海妖

牧逸馬





 有名な巴里の新聞マタン紙の創設者の一人に、アルフレッド・エドワルドという富豪がある。マタン紙は、今では相当古く、その言論など世界的に権威あるものだが、エドワルド氏は、創業当時から莫大な出資をして、この事件のあった一九一一年の頃は、重要株主としてマタン社の財政を抑えていたのみならず、経営や、編輯の表面にまで活躍していた。で、巴里の百万弗新聞記者ミリオネア・ジャアナリスト、Matin の実際の社長、と言えば、この Monsieur Alfred Edwards のことで、当時欧米の新聞界に鳴り響いた人物だった。非常な精力家、博識家で、算盤とペンを両手に使いこなしたところなど、今日のこの尖端ジャアナリズム時代を招来した最も記憶さる可き草分けの一人と言われている。其の年は、欧羅巴の記録にちょっと類のない暑かった年で、七月に這入ると間もなく、エドワルド氏は、極く親しい友人夫妻を数組、善美を尽した私有快走船ヨットエイメ号に招待して豪奢な水上の避暑旅行に出た。何しろ巴里一流の趣味人をすぐった此の一団だから、主人役のエドワルド氏夫妻を中心に、甲板の遊戯、談笑、舞踏、甘美な食卓と諧謔を載んだエイメ号は、満々たる冷風を含んで主客とも満足以上のうちに、七月二十一日月曜日、和蘭オランダの側から、ライン河へ這入っていた。
 気まぐれの、急がない旅である。景色の好いところへ来ると半日も停船して釣竿を下ろしなどしながら、一九一一年七月二十四日の夜エイメ号―― The Aim※(アキュートアクセント付きE小文字)e ――は、ライン中流の河床に錨を投じて、流れに押され乍ら一夜を明かすことになった。あの「ジャネットの悲劇」として西半球を騒がし、今だに忘れられずにいる神秘な事件は、この夜、投錨後間もなくの出来事だった。
 和蘭の国境を離れて、まだ幾らも航行していない。その日の予定は、ウィイゼル泊りだったが、焼くような暑い日で、殊に夕方に進むにつれ、遮る物のない河上は一面の斜陽を照り返して、甲板の日覆の下に出ても、風一つ動かない暑さだった。陽は沈んでも、熱気は残っている。一行は、噴き出る汗を持て余して、何をする気もなく、甲板に揺り椅子を並べてしきりに冷やし三鞭シャンペンの杯を傾けていた。満潮が重く渦巻いて、いつもよりは速い水勢である。船は、流れに逆らって、日の入り時から、眼に見えて脚が遅くなった。それに、今夜の錨はウィイゼルという旅程ではあったが、やっと今、エメリッヒ市と平行のところまで進んだばかりで、その、海のように広いライン河の岸に、中世紀的な城壁に囲まれた古いエメリッヒの町の屋根屋根が見える。これからウィイゼル迄は可成りの航程だし、其処は、折柄灯のつきめた河岸の町を望見して絵のような景色なので、一つにはそれが、エドワルド氏の愛妻の気に入ったのだろう。この若いジャネット夫人の発議で、急にその場に錨を投げて一晩船を流すことに決まった。ところで、この Madam Ginett Edwards は、近代的特産物の一つの、あの「甘やかされて手に負えなくなっている名流の若奥様」なる典型的なタイプで、平素から、年上の良人エドワルド氏を完全に牛耳り、エイメ号では、文字通り女王だった。エドワルド氏がマタン社の事実上の社長だったように、ジャネット・エドワルド夫人は、このエイメ号の事実上の船長だった。その希望は、直ちに命令である。それでも、デュポン船長は、実際家の立場から、航行船の多い中流に一夜漂うことの危険を指摘して、岸の突堤に停泊するため、船首をエメリッヒ町の方へ向けたのだが、ここで、飽くまで河の真ん中に仮泊して一晩過ごそうと主張したのは、再びジャネット夫人である。岸には、ラインの蝿と呼ばれる独特の底の浅い伝馬船や、工作船や浚渫船が、それこそ蝿のように、黒々まっくろに囲まって繋留している。そこへ割り込んで行って、不潔な水上生活者の悪臭のなかで朝を待つのはたまらないというのである。それに、土地の貧乏人どもが無礼な好奇心に眼を光らせて集まって来て、一挙一動看視的に見物されるのもやり切れない。悪童は石を投げたりする。そう言って夫人は、美しい眉をひそめた。むしろ遠く錨を投げて流れに乗っていたほうがいい――何によらず、彼女の一言はエイメ号の法律だ。この場合だけ例外である筈はない。デュポン船長も折れて、そこで、エイメ号は其の儘沖懸りのようにラインの急流に停船して錨を入れたのだが、このジャネット夫人の主張は、実に自殺的――自殺であるとすれば――行為だったと言っていい。デュポン船長の常識的指令に従って岸に碇泊していたら、この事件は存在しなかったに相違ない。
 夕陽が落ちると、空模様が変って来た。急に風が出て、暴風雨を予告する気圧だった。その間に、エイメ号の食堂には明々と灯が這入って、主客は、何時ものように歓談の裡に晩餐を終っていた。船が大きく畝って、皆あまり食が進まなかった。酒杯にも手が出なかった。食後、一同は思い思いに船中に散らばって、一団は甲板椅子へ帰り、中には、食堂から直ぐ自分の船室キャビンへ引き籠ったきり、眩暈よい気味なのか、出て来ない人もあった。
