消えた花婿

牧逸馬





 ブライトンと言えば、倫敦を控えて、英国第一の海岸の盛り場である。
 殊に週末旅行に持って来いのところから、日曜が賑う。
 この三月二十九日も、日曜日だった。
 海の季節シイズンとしては、すこし早過ぎるが、ちょうど復活祭のお休みとかち合ったのと、何しろお天気がいい。英吉利のこの時候は、大抵嫌な氷雨が降り続くのだが、今日はからりと晴れ渡って、微笑する海だ。潮のにおいを運んで来る風だ。外套を脱いだ女達、霧と煤煙と事務机を忘れたサラリイマンの群、大変な人出だった。
 有名な磯伝いの散歩街プロムナードは、着飾った通行人の行列で、押すな押すなである。みんな、何か素晴らしいいたずらはないかといったような噪気ぎ切った顔で歩き廻っている。
 エンマ・ダッシュも、その華やかな散歩者の一人だった。最初の若さはずっと通り越したがそれでも、まだ充分美しいところの残っている女で、実際、自分では、「アバウト二十九歳」などと言っていた。
 が、血色のいい、綺麗な顔をしていて、身体つきも、すんなりと悪くない。殊に、眼に魅力があった。本人もその眼には絶大な自信があって、老嬢らしい冒険心から、よく男達へ秋波のような視線を送っては、ひとりで悦んでいたものとみえる。この場合がそうで、それに端を発して、この、人間の歴史初まって以来最も不可解な一つとされている「消えた花婿」事件の展開となったのだが、僕はこれを、最も不可解な中でも最も不可解な出来事であるとするに、※(「足へん+寿」、第4水準2-89-30)躇しない。
 男盛りといった、厳丈な体格の中年の紳士が、向うからやって来てエンマと擦れ違った。そして、通りすがりにちょっと、エンマへ微笑して行ったのだ。エンマ・ダッシュも、例の得意の流眄を呉れて、にっこりしたことは勿論である。男に聞えるように、煙りのような陽気な笑い声を立てて、何気なくとおり過ぎた。暫らくその儘の歩調であるいて行ったが、直ぐ男が引っ返して来ることを期待するかのように、それとなく足を緩めて、待ち合わせるような態度そぶりを示した。
 立ち停まって後を見送っていた男は、果してこの招待的な意味を汲んで、廻れ右をした。急ぎ足に、たちまち追いついてきた。軍人のような、陽に焼けた顔の、立派な紳士である。
 騎士的に、慇懃に帽子を脱って、
「もし人違いでしたら御免下さい」てきぱきした、男らしい声だ「確かに何処かでお眼に掛ったような気がするんですが――。あそうそう、あ、そこのダンスで――あの、会館パブイリオンの慈善舞踏会。御存じでしょう、私を。アラン・マクドオナルドというんです。マクドオナルド船長――キャプテン・マクドオナルド、まさかお忘れになりはしないでしょう?」
 一息に言って、にこにこ覗くように女の顔を見た。
 エンマ・ダッシュ嬢も、自慢の眼へ一層の魅力を罩めて、適度にほほえみながら、
「あら、左様でございましたか。ついお見外れ致しまして――」若わかしい媚態だ。「ええ、存じ上げておりますわ、多分ね。ほほほ、でも、そんなこと仰言っても無理でございますわ。だってあたくし方々のダンスへ参りますもの。そして、ダンス場では、色んな方にお眼に掛りましょう? 一々おぼえてなんかいませんわ。ですけど、マクドオナルドさんなら、ほんとに、いつか御一緒に踊って戴きましたわね。あたくし、ダッシュと申しますの。エンマ・ダッシュよ」
 言うまでもなく、両方とも出鱈目なのだ。いま初めて逢ったことを承知の上で、只そんなことをいって会話の緒を切ったに過ぎない。心得たもので、マクドオナルド船長とエンマ・ダッシュは、これで見事に互いに自己紹介を済まして、可笑しくて耐らなそうな顔を見詰め合った。
 こんなことは、ブライトンと言わず何処でも、盛り場の季節シイズンには毎日のように見られる、ほんの鳥渡した恋愛小冒険なのだ。十中の八九、その場限りのもので、一、二時間の無害な交際でアイスクリイムのように消えてしまう。それから何うなるなどということは、先ず絶対にない。極く軽い海岸風景のひとつである。
