艶容万年若衆

三上於兎吉




呉羽之介、露月と不忍池畔に奇遇の事


 揺るぎ無い御代みよは枝を吹く風のも静かに明け暮れて、徳川の深い流れに根をひたした江戸文明の巨木には、豪華艶美えんびを極めた花房はなぶさが、今をさかりに咲き盛かり、散ってしおれる末の世のかなしみの気配をば、まだこればかりも見せぬ元禄時代の、さる年の晩春初夏に、この長物語ははじまります。
 それは四月なかばの、とある朝のことでありました。涼やかな軟風なんぷうにさざなみを立てている不忍池畔しのばずちはんの池添い道を、鉄色無地の羽二重はぶたえの着流し姿に、たちばなの加賀紋をつけた黒い短か羽織茶色の帯に、蝋塗ろうぬり細身の大小の落し差し、編笠にかくれた面立おもだちは解りませぬが、年のころは三十あまりと思われるのが、ただ一人、供もつれず、物思いがちにブラリブラリと逍遙さまよっておりました。
 つい先達せんだってまで、寛永寺畔一帯にみだれ咲いていた桜は、もはや名残もなく散り果てて、岡のべの新緑は斜めに差すあざやかな光に、物なやましく映え渡り、の間がくれに輝やいている大僧坊の金碧こんぺきが、はす浮葉うきばのいまだしげに浮んだ池のみぎわに映っているありさまは、ほんに江戸名所、東錦絵あずまにしきえのはじめを飾るにふさわしい風情と見えるのです。
 けれどもくだんの侍は、あたりの眺めに心をひかれるさまもなく、思いありげなふところ手で、肩を落して、なぎさを北へと辿たどってゆきます。
 の侍、いかなる身元かと言うと、当時時めく名医、典薬左井黙庵てんやくさいもくあんの次子、不二之進ふじのしん、代々の医業を嫌って、菱川ひしかわ派の流れを汲んだ浮世絵ぶりに大名たいめいせ、雅号を露月ろげつと名乗って、程近い徒士町おかちまち辺に閑居を構え、数寄すき風流の道に遊んでいるものでありました。
 この露月の、萎れ屈している逍遙そぞろあるきに、満更まんざら理由のないわけでもありませぬ。遅れ咲きの八重やえざくらが、爛漫らんまんとして匂う弥生やよいのおわり頃、最愛の弟子君川文吾きみかわぶんごという美少人を失って、悲歎やるせなく、この頃は丹青たんせいの能をすら忘れたように、香をねんじて物を思い、物を思うに疲れては、あてもない散策さまよいに、惜しむも甲斐かいのない死別の哀愁を、振り捨てようとするのでありました。
 うなだれかがんだ露月のすがたが、恰度ちょうど池の西北の、榊原さかきばら屋敷に沿うた曲浦きょくほのあたりにさしかかった頃でした。折しも湯島台から、近道を、上野山内さんないへと急ぐ人と見えて、大なし絆纒はんてん奴姿やっこすがたしもべを供につれた若衆わかしゅひとりと、そで擦り合わんばかりに行き違ったのであります。
 哀愁にとざされた露月は、行き違うまで、その人の姿にも気がつかなかったのでしたが、ふと、鼻をこのもしい香りに、編笠をかかげて見返えりますと、僕の肩にかたげられたは、今ての園咲そのざきの白つつじが、白く涼しく匂っているのです。
 ――床しい荷をになった下郎じゃ。そもどのような風雅のあるじを持っているのか? と、何ごころなく眺めやった露月のに、はじめて例の若衆ぶりが、突如として花のように映じたのであります。
 嫋々なよなよとして女の如く、少し抜いた雪のえり足、濡羽ぬればいろの黒髪つやつやしく、物ごしやさしくしずしずと練ってゆく蓮歩れんぽ
 かのすがたを一瞥いちべつした時、露月はまるで物に打たれたもののように、ハッとして歩みを止めてしまいました。
 ――なぜと言えば、この人の後すがたなら、肩つきなら、歩みぶりなら、あの亡き文吾に、そっくりそのままのすがたではありませんか!
 ――心の迷いか?
 露月は編笠に手をかけたまま、我れを忘れてうっとりしておりました。
 が、よく見ればよく見るほど、わが亡き人とうり二つのすがたなのに、露月は今は我れにもあらず、只ひと目、あでなる君のかんばせを見まほしいものよと、思い切ってあとをつけはじめたのであります。
 池北ちほくのなざさを東へと、何も知らずに、気も軽く、歩みも軽く急ぐ若衆は、やがて山内へはいって行こうとします。
 後を慕って此処ここまで来た露月、一度はまともに逢って言葉がかわしたさに、もう世の常の作法も忘れ、思わず声をかけてしまいました。
「あいや、それなる御少人、無礼ではござれど、ちと御意ぎょいを得申したい」
 若衆は不意に呼び止められて、いくらかびッくりしたようでありました。が、取り乱しもせず、しずかに振り向いて立ち止まります。
 ――袴下はかましたから袖へかけて石持こくもち模様を白く置いて黒羽二重くろはぶたえに、朱色の下着、茶宇の袴に黄金こがねづくりの大小を華美きらびやかに帯び、小桜を抜いた淡緑うすみどりの革足袋たびに、草履ぞうり爪先つまさきもつつましく小腰をかがめました。
「これは、何ぞ御用でございますか?」
 露月は相手の顔を、半ば揚げた編笠の間から眺めて、我れにもなくゾッとしたのであります!
 紫元結もとゆいで結い上げた、艶々つやつやしい若衆まげの、たわわなびんの黒髪は、こころもち風で乱れて、夢見るような瞳はの華か! 丹花の唇はほのかにほころび、ふっくら丸いあごの下に、小娘のように咽喉のど元が、えり浅黄あさぎと美くしくなずんで、やさしく前にかさねた手の、そのつまはずれのものなつかしさ!
 年の頃は、まだ咲きも盛らぬ十六七!
 それは、亡き文吾が持っていた、あの美しさ、あのあでやかさ、あの物やさしさの比ではありませんでした。
 ――オオ、此の世には、こんな美くしい青年もいるものか!
 露月はいまはあんなに恋いこがれていた亡き文吾のことさえ忘れて、ただもうこの初めて相見た少人の美にひきつけられ、不思議な感動に酔いおぼれるのでした。
 が、いぶかしそうな相手のまなざしに、編笠をぬいで腰をかがめ、
「ぶしつけの段はお許しが願いござる。拙者は間近かなあたりに住居すまいいたし、いささか丹青の通にあそぶ、露月と申すものでござるが、お供の衆にお持たせなされた、白つつじの美くしさに、もしや一枝お恵みがうけられる事もやと、ついわれ知らずお呼び止め申した次第で御座る」
「それはそれは」
 と、少人も露月をつくづく眺めて、
「不思議の折を得て、はじめて御意を得まする。御高名はとうにうけたまわっておりました。私ことは湯島の台にいささか学者の名のありました鳥谷正一とりやまさいちが一子呉羽之介くれはのすけ只今ただいま父を失いまして、師とたのむ等覚院の老師にまで、御機嫌伺いの途中でございます。家を出がけに、眺めた庭のつつじ、一人ながめにはいとおしく、一枝切らせて師の君にお目にかけようと存じます折柄、はからず先生の御所望をうけ、いかばかりかうれしゅうございます。れ、次平つぐへい、枝ぶりよきをえらんで差し上げなさい」
 若衆鳥谷呉羽之介は、わるびれもせず名乗りをすまして、さて、若党にかつがせた枝どもの中から、雪白せっぱくに咲きみだれた一枝をえらみ出し、みずから露月にすすめるのでありました。
 露月はうれしくそれを受けて、
「さてはお手前は鳥谷先生のおわすれがたみでござったか。老先生とは御存生ぞんしょうの折、そこここの雅会でお目にかかったこともござったが――」
 と、ひとしお思い出深かげに、
「拙者の住居は徒士町一丁目、あのあたりにて露月庵とおたずねになれば解るでござろう。これを御縁に、ちと御来歩下されば、有難いことでござるが――」
かたじけのう存じます。いずれ近日いとまを得まして、御高教をわずらわしたく、かたがた御機嫌伺いに上るでございましょう」
「此の方よりも今日の、此の御無礼をばびがてら、大先生の御遺筆なぞ拝見いたしに、参邸のお許しを得とう厶る」
「よろこんでお待ちいたしまする。何卒なにとぞこの後はお心置きなく――では、師の坊までまいる途中、今日はこれで失礼いたしまする」
「はなはだ御無礼つかまつッた。御機嫌よう行かせられい」
 ――二人は別れました。
 しかし露月はその場にたたずんで、世にも美くしい呉羽之介の若衆姿に、いつまでもながめ入っているのでありました。
 やがて、相手の後すがたが見えなくなると、はじめてホッと吐息をして、元来た方へ帰るのでした。

