春の遠山入り

(易老岳から悪沢岳への縦走)

松濤明




松濤 明 単独
昭和十五年
三月二十三日 晴 伊那八幡―越久保―汗馬沢(泊)
  二十四日 晴 汗馬沢―小川路峠越―下栗―小野(泊)
  二十五日 晴 小野―易老渡―白薙窪―面平(ビバーク)
  二十六日 風雪 面平―易老岳(ビバーク)
  二十七日 晴 易老岳―光岳とのコル―引返し易老岳―仁田岳(ビバーク)
  二十八日 晴 仁田岳―上河内岳―聖岳(ビバーク)
  二十九日 晴 聖岳―兎岳―大沢岳―赤石岳―荒川小屋(ビバーク)
  三十 日 晴 荒川小屋―悪沢岳―椹島(ビバーク)
  三十一日 雨後晴 椹島―二軒小屋(泊)
四月 一 日 晴 二軒小屋―広河原―新倉(泊)
   二 日 晴 新倉―甲府―帰京

遠山入り

三月二十三日 晴
 知らぬ土地は頼りないものだ。飯田の町では様子を知らないために重荷を背負ったまま、さんざんうろつき廻った末、朝夕たった二回きりのバスを見事に乗り逃して、とうとう伊那八幡からはるばる歩く羽目になってしまった。砂埃りのたつ平凡な路を、春とはいえ、照りつける陽の下を、重荷に汗を流しながら歩く気持は良いものではない。靴が新しいせいか、妙に足が摺れるのがいらだたしく、軒昂たる意気もとみに失せて、歩くことが馬鹿馬鹿しくてならなかった。ただ山のかなたの目に見えぬもの、それだけに引きずられて遅々たる行進をつづけた。幸い入山の第一日にしてはコンディションが良いので、路がバス路から離れて里路に入る頃には、どうやら気分も和らいで、四囲の空気とも融和するようになった。総じて伊那の里は明るいが、その中でもこのあたりはとくに明るい。ただ白と緑とコバルトの三つの色で表現しつくされる。地の利のよいせいか、奥まったところにありながら開けており、片田舎の町外れとでもいった感じである。
 小川路峠の路のある低い脊梁が、綺麗な青空を背にして次第に近づいてくる。そのところどころ真白くガレた、青い樹木をふんだんにつけた脊梁は、子供の時代好んで駆け廻った中国地方の低山とよく似ていて、親しいものに巡り会ったような懐かしさを覚えた。下平を過ぎ、越久保に着くと、殺風景な自動車路もようやく終っていよいよ峠の山道が始まり、いくぶん新鮮な気分に戻ることができた。初めのうちは霜どけのひどい泥濘で、新しい靴もたちまち泥だんごになって煩わしかったが、登るにしたがって歩き易くなった。地図に書いてあるぼろぼろの観音堂をすぎると、もう初冬の世界である。路傍の裸になった木に小鳥が群れをなして騒いでいる。近づくとそのたびにいっさんに飛び立って、まるで路案内でもするように上手の木に移ってゆく。一人旅の無聊はこんな些細なものによってもよく打ち払われた。
 尾根に出ると、とたんに視野がパッと展ける。振り返ると天竜川を隔てて穏やかな木曽駒の連峰が蒼空に波うっている。午後の陽は既に西に廻って、こちらの側はもうほんのりと蒼みがかって、その足下に飯田の町はゴマ粒のような軒を並べている。はるばるとよく来たものだ、とつくづくと打ち眺めた。尾根の反対側には索道のあるという小川川が一面の木の海の中に沈んでいる。ここももう黄昏の中である。
 汗馬沢の茶屋までは意外に遠い。尾根には無数の小突起があって、路はいずれも西側をうねうねとからんで行く。廻り角に来るたびに今度こそはと期待しながら覗くのだが、そのたびに当てが外れる。小川路峠の頭がすぐ間近に迫ってその肩のあたりに堂屋敷と覚しき家並が見えて来た頃、ようやくその前に出た。大きな家だ。茶屋というよりは山家とでもいった方が相応しい造りである。まだ四時前で堂屋敷まで充分行けると思ったが、朝の失敗で気を腐らせていたので、この日はここに泊ることにした。夜、囲炉裏を囲んで爺さんから昔話を聞く。以前は毎日何百人という人と、何十頭もの荷馬とが往来したというこの街道の華やかなりし昔を、爺さんは懐かしそうな口調でポツリポツリと語ってくれた。

