秘められたる挿話

松本泰




 竹藪たけやぶがざわざわ鳴っていた。崖に挟まれた赤土路を弟妹きょうだい達が歩いている。跣足はだしになっているのも、靴を穿いているのもいた。一同が広々としたなわてへ出て、村の入口にかかっている小さな橋を渡ろうとすると、突然物陰から、飛白かすりよれよれ衣物きものを着た味噌歯みそっぱの少年が飛出して来て、一番背の高い自分に喰付こうとした。遮二無二しゃにむにかじり付いてくる少年の前額おでこをかけて、力任せに押除おしのけようと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいているうちに、浅田の夢は破れて、蚊帳かやを外した八畳の間にぽっかりと目をさました。
 夏のはげしい日光が、八時前にもう東側の雨戸を暑くしている。浅田が階下したへ顔を洗いにゆくと、女中共が台所で、こそこそ話をしていた。
「何だね。何か変った事があったのかね」浅田は朝の忙しい時間に、台所を散らかしたまま、手を休めてお饒舌しゃべりをしている女中を、とがめるようにいった。
昨夜ゆうべお隣りへ泥棒が入って、お婆さんが殺されたんでございますって」
「それは大変な事だね。お隣りには衣川きぬがわとかいう下宿人がいるじゃァないか」衣川というのは弟の学校友達だったとかで、顔だけは二三度見掛けた事がある。弟はめぐり合せがわるく、これまで転々と職業を変えて、この節はそれでも千住のゴム会社に勤めているが、衣川は去年から職を失って、ぶらぶらしていた。
「衣川さんが他所よそからお帰りになって、それが分ったので、吃驚びっくりして警察へ訴えたんだそうでございます」
「旦那様、あの、家の前にお巡査まわりさんが立番をしているんでございます」田舎から上京して間のない、少し頭脳あたまの働きの鈍い女中が、おどおどしながらいった。
「そんな事何でもない。親類か何かが死骸の後始末をしにくるまで、番をしているんだ」
「まだ死骸があるんですか」女中は目をまるくして首をすくめた。
 浅田が食堂へゆくと、次の間で子供に衣物を着せていた妻の折江が、青白い不機嫌な顔をした子供を先に立てて入ってきた。
「おや、このは起きてもいいのかい」
真実ほんとうはもう一日寝かしておくといいのですけれども、どうしても起きるといって、きかないのです」
「お隣りの米本さんのお婆さんが殺されたっていうじゃァないか」
「ええ、何ですか騒ぎですわね」
「犯人はつかまったのか」
「どうですか少しも存じません。衣川さんは昨夜警察へいったきり、まだ帰って来ないようです」
「昨夜何時頃だったろう。うちで寝たのは十一時だったが、俺は疲労くたびれていたもんだから、ぐっすりねむってしまって、何にも知らなかった。お前は夜中に二三度起きたようだったが、何にも気がつかなかったかね」
「別に何にも怪しい物音などは聞きませんでした。貴方あなたも一度お起きになったようじゃァございませんか」折江はちらと主人の方を見た。
「そうそう、俺は一遍便所へいったっけな。あれは十二時少し前で、米本さんの家の二階に電灯がいていて、誰かがマンドリンを弾いていたようだった。今、つねの話では、衣川さんが帰ってきて、お婆さんが殺されているのを発見して、訴えたとかいっていたが、じゃあマンドリンを弾いていたのは誰だろう」
 浅田はに落ちない様子でいった。
「マンドリンを弾くのが聞えたなんて、それは貴郎あなたのお気のせいよ。衣川さんはいつもマンドリンを弾いていらっしゃるけれども、昨夜はお不在るすのようでしたわ」
「そうかしら、俺はたしかに聞いたように思ったがね。曲まで耳に残っているんだけれども……」
うそんなお話はめに致しましょうね。でも貴郎、かかりあいになるといけませんから、他人様ひとさまにマンドリンの音を聞いたなどと仰有おっしゃらない方がようございますよ」折江は良人おっとの顔を見て何か不安らしい様子でいった。
