「奈良」に遊びて

宮本百合子




          (一)

 古代芸術の香高い所、そして美しい山水にかこまれた「奈良」という土地に対して、私はまあ、どれ位い憧憬の心を持っていた事でしょう。――その望みがかなって、此程、僅かな日数ではあったが、其処に滞在して、一種の渇望を満たすことが出来たのは、此上ない幸福でありました。
 元来、旅行好きな私は、いま迄、随分色々な処を訪れて見ましたが大抵は失望しました。いつも私の想像したツマリ期待の方が勝ち過ぎた結果でありましょう。然し、壮麗な一種の歴史の錆をとどめている「奈良」だけは、この我儘な私を充分満足させて呉れました。
 都の焦々した空気の中にあった私を、ほんとに、ゆったりと落ちつかせて呉れた「奈良」の天地、そこには、北国に於て見るあの寂寥の影が何処にも見出せませんでした。そして何処へ行っても、落ち付いた誇りの色――いつまでも、何時までも忘れないというような過去の誇りの色を発見して、私は何ともいわれない懐しさを覚えました。

          (二)

 私の滞在していた所は、「奈良」の町端れでありましたが、そこから自分の気に向いた方へ自由に足を運んで遊びました。
 或る日、華厳宗の本山だという東大寺の転害門をくぐりました。その門は大きなもので、又鎌倉時代に、修繕されたとかで、当時の技巧の跡が残っています。そこを進みますと、道の両側の芝生が春の光を浴びてまだらに青ばんで来ているではありませんか。凝っと見ていると、翠の若草が、黄色い去年の草を蔽い隠してしまうかと疑われる程でした。私が若しも歌人でしたら、そこで幾首かは詠めたでしょう!
 そこから又八幡神社を抜けて行くと、古い建物のあと――東塔といって昔七重の高塔で頗る壮麗なものであったという、その塔の跡のあたり芝原になっています。そして其処にはパチコが一面に咲いていました。香りこそないが、鈴のような恰好の白い花で、如何にも女性的な気分を現わしていました。私はそうした自然物のほとりから、奈良朝時代の記念物である大仏殿などを眺めたのでした。

          (三)

 春日山の奥の院から裏道に出ますと、大きな杉並木があります。成長しきったその老杉に対すると何となく総てを知りぬいてる古老にでも逢ったように感じられて、ツイ言葉でも懸けて見たくなるのです。
 奈良朝時代の「奈良」の人々は、きっと、周囲の自然物を深く愛して、そしてその愛着を永久に保ちたい為めに、それを絵画に現わし、文章に認めたのであろう。特に建築の模様などに、その色が深いのであった。パチコの花の如き実に巧みに取扱われていました。
 東大寺の大きな鐘楼の傍から、石段を降りますと、「大湯屋」という古い建築物に突き当ります。
 昔、或る特別な貴族階級に丈、使用された浴場の跡らしいものでした。そして、そこ丈が、あたりの寺院とか神社の建物と異った一種の趣きを現わしていました。
 加之のみならず、そこには昔ながらの建物に相応ふさわしい藤棚があり、庭があり、泉水がありました。全体として、狭いながらも、それはチャンと整った一区画を示しているものでした。総てに懐しい昔の錆が現われて、石に生えてる苔までが、私をチャームするのです。此処の前には、彼岸桜が美しく咲いていました。
 其処に立っていますと、妙に感傷的センチメンタルになって思いは過去へ過去へと馳せて行くのでした。暫し想いを凝らせると、あの髪を角髪みずらに結んだ若い美しい婦人が裳裾を引きながら、目の前を通るように覚えるのでした。

          (四)

 こうして、何処を顧みても、私達の野心アンビションを刺戟する何物もない「奈良」の天地は、古代芸術の香りを慕って来る者をほんとに心ゆく迄、抱擁して呉れます。
 そして、その土地の人達も、曾て憤りという気持を起した事のない程平和な、亦保守的生活を続けている。恐らく彼等の生活は奈良朝時代から、一歩も進んでいないように見受けられるのです。
 彼等は、栄誉ある背景を顧みて、ほんとに安心しきっている。たとえ少数の商人が、巧智にけた眼をひそかに働かして旅人の財布を軽めるにもせよ。「奈良」の人々は決して劇しい生活の準備などはしないでしょう。
「奈良」は、鹿が路傍に遊ぶ所です。そして古代芸術の永久に保存される所、人が永久に平安に暮せる所でしょう。少くとも私は之を信じたいのです。
〔一九一八年五月〕





底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「女子文芸 第一巻第三号」
   1918(大正7)年5月1日発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
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