熊手と提灯

正岡子規




 本郷の金助町に何がしを訪うての帰り例の如く車をゆるゆると歩ませて切通きりどおしの坂の上に出た。それは夜の九時頃で、初冬の月がえ渡って居るから病人には寒く感ぜられる。坂を下りながら向うを見ると遠くの屋根の上に真赤なかたまりが忽ち現れたのでちょっと驚いた。箒星ほうきぼしが三つ四つ一処に出たかと思うような形で怪しげな色であった。今宵こよいは地球と箒星とが衝突すると前からいうて居たその夜であったから箒星とも見えたのであろうが、善く見れば鬼灯ほおずき提灯がおびただしくかたまって高くさしあげられて居るのだ。それが浅草の雷門かみなりもん辺であるかと思うほど遠くに見える。今日はとりでしかも晴天であるから、昨年来雨に降られた償いを今日一日に取りかえそうという大景気で、その景気づけに高くってある提灯だと分るとその赤い色が非常に愉快に見えて来た。
 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人がしきりに目につくから、どんな奴が熊手なんか買うかこころみに人相を鑑定してやろうと思うて居ると、向うから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人であろうか、しかし善く分らぬ。月が後から照して居るので顔ははっきり見えぬが何でも慾ばって居るような人相だ。こんな奴にはきっと福は来ないよ。身分不相応な大熊手を買うて見た処で、いざ鎌倉という時に宝船の中から鼠の糞は落ちようと金がいて出る気遣きづかいはなしさ、まさか大仏のかんざしにもならぬものを屑屋だって心よくは買うまい。…………やがて次の熊手が来た。今度は二人乗のよぼよぼ車に窮屈そうに二人の婆さんが乗って居る。勿論田舎の婆さんでその中の一人が誠に小い一尺ばかりの熊手を持って居る。もし前の熊手が一号という大きさならこの熊手は廿九号位であるであろう。その小さな奴を膝の上にも置かないでやはり上向けて大熊手持ったようにさしあげて居たのもおかしい。その無邪気な間の抜けた顔はたしかに無慾という事を現して居るので、こいつには大に福を与えてやりたかった。自分が福の神であったら今宵こよいこの婆さんの内に往て、そっとその枕もとへ小判の山を積んで置いてやるよ、あしたの朝起きて婆さんがどんなに驚くであろう。しかし善く考えると福相という相ではない。むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を孫娘の嫁入に譲ってやる方だ。して見ると福の神はこんなしわくちゃ婆さんを嫌うのであろうか。あるいは福の神はこの婆さんの内の門口まで行くのであるけれど、婆さんの方で、福なんかいらないというて追い返すような人相とも見える。……………次も二人乗の車だが今度は威勢が善い。乗ってる者は、三十余りか四十にも近い位の、かっぷくの善い、堅帽をかぶった男で、中位な熊手を持って居る。大方かなりな商家の若旦那であろう。四十近くでは若旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、それで仕方なしに今に若旦那で居るという人相をして居る、そばに乗って居るのは十二、三の少年でこれが末の弟に違いない。こいつにも余り福をやりたくないのであるが、しかし大鷲大明神なかなか慾ばって居るからこれくらいの熊手を買うてもろうた義理に少しはき込んでやるかもしれない。……………仲町を左へ曲って雪見橋へ出ると出あいがしらに、三十四、五の、丸髷まるまげに結うた、栗に目口鼻つけたような顔の、手頃の熊手を持った、不断著ふだんぎのままに下駄はいた、どこかのかみさんが来た。くたびれた様も見えないで、下駄の歯をかつかつと鳴らしながら、さっさと帰って行く。その人相を見るに、これは夫婦ぐらしで豆屋を始めて居て夫婦とも非常な稼ぎ手ではあるが、上さんの方がかえって愛嬌あいきょうが少いので、上さんはいつも豆のり役で、亭主の方が紙袋に盛り役を勤めて居る。もっともこの亭主は上さんよりも年は二つ三つ若くて、上さんよりも奇麗で、上さんよりもお世辞が善い。それで夫婦中は非常に善く調和して居るから不思議だ。今その上さんが熊手持って忙しそうに帰って行くのは内に居る子供がとりいちのお土産でも待って居るのかとも見えるがそうではない。この夫婦には子は一人もないのでこの上さんは大きな三毛猫を一匹飼うて子よりも大事にして居る。しかし猫には夕飯まで喰わして出て来たのだからそれを気に掛けるでもないが、何しろ夫婦ぐらしで手の抜けぬ処を、例年の事だから今年もちょっとお参りをするというて出かけたのであるから、早く帰らねば内の商売が案じられるのである。ほんとうに辛抱の強い、稼ぎに身を入れる善い上さんだ。これにこそ福を与えて善かろう。もしこの上さんに福をやらなければ福をやるべき人間は外にあるはずはない。この上さんが毎晩五銭ずつを貯金箱に入れる事にきめて居るのだが、せめてそれを十銭ずつにしてやりたいよ。するとその貯金がたまって後には金持に出世する。しかし大鷲の意見と僕の意見と往々衝突するから保証は出来ない。
