物理学とは、天然の原則にもとづき、物の性質を明らかにし、その働を察し、これを採ってもって人事の用に供するの学にして、おのずから他の学問に異なるところのものあり。たとえば今、経済学といい、商売学といい、等しく学の名あれども、今日の有様にては、経済商売の如き、未だまったく天然の原則によるものに非ず。いかんとなれば、経済商売に、自由の主義あり、保護の主義あり。そのもとづくところ、同じからずして、英国の学者が自由をもって理なりといえば、亜国の人は保護をもって
物理はすなわち然らず。
「(前略)ひっきょう、支那人がその国の広大なるを自負して他を蔑視 し、かつ数千年来、陰陽五行の妄説に惑溺して、事物の真理原則を求むるの鍵を放擲したるの罪なり。天文をうかがって吉兆を卜 し、星宿の変をみて禍福を憂喜し、竜といい、麒麟 といい、鳳鳥 、河図 、幽鬼、神霊の説は、現に今日も、かの上等社会中に行われて、これを疑う者、はなはだ稀 なるが如し。いずれも皆、真理原則の敵にして、この勁敵 のあらん限りは、改進文明の元素は、この国に入るべからざるなり。
我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣 を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁 して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々 するを忌 むにいたれり。たとえば、儒者が易経 を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮 を弄 ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私 なれども、この私論 の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。
支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源 を同じゅうして、その社会に分布したる結果において、まったく相反するは、偶然に非ずして何ぞや。けだし、支那の儒教は敵なきがゆえに、その惑溺をたくましゅうし、日本の儒教は勁敵に敵して自から警 めたるものなり。かつ我が儒者はたいがい皆、武人の家に生れたる者にして、文采風流の中におのずから快活の精神を存し、よく子弟を教育してその気風を養い、全国士族以上の者は皆これに靡 ざるはなし。改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。
右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに
支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の
儒者が地獄極楽の仏説を証拠なきものなりとて排撃しながら、自家においては、数百年のその間、降雨の一理をだに推究したる者なし。雨は天より降るといい、あるいは雲
欧州近時の文明は皆、この物理学より出でざるはなし。彼の発明の蒸汽船車なり、鉄砲軍器なり、また電信
然りといえども、馬はなお、その物の毒性なるか良性なるかを弁ずるの能力を有す。然るに今の世の不学の徒は、汽車に乗りて汽の理をしらず、電信を用いて電気の性質を知らず、はなはだしきは自身の何物たるを知らずして、摂生の法を誤る者あり。なおはなはだしきは、医は意なりと公言して、医術は憶測に出ずるものかと誤まり
ひっきょう物理を度外視するの罪にして、あるいは人にして馬に