無題

宮本百合子




 河原蓬と云う歌めいた響や、邪宗の僧、摩利信乃法師等と云う、如何にも古めかしい呼名が、芥川氏一流の魅力を持って、私の想像を遠い幾百年かの昔に運び去ると同時に、私の心には、又何とも云えないほど、故国の薫りが高まって来た。
 人から借りた新聞の小さい切抜きを両手に持って、私は何と云う熱心さで読んで行った事だろう!
 遠い海を越えて送られて来た新聞は、「邪宗門」の僅か二三章を齎したに過ない。
 けれども、私は、今殆ど歓喜に近い興奮で、「縦に並ぶ」自分の言葉を、此の懐かしい碁盤目の紙に書き付けて居る。
 九月に家を出て以来、私の心の周囲に見えない壁を築いて、私の知って居る形容詞では充分に現わす事の出来ない程、微妙な、力強いぎごちなさを与えて居た感じは、今、まるで夢よりも淡く消えて仕舞った。
 そして、今私は、急に捌口を与えられた水の熱情を以て話し出そうとして居るのである。
 私の如何か成って居た心持に、此程の動揺を与えられたと云う点から、私はどの位、此の小さい僅かの紙切れに感謝する事だろう。従って、その感謝は、其を書かれた芥川氏にも、其を私の手にまで運んで来た総ての機会にも、当然捧げられるべきものであろう。
 私は、此の歓びから満ち溢れる感謝を、今、誰に対しても、何に対しても惜もうとは思えない。芥川さんにも、海へも落さずよく運んで来た麻嚢にも、私は真心から有難を云う。真個に有難う……。
 けれども、私は又、此の興奮の最中に在りながら、一体、何で自分が此那に、じっとして居られない程熱く成って居るかを考えずに居られない。
 御覧なさい。私は今、真赤な顔をして居ます。頭の中じゅうが、ブンブンと廻るような気がして居ます。けれども、一体何が、真個に、何が此那に、自分を動かしたのだろう――。
 じっと考えて見ると、私の興奮したものは、紙切れに印刷された言葉ではない。事件ではない。その言葉と言葉との間に、〔二字分空白〕として立ち迷って居る響の影である。捕えれば消えも仕そうな陰影と陰影との限り無い錯綜である。その錯綜の産む気分である。そして、その気分は嘗て洛中に住む一人の都人であった、彼の誰だか分らない「私」の胸を満たしたと同じに、今、芥川氏の心を揺り、私の魂にまで、そのじわじわと無限に打ち寄せる波動を及ぼしたのである。そして、今、図書館の大きな机の上で我を忘れようとして居る私は、その気分の薫り高さに息もつきかねる心持で居る。
 その薫り、その故国の気分――。海を遙かに隔てて、他国の土の上に居る私は、遠く何時かの前に別れを告げた筈の故国に、今図らずもめぐり会った。今、私は故国の上に棲んで居るのではない。故国が、いとしい「我が土が」、私の此の、心の中に此の魂の中に生きて居るのを見出したのである。
 私はどんなに深くいとしく、故国を思い遣る事だろう、どんなに懐かしく「私達の言葉」に聴き惚れる事だろう。
 我土よ! 我が声よ!
