白い壁

本庄陸男




     一

 とうとう癇癪かんしゃくをおこしてしまった母親は、けずりかけのコルクをいきなり畳に投げつけて「野郎ぉ……」とわめくのであった。
「いめいめしいこの餓鬼がきやあ、何たら学校学校だ。この雨が見えねえか! 今日は休め!」
「あたいは学校い行くんだ」
 富次は狭い台所ににげこんでそう口答えをした。しばらく彼はそこでごとごといわせていたが、やがて破れ障子の間からするりと出てきてあおぐろい顔をにやりとさせた――「なあおっあ、お弁当があんのに休まれっかい、あたいは雨なんておっかなくねえや」
「ええっ! この地震っ子――」と母親は憎悪ぞうおをこめて呶鳴どなってみたが、すぐにそれをあきらめて今度は嫌味をならべだした。親が子に向って――と思いながらも彼女は、言わずにいられないのである。
「んじゃあ富次、お前は学校の子になっちゃって二度と帰ってくんな」母親はおろおろしはじめたせがれの汚い顔をじっとにらめ「なあ富次、お前の小ぎたねえその面を見た日から、こんな苦労がおっかぶさってきたんだから……よお、帰らなくなりゃあ何ぼせいせいするもんだか!」
 そう言われると子供は今までの勇気がたちまちくじけ、そこにきょとんとつっ立ってしまった。
 雨が夜明けからどしゃ降りであることは知っていたが、その時刻が来ると同時に、子供は嫌な仕事をさっさと投げだした。朝っぱらからむり強いされるコルク削りの内職手伝いは、いい加減に子供の心をくさくささせた。そして富次は学校に行きたいと一図に考えるのであった。べつに勉強がしたいなどという殊勝しゅしょうな心ではなかった、ただこの陰気くさい長屋よりも、曠々ひろびろとした学校が百層倍も居心地よかったのだ。年じゅう寝ている病気の父親と、コルク削りで死にもの狂いになっている母親の喧嘩には、たまらないと思う漠然とした気持で――しかし母親の剣幕が一番おそろしく、富次はひものちぎれた鞄を小脇にしっかり押え、こんな場合しかたなしに父親を視た。床の上に長くなっている父親は、いつか学校で見たはりつけされるキリストみたいなひげ面で、眼ばかり異様に蒼光あおびからせていた。富次はぎょろりと動いたその眼にあわてて視線を壁に移した。するとそこには、医薬に頼れない病人が神仏に頼るならわしどおりに、不動明王の絵が貼りつけてあった。
「学校なんて行ったって――」と母親の言葉がきゅうにやさしくなった。「なあ富次、損しることはあっても一銭だって貰えるんじゃねえからよ、それよかお母あの仕事を手伝うもんだ、な、そしたらこんだ浅草へ連れてくからよ」
「小学校も出てねえじゃ、今時、小僧にも出られねえからよ」と父親が口を挾むのであった。富次はほっとして母親を視た。彼女はそっぽを向いてへんという風に鼻をしかめた。
「なあ、俺が丈夫になれば何とかしるからよ、子供に罪はねえんだし、学校にだけは出してやれよ」
「芝居みてえな口は聞ききたよ、え? お前さんも早く何とか片づくことだ」
 母親はそう言って亭主を一瞥いちべつし、富次に向っては一喝いっかつした。
「さっさと行っちまえ、このいやな餓鬼やあ――」
 柏原富次は右手に鞄を抱え、左手は傘の柄にからまして、しぶいている雨の中にとびだした。大通りは河になって流れていた。雨がっぱにくるまったひげの交通巡査が、学校がよいの子供を自動車や電車から守り、子供たちの敬礼ににこにこしてみせた。

 城砦型に建てられた鉄筋コンクリートの小学校は、雨の日はみごとに出水する下町の中で、いやに目立ってそびえていた。この一帯は一昔前、震災でぺろり焼けすたれた。生き残った住民たちはあたふた舞い戻ったのであるが、彼らは前よりもいっそう危かしい家に住まねばならなかった。ただ小学校だけは――さすがに政府の仕事だけあって、じつに堂々とできあがった。たとえばそれは、こんな雨の日でも、子供たちの視力を傷めないためにその採光設備を誇ったりした。それで内部の壁という壁はまっ白く塗られていた。無数の子供らが今朝もわめきあってこの建物に吸いこまれる。傘をふりまわしたり、ゴム引マントをたたきつけたり、――とにかく昇降口は彼らの叫喚にふるえるのであった。子供たちはそうすることがなぜか嬉しいのだ。しかし教員は反対にますます陰気な顔をしてこの騒ぎをていた。朝っぱらから疲れきったように、ズボンのポケットに両手をつっ張ってぽかんとしていた。駈けこんできた子供はそれにぶっつかって、はっとする、そしてそこからきゅうにとりすまし白い壁の教室にのろのろはいって行くのであった。
 この建物の直接的な管理は、いかに義務教育を効果あらしめたか――という責任とともに、すべて月俸二百円なりのそこの校長の肩にかかっていた。師範学校を出ただけの彼が長い年月かかってちえたこの地位は、彼の白髪をうすくし、つねに後手を組まなければ腕が曲って見える危険さえ伴う、それほどの努力の結果であった。それを思うと彼は肩がり荷が重いのである。だが彼もまた最後の望みにこの帝都有数の校長として、せめては最高俸二百四十円なりに辿たどりつきたい、それには何をさていても――と彼は頭をふりふり考えるのであった――まず第一に校舎を清浄に生命のある限り保たねばならぬ。市会議員はいうまでもなく、教育畑の視学でさえ最初に気づくのはこの校舎である、そしてあとで、しかも楯の両面のごとく教育上の新施設を器用に取り入れること――。校長は生徒を集める朝礼には決ってそれを訓諭した。
「皆さん、皆さんは先生の言いつけをまことによく守るよい生徒であり、またよい日本人でありますぞ。そこで日本の国をよくしようとする皆さんは、忘れずにこの学校をよくしようとします。この学校はたいへん綺麗きれいだとめられる――うれしいですね、それは皆さんが一生懸命に掃除をするからだ、掃除の好きなよい生徒がこんなにたくさんいるんですからには、いいですか? この学校が建った時よりもかえってますます綺麗になるわけでしょう? わかりますなあ……おお、わかった人は手をあげなさい」講堂にあふれている子供たちの手がいっせいに彼らの頭上に揺めきだした。校長は眼尻のしわを深めてそっと周囲の壁を一瞥いちべつする。子供たちの顔もそれにつれて素早すばやく一廻転する。その時老朽に近いこの校長は、たあいもなく満足の微笑を見せ、ひときわ声を高くして「よろしい――」と叫んだ。
「それでは皆さん、手を下して、よし……」
「しかし――」と校長は教員室の前で立ちどまった。陰気くさくぞろぞろ歩いていた教員たちははっとして校長の顔を見かえる。すると彼はちょこちょこと杉本に追いついて君――とその肩をたたいた。「君の組は特別に注意してくれんと困るわい、手だけは人真似にはいはいとあげとったが、どだい君の受け持っとる低能組はわしの話を聞いとりゃせなんだ」
 午前九時かっきりになると、昇降口の扉はたった一枚だけをくぐりのように半びらきにして、あとは全部使丁の手で閉じられてしまった。おくれかけた子供は恐怖の色を浮べてとびこんできた。柏原富次は鞄と傘と、の切れた泥下駄をいっしょくたに胸にかかえていた。泥だらけのたたきを水洗いしていた使丁がいまいましげに舌打ちしてそれに呶鳴りつけた、「ばか野郎……そ、その泥足は何でえ……」ぴくりと富次は驚くのであるが、その時彼はえり頸を掴まえられてすでに足洗い場に運ばれていた。「それ、それ――」と使丁はがなりつける。「まだかがとにいっぺえくっついてるじゃねえか――何だ、手前の脚は? 月に一ぺんぐらいはお湯にへえってんのか?」
「あたいはね、今日ね、お弁当を持ってきたんだよ」と富次は胸にたたみきれない喜びを露骨にあらわして、平然と使丁に話しかけた。「うそだと思うんだら、見せてやろうか? え?」
 図体の大きな使丁は、子供を荷物のように造作なく上り口に運びそこに立っている受持教師にそっぽを向いて話しかけた。
「いやはや、杉本さん、呆れけえった子供ですねえ――この餓鬼あ……」
