夜の若葉

宮本百合子



        一

 桃子の座席から二列ばかり先が、ちょうどその二階座席へ通じる入り口の階段になっていた。もう開演時間の迫っている今は、後から後から込んでいかにも音楽会らしい色彩の溢れたおとなしい活気の漲った混雑がそのあたりに渦巻いている。プログラムと書類入れの鞄とを膝の上に重ね、そこへ両腕をたがい違いにのせた寛いだ姿態で、桃子は目の下の賑やかな光景を、それもこれから聴こうとする音楽の添えものとしてたのしむ眼付で眺めていた。桃子のところからは正面に、入り口を囲んでめぐらされている手摺が見えた。下の大廊下から絶え間なく流れ込む人々は、一段一段のぼって来て、先ず頭から先にその手摺のところに現れ、ついで肩、帯、やがてすっかりの姿となって、時には互によけ合って却ってぶつかったりもしながら通路を夫々の座席に動いてゆく。いろんなきもの。いろんな帯。いろんな髪の形。夫々の趣向をひそめたそれらの色と動きとを巻きこんで、熱心に調子を合わせているバスの絃の響、笛の顫音、ヴァイオリンの入り乱れた音などが期待を誘う雰囲気をかもして、しめられている舞台のカーテンの彼方から場内いっぱい漂っている。
 空いていた桃子の右隣りに譜をプログラムに持ち添えた青年が来た。桃子はスカートをまとめてすこし体を肱かけからずらし、自然な動作のつづきで柔かく顎をひきながら襟に插している渋い色の匂い菫をかいだ。勤めからまっすぐまわって来る桃子は、小さいけれども生きたその花を襟にさして、一つの夜を自分なりの心持よさに飾っているのであった。
 ふと、目の下の木手摺のところへ現れた一人の男の姿が桃子の視線をとらえた。横を向いた顔でそれがたしかに順助だと判ると、やっぱり来たのねという気持を率直な表情にあらわして、桃子は順助がこっちを振向くのを待った。学校時代からこの交響楽団の演奏会だけは来ている従妹の席を、やはり音楽好きの順助はよく知っているのであった。今も順助は、持ち前の何となし寛闊なところのある身ごなしで帽子を脱ぐと、頭をめぐらして、高いところから自分を見守っている桃子の顔をなんなく見つけ、爽かな笑顔でもって頷いた。親愛のこころそのままの様子でそれに応えている桃子から順助へと、隣席の青年が青春の敏感さで目をうつした。順助のとりつくろわない全体に何かただようものがあって、それは男の目をひくものをもっているのであった。
 みてみると、順助は通路に佇んでいる桃子とおない年ぐらいの女のひとのそばへよって行って、少しこごみかかる姿勢で何かいった。そのひとは素直にふりかえって、順助に教えられながらだんだん辿って桃子の顔へ視線をとめると、おとなしい会釈をその場所から送ってよこした。少しあわてた桃子は丁寧に女学生っぽいお辞儀をかえした。支那風の翡翠色の繻子に可愛い刺繍をした帯のうしろを見せてそのひとが先に立ち、いつもの順助の席よりはずっと先の棧敷の方へ静かにおりてゆく。そこへ開演をしらせるベルが鳴りわたった。
 井上園子の演奏するコンチェルトを桃子は今夜特別深く心にうけとって聴き入った。久しぶりでこのひとの演奏をきくというばかりでなく、ステージへ出て来てお辞儀をする、そのお辞儀のしぶりからして今晩の井上園子にはよけいなもののない本気さがこもっていた。真直まっすぐ音楽にうち向いて、音楽に自分の生活のあらゆるものを与えそこに生きようとまた新しく思いきわめたというような気魄が、力づよく丸みある一うちのコードのなかにも響いているようである。新鮮なおどろきに似たこの感動は曲が進むにつれてますます桃子の心を捉えた。ぐるりの聴衆も、際立ったこのピアニストの内面的な進境で奏される音楽に魅せられた風で、息をつめた満堂の静謐のなかに最後の旋律が消えると、情緒的な拍手の嵐がおこった。