帝室論緒言
我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にある可らずと雖ども、世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり。蓋し帝室の性質を知らざるが故ならん。過般諸新聞紙に主權論なるものあり。稍や帝室に關するが如しと雖ども、其論者の一方は百千年來陳腐なる儒流皇學流の筆法を反覆開陳するのみにして、恰も一宗旨の私論に似たり。固より開明の耳に徹するに足らず。又一方は直に之を攻撃せんとして何か憚る所ある歟、又は心に解せざる所ある歟、其立論常に分明ならずして文字の外に疑を遺し、人をして迷惑せしむる者少なからず。
明治十五年五月
[#改丁]編者識
帝室論
福澤諭吉 立案
中上川彦次郎 筆記
中上川彦次郎 筆記
帝室は政治社外のものなり。苟も日本國に居て政治を談じ政治に關する者は、其主義に於て帝室の尊嚴と其神聖とを濫用す可らずとの事は、我輩の持論にして、之を古來の史乘に徴するに、日本國の人民が此尊嚴神聖を用ひて直に日本の人民に敵したることなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし。往古の事は
去年十月國會開設の命ありしより、世上にも政黨を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん。此時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り。抑も政黨なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云ひ、保守々舊と稱して、互に論鋒を爭ふと雖ども、結局政權の受授を爭ふて、己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず。其爭に腕力兵器をこそ用ひざれども、事實の情況は、源氏と平家と爭ひ、關東と大阪と相戰ふが如くにして、左黨右黨相對し、左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは、關東の徳川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず。政黨の爭も隨分劇しきものと知る可し。此爭論
我帝室の直接に政治に關して國の爲に不利なるは、前段に之を論じたり。或人これに疑を容れ、政治は國の大事なり、帝室にして之に關せずんば、帝室の用は果して何處に在るやとの説あれども、淺見の甚しきものなり。抑も一國の政治は甚だ殺風景なるものにして、唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、其約束に從ふ者は之を赦し、從はざる者は之を罰するのみ。畢竟形體の秩序を整理するの具にして、人の精神を制するものに非ず。然るに人生を兩斷すれば、形體と精神と二樣に分れて、よく其一方を制するも、他の一方を捨るときは、制御の全きものと云ふ可らず。例へば家の雇人にても、賃錢の高と勞役の時間とを定るも、決して事を成す可らず。如何なる雇人にても、其主人との間に多少の情交を存してこそ、快く役に服するものなれ。即ち其情交とは精神の部分に屬するものなり。賃錢と時間とは唯形體の部分にして、未だ以て人を御するに足らざるなり。故に政治は唯社會の形體を制するのみにして、未だ以て社會の衆心を收攬するに足らざるや明なり。
此人心を收攬するに、專制の政府に於ては君王の恩徳と武威とを以てして、恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威竝行はれて天下太平なりし事なれども、人智漸く開て政治の思想を催ふし、人民參政の權を欲して將さに國會を
