人生の楽事

福澤諭吉




 左の一編は十一月十一日、府下芝区三田慶應義塾において福澤先生の演説したるその大意の筆記なり。
 人には何か楽しむ所のものなかるべからず。旅行を好む者あり、閑居をむさぼる者あり、遊芸をたしなむ者あり、書画骨董をよろこぶ者あり。これより以外には財産の増殖に余念なき者もあれば、功名利達に熱心なる者もあり。その他千種万様限りなき人事の運動は、浮世の人々がおの/\その心を楽しましめんとするのはたらきにして、あるいは之をその人の楽しみともえば又はその志とも云う。諸君にも必ず何か楽しむ所、志す所のものあるべし。折々は相会あいかいして之を語り之を論ずるこそ面白けれ。今晩は老生が壮年の時より今に至るまでかつて一日も忘れたることなくして、遂に今に至るまで意のごとくならざりし一快楽事の想像を語らんに、老生は本来儒学生にして、今を去ること四十年、年齢二十の頃、始めて洋学に志し、その入門は物理学にして、之を悦ぶことはなはだしく、何か一科の専門に入りてすことあらんとの熱心は万々なれども、時勢の許さゞる所にして、家に資力もなく、朝暮衣食の計にいそかわしくして心を専一にすることあたわざるのみか、開国以来の世変を見ればおのずから黙止すべきにもあらず、色々の著述などして時を費したることも多し。れども物理学の一事は到底心頭を去らずして、之を思えばいよ/\面白く、ひとり心におもえらく、造化の秘密、誠に秘密なるが如くなれども、化翁必ずしもこれを秘するにあらず、人の之を探究せざるが故なり。蒸気、電気のはたらき開闢かいびゃくはじめより明に示す所なれども、人間の暗愚なる、久しく之を知らずして、ようやく近年に至り始めてその端緒を探り得たるのみ。今後とても人智の次第に進歩するに従い、いよいよ之を探りていよ/\之を知り、その知り得たる上にていまだ知らざる時のことを思えば、唯人間の暗愚なりしを悟るのみにして、今日は学界尚お暗黒の時代と云うも可なり。この時に当り一意専心、物理を探究して、造化の秘密を開くは人間無上の快楽にして、王公の富貴栄華もうらやむに足らず。之を眼下に見てその生活の卑俗なるを憐むと同時に、自家の空想をたくましうし、例えば動植物生々の理、地球の組織又その天体との関係、化学のはたらきは果していずれの辺にまで達すべきや、宇宙勢力の原則は果してすでに定まりたるやいなや、など仔細しさいこれを思えば千百の疑問際限あるべからず。満目まんもくあたかも造化の秘密に囲まれてただ人智の浅弱を嘆ずるのみなれども、いよ/\進んでいよ/\深きに達し、かつて底止する所を知らざるもまたれ人生の約束なれば、勇を鼓して知見の区域をひろめ、恰も化翁と境を争うは是れぞ学者の本領なりと深く信じて之を疑わず、ことに我日本国人の性質を見るに、西洋文明の新事を知りしは輓近ばんきんのことなれども、知識の教育練磨は千百年来生々の遺伝に存して、新事の理を解するに苦しまざるのみか、起首原造の天資に乏しからずして、洋学開始以来単に西洋を学ぶの時代は既に経過し、今は学問場裡じょうりに彼我併立の勢を成して、今後我学者のつとむる所は唯れに対して先鞭せんべんつくるに在るのみ。実に日本国の一大快事なれども、唯こゝに遺憾いかんなるはその学者をして一意専心ならしむるの手段について意のごとくならざるもの多きの一事なり。如何いかなる学者にてもその身匏瓜ほうかにあらざれば衣食の計なきを得ず。しかるに生計は人生に最もわずらわしくして、学者の思想を妨ること之よりはなはだしきものあるべからず。独坐沈思、宇宙無辺の大より物質微塵の細に至るまで、その理を案じそのはたらきを察し、たちまち得たるが如くにして又乍ち失い、恍としてみずからその身の在る処を忘れ、一心不乱、耳目鼻口じもくびこうの官能もほとんど中止の姿を呈したるその最中に、突然家計塩噌えんその急に促され、金銭受授の俗談に叫ばるゝが如きありては、思想の連鎖一時に断絶して又旧に復するを得ず。之をたとえば熟眠、夢まさたけなわなるのとき、おもてにザブリと冷水を注がれたるが如く、殺風景とも苦痛とも形容のことばあるべからず。世間一般の人は左程さほどに思わざるべけれども、唯学者にして始めてこの苦痛の苦味を知るべきのみ。今日の実際において政治家に哲学者なく、新聞記者に物理学の専門家少なく、開業医師に学医まれにして、説法僧に善知識を見ざるも、おのずから偶然にあらず。れば今この学思の妨害を除て専一ならしめんとするには、学者に衣食の資を給して物外に安心せしむるの一法あるのみにして、ひそかにその方法を案ずるに、法律規則をもって組織したる政府の筋にはもとより依頼すべからず。