斧を持った夫人の像

牧逸馬





「求縁――インデアナ州ラ・ポウト郡の風光明媚なる地域に、収穫多き農園を経営する美貌の寡婦、最も便宜なる近き将来において財産と人生を併合する意思の下に、相当以上の資財ある紳士との御交際を求む。文書の御照会は自由なるも、時日を約して自身御来談の誠意あるに非ざれば、当方も真剣に考慮する能わず――姓名在社」
 個人欄の広告である。
 読み終ったフレデリック・コウツは、銜えていた煙管パイプをとって、ぷうと煙りを吹いた。
 インデアナの北隣り、オハイオ州トレド市のコウツの家だ。新聞は、同市で最高の発行部数を有するトレド「通信蜂ニュウス・ビイス」紙で、毎夕いつものようにコウツは、晩食後自分の居間に引き篭って最終版ファイナルの新聞に眼を通しているのだが、その、求職、求人、売家、貸間などの細字がごたごた並んでいる個人広告面にはついぞ注意を払ったこともないのに、何うした訳か、今夜に限って、ふとこの「求縁」の文字が彼の視線を捉えたのだ。
 考えてみると、以前にも二、三度、同じ紙上で、これとおなじ広告を見たような気もするのである。
 いやに開き直ったような、固苦しい文句――特徴のある調子だ。
 インデアナ州なら、このオハイオからほんの一足南に下ったところ。そこのラ・ポウト郡の景色の好い土地に、可成り金になる農場を有っている美しい未亡人がある――コウツは、何時の間にか無意識に、一生懸命その広告文を読み返している。「最も便宜なる近き将来において財産と人生を併合する意思の下に」――「財産と人生を併合する意思」――コウツは首を捻った――「財産と人生を併合する?」
 人生を併合する――と呟いて、コウツはにっこりした――何だ、鳥渡気取った言い廻しだが、求縁とある通り、要するに結婚のことじゃないか。そしてこの美しい未亡人の相手は、単なる人生のほかに財産をも併合し得る、「相当以上の資財ある紳士」でなければならないとある。先方むこうに金があるのだから、空手で入り込むというのは少し虫が好過ぎる。ここは矢張り、資格として、お婿さんのほうからも幾らかの持参金があって然る可きところだろう。成程。いや、尤もな条件だ――コウツは頻りに合点いて、新聞を片手に、深い思案と安楽椅子の底へ、一緒に沈み込む。
 手紙で聞き合わせて、何れ日が決まると、こっちから出掛けて行って会う段取りになる。この広告主が余程慎重な態度を採っていることは、「――自身御来談の誠意あるに非ざれば、当方も真剣に考慮する能わず」と明言しているのでも、其の他、全文面の遠まわしな警戒的な表現でも窺われるのである。求縁とはあるものの、不注意に読過したのでは一寸何のことか判らないほど、気を付けて物を言っているのだ。金のある美しい未亡人が、広く再婚の相手を物色するのだから、全くこれは危険な事業エンタプライズだといっていい。そんなところへ転がりこんで遊んで暮そうと、そういう口を狙っている男は世の中にごろごろしている。要心に要心を重ねないと、自ら狼に門戸ドアを開いて喰われて終うようなことになる。これだけの広告でも、さぞ考え抜いた末だろう。無理もない。その真面目な意図は十二分に察しられるし、それと同時に、善い相手がありさえすれば結婚を急いでいることも、想像に難くないのだ。
 コウツは、もう一度パイプのけむりを天井へ吹き上げて、一層「真剣に考慮」し出した。


 フレデリック・コウツ――四十一歳。窓掛けタペストリイ及び絨毯類の仲買いみたいなことをしている。謂わば小市民的成功者で、トレド市商業会議所の役員などもやったことがあり、一部の商人階級には先ず売れている顔だが、稼業しょうばいのために若い日のすべてを犠牲にして来たとでもいうのかこの年齢になるまで独身の、まあ、ちょっと偏屈なところのある人物。