例へば明治十年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾萬の兵を募集して戰地に用ひたることあり。然るに其募に應ずる者は大抵皆諸舊藩の士族血氣の壯年にして、然かも廢藩の後未だ産を得ざる者多し。家に産なくして身に勇氣あり、戰場には屈強の器械なれども、事收るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや。殺氣凜然たる血氣の勇士、今日より無用に屬したれば各故郷に歸りて舊業に就けよと命ずるも、必ず風波を起す事ならんと、我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して竊に憂慮したりしが、同年九月變亂も局を結て、臨時兵は次第に東京に歸りたり。我輩は尚此時に至る迄も不安心に思ひし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡單なる慰勞の詔を以て、幾萬の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩の
又假に爰に一例を設けて云はん。天皇陛下某處へ御臨幸の途上、偶ま重罪人の刑場に赴く者ありて御目に留り、其次第を聞食されて一時哀憐の御感を催ふされ、彼の者の命だけを赦し遣はせとの御意あらば、法官も特別に之を赦すことならん。然るに此事を新聞紙等に掲げ、世間の人が傳聞して何と評す可きや。我輩今日の民情を察するに、世間一般の人は彼の罪人を目して唯
人或は我帝室の政治社外に在るを見て虚器を擁するものなりと疑ふ者なきを期す可らずと雖ども、前にも云へる如く、帝室は直接に萬機に當らずして萬機を統べ給ふ者なり。直接に國民の形體に觸れずして其精神を收攬し給ふものなり。專制獨裁の政體に在ては、君上親から萬機に
例へば、一利一弊は人事の常にして免かる可らず。寡人政治の風を廢して、人民一般に參政の權を附與し、多數を以て公明正大の政を行ふは、國會の開設に在ることならんと雖ども、之を開設して隨て兩三政黨の相對するあらば、其間の軋轢は甚だ苦々しきことならん。政治の事項に關して敵黨を排撃せん爲には、眞實、心に思はぬ事をも喋々して、相互に他を傷くることならん。其傷けられたる者が他を傷くるは鄙劣なりなど論辨しながら、其論辨中に復讐して又他を傷くることならん。或は人の隱事を摘發し、或は其私の醜行を公布し、賄賂依托は尋常の事にして、甚しきは腕力を以て爭鬪し、礫を投じ瓦を毀つ等の暴動なきを期す可らず。西洋諸國大抵皆然り、我國も遂に然ることならん。文政天保の老眼を以て見れば誠に言語道斷にして、國會などなきこそ願はしけれども、世界中の氣運にして、此騷擾の中に自から社會の秩序を存し、却て人を活溌に導く可き者なれば、必ずしも之を恐るゝに足らず。然るに爰に恐る可きは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸すときは其危害實に言ふ可らず。假令ひ全國人心の多數を得たる政黨にても、其議員が議場に在るときに一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。殊に我國の軍人は自から舊藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば、各政黨の孰れかを見て自然に好惡親疏の情を生じ、我れは夫れに與せんなど云ふ處へ、其政黨も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば、國會は人民の論場に非ずして軍人の戰場たる可きのみ。斯の如きは則ち最初より國會を開かざる方、萬々の利益と云ふ可し。斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬して其運動を制せんとするには、必ずしも帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り。軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく、政黨の孰れを捨てず又孰れをも援けず。軍人も亦これに同じ。固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども、卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ。内部の精神を制して其心を收攬するの引力は、獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し。且又軍人なる者は一般に利を輕んじて名を重んずるの氣風なるが故に、之が長上たる者は、假令ひ文事理財等に長ずるも、武勇磊落の名望ありて其地位高きに非ざれば任に適せず。今の陸海軍の將校が、其給料の割合に比して等級の高きも、是等の旨に出たるものならん。又亞米利加の合衆國にては宗教も自由にして、政府に人を用るに其宗旨を問はずと雖ども、武官に限りて必ず其國教なる