 浅田は食事の間にも折々、茫乎ぼんやり箸を休めて殺された婆さんの事を考えていた。婆さんは六十を越したいっこく者で、永い間雇人もおかずに、比較的広い家に、たった一人で暮していた。何でも現金や債券を可成かなり持っているという噂であったが、近所の人と顔を合せる毎に、貧乏で困るとか、不景気だとかいうのが口癖であった。去年から不用心だからといって、今の衣川に二階の八畳間を貸して、世間並の食料や、間代を取っていた。
 浅田は食事を済ますと、いつものように新聞をもって便所へいった。窓から隣家となりの二階の縁側が見えている。縁側の下はすぐ勝手のトタン屋根になっていて、そこから地続きの低い生垣を越えると、浅田家の庭である。浅田は便所へ入っているうちに、今朝の騒ぎを忘れて了って墓参の事を思出していた。
 部屋へ戻ると、
「どうだね、今日は母さんの命日だから、お墓詣りをするか」と妻に声をかけた。
「そうでしたね。でも私何ですか、少し気分が不良わるいようですから、今度ひとりで参りますわ。それに坊やのおなかがまだほんとうでないんです」
「じゃァよしておくがいい、お前も顔色がよくないぜ。無理をして病気にでもなると困るからな」浅田は妻が昨夜から暁方あけがたにかけて、二三度冷蔵庫へ氷を取りにいったのを、薄々覚えている。四つになるみのるが急に熱をして頭が痛い、頭が痛いと、のべつに訴えていた。
「私、寝不足なんですの、後で少し横になれば治ってしまいますわ。この児もいい塩梅あんばいに今朝はすっかり熱がとれてしまいました」
「お前もこれから少し運動する方がいいな、身体からだの為に、俺なぞはテニスをするのでこの二三年一ぺんだって病気をしたことはない。この通りだ」浅田は袖をまくってたくましい腕を振って見せた。
「おや、ひじをどうなすって? 怪我をなすっていらっしゃるじゃァありませんか」折江は目敏めざとく、良人おっとの肘の下が蚯蚓腫みみずばれになっているのを見付けた。
「ああこれか、こりゃ何さ、昨日自動車を自分で運転しようと思って、柵の針金にぶつかったのさ。家の運転手は、酒呑さけのみで仕方のないやつだから暇を出そうと思っているんだよ。自動車の運転位、すぐ覚えて了う」浅田は自分でも初めて気がついたように傷を見て、ばつの悪そうな顔をした。
「貴郎は本当に無茶だから気をつけて下さいよ。そんな事位でようございましたけれども、大怪我でもなすったら、どうするお心算つもりなの」折江はしんみりした調子でいった。
 それから二十分後に浅田は家人に送られて玄関へ出た。門へゆくまでに、手入れをしない花壇があって、ダアリヤ、矢車草、孔雀草くじゃくそうなどが緑の島のように、ぼっさりと繁っていた。
 門柱のそばに松葉牡丹ぼたんが咲きこぼれている。浅田は少年時代の記憶に関係したある寺院の境内の光景を目に浮べた。湿っぽい線香のにおいまでが、身の周囲まわりに漂っているのを感じた。しかしながら線香の匂は、あながち彼の幻覚ばかりではなかった。隣りではう親戚の者が集って仏の仕末をしていた。
 門の前の溝は連日のひでりに底が乾いて、横から生えた草に、白っぽい塵埃ほこりが溜っていた。隣家の前では白い服を着た警官と、酒屋の御用聞らしい男が自転車を傍へおいて立話をしていた。
 浅田家の方の側は、ずっと門構えのしもたやばかりであるが、向い側は市外の発展を見込んで二三年前に出来た店舗みせやが、とびとびに並んでいた。不幸のあった米本の筋向うに、赤ペンキを生々しく塗ったポストがある。その陰で肥満ふとった荒物屋のお内儀かみさんが近所の人達としきりにしゃべっていた。