 うつくしい未亡人と財産を持寄って、空の蒼いインデアナの田舎で田園生活をする――近頃めっきり生活の疲れを感じ出した中年男にとって、これは絶大な魅惑だったに相違ない。姉が一人あるので、それとも相談してコウツは広告に応じてみた。手紙を出すと、一週間程して日日ひにちを指定して来たから、後のことは一時姉に任せて、フレデリック・コウツは年甲斐もなく処女のように胸をときめかせながらいそいそとインデアナへの旅に上る。


「求縁――インデアナ州ラ・ポウト郡の風光明媚なる地域に、収穫多き農園を経営する美貌の寡婦、最も便宜なる近き将来において財産と人生を併合する意思の下に、相当以上の資財ある紳士との御交際を求む。文書の御照会は自由なるも、時日を約して自身御来談の誠意あるに非ざれば、当方も真剣に考慮する能わず――姓名在社」
 独身者の倶楽部のようになっている行きつけの珈琲店カフエーの椅子で、この、個人欄に出ている小さな広告を読みながら、アンドルウ・ヘルグラインは、紙面から眼を離さずに、片手探りに珈琲コーヒー茶碗を取り上げて、冷めた褐色の液体をがぶりと一つ咽喉へ流し込んだ。
 インデアナの西隣り、イリノイ州市俄古のミシガンアヴェニウに面した、パアク・メエナアの貸間館アパアトメント地下室にあるカフエだった。新聞は、いまヘルグラインの見ているのは市俄古トリビュウンだが、その広告は、同市のもう一つの有力な新聞エキザミナアス紙にも載っていた。
 いつものように、その料理店の自分の席ときまっている卓子で、軽い夕飯を済ましたアンドルウ・ヘルグラインは、そうして食後の珈琲のうえに夕刊を拡げて、漫然紙面に眼を逍遙わせていたのだが、その、求職、求人、売家、貸間など、細字がごたごた並んでいる個人広告面には、今までついぞ注意を払ったこともないのに、この晩に限って何うした理由わけか、ふとこの「求縁」の文字が、当初はじめから異常な重大さでかれに関心を強いたのだ。
 思い出してみると、前にも、この辺の二、三の新聞紙上で、同じ広告を見たような印象がないでもない。
 妙に四角張った言葉遣い――特徴のある文体だ。
 インデアナ州なら、この市俄古からほんの一足東南の方角である。そこのラ・ポウト郡の景色の好い土地に、可成り金になる農場を有っている美しい未亡人が居て――ヘルグラインは、何時の間にか無意識に、一生懸命に広告文を読みかえしている――誰か適当な相手を探して、「財産と人生を併合」――つまり結婚し度がっているのだ。相当の資財ある紳士、これが唯一の条件らしい。それに、その美しい未亡人が大事に大事を取っている様子は、この広告の文章からも確然はっきりと感知されるのだ。決して一時の思い付きや、単に男欲しさの浮いた心からでないことは判り切っている。
 ヘルグラインは、もう一度、含嗽をするように冷たい珈琲を口へふくんで、尚も広告を白眼んで「真剣に考慮」し出した。


 ウオバシュ街に帽子店ミリチリイを営っていた細君が死んだ後、その商売を小金に換えて、傍目には呑気に、が、本人は些か無聊を持て余し気味で、ぶらぶら日を送っていたアンドルウ・ヘルグラインだった。うつくしい未亡人とともに、互いの「財産と人生を併合して」風薫るインデアナの農村で晴耕雨読――市俄古の煤煙から逃避したくなっている初老のかれにとって、勿論もとより悪くないに決まっている。おまけに、先様のほうがより裕福に相違ないから、彼としては得るところ許りで、損失うべき何ものも有たないわけだ。姓名で判断すると、この男は独逸系の猶太人ではないかと思われる。兎に角、人間中年過ぎになると、恋愛も結婚も露骨に打算的に形をとるのだろうが、言ってみれば、まあ一つ小当りに当ってやれ――そんな野次馬めいた気分から、ヘルグライン、止せばいいのに――ほんとによせば好いのに――この未知の「美貌の寡婦」宛てに早速一筆啓上したものだ。
 自己推薦のくだりは宜しくこなして、好い気持ちにペンが滑った余り、つい大昔の初恋時代の感傷に返ったヘルグライン君、「ひとり寝のねや淋しきままに」なんかと、精ぜい未亡人の紅涙を絞るべく哀調切々、胸を打つ美文を綴った――か何うか、そんなところまでは判っていない。
 が、悲しきまでに事務的な市俄古人シカゴアンのことだ。半身手札型脱帽写真一葉、戸籍謄本、履歴書、医師の署名ある健康診断書、財産目録、これだけは忘れずに同封して、まるで保険会社の宣伝印刷物みたいに、さぞがさがさした重い書状てがみだったろう。


