いそうなものであるに、ソンな事は
一言半句も
云わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、
或は勅命に
戻り
台命に
背き、その罪
南山の竹を
尽すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て
遣た。私はその
返辞を見て、コリャどうも
仕様がない、
表面には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が
為たくて
堪らないのだ、
迚もモウ手の
着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。
然らば
則ち
之に
取て代ろうと云う
上方の勤王家はドウだと云うに、彼等が
代たら
却てお
釣の出るような攘夷家だ。コリャ又幕府よりか一層悪い。勤王攘夷と佐幕攘夷と名こそ変れ、その実は双方共に純粋無雑な攘夷家でその攘夷に深浅厚薄の別はあるも、
詰る所は双方共に尊攘の仕振りが善いとか悪いとか云うのが争論の点で、その争論喧嘩が
遂に上方の攘夷家と関東の攘夷家と鉄砲を打合うような事になるであろう。ドチラも頼むに足らず、その中にも上方の勤王家は、事実に
於て人殺しもすれば
放火もして居る、その目的を尋ねて見ると、
仮令いこの国を焦土にしても
飽くまで攘夷をしなければならぬと
云う
触込みで、
一切万事一挙一動
悉く攘夷ならざるはなし。
然るに日本国中の人がワッとソレに応じて騒ぎ立て居るのであるから、何としても
之に同情を表して仲間になるような事は出来られない。
是れこそ実に国を滅す
奴等だ、こんな不文不明な分らぬ乱暴人に国を渡せば亡国は限前に見える、情けない事だと
云う
考[#ルビの「かんがえ」は底本では「かんが」]が
始終胸に染込んで居たから、何としても
上方の者に
左袒する気にならぬ。その前後に緒方の隠居は江戸に居る。
是れは故緒方洪庵先生の夫人で、私は
阿母さんのようにして居る恩人である。
或時に隠居が私と
箕作を呼んで、ドウじゃい、お前さん方は幕府に雇われて勤めて居るけれども、
馬鹿々々しい
止しなさい、ソレよりか上方に
行て御覧。ソリャどうもいろ/\な面白いことかあるぜ、と云う。段々
聞て見ると
村田造六
即ち
大村益次郎とか
佐野栄寿(
常民)とか云うような有志者が、皆緒方の家に出入をして居る。ソレを隠居さんが
知て居て、私と箕作の事は自分の子のようにして居たものだから、江戸に居るな、上方に行けと勧めたのも無理はない。その時に私は、誠に
難有うございます、大阪に行けば必ず面白い仕事がありましょうけれども、私はドウも首をもがれたッて攘夷のお供は出来ません、
爾うじゃないかと、箕作と
云て断わったことがありましたが、その位の
訳けで、ドウしてもその上方勢に
与みすることは出来なかった。
夫からモウ一つ私の身に
就て云えば、少年の時から中津の藩を出て
仕舞たので、
所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。
夫れから前にも
云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと
云た所が、
是れは
云わば筆執る
飜訳の職人で、政治に
与かろう
訳けもない。
只職人の積りで居るのだから、政治の
考と云うものは少しもない。自分でも
仕ようとも思わなければ、
又私は出来ようとも思わない。
仮令い又私が奮発して、幕府なり
上方なり何でも都合の
宜い方に飛出すとした処が、人の下流に
就て仕事をすることは
固より出来ず、中津藩の小士族で他人に
侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に
徹して忘れられないから、今
更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。
左れば
大に立身して
所謂政治界の
大人とならんか、是れも
甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式
張て
横風な顔をして人を
目下に見下だすことも
亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を
呼棄にしたことがない。車夫、
馬丁、
人足、
小商人の
如き下等社会の者は別にして、
苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は
勿論、家内の子供を取扱うにもその名を
呼棄にすることは出来ない。
左る
代りに政治社会の歴々とか何とか
云う人を見ても何ともない。
夫れも白髪の老人とでも
云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば
唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。
是れは私が
持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、
之を要するに
如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも
独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
扨慶喜さんが京都から江戸に
帰て来たと
云うその時には、サア大変。
朝野共に物論沸騰して、武家は
勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に
忙しく、酔えるが
如く狂するが如く、人が人の顔を見れば
唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
平生なれば大広間、
溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々
喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\
箕坐を
掻て、怒鳴る者もあれば、ソット
袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の
外国方に
飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日
加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人が


を着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が
其処へ
行て、「イヤ
加藤君、今日はお


で何事に出て来たのかと
云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、
此の時に
慶喜さんが
帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が
躍気となって、
上方の賊軍が出発したから何でも
是れは
富士川で防がなければならぬとか、イヤ
爾うでない、箱根の
嶮阻に
拠て
二子山の処で賊を
鏖殺しにするが
宜い、
東照神君三百年の洪業は一朝にして
棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに
若かずなんて、
種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤
慷慨の
気焔を吐く者が多いから、
云わずと知れた加藤等もその
連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には
大抵分るだろうから、ドウぞ
夫れを僕に知らして
呉れ
給え、
是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて
分てるではないか、是れがいよ/\戦争に
極まれば僕は荷物を
拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば
落付て居る。その和戦
如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を
云て居る時勢ではないぞ、
馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると
即刻迯げて行くのだからと
云たら、加藤がプリ/\
怒て居たことがあります。
夫れから
又或日に
外国方の小役人が出て来て、時に福澤さんは家来は何人お
召連れになるかと
問うから、「家来とは何だと
云うと、「イヤ事急なれば皆この城中に
詰める方々にお
賄を下さるので
人数を調べて居る処です。「
爾うかソレは誠に
難有い、
難有いが私は
勿論家来もなければ主人もない。ドウぞ福澤のお賄だけはお
止めにして下さい。
弥々戦争が始まると云うのに、この城の中に来て悠々と弁当など
喰て居られるものか、始まろうと云う
気振りが見えれば
何処かへ
直ぐに逃出して行きます。
先ず私のお賄は
要らないものとして下さいと、
笑て茶を
呑んで居た。全体を云うと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許す
訳けはない、
直ぐ一刀の下に首が夫くなる
筈だけれども、
是れが
所謂幕末の形勢で、
迚も本式に戦争などの出来る
人気でなかった。
その前に
慶喜さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか
種々様々な役人が出来た。
可笑しくて
堪らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、
何処の代官に誰がなる。
甚だしきに
至ては逃去て来た
後の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは
此方に出来て居る。
夫れから又
御目附になるもあれば、
御使番になるものもある。何でも
加藤弘之、
津田真一(
真道)なども御目附か
御使番かになって居たと思う。私にも御使番になれと
云う。奉書到来と云う儀式で、
夜中差紙が来たが、
真平御免だ、私は病気で
御座ると
云て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(
上方勢)が
這入り込んで、ソロ/\
鎮将府と
云うようなものが江戸に出来て、
慶喜さんは水戸の方に行くと
斯うなったので、
是れは慶応四年
即ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は
芝の
新銭座に屋敷が買ってあったから
引越さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の
為めに塾舎も
拵えなければならず、又私の
住居も拵えなければならぬ。
扨その
普請の一段になった所で、江戸市中
大騒動の最中、
却て都合が
宜い。八百八町
只の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を
搦げて田舎に
引越すと
云うような者ばかり、手
廻しの
宜い家では
竈の
銅壺まで
外して
仕舞て、自分は
土竈を
拵えて飯を
焚て居る者もある。この最中に私が
普請を始めた処が、大工や左官の
悦びと云うものは
一方ならぬ。安いにも/\、何でも飯が
喰われさえすれば
宜い、米の代さえあれば働くと
云う
訳けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は
颯々と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。奥平屋敷の古長屋を
貰て来て、
凡そ百五十坪も普請したが、
入費は
僅か四百両ばかりで
一切仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは
態々
止めに来て、「今頃普請をするものがあるか、
何処でも家を
毀わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする
積りだと
云うから、私は答えて、「ソリャ
爾うでない、今僕が
新に普請するから
可笑しいように見えるけれども、去年普請をして
置たらドウする。いよ/\戦争になって
迯げる時にその家を
担いで行かれるものでない。
成程今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、
仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと
云て颯々と普請をして、果して何の
災もなかったのは投機商売の
中たようなものです。何でも私の処で普請をした
為めに、
新銭座辺は余程立退きが
寡かった。
彼処の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア
引越を見合せようと
云て
思止まった者も
大分あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。
何処から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、
何処かに
迯げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を
掘て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の
椽の下に
這入て居ようか、
若し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に
紀州の屋敷(今の
芝離宮)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に
行た所が、広い庭で土手が二重に
喰違いになって居る処がある。
此処が
宜かろう、
罷り
違ていよ/\ドン/″\
遣るようにならば、
此処へ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くより
外ないと
云うので、いよ/\セッパ
詰たその時に、私は
伝馬船を五、六日の間
雇て、
新銭座の浜辺に
繋いで
置たことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へ
行て、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、
一(総領の
一太郎氏なり)と
捨(次男の
捨次郎氏なり)、家内と子供を連れて
其処へ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が
入込んで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。
既に奥平の屋敷が
汐留にあって、
彼処に居る(別室に居る年寄を指して)
一太郎のお
祖母さんがその屋敷に居るので、
五歳ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処に
泊て居た所が、
奥平屋敷のツヒ近所に
[#「ツヒ近所に」はママ]増山と云う大名屋敷があって、その屋敷へ
不逞の徒が何人とか
籠て居ると
云うので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\
遣て居る。
夫れから
捕まえられたとか斬られたとか、
或は奥平屋敷の溝の中に人が
斬倒されて、ソレを
又上から
鎗で
突たと云うような
大騒動。所で私の
倅はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて
仕舞うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに
遣ろうと
云ても遣ることも出来ない。
夫れ
是れする中に夕方になった所で事は
鎮まって
仕舞たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって
締りが
付て居るから安心しなさいと
頻りに
和めて
一寸とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に
思たとは大違い、何ともない。
扨四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて
仕舞て、
残た者は
僅に十八人、夫れから四月になった所が段々
帰て来て、追々塾の姿を成して次第に
盛になる。又盛になる
訳けもある、と
云うのは今度私が
亜米利加に行た時には、
其以前、亜米利加に行た時よりも多く金を
貰いました。
所で旅行中の費用は
都て官費であるから、政府から
請取た金は皆手元に残る
故、その金を
以て今度こそは有らん限りの原書を
買て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その
外法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と
云う生徒に
銘々その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も
亜米利加出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、
畢竟私が始めて
持て
帰たのが
因縁になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が
方々に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が
流布して広く行われたと云うのも、事の順序はよく
分て居ます。
それで
先ず官軍は存外柔かなものであって、何も心配はない。
併し政治上の事は極めて鋭敏なもので、
嫌疑と云うことがあっては
是れは容易ならぬ
訳けであるから、ソレを
明にする
為めに、私は
一切万事何も
斯も打明けて、一口に
云えば塾も
住居も
殻明きにして
仕舞い、
何処を捜した所で鉄砲は
勿論一挺もなし、
刃物もなければ
飛道具もない、一目明白、
直に分るようにしました。
始終爾う
云う身構えにして居るから、私の処には官軍方の人も
颯々と来れば、賊軍の人も颯々と出入りして居て、私は官でも賊でも
一切構わぬ、
何方に向ても
依怙贔屓なしに
扱て居るから、双方共に朋友でした。その時に
斯う云う面白い事がありました。官軍が江戸に乗込んでマダ賊軍が上野に
籠らぬ前に、市川辺に
小競合がありました。爾うすると賊軍方の者が夜は
其処に
行て
戦て、昼は
睡いからと
云て塾に来て寝て居た者があったが、
根から構わない。私はその人の話を聞て、「君はソンナ事をして居るのか、危ない事だ、マア
止にした方が
宜かろうと云たくらいのことである。
夫れから
古川節蔵は長崎丸と云う船の艦長であったが、
榎本釜次郎よりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切に
止めました。「ソリャ
止すが
宜い、
迚も叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云う
勢になったからは、モウ船に
乗て脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い
止まるが
宜いと云た所が、節蔵はマダなか/\
強気で、「ナアに
屹度勝つ、
是れから出掛けて
行て、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地に
挙げて、官軍が江戸の方に
遣て来るその裏を
衡て、
夫れから大阪湾に
行て
掻廻せば官軍が狼狽すると
云うような事になって、
屹度勝算はありますと
云て、中々私の云うことを聞かないから、「
爾うか、ソレならば勝手にするが
宜い、
乃公はモウ負けても
勝ても知らないぞ。だが
乃公は
足下を助けようとは思わぬ。
唯可哀そうなのはお
政さんだ(
節蔵氏の内君)、ソレ
丈けは生きて居られるように世話をして
遣る、足下は何としても
云う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。
もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て
夫れから
亜米利加に留学して居た
一条某と云うものがあって、ソレが亜米利加から
帰て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して
呉れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た
柳本直太郎、
是れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この
柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船した。その時は
丁度仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば
見付次第
捕縛と
云うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、
正しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、
紛う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから
打遣て置けと云うような事でその
儘にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると
云て
一切受付けず、
凡そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその
儘棄てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と
和めて勧めたけれども何としても喰わない。
爾うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に
遇いたいと云うことを
云出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら
颯々と連れて行けと云うので、ソレから
新銭座に連れて来た。ソレが面白い、来た所で
先ず
取敢えず久振りと
云て茶を出して、茶も飲め、
序に飯も喰えと勧めて、
夫れから握飯を出して、私も
喫べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで
試みた所が、ソコで
喰出した。
喰て見れば気狂いの事だから、今まで
思て居たことは忘れて
仕舞い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を
遣り出すか知れない、昼夜番が
要る。所が
可笑しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと
云う位な病人を
扶けて看柄して居る。
爾うすると仙台の者が忍んで来る。
大槻の
倅なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り
合て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も
風波もなければ
苦味もない。ソンナ事が塾の安全であった
訳けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき
種がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に
這入て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、
斯う云う事は
造たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から
偏頗な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら
銘々勝手にしろと、裏も表もなくその
趣意で貫いて居たから、私の身も塾も
危い所を
無難に過したことゝ思う。
夫れからいよ/\王政維新と
定まって、大阪に明治政府の仮政府が出来て、その仮政府から命令が
下た。御用があるから出て来いと一番始めに
沙汰のあったのが、
神田孝平と
柳川春三と私と三人。所が柳川春三はドウも大阪に行くのは
嫌だ、だから命は奉ずるけれども御用があればドウゾ江戸に居て勤めたいと
云う注文。神田孝平は命に応じて行くと云う。私は一も二もなく病気で出られませぬと断り。その後大阪の仮政府は江戸に
遷て来て、江戸の新政府から又
御用召で
度々呼びに来ましたけれども、
始終断る
計り。
或時神田孝平が私の処へ
是非出ろと
云て勧めに来たから、私は
之に答えて、「一体君は
何う思うか、男子の出処進退は
銘々の好む通りにするが
宜いではないか、世間一般そうありたいものではないか、之に異論はなかろう。ソコデ僕の目から見ると、君が新政府に出たのは君の
平生好む所を実行して居るのだから僕は
甚だ賛成するけれども、僕の身には夫れが嫌いだ、嫌いであるから出ないと云うものも
是亦自分の好む所を実行するのだから、君の出て居るのと同じ
趣意ではないか。
左れば今僕は君の進退を賛成して居るから、君も
亦僕の進退を賛成して、福澤は
能く
引込んで居る、
旨いと
云て誉めてこそ
呉れそうなものだ。夫れを誉めもせずに呼出しに来るとは友達
甲斐がないじゃないかと
大に論じて、親友の間であるから遠慮会釈もなく
刎付けたことがある。
夫れから幾ら呼びに来ても政府へはモウ
一切出ないと説を
極めて居た所が、
或日細川潤次郎が私の処へ来たことがある。その時はマダ文部省と
云うものゝない時で、何でもこの政府の学校の世話をしろと云う。イヤそれは
往けない、自分は何もそんな事はしないと答え、
夫れからいろ/\の話もあったが、細川の云うに、ドウしても政府に
於て
只棄てゝ置くと云う理屈はないのだから、政府から君が国家に
尽した功労を誉めるようにしなければならぬと云うから、私は自分の説を主張して、誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何の事だ、人間が人間
当前の仕事をして居るに何も不思議はない、車屋は車を
挽き豆腐屋は豆腐を
拵えて書生は書を読むと云うのは人間
当前の仕事として居るのだ、その仕事をして居るのを政府が誉めると云うなら、
先ず隣の豆腐屋から誉めて
貰わなければならぬ、ソンな事は
一切止しなさいと
云て
断たことがある。
是れも
随分暴論である。
マア
斯う
云うような調子で、私は
酷く政府を嫌うようにあるけれども、その真実の
大本を
云えば、前に申した通りドウしても今度の明治政府は古風一
天張りの攘夷政府と
思込んで
仕舞たからである。攘夷は私の何より嫌いな事で、コンな始末では
仮令い政府は
替ても
迚も国は持てない、大切な日本国を滅茶苦茶にして
仕舞うだろう本当に
爾う
思た所が、後に
至てその政府が段々文明開化の道に進んで今日に及んだと云うのは、実に
難有い
目出たい次第であるが、その目出たかろうと云うことが私には始めから測量が出来ずに、
唯その時に現れた実の有様に
値を付けて、コンな古臭い攘夷政府を
造て馬鹿な事を働いて居る諸藩の分らず屋は、国を亡ぼし
兼ねぬ
奴等じゃと
思て、身は政府に近づかずに、
唯日本に居て何か
勉めて見ようと安心
決定したことである。
私が明治政府を攘夷政府と思たのは、決して
空に信じたのではない、
自から
憂うべき証拠がある。
先ず
爰に
一奇談を申せば、王政維新となって明治元年であったか二年であったか
歳は覚えませぬが、
英吉利の王子が日本に来遊、東京城に
参内することになり、表面は外国の貴賓を接待することであるから
固より故障はなけれども、何分にも
穢れた外国人を皇城に入れると云うのはドウも不本意だと云うような説が政府部内に行われたものと見えて、王子入城の時に二重橋の上で
潔身の
祓をして内に入れたことがある、と云うのは
夷狄の奴は不浄の者であるからお
祓をして
体を清めて入れると
云う意味でしょう。所がソレが
宜い物笑いの種サ。その時に
亜米利加の代理公使にポルトメンと云う人が居まして、毎度ワシントン政府に自分の
任所の模様を報知して
遣る、けれども余り必要でない事は大統領がその報告書を見ない、
此方では又ソレを見て
貰うのが公使の名誉としてある。ソコで公使が今度英の王子入城に付き
潔身の祓
云々の事を探り出して
大に
悦び、
是れは
締めた、この大奇談を報告すれば大統領が見て
呉れるに
違いないと云うので、その
表書に
即ちエッヂンボルフ王子の
清めと云う可笑しな不思議な文字を
書て、中の文句はドウかと云うに、この日本は真実、自尊自大の一小鎖国にして、外国人をば畜生同様に取扱うの常なり、
既にこの程
英吉利の王子入城謁見のとき、城門外に
於て潔身の祓を王子の身辺に施したり、
抑も潔身の祓とは上古
穢れたる者を清めるに灌水法を行いしが、中世、紙の発明以来紙を
以て御幣なるものを作り、その御幣を以て人の身体を
撫で、水の代用として
一切の不浄不潔を払うの故実あり、故に今度英の王子に施したるはその例に
由ることにして、日本人の
眼を以て見れば王子も
亦唯不浄の畜生たるに過ぎず
云々とて、筆を
巧に事細かに
書て
遣たことがある。ソレは私が
尺振八から
詳に聞きました。この尺振八と
云う人はその時、
亜米利加公使館の通弁をして居たので、尺が私の処に来てこの
間是れ/\の話、大笑いではないかと
云て、その事実もその書面の文句も私に親しく話して聞かせましたが、実に苦々しい事で、私は
之を
聞て笑い所ではない泣きたく思いました。
又その頃、亜米利加の前国務卿シーワルトと云う人が、令嬢と同伴して日本に来遊したことがある。この人は米国有名の政治家で、
彼の南北戦争のとき
専ら事に
当て、リンコルンの遭難と同時に兇徒に
傷けられたこともある。
元来英国人とは反りが合わずに、
云わば日本
贔屓の人でありながら、今度来遊、その日本の実際を見て何分にも贔屓が出来ぬ、こんな根性の人民では気の毒ながら自立は
六かしいと断言したこともある。ソコデ私の見る所で、新政府人の挙動は
都て儒教の
糟粕を
嘗め、古学の
固陋主義より割出して
空威張りするのみ。
顧みて外国人の評論を聞けば右の通り。
迚も
是れは仕方がないと真実落胆したれども、
左りとて自分は日本人なり、無為にしては居られず、政治は
兎も
角も
之を成行に任せて、自分は自分にて
聊か身に覚えたる洋学を後進生に教え、又根気のあらん限り著書
飜訳の事を
勉めて、万が一にも
斯民を文明に導くの
僥倖もあらんかと、便り少なくも独り身構えした事である。
その時の私の心事は実に淋しい
有様で、人に話したことはないが今打明けて
懺悔しましょう。維新前後、無茶苦茶の形勢を見て、
迚もこの有様では国の独立は
六かしい、他年一日外国人から
如何なる
侮辱を
被るかも知れぬ、左ればとて今日全国中の東西南北
何れを見ても共に語るべき人はない、自分一人では
勿論何事も出来ず
亦その勇気もない、実に情ない事であるが、いよ/\外人が手を出して
跋扈乱暴と云うときには、自分は何とかしてその
禍を避けるとするも、
行く
先きの永い子供は
可愛そうだ、一命に掛けても外国人の奴隷にはしたくない、
或は
耶蘇宗の坊主にして政事人事の外に独立させては
如何、自力自食して他人の厄介にならず、その身は宗教の坊主と云えば
自から
辱しめを
免かるゝこともあらんかと、自分に宗教の
信心はなくして、子を思うの心より坊主にしようなどゝ
種々無量に考えたことがあるが、三十年の今日より回想すれば恍として夢の
如し、
唯今日は世運の文明開化を
難有く拝するばかりです。
扨鉄砲洲の塾を
芝の
新銭座に移したのは明治元年
即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に
取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に
盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを
書て、
是れも写本は手間が取れると
云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が
創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には
束脩を納めて、教授する人を先生と
仰ぎ
奉り、入学の後も
盆暮両度ぐらいに生徒
銘々の分に応じて
金子なり品物なり
熨斗を附けて先生
家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、
迚もこんな事では
活溌に働く者はない、教授も
矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然
価を
極めて取るが
宜いと云うので、授業料と云う名を
作て、生徒一人から毎月
金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の
持て来た授業料を
掻き集めて、教師の頭に四両ずつ
行渡れば
死はせぬと
大本を
定めて、その上に
尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通
当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に
向て金二分持て来い、
水引も要らなければ
熨斗も要らない、一両
持て来れば
釣を
遣るぞと
云うように
触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると
札を
検める邪魔になると
云て、
態と上包を
還して遣るなどは
随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に
由らず
新工風を
運らして
之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。
左る代りに
夫れが首尾
能く
参て、
何時の間にか世間一般の
風になれば、私の
為めには
恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
