「も」の字につきて質問に御答申候。「も」の字は元来理窟的の言葉にて、俳句などにては「も」の字の
有無を以て月並的俗句なるか否かを判ずる事さへある位に候へども、さりとて「も」の字
尽く理窟なるにも無之候。拙作に対する質問に答へんは弁護がましく聞えて心苦しき限りながら、議論は議論にて巧拙の評にあらねば愚意
試に
可申述候。
「も」の字にも種類ありて「桜の影を踏む人もなし」「人も来ず春行く庭の」「
屍をさむる人もなし」などいへる「も」は
殆ど意味なき「も」にて「人なし」「人来ず」といへると大差なければ理窟をば含まず、また「梅咲きぬ
鮎ものぼりぬ」の「も」は梅と鮎とを相並べていふ者なればこれも理窟には相成不申候。
実朝の「
四方の
獣すらだにも」はやや理窟めきて聞ゆる「も」にて「老い行く
鷹の羽ばたきもせず」「あら鷹も君が
御鳥屋に」の二つはややこれに似たる者に有之候。その理窟めきて聞ゆるは二事二物を相対して言ふ意味ながら、一事一物をのみ現し他を略したるがためにして、例へば獣だに子を思ふといふはまして人は子を思ふといふことを含み、羽ばたきもせずといふはまして飛び去らんともせずといふことを含み、あら鷹もといふはその外の鷹もといふ意を含むが如き者に候。しかしこの獣の歌も鷹の歌も全体理窟づめにしたる歌には無之、悲哀感慨を述べたる者と見て
差支なかるべく候。(羽ばたきもせずの歌やや理窟めきたるは「ほだしにて」の語あるがためにして「も」の論とは異なり)
歌につきても今まで大体を示すに忙しく細論するの機なく候処、「も」の字の実地論出で候まま「理窟」といふことをここに詳述可致候。心理学者が普通にいふ如く心の働きを智情意の三に分てば、前日来「歌は感情的ならざるべからず」などいひし感情とはこの「情」の一部分にして、例の理窟とは「智」の一部分に相当申候。しからば理窟とは「智」の如何なる部分かといふに画然とその限界を示す
能はざれども、要するに智の最も複雑したる部分が程度の高き理窟にて、それが簡単になればなるほど、程度の低き理窟となる訳に候。今まで用ゐたる理窟といふ語は
最簡単の智をば除きて言ひしつもりなれど、貴書の意は智と理窟とを同一に見
做されたるかと覚え候。論理的に厳粛に議論せんとする場合には後説の方あるいはよろしかるべく、さうすれば理窟の内でも低度の理窟は文学的としてこれを許し、高度の理窟は非文学的としてこれを排斥する訳に相成申候。この低度の理窟即ち最簡単の智とは記憶比較の類の如き者にして、如何なる純粋の文学的感情といへども、多少の記憶力比較力を交へざる時は文学として成り立つ者には無之候。もし理窟の語を広義の方に用うれば、実朝の歌の如きこれを理窟と言ひ得べく候へど、しかし余の標準に従ふて判ずれば、これは許すべき理窟の部に属し申候。
かく申さば一方にて「すらだにも」の如きを許し、他の方にて「も」の一字を
蛇蝎視するは
如何との不審起り可申候。それは左の如き次第に候。いはでもの事ながら、主観的の歌は
縦令感情を述べたる者なりとも、客観的の歌に比して智力を多く交へたるは
不可争の事に候。そは客観的の歌は受身の官能に依ること多けれど、主観的の歌はいくばくか抽象して現すの労あるがために候。実朝の
獣の歌の如き既に全体において主観的なるからに「すらだにも」の語さほど理窟ぽく聞えねど、全体客観的なる歌にただ一字の「も」の字ある時は極めて理窟ぽく殺風景に聞え申候。「も」の意善く響けば響くほど、益
理窟くさく相成候。これは
畢竟前後不調和なるがためにや候べき。余の蛇蝎視する「も」の字は客観的歌中に
挿まれたる「意味の強き「も」の字」の事に有之候。しかし前にも言ふ如く「梅も桜も」といふやうに、二物以上相対物が文字上に現はれたる場合は理窟
臭からず聞え候。
ついでに
申添候。俳句にては「人もなし」といふ語を「人なし」と同じく用うれど「人もあり」といふ語を用うれば「も」の字理窟臭く相成候。これも和歌より来れりと
思しく、和歌にて「人もなし」「影もなし」といふは「も」に意味なけれど「……人もありけり」といへば、世の中を喜ぶ人もあるが、世の中を
厭ふ人もあるといふやうに、相対物ある場合が多きやに覚え候。従つて理窟くさく成りがちにて候。
(明治三十一年三月六日)