ブライトンと言えば、倫敦を控えて、英国第一の海岸の盛り場である。
殊に週末旅行に持って来いのところから、日曜が賑う。
この三月二十九日も、日曜日だった。
海の
有名な磯伝いの
エンマ・ダッシュも、その華やかな散歩者の一人だった。最初の若さはずっと通り越したがそれでも、まだ充分美しいところの残っている女で、実際、自分では、「
が、血色のいい、綺麗な顔をしていて、身体つきも、すんなりと悪くない。殊に、眼に魅力があった。本人もその眼には絶大な自信があって、老嬢らしい冒険心から、よく男達へ秋波のような視線を送っては、ひとりで悦んでいたものとみえる。この場合がそうで、それに端を発して、この、人間の歴史初まって以来最も不可解な一つとされている「消えた花婿」事件の展開となったのだが、僕はこれを、最も不可解な中でも最も不可解な出来事であるとするに、

男盛りといった、厳丈な体格の中年の紳士が、向うからやって来てエンマと擦れ違った。そして、通りすがりにちょっと、エンマへ微笑して行ったのだ。エンマ・ダッシュも、例の得意の流眄を呉れて、にっこりしたことは勿論である。男に聞えるように、煙りのような陽気な笑い声を立てて、何気なくとおり過ぎた。暫らくその儘の歩調であるいて行ったが、直ぐ男が引っ返して来ることを期待するかのように、それとなく足を緩めて、待ち合わせるような
立ち停まって後を見送っていた男は、果してこの招待的な意味を汲んで、廻れ右をした。急ぎ足に、たちまち追いついてきた。軍人のような、陽に焼けた顔の、立派な紳士である。
騎士的に、慇懃に帽子を脱って、
「もし人違いでしたら御免下さい」てきぱきした、男らしい声だ「確かに何処かでお眼に掛ったような気がするんですが――。あそうそう、あ、そこのダンスで――あの、
一息に言って、にこにこ覗くように女の顔を見た。
エンマ・ダッシュ嬢も、自慢の眼へ一層の魅力を罩めて、適度にほほえみながら、
「あら、左様でございましたか。ついお見外れ致しまして――」若わかしい媚態だ。「ええ、存じ上げておりますわ、多分ね。ほほほ、でも、そんなこと仰言っても無理でございますわ。だってあたくし方々のダンスへ参りますもの。そして、ダンス場では、色んな方にお眼に掛りましょう? 一々おぼえてなんかいませんわ。ですけど、マクドオナルドさんなら、ほんとに、いつか御一緒に踊って戴きましたわね。あたくし、ダッシュと申しますの。エンマ・ダッシュよ」
言うまでもなく、両方とも出鱈目なのだ。いま初めて逢ったことを承知の上で、只そんなことをいって会話の緒を切ったに過ぎない。心得たもので、マクドオナルド船長とエンマ・ダッシュは、これで見事に互いに自己紹介を済まして、可笑しくて耐らなそうな顔を見詰め合った。
こんなことは、ブライトンと言わず何処でも、盛り場の
が、この、エンマ・ダッシュとマクドオナルド船長の場合は、その十中の八九のうちの八か九どころか、十一にでも当ったのだろう。嘘から出た真で、例外も例外、飛んでもない例外になってしまった。実に変てこなはなしから、事件が進むにつれて双方真剣に頑張って一歩も譲らず、日本では、人の噂は七十五日だが、西洋では九日間の話題という、全国の新聞の読者に一大センセイションを与えて、その九日間は愚か、今に到るまで解けない謎とされている。この怪異な現象の序幕となったのだった。
アラン・マクドオナルドの様子は、はじめから妙に真剣だったという。往きずりに言葉を交したぐらいで、その一日か、長くて二、三日で、碌に進展しないうちに忘れられてしまう、海水浴場でのお祭気分の恋――そうした退屈しのぎの浮気とは、彼は考えていないふうだった。旋風的な愛を、エンマ・ダッシュに注ぎ出したのだ。エンマの
このマクドオナルドは――彼自身の説明によると――経験ある航海家で、
会って一時間ばかりしてから、附近のルイス町へドライヴする馬車の中で、マクドオナルドは、もうそんなことを言い出していた。町では、彼は一流のホテルの食堂で、この発見したての恋人のために、洒落た晩餐と高価な
おまけに、
