旅へ出て

宮本百合子




     旅へ出て

 四月の三日から七日まで私は東北の春のおそい――四方山で囲まれた小村の祖母の家へ亡祖父の祭典のために行った。
 見たままを――思ったままを順序もなく書き集めた。
 四日の旅をわすれたくないので――。

利根川の青き水の面に白き帆の
   水鳥の如舞ひつゝも行く

荒れし地を耕す鍬の手を止めて
   汽車の煙りを見守れる男

田舎道乗合馬車の砂煙り
   たちつゝ行けば黄の霞み立つ

赤土に切りたほされし杉の木の
   静かにふして淡く打ち笑む

白々と小石のみなる河床に
   菜の花咲きて春の日の舞ふ

水車桜の小枝たわめつゝ
   ゆるくまはれり小春日の村

白壁の山家に桃の影浮きて
   胡蝶は舞はでそよ風の吹く

なつかしき祖母の住居にありながら
   まだ旅心失せぬ悲しさ

なめげなる北風に裾吹かせつゝ
   野路をあゆめば都恋しや

らちもなく風情もなくてはゞびろに
   横たはれるも村道なれば

三春富士紅色に暮れ行けば
   裾の村々紫に浮く

昼も夜も風の音のみ我心を
   おとなひてあれば只うるみ勝

帰りたや都の家の恋しやと
   たゞひたぶるに思ひ居るかな

春おそきわびしき村に来て見れば
   桜と小麦の世にもあるかな

歌唄ひ物を書けども我心
   一つにならぬかるきかなしみ

訪ふ人もあらぬ小塚の若きつた
   小雨にぬれて青く打ち笑む

行きずりの馬のいばりに汚されし
   無縁仏の小さくもあるかな

那須の野の春まだ浅き木の元を
   野飼ひの駒はしづ/\と行く

浦若き黒の毛なみをうるほして
   春の小雨は駒の背に降る

あけの日も又あけの日も北風に
   吹きこめられて都のみ恋ふ

     吹雪の中を――

 東京では桜が満開だと云うのに私は此処に来るとすぐから吹雪に会わなければならなかった。
 はてしなくつづく広い畑地の間のただ一本の里道を吹雪に思いのままに苦しめられながら私は車にゆられて行った。
 私の行く道は大変に長く少しの曲りもなしにつづいて居る。
 小村をかこんで立った山々の上から吹き下す風にかたい粉雪は渦を巻きながら横に降って私の行く手も又すぎて来た所も灰色にかすんで居るばかりだ。
 私の車を引く男はもう六十を越して居る。細い手で「かじ」をしっかり握ってのろのろと歩くか歩かないかの様に進んで行った。
 そして時々ブツブツと何だかわけのわからない事をつぶやいた。
 不安と寒さに会ったいじけとで私はたよりない気持になった。
 逃げ出してあてどもない旅路を行く人の心をそのまんま私の心にうつした様に東京の私のこの上なく可愛がる本の奇麗な色と文字を思い出し日光にまぼしくかがやきながら若い楓の木の間を赤い椿の花のかげをとびまわって居る四羽の小鳩の事も思い出された。
 私は死ぬまでこの車にゆられゆられて行かなければならない様に思えた。
 私のかじかんだ手は自分の手と思われず痛いほどつめたい頬は紫色になって居るに違いない。
 眼をつぶって三本通って居る電線の歎く声をきき車の心棒のきしむ音をきいた。
 ――――
 老車夫はまた何かつぶやいた。
 そのわけのわからないつぶやきは私の心のそこのそこからおびやかされた。
 ――ちゃーあん――
 私は私の車からはなれてあとにつづくも一つの車にのった弟の名を呼んだけれ共止まらない速い風に持ちさられて私の声は後の車にとどかなかった。
 私の声の淋しい余韻はきれぎれになって私の耳にかえって来た。
 私は声をかけさえ出来ない様になって自分の呼吸の響ばかりをたよりに吹雪の中に灰色の一本道をたどらなければならなかった。

