ロウモン街の自殺ホテル

牧逸馬





 ホテル・アムステルダムの女主人マダムセレスティンは、三階から駈け降りて来た給仕人ボーイの只ならぬ様子にぎょっとして、玄関わきの帳場から出て来た。
 巴里人らしい早口で、
「何をあわてているんです、ポウル」
 給仕人のポウルは、これも巴里人らしく鷹揚に眼を円くして、
「三階の十四号室へ朝飯プチ・デジュネを運んで行ったんですが、扉が固く閉まっていて、いくら叩戸ノックしても返事がないんです」
「三階の十四号?――ああ、ウィ・ウィ! あの、英吉利の紳士さんでムッシュウ・テイラアふうむ、眠ってでもいるんだろうよ。ポウル、一緒に来て御覧」
「何て世話の焼ける英吉利人だろう!」――と、舌打ちをした女将マダムセレスティンは、ぐいと女袴スカアトの膝を掴むと、先に立って階段を昇って行った。自分で起そうというのだ。
 が、何時も早起きで、几帳面なテイラアである。今朝に限って何うしたというのだろう? 何か間違いがなければいいが――と、うっすらした不安を感じながら、やがて三階、十四号室の前である。
 成程、割れるようにノックしても、室内なかはしいんとしている。内部から鍵が掛っているのでマダムは、ヘヤピンを鍵穴へ差込み、鍵を向うへ落して置いて、自分の持っている親鍵でドアを開けた。
 同時に、恐しい叫び声が女将の口を走って、彼女は、背後に続くポウルの腕へ倒れ掛った。凄惨な光景が室内に待っていたのだ。発見者二人は、部屋へ這入るどころか、一眼見るが早いか其の儘逃げるように階段を転げ落ちて、すぐ附近の警察へ電話をかける。ロウモン街の分署からモウパア警部が、直ちに部下を引き連れて駈けつけて来た。ジェリィ菓子のように顫えているマダム・セレスティンの案内で、一行は跫音を鳴らして三階へ跳び上る。マダムは呼吸を切らして呶鳴りつづけていた。
「Il est mort, il est mort ――死んでるんですよ! 死んでるんですよ!」
 一九〇六年、十月八日の午前十時頃だった。
 巴里のロウモン街に、オテル・ダムステルダム――アムステルダム・ホテルというのがあった。所有主は変ったが、同じ名前で今でもやっている。英国の宝石商ブルウス・テイラアが、南阿弗利加から巴里へ来て、このホテルへ止宿ったのは、事件の起る三日前の十月五日だった。テイラアは、南阿産の金剛石ダイヤモンドを巴里の市場へ捌きに来た者で、仕上げカットしたダイヤや、まだカットしない砿石いしやらを、石ころか何ぞのように無造作に紙に包んで身体中のポケットに押し込んでいた。不注意なようだが、これが一番安全な携帯法で、彼は寝る間も洋服を脱がなかった。つまりダイヤモンドと、文字通り起居を緒にしていた訳である。
 部屋は、表三階の十四号室、二つの窓がロウモン街の往来を見下ろしている、広い、小綺麗な寝室だった。ブルウス・テイラアは仏蘭西語を話さないので、あまり外出もしない。秋の巴里は重く曇って、ともすれば黒い雨が通り過ぎる。テイラアは毎日喫煙室の隅に腰掛けて、ホテルの主人の和蘭人ミニィル・ヴァン・デル・ヴェルドを相手に、南阿弗利加の和蘭岬ケイプ・ダッチのことなどを、和蘭語まじりの英語で話し込んでいた。ヴァン・デル・ヴェルドは、一体無口な男だったが、このブルウス・テイラアとは、性が合うとみえて、珍らしく饒舌だった。テイラアは、身につけている宝石のコレクションをよく取り出しては、魅了されたヴァン・デル・ヴェルドの眼の前に並べて見せたりしていた。この、ホテル・アムステルダムの主人も、以前は宝石商人で、殊にダイヤモンドには深い興味と経験を有っているのだった。

 前の晩、テイラアは早く寝に就いた。丁度その時三階には、その十四号室のテイラアのほかに客はなかった。静かな一夜が明けて、八日の朝である。「大陸の朝飯コンチネンタル・ブレクファスト」といって、朝は珈琲コーヒーと巻麺麭パンにきまっている。いつもの時間に給仕人ボーイのポウルが、それをテイラアの部屋へ持って行ったのだが、呼んでも叩いても応答こたえがないので、前に言ったように帳場へ下りて女将セレスティンを呼んで来て、発見するに至ったのだ。
 ホテル・アムステルダムは、旧式な建物だった。万事古風に出来ていた。壁に、巌丈な鉄の鉤が打ち込んであって、それに重い窓掛カアテンを通す鉄棒がかかっている。ブルウス・テイラアは、カアテンを片寄せる強い組紐で首を吊って、その鉤からぶら下がって死んでいた。顔が、別人のように青くふくれて、無機物の眼を大きく見開いて寝台のある反対側の壁へ、かっと、見えない凝視を投げつけていた。それは、恐しい形相だった。何ごとか名状出来ない恐怖とショックが原因で縊死したことを示していて、こんなことには慣れている筈のモウパア警部さえ思わず顔を外向けた程だった。が、自殺であることは疑いを容れない。しかも、死にたい衝動、或いは、死ななければならない理由が何んなに強かったか――その証拠に、テイラアはきちんと膝を折り、足首を腿へ縛りつけて、足が床へ着かないように注意して吊り下がっているのだ。鉤が割りに低いところにあり、綱が長いので、普通なら身長せいが届いて縊死の目的は達せられないのである。