西洋碩學の説に、一國の人心を收攬して風俗を興すの方便は、其國々の民情舊慣に從て同じからずと雖ども、各國に通じて利用す可きものは、宗教、學事、音樂、謳歌等にして、殊に立君の國に於ては王室を以て人心收攬の中心たる可しと云へり。我日本の如きは古來宗教に拘泥せざるの民俗なれども、僧侶善智識の一言を以て兵刃既に接するの戰を和解したるの例なきに非ず。又敗軍の將士が高野の山に登り、國事犯の罪人が鎌倉の尼寺に入り、或は舊諸藩にて士族の間に不和を生ずる歟、又は藩法の爲に止むを得ずして其家來に割腹を命ずる等のときに當て、君家菩提寺の老僧が仲裁に入り、或は命乞ひとて犯罪人を寺に引取ることあり。何れも皆宗教に依て政治社會の風浪を和したるものなり。又江戸の市中に鳶の者と稱する壯丁の種族が、火事場などに於て
學風の利弊は、日本にも支那にも其例最も多くして、人心に銘すること最も深し。徳川政府にて昌平館の學風を朱子學と一定してより、各藩大抵皆これに傚ひ、太平二百七十年の間に、碩學大儒、異風を唱る者なきに非ざれども、天下一般學者の多數は朱子學に制せられて他は其意を逞ふするを得ず。唯舊水戸藩に於て一種の學風を起したれば、忽ち其藩士の氣風を一變したることあり。唯學校の教則のみならず、或は一部の著書を以て天下の人心を左右すること甚だ易し。
音樂謳歌は日本に於て左まで效力なきが如くなれども、西洋諸國にては一節の歌を以て幾千萬の人心を繋ぎ、之を幾百年に維持して國の治亂を制する者あり。佛の「リパブリック」、英の「ルールブリタニヤ」の曲の如き、是なり。日本にて之に類するものは、舊暦三月三日上巳の節句、家々に雛を飾り、俗に云ふお内裏樣とて雛の棚の上段に奉るは、蓋し日本國中の至尊たる歴世の天皇と皇后との御兩體を表したるものならん。又唄の文句にも、王は十善、神は九善と云ふことあり。是亦同樣の意味ならん。何れも皆尊王の人心を收攬するものと云ふ可し。又舊暦の正月に、三河萬歳とて、古風なる衣裳を着けたるものが、鼓太鼓を携へ、毎戸に來て祝詞を唄ふは、徳川家康公の萬歳を祝するの遺禮なりと云ふ。又元和元年大阪の落城は五月六日なりしより、爾來徳川の政府にて最も端午の節句を重んじたる歟、全國の風俗を成し、男兒ある家には家の内外に軍旗樣のものを樹て武者人形を飾る等、專ら尚武の風を裝ひ、又或る地方の習慣にて、其旗と人形を收るに、武家は五月五日の夕を限り、農商の家は翌六日までに存するの風あり。蓋し大阪落城は六日にて、武家は此日に凱陣して、軍器は最早不用なるが故に、其前日に之を收るの式を表すれども、町人百姓は軍事に關係なくして、翌日までも勝手次第と云ふ意ならん。何れも皆徳川の舊を懷ふて、尚武の士氣を鼓舞する爲には、大に效力ありし風俗ならん。尊王なり尚武なり、既に全國の風俗をなすときは、容易に消滅す可きものに非ず。以て亂を治む可し、以て治を亂る可し。俚俗謳歌とて決して之を輕々看過す可らざるなり。
王室の功徳は共和國民の得て知らざる所なれども、其風俗人心に關して有力なるは擧て言ふ可らず。人或は立君の政治を評して、人主が愚民を籠絡するの一欺術などとて笑ふ者なきに非ざれども、此説を作す者は畢竟政治の艱難に逢はずして民心軋轢の慘状を知らざるの罪なり。青年の書生輩が二、三の書を腹に納め、未だ其意味を消化せずして直に吐く所の語なり。試に思へ、我日本にても政治の黨派起りて相互に敵視し、積怨日に深くして解く可らざるの其最中に、外患の爰に生じて國の安危に關する事の到來したらば如何するや。自由民權甚だ大切なりと雖ども、其自由民權を伸ばしたる國を擧げて、不自由無權力の有樣に陷りたらば如何せん。守舊保守亦大切なりと雖ども、舊物を保守し了りて其まゝに他の制御を受けたらば如何せん。