 若い者同士の恋愛は、いつの時代にも何だかんだと問題になるが、一体このほうにかけて悪どいのは、何うも中年以上に多いようだ。羞恥心が麻痺して図々しくなっているのと、一つには、夕陽を背って先を急ぐ故もあろう。この「インデアナの未亡人」などは、尤も慾にも絡んでいたが、その性の方面でも言語道断の代表格で、またあのフレデリック・コウツにしろ、アンドルウ・ヘルグラインにしろ、大体が好い年齢をしながら、好奇ものずき半分に余計なこころを動かしたばっかりに、ああして飛んでもないことになって終う。


 ヘルグラインがわくわくして待っていると、四、五日してインデアナから返事が来た。
 この、一九〇七年十二月十二日附けの手紙は、その後、ラ・ポウト郡警司シェリフの手に押収されて重要な証拠材料となったもので、実に奇抜な文句だから、原文をその儘掲出することが出来ると愉快なのだが、ここでは、成る可く忠実に直訳して置こう。
「インデアナの美貌の寡婦」が、例の広告へ「応募」した一人に過ぎない、一面識もないアンドルウ・ヘルグラインへ、かれの照会に対して突然いきなりこんな手紙を寄越したのだ。
「アンドルウ! おお、アンドルウ! 世界中で一番親愛な私の友よ」初めからこうだ。すこし何うかしているようでもある。「今あなたは、どんなことがあっても直ぐ私のところへ来て、私の有になるよりほか途のないことを、わたくしよく存じております」
 随分高飛車な言い方だが、愛は命令する権利がある――それ程愛しているとでもいう心算なのだろう。
 次ぎが面白い。
「あなたがここへいらっしゃれば、きっと王様よりも幸福におなりになりますわ。わたくし保証いたします。そして、王様をお迎えする女王さまのよろこびは、どんなに大きいことでしょう。わたくしの農園、きっとお気に召しましてよ。地味といい景色と言い、ラ・ポウト郡第一と自慢しておりますの。邸は、二つの美しい湖に挟まれて、それはそれは綺麗な、なだらかな、緑の芝生のうえに建っておりますのよ。わたくし、あなたのお名前を低声に口にしては、あなたへの狂暴な有頂天に駆られて、心臓が激しく鼓動するのを何うすることも出来ません。アンドルウ! おお、私のアンドルウ! 早くいらしってわたくしを鎮めて下さい。私は何ものにも換え難くあなたを愛しております」
 見たこともないアンドルウ・ヘルグラインへ、こんな痛快な恋文を書いているのだ。
 ところで、女はよく、ほんとに言いたいことを二伸ポストスクリプト――P・S・――として手紙の後部へ追加するものだと昔からいわれているが、この場合が正にその通りで、「まだ見ぬ君」からの此の情緒纒綿たる手紙を受取ったヘルグライン君が、いささかぼうっとなりながらここまで読んで来て、これでお終いかと思うと、紙の下のほうに、何やらごちゃごちゃ小さく書き込んである。
 一度ペンを擱いてから思いついて、周章てて書き加えたらしく、従って、左程重大なことでもなさそうなのである。が、彼女――インデアナの未亡人の真の目的はここにあるので、まことに意味深長な二伸ピイ・エスだった。
「決して疑う訳ではありませんけれど、相当の財産がおありになる証拠として、おいでの時、三千弗の現金をお持下さいましね。あまり失礼な申分なので、何うかと思ったんですが、――どうぞお気を悪くなさらないように。あ、それから、大金ですから、念のため大事を取って、忘れずに洋服の上着のなかへ縫い込んでいらっしゃいましな。あたくしお婆さんなもんですから、色んなことに気が付きますのよ。可笑しいでしょ? では、お眼に掛かる日を楽しみに――あなたのB・Gより」
 B・G――ベル・ガンネス夫人というのが、「その美貌の寡婦」の名前だった。


