○明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか
労れたようであったから下等室で寝て居たらば、
鱶が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に
痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や
梯子を下りて来て、自分の
行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る
外套のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記者が十一人頭を並べて居る。自分らの頭の上は仮の
桟敷で、そこには大尉以下の人が二、三十人、いつも大声で
戦の話か何かして居る。その桟敷というのは固より低いもので、下に居る自分らがようよう坐れる位のものだから、呼吸器の病に
罹って居る自分は非常に陰気に窮屈に感ぜられる。血を
咯く事よりもこの天井の低い事が一番いやであった。この船には医者は一人居たがコレラの薬の外に薬はないそうだ。固より病人の手あてなどしてくれる船ではないから、時々カクシの薬を引き出しては独り呑んで見るけれど、血はやはりとまらぬ。もっとも着物は洋服一枚着たきりで日本服などはない、
外套も引っかけたままで寝て居るのである。航海中の
無聊は誰も知って居るが、自分のは無聊に心配が加わって居るので、ただ早く日本へ着けば善いと思うばかりで、永き夜の暮し方に困った。時々上の桟敷で茶をこぼす、それが板の
隙間から
漏りて下に寝て居る人の頭の辺へポチポチと落ちて来る、下の人が大きな声で、何かこぼれますよ、と怒ったようにいう、上の人が、アアそうですか失敬失敬、などという。こんな問答でもあるとその間だけ気が
紛れて居るが、そんな事も度々はない。退屈の余り
凱旋の七絶が出来たので、上の桟敷の板裏へ書きつけて見たが、手はだるし、胸は苦しし遂に結句だけ書かずにしまった。その内にも船はとまって居るのでもないからその次の日であったかまた次の日であったのか午前に日本の見えるという処まで来た。日本が見える、青い山が見える。という喜ばしげな声は処々で人々の口より聞えた。寝て居る自分もこの声を聞いて思わずほほ笑んだ。午後には馬関にはいった。この時室内を見まわして見ると、五、六十人も居る広い室内に残って居る者は自分一人であった。自分も非常に嬉しかったから、そろそろと甲板へ出た。甲板は人だらけだ。前には九州の青い山が手の届くほど近くにある。その山の緑が美しいと来たら、今まで
兀山ばっかり見て居た目には、日本の山は
緑青で塗ったのかと思われた。ここで検疫があるのでこの夜は碇泊した。その夜の話は皆上陸後の希望ばかりで、長く戦地に居た人は、早く日本の
肴が喰いたい、早く日本の蒲団に寝たい、などといって居る。早く妻君の顔が見たいと思うて居るのも二人や三人はあるらしい。翌日は
彦島へ上って風呂にはいった。着物も消毒してもろうた。この日は快晴であったが、山の色は奇麗なり、始めて白い砂の上を
歩行いたので、自分は病気の事を忘れるほど愉快であった。愉快だ愉快だと、いわぬ者は一人もない。中にはこのきたない船にコレラのなかったのは不思議だ、などというて喜んで居る者もある。しかしこの喜びと愉快が三時間とは続かなんだ。三、四艘の
艀は我々を載せて前後して本船に帰ってから、まだ幾分時もたたぬに、何やら船中に事が起ったらしい。甲板を走る靴の音は忙しくなって、人々の言い
罵る声が聞える。あるいは誰かが誤って海中へ落ち込んだでもあろうか、など想像して居る中に、甲板から下りて来た人が、驚くべき報知を持ち来した。それは、この船に乗って居た軍夫が只今コレラで死んだ、という事であった。これを聞くと自分の胸は非常な
動悸を打ち始めて容易に静まらぬ。周囲は忽ちコレラの話となってしもうた。ただこの後の処分がどうであろうという心配が皆を悩まして居る内に一週間停船の命令は下った。再び
鼎の沸くが如くに騒ぎ出した。終に記者と士官とが相談して二、三人ずつの総代を出して船長を責める事になった。自分も気が気でないので寐ても居られぬから
弥次馬でついて往た。船長と事務長とをさんざん窮迫したけれど既往の事は仕方がない。何でも人夫どもに水を飲ませるのが悪いというので、水瓶の処へ番兵を立てる事になった。自分は足がガクガクするように感ぜられて、室に帰って寐ると、やがて足は氷の如く冷えてしもうた。これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機であるから、もしやコレラが伝染したのであるまいかという心配は非常であった。この梅干船(この船は
賄が悪いのでこの