 が、この、エンマ・ダッシュとマクドオナルド船長の場合は、その十中の八九のうちの八か九どころか、十一にでも当ったのだろう。嘘から出た真で、例外も例外、飛んでもない例外になってしまった。実に変てこなはなしから、事件が進むにつれて双方真剣に頑張って一歩も譲らず、日本では、人の噂は七十五日だが、西洋では九日間の話題という、全国の新聞の読者に一大センセイションを与えて、その九日間は愚か、今に到るまで解けない謎とされている。この怪異な現象の序幕となったのだった。
 アラン・マクドオナルドの様子は、はじめから妙に真剣だったという。往きずりに言葉を交したぐらいで、その一日か、長くて二、三日で、碌に進展しないうちに忘れられてしまう、海水浴場でのお祭気分の恋――そうした退屈しのぎの浮気とは、彼は考えていないふうだった。旋風的な愛を、エンマ・ダッシュに注ぎ出したのだ。エンマの嬌魅チャアムにすっかり呪縛された――そういって、恋愛の名において彼女のまえに手をひろげたものだ。
 このマクドオナルドは――彼自身の説明によると――経験ある航海家で、目下いまは、ニュウ・ジイランド冷凍肉会社に雇われて、冷蔵船コルコラン号の船長をしているとのことだった。長い航海に出ると、独りでは寂しいから、結婚して、妻と一しょに乗り込みたいと思っていたところだ。ミス・エンマ・ダッシュが若し都合が宜ければ、直ぐ自分と結婚して呉れないか。そして、次ぎの航海から、じぶんとともに地球の反対側の遠い旅へ出よう。船は、三週間以内に出帆する予定になっている――。
 会って一時間ばかりしてから、附近のルイス町へドライヴする馬車の中で、マクドオナルドは、もうそんなことを言い出していた。町では、彼は一流のホテルの食堂で、この発見したての恋人のために、洒落た晩餐と高価な三鞭酒シャンペンを命じた。
 おまけに、帰途かえりに花屋へ寄って、一ソヴェレンも出して素晴らしい花束を買ったり、女の好きそうな菓子を土産に持たしたり、ひたすら歓心を獲るに努めたとある。何んな男かまだよく判らないが、兎に角、決して吝嗇ではないという、甚だ好ましい第一印象をエンマ・ダッシュは受けたのだ。


 そればかりではなく、日曜日で店が閉まっているのに、宝石屋を叩いて無理に開けさせようとさえした。善は急げ――結婚指輪を買おうというのだ。この、船乗りらしい気の早さには、エンマも魔誤ついて、まあ! ほんとに仕様のない方!――といったような、好意に満ちた微笑を禁じ得なかったろう。が、謝るようにして、それだけは許して貰った。
「幾ら何でも、そんなに手っ取り早くは決められませんわ。あたくし、お母さんに相談しなければなりませんもの」
 エンマはうつむいて、靴の先で舗道の敷石への字を書いた――と、これは僕が心描するのである。
 しかし、要するに、女が結婚を申込まれた時の作法に従って、公式通りに、「お母さんに相談」を持出しただけのことで、そのとき既に彼女の心はイエスに一決していた。ことによると、これこそ、あの待ちに待っていた一生に一度の機会かも知れないのだ。そうだ。たぶん最後の機会だろう。若くつくって、そして若い気持ちでいても、こころの底で彼女は、正直のところ、「棚に載っかって埃りをかぶろうとしている老嬢」の一人であることに気がついていた。
 エンマの母ダッシュ夫人は、未亡人だった。長い間娘の結婚を待ち望んで来たので、異議を唱える訳はないのだった。小さな下宿屋を経営して、何うやらこうやら生活しているものの、決して困らないという状態ではない。公債や何かで、母の名でいささか収入はいって来る金があって、一日も早く隠居してそれで居食いしたいと何時も言い暮らしていたけれど、やっと一人口を糊するに足るものが、母娘ふたりに不充分なことは判り切っているので、エンマが独身でいるうちは、母も、何うすることも出来ない有様だった。