     赤い小松

 煤煙のためだか鉄道の線路に沿うた所に赤い小松を沢山見た。
 背は低く横に広く好い形に育った小松がそのみどりの葉の所々を赤茶色に染めて居るのは木のために良い悪いなんかは別にしてただ奇麗なものだ、そして又極く美術的なものだ。

     木の切り株

 栃木県の矢板のステーションのすぐそばの杉林の一部が思い切り長く切りはらわれて居た。
 田か畑にするらしい。
 まだ新らしい生々とした香りの高そうな木の切り株が短かい枯草の中から頭を出して居る。何でもない事の様で有りながら小雨にぬれてひやっこそうに光りながら皮をぬいだ杉の幹が横たわって居るのと淋しそうにたよりなさそうにして居るあまたの切り株には何かしら思いのある様なみじめなさしぐまれる気持になる。
 歎いて居るささやかな木の魂が私の心にとけ込むのかもしれない。
 神から生を受けられたものの尊い賤しいにかかわらずどっかしらん共通の思いが魂の一部に巣くって居るんだろう。
 こんな事も思った。

   ぶなの木

 かなり沢山の木々が皆緑りになった中にぶなの木ばかりは、はずむ様な五月の太陽を待ってまだ黄金色で居る。
 松杉の中に交って輝いて居るのも麦の畑中に群れて笑んで居るのも美くしい。
 葉は叩いたら、リリーン、リリーンと云いそうなかたくしまった光りを持って居て葉のふちは極く極く細かいダイヤモンドをつないだ様にさえすんだ輝きを持って居る。
 美くしいと云う中に謙遜な様子をもってきりょうの良くて心のすなおな身柄のいい処女の様な心を持って居るに違いない。
 一目見たばっかりで紅葉より私はすきになった。
 五月に葉が生れかわると云う事やつつましげな輝きや、やたらに大きくのっぽに育たない事なんかが私の心を引いたのだ。
 思いきって威張ってほこり顔な美くしさも時にはまたなく美くしいものだけれ共、ぶなの輝きが少しでも高ぶった気持をもって居たら私はきっと見向きもしなかっただろうに――
 私は幸にもぶなの木魂が謙譲のゆかしさを知って居て呉れた事を心からうれしく思う。

     日光連山とぶなの木

 秋が立派だと云う日光連山は今かなり美くしい姿をして居る。
 かなり美くしいどころではなく残った雪といろいろな雲とによって美妙な美くしさを持って居るのだ。
 三分の一ほどの上は白いフワフワ雲にかくれて現われた部分は銀と紺青との二色に大別されて居る。
 けれ共ジーッと見て居るとその中に限りない色のひそんで居るのを見る。
 一目見た時に銀に見える色も雲のあつい所は燻し銀の様に又は銀の箔の様にちっとも雲のない様な所には銀を水晶で包んだ輝きを持って居る。
 太陽のよくさす部分は銀器を日向で見る様にこまかい五色の色の分るのが有るのさえわかる。
 紺青の色も濃くうすく青味勝った所もさほどでない所もある。
 銀と紺青といかにもすっきりした取合わせの下に黄金色に輝いて微笑むぶなの木の群がつづいて居る。
 山々の銀と紺青が笑むと、ぶなの黄金色は快く笑いかえしてその間の桜のうす紅の花は恥かしがって顔を赤らめる。
 いかにも厳ながらやさしい尊い立派な様子だ。
 限りない思想の大なるものとさぐりの届かない神秘さがひそんで居る。
 山とぶなの木々が笑み合うとおのずと私の心も軽く笑う。
 銀と黄金が考え深い様にまたたくと私の霊は戦く様に共にまたたき無声の声にほぎ歌を誦せばその余韻をうけて私も心の奥深くへと歌の譜を織り込んだ。
 銀と黄金と私の心と――
 一つの大きなかたまりとなって偉大な宙に最善の舞を舞う。

