食卓の人々は、つと顔を見合わせた。かすかに
夜の八時過ぎだ。おそい晩飯だ。小作人ドルフ・ホルトン―― Dolf Horton ――の家である。野良を終っても、何やかや仕事が残って、いつも食事が遅れる。英吉利の四月は、春とはいってもまだ冬の感じだ。八時にはもう真っ暗で、ことに今夜は霧がある。しっとり濡れた濃い闇黒が戸外に拡がって、この、ブリストル市に通ずる田舎道は、覆をしたようにしずかだった。
英国グロセスタシャア州、アルモンズベリイ市―― Almondsbury, Gloucestershire ――の町外れである。
農夫ホルトンの一家が台所につづいた些やかな食堂で簡単な夕食をしたためている。いま
と、ふたたび細君が皆を制して、
「あら、誰か来ていますわ」
聞耳を立てた。やはり玄関に物音がする。確かにノックだ。あたりを

内気な訪問者らしい。気兼ねしながら、しきりに表ての戸を叩いているのだ。
「
「
「
平和な農村――というのは、詩や絵で言うことで、実際は、当時、手工業から工場制度に移ろうとして、人類の経済生活を根本から揺すぶったいわゆる産業革命時代、その震源地の英吉利である。新発明の機械に職を奪われた失業者の大群が、街道の
ホルトンのおかみさんは怖なびっくりで玄関の戸をあけた。
濃い煙りのような霧が、白い渦を捲いて流れ込んで来る。
「はい」濡れた夜の空気が冷たく低迷している
眼は闇黒に慣れていないし、うしろに灯を背負っている。はじめはちょっと何も見えなかった。
すると、訪問者は、いくら
――おや、女のようだが、どこか知っている家の人かしら? と、思った時、暗いなかから浮かぶように光線の範囲へ踏み込んで来たのを見ると、何とも言いようのない異装の人物である。
おかみさんは、無意識に、消魂しい声を上げていた。
食堂に居残って耳を立てていたホルトンと娘達は、その大声で、がちゃりとフォウクを置いて突っ立った。
「あら、誰か来て下さいよ、早く!」
ホルトンは押っ取り刀というところだ。狼狽てふためいて玄関へ駈出した。娘たちも怖ごわ父の踵を踏んで、おもて口を覗きにくる。
母と向かい合って、奇妙な人間が立っている。
第一印象が、扮装のまま東洋劇の舞台面から脱け出てきたという感じだった。
女である。若い女だ。黒の絹に金で刺繍をした印度風の緩やかな着物を纒って、髪に
明らかに東洋の、たぶん印度あたりの女であろう。が、この霧の夜、場所は英吉利の片田舎である。何うして印度の女が、まるで地から湧いたようにここへ――
女とホルトンの家族と、不思議な睨めっくらがつづいているうちに、女は、どんどん這入って来て、うしろ手に玄関の扉を締めた。そして、寒い、という意味を示して、肩をすぼめた。扉に倚りかかって、白い歯を見せた。真珠のように粒の揃った、光る歯だ。
にっこりしたのだ。変に慣れなれしいのである。
無言の行に気づいて、ホルトンはこの珍奇な闖入者に、農夫らしい人の好さそうな、しかしまだ愕きに満ちている声音で、第一の質問を試みた。
「お前さんは何かね。どこから来なすった――」
と、ここで、第二の驚愕が、善良なるホルトン一族を待ち構えていた。
いきなり女が、両手を上げて鼻の先に振立てたのだ。手首に懸け連ねた真鍮の腕環が、世にも盛大な音を発して、じゃらん! じゃらん――! というのだから、ホルトンは度胆を抜かれた。同時に、女は、猿轡を除られたように一度に饒舌り出した。が、その言葉たるや、である。莫迦に濁音が多かったというから、
「がぎぐげご、ばびぶべぼ、だぢづでど――」
なんかと響いたのだろう。不幸なホルトン夫妻とその娘たちは、眼をぱちくりさせて顔を見合った。
女は英語が解らないのだ。ABCも識らないらしい。声は音楽的な低音で、落ちついて聞いていると
「どこの人だね、お前さんは」
「ああ、がぎぐげご!」
「え? 何か用かね?」
「おお、ばびぶべぼ! ばびぶべぼ!」
「仕ようがねえな」当惑したホルトンが細君を返り見て、
「弱ったな。何うしたもんだろう――」
