客あり。我
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
の一句は古今の傑作として人口に
答へて曰く、古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、
客
曰く、俳諧の歴史を説くは今我志す所に非ず。しかれども歴史を説かざれば古池の句を解すること能はず。故に古池の句を解するに必要なりと
俳諧史を説かんとするには先づ連歌を説かざるべからず。連歌は十七字句と十四字句とを相互関聯して百韻を以て終るを普通とする者、その間には
音聞かぬ雨知る花の雫 かな 心敬
雨晴れて花に色そふ夕かな宗祇
雨風も花の春をばさそひけり宗砌
さればこそ嵐よ雨よ花の時 心敬
春雨の庭にきのふの花もがな 宗祇
わくやいかに野は浅緑花の雨宗養
花を見ば人無き雨の夕かな 宗祇
心あれや花の旅寐の春の雨宗牧
雨に猶 忘れぬ花の宿りかな 宗祇
春雨をしをれし花のなごりかな 同
雨にけさ明日咲かん花も盛りかな宗長
春のみかいくかもあらじ花の雨 宗養
降りくらせあけなば花の春の雨昌叱
時雨にも見ざりし花の千入 かな 心敬
雨に花見ればこもらぬ枝もなし 宗長
染めいでよ花の木の芽の春の雨 宗祇
花や知る雨にはぬれぬ木陰かな 同
雨ならぬ夕も花の木陰かな紹巴
花の色よるやそぼふる春の雨 同
紅 やふり出づる花の春の雨 昌叱
花咲けといはぬばかりぞ雨の声 失名
花咲けといさむるや聞く雨の声 紹巴
雨に又花をやどさん陰もなし 失名
山や花色なる雨の薄曇 昌休
雨に咲く花はあわ雪の夕かな 紹巴
雨晴れて花に色そふ夕かな
雨風も花の春をばさそひけり
さればこそ嵐よ雨よ花の時 心敬
春雨の庭にきのふの花もがな 宗祇
わくやいかに野は浅緑花の雨
花を見ば人無き雨の夕かな 宗祇
心あれや花の旅寐の春の雨
雨に
春雨をしをれし花のなごりかな 同
雨にけさ明日咲かん花も盛りかな
春のみかいくかもあらじ花の雨 宗養
降りくらせあけなば花の春の雨
時雨にも見ざりし花の
雨に花見ればこもらぬ枝もなし 宗長
染めいでよ花の木の芽の春の雨 宗祇
花や知る雨にはぬれぬ木陰かな 同
雨ならぬ夕も花の木陰かな
花の色よるやそぼふる春の雨 同
花咲けといはぬばかりぞ雨の声 失名
花咲けといさむるや聞く雨の声 紹巴
雨に又花をやどさん陰もなし 失名
山や花色なる雨の
雨に咲く花はあわ雪の夕かな 紹巴
以上は花と雨とを配合したる句を
雨ひとり月を思はぬ今宵かな 失名
星の名も一夜は立し秋の月専順
雲霧も月にかくるゝ今宵かな兼載
しぐれては雲も名に立つ月夜かな 宗砌
月今宵塵 ばかりだに雲も無し 宗長
月に雲塵も付じの今宵かな宗碩
誰も見よ名高き月は雲も無し 宗養
月を雲も妬 みははてぬ今宵かな 宗因
今宵晴れて雲も名に立て秋の月 宗祇
名やあふせ月も一夜の天の川肖柏
月やあらぬ今宵を埋 む千重 の雪 心敬
日待の夜名月に
日影さへ待出る月の光かな 紹巴
草も木も月待つ露の夕かな 宗祇
月に住む人は今宵の空も無し 心敬
花は桜月は今宵のみ空かな 宗養
春は花秋は月にも今宵かな 昌休