 夏の太陽は火焔のようにぐるぐる回転まわりながら、東西につらなっている往来を、容赦なく照らしつけている。左手の道は一丁程先から、だらだらと上りになって、落合村からくる街道とぶつかり合うところに、巡査駐在所がある。右手の道は、工事中の活動写真館があったり、空地があったりするが、その先は人家が櫛比しっぴして省線の停車場ステーションになっている。
 浅田は悠々と隣家の前を通って、停車場ステーションへ向った。彼は四谷で電車を下りると、例によって待っている自家用の自動車で、青山墓地へいった。
 彼は街道に自動車を待たせておいて、閼伽桶あかおけと花束をもって狭い赤土の道を入っていった。鉄柵をめぐらした大きな記念碑の隣りに浅田家のつつましい墓があった。重なり合った木の葉の間から、わずかに青空がのぞいている。その下に彼の母が睡っているのである。
 暫時しばらく立っている間に、浅田はそのままやわらかい地の底へでも引きこまれてゆきたいような静かな心持になって、足が軽く、そっと墓石の前に立った。――貴女あなたの長男がお墓詣りに来ましたよ。貴方がおまもり下すったおかげで、私は今、何不足ない身分になって居ります――浅田は心の底から叫んだ。その時彼の胸に浮んだのは、榎の木影で、一緒に育った数人の弟妹達の姿であった。ある者は商家に嫁ぎ、ある者は良人に従って海を越えた遠い国へ移住し、あるいは又ようやくその日を送るだけのかてを得る為に営々と働いていた。浅田は少年の時から我儘わがままが強く、いつも我意を張って弱い弟妹達の分前わけまえまで貪りとっていた。それはみんな物悲しい記憶であった。
 彼は手桶の水を一杯ずつ柄杓ひしゃくんで母の墓石にそそいだ。青い碑を伝って流れ落ちる水が、音も立てずにふかふかした赤土に吸込まれてゆくのを見て、浅田はなみだぐましい心持になった。
 墓地は真実に安息である。物質を中心にして相鬩あいせめいでいる都会生活とは何という相違であろう。
 浅田は久々で両親を中心にした家庭を思い出した。その頃母親に甘えていた弟の幼顔がふと彼の心をかすめた。その弟も今ではろくに兄の家へ寄りつかず、勝手な方面に彷徨さまよい歩いているが、うして母親の前に立って考えると、弟は矢張やはり頼りない小さな児童こどものような気がして、ひとり歩きをさせておくのは痛々しいように思えた。


 ひる近くになって浅田が自分の事務所へ着くと、数人の社員が襯衣シャツ一枚になって、忙しく働いている最中であった。机の上にはいつものように一かたまりになった書類が彼を待っていた。その中にはアメリカからの大きな注文の取消電報や、手形延期の懇請状、その他いずれも、不景気を語るもの許りである。端から目を通してゆくうちに、彼は眉をしかめて一葉の名刺を撮上つまみあげた。それには中野署刑事有吉俊太郎としるしてある。
 冷い麦湯を持って来た給仕が、
先刻さっき、その方がお見えになって、又午後に伺いますからといって帰りました」といった。浅田は無雑作に投出した名刺を拾上げて、暫時見ていたが、気をかえて立上った時、外廻りの社員が汗を拭き拭き入ってきた。
「昨日のお話の見積書を出させるように、象牙店へいって来ました。品物はすぐ揃いそうです」
「ああ御苦労、暑くって大変だったろう」
「昨日から又めっきりお暑くなりましたな。奥様は何処どこかへ御避暑ですか、先刻新宿でお見掛けしましたが、急いでおりましたので御挨拶もしないで失礼いたしました。お荷物でも持って差上げればよろしかったのですが……」と弁疏いいわけらしくいった。
「荷物を持って?」
「手提鞄をお持ちでした。山はおよろしいでございましょうね」
「家内は身体が弱いからな……」と浅田は軽く応えたものの、男が引退ひきさがって了った後も、鞄をもって新宿駅にいたという妻の事を、穏かならぬ気持で考えていた。今朝墓参にさえ行くのを拒んだ妻が、どうしてそんなところにいたのであろう?
