生きている戦死者

牧逸馬





 背の高い、物腰の柔かい上品な男だった。頭髪は黒く、頬骨が高くて、一見韃靼ダッタン人の血が混っていることを思わせる剽悍な顔をしていた。一九一二年の春の初めである。匈牙利ハンガリーの首都ブダペストから四哩程離れた田舎に、ツインコタという風光明媚な避暑地がある。ちょっと週末旅行などにも好いところで、附近にはヴィスグラッド、ナジ・モロス、ブダフォックなんかと、名前は恐しげだが、景色の佳い遊覧地が沢山あって、ツインコタは丁度その中心になっているから、日曜は大変な人出だ。このツインコタ町へ、今いった見慣れぬ男が、若い綺麗な細君を伴れて首府のブダペストから移り住んで来ている。
 名をベラ・キスと言って、四十歳位いだ。細君は十五程若かった。ツインコタ町の住宅地をあちこち探し廻った末、Matyasfold 街道に面したかなり大きな邸を借り受ける。前に広い庭があって、鳥渡周囲から切り離されたような家である。番地は、マテアスフォルト街一二九番、古城の趣を取り入れて屋根の尖った、灰色煉瓦の建物だった。ここで夫婦は、七個月ほど表面何事もなく、幸福に暮らしている。主人のベラ・キスは、一週に一、二回ブダペスト市へ出て行く。泊って来ることはなかった。相当手広くやっている錻力工場の所有主で、いまは実際の商売からは隠退しているという近所の評判である。
 誰ともあまり親しく往来しないでいる。キスという男は、何処か不気味なところのある人物で、噂によると、いつも細君を相手に心霊学上の議論などを闘わしていたそうだ。天文学にも趣味があるらしく、書斎にはその方面の書物が充満していた。その影響でか、細君の Norma Kiss 夫人も万事神秘好みの女だった。ジプシイの占い婆さんか何かがよく硝子ガラスの玉に見入って、そこに人の運命を読み取ると称する。これを水晶判断クリスタルゲイジングと謂って、西洋の一部信者のあいだにはあらたかなものとされているが、ノルマも、拳大の硝子玉を大事にしていて、それを凝視めては、始終独り占いをしていた。夫婦仲も好く、常に自家用のがたがた自動車で一緒に出掛けていた。良人のベラ・キスがひとりでブダペストへ出る時も、その自動車を自分で運転して行った。
 この匈牙利の錻力屋の親方、Bela Kiss こそは、いまだに欧羅巴第一の怪奇な存在と見られている。ちょっと過去に類がなく、しかも比較的最近の出来事であるが、その割りに知られていない。事件の当時、警察が全力を揮って揉み消したからだ。
 ノルマ・キス夫人は非常な美人である。そのせいだろうか、良人のキスはひどい嫉妬焼きで、夫人に男の友達と親しくすることを厳禁している。匈牙利の南、ダニュウブ沿岸のツイモニイ地方は、昔から美人の産地で有名な処だ。ノルマはこの Zimony の生れで、美人でもあったがまたちょっと、浮気っぽい女だったに相違ない。ブダペストの画家で Paul Bihari という情夫があった。そういう町のゴシップだった。キスが留守になると、このパウル・ビハリが、ブダペストからやって来て、附近にはアカシアの森が多い、そのアカシアの森を二人で恋人気取りで散歩したりする。森の奥へピクニックと洒落て、草に坐って話し込んだりしている。ビハリは眼鼻立ちのくっきりした美青年で、ブダペストでは先ず知れている画家である。同市に、文芸家、画家、新聞記者などの協会で、全匈牙利に勢力のあるオットン倶楽部というのがある。立派な会館があって、毎晩ボヘミアン連中が集まって雑談を交している。パウル・ビハリはこのオットン協会の会員だった。