月今宵古き都の空も無し 紹巴
月夜善しよゝの最中 の秋の空 専順
光をも天 に満 たる月夜かな 生阿
秋こそと見し夜や今宵空の月 宗祇
月の名を雲居 に名のる光かな 同
四方 に名は漏れ出づる月の雲居かな 宗碩
今宵やは同じ雲居の秋の月 昌休
空やあらぬ今宵光の秋の月 昌叱
名にしあふや今宵の月の都鳥盛家
いをねぬや水に最中の月の秋 失名
月残る一夜の松の木の間かな 失名
名をとはゞ桂や二木 秋の月 失名
名ぞ高き月や桂を折つらん 宗祇
一枝の桂やこよひ秋の月 肖柏
月は猶木の間にしるき今宵かな 宗牧
名や匂ひ月の花咲く草木かな 肖柏
水草のも中の秋は月清し玄幸
月今宵玉も拾はん渚 かな 宗碩
月や知る今宵は晴れし小倉山 宗祇
月の名にかへて小倉の山もなし 宗牧
月に名をかへぬもすむや小倉山 昌叱
星の名も一夜は立し秋の月
雲霧も月にかくるゝ今宵かな
しぐれては雲も名に立つ月夜かな 宗砌
月今宵
月に雲塵も付じの今宵かな
誰も見よ名高き月は雲も無し 宗養
月を雲も
今宵晴れて雲も名に立て秋の月 宗祇
名やあふせ月も一夜の天の川
月やあらぬ今宵を
日待の夜名月に
日影さへ待出る月の光かな 紹巴
草も木も月待つ露の夕かな 宗祇
月に住む人は今宵の空も無し 心敬
花は桜月は今宵のみ空かな 宗養
春は花秋は月にも今宵かな 昌休
月今宵古き都の空も無し 紹巴
月夜善しよゝの
光をも
秋こそと見し夜や今宵空の月 宗祇
月の名を
今宵やは同じ雲居の秋の月 昌休
空やあらぬ今宵光の秋の月 昌叱
名にしあふや今宵の月の都鳥
いをねぬや水に最中の月の秋 失名
月残る一夜の松の木の間かな 失名
名をとはゞ桂や
名ぞ高き月や桂を折つらん 宗祇
一枝の桂やこよひ秋の月 肖柏
月は猶木の間にしるき今宵かな 宗牧
名や匂ひ月の花咲く草木かな 肖柏
水草のも中の秋は月清し
月今宵玉も拾はん
月や知る今宵は晴れし
月の名にかへて小倉の山もなし 宗牧
月に名をかへぬもすむや小倉山 昌叱
連歌の発句の千篇一律なるはこれにても大方は
名や光今宵ばかりの月もなし 宗砌
月やあらぬ似たる時なき今宵かな 同
一年の月をくもらす今宵かな (?)
一年の影や今宵によるの月 宗祇
秋の月今宵は千代の光かな 同
曇るなよたが名は立たじ秋の月 同
名ぞ今宵おぼろげならぬ秋の月 同
秋の月名もことわりの光かな 同
心あらで月見は秋の今宵かな 同
月は秋あらん限りの今宵かな 宗長
月今宵はるかに照す光かな 同
行末も今宵や幾世秋の月 同
月に先 名をさきだつる今宵かな 同
月今宵名は残りけり世々の秋 同
月今宵さても有ける光かな 宗碩
大方の月の名たての今宵かな 同
名を得 つとならばかくこそ秋の月 同
今宵さへいくよわが世の秋の月 同
月も今日ねざる夜を待つ光かな 宗牧
心より月よりしるき今宵かな 同
過ぎぬるも及ばぬ月の光かな 同
名高さや猶末々の夜半の月 紹巴
入あとも名やは隠るゝ秋の月 同
惜むなよ今宵明けても秋の月 同
月今宵思ふことなき光かな 同
月今宵思へば変る光かな 同
月やあらぬ似たる時なき今宵かな 同
一年の月をくもらす今宵かな (?)