そればかりではなく、日曜日で店が閉まっているのに、宝石屋を叩いて無理に開けさせようとさえした。善は急げ――結婚指輪を買おうというのだ。この、船乗りらしい気の早さには、エンマも魔誤ついて、まあ! ほんとに仕様のない方!――といったような、好意に満ちた微笑を禁じ得なかったろう。が、謝るようにして、それだけは許して貰った。
「幾ら何でも、そんなに手っ取り早くは決められませんわ。あたくし、お母さんに相談しなければなりませんもの」
エンマはうつむいて、靴の先で舗道の敷石へのの字を書いた――と、これは僕が心描するのである。
しかし、要するに、女が結婚を申込まれた時の作法に従って、公式通りに、「お母さんに相談」を持出しただけのことで、そのとき既に彼女の心は
エンマの母ダッシュ夫人は、未亡人だった。長い間娘の結婚を待ち望んで来たので、異議を唱える訳はないのだった。小さな下宿屋を経営して、何うやらこうやら生活しているものの、決して困らないという状態ではない。公債や何かで、母の名でいささか
で、翌朝、型どおりアラン・マクドオナルドが正式にダッシュ家を訪問して、令嬢エンマと結婚したいが許して貰えまいかと母へ申込んだ時、ほんの形式として、二、三前提的な質問があった後、待ち構えていたように母が承諾したのは当然だった。男から女へ指輪が渡されて、二人は公式に許婚の間柄となった。
初めからの約束で、この許婚の期間は前代未聞に短かった。電光石火式に結婚したのである。「
新婚旅行には、チャイチェスタアへ出掛けたが、これも、マクドオナルド式に眼まぐるしい旅で、土曜日の夜、披露の席から発ったのが、三日後の火曜日にはもうブライトンへ帰って来た。そして、近いうちにコルコラン号がニュウ・ジイランドへ向けて出帆するについては、自分だけ一足先に乗り込んで、細君エンマの船室や何かその他彼女を迎える準備をして置かなければならない。用意が出来次第、一両日中に呼びに来るから――そう言ってキャプテン・マクドオナルドは、その晩、八時四十分ブライトン発の汽車で、ひとりで倫敦へ出て行った。
エンマ・ダッシュ嬢――ではない、もうマクドオナルド夫人だが、彼女は、母親の下宿屋へ帰って、一日千秋の思いで良人の船から呼びに来るのを待っている。が、いくら経っても何の音沙汰もない。手紙も来ない。
すると倫敦に、残酷な幻滅が夫人を待っていたのだ。良人のマクドオナルドは、グランド・ホテルに
新婚早々良人にどろんを極め込まれて、不幸な花嫁は、何が何だかわからなくなってしまった。泣きの涙、半分ヒステリーみたいになってブライトンへ帰って来た。が、それでもまだ、夫であり恋人である、あの男らしいマクドオナルドへの信愛は失わずに、これはきっと何かの往き違いで、良人はもう直ぐじぶんのところへ帰って来る。ともかく何とか便りがある筈、そして凡べてが笑い話しになるであろうと、自分へも、母を初め知人へも、毎日のように言いつづけていた。
そのうちに、日は週に、週は月に――こうなるとマクドオナルド夫人も、すっかり望みを捨てて、寂しい元の名のエンマ・ダッシュにかえる。よくある詐欺結婚の犠牲にされて貞操を奪われたのだ。――彼女自身も、周囲の人々も、この見解に一致して来ていた。
と、その年の七月二十八日のことである。
ここまではあり触れた話しで、別に大騒ぎして書き立てる程のことではないが、これからが大変だという。その「事実は小説よりも奇怪」な事実が持上ったのだ。
あの、マクドオナルド、ダッシュ両家の結婚式に列して、クラレンドン・ホテルの披露会にも出席した、親類ではないが、ダッシュの家の近処に住んでいて、エンマなど実の伯父さん同様にしているバアト・カックスレイという人がある。丁度上京して、倫敦でぶらぶら遊んでいると、ウオラム・グリインに肉商組合の仮装舞踏会が催されて相識のあるところから招待を受けた。暇つぶしに出掛けて行って、会場へ這入ると直ぐ、そこの群集のなかでバアト・カックスレイの眼に止まった最初の人物こそは、あの「消えた花婿」アラン・マクドオナルドだった。
カックスレイははっとして、そっと此方から一挙一動を見守っている。
マクドオナルドに間違いはない。が、一応念のため、世話役を掴まえて訊いてみた。
「あそこに、
「何人です、
「何うもそうらしいですな」
カックスレイはそう言って、いま、一隅の
いきなり、平手で大きく背中を叩いて、
