修身要領

慶応義塾




文明日新の修身処世法は、如何いかなる主義にり如何なる方向に進む可きやとは、今の青年学生の大にまどふ所にして、先輩に対して※(二の字点、1-2-22)しばしば質問を起すものあり。福沢先生これに答ふるめにとて、生しょくして文案を草せしむ。即ち先生平素の言行にもとづき、其大要を述べて、先生の閲覧を乞ひ、これを修身要領となづけ、学生に示すこと左の如し。
    明治三十三年二月紀元節
慶応義塾社中某々しるす

 およそ日本国に生々せいせいする臣民は、男女老少を問はず、万世一系の帝室を奉戴ほうたいして、其恩徳を仰がざるものあるべからず。此一事は、満天下何人なんびとうたがいれざる所なり。しこうして今日の男女が今日の社会に処する道を如何いかんきやと云ふに、古来道徳の教、一にしてらずといえども、徳教は人文の進歩と共に変化するの約束にして、日新文明の社会にはおのずから其社会に適するの教なきを得ず。即ち修身処世の法をあらたにするの必要ある所以ゆえんなり。
第一条 人は人たるの品位を進め、智徳をみがき、ます/\其光輝を発揚するを以て、本分とさざるべからず。吾党の男女は、独立自尊の主義を以て修身処世の要領とし、之を服膺ふくようして、人たるの本分をまっとうすきものなり。
第二条 心身の独立を全うし、みずから其身を尊重して、人たるの品位をはずかしめざるもの、之を独立自尊の人と云ふ。
第三条 みずから労して自からくらふは、人生独立の本源なり。独立自尊の人は自労自活の人たらざるべからず。
第四条 身体を大切にし健康を保つは、人間生々せいせいの道に欠く可らざるの要務なり。常に心身を快活にして、かりそめにも健康を害するの不養生を戒むし。
第五条 天寿を全うするは人の本分を尽すものなり。原因事情の如何いかんを問はず、みずから生命を害するは、独立自尊の旨に反する背理卑怯の行為にして、最もいやしむ可き所なり。
第六条 敢為活溌かんいかっぱつ堅忍不屈けんにんふくつの精神を以てするに非ざれば、独立自尊の主義をじつにするを得ず。人は進取確守の勇気を欠くべからず。
第七条 独立自尊の人は、一身の進退方向を他に依頼せずして、みずから思慮判断するの智力を具へざる可らず。
第八条 男尊女卑は野蛮の陋習ろうしゅうなり。文明の男女は同等同位、互にあい敬愛けいあいしておのおのその独立自尊をまったからしむし。
第九条 結婚は人生の重大事なれば、配偶の撰択は最も慎重ならざる可らず。一夫一婦終身同室、相敬愛して、互いに独立自尊を犯さゞるは、人倫の始なり。
第十条 一夫一婦の間に生るゝ子女は、其父母のほかに父母なく、其子女の他に子女なし。親子の愛は真純の親愛にして、之をきずつけざるは一家幸福のもといなり。
第十一条 子女も亦独立自尊の人なれども、其幼時にありては、父母これが教養のせめに任ぜざるべからず。子女たるものは、父母の訓誨にしたがっ孜々しし勉励、成長の後、独立自尊の男女として世に立つの素養を成すきものなり。
第十二条 独立自尊の人たるを期するには、男女共に、成人の後にも、みずから学問を勉め、知識を開発し、徳性を修養するの心掛を怠る可らず。
第十三条 一家より数家、次第に相集りて、社会の組織を成す。健全なる社会のもといは、一人一家の独立自尊に在りと知る可し。
第十四条 社会共存の道は、人々にんにんみずから権利を護り幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重して、いやしくも之を犯すことなく、以て自他の独立自尊をきずつけざるに在り。
第十五条 うらみを構へあだを報ずるは、野蛮の陋習にして卑劣の行為なり。恥辱をそそぎ名誉を全うするには、すべからく公明の手段をえらむべし。
第十六条 人はみずから従事する所の業務に忠実ならざる可らず。其大小軽重に論なく、いやしくも責任を怠るものは、独立自尊の人に非ざるなり。
第十七条 人にまじわるには信を以てす可し。おのれ人を信じて人も亦己れを信ず。人々にんにん相信じて始めて自他の独立自尊をじつにするを得べし。
第十八条 礼儀作法は、敬愛の意を表する人間交際上の要具なれば、かりそめにも之をゆるがせにす可らず。ただその過不及かふきゅうなきを要するのみ。
第十九条 己れを愛するの情をおしひろめて他人に及ぼし、其疾苦を軽減し其福利を増進するに勉むるは、博愛の行為にして、人間の美徳なり。
第二十条 博愛の情は、同類の人間に対するに止まる可らず。禽獣を虐待し又は無益の殺生せっしょうすが如き、人の戒む可き所なり。
第二十一条 文芸のたしなみは、人の品性を高くし精神をたのしましめ、之を大にすれば、社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば、亦れ人間要務の一なりと知る可し。
第二十二条 国あれば必ず政府あり。政府は政令を行ひ、軍備を設け、一国の男女を保護して、其身体、生命、財産、名誉、自由を侵害せしめざるを任務とす。ここを以て国民は軍事に服し国費を負担するの義務あり。
第二十三条 軍事に服し国費を負担すれば、国の立法に参与し国費の用途を監督するは、国民の権利にして又其義務なり。
第二十四条 日本国民は男女を問はず、国の独立自尊を維持するが為めには、生命財産をして敵国と戦ふの義務あるを忘る可らず。
第二十五条 国法を遵奉じゅんぽうするは国民たるものゝ義務なり。単にこれを遵奉するに止まらず、進んで其執行を幇助ほうじょし、社会の秩序安寧を維持するの義務あるものとす。
第二十六条 地球上立国の数少なからずして、おのおのその宗教、言語、習俗を殊にすと雖も、其国人は等しくれ同類の人間なれば、之とまじわるにはいやしくも軽重厚薄の別ある可らず。ひとみずから尊大にして他国人を蔑視べっしするは、独立自尊の旨に反するものなり。
第二十七条 吾々今代こんだいの人民は、先代前人より継承したる社会の文明福利を増進して、之を子孫後世に伝ふるの義務を尽さざる可らず。
第二十八条 人の世に生るゝ、智愚強弱の差なきを得ず。智強の数を増し愚弱の数を減ずるは教育の力に在り。教育は即ち人に独立自尊の道を教へて之を躬行実践するの工風くふうひらくものなり。
第二十九条 吾党の男女は、みずから此要領を服膺ふくようするのみならず、広く之を社会一般に及ぼし、天下万衆と共に相率あいひきゐて、最大幸福の域に進むを期するものなり。





底本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
   1980(昭和55)年12月18日第1刷発行
   1984(昭和59)年8月30日第3刷発行
初出:「時事新報」時事新報社
   1900(明治33)年2月25日発行
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:田中哲郎
校正:小林和明
2008年7月9日作成
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