一年の影や今宵によるの月 宗祇
秋の月今宵は千代の光かな 同
曇るなよたが名は立たじ秋の月 同
名ぞ今宵おぼろげならぬ秋の月 同
秋の月名もことわりの光かな 同
心あらで月見は秋の今宵かな 同
月は秋あらん限りの今宵かな 宗長
月今宵はるかに照す光かな 同
行末も今宵や幾世秋の月 同
月に
月今宵名は残りけり世々の秋 同
月今宵さても有ける光かな 宗碩
大方の月の名たての今宵かな 同
名を
今宵さへいくよわが世の秋の月 同
月も今日ねざる夜を待つ光かな 宗牧
心より月よりしるき今宵かな 同
過ぎぬるも及ばぬ月の光かな 同
名高さや猶末々の夜半の月 紹巴
入あとも名やは隠るゝ秋の月 同
惜むなよ今宵明けても秋の月 同
月今宵思ふことなき光かな 同
月今宵思へば変る光かな 同
といふに至りては、
以上の例句は固より百が一にも足らざる者、しかもこれを見る者その単調に飽かざるはあらざるべし。もし
連歌師がその力を尽したるは主として
鶯のもろ声に鳴く蛙かな 紹巴
の一句あるのみ。いはんやこの句の如きも蛙の趣を言ひたるにはあらで、『古今集』の序をもぢりたる陳腐なる趣向に外ならざるをや。彼らの趣味が如何に幼稚なりしかは以て見るべし。
連歌の単調
山崎の宗鑑と山田の守武とは共に永正、天文の間に出でて連歌に不満なる者、しかして共に俳諧の上に新方面を開きたり。宗鑑が連歌に対する意見は別にこれを聞くを得ざれども、彼が連歌流行の中にありて独り俳諧に遊びたるは、俳諧の斬新は幾何か連歌の陳腐に
かしがまし此里過ぎよほとゝぎす都のうつけさぞや待つらん
の一首にも、彼が尋常の
再び鞠古 川を渡るとて
まりこ川又渡る瀬やかへり足道興
まりこ川又渡る瀬やかへり足
の如し。これらは固より一句の言ひ捨てにして、それさへ多くは見あたらず。
宗鑑、守武の興したる俳諧は連歌以外に一の詩形を造りしにあらず、ただ同じ詩形に、今まで用ゐざりし俗語漢語を用ゐ、今まで歌はざりし滑稽の趣味を述べしのみ。俳諧は陳腐なる連歌に斬新の元素を加へ、窮屈なる連歌に広き区域を借し、まじめなる連歌におどけたる趣向を与へたり。しかれども俳諧は、無趣味なる連歌に趣味を加ふる能はず、模型的連歌に写実を教ふる能はざりき。彼らは僅に滑稽の一方面を得たるに過ぎず、否、滑稽中の下等なる一部分を得たるに過ぎず、句の品格において趣味において、むしろ連歌よりも
彼らの俳諧、即ち滑稽を
手をついて歌申し上ぐる蛙かな 宗鑑
いやめなる子供産み置けほとゝぎす 同
花の香を偸 みて走る嵐かな 同
青柳の眉かく岸の額かな 守武
鶯の捨子なら啼けほとゝぎす 同
名のりてやそも/\こよひ秋の月 同
撫子 や夏野のはらの落し種 同
いやめなる子供産み置けほとゝぎす 同
花の香を
青柳の眉かく岸の額かな 守武
鶯の捨子なら啼けほとゝぎす 同
名のりてやそも/\こよひ秋の月 同
の
月に柄 をさしたらば善き団扇 かな 宗鑑
声なくば鷺 こそ雪の一つくね 同
落花枝 にかへると見れば胡蝶かな 守武
傘 やたゝえ鏡のけさの雪 同
声なくば
落花
の類なり。言語の遊戯に属する者は
なべて世に叩くは明日のくひ菜かな 宗鑑