アンコールのあとも拍手はしずまらなくて、もう一度出て来たそのお辞儀もやっぱり、さっぱりと真率なものでされている。桃子は熱心に手をたたきながら、もし出来ることなら、この芸術家の手を心から女同士の思いでとって、本当によかったわねえ、とよろこびと激励のひとことを囁きたかった。桃子はこのひとが外国から帰って来たばかりのまだ白いソアレを着ている細そりとした令嬢だった時分から、ひそかな支持者の一人であった。やがて関西の富裕な実業家との華々しい婚礼があり、それから後の数度の演奏は、女性として肉体的にも豊饒な刻々の成熟が反映しているようでありながら、どことなし余分の自身の雰囲気に自分から身を置いているような不安があった。今晩の演奏ぶりがこんなにも生粋でしかも芸術への気魄にみちているのは、どういう変化がこの富と天賦とをゆたかにそなえた女性の内心に生じたからだというのだろう。幸福に飽満したからとはいい切れないもの、もっと女の心の奥に複雑に目醒まされたもの、それが今や彼女の音楽を一層の含蓄と熱意とに満ちたものとしているように思われる。そして、それは仕合わせな暮しと一応みられている生活のなかにも在る微妙な人間生活の陰翳から来るものだと思われるのは、自分だけの間違った推察だろうか。
 女の芸術の進んでゆく姿に、こんなにうたれる今晩の自分の心の感じやすさの理由に我から心付くところもなくはなくて、桃子はぼんやり上気した頬へプログラムで風をおくっていた。いつの間にか来た順助に、
「ひとり?」
ときかれて、桃子は思わず、
「あら」
と、顔を赧らめた。
「よかったら、ちょっと出ようか?」
 歩きながら順助は、
「森崎知ってただろう?」
といった。
「あの妹さんだ」
 休憩の人々で溢れている露台の太い柱のところで、順助は改めて二人を紹介しあった。
「従妹の川田桃子です。森崎さよ子さん、どうぞよろしく」
 そして、煙草に火をつけながら、
「園子夫人の進境著しい、ね」
 ひとりでの感情を声に溢らして桃子は、
「ほんとう!」
と相槌をうったが、すぐさよ子をかえりみて、
「ここ、いつでもいらっしゃいますの?」
と話題のなかへ対手を誘った。
「時々――兄ったら自分の来たくないときだけ切符くれますのよ」
「じゃあ今日は特別待遇ですね、二枚もおごってくれたんだから」
「友兄さん、今うれしいからなんでしょう」
 順助は、
「ああ、そうか」
と笑って、
「友二さん、学位とれることになったんだそうだ」
と桃子に説明した。
 順助は、音楽会へ女の子をつれて来るのが好きというたちの青年とは全く反対の性格である。その気質をよく知っている桃子が、今夜は思いがけず一緒に現れた初対面のさよ子に対して、いわば順助への心づかいから、自分をなるたけ内輪に内輪にと表現しようとしているのが、順助にはっきり感じられた。
 演奏会が終ってから銀座へでも出ようと、暗いビルディングの間を歩いたりするときも、桃子は和服で草履ばきのさよ子の足なみに自分の歩調を合わせている。さよ子は一向それに気づかないでいる。さよ子のその自然さも、順助にはわかる。
 三人は、階下で花なども売っている有名な果物店の上で冷たい飲みものをとり、そこからぶらぶら有楽町の駅まで行った。出札口のところに切符を買うひとの列が出来ていて、順助はその一番しまいにいたが、何気なく帽子をかぶり直す横顔に微かな当惑の色の浮かんでいるのが桃子の目に入った。ああ、きっとかえる方向が別々なのだ。桃子がひとりになるのを順助は気にしているのだ。
「お宅――どちらですの?」
「ずうっと大森」
 桃子は、
「順助さん――私の分まで買う気なんじゃないのかしら」
