浅草今戸の方から、

静かだとはいっても、暮れ切れぬ駒形通り、相当人の往き来があるが、中でも、
折しも、通りすがった二人づれ――
「まあ、何という役者でしょう? 見たことのない人――」
「ほんにねえ、大そう
と考えたが、
「わかったわ!」
「わかって?
「あれはね、
「ほんにねえ、寒牡丹を
と、伸び上るようにして、
「一たい、いつ初日なの?」
「たしか、あさッて」
「まあ、では、じき、また逢えるわねえ。ほ、ほ、ほ」
「いやだ、あんた、もう
二人の娘は、笑って、お互に
美しい
「おや、これは八幡さま――わたしは、八幡さまが
と、供に言って、自分一人、石段を、小鳥のような身軽さでちゃらちゃらと上って行った。
八幡宮の、すっかり
礼拝を終って、戻ろうとしたこの
思いがけなく、銀杏の蔭から声を掛けるものがあったのである。
「これ、大願。一そう
不意に、奇怪なことを銀杏の樹蔭からいいかけられて立ちすくんだうら若い女形――胸の
「人のいのちは、いつ尽きるか分らぬもの――そなたの大望、早う
女形は、右の手に持っていた銀扇を、帯の間に――そのかわりに、どうやら護り刀の
そこには、小さい組み立ての机、
「御老人」
と、澄んだ、しかし鋭い調子で、
「
老人は、細長い身を、まっすぐに、
「
錆びた笑いに、一そう脅かされたように、
「ほんに、恐れ入りました御眼力――いかにも、わたくしは、並み並みならぬ望みを持ちますもの――」
と、つつしんで言って、
「ところが、只今、うけたまわれば、人のいのちは、限りがあるものとのお言葉――では、わたくしは、望みを遂げませぬうちに、この世を去らねばならぬのでありましょうか?」
「そこまでは、わしにも言えぬ」
と
「が、しかし、そなたの
「えッ! 相手の寿命?」
女形は、低く、激しく叫んだ。彼の、
「左様、そなたは、大方、他人のいのちを
老人は落ち着いた調子で、つづけて、
「しかも、一人、二人のいのちではない――三人、四人、五人――あるいはそれ以上、その人々の中、手にかけぬうち
「一たい」
と、
「一たい、あなたは、どのようなお方でござります――わ、わたくしが何者か、御存知なのでござりますか?」
すッかり、
「はて、いずれの
老人の言葉は、いよいよ
その怪語に、一そう急き立つ
「その
と、言って、今は、まるで放心したように、目をみはり、
「その、
サーッと、青ざめた若者は、口が
「あなたはどなた様? この私さえ、それを見るのが恐ろしゅうて、覗こうともせぬ、護り袋の秘文――狂うた父が、いつ気が静まった折に書きのこしたか、死後に
と、
細長い指が、
すっかり
じーっと、穴のあくほど、みつめる
老人の顔が、何とも言えず、懐しげな、やさしげな微笑の皺で充たされると、はじめて思い出したように、
「お、あなたさまは、
「ウム、思い出したかな?」
と、相手は、ますます楽しげだ。
役者は我れを忘れたように、高脚の机をまわって、老人にすがりつくようにして、
「わたくしとしたことが、大恩ある先生と、お別れして、たった五年しか経たないのに、お声を忘れるなぞとは――でも、あんまり思いがけなかったものでござりますから――」
美しく澄んだ目から、涙がハラハラと溢れて、白い頬を流れ落ちる。
「おなつかしゅう
「あの当時、とうに
老人は、笑みつづけて、
「中村菊之丞一座花形の雪之丞、津々浦々に聴えただけ、美しゅうなりおったの」
雪之丞と呼ばれる役者は、大そう美しゅうなった――と、
「でも、先生も、ちっともお変りなさいません――それは、お
「わしの方は、もう寄る年波じゃよ。が、
と孤軒先生なる老人は
「わしはそなたも知っての通り、風々来々の
「師匠菊之丞からも、よくそれをいい聴かされておりますれば、これまでは、我慢に我慢をいたしておりましたが」
と、いいかけたとき、久しぶりに旧師と
老人は、ジッと見て、
「我慢を重ねて、来たが、もう我慢が成らぬと申すか?」
「はい。この大江戸には、父親を、打ち
「それもよかろう――」
と
「しかし、大事は、いそいでも成らず、いそがずでも成らず――頃合というものがある。変通自在でのうてはならぬ。その辺の心掛けは、
「いつも、このお
「いや、例の風来坊――が、大恩寺前で、孤軒と
「実は、これから、御存知の剣のお師匠、脇田先生へ、お顔出しいたそうとする途中でござりまする。いずれ、では、大恩寺前とやらへ――
深まった黄昏の石段を、雪之丞役者は、女性よりも優美な
雪之丞が八幡宮鳥居前に待たせてあった、
紫の野郎帽子に額を隠し、優にやさしい女姿、――小刻みに歩み行く、

彼の胸は、
代々続いた長崎の大商人、その代々の中でも、一番
彼は胸の底で、
中村菊之丞の
それなら何故に、長崎で代々聞えた、堅気な物産問屋、松浦屋清左衛門程の男と、その伜が、食うや食わずの場末小屋の河原者の
すべてが、商売道に機敏で鳴った同業、
雪之丞はその当時、まだ七つ八つのあどけない頃で、何故、ある晩、あの美しく、優しい母が
ただ、今でもはっきり目に映るのは、その頃雪太郎と呼ばれていた、いとけない一少年に過ぎなんだ自分が、そうした父親の、不思議な挙動に目を

雪之丞は、もっと悲しいことを思い出す――寒い寒い真冬の夜更けだったが、その日一日、物をもいわず、薄い寝具の中に
「
と、
「俺は死ぬぞ、雪太郎。死んでお前の胸の中に
と、世にも
「ううむ」
と、いうような
雪之丞の雪太郎は、年はもゆかぬ頃、父親が、舌を
そこへ、入口の建てつけの悪い戸が
菊之丞は、この
顎から胸へかけて、
「とうとう、おやりなすったな! 無理はござりません。
ほんに、どのような
菊之丞は、大方、松浦屋の旦那が、草葉の蔭から、力添えをして下さるからだ、――と、時々、雪太郎だけには
雪太郎は十二の年雪之丞という名を
その頃の雪之丞の師匠だったのが、つい今し方、八幡さまの境内でめぐり会った、奇人孤軒先生――そして、剣道の師範がこれから訪ねて行こうとする、今はこれも、江戸へ出て
雪之丞は、
――これも大方、日頃から信心の、八幡宮の
と、呟いたが、
――いやいや、人間一生の大悲願、恩人でも師匠でも、頼みにしてはかないはせぬ。矢張り、身一つ、心一つで、どんな難儀にもぶッつかれ――それが、あの方々の、日頃の
そんなことを思いながら、道案内の供を先に、もうとっぷりと暮れかけた、御蔵前を急いで行くと、突然、つい鼻先で、
「無礼者!」
と、叫ぶ、荒くれた一声。
供の男は、くどくど
雪之丞は
ならず
「武士たる者に、けがらわしい。見れば貴様は、河原者の供ではないか。
「何分、日暮れまぐれの薄暗がり、あなたさまが横町から、お
と、供の男は、ひたすら詫びている。
「何に? 気がつかなかったと? その一言からして、無礼であろう。さては貴様は、この方が余儀ない次第で、
と、
雪之丞は、困惑した。江戸にはこうした無頼武士がはびこって、相手が弱いと見ると、何かにつけて言いがかりをつけ、金銭をゆするはおろか時によると、剣を抜いて、挑みかかることもある故、気をつけるがいいと、いわれていたが、早くも、かような羽目に落ちて、どうさばきをつけたらよいか、途方に暮れた。
それに、この浪人の
「これはこれは、お士さま。供の者が何か御無礼いたした様子、お腹も立ちましょうが、
と、
おどおどと、恐怖にみたされて、腰も抜けそうに見える供の男を、いつか後ろに囲うようにした雪之丞は、浪人者の毒々しい視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、重ねて詫びた。
「何分、わたくしは、御当地に始めての旅の者、
「ううむ――」
と、浪人者は
「重ね重ね奇怪だ、無礼だ。身分違いの身で、土下座でもして謝るならまだしも、人がましゅうし目の前に立ち
雪之丞は、
――この男、
人気渡世の女がた――殊更、始めて下った江戸。こんな奴を相手にするより、小判の一枚も包んだ方が、とくだとは思ったが、尾羽打ち枯らして、たつきに困ればとて、大刀をひねくりまわし、武力に
――何が、身分違い、河原者。舞台の芸に心を刻み、骨を砕き、ひたすら、一流を立て抜こうとする芸人と、押し借り
そう思うと、腕に覚えは十分ある身、取って伏せたいのは山々だったが、
――いやいやここで腕立てなどしたら、師匠の迷惑は言うまでもなく、殊更、自分は、大望ある
と、胸を
「では、こうして、お詫びいたします程に、お通しなされて下さりませ」
雪之丞は、膝まずいて、白くしなやかな指先を、土の上に並べてついた。
「何に? (では)だと?」
と、浪人は
「では――とは何だ? 心から済まぬと思うなら、そのような言葉は出ぬ筈だ。許されぬ。堪忍ならぬ」
と、大刀の鯉口を切って、のしかかる。
夕まぐれとは言え、人通りの絶えぬ
雪之丞は、本当に刃が落ちて来たなら、降りかかる火の粉。引っぱずして、投げ退けようとじっと気合を
――大道の泥に、手を突かせられ、人さまの前で、
浪人者も、
「うう、おのれ――」
と、叫ぶと、とうとう、腰を
浪人が抜いたと見ると、雪之丞は大地に片手の指先を突いたまま、片手で、うしろに
雪之丞の、そうした
浪人は、まるで電気にでも触れたように、パッと飛び退って、
彼は、白刃を振りかぶったままで、
「ううむ――」
と、呻いた。
勿論、この浪人、雪之丞を、真二つにする覚悟があって抜いたわけではない。が、相手の身体から
――こりゃ、妙だ。この剣気はどうだ? が、この河原者、兵法に達しているわけはない。
彼は、そう心にいって、乗りかかった船、思いきって斬り下げようとしたが、駄目だった。振り下ろす刃は、ピーンと、
「ううむ、――」
と、彼は、また呻いた。
雪之丞は、さもしおらしく、片手を土に突いたままだ。
するとその時、取りまいた群集の中から、
「うむ、面白いな。こいつあ面白いな」
と、言う
「おい、浪人さん――その刀は、どうしたんだ?
その吉原かぶりの若者は、ぞん気にいって、雪之丞をながめて、
「ねえ、役者衆――売り出しの身で、大道に手をついているのは、あんまりいい図じゃねえ。おいらが引き受けたから、さあ早く行くがいいぜ」
その言葉を聴くと雪之丞は、
「御親切はかたじけのうございます」
と、そう言いながら、チラと、若者を
「お言葉に従い、ではわたくしは、行かせていただきます。さあ、そなたも」
と、腰が抜けたような、供の男を
その彼の耳に響くのは、吉原かぶりの若者の、きびきびした
「さあ、お浪人、相手が変ったぜ。弁天さまのような
雪之丞は、急に駈けるように急ぎ出した供の男の跡を追いながら、小耳をかしげていた。
――あのお若い衆は、何者なのだろう? 余程すぐれた、お腕前御練達の方に違いないが、それにしても、あの姿は?
いつか彼はもう、御蔵役人屋敷前の、脇田一松斎道場の、いかめしい構えの門前に近づいていた。
脇田一松斎道場は、森閑としていた。
丁度、昼間の稽古が済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。
雪之丞が
それを背にして、一松斎は、桐の机に坐っていた。年の頃は、四十前後――。
一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微笑を含んで、
「そなたが、江戸に下られた
雪之丞は、燭台の光に、半面を照されている旧師の顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄った。
「一別以来、もう四年だ。日頃から、逢いとう思っていたが――」
「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べ上げぬことはござりませんでしたが――。でも、今度は
「ほお、孤軒先生に?」
と、一松斎はいくらか、
「それは珍しい。かのお方も、御出府なされていようとは、存じよらなかった」
「何しろ八幡さま御境内で、
「相変らず、意表に
一松斎は笑って、
「あれ程のお方になると、
そう言う彼も、依然として、独身生活を続けていると見えて、茶菓をはこんで来るのも、内弟子らしい少年だった。
「拙者の方は、例によって、
それから一松斎は、
「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず第一番の、贈り物をして
雪之丞は、師を見詰めた。
「外でもないが、拙者幼年の頃より、独立自発、
雪之丞は、一松斎の言葉を聴くと、のけ
「え? わたくしに、
一松斎は、微笑していた。
「如何にも、その時がまいったようだ」
奥義を許されると聴いて、雪之丞は、狂気仰天したのも無理はない。
脇田一松斎の奉ずる、独創天心流は、文字通り、一松斎自身の創意から編み出されたもので、彼の説によれば、剣の道は、一生一代――真の悟入は、次々へ譲り渡すことは出来ぬものだといわれているのだった。
一松斎その人が、
文武は車の両輪というが、なかなか一身に両能を兼ねられるものではない。代々算筆で立っていた、脇田家に生れた一子藤之介、――いま現在の一松斎も、父を打たれた当座は、刀を
だが、それからの幾年月を、天下諸国を
「教えられるだけのものは、既に教えてある気がするが、たった一つ、深く心に、噛みしめて
彼は、そういうと、手を鳴らした。
内弟子が現れる。
「御神前の
内弟子は、かしこまって去った。
間もなく一松斎は、起ち上った。
秘義伝授と聴いて胸おどり、足の踏み所を知らぬ雪之丞――強いて、心を静めて、跡につく。
最早、夜稽古が始まる時刻で、道場に詰めかけていた、通いの門弟たちは、控え所の方へ追い出されていた。
道場壇上の正面、
その壇上に、ピタリと端坐した一松斎、道場の板の間に、つい一松斎の足下にひれ伏した雪之丞――粗朴剛健で、何等の装飾もない十間四面の、練技場。ガランとして
「ではこれから、秘伝伝授の儀に移ろう」
一松斎はそういって、
そして、元の座に戻って、
「雪之丞、まいれ。遣わすぞ」
その一巻を、壇下から、震えるばかり白い手をさし伸べて、受けようとする雪之丞、師弟の手が触れ合おうとした、その刹那だ。
道場外に声があって、
「その御伝授、お待ち下さい」
と、
開き
「お待ち下さい、先生――」
と、彼は、雪之丞と押し並んで坐って、
突然の
「先生――お
雪之丞は、伝書を受け取ろうと、伸べた手を、思わず引いたが、師匠一松斎は、ただ静かな瞳を、平馬に向けただけだった。
「日頃にもない平馬。その
「何事とは、お情ないお言葉――」
と、平馬は、血走った目つきで、師匠を
「かねがね仰せられるには、独創天心流には、奥義も秘伝もない、自ら学び、自ら悟るを以て、本義となす、――と、繰返しての仰せ、それを何ぞや、この場にて、門下とは申せ、言わば列外の雪之丞に、秘巻拝見をさし許されるとは、あまりと申せば、理不尽なおなされ方――この門倉平馬、幼少よりお側に
武道の
「平馬――」
と、一松斎は、顔色を動かさずに呼びかけた。
「わしはこれまで、その方はじめ、門下一同に向い、拙者一流の兵法を、よう自得いたしたとか、自得せぬとか
「それは十分呑み込んでおりまするが、それなれば何故、これなる
平馬は相変らず、
「方便だ」
と、一松斎は、強くいった。
「雪之丞は、一方ならぬ大事の瀬戸際、これまで不言不説のうちに過ごしたことを、きっぱり、思い知らせつかわそうとしたまでだ」
「
平馬は、どこまでも
門倉平馬が、面色を変じて、強請をつづけるのを眺めて、一松斎は、別に怒るでもなく、
「そこまでその方が申すなら、見せても遣わそう。したが、この独創天心の流儀は、そのように焦心、狂躁いたすようでは、なかなか悟入することは
そして手にしている巻物を、
「雪之丞、まずその方より、――」
と、
雪之丞にすれば、何も、兄弟子平馬に先んじて、秘伝伝授を受ける心はないが、
すると、その刹那――間髪を入れず、ぱっと躍り上った門倉平馬、師匠から雪之丞へと、渡されようとする巻物を、
はっと驚愕した雪之丞、
「
と、叫んで、これも飛び上って跡を追おうとする。
一松斎は、呼び止めた。
「追うな。心を静めて坐れ」
「と、仰せられても――」
と、雪之丞が、踏み止まりながらも、心は、無礼暴虐な平馬の姿を追って、うわの空――
一松斎は、
「天から授からぬものを、強いて暴力で奪おうとしたところで、何も得られはせぬ。平馬は、わしの側について、十年あまり、剣技を学んだが、
いつか、雪之丞は、師の前に、膝まずいていた。――師匠は続けた。
「わしの流儀には、不言不説を、
雪之丞は、ひれ伏したままで、深い感動に満たされた。
「さあ、
師弟は、神前に
一松斎も雪之丞も
「ゆっくりお相手をいたしたいのでござりますが、宿元に戻りましてから、狂言の打ち合せもござりますので、これでお暇が願いとう――その
「さようか。――わしも、近々、必ず、そなたの舞台を拝見に、まいろう」
と、いつくしみの目を向けた一松斎は、ふと、思い出したという風で、極めて何気なく、
「これは、心得のためにいい置くだけだが、
土部駿河守というのは、大身旗本で、名は
この人間には、不思議な病癖があって、
それが今では、
「ははあ、さようでござりますか、――それは何よりのことでござりますなあ」
と、雪之丞は、兄弟子が出世の
起ち上る雪之丞を、師匠は、室の出口まで見送った。
雪之丞は、供の男を従えて、外へ出る。
晩秋の夜気は、しんと沁み通るようだ。無月なのに星の光りが、一層鮮かに、冷たい風が、あるか無きかに流れている。
「この分では、初日二日目、三日目――大した人気にきまっておりますぜ。何しろ初
「そうなれば
雪之丞は
すうっと、ある肌冷たさが、雪之丞の、白くほっそりとした首筋に、感じられた。と思う刹那、闇をつん
ぎゃっ、とおめいて、
闇を
躱された敵は、
雪之丞は、気息を整えた。
相手の
と、――見る間に、かざされた大剣がさっと走って、雪之丞の頭上に
じいんと刃金が相打って、響きを立てて、火花が散った。それなりまた、二つの姿は、少し離れて、互に隙を窺う。
暗殺者の刀は、下げられた。
懐剣をまともに突き出すようにしていた雪之丞の手先が、ぐうっと、引き上げられると、それに吸い寄せられたように、たっと土を蹴って、
長短の剣は、一瞬間、からみ合い、二つの黒い影は、もつれ合った。どうした羽目か、短い剣が、長い剣の持主の、腕の
雪之丞は、懐剣をかざしたまま、追おうともせず、見送ったが、相手が余程の強敵だったと見えて、呼吸は乱れ、全身に、ねっとりと汗だ。
――あれは確かに、天心流。矢張り、あのお人だ――
彼の心の目に浮んだのは、当然門倉平馬の、あの青ざめた、顎の張った顔であったろう?
――何という浅ましいお人! お師匠さまが、何となく当てになさらなかったのも、お道理じゃ――
雪之丞は、そう心に呟きながら、懐剣に懐紙で
「ほほ、――
と、口に出していって、不敵な微笑を
彼は、門倉平馬が、彼にとっては、仇敵の総本山であるような、土部駿河守の
今夜こそ、平馬の一刀が、自分の生命を奪い損ね、まんまと
雪之丞は、しとしとと、夜道を、御蔵前通りを、駒形の方へ、歩を運ぶ。
すると、思いがけなく柳かげから、
「太夫さん、何とまあ、素晴しいお手のうちじゃござんせんか!」
と、いう、若々しい、しかし、いくらか
見れば、それは、
「あなたは先き程の、――」
と、そういいながら雪之丞は、
雪之丞が、両手を膝のあたりまで垂れて、先き程、はからず難儀を救って貰った、礼を言おうとするのを、若い衆は押えて、
「何の、太夫、――お言葉に及びますものか、
雪之丞は、べらべらと立て続けに
――ほんに一たい、この
若者は、雪之丞の
「お前さんは、多分、あの時、あっしが、飛び出して、その場をさばいた
と、事もなげにまくし立てたが気がついたように、
「実はあれから、この近所に、あっしも用達しがあったので、その戻り道。たった今の
気軽にそういうと、もう、姿をすっと闇に消して、間もなく、向うの方で、
「おい、駕籠やさん――あそこにお客が待っている。山ノ宿まで一ッ走り、送ってあげてもれえてえ」
と、いう声がしている。そして直きに、辻駕籠は思わぬ客を拾った喜びに、いそいそと、こちらへ近づいて来る様子。
すると、突然、たったいま、あの
「御用だ。
「闇太郎、御用!」
と、けたたましい叫びが起り、足音が、荒々しく入り乱れる。
雪之丞は、はっとして、日頃の
――まあ、あの騒ぎは! ――
彼は、直覚的に、夜廻り役人から、御用の声をあびせかけられている当人は、いまここを
雪之丞は、この府内に最近上って来たばかり、闇太郎という名から推して、大方、盗賊、夜盗の
首を
「へえ、お待ち遠さま――。駕籠の御用は、あなたさんで、――?」
と、先き棒が言うのだった。
雪之丞が、通りの向うの闇を見つめたまま、前に据えられた辻駕籠に、乗ろうとしないので、
「さあ、どうぞお召しなすって――」
雪之丞は相変らず、瞳を前方に注いだまま、心がここにない風で、
「たしか、闇太郎、御用と言ったように聞えましたが――」
「へえ、何だか、そう申したようでございましたね」
と、後棒が答えて、
「なあに、あなた、この辺の見廻り役人や、目明し衆が、十人十五人で追っかけたって、闇太郎とも云われる人を、どうして、
その調子に、何となく役人に追われる者の方に、
脱ぎ捨てた雪駄を、ぽんと
雪之丞の胸の中は、今の、闇太郎問題で一杯だ。その人物は、たしかに、つい今し方、この駕籠を、自分のために、呼びに行ってくれた、あの若い衆に相違ない。しかもそれが、この駕籠舁たちにさえ、すっかり名前が通っている、名うての悪者らしいとは――
「それで、――若い衆さん――」と、雪之丞は、
「その闇太郎というお人、――一たいどんな方なのだね?」
「では、ご存じがありませぬか――? あなたは、江戸が初めてだと見えますね?」
と、先棒が、
「何しろ闇太郎といっちゃあ、大した評判の人ですよ。いわば義賊とでもいうのでしょうか――大名、豪家、御旗本やら、
「そういう人のことですから、いつどんな場所で、御用の声がかかっても、元より当人は素ばしっこい腕利きですが、町の人達、通行人も、役人に腕貸しをするような、出過ぎたことはいたしません。いまのいまだってなあ――先棒?」
「そうよ。たったいまだって、この方が駕籠が欲しいようだぜ、と、声をかけてくれたその人が、五間と向うへ行かねえうちに、御用の声だ。闇太郎という声がなけりゃあ、役人衆に手貸しをして、
雪之丞は、始めて、一切が呑み込めたのだった。
彼は、駕籠舁たちよりも、一そう強く、あの若い生き生きしい、いなせ男を、思慕せずにはいられない。賊と聞いても、怖ろしいどころか、却って懐しく、どうかして、もう一目逢いたいようにすら思うのだった。
辻駕籠が、月なき星空の下を、北へ飛ぶ。もう直き、
雪之丞の駕籠は、間もなく、大川の夜の霧が、この辺まで、しめじめと
「山ノ宿へ着きましたが、――」
と、先棒が言った。
「ああ、御苦労さま、――ついそこの、花村と言う、
と、雪之丞は答えた。
駕籠は、屋号をしるした
駕籠やは、
格子が
「若親方――お帰りなさい」
と、いう声々にも、
うしろから、眉は落しているが、歯の白い、目にしおのある、
「ついさっき、お供のお人が
「いいえ、何でもありませぬ。途中で、辻斬りらしいお侍に出会いますと、案内に立ってくれた、
と、雪之丞は、そらさぬ微笑で答えながら、白い
表二階を通して、四
菊之丞一座は、一行、二十数人の世帯であったが、江戸へ来ると、格で分れて、この
雪之丞とて、師匠の隣部屋に、宿る程の分際ではなかったが、弟とも、子とも言う、別種な関係があり、殊更、今度の江戸上りは、彼にとって、重大な意義があるのを、知り抜いている菊之丞故、わざと、身近く引き寄せて、置くわけだった。
師匠の部屋に、灯がはいっているのを見ると、雪之丞は、静かに廊下に膝をついて、障子の外から、
「お師匠さま、ただ今戻りました」
「おお、待ちかねていましたぞ、さあ、おはいり――」
いくらか
雪之丞は、部屋にはいる。
師匠菊之丞は、厚い紫地の友禅の座布団に坐って、どてら姿だったが、いつもながら、行儀よく、キチンとした態度で、弟子を迎える。
部屋の中には、何処となく、
「何か妙なものに出会ったと聴いたが、そなたのこと故、別に気にもせず、帰りを待っていましたぞ」
と、菊之丞は、微笑した。
彼は、この
「は、ちょいと、光り物がしましただけで――」
と、雪之丞も、微笑を返した。
それから、師匠菊之丞は、脇田一松斎の機嫌は、どうであったか――などと訊ねながら、自分で愛弟子のために、茶などいれてくれるのだった。
雪之丞は、行く道で、孤軒老師に
「ほほう、それで、そなたの前に、きらめいたという光り物のわけも、大方解ったようだ」
と、師匠は
「してその、門倉とかいうお方は、余程のお腕前かな?」
「それはもう、一松斎先生が、一のお弟子と、お取り立てになった程の仁、まず何処へ出しても、引けをお取りになる方ではござりませぬ。わたしが、あの方の、暗中からの不意打ちを、どうやら防ぐことが出来ましたのは、何しろ、あのお方は、闇打ちは
と、雪之丞は、いつもの
「そうじゃ、そうじゃ。いつもその謙遜を忘れねば、芸術も兵法も、必ず、至極の妙に達しることが出来るであろう。その志は、わし達のような年になっても、構えて忘れてならぬものだ」
などと、話しているところへ、来たのは、今度の座元、中村座の奥役の一人だった。
かたばみの紋のついた、小豆色の短か羽織。南部縞の着付。髷を細く
「大分、時刻が遅うござりますが、太夫元の方で、是非お耳に入れて、お喜ばせ申した方がいいと申しますので、出ましたが、――」
と、言いながら
「まあ、御覧なさいませ、初日から、五日目まで、
菊之丞は、拡げられた
「ほほう、これは素晴らしい景気でござりますな!」
「なおまた、御覧に入れたいのはお客様の顔触れで――」
と、奥役は何やら
「駿河町では、三星さま、油町では、大宮さま、お蔵前の
「なに、なに? 土部――?」
と菊之丞は、雪之丞の方を、チラリと眺めながら、
「どれどれ、その書き物を、お見せ願わしい」
と手をさし伸べた。
雪之丞の、星にもまがうような、美しい瞳は、奥役の唇から、土部駿河守の名が洩れた時、異様なきらめきを
菊之丞は、
「どれどれ、わしに、お書き付を、お見せ下され」
と、いって奥役から、書き込みを受け取ると、
「雪之丞、そなたも拝見なさい。成る程、さて、さて、素晴らしいお顔振れ、こうした方が、揃っての御見物では、こりゃ、うかとは、舞台が踏めませんわい」
雪之丞は、目を輝かして、師匠がさし示す見物申込の書き込を、のぞくのだった。
そこには、多くの、江戸で名だたる、
彼の胸は、激烈な憎悪と、
雪之丞は、夕方、路傍にいいがかりをつけて来た、あの素浪人の口から叫ばれた、
――河原者! 身分違い――
と、いったような言葉を思いだして、奥歯を噛みしめるのだった。
師匠、菊之丞は、愛弟子の、そうした胸の中を察したように、わざと、上機嫌な語調で、
「のう、雪之丞、これは、そなたも、
「はい、
奥役は、師匠が前景気に十分喜ばされたように信じて、いそいそと帰って行った。彼の
――これはいよいよ大当りだ! 並の役者とは違った、一風変わった気性と聴いた菊之丞が、あれ程、嬉しそうな顔をしたので見ると、狂言には、
奥役が去ってから、師匠は、
「雪之丞、とっくりと見たであろうな?」
「はい、拝見いたしました」
菊之丞は、考え深い目つきで、
「だが雪之丞、申すまでもないことだが、桟敷に、土部三斎を始め、どのような顔を見たとても、構えて心の動きを外に出してはなりませぬぞ。そなたの腕なら、舞台から
雪之丞は、青ざめて、美しい前歯に、紅い唇を、噛みしめながら、
「いつか、夜も更けたようだ。そろそろ床を
と、師匠がいって手を鳴らした。
雪之丞が師匠の次の間に延べられた、
――何事も思うまい。お師匠さんの
と、胸の上にそっと手を置いて、
この山ノ宿から、ぐっと離れた柳原河岸、――細川屋敷の裏手。町家が続くあたりに、
その男が、遠い灯りがさすだけで、
「闇太郎――御用」
と言う叫びが、やや間を置いたところから聞えて、町家の
吉原冠りの若者は、丁度いま、大川岸の裏塀に這い上って、忍び返しを越えようとしていた折も折この呼び掛けでじっと身を固くしたが、しかし、別に
「うむ、
と、呟くと、そのまま、すうっと、下に降りて、板塀に後ろ楯。ぴったりと背を貼りつかせた。
この闇太郎と言う盗賊――先き程、雪之丞を乗せた駕籠屋が、まるで江戸自慢の一つのように、
闇太郎という名乗りも、大方、自分がつけたのではなく如何なる真の闇夜をも、白昼を行く如く、変幻出没が自在なので、世間で与えた、
江戸司直の手は、最近
その闇太郎の姿を、ふっとこの晩、御蔵前通りで、見つけた町廻り同心の一行。あまりに
「闇太郎、遁れぬぞ!」
と、呼び立てる声は、ますます近寄って来た。
しいーんと寝静まった秋の真夜中、江戸三金貸しの一軒、大川屋の裏塀に、ピタリと背を貼りつけて、
捕り方たちは、
「馬鹿め。何をうじうじしているんだ! 秋の夜は長えといっても
と
その出鼻を、ぱっと、塀を蹴放すように、飛び出した闇太郎。振り込んで来る得物の下をかいくぐって、横っ飛びに、もういつか、五間あまり、駆け抜けていた。
「わああッ!」
と追い
するといつの間にか、この
町木戸の
捕り方の方では、その響きを聞いて、ほっと気が
「ざまあ見ろ。木戸が閉まりゃあ、
と、心の中で
「上意」
「御用」
の大喝を発しながら、
闇太郎の
と、見る間に、彼の姿は、いたちのような素速さで、屋根を越えて、見えなくなった。
彼が飛び降りたのは、裏新町の狭い路地。その路地を、足音も立てず、ひた走りに走って、やや広い通りへ出る。
闇太郎の行動は、例によって、
その中をくぐりくぐり、やっとのことで、遁げ延びて来た柳原河岸。一方は大名屋敷の塀続きで、一方は石置場。昼間でも、
闇太郎――ここまで来て、もう
その石置場へ、今や遁げ込もうとした闇太郎。激しく何者かに呼びかけられて、はっとして立ち
「待てッ、怪しい奴」
見れば、つい目の前に、大たぶさの
石置場の暗がりに、飛び込もうとした闇太郎――出し抜けに呼びかけられて、向き直った目の前に、大たぶさの若い武士の、立姿を見出した
――こいつあ、一通りでねえ、
と、心に呟いて、いままで、単に、捕り方たちを威すために抜きかざしていた短刀を、握りしめて、前屈みに、上目を使って、じっと侍の様子を
幸い、捕り方たちは見当外れの方角へ、駆け去ってしまっていたものの、この侍が大声を発したら、またも、
「夜中、怪し気な風態で、匕首なぞをきらめかしているその方は、何者だ?」
闇太郎を見下ろして、鋭い調子で、詰問するこの武家こそ、これも今夜、雪之丞への奥義伝授の
彼は、雪之丞を、闇打ちにかけ、一刀の
「旦那――見遁してやっておくんなせえ」
と、闇太郎は、とにかく下手に出るのだった。
「つまらねえ仲間喧嘩に、お上の手がまわったので身を
「いい
と、平馬は、口元に冷たい微笑を這わせて、言った。
「その方は、うち見るところ、ただの
「見遁さぬといって、――それじゃあ、どうなさるんで――?」
「いうまでもなく、引っ捕えて、役向へ、突き出すまでだ。その方如きを、うろつかせ置いては、市民の眠りが乱されよう」
「ふうん、して見ると旦那は、岡ッ引の下職でもしていなさるんですかい?」
と、闇太郎の調子は、急に
「
闇太郎は、相手の武士が、素晴らしい腕を持っているので、十分自分を手捕りに出来ると、自信しつつあるのを見て取った。
――何を! 相手が
彼は、奥歯をじっと噛んで、ますます殺気の
平馬は、敵の激しい目を、ニタリと冷笑で受けていた。
闇太郎の背は、ますます丸まって来た。足の構えは、
彼の息は、押え難く、
「むうん――」
と、いったような呻きが、
相手の武士は、じいっと、突っ立ったまま、
「ほほう、感心に、
と、苦笑いのような調子でいって、
「なかなか
闇太郎は、
「むうん――」
と、再び呻いた。鰐足に踏ん張った。脚部に、跳躍の気勢が現れたが、直ぐに失われた。
「やっぱり、駄目だろう――」
と、相手はいったが、しかし、その口調には、今までのような、冷笑と、
「どうだ、貴様――もうそこいらで、その匕首をおろしたら――と申しても、拙者ももう貴様の首根ッこを捉えて、番所へ
その言葉を聴くと、闇太郎は、
「何だと? じゃあ、俺の勇気が、怖くなったというのか?」
そう呟きながらも、まだ、
武士は、カラカラと笑った。
「いや、大きにそうかも知れぬ。実は拙者、貴様のその、
この言葉の間に、二人の間の殺気は、自から
「この場を、見遁してくれるというのは、有がてえが、人の名を聴くんなら、自分から名乗るが、礼儀でしょうぜ」
武士は、白い歯を見せて微笑した。
「成る程、それも理屈だな。それなら申そうが、拙者は、独創天心流を
「独創天心流」
と、闇太郎は
「それでは、例の、御蔵前組屋敷近所の、脇田さんの御門人か?」
「うん、今日まではなあ、今日からは、自流で立とうとする、門倉平馬だ。それは
「あっしは、世間で、闇太郎と言ってくれている、妙な人間さ」
「ほう。貴様が、名代の闇太郎か!」
門倉平馬の物に動ぜぬ、不敵な瞳にも、ありありと、
門倉平馬は、闇太郎という名乗りを聴くと、ますます好奇心に燃えて来たらしく、闇を通して、ためつ、すかしつするように、相手を見て、またも、呻くように呟いた。
「ふうん、貴様が例の闇太郎か! 大名、富豪の、どんな厳重な
闇太郎は、
「ははは――、あっしだって、何もそんな、魔術使いじゃありません。物を盗むにゃあ、これで相当に、苦労が要るものですよ。誰だって、盗ませるために、
そして、ニタリとして、
「第一、今夜のように、捕り方の五十人や百人は、わけなく潜って抜けられても、お前さんのような強敵に、行手を塞がれるときも、ありますからね」
「強敵に、出会ったと言っても、矢張りその敵に、敵意を失わせるだけの、秘術を知っているのだから、いよいよ
と、平馬は最早、全く、害意のない調子で訊ねかける。
「御冗談でしょう――」
と、闇太郎は気軽にいって、
「こんな場合に、身の上調べは恐れ入りますね。お前さんも、立派なお武家――
「いや、いや、そうも
と、平馬は、真面目になって、
「実は拙者、貴様の様子を見ているうちにこの
「ほほう、そうすると、どうなさろうと仰言るんで――?」
「貴様のような、世にも珍しい才能と、度胸とを持った奴、泥棒渡世にして置くのが惜しくなった」
闇太郎は、そういう平馬の顔を、チラリと見詰めて、
「
恐れ気もなくいってのける闇太郎に、
「それではどうだ? 拙者ももう、泥棒渡世の足を洗えの、なんのとは、申すまい。その代りせめて
「
と、闇太郎は、ちょいと頭へ、手をやるようにして、首をすくめて、
「どうもそうやんわり出られてはそれもいやだとも、言えませんね。ようがす、お供を致しやしょう」
「早速、承引してくれて、嬉しい」
と、平馬は、
「では、こう参れ」
彼は先に立って、スタスタと
吉原冠り、下ろし立ての
たまさかに
一座はすれど
忍ぶ仲
晴れて
顔さえ
見交わさず
まぎらかそうと
自棄 で飲む
いっそしんきな
茶碗酒
雪になりそな
夜の冷え
などと、呑気そうな、一座はすれど
忍ぶ仲
晴れて
顔さえ
見交わさず
まぎらかそうと
いっそしんきな
茶碗酒
雪になりそな
夜の冷え
和泉橋の角まで行くと、橋詰めの火の番所。
破れたところが一つ二つある、腰高障子が、ぼんやり灯影を宿した中に話し声が聞えていたが、平馬の
でも、油断はなく、六尺棒を手にしたのが、左に持った
左肩をそびやかすようにした平馬――歩み過ぎた時、連れを先に立てるようにして、
「親爺、――先っきの太鼓は、何の固めだ?」
「へい――」
と、辻番は、提灯を下ろして、
「あれでございますか? 江戸を名打ての大泥棒が、大川屋さんの、塀際にいたとかいうことで、いやもうこの
水ッ
「とかくこの頃は、物騒な市中の形勢――お互に、苦労が多いな。まあしっかり、役目をするがいい」
と、いい捨てて相変らずの雪駄の音を、のんびりと響かせて、遠ざかって行く平馬であった。
何気なく、するりと抜けて、歩んで行く、闇太郎の、肩越しに追い抜きながら、
「隆達くずしでもあるまいぜ、あの小屋の中に、鍋焼きを
「ところが旦那、あっしはね、何の因果か熱湯好きで、五体が
「持ちくずした男だな」
松枝町の角に、なまこ塀の、四角四面の屋敷。門は地味な
吉原冠りに懐ろ手、――
「御門番、御蔵前の門倉だ」
長屋門の出格子から、
「連れは、拙者、知り合いの者だ」
と、言い残して、闇太郎を導いたのが、脇玄関。
「お遅いお訪ねでございますな」
と、顔見知りらしい若侍。平馬から、
「遅なわって、相済まぬが、平馬折入ってお願いもござるし、
若侍は、
「まだ、
と、奥にはいる。
闇太郎は、懐ろ手から、手こそ出したが、その両手を前でちょっきり結びにした、
「成る程、噂には聞いていたが、土部隠居。狭いが、豪勢な住み方をしていやあがるな。黄金の
「これこれ、――つまらぬことを言うな」
と、平馬が
「つまらぬことって、――門倉の旦那、あっしに取っちゃあ、この嗅ぎが、身上なんで――。こいつで、見当をつけねえ限り、
頭こそ丸めて、斎号をば名乗って居れ、六十に手が届いているのに、
若侍が、襖の外まで来て、うずくまると、その
「誰じゃ? 何用じゃ?」
「わたくしでござります。御蔵前、門倉平馬、町人体の若者一人召し連れ、折り入って
「何に? 平馬が?」
と、老人は呟いて、
「かかる夜陰に、何の
そう命じると、三斎、
土部三斎が出て行ったのは、彼の
床には、彼の風雅癖を思わせて、
平馬は、三斎の姿を見ると、礼儀正しく、畳に手をついて、
「夜陰、突然、お
「うむ、よいよい――」
と、三斎は、
「して、それなる人物は、何者じゃ?」
「平素より御隠居さま、一芸一能のある者共を、あまさず、御見知り置き遊ばしたいという、お言葉を
と、平馬は手を突いたまま、
「これなる者は、今宵、御隠居所をさして参りまする途中、測らず、柳原河岸にて出会いました人物――。多くの捕り方に取り囲まれしを、巧みに遁れ、拙者、眼前に現れましたで、引っ捕えて突きだそうと、存じましたなれど、聞けばこの者、当時、大江戸に名高い、例の怪賊、闇太郎に
「何に? 闇太郎――?」
と赭ら顔の老人の唇から、その刹那、
彼の目は相変らず、薄寒そうに膝を揃えて坐った、粋な格子縞の若者に、鋭く注がれたままだ。
平馬は、権門の前に、別に、礼譲を守ろうともせぬ連れの方に、責めるように目を向けて、
「これ、
闇太郎は、片手を畳に下ろしただけで、さも懇意そうに、三斎隠居の顔を見上げるのだった。
「成る程、これまで世間の噂で、御中年に長崎奉行をなすって、たんまりお
三斎は、ますます鋭い凝視を、
土部三斎は、これまでの六十年に、実に、さまざまな人間を見て来ているのだった。将軍、大名、小名、旗本、陪臣、富豪、
三斎は、しげしげと、闇太郎を見詰め続けたが、相手は例によって、膝を揃えて、坐ったまま、片手で
三斎は、日頃、自分の前へ出ると、いやに
「――で、何か貴様は?」
と、老人は、親しみの調子さえ見せて、
「闇太郎ともいわれる男なら、どんな厳重な宝蔵の中にある秘宝でも、自由に、盗み出すことが、出来ると申すのか?」
「そりゃ、あっしも人間ですから、どんな物でもともいわれませんが、まあ大ていの代物なら、一度思い込んだとなりゃあ、これまで、
と、ぬけぬけと並べる盗賊の、赧らめもせぬ
「しかし世間では、貴様のことを、義賊の、
「冗談
「わしにも、貴様の気持は、いくらか解るようだ。是非に欲しいと思い込んだら、手に入れぬ中は、
三斎隠居は、自分の考えているだけのことを、どんな人間の前でも、ずばずばいってのける、この不敵な盗賊と対坐している間に、ついぞ覚えない、胸の開きをさえ、感じて来るのだった。
青年の頃から、彼自身の心に、喰い込んでしまった、不思議な欲望――
その
闇太郎は、きょときょとした目で、相手を見た。
「へえ、御隠居さんも、それじゃあ、ぬすっと根性が、おあんなさるんですか!」
平馬は聞きかねたように
「これ、無遠慮も、いい加減にいたせ」
「かまうな――」
と三斎隠居は言って、
「この者の物語は、なかなか面白い。正直に申せば、わしだとて、そう言う根性は、無いとも言われぬかも知れぬ。まそっと詳しく、盗みの話をしてくれまいか。とにかく、
と、言って、軽く手を打つのだった。
深夜ではあったが、前髪の若小姓と、
三斎隠居は、小姓一人を残して、他の者を去らせると、平馬と闇太郎とに、酒盃を勧めるのだった。
闇太郎は、隠居の言葉までもなく、すっかり
「ごめんなすって、おくんなせえ。この方が楽にお相手が出来ますから――」
と、膝を崩して、長崎風のしっぽく台に、左の
門倉平馬は、苦々しげ。
彼は相変らず、きちんと坐って、三斎隠居から渡された酒盃を、口に運ぶのさえ、遠慮しているように見えた。
隠居よりも闇太郎が、口を出した。
「平馬さん、土部の御隠居さまは、いって見りゃあ、
「
と、三斎は平馬の方に目をやって、
「そういえば門倉、この
門倉平馬は、食卓から
「実は御隠居さま、拙者、止むに止まれぬ、武道の意気地により今晩限り、旧師脇田一松斎と別れ、未熟ながら一芸一流を立て抜く決心、――それに
「なに? 脇田の門を捨てたとか? それはまた何故」
と、さすがに土部三斎も愕きの色を浮べて、
「それはまた、どうしたわけだ?」
「御存じはござりますまいが、今度上方より初下りの、中村菊之丞一座の雪之丞、之が、不思議な縁あって、拙者よりも前かたより一松斎門にて剣技を学んだ者でござります。
この言葉を聴くと三斎よりも、闇太郎の瞳が異様な
「へえ、平馬さんは初下りの雪之丞と、そんな仲でござんしたかい?」
平馬は、闇太郎を
「では貴様は、雪之丞と、存じ合いか?」
闇太郎は事もなげに、例の顎を
「何んの、江戸ッ
「不思議なことを聴くものだな!」
と隠居は呟いた。
「当節
三斎隠居は、
「実は、御城内に上っている、娘の
「お言葉ではござりますが、
と、門倉平馬は、キッパリといったが、その調子には、明らかに、憎悪が
「拙者、一松斎の手元にまいって、既に十年、――その頃、彼も幼少にて、大坂道場に通ってまいるのでしたが、雪之丞を見ると、旧師は、別扱いで、必ず、自身で、稽古をつけておりました。何でも、一方ならぬ大望を抱いているとかの、話も、ふっと、耳にしているようにござります」
「一方ならぬ大望と申して、――役者風情が、まさか、親の仇というのでもあるまいが、――?」
と、三斎は、
闇太郎は、いつもの顎の逆か撫でをやりながら、
「ふうん、じゃあ、あのピカリっと来たのは――?」
と、呟いた。
「何に? ピカリとは何だ?」
と、平馬がじろりと観ると、
「いいえ、何でもねえんで、――。ただ、やっぱし舞台で、光るくれえの奴あ、違ったもんだ、――と感心したんで、――」
と、その場を言い濁したが、心の中では、それじゃ、御蔵前の暗やみで、あの時、女形に斬りつけたのは、この平馬だったのだな。道理で、素晴らしい
闇太郎は、彼独特の、闇を見通す程の、鋭敏な心の目で、一切を見抜いてしまうと、門倉平馬の後について、三斎屋敷へなぞ、はいり込んでしまった自分が、身に汚れでもついたように、悔いられて来るのだった。
――さあ、そろそろお
「平馬さん、お蔭で、自身番にも突き出されず、こんな結構なお屋敷で、御隠居さまとも、お目に掛らせて、貰いやしたが、あっしのような男が、いつまで長居も怖れです。もうお暇を頂きやしょう」
「これこれ闇太郎、――」
と、隠居は制して、
「わしは何分、年を取って、寝つきが悪い身体だ。貴様のような、珍しい身の上の人間から、いろいろ話も聴きたい故、もう少し
「そうまで仰言るなら、暁け方まで、
と、闇太郎、振り袖小姓の
三斎は、一度、腰を上げかけた闇太郎が、また坐り直して飲み出したので、上機嫌だった。
「実は、闇太郎、わしも、役儀は退いているといっても、矢張り、江戸に住んで、公儀の御恩を受けている身体だ。貴様のような人間が、屋敷にはいって来たのを、そのままにして置くということも、ちと、出来難いのじゃ。だが、平馬もいうたであろうが、わしには、妙な望みがあって、この世の中で、一芸一能に秀れた者に、交わりを求めたいと、かねがね願っているのだ。絵の道であれ、刀
「と、仰言っても、御隠居さん――」
と、闇太郎は、先き程までの、夜の巷での、悪戦苦闘の、
「何しろ、性分が性分で、さっきから、申し上げるように、一度盗みたいとなると、どうも遠慮が出来ねえ生れつき、こちらのようなお屋敷に、足踏みをしていると、たまにゃあ、素手では、帰えられねえような気持になることもあるでしょう。だから、まあ、出来るだけ、この近所へは足踏みをしねえことに、いたしやしょうよ」
「ところがわしは、何となく、貴様が好ましくなって来たよ」
と、老人は、手にした
「何の泥棒の、盗賊のというと、聞えが悪いが、忍びの業は、立派に武士の、表芸の一つ。音無く
闇太郎は、礼儀にこだわらず、三斎隠居に
「どうも恐れ入った、御懇志のお言葉ですが、御隠居さん、ざっくばらんにいって、おめえさんは、このあっしを、どんな時に、役に立てようとなさるんですね?」
三斎隠居は、ぎょっとしたように、闇太郎を見返したが、その目を
「ふうん、成る程、ますます気鋒の鋭い奴だな!」
そして、わざとらしく取ってつけたような快活さで、
「如何にも、旗本の隠居と泥棒でも、一度懇意になった上は、何かの場合、折り入って、相談ごとをする時が無いとも限らぬ、だがまあ、当分は、別に頼むことも無いようだ」
「そりゃあ、泥棒は、あっしの渡世、御隠居さんは、書画骨董、珠玉刀剣が、死ぬ程お好きだということ、何処そこの蔵から、手に入れられねえ宝物を、盗って来い位なら、御相談にも乗りましょうが、弱い者
と、天地に身の置き所も無い若い盗賊、権勢家三斎を前に置いて、
平馬は、三斎隠居の機嫌をとるために、夜陰ながら、路傍で拾って来た、怪賊闇太郎、――それが、隠居の気に入ったらしいのが、初めの中は嬉しかったが、いつまでも、闇太郎、闇太郎で、自分の方を、ついぞ、老人が、振り向いてもくれぬので、何となく、不機嫌になって来た。
――それにしても、
と、心に呟くのも、狭量な心を持った男の、
隠居は、それからそれへと、闇太郎から、これまでの、冒険的な生活の、告白を聴きたがって、話の
「おお、そう申せば、平馬、その方、一松斎に別れて、自流を立てるという、決心をしたそうだが、まずさし当って、
平馬は、隠居の赧ら顔が、自分の方へ向けられたので、
「実は、それにつき、日頃の
「うむ、それも面白かろう――」
と、三斎は
「世間では、とかくこの三斎を、権勢家の、我慾者と、
三斎隠居、どんな場合にも、交換条件を、口にせずにはいられぬ老人だ。立派過ぎる程の武門に老いながら、とかく、商取引を忘れられない気性だ。
平馬、この男も、ぬからぬ人物。直ぐにその場に両手をついて、
「申すまでもござりませぬ。御恩顧に相成る上は、一身一命は、申すまでもなく、御隠居さま、御自由でござります」
闇太郎は、二人の問答を聴いて、片手に
――たったいま、十年旧恩の親にも勝る脇田先生の道場を、後足に砂、飛び出して来やあがった、人畜生の門倉平馬に、今更、つまらねえ約束を、
「大分頂き過ぎやした。これで御納杯と――」
闇太郎は、口では丁寧にいって、酒盃を隠居の方へさし出すのだった。
三斎隠居も、もう闇太郎を、強いて引き止めようとはしなかった。
「さようか、――もう世間が白んで見れば貴様を狙う、
と、言って、振り袖小姓に、手箱を持って来させると、
が、闇太郎は、押し返した。
「あっしあ、この方とは、少し渡世が違うんで――御大家に伺って、こんなものを頂く気なら、何も好んで、夜、夜中、塀を乗り越えたり、戸を外したりして、
三斎隠居は、苦笑した。
「ああいえば、こういう。――始末にゆかぬ奴だな。それなら、貴様自由にしたらよかろう」
闇太郎は、門倉平馬にも、軽く会釈をすると、
「じゃあ、御隠居さん、――いつかまた、お目に掛りましょう」
といい残したなり、案内も待たず、廊下に、
闇太郎は、晩秋の暁け方の
乳色の朝霧が、細い
住所不定の闇太郎、――どこをさして行く当もない。持って生れた、性分で、安心な方より、危険な方へ、爪先を向けたいが
橋際に、小さな夜明しの居酒屋――この辺に、夜鷹を
夜が明けたので、もう客が
「とっつぁん、
爺さんは、
「どうも、権門、富貴の御馳走酒より、自腹の
「親方は、大分いけると見えますな、もういい機嫌で、お
「なあに――飲みたくねえ酒を飲まされた口直しさ」
と、若者は苦っぽく笑って、
「そういやあ、この河岸で、昨夜は、騒ぎだったそうじゃあねえか?」
「へえ。大捕物がありやしてね」
と、老人は、水ッ
「といったって、手も足もないような手先衆が、翼の生えている大泥棒を追っかけたんですから、捕まりっこはありませんよ。お蔭で大分、燗酒は、売れましたがね」
「ははは、――それじゃあ、その大泥棒が、とっつぁんにはいい恩人だったじゃねえか――」
闇太郎は、のんびり笑って、樽にかけた片足を、片一方の股の上に組むのだった。
猿若町三座の中でも、
菊之丞一座といっても、見込んでいるのは、艶名を
どこまでも、
この、一座の、江戸下りが、ぱあっと府内の噂に上ると、
「――何だって、上方役者を芯にして、中村座を開けるッて! 馬鹿くせい話もあるもんだ――おいらあ、もう、あの小屋のめえも通らねえつもりだ」
「そうともよ! 江戸に役者がねえわけじゃあなしさ。今度連中を作る奴があったら、一生仲間づきあいをしてやらねえぞ!」
なぞと、気負いな
「何でも、中村菊之丞一座というのは、
「ほんとうに、そうですとも。江戸っ子は、強きをくじき、弱きを助けるが身上ですわ。あたしたちも、及ばずながら一生懸命駆けてあるきますから、うんと賑やかに蓋をあけさせるようにしてやって下さいましよ」
そんな風に、たのまれもせぬのに、血道を上げる男女もあるのであった。
そして、とうとう、初日が来た。
座の前には、二丁目の通りに、華やかに
初日早々、父親の
宿を出る前、師匠が、顔をじっと見て、
「少し、顔いろが悪いようだが――」
と、いったとき、日ごろの教訓を忘れたかと思われる恥かしさに、
「いえ、さすがに、江戸の舞台が、
と、
「重ねて言うにも及ぶまいが、今日は、ことさら、胸を静めて舞台を踏まねばなりませぬぞ」
師匠は、それだけ言って、例の端然としたすがたで、膝の上にひろげた書き抜きに、目を落してしまった。
雪之丞は、やがて、菊之丞と一緒に、中村座を指して出かけた。初下りの上方役者の、楽屋入りを見ようとする、若女房や、娘たちが、狭い道の両側に立ち並んで、目ひき袖ひき、かまびすしくしゃべり立てている。
そして、彼女等の視線は、あからめもせず、半開きにした銀扇で、横がおを
食い入るようにみつめながら、彼女等は
「まあ、ゾーッと、寒気がするほど、
「江戸で並べて、はまむら家、紀の国家――いいえ、それほどの人は、くやしいけど、いやしない」
「あれで、芸が、そりゃ、すばらしいんだと、言うのだもの!」
こうした言葉は、いくら低く語り合われているとしても、雪之丞の耳には、はっきり響くはずだ。いつもの彼であれば、芸人
が、彼の胸は、土部三斎で、一ぱいだ。
――わしに、今日、満足に、舞台がつとまろうか? その三斎という人間を、同じ屋根の下に見ながら、落ちついて、技が進められようか?
彼は魂の底に、日ごろ信心の、神仏をさえ念じる。
――どうぞ、神さま、仏さま、舞台の上にいる
彼は、楽屋入りをすました。師匠と並んだ部屋の、鏡の前にすわって、
いくらか、心が澄んで来た。
開幕を知らせる拍子木は、廊下をすぎ、舞台の方では、にぎわしい
雪之丞は、心で、手を合せた。江戸下り初舞台、初日の日に、早くも
雪之丞は、生れてはじめてといってもいい程、激烈、熱心な
「花むら屋!」
と、いう、聴きつけぬ屋号は、江戸ッ子たちの、歯切れのいい口調で、嵐のように投げかけられるのであった。
楽屋に戻ると、あたりの者は、目を輝かして、菊之丞と、その愛弟子とに、心からの祝辞を述べずにはいられなかった。
「親方、これで、いよいよ日本一の折紙がついたわけでございます」
「負けず嫌いの江戸の人達が、あんなに夢中になっての讃め言葉、わたし達は、只、もう涙がこぼれました」
と、弟子どもの中には、ほんとうに、涙ぐんでいるものさえあった。
雪之丞も、勿論ホッとした。
これで、長年育ててくれた恩師に対する、報恩の万分の一を果したと思うと、肩の重荷が、だんだん下りてゆく気がするのだった。
しかし、彼は、言い難い、不安に、一方では襲われている。
胸をとどろかせ、心をおどらして、今日こそ、その
東の
いうまでもなく、大身、大家の一行、出かけるにも手間が取れようとは、思っても、万一、模様変えになって、今日、その顔を見ることが、出来ないようになると、何となく、大望遂行の、
――あまり、とんとん拍子に、前兆がよすぎるような気がしたが、この辺から、何か、ケチがつくのではあるまいか――
雪之丞は、そんな予感に、心を暗くしながら、
出場が、知らされて、遊里歓会をかたどった、舞台に出る。
師匠菊之丞が扮する、身を
にぎわしい
雪之丞は、受けた朱杯が傾くのを、その瞬間、禁じ得ぬ――見よ! その
彼は、その人達の瞳と、自分のそれとが、はっきりと、
雪之丞の、ほのかな微笑で飾られた、呪いの目は、その桟敷に、とりわけ、一人の
一目で、雪之丞に、それが、
その、左右に、
と、雪之丞は、その後方の男女の中に、ふと、自分に向けて注がれている、激しい憎悪の視線が、まじっているのを感じた。すべての目が、讃美と、いつくしみを
――不思議だ! あの目は、わしを憎んでいるらしいが――
さり気なく、じっと見たとき、雪之丞は了解した。
――さようか? それなら、いぶかしゅうも無い。
彼は、そう心にいって、もうその方に注意しなかった。
こないだ、脇田一松斎を久々でおとずれた晩、旧師の口から、あのようないきさつで、師門に後あしで砂を掛けた、例の
が、雪之丞は、それを余り問題にする必要はない。平馬の技倆と心構えについては、もう知り抜いているし、また、この昔の兄弟子が、一松斎、孤軒、それに菊之丞をのぞいては、天下の何人も知らぬであろう、彼自身の、一代の大望を知覚しているはずもないのだった。
つづまるところ、油断をしてはならぬだけの力のある、一人の敵が、自分がつけ狙う
雪之丞は、それだけを見届けると、もう、ことさら、三斎隠居一行の桟敷に、特別気をくばりはしないのだった。師匠から、重々言われている通り、たとい、先方から、名乗りかけたとて、舞台の上で一芸をつとめる身が、この場で、相手になることは出来なかった。
――まず今日は、大切なお客さま、それから、ゆっくりと、
雪之丞は、冷たく心に笑って、やがて、専念に、役の
その幕が下りて、顔を拭くか、拭かぬかに、隣の師匠の部屋から、男衆が迎えに来た。
すぐに、出向くと、あらかじめ人を払っていた菊之丞が、
「案じることもいらなんだな」
と、まず、讃めてくれるのだった。
雪之丞は、言い難い涙が、こぼれ落ちそうになるのを抑えながら、師匠の言葉を、うなだれて聴いていた。
菊之丞は、
「しかも、舞台が、寸分の隙もなくつとまったのは、あっぱれ日ごろの心掛けが、しのばれましたぞ――あれでのうてはならぬ。万人と変った、大きな望みを成し遂げるは、一通りの難儀でないのが、当り前だ」
と、いって、口調をあらためて、
「実は、そなたが今日、心みだれるようなことがあると見れば、知らすまいと思うたことじゃが――世にもたのもしゅう、大事の幕を済ましたゆえ、申し聴かせようと考えますが、雪之丞、そなたは、今日の桟敷の、顔ぶれ、すべてしかと見覚えましたか?」
雪之丞の目は、涙の奥で、きららかに、きらめいた。
「は」
と、
「僧形は、土部三斎どの……それに並んだは、大奥にすがっておるとうけたまわる、息女でいられると存じましたが……」
「その外は?」
「その外は、うしろの方に、脇田先生に
と、答えると、師匠は、取るに足りぬと、いうように、頭を振って、
「そのような者は
心を動かすまいと、あらゆる折に気を引きしめている雪之丞、そう聴くと、思わず、
「おッ!」
と、叫んで、膝を乗り出して、
「して、それは、誰々にござりまする?」
「さ、すぐに、そのように、血相を変えるようでは――」
「おお、あしゅうござりました」
と、雪之丞は、両手をぴたりと突いて、
「お師匠さま、お前をもはばからず、取りみだし、申しわけもござりませぬ。心を平らに伺いますゆえ、なにとぞ、
菊之丞は、
「そのように、しとやかに訊ぬるなら、いかにも申してつかわそうが、実は、今日、土部一門の見物があると知ってから、何となく、そなたのための仇敵の一人一人、同座することもないではあるまいと、一行の名前を、茶屋の者よりうけたまわって見たところ、案にたがわず、当節、病気にてひきこもり中の、
――う――む――
と、いう、激しい心のうめきを、強いて、抑えるように、雪之丞は、白い前歯で紅い下唇を噛みしめたまま、瞳をこらして、師匠をみつめつづけている。
菊之丞は、いよいよ、声をひそめて、
「土部三斎、隠居して、ますます
「は、して、まそっと詳しゅう、居並ぶ人々の、順、なりふりをお聴かせ下さりませ」
雪之丞は、乾いた舌で嘆願するのだった。
菊之丞は、あたりを見まわすようにして、ぐっと、身を乗り出して、
「忘れまいぞ、雪之丞、向って右のはしが、あの頃の長崎代官浜川平之進、左のが横山五助、そして、息女浪路のうしろに控えた、富裕らしい町人が、そなたの父御が、世にも信用の出来る若い手代と頼んでいたに、その恩を忘れて広海屋と心を合せ、松浦屋を破滅へみちびいた三郎兵衛――今は、長崎屋と名乗って、越前堀とやらの近所に、立派な海産問屋をいとなんでいるそうな――いわば、一ばん、悪だくみの深い奴――よう、見覚えて置きなさるがいいぞ」
「では、右のが、代官浜川、左が、横山――」
と、雪之丞は
「――あの町人体が、三郎兵衛手代――」
「そうじゃそうじゃ、今度の幕に、
その時、もう、二人とも、次の中幕、所作ごとの支度をいそがねばならなかったので、めいめい鏡に向う外はなかった。
雪之丞は、夢の場での、優雅な官女の顔を作りながら、ともすれば、心のけんが、外にあらわれるのを、いかに隠すべきかに骨を折るのだった。
――わしは、舞台に出るまえに、何も思うてはならぬのだ。心を平らに、狂言の人に、なりおおせねばならぬのじゃ。それを忘れるゆえに、こうも、顔が怖くなる――
と、そう自分を叱りながら、にもかかわらず、つい、そのあとから、胸の中にくりかえさぬわけに行かぬのが、父親の、あの、奇怪
その遺書に、書き呪われた人々の中、広海屋をのぞいては、すべて、あの東桟敷、ほこりかな、紫幔幕の特別な場所で、雪之丞の演技を眺めていると、いうのである。
――もし、憎らしやと、
雪之丞は、紅い唇に、べにを塗りながら、じっと鏡をみつめて、顔の凄さを消そうと、強いて微笑して見ようとするのだったが、その笑いには、
舞台の方では、
雪之丞は、山ぐみが、さも
中幕は、滝夜叉の夢の場――官女すがたの彼と、
「ほんに雨夜の品定め、かまびすしいは女のさが――」
と、いうところが、きっかけで官女たちが大勢つどっている場に、出現するわけなのだ。
雪之丞の官女が、花道の七三にかかって、
「ふうむ、見事じゃ」
と、吐息に似たつぶやきが、三斎老人の唇から洩れた。
「何と、所作ぶりも、達者だの」
と、横山が、扇で、手の平を打つようにした。
息女浪路は、横山の方を、満足げにかえりみた。
横山が、その目を捉えて、
「な、浪路どの、あでやかなものでござりますな」
「ほんに、わたくしも、ゾーッと背すじが冷たくなりました」
浪路は、美しい
雪之丞が、あらわれて、鳴り物も、うた声も一そう
観客席には、今や、ささやきさえ聴えなくなってしまった。人々は
その幕がしまると、人々の
「いいなあ」
「よかったわねえ」
そうした言葉が、土間でも、廊下でも、いつまでも語りかわされるのだった。
ところが、不思議な現象が浪路の上に起った。
彼女はかなり朗らかな気性で、絶えず微笑を消さないような娘であったが、急にぱったりと黙り込んで、杯にも手を出さなくなってしまった。
「御気分が、お悪くなったのでは?」
と、老女が、気がついたように訊ねた。
「いいえ、何でもないのだけれど――」
小さい絵扇で、顔をかくすようにして目をそむけるのだった。
浪路が、
彼女は、じっとうつむいて、白い手先を、膝の上にみつめたり、ぽうっと遠くを見るような目をしたりしたまま、はかばかしく受け答えもしないのだった。
「
三斎がいった。
「いいえ、いいえ」
と急に熱心に、浪路は、かぶりを振った。
「みんな見てもどりましょう――
浪路のこの言葉は、つき添の女中たちをよろこばせるに十分だった。
だが、浪路の、こうした心の変化の奥底の秘密を、いつかすっかり見抜いていたのが、長崎屋三郎兵衛であった。
――ふうむ、
冷たく、独り笑って、やがて
三郎兵衛はもう舞台には、注意を払わなくなった。
――この娘に、思うようなことをさせてやって置けば、わしの日頃の望みは、千日かかるのが、十日で
この猛悪な
この大望は、三斎父子を背景としている彼にも、なかなかむずかしいものに思われた。幕府にも手堅い組織があって、私情、自愛では、突破し難い
だが、そのような非望者に取っての大障害も、道を
「長崎屋、お互に、昔は昔、欲を張ることもいいが、そなたも、そこまでになって見れば、この上は、万事、良いほどに、我意をつつしむ方、身のためだろうぞ」
などと、忠言をうけているのだった。
――三斎隠居が、何といったところが、娘が一あし踏みそこなって見れば、もう何の口出しも出来なくなるわけだ。どうなっても、この娘に、あの役者をおしつけてしまわなければ――なあに、おとなしぶって、白い顔をしているが、あのむっちりした胸の中は、
三郎兵衛のたぐいに取っては、彼自身の慾を遂げるために、どんな毒気を吐き散らして、他人を
彼は、幕が下りると、わざと浪路をわきにして、横山にいいかけた。
「どうでござります。横山様、雪之丞とやらいう役者――広い日本にもまず二人とは珍しく思われますが、
「それそれ。
と、横山は、うなずいて、
「御隠居の御都合さえよろしければ、そういたしておつかわしになったら、ことさら上方からの、いわば頼りすくない彼、なんぼうかよろこぶでござろうが――」
この問答は、三郎兵衛によって、とりわけ
彼の視線は、冷たく、鋭く、彼女にちらちらと投げつづけられる。
――それ、見るがいい。あの娘、まるで
勿論、三郎兵衛のこの発議を、しりぞける三斎ではない。彼は異った世界の人間に接触するのが、一ばんのたのしみでもあった。
「おもしろいな。どこぞで、招いてやろうよ。浪路、そちにもいい保養であろう」
彼はのんびりした調子でいった。
父親から、雪之丞を、どこぞ会席にでも招いて、
見る見る、瞳は新しい望みでかがやき、頬には熱い血のいろが上って来た。
「よろしいように――」
と、彼女は、やっと、心の昂奮を抑えて、かすかに、さりげなく答えた。
三郎兵衛は、その横がおを、冷たい微笑で眺めて、
「ですが、浪路さまが、もし御気分がお
「いいえいいえ」
と、彼女は、美しくかぶりを振るようにして、
「久しぶりで、人中に出ましたので、さっきまで、どうやら気持が重うござりましたが、もうすっかり晴れ晴れといたしました」
「それは何よりでござりました」
と、言って、三郎兵衛は、立ち上りながら、
「それでは、ひとつ、その旨を、茶屋の者に申しつたえ、雪之丞の耳に入れ、よろこばせてつかわしましょう」
雪之丞を酒席に招くということが決定すると、よろこびの色を
やがて、狂言もすすんで、もう
男衆が、雪之丞に、
「今夜、さじきにお見えになっている土部さまから、はねてから、柳ばしの
「え! 土部さまから――」
雪之丞は、
「へえ、例の三斎の御隠居さまが、大そうお
この瞬間ほど、美しい女がたの面上に、複雑な表情がうかんだことはなかったであろう――
彼は、自分を取りまいて、まるで酔ったように化粧ぶりを眺めている贔屓の客たちを忘れてしまったように、じっと唇を噛み締めて、
「ようございます。かたじけなく、お言葉にしたがいましょう――と、土部さま御一同に申し上げて下さるよう――」
「かしこまりました。さぞ、さきさまもおよろこびなさるでございましょう」
雪之丞は、しずかにふたたび鏡にむかった。
彼はだが、もう、さき程のように殺気をあらわしてはいなかった。心は澄み切り、魂はしずもっていた。
――じっと落ちつけよ! 雪太郎――じっと落ちつけ、大事のときじゃ。
彼は呪文のように胸の底で繰り返していた。
「お目出とうござります」
「お目出とう、御苦労だったの」
とてお互いに、初日をことほぎ合ったあとで、雪之丞、手を突いて、
「さて、わたくしはこれから、お客衆にまねかれまして、柳ばし、川長とやらへまで、顔出しをいたしてまいるつもりでございます。おゆるしが願わしゅう――」
「ほほう、それはありがたい御贔屓だの。して、どのような筋のお客さまだな」
菊之丞は、わが愛弟子が、江戸人から歓迎されるのを聴くのが、一ばんうれしいというように目顔に微笑をみなぎらした。
雪之丞は、きわめて落ちつき払った、さりげない調子で――
「土部さま御一行からでござりますとのこと――」
「ええ、土部から?」
かえって、師匠の瞳に、不安と恐怖とがきらめいた。
「して、そなた一人、よばれましたのか?」
「はい、わたくし一人、お名ざしでござります――が、かまえて、
菊之丞は、じっと愛弟子をみつめたが、
「何となく心もとないが、しかし、そなたの身性を、あの人々が、気がついているはずは、万に一つも、あるはずがないと思われる。大方、そなたの芸が気に入っての招きであろう。先方が、そう申すのを断わろうともせず、ふみ入って見ようという、そなたの了見は結構だ。が、決して、今夜、その場で
「申すまでもござりませぬ。雪之丞、必死にて、みずからを、おさえて見るつもりでござります」
雪之丞が、きっぱりそう言うと、
「それそれ、その覚悟が、大事の前には是非とも入用だ。今夜は、相手が、どのように出ようとも――百万に一つ、そなたの身にうたがいをかけているような気ぶりが見えようとも、必ずいいまぎらして、手荒くしてはなりませぬ」
と菊之丞はいって、
「あまり、気にしすぎるようだが、そなたの、肌身はなさぬ懐剣、今夜だけは、わしにあずけて置いて貰いたい」
ニッコリした雪之丞――
「はい、かしこまりました。お預けいたすでござりましょう。では、
雪之丞は、ざっと、舞台化粧を拭き落すと、かつら下地に、紫の野郎帽子、例のこのみの、雪持南天の衣裳、短い羽織をはおって、あらためて師匠に挨拶した。
「では、脇田先生よりたまわりましたまもり刀、
「たしかにあずかりました。行って来なさい」
師弟は別れた。
楽屋口から、男衆を供に、役者の出入りに、好奇な目をかがやかして立ちならんでいる女たちの間を抜けて、茶屋の前から
そして、雪之丞、やがて、駕籠に揺られて、大川端をさしていそぐのだった。
料亭の、白く、明るい障子は、黒く冷たい大川の夜かぜを防いでいた。大広間には、朱塗りの燭台が立て並べられて、百目
床前に、三斎
「それは、とのさま方、結構なことでございますな。実は、この土地でも、かりにも猿若町の三座の随一、中村座ともあろうものが、
なぞと、これは、男同士から、心からよろこぶように言うのだった。
芸者たちも、雪之丞と一座が出来るというので、何となく浮き立って、
「そんなにいい役者なら、もう上方へ帰してはやり
「ほんとうに、芸も、位も、江戸が一ばんですのに――みなさんで可愛がって上げたら、
三斎隠居が、ニヤニヤしながら、
「と申して、あまりその方たちが愛しすぎると、折角の、彼の芸がどんなことになるかも知れぬぞ」
「ふ、ふ、素手で
と、浜川が、尾についてざれ口を叩く。
浪路は、明らかに眉をひそめた。彼女の、白魚のような右の指先が、美しい額をおさえる。
――ふ、ふ、ふ、まだ雪之丞を手に入れもしないのに、もう自分の
と、顔には
「浪路さま、お一つ、お盃をいただきたいものでござりますが――」
「わたくしは、また
と、いうのを、
「いいえ、召し上りなされませ。何でもにぎわしゅう、陽気にあそばせば、お
「では、差し上げましょうか――」
と、いくらか微笑して、盃をさしたのも、彼女にすれば、雪之丞に今夜逢えるのも、心利いた三郎兵衛のはからいだと思えばこそであったろう――
ところへ、女中が、
「中村座から、お着きになりましたが――」
と、顔を出す。
「ほ! 待ち人がまいられたそうな――お出迎え――お出迎え!」
と、遊孝が、元気よく立つと、芸者、女中が、雪之丞のために席を設ける。
一座の目は、ことごとく、はいって来ようとする珍客の方をみつめる。いかなる事にも、物驚きをしないような、
三郎兵衛は、相変らず、必要な方へだけ視線を走らせる。
――大丈夫、安心しておいでなさいよ。どんな
見つめられて当の浪路は、顔色さえサーッと青ざめて見えるほど、明らかに
「さあ、こちらへ――」
と、いう、遊孝の、案内のこえ――
「みなさま、おまち兼ねで――」
「わざわざおまねきにあずかりまして、何とも
「さあさあ、遠慮のう、前へ進め、これへまいれ」
と、三斎老人、例の
「
三郎兵衛が、身を乗り出すようにして迎えた。
頭をもたげた雪之丞、
――ま、うつくしい!
――何という、おとなしやかで、品のいい人なのだろう!
一座にいあわせる女たちのみか、浪路の供をして来て、控えの間につつしんでいた女中たちさえ、廊下までのぞきに来て、お互に手を
三斎の言葉と、杯とが皮切りで、一同から、讃歎が、雨のように雪之丞の上に降りかかって来る。
雪之丞、つつましやかにうつむいて、
「左様なお言葉をうけたまわるも、何と申し上げてよろしいやら――只、もう嬉し涙が、とめどもござりませぬ」
事実、彼のまつげには、熱い
一座の酒は、はずんでいた。三郎兵衛は、どんな太鼓持より気軽な、調子のいい態度で、出来るだけ、雪之丞を浪路に近づけようと、試みるのだった。
雪之丞が、浪路から差された盃を、ゆすいで返そうとするのを、わざと、その
「この頃、江戸の
なぞと、いったのは、何事も心の中を、口に出せぬ浪路の、胸のうちを、代っていってやったまでなのだ。
浪路は、嬉しさを
太鼓持は、芸者の歌三味線で、持芸を並べたてていた。雪之丞つつましやかに、江戸前の遊芸を眺めているふりをしていたが、その胸のうちは、まるで、烈風に
――たとい、懐剣は、お師匠さまのお手にお預けして来ても、この手刀が身についている限りは、ここに並んだ四人、五人、
そして、再び彼は、無理無理己れを抑える。
――いいえ、駄目だ。早まってはならぬ。今度の江戸下りは、お師匠さまや、一座のためには大事の場合。わたくしの恨みを晴らすために、ともかくも花形なぞと、数えられるこのわたしが、血なまぐさい事をしてのけたら、何も彼も、滅茶滅茶だ。
雪之丞は、やっとのことで、自制して、心を落ちつけて、居並ぶ仇敵たちの様子を探ろうとするのだった。
誰は、どんな癖があるか、どのような性格だか、それを知れば知る程、彼の目的は、安全に的確に達せられるであろう。
幇間の芸がすむと、三郎兵衛が、雪之丞にいいかけるのだった。
「太夫、そなたの舞台の芸は芸として、お歴々様に、日頃のたしなみを、何かお目にかけたらよかろうが――」
雪之丞は、とりわけ、この三郎兵衛から、ものをいいかけられると、憤りに全身が、こわばって来るのだった。しかし、彼は
「未熟者で、何も覚えて居りませぬが、折角のお言葉ゆえ――」
と、そう答えて、一人の芸者から、三味線を借りると、かすめた調子で、
つとめものうき
ひとすじならば
とくも消えなん
露の身の
日かげしのぶの
夜な夜なひとに
遇うをつとめの
いのちかや
紅い唇が、静かに動くのを、吸いつけられたように、浪路は、見つめて、手にしていた金扇を思わず、畳にとり落すのだった。ひとすじならば
とくも消えなん
露の身の
日かげしのぶの
夜な夜なひとに
遇うをつとめの
いのちかや