前略、記者は固より民權の敵に非ず、其大に欲する所なれども、民權の伸暢は唯國會開設の一擧にして足る可し。而して方今の時勢これを開くことも亦難きに非ず。假令ひ難きも開かざる可らざるの理由あり。然りと雖ども國會の一擧以て民權の伸暢を企望し、果して之を伸暢し得るに至て、其これを伸暢する國柄は如何なるものにして滿足す可きや。民權伸暢するを得たり、甚だ愉快にして安堵したらんと雖ども、外面より國權を壓制するものあり、甚だ愉快ならず。俚話に、青螺 が殼中に收縮して愉快安堵なりと思ひ、其安心の最中に忽ち殼外の喧嘩異常なるを聞き、竊に頭を伸ばして四方を窺へば、豈計らんや身は既に其殼と共に魚市の俎上に在りと云ふことあり。國は人民の殼なり。其維持保護を忘却して可ならんや。近時の文明、世界の喧嘩、誠に異常なり。或は青螺の禍なきを期す可らず。此禍の憂ふ可きもの多くして之を憂る人の少なきは、記者に於て再び不平なきを得ざるなり。唯如何せん、今日は是れ民權論一偏の世の中なれば、世論或は却て記者に對して不平なるものもあらんと雖ども、今後十年を期し、其論者が心事を改めて今日の記者と主義を同ふするの日を待つのみ。
右時事小言の所論も、其旨は本編の義に異ならず。斯る内政の艱難に際し、民心軋轢の慘状を呈するに當て、其黨派論には毫も關係する所なき一種特別の大勢力を以て雙方を緩和し、無偏無黨、之を綏撫して前段に陳述する如く、我日本國民は帝室に對し奉りて、過去の恩あり、現在の恩あり。今後國會を開設して政黨の軋轢を生ずるの日には、必ず其緩和の大勢力に依頼せざるを得ず。即ち未來の恩にして、此三樣の大恩は日本國民たる者に於て平等に戴く可き者なり。然るに近來民間に黨派を結て改進自由など唱る者あれば、之を目して民權黨と名け、民權に反する者は官權なりとて、世間漸く官權黨の名を生じたるが如し。抑も官とは如何なる字義なるぞや。今の内閣の大臣參議以下の官吏を總稱したる名にして、官權とは此官吏が政府に立て國事を執るの權力と云ふ義ならん。今日の政體に於ては、官吏は天皇陛下の命じ給ふ所のものにして、其これを命ずるの間に天下人心の向ふ所を斟酌し給ふに非ず、固より賢良なる人物を擧げて衆庶の望に副はせられ給ふは明々たることなれども、公然たる姿に於て人民より其人を推撰するに非ず、投票の多數に由て進退するにも非ざれば、官吏は純然たる帝室の隸屬にして、帝室と政府との間に殆ど分界なしと云ふも可なり。即ち明治元年より今年に至るまで我國の政體なれば、今年に在て官權と云へば、其權は帝室の威光の中に在るものにして、或は之を帝室の大權中の一部分と云ふも大なる不可なかる可し。然るに此官權の下に黨の字を加へて官權黨の名を作り、之を口に唱へて黨派を募るとは何事ぞ。字義を推して其極度に至れば、帝室の御爲に特に盡力せよと云ふ意味に落ることならん。天下四分五裂、大義名分も殆ど紊亂の姿を呈して、帝室の安危如何とて憂慮の餘りに、帝室に御味方申せと天下の志士を募りたるの例はなきに非ざれども、此れは是れ上古亂世の事にして、明治の昭代には夢にも想像す可らざるの不祥なり。既に御味方申せと云ふからには、畏くも眞實帝室に反する朝敵の所在なかる可らずと雖ども、今日の日本に朝敵は何處に在るや。我輩は世の新聞記者の流を學て態と過激なる語法を用る者に非ず、又巧に辭を婉曲にする者にも非ず、中心に我帝室を仰て其安泰を祈り奉り、之を祈て果して天下に朝敵なきを信ずる者なり。朝敵と云へば、維新以來舊幕政府の一類共に何か不審の筋あり云々等の事ならば、先づ古來和漢の例に於ても、國民前政府を慕ふとか云ふ意味にて、隨分世にあるまじき嫌疑に非ざれども、幕府滅却の後は斷へて其痕跡を見ざるのみならず、舊幕府の談は政治社會に於て信に意に介する者もなきに非ずや。世界古今革命の事少なからずと雖ども、其革命の後に物論の穩なるは、獨り我明治政府を以て未曾聞の一例と爲す可き程のことにして、我輩は實に我帝室の萬々歳を信じて疑を容れず、之を疑はんと欲して中心に其疑懼の端を得ざる者なり。斯る昭代に居て、等しく是れ帝室の臣民なるに、其一部分の人が何を苦んで帝室保護等の言を吐くや。不祥の甚しきものなりと云はざるを得ず。固より其社會の長老は必ず誠實なる人物にして、唯一偏に帝室の御爲を思ひ、之を思ふの餘りに世間を見て不安心なりと認る箇條もあらんと雖ども、其不安心は唯是れ局處に止まるものゝみ。萬頃の杉の林に兩三根の松を見ればとて、其松の繁茂して杉林の景色を變ず可きに非ず。帝室は全國人心の歸する所也。二、三の狂愚あるも之を如何す可きや。苟も社會の大勢に着眼する者ならば、之を視ること難きに非ざる可し。今一歩を進めて我輩は別に却て恐るゝ所のものあり。