 知らぬは亭主ばかりなりで、この状態が半年あまり続いた。パウル・ビハリは盛んにツインコタの家を訪れて、ノルマを伴れ出しては附近の名所旧蹟というようなところを遊び廻っている。七個月程経った或日の夕方、キスがブダペストから帰って来ると、家に錠が下りていて這入れない。夜中近くまで庭に迂路うろして待ってみたが、何時まで経ってもノルマが帰って来ないので、キスは窓を毀して屋内に這入った。食卓の上に紙きれが置いてある。恋人と逃げるから何卒わたしのことは諦めて悪く思わないで呉れ――ノルマの置手紙である。キスは発狂せんばかりに、激怒して、その手紙を焼いたのち、近所に住む Litman という銀行員の家へ駈出した。リットマンは、キスの尠い交友の一人である。寝ているところを叩き起して、一晩じゅうこのショックについて掻き口説いている。リットマンこそ迷惑な話しだが、慰めたり、宥めたり大骨を折って朝になった。
 朝になると、このニュウスが Czinkota の町中に拡まって、ゴシップ好きな匈牙利の農民である、いや、大変な騒ぎ。なかには、早晩こういうことになるだろうと見通していたようなことを言って、先見の明を誇り顔にしきりに合点うなずくものもある。Bela Kiss の性格が一層嫌人病的に急変したのはこの日からである。


 世界大戦。匈牙利は独逸に組して聯合軍に当る。鳩の胸のように平和な中欧の山国にも鋼鉄と鮮血の風が吹きまくる。国内上を下への騒動で、壮青年はすべて銃を取って戦線に集まる。ベラ・キスも召集された一人で、夢のようなツインコタの町を後に出征することになった。が、いざ出かける前に、彼は不思議なことをしている。出征ときまると同時に、キスは町の鍛冶屋に注文して、夥しい鉄棒を造らせた。これを窓という窓の内側へ丹念に打ちつけたのである。居ないあいだに泥棒が這入らない要心だというのだ。キスは、細君のノルマに逃げられてから静かな、と言うよりも淋しい平凡な月日を送って来ている。生活も空虚な筈で盗られて困るようなものもありそうに思われない。この厳丈な留守宅の固め振りを見て、近所の人は一寸変に感じたが一週間ばかりのあいだにこの不思議な後仕末も済んで、ツインコタの人々は、おらが町の勇士として、重い戎衣に身を固めて長列に加わって進軍するベラ・キスの姿を見送った。一年半経って、戦争は酣である。
 ベラ・キスの属する聯隊は、セルビアに転戦している。ダニュウブ沿岸セメンドリアの戦いの後、同地の陣営から出したキスの手紙がツインコタに残っているリットマンに届いた。リットマンは六十近い老人で、兵役を免除されていたのだ。早速セメンドリアのベラ・キス宛てに返事を出したが、この手紙は四個月後に、受取人死亡という附箋がついて聯隊から返されて来た。キスは、腹部の負傷が因で、ベルグラアドの野戦病院で死去したというのだ。同時に、ツインコタの町庁へも公式通知が来て、そう発表された。ベラ・キスは戦死したのだ。妻に背かれて可哀そうにあんな孤独な生活を送っていた Bela Kiss が、祖国のために命を捨てたというので、町の人々は一斉に哀悼の意を表している。ツインコタ出身の戦死者の碑にベラ・キスの名が刻まれた。


 丁度その頃、ツインコタからブダペストへ行くアカシアの森で、偶然若い女の屍体が発見された。地下六吋ばかりの浅い穴に埋まって、ほとんど識別出来ないほど白骨化している。指の骨に結婚指輪をはめていて、その内側に頭字モノグラムが彫ってあった。それによって屍体は、維因納の相当大きな毛皮商の妻で、大戦の前年に、二千磅ばかりの現金と、ありったけの宝石を持って、何処の何者とも知れない中年男と駈落ちして以来行方不明になっている女と判明した。一度ブダペストから維因納ウインナの友達へ手紙が来たきりで、毛皮商のほうでも実家でも内々捜しているところだった。が、身許照会をして色いろ審べてみると、夫の毛皮商は戦争が始まって一週間もしないうちに戦死している。で、警察は、戦争の最中で他の仕事も多いので、ここで事件を打ち切ってしまった。ところが、それから三個月程して、またその附近で若い女の屍骸が発掘された。失踪人物の名簿を繰ってみると、今度も、直ぐに判った。イサベル・コブリッツ―― Isabelle Koblitz ――といって商務大臣の姪である。交霊学に凝っていたのが、一九一三年の七月、維因納で行方不明になったとある。
 ブダペストの警察は些かほん気になって捜査を開始した。すると、ベルト市から同じような報告が来て、金持ちの瑞西婦人で Riniker という、これがロウザンヌ市からブダペストへ遊びにきてジェネヴアに妹がある。そのジェネヴアの妹へ手紙を出しただけで一九一三年の十月に矢張りブダペストで失踪した儘になっているというのだ。詳細な人相書が回送されて、頬に小さな赤い痣があり、左の脚がすこし不具で軽い跛足びっこだとある。これを土台に、今まで発見された身許不明の屍体に照らし合わせて往くと、三日許りして、六個月以前に、ブダペストから二十哩程離れた Solymar という小さな村の荒れ井戸から揚った屍体が確かにそれであると判定された。ソリマアは毎年「薔薇の女王祭」が挙行されるので昔から有名なところである。


