一
火曜日の晩、八時過ぎであった。ようやく三ヶ月計り前に
日はとうに暮れて、道路の両側に並んだ家々の窓には、既に燈火が点いていた。公園に近いその界隈は、昼間と同じように閑静であった。緑色に塗った家々の鉄柵が青白い街灯の光に照らされている。
大方の家は晩餐が終ったと見えて、食器類を洗う音や、女中の軽い笑声などが、地下室の明るい窓から洩れていた。ある家では表玄関と並んだ窓を一杯に開けて、若い娘がピアノを弾いていた。またある家では二階の窓際に置いてある鉢植の草花に、水をやっている
坂口は生れつきの気質から、賑かな市街を離れて、誰人に妨げられることもなく、黙々としてそうした
坂口は家を出た時から、伯父の事を考えていた。もともと伯父は
それだけでも既に不可解であるのに、此数日は食事の時間も不在勝で、何時家を出て、いつの間に帰って来るのか、それさえ判らなかった。坂口はたった一人の伯父の、そうした孤独な振舞を考えていると、一層沈んだ心持になってくるのであった。
快い夜風が彼の頬を吹いていった。
足は自然にクロムウェル街に向う。其処には伯父の旧い友達でエリス・コックスという婦人の家があった。伯父はエリスがチルブリー
エリスの良人は珍らしい日本人
彼等はよく招かれてコックス家の客となった。船員仲間はそこを「水夫の家」と呼んでいた。
それは二昔も以前の事である。ある年「水夫の家」の父は突然病を得て倒れて
坂口は伯父とエリスがどのような関係にあるのかは少しも知らない。永い間海員生活をしていた伯父は、若い頃から幾度となく、英国と日本の間を航海していたが、つい二三年前に汽船会社を辞して了った。そして世間を離れて少時東京の郊外に仮寓していたが、何を感じたか、飄然と倫敦へ移ってきたのである。
多くも無い親戚ではあるが、同じ甥や姪のうちでも、伯父はとりわけ坂口を愛していた。そのような訳で、坂口は
坂口は曾つて伯父の笑った顔を見たことはなかったが、伯父は親切で優しかった。坂口はそれだけ伯父の生活が寂しく思われてならなかった。倫敦へ来て親しく伯父に接するにつけて、頼りない伯父の身を気遣い、他所ながら面倒を見ようという殊勝な心持を深めていった。
「事によると、エリスさんの家にいるかも知れない」街の角に差かかった時、坂口は独言を云ったが、急に顔が
コックス家にはビアトレスという、美しい一人娘がある。坂口が倫敦へ着いて間もなく、伯父と共に晩餐に招ばれたのは、このビアトレスの家であった。従って彼が若い女性と言葉を交えたのは、彼女が始めてであった。
鉄柵を
彼は
「どうかなさいましたか」坂口は傍へ寄って抱起した。
女は弱切ったような声で、
「水、水」と叫んでいる。
幸いコックス家の前であったので、坂口は女の傍を離れて、石段を上ろうとすると、玄関の扉を開いて、若いビアトレスが顔を出した。
「今晩は、私です。今お宅の前へ参りますと、その方が倒れていたのです。それで、水を戴きに行こうと思ったのです」と、坂口がいうと、ビアトレスは美しい眉を
女は
坂口とビアトレスは互に顔を見合せたが、女は膝に怪我をしている様子なので、一先ず家の中へ
その物音に、エリスは二階から下りてきた。彼女は台所から馳上って来た女中にいろいろ指図を与えたあとで愛想よく坂口の方に手を差延べながら、
「よく来ました。さアどうぞこちらへお入り下さい」といってイソイソと玄関わきの居間へ導いた。
「あの女を助けてやったのは
紺サージの着物に、紅い
薄い藤紫の
「三階に空いた
「そうですね、年をとっているし、可哀そうだから、そうしてお上げなさい」
「あの方の家に電話でもあれば、こっちから電話をかけて置いて上げるのですが、何しろ満足に口が利けない程ですの」
三人の話題は一しきりその女のことに及んだが、エリスは話題を変えて、二三日姿を見せぬ伯父の消息を訊ねたり、倫敦の生活は好きかなどときいた。
伯父はコックス家より他に、訪ねる友達を持っていないことを、坂口はよく知っていた。それ故、今頃伯父は何処で、何をしているのかといささか気になってきた。
坂口がコックス家を辞して家へ帰ったのは十時近かった。重い玄関の扉を開けて、しんとしたホールを通ってゆくと、伯父の書斎に電燈が点いていた。彼は、
「オヤ、
部屋はきちんと
「先刻家を出るときは、確に電燈が点いていなかったから、私の不在の間に、一ぺんお帰りになったと見える」彼は念のためにホールの鏡の前にいって、平常のステッキと、帽子の置いてないのを確めてから、伯父の書斎へ戻ってきた。
フト気が付くと、卓子の上に坂口に宛てた伯父の手紙が置いてある。彼は胸騒ぎを覚えながら、手早く封を切って読下した。
前略小生急用出来候ため、S地方へ旅行致すべく候。四五日は帰宅の程、覚束なく候えども、御心配御無用に御座候。尚小生今回の旅行は絶対に秘密を要するものに候間、左様お含み下され度候。
順三郎どの 林
二
不可解な伯父の手紙を坂口は幾度も繰返した。インキの乾き加減や、電球の温度から考えても、伯父が家を出たのは僅々三十分も前の事と思われた。これからすぐ自動車で停車場へ馳付ければ、伯父に会う事が出来ると思ったが。伯父の気質を知っている彼は、そのような事をしたところで、叱られこそすれ、思立った伯父の旅行を引止め得るとは思わなかった。
坂口は伯父の手紙に記された、急用、秘密、などという言葉を不思議に思った。伯父は別段商売に投資している訳でもなく、財産の幾部分を日本の営利会社の株券に換えて持っているだけで、財産全部は
坂口は二階の暗い寝床の中で、まじまじと伯父の身の上を案じていた。
燈火を消した室内に、戸外の街燈の光が、ぼんやりと射込んでいる。夜が次第に更けていった、坂口の
坂口は
翌朝彼が目を醒したのは、九時を過ぎていた。麗かな太陽の光が、枕元のガラス窓を訪ずれていた。薔薇の咲く裏の
坂口は食事を済ませてから、コックス家を訪ねた。
丁度十一時である。彼は女中の開けてくれた玄関を入った。ホールの突当りに在る書斎は開放しになって、そこから庭に続く石段の手摺や、緑色の芝生が見えていた。
書斎のベランダに置かれた鳥籠の中で、薄桃色と青とで
窓わきに椅子を寄せて、頻りに編物をしていたビアトレスは坂口の姿を見ると、
「オヤ、誰かと思ったら貴郎なの、よくいらしってね。随分いい季節になったのね。貴郎はお好きでしょう」
「エエ、散歩には上等です」坂口は相手が笑いながらじっと視詰めているので、
「戸外はいいでしょう。ほんとに男の方は羨しいわ。何処へでも自由に行けるのですもの」
「女だって、何処へでも自由に行けると思いますがね」
「アラ、そうはゆかないわ。でも母さんはよくお出掛けになるけれども」ビアトレスは冗談らしくそう云ったが、急に不安らしい顔付をして、何やら考込んで了った。
「小母さんはお不在ですか。そして昨夜の女はどうしました」
「ああ、あの方はエドワード夫人というのですって、もうすっかり元気を快復して、今朝は私達と一緒に朝御飯を喰べました。今しがたまで、その辺に見えましたが、大方三階へいったのかも知れません。じき下りて来るでしょう」ビアトレスがいっているところへ、噂のエドワード夫人が血色の勝れない顔をして入ってきた。
「昨夜は本統に、御世話をかけて済みませんでした。お蔭様で助かりました」
「お礼には及びません。でも御元気になられて結構です」と坂口がいった。
エドワード夫人はビアトレスに向っていった。
「お嬢様、誠に有難うございました。宿のものが心配しているといけないから、一旦
「そうですか、では気をつけてお帰りなさいね。お宅はモルトン町だそうですから、そんな遠い所から、わざわざ出直していらっしゃらないでもよろしゅうございますわ。お宅へ帰って
エドワード夫人は間もなく家を出ていった。
書斎のベランダでは、鸚鵡が喧ましく女中の名前を呼んでいる。二人は別々の事を考えながら、
「林小父さんは此頃どうしていらしって?」編物を膝へ置いて、
「伯父ですか、……別に平常と変った事はないと思いますが、……」
「そうなの、家の母さんは此五六日ほんとに様子が
「そう
「エエ、本統にそうなの、私何だか心配で仕方がないのよ。そして不思議な事には、此節しげしげと、何処からか手紙が参りますの、その度に母さんは悲しそうに溜息をしていらっしゃるわ」