「驚きましたな」モウパア氏に随いて来ていた刑事の一人が、感心して言った。「意思の強いやつですな。苦しくなると、この、足を縛ってある布ぐらい引き千切って立ってしまいそうなものですがね」
 ある筈のダイヤモンドが自殺者のポケットからも荷物からも、一つも現れなかった。検屍した医師も、モウパア警部と同意見で、自殺というほか何ら説明のしようがない。これはこれで英国人の不思議な自殺として片附けられたのだった。
 二週間経った。テイラア事件は、忘れられかけて来た。すると、今度は仏蘭西人で、女将セレスティンの知りあいのカルヴァルという男が、やはりこの三階の十四号室で、同じ状況の下に自殺して大騒ぎになった。十四号室には、その二日前から、ブリュッセルの宝石屋ヴァルダン氏というのが泊っている。勿論テイラア自殺事件のことは、ヴァルダンの耳へ入れないように注意していたのだが、その朝テイラアが、自殺した時泊り合わせていた白耳義ベルギイ人――ヴァルダンと同国人――が投宿して、その男の口から、二週間前の十四号室の悲劇がヴァルダンに知れてしまった。誰だって気味が悪い。早速他の部屋へ移すか、さもなければここばかりがホテルではない、直ぐ出るという、強硬なヴァルダンの掛合いを受けて、マダム・セレスティンはすっかり当惑した。折悪しくホテルは満員である。仕方がない。知人だから無理を肯いて貰おうと、二階の一室を取っているカルヴァルに訳を話して頼んだのだった。お顧客にホテルを出られては誠に面白くない。どうか私のために部屋をとり更えてくれというのだ。カルヴァルも、十四号室の出来事は聞いて知っているから、あまり好い気持ちはしなかったが、相識のマダムの言うことだから、厭ともいえない、内心渋しぶと、だが、表面快く、宝石商ヴァルダンと部屋を交換して、ヴァルダンが二階へ、カルヴァルは三階の十四号室へ――これが金曜日のことで、翌土曜日の朝カルヴァルはテイラアと同じに窓掛棒カアテン・ボウルを支える鉤に引き綱をかけて縊死しているのを発見された。テイラアが自殺したのも、金曜から土曜日へかけてだった。


 矢張り、坐る時のように脚を二つに折って、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いても伸ばさないように足首を腿のところへ縛りつけていたが、背の高い男なので、膝頭が、ほとんど床と擦れすれだった。顔の変色、物凄い表情など、その他すべて、ブルウス・テイラアの場合と完全におなじだった。
「暗示の力を語る、奇妙な、しかし不可能ではない素晴らしい実例です」
 屍骸を審べた医者が、言った。
「丁度、高いビルデングの頂上から下を覗くと、跳び下りたくなったり、線路の傍に立っていて、驀進して来る汽車の車輪の下へ、ふらふらと吸い込まれそうな気がするあの気もち――あれと同じ事で、前の例がこの人の心理に作用して、何うしても、真似をせずにはいられなかったのです」
 言うまでもなく、自殺であろう。自殺に相違ない、とあって警察も型通り前後の模様を聴取しただけで、手を引く。ただモウパア警部だけは何か気になる様子で、家具、寝台、床などを見廻ったり、壁を叩いてみたりしていたが、勿論これといって怪しい点のある訳もなく、調べはそれで済んだ。その日、止宿人の大半は宿を換えてしまった。
 マダム・セレスティンは悲観の底に沈んでいる。
「このホテルも、これでおしまいです」頭を抱えて、泣き声だった。
「おしまいです。こう縁起でもない事件が続いて、不吉な評判が立っては、もう誰も泊りに来る人はないでしょう。ああウィ! だれかあの三階の十四号室に一夜を明かす人があったら、百フランやってもいい! 誰かしっかりした、自殺なんかしない人で――」
 これは、マダムとして、この場合思いつきの策だった。神経の太い人にその自殺室――じっさいもう三階の十四号には、ホテル・アムステルダムの自殺室という有難くない綽名がついてそろそろ口さがない巴里童の噂に上りつつあった――に暮らして貰って、部屋そのものは何ら人命に関することのない事実を、身をもって証明して貰わなければならない。遠のいて行く客足を引き止めるには、それが第一である。刻下の急務である――というので、百法の懸賞つきで勇士の現れるのを待ってみたが、近処の男達もみな尻込みして、この英雄の役を買って出ようという者はないのだ。
 モウパア警部の部下で、二度の自殺事件にホテルに検証に来た警察官の一人に、カミィル巡査というのがあって、二、三日してから、このことを聞きこんでぶらりとホテル・アムステルダムへやって来た。
 女将の前に立って、暫らくもじもじしていたが、
「マダム・セレスティン、正直に言いますが、巡査の給料なんて、僅かなものですよ。だから私は、貧乏なんです。恐しく貧乏です。が、私は軍隊の経験もあって相当勇敢なつもりです。阿弗利加のスウヴアの兵営に七年もいましたからな。幽霊だって、悪魔だって、ちっとも怖くはない。で、十四号室に泊ってもいいんだが、その代り百法は確かだろうね」