鳥谷呉羽之介、大戸片里と露月庵に歓娯する事


 緑蔭にほの白く匂う空木うつぎの花もすでに朽ち、さすや軒端のきばのあやめぐさ、男節句の祝い日がすぎて、まだ幾日も経たぬある日のことであります。
 下谷したや徒士町、露月庵を訪れた、一人の客がありました。
 折しも庵主の露月は、茶室がかった画室に閑座して、枠張のぬめに向い一心に仕上げの筆を運んでいるところだったのです。
「申し上げます、根岸の大戸おおどさまがお見えになりましたが――」
 との、取次の言葉には見向きもせず、
片里へんりどのなら心置きない――客間にお通し申すまでもなく、失礼ながらこれへお連れ申すがよい」
 と、気安く言って、自分は尚も絵絹に向っているのでした。
 やがて、案内されて廻縁まわりえんからはいって来た客人――年頃は主じとあまり違わぬ三十何歳、細いまげをすずしく結って、伊達だて好みの茶壁の着付、はかまはわざと穿かずに、無紋紺地の短か羽織を軽く羽織って、もとより親しい仲と見え、しきいぎわに立ったまま、絵筆にいそしむ主じに話しかけるのでした。
「ホ、ホ、これはお仕事の邪魔をしはせなんだかの? あまり日和ひよりのよいままに、ついお訪ねをいたしたが、おせわしくば又の日を楽しみに、このままおいとま致そうかな」
 恰度ちょうどその時、画室の主じは仕事のキリが来て、絵ふでを無雑作に放下ほかしながら振り向きました。
「これはこれは片里どの、折よいおたずねをうけて、わしも大変うれしいのじゃ。この程久しくうちたえておったので、こなたからお訪ねしようとしていた折柄――まず、それへ」
「それならお邪魔いたすとしよう」
 片里と呼ばれた客人は、召使のすすめる蒲団ふとんに座をしめながら、開けひらいた障子から、しんみりとして、その癖緑が大そうあざやかな庭のおもてに目をあそばせるのでした。
「いつもながら静かでゆかしいのは、このいおりのながめじゃよ。泉水のみぎわの花あやめもあでやかだが、向うの築山つきやまくまにたった一輪火のように燃えているのは、あまりの好晴ひよりに気の狂った早咲きの柘榴ざくろと見える――江碧島逾白えみどりにしまいよいよしろく山青花欲燃やまあおくしてはなもえんとほっす――杜甫の絶句そのままの眺めではないか――風雅の極じゃの」
兎角とかく近頃の人間は、おかかえ儒者の邪説に迷い、風雅と言えば淡きをよしとし、気持を酔わせるほど色合の強いものを、俗だなぞとくさすがならいだ。が、唐人ながらさすがに千古の詩人、杜甫などは違ったものじゃ。絵の方とてもその通り、雲谷うんこく狩野かのうびもよかろう、時にはわれわれの筆のあとの、絢爛けんらん華美の画風のうちにも、気品も雅致もあるのを知ってもよいと思うがな。は、は、は、またしても我田引水じゃ」
 露月は延銀のべぎんのきせるを取りあげて、一服しながら楽しそうに笑いました。
 それを片里はつくづくながめて、
「お身の議論も久しぶりじゃ――いつぞや逢うたころには、文吾どのを亡くされた当座で、見る目もいたましくやつれていなされたが――あの時にはこの分では、いつまた絵筆をとられるやらと、実は案じていた位。それだのに、今日の元気は大したものだ――そう言えば、それなるぬめは、何ぞ新らしい仕事かナ」
 と、首を伸しのべるようにします。
 露月は立ち上って、光線の工合のいいように、枠張の絖を置きなおしながら、
「新しいも新しい――まだたった今、あらましこれでよいというところまで画き上げたばかりだ。まだどこやらに足らぬ筆があるようだが、まず、一見してくれられい」
「あ、これは見事な出来栄じゃ」
 片里は画面をじッとみつめて、讃歎するようにつぶやきつつ、なおも注視の目をめないのでした。
 ――その絵柄は一たいどんなものでしたろう!
 いつぞや露月とふとゆきずりに知り合った、あの鳥谷呉羽之介の、艶花あでやかにして嫋々なよなよとした立ちすがたであったのです。
 あの初夏の緑蔭に、浮き出したように見えた。匂やかな若衆すがたは、今、まるで生きているその人のように、生彩奕々えきえきとして素絹そけんの上にほほえみつつ、その日の思い出を永劫とわに生かそうとてか、片手にかざした白つつじの花ひと枝――
 片里はながめ入りながら、酔ったような目つきをしました。
「お身の画いたものを、これまで随分見て来たが、わしは今日のように心をとろかされたことはない。これは生きているわ。生きて、笑って、招いているようじゃ」
「生きているかな」
 と、露月は半ば苦しげな瞳で、自分の作品をしらべるように見やりつつ、呟くように低く言うのでした。
「真実生きているはずの絵なのだが――」
「ほんに、すっかり生きている――絵空ごとと世に言って、不可能あらぬものを、作り出すことにたとえるが、しこのように美くしい、ほんものの人間が、たった一人でも此の世にいたなら――」
 と、言う片里の言葉を、引取るように露月が言いました。
「ところが、それがいるのだ。天地の生み出すすぐれたものには、矢張り絵描き風情の筆先で、生み出したものなどは、及び難い――片里どの、それなる画面は、決してわしの創り出したものではない。それはこの世に生きているのだ――しかもその若衆に、わしはこのごろ近づきになったばかり――」
「ほほう」
 と、片里は驚いて、
「お身の知り人に、こんな美くしい若衆がいるのか、一体それは、どこの何と申すものじゃ?」
「されば、そのものと近づきになったのは――」
 露月は親しい片里の前で、先ず卯月うづきなかばごろ、池水あおくして緑あざやかなる不忍池畔でのめぐり合いを語り、それがえにしとなって、お互に訪問たずねかわすようになり、どうにもしてこの絶世の美の化身を、未来永劫此の世に遺したさに、すがたを描こうと思いつき、到頭とうとうこの一面の肖像すがたえをかいたことを話してきかせました。
 そして言葉をついで言うには――
「そういううちにも呉羽之介が、おッつけいおりに見えるであろう、今日はこの絵すがたの仕上がる日なれば、あそびがてら出来ばえを見に来ると約束しているのじゃ」
「これはこの上ないよろこびだ」
 と、片里はほほえましく、
「わしにはどうも此の世の中に、こんなにあでやかな美少年が、生きていようとは思われぬ。若しこの者が、お身の言うように稀代の美男子なら、ぜひどうにもして、わしも近づきになりたいものだ」
 と、言う折しも、中庭の、柴折戸しおりどがあいて、だれかが飛び石づたいにはいって来ました。
 その気配に、露月はそちらをながめやって――
「おお、呉羽之介どの――噂をすれば影とやら、只今ただいまもそなたの話をしていたところだ」
 呉羽之介は縁端えんばなにて、しとやかに会釈しました。
「御来客の御容子にゆえ、御遠慮いたしておりましたが、お庭をさまよっておるうちにも、お約束のものが、早く見せていただき度く、つい失礼をいたしました」
 にこやかに微笑む呉羽之介を、露月はいそいそと招じ上げ、
「来客とは言え、親しい友がき、決して遠慮には及ばねば、まずこれへ上るがよろしい」
 そして、生面はじめての二人をひき合せました。
 優しい色代しきたいをした呉羽之介が、名乗ろうとするのを片里はおさえて、
「御姓名、お身の上、先程露月よりうけたまわりました。是非一度はお目にかかり度いと存じたところ。わしは根岸に住居いたして当時浪々の大戸主水もんど、片里と号する菲才でござる。この後とても露月同様、御懇意にお願いいたす」
「数ならねどもこれを御縁に――」
 そして、座が定まると、呉羽之介は露月に向い、
「今日すっかり仕上がるはずの、あのものいかがいたしましたか」
「御覧なされ」
 と、露月は床近く立てかけられた絵絹を指し示して、
「今、そなたを前に置き、にすがたに比べながら、ほんの一筆入れればよいのじゃ」
 呉羽之介はあどけなく、
「それならすぐにお仕事に、おかかりなされまし、当時名高いあなたのお筆に、私の絵すがたが描かれると聴き、宿の母もしきりに楽しんで待っております。出来上ったら一刻も早く、見せてやりとう存じますれば――」
「さればそのまま片里どのと、何ぞ物語をしていやれ、わしは仕上げの筆を終ろう。片里どの暫時しばらくのあいだ御無礼いたすぞ」
 露月はそう言って、絵枠に向い、ふたたび絵ふでを動かしはじめました。
「やはり立っておりましょうか?」
 と、呉羽之介はすがたの出来上るのを楽しみに、いそいそと露月にたずねた。
「いいや、顔だけでよいのじゃ、坐ったままでいなさるがよい」
 露月はすでに絵絹の上にチョイチョイ筆を加えはじめます。
 ――明るくしろ初夏はつなつの日ざしが、茂り合ったみどり草の網をすかして、淡く美しく、庭のもに照り渡り、やわらかな光線は浅いひさしから部屋の中へも送って来ます。端近く坐った呉羽之介の玉のかんばせは斜めに光りをうけて、やさしい陰影になやましさを添い、ふっくり取り上げられた若衆まげのびんのほつれは、を吹いたように淡紅ほんのりとしているほおわずかに乱れ、耳朶みみたぶの小さく可愛らしいのが、日にいて、うすら紅い何とも言われぬ美くしさを見せているのでした。
 片里は煙草盆を引き寄せて、紫煙をゆるくくゆらせつつ、惚々ほれぼれと呉羽之介を眺めていましたが、やがて感に堪えぬげに言い出すのでした。
「ああ、何という仕合者がこの世にいることか――のう、呉羽之介どの――」
 呉羽之介はいぶかしげに、
「仕合者と申しますると――」
「そなたのことじゃ」
 と、片里は煙管きせるたたきながら、
「わしはこれまであらゆる世の中を見て来たつもりだが、まずそなた程の仕合者を、二人と見たことはござらぬ」
「何で私が仕合者でございましょう」
 と、呉羽之介は合点がてんせずに、
「父親にははやく死に別れ、頼りの兄弟姉妹もなく、ただ母親ひとりのたもとにすがって日を送るものでございます」
「いやさ、そなたはまだ此の世の中を、少しも知らぬ身じゃ程に、自分に天から恵まれた、こよない宝も宝と知らぬ――もしそなたが世界万人、誰れもさずかり得なかった大きな宝を授かっているたった一人の人間だと悟る時には、今に時めく大名より、はばかり多いが将軍家より、百倍すぐれた仕合せ持つ自分だと思いつくであろうが――それをし今日にも気づかれたら、今迄とは生れ変ったような生々した気持で、明日からの日を送ることが出来るに相違ない」
 呉羽之介はなおも不審が晴れないのでした。
「よその誰れもが授からぬとはどういう宝なのでございます」
 片里は静かに若衆をながめて、
「その宝はそなたの容貌きりょうじゃ、世の万人に立ち越えたその美くしさじゃ、かてて加えてそなたはそのように若いのだからの」
 呉羽之介はつまらぬ事をと言ったように、いくらか恥かしげにほほえんで言うのでした。
「私は美くしくもありませぬし――若いと申したところで、だれにも一度はある若かさ――そのようなことが、仕合せとは思われませぬ」
「それゆえそなたは世の中を少しも知らぬと申すのだ」
 と、片里はじッと呉羽之介を見て、
「しかし呉羽之介どの、まず考えてごらんなされ。その美くしさとその若さとを大事になされ。そしてその美くしさも、やがて日ごとに衰えて、果敢はかないものとなってしまい、ついには通りすがった人々からさえ、哀れな年寄じゃとあわれまれるようになるのを思い合せて、ても美くしい若衆だと、世間渇仰の的となっている、現今いまの若かさを移ろわぬに惜しみなされ、唐人も歌っているとおり――高歌一曲蔽明鏡こうかいっきょくめいきょうをおおう昨日少年今白頭さくじつのしょうねんきょうははくとう――だ。わしなんぞも今はまだ、腰にあずさも張らぬものの、やがてはあの庭先で、箒木ほうきを取っている下僕しもべのように、ヨボヨボしてしまわねばならぬのじゃ」
 呉羽之介は片里が指すままに庭をながめました。青々せいせいたる梧桐ごとうの下に箒木を手にしている老人は、老いかがんだ腰も重げにうめきながら、みにくいしわで一ぱいになった顔を、日のまぶしさにしかめつつやせ衰えたはぎをふんばり、僅かな仕事に汗水を流して、一生懸命にはたらいているのです。
 片里はうまず言葉をつぐのでした。
「ほんにうらやましいのはそなたの身じゃ、その美くしさとその若かさとを持っていたら、あらゆる此の世の楽しみ、何ひとつかなわぬことはない筈だ」
「なにをおなぶりなされます、私なぞは、せめて父親の遺業をつぎ、一かどの儒者として世に立てたらということばかりが望み、しかし、いかに努めても生得の愚根、とんと自分であきれておりまする」
「ハ、ハ、ハ、呉羽之介どの、学問と言われるか――」
 と、片里はからっぽい笑いを笑いました。
「そのようなものは、ひたい小鬢こびんの抜け上った、田舎者におまかせなされ、学問武芸――すべてああした粗硬のわざは、そなたなぞのるものではない。孔子は恐らく貧相な不男ぶおとこであったろうし、孫子は薩摩さつま芋侍いもざむらいのような骨太な強情きごわものであったであろう――のたまわくや、矢声掛声やごえかけごえは、そなたのかわいい唇から決してれてはならぬものじゃ」
「学問武芸を望まぬとしたら、此の世の望みは何でござろう」
 と、呉羽之介は、いくらか反抗するように、しかし好奇心に充たされた目つきになってたずねました。
 片里はあくまで相手に自説を承認させようとして、
「美くしく、若いそなたの望みとすべき、楽しみ、よろこびのたぐいは、数うるにいとまのないほどじゃ。そなたはまだ気がつかぬかも知れないのう。されど、そなたと袖振り合う女子おなごという女子は、たとえば町家の小娘も、そぞろ歩きの遊びめも、大名高家の姫ぎみも、心からウットリとせずにはいられぬのだ――」
 と、言いかけた時、今まで熱心に絵筆をふるっていた露月は急にあとをふり向きました。
「呉羽之介どの、片里どのの言葉ご用心なされ――学は古今に渡り、識百世をつらぬく底の丈夫ますらおなれど何をねてか兎角とかくおこないも乱れ勝ちな人ゆえ、この人の言うことなぞ信用はなりませぬぞ」
「これはまた聖人どののおしかりか――」
 片里は親しい友人の罵倒をかるく笑い消して、
「呉羽之介どの、わしの言葉がいやしいとて、一がいにおさげすみになられぬがよい。とかく世の中では真実まことのことはおおいかくされ、虚偽いつわりがもてはやされる――しかしながらくれぐれも、わしがそなたに申して置きたいのは、そなたのその美くしさ、その若かさをば大切にして、決して無駄のないようにいたされたがよいと申すことじゃ。世のたとえにも言う通り、三日見ぬ間の桜かな――散ればまだしも、朽ちた花びらがこずえしおれて、浅間しく風雨に打たれて腐ッてゆくさまは、世にも気の毒なものでござる。春夏のさかんな園のながめにも、落葉、こがらしの秋冬が来る。――花のいろはうつりにけりないたづらに、わが身世にふる眺めせしまに――千古の美人にも、この歎きがあるのじゃ、呉羽之介どの、そなたのその美くしさも、神ならぬ身のとこしなえではない。瞬間に尽きて行く美くしさゆえ大事になされと申すのだ」
 呉羽之介は片里の言葉に聴き入りながらに机辺つくえべ花瓶はながめの、緋いろに燃える芍薬しゃくやくの強い香りに酔ったような目付になりました。
 この時露月はようやく最後の一刷毛はけを入れてわれながら、満足したように画面を眺めましたが、やがて疲れ切ったように絵筆をぽんとほうり出して、うめくようにつぶやきました。
「わしには一生に又と、これよりすぐれたものが描けようとは思われぬ」
「オオ、出来上ったか!」
 と、片里は、呉羽之介をみつめていた目を画面へと移し、限りない讃美の声をあげるのでした。
「なるほど、先程にくらべると、ほんの少し筆を入れただけで、また一しお見ちがえるまでになったなんという美くしさ、若々しさあでやかさ――まるでほんものの呉羽之介どのそっくりじゃ」
「わしには一生に又と、これよりすぐれたものが描けようとは思われぬ」
 露月はふたたびうめくように呟やきました。
 そして、はじめて呉羽之介も、恍惚こうこつの夢からめたように、自分の絵すがたへじっと見入るのでありました。

呉羽之介、美の永遠を祈請して悪魔を呼ぶ事


 露月の霊腕になった美麗華奢きゃしゃをきわめた画面に驚嘆した片里は、席をはなれて一そう絵枠に近づきまるで酔ったような目でいつまでも眺め入りました。そしてその後ろには、呉羽之介、その人が、茫然として自分の絵すがたに魂をられたかのように見入っております。
 ――実は呉羽之介は、世にもまれなるおのがすがたの美くしさを、これまでハッキリと自覚したことはなかったのでした。物堅い儒家に生れた彼は、容儀は堂々たるべく正々せいせいたるべしとの家訓は受けておりましても、容貌かおかたちが美しいとかあでやかであるとか、すべてそうしたことは人の口からも聴かなければ、我が身で悟ったこともなかったのであります。第一、士たるものにとって容貌の美醜なぞが何であろう――それは女々めめしい婦女子にのみ関することだという考えが、いつとはなしに心の底に根を張ってしまっていたのです。ところが先程から片里の言葉を聴いているうちに、ふと、今迄に覚えなんだ怪しい思いが胸に燃えはじめて、さてはこの自分のからだには、そうした万人にすぐれた美が宿っているのかと、われながら驚かれると同時に、しかし又あまり大仰な片里の讃詞さんじが、半信半疑にも聴きなされもしたのでした。
 けれどもいま、呉羽之介はまざまざと、自分のすがたを目の前に見たのです!
 ――オオ、これがほんとうの自分であろうか!
 呉羽之介はぬめの上に生々と描かれた、いつぞや等覚院へ詣る途中、池のはたではじめて露月に逢った時そのままの自分の若衆すがたをみつめつつ、まるで喪心したようになってしまいました。かたわらの片里も、今も今とて、これが自分にそっくりそのままだと証言した――露月もそもそもこの絵にかかる当初、どうにかして現在のすがたを寸分たがわず絹にうつして、いつまでも残したいと言いもした――して見れば、ほんとうにこれが自分の正直な絵すがたなのであろう!
 ――何といううるわしさだろう!
 呉羽之介は今更ながら、自分の美貌に気がついて、吐息と一緒に心の奥でつぶやいたのであります。
 ほんに呉羽之介自身にしても、これまでにこの絵姿のように美くしい男を見たこともなければ、これよりあでやかな婦女をちまたに見たこともないのでした。女にしても見まほしい――此の形容のことばはもはやこのような若衆すがたに対しては、役に立つはずがありませぬ。
 重たげに艶々つやつやしい若衆まげ、黒く大きく切れ長な目、通った鼻梁はなばしらほころびる紅花にも似てえましげな唇、そして白つつじをかざした手のあのしなやかさ!
 呉羽之介は、まっ白な、細い手をひざの上にのせてひそかにしらべるようにみつめました。爪紅つまべにをさしたようなうるわしい爪はずれ、品よく揃ったやさしい指――彼は自分のからだに、指先にさえもあの絵すがたにも見られない、より以上の美くしさ、しとやかさ、優美さが宿っているのをハッキリ知って思わずふたたび心に叫ぶのでした。
 ――何といううるわしさだろう!
 激しい感動にわれを忘れてぼんやりとしている呉羽之介を、心配そうにさしのぞきつつ露月は言うのでした。
「どうじゃ、呉羽之介どの、どこぞそなたの気に入らぬところでもあるかな?」
 呉羽之介は不意を打たれて思わずポーッとほおを染めました。
「あまり美くしくお描きなされたように存じまして――」
 正直な絵師は頭を振った。
「いやいや、そなたの美くしさの、万分の一も写し難い――だが、そなたの美くしさは天のたまもの――人間の絵描きの腕ではこれ以上写しがたいのも道理だ」
「呉羽之介どの、御覧なされたか」
 と、片里はじっと顔を見て申しました。
「そなたはこの絵すがたより美しいものと、どこぞでお逢いなされたか? 決してお逢いになったことはあるまい。絵すがたに写してさえ、命のない絹の上に画がかれてさえ、これ程の美くしさだ。そなたの美くしさにはいのちが宿り光りが輝やいている。な、先程わしが、そなたほどの仕合者はこの世にないと言うたのが、嘘いつわりではないことが御合点出来たであろうと思うが――」
 呉羽之介はうっとりと、何やら考え込んだまま返事をしようともしませんでした。
 その有様を眺めて、片里はさも満足げに、
「それに気がつかれたら、そなたのその美くしさと若さとが、どのように大事にされねばならぬかということもおわかりになる道理――そしてまた、どのようなよろこびも楽しみも、そなたの思いのままだということも、自然おわかりになったであろう」
「又してもそのようなことを――」
 と、露月はかたわらから遮切さえぎって、
「何も知らぬ子供の耳に、たわけたことを聴かせずとものことじゃ」
「わしは何もたわけたことは言わぬぞ。わしが思うには、世の中で、およそ一ばん美くしいものは恋じゃ。その世の中で一ばん美くしいものを、世の中で一ばん美くしい呉羽之介どのに教えるのが、何で悪い! お身は絵かきにも似合わぬ木強漢だの」
 と、言う折から、先程から庭掃除をしていたかの老人が、軒下に来てうずくまり、露月に向って言いました。
「あそこに茂った矢筈やはずぐさが、兎角とかくそこらにはびこりますが、いささかのこしてそのほかを刈りとりましてよろしゅうござりますか?」
「庭のこけをいためぬよう、善いようにのぞいてくれ」
 主人の命をかしこんでふたたびかなたに帰ってゆく老いた下郎を眺めた時、呉羽之介のあでやかな面上に、さっと悲哀のいろがうかびました。
 ――そうだ、此の美くしさも永劫ではない――
 呉羽之介は先程の片里の言葉を思い出した。
 げに、一刻千金春宵しゅんしょうのながめよりもはかなき青春よ!
 このあでやかな自分のすがたも、若かければこそ美麗なれ、瞬間にしてあの醜いおいの波は全身を押しひさし、やがてこの身もあの下郎とあまり変らぬむさいものとなるにきまっている――
 と、考えて、呉羽之介は、たった今われとわが身の比類ない美くしさとその値打とに気がついた身であるだけ、一そう激しい失望に襲われるのでした。
「――何という情けないことだろう――すべての人が老いるということは!」
 呉羽之介は、思わず口に出して、こう言って吐息をつきました。
「それゆえ若かさを惜しめと申すのじゃ」
 と、片里は少人の心持が、自分の思う方へと傾いてゆくのに益々ますますよろこばされて、あおり立てるように言うのでした。
如何いかにそなたが美くしいとて、その黒髪にしもが置き、玉の額に傷があらわれ、まなこ落ちくぼみ、歯がまばらになるならば、あの庭掃きとあまり変らずなるであろう――それまでがそなたのいのちじゃ」
 呉羽之介は、熱い息を、炎を吐くように苦しげについて、じッと自分の絵すがたをみつめながら、わななくこえで申しました。
うらやましいはこの絵すがたじゃ。たとえ此の身が老いさらばう時が来ても描かれたすがたに、変りはないのだ――」
「変りはないのは死物しにものゆえじゃ」
 と、片里はかたわらからしえるように、
「そなたは推移の悲哀があろうと、生々としばしの間の若さと美くしさとを十分にたのしむことが出来るのじゃもの、何で死物が羨ましかろう。そなたの美くしさと若さとで、出来るかぎり此の世のよろこびを吸いむさぼるなら、短かいいのちも歎かでよい。世の常の人々は、みにくい姿に生れたために若さがかえって悩みとなり、生の歓びを知らぬに、年を重ね、灰いろの憂いに生きて憂いに死ぬのだ。それに比べてそなたこそ、どんなに幸福かわかりはせぬ」
 けれども、呉羽之介の耳には、そうした言葉ははいらぬように見えました。
「ああ、私はこの絵すがたが羨やましい、此れはいつまでも美くしいのじゃ。もう何年かかった後、老にしおれた私のすがたを、この絵すがたが眺めたなら、どんなにあざけりわらうことだろう。おお、どうぞしてこの絵すがたと此の身とが、所を換えて年を取り、此の身がとわに常若とこわかに、此の絵すがたがこの身のかわりに、老いさらぼうてれたなら――おお、そうだ、しこの事が出来るなら、此の身のかわりに此の絵すがたが老いてゆき、此の身がとわに若々しく、世に美くしくながらえることが出来るなら、未来は地獄の血の池に逆しまに落ちようとまま! あわれ日本、天竺てんじくから、あらゆる神仏――たとえ邪教の神にまれ、または悪魔悪鬼にまれ、若しこの事をかなえてくれたら、永劫未来後の世はおぬししもべとなって暮そう、火の山、針の林へもよろこんではいるであろう――」
「これこれ、呉羽之介どの、そなたは何を申すのじゃ」
 と、露月はかたわらからあわただしく押しとどめて、
「そのようなことを口にして、もし神仏のいかりにふれたら何といたすぞ?」
「いやいや、露月、お止めなさるな」
 と、片里は自分の言った言葉が、案外な力で少年を動かしたのにいよいよ激しい興味を覚えたようでした。
「呉羽之介どのは、世の中の誰れもが心でひそかに願うことを口に出したまでじゃ」
 呉羽之介はもはや我れを忘れて、絵すがたのおもてを刺すように鋭どい瞳でみつめつつ、狂うがごとく、かれたごとく、何やら口の中で口走しっていましたが、やがてその場にうつぶして、低くはげしくむせび泣きをしはじめるのでした。
 露月はうらみをふくんだこえで片里に申しました。
「そなたの下らぬ言葉が、此の少年を堕落させたわ――この哀れな有様を見ても気がとがめはせなんだか――」
 片里は黙って微笑をもらしながら、先程とはまるで違った心の持主となりおわった呉羽之介の、悩ましげなすすり泣きのすがたをば、いと興深かげにながめるのでありました。