相談をはじめると、女は、夫婦の顔をにこにこ見較べて、
「だぢづでど」何ごとかひとり呑み込んでしきりに
ちんぷんかんぷんこの上なしという会話だ。ホルトン家の人々も女も、とうとう匙を投げて笑いだしてしまった。
ところが、妙なもので、一緒に笑ってみると、言葉は通じなくても、笑いの中には万国共通の一脈の人情味が漂う。人々は多分にものずきな好意をもって改めて女を見直した。
ぽっちゃりした瓜実顔、いささか浅黒い皮膚、調和を破るほど大きな、水っぽい眼、
まぎれもない東洋の女だ。性格的な感じである。眼に智的な閃きを見せて、恰好のいい、だがちょっと猶太人めいて分の厚い鼻、口びるは大きく、強く、しじゅう微笑していて、全体に好人物らしい
無銭徒歩旅行の異国の女――ホルトンの家の人々は、急にこの、言葉にさえ不便な珍客に人間的な同情を感じはじめた。まあ、お這入りなさいという身振り宜しく、家じゅうで廊下へ伴れ込む。取りまいて色いろ訊いてみる――のだが、訊いてみると言っても、はじめからいうとおり言葉は通じないのだから、総掛りで手真似足真似だ。娘たちまで面白がって、思いつくまま種々手旗信号のような恰好をして見せる。両方とも解らせるのが大変だ。女もホルトンも散ざん頭脳を絞ったあげく、やっと判明したところによると、女は、足を擦って「がぎぐげご」で、これは、長
そう判ると、田舎の人は気立てが好い。家じゅう親切の競争みたいになってさあさあと手を取らんばかりに食堂へ案内する。丁度晩飯が出ているところだから、早速食卓へ椅子を引いて、腸詰、野菜、
ところが、女は、その折角の食べものには手をつけずに、ただ黙ってにこにこ笑って、のべつにお
翌朝である。
四月三日、アルモンズベリイにこの地方で大きな馬市が立つ。
ホルトンはウオロウル氏の小作人の一人だ。何か重大な用件らしいので、取りあえずその場に通してみると、ホルトンを随えてあわただしく這入って来た委員が、いきなり、
「昨夜町へ妙な人間が飛び込んで来ました」と言う。「印度かどこか、とにかく東洋の女らしいんですが、いうことがさっぱり判らないので、みんな当惑しております」ちょっとホルトンを返り見て、「突然この者の家へふらっと舞いこんで来ましたそうで、ゆうべ一晩泊って、今朝になっても出て行く様子もなく、すっかり腰を据えられて手古摺っておりますんで」
ホルトンが引き取った。
「髪も眼も黒く、
なお附け加えて、早いものでホルトンの家に変な女が来ているとの評判が立って、もう朝から好奇な見物人がわいわい詰めかけて窺きに来る仕末だという。
そこへウオロウル夫人も出て来て、そういう珍らしい人種なら是非呼んで見たいものだと言葉を添える。事実、この時からウオロウル夫人は、この、
が、女は、ホルトンの家が余程気に入ったらしい。それとも何処かへ伴れて行かれて危害を加えられるとでも思ったのかも知れない。なかなかウオロウル氏の邸へ出頭しようとしないのだ。宥めたり賺したり、やっと大勢でそのノウル
左右から挾むようにしてウオロウル氏夫妻が何を訊いても、勿論英語は頭でわからないのだから、女は、ただ首を振って
「女ひとりで、こんなに遠く故国を出て放浪するなんて、ほんとに何んなに心細いでしょう――言葉も判らないところでねえ」
心から同情を寄せる。
ウオロウル家の希臘人の下僕というのが、ここぞとばかり通弁に立とうとしたが、これもさっぱり役に立たない。女の言うことはすこしも判らないし、希臘人が、得意の五、六個国語を片っ端から振廻しても、一つとして女には、一向通じないのだ。ぽかんとしている。しまいには両方とも呆れて、顔を見合って笑うだけだ。これで当面の唯一の望みも切れて、矢張り元の手真似足真似の万国語へ返る。唖者の問答である。ウオロウル夫妻をはじめ一同女を取りまいて、それぞれ知慧を絞って珍妙な手つきをする。脚を叩いて顔をしかめるやら、遠くを指さして疲れた恰好で歩いて見せるやら、あらゆる姿態と表情を示して、贅をつくしたウオロウル家の応接間に、これはまるで舞踏性噪狂患者の寄合いだ。世にも奇抜な大真面目の無言劇が展開される。発表方法の創造と判断の努力とで、みんな大汗をかいた。その結果、やっと判明したところによると、第一に女は、