 杉本は生温い両方の掌で、冷えた富次の頬を挾んだ。子供は上眼づかいに恐る恐るそれを見あげる。それを見あげるとがった顎から頬にかけてまっ黒い鬚がかぶさり、眼鏡の奥で黒い瞳が見つめていた。富次はようやくそれが自分の受持教師であることに気づいた。すると彼は紫色の歯ぐきを出してにこりと笑い、さっそくしゃべりだした。
「あたいはね、先生――お弁当持ってきたよ、あたいんではね、昨日……だか何日だか、区役所からこんなにお米を買ってきてさ、そいでねえ、ねえ先生――」
「そうか――」と杉本は答え、まだまだ何か話したげな子供を促して階段を登るのであった。
「またあとで聞くからな、みんなが教室で待ちくたびれてんだろうよ」
 そんな単純な喜びを全身に感じてじっとしていられないような子供を、四十名近く杉本は受け持っていた。尋常四年生にもなって――だからそれは教育上の新施設として低能児学級に編制されたのである。彼らもまたせめては普通児なみの成績に近よらせたいために、それからそれがだめならば可能な限り職業教育を受けさせたいために――それはいい、けれども選りわけられたこの一群は邪魔なもの、不必要なものとして刻印を受けるにすぎないのではないか、あるいは収拾できないものを収拾させようとしてじつは…………………ぶちこわそうと目論もくろまれたのではないか――杉本は何とかしてこの子供たちも人並みにしたいと奮闘した、ここ数カ月のむだな努力を痛々しく思いだしてぶるんと頭をふりまわした。
 杉本は何も特別に低能教育の抱負や手腕を持っていたわけではなかった。彼にとってその仕事は偶然のようにあたえられた。誰だって楽な仕事の上で自分の成績をあげたいに決っている。だから学年始めが近づくと……………………………こそこそ校長の私宅を訪れた。そんな行動はおくびにも出さず、日が来ると彼らは受持学級ふり当ての発表を聞かされるのであった。この決定に異論を申したてることは許されませんぞ――と、教員の咽喉笛のどぶえをにぎっている校長が高飛車に申し渡し、――というのは――と一言註釈をつける――これは私の権限に属することでありまして私としては日常平素、諸君から受ける種々なる特質と、それぞれの学級の特質とを充分慎重に考慮研究した上の決定であります。――学問をしたい、そうしたならばと一図いちずに思い詰めた少年の杉本がいた、官費の師範学校でさえも(彼はそのさえもに力を入れて考える)知人の好意に泣きすがらねばならぬ家庭であった。喘息病ぜんそくやみの父親と二人の小さな妹、それらの生活が母親だけにかかっていた。仕事といわれるかどうか知らないが、母親は早朝からのふき豆売り、そして夕方はうどんの玉をあきなった。手拭をかぶった小柄の女が、汚れた手車をひき、鈴をならして露地から露地に消えて行く。――そんな家に大きくなった杉本は、時たまの弁当に有頂天うちょうてんのよろこびを語るこの子供が、ひりひりと胸にひびいてきた。今になって杉本は、この低能組の受持に恰好した自分を発見した。すると発育不全の富次が自分の肉体の一部分みたいにいとおしくなり、濡れた着物のままぐいと脇の下にひきよせて二階三階と駈けあがるのであった。

     二

 月曜朝の第一時間目には、どの教室にもいちように修身科がおかれていた。びっしり詰った十三坪何しゃくかの四角な教室からは、たからかな教育勅語の斉唱が廊下に溢れでた。しつけのいい組と言われている子供たちの声が、いたって単調なリズムを刻みながらそれを繰りかえした――
 しかし、三階のとっつきにある杉本の教室はめくらめっぽうな騒音に湧きかえっていた。彼らは教師が現われてもいっこう平気であった。机の上ではほうきを構えた小さな剣士が、さあ来いと眼玉をむき、大河内伝次郎だぞ、さあさあさあ、と八方を睨みまわした。「やい手前、斬られたのにどうして死なねえんだ」と机の上の大河内は足をふみ鳴らしていきなり下にいる子供を殴りつけた。「痛えッ!」「痛かったら死ね、死んだ真似まねでもしろ」「何にいッ」と捕手とりてが机の上に跳ねあがって大河内を追っかけはじめた。塗板の下に集まった一かたまりは、べい独楽ごま一つのために殴り合いをはじめ、塗板拭きがけしとばされると同時に、濛々もうもうたる白墨の粉の煙幕を立てていた。
 教室のうしろ側にもぞもぞしていた年かさの子供たちが、教師の前ではどうしなければならぬかをようやく思いだすのであった。彼らはまず習慣的に「っ、っ」と口を鳴らし、はては「ばか野郎ッ」とどなって警告した。「先生が来てんぞ、先生が……」その警告によって児童はやっと教師の存在をみとめ、それがそうなっているのだったらしかたがないという風にのろのろ自分の席に戻った。それから長いことかかって教室が変に静まる、すると子供たちは杉本の顔を見つめてにたにた笑いだした。
「先生――修身だあ」とひとりの子供が突然一声叫んだ。
 杉本は教卓のそばに椅子を寄らせて、顎杖をつき、ひとわたり子供を見わたした。窓は豊富に仕切られ白い壁は光線に反射しているのであるから、子供たちのさまざまな顔はがらん洞に明るすぎ、かえって重苦しく重なっているのだった。口を開けっ放しにして天井てんじょうばかり見ているもの、眼をしかめたり閉じたりぐるぐるまわしたりしているもの、洟汁はなを絶えず舌の先ですすっているもの――いちおうは正面を向いて、何か教師の言いだすことを待ちもうけている恰好はしていたが、じつのところそれは何年かの学校生活で養われた一つの習慣であった。低能児はそれにふさわしくぽかんとそうしている。教師もまたぽかんとして子供の顔を一眸におさめていた。
「先生――」と思いだしてまた一人が叫ぶのであった。「さ、早く修身をやろうよ、先生……」
「よろしい、では修身!」
 それを聞くと子供たちはがたがた机のふたを鳴らした。彼らは薄っぺらなその教科書をひきずりだす。そして中には足をふみならして何か喜ばしそうに、修身だあ修身だあと節をつけたり口笛を吹いたりした。
 杉本は教案簿をぱたりと開く、とそこには、勤勉という題下に三井某の灯心行商がこまごまと書きこまれてあり、「きんべんは成功のもとい」という格言まで書きこまれてあった。杉本は前の日いろいろな参考書をしらべてその教材を準備した。だが今、こんながらん洞の子供の顔を視て彼はしだいにその努力が情なくなり、最後には…………………………、教案簿を閉じてしまう。すると一人の子供がにょっきり棒立ちになった。
「先生!」と彼は叫んで股倉またぐらを押えた。「おしっこ、よう、ちえっちえっちえ……まかれてしまうよう!」
 一人の子供の尿意がたちまちすべての子供に感染した。「先生あたいも」「あっ、まけそうだ」「やらせなきゃあ垂れ流しちまうから」「あたいもだあ」そう口々に連呼しながら彼らは廊下に駈けだした。もはや成り行きにまかせるよりほかはなかった。杉本の耳はがんがん遠くなり咽喉はかすれた。彼はぼんやりつっ立っていた。
 図体の大きい使丁が物音におどろいて凄い剣幕を見せながら跳びこんでくる、彼は気短かに呶鳴り続けた。この教室の騒々そうぞうしさがコンクリートの壁をとおして他の課業を妨害ぼうがいするというのである。がなっていた使丁は、自分の声に駭いてきゅうに静まった教室を見まわし、ちょっと気まずげに言い足した――「何ですぜ杉本さん、校長さんが湯気をたててんだからねえ――」
 杉本はその間に、やっぱり今日の修身も講談にしようと決心した。修身修身と言ってよろこぶ子供たちもまた、それによって「あとはこの次に」なっていた講談を思い浮べていた。
「先生――大久保彦ぜえ門!」と子供が催促した。「よし、彦左衛門」と杉本は答える。それを合図に子供たちはいずまいを正し、ごくりと唾をのみこむ音が聞えるのであった。教師はもうやけくそになって御前試合の一くさりに手ぶり身ぶりまで加える。その最高潮に達したところで、席の真中にいた一人の子供が、ふたたびぴょこんと立ちあがった。