 で、翌朝、型どおりアラン・マクドオナルドが正式にダッシュ家を訪問して、令嬢エンマと結婚したいが許して貰えまいかと母へ申込んだ時、ほんの形式として、二、三前提的な質問があった後、待ち構えていたように母が承諾したのは当然だった。男から女へ指輪が渡されて、二人は公式に許婚の間柄となった。
 初めからの約束で、この許婚の期間は前代未聞に短かった。電光石火式に結婚したのである。「善き金曜日グッド・フライデー」の次ぎの日というから、四月四日土曜日に、特別結婚証書を受取って、その日に、ブライトンのセントジェイムス教会で式を挙げた。英国には親戚も[#「親戚も」は底本では「親威も」]友人もないといって、花婿マクドオナルドの側からは誰も列席しなかった。エンマのほうからは十人ばかり参列して式後、披露の宴とあってクラレンドン・ホテルで、一同マクドオナルドの費用で大盤振舞いに預かったりしている。
 新婚旅行には、チャイチェスタアへ出掛けたが、これも、マクドオナルド式に眼まぐるしい旅で、土曜日の夜、披露の席から発ったのが、三日後の火曜日にはもうブライトンへ帰って来た。そして、近いうちにコルコラン号がニュウ・ジイランドへ向けて出帆するについては、自分だけ一足先に乗り込んで、細君エンマの船室や何かその他彼女を迎える準備をして置かなければならない。用意が出来次第、一両日中に呼びに来るから――そう言ってキャプテン・マクドオナルドは、その晩、八時四十分ブライトン発の汽車で、ひとりで倫敦へ出て行った。
 エンマ・ダッシュ嬢――ではない、もうマクドオナルド夫人だが、彼女は、母親の下宿屋へ帰って、一日千秋の思いで良人の船から呼びに来るのを待っている。が、いくら経っても何の音沙汰もない。手紙も来ない。使者つかいも電報もないのだ。四日過ぎた。それでも熟んだでも潰れたでもないので、痺れを切らしたマクドオナルド夫人は、心配の余り、意を決して自分のほうから倫敦へ駈けつけたのだが――。
 すると倫敦に、残酷な幻滅が夫人を待っていたのだ。良人のマクドオナルドは、グランド・ホテルに止宿とまっているとのことだったが、行ってみると、そんな人間は宿帳レジスタアに載っていない。ロイドの海員協会へ訊き合わせたところが、成程、ニュウ・ジイランド冷凍肉会社の傭船でコルコラン号という船があることはあるが、近日英国を出帆するなどは、飛んでもない間違いで、いまニュウ・ジイランドから帰航の途にあって今頃は大方大洋の真ん中だろうという返答である。おまけに、コルコラン号の船長の名は、マクドオナルドではないというのだ。
 新婚早々良人にどろんを極め込まれて、不幸な花嫁は、何が何だかわからなくなってしまった。泣きの涙、半分ヒステリーみたいになってブライトンへ帰って来た。が、それでもまだ、夫であり恋人である、あの男らしいマクドオナルドへの信愛は失わずに、これはきっと何かの往き違いで、良人はもう直ぐじぶんのところへ帰って来る。ともかく何とか便りがある筈、そして凡べてが笑い話しになるであろうと、自分へも、母を初め知人へも、毎日のように言いつづけていた。
 そのうちに、日は週に、週は月に――こうなるとマクドオナルド夫人も、すっかり望みを捨てて、寂しい元の名のエンマ・ダッシュにかえる。よくある詐欺結婚の犠牲にされて貞操を奪われたのだ。――彼女自身も、周囲の人々も、この見解に一致して来ていた。
 と、その年の七月二十八日のことである。
 ここまではあり触れた話しで、別に大騒ぎして書き立てる程のことではないが、これからが大変だという。その「事実は小説よりも奇怪」な事実が持上ったのだ。
 あの、マクドオナルド、ダッシュ両家の結婚式に列して、クラレンドン・ホテルの披露会にも出席した、親類ではないが、ダッシュの家の近処に住んでいて、エンマなど実の伯父さん同様にしているバアト・カックスレイという人がある。丁度上京して、倫敦でぶらぶら遊んでいると、ウオラム・グリインに肉商組合の仮装舞踏会が催されて相識のあるところから招待を受けた。暇つぶしに出掛けて行って、会場へ這入ると直ぐ、そこの群集のなかでバアト・カックスレイの眼に止まった最初の人物こそは、あの「消えた花婿」アラン・マクドオナルドだった。