 この、暗い甲板に居残って雑談に耽っていた人々は、エドワルド氏とジャネット夫人、デュポン船長、狩猟家として又マタンの寄稿家として知られたシャルル・キュヴァリエ少将、保険会社の重役で、エドワルド氏と同じように物識りで聞えた老モッファ氏、巴里聖ノウレ街の大きな洋服屋さんポウル・フェラル、そのほかソルボンヌの経済学教授デニュウ博士がいた。それらの夫人達も交って晩餐前から話しが続いていたが、食後銘めいの甲板椅子へ帰った時、先刻デュポン船長が、ジャネット夫人の提案に反対して、闇夜の中流に錨一つで漂うのは危険だと言ったことが、また誰の口からともなく持出されて、新しく論議された。そして、これから発足して、何時の間にか人々は歴史的に有名な海上遭難とか、海の不思議とか言ったようなことを話題に、何しろ仏蘭西一流の博識家揃いなので、次ぎから次ぎと色々な実例や物語が展開されて、それは、伝説に富むこのライン河上の納涼にふさわしい、怪異的な、興深い座談会の観を呈し出していた。
 が、この特定の夜に、この特定の一団が、この特定の話題に就いて、そんなに熱心に語り合った、語り合わなければならなかったということは、その直ぐ後に起った事件を考え合わせると、これこそ実に怪奇、正に怪奇以上であると言わなければならない。怪力乱神を語らずというが、紳士達の間には、婦人連を怖がらせる興味も、幾らかあったのだろう。後でデニュウ博士は、現場に近い独逸領ドュッセルドルフ市の聯合通信特置員にインタヴィウされて、斯う言っている。
「今から思うと全く不必要な、そして不気味な雑談でした。話材そのものが不気味であった許りでなく、何故あの晩に限ってあんな古い事件にあんな新しい興味を感じて話し合ったか、それが実に不気味なのです。私達はまるで何か私たちの上に拡がっている大きな手によって操られでもするように、そうです、憑き物でもしたように、熱心な額を集めて話し込みました。海の不思議――あのメリイ・セレスト号事件に関して語り合ったのです。The Mary Celeste ! 何という永久に呪われた名でしょう」
 その夜このメリイ・セレスト号事件を主題に話しが弾んだことは、デニュウ博士だけでなく、エドワルド氏を始め、キュヴァリエ少将もモッファ氏も洋服屋さんのポウル・フェラル氏も夫人達も、巴里警視庁の取調べに対して、異口同音に証言している。ここが、この「ジャネットの悲劇」に言い知れない怪異の色を塗る大事な点なのだが、問題のメリイ・セレスト号事件というのは、一八七二年の出来事である。この年、一九一一年からは三十九年の昔だ。ひとりモッファ氏が青年時代だっただけで、夫人連の中にはまだ生れていない人もあり、紳士達の多くもやっと子供の頃だが、有名な海上の神秘事件として未だに語り草にされているし、記録や書物で読んでいたので、皆一通り知っていた許りでなく、実際シャルル・キュヴァリエ少将やデニュウ博士は、如何にも趣味の読書人らしく、当時その喧しかった騒ぎを直接耳にしたのみか万事物識りの古老で通っている筈のモッファ氏や、海事専門家のデュポン船長が、却って聴手に廻らなければならない程、二人は、そのメリイ・セレスト号事件というのに詳細に通じていて、また魅力ある座談家でもあった。で、エドワルド氏も時どき口を挟んだが、話したのは主にキュヴァリエ少将とデニュウ博士だった。婦人達は、ラインの夜風許りでなく、寒いものを感じて、肩をすぼめていた。キュヴァリエ少将が後日マタン紙に寄せた絵画的な描写に依れば、「皆は臆病な女学生の様に額部を凝視め合って、難破船の船員の様に闇夜の甲板に集まっていた」


 ノヴァ・スコチアと英吉利の間を通っている帆船デ・グラシア号が、大西洋をビスケイ湾へ差掛ったところで、ジブラルタルの海峡を指して航行しつつあると覚しい一杯に帆を張った二本マスト大型帆船ブリガンテンに出会ったのは、一八七二年十二月五日の午前十時頃だった。
 その朝同時に、The Dei Gratia 号は、西印度へ進路を向けている一隻の独逸貨物船にも逢って、両船は海上遙かに挨拶を交しているが、この二つの船の乗組員が、その時、両船の間へ割り込むように進んで来た其の二本マストの大型帆船を望見すると、船そのものには、別に異常は認められない。綺麗な新しい船体で、損傷等も何ら見られないに係らず、ながめているうちに、何うも様子が変だということになった。まるで千鳥足と言った具合に、始終進路を離れて、風向などにも頓着なく、見ている内に、総帆がだらりと下ったり、横ちょに風を受けて傾いたり、後退りしている。で海は静かで、風の具合も申分ないのだから、この出鱈目な大型帆船ブリガンテンの行動は、忽ちデ・グラシア号と独逸汽船の注意を惹くに充分だった。誰も運転している者がないのか、さもなければ酔漢が舵を取っているようにしか見えない。両船とも信号を発してみたが、帆船からは何の応答もないので、独逸汽船は其の儘水平線の向うへ消えて終う。が、多分に好奇心を唆られたデ・グラシア号は、不安定な相手の動きに注意して衝突しないように徐々に近づきながら、ボイス船長とアダムス運転士が望遠鏡を採って見ると、帆船は、確かに只事ではない。甲板の上に人っ子ひとりいないのである。