 何という捌けた年増――細かいところまで往き届く世話女房――流石女の手ひとつで、農場を経営して、新聞広告で良人を探すだけあって、気の置けない、面白い性格らしい。それに、仲なか確固女しっかりものの証拠には、上衣コートの中に三千弗の紙幣を縫い込んで来るようになどと、誰にでもおいそれと浮かぶ智慧ではない。有難い。こういう女となら、「財産と人生を併合」してやって行けそうだ。兎に角、出掛けて行って会う分には損はない――アンドルウ・ヘルグラインは、すっかり好い気もちに納まり返って、急におめかしを始める。見合いだからお洒落して行く必要があると言うんで、洋服に帽子ぐらい新調して、靴を光らせて汽車に乗り込む。


 三千弗銀行から引き出して、愛する彼女の注意の通り、上着の裏へ糸で留めて行ったことは勿論だ。
 夢は遠くインデアナの空へ走って、もう及第した気――だが、その往先に何が待っているか、古い言葉だけれど、神ならぬ身の知る由もない。


「求縁――インデアナ州ラ・ポウト郡の風光明媚なる地域に、収穫多き農園を経営する美貌の寡婦、最も便宜なる近き将来において財産と人生を併合する意思の下に――」


 ミシガン州デトロイト市、自由新聞フリイ・プレスの個人欄に、こういう人眼につき難い、小さな広告が載ているのを認めて、何となく注意を惹かれて熱心に読み出したのは、近頃まで同市の高等工業ハイ・テックに奉職していた独身のホレイス・ゼイ・マッキンタイア教授である。
「――自身御来談の誠意あるに非ざれば、当方も真剣に考慮する能わず。姓名在社」
 と、新聞を置いた教授は、ぼんやり眼鏡を外して拭きながら、何時しか「真剣」に、その「美貌の寡婦」とインデアナの片田舎での平和であろう生活を「考慮」し空想している自分を発見した。
 若い頃から独りで倹約つつましく暮らして来たマッキンタイア教授は、俸給の貯蓄に退職手当が加わって、鳥渡した金額に達しているのである。


 先ず、広告にある「相当以上の資財ある紳士」という条件に該当する――。
 と老教授は思った。
 インデアナ州なら、ミシガンの直ぐ南で、このデトロイト市からさして遠くもない。広告で見ると、可成りちゃんとした生活をしている寡婦が、色んな事情から、残余の人生の同伴者をもとめている真面目な態度が頷首うなずかれるのだ。よほど高い理想で、それに合致する候補者が鳥渡見つからないところから、困り抜いた揚句、それでは、広く天下に隠れたる士を求めようとなって此の広告を出したものであろう――そう考えると教授は、われこそはと妙な進出的な慾望が沸き起るのを感じて、同時に、忘れ果てていた若い血潮が、微かな興奮をもって枯れかけた心臓を打つ。


 インデアナの田園――土のにおい――乾草を濡らす細雨――陽に霞む果樹畑――食事の仕度が出来たと花の中から笑顔を見せて呼んでいる「妻」――読みかけの書物のページに落葉を挾んで木蔭の吊床ハンモックから起ち上る自分――教授の老いたこころに、はじめて来た家庭生活への憧憬だ。


 それに、そうした田舎へ引っ込んで、まだ研究してみたいことも残っている。静かな、学徒的ディレッタントな余生の魅力が、教授を引きつけて止まない。それが彼に、多分のはにかみを押し切らして、第何十何人目かのインデアナへの「応募」の手紙に、震えるペンを執らしている。