 ひとり言のように呟いた。
「ちょっと失礼、ね。いってくるから。――私パスなんですもの」
 書類入鞄からパスを出して、桃子は順助に向って歩きながら、これ、これ、という風に動かしてみせた。そばへ行くと少し声を落していった。
「――私大丈夫だから――ほんとに心配しなくていいのよ」
「ああ」
 列にならんで雑踏するプラットフォームへ出ると、順助は半分冗談めいて、
「どっちが先へ来るだろうかな」
 と、左右の線路を見くらべるようにした。やがて、それにはちっともふざけたところのない暖かさのある声で、順助は、
「桃ちゃんが乗ってしまうまで待っててやるよ」
というのであった。

        二

 中学の二年のとき父を亡くしてから、順助は半分は伯父である川田の家で桃子たち兄姉のなかにまじって成長したともいえる工合であった。三つ年上の広太郎がいつも順助の兄役であった。そのこともあったろう。でも、折々桃子が不思議に思うくらい、桃子の思い出のなかには順助と遊んだいろいろの情景が濃くのこされて来ている。
 たとえば夏のかっとりつけた庭土の上を蟻が盛に歩いているのを眺めたりしたとき、桃子の若い回想のなかに甦って来るのは、いつもうちの離れの前栽の景色にきまっていた。
 茶室づくりの離れの前栽には、松や蕚などがひっそり植えこまれていて、暑い昼間、蜥蜴とかげが走った。小さい桃子のおでこにざらざらした麦藁帽子の縁がさわっている。それは順助がかぶっているのであった。桃子は四角な踏瓦をひっくりかえした下から現れ出た柔かい土とそこにある蟻の卵とを、びっくりして眺めていた。
「ほら、おどろいているんだよ。駈けてるだろ、卵をよそへ運ぼうとしているんだよ」
 しかし順助はそれ以上蟻の巣をかきまわしたりはしない。またその四角い踏瓦を元のとおりにかぶせた。そして、口笛か何か吹いて歩き出した。
 二人も兄たちがいて、桃子にそんなにして蟻の巣を見せてくれたのはどうして順助だけだったのだろう。
 やっぱりそれもいつかの夏、簾の下った部屋部屋の電燈を消して、かくれんぼをしたことがあった。桃子は父の大きいテーブルの下に這いこんで息をころしていたが余りいつまでたっても鬼が来ないのでだんだん待ちきれなくなって来た。片手でタンマをこしらえながらその机の下を這い出して、ひょいと立ち上ろうとした途端、廊下の簾の蔭から鬼になっている順助が何と思ったのかこうしぐらいの嵩で自分も四つ足になりながらいきなり姿を現した。余り度胆をぬかれたのと怖かったのとで桃子は本当に泣き出してしまった。
「順ちゃんたら、そんな黄色いものを着てるのに這うんだもの」
 そういって泣いた。順助は古風な黄麻の湯上りを着ていたのであった。
「弱虫だなあ」
 順助はそういいながら泣いている桃子の傍に待っていた。そして、桃子が泣きやむと、
「もういいかい?」
と訊いた。
 そのもういいかい? と小さい自分に訊いた順助の声の調子は、何とまざまざと二十三の娘となった今の桃子の耳の底というよりは心の奥に、抑揚のこもった響となってのこっていることだろう。あのときの順助や自分を思い出すと、何ともいえず懐しくまた滑稽で思わず笑えるのだけれども、笑いのなかには喉にこみ上げるような思いもこもっている。
 兄二人が学校を終って就職し、順助が帝大の物理へ通うようになってから、元のような暮しは変ったが、順助のギタアにピアノを合わせるのは桃子であった。
「桃ちゃん、これ読むといい」
 そういってイリーンというひとの書いた書物の歴史とか時計の歴史とかいう本を貸すのも順助であったし、英文科にいる桃子の学校でつかう本をみて、