三月二十四日 晴
 明け放たれた中に支度をして、八時にゆっくり出発する。
 堂屋敷は、来てみると意外にも空家ばかりで、ただ一人老いた鳥刺しが軒も傾いた陋屋ろうおくにぽつねんと囮の餌をすっているだけであった。髪も髭もぼうぼうと伸びた、その大した風態に辟易して、ろくろく休まずに行く。このあたりからにわかに雪が現われ、道は氷にコンクリートされて、危いバランスで歩かねばならない。せせこましいジグザグをいくつか切って、十時、小川路峠に立った。今まで遮ぎられていた新しい視野が展開する。目の下の遠山の里は、狐色に冬枯れた茅戸の山を背にして、明るい空気がみなぎっている。その茅戸の山の肩に、白い上河内かみごうちの稜線が覗いている。それは、遠い遠い空のかなた、そこまで行く事すら心細い空のかなたであった。あれを越えて行く、そう考えるだけでも空恐ろしくなる。あの山懐の真っ只中で行き倒れてしまうのではなかろうか。眺めれば眺めるほど、気分は重苦しい不安に閉ざされて、今までだれていた総身がにわかに引き締まるのを覚えた。
 下りにかかるとこれがまた素敵に長い。とにかくこの峠は五里峠の別名を持っているのだから、どこから測るか知らないが五里はあるのだろう。登りに負けず劣らず長い下りであった。上町の外れが目の下に見えていながら、なかなかそこまで達することができない。峠を出たのが十時をちょっと廻った頃、二時間半近くかかってようやくその連なりに足を踏み入れた。
 遠山の里は私の予想を裏切って、はるかに明るく、そして文化の恩沢に浴していた。いくたの伝説にいろどられた神秘な里として、ロマンチックな夢を懐いてきた私には、いささか期待はずれであった。素晴らしい小学校がある。今日は免状式とかで、方々の分教場から集まってきた子供たちが、三々五々群れをなして散って行く。地方の子供に見る羞みなど少しもない。えらくはっきりした連中である。こういうところを登山姿で歩くと、物珍しげな視線に射すくめられて間の悪い思いをすることはよく経験するところだが、ここではそれが少しもなかった。しかしそれは登山者がありふれたものだからでなくて、あまりに珍しい存在だかららしい。
 上町の中心は古めかしい家が道を挟んで軒を連ねていた。そこを通りすぎて真新しい茶屋に腰を下ろして昼食をとった。この茶屋の脇から下栗への急峻な里道が分岐している。ジグザグはあるがほとんど真正面に喰いついて行くといった感じの道で、下栗まで一時間半の喘登はまったく身にこたえた。下栗はのびやかな里であった。明るい茅戸の山腹に階段状に家が立ち並んで、視野は一面に展けている。足の下に遠山川が銀蛇となってうねり、そのせせらぎがかすかに聞えてくる。対岸の加ガ森の尾根は真っ黒な木立を覆って、はるかな谷の奥へと連なっている。その谷の奥、重畳たる山襞のきわまるところに上河内が白くスカイラインを画いている。草の上に身を横たえて眺めまわすうちに、次第に平和な気分になっていく。分教場の脇を通り抜けて山の腹を搦む細い道を奥へと向う。猟師が二人鉄砲を担いで下ってきた。背中に獲物の猿が怨めしそうに目を剥いてくくりつけられている。人間に似ているだけに物凄い形相だ。
 このあたりで一流の案内人、野牧福長の家は、下栗から小野へ行くその名の如く「途中」にある。案内を乞うと彼は風邪気味で寝ていたが、快く起き出して何くれとなく注意を与えてくれた。精悍な感じのする男であった。相変わらずの、か細い道を小野へ辿り着いた頃、ようやく夕闇が迫ってきて白々とした月が現われた。どの家からも、もう夕餉の煙が立ち上っている。私も今宵のねぐらを捜さねばならない。路傍の農家に一夜の宿を乞い、ここに落着くことになった。
 明日から何日か、もはや自分一人になる。眼が冴えて睡り切れぬ夜であった。

山へ

三月二十五日 晴
 ろくろく眠らぬうちに夜が明けてしまった。美味しい米の飯をご馳走になって六時半家を出る。晴れてはいるが、今日は上河内がほんのり霞んで天候の下り坂であることを示している。早くも不安の蔭がさしてきて落着かぬ気持になった。大野から道はいよいよ遠山の河原へ下りはじめる。木の葉をカサコソと踏みしめながら河原に立つと、両岸はあくまで高く陽を遮って、にわかに肌寒さを覚える。大きな飯場があって人足が多勢出たり入ったりしていた。
 意外なところに意外なものを見る。ここの方が下栗あたりよりもかえって賑やかなようだ。危い丸木の一本橋を裸足になったりして、二、三度渡り返すと、やがて北俣渡。北俣沢は本流と見まごうばかりに大きく滔々と流れ込んでいる。出合の河原に猟師が二人、タツマを組んで獲物を待ちかまえている。ぼんやり見ていると、のこのこ川を渡ってきて、人なつこく話しかけた。聞けば猪を獲っているとのこと、その肉は遠山郷の中心地である和田へ売り出すとのことであった。左岸沿いの良い路を気楽に歩くと兎洞の出合弁天島である(九・一〇)。
 遠山の谷はよほど山の幸に富んでいるらしい。ここの河原にも猟師がタツマを組んで獲物を待っていた。タツマから立ち上るほの青い煙が静かに山の腹へ吸い込まれてゆく。アメリカ西部を思わせる風景であった。弁天島をすぎるとときどき棧道が現われたり、小尾根の鼻を捲いたりして、道はいくぶんせせらぎから遠ざかる。そして谷はますます深みを加えてゆく。諸河内の出合で小憩してパンを噛った(一〇・一〇〜・四〇)。
 遠山の谷は深い。しかし深い上にもこの谷は大らかな抱擁性を持っている。そして秩父の谷のような静けさの中にもはるかに明るさと柔らかみがあって、こちらから溶け込んでゆくような親しさをおぼえる。
 同じような道を易老渡いろうどへ来ると、かねがね聞いていた面平めんだいらへ直行する径路が分岐していた。福長の話ではブッシュが多いから、白薙を廻った方が良いとのことであったが、見たところどうして立派な路である。これに入ろうか入るまいかと考えあぐねて、腹をきめるために沢辺に下りて、またパンを噛りながらひと休みした(一一・一五〜・四〇)。結局福長の言に従うことにして、橋を渡って対岸の路を往く。路は今までと違ってすごく悪くなり、相変らず棧道が多いが、朽ちかけていて幾度か足を踏み込んで肝を冷やした。三〇分も行くと左岸に壮大な崩壊が現われた。高度は確かに小さいが、幅の点では穂高の北穂沢にも比すべき代物である。白薙だ。ただちに川辺に下り、裸足になって徒渉した。浅いところを選んで渡ったので、膝の少し上まで浸っただけだったが、聖から、兎から、上河内から流れ出る雪どけの水は、指がちぎれるほど冷たい。
 さて足を拭って眺めると、一向に路らしいものが見えず、おまけにガレの真ん中は素晴らしい落石がしきりと砂煙りを上げている。しかしこれが白薙であることには相違ないので、なんでもかでも安全そうなところを歩こうときめて、右縁を辿って登ったが、ガラガラと崩れるガレは歩きにくい。右に避けると、ホールドも何もない堅砂の斜面に入ってしまって、にっちもさっちも行かなくなる。いつまでたってもさっきの徒渉地点がすぐ下に見えて気になった。二〇〇米ほど登ると、ついにぼろぼろに風化した崩壊壁に直面した。傾斜のゆるい真ん中あたりは落石が怖ろしく、とうてい歩く気は起こらないので、顕著なリッジ状のところを選んで取り付いた。うかつに手をかけると大きな岩がグラリと動く。はっとして身をねじると腹のあたりをかすって轟然たる響きとともに砂煙りを上げてすっとんで行く。触れる岩触れる岩、片端から動いて、ついには乗っている足場まで危くなってくるのだった。ところどころにあるザレ混りの部分は、一つ一つピッケルでステップを切った。直射する日光にベットリ汗ばんだ額に砂挨りが不愉快にこびりつく。苦闘三時間、ようやくこれを越えて足下のさだまった森林帯に身を埋めることができた。わずか二〇〇メートルくらいのこの壁に身も心も疲れ果てて落葉の中に突っ伏して荒い息をついた。肩に喰い込んだ重いルックを久方ぶりに地に下ろし、うまいうまい一服を愉しむ。このあたりの木立は冬枯れした枝に明るい色がみなぎって、心からのんびりすることを許されるのだが、しかしこの貧しい平和も長く愉しむわけにはいかない。
 左にガレを見下ろしながら、木立の中を縫って急な登高をつづける。今のアルバイトから全身は激しい疲れを覚えて行動は甚しく鋭敏を欠いた。やがて雪が現われる。と突然右手に何やら路らしいものが見えた。近寄って見ると果して路だった。これが易老渡から来る径路であることに疑いはない。馬鹿に立派な路で、これを来ていたら、ガレであんな苦しみ方はしなかったろうと残念がったが後の祭り。雪はツボ足では手に負えなくなり輪かんを着けた。雪の中を路形を追ってジグザグに登ると、面平と覚しき鬱蒼たる針葉樹に囲まれた小広い緩斜面に出た。
 陽は西に没し去って黄昏が迫ってきた。「ビバークしよう」と、ある大木の根方に荷を下ろした。
 おお、光が失せてゆく、一日が消えてゆく。同じ山が、光が消えるとどうしてこんなにも重苦しいものに変るのであろう。薄明りの中に巨木が化物のように浮かび出ている。見上げる梢の方は薄暮の中に煙って、その間隙から覗く空はどんよりと暗い。生温かい風が音もなく吹き寄せて、原始の世のような不気味な静寂、何者とも知れぬ巨きなものがひしひしと押し迫ってくるような感じである。静けさを破るのをはばかるように、そうっと雪を踏み固めてツェルトを被った。
 怖ろしい夜であった。さわとも波打たない四辺の空気に、魂が一滴一滴吸い取られてゆくような気がした。この世のものと思われぬこの闇の中に、自分のツェルトのみがほんのりと浮き出ているのかと思うと、たった一本の蝋燭をともしていることすらが無性に怖ろしかった。
 雪を溶かして水を作り、もうぼろぼろになりかけている持参の焼飯を手早く流し込んで、闇との息苦しい神経戦から免れるためにすぐ眠りにかかった。