 これと丁度同じ時刻であっていい。
 ケンタッキイ州のルイヴィルである。先日、土地の新聞に載っていた求縁広告を見て出した照会に、今返事が来て、小金のある独身の伊太利人トマソ・ラノ――この男は長らくルイヴィル市の青物市場の世話役コミテイをして其の頃は半ば隠退していた――が、南欧人だけに情熱的に轟く胸を抑さえながら、手にした、インデアナからの優しい水茎の跡に飽かず見入っていた。
「トマソ・ラノ! おお、トマソ! 世界中で一番親愛な私の友よ――今あなたは、どんなことがあっても直ぐ私のところへ来て、私の有になるよりほか途のないことを、わたくしよく存じております。トマソ! 私のトマソ! あなたがここへいらっしゃれば、きっと王様よりも幸福におなりになりますわ。わたくし保証いたします。そして、王様をお迎えする女王さまのよろこびは、何んなに大きいことでしょう。わたくしの農園、きっと王さまのお気に召しましてよ。地味といい景色と言い、ラ・ポウト郡第一と自慢しておりますの。邸は、二つの美しい湖に挾まれて」
 以下、前掲の分と同じことだから略する。が、矢張り、思い付いた儘急いで書き足したらしい二伸ポストスクリプトがついていて、決して疑うの何のという訳ではないが、「相当以上の資財ある」証拠として、見合いに来る時、三千弗の現金を持って来るように、大金だから、「念のため大事を取って、忘れずに上着の胴中へ縫い込んでいらっしゃいましね。わたくしお婆さんなもんですから、色んなことに気がつきますのよ。ほほほ、可笑しいでしょ? では、お眼に掛かる日を楽しみに――トマソのB・Gより」
 複写紙か、いっそ印刷にかけて約束郵便で出したほうが好い程、B・Gのベル・ガンネス夫人は、毎日のようにこの同じ文句の「標準恋文」を各州からの「応募者」へせっせと発送していたに相違ない。
 そしてまた、紐育州のバッファロ市では――。
 漫画を描いて雑誌に売り込んだりなどしていた、これも独身者のケネス・オハラという愛蘭土生れの画家が、ふと新聞の個人広告欄に眼を留めて、知らず識らず吸い込まれるように、
「求縁――インデアナ州ラ・ポウト郡の風光明媚なる地域に、収穫多き農園を経営する美貌の寡婦――」
 貪り読んでいる。
 型の通り手紙を出して、例の「標準恋文」を受取り、ケネス・オハラも倉皇としてインデアナへ発足する。


 発足したきり、何時まで経っても帰らないし、ぐうともすうとも言って来ないので、先ずこのバッファロのオハラの親類達が騒ぎ出した。由来愛蘭土人は気が早いので有名だ。早速警察へ押しかけて、やいやい急き立てて捜索方を依頼する[#「依頼する」は底本では「衣頼する」]
 警察も何がなし此の事件――未だ事件とまではっきりしたものではなかった――に鳥渡臭いにおいを嗅いで、茲に初めて其の筋の眼がインデアナの方向へ向く。
 が、これが動機であの一世を震駭した大犯罪が発覚しようとは、誰も思わなかった。


 一九〇四年から九年、前後五年間に亙る出来事である。西部ウエストには、まだ金坑狂時代ゴールド・ラッシュの「野蛮海岸バアバリ・コースト」の風が遺って、全国何となく二挺拳銃ピストルの荒っぽい気分から脱し切れない。そこから、独自の亜米利加文明を育てて往こうとする、力の張り切った、謂わば揺籃期だ。


 同時に、こんにちの亜米利加的な物質生活の曙光は漸やく見え初めて、そのかわり、精神的に拠頼する何ものも与えられていない過渡時代――。


 こうして、事件の表面に最初の一石を投じて、あの全米の恐怖を明るみへ持出して大騒動センセイション端緒いとぐちを作ったのは、この、バッファロの漫画家ケネス・オハラの失踪だったのである。