真丸 に出づれど永き春日かな 同
春寒き年
にが/\しいつまで嵐ふきのたう 同
花よりも鼻にありける匂ひかな 守武
声はあれど見えぬや森のはゝきゞす 同
春寒き年
にが/\しいつまで嵐ふきのたう 同
花よりも鼻にありける匂ひかな 守武
声はあれど見えぬや森のはゝきゞす 同
の類なり。成語を用ゐたる者は
花をしぞ思ふをり/\赤つゝじ 宗鑑
花よりは団子と誰かいはつゝじ 同
花よりは団子と誰かいはつゝじ 同
の類なり。(各種を同時に用ゐたるもあり)その浅薄にして野卑なる、固より論評を
彼ら二人が始めたる俳諧は、彼らの自ら作りて自ら
彼が一派の俳諧は、『
滑稽の種類は前に説きたるとほぼ同じ。その擬人法に属する者
花に来る蝶や還城楽の舞 失名
とき遅き花にや雨の片びいき 永治
落ち行くは臆病風や花軍 失名
大はらは子をもち月か姫小松 失名
月の顔蹈むは慮外 ぞ雲の足 親重
顔見よと月も笠脱ぐ光かな 失名
先 ふるは雪女もや北の方 重頼
雪も今いそがしぶりをしはすかな 林甫
とき遅き花にや雨の片びいき 永治
落ち行くは臆病風や花軍 失名
大はらは子をもち月か姫小松 失名
月の顔蹈むは
顔見よと月も笠脱ぐ光かな 失名
雪も今いそがしぶりをしはすかな 林甫
その譬喩に属する者
遠山の松やさながら花のしん 弘嘉
遍照 の花のぼうしか花頂山 日能
河の瀬の紋所かや花筏 正信
雲は蛇呑みこむ月のかへるかな 貞徳
月弓にかゝりし雲やにぎり皮 失名
月しろの総がまへとよ天の川望一
花といふ雪のつぼみか玉霰 正信
天と地の中入綿 やふじの雪 正依
河の瀬の紋所かや
雲は蛇呑みこむ月のかへるかな 貞徳
月弓にかゝりし雲やにぎり皮 失名
月しろの総がまへとよ天の川
花といふ雪のつぼみか
天と地の
その言語の遊戯に属する者
今日は花さくじつ迄 はつぼみかな 成安
人さそふ山路の花や大天狗 親重
花さんじさんぜぬ人の心かな 弘永
誰も秋の影をや胸にもち月夜徳元
曇る夜や影言いはん月の友 失名
影たのめ慈悲は上より下 り月 重頼
黄にあらであは雪白き朝かな 徳元
春咲くに百早梅ぞ雪の中 日能
人さそふ山路の花や大天狗 親重
花さんじさんぜぬ人の心かな 弘永
誰も秋の影をや胸にもち月夜
曇る夜や影言いはん月の友 失名
影たのめ慈悲は上より
黄にあらであは雪白き朝かな 徳元
春咲くに百早梅ぞ雪の中 日能
その古事成語の応用に属する者
花のためや悪事千里の春の風 慶友
花の宴に見そむる朧月夜かな 永次
功成るや名とげて散りし花心盛長
夜目 遠目笠の内よし月の顔 失名
三五夜の中国一ぞ安芸 の月 弘永
武蔵野は今日はな明けそ秋の月 重供
富士のみか一夜にでくる雪の山 貞徳
雪花も木の根にかへる雫 かな 弘永
花の宴に見そむる朧月夜かな 永次
功成るや名とげて散りし花心
三五夜の中国一ぞ
武蔵野は今日はな明けそ秋の月 重供
富士のみか一夜にでくる雪の山 貞徳
雪花も木の根にかへる
中には各種を
これらの句が連歌よりも更に趣味少く、鑑武よりも更に活気に乏しきは一読して誰も知るべし。子、これらの句を見て、余が特に悪句を示したる者と誤解する
