対話

宮本百合子




 神の第十瞬期
 天の第二級天の上
 ヴィンダーブラ(壊滅、絶望を司る巨大な男性の荒神)
   ミーダ(暴力、呪咀を司る中性の神)
   カラ(死、涙、悲歎を貪食する女性の神)
   イオイナ(智慧、愛、創造を司る女性の神)
   その他 此等の神々の使者数多。

天の第二級雲の上にある宮。もくもくした灰色又は白の積雲に支えられ、宙に泛んだ大卓子のように見える。
遙か彼方に、第一級、上帝の宮殿が、輝くパンシーオン風の柱列をもって眺められる。ヴィンダーブラ、ミーダと連立って、上帝の宮殿の方から、ぶらぶら自分達の住居、第二級天の方にやって来る。
ヴィンダー(立ち止り、無作法に大伸びをし)ああ、偉い目に会った。筋も何もすっかりつまりおった。神々の饗宴と云う奴には、ほとほと参るぞ。
ミーダ 全くだ。困るのは君ばかりじゃあない。見てくれ、折角荒々しいような執念いような、気味悪い俺の相好も、半時彼方で香の煙をかいで来ると、すっかりふやけて間のびがして仕舞った。(手でごしごし顔を撫で廻す)どうだ、少しは俺らしくなったか?
ヴィンダー(其方は見ず)上帝の奴、手に負えない狡猾者だ。俺達やカラは、地体ああ云ういやに晴れ晴れした席にいたたまれないのを百も承知でいながら、何食わぬ顔で叮嚀に請待しおる。なまじい、諸神なみに扱われるので、ふてて思う存分あたけることも出来はせぬ。
ミーダ 未だ音楽が聴えるな。――アポローばりの立琴をきかせられたり、優らしい若い女神が、花束飾りをかざして舞うのを見せられたりすると、俺の熾な意気も変に沮喪する。今も、あの宮の階段を降りかけていると丸々肥って星のような眼をした天童が俺を見つけて、「もうかえゆの? 又、いらっちゃい」と、頭を振って挨拶をした。妙に暖かいような他愛ない魔気が襲いかかって、危く、何より大敵のにこにこ笑いに捕まりそうになったが。――彼処はいけないよ。油断がならない。
ヴィンダー が、まあ此処ここまで来れば、其の心配もないと云うものだ。――どうれ!(第二の天の宮の真中に仰向きにたおれる)縮んだ惨めな筋肉ども! 延び拡がって活気をつけろ!
ミーダ(ヴィンダーブラの傍に胡坐あぐらを組んで四辺あたりを見廻す。)誰も未だ帰っていないな。
ヴィンダー 俺達のように、意志の明白な者はいない証拠だ。い辛いのに、弱気で堅くなっているんだろう。天帝に媚びれば、仕事が殖えるとでも思っているなら愚の骨頂だ。
ミーダ ――……森としているなあ。何だか四辺ががらんとしすぎて、いつもなら聞えない第一天の物音が、つつぬけに耳の穴へ忍び込みそうだ。カラでも早く帰って来ればいいのに。
二神暫く沈黙。彼等の宮を支えている雲の柱が静に、流れ移ったり、照る光がうつろったりする。やがて
ヴィンダー ああ、つまらない。(欠伸あくびをする)何と云う沈滞しきった有様だ。又この間のように面白いことでも起って呉れないかな。目が醒めるぜ。
ミーダ 人間のアーリアン族を大喧嘩させたことか?
