伸子

宮本百合子






 伸子は両手を後にまわし、半分明け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
 部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリヤの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込とじこみ、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挾んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯じゅうたんの上へ落ちている。
 部屋じゅうを輝かす灯が単調であるとおり、二人の男の仕事も単調でつまらなかった。ホームスパンの服を着た、浅黒い瘠せた男が左手に綴込を持ち、眼をくばり、頁をめくり、どんどん桁の多い数字を読みあげて行く。向い合って、伸子の父の佐々が椅子に浅くかけ、青鉛筆を持って油断なく数字をチェックしていた。彼は品のよい縞の変り襟のついたスモーキング・ジャケットを着けていた。くつろいだなりにも似合わず、彼はもう三十分以上その忙しい、機械的な仕事に没頭しているのであった。
 傍観している伸子には、仕事の内容も、今それをしなければならない必要も解っていなかった。彼女がおとなしく窓際にしりぞいて眺めているのは、主として、子供のうちから父の多忙な時決して邪魔はできないものと観念している習慣によるのであった。けれども、彼女はだんだん彼らの活動の調子につりこまれて行った。強くも弱くもならない平らな声が早口に、
「二八七コムマ二六〇。五九三〇三コムマ四二七……」
 勤勉な紡※ぼうすい[#「糸+垂」、U+7D9E、6-9]の唸りのようだ。それにつれ、佐々の青鉛筆はほとんど自働機的敏活さでさっさっ、さっさと、細かく几帳面きちょうめんに運動する。そこに自ら独特のリズムが生じた。じっと見守っていると、機械の規則正しい運転が人の心に与える、力強い確乎とした、同時に精力的な亢奮に似たものを感じるのであった。
 彼らは一息にふたつづり大判の綴込をかたづけた。そして少しのろのろと、三つめの薄い覚え書を読み合せてしまうと佐々は、いかにも重荷の下りた風で、
「やあ、どうも御苦労様でした」
と、頭を下げ椅子をずらした。
 あたりには、一時に緊張の緩みが来た。伸子まで何となくほっとし、にわかに外界の騒音が自分の背後から幅広く押しよせてくるのを感じた。丁度晩餐後、人の出さかる最中だ。彼女らのいる五階の真下に横たわるブロウドウエイからは、絶間なく流れる無数の人間の跫音あしおと、喋り声、笑い声などが溶け合い混り合い、とりとめのない雑音の濃い瓦斯ガス体となってのぼって来た。夜の空まで瀰漫びまんする都会の巨大などよめきを貫いて、キロロロロロ……と自動車の警笛が聞えた。燈柱の下で夕刊を呼び売する子供の「パイパア、パイパア」と云う甲高い声がとぎれとぎれ聞えて来る。――ホームスパンの男は、手早く書類をまとめて自分の黄色い手提げ鞄にしまった。そして、二言三言佐々と話し、伸子に遠くから挨拶すると、あわただしく気取って出て行った。佐々は戸口までその男を見送った。
 戻って来ると、彼はうまそうに葉巻の煙を吹いた。
「さて――そろそろ出かけますかな」
 伸子は窓際を離れ、傍の長椅子に来てかけながら、訊いた。
「ほんとにいらっしゃるつもり?」
「どうして? お前も行くんだろう? そう返事をしてありますよ」
「私――やめたいわ」
「なぜ?」
「くたびれているの。――それに……あまり面白くもなさそうじゃないの」
「ふむ……」
 佐々は、暫く黙って自分の吐く煙を眺めていたが、やがておもむろに云った。
「着物なんぞはそのままで結構なんだからおいで。――行けば何かしら行っただけのことはあるものだ。それにわしのいるうちできるだけ人も知って置かないと、いざという時一人で困るよ」
 今夜、彼女は父と二人、日本人の学生倶楽部クラブで催されるある集り、茶話会のようなものに招かれていた。最近故国から来た某文学博士を中心として打ちとけた集りをするという案内を貰っていたのだが、伸子は一向好奇心が起らなかった。彼女自身も紐育ニューヨークには新来の旅客であった。彼女は、午後独りで勝手の不確かな下街に買物に出かけ、神経を疲らせて帰った。夜まで行儀を守って人なかにいなければならないのは、彼女に少しうんざりなのであった。けれども健康で活気がある佐々は、伸子の引っ込み思案を多くの場合うけつけなかった。彼は、六十歳に近い老人と思われない活溌さで、いつも伸子を引き廻した。それには、自分が滞留しているうちに、地理も覚えさせ、交友もこしらえて置いてやろうという心遣いが潜んでいるのは明らかであった。彼は会社の用事で、僅か三箇月ばかり、この都市に来た。彼が帰ってしまえば伸子は独りでいのこる予定であった。彼女は旅行の間、大抵いやでも父が行く処へはついて歩いた。市役所から、ある大銀行の金網のうちで、人間が金貨の山に埋まり血の気のない指で金勘定をしている、空気の流通のわるい暑い部屋の中まで。土地不案内な、これという定った目的ももたない伸子は、また、そうでもしなければ一日が永く、捨てられた石のように退屈したに違いない。――
 今も彼女は確かに行きたくはなかった。けれども、父が出たあと、ぽっつり独りでホテルの部屋に十二時頃まで閉じ籠ることを考えると、それもあまりぞっとした役廻りとも思えない。
 伸子が足をふりふり愚図愚図している間に、佐々はそれにかまわず活動家らしい足どりで寝室に行った。間もなく、開け放した扉から、水のばしゃばしゃいう音、髪ブラシを置く軽い乾いた音などが響いて来た。窓からは、宵っぱりな都会の眠気知らずなざわめきと、向い側の建物の屋根の頂に廻っている広告イルミネーションの気ぜわしい明滅。下界の燈火を反射して、ぼうっと潤いを帯びた黒い夜空の一部が見える。
 伸子の胸にいきなり、
「おいてきぼりにされては大変だ!」
と云う、子供らしい切ない思いがこみ上げてきた。
 彼女は、いそいで椅子を立ち、父の後を追った。佐々は、もう髪の手入れもすみ、部屋の真中に立って上着に片手を通しかけているところであった。それを見ると彼女は慌てて云った。
「すまないけれど一寸待って下さらない? 私、やはり行くわ」
 伸子は足早に鏡の前に行った。
 佐々は、時計を見た。
「もうあまりゆっくりはできないよ」
「すぐよ、五分!」
 伸子は、迅速に髪をなおし、小さなまるい茶色の帽子をかぶった。


 丁目がふえるにつれ、人通りが減り、街がさびれてきた。
 父娘は、陰気にブラインドのおりた大きな飾窓ショーウインドについて角を左へ曲った。表通りから入ると俄に暗く、緩く爪先下りになった鋪道の足許さえよくは見えないようであった。行手の大通り一つ隔てた彼方がハドソン河で、時々鋭い夜の河風が吹きぬけた。リヴァーサイド・パークの葉のない樹木の間に冷たい蒼白さで瓦斯燈がぼんやり灯っているのが見える。
 伸子は、寒さと淋しいところへ紛れこんだ気味悪さとで異様な緊張を感じた。彼女は、我知らず強く父親の腕にすがりついた。
「――まるで暗いのね。――見当がおつきになって?」
 佐々は、靴の踵の音をさせて歩きながら、絶えず右側の家並に注意を払い、幾分平生と違う圧えつけた音声で答えた。
「もう少し先だろう。――然しこうどれもこれも同じ形の家ばかりではまいるな。もっと街燈でもふやせばいいのに……」
 全く、左右には低い鉄柵と三四段の上り口を持った狭い家の入口が、どれもこれも同じ型で幾十となく並んでいた。鋪道のまばらな街燈の光は、一寸奥へ引っ込んだそれらの質素な戸口まで届かない。彼らは、だんだん侘しく感じながら、ほとんど一軒ごとに薄暗い家の入口を覗いて進んだ。大抵いやになった時分、彼らの前に、一つ明るく灯かげの洩れる弓形窓が現れた。カーテンの隙から、内部にちらつく男の立姿や文句の判らない話声が聞えて来る。――
 伸子は、父の腕を引いた。
「ここよ!」
 佐々は、外廻りを一通り眺め、入口の段を昇った。呼鈴を押した。短い、余韻のない音が直ぐ、扉の彼方で鳴った。伸子は、期待と好奇心を感じた。暗い横通りで変な不安に襲われて来たところなので、彼女にはこの古くさい板硝子ガラスのはまった扉の一重彼方が何かの暖かさ楽しさを持っていそうに思われたのであった。すぐ硝子に人影がさした。樫扉かしどは内側に案外滑らかに開いた。扉をあけた男は、彼らを見ると更に入口を広くあけ、改った口調で挨拶した。
「よくいらっしゃって下さいました。――どうぞ……」
 佐々は玄関の間に入るとすぐ外套を脱ぎはじめた。伸子は自分の周囲を見廻した。右の壁際に鏡つきの高い帽子掛があった。左側には、葡萄葉の厚肉浮彫のあるベンチが置かれ、その前から二階へ登る緩い階段が見上げられる。奥に重いカーテンで人目をさえぎった開け放しの室があった。その広間から男声ばかりの、圧力が籠った談笑が響いて来た。その辺一帯頑丈な茶色の樫の円柱や鏡板がつやつやと灯の下で光っているのが、伸子に快適な感銘を与えた。彼女の感覚に新鮮な一種の匂いがその辺に滲みついていた。家具の艶出液つやだしえきのにおい、煙草、羊毛ともう一つ何か乾いた皮製のものから立つようなにおいが皆一つに溶けこんだ、男ばかりの住居らしい匂いだ。
 佐々の外套をたすけてぬがすと、扉をあけた男が云った。
「――ではこちらへ、女の方も沢山来ておられますから……」
 伸子は軽く頭を下げる拍子にはじめてその男の顔をはっきり見た。彼は白い低いカラアと黒いネクタイと黒い地味な少し手ずれた服を着ていた。陰気な顔だが、円みのある大きいあごが目についた。伸子は、階段を登りながら、
「安川さん、来ていらっしゃいますか」
と訊いた。
 三十五六に見えるその男は、持ち前と見える低い調子で答えた。
「来ておられます」
 二階へ登り切ると、一つの部屋の戸が半分開いていて中から女の喋り声がした。彼は、
「安川さん」
と声をかけた。
「佐々さんが見えました」
 中の話声がぴたりとしずまった。
「まあ! そうですか」
 声とともにやや前跼まえかがみに大股で、しきいの上に安川の姿が現れた。伸子を案内した男は階下へ去った。安川冬子は、伸子がある専門学校に僅の間籍を置いていた時、上級の学生であった。彼女は勤勉な学業の優れた生徒として誰にでも知られていた。伸子は、一二度口を利いたくらいの間であったが、ここでとにかく海の彼方からの友達と云えるのは彼女きりであった。安川は、一年ばかり前からC大学で教育心理学を専攻しているのであった。
 安川は、珍しそうにじろじろ伸子を見た。
「噂はきいていたけれど、私は一向外へ出ないから、ちっとも知らなかったわ。よくいらしってね。――いつこちらへ着いて?」
「三週間ばかり前」
 安川は、学校時代とちっとも変らない、その変らなさに伸子が驚いたほど同じてきぱきした口調で訊いた。
「お父様と御一緒だって?」
「ええ。腰巾着こしぎんちゃく
 伸子は、自分がこの女性達の前でまるで年少者扱いなのを感じた。
「今夜も下に来ているわ」
「そう。――いいわね。今どこ? お宿は」
「ブレントホテル」
「ああ、私あすこならいつだったか行ったことがありますよ。――皆さんにご紹介しましょうね、こちらは高崎さん――高師をおでになって家政学をやっていらっしゃる。この方は名取さん――音楽がご専門――」
 伸子は一人一人に向って克明に頭を下げた。
 一通りの挨拶、短い応答が終ると、伸子は失望というか、意外さというか、ぼんやりさびしい心持を感じた。居合せる人の中には一目で何処か好きになれるというような人が一人もいなかった。彼女らは、それぞれ専門もちがい容貌も違ってはいるのだが、誰でもがしっかりものらしいところ、物質にも精神にも多忙で絶えず何かに追い立てられているという余裕のない感じ。それらは、うるおいない身なりとともに、例外ない持ち前であった。伸子は、傍の椅子の上に外套を脱いだ。
 一旦途切れていた学校の話、留学生の噂が間もなく甦った。ある人は、伸子に親切に話しかけた。彼女は愛想よくそれぞれ答えた。然し、心が変に沈鬱になった。伸子は、この部屋をこめている生活の狭い、暢々のびのびしない雰囲気が何となく窮屈で馴染なじめなかった。折角新しい自然や人間の生活の中に入ってきていながら、何も見ず聞かず、友達とよっても課業、課題、いそがしさ、又は、第三者には興味の起しようもない人の噂しかできない海外遊学生の境遇に、伸子は恐怖を感じた。
 縛りつけられた感じは、階下の広間に出ても伸子から去らなかった。
 広間の隅では佐々が機嫌よく安楽椅子に納まり、しきりに何か喋っている。
 入口に近いカーテンの傍の柱によりかかり、腕を組み、先刻彼女を二階まで案内した男が、もう一人の椅子にかけた男と話していた。椅子にかけている男の膝には、場所柄になく白と黒との斑猫まだらねこが一匹丸くなって抱かれていた。この男は打ちくつろいだ風で、その猫の背を撫で撫で物を云っている。家庭的な光景で、彼女はいい心持がした。伸子は、隣りに坐っている中西という、おそく来た、美しい、情の籠った声で物を云うひとに、その男の名を訊こうとした。
 すると、先刻の男が大柄な骨っぽい体をぎごちなく運んできて彼女のじき前にあるテーブルの横に立った。彼は、テーブルの端で埃でも払うような手付をすると、低い声で、
「今晩は――」
と開会の辞めいた挨拶をしはじめた。まわりの幾つかの顔が声の方へ振り向いた。広間じゅうのざわめきがしずまった。森とした寄木の床の上で誰かが椅子をずらせた。――改った咳払いの声がする。……
 男は、伏目になったまま、平凡に多数の人々の集ったことに対する満足の意をのべ、松田博士の歓迎の言葉と紹介とを終って席についた。松田博士は、懇篤そうな中老人であった。彼は自席に立って、座談的に芸術の郷土的特質という見地から、亜米利加アメリカの絵画についての観察を話しだした。
 話しては、ややしわがれた平坦な音声で、常識的に話を進めて行く。伸子の興味は、又程なくそれに物足りなさを覚えてきた。彼女は、話をききながら、向い側に並んでいる男達の顔を見較べはじめた。大概の男は広間の右側に立っている博士の方に頭を捩っているので、伸子のところからは沢山の顔の左半面だけが見えた。艶々つやつやした血色の上瞼の脹れぼったい凡俗な顔、皮膚が黒ずんで目鼻立の粗い、恐らくは口中が臭そうな容貌、又は、頬から口の辺にかけて肉の薄い、粘液質らしいすべすべした皮膚の持ち主。――ちょっとした脚の置き方や、椅子のもたれ方がみな何処か隠れた性格の一部を現しているようで、伸子はこの見ものを面白く感じた。正面から視た時は、怜悧そうに引緊っていたある青年の顔が側面から見るとまるで魯鈍ろどんさを暴露し力弱く見えた。――伸子はふと平生あまり見たことのない自分の横顔について微かな不安を感じた。順々にわたって、彼女と斜向いになっているさっきの男、名も仕事も知らない中年の男の番が来た。
 彼は椅子の奥に深く腰を落してもたれ、癖と見えてしっかり胸のところへ腕組みをして、うつむき加減になっている。先方から見られる心配ない一瞥を与えながら、伸子は微かな戸惑いを心の隅に感じた。彼の横顔には、これまで見てきたどの男達にもない何かがあった。ほかのどの男でも、容貌とからだとは同じ力の密度――つまり胸のところにあると同じ血や肉でひとくるみにできていると感じられるのに、この男ばかりは肩幅のひろい北国人風な体つきと、その上にのっている顔との間に、妙にちぐはぐなものがあった。足許から同じ力を入れてずっと見上げていくと顔へ来て急に視線が間誤つくような複雑なもの――地味さ、感傷的なもの、心持がのびやかに外部に発しきらず内攻しているという印象を与えるものなどが、陰翳いんえいとなって、下唇の引緊った蒼白い横顔にはびこっているのであった。
 伸子の視線は一二度後戻りをした。彼女の好奇心が、その陰気な横顔にむかって動いた。彼の顔にあるものは、決して多くの人々の持っているような得意な男の快活さでもなければ、雄々しさでもなかった。何か陰のものであった。それは暗さに近い。視るたびに、その陰翳は何処から来る何物なのかをひどく知りたい心持を起させる種類のものなのだ。
 松田博士の話は終った。
 あたりには以前より打ちとけた談笑が起った。廊下の方の扉が開き、アイスクリームや砂糖菓子が運びこまれた。すると、伸子が好奇心を持った男が再び立った。そして新しい顔ぶれもあるから、順ぐりに自己紹介をしたらと思うがと提議した。そういうことの大嫌いな伸子は、思わず救いを求めるように遠方の父親を見た。父はその申し出がさも愉快そうに、愛嬌のよい微笑を眼尻のひだにたたんで晴れ晴れと坐っている。
「それでは――請うかいより始めよということがございますから、失礼して私から申上げます」
 彼は、つくだ一郎という姓名であった。C大学で比較言語学を専攻し、古代の印度、イラニアン語をやっているのだそうだ。国は裏日本で、研究のかたわら、Y・M・C・Aの仕事を手伝っていた。彼は、
「私でできますことはできるだけ御相談にあずかりますから、どうぞ御遠慮なくおっしゃって下さい」
と結んだ。
 古代語の研究と、極めて実利的なY・M・C・Aの仕事との間にどんな心持の上の必然なつながりがあるのだろう。伸子は腑に落ちない気がした。が、彼の専門の題目は漠然とした満足を彼女に与えた。彼の顔に現われているものとその研究との間に性格的な関係をもつ何ものかを感じたように思ったのであった。
 後から立った者は、ほとんど皆、政治、経済、社会学、法律等が専攻であった。猫を抱いていたのは、沢田という植物学を勉強している人であった。女達も、各々抱負や目的を手短かに述べた。伸子は極りわるさからぶっきら棒にただ、「佐々伸子と申します。――よろしく」と云っただけで坐った。彼女はこれらの人々を前に置いて、自分は広い深い人間の生活を知りたいのだ、死ぬまでに一つでも、よい小説が書きたいのだ、と告白する勇気をとても持ち得なかったのであった。
 親娘は、十二時少し前にホテルに帰った。
 伸子が湯上りの部屋着で、昼間買って来た細工のよい銀製の封蝋道具をいじくっていると――それは欧州戦争の第五年目で、毎日処々に赤十字や戦地慰問のためのバザーがあった。伸子はその一箇処で、古風なその道具を見つけてきたのであった――寝衣ねまきに更えた佐々が来て、
「明日の朝九時に佃君が来るから覚えていておくれ」
と云った。
「佃さんて――今夜の?」
「うむ。――頼まれて来た南波の甥のことがどうも気になるがとても一人でやっていられないから、あの人にちと手伝って貰おうと思ってね」
 佐々は、大まかに云った。
「あの男はこちらに大分永いらしいから、きっと何か手がかりを見つけてくれるだろう。案外、いやその人なら知っているというようなことがないでもあるまい。……こんなに人間のうじゃうじゃいるところで、何年も行方不明の男一人見つけようとするのは、何しろ一仕事だ!」
 そして、
「早くお前もおやすみ」
 彼はいかにも活動の後の睡眠をたのしむ風でさっさと寝台に入った。