三月二十六日 曇 風雪
 高度は低くとも雪の中はやはり冷える。夜中にいくども目を覚まして、蝋燭で暖をとるうちにいつしか夜も白んでいった。換気孔から覗くと、空はどんより曇って、「いよいよ来るな」と思わせる。降るなら今のうちにありったけ降ってもらいたい。これから国境稜線まではひたすらな登りである。ただ高みへ高みへと登りさえすれば、間違いなく稜線に着くのだから道を失う心配はない。しかし今日の行程は高距が甚しいので、及ぶかぎり支度を早めて五時ツェルトを畳んだ。
 こんな重苦しいところでも朝はやはりよい。頭の上にのしかかっていた重いものが取り除かれたような気安さを感じるのだ。これからは、いよいよ本格的な雪の世界に入るので、ウインドヤッケ、ズボン、オーバーシューに身を固め、アイゼンとスノーラケットでいかめしい足ごしらえをして、行動を開始する。雪は思ったほど潜らないが、湿気を多分に含んで非常に足が重い。なんの眺望もない森の中の単調な登行、空は灰色に曇って気分も一向に冴えない。登路は切り開きが不明瞭であったが、兎の足跡がよき道しるべであった。登るにしたがって次第に潜る度がますます烈しく息切れがする。ときどき振り返って丹念に穴のあけてある来し方を見やるのが唯一の慰め。眺望がきかぬのでどのくらい登ったかも判然とせず、ただ機械的に足を運んでいた。
 一八〇〇メートル付近? を過ぎると、途はにわかに傾斜を増して倒木が意地悪く行手をはばむ。二〇〇〇メートルと覚しきあたりでいよいよ雪が降りはじめた。ひどい吹き降りである。湿気が多いためウインドヤッケがグッショリ濡れて、不愉快な肌寒さを覚える。雪はみるみるうちに深さを増して、ときどき股まですっぽりはまってしまい、脱け出るのにひどく体力を消耗した。こんなになってくると、もう先のことなど考えておらず、時間の経つのも気にならない。ただ目前の障碍しょうがいに夢中になって取り組むばかりである。
 どのくらい登ったろうか。どのくらい経ったろうか。とつぜん小さなピークの頂に立っていた。頂上かと思ったが自信がもてないので、地図、磁石を総動員してみたところ、それは頂上ではなく一つ手前の三角点だった。そして易老の頂上までは、なお幾多の小突起を越えなければならなかった。――易老の頂上は背の低い針葉樹に覆われて、どこが最高点やら分らない。何度もぐるぐる廻って、ようやくそれと覚しいところに立つことができた。
 六時。風雪の中でもがくうちに、思わぬ時間を費したものである。日は暮れかかっている。最高点のやや仁田岳寄りの木蔭に荷を下ろして、ビバークにとりかかった。同じ夜を迎えるにも、今日は昨夜と違って、いくぶんせっぱつまった気もするし、それに自分が一番高いところにあるといった気安さもあって、さほど暗い気持にはならず、丹念に雪を踏みしだき針葉樹の葉をふんだんに敷いてツェルトをかむった。湿雪にぐっしょり濡れたウインドヤッケ、オーバーシュー等脱ぎ棄てて、温かい毛布にくるまり、コッフェルのバーナーに火を点ずれば、もはやわが世は春である。ルックから、大切な甘味、甘納豆を取り出してちびりちびりと楽しめば、激しいアルバイトの後なので、その甘さがたまらない。
 飯の支度をするかたわら、今夜は寒さに備えて白金懐炉に火を入れるべく、タンクからベンジンを出して静かに注いだ。ところが――それがたらたらとこぼれた。ハッと思う間もない、私の目の前に真紅な火の海を見た。バーナーの火が移ったのだ。――その後どうしたのかよく覚えていない。ただ手に持っていたベンジンを下に置いて、火の海から体を遠ざけるように、ツェルトごと無我夢中で仰向けざまに雪の中を転がり廻ったのである。火は消えた。ツェルトから這い出して、私はぼんやり雪の中に突立った。真紅な焔の舌がまだ網膜にこびりついて離れない。ふと周囲の明るさに空を仰ぐと、素晴らしい月が今は皓々と冴えている。冷たい月であった。美しい月、夢幻的な月、いろいろ見た月の中にも、かつて私はこんなに物寂しい月は見たことがない。とつぜん激しいノスタルジアが襲ってきた。家、里が恋しい。「引き返そうか」悪魔的な衝動が胸をかすめた。しかしそれは意地でもできない。ただこの上は予定の赤石を越えて一日も早く里へ下りるばかりだ。滅入った気持を強いて引き立たせて、雪中に取り散らかされた品々を整頓にかかった。
 被害は思ったほど大きくはなかった。ツェルトに直径三、四寸の穴が二つ三つあいたのと、ウインドヤッケの肩のあたりにやや大きな焼穴ができたのと(これは少々心細い思いを起こさせられたが)、その他肉体的には顔面および頭部に軽い火傷を負ったにすぎなかった。しかし大切な甘納豆がそこら一面に飛散して物にならなくなってしまったのは、最も身にこたえた。烈しいショックを受けた後ではあったが、昼間の疲れでいつしかうとうとと眠り込んでいった。