ヴィンダー うむ。思っても溜飲が下る。目覚ましかったじゃあないか。俺達の仕事で彼処まで大仕掛けに成功したのは一寸ないね。そりゃあ、人間が今でも云い伝えているそうだが、あの若者のカインに、始めてアベルを殺させたのも手柄の一つには違いないが、規模の壮大さで比較にならぬ。
ミーダ 然し手間はかかったな。俺の一心を凝らした点から云えば、カインの仕事をやり遂げて以来、ずっと、あの大騒動の下拵えにかかり切っていたようなものだ。奴等の小屋が幸地続きだったから、幾分都合はよかったものの、蒔いた呪咀の種と、狂暴の酵母の多さ! 俺もよく破産しなかったものだ。
ヴィンダー 滅多なことには驚かない俺も、あの時許りは目を瞠った。人間共に未来を見せず、奴等の悦ぶ思弁にこじつけてさも世界を救う大思想のように思わせ思わせ野心と所有の慾望をろ植える手際には、俺も参った。生れては死に、死んでは生れる人間共が、太古の森も見えない程建て連ねて行く城や寺院、繁華な都市が、皆、俺のおもちゃに植えて行くと思うと、身震いがしたッけ。
ミーダ 俺がこれまでに作った悪徳の環もあれが頂上だったかな。
ヴィンダー ――兎に角仕事があれば存在も認められる。あの最中、俺達が他の神々を畏れさせた威勢はどうだ。善神どもは、意地が強いから、道ですれ違っても避けはしなかったが、二人で愉快に闊歩するのに出喰わすと、さっと、高慢な頬を蒼ざめさせたじゃあないか。
ミーダ それも昔の物語、では始まらない。――斯う宇宙一体が溌溂としないのは、俺が思うに、天帝の故だ。どうも老耄しかけて居る。――そうは思わないか。眠けざましに、イシオピア人の真似でもして天の一揆をたくもうか。
ヴィンダー あの時結局勝ったのが誰だか忘れるな、矢張レーだ。
ミーダ 俺達にでも堪えるべき運命があると云うのか?――ああ、ああ、退屈は明敏な俺の呪咀まで腐らせそうだ!
ヴィンダー 俺の大三叉さすまたが、恐ろしい鉄の轟きで天を震わせなくなってから、よい程時が経ったわ!
ヴィンダーブラ、やがて、きっときき耳を立て、起き上る。
ミーダ 何だ? 皆の足音でもするか?
ヴィンダー(熱心に)違う! あわただしい、わくわくした、嵐のような歓びのそよぎだ――ほら! 来るぞ。来るぞ。
ミーダ(同じく注意し)成程。此方に向って翔んで来る羽搏きの音が風を切って迫るな。――やあ、見ろ、俺達のやっこどもだ!
宮の柱激しく揺れ、その間からヴィンダーブラ、ミーダの使者一、二、翼を持ち、黒鉄の鱗片で鎧った姿を現す。
使者一 御注進です! 吉報を齎したお賞めの言葉を先ず下さい。
使者二 悦び、悦び! 悦び※(感嘆符二つ、1-8-75)(バサバサ羽搏き。)
ヴィンダー[#「ヴィンダー」は底本では「ヴンダー」] ミーダ(一緒に)云え! 何事だ?
使者一(小声で早口に)大地の神が眼を覚まそうとしています。
  今朝人間界に舞い下りて、彼方此方ぶらついていると、大地の神の衣の襞の海水が怪しく震えているのに目がつきました。
使者二 私共は素早く、馬鹿正直の翻車魚まんぼうを捕えました。彼奴あいつは、見ないことを云えない代り、知っていることを隠す術を知りません。尋ねて見たら、徴の通りを云いました。大地の神が百年の眠りからさめて身じろぎをしようとしているのです。
ミーダ 本当か?
使者二 嘘は注進になりません。
ヴィンダー 間違いじゃあ無かろうな。
使者一 私の眼や耳は、まだ役に立つ積りです。
ヴィンダー よい。行け! 褒美は仕事がすんでからだ。――(ミーダに向い)どうだな?