今の不学なる俗政府の俸給などに衣食し、俗物に交わり、俗言を聞き、はなはだしきはその俗物の干渉を被り、催促を受けながら、学事を研究せんとするが如き、その無益たるはうまでもなく、仮令たとあるいは世間有志者の発意を以て私に資金を給せんとする者あるも、そのこれを給するや公共のめにも私の為めにも近く実利益を期するがごと胸算きょうさんにては、本来の目的に齟齬そごするものなり。老生が真実の目的を申せば、ここに一種の研究所を設けて、およそ五、六名乃至ないし十名の学者をえらび、これに生涯安心の生計を授けて学事の外に顧慮する所なからしめ、かつその学問上に研究する事柄もその方法も本人の思うがまゝに一任してかたわらよりくちばしれず、その成績の果してく人を利するか利せざるかを問わざるのみか、むしろ今の世に云う実利益に遠きものをえらんでその理を究め、之を究めて之に達せざるも可なり、之がめに金を費して全く無益に属するも可なり、その人の一生涯に成らざれば半途にして第二世にのこすも可なり、あるいはその人が病気の時に休息するは勿論もちろん、無病にても気分に進まざる時は業を中止すべし、勤るも怠るもすべて勝手次第にして、俗にえば学者を飼放し又飼殺しにすることなり。かくの如くすれば万事不取締にしてとても実効を奏することなしと思う者こそ多かるべけれども、元来学者の学を好むは酒客の酒にけるが如くにして、傍より之を制すべからざるのみか、みずから禁ずることあたわざる所のものなれば、所謂いわゆる飼放しはその勉強を促すの方便にして、俗界に喋々ちょうちょうする規則取締等こそ真に学思を妨るの害物なりと知るべし。凡そこの辺の趣向にしたらば、日本の学者も始めて能くその本色を現わして辛苦勉励、心身の力を尽し、遂に造化の秘密を摘発して世界中の物理学に新面目を開くこともあるべし。こころみに実際の費用を概算するに、十名の学者に一年千二百円を給して共計一万二千円(この種の学者は世間に交際も少なく、衣食住の辺幅を張らんとするが如き俗念もなく、物外に独立して他を顧みざることあたかも仙人の如き者なれば、一年の生計千二百円にて十分なるべし)。この外に一名に付き毎年凡そ二、三百円を生命保険に掛けて死後の安心を得せしむるの要もあれば、学者の身に費すもの凡そ一万五千円として、他は研究の費用なり。そのたかは際限なきことなれども、仮にず三万五千円とすれば、両様合して五万円を毎年消費する勘定なり。或は右の如く計画しても、十名中に死する者もあらん、又は中途にして研究所を脱する者もあらん、又は不徳義にして怠る者もあらんなれども、十名共に全璧ぜんぺきならんことを望むは有情の世界に無理なる注文にこそあれば、十中の五にても三にても、前後節を改めずして確乎たる者あれば以て足るべし。一人の学力能く全世界を動かすの例あり。期する所は唯その学問の高尚深遠に在るのみ。
 以上の趣向は老生が壮年のときより想像する所にして、人に語るも無益なるを知り、一、二親友の外に口外したることもなく、人生の運命は計られず、万に一は自分の身にかなうこともあらんかとひとひそかに夢をえがきたることもなきにあらざれども、畢竟ひっきょう痴人の夢にして、迚も生涯に叶うべき事に非ず。れば今満堂の諸君は年わかし、一生の行路に幾多の禍福に逢うは必然の数にして、あるいは大資産の身とり、衣食余りて別に心身の快楽を求め、特に大に好事心をたくましうせんとしてその方法を得ざるがごとき境遇に際することもあらんには、むかし/\明治二十六年十一月十一日、慶應義塾にて云々うんぬんの演説を聴きしこともありと、これを思出して何か面白きくわだてもあらば、老生の生前において之を喜ぶのみならず、仮令たとい死後にても草葉の蔭より大賛成を表して知友の美挙に感泣することあるべし。





底本:「福澤諭吉著作集 第5巻 学問之独立 慶應義塾之記」慶應義塾大学出版会
   2002(平成14)年11月15日初版第1刷発行
底本の親本:「時事新報」
   1893(明治26)年11月14日
初出:「時事新報」
   1893(明治26)年11月14日
※【 】内の編者による解説は省略しました。
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:田中哲郎
校正:hitsuji
2020年1月24日作成
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