三月二十七日 晴
 明るい朝だった。
 気分を取り直して、予定通りてかり岳への往復に取りかかる。見たところ四、五時間もあれば行ってこられそうなので、荷は全部ルックに詰めてビバーク・プレースに置き、ピッケル一本持って出発する。
 非常に雪が深い。さんさんと輝く陽に、春の雪は泥濘のごとく重い。ブッシュの中を右に左にと潜り抜けて、屈曲の多い複雑な尾根をいっしんに辿ったのだが、イザル岳との最低鞍部まで下りたところで、どこが主稜やらわからなくなった。ここは信濃俣河内の西沢のツメに当っており、一面に展開してまるで庭園のような印象を与える。主稜と覚しきあたりを選んで二、三回ぶつかってみたが、えらく急傾斜でどれも尾根らしくないのですぐ引き返した。そうしながら次第に西側へ廻って行くと、ようやく本当のコルへ出た。このところ国境線は甚しく右に屈曲していて、よほど注意しないと見失ってしまう。どんなに右に曲っても曲りすぎることはない。
 見上げればイザルへはもはや簡単なスノーリッジで、テカリへはイザルへ廻らずに直接易老沢の源頭を横切っても行けそうに思えた。ところがなんだか一向に気が進まなくなってしまったのである。こうしていることに、もはや私は何の魅力も感ぜず、むしろ当惑していた。後で聖が、赤石が私をぐんぐん引きつけているのだもの。「帰ろう」思い立つや否や、私はくるりと踵を返して一散にもと来た方へと引き返した(一〇・〇〇)。
 風は冷たかったが、陽は暖かかった。どこかで小鳥が鳴いているような、のどかな気分がただよっていた。雪の下から萌え上る春の息吹きが感ぜられた。これからの行手に横たわる不安と、意地を屈したことに対する割り切れない気持にもかかわらず、私はこの恵まれた現在を愉しまずにはいられなかった。
 ルック・デポに引き返して、パンで簡単な昼食をしたのち、仁田岳へと向う(一一・五〇―一二・五〇)。地図で想像した以上の緩傾斜でしかも木立が多い。ただリッジと覚しきあたりを辿って、矮樹の中を縫って行った。前方に上河内、聖が、一つは飽くまで尖鋭に、一つは飽くまでも豪宕ごうとうに麗らかな春の光の中で白銀に輝いている。背中はじっとりと汗ばんで、雪は相変らずのベタ雪である。ただ風ばかりが冷たかった。
 尾根は迷いやすい。気は配っていたがとうとう踏みはずして、大春木沢の側へ大きく下り込んで引き返すのにえらい苦労をした。仁田岳とのコルに近づくと、深さ丈余もあるクレバスがリッジ上に形成されていて一驚を喫する。こんな処を降雪中でも歩くならば、恢り込まないとも限らない。うっかり油断はできないと思った。コルに下り立つと猛烈な寒風が西側から吹き越して、湿雪に濡れた手袋、オーバーシューなど、たちまち石膏細工のようにコチコチになってしまう。ここから仁田への登りは距離もさほどなく、また雪も一向落ち込まないので楽である。ただクラストの上の新雪がすべって輪かんがひどく邪魔だった。仁田の頂上は小さな潅木に覆われた平凡な雪頂であるが、今までとちがって、素晴らしい眺望が展開した。気がついてみると、いつしか陽は暮かけており、国境線から駿州側へややそれている仁田の頂上を往復した時には、早くも青い煙のような夕闇が訪れていた。潅木の蔭に風を避けてビバークとする(一八・四五)。
 素晴らしいビバークであった。今までのように木立の中に閉じ込められて、何者かに監視されているような重苦しさもなく、晴々とした気分でツェルトの中であぐらをかいていられるのだ。まったく天下無敵な気持とはこのことであろう。通風孔からも、焼けた穴からも、皓々たる月の光りが洩れ、覗けばどこもかしこも見渡せる。まさにこの夜こそは、山の精に取り囲まれて送るにふさわしい一夜であった。穴から覗くと、聖は軽く夜霞に閉ざされているが、上河内のピラミッドは月光の中にくっきりと浮かび上がっている。
 昼の間は肉体のアルバイトに気を紛らわされているが、ツェルトの中で落着いて眺めると、こうして一日一日と計画が達成されてゆくのはこの上もなく嬉しい。コッフェルで雪を溶かした水でぼそぼそのパンを噛ってはいるが、今夜はそれが至上の饗宴なのである。久しぶりで平和な眠りにつくことができた。