新銭座の塾は幸に兵火の
為めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々
喧しい。明治元年の五月、上野に
大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も
寄席も見世物も料理茶屋も皆休んで
仕舞て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を
罷めない。上野ではどん/″\鉄砲を
打て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の
飛で来る
気遣はないと云うので、丁度あの時私は英書で
経済の講釈をして居ました。大分
騒々敷い
容子だが
烟でも見えるかと云うので、生徒
等は面白がって
梯子に
登て屋根の上から見物する。何でも昼から
暮過ぎまでの戦争でしたが、
此方に関係がなければ怖い事もない。
此方がこの通りに
落付払て居れば、世の中は広いもので又妙なもので、兵馬騒乱の中にも西洋の事を知りたいと
云う気風は
何処かに流行して、上野の騒動が
済むと奥州の戦争と
為り、その最中にも生徒は続々入学して来て、塾はます/\
盛になりました。
顧みて世間を見れば、徳川の学校は勿論潰れて仕舞い、その教師さえも
行衛が分らぬ位、
況して維新政府は学校どころの場合でない、日本国中
苟も書を
読で居る処は
唯慶應義塾ばかりと云う
有様で、その時に私が塾の者に
語たことがある。昔し/\
拿破翁の乱に
和蘭国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず
印度地方まで
悉く取られて
仕舞て、国旗を
挙げる場所がなくなった。所が、世界中
纔に一箇処を
遺した。ソレは
即ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に
百尺竿頭に
飜々して和蘭王国は
曾て滅亡したることなしと、今でも和蘭人が
誇て居る。シテ見るとこの慶應義塾は日本の洋学の
為めには和蘭の出島と同様、世の中に
如何なる騒動があっても変乱があっても
未だ
曾て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ、慶應義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に
頓着するなと申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
夫れはそれとして
又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと
云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で
戦て
漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を
棄てゝその
儘塾に来たと
云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い
朱鞘の大小を
挟して、鉄砲こそ持たないが今にも
斬て
掛ろうと云うような恐ろしい
顔色をして居る。
爾うかと思うとその若武者が
紅い女の着物を着て居る。
是れはドウしたのかと云うと、
会津で分捕りした着物だと
云て
威張て居る。実に
血腥い怖い人物で、一見
先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に
極めて簡単な塾則を
拵えて、塾中金の
貸借は
一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、
喰うときには
定めの時間に食堂に出る、
夫れから
楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは
勿論、自分所有の
行灯にも机にも一切の品物に楽書は
相成らぬと
云うくらいの箇条で、
既に規則を
極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を
以て
其処だけ
切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと
申付ける。夫れから行灯に
書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を
咎めると、時としてはその者が、「
是れは自分でない、人の
書たのですと
云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは
云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが
宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを
張て置きなさいと云うようにして、
寸毫も
仮さない。
如何に
血腥い若武者が何と
云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\
遣付けて
遣る。名は忘れたが、
不図見た所が桐の枕に
如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。
銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと
云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、
打毀わすから代りを
取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で
踏潰して、サアどうでもしろ、
攫み
掛て来るなら相手になろうと
云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は
骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を
打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな
攫み掛りそうな
気色で、口の
法螺でなくして
身体の法螺で
吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血
腥い奴も
自から静になって塾の治まりが付き、その中には
真成な
大人しい学者風の少年も多く、
至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで
新銭座に居ました。
維新の騒乱も程なく治まって天下太平に
向て来たが、新政府はマダマダ跡の
片付が容易な事でなくして、明治五、六年までは教育に手を着けることが出来ないで、
専ら洋学を教えるは矢張り慶應義塾ばかりであった。何でも廃藩置県の後に至るまでは、慶應義塾ばかりが洋学を専らにして、ソレから文部省と
云うものが出来て、政府も
大層教育に力を用うることになって来た。義塾は相変らず元の通りに生徒を教えて居て、生徒の数も段々
殖えて、塾生の数は常に二百から三百ばかり、教うる所の事は
一切英学と
定め、英書を読み英語を解するようにとばかり教導して、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬと云う
風にしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことの出来ぬ者が
随分あります。漢書を読まずに英語ばかりを勉強するから、英書は何でも読めるが日本の手紙が読めないと云うような少年が出来て来た。物事がアベコベになって、世間では漢書を
読でから英書を学ぶと
云うのを、
此方には英書を学んでから漢書を学ぶと云う者もあった。
波多野承五郎などは小供の時から英書ばかり勉強して居たので、日本の手紙が読めなかったが、生れ付き文才があり気力のある少年だから、英学の
跡で漢書を学べば造作もなく漢学が出来て、今では
彼の通り何でも不自由なく立派な学者に
成て居ます。
畢竟私がこの日本に洋学を
盛にして、
如何でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、
恰も東道の主人と
為り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を
遣て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。
元来私の教育主義は自然の原則に重きを
置て、数と理とこの二つのものを
本にして、人間万事有形の経営は
都てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に
於ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊
自重苟も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は
誰に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚
至極にし
所謂独立の点に安心するようにしたいものだと、
先ず土台を定めて、一心不乱に
唯この主義にのみ心を用いたと云うその
訳けは、古来東洋西洋
相対してその進歩の前後遅速を見れば、実に
大造な相違である。双方共々に道徳の
教もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、
扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の
一段に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の
如何は果して国民の教育より
来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に
於て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。
彼の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が
団欒の情に
濃なるも、その
大本を
尋れば
自から由来する所が分る。近く論ずれば今の
所謂立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の
外に
逸することは叶わず、独立の外に
依る所なしと
云うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては
軽く
視て居る。
是れでは差向き国を
開て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く
自から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは
迚も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を
本にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、
朝夕一寸した話の
端にもその必要を語り、
或は演説に
説き
或は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々
工風して
躬行実践を
勉め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の
如何に
拘らず物の数理に
迂闊ならず、気品高尚にして
能く独立の
趣意を全うする者ありと聞けば、
是れが老余の一大楽事です。
右の通り私は
唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ
計りでない、一歩を進めて
所謂腐儒の腐説を一掃して
遣ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や
通詞など
云うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は
随分漢書を
読で居る。読で居ながら知らない
風をして毒々
敷い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵
知て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から
六かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は
勿論、詩経、書経のような
経義でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは
豊前中津の大儒
白石先生の
賜である。どの経史の義を
知て、知らぬ
風をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも
書たものにも無遠慮に攻撃するから、
是れぞ
所謂獅子
身中の虫で、漢学の
為めには私は実に悪い
外道である。
斯くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、
陳く腐れた漢説が後進少年生の脳中に
蟠まっては、
迚も西洋の文明は国に入ることが出来ないと
飽くまでも信じて疑わず、
如何にもして彼等を
救出して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を
尽し、私の
真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、
乃公が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育
稍々普ねしと
雖も、中年以上の
重なる人は迚も洋学の佳境に
這入ることは出来ず、
何か事を
謀り事を断ずる時には
余儀なく漢書を
便にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには
随分危ない事である。
又維新前後は私が著書
飜訳を
勉めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の
緒言に記してあるから
之を略しますが、
元来私の著訳は真実私一人の
発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、
況して序文題字など頼んだこともない。
是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか
云う人に序文でも書かせた方が
宜かったか知れないが、私は
夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の
如何に
拘わらず古風な人の気に入る
筈はない。ソレでもその書が
殊更らに
大に流行したのは、文明開国の
勢に乗じたことでありましょう。
慶應義塾が
芝の
新銭座を去て三田の
只今の処に
移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が
酷い熱病に
罹り、病後神経が過敏になった
所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。
又事実湿地でもあるから
何処かに引移りたいと思い、
飯倉の方に相当の
売家を
捜出して
略相談を
極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を
棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が
起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように
方々の
明屋敷を捜して
廻わり、
彼処でもない
此処でもないと勝手次第に
宜さそうな
地所を見立てゝ、いよ/\芝の
三田にある
島原藩の中屋敷が
高燥の地で
海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、
此方の説が決した
計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、
之を手に入れるには東京府に頼み、政府から
島原藩に
上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと
云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように
拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に
頼込むは
勿論、私の
平生知て居る
佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生
※掛[#「特のへん+怱」、U+3E45、263-4]りにて運動する中に、
或日私は
岩倉公の家に参り、初めて推参なれども
御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、
詰り島原藩の屋敷を拝借したいと
云う事を内願して、
是れも快く引受けて
呉れる。
何処も
此処も
至極都合の
好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には
邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を
担いで市中を
巡廻して居るその
有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も
之を
宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの
仕組に改革しようと心付きはしたが、
扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも
宜しい、取調べて
呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この
取調さえ出来れば何か礼をすると
云うように見えるから、
此方は得たり賢し、お
易い御用で
御座る、
早速取調べて上げましょうが、私の方からも
願の
筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、
三田の
島原の屋敷地を拝借いたしたい、
是れ
丈けは厚く
御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような
塩梅に
持掛けて、役人も
否と云わずに
黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を
飜訳し、
綴り合せて一冊に
認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を
種にして
尚お市中の実際を
斟酌し様々に
工風して、断然
彼の兵士の
巡廻を廃し、改めて
巡邏と
云うものを組織し、後に
之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して
自から義理が出来たような
訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて
所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
引越して見れば誠に広々とした屋敷で
申分なし。御殿を教場にし、
長局を書生部屋にして、
尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く
買取て寄宿舎を作りなどして、
俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を
以て慶應義塾の面目を
新にしました。
序ながら
一奇談を語りましょう。
新銭座入塾から
三田に
引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧
較べものにならぬ。新塾の教場
即ち御殿の廊下などは
九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は
殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々
検め、大小便所の内まで私が自分で戸を
明けて
細に見ると
云うようにして居たから、一日に
幾度び廊下を
通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその
行逢う
毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に
辞儀をする。
先方から丁寧に
遣れば、
此方も
之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて
堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお
辞儀に困りはせぬか、双方の
手間潰だがと
云うと、
何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、
乃公が広告を掲示して
遣ると
云て、
塾中の生徒は長者に対するのみならず相互の間にも粗暴無礼は固より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては、仮令い教師先進者に行逢うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰なり、互に相見て互に目礼を以て足るべし。益もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非ず。この段心得の為めに掲示す。
と
張紙して、生徒のお辞儀を
止めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、
横風になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して
爾うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を
活溌に導かんとするには、お辞儀の廃止も
自から一時の方便で、その功能は
慥に見えました。今でも塾にはコンな風が
遺て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\
遣付けて
寸毫も
仮さず、生徒に不平があれば皆出て行け、
此方は何ともないと、チャンと説を
極めて思う様に制御して
居れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に
於て許さない。
左ればとて本塾の生徒に
限て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその
功徳であろうと思われる。
三田の屋敷は福澤諭吉の拝借地になって、地租もなければ借地料もなし
恰も私有地のようではあるが、何分にも拝借と
云えば
何時立退を命じられるかも知れず、東京市中を見れば私同様官地を拝借して居る者は
甚だ多い、
孰れも不安心に
違いないと推察が出来る。
如何かして
之を
御払下にして貰いたいと様々思案の折柄、当時政府に左院と称して議政局のようなものが
立て居て、その左院の議員中に
懇意の人があるからその人に面会、何か話の
序には拝借地の有名無実なるを
説き、等しく官地を使用せしむるならば之を私有地にして
銘々に地所保存の
謀を
為さしむるに
若かずと、
頻りに利害を論じてその人の建言を促したるは毎度の事で、その他政府の筋の人にさえ逢えば同様の事を語るの常なりしが、明治四年の頃、それかあらぬか、政府は市中の拝借地をその借地人
又は縁故ある者に払下げるとの
風聞が聞える。
是れは妙なりと
大に喜び、その時東京府の課長に福田と云う人が
専ら地所の事を取扱うと云う事を
聞伝え、早速福田の私宅を尋ねて委細の事実を確かめ、いよ/\発令の時には知らして
呉れることに約束して、帰宅して日々便りを
待て居ると、数日の後に至り、今日発令したと報知が来たから、
暫時も
猶予は出来ず、翌朝東京府に代理の者を差出し
御払下を願うて、代金を上納せんと金を出した処が、府庁にも昨日発令した
計りで出願者は一人もなし、マダ帳簿も出来ず、上納金請取の書式も出来ずと
云うから、その正式の請取は後日の事として今日は
唯金子丈けの御収納を願うと
云て、
強いて金を渡して
仮り御払下の姿を成し、その後、地所代価収領の本証書も
下りて、いよ/\私の私有地と
為り、
地券面本邸の外に附属の町地面を合して一万三千何百坪、本邸の方は千坪に付き
価十五円、
町地の方は割合に高く、両様共算して五百何十円とは、
殆んど無代価と申して
宜しい。その代価の事は
兎も
角もとして、
斯く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく
住居すればするほどいよ/\ます/\
宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと
自から感心して、塾員と共に満足すると同時に、
之を私有地にすると
云えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような
塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで
埓を明けた所が、果して
然り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ
渡たその時に、島原藩士何某が私方に
遣て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、
此方へ
御譲渡し下されいと
捩込んで来たから、私は
一切知らず、この地所のむかしが
誰のものでありしや
夫れさえ心得て居ない、
兎に
角に私は東京府から御払の地所を
買請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か
思召もあらば府庁へ
御談じ
然るべしと
刎付ける。スルと先方も中々
渋とい。再三再四
遣て来て、とう/\
仕舞には屋敷を半折して半分ずつ持とうと
云うから、
是れも不承知。地所の事は
島原藩と福澤と
直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、
一切万事君
夫れ
之[#ルビの「こ」はママ]を東京府に聞けと
云う調子に構えて居て、
六かしい談判も立消になったのは
難有い。今日になって見れば、東京中を尋ね
廻ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は
高燥にして平面、海に面して前に
遮るものなし、空気清く眺望
佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし
御払下の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の
慾張り、時節を
待て千倍にも二千倍にもして
遣ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。
右の通り
三田の新塾は万事都合
能く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて
之を教師に分配して、
如何やら
斯うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う
考はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、
普請の時などには毎度
此方から金を出して
遣る。教師達もその通りで、外に出れば
随分給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、
是れも私金を出すと同じ事である。
凡そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の
真面目を申せば、月末などに金を分配するとき、
動もすれば教師の間に議論が起るその議論は
即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る
訳けはない、君の方が少ないと
云うと、「イヤ
爾うでない、僕は
是れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように
云てるから、私は
側から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから
宜い加減にして分けて
仕舞え、争う程の事でもないと毎度
笑て居ました。この通りで慶應義塾の
成立は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、
又大学部の
為めにも
募り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、
一切の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
是れまで御話し申した通り、私の言行は
有心故造態と敵を求める
訳けでは
固よりないが、鎖国風の日本に居て
一際目立つ
様に開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も口で
彼是喧しく
云うて
罵詈する位は何でもないが、
唯怖くて
堪らぬのは襲撃暗殺の一事です。
是れから少しその事を述べましょうが、
凡そ世の中に我身に
取て好かない、不愉快な、気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である。この味は狙われた者より
外に分るまいと思う。実に何とも口にも言われず筆にも書かれません。是れが病気を
煩うとか、
痛所があるとか何とか
云えば、家内に相談し朋友に
謀ると云う様なこともあるが、暗殺ばかりは家内の者へ云えば当人よりは
却て家の者が心配しましょう、心配して
呉れてソレが何にも役に立たぬ、ダカラ私はそんな事を家内の者に
云た事もなければ親友に告げた事もない。
固よりこの身に罪はない、
仮令い粗われても恥かしい事ではないと云うことは
分切て居ても、人に
語て無益の事であるから、心配するのは自分一人である。私が暗殺を心配したのは毎度の事で、
或は
風声鶴唳にも驚きました。丁度今の狂犬を見たようなもので、おとなしい犬でも気味が悪いと
云うような
訳けで、どうも人を見ると気味がわるい。
ソレに
就ては色々面白い話がある。今この
三田の屋敷の門を
這入て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その
普請をするとき、私は大工に命じて家の
床を少し高くして、押入の処に
揚板を
造て
置たと云うのは、
若し例の
奴等に踏込まれた時に、
旨く逃げられゝば
宜いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て
其処から
逃出そうと云う私の秘計で、今でも
彼処の家は
爾うなって居ましょう。
その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、
詰り私独りの苦労で、実に
馬鹿気た事ですが、
夫れは
差置き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は
唯新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は
穢れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は
折々外国人を
暗打にしたこともある。
併しその若武者も日本人を憎む
訳けはないから、私などが
仮令い時の洋学書生であっても災に
罹る筈はない。大阪修業中は
勿論、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で
露西亜人の斬られたことなどは、
唯その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は
俄に進歩して
殺人の法が綿密になり、
筋道が
分り、区域が広くなり、
之に
加うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、
井伊大老の事変後は世上何となく殺気を
催して、
手塚律蔵、
東条礼蔵は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、
塙二郎は国学者として不臣なりとて何者かに首を
斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと
云うような風潮になって来ました。
是れが
即ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、
然るに幕府の攘夷論は
兎角因循姑息に流れて
埒が明かぬ、即ち京都の
御趣意に
背くものである、尊王の大義を
弁えぬものである、外国人に媚びるものである、と
斯う
云えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。
殊に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。
又真実怖い事もある。
凡そ維新前、文久二、三年から維新後、明治六、七年の頃まで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間私は東京に居て夜分は決して外出せず、
余儀なく旅行するときは姓名を
偽り、荷物にも福澤と記さず、コソ/\して往来するその
有様は、
欠落者が人目を忍び、
泥坊が逃げて
廻わるような
風で、誠に面白くない。そのとき途中で廻国巡礼に出逢い、その笠を見れば何の国何都何村の
何某と明白に
書てある。「
扨々
羨ましい事だ、
乃公もアヽ