芸者たちは、雪之丞がうたいおわって、頭を下げ、三味線をさし
「加賀ぶしも、ああうたわれると胸を刺されるようだの」
と、通人の三斎がつぶやいた。
それは一座の気持を、代っていいあらわしたものといってもよかった。
雪之丞に対する人々の態度は、ますますいとおしみと、なつかしみに満たされて来た。あるものはひそかな恋ごころを、またあるものは尊敬の念をすら抱くのであった。
三郎兵衛は、ふと、浪路が、うつむいて、白い細い指先で、こめかみを押えるのを見ると、
「浪路さま、また、お
「いえ――少し
と答えるのを、
「それはいけませぬ。大方、芝居小屋から、この席と、つづいてやかましい所に御辛抱なされたので、御気持があしゅうなられたのでしょうゆえ、しばし、あちらで御休息なられては――」
と、云って、三郎兵衛の胸の寸法を、十分にのみ込めぬ浪路が、
「それ、女中ども、御息女さまをしずかなお部屋に御案内いたしてくれ。少し横にお成りあそばすとじきにおなおりであろうから――」
浪路は、みんなから強いられて、いつまでもいたい、雪之丞の前を立たねばならなかった。そして、連れてゆかれたのは、奥深い、丸窓を持った
女中たちは、供の小間使の一人だけを、枕元に残して、
そこへ、三郎兵衛が、顔を出して、
「実はな、あなたさまがおいでになると、これから御酒をすごそうとするわれわれに、ちと、遠慮がちになりますので――へ、へ、御休息を願ったような次第でござりますが、そのかわり只今、もうじき、よいお話相手を必ず連れてまいります。たのしみにおまち下さりますよう――」
――よい、話相手!
浪路は、いぶかしく、小くびをかしげて、そして、やがて、白梅の花びらのように、ふくらかな頬に、パアッと、
――では、長崎屋どのは、何もかも、わたくしの胸の中を知ってしまっていたのだ――雪之丞を、この席に招こうといい出したときから、もう知ってしまっていられたのだ。
毒々しい野心に燃えている三郎兵衛を、深く知らぬ、この美女は、ただ、はずかしさと感謝とに一ぱいになるばかりだ。
――でも、雪之丞は、ほんとうに、この場に来てくれるであろうか? まいったら、うれしいけれど――まあ、どんなことをいい出したらよろしいやら――
わくわくと、少女の胸はとどろき
彼女は、小間使に、朱塗りの鏡台をはこばせて、髪かたちを直させながら、躍る血潮をしずめようと、両手でそっと、乳房のあたりをおさえるのであった。
こちらは、雪之丞、あとからあとから降って来る杯の雨を、しずかにうけながら、心の中に仇敵の一人一人を観察しているのだったが、なるほど、どれを見ても、一ぱしすさまじい面がまえと、胆の太さを持った、なかなかたやすくは行かぬ人々だ。
三斎老人はやはり、芸道の話をしきりにしかけて来るが、その和らかい言葉がふくむ鋭い機鋒は驚くばかりで、浜川旧代官は、
こうした連中が心を合せて、正直、まっとうに暮して来ていた、父親を
――いそぐでないぞ! 心を引きしめて、わし自身が身に覚えた、長い長い間の苦悩をも、
そう考えて、奥歯を噛みしめたとき、ふと三斎の声が、彼の心を引いた。
「おお、そう申せば、門倉は――平馬は、どこへ行っているのじゃ――席に見えぬが――」
雪之丞は、さっき桟敷に見た、あの、憎悪に充ちた門倉平馬の顔が、ここに見当らぬのが不思議だったのだ。
「おお、なるほど、門倉――つい、さっきまでそこにおりましたが――」
と、横山が、末座に目を走らせる。
「あ、そこにおいでのお方さまは只今、少し酔いすぎたと申されまして、風に吹かれておいででございます」
と、女中が言った。
「ナニ、平馬が、酔うた――珍しいこともあるものだな?」
と、老人はいったが、急にあけっぱなしに笑って、
「いやそうでもあるまい――大方お客がお客ゆえ、わざと、この座をはずしたのであろう――胸の小さな男だな」
そう呟くと、雪之丞に、鋭い視線をちらと送って、
「のう、太夫、うけたまわれば、そなたは舞台の芸ばかりではないそうじゃの? ――と、いうことも漏れ聴いたが――」
雪之丞は、さては平馬が、すでに何か耳に入れたな――と、悟ったが、さあらぬ体で、
「と、おおせられますと?」
と、ほほえましく、
「舞台の芸さえ未熟もの――その外に何の道を、習い覚えるひまとて、あるはずがござりませぬ」
「いやいや、そなた、武士の表芸にも、練達のものと聴いた。三斎、実は、ひそかに感心いたしおったのだ」
老人がそういうと、座中の人々の間では、一そう感歎の囁きがかわされる。
「脇田門では、一、二を争うものとうけたまわった。いずれ日を期して、その方面の技も見せて貰いたいな。それにしても、門倉を呼べ、あれによういうて、何かわけありげな太夫と
と、三斎は、あたりにいった。
女中たちが、二人ばかりで、平馬を探しに出かけたが、間もなくいくらかこめかみのあたりを青くした剣客が、広間にはいって来て、末座に手を突いて、
「中座をいたし、はなはだ失礼つかまつりました。ちといただき過ぎたよう存じまして――」
「よい、よい」
と、三斎は、明るくうなずいて、
「ちと、そちに訊ねたいことがあってな、わざと呼びにつかわしたが――」
と、いって、雪之丞に目をうつして、
「雪之丞、そなた、これなる者を見覚えているであろうな?」
雪之丞の、美しく優しい瞳が、まともに門倉平馬の上にそそがれた。と、彼のいくらか酔いを帯びて、まるで桜の花びらのように思える面上に、さもなつかしげに笑みが漲った。
「ま、これは、門倉さま、思いがけないところで、お目通りいたしますな」
と、しずかに
平馬は、苦が苦がしさを、あらわにして、
「これは、雪之丞、舞台を見たが、なるほど、男ながらに、女そのまま――
そういう言葉には、ありありと、役者を身分ちがいと見、女がたを片輪ものとさげすむ
しかし、雪之丞は、別にいかりの気色も見せぬ。ほがらかに笑って、
「あなたほどのお方から、女そのままとの
あっさり受けるその
「平馬、その方、ふだんからどうも気性が固苦しゅうていかん――もっとも、武芸者は、そうあるべきだが、雪之丞とも、年来の
隠居は、雪之丞を、闇討ちに掛ようとしたほどの、心肝に徹する平馬の
「お言葉でござりますが、年来のなじみと申しましても、拙者と雪之丞とは、道がことなりますので、さまで親しゅうもいたしてはおりませなんだ」
「これさ、そう申すのが、その方のいつもの
平馬は、よんどころなげに、杯を干す。芸者が、雪之丞に取りついで、
「あちらさまから――」
「
うけて、清めて返したが、それで、ひとまず、一座の話頭は、別の方角へ
やっと、みんなの注目からのがれることが出来た雪之丞、座を立って、手洗場の方へゆこうとすると、あとから、呼びかけたものがあって、
「太夫」
ふりかえると、昔の松浦屋の手代、今は一ばん恨みの深い長崎屋三郎兵衛だ。
「御用でござりますか?」
胸をさすって、小腰をかがめると、
「折り入って、話があるのだが――」
と、あたりを見まわすようにして、
「御隠居の御息女が、あちらで、酔をさましていらっしゃる。話相手に行って見てはくれまいか?」
三郎兵衛から、息女浪路が、別間で休息しているゆえ、話相手にその部屋を訪れてはくれまいかと、突然、思いがけないことを聞かされた雪之丞。その刹那、かあーと、全身の血が逆流するのを覚えるのだった。
――さては、ひとを河原者、
と、顔色さえ変えて、すぐに、はげしい言葉を
――いや、いや、ここが
と、自分を叱ったものの、しかし、三郎兵衛の求めには、どうしても、応じられない気がした。
彼は、顔に、
「それは、有がたいお言葉ではござりますが、わたくしは、
三郎兵衛は、うなずいて、
「なる程、そなたの申し分には、道理がある。そこまで、身を
と、さもさも感に堪えたように、いって見せて、一段と声を低くし、
「だが、のう、雪之丞殿。それは十分、理屈だが、ものにはすべて、裏がある。相手が
雪之丞は、三郎兵衛が、例の
――なる程、ものは考えようじゃ。相手が土部三斎の娘の、浪路であればこそ、
雪之丞は、自分に、そういい聞かせて、じっと、思案に暮れる様子を作って、
「
と低く、低く、腰をかがめるのだった。
雪之丞が、手の裏を返すように、折れて出たのを見ると、三郎兵衛は、ニヤリと猫族に似た白い歯を現して、
「そうじゃ、そうじゃ、そのように物わかりがよう無うては、芸人はなかなか出世がなりませぬ。いかに名人上手というても、やはり
と、べらべらと、しゃべり立てたが、
「そういう中にも、何か邪魔がはいるとならぬ。さあ、こう来なさい。御息女のお小やすみの部屋に、わしが案内をして取らせましょう」
江戸で、物産問屋としては、兎に角、指を折られるまでに、立身をしている身で、自分から
けれども、どこまでも頭を下げて、
「何もかも、あなたさまの御恩でござりまする――わたくし
「よいとも、よいとも、この三郎兵衛が、呑み込んだ上は、大丈夫。まあ、何事もまかせて置きなされ」
一歩、一歩、拭き込んだ廊下を、まるで汚物でも撒かれている道を歩かせられるような、いとわしい、やり切れない気持で、雪之丞は、奥まった茶室風の小部屋の方に導かれて行くのだった。
三郎兵衛は、しいんとした小部屋の前まで来ると、軽い咳ばらいをして、
「御息女さまに、三郎兵衛、まいった由、申し上げて下され」
と、礼儀だけに言って、かまわず、雪之丞の手を引くようにして、小間使のあとからはいって行った。
休息用の、ふさ飾りのついた朱塗り
「ま!」
彼女の、紅い唇から、
三郎兵衛は、さも、内輪な、したしげな調子で、親密なまなざしを送りつつ、
「浪路さま、雪之丞が、おつれづれを、おなぐさめいたしたいと申しましてまかり出ました。上方のめずらしいお話もござりましょう。お相手おおせつけ下されまし。さ、雪之丞どの、まそっと、お進みなさるがいい」
雪之丞が目をあげると、その瞳は、熱い、燃えるような視線を感じるのだった。
愛の、
そして、それは、浪路の魂と肉との
浪路は、片手を
三郎兵衛は、二人の目が、ピタリと合ったまま、うごかぬのを見ると、チラリと冷たい笑みを見せて、
「では、わしは
そう、いい捨てると、そのまま姿を消してしまった。
浪路の、白い咽喉から、いくらかかすれたような声が、はじめて洩れる。
「さ、これに、進みや」
雪之丞は、しおらしげに膝をすすめた。
「いそがしいところを、
浪路は、相手に遠慮を忘れさせようとするだけの、心の余裕を持つことが出来はじめた。
彼女は、かねがね、大奥の、口さがない女たちが、宿下りの折々に、
――何も、こわがることも、うじうじすることもない、だれもがすることだ。この男だとて多分、多くの女たちの、もてあそびものになって来た身であろう――
自分をはげますように、そんな風に思って見たが、すると、又、激しい愛慾の悩みが、白くむっちりと
――でも、わたしには、辛抱出来ない。一度、この人をわが物にすることが出来たら、他人の手には渡せない――
彼女は、雪之丞が、あまりにつつましすぎるのを、
「その上に、又、わたしのようなものの、つれづれの
「いいえ、御息女さま」
雪之丞の、澄んだ、しかし、ねばっこさのある声が
「何でそのようなことが、ござりましょう。わたくしのようなものが、貴いお身ちかく出ますのが、あまりに
「まあ! 何ということを!」
浪路は、
「そなたは、どこまでも、他人行儀にして、わたしを近づけまいとするそうな」
そのとき、しずかに、小間使が、
浪路は、まだ遠い二人の仲を近よせる、いい仲立を得て、
「もういつか、秋も深うなって、夜寒が、沁みる――さ、酌をしますほどに、ゆるりとすごすがようござります」
と、ほっそりした手に、杯を取って、雪之丞にすすめる。雪之丞は、
「いえ、わたくしが、お酌をさせていただきまする」
と、いなむのを、
「ま! いつまで、そんな堅苦しい――」
そして、二人の杯は美酒に充たされた。
雪之丞は、出来るだけすなおに、浪路と、さかずきを、さしつ押えつするのであった。
しかし、彼に取っては、いかなる美酒の香味も、まるで鉛の熱湯を呑みおろすような気持をあたえるに相違なかった。
――辛抱だ――これが、男の辛抱だ!
と、彼は魂に叫ぶ。
――この人の
この人が、お
――それが、一ばんいたい心の手傷となるわけじゃ。どこまでも、美しい胸の奥をとろかさねばならぬ――
「ほんに、何という
と、彼は、片手を
「やんごとないお方さまの、お身ちかく、この世でならびない、御栄華にお生きなされているあなたさまのお側で、たとえ、たったしばしの間でも、こうして御贔屓をおうけいたせるなぞとは、上方をはなれますとき、思いも及ばぬことでござりました」
「何をいやるぞ――そなたは?」
と、浪路は、
「わたしが、上さまのお側にはべる身ゆえ、それが仕合せでもあるように、そなたは思うていやるそうな――」
「それが、仕合せでのうて何が仕合せでござりましょう? この日ッ本国中の、女性という女性、それをうらやまぬものが、あろうはずがござりませぬ」
雪之丞はべったりと、居くずれるようにして、横がおを見せるのだった。
浪路は、この

「もうそのようなこと、いわずに置いてたも。さも、わたしが、好んで大奥にあがったものでもあるように――」
雪之丞は、それが耳にはいらぬもののように、ホーッと、深い吐息をして、
「わたくし、おいとまをいただきとうござりますが――」
急に、サッと、浪路の顔いろがかわって、
「なぜ――にわかに、そのような!」
「でも、考えて見ますと、あまりに空おそろしく――」
「何が、おそろしいと、いやるのか――事ごとに、わたしのこころに、針を刺さいでも――」
浪路は、べったりと、雪之丞の方へもたれかかるようにして、
「そなたには、わたしのこのこころが、わからぬと見えますな――舞台の上では、あのようにやさしく、しおらしゅうお見えであるのに、あんまりおもいやりが無さすぎます」
「御息女さま」
と、雪之丞は、かたちをあらためて、膝を正して、
「あなたさまは、わたしを、おなぶりあそばすのでござりますか? いやしい稼業はいたしておりましても、男のはしくれ、あまりのおたわむれは、罪ぶこうござりましょうに――」
「わたしが、そなたをなぶるといやるかえ?」
重ねた杯に、ぽうと染ったまなじりに、限りない媚びを見せて浪路は、一そう若きわざおぎにもたれかかるようにするのだった。
雪之丞は、だんだんに酔い染って来るような、浪路を眺めていると、胸苦しさが
――この人は、たしかにもう、わしの手の中に落ちてしまった。この人はわしからはなれることは出来ぬ。
そう思うと、
「御息女さまに、こうしてたった一夜でもお目にかかって、このまま一生、お召しもうけなかったら、わたくしは一たいどうしたらよろしいのでござりましょう」
「何といやる――このまま、もうあわずなる――そのようなことがありましたら、このわたしこそ、とても生きてはおられませぬ。そのようなこと、いいだして下さるな」
少女の、熱い熱い吐息は、みじんいつわりをまじえていない。
すると、彼も
――かあいそうに、この人は、何も知らないのだ。この人には、罪も恨みもあるはずがないのだ。それなのに、わしは、ひたすら、いつわりで心をとろかそうとばかりしている――空おそろしいわざではあるまいか――
胸の奥底を、その瞬間、いうにいえぬ痛みが突き刺す。
――あわれな、罪深いわざは
「わたしは、
と、浪路は訴えた。
「もうじき、こよい、お別れせねばならぬと思うと――」
雪之丞は、
――わしには、これ以上のことは言われぬ――この人は、ほんとうにわしのことを思いつめておいでなのだ。こんなに、こんなに、手先がふるえていられる。
けれども、やがて、彼の激しい熱情がよみがえった。
――いいえ。わしは、こんな気弱いことでどうするのだろう! この人は三斎の娘なのだ! 三斎の分身なのだ。この人を苦しめるのは、憎い三斎を苦しめることなのだ。わしはどこまでも、土部一家に
雪之丞は、父親の、あの悲しみと
彼は、カーッと、全身が地獄の炎で焼き焦されるような気がした。父親の、まぼろしの顔が物すさまじく
彼は、
――不孝者め! 心弱い、
相手が
――そうじゃ、わしは
そう、胸の中に、おのれを叱って、
「御息女さま、それならば、これからのわたくしは、いつもいつも、あなたさまが、見守ってくだされているつもりで暮しまする。舞台に立つときも、ほかのお客さまに見せようとも思わずただもう毎日あなたさまが、あの桟敷においでなされると考えて、懸命につとめまする」
「ほんに、何というやさしいことを――」
と、浪路は、ゆめましげに、
「わたしも、御殿にいるうちも、いつもそなたが忘られるはずはありませぬ――上さまお側にはべるときとて、
「この雪之丞、上方にても、ただたださまざまなまどわしに逢いかけましたこともござりますが、ただ一すじに芸道第一、ほかのことには心をひかれずくらしてまいりました。しかし、今日からはさぞや変った心となりましょう――恋とやらはせぬがましときいてはおりましたが、たやすくお目にかかれぬ、とうといお身の上のお方さまをお慕いまいらせては、いのちさえ細るに相違ござりませぬ」
浪路も、ホーッと熱い息をして、雪之丞の女にもまごう手先をじっと引きしめると、
「こよい、一夜でも、ゆるりと話が出来たらばのう――」
二人は、目と目を見合せて、しばし言葉もなかった。
すると、そのとき、廊下の方で、軽い足音がして、例の三郎兵衛のしわぶきの音――
のこり惜しげに、若い二人の手がはなれる。
三郎兵衛がさも
「浪路さま、御気分がなおりましたら、御かえりの時刻も迫りましたゆえ、お支度をとの、お父上さまからのお言葉でござります」
「あい。すぐに支度をいたしましょう」
と、つややかな、
三郎兵衛は、雪之丞に、
「御隠居さま、仰せには、折角、なじみになったそなた、このまま別れるのも心のこりがするゆえ、お屋敷まで、見送ってはくれまいか――とのお話、――明日、楽屋入りも早いこと、迷惑ではあろうが、どうであろう、御一緒に帰ってほしいと思うが――」
浪路の、しおれた風情に、サーッと活気がよみがえる。
雪之丞は、元より渡りに船――一度は、三斎住居の模様をも、十分に見きわめて置き度いのだ。
「お言葉までもござりませぬ。お門までは是非お送りさせていただきまする」
「門までといわず、ゆるりとお邪魔いたして、かさねて上方の話でも申上げるがよい。御隠居さま、そなたが、大そう気に入られたようじゃ」
浪路の挙動は、急に生き生きしくなるのだった。
冷え冷えと、胸の底に沁み入るような、晩秋の夜風が、しゅうしゅうと吹き抜いている、夜更けの町を、吉原
道のちまたの
二もと柳
風にふかれて
どちらへなびこ
思うとのごの
かたへなびこぞ
なぞと、二もと柳
風にふかれて
どちらへなびこ
思うとのごの
かたへなびこぞ
江戸中の、目明し、岡ッ引き、この男一人を捕るために、夜に日を次いで
闇太郎、弥蔵を解いて、片手で、癖の顎の逆撫でをやりながら、ブツブツと、口に出してつぶやきはじめた。
――どうしても、今夜は、もう一度、ゆっくり、あの屋敷をたずねてやらなけりゃあ、ならねえんだ。人をつけ、泥棒こそはしていても、天下にきこえた闇太郎さまさ、まるで
と、急ぐでもなく歩いていたが、ふと、行く手に、黒い塀をめぐらした角屋敷を見つけると、
――おッ! そういううちに、とうとうやって来てしまやがった。どれ、まず表から、ぐるりと拝見に及ぶかな。
さしかかった表門前――それが、こんな夜更けだというのに、半開きになっているのを見て平気で通りすぎながらも、小首をかしげて、
――こいつは、妙だぞ。なるほど、三斎も変りものだな。もうおッつけ
通り越して、鼻先で、へんと、笑って、
――だが、お客で、家の中が、ざわめいているなんざあ、闇太郎さんに、わざわざ仕事を楽にさせてやろうというものだ――まっていろ、今、目のくり玉の飛び出るような目に合せてやるから――
闇太郎、塀について、屋敷横にぐるりと廻って出ながら、
――こう見えて、このおれが、一度足を踏み込んだ以上は、屋敷ん中の隅から隅まで、蔵の中、小屋の蔭、すっかり瞳に映して来ているんだ。門倉平馬も、恩人とやらの三斎さんのところへ、とんだ客を連れ込んだものさ。ふ、ふ、ふ。あの宝ぐらの中にゃあ、
闇太郎、盗んだ宝は、一物のこさず、片っぱしから、恵んだり、使ったりしてしまう
今夜、その
屋敷の横手から、裏にまわった闇太郎、まん中ごろに立ち止って前後を見とおし、ちょいと耳を傾けるようにしたと思うと、
――案の定、家の中が、みんなお客に気を取られていやあがる。よっぽどの珍客らしいが、どれ、ひとつのぞいてやろうか――
と、独りごとをいうなり、ぴたりと、土塀に貼りついて、指先をどこかに掛けたが、いつかからだは、塀内に、ついと、飛び下りている。
塀下に、つつじのこんもりした
その軒下づたいに、たちまち
耳を澄まして、家内の容子をうかがったが――
――はてな――
と、闇太郎、いぶかしそうに、
――はて、こいつあ、いよいよ以って面白いぞ。なるほど、こないだ、猿若町を見物するとかいっていたが、今夜、あの雪之丞が、ここに来ているとは、思いもかけなかった。一芸一能の人間に逢って見るのが楽しみだと、
闇太郎は、いつか、盗み本来の目的を忘れてしまったように、中から洩れて来る話しごえにばかり耳を傾けはじめた。
――あの男が、いつぞや平馬の奴に、暗討ちの迎え打ち、タッと斬りつけられたとき、ひらりかわして、短刀であべこべに、相手の二の腕を突いて退けたあの
と、腕を組んでいるところへ、だしぬけに、う、う、うーと、低く唸りながら、怪しい奴――と、いうように近づいて来た一頭の大犬――それと見ると、闇太郎、
「黒、
闇太郎は足許にまつわってくる黒犬を、片手で頭をなでてやりながら、おなじ軒下にじっとたたずんだまま、なおも家内からもれてくるかすかな気配に耳をかたむけつづける。
――それにしても、あの雪之丞もこんな屋敷に引っぱりだされてくるようじゃ、やっぱり高のしれた芸人根性の奴だったのかな。この三斎屋敷に出はいりをするような奴は、きまって、あの隠居の、
なぞと、例の調子で、心の中につぶやいていたが、
――おッ、何かざわざわしだしたぜ。ふ※[#小書き片仮名ン、158-11]、雪之丞が、いよいよ暇乞いをしているな。ところでおれはこれからどうしたものか、折角もぐりこんできたこの三斎屋敷、小判の匂いがそこら中にプンプンして、どうにもこうにも
と、闇太郎は、黒犬の頭をもう一撫でしたが、やっと決心がついたように、
――やっぱりおれは、雪之丞のあとを付け、しおを見て話しかけてやろう。それにしても、
闇太郎は、書院づくりの客座敷の軒下を、ついとはなれると、またしても、例の
おりた瞬間からこの男、どこぞ遊び場のかえりでもあるような、
門前にさしかかると、
なかなか結構な仕立ての駕籠の、土部家の客用乗物に相違ないが、
闇太郎は門中をちらりと覗いてすぎる。供待ちにはまだ三、四挺の駕籠が残っている。
――あの駕籠に乗っているのは、てっきり雪之丞だ。そら、この辺にすばらしく好い匂いがプンプン残っているじゃあねえか。
と、鼻をひょこつかせるようにしながら、この
駕籠は、早めもせずゆるめもせず、ころ合な速度で、松枝町から
――さあそろそろ一声かけてやろうかな。
雪之丞を乗せた駕籠と、それをつける闇太郎とは、しゅうしゅうたる晩秋の夜更けの風が吹きわたっている夜道を、いつか駒形河岸にまで来ているのだった。
闇太郎は、だしぬけに小刻みな早足になって、駕籠のそばまで駆けつけて、わざと息をきりながら、かぶった手拭をとって小腰をかがめ、
「お陸尺、お前さんたちの足の早さにゃびっくりしましたぜ」
だしぬけにいいかけられて、陸尺の足が一度とまる。後棒が変な奴だというように、眉をひそめて、
「おめえは一体なんだ。何用だ」
闇太郎は、にこりと笑って見せたが、この男の笑顔には、一種独特な、どんな人間でもひきつけずにはおかない朗かさがあった。
「およびとめもうして済みませんが、実はあっしはこの駕籠の中の太夫さんに逢いたくって、松枝町のお邸の前から
「おめえさんは、太夫さんの御存じのお人か」
と、先棒がふりかえってじろりと見る。
「そりゃあもう、よく御承知の男ですよ。ねえ太夫さん、あっしだが――」
今日の初日の幕が明いてから、次々と我身の上におこっていった、思いがけない
――おお、この声は、たしかに二、三度聞き覚えのある声じゃ。
と、考えてみて、
――たしかにこないだ、所も恰度この界隈で、悪浪人にいいがかりをつけられた時、割ってはいってくれたお人の声がこれだ。それからその晩、脇田先生の道場を出て、平馬どのに斬りかけられたあと、供をなくして困っていたとき、駕籠を呼んでくれたお声がこれだ、してみれば、呼びとめたお方は、あの闇太郎とやらいう、江戸名代の泥棒さん――
と、思いあたると、彼の胸は不思議ななつかしさにとどろいて、白い手が駕籠の引戸にかかる。
白く匂う花のような顔が、窓から出て、
「おや、あなたは、いつぞやの――」
「へい、あっしでございますよ。是非に今夜、お前さんとお話ししたいことがあって、ここまであとをしたってきましたが、迷惑でしょうがほんのちょっとの間、そこまでお付合いが願えませんか」
雪之丞はためらわなかった。相手が泥棒にしろ、やくざにしろ、二度まで恩をうけた上、どういうわけか、その後ずっと心から離れぬ面影だ。それに彼の渡世がら大泥棒につきあっておくのも、いつかは
「わたくしもお目にかかりたく思っておりました。何処なりと、お供いたしましょうが――」
「あっしの
闇太郎はそういいながら、雪之丞の顔に――例の愛想笑いをあびせかけて、
「あっしは、なにしろ変人なもんだから、町家住居が大きれえで、田圃の中の一つ家におさまっていますのさ。太夫さんのような花やかな渡世をしていなさるお方にゃけえってめずらしいかもしれません。来てくださりゃあ、このあっしの、一世一代の
雪之丞は、にこりと笑いをかえして、
「わたくしもどちらかというと、稼業ににあわず静かが好みでございます、早速おともいたしましょう」
そういって、ふっと、闇太郎の顔を見詰めたが、
――このお人は泥棒だといえば居どころを他人にしられるのは都合がわるかろう。このさびしい秋の夜更けを、江戸一番の大盗賊と、たった二人で歩いてみるのも一興じゃ。
と心でいって、
「お
「それでも、それじゃあ殿様から、たしかに宿までお送りもうせと、いいつけられた役目がすみません」
と、先棒がかぶりを振ったが、
「いいえ、御前様の方へは、宿まで送り届けたといっておいてくだされば、それで済んでしまいます。ほんの
小さく包んだものを、早くも大きな掌に握らせてしまった。
「後棒、それじゃ太夫さんのお言葉にしたがったほうが――」
「その方が気持がいいとおっしゃるなら――」
一人が揃えた
「じゃあ、気をつけてお
「御苦労さん」
そこで駕籠にわかれて、二人連れになった雪之丞、闇太郎。河岸通りを北へ千束池へほど近い、田圃つづきの方角さして、急ぐでもなく歩きはじめた。
闇太郎はさびしい田圃道に出ると、
「太夫さん、寒かありませんか? この辺も、夏場は蛙がたくさん鳴いて、なかなか風情があるのだが、これからさきは、空っ風の吹き通しで、あまりほめた場所じゃあなくなりますよ」
「いいえ、わたしは先刻も申した通り、賑やかな渡世をしていながら、どうもさびしい性分、ことさら御当地にまいってからは、ただもう御繁昌をながめるだけで、上ずって心がおちつかず困っておりましたところ、このような場所こそ、一番保養になる気がいたします」
「そういってくださりゃあ、あっしも鼻が高けえというものさ。そら、あすこにこんもりした森があって、そばに小家が二、三軒あるでしょう、あの右のはずれが、あっしの御殿でさあ」
闇太郎は、ひどく上機嫌で、こんなことをいいながら、雪之丞に足許を気をつけさせながら、くだんの一ツ家の方へと、導いてゆくのだった。
いよいよ小家にたどりつく。
「女房ども、只今もどったぞ――と、いうなあ、実は嘘で、猫ッ子一
そんな
建付けのわるい戸を、がたびし開けると、振りかえって、
「いま灯りをつけるから、ちょっと待っておくんなせえ」
と、いった闇太郎、
「さあ、どうぞ、おはいり」
雪之丞は長旅にゆきくれた旅人が、野っ原の一ツ家にでもはいってゆく時のような気持で、
「ごめんくださりませ」
と
家は三
闇太郎は
「ごらんの通り、さっ風景な住居なんで、おかまいは出来ませんが、そのかわりどんな内緒ごとを大声でしゃべっても、聞く耳もねえ。あっしはこれでも
闇太郎は面白そうに微笑して、
行灯の灯がさし入る小部屋には、なるほど厚い木地の仕事机、いちいち
「あなたは、なんでもお出来になる方と見えますな」
雪之丞がそういうと、闇太郎はいくらか、きらりとしたような瞳を、一瞬間相手になげて笑いだした。
「こいつあいけねえ、実は、お前さんはまだあっしの身の上を、なんにも御存じねえと踏んで今夜こそ打ちあけ
彼は、別に声をおとしもせず、
「それじゃあ、お前さんは、あっしが闇太郎とかいうあだ名をもった、泥棒だっていうことをしりながら、平気でわざわざついてお
「この間、御蔵前というところでお目にかかったとき、お別れしたあとで、ついした事からそのお名前を、他人から伺いましたので――」
闇太郎は頭を掻いてみせて、
「隠すより現れるはなしっていうが、その
そんな
雪之丞は、苦い、香ばしい茶を、頂いて
闇太郎は、雪之丞が心おきなく、目の前に坐っているのを見るのが、嬉しくてたまらぬというように見えた。
「それにしても、お前さんが、あっしの身許をしりながら、家まで来てくれた気持は、この闇太郎一生の間わすれられねえだろう」
と、人なつッこい眼付きでいうのだった。
雪之丞はさり気なげに、
「たといあなたが、どのような御商売をなさってお出でなさろうと、あなたとわたくしの間は、そういう方にかかわりなく、御縁があったのですから――あなたは最初から、わたくしに、御親切でござりました」
「なあに、あの並木の通りで、つがもねえ素浪人が、お前さんに
と、闇太郎は、これまでにない
「これはあとから、ある人の口から、はっきり聞いた話なのだが、やっぱし、あっしの眼に狂いはなく、脇田先生の道場で、免許皆伝だというじゃあねえか。いまじゃ、三都で名高けえ、女形のお前さんが免許とりだと聞いちゃあ、誰だって驚かずにはいられめえ。お前さんも不思議な道楽をもっていなさるね」
「皆伝などとはめっそうな」
と、雪之丞は白い手を振るようにして見せたが、
「一体、わたしの身について、どなたがそのようなことを、もうされておりました」
雪之丞は、我身についた武芸について、世間に評判が立つのは好ましくなかった。門倉平馬の
「どなたからお聞き及びかはしりませぬが、どうぞそのようなことは、お胸におさめておいてくださるよう、
と、重ねていうと、闇太郎は、にこりともせず
「だがなあ、雪之丞さん。おれの眼には、お前という人は、舞台の芸も、世の中の人気も、あんまり用のねえ人間のように思われてならねえんだよ」
と、これまでとは違って、ざっくばらんな敬称ぬきの言葉でいいかけるのだった。
「どうしてでしょう。親方」
と、雪之丞も親しげに、
「わたしは
「どうにもおれには
闇太郎は長火鉢のふちに、両手をかけるように、強い眼で、
闇太郎から、自分の体に殺気が感じられると、だしぬけに言われた雪之丞、眼を
「それははじめてうかがいます。かえって師匠などからは、いかに女形だというて、平常はもっと、てきぱきしなければならぬ。そなたは
闇太郎は、大きくかぶりを振るようにした。
「誰がなんといおうと、おれの目にゃあ、ちゃんと感じられるのだ。実は今日も、中村座へ、おまえの芸を見たさに、そっと覗きにいったが、他人の眼にはいざしらず、舞台の上でさえ、おまえは剣気をはなれられぬ。
雪之丞は、まじまじと、
「まあ、お前さまは、渡世のほかに、人相も御覧になるのかえ」
「はぐらかしちゃあいけねえ。おれは真剣にいっているのだ」
と、闇太郎はどこまでも、逃さぬ顔色で、
「もしやおまえが、天下を狙う、
「わたしが大伴の黒主ですって?」
と、美しい女形は微笑して、
「そういう役は、わたしとはまるで縁がない筈ですよ。それにしても、わたしの舞台に、そんな
闇太郎は、雪之丞を
「は、は、は。なるほど、こいつあおれが出過ぎていた。実はな、雪之丞さん、おれは、たださえ気短な江戸生れ、そこへ、もってきて、こんな境涯になってからは、
闇太郎の言葉は、妙に理につんで、その面上には、いつも見られぬ寂しさが、薄暗くさまよっているのだった。
雪之丞は、気の毒そうに、
「ゆるせの、
「また、しくじった。詰らねえことを――どうも愚痴っぽくなっていけねえ」
闇太郎は、両手で頭を抱えるように、苦く笑った。
「お前さまは、わたしのことを、かれこれ言ってくださいますが、わたしの方でも、いつか、わたしの難儀を救ってくだされたときの御様子で、たしかに、由緒のあるお方と見てとってはおりました」
と、雪之丞は一歩を進めた。
「矢っぱり、このおれも、いくら素性を隠そうとしていても、あらそわれねえものがあるのかな」
と、闇太郎は両手で、顔をつるりと撫でるようにして、
「おれが、おまえの身の上を、根ほり葉掘り聞くのは、なる程、無理かもしれねえが、おれの方は、もうとっくに、大泥棒と知られてしまっているのだ。今更、何をかくしだてしても仕方があるめえ。不思議な縁で、こうやって、田圃の中の一ツ家で、秋の夜長を語りかわす仲にもなったのだ。下手な作者のくさ草子を読むつもりで、じゃあ、面白くもねえ昔話をきいて
闇太郎は冷えた茶で
「つい、いま、口がすべったように、おれの家は、これでも代々
雪之丞は天井を見詰めながら、そこまで話してきた闇太郎の表情に、暗い憤怒が、ひとしきり
闇太郎はちょいと黙って、唇をかむようにしたが、
「いまいう通り父親の奴は、
闇太郎は、これまで誰にも口外したことのなかった身の上ばなしを、話しだしてはみたものの、矢張り持って生れた気質で、自分のこととなると、
――こんな泣ごとをならべたって、今更どうなるんだ、ばかばかしいじゃあねえか。
というような自嘲に、言葉がとぎれそうになるのだったが、雪之丞が熱心に聞入っている姿にはげまされて、
「なあに、いつの世にだって、ざらにある話なんだ。長いものは短いものを巻くし、強い奴は弱い奴を喰う――今更、ありきたりのことなのだが、そのころ、おれはまだ十七にしかなっていなかった。どうも、このごろ父親の様子が、変だ変だと思っているうち、
闇太郎はそこまで話してきて、火鉢の火を見詰めるように、うつむいている雪之丞を見て、
「どうも、あんまり結構な話でもねえ。面白くねえだろうから止めにして、台所には
「どうぞ、お差支えがなかったなら、もうすこし話してくださいまし。わたしも、身につまされることもあるのですから」
と、雪之丞が顔をあげて、いくらか
晩秋の真夜中の風が、田圃を吹きわたして、
「そうか、じゃあ、もう少し聞いてもらおうか」
と、若き盗賊は、ふたたび話をつづけた。
闇太郎が、それから例の鉄火な口調に、しんみりした
彼は、父衣笠貞之進の上役、佐伯五平を暗打ちにかけようとして、
闇太郎の
彼は、出来るだけ権力から、武門から、今まで彼が、もっとも尊敬せねばならぬとしていたものから、離れようとした。憎もうとした。
そこで当然、落込んでいったのは、
「若旦那、お前さんが、町人に生れりゃあ――町人も、せめて、人入れ稼業か、賭博打ちの伜に生れりゃあ、てえしたものなんだが――貧乏じみた御家人の、左様しからば家の跡取りじゃ一生お気の毒というもんだ。かっぷくといい面つきといい、気合から、腕前、ひとの上にたてる人なんだが――お前さんも何かのきっかけがあったら、あんな渡世はお見切りなさいよ。扶持切り米でしばられていたんじゃあ、この世の中はわかりませんぜ。一番汚ねえところばかり一生覗いて過すのが、――お前さんの身上が、そうだという訳じゃあねえが、――三人扶持一両手当の、
そんな事を、弁公は、憎まれ口のようでいて、そのくせ心から、市井生活を
生家を飛出した貞太郎、いきどころがないので、弁公をたずねると、相手は額を叩いて、飛上ってよろこんだ。
「そうだ、そうこなくっちゃあいけねえ、なるほどなあ、親父さまも、とうとう腹を切んなすったかい。あの人は、そんな人だったよ。お前さんは、好い時に見切りをつけなすった。これから、おれが、弟分にして、この江戸中を、ぐんぐんと引廻してやるから、勝手
そして
賭博も、女買いも、酒も――世の中で、これほど訳なく進歩してゆく、修業の道はすくなかった。半年もたたぬうちに、いかさま
「そんなこんなで、十九の声をきくころにゃ、内藤新宿の宿場じゃ、めっきり、これで顔が売れてきたものだったのさ」
だが、闇太郎は、売れっ
気早やで、ひょうきんで、兎角、やり損いの多い弁公と彼との、大江戸の日影から日影を、さ迷い歩くような、流浪生活は、それからはじまった。
「おれ達は、随分、ありとあらゆる世間を、経めぐったものさ。おれは、武家が嫌いだから、渡り
闇太郎の口元には、苦いくるしい思い出を、まぎらそうとするような笑いが浮かんだ。
「その越ガ谷で、見世物師同士がぶっつかって、思いがけなく飛んだ
闇太郎は、もう笑わなかった。彼は、じーっと、空を見つめるようにしたまま、腕を組んだ。
闇太郎は思い深げに、話しつづけた。
「渡る世間に鬼はなし――なぞというが、といって、仏の顔も三度というからね。世間だって、そうそういつまでも、おれ達をかまってくれるはずがねえ――前かた
闇太郎の顔に、苦笑がうかんだ。
「あの頃の、おれのように、捨て身になり切っていても、人間って奴あ、やっぱり人間らしい気持がのこっているものでネ。生みの親、親身の兄弟なんてものに、どこかこころが引ッかかっていると見える――おれは、弁公を、
雁が、北の方へ、浅草田圃の、闇の夜ぞらを、荒々しく鳴いてすぎた。
主人も客も、その声のひびきが、遠ざかってゆくまで、黙り合っていた。
若い盗賊はしんみり聴き入っている
「
と言って、立ち上って、押入れから、南部柄の丹前を取り出すと、ふうわりと、
「さて、久しぶり江戸入りをしたおれは、さすが、日の高いうちには、うちの近所へは近よれなかったので、日ぐれまぐれを
そこまで話して来て、闇太郎の目は、異様にふすぼり、語調はためらい、
「そのとき、おれの耳を打ったひそひそばなしというのが、何だったと思うね? つい裏の、小さく並んでいる組屋敷の勝手口の方で、
いかにも、雪之丞にも、それはよく呑み込めるのだった。一度、家も世も捨てて、
雪之丞は、涙があふれかけて来た。
「わかります、わかります――まあ、そのときの気持は、どんなでござりましたろうね? して、それからどうなされまして?」
闇太郎は、突然、きょとんとした目つきになって、雪之丞をみつめた。
「それから? それから――その晩から、おれは泥棒になろうと決心したのさ。どうにも、友だちのいのちにゃ代えられねえと思ったのでね――」
彼は、平然として言って
「おれは内藤新宿に長くうろついていたので、その
闇太郎は、また、耳を傾けるようにした。ふたたび雁が、過ぎていたが、その淋しく荒々しい声の中に、わが魂の悲泣を聴き分けていでもするかのように――
雪之丞は、これ以上、この新しい友だちの秘密に触れたがる必要はなかった。
「でも、その弁さんとやらは、仕合せな人でござりましたな。お前さんのような、お友だちを持って――」
「おれも、弁公のような奴と、この世で知り合えたのは、一生の思いでさ。いい奴だったよ。こんなおれのような人間を、あいつだけは、人間つき合いしてくれたんだ――生きていると、お前にもひきあわせてえ奴だった。一度、ほんとうにつき合ったが最後、いのちがけだったぜ――」
大賊のひとみが、無限のなつかしみで、うるんで来るのだった。
雪之丞は、この人物に、ますます
「面白いもんだね、俺がこんな泥棒渡世になったのも、いってみれば、あの時、お長屋の女房が、俺のことを、こそ泥と間違えて、あんなことをいやあがったからだともいえるんだ。その後の俺は、ずうっと、その商売をやりとおして来た。一度その道にはいってみると、他人にはわからねえ好さも、嬉しさもあるものなんだよ、有りあまる所に有るものを、だまってとってきて、足りながっている所へ、配ってやる――
闇太郎は、又もいつもの、呑ん気な調子になって、しゃべり出した。
「俺は、理屈は一切抜きにしているのさ。早い話が、理屈で世間がどうか、なるならもう、とうに人間はみんな
雪之丞は、今は、ますます心をひかれて行く。この新しい友達の考え方が、
――江戸の生れの方は、何とキビキビ思った方へ、突き進んで行くことが、できるのだろう、それに較べて、このわしは、小さな望みを果すために、二十年を傾けてきて、まだ、何にもしていはしない。
闇太郎は、
「俺は、お前が胸の中を割ってみせて呉れねえと云って、
と、いって闇太郎は、ジロリと
「イヤ、こりゃ、とんだいらねえ世話だ。冷酒で一杯景気をつけて、もう夜も更けた、お前の宿の方へ送って上げるとしようか」
彼は、そういうと、立上って、台所から大振りな
闇太郎は、白鳥徳利の酒を、
「うちの酒は、三斎隠居の
雪之丞は、白く、かぼそい手で、なみなみと満たされた湯呑を取り上げた。そして、美しい唇で、うまそうに、金色の冷酒をすすった。
ごくごくと、
「並木の通りで、はじめて逢ってから、一度は、ぜひ胸を割って話してみたいと思っていたお前と、やっとのことで、今夜逢えた、これで、俺の、この世の望みが、まあ、果せたというものだ」
雪之丞は、対手のそうした言葉を聞くと、この人の前に、自分の秘密をかくし通しているのが、何となくすまぬように思われてならぬ、せめて、輪郭だけでも話してしまおうか。どんな事を、告げ知らせたところが、他人の大事を、歯から外に洩らすような男ではない。
とは、思うものの、さりとて、云い出しかねる話だった。ことによれば、対手の一身一命まで、自分の運命の渦巻に、巻き込んでしまわねばならぬかもしれない――
闇太郎は、例の鋭いかんで、こちらの気持を、素早く見て取ったのでもあろう。
「なあに、太夫、俺たちの
闇太郎は、そんな事を云って、二杯目の茶碗酒をほすと、フーと息をはき散らすようにして、
「それじゃあ、そこまで送ってゆこうか。朝の早い渡世の人を、引止めてすまなかった」
と、云ったが、ふと、思いついたように、
「
彼は、立上って、次の間にはいった。そして、
「御覧なせえ、なかなか上手な細工だろうが――」
雪之丞は、掌のひらに受けて見つめた。それは、とても器用な、
「まあ結構なお品で。お前様がお彫りになったので――」
闇太郎は得意気に微笑した。
「代々、観世よりの細工をしたり、から傘を張って暮らしてきたりしたお蔭で、これで、
雪之丞は、いわれるままに、印籠の中子をあけて見た。するとそこには、吉野紙で、
「わかるかね? 何の薬か、見当がつきますかね?」
闇太郎は、おもしろそうな調子でたずねる。
「いいえ、とんと――」
と、雪之丞は、やさしく、小首をかしげて見せる。
闇太郎は、いくらか重い口調になって、
「それはね、実は系図ものなのさ。ある強慾な
「どんな病気に利くのでございましょう?」
「病気? いんや、病気とはあべこべに、達者な奴に利く薬なのだ」
「まあ!」
と、雪之丞が、美しい目をみはる。
「まあ、その薬をたった一つぶ、そっと誰かに飲ましてごらんなせえ。ついじきにこくりこくり居睡りをはじめて、叩いたって、ぶったって、目をさましっこはねえんだよ。飲ませる間がなかったら、その薬を今度はふた粒、
「ホ、ホウ、じゃあ、ねむり薬で――」
「ねむり薬も、ねむり薬、こんな利くのは天下に類がねえ――しかも、こっちは、
そうした秘薬を、何のつもりで与えようとするのだろう? ――雪之丞は、何となく、もうとっくに、相手が、こちらの望みをすっかり見抜いてしまっているような気がしてならぬのだ。
闇太郎は、平気でつづける。
「お前は、
「何にいたせ、すばらしい印籠に、かてて加えて、世界一の珍薬までいただいて、お礼の言葉もござりませぬ」
と、雪之丞は、素直におしいただいて、すぐに腰につける。
「では、もう、夜明けも近いこと、これで今夜はおいとまを
「おお、この田圃はずれのかご屋まで、おれが見送って上げましょう。まあ、もう一ぱい引っかけて行きな」
名残りの茶わん酒を汲みかわして、いつか、露が深くなって、それが薄霜のようにも見える暁闇の浅草田圃を、二人はまた
吉原がよい専門の、赤竹というかご屋で、乗物をしたててくれて闇太郎、
「じゃ、また逢おうぜ」
「その日をたのしみにいたしております」
雪之丞が、しんからそう答えたとき、たれが、ぱらりと下りた。
中村座の菊之丞一座の人気は、日ましに高まるばかりだった。飾り布団、引幕飾り、茶屋の店さきほどの家も、所せまいまでに送り込まれて、下ッぱの役者までが、毎晩新しい
雪之丞は、三斎一党から贈られた、黄金、呉服のたぐいを、目にすることさえいとわしく、片はしから一座の者にバラ撒いてしまうので、その無慾さに一同驚きあきれ、
「大師匠も、あの通り、芸道一図のお方で、神さまとまでいわれているが、若い太夫のあの気前は、おそれ入ったものだ」
「あれで、もう四、五年たって、
「それに今度の狂言で見ても、
そうしたささやきが、
菊之丞師匠は、雪之丞の好評を、耳にするたびに、おりおりは
――ああ、これで、あの人が、芸道のみがいのちの男なら、どんなにわしもうれしいことか――腕一本、熱心一途で仕上げて来た、この中村菊之丞の
師匠の、そういう気持は、雪之丞にもよくわかるのだ。
――お師匠さまも、わしのようなものが、この大江戸で、分外の人気を得たのを御覧になるにつけても、いつまでも手元に引きつけて、面倒を見てやりたいともお思いになっていように――わしのこの一身を、お師匠さまと、芸術と――この二つのためだけに、ささげることが出来ぬというのは、何とかなしいことであろう――すまないことであろう――お師匠さまの、寝られぬ床のためいきが、耳につくたび、申しわけがない気がしてなりませぬ。
雪之丞は済まぬと思う――申しわけないと思う。が、どのような私情も、恩義も、彼の一徹な復讐心を磨滅させてしまうことは出来ない。
――いいえ、お師匠さまは何もかもゆるしていて下さるのだ。万一、世間の評判なぞに巻き込まれて、一生一願のこの気持をにぶらせもしたら、それこそ、今日が日までの厚恩を忘れたというもの、却って肉を裂きたい程のお腹立ちになるであろう。
と、つぶやいて、かろうじてわれを慰めるときもあった。
七日目の
「おや、長崎屋の旦那さま。この程から、かずかずの御恩――さあ、どうぞ、お敷きあそばしまして――」
と、雪之丞、客のために手ずから座布団を押しやった。
相変らず、はしッこそうな、キラキラした目付きをした長崎屋、
「いやこないだは、いろいろ
雪之丞は、そらさずに、
「
「そのように申してくれると、わしも何ぼうかうれしいのだ。あちらさま御一統も、お目にかかるたび、そなたの噂が出ぬことはない。それにつき、今一人、是非、そなたに逢いたいという者があるので今夜、また、そこまでつき合ってもらいたいのだ。都合はどうであろうな」
「申すまでもなく、旦那さま、おっしゃりつけとあれば、いずれへもお供いたしますが、そのお方さまは?」
長崎屋の目つきに、複雑な、神経的なものがただよった。
「実は、わしと似寄りの渡世をしているもの――わけあって、何事につけ、共に事をしようと、約束のあるお人だ。と、いって、いうまでもなく、お互に、商売がたきでないともいわれぬのだが、まず、今のところ、ある仕事を、一緒に進めてゆかねばならぬのでな――そなたは上方のお人。かなたにも出店もある、
「おお、広海屋さま――お噂は、とうから伺っております」
雪之丞、何で忘れてよい名であるだろう。長崎奉行、代官をあやつって、松浦屋を陰謀の
「御存知か? なかなか大きゅう店をしていられる方じゃ。わしなぞは、まだ足下にも及ばぬ」
長崎屋の表情に、あらわに
「実はな、わしと、広海屋、心を合せて、江戸中の大商人と張り合い、お城の
と、悪ごすい商人は声を落して、
「そこで、そなたを見込んで、一ツ力が借りたいと考えているわけ――お城のことは、
楽屋内をもはばからず、ひそひそと、こんなことをいい出す長崎屋の心の中は、今
雪之丞は、万事、のみこんだというように、
「それはもう、あなたさまのためには、
長崎屋は、言葉せわしく、胸の一物を、
「そなたは、こころの
「ようくわかりましてござります」
と、雪之丞、うわべは、どこまでもやさしく、
「あなたさまも、幾久しく御贔屓を――」
「いうにゃ及ぶじゃ」
と、相手は、トンと胸を打って、
「では、今夜は、根岸の
言葉をつがえて、長崎屋、楽屋を出て行く。
――あの人は、骨の
そんな風に、心につぶやいた雪之丞は、
その当時、大江戸に、粋で鳴った鶯春亭の、奥まった離れには、もう、
「おお、
と、ちこぢこと、笑がおを作って、
「広海屋は、どうしたことか、まだ見えぬ。もうおッつけまいられるであろう。それまで、この家自慢の
雪之丞がよいほどに、長崎屋と世間ばなしをつづけていると、その
「お連れさま、お見えなされました」
と、知らせる、女中のあとから、
「やあ、おまたせしましたな。お屋敷の御用で、急に顔出しをしなければならなかったので――」
と、その場にすがたを現したのが、もう
「いや、待ち兼ねました。太夫もさき程から来ていられましてな――あ、これが、初下りの雪之丞、こちらが、お噂した広海屋の御主人じゃ。このお方も、そなたの舞台をつい、昨日のぞかれて、いやもう、大そう
雪之丞、広海屋を一目見て、その福々しさがのろわしい。貧しく乏しい裏長屋に蹴落され、狂い死に、この世を呪って死んだ、父親の、あの
――おのれ、見ておれ、間もなく、おのれも八寒地獄に落ちる身だぞ。
「ところで、長崎屋さん」
と、富裕な大商人は、仲間の方を向いていいだした。
「今夜、松枝町のお屋敷から、ちょいと御用で呼ばれたで伺いますと、思いも寄らぬ話がござりましたぞ」
「思いも寄らぬ話とは?」
と、長崎屋は、広海屋の
松枝町といえば、三斎屋敷を意味するので、この連中に取っては重大な関係がいつもあるのだ。三斎一家に関する情報は、従って聴きのがすことが出来ない――長崎屋の顔さえ、ぐっと、向きかわる。
「何でも、お城のお嬢さまが、おからだがいけないとかで、当分お屋敷の方へお戻りになるというのだ」
「えッ、何だって! 浪路さまが、お戻りになるッて――」
長崎屋の顔に、ありありと
その浪路が、大奥にいればこそ、その手一すじをたよりに、城内に深刻な発展を試みようと努力しているのではないか――その手つきを失ったら――
「まさか、ずっとお城をおさがりになるわけではあるまいな!」
「それはそうであろうとも――」
と、広海屋はうなずいて、
「わたしも、実は、それが
「なある――読めた!」
と、長崎屋、ずるい笑いに、目顔をゆがめるようにして、手を打った。
「浪路さまの、御病気の
「うむ。わたしもな――」
と、広海屋が、これも意味ありげな微笑を雪之丞の方へ送るようにして、
「そなたから、こないだの事を聴いていたので、
「いやもう、てっきり、それにきまっている」
と、長崎屋が、あからさまに、雪之丞を見て、
「太夫、そなた、お嬢さまが、帰り保養ときまったら、すぐにお見舞にゆかねばなりませぬぞ――御病気のもとは、そなたにきまっていることゆえ――」
「何とおっしゃります!」
と、雪之丞、さも
「
長崎屋は、笑いつづけて、
「何も不思議がることはない、御息女は、恋の病いにかかられたのじゃ。のう、広海屋さん――」
「いかにもそれに違いない。わたしもそう思いますよ。太夫」
と、広海屋主人も、大きく合点合点をして見せて、真顔になって、
「何にしても、すばらしいこと、そなたのためにも運開きじゃ」
「そりゃもう、このお人に取っては、これ以上の運開きはないが――」
と、長崎屋も、
「この際、うんと本気に腰を入れてもらわぬことには、われわれの方のもくろみも、うまくゆかぬことになろうも知れぬで――」
雪之丞は、全身を
「のう、雪之丞どの」
と、広海屋が、
「長崎屋から、くわしゅう聴いているらしいが、そなたが思いの
――この手で、父親のことをも、汚らわしい深みに引き入れたのであろう――
雪之丞は、胸のうちでそんな風に呪いながらも、
「全く
「うむ、のみ込みの早いお人で、わたしたちも大助りだ。人間はそう
と、広海屋は、ますます膝を乗り出して、
「今も、冗談のように言ったことだが、あの御息女が、一目そなたを見て恋い焦がれ、一身一命さえ忘れかけていることは、この長崎屋さんが、見抜いた通りに相違ない。あのお方を、そなたがたとえいとわしゅう思うていても、そこを
「
雪之丞は、はっきりと、二人の前に誓うようにいい切った。
「うれしいな、広海屋さん」
と、長崎屋は、そそるようにいって、
「これだから――このわかりのよさゆえ、浪路どのばかりではなく、男のわたし達も
「かしこまりました」
「と、きまれば、芸者を呼んで、一つさわやかに騒ごうか」
と、長崎屋が、手を鳴らす。
もうとうに、柳ばしから呼び寄せてあった男女の芸者達が、すぐに現れて、一座が、だしぬけのにぎわしさに変った。
「さあ、お互のための、前祝いの、盃、太夫も、心置きなく飲んだり、飲んだり」
広海屋は、粋な老人らしく、ほがらかな笑いを見せて、
「太夫ほどのものを、江戸を見限らせては土地ッ子の恥だ。さあ、女たち、しっかりつかまえて、上方を思い出させぬようせねばなりませぬぞ」
広海屋、長崎屋、二人とも、雪之丞をすっかり
芸者、
「そなたは、今、こうして、このせち辛い世の中に、
「そうそう」
と、広海屋は、昔の零落を語るのさえ、今の身の上になった以上は、それも誇りの一つであるように――
「店の大戸を下ろすはおろか、借財に追いつめられて、首をくくろうとしたこともありましたがな――それも、これも、みんな夢物語になってくれましたで――ハ、ハ、ハ」
「今だから、何もかもいえるのだが、その頃このわしは、広海屋さんと同業の、手がたい
「それじゃ、それじゃ。それにかぎるで――」
と、広海屋は、てかてかした顔を、酔に染めて、しきりにうなずいて見せるのだ。
雪之丞は、冷たく、心にあざわらう――大きな声で
――ようも自分の口から、旧悪をさらけ出しおったな! これ三郎兵衛、おぬしが恩を売ったという主人は松浦屋――この雪之丞の父親なのじゃ。広海屋、おぬしが三郎兵衛と心を合せて、深味につき落したのも、わしの父親なのじゃ――その一子、雪太郎、いのち懸けでおぬしたちの、首を狙っているとは知らぬか!
雪之丞は、出来るだけ気を平らかにしていようと、沸き立つ腕をさすっているのに、先方から、あまりに浅間しい泥を吐いて見せるので、
――いっそ、今夜のかえりに、この二人を、まとめて
そう思うと、殺気が、サーッとわれとわが
もう、彼の目には、江戸
――わしは、手を下そう――今夜、のっぴきさせず手を下そう。
雪之丞は、ジーッと伏目に、二人を見上げた。
雪之丞、一たん、意を決してしまうと、もうじッとしていられない。
――早うこの場を退散して、この二人の帰りを待ち受け、こよいの中に
わざと、しなを作って、長崎屋の方へ身を擦りよせるように、
「旦那さま、実は今夜は、宿元にて、役者の寄り合いがあるはずのところ、外ならぬあなたさまのお言葉にて、この場に伺わせていただきましたので、お名残り惜しゅうござりますが、中座いたさせていただきます。あなたさまより、広海屋の旦那さまへも、よろしゅうおわびをなされて下さりませ」
「なに、中座したいといわれるのか。それは残念な――酒宴もまだはじまったばかり、今しばし待たれたら――わしも、広海屋さんも、
と、三郎兵衛がいうのを、
「お言葉に従いとうはござりますが、役目も大事にいたさねば、舞台に何かと
と、辞退すると広海屋も聴きつけて、
「太夫が、かえられますとか――のこり惜しいな」
――残り惜しがりなさるには及ばない。ついじき、そこに待ち合せておりますぞ。
いい程に、言いこしらえながら、店中の形勢を眺めると、ことに依れば、この一座、これから吉原仲の町へでも、繰込もうという気配も見える。
「おかえりなら、乗ものを――」
「かごを――」
と、ひしめく家人を制して、
「どうぞ、それには及びませぬ。はじめての御当地、お店前から乗ものに乗るなぞとは、
そう、いい捨てて、雪之丞は、小走りに外へ出てしまった。
「感心なお方――」
「ほんとうに程のよい――」
見送りに出た芸者、女中が、そんな風に囁き合うのを聴き流し
あたりは、
――おまちよ、もうすこしすると、
身支度をすませて、細道に出ると、向うに、遠火事の炎が映っているように見えるのは、まぎれもなく、たった一度客すじから招かれて行った、新吉原の灯のいろに相違ない。
彼等が、そこを指して押し出す下ごころを知り抜いている雪之丞、とある杜かげにじっとたたずんで、時のうつるのを待とうとするのだった。
すると、ふと、その中に、むこうからトボトボと近づいて来た、細長い人影――雪之丞が身をひそめた、つい側まで来て、ピタリと
「ほー人くさいぞ!」
雪之丞、だしぬけに、不思議な
老い、
「人臭いぞ――路上にすがたがないのに、人臭いとは、いぶかしいな? ふうむ、さては物とり
そして、
「これ、物蔭にうごめいているのは、何者じゃ? 姿を見せい! この界隈に、
雪之丞は、怪しくも、この低い、地を
――おのれ! 貴さまこそいぶかしい奴――他人の大事の
「突いて来るか、斬って来るか? ハ、ハ、面白い。早う出い。出ればよいのだ」
雪之丞は、殺気を
――何者だろう? ひどく、年を取っている奴のように思われるが――
「出ぬか!」
と、
「出ます」
と、思わず、受けて、そのまま差しかわす下枝をかき分け、道に出る。
闇空の下に、細長く、漂亭と、
と、
――あ、老師だ!
と、
意外にも、それは、こないだ、蔵前八幡の
逃げることもならず、その場に膝をついて、
「これは老師でござりましたか?」
とうなだれただけで、口がどもる。
「ふうむ、これはこれは、また、思わぬところで、そなたに逢うたものだな?」
孤軒老人も、いくらかびっくりした調子で呟いたが、
「
雪之丞、孤軒老師が、この付近根岸
「恐れ入りまする――かかる
と、詫び入るように言うと、
「まず、立ちなさい。さ、立ちなさい」
と、手を取るようにして、老師は、じっと見下ろしたが、
「さるにても、そなたは、今宵は、
雪之丞は、老師のそうした言葉にも
しかし、孤軒老師は、恒になくいかめしく言った。
「これ、わしと一緒にまいれと申すに――」
「は、はい」
今はやむなく、雪之丞は、星の高い闇空の下を、導かれるままに
孤軒は、ひと言も、口を利かなかった。雪之丞も黙ったままだ。二人は枯葉が踏むたびに乾いた音を立てる森下路をしばし歩いた。
やがて、大きな松が、ひと本、黒く枝をひろげたのが見えるあたりの、生け垣の、小家の前まで来ると、老人は、
「戻ったぞ」
「あ――い」
と、少年の声が、奥で返事をして、入口の戸があく。
「お客だ。香ばしゅう茶をいれるのじゃよ」
と、目つきの可愛い、クリクリ坊主の小僧に命じて、
「これが、わしの
と、雪之丞にはじめていった。
雪之丞は、ホッとした。老師が、あまり黙り込んでいるので、何となく、
老師と、彼とは、炭火が、赤々と
「さて、雪、そなた、あそこで、どのような狂言の、幕を開けようと思っていたのじゃな?」
雪之丞は、キラリと底光りのする孤軒の目から、わが目をそむけた。
「しかし、わしは、よいところに通り合わせたと思っておる――」
と、老人は、刺すような調子で、
「敵を
「えッ」
と、雪之丞は、おどろかされて、
「三斎と知り合いましたを、どうして御存知でいられます?」
「わしの
老人は、いくらか微笑して言って、
「いま
「それは、わたくしも考えておりますものの、今宵、かの広海屋、長崎屋、二人を目の前に並べて見ましたゆえ、怺えかねて怺えかねて」
「ふうむ、それで、待ち伏せしようといたしたか? が、一思いに仕止められたら、彼等はこよない幸福者――なぜ、今しばし浮世に生じ置いて、心の苦痛を
雪之丞が、うわべでは、うなずきながらも、心にはなお不承らしいのを、老いたる孤軒はなだめるように見て、
「わしはいつぞや、八幡境内で、油断のう進めとはいうたが、しかし
「左様、それにつきまして、実は――」
と、雪之丞が、長崎屋の、広海屋に対する反抗心を、あけすけ聴かされた
「それが、この浮世で利慾に生きるものの、浅間しい望みなのだ。我慾に熱して、友も主も売る――そなたの父親を売った二人は、今度はお互にお互を
孤軒は童子が、運んで来た茶を、うまそうに
「わしは、夜目ではわかるまいが、この小家の入口に、これでも堂々と
「お言葉ではござりますが、それでは、長崎屋をくるしめることは出来ても、広海屋は、旭の勢いとなって、さぞよろこぶことでござりましょうが――」
と、雪之丞が、進まぬげに言うと、
「そこが、若いと申すのだ」
と、孤軒がおさえて、
「落ち目に蹴落された長崎屋は、
雪之丞は、了解した。
「いたして見ましょう――広海屋さんとも、いつでも御懇意に出来ますように存じますから――」
その場の胸中の
すると、三日目に、こちらから手を伸ばす必要もなく、広海屋の方から、例の
早速行って見ると、奥座敷に、長崎屋の姿はなく、福相な広海屋が
辞儀が済んで、
「今晩は、長崎屋さまは、お見えあそばさぬのでござりますか?」
と、さり気なく、尋ねると、
「おお、あの男は、昨日今日、商用で大そういそがしがっておるのでな――それはそうと、例の松枝町の御息女、たった今日、向う半ヵ月のお
「わたくしに、それだけの力がござりますかどうか――でも、折角のお言葉でもござりますし、明日にもすぐにお見舞に上って見るでござりましょう」
と、雪之丞は、しおらしく受けて、ふと、思いついたように、孤軒入智恵の問題に、探りを入れて見る――
「それとは、お話が違いますが、昨晩、さる御城内お役向の御一座から、お招きをうけました節、あなたさまの御評判を洩れうけたまわって、かずならぬ身も、大そう嬉しゅうござりました」
「ほう、役向の衆から、わしの評判を聴いたとな!」
と、人気渡世の役者以上に、世評が気になってならぬように、大商人が、膝を乗り出して来た。
「それは、また、どんな評判を?」
「わたくしに、江戸では、
「うむ、左様なことを、お城重役が申されていたか――」
広海屋の、栄達を望んでもがきつつある心は、すぐに激しく動揺して、喜色満面。
「ええ、もう、大したお
と、雪之丞は
「その上、わたくしにはわかりませぬが、何か、よほどむずかしげなお
「わが身についての、むずかしい噂――」
広海屋は緊張して、
「気にかかるな? 何事か聴かしてくれ」
雪之丞は、広海屋が、こちらの口車に乗せられ、ぐんと乗り出して来るのを、
「只今も申しますとおり、わたくしなぞには、良く、呑み込みのいかないお話でござりましたが、何でも、
「何と?
広海屋はするどい目つきになって、
「それは、どんなわけなのか?」
「わたくしが伺いましたところでは、あなたさまは、海産物とやらばかりではなく、上方、西国で、沢山にお米を買い
雪之丞が、相手をみつめると、
「ウム、いかにも――」
と、広海屋は、いくらか得意そうにうなずいて、
「何百万石という米を、実は妙なゆきがかりから、去年この方手に入れたところ、今年の東の
「お武家さまたちの仰せでは、そのお米を、あなたさまが、男なら、一度に江戸にお呼びになり、こちらの米価とやらを、一朝に引き下げておしまいになると、お名前が上下にぱッと輝くばかりか、関東米相場の神さまにもお成りになり、一挙に、江戸一の勢いをお示しになれるに相違ないに、何をためらっているのであろう――やはり、町人と申すものは、目前のことにのみ、心を引かれて、大きな
「ふうむ――その方々が、そのように仰せられていたか? ふうむ」
と、広海屋は、腕を組んで、伏目をつかって、
「この広海屋が、男なら、上方西国の手持ちの米を、思い切って
「いかにも左様で――その暁には、上つ方のお覚えよくなるは
「ううむ、成るほどなあ、御もっともなお言葉だ。太夫、ほんにいいことを、耳に入れてくれましたな。だが、ここに、さりとて、その言葉を、すぐにお受けするわけにならぬ義理もあるので――」
と、広海屋は、考え込みながら、
「そなたも知る、長崎屋、あれが、中々、目から鼻に抜ける
商利を、一生の目的とし、そのためには、一切の恩愛義理をも
「わたくしどもには解りませぬが、芸道の方なぞでは、どのように日頃親しくしていましても、舞台の上で蹴落し合わずにはおりませぬが、お話をうかがっておりますと、さすが、あなたさま方は、お立派なものでござりますな。長崎屋さまに御不便だとお思いあそばしますと、あなたさま、見す見す
すると、広海屋が、組んでいた腕を、ぎゅっと引きしめるようにしながら、じろりと、雪之丞を見て、
「太夫、そなたは、長崎屋にも、
雪之丞は、やはり、
長崎屋が、広海屋に対して、どんなに
彼は、眼の前に、
「そう仰せられるのを伺いますと何とのう、この世が
と、雪之丞、しんみりいって、相手を見上げると、
「心弱うては、
「あなたさまが、そう仰せあそばせば、決して、どなたの前でも、歯から外に洩らすことではござりませぬ」
「折角、そなたの話もあったゆえ、わしも性根を据えて、ここらで、ずんとひとつ考えて見ねばならぬ」
と、広海屋は、思い入ったようにいったが、ふっと、気がついたように、腕組をほどいて、
「さて、では、心置きのう、杯をすごして貰おうか――わしも、久しぶりで、何かこう大きな山にさしかかった気がして、心がいさんでまいったようだ。は、は、は、幾つになっても、
彼は、パンパンと、手を拍って、座をはずしていた取り巻きを呼ぶのだった。
そこで彼女は、その晩以来、病気届けをして、公方のお成りをさえきっぱりとことわった。
すぐに
「これは大方、心気のもつれと存じます。しばらく、心静かに御静養なされましたなら――」
「申すまでもなく、このお城内にて、何の御不自由、御不満足もござらぬはずでござりますが、出来ませば、温泉、海辺にてなり
なぞと、老女にいいのこして
これこそ、彼女が、どんなに期待した診立てであったろう!
「わたくしも、せめてこの一月なり
と、中老たちに対して、相当の権威を持っている、取締りの老女にささやくと、
「左様に御座りますな、何にいたせ、気のつまる大奥、時々はゆるりとなさらないでは――」
と、うなずいて、諸役人との相談ごとを、すぐにまとめたと見えて、三日と経つか経たぬに早速、自宅保養の許可が下りたわけなのだった。
浪路は、天にも上る気持だ。
松枝町の屋敷へさえもどれば、父親はどこまでも愛に目がなく、長崎屋をはじめ、自分の秘密な想いに気がついているものもある。たちまち、恋しい雪之丞に、一目逢わせてくれることがあろうし、さもなくとも、どのような手立てを講じてでも、彼に消息を交わして、
――ああ、この恋に比べて、これまでのいつわりの栄華の月日が、どのようにつまらない、取るに足らぬものであったろう! 影の影をつかんでいたようなものだ!
しかし、名目が名目だけに、浪路は、屋敷に戻ると、奥の離れにしつらえられた
だが、その医者も、城内典薬たちの診断と違わなかった。
「お気まかせに、のびのびと御保養が何より――お気うつから飛んだわずらいをお引き出しなさらぬとも限りませぬで――」
浪路は、わが家の病室に、
たった、向う半月か、一月が、わが物の月日なのに、このままで時を無駄にしていなければならぬのが、彼女には辛いのだ。ただ、どうにかして、この世でゆっくりと、雪之丞に逢いたいためばかりにこそ、あらゆる苦労をして、大奥を抜け出して来たのに――
しかし、浪路の、その
「ただ今、広海屋が、お見舞と申して伺っておりますが、何でも、先日まいった、あの女形の雪之丞に、御病気、御保養の由を、申し聴けましたら、大そうびっくりされて、
と、いうのを聴いて、浪路は、床の上で、膝にひろげていた
「まあ、雪之丞が、見舞いたいと申しておると申すのかえ?」
「はい、今夜必ずとのことでござります」
もう、五十をとうに越したような、奥女中の心にさえ、あの絶世の美男のおもかげは、ある若やぎをあたえずには置かないように見えた。彼女は、膝を進めて、
「それにつきまして、お願いがあるのでござりますが――」
「何あに? 願いというのは――」
「雪之丞も、いそがしい間を盗んで、折角お顔出しをいたしたいと申すのでござりますゆえ、お声がかりで、お病間まで、招き入れてやりましたら、どのようによろこぶかわかりますまいと存じますが――」
それこそ、浪路にとって、わたりに船であった。
彼女の瞳は、美しく輝いた。
「そうしてやった方がよければ、まかせるほどに――」
老女は去った。
浪路はうれしさで一ぱいだった。雪之丞が尋ねて来るというのに、不機嫌そうに、髪さえわざと乱していられない。彼女はやがて、懐紙を押してあった金の鈴を、リーンとかすかに鳴らした。
侍女が手を突く、
「お湯が引きたいゆえ、支度を――」
「は?」
若い、やさしげな娘は、聴き違いではないかというように、浪路の顔を見上げた。
「湯室の用意をしや」
「でも、おからだに――」
浪路は微笑した。
「いいえ、大事ない。今日は、すぐれて心地よいゆえ、湯を引いたなら、もっともっと気持が晴れるであろうと思うのじゃ。早うしてたも」
浪路が、笑顔を見せれば、一家中は、それが何よりなのだった。
三斎屋敷の奥向は、急に活気づいて来た。
浪路は、
その頃、雪之丞が、松枝町屋敷玄関先まで
「いえいえ、夜分と申し、お敷居外にて、どうぞおいとまを――御前のお目通りなぞ、あまりに恐れ多うござります」
と、平に辞退したに
三斎は、ひどく興味を持ってしまったこの
「御息女さまが、太夫、わざわざの見舞とお聴きになり、
と、いうのであったが、雪之丞は、その場にひれ伏して、
「
三斎もかかる夜半、
「いや、なに、雪之丞」
と、老人は、手を振るようにして、
「娘も、見苦しゅう取りみだしてはおるが、これも、日頃、窮屈な
「ま、勿体ないお言葉――」
と雪之丞は、どこまでも、礼を忘れぬ風で、
「いやしき河原者、身分ちがいの身にて、
「その物がたさは感じ入るが――しかし、相手は病人じゃ」
と、三斎は心安げに笑って、
「ま、望みを叶えてやるよう頼む。老いては子にしたがえ――とか、申すが、このわしは、とりわけ
「すぐに、お供いたしとうござりますが――」
と、老女が強いるようにいった。
雪之丞は、さも当惑したようによそおいながら、ようやくのことで決心がついたというように、三斎の居間を
やがて、渡りを行きつくすと、
老女は、雪之丞をちょいと振り返って、
「ほんとうに一生懸命おまち兼ねでござります」
老女の案内で、この館の中でも一ばん静かな、浪路の病間にはいったとき、雪之丞、
この前の、わざと
単に、口実ばかりの病気でもなかったと見えて、いくらか、頬にやつれが見えて、じっと、こちらをみつめて
手を突くと、
「ま、そのような辞儀なぞ――どうぞ、ずっとこちらへ――」
なつかしげに、親しい人にいうように、
「
雪之丞は、そうした表情や言葉に、すこしもまじり気を感じることが出来なかった。恋に焦がれつつある、一人の
――わしは、わしをしんから想ってくれている娘を、
けれども、彼は、浪路の、しっとりした姿の背景をなす、古土佐絵の、すばらしい
――この娘の父親が、この豪華をむさぼるために、どんなに悪業を積み重ねているのだろう――
「御病気とうけたまわりまして、どんなに驚きましたことか――なれど、お姿をおがみまして幾らか安心つかまつりました」
老女が去ったので、浪路は、ぐっと
「まあ! 何ということをいうのであろ。何という他人行儀なことを!」
「わたしの気持は、この前の時から、ようく知っていてくださるに――この病気にしても」
「そのようなつもりで申したのでは――折角うかがって、
雪之丞も、つんとしたように、わざと冷たくいった。
「いや、いや」
と、将軍の
「おおこりになった? それなら許して――わたくし、でも、そなたの他人行儀が、苦しくって――」
彼女は、膝の上に、綾の寝巻の袖を重ねるようにして、頭を下げて見せた。
「気に
女の
もう二人は、何を言っても、してもよかった。
美しい
「さあ、お取りなされまし」
と、白い、細い指先で、自分でその杯を取り上げた。
雪之丞も飲んだ。
「太夫、そなたは、わたしの病気を、どんな
浪路が、杯を手にしたまま、じっと小首をかしげるようにして訊く。
「どんな煩いというて、くわしゅうはどなたもおっしゃっては下さりませぬので――」
「わたしの病いが、どんな煩いか、どなたにわかっていましょうや」
と、浪路は、意味ありげに、
「それは、わたしだけが知った煩い――なぜ、
怨じ顔の目元が、蜜酒の酔いに、
雪之丞は頭を
「これは御難題――」
と、いったが、わざと冷たく
「あまりに、御寵愛がおすぎあそばされて、そのためのお疲れでも――」
彼は容顔を、
それを、浪路は、別の意味に――言わば、雪之丞の、
「まあ、何ということを! このお人は!」
浪路は、心からおこったように、大きな目で、彼を見据えて、
「お上の御寵愛が、どのように深かろうと、それが、わたしに何のこと!」
と、激しくいって、
「そなたは、わたしが、好んで、御殿へなぞ上ったとお思いなさりますの? あの、窮屈で、いかめしい、何のよろこびもない、牢屋のようなところへ――そして、お上が、どんなお方かさえも、御存知なさらぬ癖に、憎い憎い、そのようなことを――」
「恐れながら、上さまは、この世のいかなるお方さまよりも、御権威のお方とのみ、存じ上げておりますゆえ、世上の女性方は、あなたさまの御境涯を、お羨み申さぬものとてござりませぬ――そのおん方さまの御愛を、お身お一つにおしめなされていられますあなたさま、こうして、
雪之丞は、ますます女ごころを、
浪路は
「まあ! いつまでもそのような、憎らしい口――顔立ちの美しい
彼女は半身を、ぐっと雪之丞に擦り寄せるようにした。
浪路は目元に、しおを含ませて、美しき
「そなたが、わたしの
雪之丞は目を
「わたくしが、あなたさまのお煩いの
と、まるで、女のように、
「あまりお言葉がうるわしゅう響きますほどに、わたくしのような
「太夫、まだ、それを、お言いなさるか?」
と、浪路は、ぐっと、杯を干して、下に置いた。
雪之丞が、酌をしようとすると、それを、白い手で蓋をして、浪路が、
「わたしは、もういただかぬ――飲みませぬ。そなたのような人と、酒ごとなぞいたしたとて
「ま、どうして、急に、そのように、御機嫌を損じましたのか――わたくしが、ここにおりまして、お心地があしゅうござりませば、おいとま申すほかには――」
両手を、畳に下そうとすると、浪路は
「太夫、雪さま!」
と悲しげに、
「わたしは、
「わかりませぬ」
と、雪之丞こそ、いみじく淋しそうであった。
「わたくしは、しがない河原もの――そしてそなたさまは――」
「芸に生きるお人にも似合わない!」
と、じれったげに、浪路はいった。
「恋に、身分の、わけへだてが、ありますものか! わたしは、いわば、今夜これから、二人だけで、どこの山奥に、落ち伸びようとも、いって貰えば、すぐに、大奥も、親の家も、捨てて行こうとまで思い詰めていますのに――」
「浪路さま!」
と、雪之丞は、思い入ったように、
「あなたさまは、しんじつ、そのように、思っていて下さりますのか!」
「わかり切っていること――あの晩以来、一刻とて、忘れたことはありませぬ。夢に見るのはまだ浅い――昼間の想いが、夜よりも深いということを、はじめて、わたしは知りました」
浪路は、しっとりと、雪之丞にもたれかかってしまった。
「のう、雪さま――このわたしを、どうしてくださりますえ」
「そのお心もちが、ほんとうなら――」
と、雪之丞、
「わたくしとて、指も、髪も
二人の手はしっかりと結ばれ合っていたが、浪路の目かおには、からみつくような執念が、ますます燃え
「ね、太夫、わたしには、まだそなたのこころが、しっくりと判らない気がしてなりません。引く手あまたの人気役者が、こんな
「わたくしこそ、本気には出来ませぬ」
と、雪之丞が、上目で見上げて、
「もしほんとうのお言葉なら、いのちも賭けると、たった今申したことを、いつでも行いにあらわして御覧に入れますけれど――」
「では、太夫、わたしが、この場で、死んでくれと申したら――」
浪路の全身は、火のようだ――その
「そなたには、何となく愛がない――わたしを出来るだけ、遠くにはなして置きたいと思っておいでに相違ない」
雪之丞は、ほおっと、深い吐息をして、顔をそむけてうなだれた。
「わたくしの、あれからの気持を、御承知でいて下すったら――」
「あれからの気持とはえ?」
浪路はぐっと、身をもたせて、そむけた顔を追うようにのぞき込む。
「とても、張り合うことの出来ない、しがない身と、天上のお方――それを考えると、同じ人間に生れながら、何というはかないことかと――」
「そなたが、しがないと、おっしゃるのかえ?」
「
浪路はパッチリと、目を