呉羽之介、女歌舞伎宇喜川お春と初恋する事


 くれたけの根岸の里の秋けて、片里が宿の中庭の、花とりどりなる七草に、はじの紅葉も色添えて、吹く風冷やけき頃とはなりました。
 秋の入のしずやかなくれないが、ほのかに空明をひたして、眺めかたけきとあるくれのこと、庭にのぞんだ奥座敷に、片里は一人の客を相手に、小さなさかずきをふくんでいました。
 床の香炉から煙の糸が崩れながら立ちのぼり、秋蘭の鉢ものが床しく匂っておりました。
 此の夏のおわりから二月あまり旅に出ていた絵師の露月が、つい二三日前江戸へ帰ったので、今日しも久々の友垣を招き、旅日記を聴こうためのあるじもうけをしたのでした。
 旅の話もほぼつきると、片里は露月に盃をさして、
「そう言えばそこもとも、久々であろうと思い、呉羽之介を相客に招いて置いたが、もうおッつけ見えそうなものじゃ」
 露月は受けた盃に、少人に酌をさせながら、ふと、まゆをしかめるようにして、
「ナニ、あの呉羽之介がまいると申すか、――彼にも、今日はあまり逢いとうはない」
「どうしてかな――そこ許の気性ではなるほどだんだん変ってゆく彼が嫌になるかも知れぬ――しかし、わしは相変らず彼が好もしいよ」
 と、片里はほほえましく申しました。
「わしがはじめて見た時の――いやいやそこ許にはじめて逢うまでの呉羽之介は珠玉たまじゃった」
 と、露月はのろわしく言うのでした。
「わしはあの頃の少年の、毛程もまじり気のないあどけなさを思い出すと、その真珠またまを泥でけがし、清水に濁りを注ぎ込んだそこ許のことを憎まずにはいられないのだ」
 と、片里をジロリと嫉視しました。
 片里は笑って、
「ハ、ハ、ハ、かくわしと出逢うた後の、彼の変化はめざましい。此の頃はもうスッカリ自分の値打が会得が行き、浮世のつまらぬ約束などには、すこしも縛られぬ奔放自由の男一匹となってしもうた」
きよい心の少年の無垢むくな胸を、けがらわしい毒でよごして、何でそのようにうれしいのじゃ!」
「どうも絵かきにも似合わぬ堅苦しいのが、そこ許のきずじゃよ。そこ許のいわゆる毒たるものこそ、此の世のよろこびの別名なのじゃ。毒の味は甘い歓びの毒におぼれて溺れ死ぬのが、一ばん生き甲斐がいのある生き方と申してよろしい――」
 と、言う折しも、取次が呉羽之介の到着を知らせました。
「すぐにこれへお通し申せ」
 片里は露月に向って、
「まァ、見るがよい、前にはなかった異様な美くしさ、生々しさ、び、悩み――さまざまな新らしい色どりで飾られた呉羽之介を眺めたら、そこ許も必らず感歎して、わしをそのように責めはすまい――いっそお礼を申してよいのだ」
 やがて、衣ずれのひびきもしとやかに、縁側えんがわづたいに呉羽之介ははいって来ました。
「この程四五日おとずれも絶えていたが、どこぞ病気にもなりはせぬかと、ひそかに案じていたわけじゃ」
 と、片里は客を招じ入れました。
 呉羽之介は秋ぐさ模様の黒の大振袖の袖から、紅を存分こぼれさせて、あだめかしく会釈しながら
「御無沙汰申しましたゆえ、今日にも伺おうと考えておりましたところ、わざわざのお使、恐れ入りましてございます――露月先生にも、お久しいお目もじでございます。お旅立とうけたまわりながら、何かととりまぎれお留守お見舞もいたしませず、しかしおつつがなくお戻りなされて、喜ばしゅう存じます」
 露月は冷たい、しかし悩ましい眼で呉羽之介をながめて言うのでした。
「わしには何のかわりもないが、そなたはますます変ってゆくそうな――まずまずそれも結構じゃろうよ」
「露月はそなたが先ごろより、遊芸唱歌に身をやつし、煙花のちまたに出入して、若いよろこびをむさぼるようになったのが、何よりも不明でならぬのじゃ」
 と、片里はえましげに美少年をながめて言うのでした。
「今も今とて、そなたの身持が変ったのも、わしという悪友がいるからだと、大分こき下されていたところじゃ」
 呉羽之介は、そうした言葉には耳もかたむけず、露月に向って、
「お目にかかるたびにお礼を申さずにはおられませぬ。お描き下された絵すがたを、私は毎日床にかけて眺めておりますが、何日いつながめても何とも言わず美くしく、どんな気持のあしい時とても、あの絵すがたを見さえすれば、かくも美くしく生れついたわが身の仕合せを思い出し、ついに物事に屈託もなくなってまいりまする」
「わしはまたあの絵を描いたということが一期の不覚と思われてならぬ」
 と、露月はじッと相手をみつめて、
「もしあの絵さえ描かなんだら、そなたが自分の美に慢じて、放埒無頼ほうらつぶらいの浅間しい身とはなりもせずに済んだであろうに――」
 片里はかたわらから話を転じようとしました。
「そのようなことはさて置き、呉羽之介どの、この四五日相見ぬを、そなたはどうして過ごされたぞ。見ればどうやら嬉しそうな、しかしながら何となく、疲れたような影も見える――何やらわけがあるのであろう――包まず語って聴かせられえ」
 呉羽之介はにわかにほんのりと頬を染めて、稍々ややはずかしげにびて笑ったのです。
「ほんに訳があると言えばあるような事があるのでございます――そんなに私は疲れたように、嬉しそうに見えまするか?」
「さては何かわけありじゃな」
 と、片里は北叟笑ほくそえみながら、
「定めしあでやかな色模様の出来ごとであろうな?」
「御かくししても何時いつまでもかくしおおせられるやら――いっそすっかりお打明けして、お二方にもよろこんで頂きましょう」
 と、呉羽之介は小娘のように、ふりたもとひざに重ね、身をくねらせて話し出すのでした。
「あの、まあ、何と申し上げたらよろしいか、つい四日程以前から、私はほんとうの仕合せものになったような気がいたしますのでございます――」
 と、口籠くちごもるのを、片里は追いかけて、
「さあ、さっぱりと打ちあけて、われわれをもよろこばせてはくれまいか」
「それならばお話しいたしまする」
 と、呉羽之介はシナをしながら、
「私ははじめてある女子おなごと恋をしたのでございます……」
「ほほう、そなた程の美しい少人から恋われた女子は其方そのほうに劣らぬ仕合者じゃ。引手あまたでありながら、いままで大凡おおよその女子には振向ふりむきもせなんだそなたが、我から恋をしていると言うからには、定めし相手は稀物きぶつじゃろう……何処どこぞの姫か、くるわ大夫たゆうか。江戸市中の女子どもからねたまれる、そのあやかりものは何処の誰れじゃ」
 と片里が言うのに呉羽之介は答えて、
「何処の姫でも廓の大夫でもございませぬ。その女は名も知れぬ、つまらぬ歌舞伎役者でございます……」
「なになに、女歌舞伎……」
 と片里は稍々やや興ざめ顔に、
「したが女役者にしても当時知られた女もある……そなたの恋人は何という名じゃ」
「私よりほか世の人が、その名を知っていようとは思われませぬ。ほんに哀れなしがない手業てわざにあの盛場から此の盛場あの宴席からこの宴席をめぐり歩く、貧しいさびしい歌舞伎一座の、名ばかりの女役者、哀れなものにござります」
「それは又驚き入った――したが一体いかなる訳から其方は彼女とんだぞ」
「丁度今から四五日前の晴れた夕べでございました。日頃仲よくいたしまする松枝町の友達を、訪ねて帰るみちすがら、さわやかな秋の眺めに心をひかれ、ふらりふらりと我家に近き、神田明神にさしかかりますると、折しも社前の大燈籠の奉納会とやら申しまして、境内は大した人出、寄進の興行にも軒をならべ、余りのにぎにぎしさにさそわれまして、ふと、とある舞台をのぞきますと、見すぼらしい衣裳道具の女歌舞伎があの小野のづうが作とかいう源氏十二段、外の管絃の一場を、懸命につとめて居りますところ。もとよりしがない一座とて、牛若丸はつい何処やらの下僕の如く、吹き鳴らす笛の音さえも心もとなく聴いておられぬ有様でございましたが、ふと皆鶴みなづる姫にいでたちました乙女おとめの姿をながめたとき、私の心はまるで夢現になってしまったのでございます。まあ、何と讃えてよろしいか、その顔なら、姿なら、歌いつ、弾きつ、舞うさまなら、春の華に光を添え、秋の露に色を添えたような美しさと申しましょうか、なつかしさと申しましょうか――ただ一目見ましたこの時から私の心はすっかり彼女に囚われて、まるで疫病に罹ったようにただわなわなとふるえるのでございました。それでただもう一しんに姫の姿を眺めていますと、さきでも多くの見物の中に、私が目につきましたものか、時々何やら忍びやかに愛らしい眼でこちらを眺めあるかなきかの微笑をさえらして見せるようにさえ思われました。私はもう堪え兼ねまして、せめて名なりと聴いて置こうと、つい傍に見ておりました町人に向って訊ねますと、あれは宇喜川おしゅんという、娘役者じゃと教えてくれます。私の心のうちでは、そうしていつまでもあでなる姿を眺めていとうぞんじましたが、四辺あたりの見物の中では目立つ自分が身なりに名さえ知ったからには又の日を期すもよかろうとそのまま其処そこを立去りました。したが、その同じ日の夜半でございます。ひる間眺めた乙女の姿が眼にちらつき、思い乱れて寝られぬままただひとり家をで、思わず知らずぼんやりと最前詣でた明神の境内の方へとまいりますと、坂の半ばでふと行きずりに出逢いましたものがあります。一人の小者に提灯ちょうちん持たせ、小走りに走ってくる姿が、どうやら誰れかに似たようなとよく見ますれば、あのお春――思わず私は「ああ、お春どの」と口走りますると、娘も私をふり仰いで「あなた様は暮れぬさき、明神の舞台を御見物の若衆さまではござりませぬか」と顔をあかめて申します。私は思いもかけず覚えていてくれたのが嬉しいやら、恥しいやら……到頭その夜かりそめの夢のちぎりを結びました……」
 と長物語を途切らせた呉羽之介が恥しげにうつむくのを、片里はにこやかに打眺めて、
「それはそれはお浦山吹――そなた程のよい若衆が貧しい歌舞伎女を恋の相手とは、なにやら物足らぬ心地もするが、またそなた程のよい若衆が、そう恋い焦れる位なら、定めて此上このうえない美女であろう」
「ただ美しいばかりではございませぬ。私は此れまでに、あのようによく歌い、よく弾きよく舞う唄女うたいめを、まだ目にしたことがございませぬ。おお、もし一度彼女をごろうじ遊ばしましたらお二方とて此の私が、こうまで慕うのが無理はないと、屹度きっと御解り下さいます」
「ほんにそなたをそれ程に迷わせた、乙女を拙者達も見たいもの、のう、露月どの」
「わしも絵かきのはしくれじゃ。そう美しい女子おなごなら、是非一度は見て置きたい」
「さようなればお二方に、失礼ながらお願い申し上げまする。今宵も今宵、湯島なる、人目にすくなき茶屋の奥にて、お春と会う手筈ゆえ、御都合よくばお邸より、かの家までお伴をいたしとう存じまする」
「それは何より良い都合」
 片里は呉羽之介にさかずきを献じました。
 秋の夕べの黄昏たそがれの色が、いつの間にか深くなって、座敷にもが照り、庭の秋草の花かげなる小燈籠にも火がはいり、淋しいして松虫が、そこらのやぶで鳴きはじめました。