「先生え……ちょ、ちょっ、ちょっと」
「何んだ? 元木――」
 しかし元木武夫はもう自分の席からとびだしてきて、ぬうっと教師の鼻の下につっ立つのであった。そうしたとっぴな行動に杉本は馴れきっていた。彼は元木を無視してさらに話をつづけだした。所在なくなったその子供は教卓にもたれかかった。そこからしばらく、がくがくと動いている教師の顎を眺め、眺めているうちに彼のだらしない唇のすみからはよだれが垂れ落ちた。元木武夫は首をおとした。そして教卓にたまった涎の海に指をつっこみでたらめな絵を描き、その絵がまだ描きあがらぬうちにはたと自分の疑問に思い当った。もはや矢も楯もたまらなくなるのであった。「先生!」とひときわ高らかに叫んで教師の腰にぱっとしがみついた。元木は「大久保彦ぜえ門のお内儀さんは意地悪るばばあだったのかい」と一気に叫びつづけ、「ようよう、よう」とその腰骨を揺ぶるのであった。とたんに杉本は一足身体を退き子供のまじめくさった質問を避けようとした。すると元木武夫はくわっと逆上し、どがんと教師の股倉またぐらめがけて殴りつけてきた。
「よう――先生ッ!」
 ふいを喰った杉本は、腰を曲げて両手に股倉を蔽い、瞬間とまった呼吸を呼び戻そうとした。そのおかしな恰好に元木武夫はまたもや自分の質問を忘れ、眼尻を下げてひとりげらげら笑いつづけていた。
 教室が珍らしくしーんと静まるのであった。四十の並んだ顔が、今はこの話に異常な興味をそそられていた。杉本は自分の不ざまな恰好に気がついて子供たちを見まわした。が彼らの顔つきは、ただこの教師から出る返答を求めているにすぎなかった。杉本は恥しさに顔が火照ほてってきた。奇妙な性格の元木武夫にぽかんと浮んだであろう大久保彦左衛門の女房が、何かものわかりの鈍いとされている児童の心をひどく打ったのである。はげしく光る四十対の瞳に射すくめられて、解答をあたええない教師の顔はやがてしだいに蒼ざめてきた。すると元木武夫は、せきを突然断つようにげらげらまた笑いはじめる。教室の緊張がどっと破れてしまった。その騒音に包まれて杉本は、なぜかほっと胸のつかえを吐きだすのであった。
 窓ぎわにいた塚原が今度は立ちあがった。年じゅうきょろきょろしている彼は、「注意散漫」という特性が刻印されていた。だが彼はその時、瞬間的な義憤に口から泡をとばして元木武夫に喰ってかかった。
「元木のばか野郎――大久保彦ぜえもんにお内儀さんなんどいるもんけえ、すっこんでろ、やい元木!」それだけ喚きとばした塚原の注意は、次の瞬間さっと窓外の雨に向き替っていた。梧桐あおぎりの広葉が眼の下に見え、灰色にくすんだ運動場は雨の底にしぶいていた。そしてふたたび教師にその眼を移したのであるが、その時、塚原義夫のきょとんとした黒い瞳には珍らしくなみだが浮んでいるのであった。
「先生え、あたいんにはね、あたいのちゃんにはお内儀さんがいねえんだよ」
「ば、ば、ばかだなあ――お前」と元木が教師の下から喚いて両手を自分の鼻先に泳がしはげしく否定した。「ばかッ! あたいん家のお内儀さんなんて鬼婆あだい。塚原あ――大人おとなはみんなお内儀さんがあってな、そんでお前大人は、な、お内儀さんばっか可愛がってんだぞお……」
 塚原は自分の瞼をぐいと操りあげ「野郎――」とののしりかえした、「八幡さまに手前のことを呪ってやるから、おぼえてろお…………」
 順序も連絡もなくその子供らの考はぷくぷくと浮びあがった。しかしそのおそろしくばかげた喚きの底には、彼らの生活がのぞいていた。だから低能児なんだと言うが、杉本は彼らと暮しているうちに泡の底が見透けてきて「止めろ、止めないか!」と強圧することができないのだ。もしこの時廊下側の座席から久慈恵介が持ち前の金切声をふり絞って、「うるせえ、止めやがれ!」と飛びださなければ、二人の子供は殴り合いを初めそうにいきまきだしたのである。珍らしく小ざっぱりした小倉服の久慈は、かあいい眼をくりくり動かして「あのねえ――先生え」とつづけるのであった。「あのね、先生、元木の奴はね、あのね、壁いっぱいに変な絵を書きちらしました。あたいんちの………………だなんて言って、そいでもってさっきも塚原と喧嘩をしたんですよ、元木の奴は……」
 すると子供たちの眼はなびくようにいっせいに久慈を見つめた。彼はそういう風に注目されることが嬉しかった。傲然ごうぜんり身になって重々しく身体を後に向かせ、背後の白い壁をじっと指さして示した。
「ほーらねえ? 見えるだろう? 赤鉛ぺつで書いてさ、ほーら、見えるだろう、ほーら」
 杉本はその指に導かれてのそりのそり壁に近づくのであった。近づくにしたがってその楽書はしだいにはっきりしてきた。まったくその絵が絵として眼に映ると、彼の背筋がきゅうにぞくぞく粟立あわだってきた。なぜか恐ろしさと恥しさとに打たれて、彼は棒立ちになった。子供たちもまた緊張して声をのんだ。彼らは咄嗟とっさにこの壁がどんなに大切なものであるかを思いだした。不機嫌に蒼ざめたこの教師が、壁を汚したことによってどんなに怒り猛るかしれないと思うのであった。すると何年かの間学校生活を余儀なくされた子供たちは、得体の知れない恐怖を描いて硬直してしまった。しかし杉本は反対に今は泣きたくなったのだ。「元木――」と彼は壁に面したまま子供を呼んだ。「お前はたいした凄い画描きさんだなあ、それだのにどうして学校の図画は……」そう言いかけて彼は咽喉がつまってしまった。楽書は赤鉛筆の心をめ舐め書かれた……であった。悲壮な顔をした男の脛には…………………さえ植えられていた。おずおずと教師に近づいた元木は、「おい、お前は!」と叫んで、がっちと自分の肩を押えた杉本を見あげるのであった。彼は教師の顔色からそれが怒りだす気持でないのを敏感に見て取ると、「先生――あたいは画がうまいだろう?」と言い放った。杉本は唇を噛んでまるで歔唏すすりなきを堪えるような顔をした。すると元木は教師の腕をとらえて「先生、あたいの絵よくできてんのかい?」とまた催促した。しかし杉本はいそがしく瞬きしながら言うのである。
「はやく消さなきゃ、元木、校長先生にどやされるぞ」
 それを聞くと彼は「や!」と叫んでとび上った。「いけねえ――あ、いけねえ!」
 たった一人のその声で教室じゅうが一時にざわめきだした。いけねえと気づいた時、彼らの頭にも反射的に消さねばならぬことが浮んだ。そう思うと彼らは一刻もじっと耐えることができなかった。白墨をこすりつけてみた、雑巾を一なででまわした子は泣きだした。二三人の子はばけつの尻を鳴らして水汲みに駈けだした。
 厚いコンクリートの壁を揺ぶって、この騒音はふたたび全校舎にとどろいた。しかしここでは全員が一生懸命なのである。杉本は上着を投げ捨てていた。彼はナイフの刃を壁にあてた。白い粉がざらざら削り落され、そのあとにはコンクリの生地が鼠色に凹んで行った。白くしなければならぬという考えが裏切られることに腹が立つのであるか――杉本は額から汗を流して昂奮した、そして自分のおおげさな激情のばからしさにいっそういらだっていた。
 その時突然冷水を浴びたように騒音が消えるのであった。杉本は枕を蹴とばされたようなおどろきに周囲を忙しく見まわす、すると彼の鼻先に、白髪あたまの校長がずんぐり迫っていた。
「何をしとるかね?」と校長が訊ねた。
「壁はまっ白にしなきゃならんですからね――」
 冷然と疑り深い眼を角立てていた校長は、いかにもわざとらしく神妙をよそおって各自の席についた子供たちを、まんべんなく一瞥した。杉本はその眼につれて自分も子供たちを見まわし、「なあ、皆あ――」と話しかけた。「壁は大切なもんなんだからなあ――」
「うん、そうだよ、大切だよ」と一番先頭の席にいた福助そのままの阿部が、さっと立ち上るなり大きくさいづち頭を頷かせた。校長の顔がそれに向きなおり満足らしくたちまち瞼を細くする。するとあたかもそれを待ちかまえていたかのように阿部は「ちえッ!」と舌打ちした。「あたい、嫌んなっちまうなあ、変な顔してそんなに睨むなよ、ちえっ、おかしくって!」