 次の朝、伸子はいつもの通り元気を恢復し、爽やかな気分で目覚めた。寝室のカーテンはまだ閉じたままであった。カーテンの僅な隙間から、一本の震える細い金線のような光線が薄暗い部屋に射しこみ、化粧台の上の白粉壺に、小さい燃える炬火たいまつのような閃きをつくっている。
 彼女は、静かな気持でかけものをはねのけて起き上った。伸子は、首をのばし、彼方の寝床を眺めた。父は先に起きてしまったと見え、床は空であった。
 伸子は、枕許の時計を見た。九時半になっている。彼女は、忽ち昨夜の約束を思い出した。――
 彼女は、部屋着を羽織り、窓をあけた。今日もよい天気だ。少しもやっぽい空で、朝日が暖かく十月下旬の街路や建物に輝いている。伸子は、格別急ぎもせず顔を洗い、髪を結い、衣服を更えた。彼女は昨夜と同じ、白絹のカラアのついたさっぱりした紺の服で広間へ下りて行った。
 朝の広間は澄んで清らかで、大理石の円柱や熱帯植物の鉢植が、埃一つない空気の中に納まっている。
 伸子は、人影まばらな広間を見渡した。食堂の入口に近い長椅子に並んで、父と佃とが話している。彼女はまっすぐそっちへ行った。
「やあ、起きたね」
 彼女は父に朝の挨拶をした。そして、彼女のために、椅子を引きよせた佃に、
「ゆうべは失礼いたしました」
と云った。
「私こそ失礼いたしました。お疲れになりましたろう」
 佐々は佃とは、すぐ話を元に戻した。彼らは、南波武二を尋ねる広告を日本字新聞に出すこと、佃が市の宿泊所の名簿を調べることなどを定めた。
 傍で二人の話を聞きながら、伸子は佃がここへ来ても、昨夜彼女の目についた雰囲気を顔や声に持っているのを感じた。その上こうやって相対していると、彼には、彼女の広い、漂っている情感を引きまとめて、狭く何処かに引きつけるようなところがあった。その引きつけられるように感じるものは何なのか。外面的なものでないのは明らかであった。彼の服装は、朝のはっきりした光の中で昨夜にまして気が利いても見えなければ、上等でもなかった。むしろ貧しげであった。容貌にしろ、それは美しき男性という範疇はんちゅうから遠いどころではない、燈火の反映の下で見たより一層陰気であった。それだのに、何故か彼には伸子に好奇心を起させるものがあるのであった。――
 話が一段落つくと、佐々は、
「どうです、一緒に茶でも上りませんか。――実は我々もこれから食事をやるところですから」
と佃を誘った。
 佃は、一旦辞退したがテーブルについた。伸子は、彼から、日本から来た労働者が浮浪者になる経路や賭博狂のある男の話などをきいた。佃は話下手であった。自分から話題を展開させる性質たちの男でなかった。彼は、教室に出る時間の都合があると云って、間もなく中座して帰った。
 伸子は、十一時前に下街に行く父とホテルを出て、一緒に地下電車の停留場まで行った。そこで別れ、彼女は自分だけ、徒歩で美術館に行った。
 土曜、日曜以外館内はひっそりしていた。右のとっつきに、ロダンの作品ばかり集めた一室があった。レムブラントの「花を持てる女」の前で、イタリー人らしい一人の男がそれを模写していた。彼は熱心に、美術家らしくブラウズを着た背をかがめ、原画と自分の画面とを見較べ見較べ細心に、神秘的な原画の素晴らしい色調を出そうと努めているのだが、伸子の眼に彼のカンヴァスは醜怪以外の何ものでもなく映った。ある場所では雑誌の表紙にでも応用するのか、亜拉比亜アラビア人が槍を振って躍り上る黒馬にまたがっている絵を、石版刷のようにはっきり写している中年の女がいる。伸子は、軽い昼飯を階下の喫茶店ですましあちこち歩き廻った。
 もう帰ろうという時、彼女は急にあることを思いつきもう一遍階上へ引きかえした。しばらく迷ったあげく、番人に訊き、伸子は一つの人気ない陳列室に入った。そこは古代波斯ペルシャの美術品や写本などの陳列室なのであった。
 これまで、大ざっぱに土耳古トルコ系統の美術品として好んでいた精緻な唐草模様の銀細工、絨毯、あおと黒との釉薬うわぐすりの対照が比類なく美しい陶器などが、皆イラン人の製作であったのに伸子は驚いた。彼女は、特に、入って突当りの広い壁に懸っている装飾瓦に異常な懐しさと興味とを覚えた。貴人行楽の図で、花の咲き満ちた春の樹下に若い貴族の男女が語ってい、侍女が彼方からを春風に吹かれながら酒瓶を捧げて来る楽しげな構図だが、王女の下脹れた豊かな頬と云い、大どかな眉と云い、領巾ひれをかついだ服の様子と云い、所謂いわゆる天平時代の風俗そっくりであった。そればかりではない。一面に咲き乱れた花の愛らしい形から、樹木、飛んでいる鳥の形、しかもそれらを彩るたっぷりした釉薬の黄、紫、緑、碧の見覚えある配色に至るまで、寧楽朝ならちょうの美術を回想させずには置かないものがある。
 伸子は、体が熱くなるのを感じた。せわしく心の中で波斯、中国、日本と連想が飛んだ。――しかし、直ぐその三つの間に正しい連絡を見出そうとするに伸子の東洋美術史はあまり貧弱であった。
 彼女は、なお当惑と物好きの現れた眼つきで、幾つものガラス棚の絵巻物を見た。纏布ターバンを巻いた、頭でっかちで眼ばかり大きな王が輿こしにのっているところや、狩猟の絵がある。余白に記録らしい文字があった。けれども、朱や金で装飾された、模様のような文字は絵がなければ伸子にはどっちが上か下かさえ見わけのつかないようなものであった。彼女はこつこつ美術館の数多い石段を降りながら、あんな文字を佃が本当に読むのかしらと怪しみおどろいた。
 土曜日に、伸子は父と朝から郊外の知人を訪問に出かけた。
 三時過ぎに市中にかえって来たが、佐々は夕刻まで下街で用事があると云うので、伸子独り先にホテルへ戻った。昇降機エレヴェータの方へ行きかけると、誰かが彼女の名を呼んだ。振り返ると、素ばしこそうな、そばかす顔のベルボオイが駆けて来て切口上で報告した。
「お客様です。丁度今いらっしゃって彼方に待っていらっしゃいます」
 伸子は、誰だろうと思いつつ広間に戻った。見ると、昨日の朝と同じ食堂の入口に近い隅に、佃が来ている。彼の用向きは直ぐ察しられた。彼が、自分のところと定めたように一つの場所を占領しているのが、伸子に何となく彼の地道さを感じさせた。伸子は、くつろいだ気分で挨拶した。
「今日は――。父はまだ帰りませんが、私で分りますこと?」
 伸子は彼と向って座をしめた。
「きのうお頼みを受けた新聞広告を出すようにして来ましたから、その受取を差し上げようと思いまして――」
「そう、どうも有難うございました」
 伸子は渡された紙片を一寸見て手提の中にしまった。佃はその手元を見守りながら云った。
「それから――今朝ミルス・ホテル――お話した市営宿泊所ですが、あすこへも行って見ましたが、近頃の帳面にその名は見当りませんでした。……三月分出して貰ってよく見たのですが」
「まあ、そんなにいちどきにして下さらないでもいいのに」
 伸子は、彼がどうしてそんな時間を持っているか驚いた。
「うちの父はああいういそがしがりやだから、願う時は大急ぎにごたごたお願いするけれども、貴方は、ゆっくり、お暇な時して下さればいいのよ」
「いいえ、かまいません。きのうは午後すっかり空いた日ですから――ではどうぞお父様がお帰りになりましたら、新聞にはたぶん明後日広告が出るとお話し下さい。――ミルスの方へは、また二三日うちに行って見ましょう。少し心当りもありますから……」
「どうぞよろしく」
 ――けれども、何となくこれぎりで立ち上り、左様ならと云う気がしなかった――佃も、いそがないと見え、傍の小テーブルに置いた帽子や手袋をとりあげる風も見えない。伸子は、やがて、
「貴方のやっていらっしゃるイラン語というの――まるで不思議なものね。きのうメトロポリタンに行ったので覗いて見たけれども、私にはどっちが頭だか尻尾だかまるでわからなかったわ」
と云って笑った。佃も頭を振って笑った。その笑顔は、静かな湖にさざなみが拡がって行くようであった。彼は、
「どんなのを御覧になりましたか? 巻物ですか、それとも石刷りですか」
と訊いた。
「ガラス棚に入っている巻物――絵のあるの。――波斯人は今でもあんな字を使っていますの?」
「――字は大して違いますまい。言葉の方は昔から大分違って来ていますが――字でも、大昔はあんなのでない楔形くさびがた文字を使ったのです――」
 伸子は、興味にひかれて佃の顔を見た。
「そんな字で、どんなものを書いたんでしょう。記録や何かばかり?」
「いいえ!」
 佃は、力強く否定した。
「史詩や物語も沢山あります。――もっとも、ずっと昔、その楔形文字の時代は、王がほかの民族を征服した短い記録のようなものが巖なんかに刻まれたものばかりですが――」
 伸子は、話に身が入るにつれ、飾りっけなく、率直に口を利くようになった。
「字がだんだん複雑になり殖えるに従って、種々な物語が書けて来たというわけね。――どんな風な話が多いのでしょう……どんな気質が現れていて? 書いたものに――」
「――さあ」
 佃は考えて黙った。そして、どしどし話さないので、少し伸子をもどかしがらせたのちに云った。
「――大体から云って悲観的でしょうね」
「人間を悲観しているの?――それとも時代の境遇を不平に思うの?」
「あの国民は昔から種々な民族にいじめられて来ていますから、政治的に苦しんでいるのが多く原因しているでしょう」
「――――」
 伸子は、彼の専門が学術上に持つ価値や、研究のめざしている目的などを訊ねた。比較言語学は面白く彼女に思えた。民族の心理や社会組織、文明の消長と切っても切れない縁のある、活きた綜合的な研究の一分野として興味をそそるものなのであった。佃は決して迷惑ではないらしい様子で、丁寧に、しかし何処やら言葉足らずに伸子の訊くことを説明した。彼は小さい手帳を出し、現代文字の標本を書いて見せたりなどした。
 彼らは、二時間近く話した。佃はやがて見舞う病人があるからと云って立ち上った。
「――日本人の方?」
「ええそうです。もう大分いいのですが、毎週一遍ずつ行ってやることにしているので待っているでしょう」
 丁度その頃、ほとんど世界じゅうに瀰漫して悪性の感冒が流行していた。紐育ニューヨーク市中でも毎日おびただしい患者が脳や心臓を冒されて死亡した。独逸ドイツの潜航艇が、合衆国の沿岸へ来て病菌を撒いて行ったなどという評判さえあるのは、伸子も新聞で知っていた。
 彼女は佃に笑いながら云った。
「お見舞いはいいけれど、ご自分で貰っていらっしゃらないように」
 すると、佃は案外真面目に云った。
「私はたぶん大丈夫でしょう、三四ヵ月前に種々な予防注射をしましたから」
「まあ、どうして?」
「Y・M・C・Aの方から、仏蘭西フランスへ行くことにしてすっかり準備した時させられたのです。チフスや猩紅熱しょうこうねつの。――だからうつりますまい」
 彼は、重々しく云いながら、テーブルの上から老書生らしい古くさい山高帽をとりあげた。
「それに、ああいう病気はこちらの心の持ちようで違います」
 どうして戦地へなど行く気になったのかと訊きたく思った。伸子に何の説明も与えず、佃は丁寧に挨拶して、ぎごちない足どりで人ごみの間に隠れた。

 伸子は部屋に帰った。
 閉め切ってあった部屋には、午後の穏やかな斜光とともに、むっとするいきれがこもっている。彼女は窓を広くあけた。そして、帽子をとり、外套を脱ぎ、先ず一休みという心持で、長椅子の上に横たわった。
 彼女の両手は組合わされて頭の下にあった。その下にクッションがかさなって柔かく心持よく押しつけられている。肱かけの部分が高いので、長椅子は彼女の眼のところに程よい陰翳を与えた。暖かい……室内は絶対に物音せず、わずかに、開いた窓から気にならない程度に市街のどよめきが流れて来る……神経を撫で和らげられるので、伸子は眠いようになった。けれども、彼女は寝入りはしない。うっとりした眼をあけ、閃きのない老いた午後の日光の遊んでいる白い天井や小枝模様の渋い壁紙の上を眺める――考える。なぜなら伸子の心から、佃の古くさい黒い山高帽がまだ消えていない。……
 佃に会い、彼と話すのは伸子にとって興味でないことではなかった。旅行に出てから、彼女はそんな種類の話をする機会もあいても、佃に会うまでは持たなかった。佃の専門の研究について種々新しい話を聞くのは面白いのだが――伸子は考えた。彼はなぜああ特別な印象をひとに与えるのであろう。彼は、まるで流行に反抗でもするように、猶太ユダヤ人の爺がかぶりそうな古びた山高帽を放さない。その山高のような特別さ、淋しいような満ち足りていないような何かが伸子の心をひくのであった。彼がもう若くないのに貧乏しつつそのような研究をしているらしいのが同情を誘うのであろうか。或は、自分が生活力の充実を感じて活々した女だから、逆に暗い彼の存在に興味を覚えるだけなのであろうか。――伸子は、くるりと長椅子の上で腹這いになり考えつづけた。