呉羽之介に思いは深しお春のおとめごころ


 世をびて、風雅でもなく洒落でもなく、詮方せんかたなしの裏長屋、世も宇喜川のお春が住むは音羽おとわの里の片ほとり。色廓くるわはつい程近く絃歌は夜々に浮き立ちて其処此処そこここの茶屋小屋よりお春招べとの客も降るほどなれど、芸道専一と身を占めて、ついぞ浮名うきなも流さぬ彼女も、ふと呉羽之介を見初みそめてより、初の逢瀬おうせよろこびを、また繰返すことのためには、いまは命も、たましいもと打込んで、はたで眺める母の眼にさえあまる程の、うつけごころとなりおわるのでした。
 今宵もくるわの小春屋より是非一くさり舞うてよとの使つかいをうけながら、かぶりを振って答えもないので使はむくれて帰ってゆきました。
 母のおたきは見兼ねるように、いま肌抜いて鏡台に向い、化粧を凝しているお春に言いました。
「これお春このごろ其方そのほうにも困ったもの。あの若殿様とやらが、御贔屓ごひいき下さるようになってからというもの、其方はまるでが抜けてでもしもうたように、唄鳴物うたなりもののおさらえも怠りながら、毎夜々々の逢引ばかりが楽しみそうに、このわしとさえろくに口も利かぬのはどうしたものじゃ。さきさまはそりゃ我々風情には勿体ない御身分らしゅうもあれば、たいそう美しい殿御ぶりでもあるそうな。したが、のう、お春、さきさまが優れた方であればあるだけ、わしゃそなたが心配でならぬ。女子をあさる殿御の心は大てい一つ。みんな一時のなぐさみにして、あとは野となれ山となれ――芸人芸者の我々が、もし、此方このほうだけを打込んで、あとで知らぬと捨てられたら、そりゃ眼も当てられぬ浅間しさじゃ。命と頼む人があると知れば、もとより色香で立つ渡世、たちまち外の世の中からは、あれももう虫がついたと忘れられる。それもよい。がその上命と頼む人に、秋の扇と捨てられたその時にはもう全くの癈人すたれものじゃ。のう。お春。ここをよくきき分けて、若い身そらで無理ないものの、あまりあの殿御の事ばかり思わずに、少しはほかの殿方の機嫌も取ってくだされや。わしゃこの頃そなたを、見るともうもうただ心配で……」
「何をそのように仰言おっしゃってじゃ」
 お春は微笑みの眼で鏡に流眄ながしめをくれながら、ふっくりと愛らしいあごのあたりに眉刷毛まゆすりげをつかいつつ
「わしはまた此のごろほど、世の中がうれしゅうて面白うてならぬ事はないのじゃに……かかさん、若殿様をついひょんな浮気心でわしを手折たおった浮れ男のようにひどくお言やるが、あの殿御はそのような悪いお方じゃないわいなあ」
「それそれ。その通りまるで赤坊のようなそなたじゃから、がぬけていると申すのじゃ……」
「何とでもお言やれ。わしゃどう言われてもあの殿御を、一刻でも忘れはせまいもの……」
 化粧を終ったお春は肩を入れて、さて鏡面のわが姿に見とれながら
「のう、かかさん。もう今宵も迎える駕籠かごが見えそうなもの……おお、あの跫音あしおとは、ありゃお使かもしれませぬ。早く着更えておきましょう」
 と衣桁いこうの方へ立ってゆくのでした。
 その時入口の戸を外からがらりと引あけてはいって来たのは呉羽之介からの使ではありませんでした。結城縞ゆうきじまの着付に八反の三尺帯を鉄火に締めた、二十歳程のいなせな男――それはお春に三つましの兄人あにびとで、十七の時からとび人足の仲間にいたが此の頃船乗りの知辺しるべを頼って、千石船の舟子となり、明日にも江戸から遠州灘を乗り切って大阪みなとへ下る事となり、しばしの別れを告げるために家へ帰ったものでありました。
「やれ妹もいてくれたか。いよいよ船出も迫ったゆえ、今宵は鳥渡ちょっと暇を貰って、かかさんに別れに来た」
「兄さん折よくあったぞえ。もう少しでわしは留守になるところ……もしそのあとへお前が来て、このまま当分逢われないことになったなら、屹度きっと兄さんをうらんだわいなあ」
 お春は着更の手をめてなつかしげに兄人を眺めるのです。
「ほんに其方そちも初めての遠い船出じゃ程に、よう気をつけてたもれのう。わしゃこうして此頃は金刀比羅ことひらさまを神棚へかざり毎日信心しています」
 母はおいの眼をしばたたいて、
「たよりになる男の子は其方そち一人、随分堅固で帰ってたもれ」
「あはは、生死は畳の上でも解らぬこと、灘を乗切る船が沈むとは限りませぬ。わしの身は案じてたもるな、大丈夫。じゃがな、母さん」
 とお春の兄は、何か急に真顔になって眉をひそめ、
「つい今しがた町内の若い衆達に出逢うたら何やらお春の身の上に、変った事でもあるようなひょんな噂をききましたが、堅いお春じゃゆえにせずに、そのまま笑って別れたものの、どうやら少し気にかかる。わしが事より妹の上を、どうぞ気をつけてやって下され」
 母のおたきはそれを聞いて息子と同じく眉を寄せたが、しかそこは女親、娘をかばう情けの口振で
「なんの、なんの、もないこと、もっとも此頃贔屓ひいきにして、始終招んで下さる方があれど、それもただのお客さま、わしがこうしてついてる程に、決して案じてたもるな」
「その贔屓な客というのは、一体どんな方なのじゃ」
「それはそれは美しい、年はわしと同い年、さるところの若殿様じゃ」
 お春は帯をひきしめながら、
「あのような方に御贔屓うけるわしのうれしさを兄さんにも、どうぞ分けてあげたいようじゃ」
「これこれ何をそのように邪気ないことばかり言っているのじゃ」
 母も傍からたしなめます。
 兄人は思い深く、
「ほんに此れは人の口端くちはばかりではなさそうな……したがわしの思うには、いまの其方そちに何を言うても解るまいが、身分違いの色恋は、大てい幸福しあわせに終らぬものじゃ」
「何を兄さん縁起のわるい」
幸福しあわせなればそれでよし」
 兄人は急に鋭い眼付をして、物凄ものすごい調子でつぶやきました。
「わしが此れ程いとしがっているお春めを、もし不幸者にする奴があったら、その時は承知が出来ぬわ。こりゃ、お春、万一その若殿とやらが、其方に邪慳じゃけんな目を見せたら、屹度きっと、わしが敵をとる」
 丁度着更えをすましたお春は、吃驚びっくりしたように兄人に擦り寄って、
「なぜ兄さんそのように恐しい事を仰言います。あの方は決して其麼そんなお方じゃない……」
「まあまあそのうちに解るわい」
 其時誰やら訪れて来ました。
「申し、お春どの、湯島からお迎えにまいりました」
「おや。駕籠かご屋さんかえ」
 とお春はいそいそ立上り、
「今すぐ行くぞえなあ」
「今宵は若殿にお連衆つれしゅがあるそうで、一人舞の御用意をなされて来てとのことですからそのお積りに願います」
 と潜戸くぐりどを開けて使が言い添えるのです。
「そんなら母さん其所そこにある、衣裳かごをとっておくれ」
 お春はそれを駕籠屋に渡し、
「それでは兄さん、行ってくるぞえ」
「わしはすぐ船へ帰るゆえ、それでは、これがしばしの別れじゃ」
「どうぞ身体を大事にして、あまり大酒などしやんな。な、兄さん」
「よいよい、案じないがよい。それでは其方そのほうも気をつけて……」
かかさん。今夜もあまり帰りが遅いようなら先にやすんで下さりませ」
 お春は何処どこか歓楽のさかえちまたへでもゆくように、よろこびいさんで外へ出ます。
「駕籠屋さん、みちのりが遠いほどに急いでやって下さんせ」
 お春は老いた母人をも、遠く船出をする兄人をも、すっかり忘れて了ったように、はしゃいだ声でこう言いながら、やさしく駕籠に身をのせました。
 戸口に立った母兄の、どこやら心配そうな顔を、駕籠提灯ちょうちんがぼんやり照すのでした。

