のぼる
○空はうらゝかに風はあたゝかで、今日は天上に神様だちの舞踏会のあるといふ日の昼過、白い蝶と黄な蝶との二つが余念無く野辺に隠れんぼをして遊んで居る。今度は白い蝶の隠れる番で、白い蝶は百姓家の裏の卯の花垣根に干してある白布の上にちよいととまつて静まつて居ると、黄な蝶はそこらの隅々を探して、釣瓶の中や井の中を見たが何処にも居らんので稍失望した様子であつた。忽ち思ひついたかして彼方の垣の隅へ往て葵の花を上から下へ一々に覗いても矢張こゝにも居らんので、仕方無しにもとの井戸端に帰らうとして、ふと干し布の上の白い蝶を見つけた。「オヤいやだよ。こんな処に居たのだよト変な調子でいふたので、白い蝶は思はず笑ひ出した。「ほんとに可笑しいよ、お日様の照る処に居るのがきイちやんには見えないのだもの。さア早くお隠れよ。直に見ツけてあげるからト白い蝶はいふたので、黄な蝶も笑ひながら、あちらの木立を指して飛んで往た。暫くして白い蝶は後を追ふて産土神の鳥居迄来て、あたりを見廻して居ると向ふの木の間に、ちらと物影が見えたやうであつた。「屹度あの榎のうろの中へ隠れたんだよト独りつぶやきながら、榎の蔭迄来ると、羽音を静めて、あべこべにおどかしてやらうと思ふて、うろへはいるや否や、大きな声で、「とートいふた。すると、神鳴のやうな声で、「誰だよ、出し抜けに大きな声をしやアがるのはトいふのを見ると目に余るやうな山女郎であつた。白い蝶は肝を潰して真青になつて後も見ずに逃げ出したが、空を飛んでは追ひつかれると思ふて、成るたけ刺の多い草むらの間をくゞりくゞり逃げた。黄な蝶は薊の葉裏に隠れて居たが、白い蝶の事ありげにあわてゝ飛んで往くのを見て、後から追ひかけた。「オーイ/\トいふて呼ぶといよ/\あわてゝ逃げるやうなので、「あたいだよあたいだよト続け様に呼んだら、やう/\聞えたか後ふり向いて息をはづませて居る。「どうしたのだよトいふと、「なに、山女郎が追つかけると思ふてト前の一伍一什を話した。「それではあの化物榎なの。あんな処へあたいが隠れて居ると思ふたの。化物榎と聞いたばかりでも身の毛がよだつぢヤないかト黄な蝶は羽を震はしていふた。「だけれど、若しあんな処へ隠れて居ておどかす積りかも知れないと思ふてト少し落ちついた様子だ。やゝ暫し二つで何事か相談して居たが、終につれだちて、野中にある何がし様のお下屋敷の塀の内へ飛んではいつた。お下屋敷の牡丹畠にはおくれ咲の牡丹がところ/\に植ゑてある。向ふの方には舶来の草花らしいのが毒々しい色に咲いて、鉢栽のまゝいくつも片よせられて居る。今年はひイ様が御病気で、牡丹の盛りにもこちらへおいでが無いので、園は少し荒れたまゝ手入せずにある。留守居の人一人と門番の爺さん夫婦としか居らんのでお邸の内はしんと静まつて、丸で明家のやうだ。二つの蝶はこゝへ来ると案内知り顔にあちらの花こちらの花とうれしさうにうかれて居たが、やがて二つは一処に、くれなゐの大輪の牡丹の蘂に、羽をかはしてとまつた。「くたびれて眠くなつたト白い蝶は僅に羽を動かしながらいふた声は眠さうであつた。「もう寐るのト黄な蝶もはや眠りかけて居る。夕日の影は斜に権現の森を掠めて遠くに聞ゆる入相の鐘はあくびするやうに響いて来る。牡丹の花びらは少しづゝ少しづゝつぼまつて、とう/\二つの蝶を包んでしまふた。遠くも近くも霞みながらに暮れて、かづきかけたやうな月がぼんやりと上つた時、空遥かに愉快さうな音楽が聞えた。丁度今は六番目の舞踏で、美の神が胡蝶の舞を始めた処であつた。子規
○哲学書を入れた本箱の上に、「女王」と上書した小さい函がある。これが僕の蓄へて居る蝶の宮殿だ。蓋の裏に列記せられたる女王の名は「花せゝり」「黄まだら」「日陰蝶」「蛇の目」「豹文」「緋威」「黄べり立て羽」「揚羽」「一文字」「山黄蝶」「日光白蝶」「大紫」「山女郎」などで、其中で価の貴いのは大紫、可愛らしいのは山黄蝶であらう。子規
○独り病牀にちゞかまりて四十度以下の寒さに苦む時、外に遊び居たる隣の子が、あれ蝶々が蝶々がといふ声を聴いて一道の春は我が心の中に生じた。それはたしか二月の九日であつた。