 二三日おいて、佃は職業紹介所を調べた報告をもたらして来た。
 南波武二の消息は何処でも得られなかった。佐々は、更に佃の友人を頼って、中部の主な都会から発行される日本字新聞に同じような広告を出すことを頼んだ。佃は、屡々しばしばその打ち合せにホテルへ出入りした。また、伸子がふと話したC大学の講義目録を持って来て貸したりした。
 佃がその印刷物を持って訪ねて来た晩、伸子は父と、客があって階下の広間にいた。伸子は父達の会話を一向楽しんでいなかった。老人のその客は、伸子がまだ十ぐらいの女の子ででもあるかのように時々じろじろ永いあいだ顔を見ながら、口ではまるで彼女と無関係な、鉄の話をつづけた。――ところへ、外套を腕にかけ、帽子を手に持ち、陰気な顔つきで広間のはじに佃が現れた。彼女は、活々彼を迎えた。佐々は、佃と東郷というその老人の客とを紹介した。佐々は、持ち前の愛想よさで、しきりに客同士共通な話題を提供しようとした。佃も、丁寧な態度と言葉で佐々からの話、東郷のやや親父ぶった質問に答えた。が、伸子には佃がちっともしんから愉快にその会話をしているのではないことがはっきり感じられた。彼が、社交上の義務という風で応待していることが、伸子に不満であった。だんだんその無言の圧迫が堪えられなくなって来た。彼女は、佃の態度に拘泥する必要が自分にあるのかないのかを顧みる暇なく、自分の場所から立ち上った。そして、父と東郷に、
「一寸失礼いたします」
と挨拶をし、佃を、
「こちらへいらっしゃらないこと、目録を持って来て下さったのでしょう?」
と傍のテーブルに誘った。佃は外套のポケットからかなりの厚みがあるC大学便覧を出して、伸子の横に椅子を引きよせた。彼らの小テーブルの上には後にある背の高い、玉虫色の笠のついた客室用ランプから穏やかな明りがふりそそいだ。
 彼女は目録を繰り、面白そうな講義題目を見つけると、その評判などを訊いた。
「あら、ここに貴方のがあってよ。――先生、変なお名前ね、どれも」
「ああそれは波斯人です。シリア人の先生もいます……ヨハナンというのがありましょう、その辺に」
「――学生はどんな国のひと」
「もう少し先の方……学生は今二人ぎりです、私と……」
 伸子は頁を翻した。成程、学生は二人しかいない。佃と、ミセス・フロラ・シドニスという人と。
「その女のひとは、もう随分永いこと勉強しているんです。良人の人も矢張りC大学にいるそうです。論文を書きたいのだそうですが、ドクタア・フォセトが弱いので思うように進めないと、よく怒っています――」
「ドクタア・フォセト、もう御老人?」
「さあ――五十六七でしょう。ウイスキイと煙草をあまり沢山飲むので、時々倒れます」
 彼に三度目に会った時からの疑問が伸子の心に甦って来た。彼女はきいた。
「ドクタア・フォセトは貴方を大事にしていらっしゃって?」
 むきつけな質問に佃は一寸間誤ついたようであった。彼はまた、さあと躊躇ちゅうちょしたのち不明瞭に答えた。
「特別大事というようなことが云えるかどうか分りません。ドクタア・フォセトは公平な人ですから――しかし数がないし、滅多にこんな学課をとる者はありませんから――とにかくよく飽きずにやっていると思っているでしょう」
「――貴方この間、仏蘭西へ行こうとしたとおっしゃったでしょう?……その時先生は何ておっしゃいまして?」
 伸子は、ききながらまっすぐに佃の顔を見、
「それはいい、すぐ行けとおっしゃって?」
と云ったがまるで詰問でもするような調子なのにふと間の悪い顔をして、弁解した。
「いろいろ伺って失礼だけれど……」
 佃は、別に感情を害したらしくもなく、むしろ伸子があっけなく感じた平坦さで答えた。
「ドクタア・フォセトは別に何とも云われませんでした。先生は、私が一旦云い出したらきかないことを知っておられますから――」
 そして彼は、それが本当の親切だと信じている風で、
「夫人が大変よろこんで、わざわざ毛糸で編んだものなどを贈ってくれました」
とつけ加えた。
「…………」
 伸子には、教授夫人の鼓舞が、ありふれた愛国主義者の婦人らしくて不愉快に思えた。彼の周囲には、そういう時、親身で何かと云う者は一人もいないのだろうか。
「お友達も賛成なすったの?」
 彼は後じさりでもするように伸子を防いだ。
「――私は自分で自分のことをあまり話さない方ですから……」
「それはそうでしょうけれど」
 伸子は、彼と彼の周囲に対して何か激しく不服を感じた。
「――――」
 彼女は、せきこんで云おうとした文句を制し、話を違った焦点に移した。
「私、この間、貴方がそのことをお話しになった時も、何だか不思議でした――別に強制的にそんな義務があったのではないんでしょう?」
「そうではありません。私は、自分の好きなことばかりこういう時しているのは我まますぎると思ったから、苦しんでいる人の少しでも足しになるならと思って決心したのです」
 佃は、自信ある頑固そうな眼つきをした。伸子は、考えに捕えられた眼でじっとその眼を見かえしながら、開いたままのC大学便覧の上に両腕を置き、のろい口調でききかえした。
「自分の専門をつづけて行くのが我ままかしら……道楽ではないんでしょう? 貴方のやっていらっしゃること。本当に自分の仕事なら、私は我ままと思われないわ……」
「――しかし、世界じゅうが苦しんでいる時……」
「私は事情が許すあいだ本職をやめないでいいのではないかと思います。だって、戦場を駈け廻ることだけが人間のためではないでしょう? 戦争はどんなに永くたって激しくたって一時的の嵐だもの、私達はもっと眼を先につけてやって行っていいのだし、やって行くべきと思うわ」
 伸子は、佃が若し強く自分の考えに信念を持っているなら、彼女のこの意見は彼を黙らせて置くまいと思った。彼女は佃の言葉を待った。が、彼は、
「ふうむ」
と唸ったなり、何も云わない。
「――勿論、自分の専門に見切りをつけたのなら話は違うわね、自分のしていたようなことが現在にも未来にもまるで意味がないと思ったのなら……」
 伸子は、第二のさぐりとしてこれを云ったのであった。これが、佃の心の底にかくされている動機にふれ得るだろうかと。すると、彼は、彼に向ってまっすぐに進んで来た質問をかわし、極めて感傷的な語調で、独り自分に呟くように云った。
「どっちみち、私は先生の綽名あだな通り苦行僧ダルヴィジです。一生、大学の図書館のご厄介になって終ることでしょう」
 伸子は、引きはずされたような、驚いたような顔をして佃を見た。一生図書館の厄介になるというが、彼はその考えにちっとも光明や悦びを見出してはいないでないか。悲しそうでさえある! さけ難い運命だと歎息するようでさえある。それなら、快活に、熱心に幸福を求める者らしく正直に振舞えばいいのに、彼は、自分を閉鎖している。彼は、なぜその大きな矛盾のうちに自分を置いて平気なのだろうか。なぜ、どっちかにしっかり自分を据えて、日光をたっぷり、空気をたっぷり、人間らしく活きようとする気にならないのだろう。
 伸子の若々しい感情は間誤つきと苦々しさと可哀そうさの混った勢いで佃に向った。
 彼の顔にいつも変らず現れている一つの表情――何かが足りない、心を風が吹き過ぎる、と云っているような表情――が、彼の全生活を支配するこの異様なこんぐらかりの照り返しであるらしいのを伸子は初めて理解したのであった。
 安楽椅子に埋まり、いろいろ感じながら、そのような佃の生真面目な顔を見守っているうちに伸子は、変に重苦しいような、焦立たしいような亢奮を覚えて来た。
 彼女には佃がそんな風にして生きているのが平気で見ていられないような気がするのであった。


 十一月に入り、都会はすっかり初冬の景色となった。
 朝、ホテルの窓から向いの屋根を眺めると、とけた霜から湯気ののぼるのが見えた。勤め人や労働者などは、みな同じ鋪道でもきららかに日の照る側ばかりを選んで往来している。午後が短く、夕暮が灰色に侘しくなって来た。夜更けの芝居帰りなど、思わず外套の襟を立てて肩をすくめるような気難かしい風が荒々しく市街を吹きまくった。夏以降、一九一四年からの欧州戦争の終結が目に見えて迫ってきていた。
 十一月七日の午後、伸子は珍しく朝からホテルに引籠っていた。
 彼女は、晴れやかな昼間の光線に喜び戯れながら風呂に入った。それからこまごま母へ長い手紙を書いた。昼食をすまして再び部屋に戻ると、彼女は切手を貼るばかりの厚い封書の置いてあるテーブルを廻って、ぶらぶらその辺を歩き出した。まだ二時前であった。食堂のかえり、彼女は切手を買ってくるのを忘れた。どうせ階下までまた行くくらいなら、今朝から一遍も外出しない、少し歩いて来ようか。けれども――何処へ?
 伸子は、何かきっかけでもさがすように、窓をあけて往来をみおろした。午後の日光が窓々の閉った建物の真正面を照し、軒蛇腹のきじゃばらのところの厚い金商牌きんかんばんを埃っぽく輝かせている。歩道の赤白縞の日除けの下を色彩の強い服装をした女が靴の留金をかがやかせて歩いて行く。薬種屋の硝子扉が日を照り返しつつ開いた。中から二人づれの男が出て来た。一人が、伸子の見ている窓の正面にある郵便箱に何か入れた。傍で一人が爪先をコトコトやっていたが、やがて連立つと、几帳面に角を廻って横町に見えなくなった。尻を振るようにしてきくりと曲った後姿に、伸子は我知らず笑った。空気は暖かく乾き、軽やかで、ガソリンの匂いが心地よく葉のない並木の梢に漂っている。伸子は、街路の活溌なにおいに心を誘われた。彼女は窓をしめ、寝室に行った。そして帽子をつけ、外套を着、さて戻って出すべき手紙をとりあげた時であった。
 伸子は、異様な音響を聞いた。何処か遠いところで一声、急に、鋭く、長い尾を引っぱって汽笛が鳴ったと思うと、一時にあっちでもこっちでも、太い、唸る、顫える無数の汽笛が鳴り出した。音の林立という感じであった。ボーボー空気が濤のように揺れる。それに混り、ピーピー悲鳴のような他の汽笛が追っかけ追っかけ鳴る。伸子は思わず手紙を握りしめて部屋の真中に立ちすくんだ。何事が起ったのだろう! 彼女は、本能的に窓を押しあけ、外を覗いた。パタン、パタン、あっちこっちの窓が同じような乱暴さで開いた。その刹那に見下したブロウドウエイほど、伸子は異様に平らな小さい街路を見たことはなく感じた。太陽はさっきと同じところにある。自動車は走っている。しかしボーボー、ピーピー、音は火急な何事かを叫びつづける。
 伸子は、窓をすてて、廊下への戸をあけて見た。こちらでも開いたり閉ったりしている。先の部屋の前で、派手な部屋着のままの女が、両手を引きしぼって歩き廻りながら、ヒステリカルに何か叫んだ。――伸子は、その女でもよい、何が起ったのか訊きたいと思い、人影の見える方に向って歩き出した。すると、ブズー、ブズー、昇降機が急速力で昇って来た。ガチャン、網戸が開いた。中から、金ボタンの仕着せ姿のボオイが上半身を廊下に突き出し、片手をメガフォンに口のはたにあて、太い低声バスで怒ったように叫んだ。
「独逸降服! 無条件降服!」
 叫んでいる男の頭を打ち破りそうな勢いで網戸が再びたたき閉められた。ブズー、ブズー、昇降機はもっと上へ向ってきりきり昇った。
 伸子は自分の耳が信じられなかった。
「無条件降服……独逸降服、……」
 伸子は、膝頭がガクガクするような気がした。彼女はもう一遍事実を確めるように窓から外を覗いた。たった一二分で、こうも光景が変るものか! いつの間にか、ホテルの正面入口に大きな米国国旗がつり上げられた。向い側の薬種屋でも、或はその上にずらりと並んだ窓々からも、一斉に大小の国旗が今はもうじっとしていられないと云う風に、ヒラヒラ情に迫ってはためき出した。汽笛の音は益々入り乱れ、高まった。伸子は感動から泣きたいようになった。街上を夥しい自動車が、ことごとく国旗を吹き流し、人間を満載し、下街へ! 下街へ! 先を争って疾走した。パン! パンパン! その間に爆竹が鳴った。
 伸子は長椅子に腰を下した。
 それにしても本当に血腥ちなまぐさい殺人仕事は、これで永久に終ったのだろうか?
 伸子は本気にされないような、わくわく切ない心持でまた立ち上った。彼女は出そうとしていた手紙を卓上に忘れたまま亢奮して部屋を出た。往来へ、往来へ!


 昇降機の扉が開くのを待ちかねて乗り込んだ伸子とすれ違いに、黒い外套を着た背の高い男が、これも気ぜわしそうに片脚廊下に踏み出した。が、入って来た伸子を見ると、
「や」
と立ち止り昇降機へ後ずさりした。
 亢奮のためにうっかりしていた伸子は、男の顔を仰ぎ見た。――思いがけず平野という佐々の親しい友人の一人である。伸子は平野の手を強く握った。
「――私共のところへ?」
「留守ですか?」
「ええ。――私一寸その辺へ出て見ようと思って」
「そうか、――じゃあどっちみち階下まで行きましょう」
 平野はエレヴェータア・ボオイに手を振って合図した。
「しかし、こんな時独りで歩くのはよくありませんよ」
「ええ。ほんのその辺」
「その辺でも。――みな気違いになっているからね」
 変にがらんとした広間では、出るにも出られないボオイたちが、気の立った眼つきで彼らを見た。
「どうします?――留守に出てお父さん心配されやしないかな」
「帳場へ伝言を頼むつもりだったんだけれど」
「――じっとしていろというのはちと無理かな」
 平野はキラキラ輝く眼で伸子を見、短く笑った。
「じゃ、どうせ私も何だか落着かないから一緒に少しのして下街ダウンタウンの様子を見て来ましょう」
 彼は帳場へ伸子の鍵をあずけるついでにノートを置いて来た。
「さあこれでよし! と。今晩は一つお礼にうんとお父さんにご馳走にあずからなくちゃならないね」
 たださえ満員の高架電車は、下街へ近づく一停留場ごとにおびただしい乗客を詰め込んだ。
「や、どうだ、この押しようは!」
「グウィー」
 乗客の中で、豚の悲鳴を誰かが真似た。ドッと笑声。
「失礼ですが、貴方日本の方ですか」
 まれて落ちそうになる中折帽の庇に指をかけて平野に声をかけた皺だらけの老人があった。
「そうです」
「エヘン」
 老人は亢奮のあまり頻りに咳払いをし、弱々しく震える細い声を強いて張りながら云った。
「実に今度の平和克服は、エヘン、我々連合国国民として御同慶に堪えませんな」
 平野は微笑しながら、
「いや実際何よりです。何しろ随分待ったあげくですからな」
と答えた。老人はそれを聞いてさも満足そうに頷き、なおも咳払いをつづけた。
 お祭り騒ぎの高架電車はレクタア街まで行った。踏みにじられた号外で足元も見えないステイションの鉄階子てつばしごを降りて街上に出ると、伸子は混乱に圧倒され、しっかり平野の腕につかまった。巨大な煤けた事務所建築が、劇務にひしゃげた鉄籠のように左右に迫ってきっ立っている。数千の窓々が、一時に開いた心臓のように往来に向って開けっ放しになっている。それだけでも既に稀有な観ものだ。ガランとしたそれらの窓々から五色の紙テイプが吐き出され縺れ垂れ下っている。速記に使う黄色い紙、千切れた紐のような相場通信紙、一分まえまで、なんらかの関係で金を意味したそれらの紙屑を踏みつけ、歌う、笑う、旗を振る男女の群集がゆるゆる練っている。事務所の内に人影の見える窓はなかった。
 ある角で、車道の真中に一台電車が乗りすてられたままになっていた。運転手さえ姿を見せなかった。奇妙に無力なものに見えるその黄色い屋根の上で、二人の浮浪児が口笛に合せて踊った。狩り集めの急造楽隊が国歌を吹奏しながらやって来た。人波の間で、
「さあお祝のしるしに一本! 一本いかがです。五セント! 五仙! さあ記念に一本!」
 両手に各国の小旗を振りかざし抜目ない商売をやっている男がある。
 ――自分だけ一足先に抜けたり、街路を突っ切るなどということはとても不可能なことであった。片手に小旗を高くささげ、片方ではしっかり平野につかまり、体の小さい伸子は前の人間の外套の背中に鼻を擦りつけそうにしながら押されて行った。
 彼らはひとりでにウォール・ストリートとブロウドウエイとの辻に出た。三方から潮のように寄せて来た大群集は、塵埃じんあいにまみれたウォシントン銅像の立っている広場を中心として、どっちにも動かれず、渦巻いた。いかにも劇烈な商業戦場である下街らしく真黒に穢いコラムつきのある建物の前で、一人の男が演説していた。幾重もの群集に隔てられている伸子のところまではちっとも声が届かなかった。ただ熱狂的な身振りで動かされる手や、禿げ上った額が辛うじて隠見するだけだ。それが却って天地にみなぎる異常な亢奮を代表するようで、伸子に変に悲しい印象を与えた。こちらでは、乞食が機械オルガンのハンドルにしがみついて、歯の浮くようなワルツをきしませていた。それに合せ、若い、帽子もかぶらない男女が乱暴に舞踏している。
 誰も彼もの顔が上ずって醜かった。歓ばしい平和を迎えるらしい晴れやかで真面目で美しい表情をしている者など、男にも女にも、一人も見当らなかった。一様に動物的であった。ギラギラ光る眼を据え、口元には酔いしれた薄笑いと、更に貪慾に強烈な刺戟を追求してやまない痙攣を浮べている。もう自分達の亢奮の原因が休戦の歓喜であろうと宣戦布告であろうとかまわない。欲するのはただ日常生活をでんぐりかえす熱狂だ。忘我に陶酔することだ! ――そして前へ! 前へ! と彼等は夢中になって、腹で押す、肩で突く。一時停滞した人波は再びのろのろ動き出す。文明を爆発させた野蛮な力が露骨に四方から迫って来て、伸子は怖ろしくなった。
「ね、どっちかへ抜けられないでしょうか、私帰りたい」
「待っていらっしゃい。――トトトト、どうもこの騒ぎだからね。さ、今のうち! 早く!」
 やっと向う側の歩道へすり抜けた刹那、右手の横町から、どっと喊声かんせいがあがった。
「なに? 喧嘩?」
 平野は、前の男の帽子のつばに顔をぶっつけながらのび上って見た。
「――偉いものを持ち出したぞ、カイゼルの藁人形を担いで来たんだ」
 苦心して、伸子は人の間から覗いた。成程、高い竿の先に、古洋服やボール紙で作られたカイゼルが見馴れた髭を傾けて担がれて来た。胸に「地獄へ行け!」と書いた札が下っている。担ぎては、巧に竿を振り上げたり寝かしたりした。それにつれて、カイゼルは悲しげに面白可笑しい身振りをする。大喝采のうちに、人形はわっさ、わっさと辻の中央に運ばれた。
「焼いちまえ!」
「さっさと巴里パリへ行っとくれ」
「軍国主義を焼きすてろ!」
 上気のぼせあがり、舌がひりついたソプラノで刺すように絶叫した。
「悪魔! 私共の子をかえせ!」
 何処からか神経的なすすりなきが起った。カイゼルの藁人形は数千の顔の上でいよいよ愚かな身振りをした。第二の喊声が広場じゅうに轟いた。ぼーっと火の手の上るのが伸子に見えた。カイゼルの格子縞の襤褸ぼろを火が走った。機械オルガンは国歌を鳴らした。青い薄い煙が、初冬の午後の透明な、やや物懶ものうい空に静かに昇った。微かにきなくさい匂いがあたりにただよった。