「やっぱり先生ってものは自分が習ったような本をよますもんだな。特別な学者でなければ、語学の力で昔へばかりさかのぼらないだっていいんだろう。言葉なんて生きてるもんだもの」
と、外国雑誌をくれたりした。
 母親の多代子が、おだやかな信頼の眼差しで、そんなことを喋ったり時には頻りと論判する二人を眺めているような空気が一貫しているのであったが、年々に色どりも多くなって来た桃子のひそかな独居の感情の裡では、ふっとおどろきのような歓びのような迸りを感じることがある。桃子はいつとなしに、順助が、兄たちともほかの男の誰彼ともまるでちがった一種の心持を自分におこさせることを心付くようになった。
 その感じはちょうど交響楽が非常によく調子を合わせて奏せられてゆくのを聴いているとき、心はだんだんうちひらいて、音と溶け合い、高く低く、音から音へと広々と展開しまたひきしまってゆく、その快さに似ていた。順助には眼にも、声にも、ちょっとした物ごしの中にも、桃子の感覚に心持よくひっかかって来るものがあって、それは順助といるときの桃子に何ともいえず安心な、活溌な、同時に快活な生きるよろこびのようなものを吹き込んだ。順助といるとき、桃子は一番単純になった自分を感じ、つるつるしたむき出しの膝っ小僧を二つならべて、それでよろこんで坐ってどんな話でも出来る真摯な気分になるのであった。
 去年、桃子が学校を出て、今つとめている貿易会社へ入った夏、防空演習があった。
「私は御免蒙りますよ、どうもこれじゃあね」
 蚊帳を吊って多代子が横になってしまったあと、来合わせていた順助に、
「上へ行きましょうか」
 桃子が先へ立って二階へあがった。南の空には、暗い屋根屋根越しに青く太くサーチライトの光芒が二条動いて、飛行機の爆音が高く遠いところにきこえている。灯をけしている座敷には、ぼんやりした夏の夜空の明るみがあった。
「このまんまでいい?」
「いいよ」
 順助は座蒲団を背中の下に敷いて、ごろりと横になった。桃子は手摺のところへ腰をかけて風にふかれていたが、やがて、
「ああ思い出した、いいものがあるのよ、きょうは」
 下へおりて、番茶道具と越後のある町の名物の絹餠をもって来た。
「きょう送って来たばっかりよ。但しみんなたべちまいっこなし」
「亮さん相変らずなのかしら」
 下の兄が、そこへ赴任しているのであった。
「そうでしょう、みな元気らしいわ、でもあの辺は紫外線が足りないから子供はこの頃ハダカ主義なんですって」
 桃子はまた手摺のところにかけ、順助はすこし離れたところに横になっているのであったが、ふっとその体が動いた気配で桃子がそちらへ向くと、薄闇の中にワイシャツが白く浮いて順助は胡坐あぐらになっている。そして、二つ折にした座蒲団を胡坐の上へかかえこむような形で、
「ね、桃ちゃん」
といった。いつもの気持のいい順助の声である。けれども、その声にはごく微かに何だかふだんでない響があるようで、桃子は返事が喉につまった。
 それにかまわず、順助は、
「ね、僕が君に結婚を申し込んだとしたら大変にそれは唐突かい?」
 ああ、ああ、このいいよう! 熱い光った波が体を貫いて桃子はそのまま攫われてゆきそうな気がした。考えたのはやっぱり自分ひとりではなかったのだ。
「――まるで考えないことだったかい?」
「そうじゃないわ」
 それどころか、桃子はくりかえしくりかえし何度考えたであろう。特に勤めるようになっていろんな男のひとたちのタイプを見るにつけ、桃子には順助が決してどこにでもいる青年でないことがますますはっきりして来たのであった。
「どう思う?――不可能だろうか」
 桃子はいつの間にか手摺をすべりおりて、窓に背をつけて坐った。
「可能性があると思う?」
「ね、順助さん……」