其次第は、官權主張の人物が、誠意誠心に帝室を重んじて、其極度は遂に帝室の御味方を申すとまでの姿に陷るときは、恰も敵なきに味方を作りたるものにして、其味方なる者は敵を求めて敵を得ず、却て新に敵を作るの媒介たるなきを期す可らず。去迚は其誠實の本心に戻るに非ずや。或は長老の人物に於ては、徒に敵を作るが如き粗漏もなきことならん、寛大以て人を容るゝの度量あらんと云ふと雖ども、如何せん俚俗に所謂禍は下からとて、其社中の末流に至ては大に長上の意の如くならずして、本源は獨り却て心を痛ましむるものあらん。甚しきは舊幕政府の末年に、幕府が世論の劇しきに苦しみ、政府の成規外に新徴組、新撰組なるものを作て、之を制せんとして却て益其劇しきを増進したるが如き齟齬を生ず可きやも測られず。誠に苦々しき次第にして、帝室の大恩徳を空ふする者と云ふ可し。都て事を論じて他より其論を聞くに當り、論ずる者と聞く者との間に一點の猜疑ありては其論旨は通達せざるものなり。故に我輩が斯く論じ來るも、讀者に於て何か疑を抱くときは實に際限もなきことなれども、我輩の持論は既に世に明告したる如く、在野の政黨に與みするものに非ず、又今の政府の官吏に左袒するものに非ず、唯社會の安寧を祈て進て建置經營する所あらんを願ひ、其針路方法を論じて世の政治家の注意を喚起せんとするまでのことなれば、彼の政治宗旨の
官權固より擴張せざる可らず。苟も一國の政府として施政の權力なきものは、政府にして政府に非ず。殊に維新以來の政府は三百藩を合併したるものにして、其財政なり又兵力なり、頗る強大なる可き筈なるに、今日の有樣にて日本國と日本政府との權衡を見れば、我政府は決して強大なるものと云ふ可らず。官權大に擴張せざる可らざるなり。然りと雖ども、此官權は前節に論じたる如く、今日の政體に於ては直に帝室に接したる政府の權力にして、毫も人民の意見を交ゆ可き者に非ざれば、今の法律に從ひ今の慣行に由り、名も實も帝室の旨を奉じて政を施す可きは無論、内閣の大臣參議以下眞實に帝室の隸屬にして、其施政の際に一毫の私意を交ふ可らず。故に此政體を遵奉するの間に、政府より發する所の政令は、悉皆帝室の政令たる可きのみならず、或は施政の便利の爲に人民に説諭することあれば、其説諭も帝室の旨を奉じたるものと認めざるを得ず。又其説諭は樣々の事に關して或は官權を擴張するの旨に出ることもあらん。即ち今の政體の政權を強大にするの趣意なれば、我輩に於て毫も異論ある可らずと雖ども、官權の二字に黨の字を加へて官權黨の熟字を作るときは、即ち純然たる政黨にして、其政黨の中には帝室を含有するものと云はざるを得ず。如何となれば、今の官權は下の人民より集めたるものに非ずして、上の帝室に出たるものなればなり。然るに帝室は無偏無黨億兆に降臨して、我輩人民は其一視同仁の大徳を仰ぎ奉る可きものなりとの事は、我輩が反覆論辨したる所にして、此論旨果して是にして、日本人民が帝室に對し奉るの本分は、正に此點に在るものなりとするときは、帝室の政黨に關係す可らざるや明なり。強ひて之に關係す可しと云ふ者は、畏くも其尊嚴をして其神聖を損するものにして、尊王の旨に非ざるなり。故に曰く、今の政體にて官權を擴張するは可なりと雖ども、官權黨の名義を作て黨與を募るが如きは不祥の甚しきものなり。
或は去年の十月國會開設の詔を拜してより、在朝の人も其心事を改め、明治二十三年の後は必ず黨派政治となることならん、其時には我々も一政黨を團結して他の政黨と
我輩が帝室に望む所は唯前條々に止まらずして、他に又依頼するもの甚だ多し。近來は法律次第に精密を致して、世間に法理を言ふもの次第に喧しきに隨ては、政府の施政も都て規則を重んずるの風と爲る可きは自然の勢にして、國會開設の期にも至らば、政府は唯規則の中に運動するのみにして、規外には一毫の自由を得ざることならん。然るに人間社會は此規則中に包羅す可きものに非ず。即ち政府の容量は小にして、社會の形は大なりと云ふも可なり。小を以て大を包まんとす、固より得べからず。例へば