三月二十八日 晴
 例によって明方の寒気に叩き起こされる。風が序曲を奏でながら、刻一刻、夜のとばりを押し開いて、また素晴らしい黎明が訪れた。朝、それはいかなる境遇にあろうとも、常に明るく輝かしい。おお、山は今光りに満ちてゆく。聖が、上河内が、アルペングリューエンに血のごとく燃え立った。今日はあれを越えて行く。どこまで行けるかはわからない。しかしどこまでであろうとも、この夜明けの壮観を前にして、私は希望に満ちみちて立ち上がった。
 七時半、ツェルトをたたみ、風が強そうなのと、ウインドヤッケが火事で穴があいたのとで、毛皮を着たまま出発。今日はアイゼンだけの軽い足ごしらえである。寒風に吹きさらされた稜線は、ところどころトラップクラストを形成して、なんの予告もなしに足をさらったが、大体ほどよく締ってアイゼンが痛快に利いた。しかし風は意外に物凄く、茶臼岳の小頭を越えると、いよいよ猛威を逞しうして数回吹き倒された。地図にお花畑と印してある付近一帯は、両側を小尾根が取り囲んでいるので小康を得たが、ふり仰ぐ上河内の絶嶺は怒髪天をつく、といった恰好で物凄い雪煙を碧空に吹き上げており、その烈しさが思いやられる。登りにかかると果してえらい雪煙で、砂漠の嵐のように細かい雪粒が、目といわず、鼻といわず、息のできないほど吹きつける。上河内の頂上は国境稜線からやや東に独立している。その分岐点まで来ると、ますます雪煙はひどく、頂上まで行けるかと心細くなった。思案のあげく、分岐点に雪穴を掘ってルックをその中へ押し込み、空身で往復にとりかかる。
 まったく、どうしてここはこんなに風が凄いのだろう。風の上に寝るようにしてほとんど走り上るように頂上まで一気に登ってしまった。駿州側にはきわどい雪庇が張り出ていた。ピッケルのピックを雪にたたき込んでそれに噛りついて、四つん這いのまましばし頂の憩いを楽しむ。はるかかなたに摺鉢を伏せたような富士がぽっかりと浮かんでいる。聖の方は雪煙にわざわいされてあいにく眺めることができない。さて登ったはいいが下りが大変だ。下る方向へは顔を向けることができないので、登る時と同じように風の上に寝て後ろ向きに下りねばならない。ときどきバランスを崩して倒れながら、登りの何倍もの骨を折ってようやくルックデポに着いた。これでまず最初の大物が片づいた。ルックを背負い身を屈めて、この特別な強風地帯をくぐり抜ける。相変らずのクラストの雪稜をぐーっと急角度に左に曲ると、聖平がぐんぐん近づいて、再び易老付近に似た軟雪地帯が現われる。春の強烈な陽射しにべたべたになった雪は、アイゼンが少しも利かない。小さなピークをいくつか越えて、樹林の中を駆け下ると、そこは聖平であった。
 亭々たる針葉樹がここかしこに見上げるばかりに突立って、その梢のかなたに、今まで肩を並べていた聖が、今は肩をいからして聳え立っている。もう零時半、今日のうちにこれが越えられるだろうか。越えてしまいたい。越えてしまえばもう恐れるものはないのだから。焦る心をおさえて、これからのアルバイトの準備にコッフェルで雪を溶かして充分に腹ごしらえをした。二時十五分、いよいよ上りに取りかかる。ひどい潜り方なので、少し行って輪かんをつけた。このところ、しばらく免れていたラッセル・アルバイトが再び始まった。時間はぐんぐん経ってゆくのに、足は一向に進まない。見上げる聖の腹にはツェルトをかぶれそうな場所が見当らない。あの風が猛威を逞しうしているであろう頂上などでは、とても寝る気はしない。出発したからにはもはや乗り越えるばかりだ。気ばかり妙にいらいらする。しかし、軟雪地帯は思ったほど長くはなかった。小さなコルに出ると、やがてコチコチのクラストの斜面になり輪かんを外すことができた。もうこちらの天下だ。アイゼンを痛快に利かせて一気に頂上まで登り切った。
 おお、赤石、今まで遮られていた未知の世界がとつぜん視野に飛び込んできた。望んでいる最後のもの、それが今はもう目の前に置かれている。「もうあれを越えればいい」、前途の見通しがはっきりつくと、しみじみとした嬉しさがこみ上げてくる。しかし楽しい頂上ではあったが、ビバーク地を捜す必要があるので、わずか五分間で名残りを惜しみながら兎岳とのコルへの下降に移る。
 コルに近づくと再び風が烈しくなり、リッジは痩せて、いくどか西沢側へさらわれそうになる。コルを見下ろすと、とてもビバークできそうなところなどないので、一〇〇メートルほど上の露岩の下に、急雪面に穴を掘ってツェルトを被った(一七・四〇)。
 鷹の巣のようなところである。足の下には赤石沢が大きな陰影を造っている。夜中にひっくり返っては一大事と、ツェルトの外側にピッケルを深く刺し込んでおいた。やがて真紅の陽が美濃の山のかなたに沈むと、素晴らしい夕焼けである。ああ明日も天気だ。こみ上げてくる嬉しさをどうすることもできない。何もかも巧くいった。一番心配していた上河内の下りも、聖の下りも問題なく片づいてしまった。もう迷う心配はない。聖沢だの、赤石沢だの下る必要もない。小さな瓶に入れてきた、とっておきのウイスキーで心からの祝杯を挙げた。今宵も素晴らしい月光――。さすがに高度が大きいので烈しく冷え込む。それに長い間の疲労がにわかに出たのか、うとうとした眠りの中でいくどとなく悪夢に襲われて脂汗をかいた。