     三

 それほど本当のことを何の怖気もなくぱっぱっと言ってしまう子供たちから、受持教師の杉本は低能児という烙印らくいんを抹殺したいとあせるのであった。もしこの小学校の特殊施設として誇っている智能測定が、まことに科学的であるというならば、子供の叫ぶ真実が軽蔑される理由はないではないか――「なあ……」と杉本は話しかける。「お前の思うとおりをじゃんじゃん答えるんだぞ。ちゃんはどんな職業しょうばいだい?」
 しかし放課後をひとりあとまで残された川上忠一は、それだけですでにおどおどしていた。数え年の十三歳(生活年齢は十二年と五カ月)で尋常四年生の彼は原級留置とめおきを二度も喰った落第坊主だった。けれども父親にしてみれば、何とかしてこの子を――と思うのである。「何ちったってこいつを真から知ってんのはあっしですよ」と保護者の父親は学校の床に膝を折って懇願した。「家にいる時あ、とても頭がいいんだが、学校じゃあ丙やら丁やらで……なるほど、あっしら風情の餓鬼あ行儀は悪うがしょう、したが、それとこれとは訳がちがいまさあ、なあ先生様そういうものでがしょう? やれ着物が汚ないの、画用紙が買えなかったのと、そいでもって落第くらったんじゃあまったくたまんねえでがすよ。あっしゃあ考えました、こりゃあやっぱしええ学校に上げなくっちゃ嘘だとね……区役所で通知を貰うんには骨も折りましたが、はあ、いいあんばいにやっとこさこんな立派な学校へあげることができて――これ、忠!」と彼はそこで恥しそうに着物の腰あげをいじくっている伜の手を引っ張るのであった。「ああ、見ろうな、こんな立派な御殿みてえな学校に来たんだから、お前もちゃんとお辞儀してお願い申すもんだ」それほどの気持で中途入学してきた川上忠一は、しかし、いきなり低能組に編入されたのである。校長はそれも彼の権限として、汚れくさったその子の通信箋を一瞥いちべつすると何らの躊躇ちゅうちょもなくこの教室にあらわれ、一個の器物を渡すかのごとく簡単にそれを杉本の手に渡そうとした。杉本はむっとして校長の顔を注視した。すると彼はその時はじめて腰の上に組んでいた後手をほごし、それを上下に振り動かしながら口を切った。「智能測定はせなけりゃならん……たのむよ杉本君、まあとにかく君い……」そう言って渡された子供なればこそ――と杉本は思うのであった、校長が無雑作に決めた低能児の認定を、いわゆるビネー・シモン氏法によってくつがえしてしまいたいのだ。もしもそれが、当代の実験心理学が証明する唯一の科学的な智能測定法と言うならば――。杉本は測定用具と検査用紙を教卓に投げおき、「なあ川上――」と子供の頭に手をおいた。「お前のちゃんはどんな仕事を毎日してんだ?」一日の仕事に疲れきってはいながらも、彼はその子の冷たそうな唇を見つめて答えを聞きのがすまいとするために、ぶるぶると身体を緊張させていた。
 川上忠一は首をすくめて、できるだけ教師とその視線を合わすまいとしていた。彼は徐々にその眼を窓の外に移して行った。放課後まったく子供のいなくなった校舎は、しーんと静まり、かえってそのしーんとした静寂が耳につくのであった。
「え? 川上?」とさらに教師は答をうながして彼もまた窓外のうすれ行く夕陽の色に眼を移していた。川上忠一は何か決心したようにあわてて着物の襟をかき合せ、上眼づかいに教師を見据えた。
「さっさと片づけて早く帰るとしようぜ」と杉本が言った、子供はぶるぶるっと両方の掌で顔を擦り、にたっと笑ってみせた。恥しがっていたのだ――それだのに、なぜこんなに執拗しつこく促しているのだろう――職業がその子の智能を直接的に規定しているという理由からだけなのだ、そしてそれが検査要目の最初の項にあげられた設問だからである。杉本は狼狽ろうばいしてそれをひっこめようとした。
「言いたくないんだったら……」
 川上忠一はうるさげにそれを途中でえぎると、たたきつけるようにがなった。
「船だよ!」
「船? 船とはどんな船だい?」
「ちえっ――わかんねえな」そう舌打ちして子供は度胸を据えるのであった。さあこうなったら何でもしゃべってやるという風に、教師の顔を正面に見て語気をあらくした。「船は船じゃねえか! 大河をあっちい行ったり芝浦い行ったりする船じゃねえか。あたいがぎーっとかじをおしてんだ、あたいだって――」川上はそこでうすい唇をつきだし早口になっていた。「まちがわねえでくれ、泥船じゃねえんだからな、ちゃんとした荷船でよ、あげ羽丸てえんだ。でも、何だってそんな巡査みてえなことばかし聞くんだい?」杉本は蒼ざめて吸いかけているバットを揉み消した。「あたいらは正直もんだよ」と川上はさらにつづけた。「うそなんてこれっぽっちも言いやしねえよ、さ、早くかえしてくんな」
もうかるかい!」杉本はそう言って話題をらそうとした。
「儲かるもんか!」川上忠一は眉根をしかめてそれを即座に否定した。「発動機に押されっちゃって、からっきし仕事がまわってこねえんだよ、遊んでる日がうんとあらあ、遊んでてもしかたがねえんだけんど、何しろ仕事がねえんだからなあ、ちゃんだってつらいし、あたいだって――」そう雄弁になってぶちまけだした子供の言葉を、杉本はじいっと聞いていることができなくなった。彼はほこりと床油の臭気が立て籠めていることに思いあたり廻転窓の綱をがちゃりといた。夕映えの反射がそこで折れて塗板の上をあかるくした。「先生えあたいなんかはなあ、まちの子供みたいにあそんじゃいられねえよ、おっかあの畜生が逃げっちゃったんだ、そうよ、船は儲からねえからよ。儲からねえたって言ったって……」教師は照れかくしに教卓のまわりを歩き、ぱっぱっと煙草をふかしつづけた。落第坊主即低能と推定されて自分の手に渡されたこのせこけた子供が、こんなによどみなく胸にひびく言葉をまくしたてるのだ。よしそれならば――と杉本は真赤な顔を子供に向けなおし、まだわめきつづけようとする口を強制的にでも止めてしまおうとした。
「よし!」杉本はどしんと床を踏みならした。「よし! もうわかった、それならば――」彼のそのいきおいにはっと落第生に変化してしまった川上忠一は、亀の子のように首をすくめぺろりと細い舌を出した。しまった――と思ったがすでにおそいのである。そして彼自身もその刹那から職業的な教師にかえったのも知らずに、「それではなあ川上、これから先生が訊ねることはどんどん返事をしてくれよ」と言いつづけていた。それから彼は測定用紙をひろげ、三歳程度の設問をもったいぶって拾いだしていた。
コノ茶碗ヲアノ机ノ上ニオイテ、ソノ机ノ上ノ窓ヲ閉メ、椅子ノ上ノ本ヲココニ持ッテクル――んだ」
 おそろしく生まじめな眼を輝かした教師に、川上忠一はへへら笑いを見せて簡単にその動作をやってのけた。
「その調子!」と杉本は歓声をあげた、その調子――そして、このもったいぶった検査を次々に無意味なものにたたきこわしてしまえ。彼はそう思って、「ではその次だ」と呶鳴った。
「モシオ前ガ何カ他人ノ物ヲコワシタトキニハ、オ前ハドウシナケレバナランカ?」
「しち面倒くせえ、どぶん中に捨てっちまわあ――」
「え? 何? なに?」杉本はすでに掲示されている正答の「スグ詫ビマス」を予期していたのだった。だがこの子供の返答は設定された軌道をくるりと逆行した。杉本は背負い投げを喰わされたようにどきまぎした。「え? 何? なに?」と彼は繰りかえした。「もう一度言ってごらん?」
どぶに捨てっちまえば、誰がこわしたんだかわかりゃしねえだろう?」と川上は訊きかえした。
「じゃあもう一つだけ――」杉本は何度も使った質問をそらんじながら今度は子供の顔を注視するのであった。「モシオ前ノ友ダチガウッカリシテイテオ前ノ足ヲ踏ンダラオ前ハドウスルカ?」
「ちえっ! はり倒してやらあ……」