「それを言われるのか? 太夫」
「申しますとも――」
「そなたが、そう言うなら――」
と浪路の声は、
「わたしにも覚悟がある」
雪之丞は、舌の根を噛み切りたい。
――何をわしは言うているのだ。この女にこんなことを言っていて、よくも、口が
けれども、彼は、もっともっと言うであろう――
「お覚悟とは?」
「もしも、お上の側にいるのが悪いというなら、いつでもわたしは、御殿を出ます――はなれます。それで、そなたが、ようしたと、讃めてくれるなら――」
雪之丞に
雪之丞は、更に迫り言い寄らねばならぬ。
「ま、お口の美しさ!」
「口! 口と、そなたはお言いやるな――よくも、まあ!」
と、浪路は、紅い下唇を、白い白い、真珠を並べたような歯で、血の出るまでに噛みしめるようにしながら、
「それなら、わたしは、もう、御殿へは、二度と上らぬ」
「
と、雪之丞は叫んだ。
「そのようなことを!」
彼は、引きしめられた両手を、しめ返した。
――この娘が、今後、どこまでも、公方を嫌い通し、大奥づとめを
雪之丞は、浪路が、みだりがわしく、しなだれかかるに
「ほんとうに、恋というものは、どうしてこうまで
と、浪路は、事実、身分も、格も、振り捨ててしまったように、深い深い吐息で、自ら歎息するのであった。
「たとえ、日本国中、いいえ、
「わたくしにしても、あなたさまさえ、まごころを下さりませば、生きながらの焦熱地獄――
絶代の女形、三都に
まして、浪路は、青春妙齢の艶婦――しかも、彼女の方から、すでに身も心も打ち込み切っているのだ。雪之丞の、一言一句が、まるで、甘い、しかし鋭い、蜜蜂の毒針のようなものとなって、心臓の、奥深いあたりをまで、突き貫かずには置かぬ。
「まあ、うれしい! ――この胸にさわって見て」
彼女の、白い手が、雪之丞のほっそりした手首をつかんで、わが胸に、
胸の動悸の激しさ! いきざしの荒々しさ!
「おお、咽喉がかわいて、
と、浪路はやがて、又も、銀の杯に、甘い酒を充たして、一つを雪之丞の手に持たせ、
「固めの杯――そなたも、一どきに飲んで――」
雪之丞、胸苦しさを、やっとおさえて、その杯を干す。
「わたしが、御殿のおつとめを拒んだなら、当分、この江戸に住むこともなりますまい。――その時には、世を忍んで、そなたの
浪路は、そうした苦しい境涯に対する空想を、さも、楽しい未来を想像するものと、同じような嬉しさを以って語るのであった。
――浪路は、とかく、雪之丞めを贔屓にしすぎているようじゃ。もしもの事があっても困るが、日ごろの
彼は、紅い宝玉を、灯に透かし見つつ、自ら安んずるようにつけ足した。
――あれがあって、上さまは、わしたちのいいなりとなって下される。そこでわしと
三斎隠居は、
――お城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくとも、あれで、なかなかお
隠居は隠居でそんな風に、自分勝手なことを、口に出して、ブツブツと繰り返しながら、更に、新しい、宝石箱の蓋を
この三斎屋敷の、奥深いところで、奇怪な親子が、めいめいの慾と
さては、人目を忍ぶ逢い引きか? いいえ、二人の話に、耳を傾けるものがあったら、どうしてなかなか、そんなありふれた者どもではないのを、すぐに発見したであろう。
「だが、
と、背の低い、ずんぐりした黒い影が、
「いいんですかえ? 松枝町の隠居ッて言えば、公方さまでも、おはばかりなさるってお人だ。その人の
「黙っておいでよ、むく犬」
と、ひびきの強い、張り切った女の声が、
「公方さまが、はばかったって、おれたちゃあ、ちっとも遠慮することはありゃあしねえよ――どうせ天下のお
普請場の板囲いの、
「そういえば、そうですがねえ――」
と、ずんぐりした男は、
「なるほど姐御が、一たんいい出して、引ッ込めるような人間じゃねえことは、だれよりもこのあッしが知っています。じゃあ、一ばん、今夜、これから、三斎屋敷に乗り込みますか?」
「いうまでもなく、この足で忍び込むつもりだが、お前は、このまま引ッ返して、
お初が、そう言うと、
「へえ? じゃあ、あッしは
と、男の手下は、不足顔。
「まあ、わたし一人がいいようだよ。相手はおめえのいう通り、ちっとばかし大物だ。大物狩りには、足手まといは困るからね」
「へ、あッしを、足手まといと、いいなさるんで――」
「いいえ、おめえも、相当なものさ。これが、どこぞ、
「どうも、手きびしいなあ。あッしはまた、いつかのやり損ないを今夜あ取りけえして、お讃めにあずかりてえと、思っていましたに――」
「なあに、また折があらあな。さっさと行きねえ――」
お初は、相手が、ためらうのを、追っ払うように、
「さっさと、行きねえと言ったら――そら、向うから、人影が差しているじゃあねえか――」
と、強く言う。
「じゃあ、姐御、上首尾に――」
「おお、
ずんぐり男は、板囲い沿いに、黒いむく犬のように、どこへか、消える。
自ら、お初と名乗る、女賊――それを見送ると、大胆に、物影をはなれて、町角の常夜灯の光りが、おぼろに差している巷路に、平然と姿を現した。
見よ! そのすんなりとした、世にも小意気な歩みぶり――水いろ
現に、今、通りすがった、二人づれの、職人らしいのが、振り返って、うしろ影をつくづく見て、
「へッ、たまらねえな――どこのかみさんだろう?」
「畜生! 亭主野郎、どんな月日の下に生れやがったんだ!」
お初は、そんな冗談口は耳にも止めず、かまわず間近な、三斎屋敷の方へしとしとと歩いている。
彼女も
黒門町のお初は、しなりしなりと三斎屋敷の門前に近づいたが、扉こそとざされておれ、
――
いつぞや、闇太郎がしたように、この女も、塀に沿うて、まわり出した。越すに
このお初というのは、以前は、両国の小屋で、
足芸、綱渡り、剣打ち、何でも相当にこなして、しかも、見世物切っての
いずれ、やくざに相違ないと知って、出来合ってしまったところが、これが
男は
お初も、
――長さんは、盗んだって、悪党じゃあない。困った人達はにぎわすし、パッパッと
――長さんの足がひょいひょい遠のくのは、吉原の
彼女は、そう思いつめて、軽業はわき芸、いつか、
勿論、主人持ちの小僧や、年寄りの
どうかすると、長二郎の――今自来也と呼ばれた大泥棒のかせぎより、お初の方が、ぐっと良いこともあった。
「お初」
と、ある晩、逢ったとき、
「お初、おめえ、大それたことをやらかしているんじゃああるめえな?」
ジロリと、鋭い、まなこだ。
「大それたことって?」
十九むすめのお初は、赤い布をかけた髷を揺するようにして、ほほえんだ。
「あたし、大それたことなんざあ、なんにもしやあしないさ」
「が、ふところが、いつも不思議だぜ」
と、長二郎が、首を振るようにして、
「
今自来也の長二郎から、
――無間の鐘をついたわけでもあるまいし、いつも、あんまりふところが豊かすぎる――何か、大それたことをしているのではないか――
と、そう問い詰められた、軽業のお初は、苦にもせずに笑ってしまった。
「あたしが、どうしてこのごろ、お金持だっていうんですか? そりゃあ、働くからですよ。無心ばっかりして、おまえに愛想をつかされてはかなしいと思うものだから――」
「女のおめえが、働くといって?」
と、相手が、小首をかしげて見せるのを、さえぎるように、
「あたしゃあね、こんなお多福だから、吉原のおいらん衆のように、お客からしぼることも出来ねえし――」
と、ややするどく、皮肉にいって、
「と、いって、まさか
と、ふところから、
「今夜だって、こんなに持っているわ」
「じゃあ、てめえ、
と、声をとっぱらかした長二郎が、やっと、低めて、
「掏摸をはたらいているんだな?」
「びっくりなさることはねえよ――」
と、お初は、
「おめえの縄張りを荒しているわけでもなしさ。鬼の女房に何とかいうから、あたしもいくらか働かなけりゃあ、釣合いが取れ無いと悪いからね――」
さすが、長二郎ほどの男も、このときほどびっくりした目がおをしたことはなかった。
「あたしもこれで、思い込むと、何をやらかすかわからない娘さ」
お初は、おどすようにつづけた。
「もし、おめえが、うわ気ッぽく捨てでもすると、覚えておいでなさいよ――どんなことになるか――」
「わかったよ」
長二郎は、小娘の激情に
彼は火焔玉屋から、遠のいてしまった。
長二郎、お初の恋は、そして、ますます熱度を加えたものの、そうした生活に、
間もなく、長二郎もお初も御用になって、男の方は、首の座が飛ぶところを、
そのお初、素性が素性ゆえ、身が軽かった、手先きも鋭かった。
であれば、三斎屋敷への出入りなぞは、塀が高かろうと、低かろうと、物のかずではなかった。
彼女は、だんだん、
軽業のお初は、三斎屋敷裏塀まで来ると、ちょいと前後を、闇を透かして見まわしたが、まるで
――へん、どんなもんだね? こんなけちな屋敷!
さっき、あのずんぐりが、土部一家の権柄に
さて、それから、彼女は、ひらりと、
別に、
お初は別に、闇太郎のように、この
――まあだ起きてやあがる――うち中が起きてやあがる。いつまでぺちゃくちゃやっているんだね。人の眠る頃にゃあ、やっぱし横になる方が、お身のためなんだよ。
例の
――三斎屋敷というから、どんなに用心がきびしいかと思ったら、これはまた、どこもかしこもあけっぱなしだ。くそ、おもしろくもねえ。世の中に、泥棒がいねえわけじゃあないんだよ。人を馬鹿にしてやがら!
お初は木蔭をはなれると、離れのようになっている別棟に近づいて行った。その一棟の横手に、ずっと立ち並んで、文庫ぐらがある。一戸前、二戸前、三戸前――、
彼女は、蔵は望まない――土蔵までを切ろうとは思わない――その三斎とやらの寝間にしのび込んで、机元から盗み出してやりたいのだ。
――その
離れと、母家をつなぐ渡り廊下の近所まで来ると、そのとき、ふッと、何か物音がした。
ハッとして、立ち止まって、身を硬くする。じっと、暗闇に棒立ちになれば、大ていは物にまぎれて判らなくなるのが
お初は、じっと突ッ立ったが、もう遅かったのかも知れない――
「どなた? そこなお方、どなた!」
離れの、
お初は、その声が、あまりに優しくほのかだったので、覚えず、
「あたくし――」
と、かすかに返事をした。
答えぬところで、向うはもう、ハッキリ、こっちの存在を、見て取ってしまっているに相違なかった。
「どなたさま?」
追い打ちに来た。
どことなく、
お初は、はじめて、ぎょっとした。その声と一緒に、戸が開いて、白い顔の持主が、闇に下り立とうとしているのだ。
――まあ、あいつ、あんな声で、男だ。
お初は、帯のあいだに手を入れて、
――あいつ、あの白い顔の奴、男だ!
と、
――なあに、男だって、化け物だって、怖いものか!
近づいて、切ッ払って、
庭下駄を突っかけた、不思議なしとやかさを持った人物はしずかに近づいて来て、
「そこなお人、御当家のお方か」
寄って来るのを寄らせて置いて、
「ちくしょう! 出鼻を
低く、刺すように叫んでお初、キラリと抜き放った匕首をかざして、ぐっと、突いて行ったが、相手は、ほんの少し身をかわしただけだ。
「おや、では、泥棒だね――しかも、
引ッぱずされて、よろめく足をふみこたえて、ビュッ、ビュッと、切ってかかるのを、すっと隙につけ入って、
「騒ぐと人が来ますぞ。わしは、当家に恩のあるものでもない――見のがすほどに
裏庭の暗がりを、肉体のしなやかさにくらべて、驚くべき
「なら、人の仕事の、邪魔をせずともいいだろうに――こんちくしょう!」
お初はもがいている。
「もっともじゃ、じゃが、わしとても、この家から、泥棒を追いはらったとなると、鼻が高いゆえ――ほ、ほ、ほ」
女装の男は、妙な笑いを笑った。
「一てえ、おめえは何だ? 女見てえななりをしやがって――」
塀際に近く、お初が
「わしが何だと不思議がるより、こちらが倍もおどろいたわ。江戸には、大した女泥棒がいるものじゃな――さすが、お
そして、ふッと、相手が、びっくりしたように――
「おやッ、おまえは、江戸下りの――中村座の!」
と、叫ぶように、何で気がついたかそう言うのを、おッかぶせて、
「そのようなこと、どうでもよい。早う逃げなされ! わしが、今、騒ぎ出しますぞ!」
塀の方に、突っぱなすようにした白面女装――裂くような声で、
「泥棒でござります! 盗賊でござります!」
バタバタと、庭下駄の音をひびかせて、高く叫び出した。
そのときには、もう、軽わざお初、ひらりと塀を越えて、影のように、どことなく消えている。
「泥棒でござります! 早う、お出合い下さい!」
ガタガタと、家中の戸が開く音がして、六尺棒や、木刀を押ッ取った若党、
「おお、雪之丞どのか! して、泥棒は!」
「太夫、盗賊めは?」
口々に、
雪之丞は、いかにも申しわけ無げに、若党たちに
「お
「いやいや、見つけ下さらねば、害をうけたかも知れなんだ――捕えると捕えぬとは二の次」
と、いつか、これも押ッ取り刀で、飛び出して来ていた用人が、いって、
「して、賊の風体は?」
「黒いいでたちをしておりましたが、とっさに逃亡いたしましたゆえ、ハッキリとは見分けられませず――何でも、お
雪之丞は、かの女賊に、不思議な好奇心と、興味とを感じていたので、彼女に出来るだけ有利なようにいって置こうとするのだった――つづまるところ、三斎一味に敵意を抱く人々は、みんな自分の味方である――と、いうような観念を捨てることが出来なかったのであろう。
「それに致しても、そのやさしい姿で、心の
と、用人は、讃めて、
「お
塀外をあらために出た、若侍たちも、空しく帰って来た。
「怪しい影も見当りませぬ。たった一人、町女房らしいものが、歩いておりましただけ――その女性が、つい今し方、風のように、追い抜いて駆け去ったものがあると申しましたれば、大方、そやつが――」
「土部屋敷と知って押し入る奴、大胆不敵だのう――が、事が未然に防げたのは、太夫のお骨折りだ。明夜から、警戒を、十二分にせねばならぬ」
用人は、首を振り振り、そんなことをいっていた。
雪之丞が、元の離れに帰ると、顔いろを失くして、懸念にわななきながら浪路がむかえた。
「まあ、そなたは、向う見ずな! 泥棒などに近づいて、もし負傷などなされたら、わたしがどのように心を痛めるか――」
「いえいえ、ただ、言葉をかけてやりますと、バラバラと逃げ去ってしまいました。泥棒などと申すものは、みな、気持に
「でも、これからは、決して、そのような危い場所に、お近づきなされてはなりませぬぞ。そなたのからだは、そなた一人のものではない程に――」
浪路は、もう強く強く決心しているのだった――柳営大奥へは、二度と足ぶみをしないとまで思いつめてしまったのだった。
――わたしは、もう、出来るだけ、父上、兄上の便利になった。この上は、わたし自身のために生きねばならぬ。自分の恋の真実に生きねばならぬ。だれが何というても、わたしはわたしの道を行く――恋しい人を、はげしくはげしく抱きしめて――
だが、
「太夫、おかえり前に、御隠居さまが、お礼を申したいゆえ、お居間にとのことでござります」
折角、
老女が、三つ指を突いているので、存分に別れることばさえ掛けられず、
「では、また折もあったら、見舞ってたも」
と、いうのが、関の山。
雪之丞は、恋する女の、激しい、強い視線に、沁み入るような瞳を返して、
「必ずともに、明日にもまた、お目通りいたしまする」
二人の今夜の
こちらは、軽業お初、松枝町角屋敷の塀を
「婆や、何か見つくろって、一本おつけよ」
と、いくらか、突ッけんどんにいい捨てて、
「おや、
と、けげんそうに、這い出して来た、例の、ずんぐり者の、むく犬の吉に、
「余計なこと! 勝手なところをぞめいておいで――」
と、紙にひねったのを投げてやって、茶の間にはいって、ぴたりと、
むく犬の吉、ペロリと舌を出して、
――だから、いわねえこっちゃあねえ――松枝町の角屋敷、なかなか七面倒な場所なんだ。出来ごころで、のぞいたって、そう
いろ気が薄くっていいというので、たった一人、側に置かれているむく犬、駄犬ほどには主人おもいだ。
――どれ、じゃあ、ひとつ、あいつらのつらでも見てくるかな。
裏口から、
「吉ッつぁん、あしたは、お湯にはいって、
気の利いた大年増だが、毒口は、生れつきだ。
その婆やが、小鍋立ての支度をしている頃、女あるじは、
――不思議なばけ物だねえ? あの女がた――ひとの利きうでを――匕首をつかんだ利きうでを、怖がりもせず掴みやあがったが、その力の強さ。おいらあ、思わず声が出そうだった。ほんとうに、何てにくらしい奴だったろう?
と、呟いて、また考え込んで、
――それにしても、妙だねえ、おいらをとっつかまえるのでもなく、わざわざ逃がしてくれたのはどういうものだ? あの力だ。おいらなんぞは、赤んぼのように、どうにも出来たろうに――
軽業のお初、婆やが、小鍋立てをして、酌をしながら、何かと世間ばなしをしかけようとするのを、今夜にかぎって、邪魔な顔――
「うん、そいつが聴きものだねえ――面白いはなしだ。だが、またあとで聴こうよ。あたしはちっとばかし考えたいことがあるんだから――」
婆やを追いやって、手酌で、ちびちびやりながら、
――おいらほどの泥棒を、とッつかまえたなら、御贔屓すじの三斎から、どんなにか
そう心に呟きながら、
――だが、あの生れ
と、讃めて置いて、又、おこりっぽく、
――おいらあ、しかし、今夜のことは忘れはしねえぜ。逃がす、逃がさぬは別として、とにかく、お初姐御の仕事は、てめえが立派に邪魔をしやがったのだ。てめえがよけいなことさえやらなけりゃあ、三斎の奴の枕元から、せめて
盗みが渡世になってしまっているお初、雪之丞に、不思議な好奇心を
――一てえ、あいつの宿はどこなんだろう? あしたは、芝居町の方へ出かけて行ってくわしく
パンパンと手を打って、婆やに、
「お
と、いったが、それが来ると、
「ねえ、婆や、おまえも立派な江戸ッ子だが、今度はちっとばかし口惜しいわけだね?」
「何がで、ございます。御新造さん」
「何がって――中村座の大坂役者に、すっかり持っていかれてしまったじゃあないかね? 折角の顔見世月をさ、江戸の役者が、一たい、どうしているのかねえ?」
「それがやっぱし、珍しもの好きの江戸ッ子だからでございましょうねえ――聴けば、雪之丞とかいうのが、あんまり大評判、上々吉の舞台なので、来月も、つづけて
「もちつき芝居まで引き止めるのかえ?」
「はい、忠臣蔵で、
この婆や、こんな話になると、じきに乗り出して来る方なのだ。お初はしきりに考えこみはじめるのだった。
軽業のお初、その晩は、婆やと、中村座の噂ばなしなぞで
――あのばけ物は、おいらが、江戸で名代の女
朝風呂にはいって、あっさりと隠し化粧をすると、軽く朝げをすまして、例の町女房にしては、少し
芝居町で、出方にいくらかつかませれば、役者たちについての、表立ったことはじきに何でも判って来る。
菊之丞、雪之丞の、切っても切れぬ親子のような師弟が、一緒に棲んでいる宿屋の名を聴きだし、ちゃあんと、日のある中に、所もつき止めると、夜更けまで用のないからだ。
――あいつの舞台を、もう一度見てやろうか知ら!
と、つぶやいたが、ちょいと癪にさわる気がして、中村座のつい前の、結城座で、あやつりを見たが、
――畜生め、昔の女熊坂は、死に際に、恋人の手にかかって、
あやつりを出て、どこをどうさまよって、時を消したか、すんなりとしたお高祖頭巾の姿が、影のように、まぼろしのように、山ノ宿の、宿屋町にあらわれたのは真夜中すぎ――
芝居者相手の雑用宿のいじけた店が、二、三軒並んでいるのを、素通りして、意気で、品のいい「花村」というはたご屋の前に、ほんのしばし、立ち止って行灯を眺め、二階を見上げたお初、ニッと、目で笑った。
――ふうむ、もうかえっていやがるな。待っておいでよ。おめえの枕上に、ついじきに立ってやるから、――
こうした家の、裏口を、あけ
何分、朝の
――あいつ等め、表二階を
と、お初は、裏梯子の、上りつめたところで立ち止まったが、ふと、その表二階の、すっかり灯の消えた部屋部屋の、一番奥の一間に、かすかにあかりが差しているのを認めた。
――おや、あすこだな、起きているな。そういえば、何だか、もそもそ、話しごえがしていやがる。
お初は、すうっと、薄暗い廊下を、通り魔のように抜けて、その部屋の前まで行って、立ち止まった。
話しごえは、男二人だ。やや
水いろちり
「いかにもそなたが、そこまで腰をおとしてしずかに事を運ぼう気になったのは何よりだ」
と、これは、菊之丞の、やや
「何分にも、かたきの数は多いのだし、すべてがこの世にはばかる程の、それぞれの向きの大物たち、並べて首を取れるわけがない――ゆるゆると、人目に立たず、一人一人亡ぼしてやるのが一ばんじゃ、しかし、わずかの間に、それだけ事を運ばせたは、さすが、そなただの」
雪之丞、師匠の前で、だんだんに着手し進行せしめている、復讐方略の説明をしているものらしい。
が、お初に取っては、今夜、この役者の宿で、こんな密話を聴こうとは全然予期していないことだ、思いもかけぬ物語だ。
――何だねえ? かたきの、首のと!
と、彼女は
――この次の狂言の、筋のはなしでもあるのかしら? いいえ、それとは思われない――でも、あの、雪之丞がかたき持ち? あろうことかしら?
妙に胸が、どきついて来るのを押えて、耳をすますと、中では、当の女がたが――
「わたしにいたせば、思い切って、一日も早く、片っぱしからいのちも取ってつかわしたいのでござりますが――父親の、あの長の苦しみ、
この人にだけしか、口に出来ぬ
「じゃが、心弱うては!」
と、師匠が、
「悪魔にも、鬼にもならねば――この世の望みは、いかにたやすいことも成らぬのが
「は、わたしとても、その積りでござりますれど――」
お初の、まるで無地のこころにも、いくらか、事の真相がわかって来るような気がされた。
――やっぱし、人は見かけに寄らぬもの――あの雪之丞、では、一方ならぬ大望をいだいている男だと見える――それでこそ、あの腕の強さ。気合のはげしさ!
彼女は、昨夜、
――そして、しかも、その相手の一人が、土部三斎のじじいだとすると、こいつあよっぽど舞台の芝居よりも面白い。ことによったら、このお初も、一役、買ってやってもいいが――それにしても、あの優しい、なまめかしい女がたの身で、随分思い切ったことを考えるもの――
お初は、かぼそい、白い手で、巌石を叩き砕こうとしているのを眺めてでもいるような気がして来て、自分のからだが痛くなるのだった。
彼女は、雪之丞に、ある同情を、今やはっきりと抱きはじめたのだ。
軽業のお初と、世に聴えたほどの女泥棒、師弟二人の秘話を、思わず耳にして、さすがに枕さがしもしかねて、そのまま煙のように役者宿を出てしまったが、このまま、これほどの他人の大事、歯の中におさめたまま辛抱していれば、見上げたもの、さすがはいい悪党と、讃められもしたろうに、お初とても、凡婦――凡婦も凡婦、いかなる世上の女よりも、欲望も感情も激烈な、おのれを抑えることの出来ぬ性分だった。
――役者の身で――あんななまめかしい女がたの身で、聴けば、江戸名うての、武家町人を相手に、一身一命を賭けて
と、そんな風に、すっかり感心してしまったのが、運のつきとでも云おうか、その晩以来、寝ても醒めても、どうしても忘れられないのが、雪之丞の
――ほんとうに、どうしたらいいのかねえ――おいらあ、生れてから、こんな気持にされたことははじめてだが――まさか、このおいらが、あんな者に恋わずらいをしているのだとは思われないけれど――
相変らず、長火鉢の前、婆やに、
――だけれど、そういうもののおいらだって、まだ若いんだ。ときどき、男が恋しくなったって、お
そこは、
――それに、いかに方便だってあの晩の話で見りゃあ、三斎屋敷のわがままむすめ、大奥のこってり
根が小屋もののお初、こう思い立つと、火の玉のようになって目的をさして飛びかかってゆく外にない気がするのだ。
――そうだとも、愚図愚図しているうちにゃあ、いつかこの髪だって、白くなってしまわあね――それどころか――
と、さすがに淋しく、
――いつまで、胴についている首だかわかりゃあしないよ。
彼女は、だんだん
――おいらあ、あの太夫を
お初はあらぬ決心をかためて、茶碗に酒をドクドクと注いで、紅い唇でぐうっと引っかけるのだった。
ひたむきな、突き詰めた恋ごころが、女ぬす人の魂を荒々しく掻き乱した。
お初の情熱は、いわば、
軽業おんなのむかしの、向う見ずで、無鉄砲で、止め度のないような、物狂おしい狂奮性がカーッと、身うちによみがえって来たのだ。
小屋もの、女芸人とあざけられて、人並の恋さえゆるされなかった世界に、少女時代をすごした彼女は、むしろ反抗的な、争闘的なものをふくんでいない愛情なら、決して欲しくないような気さえするのだった。
――あの女がたのまわりに、何百人の女がまつわっていたって、それが何だ? どんな家柄や金持の娘たちが、わがもの顔にへばりついていたって、それが何だ? おいらだって、
そう思い立って、愚図愚図していられるお初ではない。
「婆や!」
と、叫びながら、手をパンパン鳴らして、
「婆や、お湯の支度をしておくれよ。急ぐんだよ――大いそぎ」
「お出掛け?」
と、台どころから言うと、
「うん、出かけるのさ、ちょいとめかして出かけたいのだよ」
小さいながら、
胸も、下腹部も、股も、突然かけられた熱い湯の
――おいらだって、
ふっくらした腕を、左右、そろえて、見比べるようにしながら、こんなことを、彼女はつぶやくのだった。
いつもの、薄化粧を、今日は、めっきり濃くして、
芝居町のまがきという茶屋の前まで来て、かごを捨てると、奥まった
「ちょいと、たよりをしたいところがあるから
女中が、持って来た、紙筆を取り上げて、小綺麗な、筆のあとでお初は書いた。
折り入ってお話しいたしたきことこれあり候 まま、ちょいと、お顔拝借いたしたく、むかし馴染 おわすれなされまじく候 。お高祖頭巾より
この手紙はすぐに中村座楽屋に届けられた。お初が、そんな境涯に育ったにも似合わず、器用な生れつきで、さして
使いの女中に、
「このお女中、背のすらりとした、物言いのきびきびしたお人でありましょうね?」
「ええ、さようでございます。よく気のおつきになるような、下町の
「お目にかかり度いが、何分、今晩は、先にお約束したところがありますゆえ、またいい折に、お招きにあずかりたいと、そう、丁寧に申し上げて置いて下されるように――」
茶屋の女中は、たんまり心付けを貰っている事ではあるが、雪之丞ほどの流行児を、そう気ままに扱うことが出来ないのは承知ゆえ、
「さぞ、残念にお思いなさると存じますが、よんどころございませんから――」
その返事を持ってゆくと、お高祖頭巾の女と名乗ったお初は、別に失望したようでもなく、さもあろうというように、うなずいて聴いて、
「大方、そんなことを言うであろうと思うていたが――お気の毒だけれど、もう一度、手紙を届けて下さるまいか――」
そして、新しく、結び文をこしらえた。その文面は、
壁にも耳のあることにてござそろ、密事は、おん宿元にても、かるがるしく申されぬがよろしく候 、くわしくお物語いたしたきけれど、おいそがしき由ゆえ、今宵は御遠慮申し上げまいらせ候、かしく
茶屋の女は言われるままに、又も雪之丞の楽屋をおとずれねばならなかった。もうすっかり
「このお女中、この手紙を置いて帰られたか?」
と、彼は、いくらか震える唇でたずねるのだった。
「いいえ、まだ――多分、お返事を、おまち兼ねと思いますが――」
「では、はねたら、すぐに伺うゆえ、しばしおまちを――と、そう申して置いて下され」
出場だった。
お初は、女中から、二度目の手紙が、十分に奏功したということを聴くと、ニンヤリと、染めない歯をあらわして笑った。
「まあ――現金な」
そして、女中に、あらためて骨折りを包んでやった。
「太夫が来たなら、お酒の支度をして下さいよ」
女中が
――あの人は来るそうな。来ずにはいられぬわけさ。でも、
芝居茶屋の奥ざしき、女客と役者の出逢いのために出来たような小間には、手を鳴らしてもなかなか女中さえはいっては来ないような工合になっていた。
その、しいんとした、静かな部屋に、珍しく
――おや、もう、
「ようこそ――さぞいそがしいからだでしょうに――」
お初はいくらか
「長うはお目にかかれませぬが、折角のお招きゆえ――」
女中は、ほんの形ばかりの
雪之丞が、まるで
「いつぞやは、思わぬところで逢いましたな?」
「おかげさんで、あの折は――」
と、微笑したお初、もう、心の惑乱を征服した
「太夫さん、まあ、おひとついかが――」
「いや、ほしゅうござりませぬ」
雪之丞は見向きもせず、
「それよりも、今宵、話があるとて、わざわざのお呼び――その話というのを、伺いたいもの」
「まあ、三斎屋敷のお
お初は、冷たく笑って、
「やっぱし、お前さんも芸人根性がしみ込んでいるのかねえ――それ程の大事を控えた身でも――」
雪之丞の、美しい瞳に、冷たい刺すようなきらめきが走った。彼はあの二度目の手紙を受けてから、何かしら決心しているに相違ない――壁に耳――若し、大事を真実この女白浪に
「わたしとそなたとはあの夜だけ、ほんのかりそめに出逢うた仲、それなのに、なぜまた立ち入ったことを言われるのじゃ?」
「ほ、ほ、
お初の目付には、相手の胸の底に食い入ろうとするような、荒々しいものが
雪之丞は、その瞬間、ハッと、何ものかを感得した。
――この人は、わしに何か望みをかけている。世の中の、多くの女子のように――
彼は一種の恐怖と嫌悪とを感じた。そしてその女が、しかも、自分の大秘密をかなりくわしく知ってしまっているらしいのだ。
しかし、雪之丞に取っては、一生の大秘事を、感付いているらしい、この女白浪のお初が、自分に対して、毒々しい恋慕の情を抱いているのがまだしもな気がした。
事を
けれども、お初は、恋にかけても、
ぐっと飲んだ杯を、突きつけるように差しつけて、
「ねえ、太夫、何もかも、不思議な縁と、きっぱり覚悟をしておくんなさいよ。すこしはこれで、鬼にもなれば、仏にも、相手次第でどうにもなる女なのさ――だけど、ねえ、いのちがけで想い込んだお前、決して、御迷惑になるようなことは、したかあないのですよ」
雪之丞、苦い思いで、杯を干して返して、
「思召しは、ほんとうにうれしゅうござります。もうじき今月の狂言もおわりますゆえ、そうしたら、ゆっくりお目にかかりたいもの――」
「何ですッて! 気の長い!」
と、お初はジロリと、流し目をくれて、
「あたしが、どんな世界に生きている身か、知らないお前でもあるまいに――」
彼女は、別に、声も低めなかった。
「いつ何どき、見る目、嗅ぐ鼻、ごずめずの、しつッこい縄目が、この五体にまきつくかわからないからだなのですよ――明日のあさっての、まして、十日先きの、二十日先きの、そんなことを楽しみにしてはいられないのです――」
じれったそうに、お初は唇を噛みしめて、ぐっと、からだを擦りつけるようにするのだった。
「それは、よう知っているなれど――しかし、そんなに性急にいわれても――」
雪之丞は、そこまでいって、女の了見が、怖ろしいまでに
「実は、そなたは、どう思うていられるか、この雪之丞、心願のすじがあって、女子に肌をふれぬ決心をかためている身――そなたなら、この気持を、察して下さるだろうと思うのでござりますが――」
「ほ、ほ、ほ!」
と、お初は突然、すさまじい声で笑った。
「ま! 本気そうな顔をして――ほかの人なら、その
ちょっと、指で、雪之丞の口元を突くようにして、
「まあ、こんな、可愛らしい口付をして、何という嘘ばっかり――」
と、笑ったが、急に、頬を硬ばらせて、
「太夫、用心して口をおききなさいよ――相手が、ちっとばかし変っているのですからね――そして、そういっては何だけれど、あたしの口ひとつで、お前の望みがけし飛ぶのはおろか、いのちさえあぶないのだ」
この女、
雪之丞は、浅間しいものに思って、ゾッと寒気さえ感じたが、お初の方では、相手の気持の
見れば見るほど美しいし、こちらの身分を知って、
「ねえ、太夫、あたしを、清姫にならせずに置いておくんなさいよ――あたしは自分で自分をどうすることも出来ないように、いつの間にか成ってしまっているのです。あたしは、お前をちっとも苦しめたいことはないのですよ。たった一度、かわいそうな女だと、抱き締めてくれさえしたら――」
「そなたは、わたしが、どんなに本気に申しても、わたしの心の誓い、神ほとけにも誓ったことを信用が出来ないのだ」
雪之丞は、
「わたしが何も、そなたがどんな渡世をしているからというて、それをいとうではさらさらないなれど、今この場で、望みを叶えて上げることは、何としても日頃の高言に思い比べても出来にくい。そこを、よう聴きわけてくれたなら――」
「いいえ、いやじゃいやじゃ」
と、女賊は、髷がゆるみ、鬢の毛がほつれるほど激しく、かぶりを振って、ぎゅっと、雪之丞の二の腕を、爪の立つほどつかむのだった。
「あたしは、思い立ったら、ついその場で、火にも水にも飛び込んで来たからだ――ことさらここまで思いつめ、ここまで口に出した願い、この場でなくては
事実、この女、自分を捨てる気になったら、こうして一緒に地獄の底までも引き落してゆくだけの、怖ろしい決心をつけかねぬ形相だ。
雪之丞は、運命のいたずらに、
――蠅一匹殺したくはないのだけれど――ことに
雪之丞、毒蛇のように、火を吐かんばかりに、みつめて来る、相手をチラリと見返して、
――思い直してくれればいいのに、何という執念ぶかさ!
「何をじっと見ていなさるのさ」
お初は、手酌で、杯をふくみながら、
「あたしの顔が、蛇にでもなったの? 角でも生えたの?」
「ではこういたそうかしら」
と、雪之丞は、
「折角の、そなたの心持、このまま、別れてしまうのも、何となく、わたしも心淋しい――さりとて、この家では、どういたそうとて、人目もある――」
「ま!」
と、お初は、急に、生き生きと、躍り立つような目顔になって、
「嬉しい!」
「大分更けたようだし、そろそろこの家を出た方が――」
「で、これから、どこへ行くつもり」
お初は、猪口を、器用に、水を切って、
「外は寒いから一つおあがんなさいな」
雪之丞は、うけたが、呑まずに、膳に置いた。
「
二人一緒に、芝居茶屋を出ることが、はばかられるので、山ノ宿、
「いい加減なことをいって、待ちぼうけを食わせると、噛みつくから――」
「大丈夫、わたしとても男――二言はない」
あとを見送って、
「あいつのいったことほんとうか知ら?」
と、口に出してつぶやいた。お初、胸の中で、
――一時のがれの嘘っぱちとも思われないが、さりとて、おいらのこの思い詰めた気持を、あんなに急に聴き分けるとも思われない――口説にかけて、たぶらかす気か、それとも、ことによると、大事を知られて、生かしては置けずというわけか――ふ、ふ、いずれにしろ、おいらも、飛んだ奴に想いをかけてしまったものさ。
森閑とした通りを、お初は、小刻みに、走るようにいそいだが、その
この辺、芝居町が移って来たので、急ににぎやかになったが、ちょいと外れると、まだ田舎田舎したものだ。
山ノ宿の、文殊堂――もうじき、大川も近い、
そのお堂前に、黒く、ぽつりと
「お待ち遠さん」
と、さすがに、お初、女らしく、歩みちかづいた。
「いいえ、土地なれないものだから、迷って歩いて、やっと、
雪之丞は、お高祖頭巾の間から、星のように美しい目で、お初を迎えた。
「さあ、では、待乳山の方へ出かけましょうよ――お話の家は、たしか小舟とかいう茶屋でしょう――」
「そうそう、そういう家号でありました」
と、雪之丞は、うなずいたが、ふと、調子を変えて、
「ねえ、
「何でも、訊いて貰った方が、あたしの方もいいのですよ」
お初は、即座にいって、チラリと見返した。
「では、うかがうが、あの文にあった、壁に耳の――わたしの大望のと、いうのは何を言うのでありますえ?」
雪之丞は、キリリとした口調で言った。
お初の目が、これも、お高祖の隙で笑った。
「その言葉のままなのさ。壁に耳があることゆえ、うっかり胸の中は、しゃべれないと言ったまで――」
雪之丞は、お初に寄り添うように近づいて、
「もう少し濁さず言うて貰いたい」
雪之丞、今は思い切って、ずっと、お初に寄り添うと、ぐっと、和らかい二の腕を掴むようにした。
「ねえ、何もかも、ハッキリいって貰いたいのだが――」
お初は、腕に、指をまわさせたまま、振りほどこうともせず、あべこべに、
「おや、また、腕立てかえ?」
彼女は、三斎屋敷での、一条を、思い出したに相違なかった。
「腕立てというわけではないけれど」
と、雪之丞は、低い、強い調子で、
「万一、このわたしに、そなたの言うとおりの大望というものがあったとする――いい加減なことを小耳にはさんで、
「だからさ、わからないお人だねえ」
と、お初は、一そう、男の胸に、全身を押しつけるようにして、
「あたしは何度も言ってるだろう? あたしの気持さえ察してくれたら、たとえばお前が、人殺し、兇状持ちの人にしろ、決して歯から外へ、出すことじゃあないと。そこは、それ、魚ごころあれば、水ごころと言うことがある」
白く、
梅花のあぶらが、なつかしく香るのが、雪之丞には却って胸苦しい。
「と、言って、それはあんまりな押しつけわざ――そなたも、見れば、江戸切っての
「いいえ、あたしゃあ、そんなにえらい女ではありませんよ。きらわれものの女白浪、それもお前というお人を一度見てからは、
お初は、ぐっぐっと、雪之丞にしがみつくようにして
雪之丞は、からだ中に、沸かし立てた、汚物をでも、べとべととなすりつけられるような、いいがたい
――何というおそろしい執着だろう! この女は、わしの見かけに寄らぬ腕は、十分知っているだろうに――いのちを賭けて横恋慕をしているのじゃ――さて、どうしたら?
「ここまで来れば、二つに一つさ」
と、お初は、炎のような息を吐いて、
「あたしの心を受けてくれるか――それともあたしを敵にまわすか――」
「もし、わたしが、そなたを突きのけたら――」
「さっきからいっているように、鐘の中に逃げ込んでも、蛇体になって巻きついて、お前のからだを
雪之丞、
「これ、どうあっても、そなたはわたしを邪魔する気か!」
つかんでいた二の腕を、ぐっとねじり上げようとすると、お初はパッとすりぬけて、
「おや、人を殺す気かえ!」
「ホ、ホ、大方、こんなこともと思っていたんだ」
お初は、雪之丞から、パッと飛び退くと、右手を帯の間に突ッ込んでいた。
「だが、太夫、お前は
彼女は、別に、とっかわ逃げ出そうともしないのだ。
黒門町のお初というものが、下り役者にうしろを見せるのは、一生の
雪之丞はジリジリと進んで行った。もう彼は、今眼前へ毒口を吐いている人間を、女子供と
――この場を、生けて逃がしたら、この女、三斎屋敷へ、このまま、駆け込むに相違ない――許せぬ。
ぐうっと、迫ってゆくと、闇の中で、お初の目が、
「こんちくしょう! 殺してやるから! そんなに寄って来ると――」
お初、もとより雪之丞の、真の手腕を知っているわけがない――
「こいつめ!」
と、ビュウと、突ッかかって来る。
雪之丞は、さすがに、自分は懐剣をひらめかせる気にはなれない。
十分に、突ッかけて来させて置いて、たぐり込んで、一絞めに絞めてやろうと、身をかわす――お初は、その隙をくぐって、二の太刀を斬りこもうとはせず、
「馬鹿め! あばよ!」
と、闇にまぎれて、パアッと、駆け出してゆくのだ。
軽業のお初――名うての女賊だけあって、その飛鳥の身のこなしは、なかなか、ありふれた剣者なぞの及ぶところではない。
――おのれ、逃がしたら、それまで――雪之丞は、追いかける。
ほとんど、真の闇の、山ノ宿裏道の真夜中――人ッ子一人通るはずがないのだが、その時、思いがけなく、駆けゆくお初の行手から、二人づれの、黒い影――
「何じゃ! 夜陰に?」
と、武家言葉が、とがめるのを、お初、
「おたすけ下さいまし、いま、あとから乱暴者が――」
「なに、乱暴者?」
と、一人が、透かして見て、
「おお、なるほど――」
雪之丞、とんだ邪魔がはいったと、ハッとしたが、お初を、どうしても、このままには逃せないのだ。
――ええ、面倒な、邪魔立てしたら、どんな奴でも――
これもはじめて、懐剣の柄に手をかけて、かまわず、飛び込んでゆくと、
「おのれ、何で、人を追う?」
二人づれの武士は、立ちふさがって、
「や! これも女だな?」
「どうぞ、お通しを――あれに逃げてまいる者に、どうあっても、用のありますもの――」
すばやい、お初、もう、その時には、くらがりの中にすがたを溶けこませかけている。
「待て!
二人の武士は、雪之丞をさえぎりつづけた。
前を
「どうぞ、お通しを!」
と、叫びざま、サッと、袖の下を潜り抜けると、もう一人が、また前にまわって来て、
「女だてらに――あぶない――刃物なぞ手にして?」
「ですから、おあぶのうござりますぞえ!」
雪之丞、
「や! おのれは!」
と、鋭く、しかしびっくりしたような声が、立ちふさぐ侍の口から洩れた。
と、同時に、トン、トンと、二あしばかり退って、踏みしめると油断なく構えて、刀に、手をかけた
雪之丞も、相手が、本気になって、身を固めたので、屹ッと闇を透かしてみつめると、あろうことか、それが、昔の兄弟子、今はあきらかに、敵とみとめずに置けぬ、門倉平馬なのだ!
「ほう、そなたは?」
と、思わずいうと、
「江戸は、広いが、狭いのう――雪之丞、久しぶりだな? よう逢えたな?」
「なに、雪之丞?」
「今夜も、今夜、貴公から聴いた?」
「うむ、その女形だ」
と、黒い影が、うごめいて、
「のう、雪、今夜は、始末をつけてしまった方が、お互に為めであろうな?」
「そなたが、その積りなら、それもよいが、今は、気にかかることがある――たった少しの間待ってくれれば、引ッかえすほどに、あれなる者に、どうしてももう一度逢わねば――」
雪之丞、今の中なら、逃げ伸びたお初を、追いつめることが出来ようが、いかに腕に劣りは感ぜずとも、平馬ほどの者と、その伴れとを打ち
「何を馬鹿な!」
と、平馬は毒々しく、
「こういう仲になった貴様の便利が計っていられるか? それとも、
「門倉、やっておしまいなさい」
と伴れの武家が、右手の腕まくりをしながらいった。
「一度、からだに傷をつけられた奴、
――何を、平馬は、こうまで
雪之丞は、心で、考えて見るだけの余裕があった。
が、相手は、
ギラリと、太刀を引き抜くと、一松斎仕込みの、上段、それに自分の趣向を加えた、みずから
「行くぞ!」
と、叫んだ。
雪之丞は、平馬が、荒々しい上段に刀を振りかぶったのを見ると、スッと、横にはずして、うしろを田圃に、もう一人の敵を用心しながら、身を沈めるように、懐剣をぴたりとつけた。
彼はいつも一松斎道場で、平馬が、この位を取るときには、ひどく勝ちをあせる場合なのを知っていた。
工夫の多い雪之丞、かねがねから、若し平馬が、立ち合いのとき、この上段を取ったら、どう破ったらいいか――と、いうことを、以前から研究していた。
それを、いま、実地でためすときが来た。
が、こんなに突きつめた、迫った場合にも、彼の心はためらわずにはいないのだ。
――大事の前の小事――いま、この男を殺して、それが、きっかけで、自分が法の網を怖れねばならぬことになったら? あの不思議な女盗賊は、秘密を知って、それを逆手につかって人を脅かすのゆえ、殺さずには置けぬ――が、平馬は、別の意味で、つまらぬ意趣で、自分を恨んでいるだけだ――こやつ等と、いのちのやり取りをしては、間尺にあわぬ煩いをのこすかも知れぬ。
一松斎、孤軒、菊之丞――
すべて、自分の指導役に当っている人達は、軽はずみをするな――と、だけいましめてくれている。
では、いかがすべきであろう?
――何の、たかだか、この二人、当て
大胆な、雪之丞、二人の相手のいのちだけは、助けて置くが、便宜だと考えると、もうサアッと、気が落ちついて、氷のような冷たさが、頭をハッキリさせた。
右手の短刀を低めたまま、左の拳を小脇に引きつけて、じっと、目をくばる。
と、そのとき、呆れたことには、つい、平馬のうしろまで、いつか、お初の、黒い影が、取ってかえしていたのだ。
彼女は、
「ホ、ホ、ホ、ホ! 生れぞくない! 思いがけないことになって、どうするつもりだね? あたしのことは、絞めも斬れも出来ようが、今度は、ちっと、相手が強いねえ? ホ、ホ、ホ!」
彼女に、どうして、雪之丞の手の中がわかり抜いているであろう!
「それにしても、あたしにしたってお前を、ここでお侍さま方の刃の
お初は、雪之丞、平馬のいきさつを、これもわかっているはずがない。
雪之丞は、お初が、不思議ないたずら気から、取って返したのを見ると、ホッとした。
――
気が、楽になって、スウッと、身を、左にまわすと、伴れの侍が、それに誘い込まれたように、中段に取っていた刀を
「やあッ」
と、
ウウウンと、のけぞる侍――
当身を食って、大刀こそ放しはせぬが、
「む、ううむ」
と、うめいて、のけぞって、体が崩れて、そのまま、
「雪、さすがだな――」
平馬は、それと見て、奥歯を噛むようにして、うめいて、
「生意気な!」
彼は、雪之丞が、剣を使わず、拳を用いたのが腹立たしかったのだ。
彼等二人は、この先きに、最近出来た、
が、憎い! 出逢い次第、どうしても、生かしては置けぬほど、彼は、雪之丞が憎い! その憎みが、どこから来たかは、彼にも、はっきりいえないのだ――師匠が自分を
恐らく、この女にも見ぬほどの、たよたよしい、さも、無力にしか見えぬ、女がたが、舞台の芸の外に、かくも、神変幻妙な、武術の才を持っているのが、先天的な、異常な
――どうでも、今夜は斬るのだ! 殺さずには置かぬのだ!
彼は、心に、叫んで、最初の、独特な上段に構えたまま、
「やああ!」
と、誘う。
雪之丞も、つい今し、
相変らず、沈めた構えで、真の変化が、相手に現れて来るのを待つ。
「でも、その生れぞくない、何て強いのだろうねえ」
稲積みの蔭で、お初の声は、嘲りから、だんだん
「大刀を振りかぶった、お武家二人を相手にして、平気で戦うばかりか、見る間に一人の先生を、叩き倒したのはえらいもんだ。よう花村やあ――と、讃め言葉がほしいねえ――
お初は、大胆不敵だ。
「それにしても、じれってえなあ――お武家さん、そんな
その、
「ほ! やりやがった」
お初は、そう叫ぶと、またしても、早い逃げ足だ。
平馬を、
夜の
が、彼は、土地も不案内、まがりくねった路――息を切らして、駆けつづけたが、いつか、大川の河岸に出たときには、もういずれにも、それらしい姿をみとめることも出来ない。
雪之丞は漫々たる、黒い流れを見下ろして当惑するばかりだ。
――しまったことをした! しまったことをした! 千
剣を取っては、いかなる大敵をむこうにまわそうと、決して
そのとき、彼のこころに、ふッと、浮んだのが、浅草田圃に、
――そうだ! こんなときこそ、あのお人に相談しよう――あのお人なら、望みを打ち明けても、決して歯から外に洩らすことではあるまい。そして、今の、あの、不思議な女とは、いわば同業、世にいう、
と、思い当ると、雪之丞は、丁度、むこうから来た、戻りの辻かごを見つけると、
「かごの衆、浅草田圃まで――」
もはや、
「へえ、ありがとうさん――お召し下さいまし」
トンと、下りたかごに、乗ると息杖が立って、
「ホラショ! ホイヨ!」
「ホラショ! ホイヨ!」
かごは、命じられた方角を指していそぎはじめた。
雪之丞の懸念は、ただ、目あての人が、夜の渡世――うまく今夜、うちにいてくれればいいということだけだ。
そのころ、もう落ちついた足どりで、さも、ほろ酔いを川風に吹かせでもしているかのように鼻うたまじりで、大川ばたを、
――畜生メ! お初ちゃんともあろうものが、今度はすこし
と、自らあざわらうように、
――どうしたわけで、あんな出来そくないの、野郎のくせに、内股にあるいているような奴に
と、呟いて、ぐたりと、うなだれて、火を吐くような吐息をして、
――でも、おいらには、何だかそれが出来ないんだ。あいつのあの根性と、あのすばらしい剣術――どこまで考えても不思議な奴――
こちらは――
例の細工場で、シュウ、シュウと、かすかな音を立てさせながら、まるで、一個の芸術家のごとく――いいえ、どんな
とんとんと、遠慮深く、戸が鳴って、やさしい声で、
「
と、いうのが聴えると、ハッと、さすがに油断なく、あたりを
「おッ! 太夫だな!」
と、叫ぶと、世にもうれしげな表情が、きりッとしたこの男の顔にうかぶ。
「あけますよ! 今すぐ!」
「思いがけない! こんな時刻に――一たい、どうした風の吹きまわしで――さあ、上っておくんなせえ」
細工場に導いて、
「おや、太夫、お前さん、
闇太郎自身の面上にも、にわかに不安の影が射す。
雪之丞は、さも心配そうに、そういってくれる、この不思議な心友を、たのもしげに仰いだが、
「実は、身に差し迫った難儀が出来まして、是非ともお前さまのお手で、お力がお借り申したく押しつけわざに
口ごもるのを、
「そりゃあありがてえ、おれのようなものを力にしてくれた以上、どんなにでも及ぶだけ働くが――それにしても、気にかかる、その難儀というのを、早く聴かして貰いてえものだ――」
と、膝がすすむ。
雪之丞、今は、何を包みかくす気持がない――まず、三斎隠居屋敷での、女白浪との出逢いから、その女のしつッこい、
闇太郎は、あるいは怒りあるいは歎き、
「おお、そういうお前さんだったか? 何か、大きな望みを持つ人とは思ったが――よく打ちあけて下すった。かずならねえ身も、どうにかして力になりてえものだ」
と、言って、
「その、女泥棒の方は、心配なさるな。聴いているうちに、おれに、ちゃあんと思い当って来やしたよ」
「多分、
「大方、そりゃあ、軽業お初という奴さ」
と、闇太郎は、いくらか笑って、
「なあに、なかなか気性のある女だが、思い立ったら利かねえ
闇太郎は、雪之丞の物語を聴くと、すぐに大きくうなずいて、こんな風に慰めたが、
「それにしても、太夫、物事は、ケチがつきはじめると、あとからあとからヘマが出るものだ――大望といって、あんまり大事を取っていると、どんな
「いかにも、お言葉どおりでござります」
と、雪之丞も、合点して、
「せめて、ここ十日も、経ちましたら、お前さまにも、何か、お耳にひびくでござりましょう」
「折角たずねてくれたこと、茶も出さねえで失礼だが、お初と来ると、先方も
闇太郎は、そう言うと、立ち上って、八反の平ぐけを、ぐっと引きしめて、腹巻の間に、匕首をひそめて、豆しぼりの
「じゃあ、そこまで、一緒に出ようか――なあに、おれのカンは、はずれッ子はねえ。必ず、今夜中に、あの色気違えをとッつかめえるよ」
闇太郎は、辻かごのいるところまで、雪之丞を送って来て、
「そんなら、別れるが――安心して
「どうぞ、お願いいたします」
雪之丞は、やっと、ホッとして、かごに揺られて、旅宿の方へ――
闇太郎、例の吉原かぶり、ふところ手で、
――人は見かけによらねえものというが、女がたの雪之丞、そこまでの大望をいだいていたのかなあ――何か一癖ある奴とは思ったが――何にしても、変った奴だ。おらあ、あいつのためなら、死んでやりてえような気持までするんだ。だが、お初ッて奴も、いい加減な茶人だなあ――見す見す泥棒と見ぬかれているのを知りながら、こわおもてで
闇太郎は、お初が、さも、通い番頭のお
夜更けの裏通りで、
どぶ板を、無遠慮に踏んで、路地奥にはいって、磨きの格子戸――まだ雨戸がはいっていない、小家の前に立つと、ためらわずに、
「御免ねえ! ちと、急用だが――」
どこまでも、
「どなたさんか? おかみさんは、ちっと用があって出て、戻りませんが――」
「それじゃあ、上げて貰って待って見よう――ちっと、大事な話なんで――」
ばあやは、透かして見て、遊び人が、何か筋をいいに来でもしたかと思ったか、
「でも、今夜は、遅いから、あしたのことに――もう、お前さん、夜更けですよ」
闇太郎と、婆やとの押問答が、二階に聴えたと見えて、晩酌に一本つけて貰って、女あるじ――女親分の留守の間を、楽々とごろ寝を
「誰だ、誰だ? 何だ? 何だ? こう、小母さん、
と、婆やを、かきのけるように格子先を、白い目で
「おい、おまはん一てえ、どこのどなただ? よる夜中、ひとの格子をガタピシやって、どぎついことを並べるなあ、あんまりゾッとした話じゃあねえぜ!」
と、まず、虚勢を張って見る。
ピカリと、しずかに、つめたく光る十手のきらめきも見えなかったが、しかし、相手の答えは小馬鹿にしたほど、落つき払っていた。
「は、は、は、むく犬、大した気合だな、度胸だな、機嫌だな? 俺だ――わからねえか? 久しぶりだの――」
吉原かぶりを、解いて、突き出すようにした顔――その浅黒い、きりっと苦味ばしった、目の切れの鋭い、その顔を、むく犬は、
「へえ――こりゃあ!」
と、叫んだが、また、ひどく、なつかしくもあるように、
「まあ、何と珍しい――どうした風の吹きまわしで――親分、あっしゃあ、合わせる顔はねえのだが――」
と、いいざま、土間に、
「あねはんはいませんが、さあ、ずっと、お上んなすって――」
「そうか、じゃあ、けえるまで、またせて貰おうか――実は、ちっと、
闇太郎、手拭で、裾を、パンパンと叩くと、吉の案内で、茶の間に通る。
見まわして、
「ほう、いい、おすめえだな? 姐御のこのみが見えて、意気で、しっとりと落ちついているな」
むく犬の吉、婆やをたのまず、自分で、小器用に、茶をいれてすすめて、
「ひとしきり、
「なあに、いいってことよ。おれもつき合い
「御冗談を――」
むく犬は、親分のお初が、あんまり綺麗なので、色気にひかされて、かくれ家にゴロついているなどと思われるのが恥かしいのだ。
その上、お初の、負けじ魂で、ともすれば男の闇太郎に張り合って、悪口の一つもきくのが、ひびいていやしまいかと、気にもなる。
が、闇太郎、むく犬なぞは眼中にない。
「かまわずに油を売っていてくれ。おらあ、姐御に、ひと言、話があって来ただけだから――」
「大丈夫なのかえ? 吉さん、こんな人を通してさ?」
と、心配そうな婆やを、台どころへ出て来たむく犬の吉は、目つきでおさえて、
「どうしてどうして、そんなお人じゃあねえんだよ――あれで、あのお人は、江戸で名うての人間で、名前を聴きゃあ、小母さんなんざあ、腰を抜かしてしまうのさ――それよりも、何か、有り合せのもので、親分に一口差し上げなけりゃ――」
狭いうちなので、その話ごえは、茶の間に筒抜けだ。苦わらいした闇太郎が、
「おい、吉、構ってくれるにゃ及ばねえ、姐御の留守に、そんなことをして貰っちゃあ――それより、もう一ぺえ、茶が
吉は、闇太郎のような、
「なアにね、おほめに預かれるほどのものじゃアありゃせんが、あッしも酒のみゆえ、酔いざめに、ほろ苦い茶がうめえものだから、だんだん今の年で茶好きになりやしたのさ」
「結構だ、話せらあ。江戸ッ子だよ、おめえは――」
「へ、へ、へ。
闇太郎、からかいながら、吉と世間ばなしをしているうちに、心の中で、
――お初の奴、今夜、はやまって、三斎屋敷へでも駆け込まなきゃあいいが――まさか、そんなこともしやあすめえが――女という奴は、一度、惚れ込んだとなると、ちっとやそっとのことでは、あきらめやしねえ――まだまだ未練があるにきまっている――その中に、ふくれッつらをしてけえって来るだろう――
すると、やがて、路地で、かすかな足音。それが家の前で止って、荒っぽく格子戸が、あけたてされて――
「おい、何て、留守番だ! よる夜中、格子をあけッぱなしにしやあがって!」
と、キンキンする、女の声が、角立ったが、
「おや! お客さんかえ? 見なれねえ
吉公が駆け出して、
「おお、姐はん、思いがけねえお客人で――」
「こんな夜中に、だれだえ!」
と、お初の声。
「それが、姐はん――全く思いがけねえお方で――まあ、顔を見て
「
お高祖頭巾をとりながら、茶の間をのぞいたお初、行灯の光に、闇太郎の半面を、くっきりと見わけると、さすがにびっくりして、
「おや! まあ! 闇の字親分――」
闇太郎は、白い前歯をあらわして笑って、
「姐御、久しぶりだったな、急に逢いてえことがあって、お邪魔をしていやしたよ」
「まあ、ほんとうにお珍しい――親分が、こんなところへ出向いて下さるなんて――そんなら、途中で愚図愚図なんぞしているんじゃあなかったっけ」
お初は、長火鉢の前の、派手な
「実はネ、ちっとばかしぐれはまな目になって、屋台で燗ざけをあおって来ましたのさ」
酒気をホーッと吐いて、彼女は艶に笑った。
お初は、湯呑に
「おい、吉、一たい、てめえ、何をしていたんだねえ? 親分が、折角いらしったというのに、空ッ茶を上げて置くなんて――なんにも無くとも、一くち、差し上げなけりゃあ――」
「おッと、姐御、御馳走にはいつでもなれる。まあ、おれの話というのを聴いて貰ってからにして貰いてえ」
と、闇太郎がおさえる。
お初は、素直な口調で、
「そうですか――じゃあ、お話というのを伺いましょう? 何か、女手のいる大仕事でもありますのか? なあにね、あたしもこれまで、女だてらに、親分たちを向うにまわして、大きな口を利いていましたが、やっぱし、女ッ切れの一本立ちに、くるしいこともありますのさ――親分の方から、こうしてわざわざ来てくれたのですもの、どんなことでも、否やはいわずに、働かせていただきたいものですよ」
「そうかえ。気がさもののお初さんから、そんなやさしい言葉を聴けるとは、これまで思いがけなかったよ」
と、闇太郎はうなずいて、
「そう言ってくれりゃあ、ちょいと、口から出しにくい話でも、遠慮なく言い出せるというものだ」
「で、親分、お話とは何ですえ?」
と、じっとみつめるお初を、闇太郎は、まじろぎもせずに見返して、
「お初さん、頼みというのは外でもねえが、おまはんが現に手を出しかけていることから、一ばん綺麗に、身を
「身を退け? 手を出している仕事から?」
お初は、
「親分、何か、間違いじゃあありませんか? わたしは、今のところ、別に大きな仕事ももくろんではいませんが――」
と、言って、ニタリと、異様に微笑して、
「実はねえ、親分さん、お初もこれで、やっぱし女で、柄にもなく優しい苦労をおぼえて、いまのところ、渡世の方に御無沙汰さ」
闇太郎は、そういうお初の、
――なるほど、この女、
「姐御、お前の、そのやさしい苦労というのが、どんなものか知れねえが、ぶちまけて言えば、おれの知っているある
闇太郎が、これだけ言って、相手の顔いろをうかがうと、お初は、
「親分、おまはん、たのまれておいでなすったね――」
お初は、
「親分、お前さんが、他人の色恋の、間に立ちまじって、口をお利きになろうなぞとは、わちきは思いもかけませんでしたよ」
「そうだ、全くだ」
と、闇太郎は、ざっくばらんに、
「おれだって、今日が日まで、こんな役割をつとめようたあ、思ってもいなかった。ところが、世の中のめぐり合せという奴は不思議なもので、思いがけなく、とんだ
と、膝に手を、ピョコリ頭を下げて見せる。
「まあ、親分、馬鹿らしい――」
と、お初は手を振って、
「女のあたしに頭なんぞ、お下げになることがありますものか――だがねえ、親分、ほかのことなら、どんなことでも、おっしゃるままにしたいけれど、このことばかりは堪忍して下さいな」
闇太郎は、黙って、相手を、じろりと見る。
お初は、じれったそうに、口を引き曲げるようにして、いくらか、頬さえ紅くしながら、
「あたしは、自分でも、自分がわからない位なんですよ。女だてらに、
やけに、笑うお初の顔いろには、思い入った、沈痛なものが漲っている。
闇太郎は、苦っぽく笑って、
「あの人も、お前さんほどの気性ものに、そこまで思い込まれたのは仕合せといってもいいだろうが、しかし、何しろ大願のあるからだ――今のところ、色恋に心を分けるひまのないのも当り前だ。だから、せめて、あの人が望みを果す日まで、何もかも待ってくれることにして貰えれば――」
「ほ、ほ、ほ――親分にもないお言葉です」
と、お初は、捨て鉢に、
「親分、お前さんだって、このあたしが、どんな身の上か、よく御存知のはずでしょう。高い声では言われないが、明日にも運が傾けば、どんな
お初は、もう、闇太郎の言葉は、耳に入れたくないという風で、
「ねえ、親分、このことに
「へえ、へえ、只今――」
婆やは、高調子なお初の声の下からそう答えて、小皿
「親分、おひとつ――」
と、お初は、猪口を突き出す。
闇太郎は、受けは受けたが、すぐに伏せて、
「まあ、姐御、もう少し聴いて貰いてえ。お前だって、生ッ粋の江戸ッ子じゃあねえか――自分が
「闇の親分。お前さんにも似合わずくどいねえ」
と、お初は皮肉に言って退けて、
「これが、渡世の上のことなら、お前さんは立派な男、あたしは女のきれッぱし、あの縄張から手を引けとか、あの仕事は、おれにまかせろとかいうのでもあれば、へえ、そうですか――と、身をひこうが、色恋は、女のいのちなんですよ――八百屋の小娘だって色男に逢いたけりゃあ、火あぶりにさえなるのです。叶わぬ恋の恨みのためには、どんなことでもしてのけるが、あたし達さ。この事だけは、別なのだから、どうぞほうって置いておくんなさいよ」
と、手酌で、わざとらしくうまそうに飲む。
闇太郎は、腕組をしたまま、
「じゃあ、お初さん、どこまでも、お前は意地を張るつもりなんだね?」
「意地を張るというわけではないが、あきらめられなけりゃあ仕方がありませんよ」
闇太郎、慣れぬ問題だけに、当惑して、考え込んでいたが、ここで、
そして、自分が帰るとすぐに、三斎屋敷に駆け込むかも知れないのだ。
引き据えて、江戸ッ子の恥さらし、渡世仲間の恥辱と、
「じゃあ、こうしよう――もう一度、このおれから、雪之丞に、お前の気持をようく話して見るから、その返事が来るまでは、どうぞ、軽はずみなことをせずに待っていて貰いてえが――」
お初も、あわれといえばあわれだ――叶わぬ恋を叶えて貰うためには、
「そんなら、親分、親分が、何とか仲に立って下さろうとおっしゃるの! まあ、うれしい――あの人と親分との間柄は深いらしいから、ひとつ打ち込んで下さったら、屹度何とかなるでしょう。あたしは、慾はかきません――たった一度、しんみり話さえ出来るなら」
闇太郎は、驚かないわけに行かない――恋に狂う女の、
「あたしゃあね、闇の親分――」
と、お初は、一度
「今度ッくらい、自分の身の上が
闇太郎は、お初の、そうした愚痴に、同情しないではない――が、彼は聴き度くない。彼自身は、もう世の中に、ちゃあんと見切りをつけているのだが、仲間うちが、こんな弱音を吹くのを耳にすると、
――人をつけ、後悔しているんなら、とッとと坊主にでも商売換えをしてしまえ!
と、でも、男同士なら怒鳴りつけたいのだ。
相手が、女、折も折、じっと、
「まあ、姐御、そんなに腐らねえでもいいじゃねえか――どうせ踏み込んだ泥沼だよ――それに、
「くよくよなんかしたくはないけれど、此の世で二度と色恋なんかするんなら、ここまで持ちくずすんじゃなかったと思って――」
と、言って、お初は、またも、
「親分、恩に
闇太郎は、もう、一刻も早く、この痴情に心魂を
「わかった、出来るだけやって見ようが、――そのかわり、おまはんも、じっくり待つ気になって貰いてえ」
「ああ、辛抱出来るだけ辛抱していますからね――まあ、三日四日にネ」
闇太郎は、淋しいひびきを立てて、冷たい風が流れている往還へ出て、はじめて、ホッとすがすがしい息をした。
――何て、こったい! ああ
だが、彼は、雪之丞に誓った手前、どうしても、お初の口をふさがねばならぬのだ。
――太夫も、もう少し
闇太郎は、妙に陰気な気持になったが、
――なあに、大の虫、小の虫だ――お初、気の毒だが、おらあ、敵になるぜ。
どう、
闇太郎は、浮かなかった。翌日一日、隠れ家で、細工場の机に坐っても、仕事に気が乗らず
たそがれが来て、彼は
――ほんとうに、
雪之丞の前では、何とか必ず処理するとはいって見たものの、最初から、一すじ縄で行かないのはわかっていた。日ごろの
――あれだけ、このおれが頼んで見ても、いっかなうけひかねえのだから、もうこの上は、無理にこっちのいうことを
闇太郎は、一人ぐらしの気易さ、二たまわりの
「
「まあ外へ出て呉れ――歩きながら話そう」
闇太郎は、新吉を連れて、大恩寺の方へあるいた。まだ、
「なあに、今夜、おれがしょぴき出すから、女を一匹、
と、闇太郎が言うと、
「へえ! 女の子を――」
と、闇太郎をいぶかしげに眺めて、新吉が、
「親分が、女の子とかかわりが出来たなんて珍しいね」
「なんの、人をつけ! 今更、女ぎれえで通ったおれが、
「相手は?」
「ちっと、筋のわるい女さ。彫りものの一ツもあろうというような――ふ、ふ、妙なひッかかりで、とんだ罪を作らなきゃあならねえんだ。そこで、腕ッぷしの強い
「かごの中でじたばたしても、引ッくくって持ってきゃあいいんだね――わけはねえ」
と、新吉は何でもなげにうなずいた。
その夜更け――
湯島切通しの、大きな
「ハ、ハックショイ! やけに冷えて来たぜ」
「うん、もう、じきに
若い者がつぶやき合うのを、新吉が、
「何でえ、江戸ッ子が、その若さで、水ッ鼻をすする奴があるか――雪が降っても、着物を着て素足に草履、それが、おいらの心意地だぜ――なに、もう少し辛抱しろよ。今夜、仕事がすめば、ゆっくり遊ばしてやらあ――こう、作蔵、てめえ、千住に
「え、へ、へ、へ」
と、若者の一人が、笑って、
「なあにネ、そいつがついこないだ、
「
馬鹿をいっているところへ、向うから上って来る町かご――
「おッ!」
と、新吉がみつめて、
「こんどは間違いッ子なしだゼ――
「うん、合点だ」
ホラショ! ホイ! と、切通しのだらだら坂を、半ば上って来た、つた家のかごに乗っているのは、勿論軽業お初だ。闇太郎から、雪之丞がさすがに身につまされたと見えて、今夜、湯島
――たった一度でいい――と、誓ったあたしだ。さきにも大望があるというからには、しつッこく、二度、三度、と又の
雪之丞の、あの
――たった一晩、――あたしはそれを一生ほどに思っているのだよ、太夫――
ひたむきの執念に、
「おい、そのかご、待って貰おう」
と、低い脅かすような声がいって、棒鼻を抑えた
それで、彼女の、甘ったるく、
はッと、さすがに、びっくりすると同時に、手が、帯の間の匕首にかかって、
――畜生! 岡ッ引きか?
万一、このかごの主を、軽業お初と知って、押えにかかったのなら、
――それとも、
かごが、とんと下に下ろされたので、
「若い衆、何ですね? こんなところへ下ろしたりして――」
と、わざと、中から、
「何だとおっしゃって――どうにも仕方がねえんで――」
「うるせい! 黙っていろ!」
と、叱ったのは、
「かごの中のお人、しずかにしておいでなせえよ――騒ぐとために成らねえ――」
と、同じ声が――
「さあ、愚図愚図しねえで、からげてしめえ」
お初は、その言葉で、何かしら
――そうか! 闇太郎の奴、苦しまぎれにハメやあがったな――男らしくもねえ。
垂れを、パッと
「姐御、まあ、おとなしくしていさッし」
と、馬鹿にしたように若者はいって、
「なにも、いのちを取るの、奉行所へかつぎ込もうというのじゃあねえんだ。姐はんがのさばり出しては、都合がわるいんで、一時、寺あずけというわけさ、まあ、まかしておきなせえ――さあ、若い衆、いそいでくれ」
かごが、荒っぽく、ぐっと上る。
そして、突然、飛ぶようにいそぎ出すのだった。
お初は、かごの中で、青ざめて、唇を噛んだ。
――おいらも、焼きがまわったよ――あんな
かごは、なおも一散に走っていた。かご脇を二、三人の男が、駆けている足音も聴えていた。
雪之丞は、今は、目的の
師匠すじの、先輩たちは、絶えず、
――ほんとうに、ここまで苦労して来て、思わぬことから、たくらみが
闇太郎に、お初の始末をたのんでから、あの不思議な友だちが、ああいってくれたものの、どうなったかと、まだ心に悩みも残って、芝居が
「浅草のお知合い――と、申せば、おわかりとのことでございますが、お客さまが――」
雪之丞は、沈思から醒めて、
――おお、では、闇太郎親分が――
と、思い当ったので、
「どうぞ、こちらへ――」
客というのは、案の定、あの江戸名代の怪賊だった。闇太郎、今日は、いつものみじんの素袷、素足ではない。髪もおとなしやかに、細く結って、万すじの着物、短か羽織――はいって来ると、
「御注文の、
女中の、見ている前で、ふところから、大事そうに取り出して
明るい世界に顔を出すので、用心に用心を重ねている闇太郎の気持を察して、雪之丞も、手際よく受ける。
桐の小箱を取り上げて、中から、精巧な
「これは、まあ、結構に出来ましたな。上方へ戻っての、いい自慢ばなし――ほんに、この
「絵柄は、わたしも、随分と
して見ると、闇太郎、出入りの口実のために、出たら目の細工ものを持参したのではなく、とうから、雪之丞に贈ろうと、この鷹の根付を苦作していたのに相違ない――雪之丞、感謝のおもいを、一そう深めないわけにはいかぬ。
「縁起をかつぐ渡世柄――ありがたいお見立て――」
「こないだお
と、いったが、闇太郎、女中が茶を進めて出て行ってしまうと、
「耳は?」
と、あたりを兼ねるようにして、
雪之丞は、あたりを見廻わすような闇太郎の目つきに答えて、
「今夜は珍しく、お師匠さんも、鍋島さまのお留守居のお招きで、お出かけ――隣は
闇太郎は、うなずいて、一膝すすめて、
「実はな、あれから、直ぐに、お初のところへ押して行き、一通り理解しようとしたが、知っての気性、ああいえばこう――