お春悲恋に哭いて自害する事


 根岸の里を物さびしい夜闇やみおかしはじめたころ、片里が住居を打立った三挺の駕籠があって、上野山下を飛ぶがごとく、切通しから湯島台へと上ってゆき、天神のほとり、見はらしの良い茶亭にはいりましたが、これが即ち片里をはじめ、露月、呉羽之介の連中でした。
 家のものに迎えられて、広やかに物数寄ものずきな一間に通り座がまった時、呉羽之介は仲居に向い、
「此れよ。先程使つかいを遣わし置きしが、音羽へ迎えを出してくれたか」
「はいはい早速おおせのままに、迎えの駕籠を差出しました。もう押付おっつけお春どのもお見えになるところでございます」
「しからば此れなるお二方に、それまで酒肴しゅこうのおもてなしをつかまつれ」
 やがて盃盤が運ばれて三人はさかずきを挙げます。
 片里はあたりを見廻して、
吉原きた豪奢こうしゃの春のおごりもうれしいが、この物寂びたやしろの辺りの静かな茶屋も面白い。秋の遊蕩ゆうとうはとかくあまりケバケバしゅうないのがよい。のう、露月どの」
「そうじゃ。拙者などは陰気なせいか、にぎわしい座の酒はうもうない。先日旅の路すがら、箱根を越して三島の近辺、とある山寺に一宿なし主僧と汲んだ般若湯はんにゃとうなどが、まず拙者が飲んだ酒の中での第一じゃ」
 ところへ、仲居の案内につれてお春が現れ閾際しきいぎわでしとやかに平伏します。
 紅燈のもとにきらびやかなお春の姿を眺めるや片里は思わず感嘆しました。
「おお、あでやかあでやか。成程これでは呉羽之介どのが、心ぞ迷われたも無理はない。のう、露月どのそうは思われぬか」
「されば世にも美しい君じゃ」
 呉羽之介は両人の口を揃えた讃詞さんじに、我が身を讃えられたよりもよろこばしく、いそいそとしてお春に云うのでした。
「此れなるは我が兄とも頼みまいらす方々、さ、酌などいたしてまいらせえ」
「おそなわって相すみませぬ。いずれも様の御見みみに入りかたじけのう存じまする」
 お春は三人のそばして、こぼれる愛嬌を見せながら、華奢きゃしゃな手に瓶子ちょうしるのでした。
 軈て片里はうっとりとお春の姿を眺め入り、
「のう、お春どのとやら、其方そのほうは大そう舞の上手でおいでじゃそうな。御苦労ながら、何ぞ一つ見せてたも」
「お恥しいひなびし手振――なれど御所望賜いますれば、一さしお目をけがしましょう」
 お春は静かに次のへと退ったがしばしして、秋の空を思えとや、紫紺に金糸銀糸きんしぎんしもて七そうを縫った舞衣まいぎぬを投げかけ金扇きんせんかざして現われました。
 下手に座して一礼し、さて立上って舞おうとするお春の姿を呉羽之介は夢見るようにながめ乍ら、とは言え二人の前もあれば、今夜は殊に美しく、巧みに舞うてくれればよいと口には出さねどひたすらに、心のうちに念じています。
 お春は楚々そそとして艶然えんぜんたる立姿を紅燈に照させながら、静かに唄いつ舞うのでした。
※(歌記号、1-3-28)しづの身なればいろには出さぬ、ただこころのうちにこがるる※(歌記号、1-3-28)たちよりむすぶ山の井のあかれずあかぬうちはな、松の二葉よ千年ちとせるまで※(歌記号、1-3-28)筆でかくとも絵にうつすとも更らにつきせじ松しまの波はうつらふ月の影しまの数シン知れぬ……。
 唄を聴き、舞を眺めていた呉羽之介は、やがて苦しいような顔をして手にしていた盃を下にき赤面を感じたように怯々びくびくと、二人の客を盗み見ました。すると二人の客は、初めのうちこそ熱心に耳を傾け目をそばだてているようであったが、しばしすると興醒きょうざめたような顔をして、気の毒そうにたばこなど吹しはじめました。
 実にこの唄はまるで未熟なお稽古けいこ娘が口ずさんでいるようで、その舞は何の味いもなく、ただ覚えたままを辿って手足を動かしているにすぎぬように見えるのでした。呉羽之介には何が何やら訳が解らなかった――曩日さきのひ、それもたった四日前あの明神の境内で、浄瑠璃姫じょうるりひめに扮したときの、あの巧みさ神々しさ、見る人をして酔わせずには置かぬような芸の力は、今どこへ行ってしまったであろう……
※(歌記号、1-3-28)たんだ人にはれないものよ馴れての後はるるんるる身がだいじなるものはなるるが憂いほどにかついだ水がゆらゆらたぶつきこぼるるけなものを※(歌記号、1-3-28)うつつな殿は都に……。
 と舞納めて一礼したお春を眺めて、
「あでやかあでやか」と片里は言いました。
「見ごとな姿じゃ」と露月も言います。
 けれどもそのことばは唄をめたのでも舞を讃えたのでもない。ただ人形の美しさのお春の姿を讃賞したのである――呉羽之介にはそれがよく解かるのでした。そして二人の手前穴へもはいり度いのでした。自分の恋人が、こんな無芸な下流の女役者だということを、此の二人の師友はどんなに心のうちあざけり笑っているだろう――彼れはあの永劫を誓った恋が今一時に冷めてしまったのを感じました。
 艶然えんぜんとして微笑みながら、舞衣姿まいすがたのまま酌をしようとするお春を後目しりめにかけて、呉羽之介は不機嫌に、震える声で言うのでした。
「さあ、そなたは次のへやへ退ってしばし休むがよかろうぞ」
 不興気な呉羽之介の声音こわねをきいて、お春はいぶかしそうに恋人の顔を眺めたが、しかし何の疑いも抱かぬように大人しく座を立ちます。
「さようなれば皆々様、しばらく御免下さりませ」
 後見送りもせず呉羽之介は、恥辱と怒りを包んだ声で、詑びるように二人に言いました。
「まことに申訳ありませぬ。あんなつたない芸とは気が付きませずわざわざ見に来ていただいて何とお詑してよろしいやら」
「いやいや舞は拙うても、あのような美しい女子なら、たとえ唖でも千里も通おう……」
 片里はたわむれ言にまぎらして、呉羽之介を慰めます。
 呉羽之介は不愉快を、どうにかして振払おうとするように、
「ほんに拙い手振を見て、私も胸もちが悪うなりました。なんとぞして色直しの酒事でも……」
 と考えて思い付いたように、傍の仲居を顧み、
「おう、そうそう。幸い隣の藤茶屋に名代の子供が出たとかいう。これからお二方を彼方あちらへお連れ申し上げて下され……お二方さま、何やら私はこの席が急に厭わしゅうなりました。我ままついでに此の席を、直ぐに移して下さりませ」
「まあそのように不機嫌な顔せずとお春どのをま一度眺めて、この席で酒宴をつづけよう」
 片里はなおも慰めて見ました。
 けれども若気の一徹に呉羽之介は聴き入れません。
 仕方がないので片里露月の両人は仲居に導かれて裏門通いに隣り茶屋へと出て行くことになりました。
「私はちと用事を落してまいりませば、一足お先にお出で下され」
 呉羽之介は両人ふたりにそう断って、自分は一人後に残り、隣座敷に入って行きます。
 どうやら首尾が悪いのに気がついて、しょんぼり一間に頭垂うなだれていたお春は、はいって来た恋人を眺めつつ、はかなくにっこり微笑むのでした。
 呉羽之介はにこりともせず、傍に突立ったままジロリながめて、
「お春どの。そなたは今宵はどうした訳じゃ――何というつたない手振を見せたのじゃ」
 と、お春はにわかに元気付いてかえって自慢そうに邪気なく、
「私の舞や唄が拙なくなったのは当然でございます」
「なんということを言うぞ」
 呉羽之介はおろして、
「私はもうそなたのような、拙ないわざしか身に持たぬ、浅間しい娘は厭わしゅうなったじゃ。お春どのどうぞこれまでの縁をば此れきりあきらめてしまって下され」
「あれ、何という人悪ひとわるな」
 お春はに受けぬように、
「私の手振が拙なくなったのをば、若殿様あなたはめて下さるのが、順当なのでございまする」
 呉羽之介は黙ったまま冷たくお春を眺めています。
「まあまあそんな恐ろしいお眼をしておめ遊ばさじと、お聴きなされて下さりませ」
 お春は呉羽之介に擦り寄って、
「此れまで私の舞や唄に、美しさの巧みさとでも申すものがあったのは、私の心に恋がなかったゆえでござります。私だとてうら若い娘ごころの悩しさに、折ふし人恋しさに燃えながら、心にかなう男もないまま、ただひたすらに芸道にのみおもいを浸し、語りものの中の男女の情けのたわむれは、おのが想いをのみ込ませて、舞台の恋を真の恋と思いならして居りましたゆえ、此れ迄の私の舞や唄には恋のよろこび、恋の哀しみ、とりどりな真心が流れておりましたろう。それがひと度、その愛らしくお美しいあなたのお姿を見ましてからは、いままで男の代りに恋した、芸道舞曲の百年の恋も冷め果てて、人から言われれば言われるままに、唄うものの舞うものの、私の心はもう何の望みにも燃えもせず、胸の底には片時はなれず、あなたのお姿、お笑顔がちらついておるのでございます……若殿様、此のような心になりました私の、舞の乱れも唄の拙なさも、当然の事ではござりませぬか……」
「言わせて置けば理非もない……かく其方そちの美しさも、其方の芸が巧みであったればこそ、私の心を引いたのじゃ。辻に唄う盲女にも劣る芸しか持たぬ、其方にははや要はない。それではこれでおさらばじゃ」
 呉羽之介の真面目な怒にお春はようやく気がついて、気も狂わしく取縋とりすがり、
「若殿様、なぜに其麼そんな情ないことを……」
「ええ、もう、其処そこ放しゃれ! お蔭で兄とも師とも頼むお方の前で恥をかいたわ!」
 と呉羽之介は荒々しくお春の手を振払って、既に部屋を出ようとします。
 お春は今は蒼醒あおざめて、
「すりゃ真当ほんとうに私を、お捨てなさるのでござりまするか……」
くどいわ!」
 呉羽之介は未練気もなくこう言って、急いで部屋を立去りました。あとにお春はしばしが程は、悪夢を見ている人のようにただ茫乎ぼんやりとしたまま坐っていたが、やがて前へと身を投げて、よよと哀しくき崩れました。
 それから半時程経った後であった。お春は我家に近いあたりを送りの駕籠かごでゆられていたが、ふと泣き湿れた顔を拭いて、垂師たれをはねて駕籠かきに言いました。
「たしか此処ここは南海寺、わしは寺内に棲んで居る知人をたずねてゆきたい故、鳥渡ちょっと下して下さんせ」
「じゃと申してもう夜も大ぶん更けました。明日のことになされては……」
「いやいや急ぎの用事故、わしはついちゃっと用をたしてゆく程に、其方そち達は此処から戻るがよい」
 お春は駕籠を下り立って、いくらかの酒代さかてを二人につかわし、礼の言葉を後に聴いて、小走りに急ぎながら、物寂しい夜半の寺内へはいってしまうのでした。
 やがてお春が辿たどって来たのは、南海寺の裏地に続いた、すさまじい墓地の辺りでした。秋の夜空は黒く澄んで、月の光はあおく輝き、こけのひまからこおろぎの哀しい声がきこえていた。
 お春は小さな石塔の前に坐って手を合せながら言うのでありました。
ととさん。わしゃ殿御に捨てられて、かかさんにも兄さんにも、どうこの顔が向けられよう。こんな悲しい、味気ない浮世にはわしゃもう飽きた……じゃ、すぐお側へゆくぞえ……」
 お春はくれないのしごきを解いて、堅くひざをくくり合せ、えりを開けて真珠の胸を露わしたが、やがて金簪きんかんざしを乳房の下に突き込んで、そのまま前に倒れ伏しました。一声鋭どい苦悶くもんの声が、みしめた歯の間をれたが、その声がかすかに消えると、その後へ限りない静けさが来ました。

呉羽之介曩日の祈誓納受されしを知りて
愈堕落の淵に沈む事


 その翌日の朝です。呉羽之介は我家なる書斎に坐って、朝茶を飲みながら昨夜の恋の紛紜ふんうんを考え出し熱く邪気ない恋をしてくれた小娘をああした邪慳じゃけんな捨て方で捨ててしまったのがどうやら残り惜しくも思われれば、またあのような下流な女に関係かかわって、もすこしで大事の青春を縛られてしまうところを、よくもまア我乍ら思い切ったものだなどと考えもしながら、半ばは気がとがめるような、半ばは重荷を下したような気持で四辺あたりを眺めていると、ふと彼のまなこに床に掛けたかの露月が筆になったおのが絵姿に注がれたのであるが、その瞬間、呉羽之介は思わずアッと驚きの声を揚げて、席を立って床の前に走り寄りました。
 呉羽之介は毎日見馴みなれたおのが絵姿を眺めつつ、一体何を驚いたのでしょう! これが驚かずにいられようか――今朝見るあの絵姿の面影は、きのうのそれとは確かに変った表情をしているのです。
 成程ひと目見流しただけでは、どんな変化があるか解らないまでに、絵姿の面貌は相変らず美しく姿は相変らず清楚せいそとしています。しかしその眼元はあの無垢むくな光を失って一種鋭どい酷薄な光りを帯びやさしくほころびかかった花のつぼみのようであった唇の辺りには、妙に残忍な邪慳じゃけんな調子が表われているのです。
「おお、一体こりゃどうしたものじゃ」
 呉羽之介は戦慄せんりつしながら、なおもその絵姿に吸いつけられたように眺め入っていたが、やがて何やら思い付いたらしく、
「ああ、何という恐ろしい事だろう」
 とつぶやきつつヘタヘタと其処に坐って頭を抱えてしまいました。
 呉羽之介は此の絵姿が仕上げられた時、あの露月のあんで我を忘れて無宙に祈誓をしたことを想い出しました。おのが姿の世に優れて美しいのに気が付いた驚きと同時に、此の姿も年るに従って老い衰えてしまう事のあまり口惜くやしさに、あの時悪魔魔神に祈って、どうぞこの絵姿をおのが身の代りに老いたれさせ、変化させ、そしてこの身を常若でいさせてくれたならば、未来は地獄にも落されようと誓ったのであった――それを呉羽之介は思い出しました。そして今更言い表わし難い恐怖の感じに身を震わしているのでした。
 悪魔は実にあの時呉羽之介の怪しい祈りを納受したのです。そして何時いつの間にか魂が腐ってしまい、昨夜お春に対して挙動ふるまったような邪悪無情な事をするようになった呉羽之介に相当する獰悪どうあくな表情を絵姿の上に加えたのであります。
 呉羽之介は今更ながら、自分の魂の醜くさをまざまざと眼の前の絵姿の上に見せつけられて後悔慚愧ざんきに身の置き処もなく、まるで死んだもののように俯伏うつぶしているのであったが、ふと誰やらが近付いてくる跫音あしおとに、我れに返って起き直り、何気ない容子を装いました。
 召使は一封の書面をもたらしたのです。受取って見ると、封書の裏に、「根岸の里にて、大戸片里」とかいてあります。
 封押切って読んで見ます。
急々一書を裁しそうろう昨夜は数々の御厚遇大謝大謝しかるに今朝承及候うけたまわりそうらえばかの舞妓春どの夜前小石川南海寺にて変死を遂げ候趣き驚き入り候右御伝聞未だしきやと存じ候えばお知らせ申候……。
 此処まで読んで呉羽之介は色を失いました……さては自分の無情をうらんで、彼女は自害を企てたか……。
 呉羽之介は一たんは非常な驚きと悲みとに打たれたものの、しばしの後はいつもの心に返っていました。
 そして魔のいた絵姿を見上げ、よしんばこれから七十年の月日が経っても、此の身は常に若々しく美しく、その代りにこの絵姿だけが年寄り老いるという不思議な事を、今は物恐ろしくは思わずに、かえって嬉しく、よろこばしく感じ乍ら、会心の微笑えみもらすのでした。
 然し此の不思議な絵姿を、もし他人に見られたなら、世間に妙な評判が立って、自分を相手にする者もなくなろう――呉羽之介はやがて其処に気がきました。そこで急に絵姿を床から外して、錦の袱紗ふくさで幾重にも包み、箱に納めて厳重に錠を下してしまったのであります。