足利の眠れる世すら連歌の単調に飽きて俳諧を興しし者あり、徳川の天下全く定まり、文運日を追ふて隆盛に
擬人法は貞派俳諧の慣用手段なれども、談林には殆んどその跡を絶ちたり。たまたま
葉茶壺やありとも知らで行く嵐 宗因
天も酔りげにや伊丹 の大灯籠 同
白露や無分別なる置き処 同
蛇柳や心のみだれ飛鳥 風 露草
天も酔りげにや
白露や無分別なる置き処 同
蛇柳や心のみだれ
の如きありといへども、その間既に多少の趣味を含むこと、
松に藤蛸木 にのぼるけしきあり 宗因
もちに消ゆる氷砂糖か不尽 の雪 同
錦手や伊万里 の山の薄紅葉 同
鴨の足は流れもあへぬ紅葉かな 同
蓬莱 や麓 の新田干鰯 栄政
呉竹 や大根おろし軒の雪 心色
是は又水の月とる麩 売なり 未計
もちに消ゆる氷砂糖か
錦手や
鴨の足は流れもあへぬ紅葉かな 同
是は又水の月とる
の如き、中には奇抜なる者、軽妙なる者もあり。花といへば必ずこれを雲に
言語の遊戯を主とする者は
江戸を以て鑑 とすなり花に樽 宗因
うつり行くはやいかのぼり紙幟 同
かけまくもかしこやこゝの踊かな 同
宇治橋の神や茶の花さくや姫 同
花や上野とつはた本 の人家迄 似春
うつり行くはやいかのぼり紙
かけまくもかしこやこゝの踊かな 同
宇治橋の神や茶の花さくや姫 同
花や上野とつはた
の如し。古事古語の使用は談林一派の生命ともいふべく、彼らが作句の一半はこの部に属すべき者なり。その例
からし酢にふるは涙か桜鯛 宗因
世の中よてふ/\とまれかくもあれ 同
古歌に曰く千 とせぞ見ゆる鏡餅 同
有明の油ぞ残るほとゝぎす 同
涼風や猶ながらへば小石川 同
前にありと見れば蛍のしりへかな 同
天にあらばひよこの羽根も星の妻 同
雁 啼 いて菊屋のあるじのわたり候か 同
今こんといひしは雁の料理かな 同
冬構へ一にたはらや炭俵 同
思ひつゝぬればや壁も雪の色 同
やどれとは御身 いかなるひと時雨 同
富士の烟 耳に消えけりほとゝぎす 如萍
もみぢ葉や花なき里の二三月 安昌
郭公 来べき宵なり頭痛持 在色
革足袋 の昔は紅葉蹈 み分けたり 一鉄
世の中よてふ/\とまれかくもあれ 同
古歌に曰く
有明の油ぞ残るほとゝぎす 同
涼風や猶ながらへば小石川 同
前にありと見れば蛍のしりへかな 同
天にあらばひよこの羽根も星の妻 同
今こんといひしは雁の料理かな 同
冬構へ一にたはらや炭俵 同
思ひつゝぬればや壁も雪の色 同
やどれとは
富士の
もみぢ葉や花なき里の二三月 安昌
貞派の好んで
守武死後
青柳に蝙蝠 つたふ夕栄 なり 其角
蚊遣火 に夕顔白しだい/\は 同
夢となりし骸骨踊る荻の声 同
木がらしとなりぬ蝸牛のうつせ貝 同
しほらしき物づくしちよろぎ掻割菜 杉風
夕かな雨杜鵑 坐禅豆 同
だい/\を蜜柑 と金柑の笑 て曰 同
曙 や霜にかぶなのあはれなる 同
夢となりし骸骨踊る荻の声 同
木がらしとなりぬ蝸牛のうつせ貝 同
しほらしき物づくしちよろぎ
夕かな雨
だい/\を
右の中には滑稽を離れたる者すらあれども、必ずしも全体にしかるに非ず。こは比較的佳句を抜きたるなり。越えて三年、

礼者敲クレ門ヲ歯朶 暗く花明かなり 幻吁