「よう! マクドオナルド船長!」
「久し振りですな。何うしましたい。人が悪いですよ。今まで何処に隠れていたんです。奥さんのエンマ・ダッシュさんは、ブライトンであなたのことを想って心臓を[#「心臓を」は底本では「必臓を」]擦り切らしていますよ。可哀そうに」
暫らくして、言った。興味もなさそうな、静かな声なのだ。
「ミス・ダッシュですって? そんな
ほんとうに別人なのか、それとも巧妙に白ばくれているのか、こう言い切ると、彼はさっさとカックスレイに背を向けてしまったが、これでカックスレイも、はい、そうですかと引込む訳には往かない。押し切って難詰すると、マクドオナルド――若しくはマルコルムは、狂人だとばかり相手にしようとしない。カックスレイも口惜しがって、到頭口論になってその場は打ち切ったが、早速ブライトンへ電報を打ってエンマ・ダッシュを呼び寄せる。取る物もとり敢えず上京したエンマは、バアト・カックスレイと、その舞踏会の世話役に伴れられてコンプトン・マルコルム方を訪問して、一眼でマルコルムを「良人」の「アラン・マクドオナルド船長」と
マルコルム、又はマクドオナルドは、頑強に否定し続けたが、二重結婚となると嫌疑だけでも重い。即座に収容されたのだった。
コンプトン・マルコルムという倫敦スミスフイルド区肉商組合の一使用人が、冷蔵船コルコラン号船長アラン・マクドオナルドと名乗って、ブライトンで、エンマ・ダッシュを誤魔化して重婚しただけのことだろう。
と、ここまではあり触れた話しで、格別大騒ぎして書き立てる程のことでもないが、これから後が大変なのである。矢張りこの事実は、「小説よりも怪奇な」そしてその最も怪奇な一つでなければならない。
裁判は十一月に、オウルド・ベェリイ法廷で開かれたが、これが公衆的昂奮を呼んで、英国中の注意を奪った。尤も、最初は、事ごとに被告にとって著しく不利に見えて、普通の重婚罪、単純な詐欺結婚の裁判でしかなかった。ブライトンから多勢の証人が喚問されて法廷に立ち、その尽くが、被告は、去る四月、エンマ・ダッシュ嬢が欺かれて結婚した当の男に断じて相違ないと陳述したのだ。
エンマ自身、何ら

次ぎにエンマは、結婚の翌朝、彼が
もう一つ、マルコルムの有罪を殆んど決定しそうに視えた致命的な証拠は、彼が、アラン・マクドオナルドとして、自分はその船の船長であるとエンマ・ダッシュに話した、冷蔵船コルコラン号と彼との間の事実上の関係である。同船はその年の初頭にニュウ・ジイランドから倫敦へ冷凍肉を運んで来て、その肉類の一部は、コルコラン号から直接マルコルムの雇われている会社へ捌かれたことが判明したのだ。この、肉の陸上げ、売買等に関して、積荷証書、送り状など一切のことを扱ったのはマルコルムだった。つまり、コルコラン号という船の名と、それに附随する些少の知識とは、こうしてこの頃から彼にあった訳である。とすると、自称マクドオナルド船長が、とっさに何か船の名を頭へ上せなければならない必要に迫られた時、無意識に選んで、この最近交渉のあったコルコラン号の名を口に出すのは、果して不自然であろうか――検事の論告はこの点へ集中されて峻烈を極めた。
同時に、エンマ・ダッシュの他に、各独立の証人が続々現れて、一同言い合わしたように、このコンプトン・マルコルムとアラン・マクドオナルドは、一人の同じ人間であると誓って申立てた。先ず二人を結婚させたブライトンの聖ジェイムス教会牧師ロウレンス・コインス師が、何の疑いもなくそう確証している。コインス師は、あの結婚式をよく記憶えていた。それに到る過程にちょっとロマンティックな噂があったし、エンマは
結婚式に手伝った牧師補チャアルス・エルストンも、この証言を裏づけたし、式に列した人々、披露の宴に招ばれた客、それらの全部が、マルコルムとマクドオナルドは異名同人であるという、おなじ意見だった。その他、エンマとマクドオナルドが初めて会った三月二十九日に二人をルイス町へ乗せて行った馬丁、結婚式の四月四日の夜、新婚旅行にチャイチェスタアまでドライヴした御者、ホテルの給仕人、部屋付きの女中、
アラン・マクドオナルドことコンプトン・マルコルムの重婚罪は、これで少しの疑問もなく立証されたようなものだった。