体操みたいなことをして草臥れただけで、何が何やら、その日の会見はこれで終って、ウオロウル家では、食費はこっちで支給するから当分滞在させるようにとホルトンに言い含めて、途中女中と下僕をつけてホルトン方へ送り返そうとした。すると今度は、小屋のようなホルトンの百姓家よりは、アルモンズベリイ第一と言われるウオロウル家のノウル
これには人々も苦笑の顔を見合わせて、
「矢張りいいところは解るとみえますな」
「価値判断はあるらしいね」
「何ですかいじらしいようですわね」ウオロウル夫人も口を出して、「人見知りをしなくて、可愛かないこと? こんなに居たがるんですもの。しばらく置いてみましょうか。あたくしが面倒をみますわ」
ということになって、ウオロウル氏自身も多分に興味を感じていたところだから、女はそのままノウル
夫人は先ず紙とペンをとって自分の名前を書いて見せたのち女にペンを渡し、同じように姓名を書かせてみようとした。が、恐るおそるペンを受取った女は、軸からペン先まで不思議そうに見入ったきりで、怖いもののように、そっと机のうえに置いてしまった。そして、部屋の隅に、子供の絵具箱が置いてあるのを見ると、うれしそうに駈寄って、穂の長い小さな絵筆と、青の絵具皿を取り出して来た。ペンは、使い方は愚か見たこともない様子だが、毛筆はお手のものとみえる。器用な手つきである。筆の先に青絵具をふくませて、さらさらと紙を撫でる。達筆だ。一行の文字だ。亜刺比亜字[#「亜刺比亜字」はママ]らしいのである。
が、亜刺比亜の[#「亜刺比亜の」はママ]字など、その方面の学者でもない限り、そうざらに読める筈はない。ウオロウル夫人も困って、その、女の書いた字を白眼んで首を捻っていると、急に相手は面白そうに笑い出すのだ。そしていきなり、文字と自分を交互に指さして、鸚鵡のように繰り返した。
「Caraboo ! カラブウ!」
しかし、ウオロウル夫人には、この「カラブウ」が何のことかその時はまだ判らなかった。
ただ曙光を認めたような気がした。根気よくやりさえすれば或る程度まで相互に理解出来る望みがある。夫人はそう思って次ぎに、毎日女を伴れて邸じゅうを見せて廻ることにした。多くの部屋のなかには、一つぐらい、彼女に親しい品物があって、それがそのうち彼女の眼に留まれば、生国身許などが判明する一条の手懸りになるかも知れない。この夫人の思いつきは、全然無効果ではなかった。食堂には漆塗りの戸棚が飾ってある。それに支那の男女の風俗が模様風の絵になっているのだが、それを見つけると、女は一時に顔を輝かして活きいきと手真似をし出した。自分の故国では、みんなこういう服装をしているというらしいのである。それから、バナナを
夜になって
「アラ・タラ! Allah Tallah !」
太陽を拝むらしいのである。
この、神性を「アラ」と呼ぶことから、ウオロウル夫人は、女は
「カラブウ! Caraboo ! カラブウ!」
ウオロウル夫人は、にっこりした。判ったのだ。女は、カラブウという名前なのである。こうしてカラブウは、ウオロウル家の客としてノウル園に落ちつくことになった。
前に言ったように、小柄な女だが、魅力的なカラブウである。漆黒の髪と眼、線の強い、真赤な口びる、小麦色の皮膚、新鮮な顔いろ――敬神家で、礼儀正しく、愛嬌があって貴族的だ。言葉こそ通じないが、ウオロウル夫人はカラブウが大好きになって、母親のようなこころもちで、何くれとなく親切に面倒を見ている。
その間に、附近の大学の言語学の教授たちをはじめ、多くの学者連が、われこそ見事カラブウの通訳に立ってみせようと毎日何人となくノウル園へ押しかけて来たが、一人として成功したものはない。
英吉利の田舎の人だけに、気の長い話しである。
カラブウは断じて獣肉を食べない。すべての肉類や、葡萄酒、
「何時までああして置くわけにもいかないね」