 伸子は、何となく満ち足りない悲しささえ交った心持で、三時間ばかりののちホテルに帰った。
 彼女は、広間で帰って来たばかりの佐々と落ち合った。彼の陽気さは、はたから苦情の云いようないほど天真であった。彼は、確かに三鞭酒シャンパンの機嫌で声をかけた。
「どうしました! おかげでいい見物が出来て結構だったな。全く千載一遇の好機だ。これで御覧、もう一ヵ月もおくれて上陸しようものなら、こんな素晴らしい歴史的光景なんか一生見られなかったことになる。――機会だ。平野君のおかげですよ――」
 佐々は感激ののこっている熱心な早口で、自分がある実業家倶楽部の昼餐の席で汽笛を聞いたときのことを話した。
「まあ総立ちという形だ。何しろ連合国の代表だと云うわけで急に祝辞を呈してくれるやら、日本のために乾盃してくれるやら、――悪くない気持でしたね。君は? 事務所でしたか? あの時」
「私は滑稽さ、バスの屋根で立往生に会っちゃって、ここへとび込んだんです」
 平野と三人で食堂に行く頃、今夜は特別に装いをこらした人群れのあちらこちらで今日の休戦報告は間違いだと云う噂が伝わりはじめた。ウォシントンの当局では、そんな公報などまだ入手しないと夕刊で言明したのであった。
 けれども、夜に入って市中の雑沓はそんな公報に頓着せず高潮した。
 伸子は、晩食後、夜景を見に出た。自動車が前にも後にも動けなくなった四十二丁目辺で彼女らは徒歩になった。
 アーク燈の下に、昼間より一層色彩の烈しい人間の狂態があった。人ごみを、ふらふらに酔った若い女が大股で歩きながら、短い棒切れでひょいと、先へ行く男の帽子を突きあげた。男はあわてる。女達は肩を振って仲間同士ぶつかり合い笑い崩れた。軍服を着た兵士が、それこそ大酔して、逆に群集をかきわけて来た。よろよろとして、据りのわるい首を揺ってはぶしつけに行交う女の顔を覗いた。が、いきなりどたどたとよろけると、伸子の直ぐ先にいた一人の大柄な女に真正面から抱きついた。女は叫んで兵士の顔を打った。彼は呻り、呟き、目をみはってさらに女にとびかかろうと物凄い面構えをした。ぎっしり詰った鋪道で、女は右にも左にも容易たやすく身をかわすことができない。黒い影が乱れ、男が怒った声で何か叫んだ。伸子はおどろいて力まかせに父の腕を引っ張り、燈柱の蔭にかくれた。
「帰りましょう。よ! いやよ私、こんな騒動――」
「ちと、百鬼夜行だね」
 徹宵てっしょう人通りと酔漢の大声を伸子は窓の下に聞いた。
 翌朝の新聞で、前日の報道は全く誤伝であったことが判った。本当の報告は、十一日の早朝までに、無線電信で戦地から伝えられる筈であった。しかし、一般は七日に受取った休戦報告を疑わなかった。彼らは皮肉混りに「政府はいつも事実より遅れて話す」などと云った。
 十一日の早朝、まだ寝床にいるうち、伸子は父に起されて公式の休戦条約締結報告の汽笛を聞いた。白い靄のこもった寒い外気を顫わせて、彼女の眠いうっとりした耳に、入混った汽笛が届いた。汽笛の響は、真面目で、落着いて、七日の午後いきなり空に向って吹きつけたあの熱情を失っていた。伸子の心持も同じであった。感動の新鮮さの失われた実際的な心持で中途までを聞き、やまないうちにまたぐっすり寝こんでしまった。十三日には、休戦条約修正案が公表された。ついで、大統領ウィルソンが平和会議のため仏蘭西へ渡航する計画に関するステートメントが、喧しい論議の種となった。
 伸子は、ほとんど官能に訴えるような人間精神のそよぎを感じた。一九一八年の冬は、民衆の心の上では春であった。人間の社会が失ったものを新しい内容と信念で持ちなおそうとした。過去の総決算をすませた社会は、深く疑い、強く建設し、少くとも世界をさらに住みよい合理的なところにしようとする熱意が、嘗てない現実性を帯びて湧き上って来たかのように見えた。伸子は、その刺戟を自分の胸に感じた。地平線に新たな光が閃き出した。その光は、どんな影響を自分の生活に与えるであろうか。……
 最初、佃を佐々父娘の生活に導き入れた南波武二の捜索は、終にそれなり不成功に終ってしまった。けれども、いつの間にか佃は彼らにとって内輪の人となってそのことのあとにのこった。土地馴れてもいるので小さい便利が多く、佐々がちょいちょいしたことをその後も頼んだ。その用向きをもって、佃はほとんど一日置きぐらいにホテルに出入りする。佐々のいない時も屡々あった。彼は、帰りを待つあいだ伸子と喋る。そのようなことが度かさなるにつれ、伸子はいつとなし佃の身の上について細かいことまで知った。佃は生れてじき実の母に死に別れた、のち第二の母に世話を受け、二十越したばかりの時ある宣教師をたよって、渡米して来たのであった。それから凡そ十五年間稼いで勉強する生活を続けて来た。彼の、生活に対する、抵抗力の強そうなところ、求めたところで経済的にも時間的にも得られない社会の快楽に対して、ストイックな、同時に何かひがんだところのなくもない侮蔑を抱いているようなところ、彼の身の上話を聞けば、はっきりそれらの心理的な原因が理解されるのであった。しかし、佃の魂はそれなら本当に気強く、堅忍主義によって朗かに安心していたであろうか。
 佃が足繁く父娘を訪ねて来、また三時間でも四時間でも飽きず伸子と話している。そのうちに彼女は佃が自然に求めているものを告白しているのを感じた。孤独らしい佃にとって、自分が幾分慰めとなっているという意識は、若い女である伸子にわるい心地でなかった。彼に何か頼むこと、彼にとって頼まれることは、ただの事務打ち合せより何かほんのりした、人情の破片なのであった。
 ――佐々の帰国すべき時が追々近づいて来る。伸子は独りのこるならのこるように身の振り方を決めて置かなければならないことになった。何でもない問題と思っていたのが、さてとなると彼女は容易に決定できなかった。父娘の間に、夜など折々話題に上った。
「私ももう永くてあと一ヵ月いられるかいられないのだが――何か適当な家庭がないもんかね、ちゃんとしたところへ落着いてくれなけりゃ、男の児と違って放っぽり出しても置けんし」
「そうなの。私男の子に生れてた方がよっぽどよかったわ」
「ハッハッハッ。母さんと二人でそう云っていれば世話がない。――……チェットウッドさんのところで世話になるのはいやですか」
「そうねえ……」
 チェットウッド博士はC大学の美術部の教授で日本の錦絵などに詳しかった。佐々とは永年の知己なのではあったが――。伸子は、白レイスの肩掛をして、さかんに政談を戦わしていた老夫人の険のある世話焼らしい顔つきを思い出した。
「私、閉口しそうだわ」
「ふうむ」
 佐々も他に心当りはないらしかった。そして、きまって終りはこうであった。
英吉利イギリスへさえ行ったらなあ、何のことはない、ミセス・レイマンが孫のようにして万事やってくれるんだが。――ミセス・レイマン――あの面白い書体でよく手紙をよこすお婆さん、お前も知っていましょう? 私がいた頃、よくお前のよこす手紙なんか見せてやったんで、今でもリットル・ノブはどうしたと云って来る……」
 伸子が落着き場の選定に苦しむのは、またほかに理由もあった。父について紐育へ来たのも、彼女は自分が欲する通りに生きて見る機会を得たいのが主な動機であった。佐々の家で伸子は長女であった。勝気な母の多計代のひそかな大望の偶像にされそうなところがあったり、中流家庭の娘として、伸子が望むだけどしどし人生に突入することを許さない掣肘せいちゅうがあった。このままでは、自分が半分も生きるだけ生きていない。生活が未だ始まっていないという意識が、少くとも過去三年彼女を苦しめつづけて来ていた。(伸子はその時西洋流に数えて十九歳と数ヵ月になっていた)父が旅行する。お前も一緒に行ってよい。……両親が彼らの間でどのような相談をし、どのような意向でそれを決定したにしろ、伸子にとっては、親の家を離れて生活できるというだけでも大したことなのであった。
 十一月十一日の休戦布告後はよかれ、悪しかれ画時代的な社会の騒音が、ホテルの窓ガラスを叩いて伸子の心へも伝わって来ていた。自分も、今までの寒くもなければ暑くもない、囲いのうちの植物のような生活は棄てたい。その望を遂げるために、これから半年なり一年なり身を置く環境の選択は伸子にとって難かしいのであった。
 大学近くのアパアトメントに部屋借りをして暮していた中西を訪ねて、様子を見などしたあげく、伸子は遂にチェットウッド博士の意見通り、C大学附属の寄宿舎に入る決心をした。その寄宿舎には安川もいた。
「――何も経験だから結構だ。暫くいていやになったら又その時何とか思案もつこうから、いいさ」
「安川さんの話では夜芝居へなんか行くのだって、断りさえすれば許してくれるのだそうだから、私いいと思うの。ただ聴講生にならなければ入れないんですって」
「それもよかろう」
「……二三日うちに行って見てきめるわ。――佃さんに来て貰ってよくて?」
「暇なら頼んだってかまうまいよ」
 佃とC大学の登記掛へ行ったのは、暖かく晴れたある月曜日であった。彼らは学生らに混って、公孫樹いちょうの植っているペエヴメントをあちらへ行きこちらへ行きして登録をすませた。若い女学生が本を抱えて元気に髪を風に吹かれながら歩いていた。伸子は、
「私何だか少し楽しみになって来たわ」
と、並んで歩いて居る佃に云った。
「やっぱり学校はいいわね。可笑しいでしょう? こんなところへ来ると私うんと勉強でもしたい気になってしまうの」
 佃は、山高帽の頭だけを小さい伸子の方に傾け、軍隊教練を受けた人のように胸を張って歩きながら、丁寧に答えた。
「――おやりになったらいいでしょう」
 伸子は笑い出した。
「私のように楽しみずきの人間はとても安川さんのように勉強できません。――ただ私はいろいろなものに興味を持つというだけよ――あなたこそしっかりなさるといいわ。――今何?」
「経文の翻訳です。昔拝火教徒が使った呪文のようなものです……」
「面白くて?」
「さあ……」
「ただの参考品?――初めてあなたがお訳しになるの?」
「ずっと昔に仏蘭西人で訳した人があるんですが間違いだらけなのです。それで今度やっているのですが……」
 フォセト博士の研究室だという建物の横の枯芝生で、栗鼠りすがのどかに遊んでいた。C大学は市中にあったが、構内のところどころに広い芝生や並木道などがあり、牧神パンの鋳像のついた噴水なども見られた。
 彼らは大学の正門からブロウドウエイに出た。百十六丁目の地下電車のステイションが直ぐ目に入った。
「――どうなさいます? ホテルに直ぐ帰りますか」
「そうね」
 小春日和の街を見渡すと、伸子はホテルの部屋の窮屈さを頭の中に感じた。
「――あなたお忙しいのじゃなくて? 若し何だったら私まっすぐブラブラ歩いて帰りますから、どうぞご自由に。……有難うございました」
「いえ、私はどうせ午後空いているのですから」
 佃はいそいで伸子を追うように云った。
「では――リヴァサイド・パアクにいらしったことがありますか」
「いいえ」
「じゃあすこを抜けてホテルまでお送りしましょう」


