東洋と西洋とは、その風俗習慣に就て、いろいろ
然るに、処かはれば品かはるとは言ひながら、西洋では、黒子を美貌の道具立ての一つに数へて尊重してゐるのである。
第一その名称からして全く
「ほくろ」黒子、黶子(愚管抄には「ははくろ」とあり、「ははくそ」の転。その再転化なり。)古くは「ハハクソ」今又「ホクソ」人の皮膚に生じて小さく黒く点を為せるもの
処がほくろは西洋では「くそ」どころではない。大切なものである。その名からして艶麗である。西洋では「ほくろ」のことをグレン・ド・ボーテ(grain de beaut)と云ふ。翻訳すれば、「美の豆粒」と云ふのである。嗚呼何と美しい名ではないか、「美の豆粒」とは!
だから西洋では日本のやうにそれを抜き取るどころではなく、否却て是を大切にするのである。若し生れつき「ほくろ」のない婦人方は、人工的に是を模造してその顔面に黏置するのである。
この人工的のほくろのことをフランス語では「ムーシユ」といふ。「ムーシユ」とは「蝿」と云ふ意義である。白い美しい顔の上の黒一点は、恰も白磁の花瓶に一匹の蝿がとまつたやうだといふ形容から来たものださうである。何ものでも美化して形容したり命名したりする処が如何にもフランス人らしくて好いではないか?
さてその人工的「ほくろ」、即ち「ムーシユ」とはどんなものかと云ふに、黒色に染めたタフタ(薄地の帛)を天然のほくろの大きさに似せて、小さな円い形に切つたものである。而してその裏面には絆創膏に似たやうな薬品が塗つてある。だから一度顔面に貼り著ければ、
今その起原を尋ねて見るに、以前欧羅巴でまだ種痘術の発明せられなかつた昔に在つては、天然痘の為に動もすれば顔面に痘痕の残つてゐた婦人方が少くなかつた。それ等の貴婦人達がその痘痕を巧みに隠す事を色々と工夫して、終に「ムーシユ」を発明したものだと云ふ事である。その皮膚の白いこと雪を欺くばかりの美しい顔に、一点黒色の「ムーシユ」を附著して見た処が、黒と白とのコントラスト、即ち反対色の効果の為めに、白色はますます白く見へて美人の容色が一段と引立つて見へるので、我も我もと是を真似る婦人が多くなつて、遂には痘痕も何にもない婦人まで「ムーシユ」を用ゐるやうになつて、そこで「ムーシユ」の大流行となつたものであると云ふことである。そしてそれを始めたのがイタリヤである。イタリヤでは、随分昔からその風が行はれてゐたものだと云ひ伝へられてゐる。
それが十六世紀に始めてフランスに伝播し、十七世紀十八世紀の頃、特にルヰ十五世時代にはフランスに於て大々的の流行となつて、上下貴賤の差別なく婦人と云ふ婦人は化粧用として皆この「ムーシユ」を用ゐたもので、実に「ムーシユ」の全盛期とされてゐる。
その当時の「ムーシユ」の著け方は、今とは大分異つてゐるのである。当時の「ムーシユ」の著け方を見るに少くとも必ず三点以上としてあつたものである。左の目の上に二つ。右の目の上に一つ。これは是非とも著けることになつてゐた。この外に頬部に著ける分は各自の好き好きに随つて二つでも三つでも御勝手次第としてあつた。今に残つてゐるその頃の美人画を見るに、折角美くしい顔面に五つも六つも「ムーシユ」を貼り附けたのがあるが、今から見ると、ただただ奇異なと云ふ感じを起させる位のものであるが、併し流行と云ふものは不思議な力を持つてゐるもので、それが
概して、西洋の婦人方が流行を追ふことに浮身を窶す有様は、我々東洋人から見ると狂気の沙汰ではないかと思はれる程猛烈なものである。フランスのある学者が『若し
今では「ムーシユ」の流行は大分
併し現今では、「ムーシユ」の著け方は一八世紀頃とは大変違つてゐて、眼上三点の法則などに遵ふものは全くない。今では二つ以上は著けないやうだ。その一つは目の下の少し横の方と、下唇の右か左かへ一つ著けるのが普通に行なはれてゐるやうである。尤も、その人々の顔の形や目の色や髪の毛の工合と照し合せて、全体の調子を取る為めに上に述べた眼下、唇辺の定石以外の処、即ち頬部に著けたり、頤に著けたりする婦人もある。だからどこぞと一定の場所を指示することは出来ないが、今その一例を挙げて見ると、目に愛嬌が足りないとか、又は下頤が長過ぎるとかいふ場合に、その間延びのした処へ一点のムーシユを入れるといふ工合である。