「そうですわね。何うしたらいいでしょう――でも、いま追い出すのは可哀そうですわ。勿論行くところはありませんし、第一、ことばが判らないんですもの。それに、この頃はそりゃああたしに馴付いて――」
「しかし、僕は思うんだが、
このアルモンズベリイに近い船着場と言えば、まずブリストル港―― Bristol ――である。そこでウオロウル氏夫妻は、カラブウを伴れてブリストル市庁に出頭して市長に会った。警察関係に依頼して色いろ調べて貰う。これだけ変った服装をしているのだから、誰か見たものがあれば、覚えてもいようし、口の多い港町である。すでにいい加減評判になっていなければならない。ところが、波止場附近はいうまでもなく、ブリストルからアルモンズベリイに至る街道すじを一軒一軒軒並みに調査しても、誰ひとりそういう女を見かけたというものはないのだ。と言って、すこしも英語を知らない東洋人の女が、ひとりで、しかもあんな恰好で、反対側の倫敦方面の海岸から、何日もかかって内地を突っ切って旅行して来られるとは考えられない。必ず途中どこかで、不審訊問に引っかかって保護を受けているはずだ。
保護――そうだ、官憲に引き渡して保護して貰うことにしよう。いいところへ思いついたというので、そこらは市長が取り計らう。浮浪者としてブリストル市の婦人ホウムへ押しつけて、ウオロウル氏夫妻は一先ずアルモンズベリイへ帰った。が、考えてみると、あの言葉の不自由なカラブウである。例によって床に寝たり、大声に「アラ・タラ!」をやったり、係員や収容者一同を手古ずらせてもいるだろうが、それより、何しろ食べものからして違うんだから、本人はどんなに困っているか知れない。しばらく一緒にいて、言葉こそ不通だが、何うやら気ごころも知れて来ていたカラブウである。そう思うとウオロウル夫人は、耐らなく可哀そうなことをしたような気がして、翌々日ブリストルへ出かけて行ってまた引き取って来た。こうしてカラブウは、ブリストルの婦人ホウムに二日いたきりで、これからひき続いてふたたびウオロウル家の賓客としてアルモンズベリイのノウル
遊ばせても置けないから針を持たせてみると、かなり器用である。簡単なものなら、見本さえ見せれば何でも縫う。段だん重宝になって来た。それに、ちょいと絵ごころがある。木だの人だの、品物だの、暇さえあると色んなものを絵に描いている。筆談というのはあるが、これは
カラブウの言葉を解し、自在に会話をまじえる通訳者が出て来たのだ。
カラブウとは何者か?
彼女は何処から来たか?
この神秘を解くべく、センセイションはすでに全国的なものになりつつある。「ノウル
バス町に、ウイルキンスン博士―― Dr. Wilkinson ――という学究肌のお医者さんがある。
このウイルキンスン博士がウオロウル氏夫妻の友達で、夫妻と同じに、いや、夫妻以上に、天涯孤独のカラブウに同情を寄せて、その国籍、放浪に出た事情、それにいわゆるカラブウ語に学者的立場から大いに興味を持っている。博士は、まず文字から審べて行こうと、やっとカラブウに二通の手紙を書かしてバスとブリストルと二つの大学に送って判読を乞うたが、まるで
葡萄牙人マニュエル・アイネッソ―― Manuel Eynesso ――は馬来諸島の旅から帰ったばかりで、ブリストル港とバス町を往ったり来たり、半々に暮らしている。だから、カラブウの噂は初めから聞いていたが、通訳に出たいと思っても伝手がなくて出られなかったというのだ。それが今度、バス町の知人によってウイルキンスン博士に紹介された。博士を通じてカラブウに会う。
こうして神秘「カラブウ語」は他愛なく解かれたのである。
マニュエル・アイネッソは、葡萄牙人だけに当時流行の探険的航海業者だ。長く
会って一言二こと交すと直ぐ、アイネッソは博士をかえり見て莞爾とした。
「こいつぁ無理ですよ。これはちょっと誰にも判る筈はありません」得意満面で、葡萄牙人が言うのである。「この女の話す言葉は、単独の国語ではないんです。色んな国語が雑然と集まって、特殊の訛りを帯びている方言ですよ。ははははは、これにはみんな手を焼いたでしょう。いや、さぞお困りでしたろう。お察しします。東印度諸島とスマトラの西海岸でだけ使っている言葉なんです」