「まあ、では、どこぞ遠くへでも――」
いくらか、ホッとしたように、しかし眉をひそめるように、雪之丞は目をみはった。
「いんや、つい、近間さ――江戸というところは不思議なところで、お寺の縁の下に
「まあ? 怖ろしいことでござんすなあ」
「向うが油断すれば、こっちの餌じき、こっちが
と、いって、闇太郎、雪之丞をじろりと見たが、
「とはいっても、先きも軽業お初だ。あんまり安心していると、
「はい、もう、
雪之丞は、伏目になって、うめくように答える。
「十何年のつもる恨み、心の刃に
闇太郎の言葉を、たのもしげに聴く雪之丞、
「万一、わたしが、望みの半分をのこして死ぬことがありましても、
「おお、その覚悟が第一だ――それに、のう、太夫、はたからいらざる差し出だが、この闇太郎とて、いわば一心同体のつもり――もしもおめえが
「かたじけない――親分」
と、雪之丞は畳に手を、
「
「いやいや何でもねえことだ」
と、闇太郎は、かなしげに微笑して、
「おいらも、五体五倫をそなえてこの世に生れて出ながら、こんな始末、せめておめえの大望を助けるのが、現世にのこす善根――その善根を、おめえなりゃあこそ積ませて呉れるというものだ。礼をいうのは、こっちのことだ」
――大事を取れと、言うて下さるも、わしを思うておいでなさればこそ、油断なく、いそげと言ってくれるも、わが身の心を推量していればこそ――
雪之丞は、この世に
――
「親分、今宵を限りで、雪之丞は、人界の者ではないとお思い下さりませ。明日よりは、鬼のこころとなるつもり――」
闇太郎は、励ますように、
「噛まれたら、噛め、斬られたら、斬れ――おめえが、どんな
雪之丞は、行灯の光をみつめるようにしながら、じっと、唇を噛んでいた。
闇太郎は、ふと、気がついたように、
「あの女のいきさつを知らせてえし、何だか気にもかかるので、やって来たのだが、長居は
「何から何までお心添え、一生、未来、忘れることではありませぬ」
「おいらも、おめえのことは、一刻も忘れねえつもりだ――しがねえからだだが、いつもいつも、うしろには、田圃の職人がついていると思って、存分にやってくんなよ」
闇太郎は、立ち上った。
見送る、雪之丞――女中どもの前では、どこまでも、役者と、
「では、雪之丞親方、いずれそのうち」
「そなたにも御機嫌よろしゅう」
その翌夜。
雪之丞は、魚河岸から、美しい交ぜ魚、上方から持って来ていた京人形、芝居錦絵、さまざまな品を、とりそろえ、二度目の病気見舞として、三斎屋敷に、例の浪路を
こないだ、盗賊の害を、未然に防いでくれたというので、土部家の歓待は、前にもまして、今は
隠居は、
その目、その口が、雪之丞を見たとき、燃え、
「まあ、いそがしい中を、よう忘れずに――」
と、飛びつくように、彼女は迎える。
「お忘れして、どういたしましょう――」
と、雪之丞は、
「お言葉が、うらめしゅうござります――わたくしの胸を、どう思召しておいでやら――」
人を交えぬ、二人だけの、離れ家の静寂――絹張り、朱塗りの燭の火が、なつかしく輝く下に、美しい、若い男女は、激しい情熱の瞳を見かわしたまま、いつまでも、手を取り合っていた。
浪路の、息ざしは、荒々しく、喘ぎもだえる。
「どのようにわたしが、逢いとう思っていたか――とても、にぎわしい日を送るそなたには、推量も出来ぬことだと思います――昼も夜も、
「わたくしとて、百倍のおもいに、わが身でわが身を、どうすることも出来ず、大事な舞台の上ですら、ともすると、御見物衆の中に、あなたさまのお顔が見えたような気がしますと、手ぶり、足のはこびも狂い、何度、ハッと
雪之丞は、口の中に、苦い、辛いものが、一めんにひろがるような気持を感じながら、狂言の
浪路の
「まあ、そなたも、ほんとうに、それまでにわたしを思うていておくれでありましたか?」
笑っていいか、泣いていいかわからないもののように、白い
「ほんとうにそうなら――でもわたしには、何となく、まるで夢を見つづけているような気ばかりされて――」
と、彼女が、一そう強く、手を引きしめると、雪之丞も、
「夢でもござりませぬ――まぼろしでもござりませぬ――わたくしの手を、こうしてつよくつよくお握りになっておいでではござりませぬか?」
「うれしい!」
と、浪路は、
「わたしはもう死んでも――」
「又しても、もったい無い――」
雪之丞は、あわただしく
「わたくしこそ、このことが、御前さまにお気づかれ申して、この場でいのちを召されましょうと、いっかな後悔はいたしませぬ」
「のう、雪之丞どの!」
と、切なる声で、浪路は激しくささやいた。
「わたしには、もう、一刻も、そなたとはなれては、生きていられぬような気がします――わたしは、うれしい――苦しい――切ない! 雪之丞どの」
「浪路さま!」
雪之丞の、腋下からは、冷たい汗が、しとどに流れ落ちて来る――
――ああ、何という浅間しいいつわりがこの口から出るのであろう! だが、わしはもっと、嘘をつかねばならぬのだ。
「のう、太夫――雪どの」
と、浪路は、なおも焼け付くような目で、あからさまに、雪之丞を凝視して、烈情に、身もがきせんばかりに、
「わたしは、まそッと、まそッと、そなたにぴったり近よりたい。身も、こころも、魂も、二度とはなれることのないように、ひとつになってしまいたい――」
それが、叶わぬ、この生れた家の一間を、彼女は呪い、憎まざるを得ないのだった。
雪之丞は、ただ、深く、熱い歎息をむくいるだけだ。
「のう、わたしには、もはや、こんなよそよそしげな仲では、いられない――雪どの、たとい、今夜、死なねばならぬとしても、わたしは、そなたと
「あなたが、このお屋敷の御息女であるかぎりは――
雪之丞が、さも、悲哀に充ちた調子で、そう言って、うなだれてしまうと、火のように熱い息が、彼の
「では、わたしは、この家を、抜け出しましょう――」
「ま、何ということを!」
と、雪之丞は、びっくりしたように、
「このお家を、お抜け出しになる?」
「いいえ、あとで、そなたに迷惑のかかるようなことはせぬ――お城へ二度とかえる位なら、死んでしまおうとまで決心している身、姿をかくしたとて、何で、
「いいえ、わたしの迷惑なぞ、少しもいといはいたしませぬが、もし、公方さまのおいかりにふれたなら――」
「公方さまとて、同じ人間――女の魂までも、自由になさることは出来ませぬ。いつぞやもこのわたしは、そなたと一緒に
「浪路さま! わたくしを、それほどまでに――」
雪之丞は、ともすれば、相手の至情、至恋に、哀れさを覚えようとするのであったが、浪路の白い和らかい肌の下には、親ゆずりの血が
――このわしに、人がましい心さえ持たせぬようにしたも、みんな、そなたの父親たちの悪業から――わしを怨むな! 父を怨め!
「それほどまでに――なぞ、言われるとは、そなたも、あまりに、女ごころをお知りにならぬ――雪どの、そなたのうつくしい姿に迷うて、身も世も要らぬとまで思い込んだ
「
二人は、抱き合うようにした。美女の、髪の香の、何という悩ましさ!
浪路は、雪之丞の胸にすがりつくようにしたまま、昂奮と感動とに、声をわななかせて、誓うように言うのだった。
「雪どの、わたしの言葉が、真実であるか無いか、もうじきに、そなたは思いあたりなされますぞえ――この
「ほんに、たった一度でも、そのような日に生きることが出来ませば、はかないこの身、いかなる
雪之丞は、ひたむきに、恋に
――哀れな女性よ! そなたは、わしの心の中には、いうまでもなく気がつかず、また、あの三斎隠居の、やさしげな顔に、どのような冷たさがかくされているのかも知らぬのだ。あの老人は、なるほど、良いむすめである間は、そなたをいかほども
雪之丞の胸は、暗くなり、気弱ささえ出て来たが、そのとき、廊下で、足音がして、
浪路は、うらめしそうに、その方へ目をやると、雪之丞から、やっと離れる。
いつもの老女がはいって来て、
「大分、おはなしが、お持てになりますような――」
と、何もかも、のみ込んだように微笑したが、
「太夫どの、御隠居さま、おたずねをおよろこびなされ、お杯を下さるとのこと――お居間まで、おいでなされませ」
「かたじけのうござりまする」
雪之丞は、浪路の許をはなれる機会を得たのをよろこんだ。
じっと、浪路を見上げて、手を突いて、
「それなれば、御隠居さま、お召しでござりますゆえ、これにてお別れをつかまつりまする」
「それなれば、そなたも気をつけて――」
と、だけ言うのが、浪路には、一ぱいのように見えた。
そして、熱にうるんだような目で、
――今の言葉は、かならずともに、おぼえていてたも。屹度屹度誓いを果そうほどに――
――必ず、その日を、まちまする。
と、いうように、雪之丞も、今一度、浪路と目を見合せた。
居間では、三斎隠居、湯上りの顔を、テカテカさせて、上機嫌だ。
「おお、忘れず、ようこそ娘を見舞うてくれたの。今宵は、めずらしく、客もなく退屈のところ、ゆるゆる相手をしてくれますよう――」
雪之丞は、かぎりない
五日ばかりが過ぎて、江戸は、いよいよ、真冬らしかった。
芝居小屋の前に立ちならぶ、
その晩、雪之丞は、すばらしい贈りものを受けた。さる
雪之丞にも、この無名の贈り主に、ちょいと、心当りがなかった。
――大方、どこぞの、大名隠居か、お金持の仕わざであろうが、さすが、江戸の衆は、思い切ったいたずらをなさる。
なぞと、思っていると、楽屋に一通の文が届いて、ひらいて見れば、珍しく、広海屋主人からの招きのたよりだ。
――おお、広海屋! あの人は、いつぞやの、わしの言葉を、どう聴いたであろう!
孤軒老師のおしえで、広海屋と長崎屋を、深刻に噛み合せるために計った、あの策略が、どんな
雪之丞は、否やなく、
広海屋は、今夜、いつもより一そう福々しく、しかも、細い、象のようにまぶたの垂れた目が、生き生きと、きらきらと輝いているようだ。
「さあさあ、これへ――
と、富豪は迎えて、
「ときに、今夜、楽屋に、思いがけぬものが届いたであろうが――」
雪之丞は、広海屋の、極上の笑顔を見て、
――さては、あの贈りものの主、この人だったのだ――
と、思い当った。
「は――」
と、何か、答えようとすると、押っかぶせて、
「いや、つまらぬもので、礼には及ばぬが、実は、あれは、そなたへ、お礼と言い、かつは、心いわいのしるしじゃ。こころより、受納にあずかり度い」
「お礼と、おおせますと?」
雪之丞――例の一件に関してのこととは思ったが、気がつかぬふりで――
「何やらわかりかねまするが――」
広海屋の声は、急に低く低くひそまった。
「おわかりにならぬかな? 思い当ることはないかな? のう、太夫、そなたのおかげで、この広海屋、どうやら、江戸指折りの男になれそうじゃが――」
「お言葉、狐につままれもいたしたようで――」
どこまでも、雪之丞は、芸道一すじの、邪気のないふりでいう。
「忘れられたかな? そなた、いつぞや、お重役衆が、わしについて何か仰せられていた話を聴かせてくれたであろうがな――な、思い出したであろ?」
広海屋は、ますます目を細めて、雪之丞をみつめるのだった。
広海屋の、さも満足げな目つきを、じっと見返した雪之丞、ハッと、思い当った風で、軽く、しなを作って、膝を打って、
「はあ、いかにも、思い出しましてござりまする――江戸表、
「そうそう、その事じゃて――」
と、広海屋は、大きくうなずいて、
「商売のことは、何がきっかけになるかわかるものでない。
「それは、また、思い切ったなされ方――江戸の人々はさぞよろこびましょうが、それにしても、大した御損を見るわけ――わたくしは、よけいなことを申し上げたような気がしてなりませぬ」
雪之丞が懸念そうに、眉を寄せて見せると、相手は、かぶりを振って、
「いやいや、もともと、上方、西国の田舎に手をまわし、貧しい百姓のふところの窮迫を見とおして、
雪之丞は、しかし、ため息を吐いて、
「とは申せ、米価
と、わざと、しおれて見せると、広海屋が、きっぱりとした表情になって、
「その辺は、わしも考えて見ましたが、長崎屋が江戸の人々の困難をつけ目に、すわこそと、安く仕込んだ米に十二分の利得をみせて、只今の高売りをいたしておるは、どこまでも、人の道にはずれたはなし――わしもあれとは、仲の良い友達だが、また、今度のうめ合せは、あとでいたして上げられもしましょうゆえ、この場合は、世間さまの御便利をはかるが、何よりと思ったでな――ま、そのようなことは、わしにまかして置きなさい――なんの、そなたが、長崎屋一人を贔屓のかずから失おうと、わしがついている限りは、大船に乗った気で、安心していて貰いたい――ときに、今夜こそは、前祝いに、これから、
ポンポンと手を鳴らして、
「末社どもに用談すんだと申してくれ。そしてすぐに
雪之丞も、つねづねならば、仲の町のお供なぞは、平に辞退するのであるが、今宵は、自分の差し金で、広海屋が、上方米を
花こそなけれ、菊こそすぎたれ、不夜城のにぎわしさ! 明るさ!
「よう、お
「名古屋
百目
「執着」のひとふし――
それが、済むと、浮いた浮いたと、太鼓持が、結城つむぎのじんじんばしょり、甲斐絹のパッチの
「イヨ、弁才天女の
何やかやと、あり来たりの掛ごえがあって、酒興はいよいよたけなわになるのであった。
明日は、大切な舞台を控えている雪之丞、いい程にして、戻ろうと、杯の水を切って、
「逆にて御無礼ではござりますが――」
と、広海屋に
「これは、まあ、ようこそ! あちらさまは、もうとうにおいでになっております。さあ、どうぞ――」
と、いうような言葉がまじるのを聴くと、広海屋は、
そして、雪之丞にちらと目まぜをして、
「ほう! 長崎屋が見えたらしいぞ。いつも、わしと一緒じゃで、
雪之丞は、胸が躍るような気持がした。自分の、ほんのちょいとした暗示から、百年の親友が、一朝にして仇敵と変じるのだと思うと、二人の顔を、見比べてやることの、どんなに痛快なことであるか!
「そうそうその広海屋さんが、
そんな声が、階段の方で聴えたと思うと、女房が入口に手をついて、
「日本橋河岸さまがお見えなされました」
「蛇の道だな――さすがに――」
と、広海屋が、わざとらしく笑って、
「さあ、長崎屋さん、おはいりなされ」
雪之丞も、かたちをあらためた。
長崎屋三郎兵衛は、茶無地の羽織に、細かい縞物、みじん隙のない大商人風だが、今夜の顔色は、いつに似ず、青黒く、目が吊って、表情にあからさまな不機嫌さが、
その長崎屋、座中の男女が、かまびすしく、
「御酒宴中を、迷惑とは思ったが、広海屋さん――こなたから、是非、伺いたいことがあって、行先きをたずねたずね、まいりましたが――」
長崎屋の、沈痛な顔いろに、側に寄って行った芸者も、太鼓持も、盃をすすめることも出来なくなったようであった。
「訊きたいこととは?
広海屋は、持ち合せた盃を
「いや、まず、お預けにいたそう――実はそこどころではなく、わしの店でも騒いでいるので――」
と、いって、
「こんな場所で、どうかと思うが、いそぐゆえ、伺いますが、こなたの
「おお、おお、そのはなしでしたか!」
と、広海屋はさも、つまらないことのように、軽くうけて、
「いかにも、さるお方のおすすめで、江戸はかように、米穀払底、今にも、米屋こわしでも、はじまるばかりになっている折柄、そういっては何だが、裕福な、
ひどく、気軽に、しかも、不平たらだらのように、広海屋はいって、吸いつけた
長崎屋は、腕組をして、そのはなしを、じっと聴いて、上目づかいに相手をじろりと見て、
「なるほど、それで、おはなしの筋は呑みこめました。では、町奉行所にお願いを立て、貧民への
「さ、それも、こちらから申し出したわけではなく、お役向からの、ねんごろな談合、わしとて、爪に火もともしたい商人、すすんでのことではありませぬが、この際、おえらい方々に憎まれては、広海屋の
広海屋は、
「実は、そなたにも、おめにかかって、施米、廉売の、片棒をかついで貰いたいと思っていたところじゃ」
長崎屋は、下唇を、ぐっと噛み締めるようにして、目を伏せて聴いていた。
「広海屋さん、おぬし、まだ、物忘れをなさるお年とも、思われませぬがな――」
突然、モソリとした口調で、長崎屋が言いかけた。
明らかに、反感と
「は、は、は、わしも、もう六十――少し
広海屋は、
「はて、それにしては、いぶかしい――おぬしは、わしという人間がそなたの友達の一人でいるのをすっかり、忘れておしまいになっていると思いましたよ」
長崎屋は、広海屋とは、言わば振り出しの
それゆえ、二人とも、浅間しい慾望の一部を成し遂げて、ともども、江戸にまで進出して来て、世間から、認められるようになったのちも、長崎屋は、広海屋を、どこまでも、先輩、
されば、呼びかけの名にしても――
――広海屋さん――とか、
――お前さま――とか、
――こなた――とか、いうような言葉を使って、ついぞ、長崎屋の口から、
――おぬし――なぞという、ぞんざいな言葉が洩れたことはなかったのである。
――この人達には、何か、わだかまりがあるな?
と、心利いた太鼓持、年増芸者なぞは、思い当りもしたであろう。そして、座をはずした方が、よくはないかと、考えたであろう――
しかし、彼等は、途方に暮れた風で、そこに、そのまま、居すくんでいる外はないのだった。
――弱ったな! どっちも、しくじっては困る客だし――
ひそひそと、彼等は目と目を見かわしていた。
「どうしてまた、長年懇意にしている友だちを、忘れるようなことがありますものか――そなたは、何か、勘違いをしていなさるようじゃ」
広海屋は、相変らず、落ちついた調子で言って、
「一たい、なぜに、そのようなことをお言いなさるのか? わしには、見当もつかない」
「広海屋さん、この長崎屋は、今、手一ぱいで
長崎屋は、食い入るような目つきで、呻いた。
「その商いを、おぬしは、片はしからこわそうとたくんでいなさる――それが友達か?」
「長崎屋さん、そなた、少し食べ酔ってでもいなさらぬか――わしが、そなたの商いを、片はしからたたきこわす! そのようなこと、思うても見なされ、あろうことではない。わしとそなた、二十年の仲じゃ――そなたの仕合せをこそいのれ――」
広海屋が、長崎屋の憎悪に充ちた言葉を聴いて、こう答えて、猫なで声になって、
「それに、この座で、其のような話はちと不似合――商売のことなれば、あとでゆっくり談合いたすことにして、そなたも、まず、機嫌よく、一ぱいすごしなさいよ。福の神は、渋面つくっていると、とかく、向うを向くと、言うによってな――」
「いやいや、わしは、そんな心の
と、長崎屋は、あたかも嘲りでも浴びせられたかのように、却って、ますますいきり立ったが、ふと、心を持ち変えたように、急に、両手を膝に置いて、
「これは、広海屋さん、わしが、すこし、からんだ物の言い方を、しすぎたかも知れませぬ――そなたに、折り入っての頼みがありますので、それを、
「え? 頼み? 何なりと――身に叶うことなら」
何でもなげに広海屋は答える。
「有りようは、広海屋さん、
長崎屋は、
広海屋は、あからめもせず、相手の顔を眺めた――むしろ、呆れたという表情で――
「長崎屋さん、少しばかり、それは無理な御注文だの」
「いかにも、無理は、よう知っています。そこを、何とか、
長崎屋は、頭を下げて見せた。
広海屋は、首を振って、
「どうも、ほかのことなら、そなたとわしの仲、何ともしようが、今度のことばかりは、この広海屋も、損得を捨て、ただ人さまの為になろうとして、思い切っての大仕事――すでに、お上すじとのお約束もあり、こればかりは
「では、おぬしは、年来の
「何の、そんな、馬鹿らしいことが――」
と、広海屋はカラカラと笑って、
「長崎屋さん、お互に、米穀のあきないにまで、手を出してはおれど、そなたも物産海産の方で、立派なのれんを持っていなさるお方――
長崎屋は、ぐっと、広海屋を
今まで、辛抱して、妙な座敷に坐りつづけていた芸者、末社は、いつかコソコソとはずして、広海屋買いなじみの太夫と、雪之丞とがいのこっただけだった。
広海屋の皮肉な笑がおと、長崎屋の憤りに充ちた顔とが、向け合わされたままでいた。
「おぬしは、いろいろ言うてくれるがなあ、広海屋さん――」
長崎屋は、青ざめた
「なるほど、わしは物産問屋のはしくれ、米が主なあきないではないけれど、商人は、ひともわれも同じこと、大がねを儲けるには、時には、思い切ったばくちを張らねばならぬ――折も折、関東一帯の大不作、これが三年もつづけば、
広海屋は答えずに、
「その手一ぱいの買いしめが、これまでは図星に当って、たとえ世の中からは、何といわれようと、この分で、あきないが続くことには、長崎屋の世帯も、その
と、長崎屋はきつくいって、また
「もう、こうなっては、恥も、外聞もない――長崎屋、こうして、この色ざとで、そなたの前に手を突くゆえ、どうぞひとつこのわしを、助けてはくださらぬか?」
必死のいろをうかべて、畳に、手を下ろそうとするのを、広海屋は押し止めて、
「何をなさる長崎屋さん、そなたは、何か思いつめて、考え違いをなすっているようだ――そなたとわしとは、同格、同業、そのように頭を下げられては、
「それなら、広海屋さん、わしの願いを聴き入れて――」
「そなたと、わしの仲、そこまで申されるのを、押し切って
長崎屋の、噛みしめた下唇からは、血がにじんで来るかと思われた。
「ううむ」
と、唸って、
「そんなら、おぬしはどうあっても?」
ギリギリと、奥歯が鳴った。
「商売は、いわば戦さ、親子兄弟、敵になることもあるによッてな――」
広海屋は、平気で答えた。長崎屋は噛みつくような表情になって、
「広海屋さん、おぬしは、長崎以来のことを忘れたかな?」
その一語は、広海屋よりも、まず雪之丞の胸を激しく突き動かしたに相違なかった。
「広海屋さん、おぬしは長崎以来のことを忘れたかな?」
と、毒と呪いとをふくませて、長崎屋が言いかけたとき、雪之丞こそ、ハッとしたが、案外広海屋は平気だった。
「ナニ、長崎以来のこと? それはもう、そなたもくりかえし申されたとおり、古い
「わしは、そのようなことをいうているのではない――」
と、長崎屋は血走った目で、
「そもそもおぬしが、今にも傾きかけた広海屋の店を、急に何倍にももり返すには、わしの力が加わってはおらなかったろうか? そなたは忘れてしまったかなれど、わしにはまだ昨日のようじゃ――あの人の好い松浦屋さんを、いい加減な
と、いいかけて、さすが絶句して、荒々しく
雪之丞は、顔いろが変るのを、感づかせまいとしてうつむいた。
――ああ、みんな、
彼は、ガクガクと、身ぶるいがして来るのを、一生懸命に押えながら、耳をすます。
「なあ、あの、悪いことというたら、夢にも見たことのないような松浦屋の旦那を、魔道に落し、骨をしゃぶり、血を
と、長崎屋は、一度はためらったものの広海屋の悠々とした表情を見ると、
広海屋は、軽く、冷たく笑った。
「ふん、そう言うと、わしばかりが悪人のようなれど、その松浦屋に、子飼いから奉公して、人がましくして貰うた癖に、主人に
肥満した大商人は、迫らない調子で、むしろ、逆におびやかすかの如く、
「まず、あまり、そういうことには触れない方が、お互のためであろうが、――長崎の昔ばなしには、かかわりのあるお方が、外にもたんとあることだ。そのようなことを口外したら、そなたのためにもなりますまいぞ」
長崎屋は、一そう
「いやいや、もう、こうなれば、どんなお方も
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、広海屋は、口をすぼめるようにして、笑殺して、
「たわけたことを――そなたが、そのようなことを、どんなにしゃべりまわったとて、世の中で信用するものもなければ、つまらぬことで捨て鉢になり、馬鹿なことをいいふらすのが、耳ざわりと思召せば、あの方々は、そなたを二日とは、この世に生かしてはお置きあそばすまい。まあ、
長崎屋は今は
「広海屋、では、わしを殺す気だな?」
と、
「そなたを殺す? 殺したとて、わしに何の役に立とう――まず、気を
と、広海屋は、長崎屋がつかみしめた袖を、振りはらって、
「そなたは、ちと、気がどうかしたそうな!」
「気も狂おう! 二十年の、苦労、
長崎屋は、ズイと立って、荒々しい足どりで、広間を出て、そのまま、階下に下りてしまったが、荒れすさんだ気色を見て、茶屋を出てゆくのを、引き止めるものもないらしかった。
「は、は、は、は、人間も
雪之丞は、わが身の
「こうしたことになると知りましたら、いつぞやのようなこと、申し上げはしませなんだに――」
「いやいや、そなたに何のかかわりもない。みんな商売道の戦いじゃ」
広海屋は、得意満面で、
「もう決して気に病まぬがよい。一たいに、あの長崎屋、功をあせって、一の力で二の働きをしようとのみもがき、おとなしく本業をいとなむことを忘れ、米あきないなぞという、大きな
雪之丞は、その時、不思議な
「それにしても、何やら、長崎以来のことを、とやこうと、あのお人はおいいなされましたが、あなたさまに、御迷惑のかかるようなことがありましては――」
広海屋の目つきが、キラリ不安そうにきらめいたが、
「は、は、なるほど、そんなこともいうていたの? なに、何でもないはなし――お互に長崎にいたとき、わしの商売がたきに、ある
――悪逆無道な、
雪之丞の、
――まず、しばしの間、存分なことを言うておるがよい。長崎屋の
「又しても、興ざめのことばかり――さ、にぎやかに一はしゃぎしようのう。これ芸者たちはどこへ行った? 今夜は、小粒かくしをして遊ぼう。わしが隠す銭、探しあてた者は、いくらでもにぎわそうぞ」
酒興は、狂おしく起った。雪之丞は、もとより廓内に足ぶみを、公けに出来ぬ役者の身、それを口実に、いい頃合いを見はからって、姿を消したのだった。
仲之町の引手茶屋から、複雑な気持で、かごを走らして宿に戻った雪之丞は、真夜中にもかかわらず、そこに、一人の男が自分を待ち兼ねていることを、召使から告げ知らされた。
雪之丞は、寒そうな顔をして、小部屋で、小火鉢をかかえていた、その男から、一通の封じぶみを渡された。
開いて見ると、
浪路は、美しい
おめもじいたしてより、胸もこころも、ただただ焦れたかぶるのみにて御座候 、されば、若き身をとじこめ候檻 より、今日ようやくのがれいだし、古い乳母のもとをたより、その者の手にて、小石川伝通院 裏の、小さき家にしのびかくれ申し候。椎の大木のそばたちたる蔭の、ささやかなる宿をおたずね下され候 わば、そなたさまのみ恋い明かし申しおり候、あわれなる女のすがたをこそ、お見いだしなさるべく候。更け渡り候えども、こよい、お越したまわることをのみ念じ上げまいらせ候。
かしく。
――さては、浪路どのも、とうとう、屋敷を抜けいでられたのじゃな?
苦がい、鋭い微笑が、美しい女形の口元をよぎった。
――家は
ともすれば、
――ともかくも、返じだけは書かずばなるまい――もう、二度と、逢う要のないお人ではあるが――
と、思ったが、その返じを書くことさえ、この場合、つつしまねばならぬと、すぐに反省するのだった。
――いやいやどこまでも、今後は、かかわりをつけてはならぬ――恨まれ、呪われるのは、はじめから覚悟の上じゃ。
雪之丞は、使いの男の前で、文を読んでしまうと、巻きおさめながら、いぶかしげな表情をうかべて見せて、
「これは、どなたよりのお文かは、存じませねど、わたくしには、のみこめぬことばかりでござります。どうやら、ゆきちがいがありますような――」
「はて、わたくしは、雪之丞さまにこのお文をおわたし申し、なるべくは、御一緒に、おともない申すようにとの、おたのみをうけてまいったものでござりますが――わたくしは、あのお方の、乳母の
実直そうな男は、もぞもぞと、そんなことをいったが、雪之丞は、首をふるようにして、
「さ、それが、わたくしには、何が何やらわかりかねますので――このお文は、どうぞこのまま、お持ちかえりを――今宵はひどくくたびれておりますほどに、失礼をいたします――これは、おかご代」
白紙に包んだものを、使いの男の前に置くと、彼はそのまま、つと、立って、わが部屋にはいってしまった。
男は、どうしようもなく、戻って行くのだった。
上野の堂坊のいらかが、冬がすみのかなたに、灰黒く煙って、楼閣の
このあたり一帯、
そうした荒れ寺の一軒、老杉の、昼も暗く茂った下かげに、壁すら落ちて、その破れ目からすさまじい初冬の月も差し込みそうなのが、
前住が建てて、四十年あまり、谷中で鉄心といえば、この世の者でないほどの脱俗ぶり。食べるは生ごめ、飲むは水の脱俗ぶり、といったような生活をつづけて名高かった尼僧が、ぽくりと枯木が朽ちるように
その鉄心庵の現住――ときどき生ぐさ物の匂いがぷんぷんとかおって、
だが、
十三、四のころ、さる法印の弟子となって、厳密な修業をつけさせられていたが、持って生れた根性から、色欲二道にふみはずし、
その素性を知っているのが、闇太郎等の、ごく
島抜けの法印は、婦女
さればこそ、闇太郎、雪之丞のために、軽業お初を、しばしの間この世から
島抜け法印、いつもであれば、預かりものが、年はもいかぬ娘っ子なので気も張らぬが、今度は相手が相手、なかなか
が、今夜、とうとう、
島抜けの法印、
さすがに、久しぶりの寝酒が、まわって来て、
――だからよ、やもめ暮しはやり切れねえってことよ。もう一升のみてえと思っても酒屋まで、ひとッぱしり行って来る奴もいねえとは何て不自由なこッたろう。
ごくりとまた、一口、飲んだとき、床下の方で、かすかに、女の咳ばらいのような
――おや――
と、聴き耳を立てて、法印、口に出して、独りごと――
――あの、軽業お初女郎、勝気な奴だが、さすがに、ろくろく寝つけねえと見えるなあ――だが、俺も、この
と、言って、また、ごくりごくりと、
――いや、この俺さまにしたって、まだ四十をほんのちょっぴり越したばかりだ――あれほどの女と、たった二人の荒れ寺ずまい――闇の兄貴の
島抜けの法印、厚い、紅い舌を出して、物ほしそうに、ぺろりと舌なめずりをして、
――こうやって、たった一人、しょうことなしの
島を抜けて来たほどの彼、前世の露見を恐れて、身をつつしんでいるのだが、今夜は、少しばかり、とろんこになっていた。
――ほんとによ、小股の切れ上ったあいつに、注がせて飲んだら、第一、倍もききがいい酒になるだろうによ。
そして、妙に真顔に考え込んだ。
島抜け法印の、どんぐり目は、いよいよギラギラと、
――あれだけの女が、同じ屋根の下にいるのを、ほんとうに
島抜け法印、残りの白丁を振って見て、
――こんなことなら、独りでがぶ飲みをするんじゃなかったが、それでもまだ、あいつが、ほろりとするぐれえは残っていらあ。
と、徳利をつかんだまま、よろよろと、立ちあがると、ガタピシと
揚げ蓋の下が、
中は、真暗なのだが、慣れたわが庵のこと、爪先さぐりで、危なっかしい
板じきのつき当りが、木ぶすま――法印、その木ぶすまの、
「おい、お初つぁん」
法印は、灯心を掻き立てて声をかけた。
パッと明るくなると、木枕をして、向うをむいているお初の、
「おい、お初つぁん」
寝すがたが、少し動いて、無愛想な声で、
「何だねえ――人が、
「だからよ、寝酒を持って来てやったんだな」
法印は、ひどく
「まあ、こっちを向きねえよ――何だか、眠れねえような咳ばらいが聴えたから、丁度おいらも一口やっていたところで、残りだが、
と、枕元に、うずくまって、白丁を、ゴボゴボ音をさせて見る。
お初は、むくりと起き上がりかけた。
「まあ、どうした風の吹きまわしなんだねえ――」
煎餅蒲団の上に、起き直ったお初、乱れ髪を、白い指でかき上げながら、片手で、はだかった前を合せる。着たままの、
島抜けの法印は、その方へ、赤濁った目を吸われたのを、さすがに
「さあ、まあ、一ぺえ
「まさか、お坊さん、毒酒じゃああるまいね?」
お初は、尻目にかけて、冷たく笑った。
「何が毒酒なもんで――いい酒さ――いいも良い――池田の
「ほ、ほ、ほ、堅造が、あきれたよ!」
お初、今度は、声を出して笑ったが、
「そこまでいうなら、遠慮なく
と、茶碗を受けて、なみなみと注がせて、裸火の光りに透かすようにして見たが、
「ほんに、いい臭いだこと――いただきますよ」
きゅう、きゅう、きゅう――、
とたった三口で干して、突き出して、
「どうぞ、もう一杯」
「へえ、いけるんだねえ、
と、法印は、あざやかな呑みッぷりに敬服したように、お初つぁんが、姐御という尊称に変って、二つ目を差してやる。
お初は、新しい茶碗を一口飲んで、ふうと、息を吐いて、
「おいしいこと――あたしだって、実は、お坊さんだって、もう少し早く、何とか気を利かして、寝酒の一杯も、差し入れてくれそうなものだと思っていたのだよ――
「へ、へ、へ、油をかけちゃあ困るぜ、姐御――だが、おいらにも、相当に苦労があるんで、今のところは、人さまのおっしゃるままになっていなけりゃあならねえのサ」
「時世時節じゃ、屋形船にも、大根を積むとかいうからね――はい、御返盃!」
法印、茶碗は受けたが、もう、
お初は、空徳利を、振って、
「何だねえ、もうおつもりじゃあないか?」
よくまあ、こんなしたみ酒を呑ませに来た――けちな奴だ――と、いいたげな目つきだ。
「だって、一人で、さんざ飲んでから、お前を思い出したのだもの――」
と、いいわけするのを、
「でも、お坊さん、ちっとも酔ってはいないじゃないか――」
「
「つまらねえ――お坊さん、もう少しどうにかおしよ。あたしだって、生じっか口をしめしたんで、後を引いてなりゃあしないよ」
「弱ったなあ!」
法印、いが栗あたまを叩いたが、折角の、今夜の歓会を、このままには、彼自身も、どうもしがたい――物足りない。
考え込むのを見て、
「じゃあ、こうおしなさいよ。あたしはここで、
お初はそんなことをいい出した。
お初の気軽げな申しいでは、法印にも活路をあたえたように見えた。
「そうか、そうすりゃあ、これからおいらも、
「悪あがきをするッて、あたしが逃げ出しでもするというのかえ?」
お初は、おかしそうに笑った。
「考えても見るがいい。この息抜きもないような
「だって、おめえは、軽業お初とも、異名を取った、途方もなく身軽な女の子だというから――」
「いかに身軽なあたしだって、厚い木ぶすまは、どうにもならないよ」
「じゃあ、安心して酒買いに出かけて来るか?」
「ああ、安心して、行って来さッし」
と、問答があって、法印、やっと決心がついたように、空徳利を提げて立ち上った。
問題の木ぶすまを開けて出て、振り返って、おぼろな、裸火で、じっと、お初をみつめて、
「ほんとうに、
「駄目を押しすぎるよ、いい悪党の
法印は、ニヤリとして、締りをしめると、太い止め釘を、ぐっと差し込んだ。
ギチリギチリと、重たいからだが吊し梯子を踏んで上ってゆく。
その気配を聴きながら、お初は
――ふうむ、これで、まあいいきッかけが着いたというものだよ。さすがの悪党、根まけがして、のこのこ貧乏徳利をさげてやって来たのは、おかしいじゃないか――
と、
――覚えてやあがれ! 闇太郎め! 義賊の、侠賊のと、人気があるのを、いい気になりゃあがって、よくも人をひどい目に逢わしゃあがったな! あいつの
そして、まるで、闇太郎その人が、目の前にいでもするように、歯がみをして、
――それにしても、雪之丞もあんまりだ。こんなに人に物思いをさせて、ちっとも察しもせず、あんないけない奴の力を借りて、死ぬ苦しみをさせるなんて――この可愛さが逆に変ったら、どんな呪いとなるか、それ位なことは知っていそうなものじゃあないか――ねえ、太夫、おいらあ、どこまでも、恋か
とはいうものの、雪之丞のことだけは、ほんとうに憎しみ切ることが出来ないかして、だんだん顔が伏さってしまう。
今夜も、寒い北風か? 古寺の戸障子をゆする冷たげな音が、この窖までも淋しく
お初が、怒りと恋慕とを新たにして、
「うう、寒い。外はもうすっかり冬の晩だぜ」
と、
「早やかったろう――酒屋を叩き起して、煮売り屋を叩き起して、これでもなかなか働いて来たのだぜ」
ふところから、竹の皮包みを取り出して開いて見せる。
現われたものは、
「何か生ぐさものか、塩辛でもと思ったが、この辺の夜更けはまるで山里さ。ところで早速、一ぺえ
「折角、御苦労をかけたのだから、遠慮なくいただこうかね」
と、お初は、ほっそりとした手をのばして、厚ぼったい、茶呑茶碗に、なみなみと注がせて、一口呑んで、じっと、法印をみつめたが、
「それにしても、人は見かけによらぬものッてネ――お坊さんなぞは、
「当り木よ」
と、法印、上機嫌で笑って、
「人間が見たとこ通りなら、世の中に
「え? 島抜け?」
と、お初は、茶碗を持ったまま、大きな目で、法印を眺めた。
「島抜けッて! お前さん、
島と言えば、誰にも思い及ばれるのが佐渡、その島には、お初には初恋の、長二郎泥棒が送られたなり、今ごろは、生きて難儀をしているか、死んで地獄へ行っているかわからないのだ。
法印は頭を掻いて、
「いや、こりゃあ、
お初は、好奇心に
「思い出したよ、何でも、三宅島を破って帰って、島抜けの法印とか、仲間で聴えたお人がいるのだが、それっきり姿を見たものもねえ――そんな噂を何度か聴いていたっけ――じゃあ、その島抜けの法印さんというのがおまえさんだったのだね?」
「へ、へ、へ、姐御に、そういわれちゃあ、面目でもあるし、小ッぱずかしくもある。おッしゃる通りの、ケチな奴がおいらなのさ」
「そりゃ話せるねえ――では、改めてお近づきの御返杯だ」
島抜け法印、見かけは
なぜだろうと、
――話せる人だ。
と、まで、いってくれたのである。
法印は、急に歓喜が二倍になり酔いが二倍になって、からだの節々も
――やっぱし、悪党は、悪党同士、話がわかっていいなあ、ほかの渡世の奴等じゃあ、とてもこんな工合に、うまく飲めねえッてことよ。
「さあ、御返杯」
と、ぐうと、一息に干したのを
「おッとと――散ります散ります。へ、へ、へ――
すうっと、匂いを嗅ぎ込むようにして、じっとみつめて、溢れそうなのを、口から持って行ってきゅうと、
「う、うめえ――」
と、嘆息して、
「と、いって、何も、自分で買って来た酒を
「ホ、ホ、ホ、上手だねえ、頭を丸めている癖にさ。あんまりうまい口ぶりを聴いていると、一そ
お初は、ふたたび、重たそうに白丁を両手でもちゃげて、
「さあ、駈けつけ三杯――折角、夜道を買って来てくれたのだから、たっぷりとお上りよ」
「いや、そうはいけねえ――おいらあさっきから、一人で大分
「まだあんなことをいっている、疑ぐり深い人だねえ――」
と、お初は明るく笑って、
「ああ、いいことを思いついた。そんなにあたしのことが心配なら、うまい思案があるよ――二人で、いくらでもゆっくりのめる思案が――」
「え? その思案てのを聴かせねえ――実は、おれだって、おまはんとなら、夜あかし飲んでいたいんだ」
「ね、こうおしよ、おまえさんもこの窖に今夜は、あたしと泊ってゆくことにして、木ぶすまの錠をすっかり下ろして、鍵をふところにしまって置いたらいいじゃあないか。その決心をすりゃあ、飲みつぶれても安心だろう」
「へ、なるほどな、おまはんと、この窖で一緒に寝るか?」
「手と手をつないでいりゃあ、逃げたくっても逃げられないよ」
いっそ、この
――ほんとだなあ、あたしは、茶碗酒なんざあ、迷惑だから、早くあッちへ行っておくれ――でないと、闇の親分が来たとき、法印坊主、しつッこくって困ったと、言ッつけるよ――と、いわれても、仕方がねえところなんだ。そんな風に出られて見ろ、さんざ
そんなことを、ソッと心で思って見た法印、
「じゃあ、姐はんのいう通り、ここへ腰を落ちつけるとしようぜ。そのかわり、お初つぁん、ひとつ仲間仁義は守って
「当り前だあね。こんな風に閉じこめられているあたしを、哀れだと思って、寝酒の一杯も、わざわざ飲ませに来てくれたお前さんだ。
「どうかまあ、今夜だけは、そういう気持で、いてもれえてえね――敵も味方もなしにして――おいらも、何だか、いやにうれしくなって来てならねえ――」
ぐうっと、一息に茶碗酒をつくして、相手に
「ほ、ほ、ほ――膝をくずさないところは、さすが、お庵主さまだねえ――ほ、ほ、ほ」
「は、は、どうも、姐御は、口がわるいよ」
不思議な男女、荒れ寺のあなぐらで、この初冬の夜を飲みあかそうと、献しつ押えつ、
「へへへ、こうして、姐御と、
「どうぞ、ひとつお聴かせよ。
「まさか、この古寺で、そんなわけにもいくめえわサ。ときに、姐御、たまらねえ顔いろになったぜ――ほんのりと、目元が染って、薄ざくらだ。おいらももう少し若くって、たしなみがなかったら、只は置かなくなるぜ」
「まあ、うまいことばっかし――あたしなんざあ、もう散りかかった
すすめ上手に、いつか、法印、すっかり酔わされて、まるでうで
「ほんとにサ、お前さんもいい加減に毛を伸ばしなさいよ――そうしたら世間の女が、うっちゃっちゃあ置かないがね」
思い出したように、じっと見て言うお初の、色気のあること!
――ふうん、島抜け法印、いよいよべろべろになって行くよ――ざまあ見ろ。もう四、五杯も引っかけたら、泥のようになって、丸太ン棒のようにぶったおれてしまうに相違ない。
冷たく笑うのだが、美しいお初の唇にうかぶ、その
「ねえ、お初つぁん、おいらは、あの荒波にかこまれた、三宅の島をいのち懸けで抜け出して
「あたしだって、お坊さん、この窖に叩き込まれてから、いわばもうこの世の楽しみは見られまいと覚悟をきめていたのだよ、世間で名うての、そういっちゃあ何だけど、悪党たちに見張られている以上は、土の下でもぐらのように、
「うれしいなあ、ありがてえな――おいらあ何だぜ、これが縁で、おまはんの片腕となって、浮世で働くことが出来る日が来りゃあ、いのちを的だぜ」
法印、もっともらしくいいながら、いつか目が据わり、からだの中心が、取れなくなって、前に傾くと見れば、つんのめりそうになり、うしろに反ると見ると、ひっくりかえりそうになる。
何しろ、独酌で、飲んでいるうちに、御禁制の窖に、お初に酌をさせに下りて来ようと思い立つまで、ほのぼのとしてしまっていた彼だ。その上、差し向かいになってから、飲みも飲んだことであるから、どんな人間でも、用心も、根性も、すっかり失われてしまうのも無理がない。
やがてのことに、なみなみとはいった茶碗をつかんだなりで、
「もういけねエ――お初つぁん、おいらあ、もういけねえ――」
「何だねえ――まだ、
「駄目だよ――今度はおまはんの番だ――」
と、湯呑を、突きつけようとして、その湯呑を、意気地なく手から取り落してしまう。
茶碗は落ちて、酒が古だたみをだらしなく湿らす。
じーッと、見ているお初、いつか、真顔になって、下唇をぐっと噛みしめている。
――お坊さん、とうとうまいってしまったね、ゆっくりお寝よ。
落ちた茶碗を取り上げて、手酌で一杯。
――ふ、ふ、ふ、赤ん坊のように眠ってしまったが、いい
ぐうッ、ぐうッといういびきを、聴きすますようにしたお初は、やがて、きちんと坐り直して、後れ毛をかきあげて、自分を眺めなおすようにした。
――なッちゃいないね、お初つぁん、着物は
やがて、すっと立ち上ったお初、はだかった襟元、乱れた
――お坊さん、あたしはこれで、
そう、冷たい笑みと一緒に言って、足音を盗んで、窖を去ろうとした。
――と言って、救いの主見たいなお坊さんを、夜寒む、
自分が、
――このまま、黙って逃げるのも
眺めまわすと、カラカラに、墨のかすがこびりついた
それを下ろして、湯沸しの水を硯にたらして、ちび筆を、うつくしい前歯で噛んだが、ふところ紙に、
お坊さん、左様なら、おまえさんが、島にしんぼうできなかったとおなじこと、あたくしも、あなぐら住居 は、いや、いや、いや。のんびりと、手足をのばしてから、ゆっくりこのしかえしは致しますよ。とかく助平が男という男のたまにきず。 かしく。
そう紙を結んで、ポイと投げると、あの災難の晩、自分が門はあっても、扉もない、出入自在な寺域は、いつか、彼女のあとになった。
――ホウ、ホウ、ホウ!
と、
――ケン、ケン、ケンケン!
そんな鳴きごえが、はらわたに沁みとおるように聴えて来るのだ。
けれども、お初は、一向、淋しそうな顔もせず、
美しいが、怖ろしい目つきだ。そして、唇が、ぐっと引き歪んだ。
――さあ、雪之丞さん、闇の親分、これからおいらは、キビキビと
お初は、杜かげ道をいそぎながら、二、三度、小さな咳をしたが、
――ちくしょう! お蔭で風邪まで引いてしまったよ、憎らしいねえ、あいつ等は――何にしても、二日と、あのままにして置けない奴等だ。思いがけなくはたから飛び出して来やがった闇太郎、まず、一ばんに意趣返しをしなけりゃあならないが、早速、手配して
雪之丞、闇太郎の、奇妙な関係について、いかにお初が目から鼻へ抜ける女でも、こればかりは見当もつかないらしかった。
――なあに、あの二人が、どんな間柄だって、かまうことはありゃあしないよ。二人が兄弟も
と、
――早まっちゃあ、駄目だよ、初ちゃん、うっかりそんなことをしたところで、もし、雪さんに、あたくしは一々、
お初は、イヤというほど、自分の頬ぺたを
――ほんとうだよ、女一匹というものは、しかけた恋が叶えばよし、叶わぬときは、相手の咽喉笛を食い切ってやるのが
――ケン、ケン、コンコン!
淡月が、冷たく冷たく射しかける夜の杜の、木立のふかみで、淋しく、凄い、狐の泣きごえだ。
お初は、寒そうに、肩口をふるわしたが、
――そうだとも、お初、おめえは、わが身を捨てても、この恨みを晴らさなけりゃあならないのだ。わが身を怖がっていちゃあならないのだ。自分で自分を、地獄のどん底にほうり込む気になって、その人をも抱き込んでいかなけりゃあならないのだ。この世で叶わぬ恋の夢を、針の山のぼりの道中で、晴らさなけりゃあならないのだ。お前はこれからどうあっても、この
お初は、今度こそ決心を固めた。いつか、彼女は谷中の杜を通り抜けていた。
お初は、寺町を抜け出すと、通りかかった空かごを、もう呼び止めていた。
「かご屋さん、松枝町まで大急ぎだよ。急病人があるんだから――」
かご屋は、淋しいところで、不意に絵から抜け出たような、凄味のある美女から呼びかけられて、びっくりしたように、足を踏み止めたが、すぐに、トンと下ろして、
「へえ、お乗んなせえ」
息杖を突っ張って、かき上げた先棒の吐く息がいかにも、冬らしく白い。
お初は、背中を、うしろに
――ねえ、お初、お前は、出来るだけ手ッ取り早く、仕返しをして、さっぱりした気持になんな。
今度こそ、やりそくないのないように支度をして、三斎屋敷へ、本職の方で改めて乗り込むくらいな気組がなけりゃあいけないんだ――今夜は、あの三斎隠居とかいういけ好かない奴をどうしても味方に抱かなきゃあ駄目だけれど――
お初が、自分にいい聴かせているうちに、すでに、もう目あての場所に近づいていた。
自身番の前まで来ると、お
「かご屋さん、御苦労さま――」
足から、器用に下りながら、
「取ってお置きな」
小銭を、荒びた
コロコロと、小走りに、うつむき加減にいそいでゆくと、これまで見た事のない、真新しい板塀がある。
――おや、何だろう? この家は?
足がおのずと止まると、表つきは武術道場らしい武者窓を持った建て方だ。
――なあんだ、やっとうの、稽古場か。
呟いて、行きすぎようとするときだった――三斎屋敷の方角から、一人の武家が、月光に、長い影を落してやって来たが、
「お、そなたは――」
お初も、足を止めて、
「おや――あなたは――」
二人は、薄い月の光で、顔を見合せた。お初も、武家も、ハッと何か、思いあたることがあったに相違ない。
「あのときは、暗がりで、はっきりお顔は見えませんでしたけれど――もしや、こないだ、山ノ宿の
お初が、口を切った。
相手は、うなずいて、
「おお、
相手は、少し渋りながら答えた。
して見れば、この男は、山ノ宿で、雪之丞が、お初を仕止めようとしたとき、邪魔にはいった、
「あの節は、何とお礼を申してよろしゅうございますやら――」
お初は、しおらしく、手を下げた。と、いうのは、この男、たしかに、三斎屋敷を辞して来たところらしいので、何かの時の
お初が、この男、三斎屋敷から出て来たに相違ない――と、見て取ったのは、さすがに達眼だ。
彼女を、月あかりに見下ろして立つのは、言うまでもなく、三斎お抱え同然の、門倉平馬――お初が、見馴れぬ
「いや、あの時は、相手が女子と
平馬は、そういいわけじみていったが、これも雪之丞には、奇怪な憎悪を燃やす身、相手が、あの場合の模様で見ると、彼と敵対の地位に立っているとしか思われぬので、この女にここで親しみを結んだなら、何かと役に立つこともあろうと、彼は彼で、考えないわけにいかない。
「それにしても、お女中、そなたも、どこぞ、この辺にお
「いいえ、あたくしは、黒門町の方におりますが、今夜は、ちと、人をたずねます用があっての戻りみち――」
「戻りとあらば、もはや、御用ずみでござろうが?」
「は――はい」
お初、そう答える外にない――彼女の
「ならば、袖擦り合うも、他生の縁、
「と、申して、こんな夜中――」
「いや、お構いさえなくば、拙者の方は、何でもござらぬ。住居と申すも、つい、そこの道場――夜分は、内弟子が一人、老僕一人の、からきし殺風景な男世帯、御遠慮はない」
と、
「まあ、この御道場がお宅なのでございますか――それならば、この間のお礼も、しみじみと申し上げとうございますから、お供をいたしましょう」
「御承引で、
お初は、平馬のあとに
平馬が、道場、脇玄関の戸を、引きあけて、
「戻ったぞ」
と、いうと、妙に角張った顔の内弟子が、寝ぼけごえで、すぐ次の部屋から出て来て、
「お帰りなされまし」
と、無器用に、手を突いたが、うしろに、すんなりたたずんだ、お初をみとめて、いぶかしげだ。
「お客人をおともした」
と平馬は、いかめしく言って、
「客間に
その客間というのが、まだ壁の匂いがツンツン香る、
木口こそ真新しいが、殺風景な客間に導かれたお初、皺ばんだ着物をいくらか苦にして、すんなりと坐ったが、相手は、そんな細かしいところまで気のつく男でもなさそうだ。
なぜなら、道場
――ふ、ふん、こいつもやっぱし、男かい? 駄目の皮を
お初が、一目見て、そんな風に心に呟いていると、主が、
「まだ、はっきり名乗りもいたさなんだが、拙者は、門倉平馬と申して、いささか、武芸を
と、膝に手を、ぎごちなく言った。
灯の下で見るお初の、思うに増した、すばらしい容色に、五体が硬まったかのようであった。
「わたくしは、黒門町の方で、後家ぐらしを立てております、初と申しますもの――お見知り置きを――」
「はて、お一人
と、
「ほ、ほ、ほ、あたくしのようなもの、構ってくれ手が、あるはずはございませんし――」
平馬は、黙った。こうした問題にこれ以上触れてゆくことは、武士の面目に関わると思ったのかも知れない。
「それにしても、いつぞやは、危いところであったな――」
と、思い出したように、ジロリと見て、
「一たい、
「
お初は、もじもじするように、
「おはずかしいお話でございますけれど、あたくし達のような、からだが暇で、その癖、楽なくらしをしていますものは、どうかすると、間違いを仕出かし勝ちで――」
後家が、役者に、思いをかけての、
「うむ、世間は知らぬ――ことさら、
平馬が、
――ほ、ほ、ほ、外面如菩薩は、つい、お前さんの前にもいるよ。
と、お初は、ここで、[#「ここで、」はママ]限りなく
「ほんとうに、あとでは思い当りましたけれど――」
そして、打って返すように、見返して、
「でもあの節、あなたさまも、あの者と前からお知り合のようにも見うけましたが――」
平馬の眉根は、憎みで、毛虫がうごめくように寄せ合わされた。
「お、お、多少、存じ寄っている奴で――あやつ、本体を、御存知あるまいが、なかなか油断のならぬ食わせもの――」
「まあ、そこまでは、存じませぬが――一たい食わせものと申して、どのような――」
お初が、訊き返すと、平馬は、薄手の唇を、ビリビリと
「あやつは、ばけ物でござる――何を考え、何を致そうとしているか、是非に見抜いてやらねばならぬ奴じゃ」
「お初どのとやら、そなたは、一時、あの河原者の容色に、迷われたとかいうことだが、
と、平馬は、憎々しげに、雪之丞を
「現に、あやつのお蔭で、御大家の、秘蔵の息女まで、とんだ身の上になられ、いやもう、大騒動が
「え? あの雪之丞のために、いず方さまの御息女が、そんな目にお逢いなされたと申すのでござりますか?」
お初は、耳をそばだてる。
「お屋敷の名は申さぬが、その御息女、やんごとなき方にお仕え申しておるうち、雪之丞の甘言にたぶらかされ、只今のところはお
平馬は、雪之丞
が、お初は、ちゃんと思い当るわけがある。彼女が、雪之丞とはじめて奇怪な
そして、今の平馬の言葉で聴けば、行方を
三斎の娘の浪路こそ、
その上、お初は、いつぞや、役者宿に忍んで、思わず、雪之丞と師匠菊之丞との、ひそひそばなしを立ち聴きしてしまったとき、あの美しい
万に一つ、間違いのないところを、お初は、まるで、女うらないでもあるように、いって
「その雪之丞にだまされなすったというお方は、土部さまの、御息女さまではございませんか?」
「えッ! それをどうして?」
平馬は、顔いろが変るほど、驚かされて叫んだ。
「知っているのは、当りまえではありませんか?」
と、お初は笑って、
「おはずかしいけれど、あたくしも、一度は、あの男に、迷わされた身でございますもの――あの晩の騒ぎにしろ、実は、そのように
「おお、左様か」
と、平馬は、いくらかホッとしたように、
「拙者は又、この事が、早くも世間に洩れているのかと、びっくりいたした。実は、大奥の方へは、まだ、浪路さま、おからだ本復せず――と、そう申し上げてあるので、土部家としては、どうしても、一日も早くあのお方を、探し出して、お城へお戻しせねば、とんだことに相なるのじゃ。なにしろ、御息女は、御寵愛が激しかったので、中老方の
美女は、とかく、相手の異性から、秘密を打ち明けさせるような、一種の魅力を持っているものだ。
門倉平馬は、一道場のあるじに過ぎぬが、世に聴えた権臣土部家の機密に預かるばかりか、
「只さえ、どうにかして、浪路さまを現在の御境涯から蹴落し、
「でも、妙でござんすねえ――」
と、お初が、いぶかしげに、
「雪之丞のために、姿をおかくしになったとしたら、あの者を責め問うたなら、お行方は、すぐにおわかりになるでござりましょうに――」
「ところが、それが、あの
と、門倉平馬は三白眼の白目を、
「あれは、
「土部さまと申せば、老中さまより、御権威があるようにまで、いわれているお方、そうしたお方にも、御心配というものはあるものでございましょうかね――」
と、お初は、いって、しかし、信ぜられぬというように首を振って、
「でも、雪之丞が、お行方を知らないなぞというのは、あたくしには、のみこめませんけれど――」
「変ですことねえ――雪之丞が、浪路さまとかのお行方を、すこしも知らない? あたくしには、どうものみこめない――」
お初は、そんな風に繰返して、
「あの人がそれを知らない訳がないようにしか思われませんけれど――御隠居さまの勢力で、あいつをぐんぐん責めて見たらよさそうなものですのに――」
彼女は、美しい唇を
「素ッ裸にして、ふんじばり上げて、ピシリピシリひッぱたいて、
「ところが、それも出来かねるわけがあるのよ――何しろ、この事が、世間に
「いいえ、あんな河原者の一人や二人、責め殺したって――」
お初は、さも、憎々しげに、そんな風に言いながら、今口にした、自分の言葉から、あの
お初の、そうした変態的な気持が、彼女の表情を、この瞬間、妙に魅惑に充ちたものにしたに相違ない――
門倉平馬は、息をつめたようにして、三白眼の瞳をギラギラとかがやかしながら、からだを硬ばらせた。
「ねえ、先生から申し上げて、あいつを、ぐんぐん責めておやりなさいよ――あたしもその時には、見せていただいて、
お初は、しつッこい口調で言ったが、平馬はそれには答えずに、じっと、上目づかいで、お初を、
「ま、雪之丞ずれのことはどうでもいい――」
そして、
「ときに、そなたは、うけたまわれば、お独り身じゃそうなが――」
「はい、不しあわせな身の上でござんして、
お初、心の中で、
――よくまあ、口が
「それはそれは、しかしそなたほどの美しさを、ようまあ、世間がそのままにして置くものじゃ――よほど、
と、
「拙者も、御覧の通りの男世帯、渋茶ひとつ上げるにも、無器用な弟子どもの手というわけ、
――ふうむ、こいつ、変な気持を起しやがったな――男ッて奴あ、どいつもこいつも何てのろ助ばかりなんだろう――島抜け法印は、谷中の寺にいるばかりじゃあねえ、ここにもいたよ――二本差しなだけで、この男も、あのいが栗とちっとも違やしない。
口では、
「でも、もう大そう遅うござんすし――」
と、しおらしい。
「はじめて上りましたお屋敷で――」
「夜が更けたと申して、拙者に
と、意味ありげな微笑を、ニタリと送って、平馬――
「そなたの方にひどう
「ま」
と、お初は
「そのようなこと、ござんすはずが――さきほども申したと存じますが、こんなお婆さんになってしまっては、かまってくれるものとてありませぬ」
「その癖、役者ぐるいも、しようというのかな?」
平馬は、ひとからみからんだ。
お初は、横顔を見せながら投げやりに笑い出した。
「ホ、ホ、ホ、あたしだって、木ぶつ金ぶつじゃあござんせんし、たまには、なまごころも出て来ますゆえ――」
「御亭主をなくされて、気楽に日を送っているからだなら、まあ、拙者とつき合ってまいってもよかろうな――」
ポンポンと、手を鳴らして、門弟を呼ぶのを、
「だって、お家の方々が、これから長居をしては、何とお思いになりますやら――」
「酒じゃよ――早う」
と、平馬は、膝を突いた弟子に言って、
「なにが、構うことが――家内でもあれば
――ふん、またしても、いや味ッたらしい――
――でも、こんな奴こそ、馬鹿と
お初は、そう思案をきめて、
「じゃあ、折角のことですから、お相手させていただきましょうかしら?」
「うむ、そういたしてくれ、かたじけない――お願い申すよ、何せこの荒くれた世帯、たまには
門弟が運んで来た、
――まあ、今夜は、何て貧乏たらしいお
お初は、鼻の先を
「御門弟さん、お
「なにから何まで、よく気がつくな、いやそれが
「先生は、なぜ御妻帯なさらないのでございます? へえ、お酌――」
平馬は、楽しげに、杯をうけて、
「なぜと申して、拙者も、これまでは、武芸修業に、心魂を打ち込んで暮していたでな――ところがやはり男よ、このごろは、どうも不自由な気ばかりしてならぬ。そなたにも酌をいたそう――」
奇妙な酒宴が、
お初はいわば、心底からの悪性おんなだ。長二郎泥棒と、余儀ない破目で引き離されてから、雪之丞に心酔する熱情復活の日が来るまで、つまらぬ男たちには目もくれたくなかったのだが、しかし、その本質においては、極めて
――あり来たりの色恋をしたってつまらないよ、そんなこたあ、
恋が叶えば、地獄極楽も一緒に見ようし、叶わねば、相手を生きながら
ところで、今、彼女は、そうした恐ろしい恋の相手に、雪之丞を見出した。恋は蹴散らされた。ではどこまでも、その薄情男を苦しめ
そして、彼女は、雪之丞が、
――この男は、こないだ、田圃の出合いでは、雪さんに、ひどい目にあわされたが、あれは不意のことだし、人数も少なかったからだろう――こいつを、おだてて、存分に陣立てをさせ、あの雪さんと噛み合わしたら、ちょいと面白いお芝居になるかも知れない。なにも、
お初の慾望は、平馬の、
――どうせ、雪さんに
お初は、気が、がらりと変ってしまった。彼女の瞳は、新たに胸に
「お
「失礼も何もあるものか――いや美婦の
勤番ざむらいの、お世辞のような、
「拙者、今夜は、いかなる幸運か――
笑いが笑いにならない――情慾が全身を硬直させてしまっているのだ。
お初は、門倉平馬の表情に、異常な狂奮が
「ねえ、門倉先生、あたし、ちょいと思いついたことがあるのですけれど――」
「何でござるな?」
杯を手にして、
「雪之丞のことですけれど――」
雪之丞――と、いう名が出ると、平馬の目いろが変るのだ。
「ウム、あのばけ物のことで、何か――」
「実は、あたくしに取っては、土部さまのお
「ふむ、まだ、未練が残ってならぬと、申すのかな?」
毒々しくいいかけるのを、お初は軽く笑殺して、
「まあ、先生も、剣術には明るいかも知れないけど、女ごころはおわかりになりませんのねえ――江戸の女というものは、自分の望みを――
言葉つきも、親しみが加わり、遠慮が無くなった。
それが、平馬には、うれしくてならぬ。見る見る活気づいて、
「ほう、雪之丞を、どうしようというのだな? 何か名案があるかな?」
「あの男を、どこかへしょびき出すか、それとも、途中で生け捕るかして、きゅうきゅうむごい目を見せてやりたいのです」
「それ真剣か?」
「真剣ですとも――本気ですとも――」
「ふうむ」
と、平馬は、腕を組んで、
「女というものの執念は、怖ろしいものだなあ」
「ほ、ほ、ほ、何を感ずっておいでなのさ――そんな事は、
お初が、冷たい凄い笑いを浴びせかけた。
平馬は、
「拙者なぞ、そなたほどの
「そんな空世辞よりも、先生、あなただって、雪之丞を、あのままにして置いていいのですか――あんな寒い田圃中で、ぶちたおされてさ」
平馬は、お初を、白い目で見て、その目を
「いや、断じて、あのままには
「じゃあ、やっぱし先生も、あんな女の腐ったような男が、そんなに怖ろしくッてならないのですか?」
お初は、
「何を馬鹿な! あの時は油断があったればこそ――」
「それなら、なぜ、手を出さないんです、よう、先生」
お初は、皮肉に、鼻声を出して、物ねだりをするように繰り返した。
「わたしが、殺されかけたあの男、あなたが、いかに油断とは言え、あんな
飲めば青くなる方の平馬は、お初の言葉に、目を釣るようにして、
「拙者だとて、あやつを、あのままに放って置く気はない。いずれ、手痛い目を見せてやる所存でいたが、そなたが、そう言うなら今晩、これからでも、乗り込んで、素ッ首を叩き斬ってやる」
と、肩をいからせると、お初が
「それだから、
「陣立て?」
「ええ、あなたが、向う鉢巻で、飛びかかって行ったって、あの手並じゃあ、ちっとばかし、持てあましましょうよ。こないだの、おつれのお武家さんだって、怨みはあるでしょうし、ほかにも仲のいい方がいるでしょう。その方々をかたらって、今度こそ、引ッくくんなさいましよ。一息に、斬り殺したりしてしまっては、面白くないから、ふんじばって、誰も知らないところへ連れて行って、うんと責めてやろうじゃアありませんか――」
お初の目は、ギラギラと輝き出した。彼女は叶わぬ恋人を、あらん限りの愛撫で、よろこばせてやるかわりに、この世からなる地獄の
「そうか、用心に
と、平馬が言うのを、
「そりゃあ、思い切って、叩き斬るなら、うまくいけば、先生にも出来ましょうよ。でも、それじゃアつまらない――生殺し、なぶり殺しにしてやらなければ――あたしだって、日ごろの恨みだから、短刀のきっ先きで、ちくりと位、やッてやりたいもの――」
「ほう、そなたがな?」
と、さすがに、平馬、びっくりした目でみつめる。
「そうじゃありませんか――男と女の仲というものは、惚れるか殺すかですよ」
「怖ろしいな」
「怖ろしゅうござんすとも――あなただって、今こそ、あたしをそんな目で見ているけれど、もし、一度何してから、途中で逃げ出そうとでもして御覧なさい。そのときには、思い当りますよ。ほ、ほ、ほ、ほ」
「いや、拙者、そなたに殺されるなら殺されても本望じゃ」
「まあ、それはそれとして、じゃあ、明日の晩、あたしが、必ず、あの人を、柳ばしの方角まで引き出します――その途中、どこか淋しいところへ張っていて、盗んで下さい。連れていく場所も見立てて置きますから――」
「そんなことが出来るかな?」
「出来ますとも――」
「では、それで話はきまった――ときに、お初どの、今宵は、
平馬の、手が伸びて、お初の肩にふれた。
手を取って引き寄せようとする平馬から、お初は軽く
「さあ、あたしも、こんなに遅く外を歩くのは
と、色っぽく、しなさえして、
「そして、雪之丞へ、お互に意趣がえしをしてしまったら、ゆッくり、川向うへでも行って、静かなところで、お目にかかりたいものですねえ――向うじまの田舎料理が、大そう評判ですから――」
「左様か、なるほど、道場内は、何かと窮屈で、落ちついて話も出来ぬな」
と、平馬はいって、それでも、残り惜しそうに――
「何なら、今夜、これから出かけようか――静かな晩だから、
「まあ、楽しみは後からといいますゆえ、今のおはなしの雪之丞の方を、始末してしまった方がようござんす。それじゃあ、こうしましょう――あたしはこれから家にかえって、今夜の
お初は、そういって、猪口のしずくを切ってカチリと膳に伏せる。
「その方は、承知いたしたが、もう帰られるか?」
まだまだ未練がましい平馬に、ニッコリと、微笑だけのこして、お初は立ち上った。
「かごでも――」
と、玄関で、言ったが、
「いいえ、かえって、歩く方が勝手ですから――」
お初は、道場の門外へ出て、それからは、もう何も考えずに、小走りに夜道をいそぐ。
彼女はしかし、このまま、まっすぐに黒門町へ帰れはしないからだ――すでに、谷中鉄心庵で、島抜け法印を寝こかしてくれたことが、ばれてしまっているかも知れない。
――あの坊主、あしたまで、ぐうぐう眠っていてくれればいいが、あいつだって、悪党だ――ことによったら、もう目をさまして、騒ぎ出しているかも知れぬ。そうすれば、闇太郎のことだもの、おいらのからだを、ほうり出して置くはずがない。
どこへ行ったものか――と、考えるまでも無く、お初は、所々に隠れ家を持っている。
彼女の足の爪先は、池の端、
――おん仕立物――
と、小さい札を出した小家を差していそぐ。
仕立屋の
「お杉ちゃん、もう、寝んね?」
ゴトリと、何か物音がして、
「どなた! お
と、中年増の声――いくらか寝むたげである。
「いいえ、あたし、黒門町――」
「まあ、
いそいで、入口に近よる気配がする。
お杉という、三十足らずのぽってり者、寝巻の
「まあ、思いがけない! さあ、早く、おはいんなすって――」
「すまなかったね――遅いのに起して――」
はいって、土間に脱ぎ捨てる駒下駄――それを、お杉は下駄箱にしまう。
「はばかりさまだね、下駄をいじらせて――」
「いいえ、ね――だって、姐さん危ないんじゃないの?」
お杉は、
「どうしてさ?」
「でも、吉さんはじめ、お身内の人たちが、姐さんの行方が、出たッきりわからなくなったが、どうしたのだろう? 何でも、闇の親分に誘われて、大きな仕事を目論んだらしいというので、そッちで
と、お杉は、明るくした
お初は、お杉の紅勝ちの友ぜん模様の寝床の枕元にあった、
「そうかい? じゃあ、留守にしたので、方々へ御迷惑をかけたわけだね――なあに、そんな筋じゃあなかったのさ――と、言って決して、無事というわけでもなかったのさ。おいらにも似合わねえドジをふんでね、少しばかり馬鹿を見た。へえ、闇の奴、心あたりがねえと言ったッてかい? まあ見ておいで――あの野郎だって、その中、只は置かねえから――」
と、二ふく目を、やけに、煙を吹いた。
「まあ、そんなら闇の親分と、何か仕事のことで出入りでもあったの?」
と、お杉は、
お初はうなずくでもなく、
「いいえね、あの野郎を、使った奴があるのさ――あの野郎をあやつッて、人をとんだ苦しい目にあわせた奴が――」
「まあ、あれ程の人をあやつるとなると、誰だろう? 大物に相違ないが――」
「思いもかけない奴さ――おまはんには、見当もつかないだろうよ」
「仕事のことで?」
お初は、フウフウと、軽く吹いて、一口、飲んで、
「でもないのさ――
「それにしても、気になりますねえ――一たい、どうなすったのさ?」
「まあ、いいよ、あとでわかることだから――とにかく、今夜は、うちへは帰れないからだ――ゆっくり寝かしておくれな――話はあととして、お前さんも、寝ておくれ」
きゅッきゅッと、帯や、下じめを解いて、着物をぬいで、丸めて投げると、下には、目のさめるような
「お寝間のはしを汚しますッてさ。ほ、ほ、ほ」
と、冗談をいって、お杉の床にもぐり込んでしまった。
世の中が、凶作よ、不作よと、騒々しいためばかりとも思われぬが、このごろずッと不入りつづき、毎月、
いうまでもなく、菊之丞一行中の、雪之丞の、天から授かったような美色、これまでの役者に見られなかった品の良さ、一挙手、一投足につきまとっている不思議な妖気――と、いったようなものが、この成功の八分を
師匠菊之丞の得意は
――何しろ上方の、それも
とか、
――ま、見たところは、美しいですが、とんと場違いで、近海の
とか、
――いやもう、かの役、至極絶妙、極上々吉、歌舞伎道、
――あれの舞台をじっと見ているてえと、どうもおたげえに、江戸ッ子の泥ッくささが、小ッ恥かしくってならなくなるから妙だ。あれに付き合っている、座つきの役者たちは、みんなピチピチした連中なはずなんだが、あれと並ぶと、残念ながら、月とすッぽん――たまげやしたねえ。
――何とかして、あの役者を、足止めして、今は若い身を病気で引っ込んでいる、江戸一の立役者と、並べて眺めたいものだな。
なぞと、打ってかえした評判が、渦を巻きはじめる。
それで、目先の利いた中村座の関係者は、師弟を
と、いうような筋を運んだが、その実は、師匠の菊之丞も、そのほかの弟子も要らぬ。ただ雪之丞一人だけを、未来
座方も、
日ごろは、芸界になぞ、縁どおい一般世界までが、こうなると、
――雪之丞とかが、御当地に居付くだろうか――ッて? 当り木だよ。公方さまのお膝元じゃあないか。日本中の結構なもの、立派なもの、みんな大江戸にあつまるのが、天下の
――へ、へ、へ、その中には、お前さんのように、結構で、立派で、何とも見ッともなくって、
――人を! いい加減にしねえと
と、いった工合で、雪之丞、人気を振り捨て兼ねて、却って迷惑げに見えたが、しかし、師弟とも、肚では、
――大敵多勢を持つ身に、用意の月日をあたえて下さること、一に神仏の
と、涙が出るほどうれしいのだ。
雪之丞
もはや、土部三斎に対する、第一段の復讐工作は、完了したと言ってもいいではないか?
世の中の
この不幸をきっかけにして、土部三斎や、横山、浜川と言ったような、
父親の
雪之丞が、孤軒老師の
して、長崎屋は、あの
――現世の栄華を、いのちよりも、魂よりも貴く思う人達から、まず、一ばん大切なものを奪い取って、零落の淵に沈ませ、恥辱をあたえ、さんざんに苦しみ悩ませてから、必殺の刃で、一思いに一命を絶ってやってこそほんとうの復讐なのだ。一どきに殺してしまうには、あの人達の罪業は、あまりに深い――
そう思っている雪之丞、
――赤穂の義士方も、あれだけの辛抱があればこそ、残すなく望みを遂げた。わしも、構えて、あわてまいぞ。
あわてたなら、一人二人を
そんな覚悟で、もう、あと三日で、千秋楽という舞台を踏んで、楽屋に戻ると、「田圃」と、署名した文が届けられていた。今夜、急用で打合せしたいことがあるゆえ、遅く、旅宿をたずねる――と、いう意味のことを、知らせていた。
――田圃――
と、いえば、浅草の闇太郎に相違なかった。
が、その処を読みおわらないうちに、男衆がはいって来て、膝を突くと、
「親方、広海屋さんから――と、いって、お迎えのかごが待っておりますが――」
広海屋と聴いて、雪之丞の心は緊張した。その後、長崎屋との
闇太郎の文もあり、いつもならそう手軽くうけ引きはしなかったのだろうに。
「広海屋さんは、どこにおいでなのだろう?」
「柳ばしの、ろ半で、おまちなそうでございます」
それなら、ろ半とやらで、ほんの短い間、広海屋と逢って、それから、闇太郎の、急用というのを聴くために、宿へ戻って遅くはないであろう――と、雪之丞は、そんな風に考えたので、舞台化粧をザッと落して、着類をあらためると、迎えのかごというのに、
かごと一緒に、使いに来た男は、小柄な、はしっこそうな若者だった。乗物の脇に引き添って、
「かごの衆、おまち兼ねだから、いそいでくれよ」
「合点だ」
雪之丞は、かごに揺られながら、今夜、広海屋がどんな
彼の想像では、広海屋は、あのように、きっぱりと長崎屋と手切れをした以上は、思い切って圧迫を加えたであろうし、長崎屋は長崎屋で、
――現に、江戸の、お米の値段は、このごろめっきり下ったそうな――長崎屋一味の店前に、石つぶてを投げる者さえあるというはなし――長崎屋も、黙ってはいまい。あの長虫のような
二頭の猛獣が、四ツに組んでお互のからだに牙を突き入れたときこそ、雪之丞が、今度こそ秘めた
――一あし一あし、わしは目あてに近づいてゆく。
はっきりと、勝利を予想して、彼の胸は
そうしたことを考えている間に、かごは、どこまで来たであろうか? もう大分、長いこと乗っているのに、柳ばしに着いた
ふと、気がつくと、かごかきの足音が違っている。
――おや、橋を渡っているが――それも、長い橋を――
雪之丞は、いぶかしさを感じた。
耳をすまして、少し考え込んだが、
「かご屋さん、これは、柳ばしへゆくのではないの?」
「へえ、それが模様換えになったので――」
と、かご脇に引き添って、駆けていた若ものが、何でも無げに答えた。
「模様換えというと――」
雪之丞、かすかな不安を覚えたものの、
「わたしは、柳ばしのろ半とか、聴いていたが――」
「いいえ、柳ばしのろ半の出店が、
かごは、いつか、橋を渡り切って、かまわず、急いで行く。
川風が、荒っぽく、垂れの外に吹きすぎるのをきって走ってゆく。
やがて、傾斜を下りて、
すると、とある曲り角を、曲ったと思うと、そこで、二、三人の足音が、乗物にまつわって来た。
――はて?
はじめて、雪之丞は、一種の殺気が、自分を押しつつむのを感じた。
――早まったかな? わしには、敵がないわけではなかった。
敵を敵をと、
――ふうむ、先きの奴をまぜて、一人、二人、三人、四人、付いたな。気息の使い方で見ると、一通り、武芸の心得もある奴らしいが――
雪之丞は、とにかく、何かしら、陥し穴のようなものに、落ち込んでしまったと、ハッキリ思い知った上は、気を強めて、難場を切り抜けるだけの心支度をする外はないのだった。
――いつもいつも、一松斎先生や、孤軒先生から伺っていた通り、敵を知り、おのれを知らねば、
四人も、ここまで出張っていて、なお、手を出さず、ひそまり返って、乗物の進むにまかせているので、想察すれば、このかごの行く先きにこそ、この人達をあやつり使っている大物が、待っているとしか思われなかった。
――やはり、三斎隠居であろうか? 浪路どのの
雪之丞の頭の中では、
――まさか、わし程のものの出迎え役を引きうける奴ばら、いかに未熟でも、途中でかごから抜けさせるような能なし猿ばかりではあるまい。が――
と、雪之丞は、いつもの
「かご脇の方々――いずれまで、お連れを願わねばならぬのでござりますか? ちと揺られくたびれましたが――」
しいんと、黙りこくって、答えるものがない。
――相当の心構えだな。
雪之丞は、敵が、
しかし、案外、相手が
「お許しなされずとも、当方より、乗物を捨てまするぞ!」
グッと、身を斜めに、かごに、重みをかけて、今にも、やわ作りの乗物を、踏み抜こうやに見せかけたが、相手は、なおも、
雪之丞は、まざまざと、四本の刀の切ッさきが、垂れの外で、自分を目がけて、差しつけられているのを感知した。
――こやつ等、左までの心得のある者どもでは無いであろう――うしろで、糸を引く者が、わしの力を、十分に知っていて、大事に大事を取らせていると見える――
と、考えたとき、パアッと、明るみが、彼の胸を射し渡した。
――おッ! そうだ! 門倉だ! 平馬だ! あの人こそ、わしの肉を喰らいたいとまで思っている随一人だ。
雪之丞の目に、あの無月の夜の、山ノ宿田圃路の一件がうかんで来るのだった。
――そうか、やはり門倉平馬の細工だったのか? それで、広海屋の名を使ったのも読めた。
と、雪之丞は、胸に呟いた。
彼は、まだ、軽業お初が――あの強烈
――それなら、面白い。
と、大胆不敵な、この女装の剣者は、独り
――日頃から、邪智ぶかい平馬、一度ならず後れを取ったことゆえ、今度は、多勢の手をかりて、わしをこの世から、あの世の闇に送ってしまおうとするのであろう――恐らくは、江戸で聴えた、若手の剣客が、こぞってあの男の味方をしているかも知れない。では、一つ関東風の、鋭い切っ先きというものを、今夜は充分に
雪之丞は、人間がこの世に生れ出た以上、どんな成りゆきで、強敵を向うにまわさねばならぬかを、知りすぎるほど知っている。そして、剣技と、士魂とを、一松斎や孤軒から
勿論、雪之丞とても、人、今夜、これから自らが
しかし、彼は、古来の、秀抜な剣士の、
すべての剣聖は、言いのこしていた。
――百人の敵も、一度に、彼等の力を、一人の我れに注ぐことは出来ぬ。百の力は、結局、一と一との比で、自分に向って来るのだ。恐れることはない。一人一人、それを倒せ。何でもないことだ。
そして、そうした言葉を言い残している古人達は、みんな、実際に於いて、決闘上の、大場面を――大傑作を演じて見せているのだった。
雪之丞は、自分に言った。
――門倉平馬の力で、まとめられるほどの敵が、何百人あろうと、それに打ち負かされるようでは、わしの悲願が、成し遂げられようか? わしの敵どもは、もっともっと力の強い人達だ。
タ、タ、タ、タ――
と、小刻みに、そういううちにも、かごかきの足どりは進んでゆく。
雪之丞は、乗物の四囲に、鋭い
――抜ければ抜けられる。
と、彼は思う。
彼が、かごの中で、激しく身じろぎしたとき、ぐうっと、通して来る刃は、多くて四本――その四本の
そして、その安全地帯に、一度身を置いた次の瞬間には、彼の全身は、乗物の外に飛び出してしまっているだろう。
が、彼は、動かなかった。騒がずに、平馬の目の前に、この身を運んでゆかせたかったのだ。
雪之丞を載せたかごは、なおもそうそうと、夜の北風が吹く、田圃みちを進んでゆく。
雪之丞は、心の用意が済んだので、水のように澄み切った気持で背をもたせたまま、目を半眼に閉じて、揺られるままに身を任せている。
やがて、かごかきの足どりが、少しゆるんで、ゆるやかな傾斜にかかったようだ。
どこかで、微かに人ごえがしている。
――いよいよ、来たな!
と、雪之丞は半眼にしていた目をパチリと開けた。
人ごえが、やんで、しいんとしたが間もなく、かごわきで、
「止まれ、下ろせ」
と、
その命令で、乗物が、とんと下りる。
「珍客、召し連れ申したが、いかがいたしましょうか?」
と、同じこえが、云った。
「御苦労、御苦労」
案にたがわず、門倉平馬の声音だ。
それが、いくらか、高みから聴えるところを見ると、大きな家の、縁端での挨拶らしかった。
「そこに、珍客のための、席も設けてある。それに、招じるがよいであろう」
「しからば――」
と、錆ごえが答えて、
「おのおの、御用意――」
と、言ったと思うと、サッと、急に、かごの垂れが上げられる。
「河原者、雪之丞、出い!」
錆声が、野太く叫んだ。
雪之丞は、すさまじい刀尖が、左右から突きつけられているのを見た。そして、次ぎに、そこが古寺の荒れ庭で、鈍い
が、まだ、縁の上に、いかなる人々が並んでいるのか、見ることが出来ない。
「出い! 雪之丞!」
と、命令が、ふたたび叫ばれた。
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、美しい、朗かにさえひびく声で、雪之丞は笑った。
「これは、まあ、とんだ御念の入った、御案内ぶり――」
そして、冷たい調子で、
「わたくしは、まだ、わが手で、自分の
「何をつべこべ!」
と、刀尖をつきつけている青年武士が、上擦った調子で
「たわ言を並べおるうちに、首が飛ぶぞ。それが怖ろしくば、早う出い!」
「ほ、ほ、首が飛ぶは、怖ろしいに相違ありませぬが、はだしにては、下に下りられませぬ」
「黙れ! 出い!」
「こなたの申すこと、おきき入れなくば、わたくしも、おいいつけを、おことわりいたすばかり――決して、この乗りものの外へ、手向いなしには出ませぬ!」
雪之丞は、相変らず、笑みさえふくめた声でいった。
若侍は、怒った。
「おのれ、血迷うたか! 嚇しではないぞ――この刃は――」
「さようでござりましょうとも――立派なお武家が、役者風情をお連れなさるのに、よほど
落着き払った、雪之丞の嘲笑に憤怒を煽り立てられたように、
「おのれッ! いわせて置けば!」
と、押えかけて、ぐッと、刀を突ッかけて来るのを、かわして、
「ほ、ほ、これはまた、
と、笑って見せて、その手首を、やんわりと、握りしめた雪之丞、ぐいと、引きつけて、
「聴いたにまさる、しぶとい奴だ! さあそれへ坐れ!」
ほかの若僧たち、太刀の切ッさきで、追うように、
「これは、
にんまりと、花のような唇を
思い設けたとおり、そこに、威を張って、肩をそびやかし、三白眼を、光らせて控えているのが、門倉平馬――別に、雪之丞をおどろかすには足りない。
左右に、五人ばかり、これも、いくらか鍛錬は積んでいるに相違ない、面ずれというのに、小鬢、小額を、抜け上らせた、連中が、敵意と、好奇心とに、目を剥くようにして押し並んでいる。
その中には、いつぞや、山ノ宿の出逢いで、
「雪、びっくりいたしたか?」
平馬は、皺枯れた、毒々しい調子を浴びせて来た。
雪之丞は、相変らず、
「
むしろ、旧友に、なんの害意も持ち合わせず、めぐり合ったときででもあるような、しずかな答。
その語調に、はじめて、この不思議な存在を認識したであろう武術者たちの目がおに、ありありと、驚異のいろがうかぶ。
彼等は、平馬から、雪之丞の本質について、聴かされてはいても、その美しさ、その
驚異ばかりか、恐怖さえ、漂うように見えた。
平馬は、のしかかるように、
「今宵こそ、雪、生きて、この場を、立ち去れると思うと違うぞ」
「ほんとうに、凄いようなところですこと」
と、女装の若ものは答えた。
「よくもまあ、お江戸に、こうした荒れ果てたお寺もあるものでござりますね――もっとも、川向う、お構いうちではありますまいけれど――相馬の古御所の、舞台よりもっと物さびしいすさまじい景色――今度いずれ、こういう
彼は、笑みつづけていた。
雪之丞の
「なるほど、
間柄助次郎――これが浅草鳥越の道場持で、こないだ、
――憎々しげに、雪之丞を
「いや、あの時は、拙者も門倉うじも、少し食べ酔いすぎていたからよ。今夜こそは、先日の恨みがある。拙者の手で、皮肉の破れるほど、打ち据えてやらなければ――」
「間柄うじ、そう
と、平馬がいった。
「おお、許すとありゃ――」
と、助次郎、今夜も、かなり酔いがまわっているように見えたが、縁側から、
「これ、河原者!」
と、鉄扇を突きつけて、
「その方、身分ちがいの身を以て、
そう、濁った声で、嚇したが、次の瞬間、
「えい! 鉄扇を受けて見ろ」
と叫びながら、真向から額を狙って打ってかかった。
が、
「これは理不尽な――」
と、やさしい声が、答えたと思ったとき、助次郎の、右の利き腕がぐっとつかまれて、仰向けざまに引き据えられていた。
「あぶない、御冗談を――御冗談とは存じておっても、当方にも、手足がござりますゆえ、どこに当るかわかりませぬ――いい程になされた方が――」
と、冷たくいって、平馬を仰いで、
「只今、うけたまわれば、わたくしが、御当地におりますことは、御歴々の御名誉を
「はは」
と、平馬が、艶の悪い唇で笑って、
「貴さま、先夜にいたせ、懐剣を抜いて、かよわい婦女子に、危害を加えようとしていたではないか? それが剣技を汚すものでなくて何だ?」
「かよわき
雪之丞は、助次郎の二の腕を、ぐっと、指をまわして、掴み緊めて置いて、突きはなす。
掴まれた腕が、
「
「それ、おのおの!」
平馬が、並居る仲間を、顎で縁側から追い下ろすようにした。
平馬に駆り集められて、面白半分、雪之丞
「かやつ、御存分に――」
と、主人に
一人、二人、三人――五人の同勢だ。
その連中の先頭に立った
近づくのを、物の数でもなげに、笑みをふくんで眺めている雪之丞の前に、立ちはだかると、
「こりゃ、生れぞくない――今、門倉うじ
「ま」
と、雪之丞は、女のように、紅唇の間から、白い前歯をチラリとさせて、
「なるほど、生れぞくないと、おっしゃるとおり、男ながら、女のように
「おのれ、いわせて置けば!」
さすがに、刀に手はかけなかったが、掴み直した、南蛮鉄の鉄扇、一尺五寸もあるのを、振り上げさまに、
「えい!」
と打ち込んで来る。
「おたわむれを!」
と、雪之丞、なまめかしく居くずれたまま、上体を、ほんの少しかわしたのだが、見当がちがった助次郎、タ、タ、タ、たたらを踏んで、よろめいて来るのを、サッと、白い手を
しずかに拾って、雪之丞、膝の上でまさぐったが、
「だから、何度おかかりになっても、同じことだと申し上げておりますのに――」
「ううむ」
憤怒と屈辱とに、ドス赤くなって、たまらず
そして、当の、雪之丞の背後、左右には、すでに、抜き身の若侍が四人、退路をふさいでいるのだ。
これをしも、袋のねずみといわずして、何であろう。
たった一人、縁側に居のこった平馬、白目を、ギラギラと、すさまじく光らせて笑った。
「雪、虚勢は
「それはまた、御親切な――わたくしも事は好みませんが、お詫びというて、何を詫びたらいいのでありますえ?」
雪之丞、
「何を詫びたらよいか? ――と、
と、平馬は、馬鹿にした調子で、
「一たいに、貴さまが、江戸で舞台を踏むのなぞ、見るのも厭じゃ――まずこれまで、お目をけがしましてと、言って、役者をやめて、拙者の道場の下男にでもなれ――それから、従って、一松斎へ、貴さまも、縁切り状をつけねばならぬ――」
平馬は、自分の
雪之丞は、茶ばなしでもしているような、心
「それは困りましたね」
と、小首をかしげるようにしたが、
「わたしが役者になったのは、身すぎ世すぎのためで、つまりは、どなたかさまの下男になって、水を汲んだり、庭を掃いたりするのが、厭だったためでございます。それはもう、堅気衆から御覧になったら、
「なに、何と申す? では、拙者の剣法を、貴さま自身にひきくらべて、匹夫のこころざし――と申すのか! おのれ、無礼な!」
平馬、相手が、おどしに乗らぬので、
「ま、お腹立ちなされますな、ただ、たとえでございますよ」
「こりゃ、おのおの」
と、おのが武威を
「むかしのよしみにて、おのおのから、いのち乞いをしてつかわそうと、これまで申すに、重ね重ね雑言を吐く奴――もはや、止めませぬ。さ、御存分に、
雪之丞は、いっそのこと、早く始末をつけてしまいたいのだ。宿には、闇太郎を待たせてあるし、用をすまして眠りたい。
――揃っておいでなさい。鉄扇一本で、おのおの方も、
ニッコリ笑って、誘うように、からだ中に隙を見せたが、相手の五人武者――いずれも、敵を見る目ぐらいは持っているし、現在、軽はずみに、突ッかかって行った間柄助次郎の、失敗を目に見たことだから、先を切ッて、飛びかかってゆくものもない。
平馬は、わざと、平然たる態度をよそおおうとして、くわえていた
「貴さまたち、何を愚図愚図、それ、引ッ包んで、かまわぬ、斬れ!」
これは、
「えい!」
と、だしぬけに斜めうしろから、斬りつけて来た。
背後から、
「アッ!」
と、あわてふためいた叫びを上げて、たたらを踏んで、前に並んだ五人武者の方へ、よろけて行く。
と、隙間あらせまじと、右と、左から、
「やッ!」
「とう!」
と、
雪之丞は、その瞬間、もう、
いつ突っ立ったか、五人武者をまともに引きうけて、スラリと、
「武芸の師と、自ら言われる方々が、それだけ押し並んで、子供ばかりを挨拶に出されるとは何ごと?
臆せぬ挑戦だった。
間柄は、五人の中央で、ギリギリと、聴えるほど奥歯を噛んだが、たった今の、あの不ざまな負け目を、一同に、まざまざと見られているのだから、こうまで言われては引っ込んではいられない。
「ばけ物! 思い知れ!」
ギラリと、抜いた、
と、同時に、あとの四人、いずれも、抜き連れた刀に、赤黒い
――大敵だ! なるほど、門倉や間柄から聴かされていた通り、こやつまざまざと、わが目で見ねば信じ難いほどの
個人としては、雪之丞に、何の恩怨もない彼等だが、不届きな芸人を、さんざんに、剣の先きでもてあそんだ末、試し斬りも自由という、平馬の面白おかしい誘引に乗って、ここまで来てしまった彼等、いのち賭けの仕事と、はじめて思い知って、みんな、唇の色が変った。
だが、それだけ、殺気が充実して、すべての面上、必殺の
それを見のがす雪之丞ではない。しかし、
「おお、いよいよ、御一同、抜かれましたな――が、辻斬りで、年寄り子供を斬るとは、ちがって、お手向いいたす
花はずかしい美青年の唇の、どこからこんな
が、一同、む、むと、気合をためているばかりだ。
「間柄、
その時、縁側から、平馬の、狂犬を
間柄助次郎、そのひと声に、
「だあッ!」
と、濁った
――ピーン――
と、怪しい響きを立てたと思うと、相州物の
すわやと、おどろいて、
「御免!」
と、激しい打ちがはいる。
「む、ううむ」
助次郎は、肩口を抑えて、よろよろとよろめいて、しゃがんでしまった。
雪之丞の、この太刀折りの手練は、ほかの四人の剣者、見たことも、聴いたこともない。しかもそれが
けれども、その
「行くぞう!」
と、
「おうッ!」
と、
開いて、空をつかせた雪之丞の、構えが直らぬ間に、もう一人、
「とうッ!」
と、折り敷くように、胴を
「えい!」
と、
「む」
と、詰めた気合で、心臓に、鉄扇の尖が、真ッ直ぐにはいる。
残された二人、
「やッ!」
「や、やあッ!」
正面と、横合から、合打ちを覚悟のように、斬りかかったが、雪之丞は、その二本の刃が、触れ合わないうちに、どう潜ったか、潜り抜けて、ズン、ガッと、たった
雪之丞は、しずかに、いつもの微笑の目を、縁側に、さすがに、坐ってもいられず、虚勢を失って、青ざめて、立ち上った平馬に送って、
「門倉さま、まいられるか? まいられねばなりますまい?」
平馬が、
「悪魔メ!」
と、
「門倉さん、お前さんまで、ぶッたおされるにも及びますまいよ」
破れ障子の蔭から、そう、
五人の
その姿を仰いだとき、さすがの雪之丞の
――アッ!
と、驚きの声がほとばしろうとした。
洗い髪にして、縞物の裾を長目に、素足を見せて、
闇太郎の手で、殺しこそはせぬが、谷中の鉄心庵という古寺に、
「どうだい?
そして、大刀を抜いて、立膝になっている平馬に、
「御覧なさいよ。先生がお手をお出しなさるにゃ及ばない――どこかの
雪之丞は、不思議にも、これまでにない、ある
――不思議だ。闇の親分ほどの人が、念を入れた手配を潜って、ぬけぬけとわしに顔を見せるとは! しかも、門倉平馬と、さも一味一体らしく――
その上、お初が、こちらの力量を、知りすぎるほど知っている癖に、仲間の多くはすでに戦闘力を失い、残っているのは平馬一人、その平馬が、いかに
――一たい、どうしたというのであろう? お初は、わしに勝ったと信じている――あの気持は、どこから来ているのか?
当然、雪之丞は、お初をかくも勢いづけている、背後の力というようなものを、想像して見ずにはいられない。それは、平馬一味というような存在に比べて、格段大きな、力強い威力でなければならぬ。
では、あの女、とうとう
と、
「何とかおいいよ――雪之丞さん」
と、お初は、ふところ手のままで、流し目のような視線に、嘲笑を
「お前さんは、あたしほどの者を、小指の先きであしらったと思っておいでらしいが、どっこい、問屋は、そうは
お初の、むしろ、べったりと、ねばッこく響くがゆえに、一そう薄気味悪い言葉は、なおもつづく。
「実はねえ、お前さんのやり方が、あんまりいまいましいから、ついした事から知り合いになったこの門倉さんに力をかりて、始末をつけて貰おうと思ったのだが、この
お初が、べらべらと、しゃべり立てているうちに、平馬、妙な顔つきになって来た。それも
たまらなくなった風で、
「いや、かかる