また「ムーシユ」は、啻に顔にばかり著けるのではない。婦人正装の場合、即ちデコルテの場合には、胸から肩から背中迄を露出するのであるから、「ムーシユ」を背中にも胸にも腕にも著ける。要するに黒と白とのコントラストを利用して全身にその艶美を増す為めの一つの化粧法なのである。
上に述べて来たやうに、東洋では「ほくろ」を贅物として邪魔物扱ひにし顰蹙してゐるのに反して、西洋では厄介視せず、否寧ろ是を艶美を増すところの「美の豆粒」として尊重し、人工的にさへ是を模倣するに至つた原因は何であるかを尋ねてみるに、臆説ではあるが、それは東洋人と西洋人との皮膚顔面の色や、毛髪や、眼の色を異にしてゐるのが、その第一の原因ではなからうかと思はれる。
東洋人の黄色い顔面に於ける「ほくろ」は、黄色と黒色との色調がそぐはぬので「ほくろ」があれば顔が却つて醜く見えるのである。加之、東洋人は髪の毛も、目の色も共に黒いのであるから、
然るに白晢人種の西洋人にあつては、その蒼白いやうな顔面に一点黒色の「ムーシユ」は、白と黒とのくつきりした反対色の作用で白色は益白く光彩を放ち、美は益美しく見えるのである。是に加ふるに、西洋人の目の色の薄青く、その髪の色のシアーテン(焦げ茶色)、ブロンド(茶褐色)又は金髪、甚しきに至つては白色かと怪しまれる程の淡黄色なのさへもあるので、一点黒色の「ムーシユ」の為めに、顔全体に活気を生ずる効果を齎らすからである。例へば巧妙なる絵師が、山も林も野も川も一白皚々たる雪景色に、二三羽の飛鴉をあしらつて、その絵の全体を活動させるのとよく似ている。又ちやうど「万緑叢中紅一点」といふのと均しく、僅か一点の紅色の為めにそれを囲繞する
その外にまた、東洋と西洋とでは、美人に関する見方の違ふことも、亦この問題に大なる関係があるやうに思はれる。東洋の美人に関する形容詞を見るに、端正、静粛、挙止幽間などと、専ら「静淑」を婦人の一美徳とし、同時に婦人美の一つの資格としてある。随つてその外部に現はれる形としては、よく前後左右の釣り合、即ちシンメトリーが取れて正整して居らねばならぬのである。ちやうど希臘の古彫像のやうに。正整静淑が美人の容貌の様式なのである。だから嬌艶も、婀娜も、又は内部の熱情も、心の内に静かに籠めてゐて、是を外部に現はさない所謂喜怒哀楽を色に現はさないのである。随つて自から表情のない顔面なのである。まんざらないでは無いにしても、どうも表情が薄いのである。
然るに西洋では、是に反して、表情を主とし、表情が欠けてゐては美人でないとしてあるのである。だから西洋の美人の形容詞には、東西共通の、沈魚落雁、閉月羞花とか、花顔柳腰明眸皓歯とかといふ美人に共通の資格の外に、「動」といふものが美人の美人たる資格の内に含まれてゐるのである。此処が大いに東洋とは異なる点である。例へば近代美人を論ずるものの例としていつも引合に出される
此の如く心の動きを表情を美の一大資格としてある西洋に於て、
黒子が西洋に於て尊重されるのは、彼等が「動」を愛する心理作用から来るのである。然るに東洋の美は「静」の内に存するので、随つて正整がその必要条件となるのである。「動」は正整を乱すから、正整を主とした美には「動」を排斥するのである。これ即ち黒子が西洋で
随つて、西洋には美人の黒子に関した文献もあれば、絵画も随分多くある。これに関する逸話なども少くはないが、わざとここには省くことにする。が一例を挙ぐれば先頃ポオル・モオランが書いた小説「三人女」の中のクラリスに就いて、
……彼女は黒子をつくりかへる。
……………………
……彼女は黒子棒を拭く……
などとある。これは「ムーシユ」を貼り著けるのではなくて、黒子を顔面にすぐに描く今
ところが東洋には黒子のある美人の絵などはあらう筈もなく、婦人の黒子に関する文献なども、あるにはあるが、矢張り黒子を邪魔物扱ひにした記録なのである。西鶴の「好色一代女」の巻の一の「国主の艶妾」の一節で、それは国主の為めに艶妾を求める一老人が、「大かたこれにあはせて抱えたきとの品好み」の人相書の中に、「……当世顔はすこしく丸く、色は薄花桜にして、目は細きを好まず鼻の間せはしからず、口小さく、歯なみあらあらとして白く……、姿に位そなはりて心立おとなしく……、身に黒子ひとつもなきをのぞみとあらば……」と云うてある。
だから、日本では全身に一つの
日本では昔から男でも女でも、黒子は人物のイダンチテー即ち