 涙がつきあげて来て、桃子はやっと圧しつぶした声で、
「どうして従兄なんかに生れて来たのよ!」
 両方の頬ッぺたを流れる涙を、桃子は荒っぽく手の甲で拭いては、それを子供らしくスカートにこすりつけた。
「父さんたち、ほんとに頓馬だわ、兄弟だなんて」
 桃子は涙と一緒にそういって苦しそうに笑った。
「それ僕も同感だ」
「――そのこと、どう考えた?」
「だって、桃子、こうやって話す以上僕としては考えてみてのわけだろう!」
 順助の調子は何と説得的だろう。桃子の心と体とはそういう順助の声の優しい重さにしなうばかりである。けれども、そのように瑞々しく撓えば撓うほど、桃子の肉体の内に一つの叫びが高まるのをどう説明したらいいだろう。
 桃子は暗いあたりを力とたのむように思いつめた勢で、
「それでずっとやって行ける?」
といった。
「私こんなたちでしょう。私子供うみたいと思いそうなの――わかる? 私のいう意味がわかる? 私たちの心持。それだけのねうちもっていると信ずるの。だから、父さんたち、頓馬だっていうのよ。……でも、こんな気持男のひとにわかるのかしら――」
 それは順助自身の感情としてもはっきり理解されることであった。二人のたっぷりした人間らしさ。たっぷりした互の気に入り工合、それは自然な生命の横溢を希っている。偶然な血族の関係から不具の子供をもったりすることを恐怖する桃子の若々しい自然の抵抗は、それだからこそ深くひかれている桃子の真直な女らしいよさの一つの流露として順助の肺腑に迫るのであった。
 やがて順助は、やや諧謔的に、
「どうも世の中のことは、こんなものだね」
 そして煙草の匂をしずかに流しながら、
「この話は、では撤回しておこうね。その方がいいだろう?」
 暫く黙りこんでいた桃子が、膝で順助の前へよって行った。
「ね、げんまんして」
 小指をさしつけ、順助が黙ってさし出す小指に桃子は自分の小指を絡めて、子供たちが約束げんまん、しっしっしっと振る時のように真面目に力を入れて一つ二つ三つと自分で上下に振った。
「いい? 順助さん、約束して。私がこれからでもいつか本当に困ったようなとき、きっと相談にのってくれる?」
 それは風変りな忘れられない晩であった。灯のない夏の夜空の薄らあかりを背にして光っているような桃子の虚飾のない精一杯の心と、その心の弾力さながらに半ばまだ眠りつつ艶やかな曲線にうごいているような桃子の体とは、ほとんど抑えがたく順助を牽きつけた。桃子の柔かい巻毛のこぼれている※(「需+頁」、第3水準1-94-6、421-1)こめかみのところへ心からな親愛の接吻を与える心持をこめて、順助は、
「ああいいよ」
と答えた。

        三

 直接の形では一言も表現されないけれど、互のまじりっけのない情愛と、その情愛の人間らしい力から、自然の偶然にかくされた暗さに屈しない意志をも認めあって、桃子の心には、順助に対したときいままでよりなおくもりのない歓びと勇気とが感じられるようになったのであった。
 いつか順助と誰かと結婚するようになるであろう。それは、自分についても考えられると同じ桃子にとっての分別である。音楽会で計らずもさよ子と一緒の順助に会って、連想は自然そこへも導かれるのであったが、桃子はその後順助にあっても自分からそのことにはふれなかった。桃子の若い潔癖は、その年ごろの一組さえみれば、きまりきった意味で眺めようとする周囲の眼を、少くとも自分の視線のなかに置くまいとするのであった。