 車道を突っ切り、もう一つツルツル広い道をあちらへ抜けると、歩道にそうて灌木の茂みがある。庭園の小径こみちらしく拵えた道がその植込みを縫っていた。彼らはゆっくり並んでそちらへ降りて行った。公園の芝生を縁どる散歩道から一目でハドソン河が見晴らせた。
 うっとり冬の太陽にぬくめられたハドソン河が流れる。重く軟かい広い水面が真珠色に輝いた。洋々と海に入る河下は一面霞んでいる。遠い対岸に冬枯れた疎林が薄赭うすあかくぼやけ、鴎に似た鳥が一羽伴侶もなく翔んだ。仄かな水の匂いが伸子に懐しく新鮮な喜びを感じさせた。
「……静かね」
「今いちばん人の出ない時間ですから」
 絶えず右手に河を見晴らしつつ、彼らは下街に向って歩いた。
「学校からもホテルからも近かったのに、私ちっとも知りませんでした。こんなに好いところがあったの。――散歩する場所がふえてうれしいわ」
 行く道にもところどころに居心地よさそうな芝生や植込みがあった。
「この公園は小ぢんまりしていていいわね」
 すると佃が神経質な語調で遮るように、
「こちらではあまり独りでお歩きなさらない方がいいです」
と云った。
「そうお? 昼間でも?」
「碌でもない奴がいますから」
「ああ、それはそうね」
 伸子は佃の注意の意味を諒解して素直に答えた。
「それは気をつけます――でも……日本の人は大丈夫でしょう」
 佃は一層疑わしげに、非常に意味深長に、
「さあ……」
と返事を躊躇した。
「まあだんだんお解りなさいますでしょう」
 十分根拠はあるのだが、礼儀上控えておくのだと云った風な佃の答えが伸子に好奇心を起させた。暫く黙って歩いた後、彼女は訊いた。
「あなたはこちらにいる日本の人のこといろいろご存じ?」
「知っている積りです」
 伸子が続いて云おうとするのを、佃は引ったくって、
「大概狼のような者達ばかりです」
と短く断言した。伸子は、思わずほほえんだ。「狼」――。
 彼女は適度な散歩後の気軽な心持で、自分の室へ帰って来た。馴れた無頓着で、いつも通り鍵を右に廻した。カチリ、変な抵抗が手先に伝わり、扉は開かない。伸子は屈んで鍵穴を見た。ついで念のため把手を廻して見た。戸は難なく内側に開いた。錠は掛っていなかったのだ。女中でも掃除に来ているのだろうか。――
 伸子は、怪しみながら客間に歩み入ってあたりを見廻した。すると、全く思い設けない佐々の声が寝室の中から彼女を呼び迎えた。
「伸子か?」
 伸子は、今までの爽やかに暢々した気分が一時に飛び去る愕きを感じた。佐々は今朝九時に彼女と佃と三人で旅館を出た。夕刻まで帰る筈がなかったのに。――伸子は、急いでそちらへ行った。
「どうなすったの?」
 佐々は、寝台の上に蒼ざめた顔で半身起き上っていた。彼は伸子を見て、いつもの輝いた暖かい笑顔をしようとした。が、よほど気分が悪いと見え、微笑は中途で消えた。父の眼に現れている不安を認め、伸子も不安な心配な心持になった。彼女は、知らなかったとは云え自分が公園でぶらぶらいい心持に時間潰しをしていたのが済まないようになった。
「いつお帰りになったの」
 彼女は、寝台の端に腰かけて父の手をとった。
「もう三十分ばかり前に帰って来たのさ。急に。――どうも気分がわるい。――ひどく頭痛がするし熱があるらしい」
「どれ」
 伸子は、父の額に触って見た。かなり熱かった。
「寒気がなさる?」
「正金にいると、どうもぞくぞくするんでね、こいつは怪しいと、いそいで自動車で帰って来たのさ」
 佐々は、言葉をきり、自分の容体を熟考するような顔をした。彼はやがて強いて冗談にまぎらすような調子で独言した。
「感冒かな――到頭とりつかれたかな」
 伸子は、心の中が冷えるように覚えた。彼女も父の声を寝室に聞いた瞬間それを思い、ぞっとしたのであった。秋から流行している悪性の感冒は未だ猖獗しょうけつしていた。多くの流行病は、終りに近いほど病毒が軽微になる筈なのに、今年の感冒は逆であった。沢山の新患者に沢山の死亡者があった。一生懸命な泰然さで、伸子は、
「そうかも知れないわ。でも早く気がおつきになったから大丈夫よ。――気をしっかり!」
 そして、急に母親になったような確乎とした快活さで、
「私はいい看護婦だから安心してまかせていらっしゃい」
と云いながら、手早く外の支度を脱いだ。
 佐々は伸子の帰るのを待ち切っていたらしく、彼女が外套をぬぎに次の間へ行き、やがて戻って手を洗う、その一挙一動を目で追った。
「そこにあったのか、私はまた大きいトランクの方かと思って探したが見つからなかった」
などと云いながら、彼は自分から寝衣をくつろげ伸子に検温器をわきに挾ませた。
 三十八度九分あった。
「どのくらいあるかい」
 伸子は検温器を振って水銀を下してしまった。
「――大したこともないわ……口がお乾きになるようだったらアイスウォータ云いましょうか」
 暫くして伸子は云った。
「沢村さんに来て貰いましょう。ね」
「……よかろう」
 佐々は伸子の顔を見るまでは気を張っていたらしい。心がゆるむと口を利くのも大儀そうであった。二つ重ねた羽根枕の上にほてった顔をのせ、時々太い息をついた。
 医師が来るまで小一時間病人と二人ぎりで、伸子は名状し難い孤立感を覚えた。この大都会の生活と自分達の生存とはいざとなると何と無関係なことか。周囲の冷然とした感じが伸子の心にこたえた。


 佐々の病気は、伸子も見当をつけた通り目下流行の悪性感冒の初期という診断であった。沢村は家庭医らしい物馴れた調子で云った。
「しかし決して御心配なさるには及びませんよ。極めて軽微な兆候が現れたばかりですし、やっぱりこういう病気は、かかる人の平常の健康状態によりますからな。貴方なんぞ栄養はおよろしいし、痼疾こしつはおあんなさらないし――大丈夫、十日もすれば御全快でしょう」
 佐々は、ホテルでは不便だから、入院してもよいと云った。
 沢村は寝台の傍に立っている伸子を眺めながら、
「立派な看護婦さんがおいでらしいから、却って今お動きなさらん方がよろしいかもしれません。――もっとも、家へ来ていただいた方が儲かりますがな、ハッハッハ」
と笑った。
 薬剤師の買物やさしずめ沢村へ薬とりに行ってくれたりする者は佃しかなかった。伸子は彼に電話をかけた。
 佃は間もなく薬品類の包みを抱えて現れた。彼は伸子を助け自分の立場を理解しているものの自信を以て振舞った。佐々は夜少量の葡萄液を飲んだだけであった。佃と伸子は食堂へ行ったが、華やかに装って談笑する人々、かがやく食卓の光景は、今まるで彼女の心に迫る力を失ってしまった。佃は、
「あまり御心配なさらない方がようございます」
と伸子を慰めた。
「私は度々もっと悪い人を見ていますが――違います。眼がひどく血走っているだけでもすぐ見分けがつきますから、本当に御心配なさらないで大丈夫です」
 四日間、佐々の病勢は次第に亢進した。三日目など側に見ている伸子さえ息が楽でないほど、病人は苦しそうであった。咳はほとんど出ない、ただ四十度を上下する熱と烈しい頭痛が襲うのであった。体の関節がことごとくいたんで、寝がえりを打つのさえ一人ではできなくなった。それでも、佐々は一言の苦痛も娘には訴えず、耐えようとしている。――父親の情愛から生じたその忍耐はかえって伸子の魂を圧しつけた。父は病弱い人であった。母でもいたら決してこれですむ筈のないのが、伸子にはよく判っていた。その上、彼も感情の鈍い人ではない。外国のホテルで、油断できない病にかかった。暗い想像が、ただの一度も彼の脳裡を掠めないと、どうして云えよう。伸子は屡々その不吉な想像に苦しめられた。それ故感傷を制御しようとしているらしい父、いつか眠りに落ちた父の寝顔など、じっと見ていると、ひとしお心をうつものがあるのであった。
 佃はホテルの佐々の部屋で過す時間が、他の何処で費す時間より一日中で長い有様になった。彼は先ず朝来て、一通り必要な買物をした。湿布の交換などを手伝う。大学に時間があると一旦去り、三時か四時、或はもっと早く再び訪ねて来る。そして大抵夜まで止った。病人の寝台の左右に黙って永いあいだ腰かけていることがある。熟睡した病人のところから忍び足で次の間に来、沈黙勝ちに茶を飲むこともある。そのような時、カサッとシイツが鳴るような音がしても、神経質になっている伸子はぎくりとして耳をそばだてた。佃はすぐ彼女の心持を察したらしく、席を立ち爪立って境のカーテンの間からそっと病人を覗いた。またそっとカーテンを元通りに閉じながら、彼は頭を横に振る。伸子は病人が何事もなくやはり眠っているのを知って頷く……佃がそんな長時間を彼女らとともに過すことが、伸子に何の不思議も感じさせなかったほど、彼は生活に必要な人となっていた。佃があまり暇つぶしをすると、心配して病人が、
「どうもとんだ御迷惑をかけますな。今日は大分楽ですから、どうぞ御遠慮なく……伸子、よかろう?」
などと云うことがあった。けれども、佃は落着いて答えた。
「私はいそがしければ勝手に失礼致しますから、気をお揉みなさらない方がようございます。精神の安静が大切ですから」
 六日目ぐらいから、ほんの少しずつ、しかし、ぶりかえすことなく病人の熱は下降しはじめた。医師は、胸を打診し、舌をしらべ、
「さあこれで今度こそ大丈夫です」
と確言した。
「もう峠は立派にこしましたから、後は予後ですが……」
 衣裳棚の前に立っている佃の方を、時々好奇心をもって偸見ぬすみみるようにしながら、彼は云った。
「あなたのこんなのは謂わば麻疹はしかの軽いのみたいなものでしてね、これですんだと油断すると、又ぶり返して却ってえらい目に会うことがあるものです。紐育の風は有名ですからな、どうもこれからは……」
 十幾日ぶりで佐々が初めて次の間の長椅子まで起きて来た時、伸子は嬉しく、
「万歳! 万歳!」
と叫びながらそこいらを跳び廻った。
「御覧なさい、父様、私ずいぶんいい看護婦だったでしょう?」
「よしよし」
 佐々は伸子の手を捉まえて自分のそばにかけさせた。
「さあもうお母さんのところへ手紙を書いてやってもいいぞ」
 嬉しい。安心した。感極まった涙がはらはら伸子の頬を転がり落ちた。彼女は泣き笑いしながらめちゃめちゃに父の腕の下へ自分の頭を突っ込んだ。
 佐々は手間どって恢復期を進んだ。二三分のところで平熱にならない日があったり、時々まだ劇しい頭痛が再発したりした。佐々は、初めての日こそ勇み立って次の間まで出て来たが、翌日から、洗面所へ立つだけでやはり終日臥床していた。しかし、いずれにせよ恐ろしい時は過ぎ去った。いろいろな人々が彼の寝台の周囲に出入りしはじめた。笑声もした。茶器が運び込まれる。伸子は、最も恐怖や不安や必要に満ちていた時は自分達から遠のき、鳴りを鎮めていた世間が、再びさり気なく姿を現したのを見る、一種の清新さと皮肉とを、日常生活の復帰から感じた。
 このごろ、朝の寒さはなかなか厳しい。伸子は気疲れが出た故か、毎朝床離れが辛かった。十分眠った筈なのに、目が醒めても筋肉が弛緩しかんしているのを感じ、背中がベッドに貼りついたように起き上り難い。昼近くまでぐずついていることがあった。そういうある朝、伸子は勇気を出して、七時少し過ぎに床を離れた。どうしても九時までにBカレジに行かなければならなかった。前日、学生の指導をしているローレンス教授から葉書が来た。十五日も前に、英文学と社会学を聴講する届をしたきり父の病気で放ってあった。それらの細目について話したいから来いと云う通知なのであった。
 伸子は睡眠不足で変にゾーゾーする体を外套に包み、珈琲に玉子を食べたきりで出かけた。出勤時刻で、地下電車のステイションには新聞と鞄を抱えた男女が群れている。伸子は丁度来合せた急行に乗り込んだ。ホテルからは二十分足らずで大学まで行ける予定であった。百十六丁目というところで降りた。プラットフォームの工合が、この前佃と降りた時と少し違っているのをいぶかりながら、改札口を抜け往来に出た。街頭を一瞥し、伸子はさてと途方に暮れた。街は百十六丁目に違いないのだが、それがブロウドウエイでないことだけは確実であった。ステイションの広場からC大学の建物が見えるどころか、街路の左右に並んでいるのは倉庫のようなものばかりであった。一緒に地下から吐き出された人間はさっさと冷淡にその角を曲って消えてしまい、古新聞が散らばった朝の穢い歩道を疎らにのろのろ歩いているのは、縞ズボンに黒上着鳥打帽子といういでたちの男か、働き着の労働者だ。
 伸子は決心し一途に上街アッペに向って歩き出した。学校は百二十丁目にあった。この通りを百二十丁目までさかのぼれば、右か左かにブロウドウエイを繋ぐ横通りがある筈だ。さんざん歩いて彼女はやっと一人の交通巡査に会った。そして、初めて自分が電車を間違え、ブロウドウエイよりずっと東に来てしまっていたことを発見した。
 ローレンス教授は日本にも来たことがあるそうで、伸子の迷児になった話にひどく同情して笑った。用件は、英文学としてとった時間のうち一部を自由作文にしたら為になるだろうという勧告であった。彼女は、そのためにミス・プラットという人のところへ紹介された。


 ローレンス教授は、日光や鎌倉のこと、左甚五郎の眠猫が鳴くという云い伝えなどを思い出し、ローマの何とか云う寺院では、壁画の天使がその教会の檀家で死ぬ人があると枕辺に立つという伝説があるなど話した。伸子は、話の間からだんだん頭が痛んで来た。普通の頭痛とは異った、額から後頭までたがでもはめるように緊めつけられる感じであった。時を切ってその緊めつけが強くなると、眼球を動かすのさえ辛くなった。眼球が硬くなって動かそうとすると痛い、そういう気持だ。
 室内の温度が不自然に高かったから、平常健康な伸子は初めただのぼせたのだと思った。散歩して血液循環をよくしたらよかろうと思い、彼女は外に出ると日向の歩道をホテルの方に歩き出した。うららかな十二月の真昼だのに伸子は悪寒がして堪らなくなって来た。背骨から全身に胴震いし、いろいろな刺戟――自動車の警笛から、靴の小さい踵を伝わって来る鋪道の堅さまで、皆恐ろしい容赦なさで頭に響く。ちゃんと眼を開いていようとするのが先ず努力であった。行き倒れになる心配さえしなかったら、一刻も早く、何処でもよい、暗い隅に頭を突っ込んで眠ってしまいたい。……彼女は頼りなく弱々しい泣きたい気分になってある街角から電車に乗った。電車は黄色い車体を悠長に日に照しながら、少し走ったかと思うとガタン、またガタン、こうるさく一丁目毎に止りながら進む。籐を張った冷たく堅い座席の上で、眼を瞑り、伸子は動揺につれてこみ上げる嘔気をやっと堪えた。彼女は半分意識を失ったようになってホテルの部屋に戻った。
 寝室では、佐々が枕にもたれて起きかえっていた。佃もいて、彼は壁の前に立って何か話している。
 伸子は、どちらをも見ず、
「ただ今」
と云った。帽子を脱ぐと彼女はそれを放り出すように父のベッドの裾の方に置き、
「私気分がわるくて仕様がないの」
と訴えた。父の顔を見たら、泣きたい心が募った。陽気に喋っていた佐々は、伸子の泣声で、本当に愕かされた。
「どうした」
 佐々は伸子の顎に手をかけて顔を自分の方に向けさせた。
「何という色だ、この顔は! 寒いのかい? え? 何? 苦しい? そりゃいかん、直ぐおやすみ、さ、すぐこの部屋でお寝」
 伸子は、それに答えずむっつりし、藪睨やぶにらみのような眼つきで佃の服装をじろじろ見た。彼女は、とってつけもなく、
「馬にお乗りになるの?」
ときいた。佃は上着だけ背広を着、下にカアキ色の粗織襯衣あらおりシャツと膝まである長靴を穿いていた。佃は伸子の問いにかえっておどろいたらしく、
「ああこれはY・M・C・Aの服です」
と手短かに答えた。
「――おやすみなさるがいいですよ。……疲れが出たのでしょう。きっと――心配されたから」
 彼に手伝われて伸子は外套をぬいだ。
「さ――隣りへ来ておやすみ」
 父は隣りにもう一つあるベッドの方へ体を動かして、その上覆いをはねた。
「あっちがいいわ」
 伸子は佃に引き立てられるように足を引きずりながら自分の寝部屋へ行って戸をしめた。
「あ、どうか鍵をかけてしまわんように云って下さいませんか」
という父の声がした。
 寝衣のつめたいこと! シイツの冷や冷やすること! 冷たく、寒く、あまり寒いので、伸子はウワワワワワ歯を鳴らしながらできるだけ小さく自分の体を縮めた。頭は石になったように苦しい、ああこの頭を誰かに撫でて貰ったら! もっと暖かく暖かく懸けものをかけて貰ったら、どんなにいい気持になれるだろう!……
 誰もいやしないし、こんな懸けものしかありゃしないし……寒い……濡れた兎だ。本当に濡れた兎だ。伸子は子供のように枕に顔をすりつけた。
「母さま……母さま……」
 伸子はだんだんぼーっとなりながら、眼尻から涙を流した。
 フッと伸子は我にかえった。あたりはもう夜であった。電燈が煌々こうこうとついて、父が和服のまま困ったように立っている。彼女は眩しく、寝返りを打ちながら、父もまだ無理をしてはいけないのにと心配を感じた。それを云おうとしたが声が出ない。また寝がえりをしなおそうとしたはずみに、百尺もあるところを墜落したように頭が痺れた。再び渾沌が来た。悪寒はやんだ代りに高い熱と痙攣けいれんが起った。
 体が妙に突き上げるような不可抗力でヒクリ、ヒクリ、そり返る。体じゅうしゃくりをする。伸子はそのたびに悲しげな、れな叫びを上げた。彼女は何かにしっかり捉まりこの苦しい疲れる衝動を制したかった。しかし何処にも手応えがない。頭の裡も外もフラッシュライトに取り巻かれているように一面の光の渦巻だ。その光の海は絶えず揺れる、閃く、走り廻る、いそがしい。明るい、明るくて苦しい。
「疲れるわ、わたし……眠らせて。眠らせて」
 彼女は譫言うわごとを云いつづけつつ、頻繁に引きつけた。意識が明るくなり暗くなりした。
 午前二時頃、全く夢中な伸子がホテルから病院へ担ぎ込まれた。自動車の中で彼女は一度正気づいた。彼女は自分が病院へ行く途中にあることを理解した。けれども誰が自分をこのように抱きかかえ、頭にクッションを当てがっているのだろう、ゴロゴロして痛い眼を開き、薄暗いなかで熱心にあいてを注視した。佃であった。彼は伸子が眼を開いたのを認めると、子供をすかすように彼女の体を膝の上にゆり上げつつ云った。
「苦しいですか? もう少し我慢して下さい。今すぐ楽になりますよ。じきですよ……」
 伸子は真夜中に病室ですっかり衣服を更えさせられた。夜勤看護婦と入れ違いに佃が入って来た。
 彼は伸子の額を撫でながら、
「さあここまで来たからもう安心です。……安心しておやすみなさい」
と云った。
「――大丈夫です、わたしがここにいますから」
 どうかしてぐっすり眠りたく、眠りで苦しさから逃れたい伸子は、眼を瞑った。眠りそうになると痙攣が襲った。体がびくりとする。そのたびに彼女は先刻と同じように呻いた。
「眠らせて……眠らせて……」
「ああ眠れますよ、さあおやすみなさい」
 伸子はいつかそれでもとろりとした。体の節々がとろけるようになり、心が暗い遠い居心地よいとこへ引き込まれるようだ。伸子は髪のもしゃもしゃになった頭を枕に落し、一ついびきをかきそうになった。妙な感覚で彼女は半醒した。何かが顔に触る。不意に柔かく永く一つの唇が彼女の唇に押し当てられた。全神経が目醒めた。佃の存在が灼きつくように甦った。伸子は体じゅうに新たな戦慄を感じながら、再び気を失いながら、佃の頸に両腕をまきつけ彼の唇に自分の唇を押しつけた。