 インデアナ州ラ・ポウト郡、カンカキイ河に沿うたフレモントヒルは、丘と言っても小高い平原で、緑色の毛布を拡げたような沃野にラホヴァとレイキ・カンカキイと二つの湖水が、まるで眼鏡を置いたように、並んで陽に光っている。
 其のふたつの湖の中間、眼鏡で言えば丁度玉と玉を繋いで鼻へ当たる部分は、左程広くはないが好く手入れの往き届いた、ベル・ガンネス夫人の農園だ。
 お金があって、美人で、愛嬌がよくて、小作の百姓にまで腰が低いので、この「ガンネスの奥様」は、附近の村人の限りない好意と尊敬を受けている。
 アンドルウ・ヘルグラインとそのベル・ガンネス夫人が、小馬に牽かせた馬車に乗って、湖水の裾の雑木林の小径を農園の奥のガンネス家のほうへ行くところを見た者がある。
 始終見慣れない泊り客のある家だから、村の人も、車上の紳士は格別注意しなく習慣づけられている。ただ、男を同伴してガンネスの奥様が、馬車を駆って来るので、路傍みちばたに避けて叮嚀に挨拶しながら、馬車を通した。
 車上の二人は、上機嫌である。何か熱心に話し合って行く。活発な会話――どっちかが冗談でも言う度びに、愉快そうな大きな笑い声だ。
「ほんとに、よくいらっしゃいましたこと。随分お待ちしましたわ」
「いやあ、何うも。そんなに仰言られると、実に困るです。何だか、自分の家へ帰って来たような気がして、もう動きたくなくなるです」
「あら、それでは不可ませんの? 何故でしょう?――ここほんとにあなたのお家なんですわ。あたくし、あなたがお帰りになるまで、一時お預かりしていただけですの」
「や、じつに何うも、奥さんは口が巧いんで――」
「動きたくなくなるって今おっしゃったわね。いいわ。そのおことばお忘れになったら承知しないから――動こうたって動かさないことよ」
「実に何うも、恐縮です。しかし、好い景色ですなあ」
「市俄古と何方がお好き?」
「較べものにならんです」
「これみんなあなたの有よ。芝生も果樹も家畜も、むこうの建物も、それから、この、あたしも――」
 そういってベル・ガンネス夫人は、到頭思い切って言って終ったというように、両手で顔を隠した――ぐらいの狂言はして見せたろう。
 ぽかんと夢をみているような気持ちで、アンドルウ・ヘルグラインは邸へ案内される。
 それきり出て来ないのだ。


 この、ベル・ガンネス夫人の車上の会話は、相手変れど主かわらずで、五年間打ち続けた芝居の科白せりふとして、フレデリック・コウツにも、ホレイス・ゼイ・マッキンタイア教授にも、伊太利人トマソ・ラノにも、ケネス・オハラ画伯にも、その他無数の「応募者」に、夫れぞれの人柄に応じて適当に用いられたものである。
 そして其の誰もが、欣々然とガンネス農園の一軒家へ伴れ込まれたきり、再び姿を現さない――。
「動こうたって動かさないことよ」
 凄い愛撫の言葉だが、多くの場合、屍骸はあんまり動かないものだ。