と、惚れたお初から
「お止しよ、門倉さん、ふふ、いろ男は、金と力が無いからって、何もはずかしいことはありはしないやね。わざわざ、お前さんが立ち向って、また、いつぞやのように、当身でも食って、のけぞってしまったら、それこそ御念が入りすぎるよ。まあ、雪之丞のことは、わたしにまかせてお置きなさいよ」
「じゃというて、このままに、こやつを帰すことは――」
「だれも、この人を、ここから逃がすとはいっていませんよ」
「しかし、一味一党、無念や、おくれを取ってしまった今、拙者が出なんだら――」
と、平馬は、青ざめて、油汗を額にうかべて、
「とはいえ、そなたはかよわい女――とても、あやつを、押し伏せることは叶わぬ」
「ほ、ほ、ほ、ほ、なるほど、あたしは弱いさ――腕も力もない筈なのさ。だけれど、ねえ門倉さん、お前さんより、いくらか
と
「それに比べると、さすがに、雪さんだ。あの人は、何か、心に感じたね――ここに集まっていた、でくの坊のような先生方とは、ちょっと変ったところのある女だと、今になって思い当った風だねえ? ねえ門倉さん、雪さんの
と、ふところ手にしたのを、乳のあたりでちょいと動かして見せて、
「この手が、ちょいと動いてごらん、お前さんのいのちは、はばかりながら無いのだよ――そのときには、さすがに雪さんも、あたしのいうままになる外はないのさ」
平馬、お初の
――では、この女、何者を、助勢として別にかくしているのであろう――手をあげて合図をすればわれわれより腕の立つ連中が、いずくからか現れて来もするのか!
平馬は、きょろきょろ、光りの届かぬ植込みの影の、暗がりなぞを見まわすようにするのであった。
「ときに、雪さん、どうだね? あたしが、今夜、何か言い出したら、今度こそ、うんと言ってくれますかい」
お初の
「今夜こそ、おまはんに負けました――と、あたしの前で手をついて、何でも云うままになりますかい? それを聴きたいものですね」
雪之丞は、心耳をすましている。が、彼の感覚には、何も怪しい気配は感じられぬ。目の前に傷つきうめいている人々の外には、手に立つほどの敵がひそんでいる容子もない。
――女狐よりも
雪之丞は、明るげに笑って、
「世の中からは、卑しい
ツと、立ち上ろうとしたとき、ふところ手をしていた、お初の右手の
冷たげな、小さい、丸い一ツ目――
――銃口だ!
さすがに、雪之丞が、ハッとしたとき、お初は、赤勝ち
その手の中に、軽くつかまれた、ドス黒い武器――
「わかりましたか? これはついこのごろ、
雪之丞はじめ、平馬も、手負いも、お初の能弁に魅されたように目をみはって、じっと、手元と的を見比べる。
お初は、小さな武器を、掌に躍らすようにして、持ち直すと、裾を乱し、
「いいかい? 射って見せますよ」
たのしげにいって、曳金にかけた細い指に、かそかに力を加える。
と、だしぬけに、
――ズーン――
と、いう、あまり高からぬ、が不気味なひびき――銃口から赤い火がパッとほとばしって、青白い煙が交ったと思ったが、的に集まった、目という目が、一どきに
薄暗さの中にかすかに見える、木瘤、小さな瘤の真ン中に、たしかにプスリと弾丸が突き刺さったのだ。
「ね、どう? ちょいと、あざやかな
と、お初は、得意げに笑って、
「ことさら、雪さん、この隠し芸には、
と、いったときいつか、彼女は短銃を、じーっと雪之丞その人に狙いをつけているのだった。
「いつもいつも、いやに落ちつき払ってさ、高慢ちきに取りすまして、天下で、わたしほど、武術も、芸も、すぐれたものはあるまいと、いわんばかりの顔をしておいでの、雪之丞さん、わちきは、刃ものを取っては、おまはんの敵であろうはずはないけれど、今夜は別だと思ってるのですよ。なぜッて、わちきの
と、
「ええ、おい、何とか返事をおしよ。腰が抜けたような顔をして、ぼんやり坐っていないでさ。この
紅い唇を、食い反らすようにお初は
雪之丞は、しかし、別に、恐怖に度を失った容子はない。
彼はしずかに考える。
――なるほど、お初の申すとおりじゃ。こちらから、飛びかかって行ったところで、あの弾丸が迎えに来れば、途中で射ち仆されてしまうにきまっている。闇夜のつぶては避けようがあっても、まともに狙われた鉄砲では、どうしようもない。つねづね師から鉄砲で狙われたら、一がいに敵対しようとせず、策を以て対する外はないとうけたまわっていた――ここのことだ。
雪之丞は、どんなときも失わぬ、心の余裕を保っていた。
――それに、
いやいや、一時にいのちを取るには、あまりに憎らしい奴と、思い詰めているのであろう。鉄砲をつきつけて、さんざんに嚇したり罵ったり、あらゆる残忍な
雪之丞は、鉄扇を、ポーンと闇に投げて、その場に膝を突いた。
「なるほど、飛道具にあらがうすべはない。持ちあわさぬ。お言やるとおりにするほかはありますまい」
闇太郎、例の



それも、単に、逢いたいとか、話しがしたいとかで、尋ねて来た彼ではない。今日昼すぎになって一日一度は、見まわることにしている、鉄心庵――そこを
親分、すまぬ、大切な預りもの、ちょいと気をゆるしたひまに、姿が無く、このままにては、生きて、男同士、お目にかかれぬ仕儀、これより草の根を分けてなりと、お初をたずねださねばならぬゆえ、二つあって足りぬ首をしばらくおかり申し、行方をたずねに出かけ申し候、おわびは、たずね出しての上、いかんとも究命に逢い申すべく候。
と、書きのこした、いが栗坊主の、ざんげの文だ。――やっぱし、無理だったのだ。法印は、すばしッこく
闇太郎、地団駄が踏みたいのを、やッと押えて、すぐに、気のきいた仲間、若い者を集めて八方、お初
闇太郎、まちにまったが、老年宵ッ張りの師匠の菊之丞さえ、もう床についてしまったというのに、いつになっても、雪之丞が戻らぬので、気にもなり、いら立たしくもなって来た。
――もしや、もう、お初の奴が、何か小細工をやりはじめたのじゃあねえか知ら? いかに素早い奴でも昨夜の今日では、意趣がえしの法もつくめえが――
もっとも、お客と、ちょいと付き合って、じきに戻ると、男衆を通じてことづてもあったことだ――もう少し、辛抱して見ようと、心を強いて落ちつけて見もしたが、自分が待っているということを、忘れるような相手ではないので、あまりに時刻が経つと、気が気でなくなるばかり――
「じゃあ、まち切れねえから、こっちからろ半へ出かけて見ましょう――入れちがいになったら若親方に、寝ずに待っているように言って下さい――すぐ引っかえして来ますから――ぜひに今夜中、話して置きたいことがあるのでしてネ」
彼は、男衆にそう頼んで、辻かごで、柳ばしへ急がせて行った。
初冬ながらも、
「やっぱし
と、
いかに、江戸の隅から隅まで、闇夜も真昼のように見とおす心眼を持った闇太郎にしろ、ろ半を出て、河岸に突っ立った
――ウーム!
と、吐息が出てしまった。
計りに計って、軽業お初が、雪之丞を
闇太郎は、日ごろ感じたことのない
――あま! たくみやがったな! それにちげえねえ――
闇太郎は、黒い川水のおもてに、蛇体になって、口から火を吐きながら泳いでいる、執念の女鬼が、こちらに、嘲けりのろいを投げつけているような気がした。
が、彼は、憤って、誓うように、低い怒号を叩きつけた。
――負けるものか! 畜生! あまッ子風情に!
彼は、一種独特の思索の綾いとを、たぐり寄せて見ようとした。
闇の水を睨んでいたが、しかし、結局、うかんで来るのは、白い、美しい、仇ッぽい女の、嘲笑の顔だけで、その女が、どの方角を差して動いたか、どんな手段を取って、雪之丞を陥れたかは、判然しない。
――だが、あまた手下を集めての仕事としたら、高が知れたものだのに――あいつは、いかに
闇太郎は、そうした場合の、雪之丞の胸の中を思うと、
――折角、十何年、一心不乱に、
闇太郎は、沸き立つ憤怒にわけのわからぬことを、叫び立てそうになって、辛うじて自分を抑えた。
――馬鹿! 貴さまが、あわてふためく時じゃあねえ――心をしずめて、何とかひとつ方便をめぐらさねえことにゃあ――
しかし、うまい考えも、
闇太郎、棒立ちになってみつめた。
闇太郎、一たん、立ち止ったが、ためらわず、来かかる一隊――二人の同心に指揮された、白鉢巻、手ッ甲、
堅気をきわめた、縞物ぞっき、髪のかたちさえ直しているから、どこから見ても、これが、本体は江戸切っての怪賊と、見抜くほどのものが、あの中には、まじっていないと、とうに悟ってしまったのだ。
うつむき勝ちの、用ありげな足どり、通りすがろうとすると、向うは、橋詰めにさしかかりそうになったので、捕ものは川向うか、あらためて、同心から、みんなに訓示というわけだ。
「おい、いよいよ、いつ出ッくわすかも知れねえぞ」
と、鉄火な口調で、
「先きに出してある、竹町の半次や、子分どもから、橋を渡りゃあ、知らせがあるはずだ。お杉を締めて聴き出したところじゃあ、あいつと一緒に、今夜おさむれえがたんといる模様だ。どうせ、やくざ浪人、すぐ抜いて来るだろうが、そいつらあ、いい加減に、どこまでも、お初に、ぐッと引ッついて、逃がしちゃあいけねえぜ」
――お初! お杉!
同心の唇から漏れた、その名ほど、闇太郎をびっくりさせたものがあるであろうか!
さすがに、棒立ちになろうとしたが、じきにいつもの彼に帰って、捕物隊が、かたまって、こっちに目が無いのを幸いに、ぴたりと、つい
――じゃあ、あま、今日、古寺を抜けたうれしさに、のこのこ市中を歩きまわって、こいつ等に嗅ぎつけられたのだな。ふん、
闇太郎、羽織をぬいで、ふところに、頭に手拭をのせ、裾を割って、片ぱしょりにすると、急に、いつもの、身軽をきわめた姿となる。
同心の、指揮で、駆けゆく一隊――一てえ、どけえ、いきゃあがるんだ?
彼等が、両国ばしの、中ほどまで、渡りすごしたのを見ると、サッと、天水桶をはなれて、ヒラリと飛び、夜の鳥のよう――もう、捕物隊のついうしろに引ッついてしまった。
橋を渡りつめたところで、どこからか、飛び出して来た、一人の男――目明しの子分体――
「旦那、やっぱし小梅の方角ですぜ」
「小梅たあ、一てえ、とんだはずれへ行きゃあがった――浪人ものを連れて、押し込みを働こうてえわけか――」
「さあ、あっしゃあ、まだ、どんづまりまでは突きとめていねえんで――
「遅れちゃあ、いけねえ、いそげ!」
同心一行、先きをいそいで、うしろに目がない。闇太郎の尾行は、楽々だ。
軽業お初が、浪人組を引率して川向うに姿を消したという聴き込みに、検察当局にこそ、その目的が判明しなかったが、闇太郎にはあまりに明らかすぎるほど呑みこめるのだ。
それゆえこそ、彼は矢も
――ここまで来て、どうして雪之丞を、敵の手に渡せるか? たとえ今夜、このおれの姿がばれて召し捕られることになっても、友達だけは助け出さねばならぬ。おっと、また、
淋しい淋しい、夜の流れ――業平橋とは、名こそ美しけれ、野路をつないで架った橋の
「旦那、たしかに、お初をはじめ浪人ものは、この橋を越したには相違ねえんです。ですが、うちの親分はじめ、一生懸命嗅いでいるものの、ここから先きは、見当がつきません――この近所にゃあ、奴等が、荒っぽい腕をそろえて、乗りこまなけりゃあならねえほどの、豪家もなし、さりとて、
「何だ! 何をまごまごしていやがったのだ」
と、同心の一人が
「小半