暴風雨にでも遭って全員本船を捨てたにしては、船の外観は完全過ぎる程完全だ。しかし、呑気な帆船のことだから、この快晴と広い大西洋に安心して、暫時船を流して、乗組員一同船底で昼寝でもしているのかも知れない。その時代の帆船などにはよくあることだったので、デ・グラシア号でそう言い合っているうちに、帆船は漂うように接近して来る。眠っているなら起してやれ、ボイス船長―― Captain Boyce ――の命令で、運転士の Mr. Adams が綱を引いてデ・グラシア号に咆えるような非常警笛が上った。それでも、何ら答えがない許りか、帆船は依然として生色を呈して来ない。ボイス船長は初めて重大な不審を感じて帆船に乗り移って調べてみることになった。急停船したデ・グラシア号から、ボイス船長自身と、Crifton という二等運転士と、二人の船員を乗せた短艇ボウトが下ろされた。海面は鏡のように浪一つなかったが、四人は、不気味な予感に襲われながら漕いで行く。疫病船かも知れないし、乗組員の一人が発狂して他を鏖殺し、船中に潜んでいるということもあり得る。或いは、そうして通行船の注意を惹いて置いて一時に襲撃しようとする海賊船とも考えられるので、迂濶には乗船出来ない。大声に呼ばわり乍ら帆船の周囲を漕いで船尾へ廻ってみると、船名と船籍港が書いてある。“Mary Celeste. New York”ボイス船長等は欄干に綱を投げ掛けて、間もなく其の帆船メリイ・セレスト号の甲板に立っていた。
 船中はひっそりしている。甲板には、生きた人影がない。と言って屍骸もない。四人は、交る代るに呼んだ。おうい! ―― Ahoy ! が、人の出て来る気配もない。誰もいない船――無人船なのだ。しかし、乗組員が周章てて船を離れたらしい跡もなく、船具其の他船中の状態は整然としていて、何ら異変があったとは想像されない。主な積荷は、酒精類と玩具である。それも安全に船艙に積まれてあって、手を附けた模様がないのだ。整頓された甲板に海の太陽が照って、操る人のない帆が風にはためいて、怪鳥の羽叩きのように聞える。ボイス船長以下、デ・グラシア号からの四人の訪問者は、言いようのない戦慄に捉われた。船首から船室、船尾楼プウプの下まで覗き廻って、一応隈なく船内を審べて見たが、何処にも何らの異状がないのだ。ただ人がいないだけである。艙底ホウルドに水が這入っていないことで、何処も漏っていないことが判るし、円帆スパアも、ロウプも帆も、凡べて在る可き所にあって、帆船としての設備、備品等、完全でそして清潔である。帆桁索プレイスは一つ一つ正規の繋栓ピンに留まっている許りか、何よりも不可解なのは、非常用の短艇ボウトが一隻も失くなっていないことだ。皆ちゃんと短艇台デエヴィットに納まっているのだ。これで、乗組員が船を見棄てたのでないことは確定的に判断されたが、それは一層不気味さの度を加えたに過ぎない。何時何処の物蔭から何が飛び出すか判らないと言うので、四人は、極度に緊張した神経で警戒し合いながら、跫音を忍ばせて船内を歩き廻った。何処かに船長以下乗組員の屍体が転がっていなければならない。炊事場の隅々から水槽の一つ一つまで丹念に覗いた。中央船艙メイン・ハッチの覆いが半分ほどめくり掛けた儘になっていたので、一同は、このハッチの下に屍骸が重なっているに相違ないと這入り込んでみたが、暗い中に、荷物が並んでいるだけだった。
 見廻れば見廻るほど、謎は深まって、キャプテン・ボイスの一行は、得体の知れない大きな恐怖に直面していた。
 若し船内が乱雑になっていたら、乗組員のいないことも説明がついたかも知れないが、度々言う通り、万事きちんと整頓していて、塵一つないように掃除の往届いた、何処を見ても手入れのいい帆船である。何一つ――全乗組員の他――無くなっていないのだ。白昼の大洋に漂う、この整然たる無人の帆船は、正に百パーセント以上の怪異味だったに相違ない。が、船長の船室らしい部屋を精査すると、ある可き筈の時辰機が無かった。しかし、この発見は、何ら神秘を解く鍵にならないのみか、疑問は、増す一方である。乗組員の暴動とか何らかの騒動ということも、帆船などにはよくあることだが、この場合には、この一絲乱れない船中の状態が、そういう想像を完全に逆証する。実際、メリイ・セレスト号上の生活は、或る瞬間まで、幸福に、そして常態ノウマルに続けられて来て、其の或る瞬間、突如として乗組員の全部が姿を消したものとしか考えられないのだ。その証拠には、今絞った許りで未だ濡れている洗濯物が、水夫達の船室の前の綱に掛けてあって、水が滴って、甲板を一線に濡らしていた。それ許りか、船長室には、食べかけの朝飯が其のまま食卓に載っていた。
