突堤

宮本百合子



 炎天の下で青桐の葉がくろずんで見えるほど暑気のきびしい或る夏の単調な午後、格子の内と外の板廊下にいる者とが見えないところでこんな話をしている。
「どうしたんだか、まだ写真を送ってよこさないんだがね」
「江の島で撮ったんですか」
「ああ、子供ら五人ズラッとハア並べちゃってね。わしと女房と撮ったが――どうしたもんだか……」
「いくらでした?」
「三枚で一円さ」
「――普通は二週間は待ってやらなくちゃね。所書分っているんでしょう?」
「あア、ちゃんと受取の帳面があんでしょ? あれに書いていたったがね」
「受取を持ってりゃ大丈夫ですよ」
「それがよウ、どうしたことか家さ帰って、なんぼ見ても、どこさ放ろったもんか見当らないから困ってよ」
「そりゃ困った。まさかだますってこともないだろうが」
「ふーむ」

 声のなかに響いている東北のなまりが私に、広くて黒びかりのしていた台所の涼しい板の間を思い浮ばせた。
 小学校が夏休みになると、子供らの中で私一人が田舎のおばあさんのところへ出かけた。東北に向って行く汽車は、その時分黒くて小さかった。私は袴をはいて窓際に腰かける。汽車は一つ一つの駅にガッタンととまり、三分、又五分と停車しながら次第に東京を離れて東北の山野の中へ入って行くのであったが、私にとってこの八時間の旅は、暑いのと、開けた車窓から石炭がらが目に入るのと、弁当を買わなければならないという亢奮事のため、独特の印象をもっていた。構内の空地に生木の匂いの高い木材が柵の遠くの方まで積み重ねられ、そこへカッと斜陽が照りつけ、松林では蝉が鳴きしきっているような午後の人気ない停車場などで、汽車は長い間とまった。そして、蒸気の音ばかりさせる。
 私は居眠りをした。暑くてたまらなくなると、窓から氷を買ってハンケチに包み、それをハンケチの上から吸った。そのハンケチも、汗と煤とで、郡山へ着くまでには真黒であった。
 一ヵ月ほどおばあさんのところで暮すと、私の言葉には田舎の尻上りな調子が、すっかりうつった。東京へかえるときには、きまって枝豆と玉蜀黍とうもろこしを入れた重い縞の風呂敷包みを持たされた。その風呂敷包みを蹴込みに入れ、私をのせた俥が桑畑の間の草道をまわって埃っぽい街道の上へ現れる。すると、私はいくら首を捩ってももうこれ以上後は向かれないところへ行くまで、右手の小高い丘に向って、朝日を受けている俥の上から手を振った。その高みの楓の生垣の上には遠くおばあさんの立姿がいつ迄も動かず見えていた。おばあさんの小さい姿が見定められないところへ来ても、街道の俥の上からはまだ夏座敷の縁側と丸く刈り込んだ檜葉の庭木が見えた。こっちからその眺望がきく間は、おばあさんの方からもまだ私の乗っている俥は見えているわけなのであった。
 田舎の生活は一日が永かった。その中でのおばあさんのひとり暮しも単調なものであったが、私にとっては刻々が都会にはない色彩と音響とに充たされたものであった。私は鶏や犬や子供や大人にくっついて、村の中をどこでも歩き廻った。
 或る日夏草のむせかえるようななかにていた。むこうの耕地の緩い斜面に葡萄畑が見えている。遠くで雷が鳴っている。
 やがて葡萄棚で葡萄の葉がサッと白く葉裏をひるがえしてざわめき立ったと思うと、灼けた耕地の面を湿っぽく重い風がうねり渡って、あっちの地平線から夕立がやって来るのが見えた。
 私はびっくりして草の中から立ち上り、驟雨の先ぶれで一層埃の匂いのきつくなった草道の間を一心に家に向って歩く。家から遠く来ていることがこの時になって始めて感じられるのであった。雷がいきなり近くへ来て鳴った。低く、威圧するように尾を引っぱって山々がこだまする。私はもう駆け出しているのだが、両脚はサッサッ、サッサッと桑の葉に幅ひろい音を立てて迫って来て、最初の雨の一粒が汗一杯の頬っぺたを打ってころがり、道の埃をまるめたと思うと四辺は水煙り、私はずぶ濡れだ。足の甲に草っぱの千切れたのをはりつけ、雨がまばらに光って降っている中を家へ辿りつくのであった。おばあさんは叱る。けれどもそれは別にこわくない。
 もう何日かで東京へ帰るという時、私の頭に虱がついているのがわかったことがあった。縁側に私を坐らせ、後に立って髪をこまかにわけては虱をかりながら、おばあさんは私までもひき入れられる程に思い入った調子で、
「虱なんぞたけて帰したら、ハアお前のおっかさんに何ぼ怒らっちゃか!」
と呟いた。そして、
「もういねえか?」
となお私の頭を手でまわして髪の間をしらべるのであった。
 大体田舎での私の生活は東京へ帰ってから余り話題にならなかった。田舎が与える新鮮で鋭い印象は全く感覚的なものであったから、それをどうとまとめて話すということも難しかった。それにその頃の親たちの毎日の暮しは、おばあさんや子供の生活と或るところでは接触し、しかし或るところでは全く離れてもいた。女の児の精神と肉体との中に無言の作用を営む田舎の感覚は、親たちの生活の感情からはどっちかと云えば離れた方の部分に属していたと思われる。

 私が十七になったとき、弟たちは十五と十三で、だんだんその弟たちも、夏はおばあさんのところで暮すようになった。
 連山を見晴す風通しのいい茶の間で三人の孫がチャブ台をとりまき、盛りあげた飯の上に枝豆を青々と弾きかけ、おいしそうに食べている。おばあさんの御飯はとうにすんでいる。糊のこわい白絣の膝の上へ肱をつき、長煙管でゆっくりとあやめをふかしながらおばあさんは孫たちの食べる様子を眺めていたが、ふっと、
「お前ら、帰るまでには一遍どこさか連れてって呉れずばなんめえなあ」
と云った。孫たちは、
「つれてって!」
「連れてって!」
「あした連れてって!」
と湧き立った。倹約なおばあさんにしては全く珍しい。
「どこさいぐ?」
 そう云われると子供らは急にどこへというような場所をかねがね知っているというわけでもないのであった。
「浄土松さでも行って見るか?」
「岩のある山でしょう? 詰らないわ」
 私は、
「猪苗代湖へつれてってよ、ね」
と云った。
「それも涼しくっていいか知んねえなあ……」
 私は弟たちも湖というものはまだ見たことないのを知っているのであった。
 私共がお八つにゆでた玉蜀黍を食べている間に、おばあさんは黒い紗の袂を暑さに透かせ小さい蝙蝠傘の黒い影を赤土の上にくっきり落しながら、猪苗代湖行きの相談にどこへか出かけて行った。
 程なく手にカンナの花の剪ったのをもって帰って来た。
「本当に、おばあさん、あした行くんでしょ?」
「そうよ、しか」
 夜になって茶の間に風呂貰いの人々が集ると、おばあさんは炉辺でぐるりと皆に茶を注いで出しながら、
「あしたは孫どもをひとつ猪苗代湖さでもつれてって呉れべえと思ってなし」
などと、どこか改った言葉つきで云った。私共は傍に並んで坐って、そんな応答を聴いている。それは、何だかふだんとはちがう夜に感じられるのであった。
 翌る朝目が醒めると、もう家じゅうが開け放されていて、おばあさんが一人で茶の間にいる。生憎曇って、茶の間からいつも見える山がその朝は見えなかった。それでも、弟たちがステーションへ先発した。おばあさんと私とは俥で、後から家を出かけた。
 ステーションの在る町は村から小一里離れていた。田圃の中にポッツリ一軒唐傘屋があって、そこから次第に餅屋、蚕種試験所と町並が始るのであったが、恰度ちょうど二台の俥がつづいて左手に高い石崖のある小学校の角を停車場通りに向って曲った時であった。ジリーンと妙に濁ったベルの音が一つ響いたと思うと、二間ばかり先を駈けていたおばあさんの俥が、幌へ風でも孕んだような工合にスーと後へ顛覆した。極めてゆるやかに、極めて軽やかに梶棒を上にしてひっくり返った。私をのせた若い車夫はあわてて体を反らせ、惰力を制して止った。いそいで降りて、ひっくり返った俥の横へ行くと自転車が一台ラムネ屋の屋体の下に横倒しにほっぽり出されていて、夏羽織姿のおばあさんは俥夫と衝突したどこかの小僧とに扶けられてもう地面に立っていた。何とも云わず、あたりまえに蝙蝠傘を突いてそこに立っているが、片方の手をあげて抑えている額は蝋のように血の気を失っている。まわりに人だかりもない。この瞬間、異常な出来事が信じられないように夏の午前の空気は透明なままに澄んでいる。
 私はおばあさんを支えて、そろそろと前の牛肉屋の店頭まで行って、そこの店先をかりて腰をおろさせた。俥夫を薬屋へやって、葡萄酒をとって来させた。その牛肉屋の店先には茂った葡萄棚があるので、おばあさんの滑らかな小さい額は一層蒼ざめて見えるし、その下で口元へさし出す葡萄酒の赤い色はコップの中に重く沈んでなお濃く見えるのであった。
 暫く休んでから、改めて近くの医者のところへそろそろと歩いて行った。玄関で私が書生に訳を話していると、すだれの奥から浴衣姿の年とった奥さんが、
「まアおばん様、あぶなかったのし」
と国言葉で云いながら出て来て、祖母を扶けて座敷へ上げて呉れた。
 そうこうしているうちに汽車に乗るはずの時刻はとうに過ぎた。絣姿の弟たちはステーションでさぞ待ちかねて不安でもいるのだろう。私は、
「おばあさん、きょうはおやめにしましょう、ね。国ちゃん達を呼んで来て頂きましょうよ」
と云うが、おばあさんは低い声ながら、
「折角出かけたからには行って見べし」
と、程なく自分から立って帯などをしめるのであった。
 上戸じょうごという駅で私たちは汽車を降りた。朝から曇っていたところ汽車を降りたら雨が細かく降り出している。二間ばかりの掘割があって、往来の左右に柳が茂っている。バスケットなど下げて湖の畔まで歩いて行くうちに、雨は本降りのようになった。湖畔にひとを泊める家は一軒しかないらしかった。ほんとうの田舎宿で、上り端の埃だらけな板敷の隅に南瓜かぼちゃがどっさり並べてあった。キシキシと暗い段梯子をのぼって天井の低い二階へあがると、すぐそこの部屋に黄色い髪をした女の西洋人が若い日本の女と乱雑な荷物の間で何かしていた。水の入ったブリキの大きい盥のようなものが煤けた畳の真中に出ている。狭い廊下の通りすがりに私共の目にちらりと入ったその光景は、場所が南瓜のころがったりしている穢いところだけに、何だか異様な感じがした。
 その隣りの部屋に私たちは泊ることになった。さて、窓に肱をかけて、私共は雨の中をおばあさんと一緒に辿りついた猪苗代湖の面をっと眺めわたすのであったが、水の色も空の色も同じに濡れた薄灰色で、遙か対岸の山まで煙っている景色は、湖面が広々としているだけに、とらえどころなく思われた。雨脚は目に見えているのに、湖に近いそこは砂地なせいかあたりに雨だれの音さえしないのも、気分を沈ませた。私は早熟な感情で、田舎宿の様子や隣室の西洋人の女の暮しぶり、雨の湖の風景などを眺め味わおうとするのであったが、弟たちは窓に二人並んで物も云わず、簡単に降りこめられた姿である。
 暗くなってよっぽどしてから、五分芯の台ラムプが下から運ばれて来た。夕飯の膳には南瓜と、真黒で頭の大きい干魚の煮たのとがついた。なかなかむしれず、箸でたたくといかにも堅い音がする。ほら、こんな音がする、と私共がかわり番こにその黒い干物の煮つけをたたいていると、おばあさんが、自分のお膳にもついている同じ魚を皿ぐるみ手元にとってとう見こう見していたが、やがて、
「なんだべ……鯰でねえかしふア」
と云ったので、私や弟たちは宿について初めて、ランプの灯の揺れるほど笑いこけた。

 夜があけてみると、同じ曇りながらも夜のうちに雨があがって翁島の方も見晴らせ、涼しい朝風が吹いている。私と弟たちとは、雨のために表面だけ薄くかたまったような湖畔の砂の上を歩いて行った。時々ふりかえって手を振った。宿の二階の窓から、おばあさんが顔を出してこっちを眺めているのであった。
 その辺は、湖のまわりに農家がまばらに在るきりで、樹のふっさりとした茂みの下に小舟が引上げられているのを見つけ近づいて見ると、底が朽ちていて、胴の間を抜いて砂地からの雑草が生えている。湖のそばだというばかりのさびれた在所なのであった。
 私共は何か湖へ来たらしい面白さの種をさがすような気持で、その辺を所在なくぶらついた揚句、湖へ掘割の水が流れ入る堰の上へ出て行って見た。そこからは湖心へ向って五六間の細長い石畳みの堤が突き出ている。
 私はぶらぶらとその突ぱなのところまで行ってみた。そして湖に向って腰をおろし、足をひろげるようにして下を覗くと、底まで蒼々と透きとおった水の中に三四寸の小魚が群をなして泳いでいるのがはっきり見えた。底の方を泳いでいる魚や石ころは黝ずんで見えて、その辺の水の深さと冷たさとが感じられる。
「ほら、ほら、何かつかまえたわ! 見える? 右の方へ行っちゃった!」
「随分小さいのもいるね」
 私と上の弟とは並んで腰かけ、砂へ左右の手をついて上体を折りまげ水をのぞきこんで眺め興じたが、気がついて見ると次の弟だけ一人離れて、その突堤のずっと手前のところに立ってこっちを見ている。我々のいるところからは三間たっぷり離れていて、汀に近く、そんなところに立っていたのではとても水の底の小魚は見えないのであった。私は振向いて、
「道ちゃんおいで」
と手招きした。
「魚がいるよ」
「ウン」
 間をおいて思い出してはふりかえって、二度も誘うのに動かないので、
「何故来ないのさ、おかしなひと!」