「母さんは其事に就ては、何事も貴女に仰有いませんか」坂口は
「エエ、私は心配になって、度々その訳をお訊きするのですけれども、その事に就ては何も仰有らず、手紙が来ることさえ、私に
ビアトレスの言葉を聞いて、坂口は前夜伯父の書残していった不思議な置手紙を思出した。彼はその事が危く口に出かかったが、気がついて口を
「ビアトレスさん、余り心配なさらないがいいです。伯父さんもいることですから、小母さんの為には、どんな事でもして
坂口は霎時していった。
「今迄私の見た事のない筆蹟で、それがみんな、同じ人から来るらしいのよ。母さんは女中にさえ、手紙の上書を見られるのを厭がっていらっしゃるのです。今朝もエドワード夫人が手紙を受取って、母さんのところへ持っていったら、平常の母さんに似合わず、
「それは林伯父さんの手紙ではありませんか」
「
「そんなに度々何処から手紙が来るのか知ら……お待ちなさい、私も
「どんな事?」
「小母さんの後を
「貴郎、そんな事をして若しそれが、万一母さんの為に悪い事だったらどうしましょう」ビアトレスは
「そんな事は必ずあるまいと思いますが……それでは伯父の力を借ります」
「どうぞ
ビアトレスは一年一年と年をとってゆく母の淋しい様子を思浮べて、大きな眼に涙を浮べた。坂口も何をいう術もなく黙込んで、
三
ビアトレスは坂口を玄関まで送って、再び居間へ戻ると、突然けたたましくホールの電話が鳴出した。
先方の男は
「私はコックス夫人から御伝言を頼まれたものですが、お嬢様に
「私が娘のビアトレスです。貴郎は
「ハイ、私はパーク
「何ですって? 母さんと林さんが何処に居ると
「こちらは旅館にお
「何旅館とか云いましたね。……電話が遠いのでよく聞えないのです……エエ? パーク旅館?……ああ判りました、パーク旅館ですね。……はアそうですか、百二十八号室は五階ですか……では直ぐ参ります」ビアトレスは電話をきって、イソイソと二階の寝室へ馳上った。
それから数分後に寝室を出てきたビアトレスは、菫色の
ビアトレスは舌打ちをしながら、壁に掛っている時計を見上げたが、いつ戻って来るか判らない女中を、的も無く待っていても仕方がないと思って、置手紙をして出掛ける事にした。彼女は紙片の端に、母から電話がかかったので食事に行くから、其積りでいてくれ、と鉛筆で走書をすると、それを台所の卓子の上へ乗せて置いて急いで家を出た。
ビアトレスは町の角からタクシーに乗って、H公園に近いパーク旅館に急がせた。
ビアトレスが五階へ運ばれて、廊下へ出た時には、四辺に人影がなかった。広い旅館の中はしんとして何の物音も聞えない。彼女は部屋の扉の上に記された番号を数えながら、足を運んでゆくと、純白なリンネルの上衣を着た給仕が前方からやってきた。
「百二十八号室をお尋ねでいらっしゃいますか」男は小腰を屈めながらいった。
「
「ハイ、
「ここでございます」といって一足後に退った。
ビアトレスは軽く会釈をして、手をかけた
「
云うまでもなく部屋には誰一人いない。恐ろし気な顔をした給仕が、ドキドキする細長いナイフを、ビアトレスの鼻先に突つけている。彼女は努めて平静を装って、
「お前はこんな手荒な事をしてどうしようというの? 私の生命を
相手はビアトレスの手首を後手に
「静かにさえしていれば、そんな
「貴郎は一体何者です。私の持っているものが欲しいなら、指輪でも、首飾りでも、皆あげますから、私を外へ出して下さい」とビアトレスがいうと、男は落着払って答えた。
「今に当方の用事が済んだら出してあげるよ。ここまで来て了えば、いくら騒いでも到底
「母さんや林さんが、此旅館に来ていらっしゃるなんて、先刻電話をかけたのは貴郎でしょう」
「それは貴女を
「母さんか、林さんが貴郎の顔を見れば、きっと誰だか知っているに違いありません。貴郎は男の癖に
ビアトレスは段々と落着いてきた。彼女はじっと男の顔を視詰めながらいった。相手は五十を二つ三つ越した色の黒い大柄な男である。彼はそれには応えず、
「どれ、俺は出掛けるとしよう。俺が帰って来るまで昼寝でもしているが可い」といいながら、手早くビアトレスに