 警察は躍気になったが、それでも、これらの女の惨死体と、ほかにも多く届け出てある女性の失踪者を一つに結びつけて考えることはしなかった。各独立の事件として、捜査の糸を手繰っている。


 細君のノルマに逃げられて、苦い失望を、味わわされたキスは、元来そういう傾向はあったのだが、すっかり変人になってしまって、家へ籠り切りで一歩も外出しない。打ちのめされた良人として、死人のような日を送っている。もうブダペストへ出ることもなければ、雇人一人置かずに、自分で身の廻りの世話を見て、じじむさく自炊しながら、まるで隠者のような生活ぶりだ。猛烈な女嫌いになって、精神測定学サイコメトリイだの心霊学だのというものに没頭している。はじめからエクセントリックな人間なことはツインコタの人も皆知っていたが、夜になると寝室の窓に灯りが映るだけで、家は何個月経っても閉め切りである。本人のキスはすこしも姿を見せない。病気らしいという評判が立って、近処の人は心配になって来た。申合わせて戸を叩くと、蒼褪めて弱々しいベラ・キスが、寝巻の上に何か引っかけて出てくる。病気で寝ていたというのだ。一人では仕様がないから、面倒を見る者を寄こそう。医者も呼ばなくては――近処の連中がそう言うと、
「私は生きていたって死んだって、同じようなものです。今でも半分死んだも同然ですからねえ。あれに行かれて、何のために生きて往くのか、もう目的がありません」
 意気地のないことを言って、四十男が女学生のようにセンチメンタルになっている。大勢で慰さめて、要らないというのに無理に医師を呼んだ。カルマンという日雇いのようなことをしている老婆をつけて看護させることにする。
 当時のキスの愁嘆振りは狂気じみていた。一室に、逃げた細君ノルマの、残して行った着物やら靴やらを飾って、そこへは Kalman 婆さんも決して入れない。お婆さんは薄気味悪い思いをしながら、三週間ほど親切に介抱した。病気は段だん快くなって、カルマンも暇を取り、キスは元の一人ぽっちの生活に返る。
 ブダペストへもちょいちょい出掛けるようになった。午後自動車でツインコタの家を出て、夜更けか朝早く帰って来る。カルマン婆さんは、興味の中心になっている神秘境に寝泊ねとまりして来たのだから、自然ゴシップ好きな人間が集まって、悲しみに強打されたキスへの同情に以前からの好奇心も加わり、色んなことを訊き出そうとする。お婆さんは一躍花形役者になった気で大得意だ。大いに饒舌った。そのうちにこんなことを言った。
「お前さん達は何も知らないだろうけれど、あたしゃこれで、あの家は隅から隅まで見て来たんだよ。二階の一間に、逃げた奥さんの着物や何かが大事に飾ってあってね、何んなことがあっても、其の室へは這入っちゃいけないと言われていたんだけれど、そんなこと言われると、なお這入ってみたいやね。旦那が眠っている隙に、こっそり忍び込んで見て来てやったよ。その部屋には何のこともないがね、向うにもう一つ隠れ座敷があって戸が締まっているのさ。鍵穴から覗いてみたら、正面の壁のところに、大きな錻力の桶が五つ並べて置いてありましたよ。何が這入っているんだろうねえ――」
「桶って、お婆さん、そんなに大きな桶かい――」
「ああ、両手で一抱えもありそうな――何が這入っているんだろうね」
「ほんとうに、何が這入っているんだろう――」