人事を御するに必要なるものは勸懲賞罰にして、其勸賞の必要なるは懲罰の必要なるに異ならず。然るに國會の政府に於てはよく懲罰を行ふ可しと雖ども、勸賞の法は甚だ難くして之を行ふこと甚だ稀なり。蓋し罪を犯す者は證左に據て罪の輕重を量り、其輕重に從て罰も亦輕重す可きが故に、恰も實物の輕重を量るが如くにして、約束の書に記すこと難からず。即ち法律書の用を爲す由縁なれども、人の功を賞し其徳を譽るが如きは、其輕重を測量すること甚だ易からず。孝子節婦の徳義の輕重、固より量る可らざるのみならず、或は戰場の武功とても、其大小を區別して、何を大功と稱し、何を小功と評するは、甚だ難きことならん。即ち政府にて勸賞の事を行ふの難き由縁なり。西洋諸國に於ても、其國民が何か大事業を擧げて國に益する歟、又は海陸の軍人等が非常の働を爲したるときに、國會の議決にて之に謝するの法なきに非ざれども、極めて稀有の例なりと云ふ。故に國民の善を勸めて其功を賞する者は、必ず政府の外に在て存すること緊要にして、彼の國に於ては一地方の人民が申合せて有功の人に物を贈ることあり、或は學校其他公共の部局より之を賞することあり。稍や以て人事の缺を彌縫するに足ると雖ども、結局國民の榮譽は王家に關するものにして、西洋の語に王家は榮譽の源泉なりと云ふことあり、以て彼の國情の一
學術技藝の奬勵も亦た專ら帝室に依頼して國に益すること多かる可し。方今全國の教育を司て學藝を奬勵する者は文部省なりと雖ども、其直轄の學校は誠に僅々にして生徒の數は數百に過ぎず。固より以て全國の學士を養ふに足らざるなり。且文部も亦政府中の一省なれば、常に政府と運動を共にして、府に變あれば省にも亦變を生じ、甚しきは文部卿の更迭に從て省中の官吏を任免するのみならず、其學校の教員に至るまでも或は進退なきを期す可らず。教員を進退し學制を改革し、既に之を改革して又これを修正し、毎三、五年に變換するが如きは、教育に於て最も不利なるものと云ふ可し。加之國會開設の後は、國庫の金を以て國中唯二、三の官立學校のみに給與することある可きや。甚だ難きことならん。左れば其開設の後は、假令ひ文部省を廢せざるも、省の事務は唯國中の學事を監督するに止まりて、直に學校を支配するの慣行は止むことならんと信ず。天下既に官立の學校なし。假令ひ是れあるも全國の學士を養ふに足らず。然ば則ち私立の學校を奬勵して之を盛大ならしむるの外に方便ある可らず。然るに今日各地に在る私學校の有樣は、實に微々たるものにして、見るに足る可きものなし。よく數百の生徒を教育して其法を誤らず、之を十數年に維持して學校の名に恥ぢざるものは、日本國中僅に指を屈するに足らず。小學下等の教は地方の協議に附して小學校に任ず可しとするも、苟も小學以上學術の部分を以て、之を此微々たる私立學校に任ぜんとするは、固より行はる可き事柄にあらず。是に於てか、我輩の大に冀望する所は、帝室に於て盛に學校を起し、之を帝室の學校と云はずして私立の資格を附與し、全國の學士を撰て其事に當らしめ、我日本の學術をして政治の外に獨立せしむるの一事に在り。文化漸く進て國民皆文の貴きを知るに至らば、民間富豪の有志にて學術のために金を捐る者をも生ず可しと雖ども、今日の民情尚未だ此段に進まず、之を如何ともす可らざれば、唯帝室に依頼して先例を示すの一法あるのみ。斯の如く、新に高尚なる學校を起し、又在來の私學校には保護を與へ、又或は時に隨ては今の官立學校の取るべきものを取て一度び帝室の御有と爲し、更に之に私立の資格を附與して從前の教官等に授るも可ならん。其細目の如きは實際の談として姑く擱き、兎に角に此大體の趣向にて、我學術を政治社外に獨立せしめて其進歩を促すは、内國の利益幸福のみならず、遠く海外に對して、日本の帝室は學術を重んじ學士を貴ぶとの名聲を發揚するに足る可し。國の一美事なり。方今英國等に於て大學校の盛なる者は、悉皆獨立私立の資格なれども、其本を尋れば在昔王家の保護を蒙るもの多しと云ふ。又近くは同國の皇壻「アルバルト」公は、在世の間、直接に政事に關せずと雖ども、好んで文學技藝を奬勵し、國中の碩學大家は無論、凡そ一技一藝に通達したる者にても、親しく公の優待を蒙らざるものなし。蓋し數十年來英國の治安を致して今日の繁榮を極るも、間接には公の力與りて大なりと云ふ。王家帝室の名聲を以て一國の學事を奬勵し、其功徳の永遠にして洪大なること以て知る可し。