彼はビアトレスの手首を結んだ紐の先を、寝台へ括りつけた。
「いいかね、静かにしているんだ。若し騒立てて家へ逃帰ったりすれば、貴女のお母さんは生命を
旅館の中は依然として無人の境のように静かであった。
ビアトレスは身動きも出来なかった。
ビアトレスは眼を閉じて、軽卒にも知らぬ男の電話にかかって、此ような旅館へ監禁された不甲斐なさを、今更のように
四
坂口はクロムウェル街を出て、V停車場を通りかかると、自動車から降りたエリスがあたふたと銀行の中へ入って行くのを見た。
坂口はビアトレスの口から、エリスの此数日来の振舞を聞いていたのと、そそくさと銀行へ入っていった様子が、如何にも
エリスは五百
坂口は首を傾げながら、ベースウオーター街の自宅へ帰った。心待ちにしていた伯父からの手紙も来ていず、ブラインドを下したままの部屋は暗くて陰気であった。
彼は窓に近い長椅子の上に横になって、ややもすると引入れられるような不安な心持を紛らす為に、積重ねた雑誌類を手当り次第に拾読していた。と、突然玄関の
そこにはひどく
「貴郎大変です。ビアトレスが何処かへ行って
坂口は顔色を変えて言葉もなくエリスの顔を視詰めた。
「林さんはいらっしゃいますか」とエリスは気忙しく訊ねた。
「イイエ、不在です。今朝早く何処かへ出掛けました。夜分には帰って来ると思いますが……」坂口は口籠りながら、しどろもどろの返事をしたが、
「すぐ警察へお届けになったら如何です。私に出来る事なら、何でも致しますから、どうぞ御遠慮なく申つけて下さい」と熱心にいった。
エリスは林の不在をきいて、失望の色を浮べながら帰りかけたが、
「あの娘には可哀そうだけれ共、兎に角無事でいるに違いないから、騒がずにいて下さい。警察へなど、訴えてはいけません。吃度今晩中には帰ってきます。そして林さんがお帰宅になったら、直ぐ家へいらしって下さるようにお願い致します。それから貴郎は明日の朝早く家へいらして下さい」といって力なく石段を下りていった。然しながら彼女の悲しげな顔には、何処か強い決心の表情が現われていた。
水曜日はやがて日の暮れに近かった。昨夜以来伯父が帰って来ないという事に就ては、決して心配は要らぬという伯父自身の置手紙で、さまで気にする要はないのであるが、ビアトレスに就ては胸が痛くなる程気遣いであった。坂口はもう先刻のように椅子にねそべって雑誌を見ている事は出来なかった。彼は閉切った部屋の中を往ったり来たりしていたが、耐えられなくなって家を出た。
彼は何処をどう歩いたか、知らぬ間にもとの町へ出て了った。日頃行きつけのベルジアン・カフェで食事を済すと、またコックス家を訪ずれた。
窓という窓は真暗で、只ホールの上の電燈だけが、扉の上の硝子板に明るく映っている。家中は不在であった。
「奥様は先程一寸お帰りになりましたが、また直ぐ外出なさいました。お嬢様はお嬢様で、私が買物に行っている間に、置手紙をして何処かへお出掛になって、まだお戻りになりませんのですよ」女中は不安らしくオドオドした様子で、ビアトレスの書残した
彼はホールの電燈の下で、鉛筆の走り書を読んだ。すると突然、ホールの蔭で物音がした。
二人は吃驚して振返った。電話機の横手に吊した、籠の中で、鸚鵡が羽ばたきをしたのである。
「まア、どうしたのでしょう。ゴタゴタしていたものだから、私はすっかり鸚鵡の始末を忘れていたよ」女中は独言をいいながら、帽子掛のついた鏡の前に置いてある鳥籠の
「本統にお嬢様は何処へ行きなすったのだろう、手紙では奥様と御一緒のようでしたが……」と女中がいいかけると、籠の鸚鵡が不意に大声を上げた。
「待て待て、鸚鵡が何か云っているじゃアないか」と坂口は低い声で云った。
二人は
「そうだ、ビアトレスさんに電話がかかった時は、此広い家の中に居合したものはお前丈だ」坂口はそう思って、じっと鳥籠を視守った。
彼は電話の鈴を鳴したり、電話を聞く真似をしたりして苦心の結果、二度程聞いた同じ言葉から、Pという頭文字のついた二
「パーク旅館! これに違いない。H公園なら造作ない、私はこれから行ってくる」と叫んだ。
坂口はそれから三十分後に、旅館の前の横町へ姿を現わした。