ミーダ ふむ。――騒ぐほどのことではないが万更でもない。久しぶりに俺の鞭も命を感じて鎌首を擡げるようだ。どれ、どれ。(にじり出した、宮の端から下界を瞰下みおろす)一寸下を覗かせろ。愚鈍な人間共が、何も知らずに泰平がっている有様を、もう一息の寿命だ。見納めに見てやろう。
ヴィンダー 俺の大三叉も、そろりそろりと鳴り始めたぞ。この掌に伝わる頼もしい震動はどうだ。(下を瞰下し)ふむ。感じの鋭い空気奴、もう南風神に告げたと見える、雲が乱れる。熱気が立ち昇る。
ミーダ(下を覗きつつ、段々亢奮し奇怪な様子で手に握った鞭を振り始める)ほうれ!(間)よしよし。この動物の血で塗りかためた、貴様等同族の髪毛の鞭が一ふり毎に億の呪いをふり出すか、兆の狂暴を吐出すか後で判ろう。呪いの鬼子、気違い力の私生児、入れ! 入れ!(ヴィンダーブラの袖を引張り)見てくれ、俺も老いまい? 粉のように飛んで、光のように、人間共にからみつく、あの――
ヴィンダー 仕事は分担だ。騒ぐな。
ところへ、カラ、駆けて来る。
カラ ああ、貴方がた。――その様子では、私の虫の知らせが当ったかしら。
ミーダ 愉快なことが起ろうとしている。大地の神が動き出すのだ、人間共の生意気な組立細工の滅びる時が目の前に来た。
カラ 何と云う嬉しさ!――薄穢ない獏奴の食いさしを拾って来たのじゃあなかろうね。私は、もう飢えと渇きで死にそうになっていました。
ヴィンダー 誰が知らせた?
カラ 誰も。(狡く)ただね、私が宮を出ようとすると、天の伝令が一人、影のようにすうっと饗宴の物かげに入りました。間もなく、又その影の影のように、慈悲の女神が、宮を出て消えました。ね? あの女神が左からゆけば、きっと右手に私の場所がある。
ミーダ さすがだ。――然し、此処で展望はきかなくなって来たぞ。
ヴィンダー ふむ。湧くな。雲奴もただ事でない宇宙のざわめきに落付かれぬか。
カラ さあ、段々私共の足許も隠されて来ました。
ミーダ 出かけようぜ。
ヴィンダー 出かけよう。
カラ 今日おくれたりしては、一期の不覚です。(傍白)この吉日をとり逃したら又何時ふんだんな人間の涙と呻きが私の喉に流れ込むかしれたものではない。(皆去る)

一面濛々とした雲の海。凄じい風に押されて、彼方に一団此方に一団とかたまった電光を含む叢雲が、揺れ動き崩れかかる、その隙間にちらり、ちらりヴィンダーブラの大三叉を握った姿、ミーダの鞭を振る姿、カラがおどろにふり乱した髪を吹きなびかせて怒号する姿、黒い影絵のように見える。声が聞える。
ヴィンダー さあ、時は愈迫って来たぞ。
ミーダ 用意はよい。
カラ 気を揃えてかかりましょう。――あ! 揺れ始めたようですよ。うむ、確かに揺れ出した。大地の神のお目醒めだ。御覧! 空を飛ぶ鳥がいきなり大気の波動にまかれて、後から後から落ち始めた。
ヴィンダー や。忽ちあの五十層の建物が、木葉微塵にとび散ったぞ。優雅な塔が歪む。……ほら倒れる。千、万のぼろ家は、ぐっしゃり一潰れだ。堂宇も宮も、さっさと砕けろ!
ミーダ 夢中になって転がり出した者共が、又そろそろ棟のずった家へ家へと這込むな。慾に駆られろ! 命のたきつけをうんと背負いこめ!――面白い! 互の荷物がかち合って、動きのとれない様はどうだ。そらなぐれ、他人なんぞは押しのけろ!