云う身分になって見たいと、自分の身を思い又世の有様を考えて、妙な心持になって、ソレからその巡礼に銭など与えて、貴様達は夫婦か、故郷に子はないか、親はあるか、など色々話し、問答して別れたことは今に覚えて居ます。
是れも私が姓名を隠して
豊前中津から江戸に
帰て来た時の事です。元治元年、私が中津に
行て、
小幡篤次郎兄弟を始め同藩子弟七、八名に洋学修業を勧めて共に出府するときに、中津から
先ず船に
乗て
出帆すると、二、三日天気が悪くて、風次第で
何処の港に入るか知れない、スルと南無三宝、攘夷最中の
長州室津と云う港に船が
着た。そのとき私は同行少年の名を借りて
三輪光五郎(今日は府下目黒のビール会社に居る)と
名乗て居たが、
一寸上陸して
髪結床に
行た所が、床の
親仁が
喋々述べて居る、「幕府を
打潰す――毛唐人を
追巻くると云い、女子供の唄の文句は忘れたが、「やがて
長門は江戸になるとか何とか云うことを面白そうに唄うて居る、そのあたりを見れば兵隊が色々な
服装をして鉄砲を
担いで
威張て居るから、
若しも福澤と
云う正体が現われては、たった一発と、安い気はしないが、
爰が大事と思い
態と平気な顔をして、
唯順風を
祈て船の出られるのを
待て居るその間の怖さと云うものは、何の事はない、
躄者が
病犬に囲まれたようなものでした。
ソレから船は大阪に
着て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の
破不屋と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田
何某と云う人が江戸の方から来て
先きに
泊て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢
附て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を
駈出してコソ/\逃げたことがある。
その時の道中であったか、
江州水口、
中村栗園先生の門前を
素通りしましたが、
是れは
甚だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して
其処へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の
御親父の大阪で御不幸の時は、私は
直ぐ大阪に
行て、ソレからお前達が船に
乗て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて
安治川口の船まで
行て別れた。そのときお前は
年弱の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に
逢たような心持がして、今晩は
是非泊れと
云て、中村の家に一泊しました。
斯くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来
専ら孫子の講釈をして、玄関には
具足などが
飾てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも
立寄て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の
門弟子が
沢山居るから、立寄れば
迚も助からぬと
思て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、
遂に故人になられました。今日に至るまでも
甚だ心残りで不愉快に思います、
以上は維新前の事で、
直に私の身に害を及ぼしたでもなし、
唯無暗に私が怖く
思たばかり、
所謂世間の
風声鶴唳に臆病心を起したのかも知れないが、維新後になっても
忌な風聞は絶えず行われて、何分にも不安心のみか、歳月を
経て後に聞けば、実際恐るべき事も毎度のことでした。頃は明治三年、私が
豊前中津へ老母の迎いに
参て、母と姪と両人を守護して東京に
帰たことがあります。その時は中津滞留も
左まで怖いとも思わず、
先ず安心して居ましたが、数年の後に
至て実際の話を聞けば、恐ろしいとも何とも、実に命拾いをしたような事です。私の
再従弟に
増田宗太部と云う男があります。この男は後に九州西南の役に賊軍に投じて城山で死に
就た一種の人物で、世間にも名を知られて居ますが、私が中津に
行たときはマダ年も若く、私より十三、四歳も下ですから、私は
之を子供のように思い、
且つ住居の家も
近処で朝夕往来して交際は前年の通り、
宗さん/\と
云て親しくして居ましたが、
元来この
宗太郎の母は神官の家の妹で、その神官の
倅即ち宗太郎の
従兄に水戸学風の学者があって、宗太郎はその従兄を先生にして勉強したから中々エライ、その上に
増田の家は年来堅固なる家風で、封建の武家としては一点も
愧る所はない。宗太郎の実父は私の母の従兄ですから、私もその
風采を
知て居ますが、ソレハソレハ立派な
侍と申して
宜しい。この父母に養育せられた宗太郎が水戸学国学を勉強したとあれば、
所謂尊攘家に違いはあるまい。ソコで私は今度中津に
帰ても宗太郎をば
乳臭の小児と思い、相替らず
宗さん/\で待遇して居た処が、何ぞ
料らん、この宗さんが胸に一物、恐ろしい事をたくらんで居て、そのニコ/\優しい顔をして私方に
出入したのは全く探偵の
為めであったと
云う。
扨探偵も届いたか、いよ/\今夜は福澤を片付けると
云うので、忍び/\に
動静を
窺いに来た、田舎の事で外廻りの囲いもなければ戸締りもない、所が
丁度その
夜は私の処に客があって、その客は
服部五郎兵衛と云う私の先進先生、
至極磊落な人で、
主客相対して酒を飲みながら
談論は尽きぬ。その間宗太郎は外に
立て居たが、十二時になっても寝そうにもしない、一時になっても寝そうにもしない、
何時までも二人差向いで飲んで話をして居るので、
余儀なくお
罷めになったと云う。
是れは私が
大酒夜更しの功名ではない
僥倖である。
ソレから家の始末も
大抵出来て、いよ/\中津の廻米船に
乗て神戸まで行き、神戸から東京までの間は外国の郵船に乗る積りで、サア乗船と
云う所が、
中津の海は浅くて都合が悪い。中津の西一里ばかりの処に
鵜ノ
島と云う港があって、
其処に船が
掛って居ると云うから、私はそのとき大病後ではあるし、老人、子供の連れであるから、前日から鵜ノ島に
行て一泊して翌朝ゆるりと乗船する趣向にして、その晩鵜ノ島の船宿のような家に泊りましたが、知らぬが仏とは申しながら、後に聞けばこの夜が私の万死一生、恐ろしい時であったと云うは、その船宿の若い主人が例の有志者の仲間であるとは恐ろしい、私の一行は老母と姪とその
外に近親
今泉の後室と小児(小児は秀太郎六歳)役に立ちそうな男は私一人、
是れも病後のヒョロ/\と云うその人数を留めて置いて、宿の奴が中津の同志者に
使を走らして、「今夜は上都合
云々と内通したから
堪らない。ソコデ
以て中津の有志者
即ち暗殺者は、
金谷と
云う処に集会を
催して、今夜いよ/\
鵜ノ
島に押掛けて福澤を殺すことに議決した、その理由は、福澤が近来
奥平の若殿様を
誘引して
亜米利加に
遣ろうなんと云う
大反れた計画をして居るのは
怪しからぬ、不臣な奴だと云う罪状であるから、満座同音、国賊の誅罰に異論はない。
福澤の運命はいよ/\切迫した、老人子供の寝て居る処に血気の壮士が暴れ込んでは
迚も助かる道はない、所が
爰に不思議とや
云わん、天の
恵とや云わん、壮士連の中に争論を生じたと云うのは、
如何にも今夜は好機会で、
行きさえすれば必ず上首尾と
極て居るから、功名手柄を争うは武士の習いで、仲間中の両三人が、「
乃公が
魁すると云えば、又一方の者は、「
爾う甘くは行かん、乃公の腕前で
遣て見せると言出して、負けず劣らず、とう/\仲間喧嘩が始まって、深更に及ぶまで
如何しても決しない、余り喧嘩が騒々しく、大きな声が
近処まで聞えると、その隣家に
中西与太夫と云う人の住居がある、この人は私などより余程年を
取て居る、その人が何の事か知らんと
行て見た所が、
斯う/\
云う
訳けだと云う。中西は
流石に老成の士族だけあって、「人を殺すと云うのは
宜くない事だ、思止まるが
宜いと云うと、壮士等は中々聞入れず、「イヤ
思止まらぬと
威張る、ヤレ止まれ、イヤ止まらぬと、今度は老人を相手に大議論を始めて、
彼れ
此れと
悶着して居る間に
夜が明けて
仕舞い、私は何にも知らずにその朝船に
乗て海上無事神戸に着きました。
扨神戸に
着た処で、母は天保七年、大阪を
去てから三十何年になる、誠に久し振りの事であるから、今度こそ大阪、京都
方々を思うさま見物させて
悦ばせようと、
中津出帆の時から楽しんで居た処が、神戸に上陸して
旅宿に
着て見ると、東京の
小幡篤次郎から手紙が来てあるその手紙に、昨今京阪の間
甚だ穏かならず、少々
聞込みし事もあれば、神戸に着船したらば
成るたけ人に知られぬように注意して、早々郵船にて帰京せよとある。ヤレ/\
又しても面百くない
報だ、
左ればとてこんな
忌な事を老母の耳に入れるでもなしと思い、何かつまらぬ
口実を
作て、折角楽しみにした
上方見物も
罷めにして、空しく東京に
帰て来ました。
前の
鵜ノ
島の話に引替えて、誠に
馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が
中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家
挙って東京に
引越し、私が供をして参ると
云うことになった。
処で藩主が藩地を去るは
固より士族の
悦ぶことでない。私も
能くその情実は
知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば
奥平家の維持が出来ない、
思切て断行せよと
云うので、
疾雷耳を
掩うに
暇あらず、
僅か六、七日間の
支度で、御隠居様も御姫様も
中津の浜から船に
乗て
馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて
神戸と、
都ての用意
調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が
生憎風がない、夜中
水尾木の
処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、
爰にグヅ/\して居ると例の若武者が
屹と
遣て来るに違いない、来ればその目指す
敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を
上て陸行するに
若くはなしと決断して、
極暑の時であったが、
払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も
至極穏かで何の議論もなかったと云う。
此方が邪推を
運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番
危い、実に
困たものです。
時は違うが維新前、文久三、四年の頃、江戸深川六軒掘に
藤沢志摩守と云う
旗本がある。
是れは時の陸軍の将官を勤め、
極の西洋家で、
或日その人の家に集会を
催し、客は
小出播磨守、
成島柳北を始め、その
外皆むかしの大家と唱うる蘭学医者、私とも合して七、八名でした。その時の一体の事情を申せば、前に申した通り、私は十二、三年間、夜分外出しないと云う時分で、最も
自から
警めて、
内々刀にも心を用い、
能く
研がせて
斬れるようにして居ます。
敢て
之を頼みにするではなけれども、集会の話が面白く、ツイ/\怖い事を忘れて思わず夜を
更かして、十二時にもなった所で、座中みな気が
付て、サア帰りが怖い。
疵持つ身と
云う
訳けではないが、いずれも洋学臭い連中だから
皆な怖がって、「大分
晩うなったが
如何だろうと云うと、主人が気を
利かして屋根舟を用意し、七、八人の客を乗せて、六軒堀の
川岸から市中の川、
即ち
堀割を通り、行く/\
成島は
柳橋から
上り、それから近いもの/\と段々に上げて、
仕舞に
戸塚と云う老医と私と二人になり、新橋の川岸に
着て、戸塚は麻布に帰り私は
新銭座に帰らねばならぬ。新橋から新銭座まで
凡そ十丁もある。時刻はハヤ一時過ぎ、
然かもその夜は寒い晩で、冬の月が誠に
能く照して何となく物凄い。新橋の川岸へ上って大通りを通り、
自から新銭座の方へ行くのだから、
此方側即ち大通り東側の方を
通て四辺を見れば人は
唯の一人も居ない。その頃は浪人者が徘徊して、
其処にも
此処にも毎夜のように
辻斬とて容易に人を斬ることがあって、物騒とも何とも
云うに云われぬ、
夫れから
袴の
股立を
取て進退に都合の
好いように趣向して、
颯々と歩いて
行くと
丁度源助町の
央あたりと思う、
向から一人やって来るその男は
大層大きく見えた。実は
如何だか知らぬが、大男に見えた。「ソリや来た、どうもこれは逃げた所がおっ
付ない。今ならば巡査が居るとか人の家に
駈込むとか云うこともあるが、
如何して/\騒々しい時だから不意に人の家に入られるものでない、
却て戸を
閉て
仕舞て、出て加勢しようなんと云うものゝないのは分り
切てる。「コリャ
困た、今から引返すと却て
引身になって追駈けられて後から
遣られる、
寧そ大胆に此方から進むに
若かず、進むからには臆病な風を見せると
付上るから、
衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、
斯う
斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も
斜に出て来た。コリャ大変だと
思たが、
最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば
兼て少し居合の心得もあるから、
如何して
呉れようか、これは一ツ下から
刎ねて
遣りましょうと云う
考で、一生懸命、イザと
云えば
真実に
遣る
所存で行くと、先方もノソ/\
遣って来る。私は実に人を
斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、
愈よ
先方が
抜掛れば背に腹は換えられぬ、
此方も
抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を
斬たからと
云て
咎められもせぬ、
只その場を逃げさえすれば
宜しいと覚悟して、段々行くと
一歩々々近くなって、
到頭すれ違いになった、所が
先方の奴も抜かん、
此方は
勿論抜かん、所で
擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの
位足が早かったか覚えはない、五、六
間先へ
行て
振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。
如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、
先ずホッと
呼吸をついて安心して
可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、
拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな
可笑しい芝居はない。初めから
此方は斬る気はない、
唯逃げては
不味い、
屹と
殺られると
思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心
怖わ/\表面
颯々と出て来て、
丁度抜きさえすれば
切先の届く位すれ/\になった
処で、身を
飜して
逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、
此方も怖かったが、
彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は
何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を
互に話したら面白い事でしょう。
凡そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、
随て執政者の権力も重きを成して、
自から威福の行われるようになると同時に、天下の
耳目は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も
蚊もその原因を政府の当局者に帰して、
之に
加うるに
羨望嫉妬の念を
以てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は
大に楽になりました。
喰違に
岩倉公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、
大久保内務卿の暗殺以来、毎度の
兇変は皆政治上の意味を含んで居るから、
云わば学者の方は
御留主になって、政治家の
為めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に
羨まれる事がないから、
先ず
以て今日は安心と思います。
私が
芝の
源助町で人を
斬ろうと決心した、
居合も少し心得て居るなんて
云えば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、
爾うではないどころか、日本武士の大小を丸で
罷めて
仕舞いたいとは私の宿願でした。源助町のときには
成程双刀を
挟して、刀は
金剛兵衛盛高、脇差は
備前祐定、
先ず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな
売て
仕舞て、短かい脇差のような物を刀にして
御印に挟して居たが、
是れに
就ても話がある。
或日、本郷に居る親友
高畑五郎を訪問していろ/\話をして居る中に、
不図気が
付て見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本
飾てあるから、私が高畑に
向て、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術が
盛になって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからと
云て負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私は
之を打消し、「ソレは
詰らない、君は
之を
以て
威すつもりだろうが、長い刀を家に
置て今の浪人者を
威そうと
云ても、
威嚇の道具になりはしない。
詰らぬ話だ、
止しなさい。僕は家にある刀剣はみんな
売て
仕舞て、今
挟して居るこの大小二本きりしかない。
然かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は
鰹節小刀を
鞘に
蔵めてお
飾に挟して居るのだ。ソレに君がこんな
大造な長い刀を
弄くると云うのは、君に不似合だ、
止すが
宜い、
御願だから
止して
呉れ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに
極て居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、
迚もこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものを
飾て置くと
云う馬鹿者があるか。僕は一切刀を
罷めて居るが、
憚りながら抜くことは
知て居るぞ、
抜て見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭に
下りて、
兼て少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見
給え、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は
疾くに刀を売て
仕舞たのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。
是れは独り
吾々洋学者ばかりでない、日本国中の刀を
皆なうっちゃって
仕舞うと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは
颯々と片付けて仕舞うが
宜しい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りに
挟さなければならんと云うなら、小刀でも何でも
宜しいと云て、大きに論じた事がある。
是れも
大抵同時代と思う。幕府の
飜訳局に雇れて
其処に出て居た時、
或人が私に話すに、「近来なか/\面白い
扇子が
流行る。
鉄扇と
云うものは昔から行われて居たが、今はソレが
大に進歩して、
唯の扇子と見せて
置て、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る、なか/\面白い事を発明したと
噂して居る。ソコで私が大にまぜかえして
遣た。「扇子の中から懐剣の出るのが何が
賞めた話だ。それよりも懐剣として置て、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ、
倒まにしろ、
爾うしたら賞めて
遣る、そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか、面白くもないと
云て、
打毀した事を覚えて居ます。
幕府が倒れると私はスグ帰農して、
夫れ
切り双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。所がこの廃刀と云う事は中々容易な事でない。実を申せば持兇器を
罷めるのだから、世間の人は
悦びそうなものだが、決して
爾うでない。私が始めて腰の物なしで
汐留の奥平屋敷に
行た所が、同藩士は大に驚き、丸腰で御屋敷に
出入するとは殿様に不敬ではないかなどゝ議論する者もありました。又
或るとき塾の
小幡仁三郎と誰か二、三人で散歩中、その廃刀を
何処かの壮士に見
咎められて怖い思いをした事もある、けれども私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に
頓着せず、「文明開国の世の中に
難有そうに
兇器を腰にして居る奴は馬鹿だ、その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀は
之を名けて馬鹿メートルと
云うが好かろうなどゝ放言して居れば、塾中にも
自から同志がある。
明治四年、
新銭座から今の
三田に移転した当分の事と思う、
或日和田義郎(今は故人になりました)と云う人が、
思切た
戯をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質
極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も
亦舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、
殊に柔術は最も得意で、
所謂怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、
芝の
松本町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと
遣て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を
避けて左右に道を開くか、何か
咎め立てして
喰て掛るか、
爰が喧嘩の間一髪、いよ/\
掛て来れば五人でも十人でも
投り出して殺して
仕舞うと云う
意気込が、先方の若武者共に
分たか、何にも云わずに避けて
通たと云う。大道で小便とは今から考えれば
随分乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が
却て塾の独立を保つ
為めになりました。
相手は壮士ばかりでない、
唯の百姓町人に対しても色々
試みた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、
七里ヶ浜を通るとき、向うから馬に
乗て来る百姓があって、私共を見るや
否や馬から飛下りたから、私が
咎めて、「
是れ、貴様は何だと
云て、馬の口を押えて止めると、百姓が
怖わそうな顔をして
頻りに
詫るから、私が、「馬鹿
云え、
爾うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分が
乗たら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ
打撲るぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せて
遣りましたが、その時私の心の中で
独り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のない
計りで物が分らずに法律のあることも知らない。
下々の人民がこんなでは
仕方がないと余計な事を案じた事がある。
夫れから
又斯う
云う面白い事がありました。明治四年の頃でした。
摂州三田藩の
九鬼と云う大名は
兼て
懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にも
行て見たし、かた/″\
先ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで
凡そ十五里、途中
名塩に一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば
何時でも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛して
呉れるから、大阪に着くと
取敢えず緒方に行て、三田に遊び
有馬に行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、
駕籠を貸して
遣ろうと
云われるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠に
好い時候で、私はパッチを
穿て羽織か何か着て
蝙蝠傘を
持て、駕籠に
乗て行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠は
要らぬ、駕籠屋、先へ行け、
乃公は一人で行くからと
云て、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に
向て道を
聞たら、そのとき私の素振りが何か
横風で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えて
呉れてお
辞儀をして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば
持て居るものは
蝙蝠傘一本きりで何にもない、も一度
遣て見ようと思うて、その
次ぎに来る奴に
向て怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数は
凡そ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝ
下らぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら
御答申上げますと
云うような様子だ。
此方はます/\面白くなって、今度は
逆に遣て見ようと
思付き、又向うから来る奴に向て、「モシモシ
憚りながら
一寸ものをお尋ね申しますと云うような口調に出掛けて、
相替らず下らぬ問答を始め、私は大阪生れで又大阪にも久しく寄留して居たから、その時には
大抵大阪の言葉も
知て居たから、
都て奴の調子に合せてゴテ/\話をすると、奴は私を大阪の町人が
掛取にでも行く者と思うたか、中々
横風でろくに会釈もせずに
颯々と別れて行く、
底で今度は又その次ぎの奴に横風をきめ込み、又その次ぎには丁寧に出掛け、
一切先方の
面色に取捨なく誰でも
唯向うから来る人間一匹ずつ一つ置きと
極めて遣て見た所が、
凡そ三里ばかり歩く間、思う通りに成たが、ソコデ私の心中は
甚だ面白くない。
如何にも
是れは仕様のない
奴等だ、誰も彼も小さくなるなら小さくなり、
横風ならば横風で
可し、
斯う
何うも先方の人を見て自分の身を
伸縮するような事では
仕様がない、
推して知るべし地方
小役人等の
威張るのも無理はない、世間に圧制政府と
云う説があるが、
是れは政府の圧制ではない人民の方から圧制を招くのだ、
之を
何うして
呉れようか、捨てようと
云て
固より見捨てられる者でない、
左ればとて之を導いて
俄に教えようもない、
如何に百千年来の
余弊とは
云いながら、無教育の土百姓が
唯無闇に人に
詫るばかりなら
宜しいが、
先き次第で
驕傲になったり柔和になったり、丸でゴムの人形見るようだ、
如何にも
頼母しくないと
大に落胆したことがあるが、変れば変る世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民と
成て学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を
軽んじて国の
為めに水火にも飛込む。福澤が
蝙蝠傘一本で
如何に士族の
仮色を使うても、之に恐るゝ者は全国一人もあるまい。
是れぞ文明開化の
賜でしょう。
私の
考は塾に少年を集めて原書を読ませる
計りが目的ではない。
如何様にもしてこの鎖国の日本を
開て西洋流の文明に導き、富国強兵
以て世界中に
後れを取らぬようにしたい。
左りとて
唯これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、
仮初めにも言行
齟齬しては
済まぬ事だと、
先ず一身の私を
慎しみ、一家の生活法を
謀り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、
扨一方に世の中を見て文明改進の
為めに施して見たいと思う事があれば、世論に
頓着せず
思切て
試みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を
棄てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に
説て
之を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を
破て平易なる通俗文を用うる事なり、
凡そ
是等は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、
大旱に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を
飜訳したって、私の出版書のように売れよう
訳けはない。
畢竟私の才力がエライと
云うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に
青雲熱に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。
兎にも
角にも著訳書が私の身を立て家を
成す唯一の基本になって、ソレで私塾を
開ても、生徒から
僅ばかりの授業料を
掻集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師
等の所得にすることが出来たその上に、
折々私の
財嚢から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。
所で私の性質は全体放任主義と
云おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事に
就て朝夕心を用いて一生懸命、
些細の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、
是非とも慶應義塾を永久に
遺して置かなければならぬと
云う義務もなければ名誉心もないと、初めから
安心決定して居るから、
随て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中
自から独立の気風を生じて世間の
反りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから
颯々と言論して、時としてはその言論が政府の
癪に障ることもあろう。実を
云えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、
一切既往を
云わず、
唯今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して
呉れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか
朝野とか
忌に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、
甚だしきは
之を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も
穢くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は
官辺の
風も
大に改まりて、余り
酷い事はない。
何れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。
又私は知る人の
為めに尽力したことがあります。
是れは唯私の
物数寄ばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽と
云おうか、慈悲と云おうか、
癇癪と云おうか、マアそんな所から
大に働いたことがあります。仙台藩の
留守居役を勤めて居た
大童信太夫と
云う人があって、旧幕府時代から私はその人と
極、
懇意にして居ました、と
云てその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれども
兎に
角に西洋文明の
風を好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申して
宜しい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を
贔屓にするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから
随分金廻わりも
宜かったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、