と見ると旅館から出てきた二人の男女が
坂口は一直線に往来を横切って、自動車へ馳寄ろうとする瞬間、烈しい爆音をたてて車は動きだした。
「待って下さい私です」坂口は大声に叫んで後を追かけたが、二人は
坂口は公園の角まで馳って、やっと空いたタクシーを見つける事が出来た。先へ行った車は、とっくに姿を失って了ったが、坂口はそれに乗ってクロムウェル街に向った。土地馴れない運転手は、
玄関はすぐ開かれた。彼は呆気にとられている女中を押除けるようにして、居間へ躍込むと、ビアトレスがたった一人、真青な顔をしてオドオドと戸口を視詰めていた。
「ああよかった、貴女は無事にお帰宅になっていましたね」坂口は
ビアトレスは坂口の顔を見ると、ホッと安堵の溜息を洩らした。
「自動車が家の前へ止ったから、誰が来たのかと心配していたのよ。貴郎で本統によかったわ。私は
「それで私はどうなる事かと思ってじっと目を閉じているうちに、外はすっかり夜になり、段々お腹は
坂口は胸を躍らせながらビアトレスの話を聞き終ると、やがて気が附いたように、
「伯父は何処へ行きました」と四辺を見廻しながらいった。
「私達は家へ帰りましたが、女中の話で母さんが心配して外出なすったきり、未だ帰っていらっしゃらない事を知りました。何処へいらしったのかと思って、先ず何という事なしに、二階のお部屋へ行って見ますと、脱ぎ捨てた着物の間から例の不思議な手紙を見付たのです。場合が場合だったので、思切って開けて読んだのです。それは或男から来た強迫状で、今夜の九時に五百
坂口はそれを聞くと突如、手に持っていた帽子を被って戸口へ歩みかけた。
「今から直ぐ私も行ってきます。伯父に万一の事でもあると大変です」
「ああ、貴郎がいらっしゃれば、母さんも、小父さんも、どんなにお気が強いでしょう。九時といえば
坂口はビアトレスの言葉を後に聞流して玄関を出た。自動車は全速力でハムステッドへ向った。
坂口は暗い車の中で、何を考える余裕もなく、行先計り急いでいた。そのうち彼の乗った自動車は地下鉄道の停車場前を過ぎて、公園の入口に停った。坂口はそこでタクシーを帰して、木立の間についている小径へ入っていった。
時計は九時を十五分程過ぎている。昼間の天気とは違って、空はすっかり曇っていた。
坂口は爪先上りの小径を上って、目指すパラメントヒルの土手へ出ようとした時、たちまち身辺に凄まじい銃声が起った。それと同時にバタバタと入交った靴音が聞えた。坂口は思わず芝草の上に立
靴音はいつの間にか消えて了った。
闇の中を透すと、つい十数間先を、
見ると男の足下に長々と真黒な人影が横わっている。中折帽子を冠った男は、紛れもない伯父の姿であった。
五
坂口は霎時の間、闇の中に棒立になっていたが、次の瞬間に伯父は、北に向って走っている小径を、
「何だって伯父はこんな思切った事をやったのであろうか。エリスさんはどうしたろう。先刻人の馳けてゆく靴音が聞えたが、あの時の音がエリスさんであったかも知れない」
坂口は丘を馳下りるなり、道路のない雑木林の間を抜けて、一直線に公園の外へ出ようとした。一刻も早く人通りのある往来へ出て了おうと焦りながら、針金を
と見ると、十数間先の四角になった小径を横切って、バラバラと馳けて行った女があった。姿はたちまち見えなくなったが、縁のある大きな帽子を被った女であった。
坂口は地下鉄道の停車場傍まで来ると、其前から市街自動車に乗って、ベースウオーター街の家へ帰った。
伯父は未だ戻っていなかった。それで直にコックス家を訪ねた。女中はとうに、自分の部屋へ引退って了って扉を開けてくれたのはビアトレスであった。
居間ではエリスが
ビアトレスは
「本統に私はどうしたらいいか、少しも分らない。……何も彼もみんな私が悪かったのですよ」霎時してエリスは絶入るような低い声で云った。
「ビアトレスさんがパーク旅館に監禁された事といい、昨晩旅行に出掛けた筈の伯父が、貴女の後を追ってパラメントヒルへ出掛けた事といい、私には何が何だか
「昨夜から旅行しているのですって? 林さんは何処に居ります」エリスは泣膨らした眼を上げて訊ねた。
「