 そのはげしい語気にかれて杉本は思わず「なるほどなあ」と声をあげ、検査用紙をばさりと閉じてしまった。すると、川上忠一の痩せとがった顔がもう全然別な憂愁ゆうしゅうおおわれていた。彼は暮色の迫った窓を見つめだした。コンクリートの教室はうす墨いろに暮れていた。ぶるっと身ぶるいを出して彼は血の気の失せた薄い唇をめ今さらのように教室を見まわした。それから彼は、もはや教師の存在を無視してさっさと腰をあげた。「暗くなってきたなあ――」と杉本は一言つぶやいた。川上忠一はその声にまた突然学校を思いだしたらしく、気味わるげに教師の顔色をのぞきこむのであった。しかし、こんな夕方になっては、どうしてもこれ以上先生の意志に譲歩することができないと思った。「あたいはもう失敬するぜ、何しろちゃんが心配するからな」とつぶやいて自分の鞄を手許に引き寄せた。引き寄せてはみたが、長い間学校にいじめつづけられてきたこの子供は、教師の顔色をいっそう覗きこみながら、身体は扉口に進め、首だけはうしろに向いて動かないのであった。杉本は鼠色になった教室の壁を見つめてぼんやりしていた。とうとう扉に手をかけた川上忠一は、決心してわめいた。「あたいは帰るよ、いいかい? ちゃんの晩飯をかんきゃならねえし――それに、あたいの家がなくなっちまうからよ!」それを喚きおわるが早いか、彼はぺこんと習慣になった敬礼を残して、扉をはね開けた。一足教室の外に出て教師の眼をのがれたと思うと、子供は一ぺんに重荷をおろした気がし、あとは綱を断たれた野獣のような猛々しさを取り戻して長い階段を一気に駈け下りるのであった。
 杉本は暗くなった教室にしばらくそのまま頬杖をついてぼんやり考えていた。彼の意気込みにもかかわらず川上忠一の智能指数はやっぱり八〇に満たないのである。測定したあとの、あのもやもやした捉えどころのない不愉快が今はことさら強く彼の頭に噛みついてくるのであった。それが真実に子供たちの運命を予言しうるものとすれば(実験の結果によれば――と当代の心理学者が権威をもって発表する)コノ指数ニ満タザルモノハトウテイ社会有用ノ人間タルコトヲ得ズ。「この社会! この社会!」と杉本は繰りかえした。えらい心理学者や教育学者たちが規準にした「この社会」と、そこから不合格の不良品として選びわけられ、今は彼に預けられた、低能な子供たちの住む「この社会」とは、同じ「この社会」でも社会の質が異っていた。そっちの社会で要求している……川上忠一も素気なく拒否したのだ。そうして彼は抗議する――何だってそんな巡査みたいなことを訊くんだい? 杉本は自嘲的に自分の職業を三つの単語で合唱する――「べからず、いけない、なりません」そいつにぐわんと抗議して川上忠一は教室をとびだして行った。一本お面を喰ってふらふらとまいった杉本は、…………………………、「…………、…………!」と叫びたい気持になってきた。杉本はうす闇の中でにやり歯を出して笑い、さておもむろに腰をあげた。すると、朝の八時からこんな日の暮れまでいらだてつづけていた神経が一度に崩れ、身体がくたくたに疲れているのを発見した。その杉本を、図体の大きな使丁がこれもいらいらしながら捜しあてたのであった。
「杉本さん、大変だぜ」と使丁がどなった。
「横着な面をするない」と杉本もどなりかえしていた。
 昇降口に仁王立ちになっていた使丁はむっとした。帰り仕度をしてしまった杉本も、それを見ていっそうむっとした。年がら年じゅうこづきまわされている彼らは、これだけは自分の自由意志だと思いこんだものがぐわんとはばまれるその刹那に、想像できないほどの敵愾心てきがいしんあおられるのであった。こんな平教員にめられるものかという風に使丁は明らかに冷笑を浮べて、「へへえ……これだよ杉本さん」と自分の首筋をたたいてみせた。「子供が紛失してお前さん、親爺さんが泣きこんできてらあ」
「なにいッ?」と杉本は棒立ちになった。
「お前さん子供がどうだっていいと言うならば、校長さんに話さにゃならんが……」
「いや――」と杉本は使丁を停め「俺が捜してみせる」と呶鳴った。そして小使室に駈けこんだが、彼は自分のその行動がきゅうに忌々いまいましくなってそこから振りかえりざま声を荒くした。
「か、勝手にしろ」
 だが、小使室にしょんぼりしていた川上忠一の父親は、一ぺんに神経を取り戻して「先生さまあ――」と悲鳴をあげた。「あとにも先にもたった一人の伜でがして、なあ、先生さまあ……」
 彼はそう言って、胸にみなぎっていた心痛のはけ口を杉本に向け、潮くさい身体をやたらに折り曲げるのであった。
 学校の門を出てからの子供が、それぞれの家に辿たどり着くまでの責任はやっぱり教師にあるというのであった。しかし今日の責任は、いやがるその子供を日没まで引き止めていただけに、杉本はいても立ってもいられぬようにそわそわした。「先生さまあ――」とその父親はもう子供がなくなったように口説きつづけた。「あの野郎は親思いで今日まで一ぺんも心配かけたことはねえのに、はあ、今日という今日はどうしたことでしたか……」
 街はすっかり暮れていた。二人は肩を並べて歩いた。親父は行き交う子供の顔をいちいちのぞきこみながら、いなくなっては生き甲斐もないという大切な子供について、語り止まなかった。
「あっしらは船の商売で――だもんで、永代橋さ戻ってみたらば野郎の姿が見えねえ。はて、らんかんの下にでもかがんでるかと、あの長え橋を三べんとこ往復しやした。三時の約束でしたが、ああ、久しぶりに仕事にありついたばっかしに、ちっとばかり慾を出して、つまり天罰ちもんでしょうか?」浅野セメントから新大橋をわたり、船頭はも一度芝浦まで歩こうと言うのであった。「まず交番に届けておこうではないか?」という杉本を彼は手をふって否定し、「交番ちものは――」と説明した。「あっしら風情には、つまり性に合わねえもんで」それでは永代橋から電車に乗ろうという杉本に今度は懇願した。「野郎も毎日歩いてるでがす、今日はひやくも持ってねえから野郎も歩いたでがしょう。見落しちゃっちゃ可愛そうでがすからなあ」そして、橋という橋にさしかかると親爺の歩調はきゅうにのろくなり、そこえらの溝水にもやっている船を注意ぶかく覗きこむのであった。しばらくうろうろして、そこで影さえ見あたらぬのを知ると、親爺は得態の知れない都会の底にあがいている伜を思い描き、腹の底から溜息を絞った。銀座では人間の河が舗道を洗っていた。その人波に逆って行く二人はいつの間にかぴたり身体を寄せ合っていた。「先生さまあ――」と親爺は行き交う人間の顔に眼を光らせながら、なおも語りつづけた。「忠の野郎ははきはき勉学してますかね? はあ、今日様こんにちさまを生きるにゃあ学ほど大切なものはねえ、あっしもせめては発動機の運転手になりてえもんだと、そうっ――と、都合十六ぺんがとこは試験を受けやしたが、はっはっは……学がねえものはだめの皮よ。あっしゃ決心したんだ! 忠の野郎はたとえ水を飲んでも学校さあげねばなんねえ、と、ね? よろしく頼みますで先生さま、ああ、えらく立派な人ばかし歩いてるが、こんな人はさぞや学があんでしょうなあ――先生様あ?」
 ゴー・ストップに遮られた親爺は、淀んだ人混みの中であるのもかまわず、「ああ学さえあれば!」と絶望的にたからかな叫び声をあげ、めちゃくちゃに明滅しているネオンサインのあくどい光が、痩せた船頭の顔を異様に彩色するのであった。

     四

 不仕合ふしあわせに育った子供の一人である塚原義夫を、ちっとばかり幸福にしてやるために――つまりは彼の特質である哀しい注意散漫を削ってやるための一つは、〇・五しかない視力を近眼鏡で補ってやることであった。その子のためにこれくらいのことは当然だろう――と教師は決心しそれから父親宛に手紙を書くのである。「御子供さんの勉強が一段と進むことは、まったく火を見るよりも明らかなことで、義夫君も大よろこびをしていますから――」だがその日のうちに、その父親はおそろしく達者な巻舌で、湯気を立てながら我鳴りこんできた。