 初夏に移ろうとする季節になって、二日つづきの休日があった。風邪をこじらした母の多代子が東京から小一時間ばかりの海辺にある小さい家へ行っている。急に思い立って桃子も出かけた。元はゆるやかな砂丘つづきで、小松やかやの生え茂っていたその海岸を縫って、近年観光のドライヴ・ウエイができた。家はその路をへだてて海に面する高みにあるので、ひところ、土曜、日曜は東京方面から箱根に向って深夜まで疾走する自動車の波、すれ違って東京へと帰路をいそぐ車の動きで海面の燦きはいつもその路の上を走っている車のボディに反射して目に映る有様であった。
 このごろはガソリンがなくて、その路の上も閑静となっている。
 焼杉のサンダル下駄を無雑作に素足の先につっかけて、着古した水色の薄毛の服に小さいエプロンをつけた姿を暢気のんきに仰向け、桃子は庭の芝生のゆるい斜面にていた。昼近い陽にぬくもった松の樹脂の匂い、芝生から立ちのぼる見えない陽炎かげろうのようないきれ、それらが海近くの濃い純粋な空気の中でとけあっていて、目をつぶってころがっている桃子はただ日光がふり注ぐばかりでなく、ふんだんな光りと空気の微粒がぴちぴちと快く粒だって皮膚や髪の根にまでしみて来るような感じである。
 どっか空の奥でプロペラの顫える音がしている。目をつぶっていても瞼の裏はうす赤く透けるようで睫毛がふるえる。桃子は去年の春ごろ、順助とこの芝生の上に臥ころんでいたときのことを思い出した。今のようにして桃子が臥ている。それとならんで、両方からのばした手の先がもうすこしで触れ合うほどの距離をおいて順助も仰向けにのびている。二人とも眩ゆい日光を遮るために片腕曲げて額のところにのせていた。ちょうど今きこえているような爆音がして、碧く晴れわたった空を西へ向ってゆく機体が見えた。松の梢の上空で、すこし角度が変れば操縦者の姿も見えそうな気がする。桃子は静かな憧れと満足の響く声でいった。
「ね、私たちのこうやっているの、見えるかしら」
「さあ――あれで案外あるんだろう」
 二人はなおしばらくそうやったままの姿勢で遠ざかってゆく機体を見送っていた。
 実際の爆音も桃子の思い出の中の爆音も次第に微に明るい空の彼方へ消え去ったとき、急に桃子はギクッとした表情で両眼を開け、臥たまま自分の耳を疑うような眼つきをした。ちらりと聞えた声が順助そっくりだった。そんな空耳ってあるだろうか。もう一遍きこえたらと四辺の空気へ注意をこらしていた桃子は、今度は本当に覚えず、
「あら」
といちどきに芝生の上で上半身おきかえった。そこに順助が来ている。順助のうしろには紫色をぱっとにおわせてさよ子が笑って立っている。
「あら……」
 桃子は仮睡からでも醒まされたような弱々しい途方にくれたような笑顔になりながら、きゅっきゅっと自分の額を握りこぶしで擦った。
「御免なさい、余り思いがけなかったもんだから」
 桃子はやっと立って行って、
「よくいらしたわね」
とさよ子を迎えた。
「ゆうべ老松町の方へ電話かけたら、こっちだっていうもんだから」
「よかったわ。母さんもう御挨拶したの?」
「ちょっとお出かけだとさ」
 飲みものの用意をしたり、あついしぼり手拭をこしらえたりしながら、桃子は単純な思いがけなさばかりではなく動かされている自分の感情で何となしうつむいた。こうやってここまで連立って来た二人の姿は何を語ろうとしているのだろう。
 やがて多代子もかえって来て、みんなは東京からおもたせの御寿司を、芝生の木蔭へもちだしてたべた。生れつき善良さと悪意のない観察眼とを半ばずつい交ぜながら愛想よく多代子が、若い女客をもてなしている。さよ子は、時々、
「まあいい気持」
とか、
「ここ、砂地でも花が咲いて、ようございますわね」
とかいいながら、こだわりのない様子でそのもてなしを受けている。
「一休みなすったら、ちっと海岸を歩いていらっしゃいましな」
と多代子がいった。