「ほんに、驚き入った野呂間だな! 竹町も、焼きが、まわったの」
と、今一人もつぶやいたが、
「しかし、この場で、腹を立てていてもはじまらぬ、これ、貴さま達の中で、この辺の地理に明るい奴はないか! 金持という金持の屋敷を知っているものはねえか――」
「へえ、あッしは、つい、この近所の生れでして――」
と、名乗って出る、同心手付の捕り方が、何やらしゃべり出そうとするのを、もう、闇太郎は、聴いていない。
――ようし、これから先きは、この俺が、立派に嗅ぎ出して見せてやるぞ。何が、あいつ等金持の
役人たちが、土地を知っているという捕り手を案内に、バラバラと、駆け去ったあとで、橋を渡り切って、うしろを見送った闇太郎――
――ぺッ、間抜めえ! どこへでも消えていきゃあがれ! あばよ! と、
それから、その堤根を、ましらのような素早やさで、南へ駆ける闇太郎の、目あてとするのは、これから五、六町行ったあたりに、住持が
女犯廃寺の泰仁寺――
その荒れ森や、黒い
闇太郎は、立ち止って、じっと耳をすますようにして、その耳を地に伏せるようにする――こう、こう、こう――と、淋しい夜風の漂う底に、やがて、何を聴き出したか、ニーッと、白い前歯が現れる。
――ふうむ、どうだ、自慢じゃあねえが、江戸御府内の隅から隅まで、闇の中で見とおすと、人に言われるこのおいらだ――目ばかりじゃあねえ、耳もやっぱり、順風耳だぞ――この夜ふけに、あの
気軽になって、もう、はっきりと、目的
「あッ!」
と、仰天したように、大きく叫んで、ほとんど、地を蹴って飛び上った。
鋭い彼の耳の
「あッ、ありゃあたしかに
と、叫ぶと、タッと、両の股のあたりを、平手で叩くと、それこそ、鉄砲玉のように、闇太郎は、泰仁寺の、寺域めがけて駆け出した。
闇太郎は、明るい光の下で見たら、このとき紙のようにも青ざめていたであろう! 夜の銃声――物ずきに射つものがあるはずではない――たしかに、きっぱり、物のいのちを絶とうと決心した者だけが、
――雪之丞いかに、強くっても、鉄砲玉は避けられめえ! し、しまったことをしたな! 雪! 無事でいてくれ! 頼んだぞ! 今、すぐに、おれが助けに行くんだぞ!
打ッつかりそうになった、崩れかけた高い土塀、パッと、地を蹴るようにすると、いつか、寺の裏手の
そして、鐘楼の石垣にとりついて、前庭の方へ目をやったとき、彼は、覚えず、抑え切れず、
「あッ! しめた!」
と、わめきそうになって、声を呑んだ。
その刹那の、闇太郎のうれしさ! 見よ、二十間あまり離れた、本堂の縁先、鈍い、紅い、おぼろな光りに照らされて、あの、なつかしい、心の友が、相もかわらず落ちつきを失わず、しっとりと
――ふうむ、じゃあ、あの
と、見つめていると、何やら、女の声が、嘲けるように聴えたと思うと、ひらりと、本堂の高縁から、飛び下りた人の影!
――よッ! お初の奴だ! しかも、短銃を持ちゃあがって!
闇太郎は、息を呑んだ。
白い
――畜生! いけねえ魔物を
「ねえ、雪さん!」
「おまえさんへの、あたしの怨みは、ことごとしく並べるまでもないよ――だけれど、ねえ、あたしだって、これで、やっぱし
闇太郎、突然、自分の名が出たので、首をすくめて、小さく舌打ちをした。
――ちょッ! 闇の野郎だって! 生け憎らしい野郎だって! きびしいことをいやあがって!
「雪さん、おまえさんは、あの野郎が、今、江戸で、どんな羽振りを利かせているか、ようく知っていなさるはずだ。あたしにゃあ目の上の
お初の毒舌は、雪之丞へよりも、闇太郎の
さんざ、毒舌を
「さあ、
――雪之丞、何だってあんなにじっとしているんだろう?
と、闇太郎は、はがゆく呟いた。
――日ごろのあの男にも似合わねえが――もっとも、武芸という奴は、出来れば出来るほど、用心深いというから、荒立つことをして、毛を吹いて傷を求めるより、あとでしずかに手だてを
お初の方では、細い、白魚にも似た人さし指を、
「どうでしょうねえ、太夫さん、親方さん、今、そこで、十八番の所作ごとを
お初は、冷たく笑ったが、急に意地悪い悪どさで、
「さあ、おしゃべりはするだけした。雪さん、
銃口が、ぐっと、雪之丞に、突きつけられる。
無言に立ち上る雪之丞――
「歩くんだよ。生れぞくない――」
憎々しく浴びせかけて、お初は行手を
お初の持った短銃の銃口に追われるように、しんなりしたうしろ姿を見せて、縁側に上ってゆく雪之丞――
お初がふりかえって、門倉平馬が、
「ねえ、門倉さん、煙を輪に吹いて、ぼんやりしていないでさ。そこらに、ゴロゴロころがっている、河岸のまぐろの生きの悪いような先生方を、もう一度、息を吹っ返させてやったらどんなものだね――それでもみんな
平馬は、唇をゆがめるようにして、煙を吐くと、荒っぽく、ぽんと
闇太郎、その方には、目もくれない、物蔭を
ジャリジャリと、
「雪さん、さあ、今が娑婆と、お別れですよ。おまえさんの子分か友だちか知れねえが、あの闇太郎の薄野呂のように、あたまこそ丸めておれ、生ぐさものが一日も、無くッちゃあ生きていられねえような、あんな
お初は、少し思わくが、はずれているに相違なかった。
どんな性根の雪之丞にしろ、何しろ大願を抱く身、いざ、いのちの問題となれば、
何よりも、彼女としては、雪之丞が、もがきにもがき、もだえにもだえて、最後は、感情や官能で、
――そんなとき、あたしに、あの人を、どこまでも突っ
そんな、悪どい
「雪さん、あたしのいったり、したりしていることは、冗談じゃあないのだよ」
闇太郎のような強敵が、つい障子外まで、忍び寄っているとは、さすがのお初も気がつかず、当のその人の耳があるのにお構いなしで、いら立たしさまぎれに、
「どうも、雪さん、あたしという女が、
ガラガラと、引き戸になっている、
「さあ、下りなと言ったら、下りないか! 愚図々々していると、お初ちゃん、気が短いよ、
雪之丞は、何と観念したか――手向いは、大けがの元と、胸をさすったのであろう――
「
と、おどして置いて、ガラガラピシャリと、下り口の戸を閉めると、ガチャガチャと金物のひびきをさせたのは、錠を下ろしたのであろう――
「ふ、ふ、可愛さあまって、憎さが百倍ッてネ、これで、胸がせいせいした」
と、
「さあ、これから、勝祝いに酒盛りと出かけますかね――皆さん、ごくろうさま――でも、あんまり、手もなくたおされてしまったので、見物の
かまわず、毒のある言葉と笑いを浴びせかけて、
「さあ、これから飲みあかしましょう。お礼ごころに、お
「雪めが、ぶちこまれた穴の上――本堂で酒盛りは、一しおうまいだろう」
と、門倉平馬の、野太い声。
「駄目ですわ、行って見たら、ごみだらけで、坐れたものじゃありません――この座敷が、このお寺では一ばんさ。おい、
と、連れて来た
――へえん。
と、嘲笑うのは、本堂障子外の暗い廊下に立つ闇太郎――
――田圃や島抜けのような、のろ間でなくって――業さらしでなくってお気の毒だって? はばかりさまさ――まあ、一ぱいやってから、雪之丞をからかいに来て見るがいい――きもッ玉がでんぐりがえって、腰を抜かさずにはいられめえから――は、は、は、やっぱし、女さかしゅうして、牛うり損うだなあ――大人しく、万引でもしていりゃあいいに、あばずれ
座敷の方で、酒宴のにぎわいが陽気らしくはじまったころ、闇太郎は、いつか、荒れ障子を開けてもう、真暗な、本堂の中にはいっていた。
だが、夜と、暗がりが世界のような彼、足元にも、手元にも、迷うことではない。まるで、明るみの中を歩くように、雑多にころがっている、仏具や、金仏の間を、巧みに
おぼろかな気配のうちに、さすがに
――ははあ、これだな、お初の奴が、ガラガラと開けたのは――つまり、ここから壇の下に潜ると、
お初は、遠慮する必要がないから、出入の
大事を取って、息をととのえて、指先を、秘し戸にかけると、いつか錠がはずれて、スッ、スッと、小刻みに開いてゆく。
お初の場合には、あんなに
闇太郎は、うまうま、おのが姿を、須弥壇の下に
今度こそ真の闇――床下から湧き上って来る毒気が、息を詰らせるばかりで、この中に押し込められた、雪之丞、どこにどうなりゆいたのであろう? いき差しも聴えない。
――ふうむ、俺が、もぐって来たのを、俺と知らずに、
静息の法というのは、人、近づくと知れば、相手の、呼気、吸気と、あるか無きかの息を合せて、物の気配を
その間に、闇太郎は、切り穴が、板張りに開いているのを探り当てたが、案の定、そこから一本の綱が、下におろされている――
――ふん、綱をたぐり上げても置かねえところを見ると、お初の奴、勝ち誇りゃあがったな――どうするか見ていろ――
闇太郎は、切り穴の中に、首を突き入れるようにして、かすかなかすかな咳ばらいを、一つした。
と、
闇太郎が、綱の一たんを掴んで軽くゆさぶった。
――この綱にすがって、上って来い。
と、すすめたのだ。
すると、たちまち、その綱が、ビーンと緊張して、スルスルと、上って来る者があるのが、闇太郎の指に感じられる。
上り口まで来たところで、手を腕にかけて、引き上げてやる。
「太夫、わびはあとだ。さあ、先きへ戻りな」
と、雪之丞が板張に立ったとき、闇太郎は
須弥壇下の闇の中――
手と手を取り合ったが、雪之丞、闇太郎、多言の場合でない――
「外へ――早く! 宿へ戻るがいい」
「かたじけない」
外の気配を、じっと、うかがった雪之丞、ふたたび、引き戸をあけて、つい、一瞬に、すがたは、もう、消え失せる。
本堂にたたずんで、コソリと、杉葉が、たった一度、裏庭でかすかに鳴るのを聴いた、闇太郎、
――ウム、これでよし――
と、心の目で、雪之丞が、もはや、
――それにしても、俺にゃあ、このままじゃあ、帰えられねえ――お初の奴に、ちょッぴり礼を言わねえことにゃあ――
スウッと、本堂を、物の影のように抜けると、いつか、庭へ下りて、さも遠くから、たった今、駆けつけて来たかのような息をし、妙に
「吉ッつぁん――黒門町の、もしや吉さんというお人が、このお寺に来てはいやあしませんかね?」
「たれだ? 俺の名を云うなあ――」
と、不気味そうに、びっくりしたような、
「手めえは何だ?」
どこから、出し抜けにあらわれたか、突如として、暗がりの庭にはいって来た男を見て叫んだ。
相手は、そんなことには、
「おお、お前が吉ッつぁん――安心しやした。さっき、
さも、安心したらしい、しかし、意味ありげな口上――、吉は、立って来て、手拭を盗ッとかぶり、尻をはしょって、
「じゃあ、おめえは、池の端の、お杉姐御のところから、来たって言うのだな――一あし違えたあ、妙な文句だが――」
「いやもう、今夜という今夜は、面くらってしめえやしたよ。お杉姐御も、かわいそうに、お番所さ」
「えッ! お杉さんが、番所へ引かれた?」
と、吉の声が、つッぱしる。
「へえ、なあに、ゆうべ、黒門町のお初さんの宿をしたのが、判ったというのでネ――奴等あお初姐御が、浪人衆をかたらって、川向うへ来たということで、ちゃあんと知っていやあがって――」
「何だと! じゃあ、奴等が、川のこっちへ出張ろうッてえのか?」
吉は、せかせかしくいって、
「奴等に知れるわけが、あるはずがねえが――」
「あッしにゃあ、詳しいわけはわかりません――だが、お杉さんが、引かれる
二度三度、顔を合せているがに股の吉、相当、目はしの鋭い男だが、闇太郎の、ひょいとしたいきでガラリ調子を変えて見せる、不可思議な技術と、擬声の巧みさとに、すっかり相手を見そくなってしまった。
もっとも、それを、責めるわけにはいかないのだ――闇太郎の、この種の技巧は、江戸切ッての目明し、岡ッ引の、心眼をさえ、何度、くらまして来ているか、わからないのだから――
「そんなわけで、黒門町の姐御に、是非とも、一刻も早くこのことをお耳に入れなけりゃあ、お杉さんにあッしが済まねえ――吉ッつぁん、姐御、この寺にいるなら、早速知らせて上げておくんなせえ」
「いうにゃ及ぶだ――お杉さんはまさか口は割るめえが、浪人衆の方の門人か何かが、行く先を知っていて、しゃべってしまえばそれッきりだ」
と、前庭を、書院座敷の方へ駆け出す吉のあとから、闇太郎は、ぬからず
「姐御! 酒盛なんぞ、
吉が、庭先から叫ぶと、
「何だい! 仰山らしい! 何がどうしたって言うんだい!」
と、きめつけるような、お初の声。
「今、池の端から人が駆けつけて、手入れがあって、お杉さんが、番所へ引かれたというのですよ」
「何だって、お杉が!」
さすがに、お初の
「姐御が、立ち廻ったのが、ばれたんだそうですよ」
「ふうむ?」
「それで、若し、どうかした拍子で、川向うへ来たことが知れたら、一騒動、とにかく、
「では、役人に、今夜のことが知れたというのか?」
と、門倉平馬が、臆病風に誘われたようにいう。
「お杉さんは、何もいいはしますめえが、あそこには、
吉が、そう答えたとき、お初はもう、すっと立ち上っていた。
立ちながら――
「平馬さん、奴等が近づいていると、あたしの武器じゃあ、音がして悪い――あんたの手を借りなけりゃあ――」
お初、吉の言葉に
「心得た」
相手が、穴ぐらの中で、自由を失っているのであれば、大して手向いも出来るものではない――と、考えたらしく、平馬は言下に大刀を掴んで突ッ立った。
「あたしが、鉄砲でおどかしているうちに、ズバリと
――ケッ、ケッ、ケッ!
と、闇太郎は、声を呑んで嗤わざるを得ない。
――ざまあ見ろ、須弥壇下へくぐって見ろ、雪之丞にゃあ、いつだって、この闇太郎が着いているんだ。馬鹿あめ!
怪賊は闇の中で、ニヤリと白い歯を現して、本堂の方をのぞき込んだ。
一度、雪之丞に打ち倒されて、半死半生の目に合された、剣客や、門弟たち、さすがに不死身で絶気のあとでは、第一の妙薬と、大杯を傾けていたのが、これ等もドヤドヤと立ち上って、お初、平馬のあとを、本堂の方へ
それを、
「おや! これは不思議だ!」
と、お初の
「だれか、もっと大きな蝋燭を持って来ておくれよ」
「どうしたのだ! 姿が見えぬのか?」
と、平馬のハッとしたような叫び。
「いいんですよ、その手燭では、あかりが届かないんだから――隅々までわかるように、向うの百目蝋燭を持っておいでなさいよ」
お初の声の下から、平馬の門弟の一人が、座敷へ来て、燭台から、百目蝋燭を火のついたまま、抜いて掴んでゆく。
が、どんな灯りも無駄だ。
「まあ! あいつ、どうしたのだろう? 厳重に錠を下して置いたのに!」
お初が、さすがに、絶叫した。
――へん、外からあけて、抜け出さして、また、ちゃあんと、しまりをして置いたんだ。
と、闇太郎は、赤い舌さえ出して、
――もっともっとびっくりしやあがれ!
平馬の声が、
「どれ、拙者に蝋燭を――どんな、隠れ穴があるのかも知れぬ――下りて、見てまいる――」
「お気をつけなさいよ――隠れていたらあぶないから――」
「なあに、こうしてまいれば――」
抜き身の刀を提げて、綱をつたわって下りてゆくつもりらしい。
門倉平馬、惚れたお初の目の前で、何とかして勇気を示し、いつぞや以来の、不信用を取りかえしたいのであろう――自分だけは、今夜同伴の剣士たちとは、ちっとはちがったものだということを示したいのであろう。
平馬が、穴の底に着いたと思うころ、闇太郎、突然、バラバラと、縁端に走り寄って、大きな透る声で叫んだ。
「ざまあ見ろ! お初、手前ッちが、このおれさまに張り合えるかい! とんちきめ、尋ねる人は、もうとッくに楽々と、蒲団の中で楽寝をしていらあ――あばよ!」
「やッ! ちくしょう、うぬあ何だ!」
と、がに股の吉、びっくりして、闇太郎に掴みかかるのを、突きとばして、
「三下! 引ッ込んでやがれ! 馬鹿、俺がわからねえか!」
「あッ、お前は、闇の――」
「うるせえ!」
と、一喝して、
「手めえに恨みはねえ、早く
タッと、一跳躍して、暗がりの庭を、突ッ切って、塀を
――ズーン! と、いう銃の音――つい側の庭石に
「間抜けめ!」
と、塀外へ下りたとき、
「
と、
闇太郎の、思い掛けない救いの手で、急には逃れ出ることが出来ないかも知れぬと、覚悟している真暗な
彼は、自信を得ていたのだ。
わしが、一生、一念を賭けた大望、そなたなぞが、身から出た執着の悪念で、どのように呪って見たとて、どうにもなるものではないぞ。神、ほとけが、さまざまなめぐみの手を差し伸べて下されて、わしをあらゆる難儀から救うて下さるのじゃ。
雪之丞の、昨夜の、生き死の難儀に対する恐怖すべき追憶なぞは、どこにも残っていないような態度で、自由濶達に、演技をつづけているのを、じっとみつめて、唇を噛んでいるお初の胸の中は、さてどんなものであろう?
彼女は、いきどおりに燃えて、三斎隠居一味に、彼の秘密を告げ口する決心が、ますますかたまってゆくのであろうか?
と、ばかりは言えなかった。
彼女は、美しく、たわやかで、その中に限りない
――意気地なし、甲斐性なし! 何という、しッこしの無いおいらなんだ! なぜ、あの小生意気な、上方ものを、あのままにほうって置くのだ? ああやって、昨夜の今日、平気なかおで人を馬鹿にするように、舞台を踏みつづけているあいつを、どう始末をする気にもならないのだ? お初、おめえは、この場から駈けつけて、申し上げます――あなたさまの、おいのちを狙っている奴が、ついそこにおります――と、言いつけることが、なぜ出来ないのだ? お初、おめえは、馬鹿か、阿呆か?
だけれども、彼女には、それが出来ぬ。雪之丞の、五体から発散する、微妙精美な光の糸のようなものに、ますます
――うう、くやしいッ!
と、お初は、わが身をつかみしめる。
――どうして、あいつの、あの色香や、あの心意気を、蹴飛ばすことが出来ないのだ! 畜生ッ!
呪えども、憎めども、彼女が、不思議な恋の
しおしおと、引かれた幕をみつめて、出てゆかねばならぬお初――
雪之丞は、雪之丞で、楽屋に戻る――この興行も大入りの中に、明日が千秋楽――十日ほど休んで、新しい狂言の蓋が、あけられる予定だ。
さまざまな思いが、湧き乱れて来る胸をしずめて、鏡台の前に坐って、おしろいを軽く落していると、外から飛び込んで来た男衆の一人が、だれにいうともなく……
「いや、おそろしいことだ! 浅草から下谷へかけて、大変な騒ぎですが?」
「何、大変な騒ぎ?」
と、居合せた若い役者が、
「一たい、何がはじまったのですね?」
「何でも、日本ばしの方で、ぶちこわしが始まったとかで、あぶれものたちが、血相を変えて走っているのですよ」
――ぶちこわしが、はじまったといって、あぶれたものたちが、町を走っている――
この言葉を耳にしたとき、雪之丞には、ハッと、思い当るものがあった、つい昨日、今日、彼は聴いているのだ。
――日本橋、通三丁目の米屋が、
――うん、おれッちも、暇がありゃあ、一さわぎ、さわいで来てえがなあ。
そんなことを、道具方が、並べているのだった。
通三丁目の、米屋というのは、長崎屋三郎兵衛が、仲間と組んで、出している米穀問屋、つまり、この二、三年の、関東、東北の不作状態を見込んで、上方西国から高い米を廻し、暴利をむさぼって、
しかし、市民たちは、これまでこの大問屋が、殆ど唯一の配給の元だったので、いわば、咽喉を絞められているかたち、直接に反抗手段を取ることも出来なかった。
が、今は、まっさきに、
こうなると、長崎屋たちが、今更、値を下げて見たとて、恨みが晴れるものではない。
――やッつけろ! あの大問屋をやッつけろ! こんなに安い米が食えたのに、あいつ等が、それを食わせなかったのだ!
――ぶちこわせ! ぶちこわせ! 悪どい奴等を根だやしにしろ!
――やッつけろ! やッつけろ!
いつの世でも、リイダーはある。それに盲従する暴民はある――今や、彼等は、これまでの憤怒を晴らす、当然の機会を得たように、めいめいに起ち上った。
それに、裏長屋の軒並から――大江戸の隅の隅のどぶという、
男も、女も、老いたるも、
みんなが、みんな、何か、
――どれほどでも、蔵にあるだけ
――これまで、高値で買わせられただけの損を、今夜一度に取りかえせ!
この騒ぎは、昨夜も、小さく起ったのであったが、検察の当局も見て見ぬふりをしたのであった。彼等とても、お蔭で、
長崎屋たちが、取締りを求めても、
「いや、当方では、言うまでもなく、十分に警戒する。騒ぎは今夜だけであろう。が、めいめいに、十分に気をつけるように――何しろ江戸には、何百万とない貧民がいるので、こちらの手でも、そう完全に押し伏せるわけにいかない」
こんなたよりない答えがあるだけだった。
大問屋すじでは、びくびくして、今夜、夜が深まるのを迎えていたが、案の定、第二夜の
薄暗い横町という横町から、貧しげな男女が、わめき立てながら押し寄せて来た。
――米をくれ、米をくれ、米をくれえ!
そうした市民どもの、荒くれたぶちこわしさわぎが、楽屋の雪之丞の耳に、今、あらためてはいったのだった。
彼はさらに――と、思い当ると、
「その押し入れの、下積みのつづらの中に、目立たない
そして、着ていた舞台着の、帯紐を解きはじめた。
「え? 糸織りの縞物を? 何になさるんで!」
男衆は、異様な、のみこめぬというような目つきをした。
「何でもいいから、出して見て下さいよ」
重ねて言われて、男衆が、それを、取り出すと、雪之丞は、手早く着更えて、手拭いを吹きながしに
「すっかり、江戸前のかみさんでしょう?」
「ほんとうになあ――ちょいとしたとりなしで、かわるものだ」
と、男衆の一人は感心したようにつぶやいて、
「で、そんな
雪之丞は微笑した。
「まあ、黙っていて下さいよ。今夜、これから、この姿でおたずねして、ある方を、びっくりさせるつもりなのだから――」
そして、彼の姿は、
楽屋番のじいさんさえ、雪之丞の、簡単な変装を見やぶることが出来ないようであった。どこの女房が楽屋へ来ていたのかという表情で、ちらりと見たッきり、二度と目もくれない。
雪之丞は、ありあわせた、尻切れ草履を
もう、このあたりまでくると、町家の大戸という大戸は、ぴったりと閉されていて、軒下に、小僧や手代が、
「ほんとうに、物騒千万なことで――あの人達が、うらみのある米屋ばかり、狙っていてくれればいいが、とばっちりが、こっちまで飛んで来てはやり切れません」
「まあ、多分大丈夫と思いますがね――物産屋の長崎屋とやらは、大そう
「ほんとうに――上方出のあきんどは、目先きが大そうするどいようですが、今度は味噌をつけましたね」
そして、だが、聴け!
行手に当って、真黒な
雪之丞は、その方角を
逢う男女は、みんな走っている。目をきらめかしている。人波が前方で押し返し押し返し、こんなことを叫び立てていた。
「火の用心を忘れるな! 火を出さねえようにぶちこわせ! 手向ったら、半殺しにしろ!」
じっと、みつめる目の前では、市民どもが、かがんでは小石を拾い、拾っては、十
「出ろやい! 長崎屋! 人鬼! 生血吸い! 出ろやい!」
「手めえに、ひと言いってやらねえことにゃあ、ここをどくおれッちじゃあねえぞ!」
すると、一人の指導者格が、煮しめたような手拭を、すっとこ冠り、素肌の片肌脱ぎ、棒
「やい! みんな! うしろへまわれ! 石をほうっていても仕方がねえ! うしろの
「わあい! 米庫だ! 米庫だ! 米を貰え! 米を貰え!」
叫び、わめきつつ、指導者の棒千切れのゆび示すままに、群集は、建ちつづいた、蔵の方へ走ってゆく。
しかも、その群集を制するものが、
「騒ぐな!
と、
雪之丞は、群集とは反対に、問屋の内部を
右手の、隣家の土蔵との
武家は、長崎以来、長崎屋等と、悪因縁を持つ、浜川平之進にまぎれもなかった。
「もう滅茶滅茶だ! 滅茶滅茶だ! 畜生! 役人さえ、あぶれ者の味方なのだ――見ろ! 聴け! 空地に建てならべた米庫を、あいつ等は荒しているのだ。大手をふって盗みをはたらいているのだ――それなのに止めようとするものがない。
燭台の赤茶けた燭の火を宿す、血ばしった目つきの怖ろしさ――それを
「ま、下にいなされ! そう狂っては、却ってお身の不為――あぶれ者の目にも触れなば、いのちがござらぬぞ」
「いえいえ浜川さん、おはなし下さい。わしはもう、腹にも、肝にも据えかねた。あの憎らしい広海屋を目の前に、いってやる――呪ってやる――肉を食らってやる――そうせずには置かれませぬ。元――元をただせば、わしの助けがあったればこそ、傾いた広海屋が、松浦屋を破滅させて、独り栄えることが出来たのだ――それは、浜川さん、あなたがよく知っているはずではないか――さ、はなして下さい、
「わかっている――貴公のいうことはわかっている」
と、以前に長崎代官をつとめて、これも暴富を積み、お役御免を願って、閑職につき、裕福に暮している旗本、三郎兵衛の前に、立ちふさがって、
「だが、商人の戦いは、そう荒立ってもどうもならぬ――口惜しかったら、やはり、商いの道で、打ちひしいでやるがいい――ま、下に――」
「何とおっしゃる! 浜川さん! じゃあ、そなたも、あッち側なのだね! 広海屋の仲間になってしまっているのだね!」
と、長崎屋、歯を噛んで、浜川旗本を睨みつめ、
「商人は、商いで戦えと! それを、こうまで、ふみにじられた、わしに言うのか! わしにどこに、商いで戦える力が残っている? 十何年の月日をかけて、一生懸命働いて来た黄金という黄金、江戸に見世を移すに使った上、短い一生、出来得るだけ富をふやそうと、さまざまな方角へ資本を下ろし、その上、今度こそ、最後の決戦と、手を出した米
物蔭に、
――何もかも、老師のおおせられた通りだ。広海屋、長崎屋、商いの道で自滅する。噛み合って共だおれになろうとのお言葉――長崎屋は、もはや、あのざま!
そのとき屋敷のうらの空地の、
「あれあれ! あの、あぶれどもたちの大騒ぎ! あれを、わしに、じっと聴いていられるか――」
と、三郎兵衛は、左右の袖にすがっている手代どもを、振り切って、浜川の方へ、突ッかかるように、
「出して下され! 邪魔立てなさると、おぬしとて、許しはせぬぞ!」
ふところに、手を突ッ込んだと思うと、キラリとひらめく
「あッ、あぶない!」
と、たじろぐ浜川――
「長崎屋、気ばし狂ったか!」
「狂おうとも――気も、こころも――」
匕首をひらめかして、三郎兵衛、人々を
雪之丞の姿は、
「あぶない! ほうって置いたら大変だ!」
「浜川さま! どうかなされて!」
と、叫ぶ家人たち。
浜川はうなずいて、
「仕方のない奴だ。ああ取り乱してはどうにもならぬ。よし、拙者、あとを
「どうぞ、お願いいたします」
「あまりその方たちが、騒ぎ立てると、却って気が立つ――拙者にまかせて置け」
浜川平之進、大刀を、ぐっと腰に帯びると、そのまま、これも非常門から出たが、
「かご屋!」
と、巷路を通りすがった、辻かごを呼び止めて、
「急用だ――竜閑町まで行け!」
立派やかな侍、いい客と思ったので、かごが、すぐに矢のように走り出す。
こんな場合でも、日ごろの悪どい知恵がはたらいて、必ず迫って来るに[#「迫って来るに」はママ]きまっている人達を
雪之丞は、影のように、ぴったりと、彼にくいついている。
とは、
「ふうむ、広海屋に先ばしりをして、告げ事をしようというのだな! おのれ、にくい奴だ!」
――だが、何の!
と、いうように、
なるほど、辻かごが、どんなにいそいでも、抜け裏から抜け裏を、駆け抜けたら、この方が、早いにきまっているのだ。
――どうするつもりか?
雪之丞、小褄も、ちらほらと、踏み乱して、軒下から軒下、露地から露地を、目の前を
とうとう出たのは、掘割を、前にひかえた、立派な角店、――
その前まで来て、白く光る目で、あたりを見まわすようにした長崎屋――
「そうら、見ろ、こっちが早かった!」
もう一度、じろりと眺めて、見つけた天水桶――黒く、太ぶりなのが、二ツ並んだ間に、犬のように
雪之丞の背すじを、ぞうッとした
――こりゃ、浜川が、あぶない!
若し、広海屋に、すぐにあばれ込むつもりであれば、身を忍ばせる必要はないであろう。待ちかまえて、何かするつもりに相違なかった。
彼は、
と、聴け!
「ホイ、ホイ!」
と、かなたの闇から近づく辻かごだ。
――いよいよ、浜川が、着いたな。
と、雪之丞の、冷厳な瞳が、闇を貫いて、広海屋の店前をみつめたとき、飛ぶように駆けつづけて来た辻かご――
「ホイ! ホイ! ホイッ!」
と、先棒、後棒、足が止まって、タンと立つ息杖、しずかに乗りものが、下におろされる。
「旦那さま、お約束のところまで――」
と、先棒が、汗をぬぐって、いいかけたとき、突然、天水桶の間から、ぬっと魔物のように現れて、ふところに、右手を――恐らく、
その、
「わりゃあ、何だ? 気ちげえか――」
息杖を取りなおすひまもない――キラリと、白く、冷たく光る短い刃が、鼻先きにつき出されたので、
「わああッ!」
と、後、先、そろって、大の男が、しかもからだ中、
そのさわぎに――
「何じゃ?」
と、聴きとがめたが、まさか、まだ、三郎兵衛が、先き潜りをしているとは、思わぬ浜川平之進、左に刀を抱いて、
「下りる――
と、垂れを自分で上げかけたとき、
「へ、お穿きもの――」
妙に、
かごにはさんであった雪駄が、
「おのれ! 片割れ!」
ぐうッと、抱きすくめるようにして、切ッ先きを、脇腹に、突ッ込んだに相違ない。
「わあッわあッ」
と、叫んだが、平之進、引く息を、一つ大きくして、
「う、う、う、う――」
と、叫びが、呻きに変って、地面にのめる。
「人殺しだあ!」
と、駆けゆくかご
平気な三郎兵衛――
――トン、トン、トン、トン!
と、大戸を叩いて、
「お願いだ! あけてくれ!」
――トン、トン、トン!
「松枝町からまいッた! 広海屋! あけてくれ!」
いつか、平之進の、頭巾を奪って、顔だけ包んで、臆病窓のところへ、わざとその頭を近づけて置いて、武士らしい作りごえ――
「おい、広海屋! 急用じゃ! 松枝町じゃ――」
松枝町とは、勿論、土部三斎屋敷を言っているのだ。
相変らず、
中では、寝入りばなを起こされたらしく、やがて、案の定、大戸の臆病窓が開いて、寝とぼけたこえが――
「どなたさま?」
「松枝町というが、聴えぬか? 主人に急用で、お文を持ってまいった」
「松枝町さま――それはそれは」
じきに、大戸が開くようだ。
――
広海屋、見世うちへはいろうと、開けられた大戸の潜り、腰をかがめてもぐりこむ長崎屋の、異様なすがたを見返って、雪之丞が、そう呟いたとき、かかり合いになるのを怖れたか、かごかき達は、浜川の死骸はそのまま、かごを引っ
飛鳥のように、広海屋軒下に近づいて、耳をすました雪之丞は、つい、その土間で、突然――
「うおッ! う、う、う」
と、いう、かすかな、押しつぶされたような、うめきを、又も聴いてしまった。
戸をあけてやった手代、薄くらがりで、相手を何ものとも見分けぬ暇に、もはや、匕首の一突きを背中に受けて、高く叫ぶことさえならず、そのまま、どたりと、倒れてしまったものと見えた。
それなり、しいんと、ひそまりかえった家内――
大方、三郎兵衛の音ずれを聴きつけたのは、見世番の手代でほかの店のものは、寝入りばな――これまでの一切に、気がつかず、つい、そこで、同僚が殺害されたのも知らず、ぐっすりと、寝込んでしまっているのであろう。
――これで、二人目!
と、雪之丞は、心にかぞえた。
三郎兵衛、何を
彼は、しかし、三郎兵衛が、成し遂げえぬことを今夜自分でやりおおせようとはしなかった。三郎兵衛、広海屋――この二人は、孤軒老師が予言したとおり、十中八、九は、ガッと組み合ったまま、いのちの尽きるまで、噛み合い、食らい合うであろう。
――どっちが強いか――おぬし達、二匹の狼――弱い方から、死ぬがいい――
じっと、いつまでも、聴きすます、雪之丞――
と、かなり長い時が経って、一たい、どうしてしまったかと、心にいぶかしみが湧き出したころ、だしぬけに、奥の方で――
「火事だあ!」
と、いう、叫び!
「火事だあ! 起きろ!」
と、けわしい声が、つづいて起って、急に、しいんとしたしずけさが、一どきに破れたと思うと、まだ、火は見えぬが、物の
――
「
と、あわただしい声々。
広海屋は、その頃、
その貴重な油樽が、見世奥に積んであったのへ、長崎屋、いみじくも、火を
たちまち、ズーンという、樽の
さすがに、雪之丞、家内から洩れる炎のいろ、
退って、例の河岸の空荷を積んだ物影に立って、なおも、成りゆきをみつめていると、だしぬけに、横手の塀を、ムクムクと、乗り越えて来る、黒い人影――
瞳を定めると、人を殺し、火を放って、しかもうまく、現場の混雑に乗じて、逃げおおせた長崎屋三郎兵衛の、浅間しい狂いすがただ。
その三郎兵衛、ふところに、妙なかたまりのようなものを、しっかと抱いたまま、一さんに、河岸まで来た。雪之丞の近くで、立ち止まって、その抱きしめたものを、両手でかざすようにしたが、
「ほ! こりゃどうじゃ! 死んだかな? 死にはすまい? たった今まで、おぎゃおぎゃいっていたんだ――おい、目をさませ! 赤んぼめ!」
ハッとして、雪之丞は、目をみはった。思いがけなや、何と、それは、やッと当歳か、それとも生れて年を重ねたばかりのむつき児なのだ。
三郎兵衛は、ようやくにして、
「ふ、ふ、ふ、あの馬鹿乳母め――火事と聴いて、
と、独り言――ここまでは大分正気らしかったが、やがて、また、異常な笑いを笑って、
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ! これ赤児! きさまは、やっぱり、あの後妻の、間男の子でもなかったな――似ているぞ、広海屋に――あの与平の奴に――おや、何だって、友だちでも、仲間でも、商いの道は別だって――
気を失っている赤んぼの、咽喉を絞めかける三郎兵衛――
雪之丞は、思わず、それへ飛び出して、長崎屋の腕の中から、あわれな、肉のかたまりを引ッたくった。
「おや! 貴さまは何だ! 乳母か? 乳母が取りかえしに来やがったか?」
と、血走った目で、掴みかかろうとする三郎兵衛を、雪之丞はなだめるような微笑で、
「まあ、心を落ちつけて、あの火の燃えている方を御覧なされ! それ、あそこへ、お前があんなにさがしている、広海屋のあるじが逃げてゆく――赤児なぞに、かかわっている時ではあるまい――それ、あそこへゆくのが、わからぬか!」
片手で、指さして見せる、火事場の方角、三郎兵衛は、口をあけて、
「どれ、どれ、どこに?」
と、呟きながら、フラフラと、その方へ歩み出すのだった。
もはや、炎々と燃え
雪之丞は、今にも、咽喉笛に、爪を立てられて、いのちを落そうとした広海屋の、老いの
彼は、ぐったりとした赤んぼをふところに、抱き締めるようにして、わが体熱に温めながら
ふところの赤児は、ますます、冷え切ッてゆく。が、どこにか、いのちの種の火は、辛うじて、残っているのが、感じられはするのだ。
膝に載せて、星あかりに、じっとみつめると、この愛らしい、ふっくらと肥えた
武術の
そして、しばしばと、まぶたがうごいて、
「――ぎゃあ、ぎゃあ! ぎゃあ! ぎゃあ!」
と、息を吹っかえすと、すぐにもう、むずかり泣きだ。
「誰がよ誰がよ」
雪之丞は、あやして見た。ぎゃあぎゃあと、反りかえるのを、思わず、ソッと頬ずりしてやったが、この刹那、彼の内心に、激しい争闘が行われているのは、美しい眉目の歪みでも知れるのだった。
――どのように、愛しげに見えても、かたきの片割れだ!
と、いう思念と、
――いいえ、かたきの片われにしろ、かくも無心な、いじらしい赤児を――
どうして、憎み苦しめられようかという感情と、相打ちつづけているに相違ない。
が、彼は、泣き止んで、やさしい、むちむちした手を出して、顎のあたりを、つかんだり、なでたりしている赤児に気がつくと、もう、複雑な、あらゆる気持から解放されることが出来た。
――広海屋へ、返そうにも、今夜は仕方がない――どのみち、今のところは、わしがあずかって、あとで何とかしてやる外はないであろ。
両手に、ふたたび、抱き上げて、
「ほいよ、ほいよ、だれが泣かした! わるい奴のう――さ、わしと一緒に、あたたかいふしどにまいりましょうの、泣くでない、泣くでない――」
揺り上げ、揺り下げしながら、雪之丞は、歩き出した。
長崎屋や広海屋――また、長崎屋の狂刃に仆れた、浜川平之進に対する追憶さえ、このやわらかい小さな生もののためには、忘れさせられてしまうのだった。
彼は、かごを拾って、赤児に頬ずりをしてやりながら、山ノ宿のわが宿をさして急がせた。
広海屋を焼く業火は、まだ、後方遠く赤黒く夜空をこがしているのであった。
彼と妻女との部屋は、店と、文庫蔵との間の、七
そうした要害を、あらかじめ知りながら、憤怒のあまり、
「火事だあ! 火事だ!」
と、叫ぶ店の者どもの大声に、寝入りばなを目をさまして、パッと刎ね起きたときは、夫婦とも、尋常では、幾重の締りを潜って、逃げおおせることは出来ないのを知ったのだった。
「まあ! どうしましょう! 八方が、すっかり火になってしまったようですが――」
と、おろおろごえで、取りすがる女房の、顔には血の気もなかったが、さすが、主人は
「落ち着け、落ち着け! こんなときは落ち着きが何よりだ――日ごろから、そなたにだけに知らせてある地下道――今夜のような場合のためだ」
そう云いさま、広海屋は、寝巻の上にどてらを羽織って、脚のすじの抜けたような妻女を引ッかかえるようにしたまま、地袋にくぐり入って、秘密のバネを押して床板を
恐らく、そのときには、さすが広海屋ほどの
そんなわけで、広海屋は、闇を辿りつつも、まだ、心のどこかで高をくくっていた。
――なアに、総檜、五百坪の普請とはいえ、店の一棟二棟、焼け落ちたとて、何を驚くことがあろう。うしろに建ち並んだ、蔵の中には、江戸中の、いかなる大名高家、町人一統が、どんな注文をよこそうとも、すぐ間に合うだけの
「さあ、しっかりせい! そなたも広海屋ほどのものの女房――高が、火事ぐらいに、身ぶるいをしてどうするのだ。そら、もう抜け道もおしまいだ。外へ出れば、明るすぎる程あかるくなろう――しっかりせい!」
そう女房をはげましつつ、地下道のどんづまりまで来て手さぐりで、
地下道の揚げ蓋を刎ね上げて、
見よ! 眼前に
「あれもう、屋の棟が!」
と、又しても、泣き叫ぼうとする妻女。
「ええ! 泣くなというに! 高の知れた小家一軒、そなたがそんなに惜しく思わば、明日が日に百軒でも建てて見しょう! 見るがいい――あのいろは庫――まだ『る』の十一戸前だが、あの通り立派に建ち並んでいる。それなのに、何が――つまらぬ小店、どうせ建て直さねば手狭になったところ、
広海屋は、妻女を抱き寄せるように、裏庭のはずれ、河岸に近い方角に、黒く輝いてつづいた土蔵を指し示す。
ガチガチと、歯の根も合わぬながらに、女房も、いくらか落ちついて、広海屋の指先の示すあたりに眺め入って、やっと泣き止んだころ、主人夫婦のすがたを見かけた手代、小僧、出入りの職人どもが、畳、
「何とも、申し上げようのないことで――」
「火の用心、念には念を入れておりましたが――」
なぞと、自分たちの失策でもない――と、いうこころを、言外に匂わせて、口々に言うので、広海屋は、苦わらいで
「よいよい、店だけで、焼け止まる模様、幸い、横手は河岸だし、隣は間あいがある。一軒焼けで、近所に迷惑をかけねば、それが何より――」
と、さすがに大腹中らしく言って、
「それよりも、これが震えている。早う、温かい着る物と、湯なり、茶なり持って来てくれるがよい」
妻女は、
「坊はどうしましたでしょう! 坊が、見えませぬが――」
「おおそう云えば、庫前の座敷に寝ていたはずの乳母――誰ぞ、そこらで、すがたを見なんだか――」
と、広海屋が、
「わたくしが、火焔のひびきにびっくりして、目をさまし、大声で火事よ、火事よ――と、叫び立てているうちに、乳母どのが、坊さまをお抱きして、廊下を駆け出したのはたしかに見ましたが――」
と、手代の一人。
「そうか――それはよかった」
まず、焼き殺されぬということが、わかったので、広海屋が、ホッとしたようにいう。
「火には捲かれずとも、こんな寒さに、
と、妻女は、なおも、気もそぞろに、
「女中たちは、どこにいるのやら――女たちの、立ち退き場所へ行ったなら、坊も乳母も見つかるでしょう――早う、行って見て下さらぬか!」
母親は、きょろきょろと、あたりを見まわしながら、いかに広海屋がなだめても、しずまろうともせぬ。
「坊やを早く! 坊やはどこへ行ったのだろう! ねえ、早く連れて来て下さいよ!」
その不安を
とうとう、主人までが、落ちつかなくなってしまった。
「一たい、抱き乳母はどうしたのだ? 誰か、ほかを探して見ぬか?」
と、伸び上っていったところへ、手代ども女中の一団が、これも、気も狂おしげに、何やら叫び立てている年増おんなを、手を
見れば、乳母のお種、髪も褄も乱れがちに、こんなことを口走っているのだ。
「お坊ちゃまあ! お坊ちゃまを、あたしから取ったのは誰だろう! あたしがお抱きしていたのではあぶないといって、取って行ったのは誰だろう! お坊ちゃまあ! お坊ちゃまあ!」
「一たい、この始末はどうしたのか?」
と、さすがの、広海屋、わが一人むすこ、世取りのうない児のこと、サッと、顔いろが変って訊ねた。
手代の一人が、
「何ともはや、妙なはなしでござります。お種どのの申しますには、煙に捲かれて、廊下まで来ると、ゆき会った一人の男――あぶないゆえ、お坊ちゃまを渡すがよい――と、無理に、お種どのから奪い取るようにして、そのまま、お坊ちゃまを抱いて、どこかへ行った――と申しますので――」
「その相手が、誰とも見当がつかぬというのか? 覚えていないというのか?」
と、広海屋が、焦ら立たしげに――
手代は、
「それが、何分、
「と、いっても、うちの中に、他人さまが、はいって来ているはずはなし――火事が大きくなってからは知らぬこと――あのときなら、店の者たちばかりの筈だ。さあ、急いで、探して見ろ! 店の者で、誰か、見えないものはいないか!」
広海屋は、真赤な火の手のひかりをうけながら、青ざめて叫んだ。
――ことによったら、一つぶ種――救おうとした者と一緒に、炎に捲き込まれてしまったのかも知れぬ。
と、いう予想に、胸もつぶれるばかりである。
母親は、広海屋の袖をつかんで、
「ごらんなさい、申さぬことか! このごろ坊やが夜泣きをして、考え事に邪魔だというて、あたし達の寝間から遠ざけ、乳母と一緒に、庫前なぞへ寝かしたから、こんなことになりました。万一、坊やが、火に焼かれて死にでもしたら、あたしは、恨みます。お前をうらみますぞえ――お前が、何もかも悪いのじゃ――坊やが、
――うわあ! うわあ!
と、とりみだして、泣き叫ぶ
「ま、落ちつけ! 居ないはずはない! これ、みんな、火事なぞどうでもいい! 坊を探してくれ、坊を抱いて見えなくなった男を探してくれ!」
広海屋は、とりすがる女房を、突きはなしも兼ねて、呼びつづけるのだった。
広海屋、その人までが、わが子の
彼女は、立ち上って、髪をふりみだし、目をいからせて、これも気も狂わんばかりの、乳母を目がけて、つかみかかるようにして行くのだ。
「これ、お種! あの子をどこへやった! 坊やをどこへやった! 誰に渡した! お種、さ、言っておくれ! 早く言っておくれ! さては、お前、日ごろ、あんなに目をかけていたのを忘れて、坊やを、火の中へ置き逃げして来たのだな! 焼き殺してしまったのだな!」
と、むしゃぶりつこうとすると、相手の乳母、これも気がうわ擦ってしまって、
「おお! お前さんか! 坊ちゃまを盗んで行ったのは! 食べてしまったのは! さあ、坊ちゃまを返せ! 坊ちゃまを返してくれ! おのれ! 返さぬか」
と、飛びついて、噛みつこうとする。
それを引き分けるに、懸命な女中たち。
「わあん! わあん!」
「ひい、ひい、ひい!」
と、引き分けられて、泣きわめく、女房、乳母!
主人は主人で怒号している。
「早う捜し出せ! 早う、坊を捜し出せ! えい! 火の中へなり水の中へなり飛び込んで探し出せ! 手ぬるい奴等だ――貴さまたちが、出来ぬなら、わしが
こうした、
火事と、赤児の行方不明とに、自分の方を注意するものなぞあろうはずがないと安心してか、からだを半分以上のり出して、
「は、は、は、ざまを見ろ! 広海屋が、あばれおるわ! 女房が狂いおるわ! 気の毒だな! 可哀そうだな! おぬしのように、鬼よりも、けものよりも、情も、涙もない奴も、友だちを売って、破滅させ、おのれ一人高見の見物する奴も、やっぱし子供は可愛いか? は、は、は、ほ、ほ、ほ、わめきおるわ! あばれおるわ! もっともっと、さわげ! 狂え! もっともっと、苦しめ! もがけ! 泣け! 畜生! まだまだ泣き足りぬわ! もだえ足りぬわ! は、は、は、ざまを見ろ!」
彼自身は、まるで、狂気もしておらぬように、冷厳な審判者でもあるように、みつめつづけて、額を叩いてよろこんでいる。
「へ、へ、へ、どんなに騒ごうとあの赤児が、帰って来るものか――このおれが、盗み取って、とっくに、
嘲り、
「
広海屋夫婦の、狂態が、つのればつのるほど、いよいよ面白さ、うれしさ、小気味よさに堪えかねて来る長崎屋、とうとう、いつか築山の蔭から、すッかりすがたをあらわしてしまったのは愚か、血ぬられた短刀を振りまわしながら、だんだんに近づいてゆく。
はじめて、彼の狂笑に、気がついた一人の手代、ホッとばかり、目をみはって、
「おのれ! 何者だ!」
と、大声にとがめる。
夫婦をかこんだ一同の目が、一ように三郎兵衛にそそがれる。
しかし、一目では、何人にも、それが長崎屋だと、わかろうはずがない。散らし髪同然に、
「
と、気早やな
「わあッ!」
と、叫んで、あとじさりをして、
「貴さまあ、人を殺して来たな!」
「ふ、ふ、ふ、ふ――おのれ等に用はない――広海屋に逢いに来たのだ――」
三郎兵衛の、皺枯れた声――
番頭が、広海屋を、押しへだてるように、
「旦那、あっちへまいりましょう――血のついた短刀を、あの変な奴は持っているようで――あぶのうございます」
「それでは、浜川の旦那を
と、一人が、口走ると、
「ナニ、浜川さまがどうなされた?」
と、狂奮の中にも、広海屋が訊ねる。
「実は、火事の
「何だと! 浜川さまが! うちの前で! そりゃ又、何ということだ!」
と、叫んだ、広海屋の前に、フラフラと近づいて来た三郎兵衛――
「広海屋、そのわけか? あいつが、おぬしに、忠義立てをしようとしたからよ」
「誰だ! お前は?」
と、広海屋は、日ごろの面影をすっかりなくした、三郎兵衛をみつめて目を

「ハ、ハ、ハ、広海屋――それから、手代衆、これだけ大きな
と、長崎屋は、歪み曲った顔を突き出すようにして、
「さてさて、明きめくら、このわしが、わからぬかといったら!」
ぐっと、差しつけるようにした、その形相のすさまじさ!
広海屋は、飛びしさるようにして、
「おッ! おのれは、長崎屋!」
「ほんに、長崎屋の旦那じゃ――こりゃ、又、どうしたこと!」
と、手代、小僧も、あっ気に取られる。
広海屋は、恐怖の声をふりしぼって、
「さては、おのれ、浜川さまを手にかけた上、この家に、火を
「う、ふ、ふ、いかにも、おれじゃ、長崎屋じゃ――な、わかったか?
と、嘲り叫ぶ。
「おのれ、憎さも憎し――それ、みんな、こやつをからめ取って、さんざんに打った上、お役人に突き出せ!」
広海屋が、おめくのを、妻女が、泣きながら、押しとどめて、
「まあ、あなた、しずまって下さいまし、みんなも手出しはなりませぬぞ」
と、いって、長崎屋の前に、地べたにひざまずいて、
「これ、長崎屋さま、三郎兵衛さま――どんな恨みが、
「は、は、は、その
と、芝居がかりで、三郎兵衛は、あざみ笑って、
「さりながら、聴かれよ、御内儀、あれも
「でも、一体、あの子を、どうなされて?」
若しや、やはり、たずさえている匕首で、咽喉ぶえを切り割かれてしまったのではないか――と、内儀は、必死の想いでたずねる。
「どうなされたと言って、たった今も言うとおり、通り合せた
と、三郎兵衛は、けろりと答える。
「それなら、そなた、手にかけたのでは、ありませぬな?」
「つかみ殺そうとしたなれど、ほしいというて、奪衣婆がねだったゆえ、つい、河岸でくれてやった」
「これ、みなの衆――どうやら、長崎屋どののいうことは、ほんとうらしい。さあ、早う、手わけをして、この人から子供を受け取った人を、さがして来て! どんな礼でもその人にしましょうほどに――」
妻女が足ずりしてわめくさまは、ことわりせめて道理に見えた。
広海屋内儀は、主人と、長崎屋との間柄が、現在どのように悪化していようと、三郎兵衛が今はもう火つけ、人殺しの大罪人となっていようと、また、哀れや宿業の報いるところ、狂人となり果ててしまっていようと、そんなことを考えて見るひまはない。
ただ、大地に
「長崎屋どの! 三郎兵衛どの! この広海屋一家に対して、どのようなお恨みを持っておいでかは知りませぬが、あの子には罪はない! あの子が、悪さをする筈がない! あの子をお返しなすって下さいまし、家も惜しくはありませぬ! この、わたしが、殺されようと、助かろうと、それもかまいませぬ! あの子だけを、お返し下さいまし!」
「は、は、は! 泣きおるわ! わめきおるわ! うらみがあったら、そこにおる広海屋に言え! 亭主に言え!」
と、こんな言葉だけは、すじが立つことをいって、長崎屋は、ふたたび、ゲラゲラ笑いになって、目をあげて、闇空を焦す炎が、大波のように、渦巻き、崩れ、盛り上り、なびき伏し、万態の変化の妙をつくしつつ、果しもなく、
「ほほう、ほほう、黄金の粉が、空一めんにひろがって行くぞ! 広海屋、見ろ、おぬし一代の栄華、
「おのれ、何をぬかすぞ! それ、この人殺し、火つけの罪人、早う、お役人を呼んで――」
と、番頭の一人が、手代どもにいうのを、フッと、何か、思い当ったような広海屋、狂奮の中にも、キラリと、狡く目をはたらかせて、
「待った! お役人衆に、このことを、お知らせするのは、まあ、待った!」
「じゃと、申して、みすみす、この
「待てと言ったら!」
と、止めて広海屋は、
「おぬし達、この長崎屋を、くくり上げて、ソッと、土蔵の中へ、入れて置いてほしい」
「でも、お役人のお叱りをうけては――」
「よいと申したら――気が昂ぶっているによって、落ちついてから、わしが、必ず自首させる――さあ、あまり、人目に立たぬうち――」
広海屋はセカセカしくいった。
と、いうのは、長崎屋を、このまま、検察当局の手に渡したなら、長崎以来のもろもろの悪事をべらべらと、しゃべり立てるは必定、それこそ、わが身の上の一大事と、ひそかに監禁して、誰知らぬ間に始末をつける考えが起きたからだ。
鳶の者は、そう聴くと、これは、
「こいつは、お見それいたしやした。長崎屋の旦那でごぜえますね。あっしは、鳶の、八と申しやすが、どうも、大した御機嫌さんで――」
いなせに、腰低く、べらべらと並べ立てて近づく鳶の者、片手に、こぶしを固めて、いざと言わば、張り倒そうとしているのだが、気の上ずった、心の狂った長崎屋には、それが、
釣り込まれたように、血まみれの短刀を持った手をぶらりと下げたまま、額を突き出すようにして、
「おや、おまえさんは? とんと、見馴れない人だが――」
と、うっとり言う。
若者は
「それは旦那、あっし達は、吹けば飛ぶ、どぶ
と、いって、ますます近づいて、さすが、大胆者、長崎屋の短刀を持った方の手の二の腕を、やんわり、いつか、つかんでしまって、
「ねえ旦那、今夜はお騒々しいことで、さぞ、お疲れになりましたろう――さあ、あちらで、御休息の用意がしてありやすから、お供を申しやしょう」
妙なもので、狂暴な、けだもののようでもあれば、また、無邪気な子供のようでもある、俄か気違い、たちまち、
「おお、そうか? なるほど、咽喉もかわいたし、足もくたびれた。じゃあ、一つ、
と、曳かれるままに、立ち並んだ、いろは蔵の方へ歩き出す。
その三郎兵衛が、たしかに、塗り込めの中に、封じ込まれたとまで、血走った目で見届けた広海屋与平――
「ざまを見ろ! 人殺し! 火放け! かどわかし!」
と、噛みしめた歯の間から、うめくように叫んだが、
「よいか、みんな、あいつを蔵から出すことではないぞ! 坊やがかえるまで、あいつを出すことじゃあない――いいえ、坊やがかえっても、あいつだけは、あそこから外へ出してはならぬ。このわしが、成敗してやる。何という人鬼だ!」
「わああ! かなしいのう! かなしいのう! わああ! わああ!」
と、いまだに、地にまろび伏して、泣きわめく女房――
広海屋は、そのあわれなすがたを、今は、腹立たしげに、
「うるさい! そなたが、わめかずとも、わしの心まで、狂いみだれてしまいそうじゃ――坊の行方は知っての通り、多くの人たちに頼んで、探し求めているではないか――殺されていない限り、天にかけり、地に潜っても、かならず、見つけ出さずには置かぬのじゃ。そなたが、泣いたとて、何になる。泣きやめ! 泣きやめ! 泣きやみおらぬか!」
「じゃと申して、かなしいのう! かなしいのう! これを泣かずにいられる、お前こそ、鬼じゃ、鬼じゃ! かなしいのう!」
広海屋は奥歯を、ギリギリと噛みつづけていた。
さすがの猛火も、油樽がはじけて、油が行き渡っていたせいか、却って、速かに大きな店づくりを焼きつくして、そして、だんだん、下火になって行った。
広海屋は、ガクガクと、全身を
こちらは、広海屋いろは庫の、どん尻の、河岸沿いの一棟の二階に投げ上げられた、長崎屋三郎兵衛――
「これ、若い衆、約束の、酒は持って来ぬか? 茶はどうじゃ? 咽喉がひりつく。声が苦しい――これ、何か、飲みものを、早う持って来い持って来い!」
と、呼べど、叫けべど、返事もなく、もとより塗り籠めの中、火事場の騒ぎさえ、ひびいても来ず、しんかんと、ひそまり返っているままに、わめきつれて、いつか、睡魔が、うとうとと襲って来て、そのうちに、我れ知らず、眠ってしまえば、狂も、不狂も、おなじ夢の境。
だが、その夢の中でさえ、もはや、ただ美しい、ただ優しい、ほんのりとした幻は漂うては来ぬ。それは、遠い遠い、少年の日に、置き忘れてしまった。
彼は、見た――こんな夢を。
おのが
が、どうにも、背すじが焦げつきそうになる、苦しまぎれ、ざぶんと躍り込んだ、熱い流れ――ぬらぬらと、五体にぬめりつき、目口にはいろうとする血潮を、やっと吹きのけて、対岸に上ると、足の裏を、突き刺すばかり尖った、小石原――その小石原の果てに、こちらに、背を見せて、小さな子供――それが、その尖った小石を、杉なりに積み上げては、揺りくずされ、積み上げては、揺り崩され、それでも何か、消え消えに、うたっては、積み重ねている。
歌うを聴けば、
こん、こん、小石は
罪のいし。
つん、つん、積った
罪とがの
数だけは積まねば
ならぬ石。
永劫 のつきせぬ
この責苦 、
こん、こん、小石は罪のいし。
何となく、可哀そうになって、つい、うしろに近づいて、何かいいかけようとすると、子供の方で振り返ってニーッと笑ったが、その顔が、盗んで、遣り捨てにした、広海屋の赤んぼう――罪のいし。
つん、つん、積った
罪とがの
数だけは積まねば
ならぬ石。
この
こん、こん、小石は罪のいし。
――やあ、おのれ! 迷い出て、恨みをいうか!
と、
――見たような? どこかで、いつか? 遠い昔――
と、考えをまとめかけた刹那、思いがけなく、その顔が、もぐもぐと、土気いろの唇をうごかして、
――久しいのう、三郎兵衛――
と、いいかけたようだ。
長崎屋、そのとき、ハッと思い当って、両手で顔を
赤ん坊の顔と思ったのが、見る見る変って、伸び歪んで、世にも苦痛に充ちた老人のそれとなった、その
「わからぬかな? 忘れたかな? このわしの顔を――」
ぐっと、顎を突き出すようにして、
「いかに忘れっぽいそなたでも、まさか、わしを忘れもしまいがな?」
「わ、わすれはせぬ――わすれはしませぬ――あなたは、もとの――」
言い訳をせねばならぬような気がして、長崎屋、ここまで言いかけて、舌が硬ばってしまった。
「もとの? もとの、何じゃ? わしは、そなたの、もとの、何じゃ?」
「も、もとの、御主人でござります」
と、やっとの思いで、三郎兵衛は、答えて、逃げ出そうとしたが、膝がしらの力が抜けて、動かれぬ。
「もとの主人? うむ、覚えていたか? して、その名は、何と言うた? 忘れたかな?」
「いえ、いえ、何で忘れましょう――あなたは、松浦屋の旦那さま」
「ひ、ひ、ひ、なるほど、思い出したな? よくぞ思い出しおったな? その松浦屋、そなたの手引きで、
と、いい表わし難い、鬼とも、夜叉とも、たとえようのない異形を見せて、長い
「わあッ! おたすけ!」
と、突き退けようとして、身じろぎのならぬ哀しさに、大声をあげた、その拍子に、やっと、目が醒めた、長崎屋だ。
油汗が、顔をも、肌をも、水を浴びたように湿らして、髪の毛さえ逆立って、醒めて、かえって、夢の中よりも怖ろしく、気味わるく、今にも、旧の主人の怨霊に、取り殺されでもするかのように、
「もう、駄目だ! あの方が、姿をあらわして、お責めになるようではもう駄目だ!
と、叫びながら、どうにかして、この蔵二階から、のがれだそうとあせりもがいて、部屋を、ぐるぐると走りまわりはじめた。
壁に突き当る、壁を押す、戸に
「怖わや! 怖わや! わしは、一人ではおられぬ。身の毛がよだつ! おおい、広海屋どのう! 浜川どのう! 横山どのう! 土部さまあ! 土部三斎さまあ! わしばかり、こんな恐ろしい目に逢うわけがない。わしを助けてくれ! お助け下され! 松浦屋どのが、わしを責めます――わしを噛みます――引き裂きます! 早う助けてえ、みなの衆、同じ悪事をして来ながら、わしばかりを怨ませようとは! ああ、堪えがたや、怖ろしや!」
わめき立てて、部屋中をのた打ちまわる、長崎屋、やがて生死も知らず、気を失ってしまうのだった。
そこで、生きながら、鬼に化したような、長崎屋三郎兵衛から、河岸の
彼は、三郎兵衛が、赤子の咽喉に、手をかけて、掴み殺さんばかりの有さまを見て、われ知らず、狂い果てた相手を
かごで、わが宿を差して戻りながら、赤ん坊を抱きしめて、乳母のふところと思っているのか、スヤスヤと、眠りはじめた、ふッくらした寝がおに見入りつつ、彼は、詫びるように、心につぶやいたのだ。
――坊や、堪忍おし――ほんとうは、このまま、お前を、おふくろさんの胸に、かえして上げるのがよいのかも知れぬ。けれども、それは、わしには、出来ないのだ。お前には、すまないと思うけど、お前の親御の、広海屋に、どうしても、この世で、怨みをかえさねば、死なれぬ身――その広海屋に、苦しい、悲しい想いをさせるには、お前をあずかって置かねばならぬ。お前の親御は、わしに取っては、仇なのだ、敵なのだ。わしの父母の家をつぶし、
赤子を、責道具に使うことの、よしあしがいっていられる場合ではないのであった。
さて、宿に着くと、出迎えた女たちは、まず、雪之丞のいつに変った身なりに驚かされた――どこの長屋のおかみさんかと思われるすがたに、びっくりした。それから、ふところに抱いている、赤ん坊に好奇の目をみはった。
――若親方は、ことによると、ほんとうに女子で、こんなかわいい赤ちゃんが、あったのかしら?
なぞと、口の中にいって見た者さえあった。
内儀がいぶかしんで、たずねると、ニッコリと、さり気なく、雪之丞は笑って、
「ほ、ほ、ほ、さぞびっくりなされましたろうが、実は、今夜、米屋のぶちこわしとやらがあると承り、物ずきに、現場を見とうなり、わざと、こうしたなりをして、駆けつけましたが、いやもう恐ろしい大騒ぎ、胆も身に添わぬ気がしましたので、すぐに、戻ろうとしますと、道ばたに、捨子――寒さに、泣くこえが、あわれでなりませぬで、拾い上げてまいりました。ね、かわいい子でござりましょう」
「まあ、では捨子で――こんなに、やわらかい寝巻を着せていながら、どうしたわけで、道ばたなぞへ――まあ、ほんとうにかわいらしい――抱かせて下さいましな」
子無しゆえに、一そう
雪之丞は、内儀に、乳母の世話をたのんでホッとした。
――わたしは嫌われてしまった! わたしはあざむかれていた! いのち懸けの恋――燃えつきる恋――万人の女が、夢みながら、思い切ってそこまでは誰もつきつめぬ恋――親も、家も、わが身もすべて捧げた恋――恥かしい恋――苦しい恋――わたしの恋は、
わが乳で育てた、家柄の貴い一少婦の、世にも激しく、世にも哀れな思いつめた望みを果させる為には、いかなる難儀をも忍ぼうとする、忠実な乳母と、乳兄弟に当る、正直で素直な伜とで、あらゆる困難を
が、彼女には一生一
――わたしは忘れられた、捨てられた。あのお方は、やっぱし世の常の芸の人で、いのちがけの女の恋なぞは、おわかりにならないのだ。いいえ、女の一人、百人、自分のためにこがれ死にに死んだとて、わが身の罪と、歎くことなぞはしていられないお人なのだ。芸ばかりがいのちの、氷よりも冷たい胸のお人だったのだ――
と、そう、思いあきらめようとしながら、しかし、どこか、胸の底の方では、
――いいえ、わたしは、わが
と、そんな方に、自ら慰めて見ずにはいられない彼女でもあった。
こうも呪い、ああも、自ら
あの晩、吹きつづけた
「
と、すすめてやって、どこか、若衆がおの愛らしい横がおをみつめて、何を思ったか、ぼうと、いくらか、頬をうすく染めた浪路――
「ねえ、千世、たのみがあるのだけれど――」
「何でござります?」
「いいえね、格別、
「めおとごっこ?」
めおと――と、いう言葉が、十五の少女にも、ある恥かしさを、感じさせたと見えて、これも顔を紅くした。
「ほ、ほ、何でもないの――只、わたしの言うことに、あいあいと、返事をしてくれれば、それでいいのだから――してくれるわねえ――あそんでくれるわねえ――何でも好きな
こむすめはうなずいた――千世は、いつもいつも淋しげな、はかなげな浪路を、どうにかして、慰めてやりたいと、若いこころにも、思っていたのだった。
「でも、うまく出来ますかしら?」
「出来ますとも――」
頼りない身には、主も、家来もなかった。浪路は、まるで、親友に対するように、千世に頼んだ。
「出来るから、今、いうとおり、わたしの言葉に、あいあいと、そういってくれるのですよ」
「はい」
「では、はじめます――いいこと? 何でも、出来るだけ、男らしく、だけど、やさしく返事をしてくれるのですよ――お前が、旦那さまなのだから――」
そう言って、浪路は、小むすめの肩に、藤いろの小袖の袂をかけて、抱き寄せるようにして、
「まあ、そなたは、こんなに長う、お目にかからなんだわたしを、可哀そうとは、お思いになりませなんだのかえ? 雪どの、さ、何とか、返事をしてたも――」
と、熱くささやいて、そして、自分の言葉に、酔い
「駄目ではないの、千世!」
と、浪路は夢をさまされたように、おこりっぽくいったが、また、機嫌をとるように、
「さ、何とか、返事をして――」
「あいあい」
「あれ、あきれた千世――わたしが恨んでいるのに、あいあいでは――」
「でも、あいあいと、いえとおっしゃいましたから――」
「さあ、言ってくれるのですよ――千世、ね、こう言ってくれるのですよ――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはしませぬ――と、そう言っておくれなさいな。ね、千世」
千世は、女あるじの、柔かな腕の中に抱きしめられて、ますます紅くなりながら、それでも、
「はい、では、申します――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはいたしませぬ」
「それなのに、なぜ、いつまでも、お顔を見せてはくれなかったの? わたしは、うらみつづけにうらんでいました」
又しても、千世が、口ごもってしまったとき、外で、
「御免下さりませ」
千世がホッとしたように女主の、脇をすり抜けて、入口の方へゆく。小家なので、音ずれて来た人のこえは、よく判ったが、それは、乳母の伜の、甚太郎――正直、まっとう、
通されると、
「もう、わたくしも、おふくろも、毎日、毎晩、御機嫌をうかがわなければならないのでござりまするが、何分とも、松枝町のお屋敷の方が、絶えず、目をつけて、おいでなされますので、うっかり、こちらへ足を向けましたら、一大事と、つつしまねばなりませぬので――」
「では、まだ、松枝町では、おまえたち
「はい、お行方をかくされましてから、何度も何度も、お呼びだし、おどしつ、すかしつのお尋ねでござりましたが、口を割りませなんだで、どうやら、
「それは、さぞ、気色のわるいことであろう――みんな、わたしの罪、お気の毒でなりませぬ」
「いえいえ、左様なことはござりませぬが――実は、今晩、人目を忍んで、上りましたのは――」
と、いいかけて、甚太郎は口ごもる。
「え! 何か、特別な、用事ばし出来まして?」
と、浪路がみつめる。
「はい、おふくろが申しますには、お屋敷の方は、あなた様が、お家出をあそばしてから、それはもう、
「で、わたしにそれをいいに来てくれたといやるのか?」
と、浪路が、鋭く
「まあ、では、乳母も、そなたも、この浪路に、どうあってももう一度、うちへ戻れと、こういうのだね?」
と、浪路は、甚太郎の、
素直な男は、あわてた。
「いいえ、どうつかまつりまして、あなたさまに、戻れの帰れのと、そのような、失礼なことを、どうして申し上げられましょう。ただ、いかにも、お屋敷の、お父ぎみさま、お兄ぎみさまの、御当惑がお気の毒でなりませぬゆえ、お城をおさがりあそばすにいたせ、一応は、お顔をお見せなされまして
「まあ、その乳母までが、それでは、わたしのあのような頼みをも、打明けばなしをも、裏切って、お城や、お父上の、味方についてしまったものと見える――それも、道理といえば道理――わたしは今日、世をしのび、お前方の
浪路は、美しい顔を、青ざめさせて、唇を、血の出るほど、噛みしめるのであった。
甚太郎は、ますます弱り切って、
「めッそうな! われわれ親子が、あなたさまを、おかくまい申すのを、迷惑の何のと、何でそのような罰あたりなことを思いましょう。あなたさまのお為めなれば、いのちも何もいりはせぬと、とうから言いくらしているおふくろが、それではあんまり可哀そうでござります。どうぞ、もう、そのようなこと、フッと、おっしゃらずと下さいませ」
「でも、お前がたは、どうでも、わたしに松枝町に戻れと申すではないか?」
「いやいや、もし、そうなされたなら、御一家さまもさぞおよろこび――と、存じ上げたまでの、差し出口でござりましょう」
「それにしても、あんまり思いやりのない言葉――一たい乳母は、このわたしが、二度と、生きて、あのいやないやな、
「そうおっしゃられますると、わたくしめは、申しわけなさに、それこそ、首でも吊る外はござりませぬ。そこまでのお言葉なれば、おふくろにいたせ、わたくしは勿論、今後とも、もうくどう
と、いい切る外はないのであった。
浪路は、詫び入る甚太郎の言葉が、耳にはいらぬように、
「いかに、おな子の身は弱いというたとて、どこまでもどこまでも一家、一門のために、
と、言いかけて、哀しみの涙か、くやし泣きか、ハラハラと、青白い頬を、
甚太郎は、ますます恐縮して、
「なかなかもちまして、そのような、悪気から申し上げましたでは、さらさらござりませぬ。一々、ごもっとものお言葉、おふくろにも、立ち戻りまして、申し聴け、おわびに向わせましょうほどに、お気持を、お直し下されまして――わたくしどもは、くりかえし申し上げますとおり、あなたさまのお為めのみを、はばかりながらお案じ申しているばかりでござります――」
すると、それを、聴きすましていた浪路、急に、フッと、涙の顔をあげたが、
「ほんとうに、甚太郎、そなたは、わたしを、あわれと思うていてくりゃるか?」
目を
「申すまでもござりませぬ――たとえば、松枝町さまが、御恩人とは申せ、そなたさまには、恐れ入ったおはなしなれど、乳をさし上げた母親――わたくしはその伜――おん家よりも、そなたさまこそ、くらべようなく大切と、存じ上げておりますので――」
「それならば、わたしの、生き死にの望み――生れて、たった一つの望みを、どうともして、叶わせてくりょうと、日ごろから、念じていてたもっても、よさそうなものと思いますが――」
浪路は、いくらか、
「実はたった今も、叶わぬ想いに、胸を噛まれて、うら若い千世を相手に、くりごとを言うていたところ――のう、甚太郎、おもはゆい願いなれど、かくまでの、わたしの苦労を察してくれたなら、どうにもして、
ほんに、いかに、主従同然な仲とはいえ、
「はい」
と、切なそうに、彼はうなずいて、
「それはもう、わたくしも、あの後、何度となく、人目にかくれて、かのお人のお宿まで、出向きましたなれど、いつも、あいにくお留守のあとばかり――」
「いいえ、大方、わたしよりの使と察し、間のものが、取りつがぬものでもあろう――あのお人は、なかなかに心のゆき渡った方でありますゆえ、なまじ逢うては、わたしにあきらめの心がつくまいとわざとさけておいでのことと思えど、このままでは、わたしは、もう、生きつづけてゆけぬ気がします――いのちの火が、燃えつきてしまうような気がします。ねえ、わたしをあわれと思って、乳母と二人力をあわせ、何ともして、
浪路は思い入った調子で、
「もし、そなたが、いとわねば、わたしみずから、身をやつしてなりと、かのお人の宿元まで、忍んでゆきたいと思うのだけれど――」
と、いっているうちに、狂恋の情が
「甚太郎、明日といわず、今夜これから、案内してはくれぬであろうか?」
浪路の狂熱は、
彼女は、もう、どうにもおのれを抑えることが出来なくなったように見えた。
「ねえ、わたしを、宿屋の入口まで、案内してたも――わたしはどうあッても、雪どのに逢いたい。逢わねば、もはや、生きる気もない。のう、甚太郎、あわれと思わば、何とかしてたもれ――のう、甚太郎――そなたと、わたしとは、言わば、
甚太郎は、とんだ破目になったというように、うつむいて、膝に載せた、わが手の指をみつめるようにしたまま、
浪路は、あせりにあせって、
「それとも
きッと、
――おお、何という恐ろしい、女子の執念であるのだろう? まことや、むかし、清姫は、蛇ともなり、口から炎を吐いて、日高川の荒波を渡ったとか――このお方を、このまま、すげなく突き放したならば、あられもなく、夜ふけの道を、さまよい出すに相違ない――お美しい目に、あの
「のう、甚太郎、どうしてくりゃるつもりじゃ? 厭なら、厭と言や――頼みはせぬぞえ」
――
甚太郎は、雪之丞の、秘剣秘術を知る由もないゆえ、力立てをしても、浪路との逢瀬をつくってやらずばなるまいと思うのだった。
そこで、決心して――
「わかりました。では、今宵こそ、この甚太郎、雪之丞どのに、どうしてもお目にかかり、是非ともお供をしてまいるでござりましょう――どうぞ、あてにして、おまちなされて下さりませ」
が、浪路は、荒々しく頭を振った。
「いえいえ、それは、無駄なこと!」
と、彼女はいきどおろしげに、
「雪どのは、もはや、決して、わたしに逢うまいと、思い定めておいでに相違ない。それゆえ、そなたが、口を
彼女はそう言うと、千世を呼んで、鏡台を運ばせなぞするのであった。
この隠れ家に住むようになってから、勿論、髪も、衣類も、町家風俗、されば、夜あるきをしようとも、さらさら、だれの怪しみをも買わないであろう。
浪路は、