「べらぼうめえ、そんなおあしがころがってたらば、だなあ――こちとら親子がな、おい、先生! 三日がところおまんまにありつけようというもんだ。こんな餓鬼にお前、眼鏡なんてしゃら臭くて掛けられっかてんだ。学校で要るってならば、お前さんさっさと買っとくれ!」
 うすら禿の頭の地まで真赤にし、ぱっぱと唾をの合間から撥きだしながら、そんなにも昂奮してみせるのであるが、じつはこの父親も、一度は眼鏡屋を訪れてみたのであった。しかし教師の前では勝手にしやがれと自暴自棄にわめきたてていた。「それではあんまり可哀そうだ――」と杉本はつい口をすべらかして義夫のために骨折ろうとするのである。ところが親爺はこのもののわからぬ教師を今度は本気で呶鳴りつけた。
「か、かあいそうなのはこちとらじゃねえか! 腕を持ってて腕が使えねえこんな娑婆しゃばに生きながらえているこちとらじゃねえか! 子供のことまで文句をつけてもらうめえ」
 子供は学校にあげねばならぬおきてだというから上げている。数年前、米屋がますを使用していた時代には彼は錚々そうそうたる職人として桝取業をしていた。彼の腕にかかれば、必要に応じて、一斗の米が一斗五升にも八升にもはかりかえられた。それだのに、何の因果でか、ある日から忽然こつぜんと、米屋という米屋はキログラムを使わねばならなくなった。「この腕がお前――」と彼はとうとう嘆きだした。「使い道がねえじゃねえか。なあ義――」と、こんどはきょろきょろしている伜に向い「お前も可哀そうな餓鬼だよ、震災じゃあ、おっ母がおっ潰されっちまうしよ。しかし何だぞ、眼鏡なんてしゃら臭くって掛けられるもんじゃねえからな」
 紙芝居の拍子木がカチカチひびきわたって、ろじ裏から子供たちがぞろぞろ集まってきたが、一銭玉一つも持っていない子供はそこでも除け者にされるのであった。長屋の中は暗くじめじめしていた。それに較べると学校はひろく勝手気ままに跳びはねることができるのだ。放課後になると、これは子供より何よりも、校舎を汚されることだけが自分のくびと同じくらい怖ろしいと観念している使丁たちに階下の遊び場を追いまくられ、子供らは吹きっさらしの屋上運動場に逃げあがって行った。そこでは、家に帰ってもつまんねえ――と指をくわえる子供らが、犬ころのようにたわいなくふざけちらしていた。「先生、あたいも遊んで行かあ――」と塚原義夫は父親と別れ、教師の腕にすがるのであった。うす暗い階段を螺旋らせんまきに駈けあがり天井を抜けると、ささくれ立ったコンクリートの屋上に出る。「おーい」と塚原がわめいて跳ねあがる。するとたくさんの子供が四方からばらばら集まってくる。彼らはそこに現われた教師を見て心のつっかえ棒を発見し、うれしくてたまらなくなるのだ。わあわっわ……と叫んで、教師の首といわず肩といわず、およそぶら下り触れうるところに噛りつくのであった。よだれと鼻くそと手垢をこすりつけ、なぜかそうして満足し野方図のほうずにはしゃぎまわった。
 頑丈な金網をその周囲に高々と張りめぐらしている屋上運動場は、それだけで動物園の大きいおりを連想させた。そこだけが日没まで彼らにとって唯一の遊び場所になっていた。けれどもそこで一あばれすれば、初冬の陽がたちまち傾き、吹き抜ける風が目立って冷めたくなるのである。子供たちの唇はいちように紫色にかわる、その冷めたさを撥じきかえしてやろうという気力はなかった。ただ変なしかめ面をして黙りこみ、しかたなしのように金網にへばりつく。すると網の目から、帰らねばならぬ自分の家が見える。汚れた場末の黒く汚れた屋根の下に自分の家を考えていよいよ不機嫌になるのだった。それが彼らに幸福かどうかは判らないが、杉本は一刻でも多く子供だけの世界に彼らを引き止めようとする――
「阿部、阿部――」ひょうきんな、さい槌頭づちあたまの阿部が「何でえ――」と答えながら教師の方へふりかえる、「お前の家はどこにあるんだ?」
「あたいんか? あたいん家はねえ」と阿部は少しでも高くなって展望をきかせたいと思い、金網にすがってこうもりのようにぶらさがった。「ほら、あそこに、ほら白い屋根が見えんだろう、そいから深川八幡様だ、あそことあそこの間にあんだけえどなあ……」彼は何とかして適確にそれを示したいと伸びたり縮んだりしたが、結局どれもこれも同じ黒い屋根でいっしょくたになり、ちえっと舌打ちして「あんまり小っちゃくて見えねんだよ、先生!」
「先生――あたいん家を教えてやらあ」と次の子が造作なく調子に乗ってきた。「ほら、あっこにでかい池があんだろ? あれが木場でよ、あの横にあんだが……鉄工場が邪魔になって、よくねえや」つづいて月島の方角に面した金網では、じだんだふんでいる子供が今だとばかり懸命に説明するのだった。「あたいん家のちゃんは、あのでかい工場だ、よう――お――いみんな来てみろ――な、けむがまっ黒けに出てやがらあ。へん、あたいん家の父はえれえもんだ、毎日あの工場で働いてらあ……」
 その工場の黒煙だけは、たくましく京橋方面の濁った空気にとけこんでいた。都会の屋並をなでる煙は河の向う側から逆にこちらになびいていた。隅田川がその間に白々と潮をはらんでくねっていた。「寒くなってきたからもう帰ろうよ」と杉本は子供たちの顔を見わたした。ひと塊の――家にかえってもさっぱりおもしろくない子供たちは、その声にぎょっとしてまた顔を曇らせた。
「先生ももう帰えるか?」と一人が訊いた。
「わ――あい、先生え、たすけてくれえ?」そう悲鳴をあげて、元木武夫がその時屋上に駈けあがってきたのであった。彼は、びっくりして飛びすさった子供の隙間をまったく一またぎに跳ねこえて、わっと教師の胴っ腹にしがみついた。だらしのない日ごろの唇が今は両方にきりっと引き緊り蒼ざめた頬がぴくぴくひきつっていた。せわしく肩を上下させたはげしい呼吸が静まるまでには、しばらくの間があった。
「どうしたんだ?」と杉本がたずねた。
 そばにいた相棒の塚原義夫は、元木の頸に手をかけ、その顔を覗きこみながら断定するのだった。
「またお前、おっ母あにいじめられたんだな。お前えばかだい、ちえッ、学校休むやつがあるけえ――」それから彼は呪わしいことの一つ言葉を真顔でつぶやいた。「八幡さまにお前えはのろわれてんだぞ」
 元木武夫はまのびのした平べったい顔で、眼尻の下がった瞼をぱちくりさせていた。彼を取りまいた子供たちは、なぜかそれにひどく同感してふんふんうなずき、口の中で低く呟いていた。「そうだよ、そうだよ」と言って骨ばった塚原の手が元木の肩をおさえた。彼は軟かく二三度それを揺ぶって「お前はな、もうせん、八幡さまの池で、よ、ほら、亀の子を盗んだじゃねえか、え、そうだ、きっとお前そいでのろわれたんだ」「ちげえねえや」「おっかねえなあ」とそれが肯定されて行った。
「ば、ばか!」とたんに元木は叫んだ、「あたいは小僧い行くんがいやなんだ、よう!」
 ほんのたった一日この子が欠席した間に、十二歳になった元木武夫の運命が旋回しようとしていた。それもかえっていいだろう――と思いながら、「あたいは小僧い行きたくねえだよう――」と言って腰を揺ぶられると、手に負えない子供であるが、杉本は行かせたくないと決めるのであった。義務教育だ――そう言ってそんなむごい両親を突っぱねねばならぬと考えた。元木武夫の両親は揉手もみてをしながら、やがて屋上にあらわれてきた。
「へへえ、これは先生さまあ……」顎のしゃくれた女房がお世辞笑いをしてしなをつくるのであった。「ちっとばかり御相談にあがりましたんだが……」と子供によく似た父親がそのあとを受けた。元木武夫は教師のかげに身体をかくしてしまった。すると父親の顔がぐっと向きなおった。「お前さんは――」と彼は杉本に喰ってかかった。「あっしの伜にとやかく口を入れる権利はあるめえ」「順序を立ててお話しなくっちゃあ何ぼ先生さまでもねえ、まあお前さん」女房はそう言って、ますます杉本にへばりついた子供に、じろりと凄い一瞥いちべつをくれた。「まったく今日このごろはひでえ不景気でして、ねえ、へッ、子供と遊んでてたいした月給を貰えるけっこうなお身分には不景気は素通りでしょう、が、さ」すると親爺が一声合いの手を入れるのであった。「こちとらはやりきれねえだ!」