 蘇格蘭スカットランドの郷土服を着ている。相変らず暢気そうに、上機嫌だ。眼ぼしい女を探し廻っては、片っ端からダンスしている。相手構わず戯談を投げかけている。大声に笑い散らしている。その顔、その声――カックスレイの故里くにのブライトンでエンマ・ダッシュが夢の間も忘れていないキャプテン・マクドオナルドその人なのだ。
 カックスレイははっとして、そっと此方から一挙一動を見守っている。


 マクドオナルドに間違いはない。が、一応念のため、世話役を掴まえて訊いてみた。
「あそこに、蘇国人ハイランダアの装をしている、あの方は何誰どなたですか。何処かで会ったことがあるような気がするんです――」
「何人です、彼男あれ? ああ、あれですか。マルコルム君というんです。コンプトン・マルコルム君。面白い男ですよ」と、世話役は、ここで素早く片眼をつぶって、「人間は面白い。が、女房持ちの癖に、あの通り女連中にあんまり愛嬌がいいんでね、ちょっと困りものでさ」
「何うもそうらしいですな」
 カックスレイはそう言って、いま、一隅の立食場ビュフェで酒杯を上げているマクドオナルドのほうへつかつかと進んで行った。
 いきなり、平手で大きく背中を叩いて、
「よう! マクドオナルド船長!」
 喫驚びっくりふり向いた顔へ、
「久し振りですな。何うしましたい。人が悪いですよ。今まで何処に隠れていたんです。奥さんのエンマ・ダッシュさんは、ブライトンであなたのことを想って心臓を[#「心臓を」は底本では「必臓を」]擦り切らしていますよ。可哀そうに」
 放心ぼんやりしているところを、不意にこのマルコルムことマクドオナルドを襲って、突嗟に、何らかの形で不用意な告白の言葉を吐かせよう――こう考えて、突如驚かしたのだが、これは頭から失敗したことに、カックスレイは直ぐ気がついた。わっはっは、いや、発見みつかりましたな。悪いことは出来ません――ぐらいのことを言って大声に哄笑ったのち、それから何とか誤魔化して逃げ出しに掛るだろうと思ったカックスレイの予期に反して、相手は、いったい何のことだ? と言ったように、白紙の驚きで、不思議そうに、じっとカックスレイを凝視めているきりだ。
 暫らくして、言った。興味もなさそうな、静かな声なのだ。
「ミス・ダッシュですって? そんなひとは存じません。何かのお間違いでしょう。第一、あなたにお眼にかかるのは今が初めてです。すぐ簡単に証明することが出来ますが、私の名はマクドオナルドではありません。マルコルムです。その上、私は数年前に結婚して、この倫敦に一しょに棲んでいる妻があります。幾ら人ちがいでも、あまり莫迦ばかしいことを仰言らないで下さい」
 ほんとうに別人なのか、それとも巧妙に白ばくれているのか、こう言い切ると、彼はさっさとカックスレイに背を向けてしまったが、これでカックスレイも、はい、そうですかと引込む訳には往かない。押し切って難詰すると、マクドオナルド――若しくはマルコルムは、狂人だとばかり相手にしようとしない。カックスレイも口惜しがって、到頭口論になってその場は打ち切ったが、早速ブライトンへ電報を打ってエンマ・ダッシュを呼び寄せる。取る物もとり敢えず上京したエンマは、バアト・カックスレイと、その舞踏会の世話役に伴れられてコンプトン・マルコルム方を訪問して、一眼でマルコルムを「良人」の「アラン・マクドオナルド船長」と認証アイデンチファイした。
 マルコルム、又はマクドオナルドは、頑強に否定し続けたが、二重結婚となると嫌疑だけでも重い。即座に収容されたのだった。
 コンプトン・マルコルムという倫敦スミスフイルド区肉商組合の一使用人が、冷蔵船コルコラン号船長アラン・マクドオナルドと名乗って、ブライトンで、エンマ・ダッシュを誤魔化して重婚しただけのことだろう。