「さ、甚太郎、案内しや――大方山ノ宿と聴いた。そこまで出て、かごをやとわば、更けぬうちに着くであろう――千世、留守居を、ようしていやれ」
甚太郎もはや、思い止まらせることも出来ず、力なく、
「さらば、お供をば致しましょう」
ところが、隠れ家の、さびしい灯の下で、かかる場景が展開されつつあったとき、この、町並みからかけはなれた、隠宅むきの小家の、生け垣の外を、さきほどから、
もとより暗い森かげ、人通りもないから、この武家のすがたに目をつけるものもなく、何の邪魔もなく、うかがいつづける事が出来たわけだ。
この黒衣の人物は何者だろう?
土部三斎と、長崎以来、これも深い欲得ずくの関係を結んでしまった、こないだ、広海屋火事の晩
横山五助は、今でも土部家の言わば、相談役のようなことをつとめていたが、浪路の
何分、この男、長崎代官所で幅を利かせていたころから、目から鼻へ抜ける才智と、ころんでも只は起きぬ
これが、浪路の失踪の裏には、何としても、乳母一族が存在して力になっているに相違ない――さもなくば、世間知らずの彼女に、世にかくれつづけていられるはずがないと見て取ってしまっていたのだ。
一たん、そう思い込めば、たやすく、その考えを捨てる五助ではなかった。
――どうでも、乳母一家があやしい、三斎どのは、すっかり信じ切っておられる乳母や伜だが、その悪堅いところが、
そうした横山五助が、黒覆面に顔をかくして、乳母の家のまわりを警戒していた折も折、今夜、甚太郎が、さも人の目をはばかるように出かけたのだからたまらない――彼の尾行は、とうとう成功してしまったのだった。
その横山五助、どうにかして、浪路の行方を突き止め、土部家へ戻そうとして、たった今まで、心を砕き、この小家をとうとう発見したのであったが、人間の慾念というものは、
小家のまわりを、警戒しながら、ちらちらと、かすかに洩れて来る美しいこえを聴いているうちに――そして、甚太郎との物語が、なかなか尽きそうもないので、いらだたしい気持を押えかねているうちに、ふッと、
――浪路どの、どんな暮しをしているのか? 大奥で過していた身が、こんな
と、思って、裏手にまわって、閉め忘れたらしい小窓に、灯火がほんのりさしているのを見つけ、はしたなく、
その風情が、何とも言われず、艶で、
彼の中年すぎの、汚らわしい情熱が、彼自身、思いも設けず掻き立てられた。
――なるほど、美しい! なまめかしい! 今までは、これほどの娘とは思わなかった!
ゾーッと、身ぶるいが通りすぎた。
そして、その刹那から、どうにかして、浪路に、ぐッと密接したい欲望が、ムラムラと湧き上ったのだ。
彼は、隙見をしながら、急に、口じゅうに、唾がたまるのを感じた。五体が、燃え上って来た。
――なあに、こうなって見りゃあ、拙者に近よれぬ浪路どのでもないのだ。
ギョロリと、目を光らせて、彼は、心につぶやいたが、当の浪路の瞳が、こちらに、ちらりと送られたような気がしたので、ハッとして、窓をはなれた。
彼は、たった今、もりもりと盛り上って来て、胸一ぱいに
妻に死なれて、まる三年、異性からすっかり遠ざかっていた彼の
――あの娘は、案の定、あの女がたに迷って、そのために、公方の威光も、親の慈悲も、毛ほどにも思わず、家出をしたのだ。あの娘は、あの女がたに死ぬほど焦れているのだが、それが、何だ? 拙者が、
五助は、一度、胸の底にふすぶり立った、欲情の火を、大きくならぬうちに消してしまおうとは試みなかった。只、ひたむきに、その炎が、全身を焼くにまかせた。
――よし、どうしても、拙者、あの娘をあのままには置けぬ。これまでの浪路ではない。世の中に自分から投げ出しているあの娘だ。
そう独り
隠れ家を出た二ツの人影は、いうまでもなく、浪路、甚太郎だ。
「この辺は何分、町すじからはなれておりますので、かごは、音羽の通りへ出ませんでは――」
と、甚太郎、
「ええ、何でもありませぬ。一里が二里、思い立ったら、歩けぬことはありますまい」
浪路は答える。
二人の足が向くのは、護国寺前通り――
横山五助、二人の会話を、小耳にはさむと、
――うむ、あの通りへ出られてしまっては!
と、呟いて、瞳に、暗いほのおをふすぼらせる。
と、同時に、狂おしい
チャラチャラと、雪駄の裏金が、鳴るのをすら、ききはばからせない。
その足音に、ふりかえったのは甚太郎だ。まさか、五助が、ここまで
「おいそぎ下すって――」
と、低く、不安気に
少しゆくと、まだ、腰高障子に灯かげが映っている、居酒屋のような小店があるのだ。
浪路も、小走りになる。
が、横山五助、もはや、情欲に前後の思慮を失しているのだから、
「待ちなさい! これ、お待ちなさい!」
と、迫った調子で、
甚太郎、聴き覚えのある声なので、足がすくんだ。
浪路失踪以来、何度か、母親と彼とを威迫すべく訪れた、横山五助だということは、次の刹那に、すぐに思い出せたのであろう。
浪路は、かまわず、走ろうとしたが、無駄だ――はっきりと、彼女の名を、呼びかけられてしまった。
「浪路どの! 拙者だ! おまちなさい!」
――おお、横山どのだ!
悪い人に、悪いところでと、くやまれたが、しかし、立ち止まらぬわけにはいかない。
チャラチャラと、近づいた横山五助、闇をすかして、二人を、
「甚太郎、貴さま、不届きな奴だな! よくも、拙者ども、また、お屋敷をあざむいたな!」
「は――」
何とか、言いのがれようとして、甚太郎はどもった。
「お屋敷御高恩を忘れ、何たることだ! 浪路どのお留守のための御迷惑が、わからぬか!」
五助は、いかめしく言って、いつか、二人の行手をふさいでしまっていた。
甚太郎は、口をもがもがとやるだけだった。
だが、恐怖と困惑とに、
彼の、闇にきらめく、狂奮の瞳は、浪路に向けて、食い入るように注がれるのだ。
夜の深みにうなだれた、白い、
――めっきり美しさが増したわい。公方のおもいものであったときには、言わば、ただ
浪路の胸が、五体が、雪之丞を
――河原者を慕う不所存な女子を、拙者がわが物にしたとて、何が不都合であろう! どうせ、汚れてしまっているか、遠からず汚れてしまうか、いずれかにきまっているのだ。
「浪路どの!」
と、いくらかもつれた舌で、五助が呼びかけて、
「が、そなたの気持が、まん
――何を、この方は、おいやるやら!
と、浪路は、今は魂が
――この方々こそ、父上にすすめて、自分達の栄華を遂げるために、ひとを、公方への、
「いずれにせよ、そなたの御決心が、どのようなものか、
五助は、そんなことを、
――どうしたものか? 今宵、この
――そうだ! 丸木の寮なら――あそこなら、どんなに、この女がわめこうと大丈夫――
連れて行く方法は、いくらでもあった。彼は、大刀を横たえているのだ。切っ先きを突きつけたら、何でもない――その寮というのは、廻船問屋の別荘で、大川端、浜町河岸の淋しいあたり――一方は
邪魔なのは、この
――待て、この場は追い払おうとも、この者、浪路がこよい限り又も行方を失うたら、持って生れた正直一途から、どのようなことを、土部家へ訴え出ぬとも限らぬ――かまえて、
五助は、こんな風に考えて、急に闇の中で恐ろしい表情になった。
ギラギラと、すさまじく、瞳をきらめかした、横山五助、にわかに棒立ちに突っ立って、唇を噛むと、上目を使うようにして、甚太郎をみつめたが、皺枯れた調子で、
「甚太郎、ちと話があるが、あの物蔭まで――」
甚太郎は、
「へい」
と、腰をかがめる。
びくびくと、只、恐縮し切っていた彼、頼むようにいわれて、ホッとしたらしい。
「甚太郎に、ちと、命じることがあって、あれにて、談合いたしますが、お逃げになろうとしても無駄でござるぞ」
ジロリと、
浪路は、何を、横山は、甚太郎に話し込もうとするのであろう? ――が、事実、逃げても駄目だ。男の足には、すぐに追いつかれる――それよりも、言うままに、待っていて、あとで、泣きついて見よう。あの男に、腹立たせてしまっては、大変だ――そんな風に思って、よんどころなしに、
こちらは、五助、どんより曇って、月もない、
「甚太郎――話と申すはな――」
正直な男、
「は、何でござりまするで――」
と、前屈みに、身を寄せた瞬間!
――シュッ!
と、いうような、かすかな音がしたのは、抜き討ちの一刀が、
――ピュウッ!
と、刃風が立って、ズーンと、この
「うーむ!」
と、いうような、定かならぬうめきが、聴えたようであったが、闇を掴むかの如く、
血を浴びぬように、五助が、切ッ先の加減をして、突き仆したのだ。
「あーッ!」
浪路は、物蔭の、異様な気配に、ハッとして、つぎの刹那、思い当って、思わず叫んだ。そして、逃げようとして、膝がしらの力が失われて、よろよろと、その場に
「おはなしなされて、お、は、なし――」
と、叫ぼうとするのを、
「お騒ぎでない。かの者、不忠、不所存きわまるによって、
「お、は、な、し――」
浪路は、
無宙ではあったが、女性の本能が、彼女にある
「お、は、な、し――」
「これほど申すに――」
と、五助の声が、荒っぽく喘いだ。
横山五助が、心の中の暗い願望を、それと口に出さぬうち、早くも、感づいた浪路は、放して――放して――と、腕の中にもがいたが、相手は、いっかな放さぬ。
ますます、
「なにも、そのように、怖ろしがるには及ばぬ――かやつを、斬って
と、いいかけて、
「な、この五助、是非とも、そなたと、たった二人、人知れず、相談することがある――そなたの胸の中も、よううけたまわって、
「は、はなして――」
と、浪路は、抱き締められながら、骨太な
「お放しなされて――わたしは、行かねばならぬところが――」
「は、は、は――例の、雪之丞とか申す、女がたの
「いいえ、わたくしは、是非とも、まいらなければ――」
「なりませぬと申すに!」
と、五助が、やわらかな肉体との接触に、毒血が沸き立ったように、
「浪路どの、子供だ子供だと思ううちにいつか、恋にも狂うようになられたを見ての、拙者、これまでのそなたと、考えられなくなった。――浪路どの、
ああ、いとわしい、顎ひげが、少し伸びた顎が、
浪路は、わめこうとする――もはや、わが身の上を考えて、じっとしてはいられないのだ。
その口に、かかえた手の、手先を押し当てた五助――
「ええ! おしずまりなさい――どうしても、拙者の望みを叶えてもらわねばならぬ。ど、どうせ、河原者風情に、汚されてしまうみさおだ! 浪路どの、拙者、
――わ、う、う、う!
と、出ぬ声を出そうと、あせり切った浪路――
――おのれ、不所存な! 子供のころから、さも小父のようにも物をいいおりながら、畜生道に、
いつか帯の間をワナワナとふるえる手がさぐる。
帯の間には、肌身はなさぬまもり刀――その体温を宿した柄を、ぎゅっとつかみ締めると、もう一度、身をもだえて、
「う、う、う、おはなし――なさらぬと――」
「は、は、は、悪あがきは止めになされ。横山五助、やさしゅうして貰えば、あとでかならず恩がえしはいたしますぞ」
白く、やさしく、しかし、憤怒と嫌悪とにワナワナと震える手に、われを忘れて、短刀の柄を、つかみしめた浪路とも知らず、横山五助、なおも、しつッこく、顎ひげののびた頬を、擦りつけるようにしながら、
「のう、悪しゅうはせぬ――悪しゅうはせぬに依って、拙者にも、やさしい言葉をかけて下され――わるく、おあがきなら、止むを得ぬ――このまま、この場より、松枝町のお屋敷にお供するまでじゃ――な、お屋敷に戻られてしまえば、今度こそ、座敷牢。さもなくば、大奥へ、ふたたび、追いやられねばならぬおからだでござるぞ――な、そこを、ようわきまえて――拙者、くだくだしゅうは言わぬ。そなたが、これまでに大人になったとは、知らなんだ――」
抱きしめてはなさず、かきくどくのを、浪路は、振り放そうと、なおも身をもんで、やっと、口を押えた手から自由になると、
「横山さま! わたくし、どうしても、いそいでゆかねばならぬところが――いずれ、また、後の日に――」
「ふ、ふ、の、後の日に――とは、あまりな言葉――そなたは、その役者のもとへゆかば、今度こそもろ共に、かけ落ちもいたしてしまわれよう――いっかな、放せぬ! さあ、拙者とともに――騒がば、お屋敷へお供する外、ござらぬぞ!」
「では、どうあっても、おはなし下さらぬのでござりますか!」
浪路は、声まで、青ざめているようであった。
が、相手は、せせら笑って、
「放さぬとも! 放しませぬとも! さ、こうまいられ!」
引きずって行こうとした、その刹那、どう浪路の片手が動いたか、匕首の、
「わああ!」
と、わめいて、女を突きはなし、よろよろと、よろめいて、しばし
「う、う、う」
と、血刀を捨てた手で、胸を抱いて、
「わ、ああ! よくも――おのれ――」
どうにかして、立ち上って、飛びかかろうとするらしかったが、それが出来ない。
片手を、土に、もがき苦しんで、つづいて、ぐたりとつんのめッてしまった。
浪路は、血に染んだ懐剣をにぎりしめたまま、棒立ちに、見下ろしていた。
もはや、うめきも、ブツブツと、血が湧く音にまぎれてしまった。
闇は、血のいろを見せない。が、生ぐさい匂いが、プーンと、ただよいはじめた。
――わたしは、人を殺してしまった。
と、考えたが、
――けだもののような人――何という浅間しい――
当然だ――と、いう気持になっていたが、歯の根も合わず、ガチガチと、上下の顎が、
彼女は、血まみれの守り刀を、投げ捨てたかったけれど、指が、
それを、指を一本一本折るようにして、やっと放して、
いつか灯が消え、戸も閉った居酒屋の前を駆け抜けるころ、彼女の息ざしは、絶え絶えに喘いでいた。
横山五助の、最後のうめきが、まだ耳に残っている浪路、気も上擦って、闇の小径を、それぞ音羽の通りと思われる方角を指して、ひた駆けに駆けつづけたが、息ははずむ、動悸は高ぶる、脚のすじは、
――ウ、ウ、ウ、ワン、ワン!
と、突然、吠えついた犬――
人こそ殺したれ、かよわい
――血くさいぞ! 怪しい奴だぞ!
と、わめくので、目をさまして、
――おお、いかにも血が匂う! 奇怪な女めだ!
――のがしてはならぬぞ!
とでも、いい合って、うるさく、まつわって来るものであろう。
浪路は、今は、髷の根も抜けた――後れ毛は、ほつれかかった。
犬どもならずとも、行き合うほどのもの、怪しみの目を

果して、かなたから、空かごをさし合って、どこぞで、一ぱいきこしめして、一ぱい機嫌らしいかごかきどもが、来かかったのが、
「おッ!
と、先棒が、いって、足を止めると、
「なに、美女が犬に――おッ、なるほど――犬だって、美女は好きだあな」
と、答えて、
「おい、ねえさん、駆けちゃあ駄目だ、逃げちゃあ駄目だ! どこまでも追っかける。先棒、犬を散らしてやろうぜ」
空かごを投げ出して、後棒が、息杖をふりかざして、飛んで来て、
「しッ! しッ! 畜生! なぐるぞ! ぶち殺すぞ!」
と、三、四匹の、野良犬を追ッぱらって、立ちすくんだ浪路に目をつけて、
「ところで、ねえさん、この夜更けに、おひろいじゃあ、犬も
と、言うところを、先棒も近づいて、
「犬を散らして上げた御礼というのじゃあねえが、どうだ、安く、御乗んなすって――」
「まあ、
と、後棒。
「へ、へ、へ、この夜更けに、夫婦喧嘩と出なすって、飛び出して来やしたのかい? 犬も食わねえというに、あいつ等あ、馬鹿に食い意地の張った犬どもと見える――へ、へ、へ、どっちみち、お里へなり、いろ男のところへなり、おいでになるところでげしょう――へ、へ、へ、そのなりで、夜みちを歩いたら、自身番が、只はとおしゃせんぜ――へ、へ、へ――おのんなすって」
浪路も、いくらか気がしずまると、どうせ指してゆく、浅草山ノ宿とかまで、歩いて行けるものでもないと思った。
「はい、のせて、貰いましょう」
「おい、ねえさんが、乗ってくださるとよ」
と、先棒、
「どちらまででござんすね?」
垂れを下ろそうとしながら訊く。
「浅草、山ノ宿とやらまで――」
「へえ――」
先棒が、にやりと笑ったが、
「とやらまで――だとよ、さあ、いそごうぜ」
うなずいて、
「どれ、その、とやらまで――一ッ走りか?」
肩を入れた後棒は、ほり物は無いが、頬ッぺたに、傷のあとのある、異様な面相。
二人は、もう二度と目と目を見かわす必要もなく、お互に、これから先の行動を、以心伝心、のみこみ合ってしまったのだ。
まさか、たった今、人を殺して来た娘と知れば盗んで逃げようともしなかったであろうが、何分にも、人も寝しずまった真夜中、夜目にも、白い花が咲き出したような、しかも、それが、取りみだし切ッているうつくしいすがたを見たので、持って生れた棒組根性、このままには、見のがせぬと思ったらしい。
何分にも、浪路も、重なる不仕合せ、このかごが、町かごで、
この一
――ホラショ!
――ホイヨ!
と、走りつづける。
どこをどう駈け抜けたか、淋しい組屋敷がつづいている、
お泊り宿は名ばかり、小ばくちの宿をやったり、
そのいぶせき
「おまちどおさん」
後棒、先棒、ぎょろりとした目を見交して、冷たく笑った。
パラリと、上げた垂れ――のぞき見た浪路が――
「ここは?」
「ここは、山ノ宿――」
「では、この辺に、大坂下り雪どのの――中村座の雪之丞どのの宿があらばと――たずねてたも――」
浪路が、一生懸命な調子でいう。
「ナニ、雪之丞の? へえ、あの名うて
先棒が、つかんだ
「出なせえよ、ねえさん、さあ、ここが山ノ宿、たずねるお人のお宿――」
と、一人がいって、垂れの中の、白い顔をのぞき込んでいるうちに、後棒が、どんどんと、お三が宿の、入口の雨戸を叩いて、
「ばあさん、お客さまだ――早いとこ、あけてくれ」
ドン、ドン、ドン――と、手ひどいひびきに、中から、まだ、寝ついてはいなかったらしく、
「おい、今あけるッたら、荒っぽくされちゃあ、
と、皺枯れた調子。
ゴトリとあいて、
「おや、
「うむ、それから、為だ」
「おそいね?」
と、のぞき出した半白半黒、それをおばこに
「して、お客ッてえのは?」
「さあ、ねえさん、出なせえったら――」
と、後棒――さては、悪い雲助に、かどわかされた――と今更、思い知った浪路、逃れるにも逃れるすべもなく、かごの中に、小さく身をそぼめ、しっかと、細い手で、枠につかまっている、その白い手を、つかもうとして、
「さあ、こんな寒いところにいねえで、うちの中へおはいんなせえよ――な、わるいようにはしねえんだ――ねえさん――出なせえよ」
「後棒、何を、やにッこいことをいっているんだ!」
と、先棒が、これに手荒く、ズカズカと寄って来て、
「これ、娘、出ろッたら出るんだ!
後棒が、猫撫で声で、
「さあ、兄貴が、あんなにおこるじゃあねえか――騒いで見たってここは、こんな田ん圃中、どうなるもんだ。痛え目を見るだけよ――な、出なせえ――さあ、出してやるぜ」
「あれ――」
と、かじかまるのを、肩から襟へ、ゴツゴツした手で、抱きすくめて、引きずり出して、
「これ、あばれるな!
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、婆さん、疎らな歯を、剥き出して笑って、
「丑さん、為さんと来ちゃあ、すごいね。おお、おお、いいお子だこと――美しいこと――婆は、六十何年生きたけれど、こんな美しいむすめの子を、見たことがござんせんよ。ひ、ひ、ひ、さあ、どうぞ、お娘御、おはいり――火も、
浪路は、もだえ狂ったが、何分にも、さっき、あれ程の惑乱のあとで、身も
引きずりこまれてしまった、赤茶けた畳の、見るもいぶせき一軒家の中。
ことによったら、返り血さえ浴びたまままだ
「何だねえ、丑さんも、為さんも、こんなおうつくしい女をさっきのような、野太い声で、おどかしたりしてさ」
と、お三婆さんは、妙にねばっこい調子で、
「なあに、お前さん、この人達は、見かけこそ荒っぽいが、気立はなかなかやさしい方でね――ひ、ひ、ひ、やさしいというよりのろい方でね、ひ、ひ、ひ」
「のろいッて――人を!」
と、丑が、苦ッぽく笑って、
「婆さん、べらべらしゃべっていずと、一本つけな」
「あいよ、わかったよ、ねえさんだって、寒いわな。熱いところを、早速つけるがね。それにしてもまあ、こんなお子を、どこから拾って来たのだね」
「なあに、犬に
と、為が、
「はだしで、髷をくずして、夜みちで、犬に吼えられているのを見ちゃあ、日ごろの
「ひ、ひ、ひ、いつものおとこ気でね――結構な性分、さぞ、後生がいいこったろうね――まあ、何と言っても、ここへつれて来てくれたのは、結構なことだ。ねえさんも安心だし、あたしもうれしいし――どっこいさ。早速、熱いお銚子をね――」
立ち上って、台どころで、ガタガタはじめる婆。
乳母が、かくれて
「これ、おむす、いい加減に観念しねえか!」
と、引っぱりよせようとするのを振り切って、
「放しゃ! 下郎!」
と、いったその調子は、たしかに、彼等をおどろかせたに相違なかった。
「ナニ、放しゃ! 下郎――だって!」
と、わが耳をうたがうように、丑は叫んだが、あッ気にとられたような顔をした為と、思わず顔を見合せて、
「こいつ、何をいやがるんだ!」
「兄貴」
と、為の目には、絶望のいろがうかんで、がっかりしたように、
「こいつあ、見そこなったぜ、気ちげえだぜ! え、兄貴!」
「なるほど、さっき、役者の名をしきりと言っていやがったが、芝居ぐるいから、ほんものの、気ちげえになっているのか――」
と、丑も、思いちがえて、そんなことをつぶやいて、うなずいたが、妙な笑いで、すさまじく顔を歪めて、
「気ちげえだって、為、いいじゃあねえか――てめえ、気ちげえをいろにでも持って、手を焼いたことでもあるのか?」
「馬鹿いえ」
「そんなら、おたげえには、七十五日生きのびるって初物だぜ。けえって、おもしれえや」
「そりゃあ、そうだとも、気ちげえだって
と、相棒も、いやしく笑って、
「気ちげえの、
と、しつッこく手を取るのを、又も、引ッぱずして、浪路は、
「無礼もの! 退れと言うたら!」
つと、立ち上るのを、引きすえるあらくれ男たち、
「へ、へ、へ、おひいさま、まあ、そう、お腹を立てねえで――」
「ええ、かしましい! わが身を何と思う――」
ぐっと、二人を
が、もし、この目の光りが語る真の意味を、読み取るものがあったとすれば、
二人の雲助は、最初から、狂女と思いあやまってしまっているのだが、今、この刹那、浪路はたしかに正気を失ってしまっているのだ。正気の
「そちたちも、わが身の手にかけて貰いたいかや! あの、憎らしい横山のように――」
彼女のうめきの怖ろしさ!
だが、あぶれものたちは、世にもまれな美女の色香に、
「ひ、ひ、ひ――手にかけてくれるとおっしゃるのかね! こいつあたまらねえ――早く、手にかけて貰れえてえ――ひ、ひ、ひ、こいつあたまらねえ――」
と、為がしなだれかかろうとしたとき、婆さんが、燗酒を、自分も傾けながら、
「まあ、そんなに荒っぽくしなさんな――ねえさんは、上ずっているだけだあね――落ち着けば、正気になるかもしれねえ――」
と、制して、
「それより、もっと、ぐんぐんお
「いいや、そんなにしちゃあいられねえ――なあ、為」
と、丑――こやつ、欲情に目が据って来ている。
「そうともそうとも。婆さん、おめえ、只、飲んでいりゃあいいんだ。さあねえさん、あっちへいこう」
為と丑、相手がもがけばとて、叫ぼうとて、ためろう奴ではない――二人、左右から取りついて、腕をつかみ、胸を抱き、
「放せ! 無礼もの!」
と、叶わぬ身に、身悶える浪路を、奥の方へ、引きずって行こうとするその折だった。
二人が、浪路をかついで潜ろうとする、汚れ切ったのれんのかなたで、
「やかましい!
と、ドス太い声。
「何だ、わりゃあ!」
と、丑が目を剥く。
婆さんが、立ひざで、
「坊さん、わるいところで、目を
否もうと、叫ぼうと、手とり足とり、木賃宿の奥の一間の暗がりに、美しき浪路をかつぎ入れようと、荒立って、のれん口へかかった、丑、為の雲助、突如として、鼻の先で、野太い声が、そうきめつけたので、少なからずたじろいだが、利かぬ気の丑、
「おッ! どいつだ! どいつが、ひとの
「わしじゃ! わしが
と、ぬッと突き出された、いが栗あたま――眉太く、どんぐり目、口大きく、肩幅は、為、丑二人を合せても
「う、うぬたあ、何だ!」
と、為が、たじろいで叫んだとき、気早の
「どけ! 糞坊主、この界隈で、知らねえもののねえ、おれ達のすることに、ケチをつけやがると、腰ッ骨を叩き折るぞ! おれさまたちのなさること、九拝三拝、
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、坊主は、大きな鼻の孔から、
「大した勢いだの? だが、兄いたち、まあ、夜よ中の、じたばたさわぎだけは止めて貰おうかい。何をしてもおらあ知らねえ――が、野ッ原もねえじゃなし、おれの寝ている部屋へ連れこまれちゃあこまるんだ。わかったか」
「何を!」
どんなものにも、したいことを
「この野郎――」
浪路を、為にあずけて、
「あ、い、て、て、て!」
「どうだ――かかるか――こう、雲助、この腕は、こうやりゃあ、おッぺしょれてしまうぞ!」
「い、て、て、て!」
と、丑はおめいたが、あやまりはせず、
「為、助けねえか――この坊主、叩き斬ッてしめえ――」
「よし、承知の助だ!」
ぐったりと、気を失ってしまっている浪路を、投げ出すように下に置くと、為、きょろきょろ見まわしたが、台所にはしり込んで、何か光るものをつかんで飛んでかえって、
「坊主!」
と、振りかぶったのが、
大坊主は、丑のからだを楯にして、為の方へ突きつけるように、
「ふ、ふ、ふ、この友だちが斬りてえか――さあ、斬って見せろ! これ、斬って見せねえか! おい、雲! 斬れッたら、こいつを斬れ! 斬らねえと、貴さまの素ッ首を引き抜くぞ!」
あべこべに、為は
そのありさまを冷たく笑って、欠け歯をむき出して、茶碗ざけを、ぐびりぐびりやっていたお三
「これ、島抜けの! 許しておやりよ、そいつらは、それでなかなか気のいいやっこさん達なんだよ――丑さん、為さん、あやまっておしまいよ。不向きな相手だ」
――島抜けの――
と、お三婆は、呼びかけた。
では、今、のれん口からあらわれて、雲助二人を突きのけ、ひねり仆した、この巨大漢、いがぐり坊主――鉄心庵の、淋しい夜ふけ、闇太郎から預かった、女賊お初にたぶらかされ、盛りつぶされて取りにがした、かの、法印であるに相違ないのだ。
そうだ――まぎれもなく、これぞ、島抜け法印だった。いまさらおのが愚かさ、淫らさのために打ち負かされたことを恥じ、もがいて、どうしても
お初どもの巣という巣、立ちまわり先という立ちまわり先、あまさず、姿をやつして
何でも、川向うの荒れ寺で、何かたくらんでいるところを、役向きに乗りこまれ、すんでに危うかったとは聴き知ったが、
これだけのことを探り出したのが、あれから今日までの、やっと、収穫だ。
闇太郎は、相変らず、浅草田圃に、象牙を彫っているようだ。一、二度、そっとのぞいて見たが、さすがに声もかけそびれて、戻ってしまった。
して、今夜、さまよいの果てが、お三婆の宿の近くまで来たので、一夜のやどりを求めて、はからず、寝耳をさまされたこの始末なのだ。
「ねえ、法印、そッとして置いてやっておくれよ。
お三婆に、重ねていわれて、法印、ちょいと、仕置きの手をためらったところを、さては、この坊主、婆さんに、何か弱い尻でもあって、手出しが出来ないものとでも見まちがったか、丑――
「何の、この坊主、邪魔立てひろげやがって――」
と、わめくと、振りはらって、歯をかんで、又も、打ちかかってゆく。
為も、しがみついた。
「あれさ! 家の中であばれちゃあ、戸障子が、こわれるじゃあないか!」
と、お三婆は、立ちさわぎかけたが、その心配には及ばなかった。
「は、は、虫けらめ!」
と、法印、ニヤリとしたと思うと、左右から、撲りかかる二人の雲助の、耳たぶを両手で、ぐっとつかんだと思うと、
――ガツン!
と、思い切った、鉢合せ――
目から火が出たような気がしたが、脳髄がジーンと、打ち割れもしたように覚えて、そのまま、二人とも、グタリと、つぶれてしまった。
「死んだかい?」
と、眉をひそめるお三婆。
「なあに、死にあしねえよ――が、どこまでも、
島抜け法印は、そう呟くと、面倒そうに、二人の雲助の帯際をつかんで、左右にひッさげて、のッしのッしと、出口まで歩いて、
「婆さん、戸をあけてくれ」
お三が、おずおずあけた戸のあわいから、――ズーン! とほうり出して、唾を吐きとばした。
「おととい、来い」
美しい娘を、折角連れ込んで来てくれた、言わば、福の神のようにも思われる、丑、為、二人を、島抜け法印、襟髪つかんでほうり出すのを見たとき、お三婆は、物すごい目つきをした。
彼女みずから
「い、てて! 畜生! くそ坊主! 覚えていろ!」
「やい! 今度あったら、生かしちゃあ、置かねえぞ!」
と、わめきながら、軒下に捨ててあったかごを拾って、いのちからがら逃げ去ったのを見ると、急に、
「え、へ、へ、へ――まあ、法印さん、おまはんの強さというもなあ、うわさに聴いていたようなものじゃあないね――何とも、おどろき入りましたよ。あの、丑、為ときちゃあ、内藤新宿でも、
と、茶碗を突きつけて、
「ま、息つぎに、一ぱいいかが?」
こやつ昔はいずれ、宿場でも叩いた上りか、年にも似合わぬ色ッぽい声でいって、銚子を取り上げる。
法印は突ッ立ったまま、手を振った。
「おらあ、酒はのまねえよ」
「えッ! おまえさんが、お酒を呑まぬ? まあ、ほ、ほ、ほ――法印、
「いや、やめたんだ?」
と、モゾリと答える。
「おまえが、お酒をやめたッて!」
と、心から、びっくりした顔。
「ほんとうだよ、正真とも!」
と、法印は、いくらか力無げに、
「おらあ、酒を呑みゃあ、きッと、やりそくなう――いや、もう、大した間違えをやらかしたんだ。それで、
「へえ、そりゃあ又――」
と、お三婆は、持った銚子で、自分の杯に
「じゃあ、あたしは手酌でいただくがね――それはそれとして、法印さん、このお三婆のことは、あの奴等をあつかうようにはなさるまいね?」
「あの奴等をあつかうようにとは?」
「丑や、為は、
「だって、あいつ等あ、雲助じゃあねえか? おめえは、この宿屋の主人だ――どうして、おれが、あんなことをするはずがあるものか?」
「まあ、うれしい!」
と、お三、とん狂な調子で、叫んで、
「それでこそ、さすが立派なお人だというものだよ。悪党も、大きくなりゃあ、仁義を知らなけりゃあね――」
「悪党?」
「わるかったかね?」
と、婆は、ますます、薄気味わるく笑って、
「なあ、いろいろ相談がある――すわっておくんなさいよ。ねえ、法印さん――あたしだって、こんなときには、なかなかいい智恵が出るのだよ」
「お酒を、やめておしまいになったというなら、法印さん――何か甘いもので、お茶でもいれましょうね――まあ、お坐んなさいったらさ」
婆さんは、くりかえした。
「うむ、だが、あの娘御を、あのまま、ころがして置いたのでは――」
と、島抜け法印、ぐったりと、のれん口にうつぶしのままに仆れている、砕かれた花のような浪路の方をかえりみた。
「いいえ、大丈夫でございますよ、この婆あが、おあずかりした以上はね――」
と、お三は、また、疎らな歯を剥き出して、ニタリとしたが、手早く、火鉢の
「さあ、お湯も
坊主は、坐った。
お三婆は、ぐっと、顔を突き出すようにして、
「ねえ、法印さん、この婆さんを、忘れちゃあいけませんよ――なるほど、あの雲助たちが、かつぎ込んで来て、おッぱらわれたには、相違ないが、この宿の家の中での出来ごとなのだからね――それだけは、忘れずにおくんなさいよ」
「何をいっておるのやら、わしには、よくわからぬが――」
と、モゾリと、法印がいう。
「まあ、
婆さん、
「おまえさん、とぼけたり、はぐらかしたり、しッこなしにしておくれよ」
「別に、はぐらかしも、とぼけもしやあしねえ――」
法印、煙草はことわって、ガブリと茶を呑んで、
「何を考えているのだね? 婆さんは?」
「ひ、ひ、ひ、ひ」
と、例の笑いを、笑った老婆、
「いかにおまえさんが、
「ふうむ、この
と、法印、浪路に目を送る。
「そうともさ、あの女子のことさ――」
と、婆さんは、酒くさい息を吐いて、
「あれほどの宝を、見す見す、手もふれず置く法もあるまいがね」
「なあに、わしは、あの女子から、家ところを訊きただして、連れ戻ってやるつもりなだけよ」
と、法印が手短に答える。
「何ですって! 坊さん! あの女を、連れ戻してしまうんですって?」
婆さんは、噛みつくように、
「へえ、そりゃあ、おまはんの気持も読めないわけではないさ。見たところ、豪家の一人むすめッて風俗さ――連れて行ってやりゃあ、まあ、包み金にはありつくだろうが、それでこのあたしはどうなるんですえ?」
濁った目を見すえて、
「このお三は、どうなるんですよう?」
「いや、わしは、
お三婆は、どうしても、法印の本心がわからぬというように、
「ねえ、島抜けの――まさか、おまはん、本気で、うちへ連れてもどすの何のといっているのではあるまいね――若し、そんな
「どうしてな?」
「どうしてといって、おまはんは、自分が、ソレ、天下のお訊ね者ではないか――娘がいなくなった、どこへ行った、大変だ――と、わめき立てているところへ、この女を連れて、のっそりと、あらわれて見なさいよ。町内の岡ッ引き、目明し、待っていた――で、お礼を頂戴するどころか、お縄を頂戴してしまいますよ。それよりもサ、まあ、今夜は、落ちついて、あたしと二人で、前祝いを一ぱいやッて、明日になったら、この婆さんにおまかせなさい――
「いいや、婆さん、おれは、本気でこの娘をとどけてやる気なんだよ。雲助の手から奪い上げて、自分のふところをぬくめようとするような、そんな半ちくな悪事は、これまでして来たことのねえおれなのだ」
「おや、大そう、意気なことをおっしゃるねえ」
と、婆さんは、唇を食いそらした。
「それじゃあ、おまえさんは、どうあっても、この娘を、この家から
「攫うも攫わねえも、大たい、婆さんと何のかかわりもねえこった」
「ふうん、えらそうに――ようし、覚えておいで――」
どこまで、図太いお三婆だか、そういうと、つと、立ち上ったが、裏戸に行って、水口の雨戸を開けようとする。
ガタガタやっているうしろから、法印が、
「婆さん、何をはじめたのだ?」
「勝手にさせておくれ。あたしはつい、そこまで行って、島抜けの法印さんというえらいお方が泊っているということを、知らせたい人があるのだから――」
「ほう、岡ッ引きへな! は、は、じゃあ、何だな、婆さん、このおれが後生気が出ているようだから、おどしにかけても、いのちを取るようなことはねえ――と、高をくくったのだな! ふ、ふ、ふ、いうまでもなく、いのちも取らねえ、なぐりもしねえ――だが、おれは、思い立ったことは何でも
と、言いさま、ぐっと、婆さんの肩をつかむ。
「あれ! 何をするのさ! 手を出すかい!」
「手も足も出しゃあしねえ――ちょいとの間、じっとしていて貰えばいいのだ」
「およしよ! あれ! どろぼうだよう!」
と、叫び立てるのも、一さいかまわず、ぐっと引き寄せると、腰の手拭を取って荒々しく猿ぐつわ。
「手荒くしたくはねえが、婆さんがさわぐから――あとで、自由になれたら、訴えるもよし、訴人もよしだ。まあ、しばらく、じっとしていて貰えてえ」
両手両足を、くくし上げて、大戸棚の中にころがし込んで、両手を
「わからねえ婆さんだ。息が苦しいだろうによ」
お三婆を、ぐるぐる巻きの猿ぐつわ、押入れに、突き込んでしまった島抜け法印、耳をかたむけるようにしたが、
「まず、これで、ねずみの外には人の邪魔立てするものもない」
と、つぶやいて、のれん口の、赤茶けた畳の上に、ぐったりと、手足を伸べ、裾を乱して、気絶している浪路に近づくと、
「ほうほう、これは、うつくしい――あでやかだ、落ちのこった髪飾り、途方もない上ものだ。こんな女の子がよる夜中、江戸の裏町をあるいていれば、今の雲助ならずとも、そのまま黙って通そうとは思われぬ。不用心不用心――とかく、つつしむべきは、色の道――南無阿弥陀仏――」
と、殊勝げに言って見て、
「それにしても、早う呼び生け、また、あぶれ者が、取って返さぬうち、無事に家まで送り届けてやらねばならぬ」
近づいて、抱きおこそうとするが、その手つきは、まるで、砕けやすい
――これ、うっかり触って、細い骨でも折るまいぞ。
と、自分にいいきかせているように、何度かためらったが、やっとのことで、抱き上げて、膝の上に、ぐたりともたれかかる、仰向きの美女の、
その、ソッと当てたと思った手の力が、相手に、どれほどひびいたか、
「う、うッ!」
と、うめいて、身をもだえるようにして、目が、薄く開く。
「お女中! 気がついたかな?」
すぐ、鼻の先きに、突き出されている、大きな大きな
娘は、何と見たであろう! 見る見る大きく

「これ! びっくりしちゃあいけねえよ、おれが、たすけてやったのだ。雲すけも、お三婆も、おれが征討してやったのだ。これ、お女中、水なぞ飲むか? 安心しなせえ、おらあ、こんな荒くれ坊主だが、悪いこたあしねえよ――」
島抜け法印、一生懸命だ。
「おらあ、おめえさんを呼び生けてやったのだ。安心しねえよ――決して、わるいようにはしねえのだ――さあ、けえるうちはどこだ? また悪者が来ねえうち、届けてやる――行きてえところはどこなのだ? 早よういわッし! お女中!」
この法印の、一心の
「おお、坐りてえか? 坐んなせえ、大丈夫かな」
浪路を、畳に下ろして、のぞき込んで、
「さあ出かけよう――歩けねえなら、おれがしょって行ってやる――どこへ行きてえのか? ここにいちゃあ、ためにならねえ――」
「あの方のところへ――雪どののところへ――山ノ宿――」
と、かすかに浪路が、いったがまだ、気が乱れていると見えて、フラフラと立ち上って、
「あれ、放しゃ! 汚らわしい!」
「仕方がねえな――」
と、法印、
「
ここは、浅草山ノ宿、雪之丞が宿の一間、冬の夜を、火桶をかこんで、美しい女がたと、ひそひそと物語っているのは、堅気一方、職人にしても、じみすぎる位の
「どッち道、いよいよ、枝葉の方は、おのずと枯れて来たわけだね」
と、闇太郎が、いっている。
「浜川の奴は、抜きも合わしねえで、何ものとも知れぬものに、殺されたというので、これは、土部の一味が、骨を折ったにも
「それにしても、広海屋が焼けている最中、塀を越して忍び込んだ、浜川殺しの当の長崎屋――一たい、どうしてしまったのでござんしょうね?」
と、雪之丞、気にかかるように、伏目になる。
「そいつが、おめえに頼まれてから、手を代え品を代え、探って見ているのだが、どうにも、見当がつかねえのさ」
と、小首をかしげるようにした大賊。
「おお方、おれのかんげえじゃあ、広海屋の悪だくみで、火の中に投げ込まれたか、それとも、ひょッとしたら、河岸から舟に載せられて、海へ突き流されたか――たった一ツ、生き残っているとすれば、倉庫に閉じこめられているものか? この方も、そのうちにゃあ、調べ上げてしまうがね――」
「どうぞ、お願いいたします」
と、雪之丞は
「それにしても、おっしゃるとおり、だんだん枝葉が枯れてゆきませば、
「おお、これで残っているのは、武家で土部をのぞけば、横山ばかり」
と、闇太郎が、口をはさむ。
この二人、その横山五助、時も今夜、あの恋に狂った浪路のために、一息に殺されてしまったとは知る由もない。
「それもおッつけ――」
と、雪之丞、
「だが、やっぱし、油断がならぬのは、あのお初の奴と、門倉平馬だ――お初は、おめえが、今でも諦め切れねえから、感づいている大望についちゃあ、平馬にも洩らしてはいめえが、でも、あいつ、おめえを殺すか恋を叶えるか、二つに一つと、思いつめているんだから、油断はならねえ」
雪之丞は、白い顔を伏せる。
彼は、因果を感ぜざるを得ぬ――
と、
――ドン、ドン、ドン、ドン!
と、旅宿の雨戸が鳴る。
ハッと、身を起し、耳をすました闇太郎、みじん、油断のならぬ身の上だ。
――ドン、ドン、ドン、ドン!
「何だ? 今時分?」
大賊は、
立ち上って、階下をのぞき下ろすように、耳をかたむけた闇太郎――
「何だって! 妙なことを言っているようだぞ」
と、つぶやいた。
つぶやいたも道理――まだ、起き出さぬ家人を、目ざまそうと、
――ドン、ドン、ドン、ドン――
無遠慮に雨戸を打ち叩きながら、太いこえが、呼ばわっているのだ。
「このおうちに、大坂役者が、泊ってはいないかな! 大坂役者、雪之丞――」
闇太郎は、振り返って、
「何かと思ったら、おめえをたずねて来たものがあるらしいぞ――おめえの名を言っているが――」
「いまごろ、何人が?」
「そら、言っているだろう――聴くがいい」
外のこえは、つづいている――
「大坂役者の雪之丞どの、用のあるものが来たのだ――」
「おッ! なるほど、たしかに、わたしに――」
と、雪之丞の、美しい眉がひそむ。
「待っていなせえ。おれが、のぞいて来てやろう」
深夜の、雨戸の音――もしや、自分をいつ何どき襲って来るかもわからぬ、怖ろしい敵の手が、迫ったのではないかと、渡世柄、ハッと、心を引きしめたらしい闇太郎、そうでないとわかると、すぐに階下へ出て、やがて、はしごを表口の方へ下りて行った容子だ。
寝入りばなの家人は、まだ、起き出さぬらしい。
雪之丞も、おのずと、聴き耳が立つ。
階下のこえ、闇太郎が出て行ったので、低くなったので、ハッキリとしなくなったが、気になるので、雪之丞、はしごの下り口まで出て行った。
すると、屋外の、太いこえが――
「――でね、どうあっても、その、雪之丞という人に、今夜中にあわなけりゃあ、生きるの、死ぬのと、いうわけなので、おいらあ、ただ親切で、ここまでつれて来たのだが――」
「で、その女子という人のお名前は、おところは?」
と、闇太郎、すっかり職人になって、丁寧な口をきいている。
「そいつがわからねえんでね――実あ、おれの方も、途方に暮れていますのさ」
と、
闇太郎が、
「困りますねえ――そんな方を、よるよ中引ッぱッておいでなすっちゃあ――こちらは、役者渡世、そんなお人にかかわり合っていては、夜の目もろくろく合えませんよ。へい」
「何だって! じゃあ、おいらが、そのかわいそうな女子を、連れて来たのが、迷惑だっていうのかね!」
「まあ、そんなものでございます」
闇太郎が、こんなに言うのも、冗談沙汰ではないので――雪之丞にも、お初という、今は大敵のようなものがいる。その方から、どんないたずらを、仕掛けて来ないともわからないのだ。
屋外の声は怒った。
「何だと! 迷惑だと! 人でなし! てめえが、かわいそうな女のすがたを一目見たら――おい、てめえ、当人か、番頭か!」
と、わめくと、闇太郎、そのとき、
「おや、おめえの声にゃあ、聴きおぼえがあるようだが――」
――たしかに聴き覚えのある声だ――
と、闇太郎が、思わず、そうつぶやいたとき、戸外の相手も、ギクリとしたもののように叫んだ。
「ああ、そういやあ、おまえさんの声にも、覚えがあるが――」
「誰だ? 名乗れ」
「おッ!」
と、外の男は、わめいた。
「こいつあいけねえ! おまはんは!」
逃げ足が立った容子!
闇太郎もハッキリと、今こそ思い出して、ガラリと、遠慮なく、雨戸をあけると飛び出して、
「おめえは、法印! 何で逃げる――」
島抜け法印、まるで思いも懸けぬところで闇太郎に再会したので、尻尾をつかまえられている相手――怖い相手――お初を捕え得ぬうちは、顔の合わせられぬ相手――逃げようとして、足が動かず、立ちすくみになってしまったところを、闇太郎の、すばやい手が、グッと、腕をつかんだ。
「何で逃げる――法印!」
「親、親分、許しておくんなせえ!」
と、法印、白い息を吹き散らして、しどろもどろだ。
「貴さまあ、何だな、法印、あの
と、闇太郎の声は刺すようだ。
「あの
「冗、冗談じゃあねえ――親分――おらあ、あれから、あの
と、島抜け法印、泣かんばかりのオロオロ声だ。
「いいや、そんな泣きごとで、
「い、ち、ち――」
と、法印の
「そんなに、腕をつかまねえでも、逃げやあしねえ、ゆるめてくれ――」
「弱虫め! ちっとも力なんぞ入れてやしねえ――その弱虫が、何でまた、あんな女ッ子とグルになって、おいらほどのものに煮湯を呑ませようとしやがったのだ! して、連れて来た、お初は、どこにいるんだ?」
「お初じゃあねえよ――親分――お初なんかじゃあねえのだ――ふとしたことから、雲助に、ひでえ目に逢っている娘を助けて見ると、そいつが、この辺の宿屋に泊っている、上方下りの雪之丞という、役者に惚れて、何でも、気が狂っているらしいのよ。あんまり可哀そうだし、けえる家もねえようなので、よんどころなく軒別に、宿屋を叩いて、その雪之丞を探しているんだ。お初なんかじゃあありゃあしねえよ」
法印は、一生懸命にしゃべり立てた。
思わぬところで、顔と顔とを見合せた、闇太郎と島抜け法印、宿屋の軒下の暗がりに、声はいくらか潜めながらも性急な、隙のない会話のやりとりだ。
「ふうむ、役者をたずねて、雲助にかどわかされた、あわれな娘をたすけたというのは、なかなか後生気が出たものだが、一てえ、その娘の身許は、何ものなのだ?」
「そいつが、何しろすっかり気が
と、法印は、しょげて、
「何でも、舞台を見て気がふれた、芝居気ちげえに相違ねえ――人にさんざ苦労をかけながら、早う雪どのの、ありかを探してたも――早う逢わせや――と、来るんだよ」
「へええ――」
と、闇太郎は、笑いそうになったが、急に何を思い当ったのか、
「して、その娘は、どこにいるんだ」
「あすこの横町にかごを置いて、おれが方々、宿屋を叩いているわけさ」
「どれ、一目、その娘をのぞいてやろう」
「親分がか?」
「うむ、まん
闇太郎は、三斎隠居のまなむすめ、大奥で飛ぶ鳥を落すといわれた浪路が、すがたをかくしてしまったことを知っている――その失踪の原因についても、雪之丞から打ち明けられている。
彼としては、恋に狂い、恋に生き、恋に死のうとして、一身を
同時に、どこまでも雪之丞が、彼女の愛を、払いのけて行かねばならぬ、胸の中をも察して、思いやりの腕組を、何度したかわからぬのだった。
――若し、法印が、救った、高慢な口を利くむすめが、浪路とやらであったなら!
その時には、どうしたものか、まだ、
「親分が、肩いれをしてくれるとなりゃあ、おいらあ、安心だ――大船へ乗った気になれる――さあ来て下せえ――あすこの軒下にいるのだから――」
法印は、闇太郎の、手を取らんばかりにして、物蔭につれてゆく。
かごが一挺――
法印が、近づいて、バラリと垂れを投げるように上げると、その中に、ぐったりとうつむいていた砕けかけた花のような、白い顔が、ハッとしたように、急に上って、
「お! 雪どののありか、わかったかや!」
「これだ、親分」
「うむ」
闇太郎は、のぞいて見て、つと離れると、
「法印、この娘にゃあ、おれがちょいとゆかりがあるんだ――あとで判る――一時、このおれに、あずけてくれ」
「えッ! 親分に、ゆかりのある
と、法印は、
「うむ、まかせてくれ――なるほど、あわれな身の上の女なんだ」
闇太郎はもう一度、かごの中をのぞき込んだ。
「お娘御、お前さんのたずねる人は、あっしが、よく知っていますがね、今のところ、ちょいと、逢ってはならねえことになっています――そりゃあ、芝居をのぞけば、何でもねえのだが、お前さんも、人に顔を見られちゃあいけねえからだだろう――
浪路は、かごの中から、強い目つきで、闇太郎をみつめたが、大分、気が落ちついて来ているようだった。
「そなたのいやる言葉は、うそのないひびきがあるように思われます――屹度、うけ合ってたもるのう――でも、あまり長う待ってはいられぬような――何となく、もういのちの火がつきかけて来てしまっているように思われてならぬゆえ――」
と、それこそ、消えがての、ともしびよりも
闇太郎は、わざと、笑って見せて、
「冗談いっちゃあいけませんよ。その若さで、いのちの火が消えるのなんのと――そんな、馬鹿なことを――」
と、いって、
「じゃあ、法印、このお人を、一あし先きに、おれのうちへ連れて行っておいちゃあくれめえか――おれの細工場へよ――」
「あい、じゃあ、田圃へ、連れて行くが、おまはん、すぐに、あとから来るかね?」
と、法印は、かよわい女一人をあずかっているのが、
「行くとも、すぐ、用をすまして行く。お娘御、狭くッて、きたねえが、あッしのうちで、ゆっくり手足をのべて、おいでなせえ」
かごの垂れを下げて、
「法印、そんなら、人目に立たねえように、たのんだぜ」
「あいよ」
淋しい、
――おれにゃあ、どうも、あの娘ッ子は、憎めねえ気がしてならねえ、妙なめぐり合わせで、わが産みの親を、かたきと思うものとも知らず、いのちがけで惚れてしまった、あの子に、何のとががあろう――あわれな女だ。どうにかして、たった一夜でも、みょうとにしてやりてえが、それもならぬか――浮き世だなあ――
闇太郎に言わせれば、彼自身もほんの行きずりの
宿屋に戻って行くと、二階の雨戸が、細目に開けられていたのがピタリとしまった。
――太夫も、気がついていたらしいな。
二階へ上って、雪之丞の、白い顔と合うと、
「何ともどうも、あわれな人と逢って来たぜ」
「御面倒ばかりかけまして――」
と、雪之丞も暗くいった。
「いいや、そんなこたあどうでも――だが、どうも、こう見えておれという奴は、気が弱くっていけねえのよ。は、は、は」
笑いにまぎらして、闇太郎が、
「鬼の目に、涙ッて奴なんだろうな」
二人は顔を見合せるのを怖れるように見えた。
「まあ、仕方がねえや――不運だなあ、あの女一人に限ったことじゃあねえんだ――だがなあ、雪さん」
と、闇太郎は、思い込んだような調子で、
「お前のからだがあいたあとで、たった一度でも、ゆっくり逢ってやってはくれるだろうなあ――それだけは、約束して置いてもれえてえのだが――」
「おたがいに、いのちがありましたなら――」
と、雪之丞は、かすかに言った。
彼の魂としても、感じ易く、わななき易い――そして、これまで、押え押えて来て、一ぺんも、激しく
――あのお人は、境涯のためにどんなに汚されているにしても、わるい方ではなかった。わたしを思ってくれるこころに、まじり気はなかった。
雪之丞の、胸も淋しい。
闇太郎は、急に、語調を、ガラリと変えた。
「は、は、は、とんだ幕が、一幕はさまってしまった。それじゃあ、又、あいましょうぜ。もう、風は、
「ありがとう。今度こそ、立派に大詰めまで叩き込んでつとめて御覧に入れましょう」
と、雪之丞も、
すんなりと、送って出た雪之丞を、あとにのこして、闇太郎、さも
部屋に戻ると、一間はなれた部屋の、菊之丞の、皺枯れた咽喉が軽く
「おや、お師匠さま、お目がさめてでござりますか?」
「おお、たった今、醒めたところ――」
と、しずかに答えて、
「何やら、人が見えたようであったな――あの
ハッと、
「はい――」
「まず、これへ、はいるがいい」
かすかに