 近処の山間には酒の密造をやっている者が尠くない。そんなところからでも仕入れて来て、自棄やけ酒をあおっているのだろう――皆そう言い合った。ことによると、ああして戸閉めをして自分で葡萄酒でも密醸してそっとブダペストのカフエあたりへ売り込んでいるのかも知れない。この噂が、唯一人キスと親しくしているリットマンの耳に這入って、リットマンは或日カルマン婆さんが見た五つの桶のことと、それに関する町の人の取り沙汰をキスに話した。
 笑って答えていた。
「面白いことを言うものですな。酒の密造などと、私はそんな危い橋を渡る人間ではない」全く彼は、神経質なほど几帳面な性格だった。「あれは揮発油ですよ。自動車に使う揮発を、危険ですから、五つの錻力の桶に入れて、ああして二階へ上げて置いたんです。識合いのブダペストの石油屋が破産しましてね、何うせ要るものですし、あまり安価いから五桶ほど引き取ったんですが、正直のところ、すこし持て余していますよ」
 これが町のゴシップを消火するに役立って、間もなく人々は、この、キスの家にある五個の錻力製の大きな桶のことを、忘れるともなく忘れた。


 一度リットマンが駈落者の消息を伝えると、キスはこともなげに、
維因納ウインナで幸福にやっているそうですね。それは何よりです。私はいまだにあれを愛していますから、邪魔しようとは思いません。ただ、私は馬鹿でした。それだけです」
 とあとは話題を外らしている。
 が、キスの行動に対するツインコタの人の疑惑の眼は、一そう深まって往った。この頃度びたびブダペストへ出掛ける様子が、何うも怪しいというのだ。いくらか中世紀的なところの残っている、迷信ぶかい人達である。女などは、ベラ・キスは魔法を使うのだとひそひそ私語ささやき合っている。星占学を信ずる婦人を集めて、その一人ひとりに各自の算命天宮図という不思議なものを描いてやっているという。算命天宮図は、人間の生れた星によって運命と命数がきまっている、それを図解にしたものだ。こんな評判が拡まって、ベラ・キスはいよいよ不気味な変人ということになる。
 リットマンの注告で女中を雇い入れた。ヘレナ・ビイテフと言う。二た月ほど働いても給金を呉れないので、催促したら、キスは非常に怒って女中を殺そうというのだ。ヘレナは言っている。
「書棚の抽斗から秘法の鏡とかいうものを持出して来て、卓子テエブルの上に置きました。そして私に、一分間じっとその鏡を見詰めていると、未来の良人の顔がそこに浮かんで来ると言うのです。誰だって、自分は何んな男と結婚することになっているか知りたいに決っていますから、私は鏡のうえに屈みこんで、何時までもいつまでも凝視めていました。と、ふと何かしら身に危険が迫っているような気がして、振返って見ました。うしろにキスさんが立っています。輪結びスリップ・ハットにした綱をそっと私の頸に掛けようとしています。私は夢中で跳び上って叫びながら、力一ぱいに突き退けました。キスは二、三歩よろめきましたが、恐しい眼をして私を白眼んだ、かと思うと、直ぐ気が違ったように笑い出して、大分びっくりしたようだね、冗談だよ、冗談だよと言って綱を床に捨てました。が、決して脅かしや悪戯でなかったことは、私にはよく判っています。キスはほんとに私を殺そうとしたのです。一生懸命に家を逃げ出して、いのち拾いをしましたけれど、あんな恐しい目に遭ったことはありません」


