(一)
四月十五日草廬に於いて萬葉集輪講會を開く。議論こも/″\出でゝをかしき事面白き事いと多かり。文字語句の解釋は諸書にくはしければこゝにいはず。只我思ふ所をいさゝか述べて教を乞はんとす。
籠もよみ籠もち、ふぐしもよみふぐしもち、此岡に菜摘ます子、家聞かな名のらさね、空見つやまとの國は、おしなべて吾こそ居れ、しきなべて吾こそをれ、我こそはせとはのらめ、家をも名をも
右は雄略天皇御製なり。文字は總て原書に據らず。籠には「コ」と「カタマ」との兩説あり。ふぐしは此御歌善きか惡きかと問ふに面白からずといふ人あり。吾は驚きぬ。思ふに諸氏のしかいふは此調が五七調にそろひ居らねばなるべし。若し然らばそは甚だしき誤なり。長歌を五七調に限ると思へるは五七調の多きためなるべけれど五七調以外の此御歌の如きはなか/\に珍しく新しき心地すると共に古雅なる感に打たるゝなり。趣向の上よりいふも初めに籠ふぐしの如き具象的の句を用ゐ、次に其少女にいひかけ、次にまじめに自己御身の上を説き、終に再び其少女にいひかけたる處固よりたくみたる程にはあらで自然に情のあらはるゝ歌の御樣なり。殊に此趣向と此調子と善く調和したるやうに思はる。若し此歌にして普通五七の調にてあらば言葉の飾り過ぎて眞摯の趣を失ひ却て此歌にて見る如き感情は起らぬなるべし。吾は此歌を以て萬葉中有數の作と思ふなり。
此歌には限らず萬葉中の歌を以て單に古歌として歴史的に見る人は多けれど其調を學びて歌に詠む人は稀なり。其人のいふ所を聞けば調古くして今の耳にかなはずといふにあり。我等は調の古きところが大に耳にかなふやうに覺ゆれどそれも人々の感情なればせん方も無き事なり。萬葉を善しといふ人すら猶五七調の歌を善しとして此歌の如きを排するは如何にぞや。尋常俗人の心にては見馴れ聞き馴れたる者を面白く思ひ、見馴れざる聞き馴れざる者を不調和に感ずるなり。極端にいへば俗人は陳腐を好みて新奇を排するの傾向あり。故に古今調の歌に馴れたる耳には萬葉調を不調和に思ひ、輪廓畫に馴れたる目には沒骨畫を不調和に思ふが如き類少からず。然れども多少專門的に事物を研究する人は陳腐を取りて新奇を捨つるの愚を學ぶべきにあらず。新奇なる者に就きて虚心平氣に其調和せりや否やを考へて後に取捨すべきなり。歌を研究する者にして萬葉集を知らざるが如き不心得の者は
〔日本附録週報 明治33・5・14 一〕
(二)
天皇登香具山望國之時御製歌
やまとにはむら山あれど、とりよろふ天の香具山、のぼりたち國見をすれば、國原は煙立ち立つ、海原はかまめ立ち立つ、うまし國ぞあきつ島やまとの國は
舒明天皇御製なり。とりよろふは足りとゝのへる意、かまめは鴎なり。海原はやまとにはむら山あれど、とりよろふ天の香具山、のぼりたち國見をすれば、國原は煙立ち立つ、海原はかまめ立ち立つ、うまし國ぞあきつ島やまとの國は
簡明にして蒼老、大なるたくみなくて却て趣盡きぬ妙あり。「のぼりたち」より「國見をすれば」につゞく處平凡なる如くなれども實際作歌の場合にはこれだけの連續が出來ずして冗長に失することあるものなり。「立ち立つ」と二つ重ねて物の多き有樣を現すなど極めて巧なる語なるを、後世の人時に此語を襲用して其儘に「立ち立つ」と使ふも、他の語に此語法を應用するの機轉すらなし。支那の古詩に行々重行々といへるも同じき語法にして、蕪村は「行き/\てこゝに行き行く夏野かな」と使へり。古今集以後の歌人の氣が利かぬこと今更にあらねど呆れたる次第なり。
天皇遊二獵内野一之時中皇命使二間人連老 [#ルビの「ハシビトノムラジオユ」に〈原〉の注記]獻一歌
やすみしゝ我大君の、あしたには取り撫でたまひ、夕にはいよせ立てゝし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり、朝狩に今立たすらし、夕狩に今立たすらし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり
中皇命は舒明天皇の皇女なり。なか筈につきて、長筈やすみしゝ我大君の、あしたには取り撫でたまひ、夕にはいよせ立てゝし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり、朝狩に今立たすらし、夕狩に今立たすらし、みとらしの梓の弓の、なか筈の音すなり