 一体何人の、いや、何十人の「相当以上の資財ある紳士」が、この「美貌の寡婦」に、「財産と人生」を、つまり、「上衣の胴裏に縫いつけた紙幣と生命」を、「併合」されて終ったのか――惨殺された男の数になると、確かなことは判っていない。
 三十七個の完態を備えた人骨が、「風光明媚にして収穫多き農園」の土中から発掘された。コウツもヘルグラインも、老教授も伊太利人も、オハラ画伯も、そのなかに居るのだが、僅かに残っている着衣の破片等で識別するほか、骨では何うしようもない。
 誰が誰やら解らないし、多くは引取人も出なかった。
 他に、車に二、三台、部分的に四散した人間の骨が掘り出されたとあるが、これではまるで古戦場か墓地みたいで、些と何うも話しが大き過ぎるようだ。
 何でも世界第一でなければ気の済まない亜米利加人のことだから、犯罪でも世界一の王座を占めようと云うので、少し記録に誇張してある嫌いが見える。
 尤も、後で逮捕されて二十年の刑に処せられたガンネス家の小作人でランフィアという男――これは収監後間もなく肺病で獄死している――の証言に依れば、ベル・ガンネス夫人は五個年間この職業的男殺しを継続して、その間ランフィアもちょいちょい手を貸したが、平均一月に三人の割合いだったと言う。
 五年間一月三人とすると、総計一百八十件也で、夫人はインデアナへ来るまで他の土地でも盛んに殺っているのだから、全部で約二百、斯うなると余りにも「世界第一」で鳥渡眉唾ものである。そこで、ランフィアの自白は出鱈目だろうと言うことになっているのだが、話し半分としても、先ず百人の男が、このインデアナの死の農園へ葬られたと観て、動かないところだろう。これでも、実際よりはまだすこし多くなっているかも知れないが、百八十人殺そうと、百人殺そうと、事実このベル・ガンネス夫人が古今独歩のチャンピオン女殺人鬼である点には何らの変りもないのだ。
 兇器は斧。
 コロロフォルムを嗅がして置いて枕の上に混沌としているやつを、水瓜すいかを割るように斧でざっくり遣る手口、コウツもヘルグラインも耐ったものではない。後で審べて見ると、変名を使って方々の薬屋から多量にコロロフォルムを仕入れていた。只こうして五年もの長い間、この殺人農場を経営しながら、何うして露れずにいたかと――言うと、いや、一伍一什を知っている小作人ランフィアが怖毛づいて、夫人を恐れ憎むようにさえならなかったら、ベル・ガンネス夫人の殺人生活は、五年どころか、其の先何年続いたか判らないといわれている。


 みんな例の新聞広告で惹き寄せたのだ。「相当以上の資財ある紳士」が、三千弗五千弗と、銘めい上着の下へ縫い込んで、近接諸州は元より、合衆国中から集まって来た。それらを順々に歓迎すべく、ラ・ポウト郡フレモント丘のガンネス邸には、夫人の微笑と、佳酒の美味と、まだ充分熱の残っている未亡人の寝台と、それから最後にコロロフォルムと斧とが用意されている。千客万来、門を這入った者許りで、一人として出たものはない。
 後で、紐育から、夫人の妹という女が現れて、「姉は金のためにあんなことをやったのだ。そして、一つには、社会の凡ゆる支配権を握って威張り腐っている全男性への復讐として!」などと、姉妹の情からであろう、姉の罪を美化すべく大見得を切ったが、金銭の慾ばかりではない。性の意味が重だったのだ。ランフィアも法廷でそう述べているし、その方が自然で首肯けもする。
 第一、復讐もいいが、幾ら代々の恨みだからって、斧で頭部を潰すのは少し非道過ぎるようだ。


 では、殺されたのは男だけかと言うと、そうでもなく、警官隊が何週間も続いて農園の隅から隅まで掘り返しているうちに、石灰に塗れた女の死体が数個発見されて、当局を魔誤つかせた。殊に、地下室のセメントの床の下に、もう一つ地下室があって、其処には女と子供の白骨が十人分も転がっていた位いだが、それに付いてこんな話しがある。
 同じフレモント丘に、宝石を集めるのを道楽にしている女が二人住んでいた。
 ベル・ガンネス夫人は、何うかして其の宝石を手に入れ度いと、それとなく社交的に二人に接近する。相手が、人を外らさないガンネス夫人だから、二人も大喜びで、直ぐそこに親密な交際が始まる。
 すると、一九〇八年の降誕祭の夜である。
 ガンネス夫人が二人を晩餐に招待したので、女達はこの時とばかり、ありったけの宝石を身に着けて湖水の間の一つ家へ出掛けて行く。一同すっかりクリスマス気分で、真夜中過ぎまで歌ったり、女同士でダンスしたりして噪気はしゃいだが、翌朝から、そのふたりの姿はフレモントヒルの何処にも見られなくて、彼女らが身を飾って行った宝石丈けが、ガンネス夫人の化粧台の奥深く仕舞い込まれていた、というのだ。
 石灰を被た女の屍骸の中で、二個ふたつはこの時の犠牲者だった。


