六月十三日に、ぬがされていた足袋をはき、それから帯をしめ、風呂敷の包みを下げて舗道へ出たら、駒下駄の二つの歯がアスファルトにあたる感じが、一足一足と、異様にはっきり
ペンがこうして原稿紙に当ってゆく抵抗の感じに、すっかりそのままというのではないが、やっぱりその下駄の歯から心臓に伝って来た感覚に似たものがある。書くという動作を意識せずには、書けない。今自分が生活の中から感じていることは、多様で、刻み目も深い。だが、そのどれをも同じほどとことんまで書くことが、可能であるとは云えないのである。
がらくたが永年つくねてある場所から、わたしは籐でこしらえた妙な坐椅子のようなものを見つけだして来た。
寝床の上へその坐椅子を置き、しびれて曲りにくい脚をなげ出し、わたしは何通もの手紙を書いた。
二十になる妹がそのわきに長くころがって手紙を書いているわたしの様子を眺め、
「お姉さま、よくそうやってかけるわね」
と云った。わたしは昔のひとがやるように巻紙を片手にもち、筆のさきをもって手紙を書いているのであった。書きながら上の空でわたしは、
「うむ」
と云い、やや暫く間をおいて、
「おかあさまにおそわったんだよ」
と、筆に墨をふくませつつ妹の顔は見ず云った。
「ふーん」
顎を振るようにしておかっぱの髪をパラリとさばき、黙っていたが、やがてころりと仰向きになって、
「――何だか気ぬけがしちゃった」
と、弱々しい、しなやかな余韻のある声で云った。
わたしは黙っている。自分はどの手紙にも、母が今生涯を終ったことは、母にとって最もよい終焉であったと書き、その手紙にもそのことを大きい疑いをもたぬ字でかいているのであった。
母が父の存命中、生涯を終ったことは、母にとって、一家にとって、一つの幸福であると云う考えは、明瞭につよくわたしの心を貫いて存在している。
葬式の前、一寸人が絶えた時、袴のひだをキチンと立てて坐っていた父が、そこに一人だけ離れて坐っていた自分に向って、
「もうすこし生かしておいてやりたかったが、結局今死んで、おっかさんは却って満足出来ただろう」
と云った。父と、蝋燭の光が花と花との間に瞬いている祭壇の方を見やりながらわたしは、娘というより寧ろ総領息子のような風で、
「おかあさまがあとにおのこりになったら、万事に不満ばかりで、われわれも困ったし、自分もきっと不仕合わせに思いなったでしょうから、よかった」
そう答え、暫くして笑いながら、
「お父様、私が十一ぐらいのとき、団子坂の方へ散歩につれて行って下さったとき、道を歩きながら、お前のおっかさんにも困ったものだ。今更離縁すると云ってもお前たちがいるし、とおっしゃられて、ひどく困った気持になったことがあるんだけど、覚えていらしって?」
ときいた。
「へえ、そんなことがあったかね」
父も笑い出し、若やいだユーモラスな目つきで、
「ちっとも覚えていない」
と云った。そして、二言三言つづけて、妻としては全く世間ばなれのした妻であった母を軽く
「ああ、神官さんに
と云った。
母は多病であったばかりでなく、娘であるわたしが屡々、世間のあたり前の女親が娘に対して示す具体的な情愛について自分の経験とは対蹠的なものとして考えたことがあるような独特な性格をもって、一家の真中に構え、生活していた。
夫婦なかのよい義妹が何かの話のとき、
「ゆうべ、また例のようでね。お父様が、お母様に、お前なぜ一昨年病気したときに死んでしまわなかったのだと云って、涙をおこぼしになったのよ」
とおだやかな口調で云い、云い終るときっと唇を締め、身じろぎをせず私の顔を見つめたことがあった。出かける前か何かで立ったままきいていたわたしは、そのとき、
「ふーむ」
とより答えようがなかった。母が子等とだけ老後を送らなければならなくなったら、それは皆の不幸であろうとわたしが日頃思っていた根柢には、経済的に母が貧乏になることのほか、母自身の特色ある性格が大きい原因となっていたのであった。
母とわたしは、女対女の関係で暮して来、生活態度の上でどちらも徹底した譲歩というものはしなかった。
一九二八年八月自分がレーニングラードにいた時、二十一歳であった次弟が自殺をしてから、母は、その弟の短い生涯と死に対して自分などから見ると殆ど恐るべき影響を与えた非現実的な熱情の中へ、一層傍目もふらずおちこんでしまった。そういうファンタスティックな力で、好んで人間の高く勁く燃ゆる精神の活動について話すのであったが、問題が実際に起ると、その同じ母が信じられぬほどの理由ない卑屈さや小さい打算や卑俗さによって頸根っこをつかまれたように言動し、而もそれに賛成しない良人や子等に対して我執をはりとおすのであった。