「たずねて来たのは、
絶えず、
「は――はい」
と、雪之丞はうなだれて、
「不仕合せなお人が、たずねてまいったように見えましたが――」
「わしはな、何も、そなたの胸に、やさしい波がうごいたとて、それを、責めるのではありませぬぞ――が、女子のことが出れば、わしは、そなたの母御の、かなしい
菊之丞の声は、
思いがけぬとき、菊之丞が語り出した、なつかしい母親の、長崎表での、悲惨な最期の物語――
その限りもなく、暗く、いたましい追憶を、今更、思いださせようと強いるのは、浪路の身の上があまりに哀れに、かなしく、それゆえ、彼女に対するおもいやりから、ほんの少しでも、雪之丞の
しかし、母親の死に方は、あまりに怖ろしかった。
「のう、わしが、事あたらしゅう、いうまでもないことじゃが――」
と、老いたる師匠は、
「悪党ばらの、甘言奸謀の
「は――い――」
と、雪之丞は、とろけた鉛が、五臓六腑を、焼きただらせるばかりの苦しみを、じっと押し怺えながら、
「おぼえておりまする――母親の、あのむごたらしい死にざまを、子供ごころに、ただ怖ろしゅうながめました晩のことは、ありありと胸にうかびまする」
「そうであろ、いかに
と、菊之丞は、きびしく言ったが、ふと太い息をして、
「とは申すものの、あの浪路どのに、何の罪もないのは、わしとても、よう知っている。あわれは、あわれじゃ――が、これが、
そう言った菊之丞、自分も、限りない淋しさ、はかなさに打たれたものか、
「いや、はなしが、沈んで来た。そなたも眠うないならば、その棚に、
雪之丞、涙をおさえて、茶棚からとり下ろす、
――いよいよ大事の迫った今日お師匠さまと、こうしてお杯をいただくも、これが限りになろうとも知れぬ。
甘い、とろりとした杯をしずかに傾けながら、言葉少なく語り明していると、ふと、
深更、
臆病窓があく音がして、何か小さい、囁きがしたが、やがて階段を上って来る足音――
「おお、どうやら、そなたのところへ、また人らしいが――」
と、雪之丞を見て、いった、菊之丞のこえを耳にしたか、若い衆が、
「若親方、起きておいでですか?」
「はい。起きておりますが――」
と、雪之丞が答えると、障子の外で、
「浅草田圃から、急の用で来たという方が、お見えで――」
もう、来訪者は、何人か、二人にはわかった。
「ここでも、いいだろう」
と、菊之丞が言った。
「では、どうぞ、これへ――」
雪之丞の言葉に立ち去る若い衆――すぐに、入口の戸が開いて、上って来たのが、廊下で、
「若親方、わしだが――」
闇太郎の声だ。
雪之丞が、障子をあけて迎え入れる。
闇太郎と菊之丞――名乗り合ったことはないが、以心伝心、雪之丞を
「親方、御免なせえ」
と
「雪さん、あの人は、いのちが
と、ひと言。
「えッ! いのちが!」
と、さすがに、美しい
「うむ、いままで、張り詰めていた気持の糸が、もうやり切れなくなって、切れかけちまったようにおれにゃあ見えるのだが――」
闇太郎は、低い、すごい調子で、
「なにしろ、人一人、あの人は、今夜殺して来ているのだ」
菊之丞も、息を詰めた。
雪之丞は、
「ま! 人を――」
と、叫びかけて、声を呑む。
「うむ、あれから、田圃のうちへ連れて行って、無理に、横にならせると、すぐに、大熱で、うわ言だ――そのうわ言が、
と、闇太郎は、いつもの快活さをすっかり失くして、
「途切れ途切れに言うのを聴くと、あの人は、隠れ家を、横山五助に見つかって、つけ廻され、うるさくいい寄られるので、カッとなり、突き殺して来たらしいのだ。そういわれて、気がつくと、右の袖裏、
雪之丞の頬は、紙よりも青ざめた。彼には
何という、怖ろしい
長崎屋に刺された浜川。
浪路に突き殺された横山。
――そなたの
と、老師匠の、じっとみつめる目が、言っているように思われた。
人間、怨執のきわまるところ、わが手を下さずして、おのずと、仇敵を亡ぼすことすら出来るという、この怖ろしい
雪之丞は、さも、こころよげな、亡き父、亡き母の、乾いた笑いが、
「あッしも、全くびっくりしやしたよ」
と、闇太郎は、菊之丞を眺めて、
「まあ、あのやさしい細い手で、横山五助のような荒武者を、一突きで、突き殺せるたあ、だれにだって、思いもよらねえこッてすからな」
「うむ、なにごとも、み
と、菊之丞が、うなだれていう。
と、闇太郎が、語調をかえて、
「で、そんなわけだから、どうも、あの娘のいのちが、おいらにゃあ、気になってならねえのさ。人間、とても及びもつかねえことを仕遂げると、そのあとじゃあ、命脈がつづかねえこともある――な、だからよ、雪さん、ちょいとでいい、あの人の枕元にすわって、さぞ辛かったろうなあ――と、たったひと言、言ってやった方が、いいだろうと思うんだが――」
雪之丞も、かあいそうだ、あわれだ、このままに捨て殺しには出来ない気がする――けれども、彼は、師匠から、つい、今し方、言われたばかりだ。心弱くては、この復讐の大事を成し遂げられぬであろうことを――そして、まだ、まだ、大敵は、残っているのだ――土部三斎は、立派に栄えをつづけているのだ。
返事をしかねていると、師匠が、
「そういうわけなら、雪之丞、行って見て来てやるがいいと思うが――」
「は、では、まいッても――」
「うむ、浪路どのとやらは、あまりに可哀そうだ――わしもな、長い浮世を見て来たが、こんなに涙が出たことはこれまで覚えがない――」
「お師匠さんのお許しが出たら、雪さん、すぐに行ってやってくんなよ――そりゃあ、よろこぶぜ。あの人にゃあ、この世で、おめえだけしか用がねえんだ――おめえが顔せえ見せてやりゃあ、よろこんで、地獄へでも、血の池へでも、下りて行くだろうよ」
闇太郎は、もう、膝を立てて、
「支度も何もいらねえ、そのままで――かごは、拾って来た」
「では、お師匠さま、行ってまいりまする」
と、雪之丞は、手をつかえて、
門口から、すぐに、かごに乗る、雪之丞、かごに引き添って、
「おい、若い衆たち、いそぐんだぜ。生き死にの病人が待っているんだ!」
「合点だ!」
またたく間に、山ノ宿から
かごが着くと、肩をすくめるように、出迎えた法印――
闇太郎、いつになく囁くように、
「どうだ、病人は?」
しお垂れ切った顔をして、出迎えた法印を眺めて、闇太郎が、
「ど、どうした? 病人は?」
「それが、だんだん、もう、高い声も出さなくなってしまったんだ――おらあ、いつ息でも引き取るかと、一人で、心ぺえで、おっかなくってならなかったよ」
「おっかねえッて! 何をいってやがるんだ――さあ、雪さん、お上り」
男手で、それでも、温かい
「なあ、かわいそうじゃねえか――
闇太郎は歎息した。
雪之丞は、そう言われると、まるで、手を下さずに、このひとを殺して行くような気がして、何とも言えぬ
「でも、この人は、言っているんだぜ。おめえに逢って、ほんとうの色恋ッてものを知ったのだからかなしいけれど、満足だって――もう、命脈が、たえかけていることもちゃあんと知っていなさるんだ――さあ、雪さん、何とか、言ってやんねえな――医者を呼ぶより、薬より、それが一ばんだ――生きけえるものなら、おめえの一声で生きけえる――なあ、何とか言ってやれよ!」
闇太郎しきりに気をもんでいる。
雪之丞は、
「浪路さま! 浪路さま! わたくしでござりますぞ! 浪路さま!」
それこそ、このまま、灰白く、凍って行ってしまいそうにも見えた、まぶたが、かすかに動いた。ある
雪之丞は、顔を近々と、迫ったこえで、
「浪路さま! 浪さま! 雪之丞で、ござりますぞ! おわかりになって下さりませ!」
「いいえ」
と、いうように、彼女は、死色を呈しながら、かぶりをふるようにした――出来るなら、近づけられた顔を、遠のけたがっているようである。
「どうなされたのでござります! しっかりなされませ」
かぼそい、聴えるか聴えない程のこえで、生気を失いつくした美女はいった。
「わたくしは、人殺し――どうぞ側におよりにならずに――」
闇太郎も、法印も、むこうを向くようにして、
「わたくしに、寄らずに――ね――」
雪之丞は、浪路の、細い細い手くびをにぎった――
「いいえ、このお手で、人を殺しなされたとて、わたくしが何でいといましょう――それもこれも、わたくしが、おさせ申したことですもの――」
「じゃ――人殺しでも、いいと、お言やるのか?」
やっとの努力で、彼女はいっていくらか微笑のようなものを、土気いろの唇にうかべるのであった。
「あなたが、どんなことをなされましても、何で、わたくしが、さげすんだり、
握らせた手を、じっと握り締める力もなく、ただ、精一ぱい、思い一ぱい、瞳をさだめて、みつめていたいという、努力だけが、関の山のように思われる、浪路を、雪之丞は、わッと泣いてやりたい気持を、無理に押し怺えて、やさしく見返してやるのだった。
「ねえ、浪路さま、しっかりあそばして、
彼は、こうした言葉が、とてもこの世ではかなわぬ夢を語っているのだとしか思われない。そしていつわりを口にせねばならぬ自分を、責めずにはいられぬ。けれども、彼自身の魂の奥底を、そのとき流れている真情に嘘はないのだった。
――そうだ! 来世で、わしたちは仏合せになれるかも知れぬ――未来というものがあるならば、そして、父さまも、母さまも、先きの世では、このひとと、したしくすることを、許してくださりもしよう。
「雪――雪どの――」
浪路の口元が、そう動いて、
「わたしは、早う、失せとうてならぬ――死んでしまえば、魂とやらのみのこるという――そうしたら、いつもいつもそなたと一緒にいられるほどに――」
そう言ってしまうと、もう、
「あッ! いけねえ」
と、法印が、あわてたようにいった。
「医者を! どこからか! 医者を見つけて来なければ――」
立ちさわごうとするのを、闇太郎が、低く、沈痛に制した。
「
「だって――」
「止せってことよ! このひとのいのちは、太夫に呼びもどすことが出来なけりゃあ、誰にだって、呼び返すことは出来ねえのだ――」
彼は、涙が頬を洗うにまかせていた。
「それに、なあ、この世ってもなあ、だれに取っても、そんなに無理に、生きのびることもねえものじゃあねえか――生き伸びたって、苦しいばかりよ――な、法印、そうじゃあねえか――」
「うむ、そう言やあ、そうだな?」
と、島抜けが、うめくように呟いて、うなずいた。
「かあいそうなお人なんだ――だから、たった今だけでも、しずかに、やすやすと眠らせて上げてえと、おらあ、思うのだよ」
そうだ――闇太郎こそ、この権門に生れて、父兄の欲望の餌となり、うわべだけの
彼は、安息しようとするものの眠りを、妨げるのを恐れるように、うつむいて、じっと膝の上をみつめてしまった。
雪之丞は、衰えゆく女の手を握り締めてやっていた――細ッそりした、やさしい手先が、だんだんに、冷えてゆくようであった。
どこかで、もう、三番
かぼそいからだと、細い神経で、あらゆる苦難を急激に経験し、人、一人をすら手に
島抜けの法印は、くわしく、浪路の身の上を知らないに相違なかったが、いわば、因縁のあさからぬものがあるにはあったのだろう――なぜなら、この荒法師の、心やりがあったればこそ、たとい、
だからこそ、彼の、どんぐり目からも、滝のように、荒々しい涙がたぎり落ちた。
闇太郎は、唇を噛みしめていた。うつむけた顔は、一めんに、
雪之丞が、叫んだ。
「浪路さま!」
そして、声を落して、
「浪さま――これ、今一度、お返事を――」
だが、返事はなかった。しずかに、燃えつきた、美しい、細い灯光のようにも、彼女のいのちの火は、燃えつきてしまったのだ。
闇太郎が涙を、
「いけねえか? 駄目か?」
雪之丞は、顔をそむけるようにして、うなずいた。
法印が、立って行って、茶碗に水を汲んで来た。
「さあ、口をしめしてやんねえ」
雪之丞は、ふところ紙のはしを、水でひたして、浪路の、土気いろの唇をぬらした。
闇太郎と、法印も、同じようにした。
「不思議な縁だったなあ――おれたちもよ」
と、闇太郎が、つぶやいた。
「おらあ、可哀そうでならねえ――」
と、法印が、声を呑んで、
「死ぬめえによ、たったさっきよ、あんな雲助なんぞに、いじめられて――こんな、綺麗なひとが生きるにゃあ、この世の中は、あんまり荒っぽいんだなあ――」
そうかも知れぬ。この世の中が、ある人々に取って、あまりに、生き難く出来ていることは、いなみがたいのかも知れぬ。
たしなみのある、言わば、風雅な職人でもある闇太郎は、香炉に、良い匂いのする
さみしい香りが、かすかにかすかに、部屋に立ちこめて来た。
人々は、黙り込んだ。
が、間もなく、闇太郎が、
「ところでと、このほとけの始末だが――」
ためいきをして、
「枕許で、すぐに言うことではないか知れぬが、このまま、土に入れてしまうわけにも、いかねえような気がするが――」
雪之丞は、闇太郎をちらりと見たが、答えなかった。
「このほとけだって、もとのままのからだなら、公方さまに、手を取られて死んだ人だ――それに、いかに何でも、三斎が鬼でも、蛇でも、親子だからな――どうしたもんだろう? なあ、太夫――」
若くして、悲しく
けれども、残された人々にして見れば、それは出来なかった。第一、闇太郎には、この小家に、いかなる人物が住みついているかということを、世間の人に知られてはならなかった。
一日、引っ込んで、仕事場にばかりいる、変人の象牙彫りと、どこまでも、思い込ませて置きたいのだし、島抜けの法印は、当分の間、人前に、顔を
雪之丞が、浪路の最期の床に侍していてやった、なぞということが知れたら、それこそ大問題なのだ。
「ほとけは、気に染まねえか知れぬが、こいつは、一ばん、この俺の手で、三斎のところへ、連れて行ってやる外はあるまい」
闇太郎は、しばしして、モゾリと言った。
雪之丞は、答えなかったが、それよりほか、仕方なさそうに思われる。
闇太郎は、ふと、
「太夫、なるたけ長く、枕元にいてやった方が、いいにはいいだろうが、やがて、夜が明けると、人目に立つぜ」
雪之丞は、ハッとしたようだった。
あまりに、浪路の散り際のはかなさに、物ごころがついてから、強く激しく抱き締めて来た、たもちつづけて来た、復讐の執着さえこの刹那、
闇太郎、それを見て、ぐさりと
「はい」
と、彼は、涙を払って、かたちをあらためて、闇太郎を見返した。
「では、もはや、おいとまいたしましょう」
と、言って、なき骸に、一礼すると、法印に、
「あなたさまには、何から何まで、お世話をかけまして――」
「ううん、何でもねえ――やっぱし、おいらも坊主のうちだったのかも知れねえよ。この
法印は、わざと笑った。
「なあ、雪さん、このほとけは、たしかにおいらが、あずかった。そしてな、大方、ほとけも、悪く思わねえように、何とかはからってやる。安心しな」
と、闇太郎。
「どうぞ、何分にも――」
雪之丞は、闇太郎のはからいで少しはなれたところに待っていたかごに、身をゆだねた。
――あわれなあわれな、人ではあった。
と、彼は
――不運な、不運な人ではあった。なぜ、敵同士のわしのことが、そんなに恋しかったのか?
が、それゆえこそ、浪路が、大奥まで捨て、父三斎に限りない苦痛をあたえたのだと思うと、今更
翌日、浪路の、北枕の
丁度、人、一人、屈んではいれようかという、ずッしりした品物――
法印が、目を丸くして、
「すばらしい物だなあ――一てえ、何にするんで? 兄貴」
「まあ、黙っていろッてえことよ――とにかく、この櫃を浪路さんの部屋へはこんでくれ」
そして、死床の側に据えると、
「さあ、この中へ、ほとけを入れるんだ、手を貸せ」
「あ、そうか、
法印、命じられるままに、やっと、死後硬直が、解けかかったばかりの、浪路のからだを、重たそうに抱き上げて、そッと、櫃の中に坐らせる。
「おッ! 丁度いい、すっぽりと、あつれえ向きだ――」
と、闇太郎が、言って、
「浪路さん窮屈だろうが、ちょいとの間、辛抱してくんなせえよ。じき、楽になれるのだから――」
蓋をして、錠を下してしまうと、別に、鼠いろの頭巾に同じ布子、仕立て下ろしたのを取り出して、
「法印、このサッパリしたのに着けえて、櫃をしょッて、おれと一緒に来てくんな」
「一たい、この
「いわずと知れた、親のうちへよ――公方さまのお
「よし来た――少し、重いが、背負って行こう――」
「まだ、すこし早いや――日が暮れてからの仕事にしねえと、おいらは大丈夫だが、おめえはブマだ――島抜けが通っているなんて、
「大きにな」
悲しい、
「いいころだ――出かけよう」
隠宅ながら、見識ばった門番が
「いかなるものかは知れぬが、御隠居さまは、このごろ、ずうっと、御病気、お引きこもり――かまえて、来客をお受けなさらぬ。早う、かえりましょう」
「ところが、あッしの顔を、一目ごらんになりゃあ、御病人も屹度、よくなるんで――それにこの男にかつがせてまいった品を、どうしても、じきじきお渡ししなけりゃあなりませんし、そこを、どうか――」
「いかに申しても、お取り次ぎ、出来ぬと申すに! 帰れ!」
「へえ、不思議なことをおっしゃるものだね?」
と、闇太郎、玄関ざむらいに、
「折角、御隠居さまの御病気に、かならずきき目のあるものを、持って来たというあッしを、かたくなに木戸をつくたあ、こいつあ変妙だ。いやしくも、
「何と申そうと、姓名、町ところも名乗らぬ奴、お取りつぎは出来ぬぞ! 帰れ! 帰らぬか!」
玄関の若ざむらいは、いつぞや門倉平馬とともども、たずねて来た人間と、知る由もないので、ますます怪しんで引ッぱなす。
「おさむらいさん、お前さんも、融通の利かねえお人だね――こうして、表から、是非とも、お目にかかりたいと、へえッて来るからには、まとまった用事があるものにきまっている。見ねえ、この男がしょッているこの大きな箱――御注文の品なのだよ、御隠居さん御注文の――おい、法印」
と、島抜けを、闇太郎は見返って、
「その、この家に取っちゃあ、大事な品を、玄関へ置いて、てめえは帰ってしまえ!」
「よし来た」
法印は、一刻も早く、こんな場所は立ち去ってしまいたいのだ。大ごとになって、身許がばれては彼として、それッ切りだ。
荷を下ろそうとすると、
「こりゃこりゃ、左様な品、お玄関へ!」
と、さむらいが、さえぎったが、闇太郎、突きのけて、
「これ! この品へ、指でも差すと、この屋敷の家来として、腹を切らねばならぬぞ!」
「何を、申すにことをかいて――これ、持ち帰れ!」
さわぎは激しいので、詰所から二、三人、どやどやと、家来どもが出て来る。その中で、年輩のが、
「青井うじ――何じゃ、かしましい――御隠居さま、お引きこもり中に――」
「こやつが、こんな荷をかつぎ込みまして、どうしても、御隠居に
じっと、見て
「ふうむ、こりゃ、この荷は、何であるな?」
闇太郎、急に、小腰をかがめて、
「へ、へ、へ」
と、笑って、
「あなたは、話がおわかりになるようでごぜえますね――ちょいとお耳を拝借――」
「ふうむ」
老臣が、闇太郎の目つき、顔つきに、何ものかを認めたか、式台に下りて来る。
「お耳を」
そして、低く、
「御当家で、鐘、太鼓で、お探しになっているかけげえのねえものが、ござんしょう?」
「うむ」
キラリと、老臣の目が光る。
「それについて、是非とも、御隠居さまに――御隠居さまに、闇が来たと、おっしゃって下せえ」
「ナニ、闇――」
「申し上げればわかりますよ」
「ふん、やっぱし、年は取らせてえな――ね、お若い方々、ごらんなせえ、あのお人はじきにむくれ出しはしねえよ、ちゃあんと用を足して下さるよ――」
そういって、式台にしゃがんだが、そのときには、もう、島抜け法印のすがたは、無かった。
「ほ! 法印の奴、すばしっこいな」
闇太郎、殆ど、押ッ取り刀で、取りかこんで、
「済まねえな。火を貸して下せえな」
「何をこやつ!」
先程から、威光を損なわれたように、じりじりしていた家来が、いきり立ったとき、脇玄関の方から、廻って来た、一人の人影。
闇太郎と、目を合せると、
「やッ! 貴さまは!」
と、鋭く叫ぶ。
「これは、門倉さんでしたね? 平馬さんでしたね――ひさしぶりだね」
闇太郎は、立ちはだかった。黒小袖に、同じ紋付、いかめしげな男を見上げて微笑した。
この人物、まぎれもなく、門倉平馬――闇太郎とは小梅廃寺での出会い以来、敵味方に対立してしまっていた。
「こりゃ、おのれ、こないだは、ようも煮え湯を呑ませたな!」
と、ぐっと目を剥いた平馬、
「おのおの方、こやつ何か、ゆすりがましいことでもいうてまいったのでござろう。お手を下すには及ばぬ――拙者が――」
立ちかかって、
「これ、平馬さん、この俺に、指でもふれると、御隠居から
「何だ! この
平馬が、大きな風呂敷包に、手をかけかけたとき、さっき、奥にはいった老臣が戻って来て、
「これ、門倉、何をなさる!」
思いがけない一声に、
「はッ!」
と、平馬が、すくんで、
「夜陰
「心添いはうれしいが、貴公、お出になるところでもない」
老臣は、ぴしりといって、ふくれる平馬には見向きもせず、
「その方、伺ったことを、御隠居さまに申上げたところ、とにかく逢うてとらせようとの
「へえ、庭先きへね――へ、へ、へ」
と、闇太郎は笑って、
「この前とは、大分、もてなしぶりが違うが、その
と、家来どもを眺めて、
「この函は、この屋敷に取って大切のお品だ。粗末のねえよう、あとから持って来てくれ」
渋ったが、老臣が、
「いうままに、致しつかわすがよい。さあ、こちらへ来い」
と、闇太郎を
庭上に突ッ立った闇太郎、奥を見込んで例の調子で、ベラベラとやっている。
「いい気なものだぜ、御隠居も――あんなに猫撫ごえで、いつぞやは大事にしてくれたのに、今夜は打首にでもする積りか、庭先へまわれは、おどろいたな――おッとッと、そんなにその函を手荒くあつかっちゃあならねえぜ。御隠居が、中を御覧になったら、その荷物は、たちまち奥広間に、大切に持ち込まれるにきまっているんだから――」
やがて、小姓達の少年が二人、厚い錦の
「闇、久しぶりであったな!」
「へえ、お久しぶりでごぜえます。お変りもなくってと申し上げてえが、何だか、どこかおからだがいけねえそうで――実は、ちょいとそのことを
「ふん、それについて、何か見舞の品を持って来てくれたそうだが、大分大ぶりな荷物だの?」
と、浪路が失踪してから、絶えざる不安
「へえ、ちと、かさばっておりますが、まあ、御覧下すったら、ずい分およろこびだろうと思いますんで――」
と、闇太郎が言う。
三斎が、側の若ざむらいたちに、
「これ、荷物を開けろ」
と、言いつけると、闇太郎が、
「いけねえよ、それに手をかけちゃあ、大事な品ものだ。あッしが自分で
「ナニ、人払い?」
と、三斎は、いぶかしげな目つきをした。
「なにか秘密の品か?」
「まあ、そんなもので――」
三斎の顎がうごくと、若ざむらいや小姓たちは、退いた。
「さあ、人目もない」
「御隠居」
と、闇太郎は、じろりと三斎老人を見上げて、いくらか、こえの調子が変って、
「人間、いつ、どんなものが手にはいらねえともかぎらねえんで――中身を御覧になって、びっくりなさらぬようおねげえいたしますぜ」
三斎の目口は、好奇の昂奮にわななき、物ほしげな微笑がただよった。
「闇、わしもこれで、六十年、天下の珍物を採集するに骨を折ってまいった。わしの
闇太郎はうなずいて、
「それはそうでしょうとも――御隠居さんの御宝蔵は、まだ拝見はしておりませんが、
そう言いながら、縁側に置かれた、大きな風呂しき包の方へ近づいて、結び目をおもむろに解きはじめるのだった。
闇太郎、浪路のなき
「さあ、御隠居、立ち寄って、御覧が、願げえてえんで――」
「おお、大分、前口上のある品、定めて、目をおどろかす珍物であろうな?」
ツと、立って、太いのべ金の長ぎせるを手にしたまま、縁側、唐櫃の側に寄る。
「さあ、蓋を払いますが、どうぞ、お目をお止めになって――」
闇太郎、そう言って、ギギと、蝶つがいをきしらせて、蓋を開けると、一足、あとにさがって、例にない、つつしんだ調子で、
「
「ふうむ――」
と、三斎は、
中身は何か? それを
「は、は、
持っていた、延べのきせる――それをのべて、
「おッ! これは!」
グッと、闇太郎を
「闇、これは何じゃ! うなだれて、髪のみ見えて、
「御隠居さま」
と、闇太郎のこえは沈んだ。
「御隠居さま、まず、とっくりと、お目をお止めなすって――だれの
三斎隠居は、青ざめた。思い当ったことがあるかのように、身をこわばらせて、
「あッ! これは! これは、浪! 浪路ではないか――」
さすがに、声が、つッ走しって、その場にヘタヘタとすわってしまいそうな身を、やっと、ぐっと踏み止めて、
「これは、浪路だな!」
今は、汚れをいとうひまもなく、延べのきせるを投げ捨てて、
「まぎれもない、浪路! ま、何で、このような、浅間しいことに――」
と、うめいたが、闇太郎を、食い入るような目で、グッとねめつけて、
「申せ! いかなれば、この品を、手には入れたぞ! 申せ! 申しわけ暗いにおいては、きさま、その場は立たせぬ」
「御隠居さま、やっぱし世の中は、廻り合せというようなものがござんすねえ――このお方さまと、あっしとは、何のゆかりもねえお方――そのお方が、たった昨夜、息を引き取るつい前に、あっしと行き合ったのでござんすが、あなたさんの御縁の方とわかって見りゃあ、見すごしもならず、死に水は、このいやしい手で取ってさし上げましたよ――
三斎隠居は、この闇太郎の物語が、耳に入るか入らぬか、ただ、ジーッとわが子のなきがらを、みつめつづけるのみだった。
「ど、どういたして、又、このなきがらが、きさまに運ばれて、わが家にかえることになったか――闇、くわしゅう、申せ!」
三斎、パタリと、
「だから、何もかも、只、浅からぬ因縁だと言っているじゃあありませんか――何でも話を聴くと、どこかに隠れているうちに、横山五助とかいう、お屋敷出入りの悪ざむらいにつけまわされ、
闇太郎が、そこまで言うと、三斎が、
「えッ! 横山を、むすめが――」
「へえ、よっぽど、しつッこくしたらしいんでごぜえますよ。浪路さまも、
「む、む」
と、隠居はうめいて、
「して、むすめは、どこに隠れていたのじゃな? やはり、雪之丞にかくまわれて――」
「とんだお間違いでごぜえます。雪之丞は浪路さまから、何度呼び出しをうけても、義理をお屋敷へ立て抜いて、お言葉にしたがわなかった
「では、むすめは、いのちを
と、さすが、わが子のあわれさに、暗然として、三斎がつぶやいた。
「ですが、そこには、神もほとけも、ねえわけじゃあござんせん――浪路さまは、あっしの小家で、御臨終になるときに、雪之丞に、手を把られているような、夢を見ていたようでごぜえますよ」
闇太郎は、こう言いつくろって、
「何でも、未来はかならず一緒とか、言っておいでのようでした」
「で、その最期の際は、わしのことは、この父親のことは、何も申してはいなかったか?」
隠居は、だんだんに流れて来る涙を、どうすることも出来ずにたずねた。
「それを
と、闇太郎は、わざとらしくもなく、目を反らして、
「何でも、
「う、うむ」
と、隠居は腕を組む。
闇太郎は、膝を立てて、
「じゃあ、たしかに、この唐櫃は、おとどけ致しやしたから、あッしは戻していただきますが、まあ早く、縁側から、お仏間へおうつしになった方が――」
「おお、闇、貴さまには、はからず世話になったのう」
と、隠居は目を上げて、
「実は、この死骸が、他人の手に落ち、
辞し去ろうとする闇太郎を、三斎老人は強いて引き止めて、
「いかに何でも、この唐櫃を届けてくれた
と、手を
「客仁を、座敷に通し、酒飯の馳走をいたすように――まだ聴きたいこともある」
二人の小姓が、闇太郎を庭口から、離れめいた、小間の方へ、無理に導くのだ。
闇太郎は、振り切れずに、広からぬ
そこは、一切、茶がかった造りで、床の掛ものは、
娘のなきがらを一目見て、前後を失った三斎は、世にもあわれな一老父にすぎなかったが、この部屋の
――ふん、じじいめ! 若し、雪之丞の仕けえしということがなけりゃあ、この屋敷から、大よそ目ぼしいものは、このおれさまが、みんな抜き取らずには置かねえのだ。あの仕事の邪魔になってはと、遠慮しているが、
唇を食いそらすようにしていると、いかなる美女も
「どれ、じゃあ、折角の御馳走だ。一ぺえいただこうか?」
と、やけ気味で、闇太郎は杯を取り上げる。
そのころ、
浪路には、兄に当る、当主駿河守の許へも急使が飛ぶ。腹心の老女どもが、三斎から耳うちをされて、顔いろを失しながらも、
三斎老人は娘の枕元に坐って、暫く、何か考え込んでいたが、やがて、ふッと、思い出したように立ち上って、わが居間に戻ると小姓に、
「門倉が、まいッていたようだが――」
「はい。溜りの間に、おいでになりまする」
「呼べ」
「は」
間もなく、門倉平馬、これも、思いもよらない
「召されましたか?」
「うむ、近う」
老人は、唇を、への字に引きしめて、六かしげに言った。
「平馬、異なことになった」
うなずくように、頭を下げる。
「で、そのあと始末じゃが――」
と、三斎はいつならず、重たい口ぶりで、
「この事が、他に急に洩れては、当家として困るすじがある。じゃによって頼みたいことがある――まそッと近う」
「わかったな!
と、三斎隠居は、苦みを
「但し、仕損ずるにおいては、恥辱の上塗り――貴さま、二度と出入りを許されぬばかりか、きびしい目に逢うであろうぞ」
「ハッ、
「のみならず、このことを知るもの、かの者のみでは無いと思う。用意をおこたらず、十分に手当して、根だやしにいたせ」
「ハッ、よくわかりましてござりまする」
「行け!」
隠居はそう言って、かたわらの蒔絵の手箱から、取り出した、紫ふくさの包みを、投げるように渡した。
ズシリ――と、重たい黄金――
押しいただいた平馬、――闇太郎の
こちらは闇太郎――
小姓の酌で、遠慮もなく、
「御隠居さま、お目にかかるべきところ、何かと取り込み、今晩はこれにてお引取りを願うなれど、これは寸志、おおさめ下されるように――とのこと――」
と、前に、三方を置いて、
「おおさめなさい――」
と、
下には、杉なりに積んだ、二十五両包が五つ――
「ほう、これは、立派なお引き出ものでござりますが、今晩のところは、こいつをいただいては、心にすみませぬ」
と、闇太郎は、突っかえして、
「御隠居さんに、そう言って下さい。いずれ何かいただきたいものがあれば、改めて、いい時刻にひとりでうかがって、黙っていただいてけえるから――と、ね。は、は、は、そうおっしゃって下さりゃあ、わかるんです。どうも、おとり込みのところを、とんだお邪魔をいたしやした」
持っていた杯をガラリと捨てた闇太郎、あっけに取られている侍をあとにのこして、まるで自分のうちを歩くような勝手なかたちで、脇玄関に出ると、揃えてあった下駄を突ッかけて、そのまま、屋敷の外へ出てしまった。
――ふ、ふん、さすがの三斎もおどろいていやがった――いかに悪党でも、むすめの死げえをだしぬけに見りゃあ、びっくりするに無理はない。ところで、この
彼の足は、山ノ宿の、雪之丞旅宿の方を向いて進むのだ。
そのあとを
さすがに、闇太郎、心に思うことがあるので、うしろに、目が無かった。跟けられるとは知らずに例の
何も知らぬ闇太郎、山ノ宿、雪之丞旅宿の門をくぐると、見知り越しになっている店番の若い衆に――
「若親方はいねえかね? 雪之丞さんは――」
「おッ! 親方――」
若い衆はいつも切ればなれのいい、象牙彫りの親方と思うので、目顔で、歓迎の意を表して、何もかくさず、
「
「おお、そうかい――じゃあ、また来ますよ」
のれんを分けて出て、闇太郎、暗がりにたたずんだが――
――こないだ焼けた贔屓といやあ広海屋にきまっているが、さては、いよいよ、三斎屋敷に乗り込むまえに、あっちを荒ごなしにかけようとするのだな。
と、こころにつぶやいて、
――よし、のぞいて見よう。
海運橋の、広海屋までは、かなりあわいがあるから、辻かごを呼ぶ。
いつともなく、また跟けはじめていた二人ざむらい――これも
「こりゃ、あれへまいる乗りものを、見えがくれに追うのじゃ――とまればとまり、進めば、すすむ――よいか?」
「へえ、あのかごをね? 何でもござんせん。やりましょう」
「うまくやれ、酒手をつかわすぞ」
闇太郎は、広海屋の間近まで来ると、かごを捨てる。
二人も降りる。
闇太郎の方は、心耳すませば、軒下に立つ家の中のことは、心の瞳に、ありありと映り、柱の干割れるのまで、きこえて来るという男だ。
広海屋の、仮宅の前にたたずんだが、
――変だぞ!
と、小くびが、かたむいて、
――何も聴えねえ――それに、表が、こんなにきびしく閉っているところを見りゃあ、なみのやり方で、訪ねて来たわけじゃあねえな――
うすらわらいが、唇にうかんだが、それから、軒下をはなれて、店に沿って、ぐっと河岸にまわると、塀になる。
その塀の下を、しずかにあるいているうちに、何を感じたか、足が、ぴたりと大地に吸いついて、
――やッ! 何か気配がする。
片手が、土塀に触れたか、触れぬかに、全身が、すうと軽く舞い上って、もはや、塀の上――上でちょいと、前後を見たと思うと、音もなく、ふわりと、向う側へ――
塀の曲り角に、この容子をうかがっていた二人ざむらい――
「貴公! 早かごで、この趣きを先生へ! 拙者は、のこって、あとを見張る!」
と、一人が言う。
「かしこまった。その間に動き出すようであったら、貴公、ゆく先きをつき止めたまえ!」
と、言いのこした今一人、
「いそげ! 松枝町まで、一息にいそげ!」
かごは、矢のように走り出した。
そして、入口の
二階の奥の、金網窓の中に、たよりない赤茶けた
窓口まで、走り寄って見て、闇太郎、何を見出したか、さすがのつわものが、目いろを変えて、
――! アッ! あれは!
と、叫び出しそうになって、
奥部屋の、異国物産が、うずたかく積まれた中に、闇太郎が見つけたものは何であったろう。
そこには、見るかげもなく、痩せ衰えた、長崎屋三郎兵衛が、敵味方同然になってしまった、この広海屋の主人与平と、こともあろうに、お互にすがりつくよう、取り付き合って、恐怖に充ち、苦痛に歪められた表情で、目の前に立つ、一人の男をみつめているのだ。
二人のからだは、遠くからわかるほど、ガタガタと
「おおッ!」
「ううッ!」
と、いうような叫びさえ、咽喉の奥から洩れて来る。
二人の目がそそがれるあたりに立った人影は、年のころ、五十あまり、
「おのれ! 三郎兵衛、ようも、子飼いの恩を忘れ、土部奉行や、浜川、横山、これなる広海屋と腹を合せ、わが松浦屋を亡ぼしたな――ようもようも、むつきの上から拾い上げ、手塩にかけて育てたわしの恩を忘れ、
と、一足、すすめば、
「うわあ! おゆるし下され、おゆるし下され、わたくしがわるうござりました」
と、長崎屋は、広海屋にすがりつきながら、手を蔽う。
「いっかな許さぬぞ!」
と、乾き、しわがれた、怖ろしい声がつづく。
「何をゆるされよう! 恋しい妻は、おぬしの手引きにて、土部屋敷にいざなわれ、くるしめにくるしめられ、舌を噛んで、死んだのじゃ――舌を噛んで――舌を噛んで死ぬ、痛さ、つらさ――どうあったろう、のう、三郎兵衛――おぬしの、今のくるしみは、物のかずではないわ――これ、三郎兵衛、おぼえたか!」
一足、すすめ、またしりぞく、此の世のものとも思われぬ、浅間しい怨念のすがた。
「いいえいいえ、あれはみんな、わたくしの罪のみではござりませぬ――こ、ここにいる広海屋――采配は、みんなこやつが、振りましたので――」
「なにをいうか、長崎屋――あれあれれ、あの怖ろしい面相――」
広海屋は、怨みをのべるものを、指さして、顔を蔽うた。
「三郎兵衛が申すまでもなく、広海屋どの――そなたには、また、いうにいわれぬ、お世話になったものでござりますな――」
と、怨霊に似た、黒い影は、うめくようにいう。
「土地でしにせの松浦屋、いかにそれが目のかたきじゃとて、甘い口でわしを引き寄せ、もろともに
怪しげな手つきで、相手の首を引ッつかむかのごとく近づくので、広海屋は、たましいも、身にそわぬように、
「あ、ああ! 怖ろしい! 怖ろしい! わしにはわからぬ――信ぜられぬ――たしかにみまかれたはずの松浦屋どのが――ああ! 怖ろしい――」
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
と、黒い影が、笑って、
「わかりませぬか! 信じられませぬか! 与平どの――この顔をじーッとごらんなされ、おみつめなされ――牢屋から出されて、裏屋ずまい、狂うてくらしましたゆえ、さぞおもかげもちがったであろうが、これが、だれか、そなたにわからぬはずがない――のう、ようく、この顔を、御覧なされや!」
「あッ! ゆるして下され、松浦屋どの、清左衛門どの! わしがわるかった。が、わしばかり、わるかったではない。第一に、
「又しても、わしをいうか! 広海屋!」
と、長崎屋は、火災後、この一室に監禁されて、骨ばかりになった両手をのばして、広海屋につかみかかる。
「あたりまえじゃ。貴さまゆえ、このわしの迷惑――気違い、失せろ!」
と、広海屋も、いつもの落ちつきも、
二人は、お互の首を絞め合ったまま、ごろごろと、床を転げて、苦しげなうめきをあげつづける。
「おおッ!」
「うわあッ!」
「う、う、う、う!」
「む、む、む、む」
それをこころよげに見おろしている、黒い影――
「は、は、は、何とまあ、二人とも、いさましいことのう――たがいに、咽喉をつかみしめた手先をばはなすまいぞ――ぐっと、ぐっと、絞めるがよい――おお、いさましいのう――」
と、言ったが、
「この松浦屋を、くるしめた人々の中で、端役をつとめた浜川どの、横山どのは、めいめいに、楽々と、もはやこの世をいとま乞いして、地獄の旅をつづけておいでじゃぞ――それに比べて、これまで生きのこった二人、さ、もっと、もっと、苦しめ合い、憎み合い、浅間しさの限りをつくすがよい。ほ、ほ、ほ、まあ、何と、江戸名うての、広海屋、長崎屋――二軒の旦那衆が、
のぞいている闇太郎、身の毛がよだって、背すじが寒くなった。
全く、おぼろかな金網行灯の光りに、
闇太郎ほどの、大胆もの、それさえ顔をそむけずにはいられないのに、二人の争闘を、じっと見おろしながら、さもこころよげに、笑いつづけている、この黒い影は何ものだろう?
「ほ、ほ、ほ――とうとう、狼が噛み合いをはじめましたね!」
その声は、もはや、
「もうお二人が、お互に絞め合った、その手の力は、尽未来
と、いいつづけた、黒い影――格闘する二人が、互に、咽喉首をつかみ合って、指先を肉に突ッ込んだまま身をこわばらせてしまったのを、しばしがあいだ、じっと見つめていたが、やがて、もはや呼吸もとまり、断末魔の
「覚えたか! 広海屋、長崎屋――人間の一心は、かならずあとを曳いて、思いを晴らす――松浦屋清左衛門が怨念は、一子雪太郎に乗りうつり、変化自在の術をふるい、今こそここに手を下さず、二人がいのちを断ったのじゃ、わからぬか、この顔が――かくいうこそ、雪太郎が後身、女形雪之丞――見えぬ目を更にみひらき、この顔を見るがよい」
サッと、垂らした髪の毛を、うしろにさばいて、まとっていた灰黒い布を脱ぎすてると、見よ、そこに現れたのは、天下一の美男とうたわれる、中村雪之丞にまがいもなかった。
が、すでに
もし見かけ得たならば、因果の報いるところのすさまじいのに、いまさら驚かずにはいられなかったろう。
雪之丞は、二人の死骸を照らす、金網あんどんの灯を消した。
そして、真の闇の中を、三郎兵衛監禁の部屋をぬけいで、そのまま、はしご段を下りて行こうとするのだった。
と、その闇の中から、声があって、
「おい、太夫、待ってくれ」
「え!」
と、さすがにギクリとしたようだったが、
「ああ、親分でござんすね?」
土蔵二階の、湿っぽい廊下――
「まあ、では、親分、只今のさまを、そこから御覧になっていたので、ござりますか?」
「おお、おれは今夜、かわいそうな人を、生みの家へ届けてやって来たのだが、何しろ先きも、名だたる
闇太郎は
「それにしても、さすがのおらも今のを見ちゃあ、少しばかり肌が寒くなったよ」
雪之丞はいいわけをするように、
「わたしも、何も、こんな仕儀になろうとは思わず来たのでござんす。只、あの後、どう考えて見ても、長崎屋は、この屋敷の中に、おし込められているに相違ないと思い、今夜、ソッと忍び込み、蔵から蔵をしらべて見ますと、この内部でかすかな人ごえ――のぞいて見れば、案の定、長崎屋は日の目も見られず閉じこめられ、
「いや、因縁だな、応報だな」
と、闇太郎は、陰気くさくいったが、急にガラリと語調をかえて、
「そりゃあ、もう、悪事を働いた奴が、満足に畳の上で死ねねえのはあたりめえだ、浜川、横山、広海屋、長崎屋――おめえが狙うほどの奴が、手も下さねえのに、ひとりでに、他人の手で亡びて行ったのも、悪人の運勢が、尽きてしまった時が来たのだ。この分じゃあ、一ばんの強敵、三斎隠居だって、怖れるこたあねえ――一気に、どしどし
「はい、明夜は、あのあわれなお人のお身の上に、何か変事があったよし、駆けつけてまいったという口実で、たずねてまいるつもりでございます」
「それがいい、それがいい」
と、闇太郎はうなずいたが、
「しかし、用心はどんなにしても損はねえ――早まらず、しっかりさっし」
二人は、土蔵を出た。
しずかに、星の光が降って、天地はすっかり死の沈黙――二人は塀に近づいた。そして同時に手が壁にかかって、飛び越えの体構えになる。
雪之丞、闇太郎、二人とも身は羽根よりも軽いことゆえ、片手が、壁にかかったと思うと、まるで釣り上げられるように、フワリと、土蔵の上に体が浮く。
闇太郎の目が鋭く、あたりを見まわして、さて、向う側に跳ね下りると、つづいて、雪之丞が、ひらりと飛ぶ。
振りかえると、土蔵の屋根に、
「早い奴だの! 黒い鳥め!」
闇太郎はつぶやいて、肩を並べるように、河岸を歩いて、さしかかる屋敷はずれ、曲ろうとしたその刹那だった。
真黒な、野獣のようなのが、
――タッ!
と、飛びついて来たと思うと、闇太郎の
「えい!」
と、斬りかかる、すごい白刃。
「プッ!」
と、口をすぼめて、かわした闇太郎、かがみ腰に、ふところへ右手を、
「妙なものが出て来たぜ」
「一ツ、二ツ、三ツ、五ツ、七ツ――沢山影が見えますが、怖うございますこと」
ちっとも怖くない風で、そう答えた雪之丞、ぐっと、裾をかかげたとき、どこかに身をひそめていたか、うしろから、
「とう!」
と、肩先へ来る。
スッと、わずかかわした雪之丞の雪白の手が、右に動いたと思うと、
――ズーン!
と、地ひびきを打って、前に飛ぶ人つぶて。
雪之丞、闇太郎、二人の背中がぴったりと合せられて、八方から、いつでも来いの構えになる。
それをめぐって、十本あまりの、抜きつれた刃が、低く低く、地を
が、雪之丞、闇太郎、ほんとうの敵は、その一群の中にはいないのを知っているのだ。これ等の十本あまりの剣には、必死、必殺の剣気がみなぎってはいない。
むしろ、何ものかの命令で、おっかなびっくり、押しつけて来るものに相違ないのだ。
二人は知っている。
――どこか、見えないあたりに、だれかがいる――この刺客隊の
三斎だ! 土部一族だ! そして、その土部一族に使われて、暗殺を引き受けるのは、言うまでもなく、門倉平馬――小梅以来の
十本あまりの毒刃は、ズ、ズ、ズと、
「ふ、ふ、意気地なしめ! ドラ猫だって、
闇太郎が、冷たく笑った。
「遠慮せずに、斬って来い! 今夜はこっちも容赦しねえぞ。少し
と、それに、そそられたように、一条の白光が、群れの中ほどでひらめいて、黒衣の一人が、ピュッと、大刀を振り込んで来るのだった。
「なア、太夫、遠慮はいらねえよ、今夜こそ、毒虫を征討しようぜ」
「あい。わかりました」
うなずき合った、雪之丞、闇太郎――二人の手のうちに、今は、ギラリと小さく白く光る
その匕首のきらめきに、吸いつけられたように、よって来るのが飛んで火に入る虫のような、門倉平馬部下の剣士たちだ。
「たっ!」
「とう!」
と、四方から隙間もなく斬ってかかるので、こちらの二人も、いつか背がはなれて、自由なかけ引き。
引きつけて、突き、退がりながら、斬り揮う短刀に無駄がなく、またたく間に、その場に倒れてしまわぬものは、いのちからがら逃げのびて、
「さあ、出て来い。隠れん坊は、もう沢山だぞ!」
闇太郎は
のそりとそこから出て来たのは、黒覆面、黒衣ながら、からだの
闇太郎は、しつこく斬って来る若侍をあしらいながら、
「太夫、おいらにゃ、平馬は苦手だ。

雪之丞は、身近くのこった最後の一人を、わずらわしげに、突き伏せて、目をあげて、平馬を、見ると、
「おお、門倉さま、おひさしぶり」
「ふうむ。死にいそぎをしたがる奴――」
と、平馬はうめいて、
「一度、二度、三度――よいほどにして置いたが、今夜、闇太郎と一緒にいたは、貴さまの不運――いかにも、息の根を止めてやるぞ」
「同門のゆかりこそあれ、うらみはないと思うていましたが、ことごとに、敵にまわる門倉さま、こちらももう辛抱ならぬ――
手ごわい相手とわかっているゆえ、二人の部下も、闇太郎の方へ手を分けようとはせぬ。
真中に門倉平馬――少し先行して、二人の弟子、大刀を抜きつらねて、押し並んで迫って来る。
「よッ! 花村屋あ!」
と、声をかけたが、
「いい型だなあ、御見物衆が、おいでにならねえのが残念だ」
が、二人の弟子を前に並べた門倉平馬の、覆面のあいだから洩れる眼光は、刺し貫くようだ。今夜こそ、彼は雪之丞を仕止めねば――闇太郎を斬らねばならぬ。一人は、自分に取って憎悪の的、一人は、三斎から斬れといわれた当の敵手だ。
雪之丞は、引きつけていた匕首を、サッと揚げた。そこに隙が出来たと見たか、も一人の弟子、ダッと、躍り込んで、
かわしたと見ると、もう、匕首の切ッ先きが、相手の首すじへ――
大向うを気取った闇太郎、いい気そうに声はかけているが、胸の中は不安におののいている。
――門倉って奴あ、おいらにゃ歯が立たねえが――雪なら大丈夫だろうが、何しろ
ジーッと、みつめていると、雪之丞の方は門弟一人を斬って落して、息もはずまさず、次ぎのかかりを待っている。
が、二人目は出られない。
――やッ!
と、鈍い気合――これでは、敵に迫れないのだ。
雪之丞、ズーッと、匕首を揚げて、爪先立ちになる。
「退け!」
と、平馬、奥歯を噛んで、門人を押しのけるように、ギラリと、大剣を上段に引き上げて、
「雪、今夜はのがさぬぞ!」
「十分に――」
さすがに、雪之丞のうしろすがたに、サーッと、凄味が
「う、うむ」
と、平馬の息が、引きしまって、上段が、正眼に下ったが、
「やあッ!」
と、誘って大刀をきらめかす。
ジーッと、動かぬ雪之丞。
闇太郎が、
「太夫、やっちめえ――夜があけるぜ!」
と、言ったのは、あべこべに、平馬を
平馬の切っ先きが、案の定、動揺した。
「や、やあッ!」
「とう!」
二人の気合が、一どきに、物すごく、空でカチ合って、重ねて、
「たッ!」
と迫った叫びが、平馬の咽喉をほとばしったと思うと、二尺五寸の刀と八寸あまりの刃が、微妙にからみ合って、赤い火花を、チリチリと、細かく照したが、いつか二人のからだが、入れかわって、ジリジリと押しつけ合う。
と、持って生れた、平馬の根性だ――その刹那、やり損なったと、気がついたのだ。
たッた今まで、敵意に燃えていたが、思い当ると、自分は今夜、闇太郎を斬りに出ただけだ。だのに、強敵に
ハッと、おびえが来たに相違ない。
――退くなら今だ!
と、いう気配――雪之丞に、いつ通じたか、冷たい微笑がうかんで、ツ、ツと、付いて行ったと思ったが、
「御免!」
ビュッと、匕首が斜めに飛ぶと、平馬の頬先へ――
タラリと、流れる血――
――もう駄目だ、逃げられぬ。
と、思い知ったに相違ない平馬、
――ガ――ッ!
と、大刀を突くと見せて、胴に来る。
雪之丞の全身が、飛び立つ鳥のよう、
「えい!」
「うおッ!」
と、いううめきが荒っぽく平馬の咽喉を洩れた。
門倉平馬の、咽喉の奥から、雪之丞の匕首の一閃と同時に、
「うわあ!」
と、いう、
雪之丞は、かわしもせず、ビュウンと、大刀を、匕首の
もはや、立ち向って来る者もない。冴えた腕に、処理されたこととて、いずれも、一突き、一薙ぎで、そのまま、うんともすうとも息を吹くものもない。
「やっぱし、千両役者だなあ!」
と、闇太郎は、太い息をついて近づいた。
「これだけの騒ぎに、返り血も浴びねえというのだから驚いたもんだなあ――」
「これで、まあ、長いこと、つきまとった、毒蛇のようなものを、始末をつけてしまいましたが――親分」
と、雪之丞、なだらかな呼吸で、闇太郎をかえりみて、
「もう、残ってはおりませぬか――」
「おいらが斬ったのは、フヨフヨしていたが、それも大てい片づいたようだ。おまはんの刃にかかった奴は、ぎゅうも、すうもなくまいッているよ」
「では、人目にかからぬうち、引きとるとしましょうか――」
「おお、一刻も早く逃げようぜ」
血なまぐさい、生ぬるい風がただよう河岸を、いかつい影と、やさしい姿が、肩を並べるようにして立ち去った。
みちみち、闇太郎が、
「何にしろ、このいきで、ずんずん突ッ込んで行くことだ。あしたはかまわねえから、三斎屋敷に乗り込みねえよ――なあに、万事、スラスラ片づくにきまっている」
「何分相手は、土部一族、強敵に相違ありませぬが、一生をかけての仕事、かならずやりとげて、御覧に入れましょう」
「うむ、その決心なら大丈夫だ」
と、闇太郎ははげますようにいったが、ふと、しんみりした調子になって、
「ところで、おいらは、自分のことを、ふッと思い出したんだが、不思議なもので、おまはんと懇意に成ってから、妙に、盗ッとごころがなくなったような気がするのだ。自分ながら、変てこでならねえのだが――」
雪之丞は、黙していた。
「これまでは、夜道ばかりじゃねえ、まっぴる間でも、外をあるいていて、屋敷、やかたが目につくと、すぐに
「まあ、親分、それを、本気でいって下さるのですか?」
と、雪之丞は、うれしげに、手を取らんばかり、
「それが、ほんとうなら、どんなにうれしいか知れませぬ」
「ウム、おまはんも、よろこんでくれるに相違ねえと思っていたが、しかし、やっぱし、さびしい気がしてなあ」
闇太郎は、はかなそうに、白い前歯をあらわして笑った。
浪路の、亡きがらが、闇太郎の手で、思いもよらず屋敷へはこび込まれた、その翌日、三斎も、当主の駿河守も、さすがに驚き呆れてどのような形式で、
大目付の出張――三斎、駿河守
取りあえず、駿河守、衣類をあらためて待つところへ、馬上で乗りつけて来た、添田大目付――
「役儀なれば、上席御免、
と、むずと、上座に押し直ると、白扇を膝に、父子を見下ろして、
「土部駿河守、父三斎、隠居の身を以ってお政治向に
――さては、浪路が大奥を出て失踪の身となっている間に、政敵が手をのばして、営中の勢力を根こそぎにしてしまったものだな。
と、察した父子――しかし、今更、何と言いわけをするすべもない。
「恐れ入り
と、お受けをして、立ち戻ろうとする大目付の袖をひかえて、
「お役儀、おすみなされたのちは、別間にておくつろぎを――」
と、馳走した上、
「いや、なお、御用多繁――それに、何かお館うちにも取り込みがある容子、これにて御免を
と、立ち戻ってしまう。
三斎父子は、そこで、
土部家を、助けようためには、たった一ツ、法がのこっていぬではない――それは、三斎が、ふくみ状に、一切の罪をわびて自殺し、公方の
「伜、まだ、
冬の日が、わびしく夕ざれて、夜になって、仏間の方では、
今は、父子、死んだ浪路より、わが身の上と、いそいそと談合にふけっているうちに、
「ナニ、雪之丞が――」
と、三斎は眉をよせたが、さすが、娘が死ぬ程恋した相手と思えば、すげなくも出来なかったか、
「通せ」
いつも通される奥まった離れにしずかに坐って、三斎隠居の出を待つ雪之丞の心は、水のように澄みかえっている。
ここまで押しつけて来て、彼は、何を思い悩み、
しかも、その死に方の、どれもこれもが、雪之丞自身で手を下したより、百倍も浅間しくみじめな、けだものじみた最期を遂げねばならなかった。
そして、残っているのは、この土部三斎一人。
――今夜だ。
と、雪之丞は、喪の家の、不思議な沈黙と、
――この家のあるじは、わたしというものが、どんな人間かそれを知らねばならぬ。それを知ったなら、あるじは生きてはいまい。人間の怨念、執着というものが、どれほど激しく
雪之丞は好みの、雪投げの寒牡丹の衣裳に、女よりもなよやかな身をつつんで、つつましく坐ったまま、不敵な微笑を、美しい紅い口元にうかべた。
すると、気配がして、振袖小姓がはいって来て、あるじのために
かすかなしわぶき。三斎隠居の姿があらわれた。
隠居は、めっきり
ひれ伏す雪之丞をながめて、
「ようこそ太夫――初下りの顔見世興行も、首尾よう大入りつづきであったよしで、目出たいな」
それには、雪之丞は、答えなかった。平伏したまま、なかなか面をあげぬ。
「雪之丞、おもてをあげなさい。何も、そううやうやしゅう致すにも及ばぬことじゃ」
雪之丞は、顔をあげたが、その頬が涙にぬれているように見える。
三斎は、その涙を見つけて、
「お、太夫、泣いているな?」
「は、御無礼、おゆるし下さりませ――つい、さまざま、思い出しまして――」
「思い出したとは? 何を?」
「わたくしめが、顔見世狂言にまねかれて御当地にまいり、中村座に出ましたはじめ、御一門さまの御見物をいただき、天にも昇る気がいたしましたが、あのおり、おさじきにお並びなされました方々が、御隠居さまをのぞきまいらせ、ことごとく、もはやこの世においであそばさぬことを思いますると、つい、泣けてまいりまして――」
「なんと、雪之丞、しからば、その方、浪路めの不幸をも存じておるとな!」
と、三斎、屹ッとする。
「それを知らずに何といたしましょう――あまりの恐れ多さに、おぼし召しには
雪之丞は、もはや、三斎の視線を恐れずに答えた。
雪之丞は、言葉をつづける。
「それにいたしましても、御息女さまをはじめ、浜川、横山おふた方、広海屋、長崎屋のお二人――引きつづいての
三斎は、フッと、何か気がついたように眉をひそめた。
「ふん、浪路のことは別として、世に秘められた、浜川、横山の
と、いかつい目つきになったも無理はない。
雪之丞は、
「はい、実は、このわたくし、浜川、横山おふた方をはじめ、広海屋どの、長崎屋どのにも、昔より深いえにしがある身でござります。それゆえ、あの方々のお身の上は、いつも、何から何まで響いてまいりますので――」
「ふうむ」
と、三斎はうなった。
「最初から、そなたの身には、いぶかしいことが、まつわっているようわしには思われていた。その

雪之丞の紅唇が、冷たくほころびた。
「わたくしは、天下の御法を守るということでは、自分でもたぐいないものと存じます。とうに手を下して恨みを晴らすべき人々をさえ、刃にもかけず、じっとながめているわたくし、何で、切支丹の御禁制なぞ破りましょうや!」
「ナニ、
と、三斎隠居は、相手の冷殺とした鬼気に打たれたようにしてみつめていたが、
「逢うたはじめより、何とはなしに、誰ぞに、おもかげが似寄ったように思われる太夫――一たい、そなたはどこの生れぞや?」
「御隠居さま――いいえ、そのかみの長崎奉行、土部駿河守さま――わたくしのおもばせに、それではお見覚えがおありあそばすのでござりましょうか?」
雪之丞、少し、身を斜めにするようにじっと相手の面体に、
「うむ――たしかに、誰ぞ、似た顔を見たような――」
三斎は、ますます魅入られたもののように瞳を
しかも、だんだん、その表情に恐怖と不安とが
「おお、そうじゃ! たしかに、かの者に!」
と、叫んだが、自分を押えはげますように、
「いやいや、そのようなことがあるはずがない――馬鹿らしい妄想だ。雪之丞、何でもないのだ。わしは少し
雪之丞は、三斎を
「長いようで、短い一生――短いようで、長い一生――いろいろなことが、この世では、あるものでござります。わたくしも、こうして、御身分高い、あなたさま方に、お目通りが叶うことが、この世であろうなぞとは――」
「う、うむ」
と、三斎隠居は、だんだん青ざめながらうなりつづけるのだった。
「う、うむ――わしの目に狂いのあることはない――わしの目が、どんな珠玉、
「ほ、ほ、ほ、そんなにお見つめあそばして、お恥かしゅうござります」
と、雪之丞は、紅い口に銀扇を押しあてて笑ったが、
「一たい、どこのどなたさまに、わたくしが、お似申しているのでござりましょう?」
「それが、思い出せぬ――いまいましいほど、どこかにこだわりがあって、思い出せぬ」
と、三斎隠居は、物に
「では、わたくしが、ほんの心あたりを申し上げて見ましょうか――」
雪之丞は、いよいよ冷たく笑って、
「わたくしの方も、思いだせるようで思いだせませぬが、この身もおさないころ、長崎に生い立ったこともござりますゆえ――」
「えッ! そちが、太夫が、長崎で!」
と、三斎、叫んだと同時に、顔いろが、青葉のように
「はい、長崎で、育ったものでござりますが、これ、土部の御隠居――」
雪之丞は、そう
「土部の御隠居――この面かげ、今はハッキリと、お思い当りましょう!」
「わあッ!」
と、いうように、悲鳴に似たものを揚げて、三斎、のけぞるばかり――
「や、や! そなたは、長崎松浦屋の――」
「はい、わたくしのこの顔に、母親のおもざしが、いくらかのこっておりましょうか――」
と、突きつけたその顔には、
「な、これなら、お思い出しになりましたろうがな――」
土部三斎、駿河守の昔から、剛腹一方、怖れも懸念も知らずに押し上って来た人物だが、それが何たること――片手を畳に、片手を前に突き出して、腰さえ畳に落ちつかない。
「そ、そのようなことが、あるはずがあるものか――」
と、わなないて、
「決してない――そのようなことは断じてない――」
「どのような、不思議なことも、この世にないことはござりませぬぞ、御隠居さま――」
と、ぐうっと、乗り出して、
「御隠居さま、さ、ハッキリと、思い出しなされませ――わたくしの母のおもかげを――どうぞ、御隠居さま!」
「じゃと、いうて、わしは、何もそなたの亡き母を、責め殺したわけではない――」
と、三斎老人は、もがいた。
「わしは、そなたの母御が、好きであったのだ――どうにもして、わがものにしたかったのだ――それは、いいことではなかった――わるいことであった――が、わしが、そなたの母御を、忘れかねたのは、ほんとのことじゃ――いつわりではない――」
「母は、父親の女房だったのでござります――それを、言うことを聴きさえすれば、松浦屋を、つなぎとめるの、つぶすのと、くるしめ、いじめ――とうとう、あわれな母は、舌を噛んで、こう舌を噛んで
「ゆ、ゆるしてくれ、雪之丞――ゆるしてくれ! ああ、今ぞ思い当ったぞ――この一ヵ月に、思いもよらず、長崎以来一党の滅亡――さては、そなたの呪いであったのだな――」
三斎隠居は、部屋の隅に、追いつめられたようになって、目を両手でふさごうとする。
「ま! ごらんなさりませ――母は、こうして、われとわが舌を噛んで、果てたのでござりますぞ」
雪之丞、紅い美しい舌の先きを歯の間に、ぐっと噛みしめるようにする。
三斎は、狂おしげに、
「やめてくれ! やめぬか! う、う、う、息苦しい! 息づまる!」
と、胸のあたりを、かきむしるように、
「苦しい! 胸が! や、やぶけそうだ!」
激しい、心身の動揺のあとで、この夜更け、人無き一間で、雪之丞から、まざまざと、昔の
「むうむ!」
と、一こえ、物すごくうめくと、そのまま、居すくみに、絶息してしまった。
雪之丞は、片膝を立てて、ぐっと、
「土部どの、これにて、この世の怨みは消えましたぞ!」
と、手を合せる。
と、同時に、老人のからだは、ばたりと前につくばってしまったのだった。
雪之丞、何気なく、廊下に出ようとしたのは、もはや用なき館、今夜の混雑にまぎれて、忍び出てしまおうとしたのであろう。
すると、この三斎常住のはなれと、例の宝ぐらをつなぐ、暗い、冷たい渡りで、女のこえ――
「すごいねえ、太夫!」
ハッとして見返ると、なんと、そこに、紫いろの、お
「ほんとうに、おどろいた事ばかりだよ。なるほど、こうした大望を持っていた、おまえを、あり来たりの役者のようにあつかおうとしたあたしは、けちだったねえ――へまをやったねえ――江戸の女泥棒は、わからねえと、おかしかったろうねえ――」
と、いって、淋しげになって、
「こんなところを見せてしまっちゃあ、なおさら、この上いろ恋でもあるまい。さっぱりあきらめますから、これからさきは仕合せに――」
雪之丞は、小膝をかがめて、そのまま、廊下へ出てしまった。
土部三斎を、密室の中で自滅させてしまった雪之丞、これで、思いのこすこともない――まず、第一に、師匠菊之丞に――それから、脇田一松斎、孤軒老師をもたずねて、永年の、かげになりひなたになっての恩顧を謝し、とにもかくにも、今後の身のふり方を定めようと、松枝町の屋敷から、わが宿にかごをいそがせようとしたが、途中まで来て、フッと、胸に来たのが、昨夜の闇太郎のわびしげな述懐や、うしろすがた――
――そうじゃ、三人の恩人は恩人、わたしのために、いのちを的にしてくれた闇さん、今夜の首尾を、あの人に、お話しせねば、心がすまぬ――
「かごの衆――」
「へえ」
「途中、ブラブラ歩きたいゆえ、ここで下ろして貰いたい。これで一口――」
と、酒手を渡して、下りて、さして行く、裏田圃――
もはや、闇太郎の隠れ家は、かしこと、指さされるあたりまで来て、雪之丞の足はハタと止り、目は見すえられた!
「おッ、あれは!」
まごうかたなき、闇太郎住居とおぼしき小家を、星ぞらの下、
雪之丞の胸は、早鐘を打ッた。
「あれは、たしかに
と、口に出して、叫んだが、
「あのように、改心した――もはや盗みはする気がないと、あれまで決心した今日の日になって!」
雪之丞、ぐっと、唇を噛むと、
捕方勢に、気づかれぬ間に、近づいて、耳をすますと、
「さて、いよいよかかるぞ! 江戸ではじめての、神出鬼没といわれた闇太郎、かく、隠れ家をたしかめ、たしかに潜みおるを知った上は、捕りにがしたら、お上の御威光に傷がつく――よいか、しっかりやれ! どじを踏むと、八丁堀の息のかかる、
「わかりやした」
と、目明しの親分らしいのが、うなずく。
「それ!」
と、同心が、振った十手、バラバラと、捕手たちが、小家をかこんで、表にまわったのが、トントンと、雨戸をたたいて、
「もし、そこの休亭から、使いにめえりやしたが、御懇意のお人が、ぜひ、このふみを届けてくれとのことでござんすが――」
「ナニ、休亭のお客からふみだと! よる夜中ごくろうだな――その戸の隙から、ほうり込んで行ってくれ」
闇太郎の、落ちつき払ったこえ――その
――おお、あれなら、もう知っている、さすがは闇さん、立派なものだねえ。
すると、突然、裏手の水口にまわっていた五人ばかりの捕方、肩をそろえて、やくざな戸に、どんと
「闇太郎、御用だ!」
「御用だ!」
と、飛び込んでゆく。
ダーッと、踏み込んで行った捕方たち、――それを、肩すかしで、かわしたように、家内から飛び出して来た、黒い人影――
――あ? 闇の親分だ。
雪之丞、じっとみつめて、立木の蔭でつぶやいたが、
――あれ、また、まつわる捕手――いっそ、一思いに、匕首で、斬っぱらってしまったら、よさそうなものなのに――
雪之丞が、
――相手は多い! 早う、親分お逃れになって――
が、見る見る、ひしひしと取り巻いて来る同心、捕方――
――なぜ、いつまでも、抜かないのだろう。親分は――若し、つかまってしまったら、どうなさるおつもりなのだろう。
見るに見かねて、雪之丞、歯を噛むと、帯の間の懐剣を、ギラリと引き抜いて、立木の蔭を飛び出すと、タ、タ、タと、近づいて、
「御免!」
と、一声、額にかざした紫電のひらめき――
「親分、お逃げなさい!」
と、呼びかけるなり、突くと見せて斬る。斬ると見せて突く。
「助勢が出たぞう! 気をつけろ!」
「親分、おのがれなさい! あとは、わたしが引きうけますほどに――」
「それよりも、おまはんの仕事、しすましたか?」
と、闇太郎が、だしぬけの雪之丞の出現にもかかわらず、驚きもせずに叫んだ。
雪之丞はうなずいて、
「かたじけのうござんす――こよいで、みんな、すみました」
「それはいい――では、このおれにも、心のこりは何もない。さあ来い! 目明しども!」
「親分、悪い! 早う消えて下さらねば――」
「逃げるなら一緒に逃げよう。雪さんどこまでも――」
「あい。そうしましょうか!」
闇太郎、雪之丞、匕首を高くかざしたから、近づく相手が、たやすくかかろうはずがない。
浅草田圃から、いつか、吉原土手を、南につたわって、二人ちりぢりに、見えなくなってしまった。
朝になると、雪之丞は、もう、昨夜のことは、忘れ果てたように、何のこだわりもなく、師匠、菊之丞の前にすわっていた。
菊之丞はしみじみと、愛弟子の顔をながめて、
「して、そなたは、まだ、舞台をつとめる気かや?」
「はい、いつまでも、お側にいて舞台の芸でも、御満足を得たいものと思っておりますが――」
「それなれば、
「はい。出来ますかぎりは、つとめさせていただきましょう」
雪之丞が、このときほど、心たのしげに、役の話をするのを見たことはなかった。
さて、それから、幾日か経って今日は、中村座、師走狂言、忠臣蔵通し芝居の初日だ。
――初日ながら総幕出揃い、仕落しなく演じ申すべく候えば、何とぞにぎにぎしく云々。
と、かねて
その見物の中には、向う正面の、例のつんぼ桟敷というのに頑張った、五十左右の立派やかな武芸者と見える人物と、白髪白髯の瓢亭たる老人が、一しんに、舞台に見入っているのが見られたが、これが脇田一松斎と、孤軒老人――
雪之丞の
「今度の、あの者の仕事は、わしどもが力を添えねば、仕遂げえぬかと思いましたが、案外スラスラと――」
と、孤軒老人が、
「あれも、なかなか人間も出来て来ましたの」
「はい、拙者も、何かの折は、一肩入れねばと、思い設けていましたが、さすが、おさない折より老師の御教訓――やはり、ほんとうの修業が出来ておりますと、どんな大事も、一人立ちで仕上げますな。まずは感心しました」
「それに何よりなのは、かの者、どこまでも、役者で生き抜こうとすることじゃな。何を致しても一生――芸道も、奥が知れぬものであろうゆえ、やりかけたわざを、つとめて行くが一ばん――」
「あれは、内気で、しおらしいところがありますからな」
二人は、小さな
道行きが、にぎやかなとったりがからんで、幕になって、当の雪之丞、楽屋にもどると、そこに待っている男衆の中に、何と、闇太郎がすっかり芝居者になって、にこにこしていた。
「親方、来ていますぜ」
「どなた? お二人の方たち?」
と、
「いんえ、あれでさ――あの軽業がさ――あの女も、大そうすまして、ちんとして、淋しそうでしたよ」
「ほう、それは気がつかなかったが――」
雪之丞とて、お初の、うら淋しさがわからぬではない――が、いつまでも、盗みの道から抜け出ることの出来ない彼女は、その道を行くほかしかたがないであろう。けれども、闇太郎は別だ。彼は、この興行がすめば、名残りを惜しみつつも、この大江戸から、ふたたび、坂地へと戻るであろう雪之丞の供をして、西へと上って行く男だ。
――あッしも江戸ッ子だ。故郷は捨てにくいが、おまえさんのいなさるところなら、どこへでも行く気になりましたよ。
と、あの危急の晩、雪之丞にすすめられて、しおらしく手を突いた彼だったのである。
この物語は
(終り)
底本『大衆文学大系12』一九七二年三月 講談社刊
底本『大衆文学大系12』一九七二年三月 講談社刊