     稲の刈りあとと桑の枯木

 田の稲の刈り取られたままひからびた様子は淋しい気持がするものだと先からの人達は云って居る。けれ共二十本ほどずつ一っかたまりになってゴチゴチになって行列を作ってチョキンとなって居るのは淋しい中にも何とはなしおどけた茶化した気持がある。
 あぶ蜂とんぼにした子供の顔や半はげの頭を思い出したりする。
 けれ共桑の枯木が繩で結わかれて風に吹かれ吹かれして立って居る様子の方がよっぽど淋しいやるせない気持がする。
 いかにもわびしそうに体の細いためにもその気持が深くなるのかもしれない。
 世の中の暗い裏面を思わされる。

     野飼いの駒

 那須野が原のほおけた雑木林の中をしずしずと歩む野飼の駒を見た。
 黒い毛並みをしとしと小雨がうるおして背は冷たく輝いて大きな眼には力強さと自由が満ちて居る。いかにものんきらしい若やいだ様子だ。
 枯草の上を一足一足ときっぱり歩く足はスッキリとしまって育ったひづめの音がおだやかに響く。
 小鳥さえも居ない木から木へと見すかしては友達をさがす様な様子をして、甘ったれる様に鼻をならしたり小雨のしずくをはらう様に身ぶるいをしたりする。
 楽しそうで又悲しそうに初めて野放しの馬を見た私の心は思う。
 まるで百年の昔にもどった様に平和な原始的な気分がみなぎって居る。
 これからは青草も多く心のままに得られるだろうけれ共雪ばかり明け暮れ降りしきる北の国に定められた臥床もなくて居る時はさぞわびしいだろう。
 あんまり自由すぎて育てられた子供の様な気で居るに違いない。
 私はこんな事も思った。
 そうっとくびを撫でてやりたい様な気持を起させるほどすなおらしい人なつっこい目をして居る。
 軽い淋しさがわけもなく私の心の底に生れた。

     ペンペン草

 私は到る所に白いなよなよとした花をもってスイスイとたつペンペン草の群を見た。
 屋根の瓦の間に――干た田に又は牧場にひろびろと咲き満ちて居る。
 いかにも可愛らしいなりをして居る。
 私はペンペン草をすいて居る。
 第一そのわだかまりのない気軽な名が気に入って居るし次には白とみどりのすっきりしたお茶漬をサラサラとかっこむ様な趣もすきだ。
 東北のこの地方の子供は前歯でその茎をかんで笛の様な音を出す事を知って居る。
 茎の両端をひっぱってその中央を爪ではじいて軽いしまった響を出す事も子守達が日向に座ってよくして居る事だ。
 山の多い湖の水の澄んだ村に生える草には姿もその呼名もつり合って居る。

     牛乳屋の小僧

 この桑野村で始めて牧牛を始めた石井と云う牛乳屋の家に居る小僧なのだ。
 七八つの子の体をして居るが年を聞けば十二だそうでいかにも小さいなりをして居るが中々可愛い児だ。
 頭も顔もひとっくるめにまんまるちくて目までがまんまるだ。
 生意気に「はっぴ」を着て筆のさやの様なもも引をはいた足に柄にもない草鞋わらじをいつも履いて居る。
 牛乳を家々に配る事と子牛のお守りが役目で寒さに風一つ引かずに暗いうちから働く。
 牧場には十八九頭の牝牛と一匹の勢の強い種牛が居るほか二年子が三匹と当年子が一つ居てかなり賑って居る。
 その中の四匹の子牛のお守りをするのだ。
 体が小形なので子牛でもふざけて走りだすと繩を握って居る小僧はひきずられる。
 私が行くと子牛の背や喉をこすりながらいろいろの事をはなした。
 退屈な時にペンペン草の満ちた牧場に座って小牛の柔かな体を抱えながらこの子の話をきくのは愉快な事の一つだ。
 小さいくせになれて居るので牛の鳴声をききわけてききもしない私に、
ほら又鳴いた。枯草呉れろってな。
なんかと得意になって云ったりする。
 子牛のお守にふさわしい児だ。
 可愛いんで泥たんこの田舎道を私の家まで六本の牛乳を運ぶのがみじめだったんで牧場から帰りにさっき私達の目の前でしぼって消毒した牛乳のあついのを下げて帰ったりする事もあった。
 可愛らしいと思ったばかりで名をきく折はなかった。
 私の記憶には只幼ない可愛い牛乳屋の小僧として長く残って居る事だろう。