 私の家と云うのでもない。私の知人と云うのでもない。私の生れた土の持つ限りない「気分」が、我が故国よ! と云う一つの憧れになるのである。
 生れて口が利けるように成って此方、私は随分沢山種々な事を喋った。善い事も、悪い事も――。けれども、嘗て今日程、自分が絶えず喋って居る「自分達の言葉」に感動したことがあるだろうか、此程、国語と云うものが、如何程強い根を持った「国語」であることを感じた事が、只の一度でもあるだろうか。
 勿論私は如何程感心したからと云って、自分達の国語が、人類の持ち得る最上のもの――完全無欠で、最も理想的なものだとは思って居ない。
 日本語は、確かに科学的表現の確実さ正確さは欠いて居る。
 自由な新鮮な感情の燃焼を現わすに、日本語は或時に於ては余り形式的である。女性と男性との言葉遣いの差が、余りつけられすぎて居る窮屈さを感じるのは、物を書こうとする女性の総てが時に感じさせられる事であろう、其他数えれば多くの欠点がある。改良されなければならない処は幾多ある。
 けれども。――我友よ、私の真心は、欠点の多いのも、改良されなければならないのも知りながら、尚、けれども、と叫ばずには居られない。
 けれども――そう確かにけれども、私共の言葉の裡には、私共でなければ感得し得ない何物かがあることも事実ではないだろうか、
 そして、又、具体的の説明が出来ない程深く深く底の底まで沈潜して居るその「気分」は、何と云う強靭さで私の背骨を繋ぎ合わせて居る事だろう。
 皮の下に、肉の下に、繋ぎ合わされた骨と骨とを貫いて絶えず満ちて居る髄溶液を自覚して居るものが何処に在るだろうか。自然は生育の過程の何時の間にか、堅い折れ易い骨の裡に、流動する液体を与えた。
 誰が与えられた時を知り、その動揺を知覚し得よう。けれども在る事は事実である。無くては居られない。持たずには居られない。その、神秘的な液体と倶に、人を産んだ「祖国の気分」も生きて居るのではないだろうか、私は、今更に背後の重さを感じずには居られない。我が父母。我が祖父母……誰々……誰々……。私は、私共一家族の短かいとは云え、昨日今日では無い遺伝を背負って居る。
 今日、私自身が自らの裡に自覚する強みも、弱みも、何処か遠い、見えない彼方に下された胚種の、一つの発芽であると、何うして云えないだろう。
 此の一家族を貫く何等かの遺伝の上に、私は此も亦必然的な「日本」と云う祖国の気分を負って居る。
「今」と云う瞬時。その「今」は、恒久な意識の流れを截断した瞬間的断面だと云えるならば、「私」も亦、伝説が、日本の神人を語るより以前からの「日本人」の一断面ではないだろうか。私は今、紐育ニューヨークの町中に居る。私の足の下には靴の皮がある。キルクの床がある。石とコンクリートの下には、アメリカの土がある。けれども、けれども、私には、小さい島国の、黒い柔かい、水気豊かな春の土が、足の素肌に感じられる。抜けようとしても、抜けられない泥濘の苦しさと混乱を、此の両足に感じる。何処へ行っても、祖国が足の下にあるだろう、地球の果にまで走ろうとしても、祖国の地面は、尚も、尚も、私の足跡を印させるだろう、私は此を歓ぶ。けれども、怖ろしい。涙が出るほど恐ろしい。おお! 我が祖国よ!
 祖国を縦に丈斯うやって考えて来る時、私は完く何とも云えない心持になる。何故なら、我友よ。此の心持は、人類が、存在の始めから思わずに居られなかった理想に、大きな悲劇を与え与えして来た Racial Feeling の根底が如何に深く、又如何に逃れ難いものであるかと云う事を、私自身の裡に明かに証明された事になるからなのである。
 戦争と云うものが事実今日に於て在るのだから、無く仕ようとするのは夢想に過ぎないと云って、平和論者を嘲笑う人は、私の此等の言葉を聞いて、其見ろ、お前だって矢張り、自分が如何那どんなに日本人だか今始めて解っただろう、どうだ! と云うかも知れない。
 人間がそう云う心持を持って居るとしたら、その心持が戦争を起し、涙一つこぼさずに殺し合うのも亦当然では無いかと若しも云う人があったら、私は、敢然として否定しなければならない。
 そう、人間は確かに祖国の土から、彼等の足を離す事は出来ない。人間である総ての者は彼等の祖国の土を思わずには居られない。
 私は、日本人許りだと云うのではない。英吉利人だけだとは云わない。人間である。万人が万人の人間である。此の地殻の上に何処からか生れ出たものは、その出生の地を、彼等の魂のどん底から剥ぎ取る事は出来ないのである。
 静かな夜の中に坐して、記憶の裡に蘇返る「祖国」に、慄えるような愛着と、叫び度くなる程の嫌厭と恐怖とを感じる時、私は此の感動が、果も無い空間から空間へと、反響するのを感じる。
 私共は「日本人」だから「日本」を思うのでは無い。「米国人」だから、「米国」の土に涙を垂れるのでは無い。人間だからである。人だからである。名は約束である。日本と云うのも、支那と云うのも、又は英吉利と云うのも、丁度、数字が、太古からの約束である如く、只一つの約束に過ぎないのではあるまいか、