 話はまわりくどく、時々言葉のきれはしは風に吹さらわれるのであるが、日傭労働者の父親は一人でも口を減らさなければやって行けないと言い、継母はあんまりこの子も親の恩知らずだと高尚な理窟をこねた。二三年この方電気ブラン一杯もひっかけられないと言う親爺は、小僧にほしいというこんないい口を、武の奴めが嫌がるはずはねえ、聞いてみれば先生に相談しなきゃあと小生意気を言いだしやがった。…………………………………………………はねえんだと一日責めたらば、元木武夫は憤然とこれ、このように学校ににげこんできた。餓鬼のくせに驚き入った野郎だが、一体全体………………………があるもんかどうか――「聞かしてもらいてえもんだ。あっしにとっちゃ生きるか死ぬかの大問題なんだ」と親爺は胸を張って一あし詰めより、ちらりとその女房の顔色をうかがった。「どうしたもんでしょうかねえ、先生さまあ」と今度は女がきゅうに悲しそうにしおれてみせ、無精ひげに包まれた杉本をねっとり睨むのであった。杉本はぶるぶる身体がふるえてきた。手を変え品を変えして今はこの教師をうんと言わせさえすれば、万事うまく行くとしているその親たちに、彼の防備は役立ちそうにも見えなかった。しかし、顫えて自分の身体に抱きすがった元木武夫の腕には、だんだんと必死の力が籠ってきた。ひ弱い子供ながら、この乱暴な親に押しひしがれずよくもここまで逃げてきてくれた。杉本はそう思い向きなおった。
「それで本人はどうだと言うんですか?」
「そこがそれ――」と女がすかさず答えた、「先生さまに納得させてもらいさえすれば……」
「あたいは、だぞ!」
 元木武夫のその声が夕風をさっと断ち切った。
 だが、その叫び声と同時に女は髪をふり乱した。「こ、この餓鬼い!」とうめいた、「手、手前はさっき、神様の前で、承知しましたとぬかしたじゃねえか、継母だと思ってめやがったなあ……こら、畜生ッ! 武!」ぐらっとひっくりかえりそうになった雲行きに、父親もまた喚きあげ「こん畜生ッ! 親を親とも思わねえのかあ――」その上父親はのぼせあがって今は伜にとびかかり暴力をふるおうとした。元木武夫は冷いコンクリの上を逃げた。扁平足へんぺいそくのはだしが、吹きっさらしの屋上にばたッばたッと不気味な音を立てていた。見ていた子供たちはさっと道を開いて、「も、と、き――にげろやにげろ」「つかまんな!」と応援するのであった。

     五

 昇汞水しょうこうすいに手を浸しそれを叮嚀ていねいに拭いた学校医は、椅子にふんぞりかえるとその顎で子供を呼んだ。素っ裸の子供は見るからに身体を硬直させて医師の前に立った。彼はまず頭を一瞥して「白癬はくせん」と言った。それから胸をなでて「凸胸」下腹部をおさえてみると、低いがよく透る声で「ヘルニヤ」と病名を呼ばわった。側に控えていた看護婦が身体状況調査簿に万年筆をはしらせてすらすらと書きこんで行った。
「よし!」
 突きはなされた子供はほっとした微笑を浮べて、医師の前をとび退く。そして検査場の隅に脱ぎ棄てておいた自分の着衣を捜しだす、垢に汚れたシャツにはぼたんが一つもついていなかった。
 椅子から腰をあげた医師は、昇汞水に指を浸してゆっくり消毒しながら、後手を組んでつっ立っている校長に話しかけた。
「今の子の家庭は何でしょうかね?」
 校長は子供に混っている杉本をじろっと見て、「君い――そのう……」と訊ねた、「今の子のうちは何をしとるんかね?」
 ずたずたとなった三尺を捲きつけていたその子はふいにその手を停め、やぶにらみに受持教師の顔色をうかがっていた。杉本は「さあ――」と首をふって答えなかった。すると看護婦が気を利かしたつもりで、調査簿に書きこまれた家庭職業を報告した。
「金偏に芳――かんばしいの芳が書いてありますが、私には読めませんわ」
 そう言って彼女も白い顔をあげ、杉本の方を見て答を求めるのであった。
 子供はそんな風に自分の家のしがない職業を、多くの人の前で詮索されるのが嫌でたまらないのである。彼は俯向いていた。杉本はかがんで子供の三尺をしっかり結んでやる。お前は教室に行ってよしと言って、その部屋から外へ出してやった。それから大人たちの好奇心を満たさねばならなかった。
かざりの職人ですよ。つまり鳶人足なんですが、今ではごたぶんに洩れず半分は失業してると同じことで……」
 杉本はそう答えて、次の子供のシャツを脱ぐ手だすけにかかった。
 椅子にかえった医師は、尖った顔をぐいと引いてまた次の子供を呼ぶのであった。
「さ、次の番!」
 待ってましたとばかりに久慈恵介はすっぽり丸裸になり、元気よく医師の前に立った。
※(「耳+丁」、第3水準1-90-39)聹栓塞ていでいせんそく、アデノイド、帯溝胸――ふん!」医師は眼鏡を光らせて、はじめて感情をふくめたよろこびの声をあげた。
「おお、これはみごとな帯溝胸だ、ごらんなさい、どうです?」
 そばにいた看護婦は立ちあがってきたし、校長はたるんだ瞼を引きしめた。
「あたいん家はね、東京市の電気局だよ」と久慈は元気よく金切声をあげた。
 医師はその声を無視した。彼の興味は家庭の状況よりも、ほとんど畸型きけいに近い久慈恵介の胸にかかっていたのだ。彼はすかしてみたり、深さを測ってみたりした。そうしてますます感心し「ふうん――」と鼻を鳴らすのであった。
 順番を待っていた子供の中から、っかんだ声が洩れてきた。
「久慈い――ちんちん、ごうごう、おあとがつかえています。久慈い――おあとが閊えているよ、早くかわんな」
 それを聞くと久慈恵介はきゅうに全身で真赤になった。彼はまだしきりに撫でている医師の手をふり払った。自分自身の体の醜さに気づき、それと父親の仕事が嘲られた口惜しさがいっしょくたになった。彼は素っ裸のまま声を立てて泣きだした。
 裸体になったとき、その子供たちの不幸が一度にさらけだされるのであった。しちむずかしい病名が、まっ黒になるほど書きあげられた。医師はそれによって今さらのごとく感心してみせた。「健全な精神は健全な肉体に宿る……昔の人はいいことを言ったもんですなあ、え? そうじゃありませんか?」すると校長もそれに答えるのである。「こんな不健全な身体では智能発達の劣るのもむりはありませんですな、いや、まったくもって家庭が悪い!」
 寒い日で子供たちの首筋には毛孔が立っていた。袴などはもちろんなかった。上履うわばきさえ買ってもらえない彼らは、床油を塗ったので、油がべとつく板の上をべたべた歩いた。さいわいに彼らは不幸に馴れきっていた。直接不愉快な場所を脱けだすとすぐにそれを忘れた。そして金切り声を天井にひびかしたり、でたらめな節まわしに口笛を吹きあげたりして、およそ無意味な騒音を立てながら自分の教室に雪崩なだれこんで行った。
 白い壁が三方を立てこめているこの教室にはいると彼らは、何か自分の家に辿たどりついたような安心を覚え、鼻唄まじりに周囲を見まわすのであった。教卓に頬杖をついた杉本も、子供たちとお互の面をあらためて見合わせる――歯の抜けたあとのように、元木武夫の席が空いていた。無力な教師は、顔をしかめてぼんやりしていた。その顔を見て子供たちはことさらおどけ、眼を釣りあげたり歯をむいたりしてみせる。どうかして朗らかになりたいと子供たちも焦るのである。
「先生え――」ぽかっと、古沼に浮きあがった水泡のように、思いがけなく塚原義夫が立ちあがった。「先生え、修身、修身――また修身をやろうよ、よう!」