 と、ここまではあり触れた話しで、格別大騒ぎして書き立てる程のことでもないが、これから後が大変なのである。矢張りこの事実は、「小説よりも怪奇な」そしてその最も怪奇な一つでなければならない。
 裁判は十一月に、オウルド・ベェリイ法廷で開かれたが、これが公衆的昂奮を呼んで、英国中の注意を奪った。尤も、最初は、事ごとに被告にとって著しく不利に見えて、普通の重婚罪、単純な詐欺結婚の裁判でしかなかった。ブライトンから多勢の証人が喚問されて法廷に立ち、その尽くが、被告は、去る四月、エンマ・ダッシュ嬢が欺かれて結婚した当の男に断じて相違ないと陳述したのだ。
 エンマ自身、何ら※(「足へん+寿」、第4水準2-89-30)躇するところなく、その完全に同一人であることを繰り返し断言している。彼女の結婚したアラン・マクドオナルドは――エンマが言う――絲切り歯が一枚い。結婚の晩に、この、年齢の割りには鳥渡異常な事実に気がついて、変に思ったのだった。裁判長が被告に命じて口を開かせると、案の条、絲切り歯が一枚ないのだ。
 次ぎにエンマは、結婚の翌朝、彼が頭髪あたまに櫛を当てている時、鏡に映って見えたのだが、前頭部の髪の中に、間違う可くもなく、すこし変った形をした傷痕があるのを認めたと言った。そこでまた被告の毛髪を分けてみると、その場処に、エンマの述べたのと寸分違わない、特種な形状の傷あとが発見された。
 もう一つ、マルコルムの有罪を殆んど決定しそうに視えた致命的な証拠は、彼が、アラン・マクドオナルドとして、自分はその船の船長であるとエンマ・ダッシュに話した、冷蔵船コルコラン号と彼との間の事実上の関係である。同船はその年の初頭にニュウ・ジイランドから倫敦へ冷凍肉を運んで来て、その肉類の一部は、コルコラン号から直接マルコルムの雇われている会社へ捌かれたことが判明したのだ。この、肉の陸上げ、売買等に関して、積荷証書、送り状など一切のことを扱ったのはマルコルムだった。つまり、コルコラン号という船の名と、それに附随する些少の知識とは、こうしてこの頃から彼にあった訳である。とすると、自称マクドオナルド船長が、とっさに何か船の名を頭へ上せなければならない必要に迫られた時、無意識に選んで、この最近交渉のあったコルコラン号の名を口に出すのは、果して不自然であろうか――検事の論告はこの点へ集中されて峻烈を極めた。
 同時に、エンマ・ダッシュの他に、各独立の証人が続々現れて、一同言い合わしたように、このコンプトン・マルコルムとアラン・マクドオナルドは、一人の同じ人間であると誓って申立てた。先ず二人を結婚させたブライトンの聖ジェイムス教会牧師ロウレンス・コインス師が、何の疑いもなくそう確証している。コインス師は、あの結婚式をよく記憶えていた。それに到る過程にちょっとロマンティックな噂があったし、エンマは幼女こどもの頃から識っているので、殊に興味をもって花婿なる人を観察したと言うのだ。紛れもなく、いま被告席にいるマルコルムが、あの時の花婿だった――と、コインス師は、お手のものの神様の御名に依って、断乎として誓言したのだった。


 結婚式に手伝った牧師補チャアルス・エルストンも、この証言を裏づけたし、式に列した人々、披露の宴に招ばれた客、それらの全部が、マルコルムとマクドオナルドは異名同人であるという、おなじ意見だった。その他、エンマとマクドオナルドが初めて会った三月二十九日に二人をルイス町へ乗せて行った馬丁、結婚式の四月四日の夜、新婚旅行にチャイチェスタアまでドライヴした御者、ホテルの給仕人、部屋付きの女中、玄関番ドアマン、ペエジ・ボウイ、無数の人間が被告マルコルムの首実検を[#「首実検を」は底本では「首実験を」]して、エンマ・ダッシュと同伴いっしょに夫婦として来たあの時の紳士に違いないと断定している。これらの連中がみんな取りちがえるということは、一寸考えられないのだ。最後に丁度マルコルムの決定書に有罪の封をするかのように、倫敦での彼の知人が二人証人台に立って、自分達はマルコルムを長い間識っているから、何処で会っても間違えるなどということはないが、確かにその春、復活祭の休みにブライトンへ週末旅行した時に、海岸の雑沓の中で彼に会って色いろ立ち話しをしたことがあると、新しい事実を提げて現れた。エンマとマクドオナルドの交際がはじまった頃と、立派に日日ひにちが合うのである。