カラ ああたのもしい声だこと。もっと喚け! もっと泣き立てろ。私は男の声は大嫌いだ。まして、思慮分別がありそうだったり、沈勇と云う魔に憑かれた奴のは、地獄の風よ、吹き攫え。私は、弱い女が死に者狂いで泣き叫ぶ声や、いとけない子供が死にかかって母親をさがす、そう云う声が好物だ。
ヴィンダー 愈事は順調に運ぶ。彼方此方の隅々から赤い焔がふき出したぞ。ほら、壊れた、脆い、木造りの梁に火の粉がとびつく。ぱっと拡がる。
ミーダ 俺の呪いで植えつけられた慾の皮も火の熱気には叶わないか。算を乱して駆け出したぞ。
ヴィンダー 活溌な火気奴! 活動をつづけろ。何より俺の頼もしい配下だ。飛べ、飛べ! ぐんと飛んで焼き払え。祖先の時柄にも似合わず、プラミシュースに盗ませた火と云うものの真の威力を知らせて呉れよう。水になんぞは怯じけるな!
カラ ああ、私の冷かな鉛の乳房も激しい期待でときめくようだ。この身にしみる叫喚の快い響、何処となく五官を爽かにする死霊の前ぶれ。――おや、あの木立もない広っぱに、大分かたまって蠢いていますね。
ミーダ 目に止まらずに恐ろしいのは俺の力だ。見ろ、慌てふためいた人間どもを、火が移ったら其ぎりの小舟や橋に集めて見せるぞ。落付いて身の振方はつけさせず、類でいざない、数で誘って、危地へすらりとかたまらせる。――舷に手をかけ、救けを求める奴なぞは叩き沈めろ! 孕み女が転んだとて、容赦なんぞはいるもんか。
ヴィンダー ――ところで、妙な軍装の奴が現れたぞ。今のところでは俺の味方に廻って、壊しやの手先になって呉れる奴か、或は又逆に鉾を向けて、所謂文明の擁護をする奴か、一寸見分けがつかぬ。
ミーダ ふうむ。武器を持っている。血相もどうやら変っている。何を彼那あんなに狙っているのか。……やったな。驚いた。俺さえ予定には入れていなかった此は一幕だ。――ついでに、一寸手を貸すかな。真実は根もない憎みや恐怖や、最大の名薬「夢中」を撒くと、同類の胸も平気で刺すから愉快なものだ。
ヴィンダー さてもう一息だ。俺の力の偉大さは、小さなものには著わされぬ。あの壮麗らしく人工の結晶を積みあげた街をつぶして呉れよう。斯う三叉でくじって、先ず屋体にひびを入らせる。一ふき※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)ふいごで火をかける。――どうだ。美事な、自然らしい悪意には、我ながら感服の外はない。
ミーダ 愉しめ! 愉しめ! 押しこめに会っていた本能の野獣ども。今日は火の中のワルプルギスだ。如何に醜悪な罪証も寛大な焔が押し包んで焼き消して呉れる。(とまあ唆かすのだ。)心に遺る罪証の陰気な溜息を恐れない為には、雄々しい仲間をどんと殖して並ばせる。――だが、地の神が衣の裾を一ゆすりする偶然から、俺のこぼした種一粒が、斯那塩梅に芽をふき出そうとは思わなかった。
カラ ああ、あの火花の下をかいくぐり、嬰児の命を庇おうとして、到頭ばったり倒れた母親。――破壊神、呪いの神にお礼を云って戴きます。アーリアン人の喧嘩の時も、餌物は随分ありはしたが、どれもこれも味のない程苦しかった。敵が憎いと云う一念で、胆汁が霊にまで滲みこんでいたと見える。ところが今日の美味さ! 本当の別製だ。どうか自分の同胞たちを救けたいとか、親や妻子、良人ばかりは生かせたいとか、奇妙な願いに充ちているので、さながら甘露の味いがする。
ヴィンダー こせついていた都会も、これで少しはからりと焼原になったな。脆いものだ。俺が愉快なのは、建物がひしゃげて灰になったばかりではない。人間共が、得意な意気込みで、これ見よがしに築き上げた文明の精神まで、一緒に焼き払ってくれたことだ。
ミーダ 体も心も赤裸か、楽園を追われたアダムとイブと云いたいが、俺と云う憑きものがあるだけ、あの当時より複雑だ。