 すると、にたにたしながらすぐに喋りだす元木武夫はもういなかった。もったいぶってしゃしゃ張りだす例の久慈恵介は、先刻の衝げきがまだ彼の頭から完全に消えず、赤らんだ瞳をきょとんとさせているだけであった。涎を垂らしている子供、青っぱなを少しずつ舐めている子供、うしろにのけったり、机にうつ伏せたり、脚を腰かけの横にぬーっと出してまるで倒れかかった自分の身体を危く支えたりしていた子供たちが、徐々にざわめきだした。一番うしろの机にいた大柄の子供が、突然「ふはあ――」と欠伸あくびをした。子供たちはいっせいにそちらを振り向いた。三つの年に脳膜炎をわずらったその子は、命だけは不思議に助かったが、いつも天井を見ていた。無類に模範的におとなしい彼は何を聞いても耳にはいらなかったし、何も言いたいことを持っていなかった。とうとう塚原はれて足を踏み鳴らした。
「先生――修身だってば、さ!」
 川上忠一が廊下側から立ちあがった。
「あたいが修身をしてやらあ」
「ちえっ、手前の話なんか聞きたかねえや」と目玉をひんむいた錺屋かざりやの子が叫んだ。
「やれ、やれ」と塚原は音頭を取った。「先生、邪魔になるからそこを退きな、川上が修身をやんだからさ、早く退きな」
 川上忠一は右肩をいからかして教卓の前に直立不動の姿勢をつくり、ぺこんと頭をげた。それから薄い唇をぺちゃぺちゃと舐めてみんなを見まわした。
「あたいが三つの時のことなんだ、しんさいがあってさ、関東大震災でじゃんじゃん家が燃えちまってさ」
 しんさい――と聞いて子供たちの呟きがなぜか一時にとまるのであった。何かこれら不幸な子供の胸底にひっそり潜在していたものが、その一語でぐらっとひっくりかえり、そのぶ気味さに当わくしたような沈黙であった。杉本は窓の外に身体をらして雲のすっとんでいる怪しいこの空模様が川上忠一にこんな話題をおもい起さしたのか、それとも年に一度の身体検査にひねくりまわされた彼らの皮膚の、いやな感覚がそうさせたものかと思い、話手の顔を見なおした。白眼をいて天井の一角を睨まえている川上忠一の尖った顔には深い隈が刻まれていた。しばらくそうやっていて、そして彼はやっと、これから喋ろうとする状景を再現した。彼は歯ぐきをむきだしてにたりと笑った。
「あのね、そん時あたいのもとのあげ羽丸も焼けちゃった。あたいは死にもの狂いで河にとびこんだ。深川は危ぶねえってんで、ほら知ってんだろう? 東清倉庫に避難したんだよ。あそこは石だから燃えねえや。そいでもっていっぱい人が逃げてきてよ、あたいはそん時おっ母がいたんだぞ。お前東清倉庫は八幡様の縁日よか人がうじゃうじゃしたんだよ」川上はふいと口をつぐみまた天井を睨んで次の記憶を思い描きだした。聞いている子供たちは下手な話手の言葉から、もはや遺伝になっているその凄惨な状景を描き、おびえることに満足していた。「日本刀を持ったおっかねえ人がお前え、…………………だなって、こうだ」川上はさっと一太刀浴せかける恰好を見せた。「そいからこんなでっかい針金でもってね、………………………………………………、……………………………………………………」しかし、その時の手ぶりは途中でわなわなふるえだし彼は蒼ざめて自分から溜息をついてしまった。「ああ、おっかねえ――」
「手前、見てたのか?」と塚原がせきこんだ。
「見てたとも――」川上はそう答えて、はずむ呼吸を抑え、傲然ごうぜんといい放った。「あたいはそん時三つだったんだ!」
「そ、そいから? そいからどうした?」
「そいからお前、大河に………………………………」
「死んだんだなあ――」がっくり首を落しいま一人の子が痛々しそうに呟いた。川上忠一はそれには見向きもせず、今はその話に自分から夢中になってきた。
「手前も……だろう――って言われた時にゃあ、あたいもきもっ玉がふっとんじゃったぞ。活動写真たあまるっきり違うんだからな」
 窓側の一番前にいるさい槌頭の阿部が、その時がたがた立ちあがり、当てずっぽうに杉本を呼ぶのであった。
「先生え? 先生!」
「うるせえ、すっこんでろう――阿部!」
 話にわくわくしていた塚原が、半畳はんじょうを入れた阿部にがなりつけた。彼はとびだして行くが早いか、その小さな子供をつき倒した。
「頭でっかち、すっこんでろ!」そう大喝して、くるっと川上に向きなおりはげしく促した。「そいで……そいで、それからどうした?」
 ところが倒された阿部はむっくり起きなおって、じろじろ教室じゅうを見わたした。彼は後の方の机にちょこんと腰を下している杉本を発見した。阿部はぽんと跳ねあがりめくらめっぽうのはやさで杉本の頭に抱きついた。
「先生、先生ッ! 大変だ、柏原が、うんこを洩らしちゃった、うんこ――」
 杉本がようやく腰をあげると、阿部は拍子をとって床を踏みならし、節おもしろく叫ぶのであった。
「あ、うんこだ、うんこだ、柏原うんこだ」
 みんな一度にがたがた立ちあがった時、塚原義夫が川上忠一を殴りつけていた。
「やい、手前嘘をけ! あたいのおっ母はおっ潰されたんだぞ、やい!」

「杉本さん、あんまりだらしがなさすぎますぜ、尋常四年生じゃねえんですか、そりゃ掃除をしろと命令されりゃあ掃除もしましょう、しかし何しろ――」そう言って例の使丁はくわえた煙管きせるを取ろうともしなかった。「わしらあこうしていても手はふさがっているんだ、区役所から校長さんのお客様が見えられるはずだし……」
「そうかい、じゃ僕が片づけよう」
 杉本は塵取に灰をすくい、雑巾とばけつをさげて小使室から三階にあがるのであった。
 子供たちは、汚れない机を片づけてしまった。白墨で大きな輪を描いていた。その輪の中心に不覚にも洩らしてしまった柏原富次が、先刻のままじっと腰かけていた。
「今日はこれでおしまいだ、帰りたいものはしずかに帰んなよ」
 だが教師のその言葉に一人として動きだすものはなかった。子供たちは土俵のような円い白墨の輪を取り囲んで、床の上に蹲っていた。行儀よく片唾かたずをのんで、仲間の不幸をいたむように口も利かずに坐っていた。
 杉本は富次の身体を腰から立たしてやった。「腹をこわしてたんだなあ――さあ、とにかくその着物をいで……どら、こっちに来な、あんまり大食いをした罰かな?」
「ちがうよ――」柏原は動かされるままになりながら、一言否定するのであった。「あたいはしんさいおっかなかったんだよ」
 発育不全の柏原富次は、日蔭の草みたいによろけて杉本の肩を捉えた。彼は教師の温かい頸筋に、臭い彼の鼻加多児びカタルのいきを押しつけた。そして汚れた尻からももを拭いてもらい、何か肉体的な幸福をぽっと面にみなぎらし低い声で話しだした。
「あたいんはね、震災に焼けっちまったんだとさ、お店だったんだって――おっ母さんがね、そん時びっくりした拍子に、あたいをんじゃったんだって――だからあたいは地震っ子て呼ばれてらあ」富次はそう言いながら、いつの間にかその細い腕を教師の頸に捲きつけていた。そしてその眼は埃っぽい教室の白い壁に注ぎ、そこにあわれな未来を描きだして喋りつづけた。「ね、父ちゃんが死んじゃったら、おっ母ちゃんは、肺病やみじゃないまた別の父ちゃんを捜すんだってさ、そいからまたお店を出して……お店をね、ああらら……」富次はきゅうに声を低め杉本の耳に口を寄せた。
「校長先生がはいってきたよ、あらら……やんなっちまうあ」





底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
   1970(昭和45)年1月25日発行
※伏字と思われる箇所が「…」で表されています。これは底本通りです。
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年5月18日作成
2005年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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