 マダムは、巡査の両頬に片っぽずつ接吻して「おお私の勇士!」「わたしの救い主」と叫んだ。直ぐ約束が成立して、カミィル巡査はその晩からホテル・アムステルダムの客となった。おやじのヴァン・デル・ヴェルドは、ふんとうそぶいて、ぼんやり首を振りながら、ジンの酒杯を傾けていた。自殺がつづいて客が減り出してから、おやじは何もしないで酒ばかり飲んでいるのだ。

 可哀そうなマダム・セレスティン、その夜まんじりともしなかった。何度となく三階へ上って、十四号のドアの外に聞き耳を立てたが、そのたびに健康そうな、大きな鼾に安心して、自分の寝室へ帰った。先ず、何事もないらしい――。
 夜が、明けた。
 カミィル巡査は貪るように珈琲コーヒーを飲んで、大元気だ。どしんと卓子テエブルを叩いて、
「素敵だ!」叫んだものだ。「これあ巡査をしてるよりよっぽどいい。こんなことで、一晩に百法儲かるなんて、まるで嘘みたいな話しだ。やわらかい寝台と、すばらしい朝飯と、それに、金がついてる、仕事と言っては、手足を伸ばして眠るだけだ。こんな口が暫らくつづいて呉れるといいんだがな」
 この、ホテル・アムステルダムの十四号室に昨夜ゆうべ誰か泊って、しかもその好奇ものずきな人間は朝になってもまだ生きている、という愕くべき報知は、瞬くうちに近処に拡がって、奇蹟のように人々に眼を見張らせた。迷信家は悲しげに十字を切りなどしながら、
「ウィ! しかし、今日はまだ木曜日じゃないか。金曜日の晩も泊ってみるがいい、そして、土曜の朝、生きて十四号室を出て来るか何うか――それこそ見ものだ」
「金曜は、悪魔の日だ。その夜十四号に眠るほどの馬鹿は、夜半に突然気が狂って、何とはなしに死の誘惑を受けて耐らなくなって自殺するに相違ない。あの部屋に棲む悪霊があいつの頭へ死の観念を注ぎ込むにきまっているのだ。黙って見ていよう」
 などと、私語き合った。
 女将セレスティンは躍起になって、
「あの部屋を締め切って、扉も窓も釘づけにしてしまおう。あそこにだけ悪魔が居るなら、それでいいわけです。私は二十年もこの建物に住んでいますが、ほかの部屋には、何ひとつ変った事のあったためしはありません」
 が、ゴシップは喧ましくなる一方である。
「あの英吉利人は、気が違って自殺したのだ。その幽霊が、空気のように十四号室に残っている。部屋を閉めきりにしたって幽霊のことだから、自由に他の室へ出掛けて行くだろう。ホテルを売って立ち退くのがマダムのためだ」
 という、取り沙汰だ。
 隣家の支那人骨董商リイ・ハン・フウは、事実、値段によっては居抜きでホテルを買ってもいいと、価額の相談まで持ちかけて来たが、女将は、一言の下に拒絶した。そして、ショウルを引っ掛けて警察へ走ると、前夜自殺室に眠った勇敢なる巡査カミィルを掴まえて、
「金曜日の晩、もう一度あの部屋に泊ってみて下さい。また百法差上げます」
 カミィルは、大よろこびで膝を叩いた。
「承知しましたとも、マダム。百法ずつ下さるなら、幾晩でもお望みの間ずっと泊り込みますよ」
 そこで、その金曜日の夜、カミィルは意気揚々とホテル・アムステルダムへやって来た。マダム・セレスティンの心尽しの晩餐だ。取って置きの葡萄酒の一壜だ。カミィル巡査はすっかり上機嫌になって、幸運に感謝しながら、やがて就寝時、三階の十四号室へ上って行ったまではいいが、次ぎの日の土曜日の朝、巡査は、屍骸になって前の二つの自殺と完全に同じ状態で窓掛けの鉤にぶら下がっていた。


 前述の通り、壁に、厳丈な鉄の鉤が打ち込んであって、それが、重い窓掛カアテンを通す鉄棒を支えている。勇敢なカミィル巡査は、カアテンを引く強い絹の組紐を頚に巻いて、その鉤からだらりと下がって縊死していた。顔が、別人のように青黒くふくれて、もう無機物の眼を大きく見ひらいて寝台のある反対側の壁へ、かっと、虚ろな視線を凝らしていた。それは恐しい形相だった。何事か名状出来ない恐怖とショックが原因で自殺したものらしいことを示していた。今度も、自殺であることは、疑いを容れない。しかも、死にたい衝動、憧憬、或いは、死ななければならなかった理由が何んなに強かったか――その証拠に、カミィル巡査は坐る時のようにきちんと膝を折り曲げ、タオルで足首を腿へ縛りつけて、足が床へ届かないように細心の注意を払って吊り下がっているのだ。鉤が比較的低いところにあり、綱が長いので、普通にやったんでは立ってしまって縊死の目的は達せられないのである。
