昔の火事

宮本百合子



 こちとらは、タオルがスフになったばっかりでもうだつがあがらないが、この頃儲けている奴は、まったく思いもかけないようなところで儲けてるんだねえ。理髪屋の親方の碌三がそう云い出した。中学校や女学校の試験が新考査法になって、いっとう儲けたのは誰だと思うね。頭をいじられている猛之介は、白い布をぐるりとかぶせられて目をつぶりながら、曖昧にゆるい入れ歯をかみ直して、ふうむと云った。いっとう儲けたなア歯医者だそうだぜ。齲歯むしば一本について一点ずつひくんだそうだ。だもん、どこの親でも躍起となるね。何かでチョイチョイと埋めてさえありゃ引かないんだそうだから、歯医者は繁昌して、夜まで子供で一杯だったとさ。大分儲けたそうな話だ。これから毎年となりゃ、一身上は忽ちだ。胡麻塩の頸筋のところを苅られている窮屈そうな声で猛之介は、まあ、それもよかろうさとゆっくり云った。日本人の歯がみんな丈夫になっていいかもしんねえ。それから大分間をおいて、猛之介は、いかにもこの日ごろ考えているらしい口調でこう云った。だがまア、かねなんというもなあ、儲けさしてくれるんか分んねえようなところもあるもんだ。時世時世で、金があっちからころがりこんで来るってこともあるもんで、その道に居合わせた者は、運がいいというだけさ。――遠慮して素通りさせるがものはねえ。理髪屋の碌三は、鋏を鳴らしながら後つきの工合を眺めていたのだが、成程ねえ、と感服したように唸って、やがて、ハッハッハと苦っぽい笑いかたをした。理窟はそれぞれつくもんだ。
 碌三も猛之介も、近頃新市街に編入されたばかりのこの土地では生えぬきで、若衆仲間からのつき合いであった。土地もちの連中があつまって、村から町になったとき、土地整理組合のようなものをつくった。新市街に編入されたというのも、近年こっち方面へ著しく工業が発展して来たからで、麦畑のあっちこっちに高い煙突が建った。大東京の都市計画で、この方面一帯が何年か後には一大工業中心地になるという話がある。土地整理組合というのもこの見とおしに立って、土地もちが会社やそのほか土地を買おうとするのに不当な懸引をされないよう、その反面には地主の間に利益の均等を守ろうというわけでつくられたのであった。
 碌三も祖先代々の麦畑をもって、猛之介も祖父さま譲りの土地をもって、組合が出来るときから入っている。猛之介の土地は、つい近頃一町歩まとめて或る会社に売れた。事変以来地価はあがるばかりだが、特にこの半年ほどは、秤の片っ方へ何がどっさりと載ったのか、価はピンピンとつりあがって、組合での地価も、初めの頃から見れば三倍ほどにはあがった。その価で一町歩売ったのが猛之介である。
 碌三の地面は二町歩ほどであるが、割がわるいところにあった。土地が小さくいくつにかわかれて散在している上に、小さい沢に向って、この頃は乙女椿などが優しく咲いている藪になったところもある。大体が、道路から奥へ入りすぎていた。だから、土地と一緒に必ず道路を問題にする会社関係は、この奥へは手を出さない。坦々たる広い改正道路が新しく出来て、その左右には昔の街道の名残の大福餠屋、自転車屋などが、欅の大木の蔭や苔のついた藁屋根の下に店をひらいている。碌三の理髪店も昔から在るそういうこの土地らしい床屋の一つで、大福餠屋の店と同様、案外やって行けている。昔は街道往来の馬車挽だの、野菜車をひいて東京へ近在ものを売りに出る若衆を相手にしていたこれらの店へ、この頃入って来たのは、会社のマーク入りのカーキのジャムパアに、作業帽をかぶった若い者たちで、歩道のとこでキャッチ・ボールなんかしていたかと思うと、碌三の店をのぞいて、すいているとふらりと入って来たりする。国防色の平べったい袋をいつか鏡のところへ置き忘れて行った若いのがあった。財布でもなしと、碌三が白い上っぱりの裾で手を拭いて、そっとあけてみたら、それはピンポンのラケットであった。五十八になっている碌三は、それを眺めながら、何か沁々しみじみと今の若い者の生活やたのしみが自分たちの若衆時代とちがって来ていることを感じ、羨望とも、哀感ともつかない気持で暫くラケットをひっくりかえして見ていた。