三月二十九日 晴
 明るい朝の光にようやく息を吹き返した。その名のごとく真っ赤に映えている赤石を眺めながら、手早く食事をして午前七時出発。ビバークも四晩を経過すると、全身に甚しい倦怠をおぼえ、肩の荷が今までになく身にこたえて足もとがふらふらする。一歩一歩慎重に踏みしめてコルに下降した。今日は風が穏やかで、なんなくコルを通過して尨大な兎への登りにかかる。リッジはところどころきわどいナイフエッジをなしているので、二、三ステップを叩いたが、大体において気軽な、平凡な登高であった。兎岳頂上で上河内や光岳ともお別れになる。それに名残りの一べつを投げて、大切なアイゼンを気にしながらガレ場を駆け下り、小さな小兎を乗り越えると中盛丸山とのコルである。中盛丸山は地図や文献で想像した以上に大きい。せわしい出発をしたので、充分な朝食をとらなかったため腹に力がなくなった。ここで前途に備えて充分腹をこしらえる。静かではあるが、馬鹿に冷たい風がどこからともなく廻り込んでくるので寒くて閉口した。しかし、しごくのどかな日和であった。
 中盛丸山の登りはふくらはぎがつるほど急なので、西側に緩斜面を選んで廻って登った。丸山を越えると大沢岳、この峰頭は露岩が多くていい気分である。陽射しはぽかぽかと暖かく、春の息吹きがじーんと響いてくる。どこかで私を呼んでいる声がする。耳もとを風が穏やかに吹き過ぎた。
 十一時半、大沢岳の頂上に着いた。目の下は百間洞ひゃっけんぼら、ここまでは一帯の雪の斜面である。尻当を逆さまに結びつけて、一気にスィッティング・グリセードで滑り下りた。息もつかせぬ滑走。ところどころマーブル・クラストで大きく宙にバウンドしたが、じつに痛快な滑走、赤石がみるみるうちにはるかの空にそそり上ってしまった。話し相手もない単調な山越えには、この滑走は素敵に嬉しいものであった。
 赤石とのコルに近づくと、またもやベタ雪となり、団子になってしまうアイゼンが煩わしかった。水平にトラバースすれば楽なのだが、アイゼンが利かぬのでリッジ通し辿った方が早い。零時半コル着、福川を見下ろすと平凡な雪の急斜面である。それをじっと見下ろしていると、ふらふらっと奇妙な衝動に駆られて、慌てて赤石沢側へ向きなおった。こういう時の衝動はまったく不思議なものである。見つめているうちに体が引き込まれるように駆け下ってしまいたくなるのだ。雪の上に寝そべってトカゲしながら聖を眺めた。南の山はじつに大きい。切り込みが、鋭くはないが、北の山に比べて非常に深い。あの真っ白な稜線を伝って小さな小さな黒点が、ポツリポツリとここまで移動してきた、その黒点が私なのである。はるばるとまあよく来たものだと思った。最後の目標赤石も、あと三時間もあれば必ず行ける。そこまで行ってしまえば、もはやどっちの方向へ下ろうとも勝手なのだ。その見ぬ幸福を想像しながら、のびのびと懶惰らんだをむさぼった。一時十分、いよいよ赤石の登りにかかる。アイゼンがよく利くようになった。百間平では鷹の飛ぶのを見た。見ていると、みるみるうちに大沢岳のかなたに黒点となって消え失せ、それが再び矢のように馳せ戻ってくる。それはこのうえもなく羨しいものだ。
 赤石の登りは予想外に長い。百間平の平坦地はやや軟雪で、アイゼンでは潜って歩きにくかったが、大赤石とのコルからは傾斜は増したが、再びアイゼンがよく利くようになった。最後のちょっとした岩場を攀じ、露岩を縫って緩慢に歩を運び、四時十五分ようやく大赤石の頂上に立った。もはや目の及ぶかぎりで自分より高いのは、奥西河内をへだて、夕陽にほんのりと染まっている悪沢岳が唯一のものである。だが何故か予期したほどの感激は得られなかった。長時日に備えて登高欲をむしろ押え、引きのばして一日一日を辿ったためであろうか。頂の感激は、それまでに費された情熱が激しく、太く、短い時ほど大きいものなのかも知れない。目の下に長々と延びてゆく赤石東尾根、その蔭には人里椹島さわらじまがある。そこへさえ飛び込めば、自分の目的は完全に具現化し得るのだが、その東尾根はトラバースする部分が非常に雪が深そうで、ちょっと下りにかかる気にはなれなかった。
 私はこの時、自分をどっちの方向へ導いて行ったらよいか、甚だしく当惑していた。とにかくあとは下り一方なのだし、それに今日は日暮れに近い。これをいい口実にして、私は決断を延期することになった。大聖寺平付近でビバークして、明日は再びここへ来るか、大河原へ下るかとくと思案しよう。そうきめて私は大聖寺平へと向った――。ところがあまり晴天つづきで薄気味悪さをただよわせていた空は、ついに変調を示しはじめた。荒川岳のかなた、うごめく陽に淡く色づいた空には化物のような怪雲が幾重にも積み重なって、突如として出現したのである。「ああ明日は荒れる」。にわかに不安がぞくぞくと押し寄せて、私は反撥的に皮膚を張り切らせた。――大聖寺平への斜面はアイゼンのツァッケが氷雪に噛みつくように素晴らしく利いて、一直線に下降した。荒川小屋と覚しきものの屋根が、薄黒い山襞の蔭に識別された。大聖寺平のコルから水平にトラバースして難なくその前に立った(一七・四五)。
 高度は高いがここは小尾根の蔭になって薄暗い。小広い雪野原、ところどころに樺の矮樹が叢生して、その真っ只中に真っ暗なガラン洞の小屋が控えてある。入口は一面の雪に閉ざされ、窓から眺めると中は一面の真っ暗な雪野原であった。だがここに来るまでこんなものを見向きもしないはずであった、そして普通ならば無気味で近寄ることさえはばかるであろうこの無人小屋が、なんと懐しく感じられることか。ガラス窓越しに覗き込んでいるうちに、突如、悪魔が私の頭をかすめた。その瞬間、半ば無我夢中で私はピッケルを振った。窓を壊した。押し開いた。そして私は中に入ってしまっていた。均衡は破れたのだ。
 なんの均衡か。天候の不安もあった。燃料も不足を告げていた。しかも、大切なマッチがもはや残り少なになっていた。だが、それがどうしたというのだ。さらにさらに大きな不安と困難とに平然と立ち向いうる自分ではなかったのだろうか。矢玉尽きるとも、人間界の取っかかりまでは、どうともして踏み堪えるはずの自分ではなかったろうか。ただ小屋が、人の香りが胸を衝いたのだ。
 いつしか真っ暗になってしまっていた。アルコール・コンロの弱い火の中に真っ黒な梁が頭の上に垂れ下っていた。小屋は森閑と静まり返っていた。コンロの光の及ばぬ隅は、漆黒の闇の中に閉ざされて、私を包む狭い空洞のみが明るい。ああ破壊者、俺は小屋の窓を破るとともに、せっかくこれまで作り上げてきたものを壊してしまった。今までたとえ天候が良くとも、万一悪天候に悩まされても、自分は死なないという誇りのもとに、晴天を享楽しつつ辿ってきた。だが、それは根底のないものだったのか。ここまで来たことすら僥倖だったのか。
 小屋の中は寒かった。昼のアルバイトにもかかわらず、眼が冴えて四時頃になってようやくツェルトをかぶった。