「すなり」は「するなり」の略なり。若し文法學者がいふ如く嚴格なる規則を立てゝ一々之によりて律する事とせば此語も亦文法違犯たるを免れず。然れども文法に
蕪村は「すなり」に倣ひて「すかな」と使ひしに文法學者は「すなり」を許しながら「すかな」を咎むるなり。しかも近時の俳人は眼中に文法などあらばこそ「すかな」は常に用ゐられて今は怪む者も無き迄普通になりぬ。さりとて文法を盡く破れとにはあらず、破りて却て面白き處には破れといふなり。文法學者に支配せらるゝ程の歌人は物の用にも立つまじき事論なし。
反歌
玉きはる内の大野に馬なめて朝ふますらん其草深野
其草深野の一句縁語の如くにて縁語にあらず。言葉を短くするには必要なる語法なり。「朝ふます」の如き語法も萬葉に多くありて後人却て知らず。玉きはる内の大野に馬なめて朝ふますらん其草深野
〔日本附録週報 明治33・5・21 二〕
(三)
幸讚岐國安益郡之時軍王見山作歌
霞立つ長き春日の、暮れにけるわづきも知らず、むら肝の心を痛み、ぬえ子鳥うら歎 [#ルビの「ナゲ」に〈原〉の注記]居れば、玉だすきかけのよろしく、遠つ神我大君の、いでましの山ごしの風の、獨り座 [#ルビの「ヲ」に〈原〉の注記]る我衣手に、朝夕にかへらひぬれば、ますらをと思へる我も、草枕旅にしあれば、思ひやるたづきを知らに、網の浦のあまをとめらが、燒く鹽の思ひぞ燒くる、我が下心
「わづき」に説あり。「遠つ神」を人に遠き意と解するはいかゞ。此歌を讀んで第一に感ずる事は始より終迄切斷せし處無く一文章を成したる點なり。元來長歌はそれからそれへと句をつゞけて作るが癖にて終止言を用ゐる事少きは一般に同じければ特に此歌に限るわけはなきやうなれど、此歌の如く「うらなげ居れば」といふ句より一轉して「玉だすきかけのよろしく遠つ神我大君の」に移りしが如きは類例少きかと覺ゆ。殊に「いでましの山ごしの風の」といふ句の造句法には注意を要す。極めてめづらしく面白き句なり。百忙の中に「玉だすきかけのよろしく」の一閑句を插みたるも手柄あり。普通に萬葉集を讀むには解釋する側より見る故多少の意匠を凝らしたる句に逢へば只難澁の句とのみ思ひそれをとにかくに解釋するを以つて滿足する者多し。然れども歌として萬葉を研究せんとする人は作者の側に立つて熟考するの必要あり。例へば「いでましの山ごしの風の」といふ句の意義を知るに止めず、更に進んで作者は如何にして此句を作りしか、若し我作らば如何に作るべきかと考へ見よ。さて後に此句が夷の思ふ所に非るを知らん。萬葉の歌人は造句の工夫に意を用ゐし故に面白く、後世の歌人は造句を工夫せずして寧ろ古句を襲用するを喜びし故に衰へたり。今の萬葉を學ぶ者萬葉を丸呑にせず萬葉歌人工夫の跡を噛み碎きて味はゞ明治の新事物も亦容易に消化するを得んか。此歌に就きては猶歌以外に研究すべき事あり。今の人にして行幸に供奉したらん程の人、歌を詠まばまさかに旅中の悲などはいはざるべし。こは如何。第一に時代の相違、第二に人間の思想の相違にあるべし。昔の旅は交通不便なる地に行きて不自由をする事故都の人は旅にありて故郷を憶ふ情今日よりは遙に強かりしならん。其上昔の人は法律學も政治學も知らず權利義務の考も薄ければ國家などゝいふ觀念もたしかならず只感情ばかりにて尊しとも悲しとも思ふわけなれば霞立つ長き春日の、暮れにけるわづきも知らず、むら肝の心を痛み、ぬえ子鳥うら
反歌
山ごしの風を時じみ寢る夜落ちず家なる妹をかけてしぬびつ
「ときじみ」に説あり。山ごしの風を時じみ寢る夜落ちず家なる妹をかけてしぬびつ
額田王歌
秋の野のみ草刈り葺きやどれりし宇治の宮子の假庵しおもほゆ
「みやこ」といふ事に就きて兼ねて論あり。皇居のあるところを都といふはいふ迄もなけれど、此歌にては行在にても都といふが如し。鎌倉の都といひ得べきか否かに就きて、ある人、昔は國府を鄙の都といひし例もあれば鎌倉の如く江戸の如く秋の野のみ草刈り葺きやどれりし宇治の宮子の假庵しおもほゆ
額田王歌
熟田津 [#ルビの「ニギタヅ」に〈原〉の注記]に船乘 [#ルビの「フナノリ」に〈原〉の注記]せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな
伊豫の熟田津より西國に行幸ある時の歌なるべしと。「月待てば」は實際は潮を待つならん。「ふなのり」といふ語今は俗語に用ゐられて歌などに詠まれぬが如し。莫囂圓隣云々の歌讀方諸説あり。今省く。
〔日本附録週報 明治33・6・11 三〕
[#底本ではここに「編注」あり。「莫囂圓隣云々の歌」とは「熟田津に」の次にある歌、という内容](四)
中皇命往于紀伊温泉之時御歌
君が代もわが代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな
上二句は磐といふ字にかゝりていへるにて、磐は永久の者なれば君が代をもわが代をも知る筈なりといへるなり。磐を擬人にしたるなり。併し其の磐は地名なれば地名にあやかりて其處の草をむすぶといふなるべし。草を結ぶとか木を結ぶとかいふ事此頃の習慣なりと見ゆ。君が代もわが代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな
吾勢子は假廬つくらす萱なくば小松が下の萱を刈らさね
「萱なくば」に就きて議論あり。「刈りたる萱なくば」と見るが穩當ならん。「小松が下」は別に意味あるにあらず。意味無き此一句あるため一首活きたり。
わがほりし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞひろはぬ
第二句一に「見しを」とあり。野島は既に見たれど阿胡根の浦はまだ見ずとの意にや。「底深き」は前の「小松が下」と同じく無意味の裝飾的の語なれど「小松が下」の自然なるに如かず。併しここも惡きに非ず。以上三首皆面白し。
三山歌
かぐ山はうねびをゝしと、耳梨とあひあらそひき、神代よりかくなるらし、いにしへもしかなれこそ、うつせみも妻をあらそふらしき
天智御製なり。男山女山といふ事に就きて即ち初二句の解釋に就きて論ありたれどそは如何やうにもあるべし。戀の爭ひといはゞ俗にも聞ゆべきを、山の爭ひを比喩に引きしために氣高く聞ゆ。結末七言二句の代りに十言一句を置く、亦一法なり。「こそ」の係「らしき」の結なり。かぐ山はうねびをゝしと、耳梨とあひあらそひき、神代よりかくなるらし、いにしへもしかなれこそ、うつせみも妻をあらそふらしき
反歌
かぐ山と耳梨山とあひし時立ちて見に來し伊奈美國原
出雲のかぐ山と耳梨山とあひし時立ちて見に來し伊奈美國原
わだつみの豐旗雲に入日さしこよひの月夜あきらけくこそ
此歌、題を逸す。雲が旗のやうに靡きたるを見て旗雲といふ熟語をこしらえ、それが大きいから豐といふ形容を添へて豐旗雲といふ熟語をこしらえたり。豐旗雲を只成語として見ず、古人が如何にして此熟語をこしらえしかを考へ、自己がある物を形容する時の造語法を悟るべし。成語ばかりを用ゐて歌を作らんには言葉の範圍狹くして思ふ事を悉く言ひ得ざらんか。此歌の意義に就きて現在と未來との議論あり。余は初三句を現在の實景とし、末二句を未來の想像と解したし。且つ結句「こそ」の語を希望の意と解せずして「こそあらめ」の意と解したく思へど、萬葉に此樣の語法ありや否やは知らず。三句を現在と解すれば第三句より第四句への續き具合よからずと非難もあれど、「入日さし」と接續的の輕き語を用ゐたるが却て面白きやうに思ふなり。
天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌
冬ごもり春さりくれば、鳴かざりし鳥も來鳴きぬ、咲かざりし花も咲けれど、山を茂み入りても取らず、草深み取りても見ず、秋山の木の葉を見ては、黄葉をば取りてぞしぬぶ、青きをばおきてぞなげく、そこしうらめし秋山吾は
此歌、秋山を以て春山にまされりと判斷はすれど、其まされりとする理由は少しも分らず。或は思ふ、天智天武兩帝同じ思ひを額田王にかけ給ひきと聞けば、此歌も暗に春山を天智帝に比し秋山を天武帝に比し、此時いまだ志を得られざる天武帝をひそかになつかしく思ふ旨を言ひいでられたるには非るか。冬ごもり春さりくれば、鳴かざりし鳥も來鳴きぬ、咲かざりし花も咲けれど、山を茂み入りても取らず、草深み取りても見ず、秋山の木の葉を見ては、黄葉をば取りてぞしぬぶ、青きをばおきてぞなげく、そこしうらめし秋山吾は
〔日本 明治33・7・3 四〕