又一方より論ずれば、學者は靜にして政治家は動くものなりと雖ども、人生各長所あり、悉皆動くを好む者に非ず。政治家が朝に立て威福を行ひ、軍人が敵に臨て勝を制す、愉快は固より愉快ならんと雖ども、學者が天然の原則を推究して、化學器械學等の微細を試驗し、偶然の機に會して千古の疑を解き、或は幽窓の下に孤坐して深妙の事理を思考し、一部の著書以て容易に天下の人心を左右するが如き、其時の愉快は他人の得て知らざる所にして譬へんに物なし。啻に連城の璧のみならず、天下を得る、亦大なりとするに足らず。心志茲に至れば、眼中復た王侯將相を見ざるなり。之を學者の愉快と云ふ。左れば人生の快樂は其人の性質と職業の習慣とに由て異なる者なれば、よく其性に隨て職業を得せしむるときは、世に學者なきを憂るに足らず。續々輩出して其業に安んず可きなり。人或は近日の世態を見て政談客の多きに驚き、日本の學者は一種の氣風を帶びて悉皆政治に熱する者なりとて、漫に臆測憂慮する者なきに非ざれども、畢竟學者に一種の氣風あるに非ずして、世間に一種の氣風を缺くが故に然るものなり。即ち世間に學術を貴ぶの氣風なし、之を貴ばざるが故に學者は學問を以て身を立ること難し、身に才氣を抱て世に身を立るの路なし、靜ならんと欲するも得べからず。今の學者が政談に奔走するも亦謂れなきに非ざるなり。學者が自から好て政談に入るに非ず、驅て之を政談に入らしむるものあればなり。故に今若し帝室に於て天下に率先して學術を重んずるの先例を示し、學者をして各其業に就くを得せしめなば、全國靡然として風を成し、政治社外に純然たる學者社會を生ずるを得べし。是に於てか始めて我學問の獨立を見る可きなり。且又學者なるものは、政治家に比すれば生活の趣を殊にして、衣食住の外見を裝ふ者に非ず。又これを裝ふの要用もあらざれば、自から質素にして他に異なる所のものある可し。外の形體は粗にして内の精神は密なり、身の外見は賤しくして社會に對するの榮譽は極めて貴し。亦以て人の標準として世の教風を助くるの方便たる可し。偶然の利益と云ふ可し。今日の有樣にては後進の學生日に増加すと雖ども、學問を以て靜に身を
前節の論旨に帝室を仰て學術の中心に奉ぜんと記したるは、我日本の學問をして、假令ひ其主義は之を西洋近時の文明に取るも、之を取て以て遂に獨立すること、今の漢學が其源を支那に取て遂に我國に獨立したるが如くならしめんと欲するの趣意にして、學問の稍や高尚なるものに就て説を立たることなれども、尚この以下の藝術に於ても帝室に依頼せざる可らざるもの甚だ多し。抑も一國文明の元素は際限なく繁多なるものにして、人間社會の一事一物、文明の材料たらざるものなし。日本内地の人民と北海道の土人とを比較するときは、内地は文明にして北地は不文なりと云ふ可し。如何となれば内地は人事繁多にして北地は簡約なればなり。内地の人民は三度の食事するに毎人に膳椀と箸とを備へて、北地の土人には往々是れなきものあり。左れば人間世界、僅に箸一膳の有無にても文明の高低を見るに足る可し。箸は文明の物なり。之を用る、文明の事なり。之を作り之を賣買す、亦文明の事なり。況や箸以上の事物に於てをや。其益多きに從て、益文明の高きを徴す可し。之を要するに人事の繁多、即ち文明開化と云ふも可ならん。
故に一國の文明を進むるの法は、人事の繁多を厭ふ可らざるのみならず、多々益これを奬勵して繁多ならしむるにあり。二十年前は二汁五菜を以て盛饌としたりしも、今は之に兼て西洋風の料理を食ふ。我人民は洋食の旨否を嘗るの知見を増して文明を進めたるものなり。二十年前は僅に漢書を讀て學者の名に恥ぢざりしものも、今は漢書に兼て洋書を知らざれば學者の社會に
人或は云く、前段に記したる諸藝術を保存せんが爲に、帝室に依頼するは則ち可なりと雖ども、其藝術の中には全く今日に無用なるものあるを如何せん、無用の藝術を保存するに有用の心思を勞して、又隨て多少の金を費す、全く無用の事なりとの説あれども、或人は誠に今日の人にして明日を知らざる者なり。人間の文明は、其日月永遠にして其の境界廣大なるものなり。文明一跳、千歳一日の如し。豈今日目下の無用を以て千歳文明の材料を棄ることを爲んや。今日土中より掘出す
在昔封建の時代に於て三百諸侯の生活は頗る高尚なるものにして、之が爲に自から藝術を保護して其進歩を助けたるは人の知る所なり。諸侯の内に武具馬具の職工は無論、茶道の坊主あり、御用の大工左官あり、蒔繪師御庭方あり、料理人指物師等、大抵皆譜代世祿の家來にして、其職業に付き利を射るよりも名を爭ふに忙はしく、所謂藝術家の功名心よりして、往々非常の名人を生じて、名作も少なからざりしことなり。蓋し其名作の物を代價に積るに、名人の家に數代