そして、あれほど誰も歯が立たなかった「カラブウ語」を、マニュエル・アイネッソは、本人が話すそばから逐語的に訳して聞かせたのだ。ノウル園の大広間である。主人ウオロウル氏夫妻ははじめからの関係者だというのでホルトン夫婦、ブリストル市長、警察官、アルモンズベリイ教区牧師ガイ・スリイス長老、ウイルキンスン博士、その他言語学者二、三、ノウル園の召使い近処の人々などが立ち会って、呼吸を凝らして二人を見つめていると、カラブウとアイネッソは、部屋の中央に人々に取りまかれて慣れなれしそうに談笑している。久しぶりに言葉の通じる話し相手があらわれたのだ。まるで長い間の無言の行が解かれたように感じたのだろう。カラブウは別人のように生気を呈して、頬をうつくしく紅潮させてしきりに饒舌り込んでいる。アイネッソはにこにこうなずきながら、熱心に聞き入っているのだ。話す。訊く。答える。何か可笑しいことがあるとみえて、両人腹を抱えて笑い崩れる。自由自在な会話ぶりだ。立会いの人々は、一刻も早くカラブウの話しが英語になってアイネッソの口を出て来るのを待っている。
「名前はカラブウ姫ですが、南洋の孤島ジャヴァス―― Javasu ――から、数奇な運命に弄ばれて、この英吉利まで流れて来たのです」
マニュエル・アイネッソの通訳である。
カラブウの父は元来支那――この支那のことを彼女はコンジイ、Congee と呼んだ――から渡った征服者で、たしかに一個の英雄に相違ない。名をジェス・マンデュ、Jessu Mandu といって、大軍を擁してジャヴァス島に覇を唱える
父のジェス・マンデュ王は四人の妻妾を蓄えている。外出の時は、
内乱が起ったのである。姫君のおんば日傘の生活は破られた。カラブウ内親王殿下が三人の女官とともに、ジャヴァス王宮の奥庭を御散策あらせられている折りしも、矢庭に
一個月の航海のうち、ジャヴァのバタヴィアに寄港して、そこで四人の女奴隷を積み込む。それから亜弗利加のケエプ・タウン、つぎに
――と、葡萄牙人マニュエル・アイネッソが御通訳申上げた。
マンデュ王朝の花と謡われたカラブウ内親王殿下――そういえば、はじめから

いまは、いやが上に有名にならせられたカラブウ内親王殿下だ。英吉利じゅう誰知らないものもない。地理学者、科学者、言語学者などが、この珍らしい御生国の状況をおたずね申そうと、踵を接してノウルパアクに集まって来る。何よりも専門家のあいだに問題になったのは、殿下の御麗筆になるその不可思議きわまる書体だった。
ウオロウル家では、失礼のないようにと万端の注意を怠らない。キャラコと色糸を献上すると、殿下はにっこり御笑納になって、お手ずから本国風のお召物をお縫い上げになった。姫君らしい、淑やかで威厳のある御着衣である。色の組合わせお美しいお胴着、縫いのあるお紐、渦巻模様のお裾、レイスの縁、ただ何とおすすめ申上げても、お靴下はお召しにならない。ノウ・ストッキングの元祖である。平らな木の底のついた
が、どっちかと言えば活発な御性質である。そして、極く平民的に渡らせられる。よくノウル
評判は高まる一方だ。東印度会社の耳に這入った。放任して置けないはなしである。丁度その頃、東洋方面で英吉利は和蘭に圧迫され勝ちだ。誘拐された王族の娘をじぶん達の手で送り返してやれば、馬来諸島、ことにスマトラの人気は英吉利につくにきまっている。何一つするにもただではうごかない商人根性の英人だ。東印度会社は、ここに利用すべきひとつの機会を見たのだ。
一まず鄭重に会社の客としてお迎えしよう。計画しているところへ、例のウイルキンスン博士とウオロウル夫妻が会社を訪れて、同じ依頼を持込んで来た。二つ返事で相談が成り立つ。国賓待遇でジャヴァス島へ御送還申上げようというのだ。準備は早い。船もきまって、会社は殿下に見事な錦襴の衣裳を献納する。ウオロウル家のおみやげ品だけでも大へんなものだ。すっかり、お仕度が出来て、殿下には御機嫌うるわしく、御出帆の日をお待ちになっていらっしゃる。