 私は思わずむっとした声を出した。この弟はよく私に対してこういう態度のことがあった。私はいやな気持で黙ってしまった。
「道ちゃんおいでよ」
 穏やかな口調でやがて上の弟も誘った。それでもなお同じところから一歩も近づかず、次の弟は暫くして独言のように呟いた。
姉弟きょうだいだって仲のいいのは小さい時だけで、大きくなれば何をするかわからない」
 私はむっとしたさっきの気分のつづきで湖面へ顔を向けたままであった。が、だんだん弟の云ったことがその場所と自分たちの姿勢とに結びついて理解されると、腰かけたまんまの自分の体がスーと宙に浮いて行くような恐怖を感じた。一緒に並んで腰をかけないのは、そんな用心からであったのか。十三の弟一人だけがそういう心持を持っている。そのことは恐ろしかった。やっと辛棒して私は二三分元のままの姿勢でいたが、到頭我慢しきれなくなって、湖に向ってぶら下げていた脚をそろり、そろりと片方ずつ引上げた。
「――帰ろうか」
 上の弟も私に声をかけられるのを待っていたように直ぐ立ち上った。私たちのこわくなった心持を知られるのも一層こわいようで、砂地で待っていた次の弟と黙って一緒になり、私共は出たときどおりの三人組で宿へ戻った。
 午後になるとまた雨が降り出した。私共は雨中の山峡に汽車の白い煙が窓を掠める間を引上げて、湖から帰った。
 おばあさんの家へ帰ってからも、それから後も、次の弟は二度とあんなことを口に出さなかった。私と上の弟とは余りぞっとしたので、却って互にそれを口に出して話すことが出来なかった。姉弟三人で草っ原にころがって綺麗な夏の夕焼空などを眺めたりしている時、不図あの言葉を思い起すと、私は自分の力では拭い消すことの出来ない黒い斑点が自分たちの生活にしみつけられたことを感じた。そしてその黒い一点はいつ見ても同じところにある。時には云った本人の弟は忘れていて私だけがハッキリそれを思い出していることを感じることもある。そういう時私は恐怖と嫌悪の混りあった激しい感情で喉元をしめつけられるのであった。
 次の弟は六つばかりの時、母の実家へ相続人として養子にゆき、姉弟の中で育てられながら一人だけ姓が違っていた。私や上の弟とは違って、彼だけは通知簿を母方のおばあさんに見せなければならなかったし、その度に、七十近くなって息子を廃嫡しているおばあさんは頼ろうとする孫にくどくどと云い、母もついそれにつれて、勉強おしとか、お前はほかの人とはちがうんだからとか、次の弟に責任を自覚させようとするのであった。
 この弟だけが姉弟たちのことを、母へ告げ口をした。
 私が十九の年、この弟は腸チブスから脳膜炎にかかって亡くなった。十五歳であった。田舎のおばあさんは歎いて、
「いたましいことをしたなあ。お前のおっかさんはあの舎弟息子を呉れてやって、ちっともめんごがらなかったでねえか」
と云ったが、それは違った。母は次の弟を決して愛していないのではなかった。ただ、幾人もの姉弟の中で、たった一人自分だけ姓がちがい、自分だけに絶えず注目され、彼としては意味ののみこめない責任を感じさせられて育っている余り俊敏でない少年の感情の鬱屈が、母には分らなかったのであった。死ぬ前日、急に意識がはっきりしたとき、この弟は母に、
「僕、ほんとうにお母様の子なの」
と訊いた。母が涙を落しながら、そうだとも! どうしてそんなことを訊くのと云うと、
「そんならよかった。うれしい」
と溜息をついた。そのことを、後から話して母は激しく泣いた。そして、
「道ちゃんを中村家の後つぎにするという話があったときだって、私は気がすすまないでね、何度もおことわりしたんだけど、恰度おばあさまがいらしてその話の最中に、どういう工合だったのか真白い鳩が飛び込んで来て神棚へとまって行ったんでね、到頭私も道ちゃんをやる決心をしたんだけれど……可哀そうに」
とかこった。
 一ヵ月ばかりしてから、私はこの弟が殆んど敵意を示して誰にもさわらせず、自分の中学生らしい勉強机の傍に置いていた小棚を、非常に複雑な好奇心と恐怖とをもって、そっとあけて見た。中からは、桃谷にきびとり美顔水の藍色の空瓶ばかりが、ごろごろと出て来た。





底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「中央公論」
   1935(昭和10)年10月「中央公論」五十周年記念特大号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について