 個人的に出かけたのだが、見張りに行った巡査まで自殺したとなると、騒ぎは大きい。巴里の心臓に幽霊ホテル、自殺室などと新聞は書き立てる。幾ら屍骸を検べても、暴力の痕跡は元より、何らの怪しい点は発見されないのである。やはり、その部屋に漂っている悪霊の雰囲気が、そこに眠っている者の意思を捉えて、死へまで導くものであろうということになった。二、三の新聞は、最も首肯され得る適当な説明を募って懸賞金を掲げたりして、巴里は勿論、全仏蘭西からもう大陸のセンセイションになっていた。今までは、近処の人のほか知る者もなかったロウモン街のオテル・ダムステルダムが、一躍巴里中の視線を集めて、その当座、巴里の話題といえば、この自殺室のことで持切りだった。広告にはなったが、有名になればなるほど泊る人はばったりなくなって、商売は上ったりである。マダム・セレスティンは泣きの涙、ただ焦慮やきもきするだけで、事件が霊界と密接な関係があるだけに、こればかりは何うにも人気の収拾がつかない。折から交霊学とか霊界通信とかいうことが盛んな時だったので、その方面の色いろな研究者や巫女のような連中が、続々現場のアムステルダム・ホテル十四号室へ押し掛けてそこに魔誤まごしているはずの幽霊を相手に会話をしてみようと試みたが、いうまでもなく、いずれも失敗に終って、一人として、この神秘――その真相に近づき得た者はなかった。そのうちに、日々新しい事件が起って来る。政治季節になる。新聞は、紙面の大部分を挙げて政変の報道に費す。「自殺室の不思議」は何時しか移り気な公衆に忘れられるともなく忘れられかけて来た。
 ここに、リカルド・ガリバルジという、莫迦に豪そうな名前の、若い医学生がある。
 貧しい青年で、広い巴里に、これという知り合いもない。田舎から出て来て、医者の免状を取ろうと、一生懸命に勉強している。
 以前は丸ぽちゃで、顔の赤い、威勢のよかった女将セレスティンが、今は青く痩せて、焦いらして怒りっぽく泣きっぽくなっているところへ、このリカルド・ガリバルジ君が飄然と現れた。もぞもぞした言葉つきで、その自殺室の怪を調査したいから許可して、便宜を計って呉れというのだ。はじめマダムは、首を振りつづけて聞こうともしなかったが、あまり五月蝿く自信あり気に頼むし、それに、既に一つの理論と成算を胸に抱いているというので、かすかな好奇心も動き、溺れる者が藁をも掴みたい気でいるマダム・セレスティンは、それならというのでその勇ましい名のガリバルジ青年をロウモン街分署のモウパア警部の許へ向けてやった。
「十四号室の鍵は、あれから警察で預かっているんです。誰もあの部屋へ這入ってはならないことになっていますから、第一に、係りの警部さんのお許しを得なければなりません」
 マダムは、ガリバルジを伴れて警察へ出頭する。

 さて、場面はここで、俄然極東の東京支那トンキン・チャイナへ――唐突にも――! 急転するのだ。
 が、その前に、この問題の「自殺ホテル」というのを、もうすこし観察的に見てみよう。
 巴里ロウモン街のオテル・ダムステルダムは、十八世紀風の古い、小さな建物である。写真で見ても判るとおりに、ロウモン街の角にあって、各階に四つずつの窓が往来へ向って開いている。白い石造の五階建てだ。この辺の巴里の下町の建築によく見るように、低い屋根裏にも幾つか部屋があって、窓が並んでいる。隣家は、支那人の経営する東洋美術骨董店で、大体余り上等な区域ではないが、ホテルは昔からやっているのと、静かで暴利ぼらないのとで、一部の商用を帯びた旅行者などには、よく知られていたのだった。大通りブルヴァウルへ出れば、宮殿のような金ぴかのホテルが幾つもある。が、それよりもこのホテル・アムステルダムあたりの古風な部屋と安直な宿料が有難いというので、一時は、と言うのは、つまり、「三階の十四号」が「自殺室」として、こうして巴里中に、仏蘭西じゅうに、いや、大きくいって全欧羅巴に有名になる迄は、可成り流行ったものである。客筋は、主として白耳義のアントワアプや、和蘭のアムステルダムからの宝石商人で、両市とも、ことに後者は独占的に世界の金剛石ダイヤモンド市場であるだけに、ダイヤモンド仲買人がホテル・アムステルダムの止宿者の大部分だった。と言うのは、ホテルのおやじのミニィル・ヴァン・デル・ヴェルド、この人は和蘭生れで、前身が金剛石屋だった関係からでもあろうが、しかしホテルのことは、元気の好い愛嬌もの女将マダムセレスティンが、一人で切り廻していたのだ。マダムは、何方かと言えば肥り気味の、お饒舌で世話好きで激情的な、典型的な巴里の下町っ児で、ホテル・アムステルダム自慢の家庭料理というのは、夫人自身が台所に立って、采配を振っているものだった。先夫に死なれて、尠からざる遺産とともにこのホテル商売を引き継ぐと間もなく、当時巴里とアントワアプの間をダイヤモンドを持って始終往ったり来たりしていた常客の一人と出来合って、結婚したのだった。この財産と、未亡人を狙って女将セレスティンの肥満った心臓の空隙すきまへ入夫して来たのがミニィル・ヴァン・デル・ヴェルド君である。ホテル・アムステルダムの主人公となってからは、マダムにばかり働かせて、すっかり好い気持ちに納まり返ってしまった。懶け癖がついて、日長一日のろのろしている。帳場わきの客間パアラアの椅子に、重い腰を下ろして、朝から晩まで、黒い細長い葉巻を吹かしている。安葡萄酒の壜を引きつけて、魚が水を飲むように、あおり続けている。結婚後、まるで人が変ったようだ。一日に一度、巴里の最高級商店街であるルュウ・ドュ・ラ・ペェへ出掛けて、そこのキャルティエだのブッシュロンだのの大宝石商の飾り窓に並んでいる素晴らしい金剛石を、物欲しそうに覗いて来るのを私かに唯一の楽しみにしているだけで、ホテルにいる時は何時も苦虫を噛み潰したような顔を据えて、無愛想に構え込んでいる。が、それにも係らずホテルは数年の間、先代当時の繁昌を保持して来たのだが――俄かにここに、「自殺ホテル」などと有難くない評判を取ることとなった。