 前のカルマン婆さんのほかに、やはりツインコタの町はずれに住んですすぎ洗濯などをしている老婆があって、これは毎金曜日、キスの家に掃除に通っている。色いろ評判の高い家なので、お婆さんも好奇心に動かされてちょっと屋根裏の通風窓から覗いて見た。問題の部屋で、揮発油がはいっていると称する大きな錻力の桶が五つ、一列に並んでいる。それはいいが、その覗いている現場をキスに見つかって、洗濯婆さんは即座に叩き出された。この時も、何うも揮発油じゃなくて盗んだ酒でも這入っているのだろうと、また一しきり忘れていたゴシップが沸いたが、これが一九一四年五月のことで、八月には大戦勃発、いくら小さなツインコタの町でも、もうベラ・キスどころではない。そのうちに当のキスも、町民の歓呼の声に送られて出征してしまう。万事そのままになった。が、出掛ける前に、さきに言ったように窓には内側から鉄の棒を渡して裏表てのドアも、可笑しいほど厳重に釘づけにして行った。
 翌々年、一九一六年の五月まで、二年間開かずの家である。


 一週間に二回ほどブダペストへ出ると、いつも夜中の二時三時に帰って来る。ツインコタの町はぐっすり眠っている。自家用というとよく聞えるが、襤褸ぼろ自動車である。猛烈な音を立てて大通りを疾駆して行くので、町の人はよく眼を覚まされた。金は、キスは相当持っていたようだ。ツインコタの警察は、色いろの評判を聞くので、ひそかに刑事を尾けて置く。尾行は巧みにキスと仲好しになって、段だん話し合ってみると、別に怪しいところもないばかりか仲なか叮嚀親切な、応揚な人物だ。すっかり友達になる。いつも町の珈琲コーヒー店で話し込んでいる。リットマンと三人でキスの家で歌留多遊びに夜を更かしたりした。それ位いだから、警察のほうでは、もうすこしも疑ってなんかいない。些か変った人物というだけで、ベラ・キスの上に、何事もないツインコタの生活が続いて往く。


 一九一四年一月、冬にしては暖い陽が、ツインコタからブダペストへ出る途中のアカシアの森を照らしている。町から半哩ほど離れた淋しいところである。素晴らしいなりをしたベラ・キスが見事な毛皮の外套を着た若い女と、親しそうに歩いていた。これを見た者があって、細君に捨てられて新しい恋人が出来たのだろうと、またゴシップになった。が、その時一度きりで二人の間に交際が続いている様子もなかった。他に誰もその女を見た人はない。ちょっとブダペストから来て、一日キスと森を散歩しただけのことだろう――町の人が噂し合っているうちに、一月程して、リットマンが、ツインコタから四哩、Bakosfalva へ行く道で、身知らぬ女と腕を組んで森を歩いているキスの姿を認めた。キスは気がつかずに、何か熱心に女に話している。近くの樹かげに、例の泥だらけの自動車が乗り捨ててあった。
 Karoly Kerut と言えば、ブダペストの銀座である。そこの絹物商の娘で Luisa Ruszt という二十二になる女が、同市 Josefvaros 区の警察へ奇態なことを言って訴え出た。


 ソモシイ劇場という寄席がある。その前で会ったというのだ。四十恰好の、親切そうな紳士である。一緒にドライヴしないかと話しかけられて、早速応じた。男が運転して、あちこち乗り廻す。マルガレット橋の附近に男のアパアトメントがあって、そこへ伴れ込まれた。運勢をみてやろうというのだ。女は大概占いが好きなものだが、ルイザも面白半分にどうぞと言うと男は、まあ一つこれでもってからと笑って、何か黄色い液体を注いで出した。強烈なにおいがするが、思い切って呑んだ。命じられる通り卓子に据わって、水晶判断クリスタル・ゲイジングである。渡された硝子玉を両手に持って、じっと見入っている。未来の良人の顔が映って来ますよ。冗談混りに男が言った。すると、気を詰めて玉を白眼んでいるうちに、ルイザは変に眼まいを感じ出した。今の黄色い飲物のせいかも知れない。ちょっと顔を上げて傍らの鏡を見ると、形相の変った男が、直ぐ背後に突っ立っている。緑色の絹の紐を持っている。一端を輪にして、結び目を滑らして締めるようになっている。男は、それを、そうっとルイザの首へ廻そうとしていた。ルイザは気絶して、気がついた時は、エルツェベット公園の樹の下に倒れていたが、身に着けていた金や宝石はすっかり失くなっていたというのだ。
 男の人相やそのアパアトメントを詳しく述べたので、警察も一応捜してみたが、男は勿論、連れ込まれたというアパアトも、実地に検証してみると、何処だか一向判然しない。ロマンティックな性向の女が、あまり小説でも読み過ぎて夢のようなことを言っているのだろうと打ち切った。
 が、三週間後に、また一人の女がブダペスト Belvaros の警察にやはり同じような話しを持って来た。ダニュウブに面したフランツ・ヨセフ河岸に住んでいるちょっとした人の奥さんで、日曜日にテレツファロス教会でふと相識になったという。フランツ・ホフマンと名乗る物柔らかな中年の紳士だった。宝石の旅行販売人で、心霊学に興味を持っていると言った。二、三度ランデヴウの後、女はアパアトメントにホフマンを訪ねて、前と同じようなことが起っている。警察も騒いでそのアパアトメントを探したが、女の記憶が不確かで矢張り発見されなかった。三度目に同じ事件が報告されて、ブダペスト中の警察が真剣に動き出した時、大戦である。何もかも放擲された。