 誰かが、伸子の腕に触った。
「さあもう朝になりましたよ」
 そして伸子の腕を佃からはなさせた。
「今度は私がいてさしあげます。この方もおやすみなさらなけりゃなりませんですからね」
 他愛なく枕の上に腕が落ちた。伸子は視点の定まらない熱にうかされた眼で看護婦を見た。室内に流れる冷たい灰色の払暁の光線を感じた。伸子は反射的につぶやいた。
「そう――朝になった」
 自分は眠ったのか眠らなかったのか一向はっきりせず、ただ一晩中うねる大波に揉まれていたような心身の疲労を極度に感じた。眠い、やたらに眠い。
「そうそう、いいお嬢さんですね、おやすみなさらなけりゃいけませんよ」
 伸子は、微かな歪んだ頬笑みを浮べた。佃の声がした。
「――それではまた参ります。何か持って来るものはありませんか」
 重い睡眠の中へ引き込まれるような感じと戦い、伸子は辛うじて注意をまとめた。
「じゃあ箱をもって来て――青い革の――櫛や何か入ってる。――それから、父様によろしく」
 一粒の丸薬をのまされた。佃はもういなかった。やはり時間の知れぬいつか、嘔きたい程まずいココアを二匙ふたさじのまされた。

 伸子はふと、ひそひそ戸口のところで何か云い争っている人声で目を醒した。夕方なのかあたりは薄暗かった。薄暗い中に険しい調子が響いていた。
「どうぞ話はなさらないで下さい」
「そんなことは私の自由です。私はちゃんとあの人の父親からたのまれて出入りすることを許されているのです」
「ええ、それはよく承知しています。ですから、部屋にお入りになるのはよろしいが、どうか病人に口を利くのだけは御遠慮下さい。絶対に神経を休ませる必要があるのですから」
 佃が入って来た。寝台の上の伸子を見下しながら、彼はやがて普通の人に云うように、
「どんな工合ですか」
と云った。
「Oh! Please don't!」
 伸子は彼が変に頑張るのが看護婦に対して恥かしいような気がし、きかれてちっとも嬉しくなかった。彼女は泣きたいような頭の中で呟いた。
「どうしてあの人は口を利くのだろう」
 黙っていると、佃はもう一度押しつけるようにききなおした。
「いかがですか、気分は」
 伸子はそれに答えず、悲しげに咎めた。
「何故あなたはものをおっしゃるの?」
 いきなり神経的な涙が瞼一杯になった。伸子はめいった気持を感じながらそのまま眠った。



 八階の頂上に寄宿舎の食堂があった。その室は建物の翼の出張りにつれて奥の方で拡がっている。今、晩餐の最中であった。白布をかけた数十のテーブルと、それを取りかこんで坐っているおびただしい娘たち。ざわめき、陽炎かげろうのような話声、笑声、食器のふれ合う音などが空中へ鳴った。伸子のところから大厨房だいちゅうぼうに通う扉の一つが見えた。その扉は絶えず開いたり閉ったりする。給仕盆を抱えた給仕女が出入りに靴の爪先で扉を蹴るたびに、料理女の姿だの、大鍋のかかった料理ストオヴだのがちらりと見えた。暖かい台所の風も来る。
 伸子のテーブルは八人詰であった。が、そこにはいつも七人しかいなかった。彼女は今夜特別安川に会うことを楽しみにしていた。咲子の顔を見たら、
「ああお腹が空いた!」
とでも何とでも呑気のんきに喋って、朝からの滅入り込みを退散させることを楽しんでいたのであった。
 けれども、咲子は、一寸おくれて入って行った伸子を見ると、行儀よく二つの腕を胸の下で組み合せたまま軽く首を傾け、外国人の友達に対してどおり、
今晩はグッドイヴニング。――いかが?ハウ・アー・ユー
としきたりの挨拶をした。
 伸子は空腹でいながら味のない夕食を食べはじめた。
 その朝、伸子は十時から十一時まで十九世紀の英文学史の講義に出席した。時間が終ると、彼女は急いでアヴェレー・ホールへ行った。そこは、美術、建築などに関する図書館兼研究室であった。
 寄宿舎に入って数日後、伸子は偶然、安川をたずねてこの建物へ来た。安川は、日本の美術図案に古来使用されて来た便化の伝統をここで調べていたのだが、人気ない静けさ、建物の小ぢんまりした工合が伸子の気に入った。大図書館は壮大な代り、内部が議事堂のようでひどく落着きにくかった。伸子は翌日から読んだり書いたりに来ることにした。佃もここへ来た。
 伸子は、毎朝のことだが一種速まる鼓動を感じつつ、大衝立おおついたてで通り路から遮られた一つの机に近よった。佃はもう自分の講義に出て行った後であった。机の上に見馴れた彼の黒革鞄が遺してある。伸子は、彼が後程再びここへ来る積りでいることを理解した。伸子は小説を読みはじめた。
 数頁読み進んだ時、衝立の外に軽い女の跫音が止った。
「おや――ここだったの」
 伸子は驚いて頭を挙げた。帽子も外套も黒ずくめで、皮膚の美しい顔がなお引き立って見える珠子がそこに立っていた。
「まあよくわかったこと! さあ」
 伸子は中西の両手を執って、自分の隣りにかけさせた。
「いつ帰っていらしったの」
「昨晩、十一時過に」
 互に顔を見合せ何となし彼女らはにこついた。
「どうだって?」
 珠子は一週間ばかり前から、ボストンの許婚いいなずけのところへ行っていたのであった。
「ようござんしたよ、ここから行くとそりゃあ静かね、宿でも気持がよかったわ、落着いていて……」
「御丈夫?」
「有難う、元気だったわ」
 珠子は、冷たい外気に触れて来たばかりの活々した顔に新鮮な歓びを輝かせながら、持前のうちあけた親密な態度で云った。
「それに私行ってよかったわ、今あの人そりゃ素晴らしい研究を始めたところなのよ、でき上ればとても有望らしいけれどなかなかなんですって。だから私が行ったのが大変励ましになったんですって……」
 彼女は、やがて艶々した瞳で、撫でるように真正面から伸子を見守りながら、
「どうなの、その後、あなたがたの方は……」
と訊いた。
「…………」
 伸子は、苦笑とも極りわるがりともつかない複雑な笑いかたをして頭を曲げた。
「まあ大抵同じことだわ」
「――今日は? 来ていらっしゃるの?」
「今時間で行っているらしいけれど――あああなたお昼一緒に食べましょうよ、三人で――久しぶりだから……ね?」
「ありがとう――だけれど――何時? 今……」
 珠子は一寸腕時計を見た。
「今日はそうしていられないわ、これからブレンタノへ行かなけりゃならないから。それより大事なおことづけを頼まれて来たのよ。あなたこの土曜日何かお約束があること?」
 珠子が近頃親しくしている横尾、樋口という青年らが、彼女と伸子とをオペラに招きたいというのだそうだ。佃と同じ倶楽部クラブに彼らもいて、折々伸子も口など利いた。
「そうね」
「サムソンとデリラですって――」
 曲目をきくと伸子は行って見たくなった。しかし、土曜日と云えば誰でもが特別賑やかに過したい夜だが――佃はどうするだろう。彼一人放っぽり出して行くのも心残りのような気がして返事を躊躇しているところへ、佃が入って来た。伸子は挨拶がすむのを待ちかねて、佃に今受けた招待のことを話した。
「あなたどうなさること――私少し行きたいんだけれど……」
 立ったまましゃべっている珠子や伸子にかまわず、佃は椅子にかけた。伸子の云うことを終いまで聴くと、彼は不機嫌そうに、
「僕は勿論招ばれてはいないんでしょう?」
と反問した。珠子はびっくりしたように伸子を見た。
「今度は私だけよ……若しあなたの方に予定でもあるといけないと思って、中西さんに待ってていただいたの」
 佃は二人の方は見ず、山高帽を片よせ書籍やノオトを机の上に並べはじめながら云った。
「あなたがいいと思う通りに返事なすったらいいでしょう」
 佃と四ヵ月の交渉の間に、伸子は度々このような言葉をきいた。彼女はいまも、それが初めてのような苦痛を感じ、
「……両方いいようにした方がいいじゃないの」
と云った。
「自分の判断で返事をなさればいいです。――しかし……」
「なあに」
「あなたがたには、横尾君や樋口君という人がそんなによく判っていらっしゃるのですか」
 珠子まで妙な立場へ引込んだので、伸子は切ない悲しい気で一杯になった。彼女はひずんだ表情になって暫く黙っていたが、やがて思い切ったように珠子に囁いた。
「――私やめるわ、今度は。……折角だけれど……私がやめてもあなたいらっしゃる?」
「私の方は大丈夫よ」
 珠子は察しよい気軽さで、元気づけるように伸子の肩に手をかけながら云った。
「じゃあ、その方がいいかもしれないわ、あんなとこいつだって行けるところですもの。よろしく云って置きますよ」
 彼女らは入口までつれ立って行った。
「約束があることにしておいて頂戴」
「そうしましょう――」
 珠子は歩きながら不意に女らしい、気のよい小声で云った。
「……佃さん、嫉妬があるのね、でもそれだけあの方の愛が強いんだから、あなた幸福ですよ」
 伸子は信じない顔をした。すると彼女はさも先輩らしい暖かさと押しつけとで、
「本当ですよ」
と睨む真似をした。
 伸子は机の前へ戻った。佃は彼女を見もせず口も開かない。伸子はそういう不自然さに、永く堪えられない性質なのであった。彼女は、
「ね」
と呼びかけた。佃は顔をもたげた。
「何ですか」
「今のような場合ね、はっきりあなたの心持を云って下さる方がいいのよ、相談なんだから」
「あなたのいいと思うようになさいと云ってはいけなかったんですか」
「そうじゃあないけど……何だかあれじゃさっぱりしないじゃないの。口では好きにしろと云って、様子でとても好きになんぞされないようになさるのなんかいけないと思うわ。――相談する以上あなたの心持を立てるつもりなんですもの」
 佃は、黙っていたが白眼勝ちの視線で斜めに伸子を見上げ、愁訴するように云った。
「私に行くなという権利のないのは知っていらっしゃるでしょう?」
 伸子が涙ぐんで沈黙していると、彼は急に焦立ち熱したように低い早口で呟いた。
「いらっしゃればいいですよ、いらっしゃればいいですよ。決して私のことなんぞ心配して下さらなくていいのです」
「行きたいから云っているのじゃないのよ。――これからだって度々あることだから……」
 云いかけたところへ、五六人学生が入って来た。がら空きであった前や後の大机に、各々彼らの座を占めた。伸子は勢い、口をつぐまなければならないことになった。
 そのまま午後二時から、伸子はミス・プラットのところへ出かけた。
 ミス・プラットは大柄な、何処かにダッチ風な重々しさを持っている人であった。Yes と云うにも紐育女らしいせわしい鼻声ではなく、丁寧に字と字の間をのばしてゆっくり発音する。母親と下宿人とで生活している女教師の平穏な雰囲気に、伸子はいつも家庭的な慰安を感じた。
 先週の火曜日、話が寄宿舎のことになった。伸子は寄宿舎の生活には幾日経っても気質的に馴染めないところがあった。第一人間が多すぎる。伸子は半分冗談に、
「まるで蜂の巣のようです。それに皆が女王蜂だから……」
と笑った。ミス・プラットは、栗色の髪の濃い頭をかしげて考えていたが、
「木曜日の午後からうちへいらっしゃいな、気が変っていいでしょう。お喋りでもしましょう」
と云った。その約束があったので、伸子は、佃との気持の行きがかりをそのままにして出かけたのであった。
 アパアトメントの扉をたたくと、ミス・プラットの母親がとりつぎに出た。
「今日は」
「ああ、今日は。ようこそ」
 老婦人は、愛嬌よく伸子をホールに導き入れた。そして、正直そうな碧い眼にいぶかるような表情を浮べ、地になっているささやき声で訊いた。
「今、生憎ほかにお稽古の方が見えておりますのですよ、どんな御用ですか」
 午後が暇なので招かれたと思っていた伸子はやや意外であった。
「今日は木曜日でしょう?」
「ええ確かに……」
「では、恐れ入りますが一寸ミス・プラットに私が来たとおっしゃって下さいませんか。お差し支えだったら、また出なおしてもかまいませんから」
 入れ違いに日本の羽織を羽織ったミス・プラットがいそぎ足で出て来た。彼女は、伸子が何か云う時を与えず挨拶し、自分の居間に案内した。
「もう三十分ばかりですから失礼ですが待っていて下さるでしょう?」
 彼女は書棚を覗いた。そしてオウスティンの普及版を一冊とり出して伸子にあてがった。
「これでも読んでいて下さい。では一寸御免なさいね」
 ミス・プラットの部屋の二つの大窓から、大学構内の空地の一部と、大学総長の邸宅の側面が眺められた。長椅子や寝台の上には小綺麗な更紗さらさや小蒲団があって、落着いてさっぱりした部屋の飾りとなっている。伸子は、揺椅子にかけ、あずけられた本を読み出した。
 やがて廊下で別れを告げる声、こちらへ来るミス・プラットの衣擦れの音。
 やっと二人の間で話が心持よく弾みかけると、また稽古の人が来た。ミス・プラットは初めからその積りでいたらしく、伸子に二言三言云って、客間へ去ってしまった。――さらにたっぷり一時間待たなければならない。――
 伸子は、ぶらぶら室内散策を始めた。前の空地に一本大きな冬枯れの樹木があった。箒を逆にして空にひひらせたようなその梢に、どうしてのこったかたった一枚、真赤な楕円形の朽葉がひらひら動いていた。それが透明な二月の碧空の前に、ぽちりと滴った血のように美しく見える。
 それを眺め、これを見しているうちに、伸子はふと自分が変に間の抜けた羽目に置かれているのに心づき出した。ミス・プラットはああやって勝手に彼女の稽古をしている。それなのに自分は大していたくもない彼女のこの居間に、帽子を脱ぎ外套をとり、ゆっくりしなければならない命令でも受けたかのようにぼんやり待っている。何のために自分はここにいるのだろう? 伸子は、我知らずクスリと笑った。――だが、本当に自分は何しにここにいるのであろう?
 弟子ではあるが、彼女から呼んでおいて、こうも続けさまに独り放って置くのは、変ではないか。伸子に違った部屋を与えようと云う親切であったら、なぜ前以て、彼女はいそがしいが独りで何かしているのならば、と云ってくれなかったのだろう。平常ミス・プラットはよく気のつく人だ。それを思うと伸子は神経的に居心地がわるくなって来た。彼女は腕を組んで、質問をするように自分の脱いだ外套や帽子を見下して突っ立った。……
 そう云えば思い当ることがなくもなかった。
 十日ほど前のことであった。稽古の後で、ミス・プラットは誰からきいたのか、
「あなたこの頃始終佃さんと御一緒ですって? そうですか」
と訊ねた。伸子はそうだと答えた。
「佃さんは以前高崎さんにも大層親切にして、一緒にいろいろしていらしったようですよ」
 ミス・プラットの話しぶりに何か暗示らしいものがあるのを感じ、伸子は単純に答えた。
「そうでございましたって。――彼からききました」
「元――西部の大学にいた時にも、何か婦人のことで面白くない事件があったんですってね――まあ謂わば紳士としての体面を失うような――この間そんな話をひょっとききましたよ」
「あああの話でしょう? 夜何処かで話していた女の人を、警官が誤解してどうとかしたという……」
 ミス・プラットは、
「佃さんが話しましたか」
とやや予想外らしく云った。
「ええききました。――でも、なぜあなたにそんな他人の噂を喋る必要があったのでしょう」
 伸子は、軽く不快を現して云った。
「噂なんぞは、そのまま本気にできないと私は思います、無責任に事実を脚色するのが平気な人もいますから」
「そうですとも。私だって決して全部を信じようとは思いませんよ」
 ミス・プラットは何気なく話題をかえた。けれども、ああ云い出した心持が今日の奇妙な招待――まるで「部屋で静かに独り考えていて御覧なさい、私に話すことがある筈ですよ」というようなところのある招待――になったのではなかろうか。
 そう心づくと、伸子は自分の子供らしい暗示に負け易い性質を見抜いたミス・プラットの、怜悧なしかたが不愉快になった。こんなことをされないでも、彼女は佃とのいきさつをミス・プラットに隠して置こうという気は持っていなかった。必要な時が来れば敬愛しているミス・プラットに真先いろいろ打ちあけるに違いないのだ。しかし、それは決してこんな強いられた機会においてではない。また、それは対等なもの同士の打ちあけ話としてで、ミス・プラットが暗に心待ちにしているらしい、彼女の意見を求めてどうしようという性質のものでもない。――
 伸子は決心した。「今日はどんなことがあっても自分から佃に関して口は利くまい」たとい明日の朝駈けつけて一切を話すとしても。――今日は、決して! 決して!
 伸子はともかくミス・プラットが時間をすまして来るまで待っていた。それからつれ立ってモウニングサイドを散歩した。ミス・プラットは伸子の感情を洞察したらしく、自分の内心にあったかもしれぬ計画については云わなかった。一二度、ほんの偶然と思われる機会に、佃の名に触れたきりであった。