カラ ああ私も、久しぶりで堪能した。ちょいちょい小出しに楽しもうと蓄めさせた涙の壺、霊の櫃だけでも彼那になった。
ヴィンダー そろそろ俺達は引とるかな。細々した残りの仕事は、自身手を下す迄もない。
カラ すっかり満足して上気のぼせた私の顔のように赤い、澱んだ太陽が、それでも義務は守って、三遍火の上をかき抜けました。
ミーダ ――引き上げよう。――が。その前に一つすることがある。利己、貪慾、無節制の一袋を、此処ら辺からばら撒くのだ。
ヴィンダー 俺は、当分何も手につかない戦々兢々、なかなか効果は偉大な、絶望、その従弟のもっと可愛い自暴自棄を置土産にする。
カラ それなら私は――執念深い思い出。忘れようとして忘られず、思い起して死んだ者、さきだった物の為に流す涙、溜息は、男のでもかなり好もしいものです。
(皆去る)

濛々とした雲は鎮り、微にやけた鉄のような色を反映させながら、依然として雲の柱第二級天の宮を支えている。
ヴィンダー(横わって)少し運動したので爽快だ。このいい心持で一寝いりするかな。
カラ 私も何だか若返ったような気持です。行って、昼月の鏡で、髪の縺れ工合でもなおそうかしら。
ミーダ 思いがけない機会で、隠密な日頃からの俺の唆かしの結果が見られて嬉しかった。人間共も、まだ当分は材料になるな。
ヴィンダー 偶然を徒らな偶然で終らせないのが俺達の腕だ。大方今頃は、途方にくれた鈍い面を、深刻らしく歪めて、焼後の灰でもほじくっているだろう。あーあ(欠伸)
カラ では暫く左様なら。又よい知らせがあったら仲間に入れるのを忘れないで下さい。(去る。)
ミーダ ――虫の好いことを云う。――どれ。(ごろりとなってヴィンダーブラを見る。)何だ。もう寝たのか、単純だな。(そう云いながら、自分も突伏し、ヴィンダーブラと交り交り鼾の音を高く立てる。)
処へ、智慧、愛、想像の女神イオイナ光のように現われる。
イオイナ 実は、心配して様子をそっと見に来たのです。(二神の様子を見)まあ、さも自分の仕事は成就したと云いたそうに眠入っていること。先刻の有様では、如何なることかと案じたが、この神々に、満足の感情と、倦怠と、眠りのあるのは有難いことです。暴れる時は、天地の軸が歪みそうで、天帝の眉さえひそむ程だが、必ずあとに、休止と云うものが従っている。
  私は始めもなければ終りもない。夜も昼も区別をしない働き手です。余り身軽で、静かで、伴う物音がないから、時々行方をくらましたとさえ思われるが、明るい澄んだ心の光ですかして見ると、つい傍にいたのがわかります。
  やっと、今鎮まったあの天と地との大騒動の間でも、私は私の任務を尽していました。彼方此方、随分とび廻って、さし迫った智慧や忍耐や互の助力をかしてやったが、破壊神や呪咀の神は、一向私の存在を見抜なかった。呪いの神が、破壊神を単純とわらったが――(晴れやかな微笑)云った者が必ず叡智に長けているとも思いません。私の白髪とこの透明な白衣とが、何の為だか一向知ろうともしません。私のこの髪と衣はどんな色でも光りでもそのまま映して同じ色に輝きます。火に入れば熱い焔色、くすぶりむせる煙に巻かれれば見わけのつかない煤色になって、恐れて逃る人間達を導き導き空気とともに勇気を与え、必要な次の営みにつかせます。際立った音と目立つ象を持たないからこの神々の容赦ない視線も逃れ、場合によると、活気を添える味方とさえ思われる。それに、破壊神呪咀の神は、自分の正面に来るものしか見えないのが特性です。三方は明いている。そこが私の領分です。どんな破滅が激しかろうと、虐げようが厳しかろうと、男女一組の真直な人間がその三方の何処かに逃る隙さえあれば、きっと私の手が待ち受けてい、つつましく根気よく次代の栄をもり立てるのです。