 一九一六年、五月。Bela Kiss は疾うの昔に腹部の貫銃創で、ベルグラアド野戦病院で死んでいる。
 匈牙利に石油が少くなって、陸軍から石油の非常徴発令が発せられた。戦時である。軍用である。嫌応はない。全国に亙って、工場、ガレイジは勿論、個人でもすこしでも石油を有っている者は、すべて所定の場処へ持って行って政府に買上げて貰う。はじめは都会で行われたが、それでも足りなくて、三個月後には、田舎の隅ずみにまで及んだ。津々浦々に石油徴発員が飛んで少量の石油も見逃さない。ツインコタの町にも徴発隊がやって来た。思い出した人がある。リットマン、カルマンなどという比較的キスに近づいていた連中である。あの家の屋根裏に大きな錻力の桶が五つ並んでいた。密造酒だろうと町で騒いだ時、あれは揮発油が這入っているとキスが言った。所有主は戦死しているのだし、あれだけの揮発はこの場合大変な足しになる。この話が徴発員の耳に達したから、すぐマテアスフォルト街の家へ出かけて行って、窓の鉄棒をこわして這入った。
 成程、階上の一室に大きな錻力の桶が七つ置いてある。カルマンが見て、町で評判になった時は五つだったのが、キスが出征する前に二つ殖えたとみえる。七つになっていた。徴発員は聞いたより二桶も多いので、すっかり喜んだ。二年間閉めっきりだったので、家の中は蜘蛛の巣だらけ、桶は埃りをかぶり、湿った空気が澱んでいて、物凄いようである。揮発油ではあるまい。密輸入したブランディを貯蔵してあるのだろうと思った。台所からコップを持って来て桶の横腹に穴をあけて内容なかみを受けてみる、舐めて試る。ブランディではない。揮発油でもないアルコウルである。重い、一つずつ二人掛りで動かした。
 覆をあけてみると、女の着物が詰まっている。その下に裸体の女の屍骸が這入っていた。アルコウル漬けになっているから、余り崩れないで、顔などもはっきり鑑別出来た。頚のまわりに赤い痕があって、絞殺されたことが判る。輪の結び目を辷らして締めたものに相違ない。手は手、足は足と縛って、鶏のように二つ折りに押し込んであるのだ。警察へ急報されて、残りの六つの桶も順次に開かれた。一つに一人ずつ裸かの女が円くなって這入っている。家宅捜索をすると、キスの書斎の机の抽斗から、維因納とブダペストの有力な新聞に出した個人欄広告の代金の受取りが沢山出て来た。妙に仕末のいい男で、帰って来るつもりですっかり保存していたのだ。これを手懸りに当時の新聞を調べてみると、こんな広告が出ている。これは一つの新聞に十日も続いて掲載されたもので――
四十歳の淋しき独身者。自営の商人にて年収約三千磅。
結婚の意思ある優雅なる女性と文通したし。左記へ御照会あれ。
De Koller, Poste Restante, Granatos, Budapest.
 ブダペスト郵便局私書函である。
 維因納ウインナの新聞にはこんなのが出ていた。
先ずおんみ自身を知れ――運命判断で将来の行路を定めようとする方は、ブダペストの星占学大家ホフマン教授を訪問して下さい。
 このほうの宛名は維因納局私書函になっている。広告はすべてこの求縁か占いか何方かだった。早速調べてみると、ブダペスト局の私書函には「淋しき独身者ドュ・コレル」宛の「優雅なる女性」からの返事が五十三通未開封のまま溜っていたし、維因納局のほうには、運勢判断を乞う婦人の手紙が、「ホフマン教授」あてに二十三本抛り込まれた儘になっていた。キスのやり方は求縁と占いの広告で女を釣って、ブダペストのアパアトメントかツインコタの家へ誘き寄せたのだ。片っ端から絞め殺して、金、宝石、衣類などを奪ったのだろう。アルコウル漬けにして置いたのは、いずれも機を見て他へ埋めるつもりだったに相違ない。