 この、「ロウモン街オテル・ダムステルダムの自殺室」なる事件の記録は、一九〇七・八年の巴里版 Chronique des Taibunaux ―― Compte rendu des proces en Correctionelle に詳しく出ている。
 さて、文明の世にあり得べしとも思えない自殺室の探検を思い立った、リカルド・ガリバルジという、莫迦に豪そうな名前の、若くして勇敢なる医学生である。
 貧しい青年で、広い巴里に、これという相識もない、田舎から出て来て、医者の免状を取ろうと、一生懸命、ソルボンヌで勉強している。
 以前は丸ぽちゃで、顔の赤い、威勢の好かった女将セレスティンが、今は青く痩せて、焦いらして、怒りっぽく泣きっぽくなっているところへ、このリカルド・ガリバルジ君が飄然と現れた。もぞもぞした言葉つきで、自殺室の怪を調査したいから、許可して、便宜を計って呉れというのだ。英国の宝石商ブルウス・テイラアを第一に、お次ぎはカルヴァル、三番目は、木乃伊ミイラ取りが木乃伊になった形のカミィル巡査と、こう鳥渡の間に三つの自殺が、しかも完全に同じ状況の下に続発して、もうすっかり「死の部屋」として余りにも有名になっている三階の十四号室である。
 はじめマダムは、壮烈なガリバルジ君の申出にも首を振りつづけて、てんで聞こうともしなかった。


 が、あまり五月蝿く自信あり気に頼むし、それに、既に一つの理論と成算を胸に抱いているというので、微かな好奇心も動き、溺れる者は藁をも掴みたい気でいるマダム・セレスティンは、それならと言うのでその勇ましい名のガリバルジ青年をロウモン街分署のモウパア警部の許へ向けてやった。
「十四号室の鍵は、あれから警察で預かっているんです。誰もあの部屋へ這入ってはならないことになっていますから、第一に、係りの警部さんのお許しを得なければなりません」
 女将は、ガリバルジを伴れて警察へ出頭する。
 リカルド・ガリバルジ――哲学者と熱血将軍を一緒にした、兎に角、非道く英雄的な名前である。この姓名で安心した訳ではないが、警察で大議論やら大懇願の末、とうとう、そんなに言うなら、まあ、やってみなさいということになった。が、人の恐れる自殺室へ単身踏み込むのだから、モウパア警部も心配でならない。只では許せないとあって、前もって色いろ要心を採る。先ず苦笑している勇士ガリバルジ君を、御丁寧に医師に健康診断させた。かかることを思いつき、且つ執拗に主張するだけに、既に幾分精神に異常を呈しているのではないか何うか、妖怪などという比較的強烈な刺戟に耐え得る精神的、並びに肉体的健康の所有者なりや否や、些少の動揺にも死を想うほど、霊界の誘惑に弱き、換言すれば、自殺の懼れある性格なのではないか如何――などというのだが、医者はこのすべてを否定して、ガリバルジ青年は、稀に見る健康者であり、その上充分信頼していい腕力家だと証言した。この若者なら、自殺室の怪と闘って、その正体を究め、立派に生きて出て来るだろうと折紙が附けられた訳だ。尚一層念を入れて、その日のうちに十四号室に、警察との直通電話が急設された。必要があれば、一瞬にしてモウパア警部を呼ぶようにというのだ。交換の方にも厳命が下って、単に受話器を持上げただけで、直ちに警部の卓上電話と接続され、消魂しいベルの音が鳴り響こうという趣向である。電話が来次第、警部はおっ取り刀でホテルへ駈けつける約束だ。もしモウパア警部が不在なら、居合わせた刑事連が、それっと繰り出す手筈まで定った。騒ぎが大きいので、リカルド・ガリバルジ君は微苦笑を洩らして、
「そんなにして戴くには及びませんよ。大丈夫です。私は一つ大体見当のついていることがあるんです。この私が自殺する?――そんな心配は毛頭ありませんから、安心して、解決がつくまで十四号室に置いて下さい。マダム・セレスティンのお礼と、新聞社の呈供している賞金とで、私は私のジョルジェットと結婚して幸福になる心算です。その金を得るために、考えついたことなのです。それに、私には或る確固した推理が立っているので、かくして実地探究を思い立ったのですから、必ず近いうちに、自殺室の不思議を不思議でなく、あなた方の前に説明して御覧に入れましょう」
 名前に背かない、頼母しいガリバルジ君である。意気揚々とホテル・アムステルダムに進出して、三階十四号室に陣取る。これが月曜日のことで、それから毎日、昼二回、夕方一度、苦労性のモウパア警部は勇士の部屋へ電話を掛けて、
「アロウ、ムッシュウ・ガリバルジ? 何うですな、変った事はありませんかな?」
「メルスイ・ビヤン。平穏無事です」ガリバルジ君は、暢気な声だ。
「マダムは三度三度、素晴らしい御馳走をして呉れて、おまけに、すてきもない古い葡萄酒がふんだんにあります。おかげで、肥りましたよ」
 全く、何ごともなく日が経って行って、女将セレスティンは、安堵の胸を撫で下ろす。三、四時間おきに、マダムの心尽しの、何かしら変った食べ物や飲みものなどが、十四号室のガリバルジ君へ届けられる。本をしこたま持込んで来て、ガリバルジは、一日いっぱい読書しているのだ。朝のうち、女中が部屋を掃除する間に、ロウモン街へ散歩に出る。帰途には必ず警察へ立ち寄って、モウパア警部に会う。もう神秘は解かれたも同じようなものだと言って、ガリバルジは大得意に談笑していた。
 すると、明日は土曜日である。
 この、十四号室の自殺は、金曜日から土曜へかけて起るとなっていて、恐怖の夜だ。宵の口に二回、モウパア警部は直通電話を鳴らして、
「アロウ、ムッシュウ・ガリバルジ?――金曜日ですな。何うです、変ったことはありませんかな?」

 その度びに、リカルド・ガリバルジ君の快活な声が、受話機を滑って来て答えた。
「メルスイ・ボクウ。平穏無事です」
 が、翌土曜日の朝、昨夜を突破していて呉れたら、もう占めたものだが――と、不安に駆られていた女主人マダムセレスティンは、三階から駈け降りて来た給仕人ポウルの只ならない様子にぎょっとして、玄関わきの帳場を飛び出した。
「また――? ポウル!」
 ポウルは、口唇を真っ白にして、自分の言葉を噛むように、
「又やったらしいんです! いま十四号へ朝飯プチ・デジュネを持って行ったんですが、扉が堅く締まっていて、幾ら叩戸ノックしても、返辞が――」
「おお、神――神よ!」
 気丈夫な女将は、狂気のように狼狽てながらも、ポウルを随えて、一足とびに階段を跳び上った。とにかく、自分で確かめようというのだ。やがて三階、十四号室の前である。成程、寂然しいんとしている。開けて踏み込むと同時に、恐しい叫び声がマダムの口を突っ走って、彼女は、背ろに続くポウルの腕へ倒れ掛った。四度び、凄惨な光景が、室内に彼女を待ち構えていたのだ。発見者二人は、部屋へ這入るどころか、一目見るが早いか其の儘逃げるように階下へ転げ落ちて、直ちにモウパア警部へ急報する。刻を移さず、警部が部下を引き連れて駈けつけるとジェリィ菓子のように顫えているマダム・セレスティンを取り巻いて、一行は、跫音を轟かして三階へ駈け上る。マダムは、呼吸を切らして呶鳴りつづけた。
「死んでるんですよ! ガリバルジさんが! 死んでるんですよ!」
 二つの窓がロウモン街の往来を見下ろしている。広い、小綺麗な十四号室だった。旧式な作りで、壁に、頑丈な鉄の鉤が打ち込んであって、それに重い窓掛カアテンを通す鉄棒がかかっている。豪傑リカルド・ガリバルジ君は、カアテンを片寄せる強い組紐で首を吊って、その鉤からぶら下がって死んでいた。顔が、別人のように青くふくれて、もう無機物を大きく見開いて寝台のある反対側の壁へ、かっと、見えない凝視を投げつけていた。それは、恐しい形相だった。何ごとか名状出来ない恐怖とショックが原因で縊死したことを示していて、これも、自殺であることは疑いを容れない。しかも、死にたい衝動、誘惑、或いは、死ななければならない理由が何んなに強かったか――その証拠に、ガリバルジ君は、坐るときのように、きちんと膝を折って、足首を腿へ縛りつけて、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いても足が床へ届かないように注意して吊り下がっているのだ。何度もいう通り、鉤が割りに低いところにあり、それに綱が長いので、普通なら身長が立って縊死の目的は達せられないのである。
 警察への直通電話は、室内線が切断してあった。晩飯を部屋へ取ったので、その時ついて来た焼肉ステイキ用の鋭い小刀ナイフが、床に落ちていた。その刄に、電話線の包皮の絹糸の屑が、引っ掛っていた。
 これで四人――ことごとく金曜日の夜、この三階の十四号室で自殺したのだ。
「自殺」――? モウパア警部は茲に初めて真剣に首を捻って、部屋の戸に巡査を立たして十四号室を警察の管理に移すと同時に、急遽上司である巴里警視庁のムッシュウ・ドュフラスの出張を求める。
 捜査課長ドュフラス氏がホテル・アムステルダムへ駈けつけてみると、モウパア警部は、蒼白く沈黙しているリカルド・ガリバルジの死顔の上へ蹲踞み込んで、歯のあいだから、独り言を呻いていた。
「これは自殺じゃない! 断じて自殺じゃない!」
 部屋へ這入ったドュフラス氏が、背ろから声を掛けた。
「ほほう、自殺でないとすると――?」
「ああ、ウィ! ムッシュウ・ドュフラス!」振り向いたモウパア警部は、興奮して、飛び付くように、「断然自殺ではありません。何かこれには、怖るべき犯罪が潜んでいると、本官は信じます」
 ドュフラス捜査課長の肩越しに、警視庁から一緒に来た嘱託の法医学者ベルチョン博士の顔が覗いて、じっと静かに、このモウパア警部の言葉に肯定いていた。


 アルフォンス・ベルチョン博士は、当時探偵学の神様のように言われていて、正に仏蘭西の国宝的存在だった。この人の捕物綺談は山のように遺っていて、先ず、この「自殺室事件」もその一つなのだが、いま専門的に人体測定学アンスロポメトリイと呼ばれている一分野を、一般人類学から分離して、法医学の立派な一部門として確立したのは、このベルチョン博士である。こうして現今各国の警察が採用している犯人並びに前科者の写真撮影法、及びカアド式に依る其の分類保存法は、博士が、自己の人体測定学に基いて一九〇七年に発表したもので、広くベルチョン法と呼ばれていることは、人の知るところだ。それに、近世犯罪捜査学上に一大革命を齎した指紋法を完成したことこそは、特筆大書すべき博士の功績である。実に、一アルフォンス・ベルチョン出て全世界の警察事務と探偵術が一変したと言われている。その上、実際の捜査にも、科学的推理に根拠して、快刀乱麻を断つ底の断案を下し、また頗る奇行に富んだ人であった。一名ベルチョナアジュと云う人身測定法を博士が創案したのは、一八七五年で、間もなく巴里警視庁鑑識課長に就任し、一八八八年二月にこのベルチョナアジュ法は初めて的確に個人識別法として採用され、其の筋の武器として、世界中到るところに応用されるに到ったのである。その時分の巴里は、欧羅巴の政治の中心であるとともに、人間の塵埃ごみ棄場、あらゆる犯罪の巣窟だったが、ベルチョン博士が鑑識課長――後、嘱託――となると同時に、犯罪者は漸く姿を隠して、防止と検挙の実績が統計的に上った事実に徴しても、如何にこの法医学の泰斗アルフォンス・ベルチョン博士の研究と活動が目覚ましいものであり、犯罪社会に怖れられたかを窺知するに足るであろう。
 いまこのベルチョン博士が、オテル・ダムステルダムの三階十四号室に現れて、自殺室事件の主要人物として登場したのだ。
 巴里ジャアナリズムの全スポットライトは、以前に増した興味と関心をもって、またこのロウモン街のささやかな一ホテルへ集中されることになった。
 今度のは、自殺ではないというのだ。いや、いま迄のも、みんな自殺ではなかったというのだ。自殺でなくて、人殺しだったという。「ロウモン街の自殺ホテル」、「ホテル・アムステルダムの自殺室」などというのが、一斉に「殺人ホテル」、「殺人室」と改められて、愈いよ名声を加えたが、何方にしても助からないのは、可哀そうな女将セレスティンである。怪談が犯罪に変った訳で、迷惑は同じことだ。より以上だ。もう商売は上ったり、泣きの涙で、一体何うしたものかと、憂鬱狂のように考え込んでいる。
 ベルチョン博士が直接この捜査を指揮することになる。
 現場写真が幾枚となく撮られて、電話線の切断に用いられたと推測される小刀ナイフは、研究のため、密封して鑑識課へ急送された。博士はガリバルジ青年の屍骸に、何時になく感情を動かされた様子で、
「可哀そうなことをしたものです」と呟き続けた。「結婚費用を得ようとして、ここへ泊り込んだのですと?――可哀そうなことをしたものだ」
 そして、博士が静かに屍体を抱き上げると、モウパア警部が、その頚部くびに固く食い込んでいる窓掛カアテンの紐を解いた。
 博士が言った。
「見給え」と、頚に着いている紫いろの痕と、その紐を指さして較べながら、「幅員はばが違いますね」
 じっさい、首のあとと紐と、両方の巾を正確に計ってみると、頚を絞めた索溝のほうが、ぶら下がっていたカアテンの紐よりも、五粍ほど巾が狭いのである。
 ベルチョン博士は説明して、
「他の細い綱で絞殺して置いて、ぐったりなってから、膝を折り曲げて大腿部へ縛りつけ、窓掛の紐で吊るして縊死を装わしめたものです」
 当時、亜米利加の有名な私立探偵局ピンカトン・エイジェンシィの巴里特置員で、バニスタアという辣腕家があった。スクリブ街に事務所を持って、本部の命令で国際的な事件を扱っていたのだが、このバニスタアが、特にベルチョン博士の懇望で動いて、亜米利加の宝石商人という触れ込みで密かにホテル・アムステルダムへ投宿したのだった。ルブランという警察医がリカルド・ガリバルジの屍体を解剖して、絞殺の後自殺と見せかけたものであることは立派に証明されて、ベルチョン博士は、ホテルの隣家に東洋の骨董店を開いている支那人リイ・ハン・フウを怪しいと睨んだのである。
 その以前、倫敦ハットン・ガアードンの金剛石商でチャアルス・ランガムという人が、巴里へ来て、セイヌ河へ投身自殺した事件があったが、これを調査して往くと、何うやら自殺ではないらしく、ロウモン街の支那人美術商リイ・ハン・フウの名が底にちらちらしていて、丁度この別の方面からも、警視庁の目がこの支那人の上へ向きかけた時でもあったのだ。が、リイ・ハン・フウの如き、要するに手先に過ぎないと、ベルチョン博士は見ている。この一団の悪党ギャングの首領は、あのハノイ・シャンという、仏領東京支那から来た有名な狂人の犯罪者に相違ないというのだ。

 仏蘭西領東京支那トンキン・チャイナの知事に、ハノイ・シャンという背の高い、運動家タイプの立派な紳士があった。土人ながら親切な人格者で、州民の信望を一身にあつめていたのだが、これが後巴里で L'Araign※(アキュートアクセント付きE小文字)e ――蜘蛛と綽名されて、名を聞いただけで巴里人を縮み上らせた天才的な、そして残虐な犯罪常習者となったのだ。