三月三十日 快晴後曇
 目が覚めた時は既に九時近かった。天候はぜんぜん予想を裏切って素晴らしく晴れ上がってしまった。しかし、今朝はもはやこれまでのように、自信と誇りとに胸を張って立ち上がれるほどの偉い自分だとはとうてい思えなかった。ただこの上はスケジュールの外である悪沢に、せめてもの意地を張ってやろう、と考えて、急いで支度をして小屋を出た。まったく素晴らしい天候、燦々と照り映える強烈な日光は、とても目をあけていられないほどだが、ところが一体どうしたことか、肝心の雪眼鏡が一夜にしてどこかへ消えてしまったので、詮方せんかたなく眼をごく細めに開いて登高を開始した。背中はじっとりと汗ばむ。夏のような暑さであった。荒川岳の登りは一面の雪の斜面となっており、ぜんぜんルートは判らない。ただ通れそうな路らしいところを選んで斜めに高きを迫った。長い、単調な登高。リッジ一つ越えるとぱっと悪沢岳が眼の前に現われた。ずいぶん遠かった。魚無河内のカール一つをまっすぐに突切り、遮二無二悪沢へと直進して十二時半ようやく鞍部に着き、残り少ない煙草をふかしながら来し方を眺めた。
 目の前に昨日越えた赤石が大きく空を画している。一昨日、聖から眺めた時、また昨日百間平から眺めた時のごとく、太々しく落着いてそれを眺められぬ自分を思うと、われながら腹が立ってならない。しかも山々はまったく無関心である。
 悪沢の登り――遠目にはなかなか凄かったが、じつのところそれは見かけ倒しで、雪が風に飛ばされて明瞭な夏径がジグザグに露出していた。そして二〇分でその頂に立つことができた(一三・一五〜一四・〇〇)。北面を見下ろすと、快適なスノーリッジが大井川西俣にぐっと延びている。このリッジは既に立教山岳部によって登路に使用されているが、塩見岳と悪沢岳とを結ぶ便利なコースのように思われる。塩見は白い尨大な山容を横たえて、南アの一雄峰たるにじない。軽い休みをとって、ただちに下降に移った。下山、人里、それはなんと愉しいものだろう。温かい蒲団にくるまってぐっすり眠る生活が自分を待っているのだから。岩小屋のような巨岩を縫って一散に駆けりに駆けた。千枚岳とのコルからは路が南の腹に露出していたが、ひんぴんと崩れてきわどいトラバースであった。千枚の頂上下で、ブレーカブル・クラストが現われたので、久しぶりに輪かんをつけた(一四・一五)。空は気のつかぬうちにいつしか曇ってきていた。鼠色の空の下をリッジを迫って、私は夢中で駆け下りて行った。
 森林帯に入ると、下るにしたがって雪はぐんぐん潜る度を増して、どすんどすんと股くらいまで落ち込みいらだたしい。今日中に椹島まで行きたい、行かねばならない。その椹島がもう今は目の下にあるのだ。その意識がにわかに私を駆って人恋しさに燃え上らせていた。それなのにこの雪の奴めがなんとまあ馬鹿に潜るんだろう。腹立ちまぎれにいくどとなく罵声を放って立ち並ぶ樹木をピッケルでしたたかなぐりすえた。この蕨段わらびのだんの尾根はじつに迷いやすい。三角点の下では磁石までふってえらい手間を費やし、またひどく疲れた。三角点の下の小突起を過ぎると、雪は次第に減って部分的にはぜんぜんないところもあったが、同時にぼさと倒木が甚だしく行手を遮って、少々意外であった。もう少し立派な路だと予想していたのである。しかも、もう夕闇が迫ってくる。時計は輪かんを着ける時、置き忘れたらしく、時間はぜんぜん分らない。里は近い。焦慮、混迷、期待、何もかも入り混った妙な精神状態で、私はひたすらに眼を皿のようにして路形を迫って駆けつづけた。小石下で輪かんをとり、左へ分岐している二軒小屋への路を横眼で睨んで、休む間もなく下降をつづけた。奥西河内の吊橋で、いよいよアイゼンもオーバーシューも脱ぎ、久方ぶりで土を踏んだ。
 おお、あの尾根の蔭には人がいる、それは恐ろしいような興奮であった。二、三十分も行ったろうか、針葉樹の木立を抜け切ると、ついにそこは椹島であった。だが、私がそこに見出したのはなんであったろう。それは人間はおろか、猫の子一匹の気配さえない死の部落椹島であったのだ。ただ無数の空家が暮色の中に森閑として軒を並べるばかり。私は鉄槌を喰ったような感じで、しばらく茫然と立ちつくした。にわかに恐ろしいものがひしひしと押し寄せてきた。そこからも、ここからも、朽ち果てた髑髏どくろが崩れ落ちてくる。自分は今、死の中にある。光は消えた。動くことが息詰まるほど恐ろしかった。
 夜は容赦なく迫ってくる。むざんに踏躙ふみにじられた期待を胸にしながら、致し方なく河原に下りて、とある空家の軒場にビバークの用意をした。暗い。この世のものとは思われぬほど真っ暗な夜である。妙に滅入ってしまった。だが、明日は二軒小屋へ行ける。二軒小屋、そこには人がいるだろう。それに一縷の光明を求めて元気を出して焚火を始めた。真夜中ついに雨が降りはじめたので、その空家の中に入って土間で豪勢に火を燃やして憂さを晴らした。