唯何でも書生を
養て遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、
凡そ当時仙台の書生で大童の家の飯を
喰わない者はなかろう。今の
富田鉄之助を始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して
忽ち失敗して、その謀主は
但木土佐と
云う家老であると定まって、その人は腹を
切て
仕舞ったその後で、但木土佐が謀主だと
云うけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに
大童信太夫、
松倉良助の両人だと
斯う云う
訳けで、維新後その両人は仙台に
帰て居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を
饒舌り出した、
既に政府は朝敵の処分をして
事済になっては居るが、内からそんなことを
云出して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、
久我大納言を勅使として下向を命じた、と云う政府の
趣意は
甚だ旨い、この時に政府は
既に処分済の後だから、
成る
丈け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、
左すれば怪我人も少ないだろうと
云う
為めに、
態と久我を
択んだと云うことは、その時私も
窃に聞きました。政府の略は中々行届いて居る、所が仙台の藩士が有ろうことか有るまいことか、御上使の御下向と
聞て景気を
催し、生首を七ツとやら
持て出たので久我も驚いたと云う、そんな事まで仙台藩士が
遣た。その時に松倉も大童も、居れば危ないから
脊戸口から
駈出して、東京まで逃げて来た、と云うのは両人ともモウちゃんと首を
斬られる中に数えられて居たその次第を、誰か告げて
呉れる者があって、その
儘家を飛出して東京へ来て
潜んで居るその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、
既に
熱海貞爾と
云う男は或夜今
其処で同藩士に追駈けられたと申して、私方に飛込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、
大童と
松倉はどうやら
斯うやら久しく
免かれて居て、私は
素より
懇意だからその
居処も
知て居れば私の家にも来る。政府の人から見られるのは苦しくない、政府はそんな野暮はしない、そんな者を見ようともしないが、何分にも同藩の者が
遣るので誠に危ない。
引捕えて、
是れが罪人でございと
云えば、
如何に優しい
大目な政府でも
唯見ては居られない。実に
困た身の
有様だと、毎度両人と話す中に、私は両人の
為めに同情を表すると
云うよりも、
寧ろこの仙台藩士の無情残酷と云うことに
酷く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に
酷い事をする奴だ、ドウかして
呉れたいものだと斯う考えた所で、
夫れから私が大童に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ、私が一つ
試みて見よう、何でも
是れは一番、藩主を
引捕えて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労な
訳けだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷に
行て、藩主に
御目に
懸りたいと
触込んで、藩主に面会した。ソコで私がこの藩主に
向て大に談じられる
由縁のあると
云うのは、その藩主と云う者は
伊達家の分家
宇和島藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が
与て
大に力がある、と云うのは当時
大童が江戸屋敷の
留守居で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、
或時私に談じて、「お前さんの処(
奥平家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚
如何を
聞て
貰いたいと云うから、早速取調べて返事をして、
先ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、
夫れから又私は
麻布竜土の宇和島の屋敷に
行て、家老の
桜田大炊と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから
唯難有いとの即答、
一切大童と私と二人で周旋して、
夫れから表向きになって
貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に
遇うて、時に尊藩の大童、
松倉の両人が、この間仙台から逃げて
参たのは、
彼方に居れば殺されるから
此方に飛出して来たのであるが、
彼の両人は今でも見付け出せば藩主に
於て本当に殺す気があるのか、
但し殺したくないのか、ソレを
承りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ
云う意味はない。「
然らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の
繋がるようにして
遣ては
如何で
御座る。実はお前さんは
大童に
向て
大に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の
御家に養子に来たのは
斯う
云う由来、
是れ/\の次第であったが、
夫れを思うても殺すことは出来まい。
屹度御決答を伺いたいと、
顔色を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、
是れは大参事に
任かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には
勿論異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「
然らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば
宜しい、大参事に
遇おうと
云て、
直ぐ
側の長屋に居たから
其処へ
捻込んだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。
然らば
則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。
仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を
知て居る、捜せるなら
試みに捜して見るが
宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り
隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、
何時まで
経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも
宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州
辺りから何とか口を添えて
呉れると都合が宜いなんて
又弱い事を云うから、
宜しいと
云い
棄てゝ、
夫れから私は薩州の屋敷に
行て、
斯う/\云う次第柄だから助けて
遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も
六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に
就て政府の内意を
聞て上げるからと
云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して
呉れたには、
兎も
角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて
仕舞うと云うことが
分た。
夫れから念の
為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、
之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の
私を
以て八十日を八年にして
遣ろうなんと云うお負けを
遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には
若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、
大童、
松倉の
旧時の属官ばかりが
列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て
可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が
済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも
旧の通りに交際して
互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。
只この事たるや仙台藩の無気力残酷を
憤ると同時に、藩中
稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、
随分彼方此方と歩き
廻りましたが、口で
云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、
一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
夫れから
榎本(当年の
釜次郎、今の
武揚)の話をしましょう。前に申す通りに
古川節蔵は私の家から脱走したようなもので、後で
聞て見れば榎本よりか
先きに脱走したそうで、
房州鋸山とか
何処とかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が
起たので、あれは古川節蔵が
遣たのだと申します。節蔵が脱走した後で
以て、脱走艦は追々
函館に
行て、
夫れから
古川の長崎丸と
一処に
又此方へ侵しに来た、と
云うのは官軍方の
東艦、
即ち私などが
亜米利加から
持て来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを
分捕りしようと云うことを企てゝ、そうして
奥州宮古と云う港で散々
戦た所が、負けて
仕舞て
到頭降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、
糺問所と云う
牢屋のようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川
節蔵と、前年、私が米国に同行した
小笠原賢蔵と云う海軍士官と、
二人連れで霞ヶ関の
芸州の屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなと
云て
止めたのであるけれども、監禁されて居ると
云えば
可哀想だ。幸い芸州の屋敷に
懇意な医者が居るから、その医者の処に
行て、ドウかして古川に
遇いたいものだが
遇わして
呉れぬかと
云たらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと
這入て居るから、私が
先ず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、
仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程
乃公が止めたじゃないか。今
更ら云たって
仕方はないが、何しろ
喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、
夫れから宅に
帰て
毛布を
持て行て
遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を
聞たりした事があるので、私は〔
能く〕糺問所の
有様を
知て居ます。
所が
榎本釜次郎だ。釜次郎は
節蔵よりか少し遅れて
此方に
帰て来て同じく
糺問所の手に
掛て居る。所が
頓と
音づれが分らない、と云うのは私は榎本と
云う男は
知て居ることは知て居る、途中で
遇て
一寸挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に
相対して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に
止めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の
大本を云うと、あの
阿母さんと云う人は
素と一橋家の
御馬方で
林代次郎と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の
御徒士の榎本
円兵衛と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは
回縁の遠い
続合いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには
祖母さんに連れられて榎本の家に
行たことがあると云うので、少し往来の道筋が
通て居て全く知らぬ人でない。所が
榎本が今度
糺問所の手に
掛て居て、その
節、榎本の
阿母さんも
姉さんもお
内儀さんも静岡に居るが、一向
釜次郎の処から便りがないので
大に案じて居ると、
丁度その時に榎本の妹の
良人に
江連加賀守と
云う人があって、この人は
素と幕府の外国奉行を勤めて居て私は
外国方の飜訳方であったから
能く
知て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を
寄越して、榎本はこの節どうして居るだろうか、
頓と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う
噂は風の便りに
聞たけれども、ソレも確めることが出来ない、
其れに
就て江戸に親戚
身寄の者に
問合せたけれども、
嫌疑を恐れてか
只の一度も
返辞を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに
遣たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして
呉れぬかと云うことを
縷々と
書て来ました。所で私はその手紙を見て
先ず立腹したと申すは、榎本は
兎も
角も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、
好し
乃公が一人で引受けて
遣ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は
古川節蔵の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に
這入て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ
煩いもしなければ何もせずに無事に居るので
御座る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて
呉れよと云て
遣ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても
宜しかろうかと
云て来たから、
颯々と
御出なさい、私方に
嫌疑もなんにもない、公然と出て
御出でなさいと
返辞をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから
糺問所の様子も
分り
差入物などして居る中に、
阿母さんが
是非釜次郎に逢いたいと
云出した。所が法律も何もない世の中で、
何処に訴えて
如何しようと
云う方角が分らない。ソコで私が一案を
工風して、老母から哀願書を差出すことにして、私が
認めた案文のその次第は、
云々今般倅釜次郎犯罪の儀、誠に
以て恐れ入ります、同人事は実父
円兵衛存命中
斯様々々、
至極孝心深き者で、父に
事えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す
筈はない、
彼れに
限て悪い根性の者では
御在ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で
御座るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う
趣意で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく
書て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお
婆さんが
杖をついて哀願書を
持て糺問所に出掛けた処が、コレは
余程監守の人を感動さしたと見え、
固よりこんな事で罪人の助かる
訳けはないが、とう/\
仕舞に
獄窓を隔てゝ
母子面会だけは叶いました。
夫れ
是れする中に
爰に妙な都合の
宜い事が出来ましたその次第は、
榎本が
箱館で降参のとき、自分が
嘗て
和蘭在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の
為めにとて官軍に
贈て、その書が官軍の将官
黒田良助(黒田
清降)の手にあると
云うことを聞きました。所で人は誰か忘れたが、
或日その書を私方に持参して、何の書だか分らぬがこの蘭文を
飜訳して
貰いたいと云うから、
之を見れば
兼て
噂に
聞た榎本の講義筆記に違いない。
是れは面白いと思い、蘭文飜訳は
易いことであるのを、私は先方に気を
揉ませる積りで
態と手を着けない。初めの
方四、五枚だけ丁寧に分るように飜訳して、原本に添えて返して
遣て、
是れは
如何にも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分る、所が版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分り兼ねる、誠に
可惜い宝書で
御座ると
云て、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をして
唯飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、
云わば伏線の計略を
運らした積りである。又その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家に
行たこともある。
何時か
何処か時も処も忘れましたが、払が黒田に写真を
贈たことがあるその写真は、
亜米利加の南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けて居る写真で、私がその前年、亜米利加から持て
帰て一枚あったから
黒田に
贈て、
是れは
亜米利加の南部の何と
云う人で、逃げる時に
斯う云う姿で逃げたと云う、
敢て命を惜むでもなかろうけれども、又一方から云えば命は大切な者だ、何としても助かろうと思えば
斯く見苦しい姿をしても逃げるのが
当然の道である。人間と云うものは
一度び命を取れば後で幾ら後悔しても取返しが付かない。ドウも
榎本は大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか、何しろこの写真を進上するから
御覧なさいと云て、
濃に話したこともある。
爾うした所で、ドウやら斯うやらする間にいよ/\助かることになった、けれどもその助かると云うのは
固より私の周旋したばかりで助かったと云う
訳けではない、その時の真実内情の
噂を聞けば長州勢はドウも榎本等を殺すような
勢があった、ソコで薩州の藩士がソレを助けようと云う意味があったと云うから、長州勢に任かせたら
或は殺されたかも知れぬ。
何れ大
西郷などがリキンでとう/\助かるようになったのでしょう。
是れは私の
為めには
大童信太夫よりか
余程骨の折れた仕事でした。
彼れ
此れする中に私が
煩い
付て、その事は病後まで
引張て居て、病気全快に及ぶと
云うときだから、明治三年にいよ/\放免になりましたが、
唯残念で気の毒なのは、
阿母さんは
愛子の出獄前に病死しました。
所が前申す通り
榎本釜次郎と私とは
刎頸の
交と云う
訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、
只仙台藩士の腰抜けを
憤ったと同じ事で、幕府の奴の
如何にも無気力不人情と云うことが
癪に
障たので、ソコでどうでも
斯うでも助けて
遣ろうと
思て
駈廻わりましたが、その
節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、
扨榎本の
為めに今日はこの通りに骨を
折て居るが、
是れは
唯人間一人の命を助けるばかりの志で
外になんにも
趣意はない、
元来榎本と云う男は深く知らないが
随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し
気色の
変た男ではあるが、何分にも
出身が幕府の
御家人だから殿様好きだ、今こそ
牢に
這入て居るけれども、
是れが助かって出るようになれば、後日
或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり
聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの
可笑しいだのと云う念が
兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく
此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日
唯今から
一切の周旋を
止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、
左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、
後日に
至て私の
云た通りになったのが面白い。
榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が
占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が
極まって居て、
一切の事情を知る者は私と妻と両人より
外にないから、榎本がドウなろうと私の家で
噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて
合点するでしょう。
是れから私が一身一家の経済の事を
陳べましょう。
凡そ世の中に何が怖いと
云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は
相済まぬ事と
決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を
嘗め
尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その
艱難の中に、母の精神を
以て
自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に
云付けられて
金子返済の
使をしたことがあります。その
次第柄は
斯う
云うことです。天保七年、大阪に
於て私共が亡父の不幸で母に
従て故郷の
中津に帰りましたとき、家の
普請をするとか何とか云うに、
勝手向は
勿論不如意ですから、人の世話で
頼母子講を
拵えて
一口金二朱ずつで何両とやら
纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を
持寄り、
鬮引にて満座に至りて
皆済になる
仕組であるが、大家の人は二朱
計りの金の
為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の
掛金を出したまゝに手を引く者がある。
之を
掛棄と云います。その実は講主が人に金を
唯貰うような事なれども、一般の風俗で
左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の
頼母子に
大阪屋五郎兵衛と云う
廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。
勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき
或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に
済まぬ。武家が町人から金を恵まれて
夫れを
唯貰うて
黙て居ることは出来ません。
疾うから返したい/\と思ては居たがドウも
爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に
持て
行て
厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は
大阪屋に
参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など
却て
痛入ります。
最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと
云て
頻りに辞退すれども、私は母の
云うことを
聞て居るから、
是非渡さねばならぬと、
互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を
置て
帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に
云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、
豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋
五郎兵衛の家に
行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に
遺て居るから、金銭の事に
就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
ソレから段々成長して、
中津に居る間は漢学修業の
傍に内職のような事をして多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も
搗き飯も炊き、
鄙事多能、あらん限りの
辛苦して貧小士族の家に居り、年二十一のとき始めて長崎に
行て、
勿論学費のあろう
訳けもない、寺の留守番をしたり砲術家の
食客になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後大阪に出て、大阪の
緒方先生の塾に修業中も、
相替らず金の事は恐ろしくて
唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。
当然のことで
分り
切て居るから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで
待て居て借金はしないと、
斯う覚悟を
極めて、ソコで二朱や一分は
扨置き、
百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る。
夫れから又私は
質に
置たことがない。着物は塾に居るときも故郷の母が
夏冬手織木綿の品を
送て
呉れましたが、ソレを質に置くと
云えば何時か一度は
請還さなければならぬ。請還す金があるならその金の出来るまで待て居るが
宜いと斯う思うから、金の入用はあっても
只の一度も質に入れたことがない。けれどもいよ/\金に
迫て
如何してもなくてならぬと云うときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて
堪らないと云うようなことがあれば、
思切てその着物を
売て
仕舞います。例えばその時に浴衣一枚を質に入れゝば
弐朱貸して呉れる、
之を手離して売ると云えば弐朱と弐百文になるから売ることにすると
云うような経済法にして、
且つ
又私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身を
以て銭の
為めに時を費すは
勿体ない、
吾身の為めには一刻千金の時である、金がなければ
唯使わぬと覚悟を
定めて、大阪に居る間とう/\一銭の金も借用したことなくして、その後江戸に来ても同様、
仮初にも人に借用したことはない。
折節自分で想像しては
唯怖くて
堪らない、借金が出来て人から催促されたら
如何だろう、世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ、借金が出来て返さなければならぬと
云て、
此方から借りては
彼方に返し、又彼方から借りては此方に返すと云う者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて
嘸忙しい事であろう、
能くもアレで一日でも半日でも
安んじて居られたものだと思うて、
殆んど推量が出来ない。
一口に云えば私は借金の事に
就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用してその催促に逢うて返すことが出来ないと云うときの心配は、
恰も
白刃を
以て後ろから
追蒐けられるような
心地がするだろうと思います。
ソコで私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に
参てから
下谷練塀小路の
大槻俊斎先生の塾に朋友があって、私はその時
鉄砲洲に居たが、その朋友の処へ話に
行て、夜になって練塀小路を出掛けて、
和泉橋の処に来ると雨が
降出した。こりゃドウも
困たことが出来た、
迚も鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の
側に辻
駕籠が居たから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞たら、三
朱だと云う。ドウも三朱と云う金を出してこの駕籠に乗るは無益だ、此方は足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し
先きに下駄屋が見えるから、下駄屋へ
寄て下駄一足に傘一本
買て両方で二
朱余り、三朱出ない。
夫れから雪駄を
懐に入れて、下駄を
穿て傘をさして
鉄砲洲まで
帰て来た。デその途中私は
独り
首肯き、この下駄と傘が又役に立つ、駕籠に
乗たって何も後に残るものはない、こんな処が
慎むべきことだと
思たことがあります、マアその
位に注意して居たから、
外は
推して知るべし、
一切無駄な金を
使たことがない。
紙入に金を入れて置く、ソレは二
分か三分か入れてある、入れてあるけれども
何時まで
経てもその金のなくなったことがない。酒は
固より好きだから朋友と酒を飲みに行くことはある、ソンな時には金も入りますが、
唯独りでブラリと料理茶屋に
這入て酒を飲むなぞと
云うことは
仮初にもしたことがない。ソレ程に私が金を大事にするから、又同時に人の金も決して
貪らない。ソリャ以前奥平家に対して朝鮮人を気取たのは別な話にして、その外と云うのは決して金は貪らないと、自身独立、自力自活と覚悟を
極めました。
ソコで
以て慶応三年、
即ち王政維新の前年の冬、
芝新銭座に
有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に
依ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を
以て売買勝手次第と
云うことになって、
新銭座の
有馬の中屋敷が売物になると人の話を
聞て、同じ新銭座住居の
木村摂津守の用人
大橋栄次と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、
価は三百五十五両、その時の事だから買うと
云た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう
訳けはない、
唯売りましょう
然らば
則ち買いましょうと云う
丈けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは
何時だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、
夫れから私はその前日、三百五十五両の金を
揃えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に
行て見ると、門が
締て
潜戸まで鎖してある。
夫れから門番に、
此処を明けて
呉れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は
亜米利加行の由縁で、木村家には常に
出入して家の者のようにして居たから、門番も福澤と
聞て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ
遣て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に
上て大橋に
遇て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、
酒井の人数が
三田の薩州の屋敷を焼払おうと
云う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で
御座ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、
夫れは夫れとして、時にあの屋敷の金を
持て来たから渡してお
呉んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の
価なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切
罷めだ、マアそんな事を
為なさるなと
云て
取合ぬから、私は不承知だ。ソリャ
爾うでない、今日
渡と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、