 彼等が、そして私共が、地上に於て最初の呼吸をした其一点――地理的に、歴史的に或る伝統を持った、地上の其の一点が、総て生れ出た者にとって、忘れ得ぬ「祖国」と成るのである。
 私が今斯うやって、双眼に涙を泛べながら、思いに沈んで居る時、遠い海を越え、野山をえた彼方の彼方の何処かにも、矢張り、私と同じ恐れと愛に慄えながら、彼等の「祖国」を思う人は無いだろうか。
 我が友よ。我が愛する友よ。厳粛に心を鎮めて思う時、我――人間ほど「いとしい」ものが在るだろうか、又人間ほど「いとわしい」ものが又と在るだろうか。
 私は、丁度、濡れそぼたれた獣同志が、互に身を寄せて暖め合うような、生身なまみの愛と憎と惨めさを感じずには居られないのである。
 考えて御覧なさい。
 私共は、何時から人間の生活の、大らかな純一性を求めて来ただろう、そして又、此から先、何時までその燃えるような探求と努力とを続けて行かなければならないだろう。
 太古の猶太ユダヤ人は、何の為に、如何う云う心の苦しみから、彼程熱く神を叫んだのか。
 ギリシア人は。ローマ人は。そして、今漸々戦慄すべき大殺戮の武具を納めた数多の国々は――。
 私共は皆、人を殺しながら、神を呼ばずには居られないのだ。神を――偉大な調和と、解放とを求めながら、縊り合わずには居られないのだ。
 そうは思いませんか。
 総ての人々は、私共も、彼等も、皆、冷静に、賢い心持の時沈思して見れば、国家と云うものは、私共の一つの生活形式である事、国名と云うものが、単に一種の符牒である事を知って居るのだ。
 或る地上の部分部分に生れ、生活し、死んで行く、我も彼も「人」であると云う事を思わずには居られない。
 自らの心を掻き毟る苦悶は、彼等の心にも在る。私共が振り捨てようとする過去の重荷は彼等の背中にも、重くどっしりと負わされて居るのではあるまいか。
 お互は互に、我々の生活が如何那に不純であるかを知って居る。よく知って居る。
 そして、其の醜い、其の固陋な障壁を破ろうとして、何時から血の汗を掻きながら戈を振って来ただろう。
 昨日も、今日も、明日も、明後日あさっても。彼等は戈を振うだろう。けれども、よく瞳を定めて凝と御覧なさい。戈を振いながら、彼等の右手は、恐ろしい執念を以て、壊れ落ちる障壁の破片を、しっかりと、命に掛けて掴んで居る。
 掴むと知らずに掴んで居る。一つ落ちれば一つと、二つ落ちれば二つと、終には、振う戈の手も止めなければならない程数多くの、破片を抱え込んで仕舞うのである。
 十人は十人、人間の真個な幸福を希望して居る。
 万人は万人円らかな愛と、浄化された本然とを求めて居る。
 けれども、其なら絶間ない努力と、絶間ない祈りとの熾な焔に、無残にも其を打消す汚れを浴せ掛けるのは誰だろう? 其も亦同じ祈る彼等、努力する私共である。
 何故、私共は、あらゆる過去を一撃の下に截り離して、空気と倶に翔ぶ事は出来ないのか、大らかに、自由に、はるばると……我友よ、何故私共は翔ぶ事が出来ないのか。
 永遠な、過去と未来とを縦に貫く一線は、又、無辺在な左右を縫う他の一線と、此の小さい無力な私の上に確然と交叉して居るのを感じずには居られないのである。
 斯うやって考えて来ると、私は、今日の生活が、如何に「智」に不足して居るかを思わずには居られない。自分には云わずもがな、総ての人に、「智慧」が豊かに与えられて居ない。
 智識ではない。智慧である。運命を知り、魂を浄め、時間と空間の規制を超える生命の智慧である。
 人間の心を、心の起す種々雑多な現象を、観、批評し、想い思う明らかな叡智を、充分に持って居ないのではあるまいか。
 総ての人間は戦った。けれども平和を求めて居たのだ。
 総ての人間は、約束の「名」に惑わされた。けれども、互に同じ「人」であるのを知り、約束の名は、「名」として見られる筈であった。
 現在、私共の生活を支配して居る数多の形式、形式の生む種々の迷信と、羈絆とは、如何な力で解かれなければならないのか。
 私共には、その力が無い。その純粋さから湧く、太陽のような力が無い。其の力が無い許りに、私共は恐ろしい紛糾と悔恨の苦い杯を、幾度強いられなければ成らないのだろう。
 如何にか成らなければいけない。
 そうどうにか「仕な」ければならない。
 其なら、如何う成るのか、如何うすると云うのか?
 ああ静かに、周章てずに――我心よ、我心よー。私は自分の裡に辛うじても保つ、微かな燈火が、自らの煽りに燃え尽きて仕舞う事をおそれる。





底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年11月30日作成
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