三月三十一日 小雨後晴
 眼が覚めた時は明るい雨が降っていたが、出発の準備をしているうちに具合よく晴れ上がってくれた。そして再び明るい陽が照りはじめ、空もうって変って青空になった。時計をなくしたので時間ははっきり分らないが、大分寝過したようなので急いで椹島を出た。ところが眼が猛烈に痛い。太陽の光線でピリピリとみ、涙がポロポロとこぼれて眼をあけつづけることができない。昨日強烈な紫外線の中を、眼鏡をかけずに歩いていたので雪盲にかかったのだ。その眼鏡は今朝になって見ると皮肉にもウインドヤッケの中で、首にぶら下っていたのである。しかし、もはや後の祭りである。半泣きの難行が始まった。曲り角で前途を見極めておいて、眼をつぶってピッケルで足下をさぐりながらの盲目行である。眼が痛いだけでなく、今までの疲労と、欠食が一時にたたったのか、足腰も痛んでよいよいの道行であった。当り前なら、この素晴らしい天候に喜び勇んで歩いているはずなのに馬鹿馬鹿しい限りである。道は左岸伝いにうねうねとつづいていた。坦々たる道ではあり、こうして次第に人里に近づいているにもかかわらず、一歩一歩が苦痛でむしろ道端にひっくり返って寝てしまいたかった。ところどころ大きなガレがあって、そんなところは特にその感を深くした。ひがし木賊とくさの廃屋の手前の沢で軽い昼食をとる。これが最後のパン、もう日数が経ってぼそぼそになっているのを水で流し込んだ。これで非常に元気になったが、ここで大切な地図を置き忘れたために、二軒小屋までどのくらいあるのか分らなくなって、ただもう機械的に足を引き摺った。なんと長い道だろう。いつまで経っても同じ道を歩いているような気がした。どのくらい歩いたか、もはや我慢ができなくなった頃、ようやく二軒小屋の集落に着いた。
 二軒小屋の発電所の取入口、そこで私はまったく何日ぶりかで生きた人間を見たのである。その夜、ご馳走になった飯の味、蒲団の感触――。眼も棚酸で洗ってもらった。風呂にも入れてもらった。だが、なんにも増して嬉しかったのは、人間の中にいるという意識であったろう。口を開いて人と語り得ることが、なんと幸福なことであろうか。所詮人間は、人間を離れては住み得ないものらしい。
 その夜は、温かい蒲団にのびのびと手足を伸ばして、久方ぶりに大快眠をむさぼった。

山を去る

四月一日 晴
 今日はもはや転付でんつくを越えるばかり。昼食までご馳走になって、一時頃ゆっくり二軒小屋を発った。
 峠路はうねうねとジグザグがつづいている。中ほどから雪が現われた。深くはないが腐っているので、よく滑る。喘登がつづいて、一時間余の後峠に着いた。これで山ともお別れになる。峠の下からしばらく岳を眺めた。
 空は今日もまた素晴らしく澄み渡って、岳は美しく輝いている。快い微風が頬をかすめ、暖かい春の一日である。一週間の山旅への不吉な悔恨は今は和んで、楽しい追憶のみがよみがえっていた。あの白く輝く岳の奥から鄙びた不可思議な旋律が風に乗って伝わってくる。それが無性に私を引きつける。これを見、あれを聞く時、山へ行くのが苦しいから山へ行くのでなく、また楽しいから行くのでもない。純粋に「一つのものを作り上げること」のみを目指して山へ入れるような、氷のような山男となることのいかに困難であるかをしみじみと感ずるのだ。
 今までと打って変って暗い甲州側へ雪を蹴散らして駆け下りた。





底本:「新編 風雪のビヴァーク」山と溪谷社
   2000(平成12)年3月20日初版第1刷
底本の親本:「風雪のビバーク」朋文堂
   1960(昭和35)年7月
初出:「年報」登歩溪流会
   1940(昭和15)年
※表題は底本では、「春の遠山入り[1940.3]」となっています。
入力:岡山勝美
校正:雪森
2015年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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