 アラン・マクドオナルドことコンプトン・マルコルムの重婚罪は、これで少しの疑問もなく立証されたようなものだった。
 が、三度び、ここまではあり触れた話しで、特に大騒ぎして書き立てるにも当らない。しかし、これからが何とも怪異なので、今までのところは、この不可思議な事件の、実は余り不可思議でない半分に過ぎないのだ。
 楯は両面から見べきもの、話しも、片方の言い分だけ済んでも、他の側が済まないうちは、済んだ方も終りにならないのである。こうして原告側の証人調べが一段落ついて、次ぎに被告の申請した証人を喚問してみると、ここに驚いたことには、事件は全然別の色彩を帯びて来てマルコルムの重婚罪は根底から覆されそうになったのだ。
 この市井の小さな一裁判沙汰が、神秘極まる謎として英吉利中の人気を沸かし、到るところで、「消えた花婿」事件を報道している新聞の奪い合いをさせたのは、実に、これから以後の意外な転化に依るものだった。
 マルコルムにとって有利な証言をした最初の人は、彼の働いている倫敦スミスフイルド区肉商組合附属の中央鮮肉市場セントラルミイトマアケットの監督タルバット・ホルトだった。
 ホルトは曰く。
「マルコルムがマクドオナルドとして、ブライトンでエンマ・ダッシュ嬢と初めて会ったという、今年の復活祭週、三月二十九日の日曜日には、彼は、午前十一時に、私と一緒に市場の附近の諸聖徒教会オウル・セイントの礼拝に出席して、集まりが過ぎると直ぐに私の家へ来て昼食ランチを倶にし、午後四時に散歩かたがた下町へ出てドルウリィ・レイン座を覗こうとしましたが、幾ら待っても切符が買えないので、九時半頃諦めて帰る途中で別れました。はっきり記憶えています。その同じマルコルムが、その日ブライトンにいたなどと、そんなことは信じられません」
 この反証を後援して、スミスフイルド区諸聖徒教会の牧師、補司、何時も教会でマルコルムの隣席に坐る男などが名乗り出たばかりでなく、マルコルムの妻シンセア、附近の人達、市場の仲間が多勢次ぎつぎに現れて、マルコルムがエンマ・ダッシュと結婚してチャイチェスタアへ新婚旅行に出掛けたという、その問題の前後を通じて、彼はずっと平常の通り倫敦の自宅にいて毎日市場へ出勤していたと、口を揃えて申立てた。こうなってみると、これだけの人間が皆間違えているとも、何うしても思えないのである。
 そのうちに最も有力と目すべき逆証が挙がって来た。
 コンプトン・マルコルムは、クラアクンウエル街八三三番のアパアト住いをしているのだが、マルコルムとエンマ・ダッシュが新婚旅行にチャイチェスタアへ[#「チャイチェスタアへ」は底本では「チァイチェスタアへ」]行っていた筈の四月六日の月曜日、午後十時半に、そのクラアクンウエル街の、マルコルムの家から少し離れたバアクナムという文房具店に火事があって、附近の者が駈けつけて小火ぼやのうちに消し止めた事実がある。これに関連して、消防夫、警官、バアクナムの家人、傍観者など、各人間に関係のない証人が何人となく進み出て来てそのマルコルムなら、町内の者ではあり、自分達はみなよく知っているけれど、彼はあの晩いの一番に現場へ飛んできて消防夫や近隣の者と一緒に最後まで消火に努めた――一同この眼でたのだから、それ以上正確なことはないと、異口同音に陳述したのだ。が、一方マルコルムのマクドオナルドは、その時チャイチェスタアのホテルで、エンマ・ダッシュと倶に新婚の夢を追っていたことになっている。