大橋は脇の方に
向て、「約束したからと云て時勢に
依たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような
馬鹿気たことがあるものか。
仮令い今買えばと云ても、三百五十五両を半価にしろと云えば半価にするに違いない、
只の百両でも
悦んで売るだろう、
兎に
角に見合せだ、
罷めだ/\と云て相手にならぬから、私は押返して、「イヤそれは出来ません。大橋さん、
能くお聞きなさい。
先達これを有馬から買おうと云うときに、何と貴方は約束なすったか、只十二月の廿五日
即ち今日、金を渡そう、受取ろうと、ソレより
外に何にも約束はなかった。
若し万が一、世の中に変乱があれば破約する、その価を半分にすると云う言葉が、約束の中にあるかないかと云うに、そんな約束はないではないか。
仮令い約条書がなかろうと、人と人と話したのが
何寄の証拠だ、売買の約束をした以上は
当然に金を払わぬこそ大きな間近いだ、何でも払わんければならぬ。
加之ならず、マダ私が
云うことがある。
若し
大橋さんの言う通りにこの三百五十五両を半価にせよとか百両にせよとか
云えば、時節柄
有馬家では承知するであろう。ソコで私が三百五十五両の物を百両に
買たと
斯うした所で、この変乱がどんなになるか
分らない。今あの通り
酒井の人数が
三田の薩州屋敷を
焼払て居るが、
是れが何でもない事で天下
奉平、安全の世の中になるまいものでもない。
扨いよ/\天下泰平になって、私が
彼の買屋敷の内に
住い込んで居る。スルと有馬の家来も大勢あるから、私の処の門前を通る
度に
睨んで通るだろう、彼の屋敷は三百五十五両の約束をしたが、金の
請取渡しのその日に三田に大変乱があったその
為めに百両で売た、福澤は二百五十五両得をして、有馬家では二百五十五両損をしたと、通る度に睨んで通るに違いない。口に言わないでも心に
爾う
思て
忌な顔をするに
極て居る。私はソンな不愉快な屋敷に住もうと思わない。何は
扨置き、構うことはない、ドウぞこの金を渡して
下ださい。
皆無損をしても
宜しい。この金を
唯渡した
計りで、その屋敷に住まうどころではない、逃出して行くと云うような大騒動があるかも知れない。有ればあった時の話だ。人間世界の事は何が何やら分らない、確かに生きて居ると思う人が死んだりする。
矧んや金だ、渡さなければならぬと
捩くれ込んで、
到頭持て
行て貰いました。
爾う
云う
訳けで誠に私が金と云うことに
就て
極めて律義に正しく
遣て居たと云うのは、
是れは
矢張り昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすは卑劣だ、気が
餒えると云うような事を
思たものと見えます。
それに
又似寄たことがある。明治の初年に横浜の
或る豪商が学校を
拵えて、この慶應義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をして居ました。
爾うするとその主人は私に
親から新塾に出張して監督をして貰いたいと云う意があるように見える。私の家にはそのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が
七歳に弟が
五歳ぐらい。是れも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと
思て居る、所が世間一般の風を見るに、学者とか役人とか云う人が
動もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを
祈て、ドウやら
斯うやら周旋が
行届て目的を達すると獲物でもあったように悦ぶ者が多い。
嗚呼見苦しい事だ、自分の産んだ子ならば学問修業の
為めに洋行させるも
宜しいが、貧乏で出来なければ
為せぬが
宜しい、
夫れを乞食のように人に
泣付て修業をさせて貰うとは
扨も/\意気地のない奴共だと、心
窃に
之を
愍笑して居ながら、私にも男子が
二人ある、この子が十八、九歳にもなれば
是非とも外国に
遣らなければならぬが、
先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途
甚だ
遥なり、
二人遣て何年間の学費は中々の大金、自分の腕で出来ようか
如何だろうか誠に
覚束ない、
困たことだと常に心に
思て居るから、
敢て
愧ることでもなし、
颯々と人に話して、金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が
七歳だ
五歳だと
云うけれども、モウ十年
経てば
仕度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば
宜いがと、人に話して居ると、誰かこの話を例の豪商にも告げた者があるか、
或日私の処に来て商人の云うに、お前さんに
彼の学校の監督をお頼み申したい、
斯く申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、
態々月給と
云ては取りもしなかろうが、
茲に一案があります、
外ではない、お前さんの小供両人、
彼のお坊ッちゃん両人を外国に
遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが
如何だろう、
此処で今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、所で今
要らない金だからソレを
何処へか預けて置く、預けて置く
中に小供衆が成長する、成長して外国に行こうと云うときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は
如何で
御座ると
云い出した。成程
是れは
宜い話で、
此方はモウ実に金に
焦れて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天から
降て来たようなもので、
即刻応と
返辞をしなければならぬ処だが、私は考えました。待て
霎時、どうも
爾うでない、
抑も
乃公が
彼の学校の監督をしないと
云うものは、
為ない
所以があって
為ないとチャンと説を
極めて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の
需に応じようと
云えば、前に
之を謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を
請取るのが間違いである。金の
為めに変説と云えば、金さえ見れば何でもすると
斯う成らなければならぬ。
是れは出来ない。
且つ又今日金の欲しいと云うのは何の
為めに欲しいかと云えば、小供の
為めだ。小供を外国で修業させて役に立つように
為よう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、
是れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子に
違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。
如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分に
自から信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退すると
云ては、
所謂独立心の
居処が分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めに
節を屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。
宜しい、今後
若し
乃公の子が金のない
為めに十分の教育を受けることが出来なければ、
是れはその子の運命だ。
幸にして金が出来れば教育して
遣る、出来なければ無学文盲のまゝにして
打遣て置くと、私の心に決断して、
扨先方の人は誠に厚意を
以て話して
呉れたので、
固より私の心事を知る
訳けもないから、
体能く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は
眼前に子供を見てその行末を思い、又
顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには
随分心を悩ましました。その話は
相済み、その後も
相替らず真面目に家を治めて著書
飜訳の事を
勉めて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして
中上川彦次郎を英国に
遣りました。彦次郎は私の
為めに
只た一人の甥で、
彼方も
亦只た一人の叔父さんで
外に叔父はない、私も
亦彦次郎の外に甥はないから、
先ず親子のようなものです。
彼れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも
亜米利加に六年ばかり
遣て置きました。私は今思い出しても誠に
宜い心持がします。
能くあの時に金を
貰わなかった、貰えば生涯気掛りだが、
宜い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に
瑾を付けなかったような心持がします。
右様な大金の話でない、
極々些細の事でも
一寸と
胡麻化して
貪るようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男
一太郎と次男
捨次郎と両人を連れて
上方見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、
金場小平次と
云う
兼て
懇意の問屋に一泊、ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に
帰て来て、
復た三菱の船に乗込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗込みと云うときにその切符を
請取て見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚の
筈だ、何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、番頭は
落付払い、「ナーニ間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの
御年も
御誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は
当然です。規則には満十二歳以上なんて
書てありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんと
云うから、私は承知しない。「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、
是非規則通りに払うと
云うと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんと
云て議論のように
威張るから、「何でも
宜しい。
乃公は乃公の金を出して払うものを払い、貴様には
唯その周旋を頼む
丈けだ。何も云わずに
呉れろと申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。
是れは何も珍らしくない、買物の代を
当然に払うまでの事だから、世間の人も
左様であろうと思うけれども、今日例えば汽車に
乗て見ると、青い切符を
以て
一寸と上等に乗込む人もあるようだ。過日も横浜から例の
青札を以て上等に飛込み神奈川に
上った奴がある。私は箱根帰りに
丁度その列車に乗て居て、ソット奴の手に
握てる中等切符を見て、
扨々賤しい人物だと思いました。
是れまで申した所では何だか私が潔白な男のように見えるが、中々
爾うでない。この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる
挙動をして居ました。話は少々長いが、私が金銭の事に付き数年の間に
豹変したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、第一、王臣になるか、第二、幕臣になって静岡に行くか、第三、帰農して平に民になるかと
云て来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を
棄てゝ丸腰になって
仕舞い、ソコで
是れまで幕府の家来になって居るとは
云いながら、
奥平からも
扶持米を
貰て居たので、幕臣でありながら
半ばは奥平家の藩臣である。
然るに今度いよ/\帰農と
云えば、
勿論幕府の物を貰う
訳けもないから、同時に奥平家の方から
貰て居る六人
扶持か八人扶持の米も、御辞退申すと
云て返して
仕舞いました、と申すはその時に私の生活はカツ/\出来るか出来ないかと
云う位であるが、
併しドウかしたなら出来ないことはないと
大凡その
見込が
付て居ました。前にも云う通り私は一体金の
要らない男で、一方では多少の著訳書を
売て利益を収め、又一方では
頓と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、赤貧ではない。
是れから
先き無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると
考を定めて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルと奥平の役人達は
却て
之を面白く思わぬ。「ソンナにしなくても
宜い、
是れまで通り
遣ろうと
云て、その押問答がなか/\
喧ましい。妙なもので、
此方が貰おうと云うときには容易に呉れぬものだが、要らないと云うと向うが
頻りに
強うる。ソレで
仕舞には、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと云うまでになって来た。
夫れから此方も意地になって、「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を
精げて
貰いたい。モ一つ
序でにその米を
飯か粥に
焚て貰いたい。イヤ毎月と云わずに毎日
貰いたい。
都ての失費は皆米の内で
償いさえすれば
宜いから
爾うして貰いたい。ソレでドウだと申すに、
御扶持を貰わなければ不親切不忠と
云われる、不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程の
考はないから
慎んで戴きます。願の通りその御扶持
米が
飯か粥になって来れば、私は
新銭座私宅
近処の乞食に
触を出して、毎朝来い、
喰わして
遣ると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前に
於て難渋者共に戴かせます積りですと
云うような乱暴な激論で、役人達も
困たと見え、とう/\私の
云う通りに奥平藩の縁も切れて
仕舞いました。
斯う云えば私が
如何にも高尚廉潔の君子のように見えるが、この君子の前後を丸出しにすると実は大笑いの話だ。
是れは私一人でない、同藩士も同じことだ。イヤ同藩士ばかりでない、日本国中の大名の家来は
大抵皆同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領と
云て、
之に返礼する気はない。
馳走になれば
御酒下されなんと云て、気の毒にも思わず
唯難有いと御
辞儀をするばかりで、その実は人間
相互いの
附合いと思わぬから、金銭の事に
就ても
亦その通りでなければならぬ。私が
中津藩に対する筆法は、金の辞退どころか
唯取ること
計り考えて、何でも構わぬ、取れる
丈け取れと
云う気で、一両でも十両でも
旨く取出せば、何だか
猟に
行て
獲物のあったような
心持がする。拝借と
云て金を借りた以上は
此方のもので、返すと云う念は万々ない。
仮初にも自分の手に握れば、借りた金も
貰た金も同じことで、
後の事は少しも思わず、義理も
廉恥もないその
有様は、今の朝鮮人が金を
貪ると何にも
変たことはない。嘘も
吐けば
媚も献じ、
散々なことをして、藩の物を
只取ろう/\とばかり考えて居たのは
可笑しい。
その二、三ヶ条を云えば、
小幡その
外の人が江戸に来て居て、私が
一切引受けて世話をして居るときに、藩から
勿論ソレに立行く
丈けの金を
呉れよう
訳けはない。ドウやら
斯うやら種々様々に、私が有らん限りの才覚をして金を
造た。例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、ソレを
飜訳しては、佐賀藩の
留守居とか仙台藩の留守居とか、その外一、二藩もありました、ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳を
買て貰いたいと云て多少の金にするような
工風をしたり、又は私が外国から
持て
帰た原書の中の不用物を
売たりして金策をして居ましたが、何分
大勢の書生の世話だからその位の事では
迚も
追付く訳けのものでない。所でその時江戸の藩邸に金のあることを
聞込んだから、即案に
宜い加減な事を
書立て、何月何日頃何の事で自分の手に金の
這入る約束があると云うような嘘を
拵えて、誠めかしく家老の処に
行て、散々御
辞儀をして、
斯う/\
云う
訳けですから
暫時百五十両
丈けの
御振替を願いますと
極手軽に話をすると、家老は
逸見志摩と云う誠に正しい気の
宜い人で、
暫時のことならば拝借
仰付けられても
宜かろうと云うような曖昧な答をしたから、その笞を聞くや
否やすぐにその次の
元締役の奉行の処に行て、今
御家老志摩殿に斯う云う話をした所が、貸して苦しくないと
御聞済になったから、今日その御金を
請取りたいと云うと、奉行は不審を
抱き、ソレは
何時の事だか知らぬがマダその
筋から御
沙汰にならぬと妙な
顔色して居るから、
仮令い御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、
唯金をさえ渡して下されば
宜しい、何も
六かしい事はないと段々
説た、所が家老衆が
爾う
云えば、御金のないことはない、余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、
此方はモウ済んだ事にして
仕舞て、その足で
又その下役の元締
小吟味、
是れが真実その金庫の鍵を
持て居る人であるその小吟味方の処へ行て、
只今金を出して
貰いたい、斯う/\云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、正当な手順で、
僅か三ヶ月
経てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、何の事はない、
疾雷耳を
掩うに
遑あらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両と
云う大金を
掠めて
持て来たその時は、
恰も手に竜宮の
珠を握りたるが
如くにして、
且つ
[#「且つ」はママ]その
握た珠を竜宮へ
返えそうなんと云う念は
毛頭ない。誠に
不埒な奴さ。
夫れで
以て一年ばかり
大に楽をしたことがあります。
又或る時、家老
奥平壱岐の処に原書を持参して、
御買上を願うと持込んだ所が、この家老は中々
黒人、その原書を見て云うに、
是れは
宜い原書だ、
大層高価のものだろうと
頻りに
賞めるから、
此方はチャンと向うの腹を
知て居る、有益な本で実価は安いなどと
威張て出掛けると、ソレじゃ
外へ持て行けと云うに
極て居るから、一番、その裏を
掻て、「
左様です、原書は誠に必要な原書ですが、
之を私が奥平様にお買上げを願うと云うのは、この代金を私が
請取て、その金は私が
使て、
爾うしてその
御買上げに
[#「御買上げに」はママ]なった原書を私が拝借しようと
斯う云うので、正味を申せば私がマア金を
唯貰おうと云う策略でござる。
斯くの通り平たく心の実を明らさまに申上げるのだから、ドウかこの原書を名にして金を下さい。一口に申せば私は体の宜い乞食、お
貰い見たようなものでござると
打付けた所が、家老も
仕方がない、その
訳けは、家老が以前に自分の持て居る原書一冊を奥平藩に二十何両かで売付けたことがあるその事を
聞込んだから私が
行たので、
若しも否めばお前さんはドウだと暴れて
遣ろうと云う
強身の伏線がある、丸で脅迫手段だから、家老も仕方なしに承知して、私も
矢張りその原書を名にして先例に
由り二十何両かの金を
取て、その内十五両を故郷の母の方に
送て一時の窮を
凌ぎました。
と
云うような次第で、ソレはソレは卑劣とも何とも実に
云いようのない悪い事をして
一寸とも
愧じない。
仮初にも
是れはドウも
有間敷事だなんと
思たことがない。取らないのは損だとばかり、
猟に行けば雀を
撃たより雁を
取た方がエライと云う位の了簡で、
旨く大金を
掠め取れば心
窃に
誇て居るとは、実に浅ましい事であるのみならず、本来私の性質がソレ程卑劣とも思わない、
随分家風の悪くない家に生れて、幼少の時から心正しき母に育てられて、
苟も人に
交て
貪ることはしないと説を立てゝ居る者が、何故に藩庁に対してばかり
斯くまでに
破廉恥なりしや、
頓と
訳けが分らぬ。シテ見ると人間と云う者はコリャ社会の虫に違いない。社会の時候が有りのまゝに続けば、その虫が虫を産んで際限のない所に、この
蛆虫即ち習慣の奴隷が、
不図面目を改めると云うには、社会全体に大なる変革激動がなければならぬと思われる。ソコで三百年の幕府が潰れたと云えば、
是れは日本社会の大変革で、
随分私の一身も始めて夢が
醒めて、藩庁に対する
挙動も改まらなければならぬ。是れまで自分が藩庁に
向て
愧ずべき事を犯したのは、
畢竟藩の殿様など
云う者を
崇め
奉って、その極度はその人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物と思い、知らず
識らず
自から
鄙劣に陥りしことなるが、
是れからは藩主も平等の人間なりと一念こゝに発起して、この平等の主義からして物を
貪るは男子の事に
非ずと云う考えが浮かんだのだろうと思われる。その時には特に考えたこともない、説を付けたこともないが、私の心の変化は恐ろしい。
何故に以前藩に対してあれほど卑劣な男が後に
至ては
折角呉れようと云う
扶持方をも
一酷に辞退したか、辞退しなくっても世間に笑う者もないのに、
打て
変た人物になって、この間まで丸で朝鮮人見たような奴が、恐ろしい権幕を
以て呉れる物を
刎返して、
伯夷、
叔斉のような高潔の士人に
変化したとは、何と激変ではあるまいか。他人の話ではない、私が自分で自分を怪しむことであるが、
畢竟封建制度の中央政府を倒してその倒るゝと共に個人の奴隷心を一掃したと云わなければならぬ。
之を大きく論ずれば、
彼の支那の事だ、支那の今日の有様を見るに、何としても
満清政府をあの
儘に存じて
置て、支那人を文明開化に導くなんと云うことは、コリや真実無益な話だ。何は
扨置き老大政府を根絶やしにして
仕舞て、ソレから組立てたらば人心こゝに一変することもあろう。政府に
如何なるエライ人物が出ようとも、百の
李鴻章が出て来たって何にも出来はしない。その人心を
新にして国を文明にしようとならば、何は
兎もあれ、
試みに中央政所を潰すより
外に妙策はなかろう。
之を潰して果して日本の王政維新のように
旨く参るか参らぬか、
屹と請合は
難けれども、一国独立の
為めとあれば
試みにも政府を倒すに会釈はあるまい、国の政府か、政府の国か、このくらいの事は支那人にも分る
筈と思う。
私の経済話から段々
枝がさいて長くなりましたが、
序ながら中津藩の事に
就て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも
至極淡泊にあったと云うその
為めに、
茲に
随分心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が
盛で、
動もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を
以て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと
云うようなことは、
何れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、
若し私に政治上の功名心があって、藩に
行て佐幕とか勤王とか何か
云出せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は
黙て居て
一寸も発言せず、人が
噂をすれば、
爾う
喧しく云わんでも
宜い、
棄てゝ置きなさいと云うように、
極淡泊にして居たから、
中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが
為めだろうと思います。人殺しどころか人を
黜陟したと云うこともなかった。
ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに
行たことがある、所がその時は藩政も大いに
変て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の
邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆
其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば
嘸ドウも大変な事を云うだろうと
待受けて居たに違いない。
夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら
宜かろうか、方向に
迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は
之に答えて、イヤもう
是れはドウするにも及ばぬことだ、
能く諸藩では
或は禄を平均すると云うような事で大分
騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの
儘で、千
石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に
悠々として居るが上策だと、その説を
詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、
是れは/\穏かなことを云うもの
哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
夫れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今
云う通り禄も身分も元の通りにして置くが
宜かろう、ソレは
宜しいが、
茲に一つ忠告したいことがある。今この
中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武を
以て国を立てようと云うその
趣はチャンと見えて居るが、
併し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、
左れば今日
只今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が
攻来れば
之にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩
罪なし武器
災をなすと云わねばならぬ、ダカラ
寧そこの鉄砲を皆
売て
仕舞いたい、見れば大砲は
何れもクルップだ、これを売れば三千五千
或は一万円になるかも知れぬから、
一切売て
仕舞て昔の琉球見たようになって仕舞うが
宜い、
爾うして
置て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から
遣て来たら、ヘイ/\、
斯う
為ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に
行て
直に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て
直談を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、
此方はドウでも宜いと、
斯う
云う仕向けが
宜かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから
爾う云うようにしたい、そうして一方に
於てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに
極てるから、学校を
拵えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を
執るが一番大事である、
扨爾う云う方針を執るとして、武器を廃して
仕舞えば、余り割合が
宜過ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて
困て居る、ソコで一片の願書なり届書なり
認めて出して見るが
宜しい、その次第はこの
中津藩は武備を廃したる
為めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも
為すって下さいと斯う
云えば、海陸軍では大に
悦ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が
各々色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に
堪まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に
於て有るに
極た
訳けではないか、
然るに
此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ
彼処では
仏蘭西の小銃、
此方は
和蘭から
昔し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に
於てイザ事と
云ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが
宜い、爾うすれば独り政府が
悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、
所謂一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、
菅沼新五右衛門と
云う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に
向て丸腰になれと云うような説で、ソレ
計りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ
為なさるな、ドウでも
宜しい、御勝手になさい、
只私は
爾うしたらば便利だと思う
丈けの話だからと
云て、ソレ
切り
罷めになって
仕舞いましたが、
併し私はその政治論に熱しなかったと云う
為めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、
是れは事実に
於て間違いないことで、
自から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に
中津藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が
宜かった。例えば私の妻の里などは二百五十石
取て居て三千円ばかりの公債証書を
貰い、
今泉(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か
取て居たが四千円も
貰いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に
付かずと
云うような
訳けで、
終にはなくして
仕舞って何もありはしない。
兎に
角に
中津藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
話は
以前に
立還て
復た経済を語りましょう。私は金銭の事を
至極大切にするが、商売は
甚だ不得手である、その不得手とは
敢て商売の趣意を知らぬではない、その道理は
一通り
心得て居る
積りだが、自分に手を着けて
売買貸借は何分ウルサクて面倒臭くて
遣る気がない。
且つむかしの士族書生の気風として、利を
貪るは君子の事に
非ずなんと云うことが
脳に
染込んで、商売は
愧かしいような
心持がして、
是れも
自から身に着き
纏うて居るでしょう。
既に江戸に始めて来たとき、同藩の先輩
岡見彦
曹と云う人が、
和蘭辞書の原書を
飜刻して一冊の代価五両、その時には安いもので随分望む人もある中に、私が世話をして朋友に一冊買わせて、その代金五両を岡見に
持て行くと、主人が金一分、紙に包んで
呉れたから驚いた、是れは何の事か少しも分らん、本の世話をして
売たその礼とは呆れた話だ、
畢竟主人が少年書生と
見縊て金を恵む了簡であろう、無礼な事をするもの
哉と少し心に立腹して、真面目になって争う事があると云うような次第で、物の売買に手数料などゝ云うことは町人共の話として、書生の身には夢ほども知らない。
左れども
是等は唯書生の一身に直接して
然るのみ。
扨経済の理窟に
於ては当時町人共の知らぬ処に
考の届くことがある。
或るとき私が
鍛冶橋外の金物屋に
行て
台火斗を
買て、価が十二
匁と云うその時、どう云う
訳けだか供の者に銭を持たせて、十二匁なれば
凡そ一貫二、三百文になるから、その銭を店の者に渡したときに、私が
不図心付た。この銭の目方は
凡そ七、八百目から一貫目もある、
然るに銭の代りに
請取た台火斗は二、三百目しかない、銭も火斗も同じ銅でありながら、通用の貨幣は安くて売買の品は高い、
是れこそ経済法の大間違いだ、こんな事が永く続けば銭を鋳潰して台火斗を作るが利益だ、何としても日本の銭の価は騰貴するに違いないと説を定めて、一歩を進めて金貨と銀貨との目方、性合を比較して見て、西洋の金一銀十五の割合にすれば、日本の貨幣法は間違いも間違いか大間違いで、私が首唱して云うにも及ばず、外国の商人は開国その時から大判小判の輸出で利を占めて居るとの風聞。ソレから私も
知て居る金持の人に
頻りに勧めて金貨を買わせた事があるが、
是れも
唯人に話をする
計りで自分には何にも
為ようとも
思付かぬ。
唯私の覚えて居るのは安政六年の冬、米国行の前、
或人に金銀の話をして、翌年夏、帰国して見れば、その人が
大に利益を得た様子で、
御礼に進上すると
云て、一朱銀の数も