「では貴郎もあの事を御存知ですか」エリスは怖ろし気に
「エエ、私は伯父が死骸の傍に立っているのを見ました。……然し殺された男は一体何者でしょう。無論パーク旅館で貴女を監禁した男と思いますが……」と坂口は
ビアトレスは手を挙げて坂口を制しながら、「そんな事はどうでもいいわ。……それより林小父さんはどうしたでしょう。何故早く帰っていらっしゃらないでしょう」と穏かにいった。
エリスは何事をか云おうとしたが、悲しげな様子をして口を
たちまち、玄関の呼鈴が鳴った。三人は思わず顔を見合せて、誰一人席を立つものはなかった。第二の呼鈴が続いて起った時、坂口は思切ったように立上って玄関へ出ていった。
扉を開けると、平服を着た二人の男がヌッと家の中へ入ってきた。彼等は無遠慮に自ら背後の扉を閉めた。
「貴郎はベースウオーター街二十番地に住んで居らるる林という方の甥御さんで、坂口さんと仰有る方ですね」一人の男が口を切った。坂口は黙って
その間に、もう一人の男は頻りに居間の扉を叩いた。すると部屋の中からスックリとビアトレスが現われた。
「貴郎方は何者です。断りもなく他人の家へ入って来て失礼ではありませんか」彼女は厳しい言葉で
二人の男は急いで冠っていた帽子を脱ると、
「夜分に飛んだお騒がせを致しまして誠に申訳ありません。仰有る通り、少々失礼には違いありませんが、職掌柄でございますので、どうぞ御寛大にお許し下さいまし」と先に立った男がいった。彼は更に言葉を続けた。
「貴女が御当家のお嬢様でいらっしゃいますか。実は一時間半程前に、パラメントヒルで殺人がありましたのです。それに就きましてここにいる坂口という青年を取調べる必要があったものですから、所々を訪ねた結果、こちらへ上った訳なのでございます」
「坂口さんは私共のお友達で、そのような恐ろしい殺人などに、関係のある方ではありません」
「成程左様かも知れません。坂口さんがお宅の友達である以上は、林さんと御親交のある事は無論の事ですな。どの点までのお知合いであるか、一応奥様にお目に掛ってお話を伺いたいと存じますが、如何でしょう」男は如才なくいった。
「母は加減が悪いので、今夜はお会わせする事は出来ません」ビアトレスは不興気に云った。
「いつ頃からお加減が悪いのですか。御様子を見ますと、お取込があるように存じますが」
ビアトレスはそれには答えず、相手の顔を視返した。
「イヤ、どうも飛んだ失礼を致しました」男は坂口を振向いて、
「君、御苦労だが警察署まで一緒に来てくれ給え。君の伯父さんが現場から
「まア、林小父さんが捕まったのですか?」とビアトレスは思わず叫んだ。
「その通りです。それに就てお宅とは日頃の御関係もありますから、改めて相当の手続を履んでお伺いする事に致しましょう。甚だお気毒ですが、明日は一歩も外出なさらないように
二人の刑事は意味有気な薄笑いを浮べながら、悪叮嚀に挨拶をして、坂口を引立てていった。
H警察署の薄ら寒い一室で、坂口は係官の取調べを受けた。パラメントヒルで、何者にか射殺されたのは、立派な服装をした五十四五の男であった。
彼は最初何事を訊ねられても頑強に知らぬ一点張りで通して見た。然し、それは却って伯父の嫌疑を深くして彼を死地に陥れるものである事を知った。坂口は伯父を全然、無罪とは信じていなかったが、尚そこに二分の疑念が残っていた。それで仕舞には考直して彼の知っているだけを語った。
そして彼はパラメントヒルで、死骸の傍に立っていた伯父を見たという件は、寧ろ伯父の加害者でないという事実を立証するものであると力説した。即ち仮に伯父が
然しながら彼の切角の言証も、伯父が射殺したものでないという積極的な反証の出ない限り、何の効果も来す事は出来なかった。
係官は冷かに笑って取合わなかった。夜は更けてから、彼は一
六
灰を被ったような古いクロムウェル街の家並は、
その一本通りの中程に、コックス家があった。坂口とビアトレスは往来に面した階下の居間で心配そうに顔を突合わせていた。
戸外には初夏の穏やかな太陽が街を明るくしている。それだけ閉切った部屋は暗く陰気であった。エリスは坂口がコックス家へ来る前から、H警察署へ召喚されてまだ帰って来なかった。