庭を掘ると、十個の女の屍体が出て来て、キスは愈いよ職業的殺人者であったことが判った。セルビアと露西亜の捕虜をツインコタへ呼んで来て、附近のアカシアの森を中心に大々的捜索をしてみた。全部で二十六の屍体が現れている。みんな若い女だ。百六十枚の質札が食堂の絨毯の下から出て来て、これはすべて被害者の所持品衣類等を入質したものである。この方面から十四人の女の身許が判明している。大抵中以上の家の細君や娘だった。庭で発掘された屍体の一つが、画家パウル・ビハリと駈落ちした筈のノルマ・キス夫人で、これには人々も愕きを倍にした。ビハリの行衛を捜したが、大戦勃発と同時に兵役を逃げて亜米利加へ渡ったとまではわかったが、とうとう見っからなかった。第一の桶に這入っていたのは、一九一三年の十一月に失踪したツインコタ・ホテルの娘でエミリア・リイス、第二は不明、第三のは維因納の女、他はブダペストの相当いいところの娘だった。
 犯人ベラ・キスは? というと、前に言った通り、セルビアで名誉の戦死を遂げている。これ以上追究の仕ようもない。戦争で人心が動揺している時だから、警察はこれ幸いと調査を急いで、ばたばたと片附けてしまう。が、一応形式とあってブダペスト警察のレッシュ警部―― Resch ――が、キスの死の模様を聴取すべく Belgrade 野戦病院へ出張する。キスは確かに死んでいる。腹部の傷のほかにチブスに罹って死んだとある。死亡証明書、軍隊手帖、その他の書類一切、Bela Kiss という名前、Czinkota の住処等、すべてレッシュ氏を満足させるべく完全だ。帰りがけに、キスの臨終に立会ったという看護婦に会ったので、雑談的に、
「何か遺言でもありませんでしたか」
「いま伺ってびっくりしているところで御座います。まあ、あんな優しい少年こどもが、何うしてそんな恐しい罪を犯したので御座いましょう。信じられませんわ」
「少年ですって? 誰が少年です。ベラ・キスは四十二、三でしたよ」
「あら! そんなこと御座いませんわ。ここで死んだベラ・キスさんは十九か二十歳はたちの小柄な綺麗な人でしたわ」
 全然別人である。もう一度書類を調べ直すと、その寝台ベッドで死んだのは確かにツインコタのベラ・キスとなっている。疑いもなく、死にかけている若者と名前と、書類をそっくり取り換えて本物のキスは脱営したのだ。後で判明したところによると、Mackaree というのが、その身代りになった青年の本名だった。混乱を極めた野戦病院のことだから、こんな手品も出来たのだろう。こうしてベラ・キスは見事にずらかっている。
 レッシュ警部はブダペストへ飛び帰って、倉皇として手配を敷く。全欧の警察にキスの写真と逮捕依頼の電報が散った。倫敦に高飛びしたと言われてスカットランド・ヤアドが騒ぎ、巴里に潜伏しているとあって S※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)ret※(アキュートアクセント付きE小文字) が動いたが――みんな虚報で、ベラ・キスはまだ捕まらずにいる。諦めたわけではない。いまだに欧羅巴と亜米利加では係りの探偵が眼を皿のようにしてキスの影を求めているが、これこそほんとの不良外人だ、ひょっとすると、モダン・ガアルを狙って銀座あたりを流しているかも知れない。





底本:「世界怪奇実話※()」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
入力:A子
校正:林 幸雄
2010年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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