帝室は人心收攬の中心と爲りて國民政治論の軋轢を緩和し、海陸軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全國の徳風を篤くし、文を尚び士を重んずるの例を示して我日本の學問を獨立せしめ、藝術を未だ廢せざるに救ふて文明の富を増進する等、其功徳の至大至重なること擧て云ふ可らず。蓋し輕躁の書生輩は此大徳の輕重を辨ずること能はずしてこれを言はず、或はこれを言ふも其情水の如し。畢竟無智の罪なり。又鄭重にして着實なりと稱する長老の輩も其實は案外に性急にして、熱心極れば過激と爲り、却て恩徳の所在を忘れて狼狽を致す。是れ亦無智の罪なり。無智の罪は有心故造にあらず。之を恕して正に歸するの日ある可きのみ。天下皆正に歸したり。乃ち帝室に於て前條々の事に着手せんとするに、第一の需要は資本、是なり。明治十四年度の豫算に、帝室及皇族費は百十五萬六千圓にして、宮内省の定額三十五萬四千圓とあり。此金額多きや少なきや。
右各國の比例を見れば、我帝室費は豐なるものと云ふ可らず。金圓の數も少なき其上に、帝室の私に屬する土地もなし又山林もなし。今後國會開設の後に於ては、必ず帝室と政府とは會計上にも自から分別の姿を爲す可きことなれば、今日より帝室の費額を増し、又幸にして國中に官林も多きことなれば、其幾分を割て永久の御有に供すること緊要なる可しと信ず。「バシーオ」氏の英國政體論に云く、世論喋々、帝室は須らく華美なる可しと云ふ者あり、須らく質素なる可しと云ふ者あり、甚しきは華美の頂上を極む可しと云ふ者あれば、之に反對して全く帝室を廢す可しと云ふ者あり、皆是れ一場の空論のみ、今の民情を察して國安を維持せんとするには、中道の帝室を維持すること甚だ緊要なり、理財の點より觀察を下すも、例へば百萬「ポンド」を帝室に奉じて人心收攬の中心たるを得るは、策の最も良きものにして、百萬は百萬の用を爲すものと云ふ可し、今これを減少して七十五萬「ポンド」と爲し、其用法を異にして人心を得ること能はざるときは、七十五萬の全損にして拙策の甚しきもの云々と。言論簡單にして事理を盡したるものと云ふ可し。都て帝室の費用は一種特別のものにして、其公然たるものある可きは無論なれども、或は自由自在に費して殆ど帳簿にも記す可らざる程の費目もある可し。最も大切なる部分なり。例へば在昔佛帝第一世の先后「ヂョセフン」は名高き賢婦人にして、常に皇帝の内行を助けて其失を彌縫し、宮中府中を問はず人心をして離散せしむるなきを勉めたりしが、皇帝が一旦の變心にて皇后を廢してより、忽ち内外の人望を失ふたることあり。又近くは今の伊太利の皇后「マガリタ」は夙に賢明順良の名あり。よく人心を收めて皇帝を輔翼し、間接には政治上の風波も平素皇后の徳に依て鎭靜するもの少なからずと云ふ。左れば帝室の徳義の民心に通達するは一種微妙のものにして、冥々の間に非常の勢力を逞ふするを得べし。萬乘の皇帝、微行して一夫の貧を救ひ、以て一地方の人民をして殖産の道に進ましむることあり。一士卒の負傷を尋問して、三軍の勇氣を振はしむることあり。花の莚、月の宴、決して輕々に看過す可らざるものあり。是等の事に付ても必要なるものは財なり。然かも此財を費して、其費目は帳簿にも記す可らざるものならん。我輩は固より其目を論ぜずして、唯全體に皇室費の豐ならんことを祈る者なり。
或人云く、帝室の大名聲を以て天下の人心を收攬するの説は則ち可なりと。其有功の者を賞し文學藝術を保護奬勵するに當り、或は從前の習慣に於て帝室に近づく者は兎角に古風の人物多きが爲に、實際の着手に於ても自から古を尚ぶの氣風を存して、例へば人を賞するにも所謂勤王家に厚くして他は之に預ること薄く、或は學藝を奬勵すればとて專ら皇漢の古學に重きを附する等の意味なきを期す可らず、去迚は此駸々乎たる文明進歩の爲に如何ある可きやの説あれども、我輩に於ては毫も之を恐れず。嘉永癸丑開國の以來、我國勢を一變したるものは西洋近時の文明なり。此大勢進歩の間に、或は故障もあらん、妨害もあらんと雖ども、唯是れ一局處の障害にして憂るに足らず。古學は日新の學に害あるが如くに見ゆれども、其害たる唯一時一部分に止まるのみ。千百の古學者あるも天下の大勢を如何す可きや。況や其古學流の中にも、物理原則の部分を除くときは、取る可きも甚だ少なからず。我輩は勉めて之を保存せんと欲する者なり。尚況や我輩が帝室を仰て人心の中心に奉らんとするは、其無偏無黨の大徳に浴して一視同仁の大恩を蒙らんことを願ふ者なれば、我輩の志願決して空しからず。帝室は新に偏せず古に黨せず、蕩々平々、恰も天下人心の