仇名を得て居た)が我最期の場所かと思うと恐しく悲しくなって一分間も心の静まるという事はない。しかし郵便を出してくれると聞いて、自分も起き直って、ようよう
硯など取り出し、東京へやる電報を手紙の中へ封じてある人に頼んでやった。こういう際には電報をやるだけでもいくらかの心やりになるものだ。この夜また検疫官が来て、下痢症のものは
悉く上陸させるというので同行者中にも一人上った者があった。自分も上陸したくてたまらんので同行の人が周旋してくれたが検疫官はどうしても許さぬ。自分の病気の軽くない事は認めて居るが下痢症でない者を上陸させろという命令がないから仕方がないという事であった。如何にも不親切な、臨機の処置を知らぬ検疫官だと思うて少しは恨んで見た。しかし今は平和の時でないのだから余り
卑怯な事はいうまい位の覚悟は初めからして居る。そう思うて自分はあきらめた。けれどもつくづくと考えて見るとまた思い乱れてくる。平生の志の百分の一も
仕遂げる事が出来ずに空しく
壇の
浦のほとりに水葬せられて
平家蟹の
餌食となるのだと思うと如何にも残念でたまらぬ。この夜から
咯血の度は一層
烈くなった。固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血は
尽く呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。夜が明けても船の中は甚だ静かで人の気は一般に沈んで居る。時々アーアーという歎声を
漏らす人もある。一週間の碇泊とは随分長い感じがする。甲板から帰って来た人が、大山大将を載せた船は今
宇品へ向けて出帆した、と告げた時は誰も皆
妬ましく感じたらしい。この船は我船より
後れて馬関へはいったのである。殊に第二軍司令部附であった記者は、大山大将が一処に帰ろといわれたのを聴かずに先へ帰って来て実にいまいましい訳だ、と
悔んで居た。乗合一同皆思案にくれて居る中、午後四時頃になって一道の光明は
忽ち暗中に輝いて見えた。それは、上陸の許否は分らぬがとにかく、和田の岬の検疫所へ行く事を許されたという事であった。上陸せんまでも、泊って居るよりは動いて居る方が善いというのは船中の
輿論である。船は日の暮に出帆した。非常にのろい速力でゆっくりと行たので翌日の午後に
漸く和田の岬へ著いた。上陸が出来るか出来んかと皆
固唾を呑んで待って居たがこの日は上陸が出来ずに暮れてしもうた。翌日の十時頃に上陸の事にきまったので一同は
愁眉を開いた。殊に荷物を皆持って上れという命令があったので多分放免になるのであろうと勇みに勇んで上陸した。湯に入って(自分は
拭いただけで)折詰の御馳走を喰うて、珍しく畳の上に寐て待って居ると午後三時頃に万歳万歳、という声が家を
揺かして響いた。これは放免になった歓びの叫びであった。この時の嬉しさは到底いう事も出来ぬ。自分は人力車で神戸の病院へ行くつもりであったから、肩には
革包をかけ、右の手にはかなり重い
行李を提げ、左の手は刀を杖について、
喘ぎ喘ぎそろそろと
歩行いて見たが、歩行くたびに血を
咯くので、砂の上へ行李を
卸して腰かけて休んで居た。声を揚げて人を呼ぶ気力も
最うない。折よく連の人が来たので、自分の容態を話し、とても人力には乗れぬから
釣台を周旋してくれまいかと頼んだ。その人は快く承諾して、他の連と相談した上で一人を
介抱のために残して置いて出て往た。このさいに自分が同行者の親切なる介抱と周旋とを受けた事は深く肝に銘じて忘れぬ。二時間ばかり待ってようよう釣台が来てそれに載せられて検疫所を出た。釣台には
油単が掛って居て何も見えぬけれども人の騒ぐ音で町へ這入った事は分る。殊に往来の多いのと太鼓などの鳴って居るのとで考えると土地の祭礼であるという事も分った。上陸した嬉しさと歩行く事も出来ぬ悲しさとで今まで
煩悶して居た頭脳は、祭礼の中を釣台で通るというコントラストに逢うてまた一層煩悶の度を高めた。丁度
灯ともし頃神戸病院へ著いた。入院の手続は連の人が既にしてくれたので直に二階のある一室へ這入った。二等室というので余り広くはないが白壁は
奇麗で天井は二間ほどの高さもある。三尺ばかりの高さほかない船室に寐て居た身はここへ来て非常の愉快を感じた。殊に既往一ヶ月余り、地べたの上へ
黍稈を敷いて寐たり、石の上、板の上へ毛布一枚で寐たりという境涯であった者が、
俄に、蒲団や藁蒲団の二、三枚も重ねた寐台の上に寐た時は、まるで極楽へ来たような心持で、これなら死んでも善いと思うた。しかし入院後一日一日と病は
募りて後には咯血に
咽せるほどになってからはまた死にたくないのでいよいよ心細くなって来た。やがて虚子が京都から来る、叔父が国から来る、
危篤の電報に接して母と
碧梧桐とが東京から来る、という騒ぎになった。これが自分の病気のそもそもの発端である。
〔『ホトトギス』第三巻第三号 明治32・12・10〕