 食卓には、四人の人間が向っていたらしく、そのうち一人は確かに子供と見えて、小さな匙でオウトミイルが半分ほど食べてあった。船長の椅子らしい上座の卓上には、真ん中から切った固茹での卵子が二個、二つとも玉子コップに這入って立っていた。その傍に、今子供に飲ませようとしていたかのように、咳止め薬の壜が置いてあった。そのコップも、細長い薬壜も、ちゃんと立っているのだ。しかも、気のせいか、オウトミイルや玉子は、まだ幾らかあたたかみが残っていたようだと言われているが、これは後日、一般に論議されて、ボイス船長らの錯覚であろうということになったけれど、しかし考えてみると、洗濯物から滴水が垂れていた位いだから、朝飯が冷え切っていなかったとしても、別に不思議はない訳である。こうして食卓が其の儘になっていて、倒れ易いコップや薬壜が立っていたという事実だけで、極く最近まで人がいたことが肯定される。十二月の大西洋は決して凪続きということはない。長らく無人の船なら、船の動揺で、それらの食器は卓子テエブルから滑り落ちるか、尠くともコップと薬壜だけは倒れていなければならない筈だ。のみならず、炊事場には、朝飯の残りが鍋にそのままになっていて、料理人のらしい使いかけの剃刀が一丁、刄に一杯短い剃毛を附けたまま炊事台の上に抛り出してあった。船長の寝室と思われる一室には、覆いを取ったミシン台があった。台の上に、円い指抜きが、胴を下に転がり落ちずに載っている。ミシンには、子供の前掛服ピナフォアが縫いかけてあって、袖を縫いつけようとしたところで針が止まっているのだ。丁度ミシンを使っていた女が、鳥渡呼ばれて起って行った後の景色である。ミシン台の周囲の床には、女の児の玩具が散らばっていた。つい今し方まで、母と幼い娘が居たことが解る。これは船長の家族であろうということになった。その頃の帆船などでは、船長は妻子を乗り込ませて一緒に航海したもので、これは珍らしいことではなかった。
 船長室にも、何ら取り散らかされた跡はない。現金箱は鍵が掛っていて、手を触れた形跡もないし、他の貴重品も何一つ失くなっていない様子だ。海賊に襲われたとも思えないのである。書棚には、宗教と音楽に関する書物がぎっしり詰まっていて、二人の運転士の部屋と覚しい一室には、二つの懐中時計が卓子テエブルの上に置いてあるだけで、ここも、すべてきちんと整理されていた。水槽には充分の飲料水があるし、食品室カデイは各種の食糧で充満している。何もかも清潔に乾いていて、最近浪をかぶった跡も、暴風雨に遭ったらしい様子も見られない。仮りに船員が船を捨てたものとしても、その理由は何処にも発見されないのだ。それに、短艇ボウトが一隻も無くなっていないで、全部縛り付けてあることを忘れてはならない。が、不思議なことには、必ず船に備え付けてあるべき書類が、若干紛失していた。運転士の部屋で、航海日誌が発見されたが、十日前の十一月二十四日まで記けてあって、それ以後は白紙である。その二十四日以後に[#「以後に」はママ]遡って記録を調べてみても、単に普通の航海日誌で、何らこの神秘の説明となる可き手懸りは発見されなかった。それよりも、一層事態を不気味にしたのは、海図室の柱時計が時を刻んでいたことである。が理由は何であるにしろ、この、一人も人がいないという事実は、現実に、乗組員全部が、あっと言う間に船を去ったことを示している。一度に甲板から海へ飛び込んだか、或いは何処からかボウトが舷側へ横付けになって、朝食半ばに、または仕事なかばに、総員を何処かへ伴れ去ったか、其の何れも説明にならない説明である。ただ船長室に、綱切用のナイフがあって、血痕らしい[#「血痕らしい」は底本では「血※[#「やまいだれ+良」、U+3F97、141-下-13]らしい」]小さな黒点が附いていたというが、ナイフの汚点はあり勝ちのことで、何ら重要なことを物語っていないと言っていいし、船首部の右舷の欄干にも、血のような小さな黒い斑点と、手斧かナイフで鳥渡欄干の木材へ切り込んだらしい跡が見られたと言われているけれど、幾ら手入れの行届いた船でも、飾り物ではないのだから、そんなに精密に見て廻れば小さな汚点や瑕あとの一つや二つは、何ら不思議でなく存在し得るに決まっている。それからもう一つ、これも船首の、丁度吃水線の舷側の板が、一寸剥ぎかけたようになっていたが、明らかに中止した形になっていて、航海中の作業だったものか、何者かの害心の跡か、ボイス船長らには判断の下しようがなかった。積荷の酒精分も凡べて安全で少しも洩っていない。船員達の部屋には、架床バンクの寝具が、人の形に凹んで並んでいて、めいめいの所有品箱には水夫の持物らしい、哀れを催すような詰らない品物が、大事そうに仕舞ってある。遠い港の情婦の写真なども枕頭まくらもとに飾ってあった。何処から何処まで、今の今まで何事もなかった船中生活を物語っているだけで、些少の書類と時辰機と、船長と其の家族、及び全船員が一人残らず消え去っている他、何一つ紛失していず、何らの異状も認められなかった。
 これが、世界海洋史上未だに最大の謎とされている、有名な Mary Celeste 号事件である。


 生々しい血痕の[#「血痕の」は底本では「血※[#「やまいだれ+良」、U+3F97、142-上-14]の」]附着した長剣が、船長室の入口に落ちていたとも言われているが、この一項は、他の多くの記録の何れにも発見されない。只、事件後三個月を経た一八七三年三月十五日発行の英国雑誌 The Spectator の記事に、斯うあるだけだ。