これは、当の花嫁エンマをはじめ、母親のダッシュ夫人、ブライトンの人々、チャイチェスタアへドライヴした御者、及びホテルの使用人全部が、一斉に主張して頑として譲らないところである。何方にしろ、これだけの人間の眼にすべて誤りがあるとは思えないから、このコンプトン・マルコルムと、あのエンマの良人「マクドオナルド船長」とは、妙な言い方だが、全然別人ではないらしいが、別人でないとすると、何うやら同一人のようだと言う、至極当然な、しかしこの場合甚だ曖昧な帰結に達するのだが、そうすると、そのおなじマルコルムが、時日を同うして倫敦とブライトン、チャイチェスタアに二人いたことになって、これではどうも英国人の誇る常識の手まえ些か不都合である。が、何といっても、そうとしか考えられない程それほど両方の証言ががっちりしているので、裁判長も陪審官も、新聞記者も国民も、どっちへ味方していいか見当がつかずに魔誤まごしてしまった。ほんとうのところは、未だに魔誤まごしているのだ。
 ブライトンで恋を語っていたマクドオナルドと、倫敦で芝居小屋の前の切符を買う列に加わっていたマルコルムと――チャイチェスタアで新婦の口に熱い接吻を押していたマクドオナルドと、同じ時刻に、倫敦で近火の消防に眼覚しい活躍をしていたマルコルムと、――調べれば調べる程、どっちも事実らしいのだから、厄介である。
 判決は延期されて、第二回の公判が翌十月十六日から二十四日まで続行されたが、徒らに原被両側について同じ主張と証拠が躍気になって反覆されただけだった。ただ、相当知名な倫敦の一歯科医が、被告マルコルムの問題の絲切り歯は、四月十八日というから、エンマ・ダッシュがマクドオナルドと結婚して、そして新夫が失踪してからずっと後の日取りになるが、たしかに自分が診察して抜いたものだと申出て、一時ちょっと被告のほうが有利な立場に置かれ、全部のマルコルム・ファン――もう国中エンマ派とマルコルム党と両々対峙して侃々諤々の討論になっていた――をしてほっと安堵の胸を撫で下ろさした。と思うと、今度は直ぐブライトンでマクドオナルドが泊っていたホテル・ヴィクトリアの主人主婦、ホテルの酒場の女中、それに、披露の宴を張ったクラレンドン・ホテルの番頭、給仕などが大挙法廷へ押し掛けて、誰が何と言っても「そのマルコルム」こそはあの「キャプテン・マクドオナルド」であると、糺弾の指を一せいに被告へ向けてやんやとエンマ組の喝采を博したりした。
 で、何処まで往っても同じことだが、コンプトン・マルコルム、果してアラン・マクドオナルド船長だ?――ったのか恐らく神様だけが御存じだろう。が、人間の世界では、それでは済まない。何とか片をつけなければ法律の威厳と公衆の好奇心が納まらない。そこで同一人――若し同一人なら――が同時に二個処に出現するなんて科学を無視し、一般に受入れられている概念を揶揄して不届き極まるというんで――そしてまた、もし別の人間なら「そんな紛らわしい容貌かおをしているだけでも人騒がせで公安に害ある」とあって、兎に角、コンプトン・マルコルムは二重結婚として最も重い七年懲役の刑を宣告された。
 一八八五年の英吉利らしい話だ。





底本:「世界怪奇実話※(ローマ数字1、1-13-21)」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
※誤植を疑った箇所を、「世界怪奇實話全集 第二篇 運命のSOS」中央公論社、1931(昭和6)年8月2日発行の表記にそって、あらためました。
※「鳥渡」と「一寸」の混在は、底本通りです。
入力:A子
校正:mt.battie
2023年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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●図書カード