〔気品の泉源、智徳の模範〕

福澤諭吉




 左の一編は十一月一日、慶應義塾先進の故老生が懐旧会とて芝紅葉館に集会のとき、福澤先生の演説したるものなり。
 老生のべんとする所は、慶應義塾の由来にき、げん少しく自負に似て俗に手前味噌てまえみそきらいなきにあらざれども、事実は座中諸君の記憶に存する通りいささかたがうことなく、つ今夕は内輪の会合にして他にはばかる所もあらざれば、過ぎし昔の物語も吾々にはおのずから一入ひとしおの興味あるべし。そもそも人間世界は苦中楽あり。今を去ること三十年、我党の士が府下鉄砲洲てっぽうずの奥平藩邸を去て芝新銭座しんせんざに移り、匆々そうそう一小塾舎を経営して洋学に従事したるその時は、王政維新の戦争最中、天下た文を語る者なし。いわんや洋学においてをや。時論は攘夷じょういの頂上に達し、洋学者のごときは所謂いわゆる悪魔外道の一種にして、世間にれられざるのみか、又したがってそのにくむ所とり、時としては身辺の危険さえ恐ろしき程の次第なりしかども、人生の性質は至極しごく剛情なるものにて、世人が概して自分等を敵視すれば、その敵意のさかんなる程に此方もまたひそかこれに敵するの心を生じて、公然力をもってするはもとよりかなわざる所なれども、心の底には他の無識無謀を冷笑すると共に、ことさらにつとめてその言わざる所を言い、その好まざる所を行い、一切の言行を世論の反対に差向さしむけて意気劇烈、些少さしょうす所なく、満天下を敵にするの覚悟を以てみずから居たるこそ一時の奇なれ。けだし我党はつとに西洋文明の真実無妄むぼうなるを知り、人間の居家きょか処世より立国の大事に至るまで、文明の大義を捨てゝ他にるべきものなきを信じて、世の俗論、古論、保守論をよろこばざることなれども、その文明論の極端を公言して人心を激したるは、亦れ人生の獣勇、闘争を好むの情にいでたることならんと、今より回想してみずから悟る所なり。しかりといえどもこの獣勇、決して無益ならず。当時我党の士は天下の俗論古論者に敵すると同時に、一方には彼等を網羅してこれを諭し、その古来徹骨てっこつもうひらきて我主義に同化せしめんとの本願なれば、四面暗黒の世の中にひとり文明の炬火きょかを点じて方向を示し、百難をおかしてただ前進するのみ。兵馬騒擾そうじょうの前後に、旧幕府の洋学校は無論、他の私塾家塾もすでに廃して跡を留めず、新政府の学事も容易におこるべきにあらず、いやしくも洋学とえば日本国中ただ一処の慶應義塾、すなわち東京の新銭座塾あるのみ。世人はこれもくして孤立と云うも、我れは自負して独立と称し、在昔ざいせき欧洲にてナポレオンの大変乱に荷蘭オランダ国の滅亡したるとき、日本長崎の出嶋にはおその国旗をひるがえして一日も地に下したることなきゆえ、荷蘭は日本の庇蔭ひいんに依り、建国以来かつて国脈を断絶したることなしとて、今に至るまで蘭人の記憶に存すとの談あり。同志の士は是等これらの故事を物語りして、我慶應義塾は荷蘭の国旗を飜したる出嶋に異ならず、日本の学脈を維持するものなりと、あえみずからその任に当りて、ます/\新知識の輸入に怠らざる中にも、従前じゅうぜん徳川時代の洋学は医術を始めとして、化学、窮理きゅうり、砲術等、多くは物理器械学の辺を専らにしたるものを、慶應義塾は一歩を進めて世界の地理、歴史、法律、政治、人事の組織より経済、脩身、哲学等の書を求めてその講読に着手し、現に英語に云うポリチカル・エコノミーを経済と訳し、モラル・サイヤンスを訳して脩身学の名を下したるも慶應義塾の立案なり。その他英語のスピーチュに演説の訳字を下して会議演説の趣意を説き、あらゆる反対論を排して今日世間に普通なる彼の演説法を教えたるも義塾にして、スチームを汽と訳し、コピライトを版権と訳したるも義塾の発意なり。およそ是等をかぞうれば枚挙まいきょいとまあらず。同志結合、力のあらん限りを尽して文明の一方に向い、一切万事その旧をてゝ新はかり、もって日本全社会の根底より面目を改めんと試みたるその企望は、実際においもとより微力の及ぶべき限りにあらず、ただ是れ一時の空想に似たりしかども、ここに驚くべきは我日本国民の資質剛毅ごうきにして頑ならず、常にその固有の気力を保つと同時に、慧眼けいがんく利害の在る所を察して、王政の一新と共に民心もまた一新し、文明の進歩駸々しんしんとして我党の空想を実にしたるのみか、かえってその空想者の思い到らざる所にまで達して、遂に明治の新日本を出現したるこそ不思議の変化なれ、望外ぼうがい仕合しあわせなれ。前後の事情を回想すれば感極まりて唯涙あるのみ。