計えず私の片手に山盛り一杯金を
呉れたから、深く礼を
云うにも及ばず、何は
扨置き
早速朋友を連れて築地の料理茶屋に
行て、思うさま酒を飲ませたことがある。
先ずこの位なことで、その癖私は維新後早く
帳合之法と云う簿記法の書を
飜訳して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に
傚うて
書たものである。ダカラ私は簿記の
黒人でなければならぬ、所が読書家の
考と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても
甚だ受取が悪い。ウンと考えれば
固より分らぬことはない、
屹と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の
締て何々と云う数を見る
計り。こんな事で商売の出来ないのは私も
知て居る。例えば塾の書生などが学費金を
持て来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいと
云う者がある。今の貴族院議員の
滝口吉良なども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の
袖斗に入れて
置て、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで
仕舞て置く。その金を銀行に預けて
如何すれば便利だと
云うことを知るまい事か、百も承知で心に
知て居ながら、手で
為ることが出来ない。銀行に預けるは
扨置き、その
預た紙幣の大小を
一寸私に取替えて
本の姿を変えることも気が
済まない。
如何でも
是れは
持て生れた藩士の根性か、
然らざれば書生の机の
抽斗の会計法でしょう。
ソコで
或時例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に
染みるような混雑な事を云うから、
扨て/\
如何もウルサイ事だ、この金を
彼方に向けて、
彼の金は
此方に
返えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても
宜さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も
能く知て居るが、
苟も人に金を貸すと云うことは
余た金があるから貸すのだ、
仮令い商売人でも貸す金があるなら
成る
丈けソレを自分に運転して、他人の金をば成る
丈け借用しないようにするのが本意ではないか、
然るに自分に資本を持て居ながら、
態々人に借用とは入らざる事をしたものだ、余計な苦労を求めるようなものだと云うと、その人が
大に
笑て、
迂闊千万、途方もない事を云う、商売人と云うものは
入組んで/\
滅茶々々になったと
云うその間に、又種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか、
啻に商売人に眼らず、
凡そ人の金を借用せずに世の中を渡ると云うことが出来るものか、ソンな人が
何処に在るかと
云て私を冷却するから、私はその時始めてヒョイと
思付た。今御話を聞けば、世の中に借金しない者が何処に在るかと云うが、その人は今こゝに居ます。私は
是れまで
只の一度も人の金を借りたことがない。「そんな馬鹿な事を云いなさるな。「イヤ
如何してもない。生れて五十年(是れは十四、五年前の話)人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘ならば、
試に私の印形の
据て居るものとは云わない、
反古でも何でも
宜しい、ソレを捜して
持て来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤の
書た借用証文と云うものはソレこそ有る気遣いはないが
如何だ、と云うような
訳けで、その時に私も始めて思い出したが、私は生れてこの
方遂ぞ金を借りたことがない。是れはマア私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらば
甚だ尋常一様でないのかも知れぬ。
ソレで私は今でも多少の財産を持て居る、持て居たけれども私ところの会計と云うものは
至極簡単で、少しも入込んだことはない。この金を誰に
返えさなければならぬ、
之を
此方に振向けなければならぬと云うような事は絶えてない。ソレで
僅か
[#「僅か」はママ]ばかり二百円とか三百円とか
云う金が、手元にあってもなくても構わない、ソレを銀行に預けて、必要のとき小切手で払いをすれば利息が徳になると云う、ソレは私も
能く
知て居て、世間一体そう云う
風になりたいとは思えども、
扨自分には
小面倒臭い、ソンな事にドタバタするよりか、金は金で
仕舞て
置て、払うときにはその
紙幣を
計えて渡して
遣ると、
斯う云う趣向にして、私も家内もその通りな考えで、真実封建武士の机の
抽斗の会計と云うことになって、その話になると丸で別世界のようで、文明流の金融法は私の家に
這入りません。
夫れからして、世間の人が私に対して推察する所を、私が又推察して見るに、ドウも世人の思う所は決して無理でない、と云うのは私が若い時から
困たと云うことを
一言でも云うたことがない、誠に家事多端で金の入用が多くて困るとか、
今歳は斯う云う不時な事があって困却致すとか云うような事を、
仮初にも口外したことがない、私の眼には世間が
可笑しく見える、世間多数の人が
動もすれば貧乏で困る、金が不自由だ、無力だ、不如意だ、なんかんと愚痴をこぼすのは、
或は金を貸して
貰いたいと云うような意味で言うのか、
但しは
洒落に言うのか、飾りに言うのか、私の眼から見れば何の事だか少しも
訳けが分らない、自分の身に金があろうとなかろうと
敢て他人に関係したことでない、自分一身の利害を下らなく人に語るのは
独語を言うようなもので、こんな
馬鹿気た事はない、私の流儀にすれば金がなければ使わない、
有ても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、
一切世間の人のお世話に
相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、
嘗て人に相談しようとも思わなければ、人に
喙を
容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽、共に独立独歩、ドンな事があっても、
一寸でも
困たなんて泣言を
云わずに何時も悠々として居るから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも
金持だと測量する人もありましょう。所が私は又その測量者があろうとなかろうと、その推測が
中ろうと中るまいと、少しも
頓着なしに相替らず悠々として居ます。
既に先年、所得税法の始めて発布せられた時などは
可笑しい、区内の所得税掛りとか何とか云う人が、私の家には財産が
凡そ七十万円あるその割合で税を取ると、内々
云て来た者があるから、私がその者に云うに、
何卒その言葉を忘れて
呉れるな、見て居る前で福澤の一家残らず
裸体になって出て行くから、七十万で
買て貰いたい、財産は帳面のまゝ渡して、家も倉も衣服も諸道具も鍋も釜も皆
遣るから、ソックリ
買取て七十万円の金に
易えたい、
唯漠然たる評価は迷惑だ、現金で売買したい、
爾うなれば生来始めての大儲けで、生涯さぞ安楽であろうと云て、大笑いしたことがあります。
私が経済上に堅固を
守て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、
抑も
亦身の境遇に駈られて
遂に堅く
凝り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を
去て以来、
自から一身の
謀を
為し、二十三歳、
家兄を
喪いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に
担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は
仮初にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の
差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、
勉めることは
飽くまでも根気
能く
勉めて、種々様々の方便を
運らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に
遣りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、
尚おそれ以上に進んで哀願はしない、
唯元に
立戻て
独り
静に
思止るのみ。
詰る所、他人の熱に
依らぬと
云うのが私の本願で、この一義は私が
何時発起したやら、自分にも
是れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
中津に居て十六、七歳のとき、
白石と云う漢学先生の塾に修業中、同塾生の医者か坊主か二人、
至極の貧生で、二人とも
按摩をして
凌いで居る者がある。その時、私は
如何でもして国を飛出そうと思て居るから、
之を見て
大に心を動かし、コリャ面白い、一文なしに国を出て、
罷り
違えば
按摩をしても
喰うことは出来ると
思て、ソレから二人の者に按摩の法を習い、
頻りに
稽古して
随分上達しました。
幸にその後按摩の芸が身を助ける程の
不仕合もなしに
済みましたが、習うた芸は忘れぬもので、今でも普通の田舎按摩よりかエライ。湯治などに
行て家内子供を揉んで
遣て笑わせる事があります。こんな事がマア私の常に云う自力自活の姿とでも
云うべきものか、是れが故人の伝を書くとか何とか云えば、何々氏
夙に独立の大志あり、
年何歳その学塾に在るや按摩法を学んで
云々なんと、
鹿爪らしく文字を並べるであろうが、私などは十六、七のとき大志も何もありはせぬ、
唯貧乏でその癖、学問修業はしたい、人に話しても世話をして
呉れる気遣いなし、しょうことなしに自分で按摩と
思付た事です。
凡そ人の志はその身の
成行次第に
由て大きくもなり又小さくもなるもので、子供の時に何を言おうと何を行おうと、その言行が必ずしも生涯の抵当になるものではない、唯先天の遺伝、現在の教育に
従て、根気
能く
勉めて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。
私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを
試みて、首尾
能く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書
飜訳を勉めて、その製本
売捌の事をば
都て書林に
任してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、
兎角人を馬鹿にする
風がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、
版木版摺の職人を雇うにも、
亦その製本の紙を買入るゝにも、
都て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、
大本の著訳者は
当合扶持を授けられると
云うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、
之を人仕せにして不利益は
分て居る。書林の
奴等に何程の智恵もありはしない、
高の知れた町人だ、何でも
一切の権力を
取揚げて
此方のものにして
遣ろうと説を
定めた。定めたは
宜いが実は望洋の歎で、少しも
取付端がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に
挟まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の
御直参でなく、向う河岸に居るようなものだから、
彼れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが
差向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、
之を
掻集めて千両ばかり出来たから、
夫れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を
遣て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と
云うものは実に人の
耳目を驚かす。
如何なる大書林と
雖も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ
持て来て千両現金、
直ぐに渡して
遣ると云うのだから、
値も安くする、品物も
宜い物を寄越すに
極てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に
新銭座に
引取て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して
呉れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に
置て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の
出入れをするから、蔵に
這入てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに
違いないと
先ず信仰して、
且つ
此方では払いをキリ/\して
遣ると云うような
訳けで、
是れが
端緒になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して
仕舞う。此方の監督者は利いた
風をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、
是れまで書林の
為すべき事は
都て此方の直轄にして、書林には
唯出版物の
売捌を命じて手数料を取らせる
計りのことにしたのは、
是れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を
試みた一例です。
経済の事は右の
如くにして、私は私の流義を
守て生涯このまゝ替えずに終ることであろうと思いますが、ソレから
又自分の一身の行状は
如何であったか、家を成した後に家の有様は
如何かと
云うことに
付て、有りのまゝの次第を語りましょう。
扨私の若い時は
如何だと申すに、
中津に居たとき子供の時分から成年に至るまで、何としても同藩の人と打解けて真実に交わることが出来ない、本当に朋友になって共々に心事を語る
所謂莫逆の友と云うような人は一人もない、世間にないのみならず親類中にもない、と
云て私が
偏窟者で人と交際が出来ないと云うではない。ソリャ男子に接しても婦人に逢うても快く話をして、ドチラかと云えばお
饒舌りの方であったが、本当を云うと
表面ばかりで、実はこの人の真似をして見たい、
彼の人のように成りたいとも思わず、人に誉められて嬉しくもなく、悪く云われて怖くもなく、
都て
無頓着で、悪く評すれば人を馬鹿にして居たようなもので、
仮初にも争う気がないその証拠には、同年輩の子供と喧嘩をしたことがない、喧嘩をしなければ怪我もしない、友達と喧嘩をして
泣て家に
帰て
阿母さんに
言告けると云うようなことは
唯の一度もない。口先き
計り達者で内実は無難無事な子でした。
ソレから国を
去て長崎に行き大阪に出てその修業中も、ワイ/\朋友と共に笑い共に
語て
浮々して居るようにあるけれども、身の行状を
慎み品行を正しくすると
云うことは、
努めずして自然にソレが私の体に
備て居ると
云ても
宜しい。モウそれはさん/″\な乱暴な話をして、大言壮語、至らざる所なしと云う中にも、
嫌らしい汚ない話と云うことは
一寸とでも
為たことがない。同窓生の話に
能くある事で、昨夜、北の新地に遊んでなんと云うような事を
云出そうとすると、私は
態と
其処を去らずに大
箕坐をかいてワイ/\とその話を打消し、「馬鹿野郎、余計なことを口走るな、と云うような調子で
雑ぜ返して
仕舞う。ソレから江戸に出て来ても
相替らずその通り、朋友も多い事だから
相互に往来するのは不断の事で、
頻りに
飛廻て居たけれども、
扨例の吉原とか深川とか云う事になると、朋友共が私に話をすることが出来ない。その
癖私は能く事情を
知て居る。誠に
事細に知て居るその
訳けは、
小本なんぞ読むにも及ばず、近く朋友共が馬鹿話に浮かれて
饒舌るのを、
黙て
聞て居れば容易に分る。
六かしい事も何にもない、チャンと呑込んで
知て居るけれども、
如何なこと、
左様な事を思出したこともないのみならず、吉原深川は
扨置き、上野の花見に
行たこともない。
私は安政
三年、江戸に出て来て、
只酒が好きだから
所謂口腹の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友
相会すれば飲みに行くと
云うような事は、ソリャ
為て居るけれども、
遂ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、
下谷の自宅出棺、駒込の寺に葬式
執行のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。
即ち私が江戸に来てから六年目である。「
成る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年
酷い
腸窒扶斯を
煩い、病後の運動には馬に乗るのが最も
宜しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に
乗て諸方を
乗廻り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは
何処でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を
試みて、向島を廻って上野の方に
帰て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ
彼処が吉原かと
心付て、ソレではこのまゝ馬に
乗て吉原見物を
為ようじゃないかと
云出したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り
風が悪いと
止めて、ソレ切りになって
未だに私は吉原と
云う処を見たことがない。
斯う云うような次第で、
一寸と人が考えると私は奇人
偏窟者のように思われましょうが、決して
爾うでない。私の性質は人に
附合いして
愛憎のない積りで、貴賤貧富、君子も小人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃も
之を見て何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。
此奴は
穢れた動物だ、同席は出来ないなんて、妙な渋い顔色して内実プリ/\怒ると云うような事は決してない。古いむかしの事であるが、四十余年前、長崎に居るとき、光永寺と云う
真宗寺に同藩の家老が滞留中、
或日市中の
芸妓か女郎か五、六人も変な女を集めて酒宴の愉快、私はその時酒を禁じて居るけれども陪席
御相伴を
仰せ付けられ、一座
杯盤狼藉の最中、家老が私に杯をさして、「この酒を飲んで、その杯を座中の誰でも
宜しい、
足下の一番好いてる者へさすが
宜かろうと云うのは、実は
其処に美人が
幾人も居る、私はその杯を美人にさしても
可笑しい、
態と避けてさゝなくても可笑しい、
屹と困るであろうと
嬲るのはチャント
分て居る。所が私は少しも困らない。杯をグイと干して、大夫さんの命に従い一番好いた人に上げます、ソレ
高さん、と
云て杯をさしたのは、六、七歳ばかりの寺の
末子で、私が
瀉蛙々々として
笑て居たから家老殿も興にならぬ。
既に今年春ジャパン・タイムス社の
山田季治が長崎へ行くと聞き、
不図光永寺の事を思出して、あの時は
如何なってるか、
高さんと
云う小僧があった
筈だが、
如何して居るか尋ねて見たいと申したら、山田の返事に、寺は
旧の通り焼けもせず、高さんも無事息災、今は五十一歳の老僧で隠居して居るとて写真など
寄送しましたが、右の一件も私の二十一歳の時だから、
計えて見ると高さんは七歳でしたろうに、恐ろしい古い話です。
左様いう
訳けで私は若い時から婦人に対して
仮初にも無礼はしない。
仮令い酒に
酔ても
謹しむ所は
屹と謹しみ、女の
忌がるような禁句を口外したことはない。
上戸本性で、謹みながら女を相手に話もすれば笑いもして談笑自在、
何時も慣れ/\しくして、その
極は世間で云う
嫌疑と云うような事を何とも思わぬ。血に交わりて赤くならぬこそ男子たる者の本領であると、チャンと自分に説を
極めてあるから、男女夜行くときは
灯を照らすとか、物を受授するに手より手にせずとか、アンな
古めかしい教訓は、私の眼から見ると
唯可笑しいばかり。
扨も/\卑怯なる
哉、ソンな窮窟な事で人間世界が渡れるものか、世間の人が妙な処に用心するのはサゾ忙しいことであろう、自分は古人の
教に
縛れる気はないと、
自から自分の身を信じて
颯々と人の家に
出入して、
其処にお嬢さんが居ようと、若い
内君が独り留守して居ようと、又は
杯盤狼藉の常に芸妓とか何とか
云う者が騒いで居ようと、少しも遠慮はしない。酒を
飲で大きな声をしてドン/\話をして、酔えば面白くなって戯れて居ると云うような
風であるから、
或は人が見たらば変に思うこともありましょう。
ソコで
或時奥平藩の家老が
態々私を呼びによこして、
扨云うよう、
足下は近来
某々の家などに毎度出入して、例の
如く夜分晩くまで酒を飲で居るとの風聞、某家には娘もあり、某家は
何時も
芸妓など
出入して家風が
宜しくない、足下がそんな処に近づいて醜声外聞とは残念だ、君子は
瓜田に
履を結ばず、
李下に冠を正さずと云うことがある、年若い大事な
身体である、少し注意致したら
宜かろうと、
真面目になって忠告したから、私はその時少しも
謝らない。
左様で御在ますか、コリャ面白い。私は今まで
随分太平楽を
云たとか、恐ろしい
声高に話をして居たとか云て、毎度人から
嫌がられたこともありましょうが、
併し
艶男と
云われたのは今日が生れてから始めて。コリャ私の名誉で、
至極面白い話だから私は
罷めますまい。
相替らずその家に出入しましょう。
此処で御注意を
蒙て
夫れで前非を改めて
罷めるなんて、ソンな弱い男ではござらぬ。
但し御親切は
難有い、御礼は申上げましょうが、実は私は何とも思わぬ。
却て面白いから、モッと評判を立てゝ
貰いたいと
云て、冷かして
帰た事があります。
前に申す通り、私は江戸に来て六年目に始めて上野と云う処を見て、十四年自に始めて向島を見たと云うくらいの
野暮だから、
勿論芝居などを見物したことはない。少年のとき旧藩
中津で、藩主が城内の能舞台で田舎の役者共を呼出して芝居を
催し、藩士ばかりに
陪観させる例があって、その時に一度見物して、その後大阪修業中、今の
市川団十郎の実父
海老蔵が道頓堀の興行中、
或る夜同窓生が今から道頓堀の芝居に行くから一緒に行こう、酒もあると云うから、私は酒と
聞て応と答え、ソレから行く道で酒を一升
買て、徳利を
携えて二、三人連れで芝居に
這入り、夜分二幕か三幕見たのが生来二度自の見物。ソレから江戸に来て、江戸が東京となっても、芝居見物の事は思出しもせず、又その機会もなくして居る中に、今を去ること
凡そ十五、六年前、
不図した事で始めて東京の芝居を見て、その時
戯れに、
誰道名優伎絶倫
先生遊戯事尤新
春風五十独醒客
却作梨園一酔人
と
云う詩が出来ました。
之を見ると私が変人のようにあるが、実は
鳴物は
甚だ好きで、女の子には娘にも孫にも琴、三味線を初め、又運動半分に
踊の稽古もさせて老余唯一の楽みにして居ます。
元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして
仕舞たのでしょう。
先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして
呉れる者がないので、ロクに
手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を
習たら
宜さそうなものだが、その時は
既に洋学の門に
入て天下の儒者流を目の
敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、
就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など
饒舌りながら、サアと
云うときには
夫れ程に
意気地はない。
殊に不品行で酒を
飲で詩を
作て書が旨いと
云えば評判が
宜い。
都て気に
喰わぬ。よし/\洋学流の
吾々は反対に出掛けて
遣ろうと
云う気になって、
恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を
売払て
仕舞い、兼て
嗜きな
居合も
罷めて知らぬ
風をして居たような
塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば
此方は
態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は
殊更らに
等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に
力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、
殊に兄は書も善くし、
画も出来、
篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は
扨置き骨董も美術品も
一切無頓着、
住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、
唯人の着せて
呉れるものを着て居る。
或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、
箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと
云て
大に笑われたことがある。殺風景も
些と
念入の殺風景で、決して誉めた話でない。
畢竟少年の時から種々様々の事情に
逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。
兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、
是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\
児孫を集めて共に
戯れ、色々な芸をさせたり
嗜きな物を
馳走したりして、一家内の長少睦しく
互に打解けて
談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
ソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を
以て同藩士族江戸
定府土岐太郎八の次女を
娶り、
是れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し
不釣合のようにあるが、血統は両人共
頗る
宜しく、往古はイザ知らず、
凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に
罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが
一太郎、その次は
捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、
幸にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も
欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の
為めに乳母を雇うて育てました。
養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は
屹と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。
又その
躾方は温和と
活溌とを旨とし、
大抵の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、
据風呂の
側に大きな水桶を
置て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、
左ればとて食物を勝手に
任せて何品でも喰い次第にすると云う
訳けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは
迚も手に及ばぬ事と覚悟して、障子
唐紙を破り諸道具に
疵付けても
先ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。
酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を
六かしくして睨む位が頂上で、
如何なる場合にも手を
下して
打たことは一度もない。又親が実子に
向ても嫁に接しても、
又兄姉が弟妹に対しても名を
呼棄にせず、家の中に
厳父慈母の区別なく、厳と
云えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、
阿母さんはどうかすると怖いけれども、お
祖父さんが一番怖くないと
云て居る。世間
並にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の
孫子に
限て別段に
我儘でもなし、長少
戯れながら長者の真面目に言う事は
能く
聞て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。
又家の中に秘密事なしと
云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、
是れは
彼の子に話して
此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を
咎めて
遣れば、子供も
亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を
以て見ると
一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。
その礼儀の事に
就て申せば、家の主人が
出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御
辞儀をすると云うような事が
能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで
唯足の
向た方に
這入て来る。
或は車に
乗て
帰て来た時に、車夫
又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を
云て
呉れるな、と
云う
訳けであるから、幾ら玄関で
怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の
御祖母さんが
怪んで居ましょう。この老人は
土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、
左ればとて
是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと
思て居るだろうと、私は
窃に推察します。
ソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に
軽重愛憎と云うことは真実
一寸ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造
目出度がり、女の子でも無病なれば
先ず/\
目出度いなんて、
自から軽重があるようだが、コンな
馬鹿気た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。
唯今日では男の子が四人、女の子が五人、
宜い
塩梅に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から
之を愛して
兎の毛ほども
分隔てはない。道徳学者は
動もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を
云てるではないか。
況して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと
云うような浅ましい事があられるものか。
唯私の
考に、総領もその他の子供も同じとは
云いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば
自から中心になるから、財産を分配するにも、
外の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも
遣りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が
取て
宜かろうと云うくらいな事で、その
外には何も変ることはない。例えば
斯う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に
行て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの
花活だのゴテ/\一杯に
列べてある。コリャ何だと
聞て見れば、
亜米利加に輸出する品だと云う。
夫れから私が
不図した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、
兎に
角に
之を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが
如何だ、
買たからと云てソレを
又儲けて売ろうと云うのではない、家に
仕舞込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程
爾うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に
遣て
仕舞えば
是れ