「殺された男というのは、貴女をパーク旅館に監禁した怪しい人間と同じです。一体その男とお母さんとはどういうお知合なのでしょう。そして私の伯父もその男を知っているのでしょうか」しばらく沈黙の後で坂口がいった。
「私もよくは存じませんけれど、母さんの昔の友達であったという事です。何でも母さんを酷い目に合わせておいて、外国へ
「私も恐らくそのような事ではないかと思っていたのです。その事を伯父は知っているでしょうか」
「小父さんがチャタムにいらしったのは、その前後であるという事ですから、薄々は御存知かも知れませんが……小父さんとその男が顔を合せた事はなかったと母さんが仰有っていました」
「でも伯父はどうして貴女がパーク旅館に監禁されていた事を知ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です」
二人は言葉を止めて、各自別々の事を
坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は
ビアトレスは母親が林に対して抱いている心持を知っていた。そして母親が殺された其男を呪い、醜い記憶を持った間柄をどんなに
坂口とビアトレスはフト目を見合せたが、二人は窓の外に眼を
クッキリと黄色い光線を
間もなくエリスが死人のような顔色をして入って来た。
「ああ、
「小母さん、伯父はどうなりました」坂口は
「林さんにお目に掛る事は許されませんでしたが、林さんはすっかり自白して罪を承認したいという事です」エリスは
「真実ですか、……然し私にはどうしても信じられません、……それで兇器はどうしました」
「拳銃は捜査の結果、現場から余り離れていない雑木林の中で発見したという事です。そしてそれは殺された男の所有品である事が判ったのです」
「被害者の拳銃で伯父が相手を射撃するというのは不思議ではありませんか」坂口は元気づいて叫んだ。
「それが却っていけないのです。林さんは旅行に出掛けたと見せて、実はパーク旅館のその男の隣室に
「然しその拳銃がどうして殺された男の所有品である事が
「パーク旅館の滞在人であるという事は、昨夜の中に所持品で知れたのです。それで旅館の部屋を
「そうですか、伯父自ら罪を承認したといえば、どうしても致し方ありません」坂口はその儘
「どうか有の儘にお話して下さい。小母さんはどの位永くあの
エリスは
「十分間程でした。男は私に五百磅を強請しました。私はそのお金を用意して持って居りました。無論金は渡してやる覚悟でありましたけれども、将来またこうした強請に合うのを
「それからどうしました」
「すると彼がいうには『自分には敵があって、絶えず附
「その男を付狙っている敵があると、仰有るのですか」
「そうです。彼はこういいました。すると、たちまち、拳銃の音がして、アッと悲鳴をあげながら彼は腰掛からのめり落ちました。私は不意の出来事に気も顛倒して逃去ったのです」
「待って下さい。その時彼は腰掛のどっち側に腰をかけていました?」
「私は広場に向って左端にいましたから、彼は右側です。そうです、彼は両手で右の脇腹を抱えながら前へ
それを聞くと、坂口は急に椅子から躍上って、「有難い、伯父さんは無罪だ」と叫んだ。
エリスの言葉によればその男は彼女の右側におって、右脇腹に
現場から右手に十間程
彼は呆気にとられているエリスとビアトレスを後に残して、忙しく表へ飛出した。
坂口はパラメントヒルへ急いだ。そして前夜と同じ道路を通って、兇行のあった場所へ出た。彼は腰掛の前までいって後戻りをすると、径の二股になったところから左手の路をいって見た。次に右手の雑木林へ入込んで、注意深く地上の足跡を
雑木林を出ると、彼は更に腰掛の附近を思うままに調べて見ようと思ったが、最前からその近くにうろうろしている平服の刑事が、怪訝らしく彼の挙動を見守っていたので、足早に其処を去った。
池の縁を通りかかったとき、前夜道路を横切っていった女の後姿が、チラと脳裡に浮んだが、公園を出ると
旅館から数間先に、小綺麗な
彼は酒場へ入って