     乳しぼりの男

 高原的な眼の輝きとかなり長い髪と白い手を持って居る男だ。
 白い牝牛のわきに腰を下ろして乳をしぼって居る。
 ふせたまつ毛は珍らしく長くソーッと(ママ)かな乳房を揉んで前にある馬けつにそれをためた。
 随分長い間たってもその男は仲間の誰とも口をきかなかった。
 乳をしぼりあげると男は立ちあがって牛の顔をしずかに撫でて母親の様な口調で、
音なしく、してろよ。
と云って暗い納屋に入ってしまった。
 ただそれっきりだけれ共、濁声だみごえを張りあげて欠伸の出た事まで大仰に話す東北の此の小村に住む男達の中で私に一番強い印象をあたえたたった一人の男だった。

     口取りと酢のもの

 今日始めて私はいかにもこの上ないほど不味不味しいそして妙な膳のこしらえ方を見た。
 光線のろくに入らない台所でゴトゴトと料理して居た料理人は朱塗の膳に口取りと酢のものと汁をのせて客室に運んだ。
酢のものは?
あとで口取とのせかえるで――
 こんな事を平気で云った。
 酒の膳に口取をつける事から妙なのに私はそれを食べた時の味も考えた。
 私の頭の中に考えられた味は、ほんとうに不味い極く極く不愉快なものであった。
 何でもない様でありながら、こんな下司な取りあわせをするかと思うとやたらに、かんしゃくが起った。
 貧(ママ)人の多い、東北らしい事だ!
 こんな事も思った。

     娘

 娘だと思われる娘を私は此処に来てから一人も見ない。なにがなし淋しい気持がする事だ。
 十五六の娘達は皆大変色が黒い、そして濁った声と、棒の様な手足と疑り深い眼を大方の娘がもって居た。
 名をきいても返事もしないし、笑いかけてもすぐ後を向いてしまった。
 一体この村は若い男も女もあんまり土着のものでは居ない処で、中学に村々から集る若い人達ほか居ないだろうとさえ思われるほどだ。
 若い娘の居ない村は私にとっていかにも居心地がわるかった。
 私は若い力の乏しい村はきらって居るのだ。

     神官

 八十を越して髪も真白になった神官はM氏と云った。
 澄んだ眼と高い額とは神に仕えるにふさわしい崇尊さを顔に浮べて居た。
 白い衣の衿は少しも汚れて居なかった。
 しずかに落ついて話すべき時にのみ話した。
 四十五六で、白衣の衿の黒いのを着て奥歯に金をつめてどら声でよくしゃべる一人をA氏とよんで居た。
 ふざける様にしゃべって下司な笑い様をするのと金ぐさりを巻きつけたのとが神官としての尊さをすっかり落してしまって居た。そして又いかにも小村に荷が勝った様な大神官の神官にふさわしくなかった。
 中学時代からの友達の事や先輩の事をくどくど思いきった声で話して今東京で大きな学校の監督をして居る人の事を話したあとで、
「何! 私だって成ろうと思えばその位にはなれますのさ。
 しかしまあ自分の主義によってこうして居るんですが――
 神主じゃあんまり下さいませんな。」
 斯う云って居る目には生活難を感じながら平身低頭して朝夕神に仕えて居なければならない貧しい神官のあわれさが、しみじみと浮び見えて居た。
 世の中をあきらめながらあきらめきれない苦しさがあった。
 けれ共M氏はかるく微笑みながら盛な男達の話に耳をかたむけて居た。
 その様子はいかにもやさしかった。
 そして又いかにも澄んで居た。
 檜の林にかこまれた大神官の淋しい香りの満ち満ちた神殿に白衣の身を伏せて神を拝すのはこの人でなければならない様にさえ私には思えた。
 私は、五十前の神官に祈られる気はしないし又大きらいだと云う。
 若い――少なくともまだ働ける年の男が油ぎったふとった赤い顔をして神官をして居るのはほんとうにふつりあいな気持の悪いものだ、とも私は感じもし云いもする。





底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について