 まだ故国の仏領東京支那にいる頃のことである。
 このハノイ・シャン知事閣下が、象狩りに出掛けたのだ。何うかした拍子に、追い詰められて狂気きちがいのように怒っている象の鼻に巻かれて、空中を振り廻され、続けさまに樹の幹へ叩きつけられたのだ。死にはしなかったが、彼自身のため、また世の中のため、死んだほうが好かったのだ。この恐しいショックから、ハノイ・シャンは到頭立ち直らなかった。
 蒲団を円めたような、くしゃくしゃの肉塊になった儘、サイゴンの仏蘭西病院に数個月を送った。医者の努力で、やっと一命だけは継ぎとめたものの、退院したハノイ・シャンは、もう彼じしんと人々が知っている、以前の堂々たる好男子の知事殿ではなかった。再生のハノイ・シャンは、猿のような腰つきの、二た目と見られない不具かたわ者だった。怪物モンスタアだった。顔は、眼も鼻も口も、一緒くたに集まって、背骨が、二つに折れる程曲がり、繩のように細い両手が、長く垂れ下っていた。跛足びっこの足を開いて、蛙のようなあるき方だった。
 郷里の人々は、同情しなければならないことは知っていたが、この、余りにも変った化物のようなハノイ・シャンを目の当りに見ては、何うしても、嫌悪が先に立った。自分自身の浅ましい姿とともに、郷党、殊に、かつては争って好意を見せた女性達の今の態度は、一層ハノイ・シャンを駆って、狂暴な自暴自棄へ陥さずには置かなかった。一説には、この危禍は、ハノイ・シャンの肉体や外貌を破壊したばかりでなく、彼の性格をも一変させて、この時既に発狂していたのだとも言われているが、とにかく、人々の識っている古いハノイ・シャン知事は死んで新しいハノイ・シャンが生れたわけだ。この、見るかげもない畸形のハノイ・シャンは、その、狂えるこころの全部を挙げて、骨を折って命を取りとめて呉れた医師を憎んだ。世を呪った。そして、故国を捨てて巴里へ走ったのだった。
 巴里へ来た最大の目的は、出来ることなら、名医の再手術を受けて、弯曲している背骨だけでも癒したいという熱望からだったが、誰も怖がって、その大手術に手をつけてみようという医者がないのだ。ハノイ・シャンの運命は、いよいよこれで行き止まりだった。怒りと絶望と憎悪に、漸時に脳髄を蝕まれて、彼は完全に人間が変っていた。何時の間にか、行方不明になっていたが、そのときハノイ・シャンは、同時に他の社会へ別人として現れていたのである。悪人組合ギャングの元兇として、彼の名が、一時に高くなって、この東洋の狂人のあたまから割り出す狡猾猛悪な犯罪は、忽ちにして巴里の恐怖となったのだ。蜘蛛のハノイ・シャン――巴里の何処かに、そういう存在が蠢いていることは、誰でも知っていた。
 このハノイ・シャンの眼をつけたのが、前に言ったように、和蘭や白耳義の宝石商人の定宿のようになっている、ロウモン街のホテル・アムステルダムだった。支那人リイ・ハン・フウに、直ぐ隣家へ骨董の店を出させる。そうしておいて、気付かれないように長く費って、密かにホテルの三階の十四号室との間に通路を作り、壁に秘密扉トラップ・ドアを開けて自由に往来出来るようにしたのだ。
 深夜、十四号室の止宿人が熟睡しているのを見すまし、そっと数名の部下をやって絞殺し、宝石其の他の所有物を奪い、屍骸の脚を曲げて窓の鉤へ釣り下げて、巧みに自殺のように作って置いたのである。ブルウス・テイニアからリカルド・ガリバルジに到る四人を、皆この方法でやったのだが、何故排他的に金曜日の夜だけを選んだのか、多分、金曜日は凶日という西欧人の迷信と結びつけて、飽くまで、「自殺室」の怪談に凄味を附けようとしたものであろうと言われている。
 ホテルのおやじミニィル・ヴァン・デル・ヴェルドが分前を貰って、ホテル内の細胞となって気脈を通じていたことは、勿論だ。
 マダム・セレスティンに商売を投げ出させて、表面リイ・ハン・フウが買い取ってすっかり自分達の手で、この「自殺ホテル」をやって行く計画だったに相違ない。
 さて、この金曜日の真夜中――。
 亜米利加の古つわものバニスタアが、コルトの自動短銃ピストルと懐中電燈を抱いて、三階十四号の寝台に狸寝入りをしている時――音もなく壁の一部が滑って、そっと、黒い人数を吐き出している。
 そとの廊下には、ドュフラス捜査課長、ベルチョン博士、モウパア警部等の率いる刑事の一隊。やがて、格闘。銃声。叫喚――とうとう九人捕まったが、内四人は、リイ・ハン・フウ以下の支那人だった。小者ばかりで、肝心のハノイ・シャンは影も見せなかった。





底本:「世界怪奇実話※()」桃源社
   1969(昭和44)年10月1日発行
※次の表記の混在は底本の通りです。「テイラア」「テイニア」、「オテル・アムステルダム」「ホテル・アムステルダム」
入力:A子
校正:林 幸雄
2010年10月28日作成
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