「大した景色でもないけれど、江の島がついそこに見えますし気が晴れ晴れいたしますよ」
「きょうなんか、もう入れそうだな」
「冗談じゃない順助さん。駄目ですよ、そんな。――桃ちゃんも御一緒して、ね」
「…………」
 順助は誰にともなく、
「すこし歩いて来ようか」
と立ち上った。さよ子も袂をそろえるようにして立って、
「おいでにならない?」
 桃子をかえりみた。
「後から行きますわ――私、これから大いに腕のいいところおめにかけなけりゃならないんですもの」
「じゃ、たいてい、あの橋を真直出たところ辺にいるから」
 二人は庭から木戸へ出てゆく。多代子はじっとそれを見送っていて、何かいおうとふりかえったら、もうその辺に桃子はいなくなっていた。

 黒と白とのそのまだら犬はちっとも訓練されていない野放しで、桃子が放る枯木の枝をおっかけてその方へかけ出しはするけれど、それをくわえて戻ることは知らないで、やたらにそこらの砂を蹴立ててふざけている。先へ先へと小枝を放りながら最後の砂丘を犬と一緒に勢いよく駈けおりて、顔にかかる髪をはらいながらみると、さよ子の紫の姿と順助とが、ほんとにむこうの約束の防風よしずのところに見えた。桃子は来てよかったと思った。さよ子がこちらを見つけて手を挙げた。桃子も手をふって応え、だんだん近よると、順助が一ふき高く口笛を吹いた。まだら犬は背にうねりを打たせてかけて行く。
「おそかったわねえ」
 さよ子が、そこへ坐って桃子にすぐいった。
「お待ちしたわ」
「御免なさい。その代り美味おいしいおやつが待ってるわ」
 順助はまだら犬の前脚を片手で一束につかんでは角力のようなことをしているのであった。
「これ、お宅の犬?」
「御近所のなの」
 煙草の煙が目に入るのをよけながら、なお順助は何ともいわず女連からは横向きの姿勢で犬と遊んでいる。その素振りからは桃子の直感にうつって来る何か苦しいものがある。今のさよ子が来たときより余計自分にものをいうようになっている。そのことも何か桃子に苦しかった。
 二人が連れ立って芝生の端れに現われたとき、予感が全身を走ってそれは桃子を動揺させたのであったが、こうしてさよ子が自分の方へより向った面持でいるのを見ると、桃子はそれはやはり順助のために寂しく思わずにいられない気がするのであった。
 多代子は三人づれで戻って来た若い心のそんな微妙なかげにはまるで心づかず、アルバムを持ち出して中学生姿で自転車をもっている自分の息子たちと順助との写真をさよ子に見せたりした。さよ子は、昼間と同じようなしずかな愛嬌よさで、そんなものを眺めたり、多代子の言葉に応接している。さよ子とすればそうしているしかないこともわかるのであったが、その落つきに、さよ子として全くきずつけられているもののない、いわば玲瓏無垢な薄情さのようなものを桃子は感じとるのであった。

 翌朝、桃子はその海岸から真直丸の内の勤め先へ行った。二日つづいた休日の後、なかなか多忙で、英文速記も何通かあった。ひまになると、順助のことが気にかかった。海岸で犬の前脚をつかまえて遊んでいた順助の横顔が髣髴ほうふつした。すぐ電話をかけて来たりしない気持のこたえも、桃子はその人らしく思うのであった。
 四日ほどして、順助が誘って外で夕飯をすましてから、二人は椎の若葉、樫の若葉、楓の若葉、様々の変化をもった新緑の柔かなかさなりをアーク燈で照している日比谷をぬけて暫く歩いた。
「――桃ちゃん、当分あっちから通うのかと思っていた」
「そんなことしないわ、汽車まるでひどくこむんですもの」
「それもそうだね。大井なんかのブリッジには朝下駄がおっこっているそうだから」
 この間うちのことにはふれず、順助はずっと何とない世間話をしているのであったが、ふっと、