が、三度び、ここまではあり触れた話しで、特に大騒ぎして書き立てるにも当らない。しかし、これからが何とも怪異なので、今までのところは、この不可思議な事件の、実は余り不可思議でない半分に過ぎないのだ。
楯は両面から見べきもの、話しも、片方の言い分だけ済んでも、他の側が済まないうちは、済んだ方も終りにならないのである。こうして原告側の証人調べが一段落ついて、次ぎに被告の申請した証人を喚問してみると、ここに驚いたことには、事件は全然別の色彩を帯びて来てマルコルムの重婚罪は根底から覆されそうになったのだ。
この市井の小さな一裁判沙汰が、神秘極まる謎として英吉利中の人気を沸かし、到るところで、「消えた花婿」事件を報道している新聞の奪い合いをさせたのは、実に、これから以後の意外な転化に依るものだった。
マルコルムにとって有利な証言をした最初の人は、彼の働いている倫敦スミスフイルド区肉商組合附属の
ホルトは曰く。
「マルコルムがマクドオナルドとして、ブライトンでエンマ・ダッシュ嬢と初めて会ったという、今年の復活祭週、三月二十九日の日曜日には、彼は、午前十一時に、私と一緒に市場の附近の
この反証を後援して、スミスフイルド区諸聖徒教会の牧師、補司、何時も教会でマルコルムの隣席に坐る男などが名乗り出たばかりでなく、マルコルムの妻シンセア、附近の人達、市場の仲間が多勢次ぎつぎに現れて、マルコルムがエンマ・ダッシュと結婚してチャイチェスタアへ新婚旅行に出掛けたという、その問題の前後を通じて、彼はずっと平常の通り倫敦の自宅にいて毎日市場へ出勤していたと、口を揃えて申立てた。こうなってみると、これだけの人間が皆間違えているとも、何うしても思えないのである。
そのうちに最も有力と目すべき逆証が挙がって来た。
コンプトン・マルコルムは、クラアクンウエル街八三三番のアパアト住いをしているのだが、マルコルムとエンマ・ダッシュが新婚旅行にチャイチェスタアへ[#「チャイチェスタアへ」は底本では「チァイチェスタアへ」]行っていた筈の四月六日の月曜日、午後十時半に、そのクラアクンウエル街の、マルコルムの家から少し離れたバアクナムという文房具店に火事があって、附近の者が駈けつけて
ブライトンで恋を語っていたマクドオナルドと、倫敦で芝居小屋の前の切符を買う列に加わっていたマルコルムと――チャイチェスタアで新婦の口に熱い接吻を押していたマクドオナルドと、同じ時刻に、倫敦で近火の消防に眼覚しい活躍をしていたマルコルムと、――調べれば調べる程、どっちも事実らしいのだから、厄介である。
判決は延期されて、第二回の公判が翌十月十六日から二十四日まで続行されたが、徒らに原被両側について同じ主張と証拠が躍気になって反覆されただけだった。ただ、相当知名な倫敦の一歯科医が、被告マルコルムの問題の絲切り歯は、四月十八日というから、エンマ・ダッシュがマクドオナルドと結婚して、そして新夫が失踪してからずっと後の日取りになるが、たしかに自分が診察して抜いたものだと申出て、一時ちょっと被告のほうが有利な立場に置かれ、全部のマルコルム・ファン――もう国中エンマ派とマルコルム党と両々対峙して侃々諤々の討論になっていた――をしてほっと安堵の胸を撫で下ろさした。と思うと、今度は直ぐブライトンでマクドオナルドが泊っていたホテル・ヴィクトリアの主人主婦、ホテルの酒場の女中、それに、披露の宴を張ったクラレンドン・ホテルの番頭、給仕などが大挙法廷へ押し掛けて、誰が何と言っても「そのマルコルム」こそはあの「キャプテン・マクドオナルド」であると、糺弾の指を一せいに被告へ向けてやんやとエンマ組の喝采を博したりした。
で、何処まで往っても同じことだが、コンプトン・マルコルム、果してアラン・マクドオナルド船長だ?――ったのか恐らく神様だけが御存じだろう。が、人間の世界では、それでは済まない。何とか片をつけなければ法律の威厳と公衆の好奇心が納まらない。そこで同一人――若し同一人なら――が同時に二個処に出現するなんて科学を無視し、一般に受入れられている概念を揶揄して不届き極まるというんで――そしてまた、もし別の人間なら「そんな紛らわしい
一八八五年の英吉利らしい話だ。