傘 にねぐらかさうやぬれ燕 其角
山彦と啼ク子規 夢ヲ切ル斧 素堂
青さしや草餅の穂に出でつらん 芭蕉
月に親しく天帝の壻 になりたしな 才丸
栗
は塵壺 を秋の行くへかな 仙風
きり/″\す鼠の巣にて鳴き終りぬ 嵐雪
松原は飛脚ちひさし雪の昏 一晶
山彦と啼ク
青さしや草餅の穂に出でつらん 芭蕉
月に親しく天帝の
栗

きり/″\す鼠の巣にて鳴き終りぬ 嵐雪
松原は飛脚ちひさし雪の
これらの中にはほぼ完全せる句もあり。また語句佶屈に失すれどもその趣向は殆んど俳諧の骨髄を得たる者もあり。この時の俳諧界は曙光


翌
野ざらしを心に風のしむ身かな 芭蕉
秋十 とせ却 て江戸をさす故郷 同
霧しぐれ不尽 を見ぬ日ぞ面白き 同
猿を聞く人捨子に秋の風いかに 同
道の辺 の木槿 は馬に喰はれけり 同
馬に寝て残夢月遠し茶の煙 同
三十日 月無し千とせの杉を抱く嵐 同
芋洗ふ女西行 ならば歌よまん 同
蔦 植ゑて竹四五本の嵐かな 同
秋風や藪も畠も不破の関 同
秋
霧しぐれ
猿を聞く人捨子に秋の風いかに 同
道の
馬に寝て残夢月遠し茶の
芋洗ふ女
秋風や藪も畠も不破の関 同
これらの句は『
翌々
古池や蛙飛び込む水の音
これなり。この際芭蕉は自ら俳諧の上に大悟せりと感じたるが如し。今まではいかめしき事をいひ、珍しき事を工夫して後に始めて佳句を得べしと思ひたる者も、今は日常平凡の事が
かつこの句の題目が多く世人に忘られたる「蛙」にある事に注意せざるべからず。蛙は和歌に詠めども極めて少し。(『万葉』にいふ「かはづ」は今の蛙に非るべし)連歌にも少きこと前にいへり。貞派の句には多少これあるも、蛙の趣を詠みたるにあらねば蛙の句とするに足らず。その蛙の句は古池を
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
鶯のもろ声に鳴く蛙かな 紹巴
詠みかねて鳴くや蛙の歌袋 失名
立わかり鳴くや蛙の歌あはせ 失名
苗しろをせむる蛙のいくさかな 未満
和歌に師匠なき鶯と蛙かな 貞徳
鶯と蛙の声や歌あはせ 親重
やり水のついたかいたく鳴く蛙 宗俊
おほて出て田顔あらすないもがへる盛親
河中 で蛙が読むやせんどうか 重頼
降れば鳴く蛙の歌や雨中吟 寛記
くちなはも歌にやはらげ鳴く蛙 弘永
水口に蛇や見ゆらん鳴く蛙光重
ふけ田なる蛙の歌やぬめりぶし定時
いくさ場のときの声かや鳴く蛙 信相
長く鳴く蛙の歌や文字余り 永治
歌いくさ文武二道の蛙かな正章
呪ひの歌か蛇見て鳴くかへる氏利
許せ蛇けふの日ばかり鳴くかへる可慶
呑まれなよ軒の蛇腹 に蛙また 一和
歌よむは短冊の井のかへるかな一雪
釈教の歌か寺井に鳴くかへる閑節
音 に鳴くは伊敷 が淵 の蛙かな 利直
玉の井の蛙の声もうたひかな 秀辰
歌よまでゐるはたくら田の蛙かな 将和
つらね歌の点料かおのが蛙銭資仲
蛙いくさ井干行 の備へかな 破扇
地獄谷の蛙は修羅のいくさかな 之也
生死 は閻浮 にかへるいくさかな 直安
打ち出でよ蛙いくさに鉄炮津 一雪
河原いくさ四条によるは蛙かな 同
赤蛙いくさにたのめ平家蟹 同