すると、羽目板を隔てた隣りの婦人室から、大声を上げて喋っている女の声が聞えて来た。何をいっているのか、坂口にはよく聴取れないが、
坂口は余り賑やかなので、何気なく店台の上から首を延して覗くと、それは慥かに火曜日の晩、コックス家の前に酔倒れていた婦人であった。
彼女は余程酔っているらしく、片手に泡の立った黒ビールの
前夜ハムステッドの池の縁で、道路を横切っていった婦人の後姿が、ありありと目の前に浮んで来た。縁の広い帽子といい、背恰好といい、どうしてもその
婦人は間もなく酒場を出て
坂口は、笑いながら自分の前へ廻って来た
「何だね、あの方は」と訊くと、
「大方狂人でしょうね。この一週間程前から、毎日のように来ていますよ」といった。
坂口は続いて表へ出た。彼は数間先を
「一寸お待ちなさい。貴女に訊きたい事があるのです」
女はギョッとして振返った。
「私と一緒に警察へ来て下さい」
女は少時相手の顔を
「ああ、お前か。……
坂口は通りすがりのタクシーを呼んで、足下の危しい女を
七
女の自白によって、林は其晩のうちに警察から放免された。
寂しいクロムウェル街のコックス家からは、チャタム以来の華やかな、楽しい笑声が洩れた。エリス母子や、甥の坂口に囲まれた半白の林は、絶えず東洋人らしい無邪気な微笑を口許に湛えながら語った。
林は火曜日の午後五時、所用を帯びて銀行へいった
それは日暮方であった。その男はK停車場で下車し、パーク旅館へ入った。
男は金ぴかの制服を着た旅館の
林は取次人の傍へ寄って、
「あれはジェンキンさんじゃアないかね」と如才なく訊ねた。
「エドワードさんですよ」という取次人の言葉をきいて林は家へ帰った。そして数日間旅行をするという置手紙を残して再び家を出た。彼は小型の手提鞄をもっただけで、旅行客がたった今、倫敦へ着いた計りという様子で自動車をパーク旅館へ疾走らせた。彼は帳場で宿帳に自分の姓名を記入しながら、エドワードと名乗る男は、五階の百二十八号室に宿泊っている事を知り得た。成可く閑静な室をという注文が図にあたって、彼は五階の百二十七号室を占める事が出来た。エドワードという男は何処かで見た事のある顔だと思って頻りに記憶を辿って見るが、どうしても思出せない。
夜の九時に近かった。隣室のエドワードという男は食堂へ下りていったようである。林も続いて階下へ行こうとしたが、自分でも見覚えのある位だから、恐らく先方でも自分を見知っているかも知れない、気取られてはならぬと思って食堂行は止めにした。彼は廊下に人気の絶えたのを見究めてから、密に男の室へ入って見た。直ぐ目についたのは、
フト廊下に
林は危い思をしてようやく自室へ戻った。彼はつづいて戸外へ出たが、コルトンの姿は何処にも見えなかった。彼は物思いに沈みながら、歩調を
コルトンはもう部屋へ戻っていた。霎時コトコトと牀の上を歩いているような物音がしていたが、それきり音は
翌日コルトンは一足も外出しないで、昼まで部屋に引籠っていた。給仕を呼んで昼食をも自室に運ぶように命じているらしかったが。
林はその頃チャタムでコルトンが勤めていた製薬会社の名を
林は
林が町で夜食をしてから旅館へ帰ると、微かな唸声が隣室に聞えていた。コルトンがまだ戻っていない事は帳場で確めてある。林は不思議に思って念の為に百二十八号室の扉を叩いてから部屋へ入り、思掛けずにビアトレスを救出す事が出来た。彼はビアトレスを護ってクロムウェル街へ赴いた。そしてコルトンからエリスへ宛てた強迫手紙を読んで、直にパラメントヒルへ馳付けたのである。彼は
林がパラメントヒルに着いたのは九時五分過であった。彼は暗い小径を左へ折曲って、コルトンとエリスの姿を探し求めているうちに、たちまち側近くに拳銃の音を聞いた。彼は音のした方へ馳寄ると、
「そのうちに現場附近から、兇器の拳銃が発見される。コルトンの身許も判明し、ベースウォーター街に自宅を持ちながら、私が
コックス家と林家の人々は翌朝の新聞紙によって、その怪しい女は
パラメントヒルの殺人事件はそれで終りを告げた。コルトンの死骸の横っていた共同椅子の辺には、青草が知らず顔に
(「秘密探偵雑誌」一九二三年五月号)