「電話位掛けるはずだが……」浅田は給仕をよんでたずねたが、自宅うちから何にもいって来ないというので、念の為に電話をかけて見ると、妻は不在であった。
「どうしたんだろう、真逆まさか無断で旅行する筈はないが……」浅田はふと昨夜の妻の怪しい挙動を思い出した。氷を取りにいった妻があまりに手間取るので見にゆくと、彼女は台所の窓から首を出して、誰かとひそひそ話をしているらしかった。その時浅田は悪いところを見たと思って、そっと寝室へ引返してしまったのである。いずれ後で妻がその時の説明をするであろうと予期していたが、彼女は朝になっても、その事については何事も云わなかった。そんな事を考え合せると、今朝の妻の素振りも、怪しく思われた。
 浅田は何となく不安で、仕事が手につかなかった。窓の外は風が死んでいた。箱詰になったような重い空気が街の上にかぶさっている。遠くの煙突から細い煙が真直まっすぐのぼっていた。その瞬間、電車の響も、自動車の音も、人の話声も一時にぴったりとんで、不思議な沈黙が街を占めた。と、突然、静まり返った建物を覆すような、けたたましい電鈴ベルが鳴った。
 電話室へ飛び込んでいった給仕は、あたふたと浅田のところへ馳けてきて、
「大変でございます。金杉病院から電話で、奥様が自動車で怪我をなすったから、ぐ病院へおいでを願いたいという事でございます」といった。
「自動車で怪我? 何? 電話がきれたって? すぐ出掛けるから、タクシーを呼んでくれ!」
 浅田は椅子から飛上って、自動車を待つ間も遅緩もどかしく階段を駈下りていった。


 病院の静かな奥の一室に妻は昏々こんこんと睡っていた。窓の外の八ツ手が青い影を寝台の上へ落していた。白い手術衣を着て枕もとに立っていた若い医師は、
「浅田さんですね。脳震盪を起して人事不省になっていらっしゃいますが、生命いのちに係るような事はないと思います」と低い声でいった。
「自動車はどうしたのです。いつ頃です?」
「金杉橋のところで電車と正面衝突をして、運転手は即死して了いました。今から一時間程前の出来事です。運転手の方は免状によってミカドタクシーの運転手だと云うことが判りましたけれども、奥さんの方はお名前も御住所も不明でしたので、お知らせするのに大変手間どったのです。所持っていらしった紙幣入かみいれの中に、斯ういうものがありましたので、玉塚商店の方からようやくお宅が知れたような次第です」医者は枕許の紙幣入と共に、一葉の書付を差出した。それは妻のもっていた日石にっせきの旧株五十枚に対する玉塚商店の買受書であった。然し紙幣入の中には僅に十円紙幣が二枚きり入っていなかった。
「この他に所持品はありませんでしたか?」
「いいえ、何にもありません。それだけでした」
「真実に大丈夫でしょうか」浅田は妻の青褪あおざめた顔を見て、もう一度訊ねた。
「いま二回目の注射をしたところです。やがて反応があるでしょう。かく絶対の安静が必要です。ここは看護婦に任せておいて、貴方は別室においでになる方がいいでしょう」
 浅田は医師に伴われて応接室へいった。彼はひとりになると、妻の不思議な行為について考え始めた。いつも東京へ出る時は、自家用の自動車を四谷見附へ廻させておくのが常であるのに、どうしてタクシーなどに乗ってしかもこんな方面へ来たのであろう。何故に良夫おっとに一言の相談もなく、株券を売却したのであろう。その金の行方は? 家から持出した旅行鞄は? 様々な疑問が頭脳を衝いて来た。浅田は段々考えてゆくうちに、妻の従姉いとこの山本京子というのが、二本榎に住んでいる事を思出した。もしやすると、そこへいったのかも知れない。浅田はそこから遠くもない二本榎の家へいってそれを確める事にした。その前に千住のゴム会社に勤めている弟に病院へ来て貰おうと思って電話をかけた。ところが弟は会社を欠勤していた。浅田はこんな危急な時に際して、弟がまた会社を怠けていたという事を、ひどく不満に思った。