呉羽之介、遂に旧友露月を小梅の隠家に殺す事


 おのが美容が不思議な魔神に護られていると悟ってからの呉羽之介は、ますます放埒無慚ほうらつむざんに陥って、もう静かに学問を楽しむことなどは忘れて了い、今日も明日もと花柳烟花えんかちまたに日夜を送る、眼ぼしい美女と見れば秋波を寄せ、きて直ちにふり捨てて次の女を我が物とし、もう全くの遊蕩児ゆうとうじとなり終ったので、母人も悴の身の上を苦にして歿去したのであるが、呉羽之介の方ではそれを良いことにいよいよ魔道のよろこびに、われを忘れておぼれ入るのでした。
 そうして幾年いくとせるうちに、何時いつまで経っても変らぬ若さを怪しんで、幾らか妙な噂が立ち、不身持の評判も聞えはするが、どんな人でもただ一目、呉羽之介の無邪気そうな、つややかな、なよなよした、罪も汚れもなさそうな姿を見ると、いままで抱いていた疑念もひとりでに晴れてしまった。ただうっとりとしてしまうのです。
 それを知っているから悪賢い呉羽之介は、一つ処に長くは住まず、広い江戸の中をかしこ此処と移り住んで、身をくらましなが益々ますます悪事を重ねるのであります。
 ある春の宵でした。今宵も呉羽之介は、此頃馴染なじんだ奥女中が丁度宿帰りの日に当るのを幸い、しめし合せた茶屋へ行こうと、小梅の隠れ家を出で立って、春夜の微風に頬快く吹かせ乍ら、吾妻橋あづまばしへと差蒐さしかかります。小唄口ずさみつつ橋の丁度半ばまで来たとき、通りすがった一人の武家が、薄闇に顔をすかし見つつ声をかけました。
「呉羽之介どのではござらぬか?」
 呉羽之介はその声音こわねを聞いて渋い顔をした。もう小一年あまり出逢うたこともない、あの堅人の露月の声でありました。しかしいともなつかしげに、
「これはこれは露月先生、ついお見それいたしました。その後存じながら御無沙汰」
「それはお互のこと――然し乍ら今此処で出逢うたは幸福しあわせ。実は是非其方そなたに逢わねばならぬ訳あって此頃御住居を片里に訊ね、小梅にまでお訪ねいたそうとしたところ……」
「それはそれは恐れ入りました。御用もあらば此方こちらより、早速推参つかまつりましょうに」
 呉羽之介はこの男と話すのが鬱陶うっとうしいのと、殊に今夜は女との出会の約束があるのとで、一刻も早く別れてしまおうとしました。
「今宵は折あしく、のっぴきならぬ所用があって、鳥渡ちょっと其処まで行きます途中、いずれ明日にも参上いたし、御用の趣きもうけたまわり、つは久々にての御物語もお聴致し度う存じまする……」
「今宵は何ぞ用があると仰せらるるか」
 露月は失望したように、
「なれどもそれは今夜に限った用でもあるまい。わしの用事は今夜に限るのじゃ――呉羽之介どの。拙者わし此度このたび九国への遍歴を思い立ち、もとより絵かきの気楽な境涯もはや親兄への暇乞いとまごいも済まし、其方と今宵語り明して、明朝直ちに発足ほっそくなそうと、御覧ぜられえ、此の通り旅の姿をいたして居る。遠い九国への旅立なれば、帰るのが何年いつになるやら、……まずまず今宵は拙者のために、貴用をのばしてくられよ」
 見れば成程割羽織わりばおり草鞋わらじはばき、両刀につか袋をかけた旅装でした。呉羽之介は振放しかねて、
「それはそれは。九国とはまた遠国へ……イヤナニ此方こっちの用事は使つかいで断わりましてもよろしいこと。それではこれより手前の住居へ、直ちにお伴いたしましょう」
 やがて両人は小梅の隠家かくれがへ着いて、呉羽之介は客人をおのが居間へと招じ上げ、それから茶が出る酒肴が出ます。
 しばしすると、かの露月は、何やら事ありげに呉羽之介を眺めつつ
「呉羽之介どの、実は密々にて少しく申上げたい儀がござる。暫時ざんじこれなる酌人を遠ざけ願われますまいか」
 呉羽之介はまた例時の諫言立かんげんだてと思ったが、かく、左右の酌人を遠ざけて、
「御用と仰せらるるは、一体何事でござりまするか」
 露月は凝乎じっと相手を眺めて、
拙者わしが殊更其方そなたに向って話し度いと言うのはほかでもない。久方ぶりの其方に拙者とてもとより気まずいことは言い度くないが、ま、少しは聴きづらいことなりとも、どうぞ忍んで聴いて貰おう……」
 露月は扇をひざについてかたちを正し、
「実は昨日さる処で、不思議なことをきいたのじゃ。絵かき仲間の四五人が拙者の旅出の祖道の宴を開いてくれたと思わっしゃれ、その席上での四方山語よもやまがたりに、さる仁が申すには、久しき前より花柳のちまたを、色香床しき若衆が一人徘徊はいかいいたし、ひと度この者に出逢うが最後、如何いかなる心しまった女子おなごなりとも、性根まで溶らかされ魔に魅入られたが如く心乱れ、ついにはいずれも命まで失う有様、しかもこの若衆というは色里にさ迷うこと既に数年に及べども、何時いつ眺めても年の此頃十七八にしか見えぬとか――彼奴あいつは大方禁制の切支丹伴天連きりしたんばてれんの秘法により、不老の魔術を行って、此の世を騒がす邪宗と見える。只今ただいまではこの事ようやく公けに聞え、上ではよりより詮議の最中――此の事を聞いた時拙者は其方そなたを思い出した。ま、怒らずとお聴きゃれ、思い出ずれば八年前、其方に不忍池畔に出逢い、友のちぎりを結んでより、拙者の情誼じょうぎはいつも変らぬ。拙者は絶えずそなたの身状を案じておるのじゃ。しかるに其方は頑固すぎる拙者よりも、かの放蕩ほうとうの片里を好み、だんだん拙者にはうとくなったに依り、此頃では打絶えて訪れも交さねど、それは其方の求めた事で、決して拙者の本意ではない。その間かけ離れて三月に一度、年に一度思わぬ邂逅かいごうなすたびに、いつも拙者が怪しむのは、何時まで経っても其方の姿が、あの上野山下の奇遇の節と、寸分変らぬ美しさ、若々しさを保っているという事じゃ。な、呉羽之介どの人というものは、総てひと日ひと日年をとる。生れたての赤児より、八十の老人に至るまでいつもだんだん変ってゆくのが天の道理じゃ。しかるを其方がこのように、世にも不思議な何時までも、そのうら若さを保っているのは、とても理窟で考えられぬ。其処でつい拙者も疑うのじゃ――呉羽之介どの。真逆まさかに其方は世評の如く切支丹の邪宗を信奉なし、魔術を行うものではあるまい……しからば一体どうした訳で、かくも常若でおわすのじゃ。此の返答がうけたまわり度い」
 呉羽之介はあおざめて聞いていたが、かすかに笑ってまぎらすように、
「気もない事……若々しく見ゆると申せ、それは普通、私はまだ二十五にしかなりませねば、今から老けては溜りませぬ」
仰言おっしゃ。そのずれなこと、二十五になれば立派な侍、そのように女子おなごに似た声とは声からして違うわ! 拙者わしは世評があまり高いに気にかかり、旅出の前のせわしさをなげうってわざわざ此事を訊ねに来たのじゃ。さ、ハッキリと返辞をなされ」
 詰寄る露月を呉羽之介ははじめて冷やかに嘲笑あざわらうのでした。
「ははは、しからば露月先生。し此の私が、伴天連の秘法を学ぶ者なれば、どうなさる御所存でござりまする」
 露月は呉羽之介をめつけて、
「さる時には容赦は致さぬ。お上の縄にかけられて竹やりあばらを縫わるる前、せめては朋友の情に依り、此の拙者がこの場で命を貰うばかり――世評がまことと解りなば、呉羽之介どのその場を立たせは申さぬぞ」
 呉羽之介は、思い入ったような露月の面持を眺めて、もはやまぎらかすことも出来なくなり、今は自棄になって震える唇で言い放ったのでした。
「ま、きめされ。露月どの」
 言葉付きさえ暴々あらあらしく、「其方そなたは私の身の上を、何やかやと悪く言うが、その悪口に相当した、卑しい私と成ったのも、もとはと言えば其方のせいじゃ」
「な、なんと言う――」
「そのずれな恐ろしい顔をせずと、今其方に見せてやるものがある程に、私についてこうおじゃれ」
 呉羽之介は席をはなれ、露縁の下に置石の揃えてあった庭下駄をはき、庭に下り立ちて露月を招きます。露月は半ば疑い半ば怪しみつつも、招くがままに同じく庭下駄を突かけた。そして相手の導くままに、荒れるに委せた広い庭を奥へ奥へとたどってゆくのです。
 やがて植込の一ばん奥の、こんもり茂った丘の上なる小さな堂の前まで来ると、呉羽之介は立止り、懐中から鍵を出して遣戸やりどを開き先に立って堂内にはいりました。そして入口の棚にのっていた燧石ひうちいしをカチカチやってかたわら雪洞ぼんぼりに火を移し、戸口に立った露月を顧み、あざけるごとく言うのでした。
「さ、露月どの、わしの信仰する神様のあらたかな御影みかげを拝まして進ぜるわ」
 露月は刀を引付けて、油断なく屋内に入り、いぶかしの眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはるのでした。
 やがて呉羽之介は堂内正面に安置された仏壇に似たずしに近づき、その扉をば又も鍵で押明けさてこの内に雪洞を差しつけ、
「これがわしの護神まもりがみじゃ。善う見なされ!」
 露月は眺めて、思わずアッと声を立てた、其処には一幅の絵姿が掛けてあります。若衆ぶりの立姿を描いたものだが、おお其の若衆の顔の恐ろしさ。眼は邪慾の光に物凄ものすごく輝き、額には疲れと恐怖のしわがたたみ、口元は色情の罪のゆがみに引歪められて、毒々しい真紅しんくな唇が妖怪らしくあおざめた顔色と物恐ろしい対照を作り、とても人の姿とは思われぬ、まるで悪魔の姿でした。
「此れは何じゃ……テモ恐しい」
 露月のことばを呉羽之介は嘲笑あざわらって、
「其方は覚えていやらぬか――今より八年前、其方が描いた私の姿じゃ」
 露月は云われて初めて気が付いた。成程この絵姿の気付きづけなら手にした白つつじなら、あの時自分で描いた呉羽之介の絵姿に相違ない。しかしこの顔はどうした訳……。
「其方があの時私の絵姿を描かなんだら、私も何も悪魔と親類にならずともよかったのじゃ。こう言ったら思い出さりょう」
 呉羽之介は意地悪い声音こわねで、
「あの時其方があのように私の姿を美しく描いて見せ、片里どのがさまざまと私の心をあおったゆえ、私ははじめて自分の姿が世の万人にすぐれているのに気がついて、その折角せっかくの美しさが、年と共に衰えゆくのを口惜くちおしく思い、ながら悪魔を呼んで、どうぞこの絵姿をわが身の代りに年寄らせ、わが身を常若であらせてくれえと祈ったのを、其方は忘れて了われたか。私も真逆まさかにあの念願が届こうとは思わなんだが、どうした訳か受納されて、今ではかえってわれとわが身がおとましいわ、あの時、其方が此の絵姿をさえ描かなんだら、すべて自然に此の私も、此の世を素直にすごせたのじゃ――なら、露月どの、私が卑しくなったのも、其方のせいじゃという訳が、今はよくよく解ったじゃろう……人というものが年寄ると醜くなるのは、身に行った罪尤つみとがが顔に写って表れるのじゃ。それゆえわしの真の面影にあるように醜く汚いものなのだが、悪魔の力でともかくも、かく常若でいられる訳……」
 露月はまるで気を失って了ったように、茫乎ぼんやりとして何時いつまでも絵姿のおもてに見入っています――此の後姿を眺めていた呉羽之介は、露月に対する憤りが納まってくるに従って、ふと一種別な恐怖にとらわれはじめた。先程は露月のあまり手きびしい罵倒に我を忘れて、此の何も知らない絵かきの吐胆どぎもを抜いてやりたさに、自棄になって此の場へ導いて来たものの、考えて見れば此の男に、自分の大切な秘密を打明けてしまった訳だ――一体秘密というものは、誰れにか一人に知られれば、やがて天下周知の事となります。秘密すべき事ほど話したいが人情、此の露月がこの事を言い触して歩いた時には、もはや世の中が怪しい評判を立てていると言う処へ、一層の不思議な世評を捲き起してしまうだろう。しかも評判だけならよいが此の男の証言はあらゆる世評にちゃんとした証拠を与える――そうなればこの自分は、すでにもう天下に身をかくすところもありませぬ。
 呉羽之介は決心して、物凄ものすごい眼をギラリと光らせ、気抜けのしたような露月の油断を見すまして、腰の小刀をソッと抜き、後ろから脊筋の脇を切先深くズバと突きました。露月はアッと叫びざま、虚空をつかんでうめいたが、呉羽之介は猿臂えんぴを伸して藻掻もがく相手を組伏せたまま、小刀逆手さかてにズバズバと細首をき切って了いました。
 しばし後呉羽之介は、我家の庭を盗人ぬすびとの如く足音忍んで、玄関の方へ廻って見ましたが、幸い召使もいない様子なので、脱いであった草鞋わらじばきや両掛の小さな荷物を取集め、堂門の死体の側へ運んで来て、畳をはがして縁の下の土を大刀で深く掘り、死体は勿論証拠となるべき一切をうずめて了い、ひきちぎった襦袢じゅばんそでに泉水の水を浸して畳の血汐ちしおを洗い去り、入口の錠を厳重に下して、何気ない顔で家に帰れば、召使達は勝手元に待くたびれて居汚く居睡いねむっています。
「これよ」
 と呉羽之介はわざと高く呼びました。
 召使どもは驚いて眼をました。
「客人は只今ただいま裏門よりお帰りなされたゆえ、もはや其方そのほう達も休むがよい。大分更けた」
 丁度遠路へ旅立つ折であった故、露月の姿が江戸から急に消え去っても、誰れも怪しむ者はありませんでした。