  ――おや、微な気勢けはいが近づいて来る。私になじみのあるものらしい――。
イオイナの使者、一片の花弁のように軽く、女神の傍に降る。
使者 およろこび下さい。女神様。そろそろ貴女のお力の効験しるしが現れて来ました。災厄が余り突然やって来たので、人間の微妙な精神の歯車も大分痛められました。あれほど感情の鋭い者達が、本当に涙もこぼさず、獣のように狂い喚いていた有様は思い出しても恐ろしいが。――(一粒のキラキラ金剛石のように輝く露を示す。)御覧下さいこれは、始めて人間がしんからこぼした嬉し涙の一雫です。互に求め合い、思い合っていた血縁、愛人達、よしみの深い友達共が、はっと息災な眼を見合わせた刹那、思わずおとした一滴です。
イオイナ まあ美しいこと。曇もない。かえしておやり、返しておやり。これは勤勉の根に注ぐ比類のない滋液です。
使者 それから、申すも楽しいのは、今朝一人の幼児が、母の懐に抱かれながら太陽を仰見て、からからと笑いました。傍にいた男女や年寄も、同じ方を見上げてほほえみました。
イオイナ おお、嬉しいことの二つ。――私の胸がすがすがしく、白衣の囲りにかがよう陽炎かげろうのような光が一層晴やかなのも訳のないことではなかった。それから? 私は、人間の長い、真面目な、忍耐強い生活の話になると、此処に眠っている神々に負けない貪慾なききたがりやになるのです。
使者 男でも女でも、安閑としているものはありません。列を作って、地道な蟻のように、廃墟の地ならしにとりかかりました。それに(声を低め)この神々が、人間の精神まで殺し終おせたように云われたのはまるで事実とは違う間違いですね。学舎の壁は火で煤け、天井はやっと夜露を凌ぐばかりだが学者達は半片の紙、半こわれの検微鏡を奇蹟のように働かせて、真理へ一歩迫ろうとしています。
イオイナ そうだろう。――そうなければなりません。そして、私の忠実なしもべの芸術家達は、巫女のような洞察で天と人類とのゆきさつを感じ、様々な形で生存の真髄を書きとめ刻みつけ彩って行くのです。……さあ、それでは出かけて、もう一まわり、独特な鼓舞で励ましておやり。仕事は辛い。なかなか容易には捗取らない。そこへ、お前が、耀ひかりの翼で触ってやると、人間は、五月の樫が朝露に会ったように、活々と若く、甦るのです。
(使者去る)
イオイナ ――神々は、私が余り人間の味方をすると云って憤られる。……けれども、あの、さそりの毒でも死ぬように果敢ない肉体を持ちながら、精神ばかりは高貴な、不壊な者たちをどうして痛おしまずに居られよう。私には母の本能がある。自分の最初の形代人間が、渾沌から渾沌に亙る雄大な認識と、音楽のように豊かな複雑な感情を持ちながら、神が絶対を示そうとする運命に圧せられきる有様を、平然と見ては居られないのです。
  ああ此処でも、遙かな雲に遮られてはいるが、彼等の精神と意力のそよぎが感じられるようだ。ああ人間たち! 本当に、諸神が昔パンドーラに種々の贈物をされた時、私が何心なく希望をはこの下積みに投げ入れたのはよいことであった。
(歩み去りながら)
  行って東風に頼んで来よう。少しはっきり下界の音を運びすぎる。――おやすみなさい、神々。(諧謔的に)今貴方がたの睡って被居るのは、私が醒てるより人間達のよろこびでしょう。(去る)
ヴィンダーブラ、この時、悪夢に襲われたように低い呻き声を発して目を半ば醒す。そして、暫く不安げに四辺を見廻し、やがて寝ころんでいるミーダの方にのろのろ這いよって行く。
〔一九二四年一月〕





底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「週刊朝日」
   1924(大正13)年1月1日号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について