丈けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか
碌に品も見ないで皆
買て
仕舞たが、
夫れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も
能く知らず数も覚えず、
唯邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて
取て
仕舞えと申して、小供がワイ/\
寄て、その品を九に分けて、ソレを
籤で
取て、今では皆小供が
銘々に引受けて、家を
持て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と
云うのが
凡そ私の財産分配法で、
如何にもその子に厚薄と云うものは
一寸ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた
訳けのものでないと思て居ます。
近来遺言も書きました。遺言の事に
就ては、能く西洋の話にある主人の死んだ後で遺言書を明けて見てワッと驚いたなんて云う事は毎度
聞てるが、私は
甚だ感服しない。死後に見せることを生前に言うことが出来ないとは
可笑しい。
畢竟西洋人が習慣に迷うて馬鹿をして居るのだ、
乃公はソンな馬鹿の真似はしないぞと
云て、家内子供に遺言の書付を見せて、この遺言書は
箪笥のこの
抽斗に
這入て居るから皆能く見て置け、
又説が変れば又
書替えて又見せるから、能く見て
置て、
乃父の死んだ後で争うような卑劣な事をするなよと申して
笑て居ます。
扨又子供の教育法に
就ては、私は
専ら身体の方を大事にして、幼少の時から
強いて読書などさせない。
先ず
獣身を成して後に人心を養うと
云うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば
手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。
夫れまでは
唯暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には
能く気を付けて
遣り、又子供ながらも卑劣な事をしたり
賤しい言葉を真似たりすれば
之を
咎るのみ、その
外は
一切投遣りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。
即ち
是れが
先ず獣身を成すの法にして、
幸に犬猫のように
長成して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。
尚おその時にも身体の事は決して
等閑にしない。世間の交母は
動もすると勉強々々と
云て、子供が
静にして読書すれば
之を
賞める者が多いが、私方の子供は読書勉強して
遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を
止めて居る。小供は
既に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、
矢張り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか
云えば、褒美でも与えて
賞めて
遣るけれども、本を
能く読むと
云て賞めたことはない。
既に二十年前の事です。長男
一太郎と次男
捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が
兎角胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に
宜くなる。宜くなるから
又入れると又悪くなる。
到頭三度入れて三度失敗した。その時には
田中不二麿と
云う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして
遣て行けば、生徒を殺すに
極て居る。殺さなければ気狂いになるか、
然らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって
仕舞うに違いない。
丁度この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと
思て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して
貰いたい。この
儘で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して
宜しい。早々教授法を改めて貰いたいと、
懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分
埒が明かず、子供は
相替らず三ヶ月
遣て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような
訳けで、何としても予備門の修業に
堪えず、私も
遂に断念して仕舞うて、
夫れから
此方の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、
亜米利加に遣て
彼の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の
仕様が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。
又私の
考に、人間は成長して後に自分の幼年の時の
有様を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で
左様思うから、筆まめな事だが私は小供の
生立の模様を
書て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は
云々、幼少の時の健康は
斯く/\、気質の強弱、
生付きの癖など、ザッと
荒増し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この
書たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、
自から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の
面も知らず、
画像に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に
聞たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を
傾けて
聞て、
唯残念にばかり思うて、
独り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の
為めにし、
又先年小供の生立の事をも
認めて
置たから
先ず遺憾はない積りです。
又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を
取ても
互に理窟らしい議論は無用の
沙汰である。
是れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る
丈け離れぬようにする
計り。例えば先年、長男次男が六年の間
亜米利加に
行て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と
云う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは
勿論、
仮令い用事がなくても毎便必ず手紙を
遣らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を
書放にして家内が
校合方になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。
彼方の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を
寄越す。この事は両人出発の節堅く
申付て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと
云て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって
帰て来るより、筋骨
逞しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程
悦しい。
仮初にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は
何処までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で
如何にもなると云うことならば思い
切て金を使え、少しも構わぬからと
斯う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。
又私の内が夫婦親子
睦じくて私の行状が正しいからと
云て、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私も
亦、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて
能事終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと
自から信じて居るが、
扨又これが妙なもので、社会の交際に関係する所は
甚だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は
如何なる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、
或は外国に行き、又
或は外国の書を
飜訳して大言を
吐散らし、
剰さえ儒流を
軽蔑して
憚る所を知らずと
云えば、
是れは
所謂異端外道に
違いない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が
這入て居るか知れない。
兎に
角に福澤諭吉は大変な奴だと折紙が
付て居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論も
自から面目を改め、世間一般西洋流の
喧ましい今日、福澤もマンザラでなし、
或は
之を近づけて何かの役に立つこともあろうと
云うような説がチラホラと
涌て来たその時に、
嶋津
祐太郎と云う奥平家の元老は、
頗る事の
能く分る、
云わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を
疏外するは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に
芳蓮院様と云う女隠居がある、この貴婦人は
一橋家から奥平家に
下て来た由緒ある身分で、
最早や余程の老年でもあり、一家無上の
御方様と
崇められて居る。ソコで
嶋津が
先ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、
彼の国には文学武備、富国強兵、医術も
精しく航海術も
巧なり、その中には
随分日本の風俗習慣に
違た事も数々ありますが、
爰に西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女
相互に軽重なく、
如何なる身分の人でも一夫一婦に
限て居ます、
是れ
丈けは西洋の特色で
御座ると
云う所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を
聞て心を動かさずには居られない。
恰も
豁然発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め
所謂御上通りの人に逢うて見れば、福澤の外道も
唯の人間で、
角も生えて居なければ
尻尾のある者でもない、
至極穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、
程経て後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も
隠然の中には随分勢力のあるもので、
就ては今の世に多妻の悪弊を
除て文明風にするなんと論ずるは
野暮だと云うような説があるけれども、
畢竟負借みの苦しい
遁げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して
野暮でない、世間の多数は同主義で、
殊に上流の婦人は
悉く
此方の味方であるから、私の身がこの
先き
何時まで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右を
顧みずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような
風にして
遣ろうと
思て居ます。
私の生涯は
終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を
嘗めて、今日に至るまで大に
愧ることもなく大に後悔することもなく、
心静に月日を送りしは、
先ず
以て身の
仕合せと
云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。
就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も
随分知て居ながら、
遂に政府の役人にならぬと
云うは
可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその
処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、
蔭で
窃に評論する
計りでない、現に直接に私に
向て質問する者もある。
啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、
何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に
立て思う事を行えば、名誉にも
為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は
唯笑て
取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、
彼れは旧幕府に
操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を
悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と
云う者があるが、福澤もその遺臣を
気取て、物外に
瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに
違いない、心に不平があれば新政府の
為めに
宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を
運らして居る者の多いのは、私も
大抵知て居る。所が
斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が
盛んに忠義論を論じて佐幕の
気焔を
吐て脱走までする時に、私は
強て議論もせず、脱走連中に
知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから
罷にしろと
云て
止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ
丁度適当の
嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、
是れも遺臣と
云われぬ。その遺臣論は
姑く
擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から
嫌だから佐幕の気がない。
左ればとて勤王家の
挙動[#ルビの「きどう」はママ]を見れば、幕府に
較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、
固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、
唯ジッと中立独立と説を
極めて居ると、今度の新政府は開国に
豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北
何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、
唯独りで身に叶う
丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一
天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に
真成のものになって来て、
一切万事改進ならざるはなし、
所謂文明
駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に
有り
難い
仕合せで、実に不思議な事で、
云わば私の大願も成就したようなものだから、
最早や一点の不平は云われない。
ソコで私の身の進退に
就ても更らに問題が起る。
是れまで新政府に出身しなかったのは、政府が鎖国攘夷の主義であるから
之を嫌うたのだ、
仮令い開国と
触出してもその内実は鎖攘の根性、信ずるに足らずと
見縊たのである、
然るに政府の方針がいよ/\開国文明と決して着々事実に
顕わるゝに
於ては、官界に力を尽して政府人と共に文明の国事を経営するこそ本意ではないかと世間の人の思うのは、
一寸と
尤ものように見えるが、この一段になってもマダ私に動く気がない。
従前曾て人に語らず、
又語る必要もないから
黙て居て、内の妻子も本当に知りますまいが、私の本心に
於て何としても仕官が出来られないその
真面目を丸出しに申せば、第一、政府がその方針を開国文明と
決定して
大に国事を改革すると同時に、役人達が国民に対して無暗に
威張る、その威張るのも行政上の威厳と云えば
自から理由もあるが、実際は
爾うでない、
唯殻威張をして喜んで居る。例えば位記などは王政維新、文明の政治と共に
罷めそうなことを罷めずに、人間の身に妙な金箔を着けるような事をして、日本国中いらざる処に上下貴賤の区別を立てゝ、役人と人民と人種の違うような細工をして居る。
既に政府が
貴いと
云えば政府に入る人も自然に貴くなる、貴くなれば自然に威張るようになる、その威張りは
即ち
殻[#ルビの「から」は底本では「かつ」]威張で、誠に
宜しくないと知りながら、
何も
蚊も自然の
勢で、役人の仲間になれば
何時の間にか共に殻威張を
遣るように成り行く。
然かのみならず、自分より下に
向て威張れば上に向ては威張られる。
鼬こっこ
鼠こっこ、実に馬鹿らしくて面白くない。政府に這入りさえせねば馬鹿者の威張るのを唯見物して唯
笑て居る
計りなれども、今の日本の風潮で、役人の仲間になれば、
仮令い最上の好地位に居ても
兎に
角に
殻威張と名づくる
醜体を犯さねばならぬ。
是れが私の性質に
於て出来ない。
之を第一として、第二には
甚だ申し憎いことだが、役人全体の風儀を見るに気品が高くない。その平生美衣美食、大きな邸宅に住居して散財の法も奇麗で、万事万端
思切りが
能くて、世に処し
政を料理するにも卑劣でない、
至極面白い気風であるが、何分にも支那流の
磊落を気取て一身の私を
慎しむことに気が付かぬ。
動もすれば酒を飲んで婦人に
戯れ、肉慾を
以て無上の快楽事として居るように見える。家の内外に
妾などを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥かしいとも思わず、その悪事を隠そうともせずに
横風な顔をして居るのは、一方に西洋文明の新事業を行い、他の一方には和漢の旧醜体を学ぶものと
云わねばならぬ。ダカラ
外の事を
差置てこの一点に
就て見れば、何だか一段
下た下等人種のように見える。
是れも世の中の流俗として遠方から眺めて居れば
左まで憎らしくもなく又
咎めようとも思わぬ、時に往来して用事も語り談笑妨げなけれども、
扨いよ/\この人種の仲間になって一つ
竈の
飯を
喰い本当に親しく近くなろうと
云うには、
何処となく
穢ないように汚れたように思われてツイ
嫌になる。是れは私の潔癖とでも云うようなもので、全体を申せば度量の狭いのでしょうが、何分にも生れつきの性質とあれば
仕方がない。
第三、幕末に勤王佐幕の二派が東西に
立分れて居るその時に、私は
唯古来の門閥制度が嫌い、鎖国攘夷が嫌いばかりで、
固より幕府に感服せぬのみか、コンな政府は潰して
仕舞うが
宜いと不断
気焔を
吐て居たが、
左ればとて勤王連の様を見れば、鎖攘論は幕府に較べて一段も二段も
劇しいから、固よりコンな連中に心を寄せる
筈はない。唯黙って傍観して居る中に維新の騒動になって、徳川将軍は逃げて
帰て来た。スルと幕府の人は
勿論、諸方の佐幕連が中々
喧しくなって議論百出、東照神君三百年の遺業は一朝にして
棄つべからず、三百年の君恩は臣子の身として忘るべからず、薩長何者ぞ、唯
是れ関ヶ原の降参武士のみ、常々たる
三河譜代の八万騎、何の面目あれば彼の降参武士に膝を届すべきやなんて、
大造な剣幕で、薩長の賊軍を東海道に
邀え
撃んとする者もあれば、軍艦を
以て脱走する者もあり、策士論客は将軍に謁して一戦の奮発を促がし、
諫争の
極、声を
放て号泣するなんぞは、
如何にもエライ
有様で、忠臣義士の共進会であったが、その忠義論もトウ/\行われずに幕府がいよ/\解散になると、忠臣義士は軍艦に
乗て
箱館に居る者もあれば、陸兵を指揮して東北地方に戦う者もあり、又はプリ/\立腹して静岡の方に行く者もあるその中で、忠義心の堅い者は東京を賊地と
云て、東京で出来た物は菓子も
喰わぬ、夜分寝る時にも東京の方は頭にせぬ、東京の話をすれば口が
汚れる、話を聞けば耳が汚れると
云う
塩梅式は、丸で今世の
伯夷、
叔斉、静岡は
恰も明治初年の
首陽山であったのは凄まじい。所が一年立ち二年立つ中に、その伯夷、叔斉殿が首陽山に
蕨の乏しいのを感じたか、ソロ/\山の
麓に下りて、賊地の方にノッソリ首を出すのみか、
身体を
丸出にして新政府に出身、海陸の脱走人も静岡行の伯夷、叔斉も、猫も
杓子も政府の辺に群れ
集て、以前の賊徒今の官員衆に謁見、
是れは初めて
御目に掛るとも
云われまい、兼て御存じの日本臣民で
御座ると云うような調子で、君子は既往を語らず、
前言前行は
唯戯れのみと、双方打解けて
波風なく治まりの
付たのは誠に
目出度い、何も
咎立てするにも及ばぬようだが、私には少し説がある。
抑も王政維新の
争が、政治主義の異同から
起て、例えば勤王家は鎖国攘夷を主張し、佐幕家は開国改進を唱えて、
遂に幕府の敗北と
為り、その後に
至て勤王家も
大に悟りて開国主義に変じ、恰も佐幕家の宿論に投ずるが故に、
之と共に
爾後の方針を
与にすると云えば
至極尤もに聞ゆれども、当時の争に開鎖など云う主義の
沙汰は少しもない。佐幕家の進退は
一切万事、君臣の名分から割出して、徳川三百年の天下
云々と争いながら、その天下が無くなったら
争の点も無くなって平気の
平左衛門とは
可笑しい。ソレも理窟の分らぬ小輩ならば
固より
宜しいが、争論の発起人で
頻りに忠義論を唱えて
伯夷叔斉を気取り、又はその
身躬から脱走して世の中を騒がした人達の気が知れない。勝負は時の運に
由る、負けても恥かしいことはない、議論が
中らなかっても構わないが、
遣傷なったらその身の不運と諦らめて、山に
引込むか、寺の坊主にでもなって、生涯を送れば
宜いと思えども、中々
以て坊主どころか、
洒蛙々々と高い役人になって嬉しがって居るのが私の気に
喰わぬ。
扨々忠臣義士も当てにならぬ、君臣主従の名分論も浮気なものだ、コンな
薄ぺらな人間と伍を
為すよりも独りで居る方が心持が宜いと説を
極めて、初一念を守り、政治の事は
一切人に任せて、自分は自分だけの事を
勉めるように身構えをしました。実は私の身の上に何も縁のないことで、入らざるお世話のようだが、前後の事情を
能く
知て居るから、忠臣義士の
成行を見るとツイ気の毒になって、意気地なしのように腰抜のように、思うまいと
思ても思われて
堪らない。全く私の
癇癪でしょうが、
是れも自然に私の功名心を淡泊にさせた原因であろうと思われます。
第四には、勤王佐幕など
云う
喧しい議論は差置き、維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族は無論、百姓の子も町人の弟も、少しばかり
文字でも分る奴は皆役人になりたいと云う。
仮令い役人にならぬでも、
兎に
角に政府に近づいて何か金儲でもしようと云う熱心で、その
有様は臭い物に
蠅のたかるようだ。全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないように思うて、一身独立と
云う
考は少しもない。
偶ま外国修業の書生などが
帰て来て、僕は
畢生独立の覚悟で政府仕官は思いも寄らぬ、なんかんと
鹿爪らしく私方へ来て満腹の
気焔を吐く者は幾らもある。私は最初から当てにせずに
宜い加減に聞流して居ると、その独立先生が久しく見えぬ。スルと後に聞けばその男はチャンと何省の書記官に
為り、運の
好い奴は地方官になって居ると云うような
風で、何も
之を
咎めるではない、人々の進退はその人の自由自在なれども、全国の人が
唯政府の一方を目的にして
外に立身の道なしと
思込んで居るのは、
畢竟漢学教育の余弊で、
所謂宿昔青雲の志と云うことが先祖以来の遺伝に存して居る一種の
迷である。今この迷を
醒まして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、
亦自からその方針に向う者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心から
湧て出てることだ、国中を挙げて古風の奴隷根性では
迚も国が持てない、出来ることか出来ないことかソンな事に
躊躇せず、自分がその手本になって見ようと
思付き、人間万事
無頓着と覚悟を
定めて、唯独立独歩と安心
決定したから、政府に依りすがる気もない、役人達に頼む気もない。貧乏すれば金を使わない、金が出来れば自分の勝手に使う。人に交わるには出来る
丈けの誠を尽して交わる、ソレでも
忌と
云えば交わって
呉れなくても
宜しい。客を招待すれば
此方の家風の通りに心を用いて饗応する、その風が嫌いなら来て
呉れなくても苦しうない。
此方の身に叶う
丈けを尽して、ソレから上は先方の領分だ。誉めるなり
譏るなり喜ぶなり
怒るなり勝手次第にしろ、誉められて
左まで歓びもせず、譏られて左まで腹も立てず、いよ/\気が合わねば遠くに離れて附合わぬ
計りだ。
一切万事、人にも物にもぶら下らずに、
云わば捨身になって世の中を渡るとチャンと説を定めて居るから、何としても政府へ仕官などは出来ない。この流儀が果して世の中の手本になって
宜い事か、悪い事か、ソレも
無頓着だ、
宜ければ
甚だ
宜しい、悪るければソレまでの事だ、その
先きまで責任を
脊負い込もうとは思いません。
右の通り条目を並べて第一から第四まで
述立てゝ見れば、私の政府に出ないのは初めからチャンと理窟を
定めて箇様々々と自から自分を束縛してあるように見えるが、実はソレホド窮窟な
訳けではない、ソレホド
六かしい事でもない。
唯今日これを筆記して人に分るようにしようとするには、話に順序がなくては叶わぬ。ソコで久しい前年から今日に至るまで、物に触れ事に当り、人と談論した事などを思出して、彼の時はアヽであった、この時は
斯うであったと、記憶中に往来するものを取集めて見ると、前に記した通りになる。
詰る所、私は政治の事を軽く見て熱心でないのが政界に近づかぬ原因でしょう。
喩えば人の性質に
下戸上戸があって、下戸は酒屋に入らず上戸は餅屋に近づかぬと
云う位のもので、政府が酒屋なら私は政事の下戸でしょう。
とは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。
但し談論書記する
計りで、
自からその事に当ろうと思わぬその
趣は、
恰も診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実に
於て療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は
皆無素人でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、
是れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの
沙汰です。
この事に
就て
一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が
起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の
執政大隈、
伊藤、
井上の三人から私方に何か申して
参て、
或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して
呉れろと云う。一向
趣意が分らぬから
先ず御免と申して去ると、その後
度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\
仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の
為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、
是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと
凡そ約束は出来たが、マダ
何時からと云う期日は
定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と
為り、十四年も
春去秋来、
頓と
埒の明かぬ様子なれども、
此方も
左まで急ぐ事でないから
打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前
至極同主義でありし隈伊井の三人が
漸く不和になって、その果ては
大隈が辞職することになりました。
扨大隈の辞職は
左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、
随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその
後には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の
岩崎弥太郎が金主になって
既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を
触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて
所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な
風になって来て、その
風が全国の隅々までも
靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。
凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも
云うような
有様で、私はその後
岩倉から
度々呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも
六かしいなんかんと話すのを聞けば、
余程騒いだものと察しられる。実に
馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると
云て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり
仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に
逐出したり、マダ
夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、
是れ見よがしに
殻威張を
遣て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ
先きに角突合いになって居るから
可笑しい。十四年の
真面目の事実は、私が
詳に記して家に蔵めてあるけれども、今
更ら人の
忌がる事を公けにするでもなし
黙て居ますが、そのとき私は
寺島と極
懇意だから何も
蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに
饒舌って廻ると政府の中に
随分困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて
聞て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分
穢いものとは
云いながら、
是れはアンマリ
酷い。少し
捩くって遣ても
宜いじゃないかと、
態と勧めるような
風であったけれども、私は
夫れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、
先ず/\ソンナ無益な殺生は
罷にしようと
云て、
笑て分れたことがある。
コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない、俗界に
云う政治上の野心など
思も寄らぬ事だから誠に平気で、
唯他人のドタバタするのを見物して居るけれども、政府の目を
以てこの見物人を見れば、又不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の
科人になって東京を
逐出されると云う風聞。ソレはその時塾に居た
小野友次郎が警視庁に
懇意の人があって、極内々その事を聞出して、私と同時に
後藤象次郎も共に
放逐と
確に云うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けば
宜いと申して居る中、その翌日か翌々日か
小野が
又来て、前の事は取消しになったと
云うので事は
済みました。又その後明治二十年頃かと思う、
井上角五郎が朝鮮で何とやらしたと云うので
捕えられて、その時の騒動と云うものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。
夫から井上が何か吟味に逢うて、福澤諭吉に証人になって出て来いと
云て、私を
態々裁判所に
呼出して、タワイもない事を散々
尋て、ドウかしたら福澤も