「去る十二月五日、ノヴァ・スコチアの帆船デ・グラシア号は、北緯三八・二〇、西経一七・一五、アゾウレス群島附近の大西洋上に於て、無人の米国大型帆船ブリガンテンメリイ・セレスト号を発見し――」
 と前述のデ・グラシア号船長ボイス等の実見談を記載して、その中で、この血の附いた長剣のことに言及している。スペクテイタア誌は、この記事は十二月十二日附のジブラルタルの新聞 The Gibraltar Chronicle から借用したものだと本文の終りにも言明しているのだが、其の原文のジブラルタル・クロニクル紙の記事には、血の附いた長剣のことなど出ていないのである。スペクテイタアの記者が、海洋小説でも書いている気になって鳥渡創作を混えたのだろう。
 ジブラルタルが最も近いので、デ・グラシア号は、メリイ・セレスト号に三人の船員を分乗させて、曳船してジブラルタルへ入港した。直ちに米国領事館へ急報する一方、法規に従って、海事局に船体救助の賞与金下附方を申請した。海事局が、難破船として一応メリイ・セレスト号を海事裁判所へ廻している間に、米国領事は紐育へ照会電報を発して、間もなく判明したところに依ると、The Mary Celeste はノヴァ・スコチアの建造で六百六噸と合衆国船舶簿に登録されていて、所有者は紐育のウインチェスタア会社、同年九月三十日に、伊太利のジェノアへ向けて紐育を出帆したとある。船長はベンジャミン・ベネディクト・ブリグス―― Captain Benjamin Benedict Briggs ――海事関係者の間に知られた有能な老船長で、宗教的な人格者でもあり、部下の信愛と尊敬を集めていた。乗組員は、二人の運転士を加えて総計十二名、ブリグス船長はよく夫人と愛嬢を同船せしめて航海に出ていた。このジェノア行きの航海にも二人はメリイ・セレスト号に乗り込んでいて、娘のポウリンは七歳だった。
 そのうちに、ジブラルタルの海事裁判所で幾多の手続きの後デ・グラシア号の乗組員は海上の船体救助に対する法定の賞金として一千七百ポンドを受取り、ボイス船長らの関係する限り、この事件はこれで片附いた形だったが、ブリグス船長以下メリイ・セレスト号の乗組員の運命は、合衆国政府が大西洋沿岸各地の領事館を督励して、多くの経費と時日の下に、実に徹底的捜査を続行したに係らず、依然杳として消息を断ったまま今日に及んでいる。ただハイランダア号という英国汽船が、メリイ・セレスト号が無人船として発見された前日、即ち十二月四日の未明、アゾウレス群島の南で同船と擦れ違い、その時は両船信号を交換して、メリイ・セレスト号から「万事異状なし―― All Well」という手旗信号があった、と言う新事実が現れたが、これが、果して何の程度に正確なものか、何の記録を調べてみても、このハイランダア号 The Highlander の証言に関しては、これ以上何も出ていない。
 米国政府の捜索は、海軍力を藉りてまで、三年間も続いて、世界各国の海軍管轄官に照会を飛ばして手掛りを求めた。晴れ渡った真昼、静かな海上に漂っていた整然たる無人船の神秘は、大西洋を挟む両大陸の公衆の好奇心と想像力を限りなく刺戟した。あの、デ・グラシア号の四人が、ひっそりと静まり返ったメリイ・セレスト号の甲板を歩いた日以来、実見者のボイス船長、クリフトン二等運転士等を初め、或いはデ・グラシア号の乗組員に依って、或いは英米仏各国の海事研究者と一般人によって、ありと凡ゆる推測が下されて、新聞雑誌等の刊行物は、一頃競争的に、少しでも可能性の強い説明を提供しようと、一般の投稿を歓迎したものだが、一つとして秘密の真相に触れた、乃至は近いと思われるものはなかった。ブリグス船長も家族も現れて来ないのだから、船中に何か殺伐な事件があったらしいとも想像されるが、彼らなり、乗組員の一人なりが生きていて事実を公表しない限り、このメリイ・セレスト号の秘密は、ここで永遠に、大きな「?」として終っている。
 迷信的な解釈も出た。海蛇、巨大な章魚、未だ人間に知られていない海の怪物、そういったものが現れて船員を攫ったのではないかと言うのだが、こんな子供欺しのような話しは何ら説明にならない。アゾウレス島の附近には、昔から「盲目の白い海蛇」なるものが棲んでいると信じられていて、その仕業に相違ないという説も出たが、勿論余りに荒唐無稽である。船長が発狂して全乗員を海へ抛り込んで自分も投身したのだろうと言う人もあった。それにしては、格闘や混乱の跡が少しもないのが理窟に合わない。
 無人のメリイ・セレスト号は紐育のウインチェスタア会社へ廻送されて、新しい乗組員クルウで一航海南米へ往復したきり、直ぐ売物に出たが、幽霊船という評判で長い間買手もつかずにブルックリンの波止場に繋がれていた。そのうちに船名を変えて傭船チャアタアに出て、一八八五年にキュバの海岸で坐礁したシティ・オヴ・オマハ号というのが、このメリイ・セレスト号の成れの果てだったと言われている。