呉羽之介、お春の兄に劫かされ、
のち怪死を遂ぐる事


 ちぬのうら波うらうらと、眠るは春の凪日和なぎびより、沖のこがらし吹っ立って、※(「革+堂」、第3水準1-93-80)どうどうの浪すさまじき此処は堺の港まち、けの空とぶ綿雲の切間を、のぞく冬月の、影物凄き真夜中ごろ、くるわに近き裏町を黒羽二重くろはぶたえに朱色の下着、若衆まげを少し乱れて、飄零ひょうれいとして歩いてゆく、世に美しい青年がありました。それはかの呉羽之介で、露月を殺してのち幾年か江戸に棲んでいたが、やがて広い江戸さえ狭くなり、今は片里にすら別れのことばを交さずに、忍んで西へ下ったのです。京、大阪も一通り、流れてついにこの港へと迷い込み、今宵も宿より、廓へと美女をあさりに行く途中。もとより長き放埒ほうらつに、貧しく乏しくなりはしても、玉より輝く美容のために身を粉にしても、入揚いれあぐる娼婦しょうふの数もすくなくないのでした。
 とある汚い酒店さかみせで流れの女を相手にして飲み酔っている一人の荒くれ男がいたが、丁度その時その店先を通りかかった呉羽之介をゆびさして傍の女が何やらささやくやいなや、矢庭やにわに血相変えて、店を飛出し、呉羽之介の行手に突立ち、懐から取出した種ヶ島を突きつけながら怒れる声に叫ぶのでした。
「やおれ、妹のかたき――逃がすものか!」
 呉羽之介は飛び退って刀へ手を掛けながら、
「妹の敵? 私は敵呼わりされる覚えはない」
「言って聴せる。よく聞けよ。今から十年余り前おぬしに捨てられて自害した、お春が兄の久次は俺だ。常々妹に言ってきかせた通り、あれを邪慳じゃけんにした奴をば、俺は皆敵を取る、ぐずぐず言わずに往生しろ」
 呉羽之介は、ギックリしました。が、やがてカラカラと嘲笑あざわらって、
「十年余り前私が女を捨てたとナ――つまらぬ事を言わぬがよい。さア、私の顔を見よ」
 男は不審な顔付になって、月の光に相手の面輪おもわすかし見ました。そして呆気あっけにとられて手の種ヶ島を取落しました。
「成程これは無調法……十年前なら其方そなたはまだ子供でござったろう――やあ、思わぬ罪を作るところ何卒なにとぞひらにゆるして下され人違いじゃ」
「ははは。気をつけたがよい」
 船乗らしいくだんの男は、取落した種ヶ島を力なく拾って、トボトボと前の酒店さかやへ帰ってゆきます。
「どうして生かして助けたぞえ」
 以前に呉羽之介をゆびさして囁いた流れの女が男に言いました。
「どうしても、こうしても……お主のお蔭で罪もない若衆を殺すところ、妹が死んだ頃あの仁はまだ子供じゃったぞ」
「そんならお前は知らぬのかえ、あの男は万年若衆と江戸で名高い、いつまで経っても若衆でいる妖怪なのじゃ。わしが吉原にいた頃からあの男はいつもあの年頃……」
「そりゃ真個ほんとうか!」
「真個も嘘も――名高い事じゃ」
 と聴いた男は狂気の如く、再び呉羽之介の行方を追いかけました。
 けれども、もう、呉羽之介の姿はどこにも見えません。
 一方、呉羽之介は、男の手から逃れるや否や細い横丁へと駈け込んで、人無き方へと逃げのびました。
 到頭呉羽之介がさ迷いついたのは、屋根も朽ち壁も落ちた破れ寺の境内でした。胸の動悸を静めるために、こおるが如きかけひの水を一すくいして、冷たい石段に腰を下しました。
 と、折しも本堂では、老僧の声で物も哀れに普門品ふもんぼんを読誦しつつ、勤行ごんぎょうかねが寂しくきこえて来ます。
 呉羽之介は耳を傾けるともなく、心耳しんじを清くして聴き入りました。
 そのきよい読経の声が、けがれた彼れの胸に呼び起したのは何でありましたろう。その後一度も思い出しもせなんだ、あの初めの女のお春の面影でした……まことに、あの兄なる者の言う通り彼女を殺したのは手を下さずとも此の自分でなくて何人たれか?
 呉羽之介は不思議にも、先程の恐ろしい出来事と今聴くさびしき看経かんきんの声とに頭がみだされ、今迄の来し方を思い出しました。
 総て、総て、罪でした――罪のつらなりでした。
 何人の女が、自分に迷って死んだであろう……あまつさえ、旧い朋友を、やいばにかけた事さえあるのです。
 呉羽之介は我にもあら戦慄せんりつしました。そして今迄の自分の罪悪がのろわしく、その呪わしい罪の源となった、かの絵姿が堪えがたく呪わしく成るのでした。
「よいよい。私も此処等が悟りを開く時じゃ。今迄随分限りなく愛されもし、酔いおぼれもした。肉のよろこびは、じゃが、どこまで繰り返しても同じこと……私は退屈した。此れからはあの御坊の弟子にもなって、有縁うえんの人々の後世ごせ専一と祈ろうよ……」
 呉羽之介は発心ほっしんして、淋しくかすかに笑を浮べました。そして虚無僧こむそうの尺八の如く背負った、背なる錦の袋を取って開けひらき、中からかの絵姿を取り出して、月の光にかざして見るのでした。
 何という恐ろしい面影――。
「此れが私の罪のかたまりじゃ。まずこれを裂き捨てよう……」
 呉羽之介は小刀を抜き放って、絵姿の若衆の胸板眼がけて突刺しました。と、その途端、彼れはキャッと悲鳴を発して前へと打倒れました。
 其の悲鳴をききつけて、寺僧は本堂から下りて来ました。そして誰やら旅人が、おのが胸板を突き刺して、ただ一突で死んでいるのを見出みいだしました。その旅人の顔は、一眼見ただけでも前世の罪業ざいごうの思い遣られるほど、物凄ものすごい醜さでした。口は色情にゆがみ、眼は邪慳じゃけんに光り、額に罪のしわが寄り、何とも言えぬ顔です。
 そしてその枕上に、一枚の美しい若衆の絵姿が落ちていました。この絵姿の若衆の顔はやさしく晴々しく邪気なく、この若衆が手にした白躑躅しろつつじのそれよりもきよい浄い姿でした。
 悪魔の手で取り変えられていた魂は今再び元の胸へ帰りました。呉羽之介の体は罪の魂と一緒に醜く死にました。そして絵姿は昔の美しさを永劫によみがえらせて生き残こりました。
 これは元禄の、世にも不思議な怪異談であるのです。





底本:「書物の王国※(丸8、1-13-8) 美少年」国書刊行会
   1997(平成9)年10月15日初版第1刷発行
底本の親本:「現代大衆文学全集40」平凡社
   1930(昭和5)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「艶容万年若衆はですがたまんねんわかしゅ」となっています。
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2014年5月14日作成
2014年11月15日修正
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