科人の仲間にしたいと云うような
風が見えました。
都てコンな事は
唯大間違で、私の身には何ともない。
却て世の中の人心の動くその運動の方向緩急を視察して面白く
思て居るが、又一歩を進めて
虚心平気に考うれば、私が
兎角政界の人に疑われると云うのも全く無理はない。第一私は何としても役人になる気がない、
是れは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、
独りこれが嫌いと云えば、
一寸と見て不審を起さねばならぬ。ソレもいよ/\官途に気がないとならば田舎にでも
引込んで
仕舞えば
宜いに、都会の真中に居て
然かも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、
洒蛙々々と
饒舌たり
書たりするから、世間の目に触れ
易く、
随て人に不審を
懐かせるのも自然の
勢である。
之を第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論を
以て政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば
是れまで
頓と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も
片付て後、世の中は静になって、人間が
却て無事に苦しむと
云うとき、私が
不図思付て、
是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、
随分面白かろうと
思て、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆
藤田茂吉、
箕浦勝人にその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、
屹と世間の人が
悦ぶに違いない。
但しこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の
趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、
唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、
試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと
云うと、年の若い元気の
宜い
藤田、
箕浦だから、
大に悦んで草稿を
持て
帰て、
早速報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、
又は何でもない事になって
仕舞うやら、
頓と見込みが付かぬ。
凡そ一週間ばかり毎日のように社説欄内を
填めて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を
煽動するように
書立てゝ、世間の形勢
如何と見て居た所が、不思議なる
哉、
凡そ二、三ヶ月も
経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が
喧しくなって来て、
遂には例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと
考直して見れば、
仮令い文明進歩の方針とは
云いながら、
直に自分の身に必要がなければ
物数寄と
云わねばならぬその物数寄な政治論を
吐て、
図らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、
恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。
併し国会論の種は維新の時から
蒔てあって、明治の初年にも民選議院
云々の説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、
不図した事で私が筆を
執て、事の必要なる理由を論じて
喋々喃々数千言、
噛んでくゝめるように
言て聞かせた跡で、間もなく天下の
輿論が一時に
持上て来たから、
如何しても報知新聞の論説が
一寸と
導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから
先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して
呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と
書並べて、
一寸と
辻褄が
合て居ます。
是れが今の帝国議会を開く
為めの加勢になったかと思えば自分でも
可笑しい。シテ見ると
先きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと
云われて、その後も
兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは
云いながら、間接には
自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の
為めに利益なればこそ
善けれ、
是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は
免かれても死後
閻魔の庁で
酷い目に逢う
筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に
就て私の言行は
都てコンな
塩梅式で、自分の身の私に利害はない
所謂診察医の
考で、政府の地位を占めて
自から政権を
振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、
如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと
計り、
夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う
丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に
安んじて平気で居るから、
考の違う役人達が私の平生を見たり
聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に
於て私は政府に対して少しも
怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、
是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ
如何なる憂き目に
逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の
賜と
思て喜んで居ます。
ソレから明治十五年に時事新報と
云う新聞紙を発起しました。
丁度十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て
頻りにこの事を勧める。私も
亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、
相互に敵味方が出来て議論は次第に
喧しくなるに違いない。
既に前年の政変も
孰れが是か非かソレは
差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\
甚だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは
所謂不偏不党の説であるが、
扨その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては
迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に
聊かながら独立の生計を
成して多少の
文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして
恰も物外に超然たる者は、
※呼[#「口+烏」、U+55DA、389-1]がましくも自分の
外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、
遂に決心して新事業に着手したものが
即ち時事新報です。
既に決断した上は友人中これを
止める者もありしが、
一切取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、
仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに
非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を
以て、世間の風潮に
頓着なしに今日までも首尾
能く
遣て来たことですが、
畢竟私の安心
決定とは申しながら、その実は私の朋友には正直
有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど
云う
忌な心配は
聊かもない。発行の当分、何年の間は
中上川彦次郎が引受け、その後は
伊藤欽亮、今は次男の
捨次郎が
之に任じ、会計は
本山彦一、次で
坂田実、今は
戸張志智之助等が
専ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を
聞たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて
置て、
曾て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する
訳けでしょう。又
編輯の方に
就て申せば、私の持論に、執筆者は勇を
鼓して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々
相対して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、
如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、
扨その相手の人に面会したとき自分の良心に
愧じて率直に
陳べることの叶わぬ事を
書て居ながら、遠方から知らぬ風をして
恰も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて
蔭弁慶の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と
為り、
罵言讒謗の毒筆と
為る、君子の
愧ずべき所なりと常に
警しめて居ます。
併し私も次第に年をとり、
何時までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る
丈け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども
石河幹明、
北川礼弼、
堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て
一寸々々加筆する位にして居ます。
扨これまで長々と話を続けて、私の一身の事、又私に関係した世の中の事をも語りましたが、私の生涯中に一番骨を
折たのは著書
飜訳の事業で、
是れには中々話が多いが、その次第は本年再版した福澤全集の
緒言に記してあれば
之を略し、著訳の事を別にして、
元来私が家に
居り世に処するの法を一括して
手短に申せば、
都て事の極端を想像して覚悟を
定め、マサカの時に
狼狽せぬように後悔せぬようにと
計り考えて居ます。生きて居る身はいつ
何時死ぬかも知れぬから、その死ぬ時に
落付て静にしようと
云うのは誰も考えて居ましょう。
夫れと同様に、例えば私が自身自家の経済に
就ては、何としても他人に対して不義理はせぬと心に
決定して居るから、危い事を犯すことが出来ない。
斯うすれば利益がある、
爾うすれば金が出来るなど
云ても、危険を犯して失敗したときには必ず
狼狽することがあろう、後悔することがあろうと
思て、手を出すことが出来ない。金を得て金を使うよりも、金がなければ使わずに居る。按摩
按腹をしても餓えて死ぬ
気遣いはない、粗衣粗食などに閉口する男でないと
力身込んで居るような
訳けで、私が経済上に不
活溌なのは失敗の極端を恐れて鈍くして居るのですが、その
外直接に一身の不義理にならぬ事に就ては必ずしも不活溌でない。トヾの詰り
遣傷なっても自身独立の主義に妨げのない限りは
颯々と
遣ります。例えば慶應義塾を開いて何十年来様々変化は多い。時としては生徒の減ることもあれば
増ることもある。
唯生徒ばかりでない、会計上からして教員の不足することも
度々でしたが、ソンな時にも払は少しも狼狽しない。生徒が散ずれば散ずるまゝにして置け、教員が出て行くなら行くまゝにして留めるな、生徒散じ教員
去て塾が
空屋になれば、残る者は
乃公一人だ、ソコで一人の根気で教えられる
丈けの生徒を相手に自分が教授して
遣る、ソレも生徒がなければ
強いて教授しようとは
云わぬ、福澤諭吉は大塾を
開て天下の子弟を教えねばならぬと人に約束したことはない、塾の盛衰に気を
揉むような馬鹿はせぬと、腹の底に極端の覚悟を
定めて、塾を
開たその時から、
何時でもこの塾を潰して
仕舞うと
始終考えて居るから、少しも怖いものはない。平生は塾務を大切にして一生懸命に勉強もすれば心配もすれども、本当に私の心事の
真面目を申せば、この勉強心配は浮世の戯れ、仮りの相ですから、
勉めながらも誠に安気です。近日は又慶應義塾の維持の
為めとて、本塾出身の先進輩が
頻りに資金を募集して居ます。
是れが出来れば
斯道の
為めに誠に有益な事で、私も
大に喜びますが、果して出来るか出来ないか、私は
唯静にして見て居ます。又時事新報の事も同様、最初から是非とも永続させねばならぬと
誓を立てた
訳けでもなし、
或は倒れることもあろう、その時に後悔せぬようにと覚悟をして居るから、是れも
左までの心配にならぬ。又私の著訳書に他人の序文を求めたことのないのも矢張り同じ
趣意であると申すは、人の序文題字などを
以て出版書の信用を増すは
自から名誉でもあろうが、内実は発売を多くせんとするの計略と
云ても
宜しい。所が私の
考は
左様でない。自分の著訳書が世間に流行すれば
宜いと
固より心の中に願いながらも、
又一方から考えて
是れが全く売れなくても後悔はしないと、例の極端を覚悟して居るから、実際の役にも立たぬ余計な
文字を人に
書て
貰たことはない。又他人に交わるの法もこの筆法に従い、私は若い時からドチラかと
云えば出しゃばる方で、交際の広い癖に、
遂ぞ人と喧嘩をしたこともない。親友も
甚だ多いが、この交際に
就ても
矢張り極端説は忘れない。今日までこの通りに仲好く
附合はして居るが、先方の人がいつ
何時変心せぬと
云う請合は
六かしい。
若し
左様なれば交際は
罷めなければならぬ。交際を罷めても
此方の身に害を加えぬ限りは相手の人を憎むには及ばぬ、
唯近づかぬようにする
計りだ。コンな事で朋友が
一人なくなり二人なくなり次第に淋しくなって、自分
独り孤立するようになっても苦しうない、決して後悔しない、自分の節を屈して好かぬ交際は求めずと、少年の時から今に至るまでチャンと説は
極めてありながら、
扨実際には
頓とソンな必要はない。生来六十余年の間に、知る人の数は何千も何万もあるその中で、誰と喧嘩したことも義絶したこともないのが面白い。
都て
斯う云う
塩梅式で、私の流儀は仕事をするにも朋友に交わるにも、最初から棄身になって
取て掛り、
仮令い失敗しても苦しからずと、浮世の事を軽く
視ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るに
左までの困難もなく、安気に今日まで
消光して来ました。
扨又心の養生法は右の
如しとして、身の養生は
如何だと申すに、私の身に極めて
宜しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、
然かも
図抜けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても
宜いと
云う人があるが、私は
左様でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に
能く分る。先年中一樽の
価七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、
先ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような
黒人で、その上等の酒をウンと飲んで、
肴も良い肴を
沢山喰い、満腹
飲食した跡で飯もドッサリ
給べて残す所なしと云う、誠に意地の
穢ない
所謂牛飲馬食とも云うべき男である。
尚おその上に、この賤しむべき男が酒に
酔て酔狂でもすれば自から
警めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば
唯大きな声をして饒舌るばかり、
遂[#ルビの「つひ」はママ]ぞ人の気になるような
忌がるような根性の悪いことを
云て喧嘩をしたこともなければ、
上戸本性
真面目になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。
是れが
却て不幸で、本人は
宜い気になって、酒とさえ
云えば一番
先きに
罷出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も
愧かしい事であるが、酒の事を
除てその
外になれば、私は少年の時から
宜い加減な摂生家と
云ても
宜しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな
六かしい
考のあろうようもないが、日に三度の食事の
外にメッタに物を食わない。
或は母が
給べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。
殊に晩食の後、夜になれば
如何なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を
更かすとかして、自然に
其処に食物が出て来ても食う気にならぬ。
是れは母に仕込まれた習慣が生涯
残て居るのでしょう。摂生の
為めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く
遣ると
云う
風で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように
変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に
早飯と何とやらは武士の
嗜なんと
云て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと
思て居たが、何分にも
頬張て
生噛にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を
知て、始めて
是れは
却て自分の悪い癖が
宜い事になったと合点して
大きに悦び、
爾来憚る所もなくゆる/\食事をして、
凡そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の
為めに
甚だ宜しい。
ソレカラ又酒の話になって、私が
生得酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから
随分自由に飲むことは飲んだが、
兎角銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、
嚢中も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の
傍ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと
云うような
訳けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず
能くも飲みました。
夫れから三十二、三歳の頃と思う。
独り
大に発明して、
斯う飲んでは
迚も寿命を全くすることは叶わぬ、
左ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、
唯一時の事で永続きが出来ぬ、
詰り生涯の根気でそろ/\
自から節するの
外に道なしと決断したのは、支那人が
阿片を
罷めるようなもので随分苦しいが、
先ず第一に朝酒を廃し、
暫くして
次ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは
矢張り客来を名にして飲んで居たのを、
漸く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、
是れ
丈けは
如何やら斯うやら首尾
能く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と
相反して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、
稍や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき
酷い熱病に
罹て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、
是れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の
賜に相違ないと
云たのを覚えて居るから、私が生涯
鯨飲の全盛は
凡そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と
云うよりも年齢老却の
所為でしょう。
兎に
角に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、
遂には
唯の清酒は
利きが鈍いなんてブランデーだのウ※
[#小書き片仮名ヰ、398-4]スキーだの飲む者があるが、アレは
宜くない。苦しかろうが
罷めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、
況して今の大酒家と
云ても私より以上の者は
先ず少ない、高の知れた酒客の
葉武者だ、そろ/\
遣れば節酒も禁酒も
屹と出来ましょう。
ソレから私の身体運動は
如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になると

が切れて血が出る、スルと木綿糸で

の
切口を
縫て
熱油を
滴らして
手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、
或る時、
鄙事多能年少春
立身自笑却壊身
浴余閑坐肌全浄
曾是綿糸縫

人
と
云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように
風が悪いから、
中村庄兵衛と云う居合の先生に
就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、
始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、
折節はドタバタ
遣て居ました。
夫れから江戸に来て世間に攘夷論が
盛になってから居合は
罷めにして、兼て腕に覚えのある
米搗を始めて、折々
遣て居た所が、明治三年、大病を
煩うて、病後何分にも
旧のようにならぬ。その年か翌年か
岩倉大使が欧行に付き、親友の
長与専斎も随行を命ぜられ、
近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に
為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。
是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。
之を
遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に
思当ることがあろうと
云うのは実に朋友の親切なれども、私は
却て喜ばぬ。「馬鹿なことを
云て
呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ
要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、
長与が
笑て、「知らぬ事を云うな。
屹と役に立つことがあるから
黙て
取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して
然り、長与の外行
留主中、毎度発熱して、
夫れキニーネ
又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも
股引もフラネルで
拵え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を
纏うて居た所が、
頓と効能が見えぬ。ドウかすると風を
引て
悪寒を催して熱が昇る。毎度の事で、
凡そ二年余り三年になっても同様であるから、
或日私が
大に奮発して、
是れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、
云わば病に媚るようなものだ。
此方から媚るから病は段々
付揚る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には
固より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より
外に要はないから、自分で摂生を
試みましょう。
抑も自分の
本は田舎士族で、少年のとき
如何なる生活して居たかと
云えば、麦飯を
喰い
唐茄子の味噌汁を
啜り、衣服は
手織木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も
可笑しい。田舎者の身体の方が驚いて
仕舞う。
即ち今日
風を
引たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る
誤であるから、
直に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも
股引も脱ぎ棄てゝ
仕舞て、
唯の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時
計り、騎馬の服と
定めて、
不断は純粋の日本の着物を着て、寒い風が
吹通しても構わず家にも居れば外にも出る。
唯食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は
一切むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の
米搗薪割に身を入れて、少年時代の貧乏
世帯と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の
丈けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に
下たこともない。随分調子の
宜しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと
旧の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。
扨私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。
兎に
角に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと
云うこと
丈けは確かに分る。
但し肌に寒風の吹通しが有益であるか、
又は外の摂生を
以て体力が強くなって、実際害に
為るべき寒風にも
能く抵抗して
之に
堪うるのであるか、
即ち寒風その物は薬に
非ず、寒風をも犯して
無頓着と云うその全般の生活法が有益であるか、
凡そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは
扨置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、
殊に十年間
鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を
勉めることにしました。
今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり
芝の
三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を
抜たり米を
搗たり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が
降ても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋
戯れに、
一点寒鐘声遠伝
半輪残月影猶鮮
草鞋竹策侵秋暁
歩自三光渡古川
なんて詩を作りましたが、この運動摂生が
何時まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。
回顧すれば六十何年、人生既往を想えば
恍として夢の
如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は
至極変化の多い
賑かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に
詰込まれて、藩政の楊枝を
以て重箱の
隅をほじくるその楊枝の
先きに
掛た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の
教をも
打遣て西洋学の門に入り、以前に
変た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば
考は段々広くなって、旧藩は
扨置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。
或はその間に
艱難辛苦など述立てれば
大造のようだが、
咽元通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて
仕舞えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ
去た後で昔の貧苦を
思出して何が苦しいか、
却て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら
斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と
思て居た処に、
又図らずも王政維新、いよ/\日本国を
開て本当の開国となったのは
難有い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の
考には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか
夫れも分らず、
仮令い読んだからとて
之を日本の実際に
試みるなんて
固より思いも寄らぬことで、
一口に申せば西洋の小説、夢物語の
戯作くらいに
自から
認めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も
先きに進んで
思切た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も
亦以前の大願成就に
安んじて居られない。コリャ面白い、この
勢に乗じて更に
大に西洋文明の空気を吹込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明国を開き、東に日本、西に英国と、
相対して
後れを取らぬようになられないものでもないと、
茲に第二の誓願を起して、
扨身に叶う仕事は三寸の舌、一本の筆より
外に何もないから、身体の健康を頼みにして
専ら塾務を務め、又筆を
弄び、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、又演説などして
所思を伝え、又一方には著書
飜訳、
随分忙しい事でしたが、
是れも
所謂万分一を
勉める気でしょう。所で
顧みて世の中を見れば
堪え
難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に
顕われたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも
難有いとも
云いようがない。命あればこそコンな事を見聞するのだ、
前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アヽ見せて
遣りたいと、毎度私は泣きました。実を申せば日清戦争何でもない。
唯是れ日本の外交の
序開きでこそあれ、ソレほど喜ぶ
訳けもないが、その時の情に
迫まれば夢中にならずには居られない。
凡そコンな
訳けで、その原因は
何処に在るかと云えば、新日本の文明富強は
都て先人遺伝の功徳に由来し、
吾々共は
丁度都合の
宜い時代に生れて祖先の
賜を
唯貰うたようなものに違いはないが、
兎に
角に自分の
願に掛けて居たその願が、天の恵み、祖先の余徳に
由て首尾
能く叶うたことなれば、私の
為めには第二の大願成就と
云わねばならぬ。
左れば私は自分の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかりであるが、
扨人間の
慾には際限のないもので、不平を
云わすればマダ/\幾らもある。外国交際又は内国の憲法政治などに
就て
其れ
是れと云う議論は政治家の事として
差置き、私の生涯の中に
出来して見たいと思う所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に
愧かしくないようにする事と、仏法にても
耶蘇教にても
孰れにても
宜しい、
之を引立てゝ多数の民心を
和らげるようにする事と、
大に金を役じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、
凡そこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りは
唯安閑としては居られず、私も今の通りに健全なる間は身に叶う
丈けの力を尽す
積です。
福翁自伝 終