 バッファロのケネス・オハラの親類をはじめ、彼地此地から中年以上の男の捜索願、失踪届が余り頻繁に出るので、各州の警察が連絡を取って内偵を進めて行くと、不思議に皆、インデアナ州ラ・ポウト郡で大地が口を開けて呑み込んだように足跡が消えているから、四方八方から向いて来た探査の矢が、自然とこのカンカキイ河畔のフレモント丘に集中される。
 はてな? と、其の筋は首を捻った。
 全線的に刑事の大出動となる。
 洗って来たベル・ガンネス夫人の過去を総合すると――。
 諾威ノールウエイ生れの移民。十七の時紐育でアルベルト・ソレンソンという瑞典スイーデン人と結婚したが、一九〇〇年に良人を毒殺して保険金を詐取した後、彼女の行く先ざき到るところに、幾多の不可解な死が随いて廻っているのだ。
 市俄古の郊外に、高い石塀をめぐらした宏壮な一軒家がある。此処は元ベル・ガンネス夫人が育児院を経営していたところで、当時、預かっていた二十一人の嬰児が影を消したまま、未だに行衛不明だという奇怪な事件の現場だ。その時も夫人は峻烈に調べられたのだが、紐育の夫殺し同様、証拠不充分で放免されたのである。
 それからインデアナ州へ流れ込んで、インデアナポリスでガンネスと言う男と結婚し、ここにベル・ガンネス夫人と名乗ることになった訳だが、漸てホッシュという情夫が出来て、一夜、このホッシュと共謀の上、熟睡中の良人ガンネスを斧で一撃の下に殺し、暫らくホッシュと何ごともなく同棲生活が続いている。
 が、ホッシュが詐欺罪で挙げられて、出獄後も音信が絶えると、間もなく夫人は、引退すると称してあのラ・ポウト郡フレモント丘に農園を購って移り住み、直ちに新聞の求縁広告を利用して中年の独身男を誘き寄せ、持って来た金を奪って斧で斬殺する手を案出し、引き続き実行してきたものだ。


 しかし、夫人の言い抜けの巧妙なことを知っている警察は、もう少し周囲から証拠固めをした上でと、捕縛を※(「足へん+寿」、第4水準2-89-30)躇しているうちに、一九〇九年四月二十八日の夜、ガンネス農園に怪火が起って、家も夫人も綺麗に焼けて終った。
 邸と一緒に沢山の証拠物件が灰に帰した訳だが、何よりも、当のベル・ガンネス夫人が焼死したことは、これで完全に事件を失ったのだから、警察にとっては痛手でもあり、癪にも触る。放火の疑い顕著、とあって、嫌疑者として引かれたのが前に言った小作人のエドワアド・ランフィア。初めは仲なか頑張って口を割らなかったが、亜米利加の警察が得意とする第三段サアド・デグリイ十字火訊問クロス・クエスッチョンスの前に、遂に折れて白状した。矢張りこいつが、夫人を殺した後火を放けたのだ。
 何故そんなことをしたか?――訊かれて、自分独りで大きな秘密を握る者の花形意識で、かれランフィアが饒舌り出す。
「誠に済まないことを致しました[#「致しました」は底本では「到しました」]。が、私が奥さんを殺さなかったら、奥さんが私を殺したでしょう。私は余りに、奥さんのしている事を知り過ぎて終ったのです」と、農園の惨劇を一つ一つ詳細に陳述して、「あの家には、音響が外部に洩れないように、壁が二重になっていて、間に鋸屑おがくずを詰めた客用の寝室がありました。奥さんは、新聞広告を見て次ぎつぎに来る男とその部屋へ這入って、厳重な樫の扉に鍵を掛け、窓の鎧戸を下ろし――朝になって仕事が済むと、暗い内に私が手伝って、農場のあちこちへ死骸を埋めたのです」





底本:「世界怪奇実話※(ローマ数字1、1-13-21)」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
※「鳥渡」と「一寸」、「カフエー」と「カフエ」、「挟」と「挾」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「世界怪奇實話全集 第二篇 運命のSOS」中央公論社、1931(昭和6)年8月2日発行の表記にそって、あらためました。
入力:A子
校正:mt.battie
2022年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード