政治は人の肉体を制するものにして、教育はその心を養うものなり。ゆえに政治の働は急劇にして、教育の効は緩慢なり。例えば一国に農業を興さんとし商売を盛ならしめんとし、あるいは海国にして航海の術を勉めしめんとするときは、その政府において自から奨励の法あり。けだし農なり商なり、また航海なり、人生の肉体に属することにして近く実利に接するものなれば、政府はその実際の利害につき、あるいは課税を軽重し保護を左右する等の術を施して、たちまちこれを盛ならしめ、またたちまちこれを衰えしむること、はなはだやすし。
すなわち政治固有の性質にして、その働の急劇なるは事実の要用においてまぬかるべからざるものなり。その細目にいたりては、一年農作の飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばただちに兵を足し、事、平和に帰すれば、また財政を脩むる等、左顧右視、臨機応変、一日片時も怠慢に附すべからず、一小事件も容易に看過すべからず。政治の働、活溌なりというべし。
また政治の働は右の如く活溌なるがゆえに、利害ともにその痕跡を遺すこと深からず。たとえば政府の議定をもって、一時租税を苛重にして国民の苦しむあるも、その法を除くときはたちまち跡を見ず。今日は鼓腹撃壌とて
古来、暴君汚吏の悪政に窘められて人民手足を
これに反して教育は人の心を養うものにして、心の運動変化は、はなはだ
ゆえに社会の気風は家人を教え朋友を教え、また学校を教うるものにして、この点より見れば天下は一場の大学校にして、諸学校の学校というも可なり。この大学校中に生々する人の心の変化進歩するの様を見るに、決して急劇なるものに非ず。たとえば我が日本にて古来、足利の末葉、戦国の世にいたるまで、文字の教育はまったく仏者の司どるところなりしが、徳川政府の初にあたりて主として
また近時の日本にて、開国以来大に教育の風を改めて人心の変化したるは外国交際の
政事の性質は活溌にして教育の性質は緩慢なりとの事実は、前論をもってすでに分明ならん。然らばすなわち、この活溌なるものと緩慢なるものと相混一せんとするときは、おのずからその弊害を見るべきもまた、まぬかるべからざるの数なり。たとえば薬品にて「モルヒネ」は劇剤にして、肝油・鉄剤は尋常の強壮滋潤薬なり。劇痛の患者を救わんとするには「モルヒネ」の皮下注射方もっとも適当にして、医師も常にこの方に依頼して一時の急に応ずといえども、その劇痛のよって来る所の原因を求めたらば、あるいは全身の貧血、神経の過敏をいたし、時候寒暑等の近因に誘われて、とみに神経痛を発したるものもあらん。全身の貧血虚脱とあれば、肝油・鉄剤の類これに適当すべきなれども、目下まさに劇痛を発したる場合にのぞみてはその遠因を求めてこれを問うにいとまあらず、すなわち「モルヒネ」の要用なるゆえんなり。
然るにその医師が劇痛に投ずるに「モルヒネ」をもってするのみならず、患者の平生に持張して徐々に用うべき肝油・鉄剤をも、その処方を改めて鎮痛即効の物にかえんとするときは、強壮滋潤の目的を達すること能わずして、かえって鎮痛療法の過激なるに失し、全体の生力を損ずることあるべし。
ゆえに今、一国の政治上よりして天下の形成を観察したらば、所望に応ぜざるものも、はなはだ多からん。農を勧めんとして農業興らず、工商を導かんとして景気ふるわず、あるいは人心
たとえば日本士族の帯刀はおのずからその士人の心を殺伐に導き、かつまた、その外面も文明の体裁に不似合なればとて、廃刀の命を下したるが如く、政治上に断行して一時に人心を左右するは劇薬を用いて救急の療法を施すものに等しく、はなはだ至当なりといえども、この救急の政略を施すに、かねてまた、これを教育の組織に求めんとするは、肝油・鉄剤に求むるに鎮痛の即効をもってするに異ならず。この薬剤にして、よくこの効を奏すべきか、もしも然らしめんとするには、まずこの薬に配合するに他の薬物をもってし、その性質を変化せしむることなれば、徐々たる滋潤強壮の効力は失い尽さざるをえず。
すなわち教育緩慢の働を変じて急劇となし、十年二十年に収むべき結果を目下に見んとするものなれば、教育本色の効力はきわめて薄弱たらざるをえざるなり。しかのみならず、その政治上において目下の所望は、あるいは十年を出でずして、大に望むに足らざるの日に会することもあるべし。たとえば今日こそ農業々々といえども、三、五年の中には農よりも商の欠点の見出すことのあるべきが如し。実に政治は臨機応変の活動にして、到底、教育の如き緩慢なるものと歩をともにすべき限りに非ず。もしも強いてこれを一途に出でしめ、今年今月の政治の方向と今年今月の教育の組織とを併行せしめて、教育の即効を今年今月に見んとするときは、その教育は如何様にして何の書を読ましめ何の学芸を授くるも、純然たる政治教育となりて、社会物論の媒介たるべきのみ。