 その一日は、謂わば偶然心持の上へ陰翳がかさなり合ったのであった。しかし、それなら絶対にいやなことのない日が、いつかあるのか?
 体は一人の学生として寄宿舎に入ったが、既に佃との繋りが深く心に及ぼしているので、伸子の内部生活は、女学生のそれのように単純に行かなかった。学生の中にも愛人や許婚を持って寄宿舎にいる人は沢山あった。寄宿舎の向い側にあるメエゾン・ド・プランタンは、朝寝をした学生に重宝がられるばかりでなく、そういう人々によって夜など殊に賑やかであった。彼女らは訪ねて来た愛人達と一緒に愉快そうに喋ったり、土曜日だとダンスなどして興じていた。友達同士が互の愛人同士をまた友達にして一団となり、陽気に夜会へなど出て行くものもある。
 ある時、安川が、
「日本人は実際まだ社会的訓練が足りないから駄目ですよ。こっちの学生達は、自分の好きな人だって友達に意見をきいて選ぶ。――友達が馬鹿にするような男は友人にするのだってじますよ」
と云った。安川は非常に外国崇拝であった。それで、時々かえって気持が逆に動く伸子は、その時も、
「どこまでもリパブリックね」
と笑った。
「私はやり方が違うわ、自分が好き、だから好き。それでいいわ」
 伸子と佃との恋愛は、それにしても彼女の周囲にある恋愛と比べて、比較にならない独特の暗さと切なさを持っているように思われた。病院へ行った晩、佃は半ば夢中であった伸子に接吻した。伸子はそれを彼の情熱の告白と感じて応えた。彼にはもう再びそれから感情を元に戻すことが不可能になり、伸子にもできず、次第に離れ難く互を思うようになって来たのだが。……恋愛は常にこのように動揺や不安や悲しさの感情を伴うものなのであろうか?
 自分が愛し愛される者を得たという確信は、初め、伸子に、たっぷりした精神の落着きと希望とを与えた。佃の方ではそうでなかった。そして、感情の熱が高まるにつれ、彼の絶間のない内心の不安が募って来た。それは伸子にも感染せずにすまなかった。互の愛によって一層の生活の力を感じ合い、たすけ合って行く、平和な、同時に高貴な輝きはなかなか恵まれなかった。
 佃は、あまり自信のない愛人なのであった。
 二十日ほど前のある晩、伸子は数人の友達から晩餐にばれた。佃の知らない会社や公務関係の人々であった。伸子のほかに多く婦人連も出席した。翌日佃は異常に神経質になった。
「あなた――私が昨夜行ったことで不愉快そうにしていらっしゃるの?」
 すると佃は眉毛の下から伸子を瞥見して云った。
「何かそんなわけがあるのですか」
「ほら! ほら! それが曲者くせものよ」
 伸子は、指をふって佃をおどすまねをした。そして、云った。
「これからもあることだからどうぞよく分っていらして頂戴……ね。私あなたを本当に思っているし愛しているのよ。だから、却って誰といても安心だし大丈夫だという信念があるのです。――わかるでしょう? 私の心持。私にはもう護り神があるの。本当に大切に思う人がある時、人間は自堕落になんぞなれやしないわ。それに第一お互の不面目よ、こんな何でもないことさえ平静にとりあつかえないなんて」
 佃は伸子の正視を避けるようにしながら、譲らず呟いた。
「私は決してあなたがどうだというのではないのです。あなたが私に真心をもっていて下さることは知っています。けれども――あなたは人をすぐ信じる。世間の人間は決して表面から見るようなものではありません。どうしてそう安心して人とつきあえるか……それが不安です」
「人間を信じていけないものなら、どうしてあなたをこんなに信じることができて?」
 彼女が移り気でないと信じるのなら、佃は何を恐れているのだろう。珠子が云ったように嫉妬からであろうか。その嫉妬にしろ、自分の心持が分るなら、いらぬことだと伸子は心苦しく感じた。佃の知らぬ人とは会ってもいけない、交際してもいけない。――それではあまり窮屈だ。伸子は狭量な佃が腹立たしくなり、一思いに、自分は自分で彼の気持を一々忖度そんたくなどせず、自由に信ずるままに行動してよいのだと思うこともあった。彼も苦しむだけ苦しんで、自分のそういう心持をどう処理すべきか会得すればよいのだ。熱っぽくほとんど決心に近いところまで行く。が、そう思う一方、伸子の心には忽ち彼の頭を抱きすくめ、接吻でおおい、
「ああよくてよ、知っていてよ」
と云いたいような情が燃え上った。伸子には佃の苦痛が理解された。彼は三十五歳だということや、極めて貧乏だということや、地位のないということ、あまりいい評判でもないということ、それらを気にやんでいるのであった。それらのことに煩わされつつ、彼は伸子の若々しい熱にひかされる自分を苦しみ、自分の自信なさに苦しみ、幾重にも苦しい心持なのに違いないのであった。伸子は、どうかして自分の心を燃え移らせ、互に堂々とした生活に入りたいと思った。彼らにとって路はもう前にしか明いていないのは分っていた。――佃は、しかしどうしたら安心し、ここまで来た感情を彼女とともに健かに育ててゆけるのであろうか。
 考えて来ると、伸子の眼に涙が浮んだ。彼も結婚しなければ承知できないのであろうか。


 人々は皆結婚する。男も女も結婚する。結婚ということは、人間に眼と鼻とがあるように当然な人生の一つの約束のように行われる。伸子はそれに対して何だかぼんやりした質疑とでも云うものを抱いているのであった。人間が家庭を欲する心持、また愛し合う男女がともに生活したく思い、一組として扱われたい心持の強いこと、それらは彼女にもわかった。佃に対して、伸子は、中世的なプラトニックな感情だけでいるのではなかった。いつか彼と自分とは肉体も一つにするであろう。一対の男女として取扱われたら、どんなに便利が多いかということは、今でも十分察せられた。しかし、結婚ということに到ると、漠然とした重苦しさ、狭さ、凡庸さ、不安の感がいつも伸子を襲った。人間は結婚すると、なぜああも、人生のあるゴウルに達したように落着いて、世間と調和的になってしまうのであろう。多くの男女が、何か自分ならぬ者に導かれるようにして、一生をいつの間にやら過して行く。自分が結婚し、そんな風にこの世を送ってしまうのは、伸子はいやであった。結婚して子供が欲しいという気もなかったし、良人がいわゆる立身をして、某夫人と云われたい慾も、彼女にはなかった。佃には佃の仕事がある。自分には自分の仕事がある。そして、経済的にも、伸子は彼を稼ぎてとしなければならない必要はなかった。彼と生活をともにし、互に扶け合い、一緒にやってゆきたいのは、ただ、互の愛をまっすぐ育てられる位置において二人が、より豊富に、広く、雄々しく伸びたいからだけなのであった。愛し合う男女にとって、結婚が唯一のものなのであろうか。男女の愛は、本来が、そういうちょっと狭くるしいような性質のものなのであろうか。人生には何かもう少し違った形があってもよかりそうなものだ、という気が、結局にゆくと、いつも伸子の心に強く生じるのであった。
 佃は結婚という字さえ自分の口から云い出したことはなかった。けれども、彼は何と苦しむことか! その苦しがりようを見ると、伸子は彼が、真に求めているものの何かを、感じずにはいられなかった。彼が進んで云い出す権利を、自分自身に許していないので、なおさら、その内に争っている心持は、伸子に苦しく責任をもってかかって来るのであった。
 四五日で三月になろうとするある晩のことであった。
 伸子は独り部屋にいた。自習時間で、寄宿舎中、最も静かな時刻であった。時々、コンクリートの廊下を歩く、小さい靴の踵の音がするだけだ。伸子も机に向っていた。緑色笠の読書用電燈が、帳面の白い紙面や本の背革をしんと照している。伸子は、ミス・プラットのところへ持って行くために、竹取物語の一部を書きとっているのであった。
 物語は、元から彼女のすきなものであった。自分から選んだ仕事だから、彼女は感興に満ちて、日によると面白さにつり込まれ、文法の間違いや、途方もない言葉使いに頓着なく、没頭するのであった。けれども、今夜はどうもはかどらない。必要な表現が、彼女の貧弱な語彙ごいに無いからばかりでなかった。興味の湧くまで心を集注する熱が、何だか胸の辺で欠乏している。そういう感じであった。伸子は、考えるにも字を書こうにも、自分という全存在の影が、俄に薄くなりでもしたような手応えなさを、内部的に感じるのであった。淋しいと彼女はそうなった。
 佃は紐育の北に在るある市にY・M・C・Aの用事で旅行中であった。
 その話をきいた時、伸子はむしろ悦んで賛成した。
「結構だわ、行っていらっしゃい。たまには別々になるのもいいわ。気が変って――」
 自分の心持を考えなおして見ることも、亢奮しがちな神経に休みを与えることも、よいと思ったのであった。最初の晩伸子は夕飯後、階下の広間へ自分を訪ねて来る者がない、という安らかさで、早くから部屋着にくつろいだ。気まかせに衣裳箪笥を片づけたり、読書したり、久しぶりの独居ひとりいの楽しさは、魅するようであった。九時頃風呂に入って眠りにつく時、伸子は日頃忘れていたゆったりした無為の歓喜が、さし上る月のように我身を照すのを感じた。
 次の日、即ち今日は一日暇な日であった。それでも習慣で、十時過にアヴェレー・ホオルへ行った。そして、いつもの定りのテーブルに向って坐って見ると、伸子は、何とも言えず物足りなさを、身のまわりに感じた。爽やかな空気の一種の冷たさ、人の跫音のしない建物全体の、広すぎるがらんとした感じ、空虚なとはこういう感じか。伸子はその辺にあるすべてのものを、異様に新しく、強く感じて見た。
 入口の扉が開いたり、近よる人の気勢けはいがしたりすると、彼女の神経は極度に緊張した。
 佃は今数百マイル離れたところにいて、もう二日は帰って来ない。その事実はよくよく分っているにかかわらず、若しや、という心持が、その瞬間、彼女の動悸を高めるのであった。午前中が一日の永さであった。しまいに、伸子は、自分の心が、あまり自由を失っているので、情なく苦しくなった。
 彼女は図書館を出た。ハドソン河ぞいの公園を散歩したり、ブロウドウエイで買物をしたりした。そして、どうやら夜になったのだ。……
 伸子は、自分の心持と戦い、一時間の種になるだけの竹取物語を、やっと写すと、いそいで帳面や字引を片よせた。さもいいことでも待っているように、勢いこんで机から立ち上った。が――寄宿の小さい部屋の中には、自分がいるばかりだ。彼女のすむのを待っている者も無いし、「ああやっと済んだ!」と、向って云う者もいない。化粧台の鏡は、明るく室内の白壁を写している。伸子は淋しい獣の仔のような顔をした。彼女は、もてあますように両方の腕を頭の上で組み合せ、窓の前へ立った。
 とっぷり暮れた寒い夜を透して、同じ寄宿舎の、鍵のてに突き出した翼が見えた。灯のともった切抜万燈のように、沢山の窓があり、その内部は燈火できらめいている。カーテンの引いてない一つの窓から、凍ったような外気越しに、若い女の頭や、白い上衣の肩がちらちら見えた。どの窓の中も平和で暖かくて、人に知られぬ幸福が舞い降りているように見えた。伸子は突然、何でもよい、楽器でも、力一杯掻き鳴らし、自分を溺らすこの寂しさを破りたい衝動を感じた。彼女は寝台のはしに腰かけ、靴の爪先で拍子をとりながら、鼻唄を歌い出した。これが自分の声だろうか? こんな惨めな、弱い震え声が?
 ぽつんと歌を切り、今度は雑誌をとりあげた。
 伸子はしかし、やがてその抵抗力をも失った。彼女は、この心持は紛らそうとしても駄目なのを知った。
 伸子は、自分が佃なしではやって行かれないのを知った。この、世界が空っぽになったようなさびしさ、何をしても――路を歩いても、読んでいても――すべてはただ彼に会うまで、時間をつぶす方便だという感じ、空気まで妙に稀薄になったような息苦しさ。佃でない誰がこれを救ってくれよう。彼は、自分がここで、このように彼に憧れ、切ない思いをしているのを知っているであろうか。
 伸子の眼の前に、佃の顔が浮び上った。だんだんそれは大きくなって来た。佃は、彼の、見馴れた古くさい山高帽を挙げ、伸子を見、近づき、よき微笑を洩した。伸子は、眼を瞑り、熱く、寒く、体じゅうで顫えながら、幻の佃を抱きしめた。彼の頬の感触……彼の唇――柔かい髪を撫でるとき掌につたわる、その手触り、伸子は呻くように彼の名を呟いた。
 壁に頭をもたせかけ、恍惚うっとりしていた伸子は、ノックの音で我に返った。
 彼女は、いそいで両手の甲で涙に濡れた眼をこすった。
「お入んなさい」
 しかし扉は開かず、外から受付の少女が叫んだ。
「お電話ですから、広間へいらっしゃって下さい」
「そうお、有難う」
 誰から掛って来たのだろう。伸子は怪しみながら、気のない様子で身づくろいをし、階下へ下りた。広間では、愉快そうな男女が、あちらこちらに群れていた。夜会服をつけた娘が三人、花束のようにかたまって、嬉しそうに恥かしそうに、人中を抜けて出て行った。黒い服をつけた監督の老嬢が、隅の大理石柱の下に、活々したさざめきを眺めながら、つくりつけた微笑を湛えて坐っている。
 伸子は、電話箱へ入った。彼女は、若し誰かに、何処かへ招かれるのだったら断ろう、と思いながら受話器をとりあげた。
「もし、もし」
「佐々さんですか、すぐそちらへつなぎますから」
 カカカと接続の音がした。
「もしもし」
「もしもし……あなたは」
 非常に不鮮明に、遠く途切れ途切れながら、一声聞くと、伸子は思わず、卓上電話の銀色に光る台を握りしめてのり出した。
「佃さん?」
「佐々さんですか? どうしておられます?」
 伸子は、こみ上げて来る嬉しさと恋しさとで、口が利けなくなってしまった。やっと先方に聞えるくらいの声で彼女は、
「もしもし……もしもし……」
と囁きながら、動顛どうてんした熱い額を、ぐいぐい送話口に圧しつけた。
 佃の声にも、優しさがあった。
「紐育のお天気はどうです? こちらはひどい吹雪ですよ――話がきこえますか」
 伸子は鎮まらない感動で、息づまったような低声を出した。
「聴えてよ――よく、かけて下さったこと」
「お一人ですか?」
「ええ」
「ついさっきまで会議があって、いそがしい思いをしました。――あまりひどい天気なので、――一寸どうしていらっしゃるかと思って……」
「有難う」
 伸子の胸には再び、火の塊りのようなものがこみ上げた。できることなら一飛びに、彼の手許へころがりこみ、このがむしゃらな熱情を、同じように激しい燃える彼の手で捕え、締めつけて欲しい、――言葉に言えない感情で、伸子は送話口に額を圧しつけたまま黙ってしまった。
「もしもし」
「――なあに?」
「どうなさいました?」
「…………」
 向う側にも情の深い沈黙が生じた。伸子は、夜の電線を伝わって、まざまざと迫って来る彼の心持を感じた。その感じは迫り迫って、二人を隔てる距離がまるでつまり、遂に、佃は、じき壁のあちら側まで来ているようにさえ思われた。やがて、先から云った。
「そろそろ時間になるかもしれませんね。――切りましょうか」
「そう?」
「ずっと部屋ですか? よくおやすみなさい。私は予定通り明後日帰ります」
「何時頃?」
「多分あしたの夜行でこちらを立てるでしょうから、夕方迄には着くでしょう。夜おめにかかります」
 彼女はさようならを云った。そして、夢中で昇降機にのって部屋へ帰った。