 三橋に出ると驚いた。両側の店はのきのある限り提灯をつるして居る。二階三階の内は二階三階の檐も皆長提灯を透間すきまなく掛けて居る。それでまだ物足らぬと見えて屋根の上から三橋の欄干らんかんへ綱を引いてそれに鬼灯ほおずき提灯を掛けて居るのもある。どうも奇麗だ。何だか愉快でたまらん。車は「揚出し」の前を過ぎて進んで往た。「雁鍋」も「達磨汁粉」も家は提灯に隠れて居る。瓦斯ガス燈もあって、電気燈もあって、鉄道馬車の灯は赤と緑とがあって、提灯は両側に千も万もあって、その上から月が照って居るという景色だ。実に奇麗で実に愉快だ。自分はこの時五つか六つの子供に返りたいような心持がした。そして母に手を引かれて歩行あるいて居る処でありたかった。そして両側の提灯に眼を奪われてあちこちと見廻して居るので度々石につまずいて転ぼうとするのを母にたすけられるという事でありたかった。そして遂には何か買うてくれとねだりはじめて、とうとうねだりおおせてその辺の菓子屋へはいるという事でありたかった。車ははや山へ上りかけた。左には瓦斯の火で「鳥又」という字が出て居る。松源の奥にはつづみがぽんぽんと鳴って居る。何となくここを見捨てるのが残り惜いので車を返せといおうと思うたがそれも余り可笑おかしいからいいかねて居ると車は一足二足と山へ上って行く。何か買物でもしようかと思うて、それで車返せといおうとしたが、ちょっと買うような物がない。車は一足二足とまた進む。いっそ山下から返れといおうと思うたがそれもと思うて躊躇ちゅうちょして居ると車は山を上ってしもうた。もう提灯も何も見えぬ。もう仕方がないとあきらめると、つめたい風が森の中から出て電気燈の光にまじって来るので、首巻を鼻までかけて見たが直に落ちてしまう、寒さは寒し、急に背中がぞくぞくして気分が悪くなったからただうつむいたばかりで首もあげぬ。早く内へ帰れば善いとばかり思いつめて居る。車はズーズーズーズー往た。暗い森の間をズーズーズーズー過ぎた。何だか書生が都々逸どどいつを歌って居るのに出逢ったが、それもどこか知らぬ。ズーズーズーズー行く中に余りひどい音がしたので、今まで熱にうかされてうとうととして居たような心持が破られた。首をあげて見ると新坂の踏切で汽車に逢うたのであった。それからまたズーズーズーズー行く中に急にあかりがさしたから、見ると右側に一面にスリガラスを入れた家がある。内側には灯が明るくついて居るので鉢植の草が三鉢ほどスリガラスに影を写してあざやかに見える。一つは丸い小い葉で、一つは万年青おもとのような広い長い葉で、今一つは蘭のような狭い長い葉が垂れて居る。ようよう床屋の前まで来たのであった。また曲った道をいくつも曲って、とうとう内へ帰りついて蒲団の上へ這い上った。燈炉とうろを燃やして室はあたためてある。湯婆たんぽも今取りかえたばかりだ。始めて生き返ったような心持になると直に提灯の光景が目の前に現れて来る。横になって煖まりながらいろいろ考えて居たが、この家の檐から庭の樹から一面に毬燈きゅうとうを釣って、その下へ団子屋やすし屋や汁粉屋をこしらえて、そしてこの二、三間しかない狭い庭で園遊会を開いたら面白いだろうという事を考えついた。
〔自筆稿『ホトトギス』第三巻第三号 明治321210





底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
   2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月刊
初出:「ホトトギス 第三巻第三号」
   1899(明治32)年12月10日
※底本では、表題の下に「子規」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年8月1日作成
2011年5月13日修正
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