畢竟ひっきょう時運のしからしむる所なりと云うも、素因そいんなくして結果はあるべからず。吾々は今日に居て只管ひたすら先人の余徳その遺伝のたまものを拝する者なり。れば我党の士が旧幕府の時代、すなわち彼の鉄砲洲てっぽうずの塾より新銭座しんせんざの塾に又今の三田に移りし後に至るまでも、勉強辛苦は誠に辛苦なりしかども、こうべめぐらして世上をうかがい、文明の風光次第にあきらかにして次第に佳境に入るを見るは、畢生ひっせいの大快楽事にしてたとえんに物なし。苦中楽ありとはすなわちれなり。しかりといえども人生の多情多慾たよくなる、ほとんど飽くことを知らず。今日の慶應義塾を見るに、その学事はおよそ資金の許す限りにつとめざるはなし。な、世間普通の官私諸学校に比すれば資力以外の事にまで着手して見るべきものありといえども、天下の時勢、いまだ独立の学校事業に可ならずして、経済の不如意と共に学事もまた不如意の歎をまぬかれず。又教場の学事は殆んど器械的の仕事にして、わずかに銭あればもって意のごとくすべしと雖も、我党の士において特に重んずる所は人生の気品に在り。そもそも気品とは英語にあるカラクトルの意味にして、人の気品の如何いかんは尋常一様の徳論に喋々ちょうちょうする善悪邪正などう簡単なる標準を以て律すべからず。いわんや法律の如きに於てをや。もとよりその制裁の及ぶべき限りにあらず。あたか孟子もうしの云いし浩然こうぜんの気に等しく、これを説明することはなはかたしと雖も、人にしていやしくもその気風品格の高尚なるものあるに非ざれば、才智伎倆ぎりょう如何いかんかかわらず、君子として世に立つべからざるの事実は、社会一般の首肯しゅこうする所なり。さいわいにして我慶應義塾はこの辺に於ていささか他に異なる所のものを存して、鉄砲洲以来今日に至るまで固有の気品を維持して、凡俗卑屈のそしりまぬかれたることなれども、元来無形の談にして、口以て言うべからず、指以て示すべからず、仏者の語を借用すれば以心伝心の微妙、義塾を一団体とすればその団体中に充満する空気とも称すべきものにして、畢竟ひっきょうするに先進後進相接あいせっして無形の間に伝播でんぱする感化に外ならず。然るに今老生は申すまでもなく、座中の諸君も頭髪ようやく白し。いわんや老少不常にして、先年すで小幡仁三郎おばたじんざぶろう、藤野善蔵ぜんぞう蘆野あしの巻蔵、村尾真一、小谷忍おたにしのぶ、馬場辰猪たつい等の諸氏をうしない、又近年に至りては藤田茂吉もきち、藤本寿吉じゅきち、和田義郎よしろう、小泉信吉のぶきち、野本貞次郎さだじろう、中村貞吉さだきち吉川泰次郎よしかわたいじろう氏等の不幸を見たり。けだし人の死するはたきぎの尽るが如く、その死後の余徳は火の尽きざるが如しと云うと雖も、薪と火と共に消滅するのおそれなきに非ず。従前既に幾多の名士を喪い、今又老生と諸君と共に老却したり。自然の約束に従て次第に世を去りたらば、跡にのこる壮年輩を如何いかにすべきや。壮年の活溌、く吾々長老の遺志を継ぐべしと信ずれども、全体の気品を維持して固有の面目をまっとうせしむるの一事は、特に吾々先輩の責任にして、死に至るまで之を勤るもお足らざるを恐るゝ所のものなり。吾々の生前果して能くこの責任を尽しおわりて、第二世の長老を見るべきやいなや。之を思えば今日進歩の快楽中、亦おのずから無限の苦痛あり。老生の本意はこの慶應義塾を単に一処の学塾として甘んずるを得ず。その目的は我日本国中にける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、これを実際にしては居家きょか、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言うのみにあらず、躬行きゅうこう実践、もって全社会の先導者たらんことを期する者なれば、今日この席の好機会にあたかも遺言のごとくにして之を諸君に嘱托するものなり。





底本:「福澤諭吉著作集 第5巻 学問之独立 慶應義塾之記」慶應義塾大学出版会
   2002(平成14)年11月15日初版第1刷発行
底本の親本:「時事新報」
   1896(明治29)年11月3日
初出:「時事新報」
   1896(明治29)年11月3日
※【 】内の編者による解説は省略しました。
※底本の編者による語注は省略しました。
※初出時の表題は「演説大意」です。
※〔〕付きの表題は、底本編集時に与えられたものです。
入力:田中哲郎
校正:hitsuji
2019年11月24日作成
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