 彼は後を看護婦に頼んで、二本榎の京子の家へ向った。東禅寺前で電車を下りて、坂を上ってゆくと、擦れ違いに見覚えのある手提鞄を積んだ車が坂を下りていった。浅田は車夫を呼止めようとしたが、ふと考え直して黙って後を尾行けて行った。
 人力車は電車通りを右へ折れて、品川の方へ向っていったが、駅の前を通り越して豊陽館という旅館へ入っていった。
 浅田は久時しばらくして出て来た車夫を捕えて、
「誰のところへ荷物を持っていった?」とだしぬけに詰問した。車夫は刑事とでも思ったのか、
「へい、二本榎の山本さんから頼まれまして、豊陽館にいらっしゃる中西さんという方のところへお届けしたのでございます」とべらべら饒舌しゃべってしまった。
 中西などという名前はついぞ聞いた事がない。妻の親戚にもそんな名前のものはなかった。
 浅田は益々怪しく思って、豊陽館へ入って中西という人物に就いて聞糺ききただして見た。
「中西さんと仰有るのは十二番のお客様で、二十五六の立派な紳士です」と番頭が答えた。
 その時二階から下りてきた女中が、
「十二番さん、お立ちですよ」と帳場へ声をかけた。それを聞くと浅田は匆々そうそうに店を出て、数間先の露路に身を隠した。自分に内緒で妻が株券などを貢いだのはどんな男だろうと思っていると、暫時して豊陽館からてきたのは、思掛けない浅田自身の弟であった。彼は浅田の洋服を着て、例の鞄を下げて、悠々と停車場ステーションへ入っていった。
 浅田は初めて妻の怪しい行動の原因が解ったような気がした。彼女が株券を売って得た三千幾許なにがしの金は、彼の上衣うわぎの内かくしに入っているに違いない。彼は貧乏している癖に、いい煙草と競馬に金を浪費つかうのが好きであった。揚句の果は自分でも兄の家へ寄りつかず、浅田も寄せつけないようになっていた。
 彼の落ゆく先は、大抵見当がついている。煙草の安い、競馬の大賭博がある、そして悪事を働いても逃場の多い上海シャンハイに違いない。弟は予々かねがね上海行を夢想していたが、こんな風にして落人おちうどとなってゆこうとは思いも寄らなかったろう。
 浅田は妻が計画したままに番組プログラムを進行させようと思って、弟には声を掛けずに、その儘病院へ戻っていった。
 病院の応接間に有吉刑事が待っていた。
「先刻、事務所へ伺いましたが、こちらだというので、また追かけてきました」
「そりゃお気の毒でした。御用件は?」
「御承知でしょうが、昨晩お宅の隣家に殺人事件がありましたが、夜中に何か怪しい物音でもおききになりませんでしたか、下宿人の衣川という男が有力な嫌疑者となっております。然し出来るだけ確実な証拠を集めて当人に自白させなくてはなりませんから、それで何か参考になるような材料を頂けないかと思って伺った次第です。当人は外出先から帰る途中、筋向うの荒物屋へ立寄て煙草を買い、それから家へ帰ると表戸が閉っていたので、暫時戸を叩いたが返事がなかった。そこで雨戸を外して家へ入ったら老婆が殺されていたと申立てています。然し荒物屋の内儀さんの言葉によると、その時衣川は左右別々の下駄を穿いていたというのです。それに衣川は毎朝荒物屋へ煙草を買いにくるが、晩は他所で買うと見えて、きた事がないのに、その晩に限って買いに来た事、及び彼のたもとに手のつかないバットが二箱も入っていた事、そんな事実から推して、彼は不在証明を立てる為に、わざわざ荒物屋を起して煙草を買ったものと認めております」