 船舶の行衛不明は左程珍らしくないけれど、このメリイ・セレスト号事件は当時欧洲各国と亜米利加から凡ゆる人々が凡ゆる解答を提げて現れたほど、類のない不可解な事件として世間を騒がしたのだった。四十一年後の一九一三年、十一月号の The Strand Magazine に、倫敦ハムステッド Peterborough Lodge 小学校の校長で M. A. Howard Linford という人が、メリイ・セレスト号の乗組員の一人だったと称する同家の老僕 Abel Fosdyk なるものの談話を寄稿して、鳥渡世の注意を惹いたことがあるが、事実相違の点が多く、問題にならなかった。ただ何処の何者とも知れない老下男の出鱈目を真面目に取って雑誌へ書いたりした校長先生の責任が問題になっただけだった。
 海には海自身の、吾われの知らない独自の劇的生活と愛憎と神秘があるのかも知れない。ポウの“Tales of Mystery and Imagination”と、コルリッジのあの幽怪哀調の詩“The Ancient Mariner”は、このメリイ・セレスト号を題材にしたものである。
 が、それにも増して奇怪なのは、この事件から三十九年を経た一九一一年七月二十四日の夜に、こうしてライン河上に私用船エイメ号を流して談笑していたあのエドワルド氏、ジャネット夫人、モッファ氏、キュヴァリエ少将、ポウル・フェラル氏、デニュウ博士とその夫人達の間に、何うしてこのメリイ・セレスト号事件が、話題に上らなければならなかったか。そして何故人々はああ真剣に此の過ぎ去った神秘に就いて討議しなければならなかったか。何によってそうされたか。デュポン船長の注意から出発して、幾多の難船の例、海の不思議というようなことから、自然と話頭が動いて、其の時迄まだ世人に頭脳を絞らせていた此の有名な海の怪異事件へ話しが漂って行っただけのことに相違ないけれど、デニュウ博士ではないが、如何にも「後から思うと全く不必要な、そして不気味な雑談だった」と言っていい。「話材そのものが不気味な許りでなく、何故この晩に限ってこのメリイ・セレスト号事件にそれ程の新しい興味を感じて話し込んだか、それが実に不気味なのだ」しかも、キュヴァリエ少将とデニュウ博士を主な語り手として、其の夜エイメ号の甲板上にこのメリイ・セレスト号の話しが続いたことは、前にも言った通り、居合わせた人が皆、後で係官の前で陳述している。
 ああではないか、斯うではないかと夫れぞれ名答を出すのが面白くて、この事件は、不気味乍らも、座談としては、何時も賑わうのだった。で、その晩も、エイメ号の人々は、銘めい意見を吐いたり反駁し合ったりなどして、何時までもこのメリイ・セレスト号の話しを続けそうな模様だった。夜が更けたと言っても、まだ九時頃だった。元へ返って、もう一度キュヴァリエ少将の記述をマタン紙から引用すると、「皆は臆病な女学生のように額部を凝視め合って、難破船の船員のように闇夜の甲板に集まっていた」
 実際、その時、社交室サロンの時計が九時を打っていた。このことは、例のドュッセルドルフの聯合通信員がデニュウ博士から取った談話にも博士は確かに九時打つのを聞いたとある。
 その九時打つのを聞くと、ジャネット夫人は、急に何か思い出したように、甲板下の自分の船室へ降りて行った。一同は、其の快活な、と言うより、むしろお転婆なジャネット夫人が、口笛を吹き乍ら、大きな音を立てて階段を駈け下りて行くのを耳にして、しきりに話しを続けていた。眠りの早い対岸の田舎町エメリッヒの灯が、一つ二つ消えかけていた。
 ジャネット夫人が船室へ這入って直ぐ、やっと椅子にでも腰掛けたかと思う頃、欠伸のような微かな、長い声が上って来て、甲板の人々の耳に這入った。
「聞えましたか、今の」一人が訊いた。「誰かが呼んだようですよ」
「ジャネットさんの声でしたわ、確か」
「何うしたんでしょう――?」
 鳥渡耳を澄ましてみたが、その儘何の物音もしない。虫が報せたとでも言うのか、エドワルド氏は、急に気になって耐らなくなった。直ぐ階段を走り降りて、ジャネットの船室をノックした。キュヴァリエ少将と洋服屋さんのフェラル氏が、エドワルド氏について見に行った。ドアには、内側から鍵が掛っている。慌しくノックし乍ら、エドワルド氏が呼んだ。
「ジャネット!」
 何の応えもない。室内はしいんとしている。何か異変を感じた三人は、力を合わせてドアを破って、転がるように這入ってみると、船室は空である。ジャネット夫人は居ないのだ。狭い船室で、椅子と小寝台があるきりだから、探す余地も、見廻すところもない。きちんと片附けられた部屋の波斯ペルシャ絨毯の上に、今ジャネットの着ていたドレスが円く脱ぎ捨ててある。彼女の体臭のようになっている愛用の香水が、うっすら漂っていた。やっと首だけ出る、円い船窓ケエスメントが開け放してあって、黒く光って流れるラインの水が、夜の唄を歌っていた。一方は内部から鍵の掛ったドア、三方は鉄板の壁、それに、一つの小さな、やっと首が出るだけの円窓――この、何処からも出るところのない狭い船室内で、ジャネット夫人は煙りのように、完全に消えたのだ。今日まで十九年、いまだに消えたまんまである。


 何ら満足な解釈が下されていないが、満足な解釈のないのが、即ち満足な解釈だと言えるような気がする。キュヴァリエ少将もデニュウ博士も、あの晩だけメリイ・セレスト号のことを話し合った訳ではないが、あの時ほど新しく、その不思議さを全身に感じて、犇々と呼吸の迫るような気のしたことはなかったと言っている。
 メリイ・セレスト号から人を摘み取った something が、このエイメ号からジャネット夫人を掠め去ったのだ。ただ、メリイ・セレスト号からは全部の人間を抜き除ったが、エイメ号からはジャネット一人だった。
 Nadaud と Pelletier の両氏の記録の中に、この「ジャネットの神秘」に関する記述があるが、ここでは大分小説的に取扱って、見たように書いてある許りか、仏蘭西の物らしく、こんなところへも忘れずに三角関係の要素を挟んでジャネット夫人にそんなようなことがあったかの如く、仄めかしている。仮りにジャネットに恋人があったにしたところで、それは何も、この、低い呻き声を一つ残して、やっと首が出るだけの小さな窓から、あっと言う間にライン河の闇黒に霧散したという、怪奇な事実そのものの説明には少しもならないのだが、例えば斯うだ。エイメ号で、ジャネットが階下の船室へ下りて行ったところで――。
夫人は船室へ這入った。内部から注意深く錠を下ろしてドレスを脱いだ。裸体の上にキモノを纒って、髪を解き始めた。栗色の頭髪が、濡れた藻のように、重く彼女の肩に掛っている。それから、夫人は、小さな卓子テエブル[#「小さな卓子テエブルの」は底本では「小さな卓子テエブルの」]前にすわった。一枚の書簡紙を取って、書きはじめた。
「愛するアンドレ――」
 まるで私室を覗いてでもいるような克明な描写だが、Andr※(アキュートアクセント付きE小文字) などと普通名詞のようになっている呼名だけを持って来たところで何にもならない。が、兎に角、そのジャネットの恋文は何うなったかと言うと、この記述に従えば、エドワルド氏と一緒にキュヴァリエ少将とフェラル氏が船室へ這入った時に、その内の一人が素早くこれを見つけて、何も知らないエドワルド氏の気持ちを察して咄嗟に隠したというのである。言う迄もなくこれは、一般には根も葉もないナンセンスとされていて、他の記録には一切採用されていない。しかし、ナンセンスはナンセンスだが、斯ういう噂が出たと言うのは、ジャネット・エドワルド夫人は元女優で、巴里の舞台に鳴らした女だった。芸名を Gen※(グレーブアクセント付きE小文字)vi※(グレーブアクセント付きE小文字)ve Lantelme と言って、「魔術的なランタルム女王」と呼ばれた位い、この名で知れ渡った巴里劇界の謂わば偶神アイドルだった。エドワルド氏は先妻に死別して間もなく、事件五年前一九〇六年に、このランタルム嬢を「金で買って」結婚したもので、ルウアン停車場の隣のジャンダルク・ホテルで秘密に式を挙げている。式に列したのは、ランタルムの母親のフォッセイ夫人だけだった。Communaut※(アキュートアクセント付きE小文字) と謂って、結婚と同時に、エドワルド氏の財産の半分が、ジャネットの有になる特別の結婚形式だった。
 斯うしてジャネットは、エドワルド氏の愛妻となったが、エイメ号事件の時は、エドワルド氏は五十四歳、ジャネットは二十八だった。エドワルド氏が如何に普段から愛妻家であったか、殊にエイメ号に於ける没我的な奉仕振りは、十五人の客と、女中が一人、デュポン船長以下八人の乗組員が口を揃えているところだ。だから、例えいまこのジャネットの失踪を自殺と仮定しても、何ら自殺の理由と目す可きものが発見されないのである。物質的には恵まれ過ぎる程恵まれているのだし、第一、性来呑気な女で、その他の精神的な苦痛などがありそうなジャネットではなかった。其の晩も、例ものように元気よく、メリイ・セレスト号の話しを気味悪がりながらも、しきりに合槌を打って聞いていて、自分でも、その神秘に対する解釈を、考え考え話してみたりしていたが、そのうちに、社交室サロンの柱時計が九時を打つと、思い付いたように甲板の揺椅子を離れて独りで階下の船室へ駈け降りて行った。ジャネットは始終駈け下りたり駈け上ったりしているので、誰も気に留めなかった。いまこの、華やかなジャネット夫人が、口笛を吹いて階段を走り降りるところを想像してみる――富豪の若夫人らしい care-free な態度で、ジャネットは、船室へ這入る。急に疲れを感じて、もう甲板へ帰らないことに決めて、寝巻に着更える。脱いだドレスを足許の床に其の儘にして、船室に空気を入れようと窓の方へ進む。窓を開ける。前から言う通り、ようやく首が出るだけの、円い小さな船窓だ。ちょっと外を覗く。黒く光って流れるラインの水が、夜の唄を歌っている。其の時、その小さな窓から何者かの手が伸びて来て――ジャネットは低く叫んだまま、その狭い船室内に居なくなったのだ――としか、これ以上誰にも想像出来ないのである。
 その夜、エイメ号で、食堂から直ぐ自分の船室へ引き籠った客の一人、ピカルド夫人という作曲家の話しには、「何時頃でしたか、私はうとうとしていましたが、まだそんなに晩くなかったと思います。ジャネットさんのお部屋のほうで、何ですか口を抑えられているような声がして、間もなく、ジャネットさんの姿が見えないと言う大声がするので、私も、喫驚して出て行って見ました。客から乗組員まで、みんな其の船室のまえに集まってがやがやしていましたが、私は初めジャネットらしい悪戯で、何処かに隠れているのだろうと思いました。デュポン船長なども、そう言って笑っていました」
 キュヴァリエ少将が、エドワルド氏と共通の友人ドウリアック博士へ打った電報が、巴里へ這入った最初の通知だった。それは、翌二十五日午前十一時五十分に、附近のマリアンバム局で受理したもので、十二時三十分に巴里へ届いている。簡単な電文だった。「ジャネット甲板より墜落、溺死す。エメリッヒ市セムデン局宛て来否返電あれ」同日午後六時に、ドウリアック博士は、ケルン経由でエメリッヒへ急行して、翌朝博士から、また同じような電報が巴里の留守宅の夫人の許へ飛んでいる。「ジャネット夫人過失にて甲板より落ち、激流に流される。屍体発見されず」こうして最初は、とても公衆に信じられそうもない此の神秘な事件に、当然疑いを挟んで生ずるであろう不愉快な、そして不必要な風評を防ぐために、一同口を揃えて、ジャネットは自分の間違いでエイメ号の甲板から落ちて行衛不明になったということに誤魔化して終おうとしたのだったが、この細工は直ぐにれて、真相は――と言うより神秘は、忽ち疾風のように全巴里に伝わった。散歩街から散歩街へ、劇場から編輯局へ、そして取引所へと、物語的な不気味さが波紋のように拡がって行って、一時は、全市「ジャネットの神秘」で持切りの有様だった。殊に、事件の直ぐ前にメリイ・セレスト号の話しが出たと知ると、人々は、伝説的な怪異感を新たにして、直ちにこの三十九年を隔てた二事件を結びつけ、恰もこのジャネット事件の核心を究めるためには、その根本としてメリイ・セレスト号の謎を解く必要があるかのように、また改めてメリイ・セレスト号に対する興味が再燃し、いたるところで話題に上った。
 独逸のドュッセルドルフも、現場に近いだけに、最も騒いだ町の一つだった。余り評判が高いので、場所が独逸領ではあり、官憲も放擲して置けず、七月二十六日に警察が調査を開始している。その時のドュッセルドルフ発聯合通信に依ると、「ジャネット・ランタルム失踪事件に関する帝国検察官の活動は、ジャネット夫人は、甲板で涼んでいる際、急激に意識を失って欄干から河中へ転落したものであるという調査の結果を公表して、二十七日をもって打切った」とある。が、同じくこのドュッセルドルフの聯合通信員によって、あのデニュウ博士等の談話が発表されて、公衆は、この独逸警察の公表が単に責任逃れの形式的なもので、遙かに事実から遠いことを知り抜いていた。巴里の警察も動いたが、一応関係者を訊問しただけで、深入りすればするほど、神秘の色が濃くなって手に負えなくなり、やがて、警察の威信にも関しそうなので、エドワルド氏が猶太人なところから、厳正な意味で仏蘭西国民ではないから人事的に管轄が違うなどと妙な事を言ってさっさと手を引いて終った。一説には、この不気味な評判が一層高くなることを懼れて、エドワルド氏がひそかに当局に握らせて手離して貰ったのだとも言われている。勢力家だからそういうことも出来たであろうが、例え警察が躍起になって審べたところで、未だに一般に信じられているように、底にメリイ・セレスト号事件と絲を引くものがあるのでは、到底何ら解決の曙光をも見なかったに決まっている。
 七月三十一日、エドワルド氏は、屍骸のない葬式を行って、ジャネット夫人の遺品を P※(アキュートアクセント付きE小文字)re Lachaise の墓地に埋めた。今でも、このペラシェイズ墓地の八十九区という一隅に、碑面に“Requies Aeterna”――「久遠の平和」と彫った墓石が建っている。それが、空の棺を沈めている、ジャネットの墓である。
 その儘、日が経った。
 勿論、屍体の捜査は、ライン下流の全帯に亙って、大々的に行われた。が、発見されなかった。発見される訳はない。あのやっと首だけ出る窓から、何うしてジャネットが河へ落ち込んだと考えることが出来よう? 二週間程後に、リイスに近いオベル・ミイルメエテルの税関桟橋に、ジャネット夫人の裸体の屍体が流れ着いたとあって大騒ぎをしたが、全然別人だった。





底本:「世界怪奇実話※(ローマ数字1、1-13-21)」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
初出:「中央公論 第四十五年第九號五百十二號」中央公論社
   1930(昭和5)年9月1日発行
※誤植を疑った箇所を、「世界怪奇實話全集 第一篇 浴槽の花嫁」中央公論社、1930(昭和5)年10月1日発行の表記にそって、あらためました。同じ場合はママ注記としました。
※「卵子」と「玉子」、「鳥渡」と「一寸」の混在は、底本通りです。
入力:A子
校正:mt.battie
2023年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「やまいだれ+良」、U+3F97    141-下-13、142-上-14


●図書カード