すると、このあやうい瀬戸ぎわで
二人の人間が、ほとんど同時に、この愛すべきカラブウ内親王殿下の正体を摘発している。
ひとりはマクナマラという若い自由労働者で、偶然アルモンズベリイ市へ流れこんで、御高名なカラブウ内親王殿下をお見かけ申したのだが、すると何うだ! 善良なマクナマラ青年が胆をつぶしたことには、彼は五、六個月前に、たしかにこのカラブウ殿下とサリスベリイ平原で会って、しかも一夜樹の下で一緒に寝ているのだ。その時の殿下は、お忍びにもことを欠いてありふれた女乞食のいでたちで、おまけに訛りのひどい、しかし、それだけ争えない英吉利人の英語を話して、農家の女中の口を探して田舎を廻っているのだという丈のお話しだったが、これは一たい何うしたというのだろう? あの時一晩会って、同じ石の枕で星を眺めて別れた彼女が、やんごとない東洋のお姫さま――マクナマラは白痴のようにぼんやりしてしまって、人の顔を見るとこのことを話して歩いた。すると、ブリストルに、ニイル夫人―― Mrs. Neale ――というお婆さんが住んでいる。まえからカラブウ殿下の人相を聞いて、何となく臭いと思っていたのが、今この気が
ノウル園へ行って、はじめウオロウル夫人に面会する。これこれしかじかの疑いがあって来たから、一度カラブウさまに会わせてくれと申込むと、夫人は笑って受けつけない。が、あんまり言い張るので、うたがいを晴らすつもりで拝謁を許すことにした。元より非公式だ。御出発の日が迫って、奇しき御滞英の日の記念とあってブリストルの画家バアド氏が伺候して御肖像を描かせていただいている。その、御正装の殿下がモデルにおなり遊ばしている一室へ、ウオロウル夫人に案内されて、ニイル夫人とモルテモア氏が這入って行った。
壁を背に立っていらっしゃるカラブウ内親王殿下は[#「カラブウ内親王殿下は」はママ]一眼見ると、世にも失礼なニイル婆さんは、ぷっと憤飯したのだ。
「まあ! お前――お前は、こんなところで」と、つぎの瞬間、お婆さんはがんがん呶鳴り出していた。「メリイ! 何をしているんです! Why, ほんとにお前はメリイ・ウイルカックスじゃないか。そんなへんなものを着て、東洋のお姫さまだなどと、図々しいにも程があるよ。何の真似です。いい加減になさい!」と、より奇怪なことには、カラブウ内親王殿下におかせられては、見るみる御顔色蒼白に変らせられて、忽ちぺしゃんこにおなりあそばしたのだ。
人一倍流暢な英語で告白した所によると、元ブリストルのニイル夫人方の女中で、メリイ・ウイルカックス・ベエカア―― Mary Wilcox Baker. デヴォンシャア州ウイザリッジ、Witherridge, Devonsir の生れ。父は小作農、幼にして極度のルンペン性を発揮し、ハウンスロウ・ヒイスで曲馬団に加わりなどして生家に寄りつかず、爾来エクセタアからタウントンとほとんど英吉利じゅうを股にかけて流れ歩いたが、国外へは一歩も出たことがないとある。
東洋の風俗習慣や、
それにしても、着物、言葉、態度、生れつきの俳優と言おうか、やはり一種の天才だったことは疑いを入れない。三個月間カラブウ殿下になりすまして、一ことも英語を滑らせなかった。英語のわかるようなまばたきさえしなかったのだ。この無学な女が、一つの言語を発明して、あの出たらめの文字とともに、英吉利中の学者を完全に煙に巻いたのである。人騒がせが面白かったのと、楽な暮らしがしたかったからだと言っている。露れさえしなければ、東印度会社の手で、スマトラへでも何処へでも行くつもりだったらしい。徹底している。すべてが詐欺と判った時、可哀そうなウオロウル夫人は、あまりのショックに寝込んでしまうし、人一倍肩を入れたウイルキンスン博士は、責任を感じて公職を退いた。一八一七年の出来事である。そもそもカラブウがああしてホルトン方に現れて騒動の発端となったのが、