母に現れるこの矛盾の瞬間は悲惨であると同時に、屡々娘である自分の胸に鋭い憎悪の火を点じた。昨年十二月末、宮本がとらわれ、一月十七日に「犯罪公論」的に扮飾された記事が出た次の晩であったか、言葉にすればほんの十語に満たぬ応待であったが、その間にわたしは母の娘としてこの世に生きる心のきずなが、余りすっぱりと切り離されていることを知って、
その気持のままで、私の日常生活には変動が生じた。荒川放水路のそばの、煤煙がふきこむ檻の内で自分は、母からの達筆な手紙を読まされた。文学的な大きい身ぶりで母が娘を思うことが説明されて終りに和歌の書添えてある手紙であったが、手紙に添えた唯一足の足袋は、コハゼがぶらぶらになったのを袋に入れて洗濯屋がかえしてよこした、それなりを袋の中もあらためぬまま持たしてくれたものであった。
わたしは片手に、徒に真白なばかりで、穿けぬ足袋をもち、片手に手紙をもち、思わずも無言のまま佇んだが、その時憤りは感ぜず、静かに、だがつよく、母がもしこのような文学的教養めいたものをまるで持たない女であったら、そしてたとえば自分によって食ってゆく立場にあるとしたらどうであったろうかと思った。もう二度と物を云うことのない息子の顔を
「おおここがえらかったか、おウおウ」
と泣いてコメカミを撫でてやっていた小林の母の小さい濡れた顔が
寒気の中で、ふところでをし、出来るだけ少く身動きをするように正坐し、その日は久しい間文学的才能とか、文学的教養とかいうものとそのひとの社会生活における、実践との間にある活々した関係について考えた。丁度そのことのあった前に、チラリと新聞で「ナップ」解散の報道を
チェホフ全集の広告、ジイド全集発刊の広告。それらも、やはりこの前後に、手にとることは出来ない新聞の上で見た。チェホフ全集が出ると知った時、自分はチェホフがその手紙の中で、小商人の伜として育った自分はいくじなく頭を下げる癖を克服するだけにでもどれほど闘ったか知れぬと云う意味のことを書いていたのを計らず思い出した。また、帝政時代のロシア・アカデミーがゴーリキイを一度は会員として決定しておきながら、ゴーリキイが政治的注意人物で、室内監禁をうけたりしたことがわかったら、あわてふためいて決定をとり消したことがあった。その時、そのようなアカデミーであるならば自身が会員であることをも寧ろ屈辱とすると云ってアカデミーをゴーリキイとともに去ったチェホフ。そういうアントン・パヴロウィッチ・チェホフの面を、こんどチェホフ全集発行の任にあたるひとは、現代の状勢にあって、どのように評価しているであろうかとも考えた。日本にも文芸院とかいうものが警保局長の手でこしらえられるというより合いの時の写真を見て、わたしはこのチェホフとアカデミーとの歴史的関係をまざまざと思い起したのであった。
その実際を知ればしるほど非人間的な条件の深刻さがわかるような生活の連鎖の中で、母に対する自分の心持が変化をうけるようなことが起った。三月になってからであったか、或る日、風のたよりに宮本がひどく病気であるという噂のあること、だが何処に置かれているのかさがしても所在不明であるということが、わたしの耳にはいった。
わたしは、そのことを知らなかった前と全く同じように、次の日も朝は僅々二尺四方ばかりの冬の日向に立って五分間体操をやった。乾いた手拭で裸の胸をこすった。弁当をもくった。一人の牛盗人に向って帳面をひかえた警官が、どうだ、お前金歯があるか? 口をあいて見ろと云い、ふむ、したないのか? と訊いたら、牛盗人は一寸躊躇する風であったが、
ふだんどおり笑っている。食べている。しかも、ふっと我にかえって見ると、いつしかわたしは体じゅうに力をこめ、一心不乱に凄じく何ごとかを思い凝している。苦しいその数日の間に、謂わばわたしは、私等の結婚生活を再びその隅々まで生き直したようなものなのであった。良人と妻との間にだけ経験された様々の歓び、美しき瞬間、愚かな瞬間、それらについて、その良人を失った妻、または妻を失った良人は、互の生活にだけあるその豊富な生きた内容を誰にそっくりそのまま伝えることが出来よう。
わたしは愕然として、三十余年間ともに起きふしして来た男女として、父母の姿を新しく発見したのであった。