「どういうもんだろう」
といった。
「男と女と、いろいろの感じかたがちがうのはあたりまえだが――何か時代によって、特別、ちがいがひどくなるようなことがあるんじゃないか。――どう思う?」
 桃子が答えるのを待たずに、順助は、
「たとえば結婚なんかについて――いや、結婚というより、妻というものについてかな。今、若い男はこれまでよりどっかちがった人生的な気持で考えているんだと思うな。もと永続的な向上の理想で結婚とか家庭とかいうものを考えたそういう部類のいわゆるましな若いものは、今ごろずっと切迫した気持で、一方いつ中断されるかもしれない生命ということを考えて、そして妻というものを考えてると思うんだ。うまくいえないが……」
 こまかい砂の敷いてある径道こみちを歩きながら、順助は自分のしていることを心づかないで偶然手にふれたヒマラヤ杉の青芽の一つをむしった。
「わかんないかい? ね、一刻さきの分らない生命だという気持は現実につよく作用するからね。享楽的になっているとか無理想になって来ているとかいうけれどそれは一部さ。いつの時代だって、そうなる者はいるんだ。そう喋りはしないけれど、もっと深く感じているいい奴が男のなかに案外いる。そういう男は現代に家庭の安定というような浅いところで妻を感じていやしないと思う。もっとむき出しに時代の運命の荒っぽさを見て、その苛烈な人間の運命への母性的なものとして妻を考えると思う」
 順助の顔の上には、あのとき海岸で犬と遊んでいたときのような、それをもっと濃くしたような寥しさと熱情のいり混った表情が拡った。
「女のひとはどうもちがうらしいね……女のひとはこの頃いわば日常的にますます安定に執着して来ているんじゃないかな。男のそういうこころと、逆に行ってる……」
 この間うちからのさよ子と順助とのすべてのいきさつが桃子の心の中ではだんだんと肯けて来るのであった。
「時代の不幸なんて、妙なところにあるね」
 桃子は、海岸の家へ行った晩、母の多代子が珍らしいこんなさし向いの折にという風で切り出した言葉を思い出した。それは、この前伯母が来たとき、桃ちゃんも、そろそろお家にいらっしゃるようにしなくてはね、どうしても近ごろは、ああやっていらっしゃると御縁が遠くなり勝ちですからね、といったことを、自分も賛成の意見として話したのであった。親や娘たちも、このごろは妙なあせりかたをしている。そこに何かいつまでも変らない女のみじめさと、そのみじめさからの飾られた計算があるようで、桃子は悲しかった。
「ね、順助さん、そう思わない? そういうこと、みんな女が、男のひとと本当に同じ感覚で歴史の全体の断面を自分のものと感じるところまでいってないからなのよ。自分ひとりの幸、不幸でだけわかって、何だか時代の不幸というような感覚まで行ってないみたいなんだもの――ちがうかしら……」
「うむ……」
 永い間黙って歩いていて、順助はぽっつりと、
「愛すということを女はどう考えているんだろう」
と云った。
 それは殆ど自分自身に向って訊くような沈んだ調子である。桃子の胸を深い鋭いいたみに似たものが走った。こんなに近い近い自分たち二人の男と女、そしてまたこんなに遠くもある自分たち二人の男と女。これもこれとして一つの完き愛とどうしていえないことがあるだろう。桃子はそう思い、自分たちの靴にふまれて鳴るこまかい砂の音をきくのであった。





底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「婦人朝日」
   1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について