立田川紅葉や朽ちて赤蛙才麿
歌さへぞしなびたりける干蛙 爾木
から歌を加賀にやはらぐ蛙かな 楓興
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
鶯のもろ声に鳴く蛙かな 紹巴
詠みかねて鳴くや蛙の歌袋 失名
立わかり鳴くや蛙の歌あはせ 失名
苗しろをせむる蛙のいくさかな 未満
和歌に師匠なき鶯と蛙かな 貞徳
鶯と蛙の声や歌あはせ 親重
やり水のついたかいたく鳴く蛙 宗俊
おほて出て田顔あらすないもがへる
降れば鳴く蛙の歌や雨中吟 寛記
くちなはも歌にやはらげ鳴く蛙 弘永
水口に蛇や見ゆらん鳴く蛙
ふけ田なる蛙の歌やぬめりぶし
いくさ場のときの声かや鳴く蛙 信相
長く鳴く蛙の歌や文字余り 永治
歌いくさ文武二道の蛙かな
呪ひの歌か蛇見て鳴くかへる
許せ蛇けふの日ばかり鳴くかへる
呑まれなよ軒の
歌よむは短冊の井のかへるかな
釈教の歌か寺井に鳴くかへる
玉の井の蛙の声もうたひかな 秀辰
歌よまでゐるはたくら田の蛙かな 将和
つらね歌の点料かおのが蛙銭
蛙いくさ
地獄谷の蛙は修羅のいくさかな 之也
打ち出でよ蛙いくさに鉄炮津 一雪
河原いくさ四条によるは蛙かな 同
赤蛙いくさにたのめ
立田川紅葉や朽ちて赤蛙
歌さへぞしなびたりける干蛙 爾木
から歌を加賀にやはらぐ蛙かな 楓興
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
右はほぼ時代の順序に従ふて記したる者、かつ大かたの句は
古池の句が俳諧の歴史上に珍しき句なることは、前に挙げたる例句によりて知るを得べし。されば芭蕉の俳諧はこの一句を限界として一変せり。従つて当時の俳諧界もまたこの一句を中軸として一転せり。
昨日の発句は今日の辞世、けふの発句は明日の辞世、吾生涯いひ捨てし句は一句として辞世ならざるはなし。我辞世いかにと問ふ人あらばこの年頃いひ捨て置きし句いづれなりとも辞世なりと申し給はれかし。諸法従来常示寂滅相 、これは釈尊の辞世にして一代の仏教この二句より外はなし。古池や蛙飛びこむ水の音、この句に我一風を興せしよりはじめて辞世なり。その後百千の句を吐くにこの意ならざるはなし。ここを以て句に辞世ならざるはなしと申し侍るなり。
といへり。「その後百千の句を吐くにこの意ならざるはなし」とは、古池の句と共に感得せし自然的趣味によりて一生俳句を作りたりとの意なり。芭蕉が古池の句を蕉風の境界線と為ししは自ら明言する所なれども、芭蕉はこの句を以て自家集中第一等の句なりとは言はず、芭蕉の爾か言はざるのみならず、門弟もまた爾か言はず、去来は最も深く芭蕉に教へられし者なれども、古池の句につきて何をも言はず。支考の如く芭蕉を本尊にして自説を誇張する者すら、(『十論』の引例に出だしたる外)古池の句を批評したることなし。しかるにいつの頃よりかこの句を無上の佳句なるが如く言ひなし、はては不可思議なる説をなす者加はりて、その広く世間に知らるると共に一般に誤解せらるるに至りたり。芭蕉は自ら、古池以後いづれの句も皆我句として人に伝ふべしとさへ誇れるに、(明治三十一年十月―十一月)