「然し衣川という下宿人は、昨夜十一時前後には家に帰っていたと思います。窓に灯火あかりが点いていて、マンドリンなんか弾いていたようです」
「いや、マンドリンの音を聞いたと仰有るのは錯覚でしょう、或は時間が違うかも知れませんが……荒物屋の内儀さんもそんな事をいっていましたが、私は問題にしておりません。内儀さんは衣川と話をしている最中に衣川の部屋からマンドリンの音が聞えたなどと、馬鹿な事をいっているんですよ。ハッハッハ、もっとも衣川自身も、自分が宿へ帰る前に誰かが自分の部屋へ入っていた形跡があるといって、それが犯人に違いないと申立てているのですがね。然し私は衣川が一旦家へ入って老婆を殺しておいて屋根伝いにお宅の裏庭へ下り、更に表通りへ廻って、荒物屋で不在証明を立てにいったものとにらんでいます。下駄が左右別ものであるという事は兇行後、戸締りをして表へ出るとき周章あわてて間違えて持って出たのです。それに衣川の袖に檜葉ひばの枯葉が附着いていましたし、それからお宅の隣りの、屋根に接近した裏庭の檜葉の枝が折れていました。それでしやお宅で何かの物音をおききになったか、或は衣川の姿でもご覧になりはしなかったかと思って、それを伺いに来たのです。それから一応御了解を得ておきたい事は、衣川が盗んだ金を、お宅の庭へ隠したかも知れないという疑いから、只今お宅の庭を捜査させております」といっているところへ、中野署から有吉刑事に電話がかかってきた。暫時席を外した刑事は、得意らしい微笑を浮べながら戻ってきた。
「矢張り犯人は衣川でした」
「そうですか、そりゃ結構でした。で、金は私の庭から出たのですか」
「いや、新開地の普請場に隠匿かくしてあったそうです。私が最初衣川を怪しいと睨んだのは、死骸を発見したなら直ぐ阪上の交番へ訴えるのが至当であるのに、わざわざ遠い新開地の先の分署までいったからですよ。どうも大変お邪魔をして申訳ありません」
 有吉刑事はいそいそと帰っていった。
 翌日の新聞に「高円寺老婆殺し」の真相がくわしく報道された。それによると、生活費に窮した衣川は、友人をかたらって老婆から金を強奪する計画を立てた。ず彼は自分の姿に変装させた友人を家に入れておき、老婆がひとりきりで茶の間にいるという合図にマンドリンを弾かせ、自分はそっと家へ忍込んで、突如いきなり老婆を襲ったのである。それから金を盗んで一旦表へ出て、荒物屋で煙草を買い、不在証明を立てておいて騒ぎ立てたのである。
 衣川は罪の一切を自白したが、彼の仕事を幇助ほうじょした仲間に就いては、浅草公園で二三度顔を合わせたばかりで、よくは名前も知らないと云い張っている。

 浅田は胸をわくわくさせながら、その記事を読終った。妻は穏かにすやすやと睡っている。そこへ回診に来た院長は、そっと病人の脈をとって、
「もう大丈夫です。危険は去りました」と力強い語調でいった。
「もう大丈夫ですよ」という言葉は浅田にとって、いろいろな意味で聞えた。
 浅田は妻がこれ程までして、弟を逃した心遣りを、無にしたくないと思った。それ故、他日妻が自分から打明ける迄、昨日以来の出来事を一切知らない事にしておこうと決心した。





底本:「探偵小説の風景 トラフィック・コレクション(上)」光文社文庫、光文社
   2009(平成21)年5月20日初版1刷発行
初出:「苦楽」プラトン社
   1926(大正15)年10月
入力:sogo
校正:noriko saito
2018年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード