舗道

宮本百合子



        一

 あっちこっちで帰り支度がはじまった。ビルディング内の生暖かい重い空気が急にしまりなくなって、セカセカかき立てられた。
 ミサ子は紫っぽい事務服を着てタイプライタアをうっている。かわり番こにワイシャツにチョッキ姿の社員が手洗いに出たり入ったりした。大声で、
「ああ、ありゃダメさ!」
 廊下の誰かと話しながら肩でドアを押して入って来る者もある。
 ミサ子は、その中でわき目もふらずタイプライタアを打ちつづけた。もう一枚、短い手紙がある。それさえ打ちあげれば、一日の仕事はすむわけだ。
 男の社員たちは、机の前にくいついている仲間に、
「おい、まだかい?」
と声をかけた。自分は洗って来た手を拭きながら肩越しにのぞき込んだりしている。
 しかし、ミサ子に、まだかい? ときく者もいなかったし、退け時におくれまいとして熱心に打っている彼女のタイプライタアの前へ立ち止るものもない。彼女ばかりはいてもいないでも問題にしない扱いだ。
 ミサ子は馴れてる。これがこの××○○会社の気風なんだ。入社して来るとき、タイピストは、どうか注意して余り用事以外の口を男の社員ときかないようにして下さい、と云われた。男の社員も、目立つようなことがあってはいけませんから、その辺をどうぞ、と人事課から念を押されている。往来なんかではこれほどのことはないのだ。
 急いで、やっともうあと半分というところまで打ったとき、
「ああ君、ちょっとこれをすまんが……」
 モーニングを着た主任の馬島が、ミサ子のわきへ急ぎ足でやって来た。
「すまんが、これだけやっておいてくれたまえ」
 拇指の腹をなめなめ、手をとめたミサ子の顔の横で厚い洋紙の頁をしらべた。調べ終ると、ミサ子は何とも返事しないのに、
「じゃ、ここへおいとくから……」
 さっさと行ってしまった。チラリと、それを見たまんま、ミサ子は小さい椅子の上へ坐り直し力を入れてタイプライタアを打ちつづけた。
 女事務員だけが何ぞというとダラダラ居残りをさせられる。しかも、それを断われないような工合になっている。男の社員と女の事務員との間に形式的な格の違いをつけ、事務以外の口を利いてはいけないことにしてあるのなど、なかなか会社のずるいところだ。
 いつの間にか、女事務員のことについて口を出したりするのは、社員として見っともいいことじゃないという気風がしみ込んでいる。どの部だって女事務員は一人か二人しかいないから、どうしても損な役割を押しつけられてしまうのだ――。
 四時半になるのを待ちかねてドタドタみんなが帰ってしまった。埃っぽい、机のつまった室内を照して天井の電燈がついた。
 ミサ子は、洗面所へ行った。ふんだんに水をつかってゆっくり手を洗ったり、髪をかきあげたりしたら、少し気分がさっぱりした。居のこりときまったら、いそいだってつまらなかった。××○○会社は四時半から後の残業は七時以後からでなければ割増しがつかなかった。従って、ちょいちょい居残りさせられても大抵のときはタダで、使われる者の損になるばかりだ。
 自動車の警笛。メガホーンで何か叫んでいるぼやけた人間の声。丸の内のアスファルト道路から撥ねかえる夕方の騒音が、人気ない室へつたわって来る。
 ミサ子は左手を握って暫く右の肩をたたいてから、再びタイプライタアをうちはじめた。
 給仕の牧田が茶碗をあつめにやって来た。
「おや、いたんですか!」
「……あっちに誰かのこってる?」
「柳さんがいますヨ」
 給仕が出て行って暫く経つと、キチンとしまっていないドアを少しあけて誰かが覗いた。ミサ子がわざと知らん顔をしていると、今度は全体ドアをあけ、庶務の沖本がのっそり入って来た。
「……御精が出ますな……ひとりですか?」
 じろじろミサ子のまわりや誰もいないたくさんの机の方を見まわした。警部あがりの沖本を好いてる者は一人もいなかった。「穴銭」という綽名がついている。頭に穴銭みたいなハゲが一つあった。警部をしていた時分、強盗にかみつかれた跡だという話だが、女事務員たちは、
「うそ! きっと神さんにやられたんだわよ」
と嫌悪をこめて笑った。
 神さんにだって喰いつかれそうに憎々しい五十男だ。
「あんた、一昨日だったかも随分おそかったじゃないか……うん?」
 ミサ子はむっとして、
「これ見て下さい」
 おっつけられた支店長宛の書類を眼でさした。
「四時半になってこれだけ出たんです……こんなに使われて病気んでもなったらどうしてくれるんでしょ」
「ハハハハ……そんなこと会社の知ったことじゃないヨ。ハハハハ」
 きんでワクをはめた前歯を出して意地わるく笑いながら沖本は出て行った。
 軽い靴音をたてて柳がやって来た。
「どのくらいですむ?」
「さあ……もう一時間……そっちは?」
「八時までにどうしてもやっちゃうわ。一緒に何かたべて帰らない? 帰ってから火なんぞおこしていられないもん」
「私なんか、もういい加減ペコペコだわ」
 夜の八時すぎて、庶務へ残業届けを出しミサ子と柳とはやっと宏荘な××ビルディングを出た。
「いやな奴、あの穴銭! 自分で来て見てる癖に、課から部から、姓名まで云わせるんだもの!」
「そういう奴なのよ。こっちからわざわざ届けなけりゃ見ていたってつけないで置くんだから」
 それから「モーリ」へ行ってミサ子は支那ソバを、柳はカレーライスをたべた。

        二

 市ケ谷で省線を降りると、ミサ子はガソリン店の角を、牛込の方へ登って行った。
 一番姉の文子が三人の子持ちになって細工町に住んでいる。急に相談したいことがあると、速達が来たのだ。
 琴曲教授の看板について石敷の小路を入り、立てつけの悪い門をあけ格子をガタガタやっていると、真暗な玄関へサッと茶の間からの灯がさした。
「だアれ?」
「小母ちゃんよ」
「母さん! 小母ちゃんが来たヨ」
 九つの順三の声がした。
「マア、おそいのね、今かえり?」
 割烹かっぽう前掛で手を拭きながら、文子が台所から出て来て格子の懸金をはずした。
「さあ、どうぞ」
 文子が長火鉢の前へ坐ると、九つに五つに三つという子供たちがぞろりと母親にたかって、っとミサ子の方を眺めた。
「どうしたの、順三、小母さんに今日こんにちはしたの?」
 順三は、体をくんねり母親にもたらして笑ってばかりいる。
義兄にいさんは?」ミサ子が訊いた。
「お風呂から床屋へまわってる筈よ……直き帰るわ」
「お変りなし?」
「相変らず――お友達やなんかにも頼んであるらしいんだけれど、義兄さんのようなのは却って駄目ね。ズブの学校出ならこれでまた、就職口があるらしいんだけれど……」
 太田は高商出で、十年余××物産に勤めていた。始めは池内成三という××の大番頭のひきで将来見込みのありそうな鉱山部詰めだった。それがだんだん中軸から遠いところへと勤務を移され、昨年の秋不況と一緒にとうとうくびになった。
 太田の亡父が知事で、二三軒の小さい貸家と今住んでいる地所家屋をのこして行った。それで、どうやらやっている訳だ。
 文子は、
「私この頃つくづくミサちゃんが羨しいわ」
と、しんかららしく云った。
「せめてお小遣いでも自分の力でとれたらどんなにいいでしょうね」
 わきに遊んでる子供たちに聞えないようにしながら文子は小声で、
「先月家賃のとれたのはたった一軒よ。お話にも何にもなりゃしない!」
 ミサ子は長火鉢の灰をかきながら、姉夫婦の生活に同情と歯痒さとを感じた。結婚当時は、僅かながら不動産もあるし、勤め先もいいしと楽観していたのだろう。けれど、世の中は決して一つところに止ってはいないのだ。
「こないだちょっとわけがあって価格評価をして貰って、私、全く先々どうなるんだろうと思ったわ。地面や家作なんてもう何の頼りにもなりゃしない。じゃないのね」
 姉の相談は、ミサ子に同居してくれないかと云うのだった。
「恥かしいこったけれど、全く法がえしがつかないの。だからミサちゃんの都合さえよかったら、よそを肥やすより、うちをすけて貰えまいかしらと思って――」
 ミサ子が急場の返事に困って黙っていると、
「図々しすぎる?」
 文子はかすかに顔を赧らめながら極りわるそうに笑った。
「そんなこと決してないわよ。……でも義兄さん承知なの?」
「承知するもしないもないじゃありませんか――。ミサちゃんだって楽じゃないでしょう? 自炊なんて簡単なようで面倒くさいもの……家にいりゃ台所へ立たせるようなことはしなくてよ」
 ミサ子が××○○会社からとっている月給は英文、邦文両方やって三十八円だった。そこから天引食券代五円、クラブ費親睦費とさしひかれる。間代を十円払うと、あと食べてエスペラントの月謝を出し、たまに映画でも見るのがやっとだった。
 何時になっても家へさえかえれば、炊いた御飯があるというだけでも、のんきになれる。だが――
「どうしようかしら……」
 ミサ子は首を振り振り返事に迷った。実のところ、ミサ子は姉夫婦のやってるような暮しの中へ引ずり込まれるのが厭だった。
 ハッキリ返事しないでいるうちに、
「ヤア」
と、太田がドテラに羽織という姿で帰って来た。
 濃い眉と眉との間をテラテラ光らせ、剃りたての顎、長めな鼻の下へ小さく髭を立ててる。ミサ子が知っている限りの太田は、いつも同じ片づいた表情で、
「――どうです? この頃は」
と長火鉢の前へ座った。
「相変らず……」
「どうだね、一つミサ子さんの会社へでも雇って貰えまいかね」
 嘘とも本当とも分らない表情でそう云いながら太田は朝日に火をつけた。
「私みたいなヘボからじゃだめよ」
「いくらでもいいよ。ほんとに! そう云ってみんなに頼むんだが、これでいざとなるとそうも行かないものと見えてなかなかないね」
 一種の自負ありげに云うのがミサ子には気の毒だった。
「……二年は辛いわね、でも……」
「ああ。しかし、いろんな事業はやっていますよ。ボール・ベアリング、鉄の円い玉だが、カフス・ボタンやいろんなものにつかって銀ぐらいねうちのあるもの、あれの製造工場をやっているし……」
「儲かります?」
 わきで紅茶をいれながら文子が、
「それどころじゃないのヨ!」
 やりきれないという目顔をして見せた。
「今のところは、とてもそこまでは行きませんな。何しろ得意がああいうものはきまっているから、そこへ割込むのが大変だ」
 ミサ子は、太田が十年余も大ブルジョア企業の中に働いていたのにまだそんなことを考えてるのかと不思議な気がした。ミサ子の浅い知識で理解したって今の不況は生産がなくて不況なんじゃない。在りあまって市場がないから不況なのだ。
「小資本じゃ駄目なんでしょう?」
「駄目だね。……だがこんどは一つトーキー映画会社をやりますよ、資本百五十万円の。――これは確にいいね!」
 パラマウントが、天然色写真で同時にトーキーの何とかという最新撮影機を、元同じ××物産で今は蓄音器会社に関係のある友人へ特別契約でよこした。日本で、天然色トーキー映画フィルムをつくる。それが世界へ出て儲けは確実だというのだ。
 余り話が簡単なんでミサ子は思わず……
「……だって、俳優を見つけたりするの大変でしょう? そっちはどうなるの?」と訊いた。
「ナニ、そんなことはどうでもなる」
「だって……スタアを引っこぬくのに大した金でしょう? それにいい監督だって買って来なくちゃならないし……」
「いや、それは何とかなります。十万円もする機械が何しろタダ手に入るんだから……」
 ミサ子は義兄の云うことをきいているうちに鳩尾みずおちの辺がつめたくなるように感じた。才能のない、どこか足りなくはないかとさえ思われる太田は、失業で焦れば焦るほど××が巨大な資本の力で、儲けるのを見て来た癖で可能性のない儲妄想にかかっている。
「――義兄さん、退社手当随分どっさりおもらいんなったでしょう? みんな事業へつぎ込み?」
 すると、太田の無表情な剃あとの青い顔に何とも云えない頑固な気色が浮んだ。
「――実はそのことじゃあ僕清水を怨んでるんです」
 清水とは太田の従兄で、ボール・ベアリングの共同投資人なのだ。
 ミサ子の驚いたことには、こういう話の間姉の文子がまるで無頓着なことだ。長火鉢のわきに縫い直しものをひろげながら、夫と妹とを勝手に話させ、自分は仲間に入って来ようとも、理解しようともしない。
 何も彼もウヤムヤで、ミサ子は十一時頃帰りかけた。姉が男下駄をつっかけて門をしめかたがたついて来た。
「じゃ、さっきの話、考えといて下さいね」
「考えとくわ。……でも、姉さん」ミサ子は、我知らず姉の手を押えるようにして云った。「本当に義兄さんには気をつけなくちゃ駄目よ! あんなインチキ事業ばっかり追っかけてたら、それこそ今にドタン場だわよ」
 文子はどこまでも受けみに手をとられたまま心配そうに、だが矢張りことの本質はちっとも分っていない風で弱々しく答えた。
「私だってそりゃ気が気じゃないんだけれどねエ……」

        三

 主任の机はがら空きで、やって来ている連中も、執務姿にはなっているが或る者は廻転椅子をテーブルとは逆な方へ向けて新聞をひろげている。
 私用らしい手紙を書いている者もある。
 ミサ子は、タイプライタアの仕度をしておいて、膝の上へ婦人雑誌をひろげ読んでいた。
 柳が発起して××○○会社に働いてる女事務員の一部が雑誌購読会をもっていた。一冊分の会費を払えば順ぐりいろんな雑誌がよめるのでみんなによろこばれている。
 不図ふとミサ子は思い出した。××商事につとめている順子と左翼劇場へ行く日をうち合わせるのは今日の約束だった。
 ミサ子はエレベエタアで地階まで降り、電話で順子を呼び出した。
「もしもし、今どう?」
「直ぐならいいわ、いらっしゃいよ」
 疾走する自動車が都会の風をまき起す。ミサ子は翻える臙脂えんじ色の裾を押え、ひろい、街路樹の植わった東京駅前の通りをつっきった。
 すぐ前の舗道に沿って並んでいる幾台もの自動車のボディーはキラキラ日に照っているが、××商事の豪壮な石造の入口の奥は暗くひんやりして見える。
 何段もの石段を小走りに登って、ミサ子は詰襟の受付に順子への面会を求めた。
 左手に長い廊下がつづいている。そこに、後から光線をあびて順子の姿が黒く現れた。下を向いて何か紙片れのようなものを見ながらゆっくりやって来る。
 ミサ子は執務時間中に来ているのだ。気がせく。
「ちょっと!」
 声を殺してせいたが、勿論順子には聞えない。紙片れを事務服のポケットへしまったのを見すましてミサ子は、両手をゲンコにし、ランニングの恰好を真似して体の前で動かして見せた。順子は、遠くから首を曲げ、
「なあに?」
という思い入れだ。早くったら! のんきね。ミサ子がもう一遍袂を振ってランニングの身ぶりをし、おいでおいでをゲンコのまんまの手でしたときだ。いきなり、
「おい! 何してる、そこで!」
 びっくりしてミサ子が振向くと、立っているのは、縞のネクタイをつけた背広の男だ。
「え? 何してるんだ、ここで!」
 ミサ子は凝っとその男を睨み、それから守衛の方を見た。変な、何か悪ふざけをしかける男かと思ったのだ。が、守衛は、金モールで××商事のマークを縫った詰襟の上から、冷淡な軽蔑した口元をしてミサ子を見下している。――
 ミサ子には訳がわからない。
「――私何かわるいことをしたんですか?」
「何か悪いこと? 人を小馬鹿にしたことを云うもんじゃない! う? 大体何と心得てるんだ。この頃の女どもと来たら変な洋服で一日じゅうとび廻るかと思いや、ふざけた恰好して……さ、名と部を書け。あとで厳重に処分するから」
 受付へミサ子はさっさと歩いて行った。縞ネクタイの男は、片手をズボンのポケットへ突込んだまんま、顎をしゃくって、
「おい、この女に紙と鉛筆をやる」
と云った。
「さ、書くんだ。正直に書くんだぞ」
 ミサ子は口惜しさから人さし指の爪が白くなる程力を入れて鉛筆を握り、紙一杯に大きい字で××○○会社△△部大井田ミサ子と書いた。
 ミサ子がこっちを向いて書いてる間、縞ネクタイは足を開いて立ちぼんやり玄関前の舗道を眺めていた。
 書き終ったと分ると、
「どれ、こっちへよこした!」
と、皮の厚い手をのばした。横面に平手うちをくらわせるような気持でミサ子はさっと紙をつきつけた。
 縞ネクタイは、読み下すなり、あわてて片方の手をポケットから引き出した。
「なんだ!」
 守衛と小柄なミサ子とをせわしく見くらべた。
うちのもんじゃないじゃないか」
 肌理きめのあらい縞ネクタイの顔が何とも云えず赤くなり、彼は紙をもったまんま二三歩その辺を動いた。
「どうして応接間へ御案内しなかったんだ!」
 順子が、やっと今になって涎のたまったような声で云った。
「――私のところへ面会にいらしたんです」
「いや、実にどうも! あなたも一言おっしゃって下さればよかったんだが……どうも失礼しました」
 守衛に、
「御案内して!」
と云った。
「いいんです」
 そこに立ったまま、ミサ子は言葉短く順子に、
「いつがいい?」
と訊いた。順子は顔をいきなり逆撫でされたような表情のまんま、
「あさってで私はいいけど」
 二人が話している間に、縞ネクタイはどっかへ行ってしまった。
「誰? あいつ」
「大沢っての、庶務よ」
「――じゃあさってね」
「ええ」
 ミサ子は××商事の壮大な玄関を一段ずつ降りるとき、憤怒でまだ脚が震えるのを感じた。

        四

 胸糞がわるいとしか云いようのない心持だ。昼、地下室の食堂へ女事務員があつまったとき、ミサ子は今朝の経験を話した。
「ひどいわねエ、ひとを何だと思ってるんでしょう!」
「××商事の大沢ってば有名なのよ」
「一体、大会社の庶務だの守衛だのって、きっと巡査上りだとか刑事上りよ。馬鹿にしてるわ!」
 一つむこうのテーブルでは給仕達が夢中になってラグビーの話をしながら飯をかっこんでいる。こっちのテーブルで、女事務員たちはめいめいの粗末な膳の上から首をつき出すようにし、一人一人そのとき口を利いてる仲間の顔を見ながら熱心に喋った。
 ××○○会社と云えば日本で指折りの大会社だが、その丸の内を圧すように聳え立つ建物で働いている人間の中には、はたに知られない不満がある。
 ××○○会社の二十人近い女事務員はみんな少くとも女学校出だった。柳、ミサ子、その他三四人は専攻科や専門学校出だ。男の社員の場合は中学校出と専門学校出との間には区別があるのに、女事務員だけはそんな区別がなく十一からげだった。
 女事務員は決して正社員にはなれない。どんなに永く勤めた揚句でも、女事務員に退職手当をくれるという規則は会社につくられていない。
 会社の都合のいいときはいろいろおだて、実際には「女ども」と軽蔑されるのが、みんなの共通な絶間ないフンガイの種であった。
 女学校出の若い女たちらしく互の中だけで、
「何て馬鹿にしてるんでしょう!」
「人格を無視してるわよ!」
などと不平がよく洩らされた。
 然し、××○○会社には職業紹介所などから人を入れない不文律が昔からあって、多勢いる女事務員たちも、みんな誰かの紹介で入社した者ばっかりだ。
 生活も親や兄の家にいて安定のある者の方が多かった。だから、会社の中でいろいろフンガイし、馬鹿にしてるわ! 何て癪なんでしょう! と云っても、その場その場、とりとめない亢奮で消えてしまうのが癖だ。
 今もガヤガヤ喋っているうちにだんだんみんなの気分の張りがゆるくなって、
「――あなた、それウォータア・カールなの?」
「そうじゃないわ。あれ毎日やらなくちゃ駄目なんでしょう?」
 そんな会話がポツポツ出はじめた。
 ミサ子はテーブルの上へ頬杖をつき、こぼれた番茶のしずくを妻楊子で拡げながら、考えこんでいた。ただ喋っただけでは消えない腹立ちのかたまりがミサ子の胸にある。
 ××商事の奴が、若し本心から怒ってミサ子にくってかかりでもしたのなら後がもっとさっぱりしただろう。××商事の奴のしんはガラン洞の気持だったのだ。それは、受付でミサ子が自分の名を紙に書いてた間、ぼーっと往来を眺めていた男の顔付でわかる。
 あいつは、自分のものでない何かの威を借り、高飛車に出たのだ。だからミサ子が他の会社のものだと分ったときのみっともない、卑屈なあわてざまときたら、どうだ。全く「ざま見ろ!」だ。
 然し、ミサ子の苦々しい発見は、そこからも深まった。あんなケチな奴にさえ権力のようなものが与えられている限り、現に順子はたまげてしまって、きくべき口さえ碌にきけなかったではないか。
 今までミサ子はみんな、ほかの女事務員と同じように守衛などというものは謂わば自分達のためにもなる番人ぐらいに考えていた。それも違っていた。ときによれば守衛までハッキリむこうに廻るのだ。そのために雇われているのだ。
 考えているうちに、ミサ子は切ない緊張した心持になって来た。頭の中で、何かカラクリがじりじりと一まわりしかけている。これまでうっかり見そこなっていた自分たち女事務員、勤人の生活の本体というものがわかって来そうな工合だ。
 ミサ子は、思いが凝って上気のぼせ、少し恰好のかわった奇麗な一重瞼をあげて、何ということなく、たべあらした膳ごしにテーブルのむこう端にいる柳の方を見た。
 柳はいつものふっくら落着いた顔つきで、余り喋らずおだやかにミサ子を見ている。が、ミサ子はその眼差しから今は特別自分の心持に相触れる何かを感じた。
 やがて、柳が、
「みなさん、どうオ」
と、持ち前のゆっくりした口調で云いながら椅子をどけて立ち上った。
「お天気がいいから、また四十分ピクニックやらないこと?」
「賛成!」
「私丸菱へ行かなくっちゃ」
 ミサ子を入れて十人ばかりが、柳のゆれている濠端へ出て、初秋の日向を日比谷公園の方へ歩いて行った。昼休みが一時間ある。四十分ピクニックもいつとはなしはじまって、一月に二度ぐらい、日比谷公園の池の畔へ出かけたり、芝生で休んで来たりするのだ。

        五

 狭いコンクリートの階段を三階までのぼって行くと右側に小さい借室が四つ五つ並んでいる。廊下に雑巾バケツや脚立きゃたつが出しっぱなしになっているという粗末なビルディングだ。
 エスペラントの講習会はそこの一室である。
 ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。
 エスペラント講習会には実にいろんな連中がやって来ていた。七八人いる女の中にも、女教師らしい洋装のひともいれば、役所づとめらしい地味な袴姿の三十前後のひともいた。男の方はもっと雑多で、若い勤人、労働者風のものから給仕らしい十六七の少年までをこめている。
 めいめいの身分については互に余り喋らなかったが、ミサ子はこの講習会の雰囲気がいかにも親しめた。
 講習がはじまるとき、中尾という黒い服を着た独身者らしい中年の講師が、
「この中で英語や何か、外国語を一つもやったことのない人がキットあると思うんですがちょっと手をあげてくれませんか」
と云った。そのとき菅は茶色のシャツを着た腕を最初にあげて四辺あたりを見廻した一人だ。
 それからだんだん講習がすすんで何日目かに、
「君は労働者か?」「そうだ。君も労働者か? どこに働いているのか?」「金属工場に働いている」
という問答が出て来たことがあった。すると菅が、
「アノー、菓子工場って云うのはエスペラントで何ていうんですか」
ときいた。みんなは何ということなし、素直な菅の質問に好意を感じて笑った。菅は自分が菓子工場に働いていることをみんなに隠さないばかりか、ときどきハトロン紙の大袋に一杯パン菓子を抱えこんで来て、みんなに振舞った。
 今夜も、カサのない電燈の下にかたまっている中心は、菅のもって来た菓子だ。
「食べろよ、同志!」
とあやうげなエスペラントで、しかもそう云えるのがいかにも満足そうに云いながら菅が席をつめてミサ子を自分のとなりにかけさせた。
「ええ、ありがとう」
 ミサ子は、むこう側に坂田がいるのを見つけて、軽く目礼した。ずっと講習会の始まりから来ている。ついこの頃柳の従兄で内務省に勤めていることがわかった実直そうな青年だ。
 勤めがえりが多いから、パン菓子はいつもみんなに歓迎される。
「これで番茶が一杯あったら申し分なしだのにね」
 ミサ子のために席をゆずりながら、別に挨拶もしなかった三輪みどりが、紅を濃くぬった唇から煙草の煙をフッとふいて云った。
「菅さん、親切ついでにヤカンもこの次もって来てよウ」
「丸ビルにゃ、ヤカンなんぞいくらだってあるんだろう。一つかっぱらって来なヨ」
「――御冗談でしょう!」
 長めな断髪にコテをあてて耳のまわりへ捲きあげ、みどりは、黄色い薔薇のような半衿に、派手な銘仙の着物を着ている。和服でも高く脚を組み、女同士より却って男の連中と気安げによく喋った。そういう点が講習生の中でも目立ち、女事務員と云っても、ミサ子たちの気風とはガラリとちがう。
 菅は、だれをも分けへだてしない口調で昨夜近所のラシャ屋へ入った強盗の話をした。
「店の若いもんに追っかけられて、ものの十町と逃げないうちに、とっつかまちまいやがった。そいつったら、懐へデッかい自動車のラッパをもっていましたヨ」
「――何です? そのラッパは、ぬすんだんですか?」
「そいつはね、入ろうと思う家の前でそいつをブーブーやって『今晩は! 今晩は!』とやったんです」
 詰襟服を着た少年の尾野が、
「この頃は犬の鳴声の素敵に上手うまい奴もいるってネ」
 そう云いながら、パン菓子へ手をのばし、一どきに三つ四つ掌へ握りとって食べている。――
 最後にドアがあいて、
今日はボーナン・ターゴン
 肩のガッチリした中尾が入って来た。いつも通り、ゆっくりした動作でステッキをビラの下っている壁の隅にたてかけ、ポケットから水色の薄い教科書を出しながら、
「――なかなか御馳走ですナ」
 笑って教壇がわりの大机の前へ行った。
 立ち上って机から菓子屑をはらっていた菅が、
「失礼ですが、アノー、ここにとっときましたから」
と、わざわざ菓子の包みを挙げて見せたので、みんな笑った。
 今日は第六課だ。
「君の工場主はどんな人間か?」
「大ブルジョアだ。彼は赤い面をしている。然し赤い思想は大嫌いだ」
という文句が、クッキリ太い活字で教科書の中へ出て来たとき、ミサ子を入れて三十人ばかりの講習生は粗末な室の中で愉快そうにドッと笑い出し、窓の下を通っている江戸川行電車の響を一時消した。

        六

真直まっすぐおかえりですか?」
「ええ」
 エスペラントがすむとミサ子と坂田とは偶然並んで九段ビルを出た。まだ十時前で、散歩する人通りとレコードのジャズの響が歩道にあふれている。
 チカチカ眼をさす店頭の灯をはなれて天を見ると、小さく澄んだ月があった。そう気がついて見ると広いアスファルト車道のところは、どこか蒼んだ月の光がおびただしい街燈の輝きの底に閃めいている。
 ミサ子は、フェルト草履で歩きながら、
「柳さんにこの頃ちょいちょいお会いになりますか」
と坂田にきいた。
「ええ会います」
 それから、笑いを含んで、
「こないだは××商事でえらい目にあわれたそうですね」
 優しく顔を見られて、ミサ子はちょっとてれた。
「――ええ。……でも私あとから考えてもう一つ口惜しいことがふえたんです」
「どういうことです?」
「だってね、××商事の大沢が私をドナリつけたときね、私思わず知らず『私何かわるいことをしたんですか』って云っちゃったんですの。どうして『あなたが私をドナル権利はないでしょう!』って云ってやらなかったかと思うわ」
「ハハハハハ……でも大分みんなほかの女事務員のひと達もフンガイしたそうじゃないですか」
「ええ――でも駄目です。二日もたつとみんな忘れてしまってるらしいんですもの」
「――ひとつ、そんな会社、やめてやったらどうです?」
 坂田のおとなしそうな風采や地道そうな様子に似合わない云いかたなので、冗談か本気か見当がつかず、ミサ子は思わずチラリと対手の青年らしい横顔を見た。それから、
「そんなこと出来ないわ」
と短かく云った。ミサ子の実家はもう母親一人で、それが千葉の兄の家に厄介になっているのだ。
 それに、これはまだ誰にも云わないことだが、ミサ子はこの頃自分の勤めに、何かこれまでと違った気持を感じ始めているのだ。
 そのまんま、黙りこんで暫く歩いて行くと、誰かが後から軽くミサ子の袂にさわった。ふりむくと同時に、
「――一緒に行かない?」
 紅の濃い黄色い半襟のみどりだ。ミサ子の返事も待たずスッと並んで歩き出しながら、
「あなたたち、どっち?」
「すぐそこから省線へのるのよ」
「あなたも?」
 ミサ子の顔を追いぬくように自分の化粧した顔を坂田の方へ出して訊いた。
「僕は本郷の方です」
「じゃちょっとそこいらでお茶のんで行かないこと? ね」
「さあ……」
 みどりのなりがいやに人目につく。その上そんな金もないのでミサ子は二の足をふんだ。
「私おごるから……ね、いいじゃないの」
 二人の女の押問答には仲間いりをしないで歩いていた坂田が、神保町の角へ来ると、
「じゃ……失敬しますから――」
 丁寧に帽子へ手をかけ、電車のり場の方へ行ってしまった。じゃ私も帰ろうと云うかと思うと、反対にみどりは、
「さ、二人っきりで私却ってうれしいわ! 急にこんなこと云って、あなた妙に思うかもしれないけど、私淋しいのよ。だから、つきあって――ね?」
 三省堂の喫茶部へ入った。ミサ子は紅茶を、みどりは伏目になってソーダ水をのんでいたが、
「こんな話をするの今日はじめてね、あなた、私をどんな女だと思う?」
 落ついてさし向いになって見ると、ざっくばらんな、いじらしいところを感じ、ミサ子は、
「私なんかあなたなんぞのお歯に合わないと思ってたわ」
と正直に云った。
「そうオ?」
 ソーダ水をストローでかきまわしながら、やっぱり伏目のまんま、
「私は違うわ、あなたはわりあいお高くとまってないから、初めっからすきだったわ」
「…………」
「ね、大井田さん」
 耳のまわりの捲毛をふるように頭をあげ、
「あなた、勤め辛くない?」
 喰い入るような黒い眼でみどりはミサ子を見つめた。
「そりゃとても癪なときがあるわ」
 だが、みどりの眼には、そんなミサ子の言葉以上の切ないものがある。我知らずつり込まれて、
「あなたの方も、えらい?」
「違うわ! そりァちがうわ。あなたのはとにかく大会社だけれど私のは個人経営だし……丸ビルの中なんて、トッテモひどいワ」
 みどりは秋田から逃げて上京して来た。英文タイプも出来るのだが、そんなわけで東京市内にちゃんとした紹介者と保証人がないから、ミサ子のいる××○○会社のようなところではどんなにしても雇ってはくれない。試験も、保証人もいらない個人経営の事務所の女事務員に職業紹介所から雇われるしかないのだ。
「顔だけみてすぐ雇うのヨ、そういうところじゃ。大抵一部屋だけ事務所に借りていて、隣りはもうよそだから、図々しいもんだわ。……始っからそれを予算に入れて何したって尻をもちこみようのない、保証人なんかなしの若い女をよろこんでつかうんです」
「仕事のほかのサービスまでやらされるの?」
「……私たちの辛いのはそれだわ!」
 クサクサすることがあるらしいみどりの素振りのわけがわかった。ミサ子たち××○○会社の女事務員が腹を立てるのは、またそれとは違った。男の社員と女事務員とを昔風に区別し、男の社員と女事務員との間に恋愛問題でもおこると、クビになるのは大抵男の社員ではない。女事務員だけを懲罰的にクビにする。そんな片手落ちのことがあるものかと、よくみんなの問題になるのだ。
「……女事務員と云ったって、経営でいろいろ辛さもちがうんだわねえ」
 ミサ子はしみじみした心持になって云った。
「でも、どっちみち損なのはお互様に女だわ」
「――大経営のところでは辛いったって仕事の上だけでしょう。特等席だわ。……お話しんならない意地のわるいことをするわよ。室んなか両手をコウひろげて追いまわして来てさ」
 みどりは仕方をして見せながら真面目な、殆ど腹を立てた少女みたいな口ぶりで云った。
「いつまでもひっぱずしてるところへ人でも来ようものなら、一旦通した十枚ぐらいの書類を『オイ! こりゃ何だ!』って、一字ばっかりの誤字で、ビリビリ目の前で裂いて見せるわ」
「……あなた仲よしってないの?」
 ミサ子はみどりが気の毒になってきいた。
「学校が東京じゃなかったし……私たちみたいなのは駄目よ。事務所でだっていつも独りぼっちだし……なお弱い立場なのね」
 見栄のないみどりの話をきいているうちに、自然とミサ子の頭の中に××○○会社の女事務員たちがもっている一つの気風みたいなものが思い浮んで来た。
 昼休みに、××○○会社の女事務員が三四人ぐらい連れだって丸の内を散歩している。そんなとき、いかにも鮮やかにモダーンな洋装の女事務員や、派手な、例えばみどりみたいな服装をした女事務員たちが、やっぱり休みでブラブラその辺を歩いているのに出会うことがある。
 どっちかというと落付いた風采をしている××○○会社の事務員たちはよくよくのときでなければ、決してそういう丸ビル、海上ビルなどの女事務員たちの服装をふりかえって見たり、その場で話題にのぼせたりすることはしなかった。すれ違いながら云わず語らずのうちに、ああ云うひと達と自分たちとは違うという女らしい自惚うぬぼれがみんなの心の内にあるのだった。××○○会社が女事務員の断髪を禁じたり、洋装をするといやな顔をすることには誰しも不満なのだが、それは内輪のことで、いざ他のもっと小規模のところで派手な装をしてひどい働きをさせられている女事務員たちとつき合わされると、反撥して不満を忘れ、自分たちは××○○の者だと澄してしまうのだ。
「モーリ」で十銭の支那ソバを食べようとも××○○会社へ勤めていると云うと、そのきこえで現に間借りをするとき、小母さんの信用ぶりが違った。そういうバカらしい雇われ人の見栄みたいなものにつられて、××○○会社の女事務員たちが、変にツンと自分たちだけでかたまろうとするのだ。そしてまたその方が会社にとっては便利で安全だ。――
 みどりはフト話題をかえ、
「大井田さん、いつも勉強して来るわね」
と云った。そして今はみつ豆のかんてんをぽちぽちたべながら、
「……私エスペラントなんて柄じゃないんだけれど……でも、講習会へ来てるひと、わりかたみんな気持いい人ばっかりね。それに教科書が痛快だわ。……いっそあのパン菓子屋さんのお神さんにでもして貰っちゃおうかしら」
 みどりは元柳原の裏のアパートをかりて住んでいるのだった。
「気が向いたらよって下さいな。とてもおかしなとこで笑っちゃうワ。どうせ昼間は家にいないから、盲窓みたいな三角の室にいるの……七円よ、悪くないでしょ?」
 ミサ子は、みどりに対するこれまでの自分の心の中にもいつの間にかやっぱり××○○流の気分が入ってたと思って、後めたい心持だった。
「――丸ビルの事務所へよってもかまわないかしら」
「かまうもんですか! でもあすこだっていつまでいれるか知れたもんじゃないわ」
「かわるの?」
「だって、ウダウダ云うの聞かなけりゃクビだもの。――まあ大抵一つところ三月だわね」
 ミサ子も自分の住所と略図とを書いてわたした。
 テーブルから立ちしなに、みどりは着物の襟元をひっぱりながら(彼女の方を三人づれの学生がじっと見ているのにかまわず)、
「……ああア、また草履も買わなくちゃならないし」
と、泥水がしみてきたなくなった藤色の草履を眺めて云った。
「鼻緒なんか、でも新しいようじゃないの」
「ええ、本当なら買ってまだいくらもたちゃしないのよ。こないだおひるっからひどく雨が降ったときがあったでしょう。私がちょいとツンツンしたって、あの雨ん中をわざと傘がないのに集金にやらされたんだもの……たまりゃしない。――」
 神田駅で別れて省線にゆられながら、ミサ子はみどりの口紅のあとの残ったストローの色を目にうかべた。
 今夜の話で、然しミサ子たち××○○会社の女事務員がブツブツ云いながら結局納まっているいろいろのわけがハッキリしたように思えた。
 ××○○会社には女事務員でも、支店からまわって来たりしてかれこれ七八年勤めている人が一人二人いた。この不景気でもクビきりをやたらされないという安心が、ひとつは××○○会社の女事務員たちを引込思案にさせている原因だ。

        七

 その日は朝っからまるでいそがしかった。やっと暇をみてミサ子が洗面所へ行こうとすると、むこうから靴音を立てて庶務の沖本がセカセカ小使とやって来た。
「どうしたんだね、佐田君がぶったおれたっていうじゃないか」
「アラ!」
 ミサ子はびっくりした。
「ほんとですか」
「仕様がないよ。だから御婦人は……」
 小走りにミサ子が沖本と洗面所へ行って見ると、ほんとだ。白いタイル張の床へじかに事務服を着たまんまの佐田はる子が倒れて、掃除掛の手拭を姉さんかぶりにした小母さんが、ヤッと七三に結ったはる子の頭だけ黒綿繻子の仕事着をきた自分の膝へ支えている。
「あら、あら、心配だワ、ちょいと! はる子さん! さ、のんで! これを飲んで!」
 きたないのをわすれ、自分も床へ膝をついた岡本しづ子が真蒼になってコップについだ水を何とかしてのまそうとしているところだ。
 三人ばかりの男の社員がかたまってそれを見ていた。
「それじゃ駄目だよ。歯をくいしばってるもん」
 しづ子が、
「はる子さん! はる子さん!」
 おろおろして気を失っている対手の帯の辺をゆすった。
「――口うつしがいいんだがねエ」
 小母さんが云った。
「おい、平田! どうだ一つ!」
「ばか、人工呼吸すれば、脳貧血ぐらいすぐだヨ」
 云うばっかりで誰も実際には手を出さないところへ、
「一体、どうしたんだ」
 沖本がかがみこんだ。
「へ、あたしがね、ここんところを拭いていると佐田さんがはばかりから出て来てね、ああ気分がわるいって、窓の方向いてぼんやりしてたかと思うとよろよろっとして倒れそうんなったんでネ、この床で頭をうっちゃ一たまりもあるめえって、仰天してつらまえにかかったって、あなた、こっちはこの体だもの、もろにへたっちゃって……」
 沖本は、半分ぐらい説明をきくと、黒く垢のつまった爪の生えた指で事務的にはる子の瞼をひっくりかえして見た。
「大したことはあるまい。――もう一人か二人つれて来い、ここへころがしとくわけにも行くまいから」
「沖本さん! 死んじゃうんじゃないかしら」
 しづ子が泣きそうに云った。
「――ふ、こんなことで死んだら女なんてものは一生に二十度ぐらい生れかわって来なくちゃなるまい」
「体のせいだねエ」
「沖本さん!」
 ミサ子が沖本の後からつよい声を出して呼んだ。
「医者呼んだんですか」
「いいだろう」
「ひどいわ! だってあなたに容態なんか判らないじゃありませんか。若し、何かあったらどうするんです」
 沖本はミサ子のいうことになんぞ耳をかさず、小使がやって来るのを待って、
「それ」
と、唇の色をなくして倒れているはる子の方を顎で掬った。××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張なめしがわばりの安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。
 二人の小使にぐったりとだかれてエレベータアの方へ行くはる子のわきについて歩きながら、しづ子が後毛おくれげを頬にこぼして、
「小母さん、すみませんがよく見てやって下さいね、ほんとに私心配だわ」
と云った。
「ああよござんすヨ」
 沖本がその連中について形式だけの応急室につかわれている室の方へ降りて行かず、スッと庶務の方へ曲る後姿を見ると、ミサ子はムラムラとした。
 五時になるのを待ちかねてミサ子はこんどは柳を誘い、二階のはずれにある応急室へ行って見た。
 ドアをあけると室の中はもうガラン堂だ。はる子がいたときあげたのだろう。茶色のブラインドが一枚だけ巻き上っているところからだけうすあかりがさして、むこう側のビルディングの窓が往来をへだてて見えている。毛ピンが一本床に落ちていた。ミサ子はそれを見ると淋しい気がした。
「大丈夫だったのかしら」
「……さア……」
 洗面所掛の小母さんにきいたら、気がつくと沖本が来て、
「どうだね、そろそろもう帰れるだろう」
と云ったので、はる子はまだふらつくが守衛に自動車をよんで貰って独りでかえったということだ。
「どこなのかしら家って」
代々幡よよはただわ」
「――自動車代、会社で出すのかしら」
 柳は、
「出すものか!」
と云ったぎり黙り込んだ。

        八

 二三日経った。けれども、はる子は出勤して来ない。
 やがてはる子を知っている××○○会社の女事務員の間に、はる子さん大分悪いらしい話だわという噂がひろまった。
 洗面所の鏡に向って髪を直しながら、
「はる子さんの、その肺リンパって、肺病なのかしら」
と、瘠ぎすの依田とよ子が云った。わきで、ザア、ザア水を出して手を洗っていた柳が、
「肺病って――結核じゃないのヨ。でもあたし達の職業病だわ。邦文タイプを永くやってると、力を入れる工合でみんなそうなるのよ」
「たまんないわねエ」
 はる子は××○○会社の女事務員の中では古株で六七年勤めみんなから信用されていたのだ。
「はる子さんぐらいになったら、病気手当ぐらい貰えたっていいわね」
「そんなもん、会社が出すもんですか」
 依田とよ子がいつもになくプリプリした口調でミサ子に云った。
「私が入社するとき、人事課の細谷が真先に『あなたの御両親は御健在ですか』ってきいたことよ。父はいませんて云ったら、何病で死なれましたかだって。……私が病気んでもなれば、そりゃ遺伝だって片づけられちゃうにきまってるわ」
「――何だったの? お父さん」
 クリーム色の帯あげをしめなおしながら、サワ子が子供っぽく訊いた。
「船長だったのよ。南洋航路で船が沈没しちまったんです」
「アラ……。じゃそんなもの遺伝しやしないじゃないの」
「きまってるわ。だけどね、そんなことだって会社は口実にしようと思えばするってことなのよ」
 洗面所の窓から、宏壮な××○○会社の建物の間にはさまれたコンクリートの内庭が見下せた。一台の真新しい赤塗りの重油運搬用トラックが真昼の日を浴びそこに来て止っている。無帽子の社員が三人ポケットへ手を突っこんで、一人の男が何か説明しているのを聞いている。
 和田れい子が、窓から首をひっこめながら、
「はる子さん、ほんとうに気の毒ね。私女としてつくづく同情しちゃうワ。あのひと、とても無理してたからとうとうこんなことになっちゃったのよ」
「――旦那さんがあるんでしょう?」
「あるんだけど、今ルンペンなのよ。それが会社へしれるとまたうるさいし……それにね、はる子さんおなかがあやしくなってたのよ」
 洗面所にいた女事務員たちみんなが、れい子のこの話へ注意をひきつけられた。
「そうだったの!」
「まあ……しらなかったわ」
「でもね、旦那さんがそんなだし、会社じゃたださえ結婚してる女をよろこばないでしょ? 帰りをいそいだり、欠勤が多いって云ったり。――はる子さんが今身持んなって、それでクビんでもなったらとても暮しちゃいけないことになるもんだから、あのひと、煩悶してたわ。そりゃ……」
 れい子は言葉を途切らしたがちょっと声をひくめて、
「……このごろ、いろんなことがあるようでもまだナカナカなのね。内緒だけれど、はる子さん、しくじったのよ。それでずっと工合がわるかったんですよ」
 サワ子が、明るい圧えつけられたような空気の中でそっと溜息をついた。柳が沈黙をやぶった。
「医者にかかったんでしょう? でも」
「二十五円もとられたんですって……出血がとまらなかったのよ」
 ミサ子は堪らない心持になって云った。
「実際ひどいもんだわ。働かすときには結婚していることなんか無視して働かしといて、いざ倒れたとなるとみんなおっかぶせちまうんだから」
 れい子が、不安そうに片頬笑いをうかべて、
「私なんか、あやういもんだワ」
と云ったが、誰もそれを笑えなかった。
「だってあなたんところ勤めてるんでしょ」
「そりゃそうだけれど、いつどんなことになるかしれないじゃないの。……人間の体だもの」
「ねエ、バカにしてるわねえ」
 サワ子が熱心に云った。
「何ぞって云うと女らしくしろ! 女らしくしろって会社じゃ云うくせしてねえ!」
 この頃の不景気につれて、会社ばかりでなくいろんな工場でも、男より賃銀のやすい女をドシドシ使うようになって来た。しかも家持ちの、年数の古い女は、能率があがらないと云ってクビにする。その代りに小学を出たばっかりぐらいの若い娘を、モットやすい賃銀で雇って仕込む。
「私んとこの下の小母さんの親類でも、そういうわけで二人もクビんなったわ、ついこの頃」
 柳の話をみんな黙ってきいていたが、れい子がしんみりと云った。
「――大きなビルディングの中にいるというだけで、私たちだって女工さんだって違いありゃしないのねえ。知識労働だなんていい気になってるだけ滑稽みたいなもんだわ」
 ミサ子は××○○会社の女事務員たちの心持が一部ではあるがこんなに揃ってズーッと引緊ったのははじめてだと思った。
 ぞろぞろ食堂の方へ行くと、地下室の階段を下から食事をすました益本があがって来ながら、ミサ子たちの一団を見ると、
「ダメよ! 今日は!」
と大きな声で云った。
「ゴボーに竹輪ブよ」
「どうする?」
「どうする?」
 地下室の下り口で停滞してしまった。
「……われらレストランにしちゃおうカ」
「ね!」
 ××○○会社の食堂は一回二十銭ずつの食券だった。ところが賄は請負で、二十銭が勿体ないようなおかずのときがあった。女事務員たちは、そんなとき食券はとっといて「モーリ」で十銭の昼食をする。

        九

 ミサ子が帰ろうとしているところへ、柳がれい子とつれ立ってやって来た。
「いっしょに行かない?」
 三人は連れだって、中央郵便局の建物の裏を銀座に向って歩いてった。
 不図ふと思いついたように柳が、
「ねえ、あなたがたどう思う? 私、若しはる子さんがこれっきり退社するようなことになったら、ひとつみんなから慰問金をあつめてはる子さんにあげたらどうかと思うんだけれど……」
「そう出来たら、よろこぶわ、キット」
 れい子がすぐ答えた。
「私たち、沖本に腹をたてたりはよくやってるけれど、これぞといってみんなで纏まったことってのは一つもやっていないから、慰問金をあつめるのなんかいいわね」
 ミサ子は、黙ってれい子のわきについて歩いていたが内心意外な気がした。れい子は××○○会社の女事務員の中では至って地味で特色のない方だった。こんなきっぱりしたことを云うとは考えていなかったのだ。
 柳はミサ子の顔をのぞき込むようにして、
「あなたも賛成?」
ときいた。
「私もいいと思うわ」
「はる子さんが、その後どんな様子か……今日とてもみんな本気になってたわね、あの調子をくずさないようにしなくちゃ駄目ね。退社とわかったら、すぐやりましょうよ、ね。お金をあつめる責任者を誰か三四人きめて……ね」
「ミサ子さん、ひと肌おぬぎなさいよ」
とれい子が笑った。
「あら……私なんか」
「御謙遜はいりません。……男の社員からだって、あつめられるだけあつめましょうよ。はる子さんは新米の社員が書式を間違えた原稿をよこしたって、ちゃんと直して打ってやるぐらいだったんだもの、まさか知らん顔しやしないわ」
 有楽町で別れるとき柳はミサ子に、
「じゃいいわね、あのこと忘れないでいて下さいね」
と念を押した。
 落付いているのと、技術がいいのと、どこか人をひきつけるところがあるのとで、ミサ子は××○○会社へ入った間もなくから、柳と親しくなった。
 どっちかと云えば人目をひき易い美しい顔だちだが、柳は大して身装を飾らなかった。大抵白絹のブラウスにスカートといういでたちで、それがまたよく似合っていた。
 ××○○会社の女事務員の間に雑誌購読会をこしらえたり、四十分ピクニックをはじめたりして、ミサ子は、初めはただ人望のあるやりてだと柳を解釈していた。
 この頃になって、ミサ子自身の考えかたが少しずつかわって来るにつれ、柳に対する解釈もかわって来た。柳が辛抱づよくミサ子たち××○○会社の女事務員にいろいろ思いつきを実行してゆくところには、ミサ子が感服する根気よさがあった。そして、一つのことをよく考えて見ると、決して偶然の思いつきで、バッタリ途切れてしまうという風なやりかたはされていない。エスペラント講習会へ通っていることを、ミサ子は柳にだけ打ちあけた。
 はる子の慰問金をあつめる計画が自分にうちあけられたことを、ミサ子はうれしく思い、責任を感じた。
 四五日後、食堂ではる子の話が出たとき、とよ子が急に声をひそめて、
「ちょっと! もうはる子さんの代りの人が来るんですって!」
と一同に報告した。
「どうして?」
 みんな意外な顔を見合わせた。柳が、
「きのうだか、一ヵ月は休職のまんまにしとくって話だったじゃないの?」
「そうなのよ、でもそれは表むきでね、はる子さんのとこへ手紙か何か会社から行ったらしいわ」
 とよ子の話によると、はる子の病気は邦文タイプを打つ以上一旦なおってもまたすぐわるくなるから、この際、もっと健康に適した職業にかわることを会社から勧告して来たというのだ。

        十

 ××○○会社では食堂が地下室と二階と、ふたところに分れてあった。
 二階の食堂の方は日に一円の賄をたべる連中ので、地下室は、ミサ子たちのような女事務員や給仕をはじめ、月給百五六十円までぐらいの社員達のためだ。上と下とでは階級がはっきり分れ、身なりも違った。上の食堂なんか見たことのないものが、地下室の細長いテーブルに向って、せかせか朝飯ぬきの昼をたべた。
 その地下室の食堂の白い壁に、食物のカロリーを表に書いた厚紙が貼ってあった。大体、幸楽軒の請負経営にはこれまでもみんな不満で、不平が絶えない。カロリー表が貼り出された当時、男の社員たちは、片手をポケットへ突こんでその表を見上げながら、
「オイ、冗談じゃないぜ! これからにしんと大豆ばっかり食わされるんじゃないか。科学もこうなっちゃ侘しいね」
と云った。
  ┌─────────────────────┐
  │知識労働者の一日所要カロリーは二千三百です│
  └─────────────────────┘
 表のわきにこう書いてある。誰もそれを見ていい心持はしなかった。それだけ食えたら黙っていろ、というような押しつけがましい感じなのだ。
 近頃、その地下食堂の食事がわるい続きだ。こないだはる子が悪いという噂があった頃から、ミサ子たち一団の女事務員連中が「モーリ」へ出かけるのは、今日では五遍目になる。
「ね、ちょっと! 馬鹿にしてるわね、蒟蒻こんにゃくと人参のお煮つけが、何千カロリーあるってんでしょう!」
 しづ子が、「モーリ」の小さい丸い腰かけの上で窮屈そうに袂をかき合わせながら小声で腹立たしそうに云った。
「……でも狡いわ。見てて御覧なさい、あのカロリー表にはっきり書いてない材料ばっかりつかっているから」
 れい子が、穏やかな、けれども飾りけない口調で、
「大抵のとき、マアあの調子じゃ八百から九百カロリーがせいぜいね」と云った。
「私たちの二十銭から毎日何百カロリーかずつ儲けさせているんだから大きいもんだ」
 支那そばを食べ初めながら柳が、
「ねえ、どう思う? 私、食堂の問題はみんなでもう少し真剣に考えなくちゃならないと思うわ。わたし達家で御馳走をいくらでもたべて補充の出来る身分じゃないもの。謂わばお昼が一等主な食事なんだもの。あんなもの食べさせられて、栄養不良で病気になればすぐクビじゃ、余り話にならないじゃないの」
「全くだわねえ!」
 しづ子が賛成した。ミサ子は柳の言葉やそれに反応するみんなの気分を、我知らずこまかく注意した。はる子の事件は女事務員の大多数に、××○○会社に対する一つの共通な不満感を与えていた。食堂の不平だって、それと心持のどっかでは絡んでいるのだ。
 ミサ子は、笑いながら、
「どう? 賄征伐やっちゃ!」
と云って、四五人の顔を見渡した。
「あら、いやだ……」
 れい子がそれを、おさえて真面目に云った。
「考えると、でも変だわよ。同じものを給仕さんたちは十銭でたべてるんでしょう? 月給百五六十円の人たちだって二十銭とすれば一番割のわるいのはわれわれ階級じゃないの。われわれ女連が一番しぼられてることになるのよ!」
「だって、まさか私達が食べもののことからストライキも出来ないじゃないの、みっともなくて……」
 ぬるい茶番をのみかけていたミサ子がそれを置いて熱っぽい調子で云った。
「私達がそういう心持をすてない限り、むこうじゃそれを利用してつけ込んで来ると思うわ」
「――そりゃ確にそうね、――でも……」
 しづ子、依田そういう割合元気な連中もこれに対しては黙りこんでいる。――
 そのまんま「モーリ」を出て、みんなはぶらぶら東京駅の方へ歩いて行った。
 デパートの送迎自動車だまりの広場で白いテントが陽に光って、人の列が見えている。黄色い葉をのこした細い銀杏の若樹のまわりや、暖められたガソリンの軽い都会らしい匂いの中を絶間ない自動車の往来を縫ってはあっちこっちのビルディングから出て来た連中が素頭で散歩している。
 この大勢の、大して愉快な希望もなさそうにして歩いている殆どみんなが月賦の洋服を着、女房子供をかかえて去年から賞与も半減かまるで無しかで日々同じように働かされているのだと思うと、ミサ子は心の底でおっかないように感じた。
 実際丸の内の気分も、この二三年に変った。ミサ子が女学校時分ここを通る毎に感じたような、自信ありげな、燦々光るような雰囲気は、この頃の丸の内のどこの隅にもない。ぶらぶらと歩いている連中も気むずかしげに巨大なビルディングの下で、小さくごみっぽく見える。
 東京駅の正面車寄のわきの槇の植込みの前で三四人もう頭の薄くなった連中が日に向って並んで、ニヤニヤしながら仲間におとなしく素人写真を撮られていた。

        十一

 そろそろ時間になるので、ミサ子が衝立ついたてのかげで仕事着のスナップをかけているところへ、
「ちょいと」
 廊下かられい子が手招きをした。
「なアに?」
「化粧室へいらっしゃいよ、はる子さんから手紙が来たんですよ」
 思わず足を早めて行って見ると、廊下からは見えない一方の隅の鏡の前へ、柳をはじめしづ子、サワ子そのほか二三人がかたまって凝っとしている。
 れい子が真面目な小声で、
「大井田さん来てよ、見せたげて下さい」
と云った。黙ってしづ子が手にもっていた藤色のレターペーパーをミサ子の方へ出した。
 鵞堂流にくずした細いペン字が紙を埋めている。ミサ子は、書き出しのありふれた時候の挨拶のところはいい加減にしておいて、「私の今度の病気につきましては、本当にみなさまの心からの御親切なお慰めの言葉をいただきまして」というところから先を、気をつけて読んだ。はる子は持ち前の地味な気質から、自分の心持は表面に出さないように努めているのが文章の調子でよくわかった。それでも、この手紙を××○○会社の同僚一同へあてて書く気にまでなった圧えきれない熱いものが、切ないほど細い女らしい字のかげに溢れている。
「一昨日会社から使で解雇通知と金一封をいただきました。あけて見ましたら、百五十円也入っておりました。不束ふつつかながら私が七年間こんな体になるまで会社につくした労力は、百五十円のねうちでございましたのね。ホホホホ………」
 ミサ子は、この文句を繰返し読んでいるうちに頬っぺたの下の方が鳥肌だって来るような強い感じにうたれた。
 みんな体を大切にして元気で暮すように。そこで働いていた間、みなさんが自分に優しくしてくれたのを忘られず、挨拶を書く。万一気がむいたら遊びに来てくれ。そういう言葉の終りに、さりげなく「私の病気も伝染性ではないそうで、そればかりはせめてもと思っております」といかにもはる子らしくつけ加えてある。――
 ミサ子は、しづ子に手紙を返しながら、
「慰問金のこと、どうなって?」
と、柳の顔を見た。
「私今からすぐいくらかでもみんなの力でしてあげたいと思うわ」
「賛成だワ。はる子さんの口惜しい心持は私にだって実によく分るんですもの!」
 食堂の不平を話したときには体裁がわるいと尻込みしていたサワ子も、はる子の手紙に動かされ、熱心に相槌を打った。
「――惜しいことにもうゆっくり相談してる時間がないわね、……で、どうしてやる? 誰か係りをすぐ決めようじゃないの」
 柳の言葉をひったくるようにれい子が、
「雑誌購読会の名でしましょうよ」
と提案した。
「個人個人の名を出すと穴銭がまたうるさいから……」
「何か勧誘状みたいなものがいりゃしない?」
 しづ子が訊いた。
「あった方がいい。誰が書く?」
「――柳さんお書きなさいよ!」
 例の落付いた口調で柳が云った。
「じゃ、私退社までに下書こしらえておくわ。それをみんなで相談して清書しましょうよ」
「早い方がいいわ、ね!」
 ミサ子が云った。
「あしたっからすぐやり始めましょうよ」

 れい子、サワ子、ミサ子がめいめいうけ持を分担して××○○会社ではる子を幾分なりとも知っていた人々の間に慰問金募集をやることになった。
 昼休みに地下室の食堂で、隅の方の長卓子テーブルにかたまっている給仕連のところへ行ってミサ子とれい子とが云った。
「はる子さん、クビになったのよ、いよいよ。あんなにいい人だったのに病気してるし、本当にお気の毒だから、私たち慰問してあげようと思うの。お出しなさいよ、二銭でも一銭でもいいわ、気は心だから……」
「――へえ。じゃ僕大枚五銭!」
「おい須田君、電車賃かしてくれるかい? かす約束してくれたら十銭出すぜ僕」
「じゃ、これ」
 一円二三十銭集った。だが、男の社員たちのところへ勧誘に行くと、ミサ子は一種の腹立たしさを感じた。多くの者ははる子の首切りにも慰問金募集にも極めて冷淡だ。ミサ子がさし出す勧誘状を手にも取らず、椅子へ腰をずりこましてかけたまま読んで、大町という社員は、
「ふーむ、こりゃ誰が書いたんだい? なかなか文章家じゃないか。ちょいとほろりとさせる効果があるぜ。さすが女だね」
と云った。
「どれ、どれ」
 眼をせばめてわざとらしく煙草の煙をさけながら、別の一人が、
「――佐田って……この女亭主持だろう?」
「とんだカンパがはじまったもんだな。じゃバット一箱分喜捨するよ。その代りよく僕の名をつけといてくれね。僕がクビんなったら大いに小野救済カンパを起してもらうから……」
 大体女事務員たちのやることだ、と下目に見た態度がみんなにある。ワイシャツのカフスを引こめながら軽蔑した口つきで、
「僕は知らんね。会社の責任だろう。こんなことは――」
と云う者もある。社員の間で言葉数は多いが金の方は思ったより集まらない。
 顔を合わせると、ミサ子もれい子も、
「男のひと達、始めっから出す気がないんだもの」
と、感想は一つだった。
「五十銭や一円、カフェーへ一足よったと思えば何でもないのにねえ」
 女事務員連ではる子の事件をよく知っているものは真実わが身にひき添えた同情を示した。
「私ほんとはもっともっとしたいんですけれど、実は去年からストップなのよ。あしからずね」
 そう云えばミサ子や柳にしろ、一昨年頃から月給はちっとも上らないままだ。
「私、はる子さんてひと、よく知らないんだけど……」
と、まわりの振り合いを女らしく考え、それだけで出すものもある。
 然し、どっちにしろ、××○○会社の内部ではあっちこっち働いている課の違う女事務員達の間に、廻状をまわすだけが、一仕事だった。
 執務時間中、女事務員が公務のほか他の課へ行くことはやかましく禁じている。けれども、確実に対手をつらまえようとすれば執務時間を狙うしかない。
 ミサ子は、他課へ廻す書類を打ちあげると、さり気なく検閲をさせて自分のところへ持ちかえった。暫くしてから、ああ、とびっくり思いついたようにその書類を握って素早く室を出た。本来こういう仕事は給仕の役なのだ。藤色のミサ子の事務服のポケットには「佐田はる子さんのために」と書いた廻状が入っている。――

        十二

 はる子の代りだと云って新しく入社した太田千鶴子が、女事務員たちの間に不人気だ。
「今度入ったひと、凄いわね」
という第一日の印象が、だんだん、
「ちょいと私どもとはお人柄がちがうのね」
という風に濃くなって行った。
 千鶴子の方でもまたそういう素振りを憚らず見せた。例えば会社へ出勤して来る服装なりにしろ、みんなは銘仙程度だのに、千鶴子の羽織はいつも縮緬だ。フェルト草履にしろ、ハンド・バッグにしろ、自分たちが僅の月給から工面して買うものとは格が違うことをみんな敏感に見てとった。ところが、三日ばかりすると益本が、
「ちょいと、ニュースよ。今度来た太田さんて太田淳三のめいなんですって!」
と、眼を大きくして報告した。
「重役の?」
「そうなのよ」
「どうりで、われわれとは違うわけだわね」
 サワ子が苦笑いを泛べた自分の顔を鏡にうつしながら、どこか自棄やけっぽい口調で云った。
「そいでね、ここの月給なんかほんのお小遣いなんですってさ」
「ふーん」
 ××○○会社では、女事務員を箇人紹介でだけ雇うのだが、そのとき紹介者が会社の相当どころの者であるとないとでは、入社してからの待遇がちがった。重役の縁辺の者だと、入社当時の月給は同じだが、一年ずつの定期昇給の率や賞与の率がずっと高いのであった。
「――私だってこれで憚りながら入るときは、重役の紹介よ」
 れい子が手を洗いながら云った。
「へえ……そうなの! 誰?」
「外田権次郎」
「人事課のひとったら、外田さんの何にお当りですかって、そりゃしつこく訊いたわよ」
「姪ですって云えばいいのに!」
 柳の言葉にみんなが笑い出した。
「何でもないんですって云っても、どうかありのままおっしゃって下さいだって!」
「卑怯だわよ。大体会社のやりかたったら!」
 サワ子が癇のたった声で云った。
 太田千鶴子に対する漠然とした共通な反感が微妙に働いてもとからいた××○○会社の女事務員たちの心持を一つにまとめるきっかけとなっているのがミサ子にさえ、はっきり感じられた。はる子の慰問金あつめの仕事が、太田の来てからの方がやり易くなったのでもそれは分る。――
 間もない或る日曜日、ミサ子は下宿の水口の外へたらいをもち出し、勢よく肌襦袢の洗濯をやっていた。
 一週間朝から夕方まで丸の内のオフィス・ビルディングの中で、コンクリート床を擦る靴音、壁に反響するタイプライタアの響にのまれて暮していると、塵の少ない休日は閑散な空気の工合まで肌ざわりが違うように感じられる。
 水口のわきにあらい竹垣があって、そこに山吹の幹が荒ッぽく繩でくくられている。ざぶ、ざぶ濯いではその水をミサ子は山吹の根元の小溝へあける。
 牛込の姉の暮しが心に浮んだ。同居の話を断ったのは、気の毒のようだがよかったと思った。
 ミサ子も姉の文子も同じ生れではあるが、こういう激しい世の中にあって、生きる態度は別々であった。ミサ子にはこの頃自分たち小ブルジョアの女の生きかたというものが、やっと腹にはいって来た。××○○会社の女事務員という現在の社会での自分の身分と、自分たち働いて食って行かなければならない女として一人一人が胸にもっている不平不満、希望とをつき合わして見れば、実質のない澄しかたなどしておれない。自分がつまりプロレタリアの一人の女だということがだんだんはっきり分ってミサ子はこの頃腰のすわった、闘いの対手がわかったしっかりした心になっているのであった。
 洗濯物を洗面器へ入れてもって上り二階の自分の窓前の細い竹竿にかけていると、下で、
「今日は……」
という声がする。小母さんがいないと見えまた、
「――こんにちは……」
 ミサ子は、いそいで玄関へ下りて行った。
「いたのね、よかった!」
 格子の外に柳と思いがけない坂田とが顔を並べて立っている。赤と藍の細かい縞の割烹前掛姿のミサ子は、
「まあ……」
 栓をとって格子を開けた。
「どっかへ出かける?」
「いいえ! さ、上って下さい」
 柳はちょいちょい遊びに来たが、坂田は初めてだ。二階へあがると帽子を畳へ放り出しておいて窓の前に立ち、外の景色を眺めた。
「なかなかいいじゃないですか」
「ホラ、そこに、むこうの屋根から見えるの落葉松よ」
 柳が、わきに立って指さして説明してやっている。戸棚から坐布団を出しているミサ子に、
「あの鸚鵡おうむまだいるの?」
「いるわ」
「何です?」
「あの家に変な鸚鵡がいて、イヤー、イヤーって鳴くんだって」
 林檎を柳がもって来た。それをむいて食べながら会社のこと、はる子の慰問金のこと、エスペラント講習会のことなど三人は話した。
「――内務省なんかでも、この頃は実は実にうまくクビにしますよ。もとみたいに一どきにドッとは決してやらないんです。いつの間にかいない。おやと気がついたときはもうとうに引導をわたされている。――手が出ないですね」
「ああね、ミサ子さん、あなたこの頃やっぱりちょいちょい左翼劇場見に行くこと?」
 柳がスカートの膝をくずして坐り、蕎麦そばボールをつまみながらきいた。
「大抵行くわ」
「私ね、昨夕ゆうべ行って来たんだけれどね……あなたどう思う? 私せっかく観るのにてんでんばらばら一人一人見てそれっきりにしておくの惜しいと思うんです。きっと会社にも芝居ずきはいるんだから、誘いあって観て、あと座談会でもしたら、さぞ愉快だと思うんだけれど……」
「――ほんとに!……」
 ミサ子は、微かに顔をあからめながら、
「私、生意気みたいだけど、実はそんなようなことも考えてはいたのよ、こないだっから。……私達、全く会社の中では切り離されていて仕様がないから、せめてそんなことででも集まれたらどんなにいいでしょう」
 柳は考えぶかい黒眼が一層黒く輝くような表情で、
「はる子さんのお金集めはいつ頃すむかしら」
独言ひとりごとのように云った。
「さあ……もう一週間ぐらいのうちにはすむわね」
「沖本の穴銭がぶつぶつ云い始めたらしいのよ、少しぐらいまわり切らなくても、崩されないうちにそっちは一応切りあげて、これを手がかりに演劇サークルみたいなものをこしらえたらどうかと思うんだけど」
「いいわ! 会社であれだけにみんなの気が揃ったことってはじめてなんだから、これっきりにするのは何だか本当に惜しいわ」
 柳が坂田に向って、
「××○○会社の女事務員はお上品だから、どんなに食堂がひどくても、食べ物のことから騒ぐなんてことは出来ないんですよ」
と鷹揚に笑った。坂田は、
「ふむ」と云ったぎり、別に皮肉な顔もせず、また笑いもしない。
 ふだん何だか落着ないサラリーマンばかり見ているミサ子には坂田のその様子が好意をよび起した。柳たちはざっと二時間ばかりいて帰りかけた。が梯子はしごの下り口で、
「ちょっと」
 柳が後からついて来るミサ子の体をかるく押し戻して、小さい封筒に入れたものを握らした。
「これ読んで――あと焼いちまって! いい?」
 ミサ子は合点した。そして渡されたものを内懐へ深くさし入れ、すぐ柳の後につづいて降りて行った。

        十三

 焜炉こんろを座敷の真中へ持ち出し、ミサ子はその中で柳がおいて行ったものを焼いている。割烹前掛をかけた両膝を焜炉のふちへ押しつけるように蹲んで、ミサ子はだんだん燃える紙に目を据えている。左手の先を割烹前掛の袖口の中へひっこめ口元を抑えている。さっきまで柳や坂田の喋っていた窓の障子は今もあいたままで、そこから風のない日に照る欅の木の梢が屋根越しに東京の郊外らしく眺められる。煙を出さず、明るい午後の森閑とした座敷の中で、明るい焔を立てて紙が燃えて行く。
 ミサ子は何とその心持を表していいかわからず、凝っと袖で口元を抑えているのだ。これまでにしろ、小説で読んだり、新聞で読んだりして、種々の経営の中に強い、闘争的な左翼の組合のあることは知っていた。だが、柳から渡された全協一般使用人組合のニュースは、ミサ子に、漠然と頭で考えていたのとはまるで違う感動を与えた。組織は思いもかけないところまでひろがっている。〔三字伏字〕の内部からさえニュースが出ている。――
 宏大なビルディングの聳え立つ丸の内一帯の風景が、からくりをわって、現実の底から初めてミサ子の前に立ち現れた。最後には必ず大衆によって征服されるべきものとしてそれは示されているのだ。
 ミサ子もこの頃は、現在の社会で多くの者を不幸にしているのが一人二人の人間の力、まして××○○会社の穴銭沖本だなどとは思っていなかった。この資本主義の世の中そのものが組立て直されなければならない。だからこそ、××○○会社の内でもミサ子は知らず知らず女事務員たちの間にあって、柳などの助手のような立場に立ち、みんなの不平をあつめたり、一致した行動へみんなを召集したりする仕事に加わるようになったのであった。
 柳が恐らく分会員であろうということは、ミサ子をちっとも驚かせなかった。何か当然だという落付いた心持さえした。自分がこんなに闘争の組織に近くいるのだという新しい自覚。自分までその組織に吸いよせられるであろう程、この日本の中に大衆の力はもり上っているのだという生々しい実感が、ミサ子を腹の底から揺るのであった。
 焜炉の中ですっかり燃えきった紙が黒いカサカサした屑になってしまうまでミサ子は身じろぎもしないで見届けた。それから四辺に飛ばさないように焼屑を焜炉の下へおとし、それを片づけた後の座敷を掃き出した。思い込んで下を向いたまま丁寧にゆっくり箒をつかいながら、ミサ子はこういう一つ一つのことを自分が何とも云えぬ深い愛と注意とでやっているのにおどろいた。こういう文書を始末する心持は独特であった。跡かたもなく焼き、掃き出しながら、しかも逆に焼きすてたものの内容が一層身につくというような切実な感じなのだ。
 翌朝、ミサ子はこれまでにない希望と観察に満ちた気持で丸ビル前の広場に溢れる勤人、女事務員の群衆をながめた。
 ××○○会社の通用門を入ろうとするところへ、ちょうど向うから柳がやって来る。ミサ子は思わず包みを持ちかえながら待ち合わした。
「お早う……」
「お早う……ひとり?」
 柳はきのうのことは何にも云わず、ごくあたりまえに、
「おひるにまた誘ってね」
と云った。

        十四

 三十三円六十八銭也。それだけが××○○会社の中で、はる子の慰問金としてあつまった。一番親しく行き来しているしづ子がそれをはる子の家へ届ける役に当った。
 二日ばかりしてはる子から心のこもった礼状が慰問金を出した女事務員一同宛に来た。例の洗面所でその手紙をとりついだしづ子が、
「……これ……お金出してくれた人たちに一わたり見せなきゃいけないわねえ」
と柳に相談をもちかけた。
「そりゃそうね」
「こうしちゃどうでしょう」
 わきかられい子が云った。
「私達がこんなことしているの、どうせ社内の人たちには知れているんだし、きっと沖本にだって分ってると思うわ。お金出してくれた人たちは、どっちみち大抵二十銭階級なんだからいっそおひるに食堂へはる子さんからの手紙を貼り出しちゃったらどうかしら――」
 ミサ子は、緊張した期待で柳の返事をまった。これまで××○○会社の食堂にそんな社員から社員への呼びかけが貼られたことなんぞ一遍もなかったことだ。
「……どう思う? みんな」
 れい子は熱心に、
「庶務の連中をだんだんこういうことに慣らして何も云わせないようにするにもって来いだと思うんだけれど……」
と云った。
「――どうかしら……」
 しづ子が、はる子からの手紙を改めてひろげながら、
「でもね、これには一人一人お金出した人の名が並んでるのよ、はる子さんは律気だもんだから……」
「やっぱり、せんのようにしてこれは廻しましょうよ」
 柳が決定的に云った。
「せっかくお金出したのに、あとあとまで睨まれたり、迷惑がったりする人があっちゃいけないもの……、今日しづ子さん、あなたの部だけまわしてしまえない?」
「さあ、やって見るわ」
「あしたは、れい子さんの方へまわしましょうよ、ね?」
 そして、柳は、
「そのとき、ちょっとこれもついでにまわしてよ」
と、窓枠へ紙を押しつけて、手早く一枚の短いノートを書いた。
「なんなの?」
 書いている肩越しに覗き込みながられい子が、
「あら、本当?」
と嬉しそうな声を出した。
「私早速申込もうっ、と!」
「なに、なに」
「この次の左翼劇場へ団体で見物に行けるんですってさ」
「へえ……」
 しづ子は、左翼劇場のことなどはよく知らないらしい。ぼんやり、柳からノートをうけとった。
「まとめて切符とると、やすくなるのよ。あなたの方で何枚いるか、はる子さんの手紙といっしょに希望者を集めて下さいね」
 ミサ子は、左翼劇場へゆくときなんかはよく連立って出かける××商事の順子のことを思い出した。
「ね、それには、よそのひと誘っちゃいけないかしら」
と柳にきいた。
よそのひとって……」
「私、××商事に友達がいるのよ。よく一緒に築地へなんか行ってるんだけれど、そんなひとまで入れちゃいけないものかしら……」
「いいわ!」
 柳が、下膨れのゆったりした頬をぽーっと赧らめながら、
「とても歓迎よ!」
と力をこめて答えた。
「そのことも書いとこう! ね? れい子さん、この近所に勤めているお友達は誘っていいのよ」
 柳は、しづ子からノートをとり戻してその注意を書き添えた。
「へ、じゃすみませんがこれをどうぞ」

 はる子の慰問金を集めた経験から、××○○会社の女事務員たちはみんな廻状をまわしたりすることに大分馴れた。執務時間中、よその課のしづ子が入って来てちょっと話して出て行った後、男の社員が、
「おい、何をこそこそやってたんだい?」
などと云っても、サワ子まで、
「楽しい相談!」
と笑いまぎらすようなゆとりが出て来た。ミサ子はその日のひけ際、いそいで順子のところへよって話をまとめた。おとなしい順子は、
「あなた達の方、この頃何だか面白そうでいいわねえ、こっち平凡よ」
と羨しそうに、毒のない好奇心を示して云った。
「そっちはそっちであなたでも先に立ってやればいいのに」
「駄目よ。……まあお仲間に入れといてよ、当分。……その内には何とかなるかもしれないから」
 もっと外に左翼劇場見物に誘う相手はないかと考えるうちに、ミサ子は三輪みどりを思い出した。元柳原の三角みたいなみどりの室というのへも、つい暇がなくてまだ行かなかった。エスペラント講習会へも近頃みどりは初めの頃ほどきちんとは出て来ない。――
 ちょうど退け時間が迫ってシトシト薄ら寒い小雨が降り出した夕暮のことだ。ミサ子は傘なしで、車蓋の濡れ光るタクシーの流れを突切り、丸ビルへかけ込んだ。みどりの勤め先の堂本兄弟商会というのを一階の案内書で調べると、五階にある。エレヴェータアを出てから右へ行くところを左からまわったのでミサ子はあらかた事務所は退けた後の廊下をいい加減歩いた。湯呑所で、小使が荒っぽく後片づけをしている。わきに金文字で堂本兄弟商会と書いたドアがしまっている。
 ミサ子はハンドルに手をかけてまわして見た。かない。二三度まわして見た。それでも開かない。隣室のドアが半開きになって、そこには床を掃いている給仕の姿が見えるが、それはもうよそだ。ミサ子は湯呑所のところへ行って、
「堂本の事務所ではもうみんなひけたんでしょうか」
と小使いに訊いて見た。ガス焜炉を動かして台を拭きながら、
「まだでしょう」
「しまっているんですけれど――」
「へえ……つい今しがたまでいたんだが……じゃかえったかな」
 大してとり合う気勢もない。ミサ子はドアの前まで戻って行き、向い側の壁にもたれて風呂敷包みをときかけた。みどりが明日の朝来て見るように、書き置きをして行こうと思ったのだ。ミサ子が小さいはぎとり帳をひき出したとき、今まで薄暗かった堂本兄弟商会のドアの内部にパッと電燈がついた。おや、と目をあげた拍子に再び電燈は消えてしまった。何かの間違いだったのだろう。ちょっと様子を見た後ミサ子が再び手帳へ目を落そうとすると、今度は明らかに誰かの仕業らしく、パッ、パッ、と二三度電燈が明滅し、ひどい勢でドアの錠があく音がしたかと思うと、派手な袂で風を切って内から飛び出して来た若い女がある。ミサ子の方がぎょっとした。みどりであった。
 みどりは立っているミサ子をすぐ認めた。が、まるで今ミサ子がそこにそうやっていることは約束してでもあったように、何とも云わず上気した顔のまんまずんずん洗面所の方へ歩き出した。みどりのとび出したドアの内では、男が無遠慮に痰をはいている音がする。ミサ子は何だかそこにそのまま立っていられない気持になって、洗面所へ行った。みどりが水道の栓をひねりっぱなしにして顔を洗っている。掌に掬った水で邪慳に自分の唇を洗って、ハンケチで拭いて、声に出して云った。
「チェッ! 畜生!」
 ミサ子が入って行くと、直ぐ、
「よっぽど前に来た?」
と訊いた。
「……いないのかと思ったわ」
「ふむ」
 みどりは、こわい、怒った眼つきのまま今は髪をときつけている。ミサ子には前後の事情が分るまいとしても分る。みどりは、凝っと鏡の面に目を据えて断髪を梳いていたが、急にミサ子の方を向いて、
「どう?」
と云った。
「私たちは、こういう目にも会うのよ」
 そして、自嘲するように笑おうとしたがみどりの唇が震えて、見る見る目に涙が湧き出して来た。頬っぺたを涙の粒がころがり落ちた。それを荒々しく手の甲で拭いて、みどりは鼻の頭をコンパクトでたたき始めた。
 わきに立って、その様子を見ているミサ子はみどりの気持が一々わかる。
「――出ちまいなさいよ!」
 ミサ子は思わず親身な声を出して云った。
「出されちまうわ、どうせ。堂本の奴ったら……畜生! ひとを……旗日だってったら、証拠を見せろだって手なんぞ出しやがって……チェッ!」
 帯までしめ直すと、みどりがやや気の鎮まった調子で、
「何か用だったの?」
ときいた。
「あなたもしかしたらこの次の左翼劇場見に行くかしらと思って――私のところに割引で切符を買うついでがあるから訊きに来たんです」
「まあ――ありがとう。それでわざわざよってくれたの?」
「近いもん」
「そりゃそうだけれど――私、うれしいわ。是非仲間へ入れて下さい! お金わたしておきましょうか?」
「切符とひきかえでいいわ」
「……じゃ、私ハンド・バッグとって来なけりゃ……ここいらで待ってて下さいな」
「――大丈夫なの?」
「平気さ」
 ミサ子が洗面所の前に立って待っている。みどりは堂本兄弟商会という字が廊下のこっちから見える程ひろくドアを開けっぱなしたまま、事務室内へ姿を消した。

        十五

 その二十日ほど前から、日本中の新聞が満蒙事変を喧しく報道して、号外の鈴の音がミサ子たちの働いている××○○会社の窓越しにまで聞えた。奉天を占領したとか、独立守備隊がどこそこへ進軍したとかいう記事が一号活字で新聞に出ても、××○○会社の若い平社員たちは一般に冷淡で、疑わしそうにジロジロひろげた新聞を読みながら、
「おい、社はこれでいくらぐらい儲ける魂胆なんだろうな」
などと云った。
「俺たちに何のかかわりあらんや! だ」
「〔六十二字伏字〕」
「〔六十七字伏字〕」
 ××○○会社の女事務員たちも、直接この事件については冷やかな態度で、格別みんなの話題にものぼらなかった。ぼんやりとではあるが、〔十五字伏字〕投資している資本家どもの利益になるばかりだと分って、新聞の空騒ぎに対して一般的な反感があった。
 昼休みのとき、濠端を四五人でぶらぶら歩いていたら、ちょうど号外売りがやって来た。腰の鈴を振りながら車道と人道とのすれすれのところを走って行く後姿を眺めて柳が誰にともなく、
「ブルジョアどもはこすいわねえ」
と云った。
「早くっから蜻蛉とんぼの模様なんか売り出させてさ。――今年は蜻蛉の模様がこう流行るから、きっといくさがある前徴だなんて云いふらさせて……」
 ミサ子でさえ、そのときは柳の言葉を大して注意してきいてはいなかった。
 この頃になって××○○会社の女事務員たちの間に不平が出て来た。残務が目立って殖えて来たのだ。××○○会社は満州に重要な姉妹会社をいくつも持っているし、国内的に見ても、軍事工業関係の製粉、染料、肥料、金属などの工場をいくつか経営していた。戦となればそれぞれが毒ガス、火薬、銃器製造所となる。××○○会社はうんと儲けるわけだが、残務の女事務員は相変らず五時から七時までは二時間を丸ままただで搾られなければならない。
「ねえ、ちょっとやり切れないわね、私これでもうつづけざま三日よ」
 益本が食堂で、みんなに聞えるような大きい声で苦情を並べた。
「はる子さんの二の舞なんか、私真平御免だ」
 ミサ子にしろ、一週に平均二度ぐらいだった残務が殆ど一日おきぐらいの割になって来た。それでいて世間一般を見れば、いろんな工場や役所では依然として首キリがどんどんされている。
 左翼劇場団体見物の申込みをあつめたれい子が、
「庶務じゃ一体何を考え出したんだろう」
怪訝けげんそうに呟いた。
「ね、女事務員一同に戸籍謄本を出させるんですってさ……」
「ほんと?」
 しづ子が眉をもちあげて訊きかえした。
「ほんとらしいのよ、どうも」
「私困っちゃうな……どうして別な名をつかってるかなんて変なこと云われやしないかしら……」
「まさか!」とよ子がうち消した。
「だってあなた結婚する前に入ってるんだもの」
 しづ子は半年ばかり前に結婚した。会社では既婚者を大体歓迎しないもんで、しづ子は旧姓のまま通していたのであった。特別な事情のない者にとっても、これは何か新しいことのはじまる前ぶれだという不安な予感を与えた。
「おかしいわね、あなた入社のときそんなものとられたこと?」
「いらなかったわ」
「入って何年にもなるのに今更どうしようっていうんだろう……」
 柳は口々の言葉をききながら自分からは何も云わなかった。
 四五日すると、実際サワ子が沖本によばれて、戸籍謄本を出すようにと云われた。
「いやあね、薄気味わるいったらありゃしない。沖本ったら、元来履歴書と一緒にどこだって出させているものだが、これまではみんな紹介だったから放っておいたんですって……形式だけのことだよだって云っていたことよ」

 ミサ子は机の前に坐って小型の日記帳をつけていた。夕飯をすましたばかりで、階下したでは煙草専売局へ勤めている亭主がラジオの薩摩琵琶を聞いている。
 格子のあく音がして、
「大井田さん、お客様ですよ」
 細君が階子口から呼んだ。立って行く間もなく、
「いい?」
 勤めのまんまの装をした柳が登って来た。
「どうしたの」
「ちょっと」
 ミサ子の机のわきに坐るとすぐ柳が、
「あなた今夜ずっといる?」ときいた。
「ええ」
「一人ひとを泊めてやってくれないかしら」
 ミサ子は、
「……布団がないんだけれど」
と困惑そうな顔をした。
「いいのよ、窮屈でもおもやいにして泊めて貰えたらたすかるわ。十八ばかりの娘さんですよ……今度だけどうにかなればいいんだから……」
 柳は何か頻りに考えていたが、
「その娘さん沢田って云って来る筈だから、どうぞよろしく」
 半ばふざけてのように軽くお辞儀をした。
「多分九時頃来ますからね、心配はいらないの、寝させてさえやればいいんだから――」
 ミサ子にはその娘がどんな仕事をしている人かほぼ見当がつくように思われた。
「私の友達ということでいいんでしょう?」
「結構だわ、じゃどうぞ」
 どこか落つかない気持で待っていると、約束の時間より早めに、銘仙ずくめのおとなしい装の若い女がミサ子を訪ねてやって来た。
 電燈の下で向いあったが、ミサ子にもその女にも、別に話すことがない。顔を見合わせ、何ということなく微笑みあった。沢田というその女は、やがて淡白な口調で、
「あしたあなたお早いんですか」と訊いた。
「私、勤めているんです。七時に起きりゃいいんだけれど、あなたは?」
「六時前に出かけたいから……そろそろやすみましょうか」
「布団がなくてわるいわね」
「私こそ、いきなり御厄介になってすみません」
 沢田はミサ子を手伝って布団をしくと、行儀よく、だがちっとも遠慮せず帯をといて寝仕度をした。
 ミサ子の仕度を待って、
「あなた、どっち側がいいでしょう」ときいた。
「どっちだって同じですわ」
「――でも、ふだんの癖がおありでしょう! 私はほんとに同じことだから……」
 そういう心遣いは、ミサ子に飾りない親しさを深く感じさせた。数分前は見も知らなかった女と寝るような気がせず、ミサ子は快活に、
「じゃ私右側にやらせてもらうわ」
と云って、自分から先に布団に入った。
 電燈を消すと間もなく、沢田は眠ったらしく、速いかるい寝息をたてはじめた。しんが疲れていると見え時々ぴくり、ぴくりと細そりした体がつれるのが感じられる。ミサ子は相手の眠りを妨げまいと凝っと横をむき、暗闇の中で目をあきながら、自分のとなりで若い体が疲れで痙攣するのを全身で感じていた。
[#未完]






底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「婦人之友」
   1932(昭和7)年1〜4月号(著者検挙のため未完)
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年4月22日作成
2003年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について