 景気に波がある。このことは、碌三の頭をはなれないことである。同じ土地整理組合に入っていても、所有地が裏だったりいろいろの不便な条件にあることはやむを得ないとして、整理組合がそこいらまで道路を開鑿かいさくしたりしないうちに、今のこの景気の波がすぎてしまいやしないかという不安は、絶えず碌三の念頭にある。碌三にとって、猛之介がもったいらしく述べるような金儲けの哲学も、つまりは持地が三倍もの価でうれた当今の人間の腹からこそひとりでに出る※(「口+愛」、第3水準1-15-23、397-13)おくびのようなものだと、余りいい気持でもきけないわけである。
 ふいと興醒めたような気になって、碌三は鋏の音たかく、二三ヵ所仕上げのようなことをし、まあ、こんなとこかね、と、椅子をはなれて、バットの箱へ手をかけた。弟子の良太が白い布をとってやると、猛之介は伸びをするように手脚を張りながら、洗面台の方へ行った。

 丹前のふところ手で、苅りたての頸筋のあたり、剃りたての顎のあたりに軽い風をうけながら猛之介は改正道路を、うちの方へ横切った。荒物屋の日除けの鉄棒のところへ何か下っていたので見ると、それは夜間英語教授という広告であった。昼間働いて夜だけ勉強したい方は、僅の時間で英語の進歩する教授を御利用下さい。その荒物屋の家内は猛之介がよく知っている。英語なんかやる人間はない筈だ。そうしてみれば、誰かがたのんで、ここの店先へ札を出して貰っているのだろう。誰も、彼も、その向き向きで儲けようとしている、と猛之介は考えた。そして、それは極めて当然のことと思えた。儲けられるところをいくらかでも儲けないものは要するにうとい人間だし、そのたのしみがあってこそ、人間は動いているのだ。
 身代を大きくした猛之介の祖父さんの由兵衛という男は畦の由兵衛という綽名で呼ばれて生涯を終った。自分の田の畦、畑の畔から野良道へ出るとき、由兵衛はいちいち草履の底をこそげて一かたまりの土でも自分の家の土を、どこのどいつでも歩く道へ持ち出さないようにした。田の土、畑の土、それは金と汗のかたまりの土、往来の泥とはまるでちがう財産ということを由兵衛に子供のうちからきかされて育った。ひどくなぐられるのは、いつもうっかり藁草履の底をこそげずに、畑から道へとび出したときであった。
 時代が変って、草履の裏につく土さえ外へ持ち出さなかった心がけとは反対に、今は、ふっくりとした武蔵野の黒い土の厚みを、二重に剥がして、土からの儲けを考えるようになって来ている。猛之介はこの知慧については自分に満足を感じている。土地を売買するときには面積を云って厚みを云わないところに、猛之介の目がついて、今度昭和合金との間に話がはじまりかかると早速そこへ人夫を入れて、表面の土をならし一間ぐらいの深さにこそげとって、その下のかたい赭っぽい土のところで、一町歩売りわたしの契約をした。猛之介は、こりゃ双方仕合わせでした、と云った。あんたの方も重い機械を据えつけなさって、じき土台がめりこむような畑土じゃこまるだろうし。
 こそげた土は、鮮人人夫が毎日働いて、敷地のずっと西端れの沢の近くの凹地へ運んだ。売れた土地はこのようにして地下げされ、売れない方の土地はこのようにして地上げされて、やがては買い手のつくようにされたのである。地下げしても、昭和合金の敷地は改正道路と全く水平だし、昔は一帯の小高い丘陵をなしていたその辺を開鑿して通してある道路の方から登って来れば敷地の端れはそれでもなお、大人の身丈より高い位置に、地層の断面を見せてはいるのであった。
 マーブル荘という窓枠の桃色ペンキで塗られてあるアパートの新築工事を少時しばらく立って見ていて又ぶらり、ぶらりとかえりながら、猛之介は余り浮かない気分である。けさの新聞に、凄い土地の暴騰として、事変前の十倍に上ったという地価のことが出ていた。それに比べれば、昭和合金へ売った地面は寧ろやす過ぎたようなものだ。整理組合がなまじっかあるものだから、どうも個人として腕いっぱいの仕事がしにくい。役員の過半が、奥手へ土地をもっている連中なのが、やはり暗黙に邪魔しているとも思える。遠慮して素通りさせるがものはねえ、といった心の底にはわが身の前を素通りしているものがあるという気持からだったのに、碌三にまで勘ぐられたのは心外であった。

 西北の一角を切りくずしてしまえば、それで昭和合金へ売った土地の地下げは終るという日のことであった。裏の苗畑につかう堆肥のところにいる猛之介を、女房のセキが表の方から、父さんどこけ? とうるさく呼びながら、さがして来た。そういうとき猛之介は決して、ここだぞウと返事はしない。縞の前垂をかけて小さい丸髷に結ったセキが、ああなアんだ、そこけ、と近づいて来るのを猛之介はこちらに立って見据えていたが、セキは又どういうものかきょうはいつものように顔の見えたところから大声でがなって来ず、すっかり猛之介のそばへよるまで黙っていて、しかも四辺を憚る気配で囁いた。昭和合金さ売った地面から、何か出るんだとよ。人よせが始まってるとよ。――おら始めて今聞いたが。
 顎をひく表情でそれをきいていた猛之介は、黙ったまま大きく両方の掌をうちあわせて塵を払うと、そのまま畑から出かけた。
 行ってみると、注進どおり合金の庶務という男と、請負の現場監督と、人夫頭と、ほかにこれまで見たことのない洋服の若い男が三人、もう地下げの済んでいる地点にかたまっている。紺の服を着たおとなしそうな若い男が、そこから拾って来た枝の先で、地べたの上をさしながら何か説明している。猛之介の現れたときにはそれが殆ど終って、庶務の男が、ふーん、そういうものだとは知らなかった。こんなにかたまってあるのは珍しいんですかね。いや、きっと承知しますよ。飯島君、事務所の方からかかってゆけば、こっちは秋ぐらいになるんだろう? と、何かその若い男の肩をもった調子で云っているところであった。飯島も、おだやかに、さア、秋まではどうかしらんが、夏いっぱいは大丈夫ですよ。それに大体こっち半分は庭になるんだししますからね。そう返事をしている。
 猛之介は人々のその輪の間へ、や、と頭一つ下げてわり込んで行った。そして、目をはっきりさせようと二つ三つ瞬きをして、そこの地べたを見下した。何もほかのところと変ったことはない。もし変ったところと云えば、枝を手にもっている若い男の足許のところに、赭土を区切って一間四方ぐらい畑土が黒くつまった場所があるが、そんなところはこの地下げが始ったときからあって、こう見わたしたところ、敷地全体にちらばって二十や二十四五ヵ所、色ちがいのところはあるのだ。
 用心ぶかく沈黙を守っている猛之介を合金の庶務が、その若い背広に紹介した。猛之介は、おとなしそうな若い男の顔へ、力のこもった視線をっと注ぎながら、何があるんですかな、と訊いた。竪穴が発見されたんです。この新しい黒土がつまっているところですね。ここに、大昔、人間が棲んでいた竪穴があるんです。若い男は人のいい嬉しそうな笑顔で、実に珍しいんです、このように聚落をなしているのは。と云うのであった。ふーん。じゃ、あっちのもみんな、その穴ですね? そうですとも。功労者は、この小関君です。というのを見れば、それは中学の帽子をかぶった十六七の少年で、これも笑いひろげた口元が血色のいい頬っぺたを無邪気に盛り上げている。穴からは何か出ますかね。それは、発掘してみなければ分りませんが、土器は確に出るでしょう。淡白な答えで、猛之介に何となくその先の質問を出しかねさせた。猛之介のききたいところは、その土器というのは金目のものなのか、そうでないものか、という点なのである。
 一団は、あちこちで掘りかえされている赭土の地肌から陽炎かげろうのたつ日向をゆっくり歩いて、改正通りの方へ出た。バスへのる迄注意していたが、洋服連の話は呑気で、大森の貝塚がどうのこうのというようなことばかりであった。
 猛之介は、むずかしい顔つきで下唇をつき出しながら、独り又敷地の方へ戻った。モッコをかついだ人夫の往来を漫然と眺めながら、落付かない気がした。猛之介は気を引くように人夫頭の吉永に向って、ふん、物好きもあったもんだね、いくらかになるんかい、土器とかを掘り出して、と云ってみた。研究だろう、大学の方の連中だってえもの。これもあっさりした返事である。
 じろりと吉永に一瞥を与えて、猛之介は敷地の外へ出た。どいつもこいつも、はぐらかしたような返事ばっかりする。吉永だってわかるもんか、初めっからあすこにいたからには、うまい話なら一丁のっていない筈はない。本当のことなんか云うものか。若し一文にもならないようなことなら、あんなに皆うれしそうな光った眼をする筈はありっこないのだ。これが猛之介の信念である。
 整理組合のガラス戸越しにのぞくと、役員の中では一番年配の岩本が、ぽつねんと一人で外を見ているところであった。猛之介は、どうだね、いい話はないかね、と云いながら入って行った。岩本はすこし耳が遠いので、その挨拶には答えず、どうしたね、何か用かねと、新聞を片よせた。そこで猛之介は、昭和合金の敷地に竪穴が出たこと、そこから土器が出るらしいことを話した。へーえ、あすこからそんなものが出るのかね。じゃあ、よそにもあるかしんねえな。ふむ。土器なんてもな、どうなんだね、金になる代物かね。さあ。――とにかく博物館にゃ多分そんなようなもんも納めてあったな。
 猛之介は、何んでもない世間話をして、そこを出た。博物館にも納っているとすれば、いずれ何か曰くはある物に相違ない。わるくひとにさわがれてしまうと工合がよくない。家へ戻るとセキが、声をひそめて、お父さん、何だったね、とよって来た。猛之介は例の見据えるような見かたで女房を顧みながら、何か研究で、穴を掘るんだとよ。樫の木の下の肥溜めに向って放尿しながら答えた。

 敷地のぐるりがトタン塀で囲われた。職人の掛小屋が出来た。真先に門の横の番人小屋が出来はじまって、建築が着手される一方で竪穴の発掘も進行した。天気さえよければ朝早くから夕方まで、例のおとなしい顔の若い男がやって来て、人夫を指図し、自分でも泥んことなってかたい古い赭土の表面へ黒い布をはいだようなところを掘っている。中学生もよく来た。あらまし人夫に黒土を掬い出させたあとは、この連中が軍手をはめた手に園芸用のシャベルをもって、用心しいしい深さ一尺ぐらいで長方形をしたその穴を掘りおこして行くのである。こわれたりしては困るものが底に埋っていることは、若い者に似合わないその仕事ぶりの細心な根気よさでよく判る。
 猛之介は、ぶらりと来かかったふりをして一日に幾度か仕事場へ入りこんだ。そして穴の成りゆきを観察し、掘っている連中の手元を監視した。骨董は天井知らずの価になって来ている。この間も、支那の骨董を種に何百万円かの詐欺がばれたことが新聞に出ていた。土器と云えば、かわらけの類だろう。そんなことを云ったって剣ぐらいは出るかもしれない。猛之介はそう思って、見ている。
 丁度、竪穴の一つに、かまどだというものが掘り出されたとき猛之介は居合わせて仔細に見届けた。穴の北側の壁の真中辺を掘っていた中学生が、オヤ、と叫んでシャベルの手を止め、井上さアーンと、もう一つの穴の中にかがんでいる若い男を呼ばわった。ちょっと! 何かあるらしいですよ。焼けた粘土が出ましたよ。すると井上という男が駆けて来て、そう、竈かもしれない、変に声をのんだような調子で云うと、二人は物も云わず、シャベルと手とで土をとりのけ始めた。殆ど昼からじゅうかかって二人が掘り出したのは粘土で厚くかためた焚口の、火床から外へ煙出しの通じた一つの原始の竈であったが、井上は、そうやって猛之介が飽きもしないで見ているのを、面白がって眺めていると思ったらしく、いかにもよろこびを共にわかとうとする笑い顔で、こんなに完全な形で竈がのこっていることは珍しいんです、と額の汗をシャツの腕で気持よさそうに拭きながら云った。ここに、ホラ、底のぬけた甕がさかさにしておいてあるでしょう。これは竈で炊事するとき甕の台につかったものですね。こんな時代にも、やっぱり廃物利用をしたんですね、と笑った。竈の前の踏みかためられた赭土のところを手で払うようにして調べて、井上は、ある、ある、ね、と中学生に示した。これが籾と藁の圧痕ですよ。この竪穴の時代にもう農作がされていたんですね。沢の方に水稲をつくっていたのかもしれない。
 尻っぱしょりになって跼みこんでそこの地点をのぞいていた猛之介の心には、一種の失望とともに侮蔑に近い感情が湧いた。なーんのことだ。大昔の百姓の穴小屋をほじくりかえしているのか。そんなら、大したものは出っこない。今だって東北のひどいところへ行けば、土間に藁をしていて寝ているという話だ。そんなところから、金めな代物なんぞ出ようもないことは知れきっている。猛之介は穴から外へ出ながら、どれもあらかた同じようなものですかな、と云った。剣だの何だのというものは、ここいらからは出ないかな。すると、井上はそういうものの出るのは、貴族の古墳ですね、と答えた。それに、西の方では鉄や銅をそろそろ使いはじめた時分に、関東はまだずっとおくれていて、やっとすこし鉄の端を刃物につかったりしているところも、歴史上なかなか面白いですね。
 しかし猛之介は、興ののらない表情で、翌日は竪穴のまわりへその姿を現わさなかった。あの様子でみれば、研究というのは本当だったのか。柱穴が幾つあるとか、溝がどうのと、物見を立てて写真をとったりする、それだけのことで格別の魂胆もなかったのか。そんなことを考え考え、煙管をかみながら猛之介が苗畑を見まわったりしているとき、昭和合金の敷地へは、別の見物人があらわれた。噂をききつたえた附近の小学生たちがかたまって、トタン塀の外から、何処から入れるんだい? あっちだよ、あっちに門があるんだよ、などという声々を響かせながら入って来た。いつも、大抵は男の子たちで、やや暫く黙って井上たちのすることを眺めていてから、ぽつり、ぽつり、それ何だろ、というような質問をはじめる。
 井上は、小学生の見物があらわれると親しい調子で、皆、勝手に掘ったりしちゃいけないよ、と先ず警告を与えてから、いろいろ説明してやった。こんな皿は、こわれ易いんだからね。まだ上薬がかかってないだろ。大昔の皿はみんなこんなのさ。工業はまだすすんでいなかった証拠だよ。
 一旦見てしまうと堪能すると見えて、同じ子供がくりかえして来るということは稀である。なかに一人、鞄をどこかへおいてから又やって来て、井上たちの引上げる頃までいる少年が、井上の目をひいた。君、何年? 五年。何ていうの? 辰太郎。この辰太郎は無口で、だんだん掘る仕事の手つだいもするようになった。かえりのバスの中で中学生がふっと井上に云った。あの辰太郎って子ね、何だか寂しそうな子ですね、僕そう感じるな。服装は大してわるくないし、お八ツ時分、井上が角の大福屋へ汁粉をのみにさそっても、余りついて来ない。
 この辰太郎が猛之介の孫で、養子であった生みの父親は、財産のことで猛之介と大衝突して、七八年前家を出てしまっていることを知ったのは、もう夏に入ってからであった。

 ちぢみのシャツの背中を汗でじっとりにして、掘り初めの時分から見ると、すっかり日やけのした井上が、夏の日永を一刻も惜むようにして働いている。辰太郎が運動パンツに跣足はだしでわきにくっついて、シャベルを動かしている。その頃には、竪穴はもう二十米以上掘られて、その一部は又土をかぶせて、新築の鋳物工場や、仕上工場の土間になっていた。けれども、今にえらい先生がたが来るのだからと云って、柔らかな土間の上へ白い石灰で竪穴の形が鮮やかに描かれていた。雨のすくない夏で、樹木の一本もない敷地の赭土の反射は炎暑でもえるようである。井上も中学生も辰太郎も、余り暑気の激しいときは、仕事をやめて沢よりの藪かげへ寝ころんで休んだり、雨天体操場のような天井の高い仕上場の土の上へこもを敷いて横になったりした。
 辰太郎は何となし井上や中学生がすきになっているのであった。一粒種の後とりだから猛之介はこの孫を甘やかしている。婆さんや娘より、一段上のものという感じで見ていたが、辰太郎としては、一種の孤独の思いがいつも胸にあるのであった。じいちゃんと自分との間、おばあさんと自分との間、そして母さんと自分との間、どっちを向いても、何となくもの足りない淋しいものがある。井上は中学生も辰太郎も同じ仲間のようにして、特に辰太郎には、竪穴に関連していろんな興味ある産業の進歩の歴史の話をきかしてくれた。辰太郎は、この丘の上へ続々立ちはじめた極めて近代的な工場と、その土の中にある古代の生活の遺跡とを、おどろきの目で見較べながら、そういう話をきいた。
 夕方、辰太郎がかえると、その刻限には大抵夕顔の棚の下の床几にいる猛之介が、ふむ、きょうは何が出た、ときくのであった。竪穴から何が出たかという意味である。辰太郎は、切れもんの破片が出たよ、とか、モモの核が出たよとか手短かに答える。自分から、きょうは馬の歯が出た、と云ったこともある。猛之介がそれを訊く気持を辰太郎は知らない。この夏は殆んど毎日合金の敷地で暮しているのに、叱りつけられないわけも知らない。猛之介は、孫が我知らずそこで自分の代理の役に立っていること、何か変ったものが出たとき、自分が知らずにいるようなことは無いめぐり合わせになって来ているのに満足しているのであった。

 工場の建築の方が愈々いよいよ捗どって来て、この一週間ばかりのうちには最後にのこった二つの竪穴を調べ、発掘の仕事も一段落をつけなければならない時が迫った。井上は益々せっせと掘って、休むときは先の頃のように只寝ころがってはいず、仕上場の周囲にとりつけられた作業台の上に、これまで大きい木箱に入れておいた素焼の甕だの皿だの軽石だの、一つ一つこまかく何か書きこんだ紙を貼ったのを丁寧に並べる仕事にかかった。ボルトで締めた柱には幾通りもの図がかけられた。
 一方ではそういう陳列をすすめながら、最後の小型の竪穴が掘られたのであるが、丁度人気ない手洗場の水道の蛇口へ口をもって行って水をのんでいた辰太郎は、辰ちゃん! おやいないのか、と云っている井上の声をききつけた。ね、確にそうでしょう? 火事があったんだね。辰太郎は、走ってその穴のふちへ行った。井上は、ガラスの円い蓋つきの器を片手にもっていて、その穴の壁に沿ってついている焼灰の中から、こげたススキの一かたまりを、その器の中へそーっと入れている。辰太郎を見て、井上がこの竪穴ではどうも火事を出したらしいよ、と云った。こんなに灰があるし、このススキなんかは多分屋根だったのが、燃えおちた跡なんだろうね。
 火事のあった竪穴。ここで火事が出た。辰太郎は何だか気持が瞬間変になったほど、ここに群れていた大昔の生活を自分の身に近く感じた。これまでは、云わば標本のように古びて動かない遠方において感ぜられていた全体のことに、火事という活々と身近い出来ごとが、ここにもあったときくと、俄にはっきりとした生活の息吹が通って来た。どんなにみんなが騒いだだろう。叫んだり、馳けずりまわり、稲の束をかついで逃げたり、どんなにみんながびっくりしただろう。その光景を思いやると、辰太郎は何だかひどく可愛そうになった。火事だア、とどんな言葉で叫んだのだろう。そして、奇妙なことに、竪穴の面積が小さいせいか、みんなの体が今の大人よりは小さかったように思えた。その小さい連中が、ここをあっちこっちへ駈けまわったようで、いつか見た火事の記憶から、その太古の火事も、沢のむこうのくぬぎ林がうす蒼く輝いてかすんでいる風のない月夜に、ボーと赤く燃え上ったとしか思えないのであった。

 感銘の生々しいつよさが、発掘の終ったこととも結びついて、辰太郎はその晩妙に悲しい心で眠った。或る朝目が醒めたら、いかにも夏の末らしい雨降りであった。幅のひろい雨がザアと降っている。すぐ、竪穴はどうしたろうと、辰太郎は思った。猛之介は、町会議員の補欠がどうこうということで朝飯をしまうと耳の遠い岩本と番傘をさして出て行った。小やみになったとき、辰太郎はゴム長で、開鑿道路のひどい泥濘の中を歩いて、昭和合金の仮通用門を入って行った。職人はペンキ屋が一人来ているきりであった。塗りたてのペンキの匂いのなかを、仕上場の方へ行って見ると、人っ子一人いない大天井の下に、大半が陳列されたままある。陳列の様子は、小学校の卒業式のときの陳列を思い出させた。どれも一生懸命、真面目に並べられてある。この陳列をそのえらい先生たちに見せてしまうと、井上は掘った竪穴をみんな元のように埋めて、もうここへは来なくなってしまうわけなのである。
 辰太郎は外へ出て、先ず火事を出した竪穴のところへ行ってみた。穴一面に浅く雨水がたまっている。次、次、どれも長方形の池のようだ。辰太郎は、火事を出した竪穴のところへ来て立って、永いことその長方形の浅い水の面に軽い雨粒が落ちてつくる波紋を眺めていた。やがて、何を思ったのかゴム長の爪先でまだそこに盛られている土の塊りの一つをそっと竪穴の空気の中へ蹴こんだ。そして、辰太郎は水の底から何か音のきこえて来るのをでも待つような眼色をした。





底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「改造」
   1940(昭和15)年4月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
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●表記について