 伸子は、その夜、ほとんどまんじりともしなかった。翌日は、陰鬱な小雨であった。ミス・プラットのところから帰って、玄関で洋傘の雫を切っていると、昇降機から安川が外出の支度で出て来た。彼女は伸子を見つけて声をかけた。
「佐々さん、あなたこれから時間がありますか」
 伸子は、昨夜からの絶えない内心の思考に囚われ、ぼんやりした顔つきで安川を見上げた。
「なぜ」
「若し何もないなら、一緒に百二十五丁目までいらっしゃらないかと思って」
「買いもの?」
「ええ一寸」
 伸子は少し歩いてもいい気になった。決めることは、既に昨夜のうちに決ってしまった。
「じゃあ一寸待って頂戴。このごたごたあずけて来るから」
 伸子は本や帳面を受付にあずけた。
 近いからこそ細かい用を足すのだが、百二十五丁目辺は下等な街だ。塵埃、バナナや林檎の皮、貨物自動車の粗悪なガソリンの臭気が街路に満ちている。窓ガラスが破れ、黄ばんだ半地下室に、靴直し、古着買、いかものの錺職かざりしょくが、鼠の巣のような店を張っていた。宝石商の店頭に飾られた何百ドル、何千弗と正札つきのダイヤモンドが、贋物としか思われない場所柄であった。
 安川は靴を一足買った。伸子はリボン一巻と、白レイステーブル掛と、可愛い家鴨あひるの子の玩具を二つ買った。安川は伸子の子供らしい買物を見て、
「可笑しな人ね、どうするのそんなもの二つも」
と笑った。
「可愛いじゃないの、まるで可愛い恰好だわ、佃さんにも上げるの」
 伸子は、ふわふわ手応えない紙包みを大切に抱え、傘をさし、びしょびしょ濡れた鋪道を戻った。
 眠らなかった割に、伸子の心持は、はっきりしていた。永いあいだ悩んでいた問題が、ひとりでに来るところへ来た。そういう落着きがあった。それは決して楽な行手を示してはいない。自分に女性としての苦労が始まるだろう。佃に協力する熱誠さえあれば、伸子はそれを恐れる自分とは思わなかった。彼がよし、と云えば自分の決心はできている。伸子の胸には希望と一緒に、云い難い一筋の悲哀、不幸の予感があった。それは、親のことであった。彼女は両親を愛していたし、彼らが伸子の伴侶を想像すれば、凡そどんな青年を考えるか、見当はついていた。公平に云って、佃は彼らの空想の中に現われるだろうどの人物とも、縁が遠いのは明らかであった。彼らは自分の決心を知ったら、驚き、不快を感じ、憤るかもしれない。否、憤るであろう、一応は。しかし、自分は後に引くまい。最も悪い場合を考えて、それがたとい一生感情上の不和の原因となっても。昨夜も、伸子はこのことを考え、むせび泣いた。そして、どうか両親も、自分の心持は理解してくれるように。佃も、万一運命がそう向いたら、彼らのよき息子となってくれるように、祈った。
 次の日、午後の五時過、佃から電話がかかった。伸子は、自分が行くから、七時頃図書館に来ていてくれるように頼んだ。
 夕食を、伸子は儀式にでも臨んでいるように味けなく、厳かな気持で食べた。部屋へ戻って、子家鴨の頸に細いリボンの薔薇飾りを結びつけ、薄紙に包んだ。髪に刷毛ブラシをかけ、帽子をかぶり、伸子はいつもより少し蒼ざめた顔で外へ出た。
 前日の雨は上って、風もないしっとりした晩だ。潤いを帯びた黒い空に、夥しく星が燦いている。街燈の遠い光で、葉のない樹木の梢と、大図書館のドームが、模糊と浮き立つ大学構内を抜けて、アヴェレー・ホオルに行った。佃の姿は見えない。伸子は大図書館へ行き、三階の隅の特別室の戸を開けた。隈ない明りの下に、書架が林のように並び、伸子の跫音は高く天井に反響した。読書室で、誰かが席から立ち上った音がした。伸子は足を速めた。佃はいた。独りだ。彼は入口の方を向き、入ってくる伸子を迎えるように、椅子の背に左手をかけ、立っている。――何処か少しやつれたような彼の顔を見た刹那、伸子は、今まで自分を支えていた軸が、響を立ててくずおれるのを感じた。
 最初の感動がやや鎮まると、伸子は佃と並んでかけた。短い言葉で旅行の有様を尋ねた。彼女は薄い白い紙包みを出した。
「お土産、――あけて御覧なさい」
 佃は、珍しそうに、覗き覗き包みをほどき、中からでてきた子家鴨を見ると、一時に微笑が顔に輝いた。
「これは可愛い! 有難う。どうしたのです?」
「きのう見つけて買って来たの。安川さんと」
 佃は、無骨に平らな指先で、ふわふわしたにこげをなでたり、鞄の上を歩かせて見たり、罪なく子家鴨と戯れた。伸子は、その平和な顔を、苦しい心持で眺めた。彼は、この自分が、次の瞬間に何を云おうとしているのか、まるで知らない。自分達の運命が、この数分に定まろうというのに!
 伸子は、重大な話を切り出すに、一種の辛さを感じた。彼女は伏目になり、佃の手に自分の手を重ねた。劇しい感情の動揺が先に立って、舌が重くこわばった。伸子は、だしぬけに彼の名を呼んだ。
「――佃さん」
 驚いて佃は伸子を見た。その眼と眼を見合せた途端、伸子は胸でも急に痛むような、苦しげな顔をした。彼女は手をのばし、彼の頭を自分に引き寄せた。そして、ぴったり耳に口を寄せ、囁きはじめた。
「私ね……私ね……」
 が、いきなり、伸子自身予期もしなかった涙が、ひどい勢いでこみ上げてきた。彼女は佃の横顔に自分の顔を押しつけたまま、すすりあげて泣き出した。佃は訳も知らず、あわてて、自分の胸から伸子の顔を離そうとした。
「どうしたのです? え? どうしたのです」
 伸子は、一層きつく彼にしがみつきながら、途切れ途切れに涙のあいだから囁いた。
「私ね……考えたの。……若し結婚するなら……私は……」
 佃は、打たれたように体をのばし、ぐっと両手で伸子の顔を挾んで自分の前へ持ってきた。伸子は涙でぐっしょり濡れ、上気し顫えながら、懺悔する子供のように一気に云い切った。
「あなたとでなければいや」


 リヴァサイド・ドライヴの端れに、グラント将軍の墳墓があった。石段の上に、広場が記念塔めいた建物の周囲をとりまいている。目の下に暗いハドソン河と、冬枯れの公園があり、寒い夜風の中を散歩する人影もない。伸子と佃とは、図書館を出てここへ来た。彼らは明らかに亢奮していた。けれども、心持は真面目で、むしろ沈んでいた。伸子の告白をきいた時、佃は、
「こんなことがあり得るだろうか! こんなことがあり得るだろうか!」
うめいて、骨が砕けそうに伸子をき締めた。彼の眼から涙が溢れ落ちた。これ以上の承諾がどこにあろう! 伸子は自分が、幸いに誤らず、彼の内心にもあった希望を切り出したのを知った。
 彼女は次第に落着いた。
「もっといろいろ、聞いて戴かなければならないことがあるのよ、少し歩きましょうか」
 そこで、彼らは、この季節のこの時間では、往来も疎らなリヴァサイドへ来たのであった。
 伸子は自分が、あんな風に自分の心を打ち明けようとは思っていなかった。もう少し冷静に、自分がその決着に来た心持の経路から、実際上のいろいろな相談をし、最後にあの一言を云おうと考えていたのに、順序や考えなど、けし飛んでしまった。いま逆に戻って、初めの方を彼に話さなければならない。
 佃に腕をとられ、ゆるゆる石畳の広場を廻り歩きながら、伸子は考え考え口をききだした。
「これから云おうとするのは皆、私の我儘なのよ、妙な工合で後先になってしまったけれど。――でも大切なことだから、どうか聞いて頂戴。毎日の生活は、ただ可愛いというばかりで行かないことが、沢山あるから……ね」
「勿論そうです」
 佃は熱心な調子で云った。
「何でも云って下さい。よく相談して、私は自分の力の及ぶ限りのことはします。この四五年、私は結婚ということなんかすっかり断念していた。――実に思いがけない――信じられないほどです。――今頃」
「私にしてもそれは同じよ。思いがけないわ。……でも、私――あなたのいらっしゃらないあいだ考えて、こう定めたのも、私どもの心に育ってるものを、まっすぐ伸して立派なものにしたいからなのよ。ただ旦那様と細君を作りたいからなんじゃあ本当になくってよ」
「それは解っています」
「お互が安心して、少しでも深みや広さの増した人間になりたい。若し心持の上で、故障なしにやって行けるものなら、私は一つ家に住むということや、他のいろんなことなんか、どうでもよいとさえ思います。でも、あなたが安らかでないと結局私も安らかでないから。――」
 彼らは数歩沈黙のうちに歩いた。伸子は、訊ねた。
「――これが私の我ままというところなのだけれど――あなた御自分の細君が、家のこと下手で、勉強したがりでも、平気でいらっしゃれる?――私は本当にあなたを愛してよ。けれども、仕事も愛しています。あなたと同じくらい! ね、これは言葉で云うと何でもないようだけれど、我々が若し生活を一緒にするようになると、なかなか大変なことだと思うの、私は――」
 伸子は、勇気を失うまいと努力して、力一杯、佃の腕を自分の体に圧しつけながら云った。
「とてもあなたに会わなかった時の心持に戻れないと思います。だから、思い切ってそれを、育てるだけ育てて見ようと思う……それでも、仕事はすてられなくてよ。それだけは出来ない。一生碌なことはできないかも知れなくても、やめることはできないの。万一それを止めなければならないなら……私――……左様ならをするしかないの」
 唇をかみしめ、伸子は辛うじて涙を制した。佃は、全身の身ぶりでその疑念を晴らそうとするように、心をこめて断言した。
「そんな心配こそ無用です。――あなたが大切に思っているもののあるのは判っています。仮にもあなたを愛している者が、どうしてそれを捨てろなどと云います!――私は自分をすてても、あなたを完成させて上げたい、と思っているほどです。決して私は家政婦を求めているのではない……私は元から、何か自分の仕事を持つ女のひとを助けて、立派なものにして見たい、と云う考えを持っていたのだが……力の足りないのが遺憾です」
 伸子は嬉しさに思わずそこで棒立ちになった。
「本当? 本当にそうお思いになるの?」
「本当です! 御覧なさい」
 佃も立ち止まり、伸子の両手を、自分の二つの掌の中に握って、彼女に顔を向けた。
「私を御覧なさい。――嘘は云いません」
「――有難う! 有難う!」
 伸子は、涙ぐみながら、とられたままの両手を強く強く振り動かした。
「本当に有難う! どんなに嬉しいか、あなたにお解りになって? 有難う! ああ全く! 有難う」
 伸子は、霜の下りた石のベンチに腰を下した。彼女は、この寒い夜の自然に向って、ひざまずき、「この幸福を、私に授けて下すったのは、どなたですか。私はそれほど、恵み愛されていたのでしょうか」と、感謝したいほどであった。ああ本当に、このようなことに廻りあおうとは! 伸子が涙を止めあえなかったのは、彼の理解の嬉しさばかりではなかった。彼が、初めて、男らしい権威を以て、自分の心持を明言してくれた歓喜である。ああ! 彼は初めて、男らしく口を利いてくれた。
 佃は心配して、度々伸子を撫でた。
「大丈夫ですか?……あまり亢奮するといけませんよ」
「大丈夫よ。病気になんぞなるものですか。……でもお互に、気をつけて、丈夫でいましょうね、私どもはどうせ貧乏よ。お互が助け合って生活して行くのよ。私は親達から何も貰う気はないのだから――勿論くれるものもないけれど」
 伸子は、二人の貧乏さえ、悦び愛するように笑った。
 彼らは歩道に降り、厳しい河風が、寒気を吹き通すのも、頓着なく歩いた。
 佃は、やがて心づいて、時計を見た。
「九時半すぎていますが……いいのですか」
 伸子は、寄宿舎の出入簿に、図書館と書いて来た。図書館はもう閉まる頃だ。伸子は一寸考えた。
「――いいわ。若しいけなかったら、明日、ミス・リイに理由を話したってすむことですもの」
 伸子の心は、もう何でも、彼と一緒だという信念で勇気に満ちた。けれども、おそくももう二時間ばかりで、佃と別れなければならないとすると、彼女には、心がかりなことがもう一つあった。それは重大なことだ。佃も未だそれには一言も触れない。伸子は、いとぐちを見出すにまた新たな工合悪さを感じた。伸子はぎごちない風で、
「もう一つ大変なことがあるんだけれど――」
と云い出した。
「何ですか」
「…………」
 伸子はつい云い渋った。
「何ですか」
「――……子供のこと」
「……解っています」
「どういう風に?」
 今度は佃が躊躇した。
「つまり……」
「私は、悦んで、適当な境遇で育ててゆけないうち、子供は決して、どっちにとっても幸福でない、と思うのです。あなたの思っていらっしゃるのもそのこと?」
「そうです――仕事もあるし……」
「第一私どもは、二人でやっと生活をするに定っています。満足な教育も、させてやれない親になるのはいやよ。それに……私の心持の中に、何だかすらりと母親になれないものがあって――」
 伸子は、低い声で云った。
「男のひとに、このこわさ解るかしら……こわくて堪らなくなるようなものがあるの、本能的に――」
 すると、佃はひどく散文的に云った。
「何でもないでしょう、そんなことは」
 伸子は、彼の情味の欠けた調子で、微かに傷けられた感じがした。
「何でもないこととは思わなくてよ。私は、そんな心持がしながら、こちらの女の人達のように、そういうことを平気で、純科学的に取扱えない心持が強くあるんですもの――自分や、何かこう晴れ晴れと高く美しいものに対して極りわるくて、――ね。……私には二つとも本当の気持だから――」
 彼らは寄宿舎へ曲る横通りに出た。佃は、伸子を自分の心でおおいかぶせるように云った。
「安心なさい。――私はあなたを苦しめるようなことは決してしません。そういう心持も、いつか変るかもしれないから……何も私は――解るでしょう? そういうことについても、少しは解っている積りです」
 今になって、彼らは自分達が、かな氷のようになっているのに心づいた。彼らは寄宿舎のすぐ前にある喫茶店に入った。
 佃は、もう灯を暗くした寄宿舎の玄関口まで、伸子を送った。


 冬と春との入れかわる三月だ。天候はむらになって来た。朝ちらちら粉雪が降ったかと思うと、昼頃ぱっと日が照って、夜はこまやかな霧が市街を包む。次の日は風が強く吹いた。喉が痛むほど空気が乾燥する。――晴れても曇っても、冬が日一日と溶け去るけはいは争われなかった。街路樹の梢は、いつかしなやかなたわみを持ち始めた。買物がてら通りを歩いている時など、ふと、高い高い塔の頂にヒラヒラはためいている赤と緑の旗が目に留る。何もあるのではない。ただ、空高く見なれた一つの星条旗がひるがえっているばかりだ。けれども、人はその旗の色や、その空から、今日ばかりはことさら何か閃く歓ばしさのようなものが、自分の心にとび移るのを感じる。訝りつつ瞳がなごむ。……それこそ春の遠慮ぶかい先触れだ。
 その日は、前夜降った淡雪が、大学の芝生の上や鋪道の日かげに積っていた。
 伸子は、午餐を、ある実業家の夫人に招待された。伸子は、思っても思っても思い尽きないものをしっかり心の裡に抱いて、尋常な人々のあいだに坐っている楽しさから、愛嬌よく、よく喋り、よく笑った。
 二時から、ミス・プラットの時間があった。けれども、前の晩、おそくまで佃といた上、今日招かれたので、何も支度ができていない。
 五分ほど早めに着いたのに、ミス・プラットは、いつも彼女らの坐る側部屋の長椅子で、もう伸子を待っていた。伸子は率直に云った。
「――今日私は大変なまけやだったのです。準備ができないで参りましたが、勘弁して下さいますか」
 ミス・プラットは、房々栗色の前髪を仰向けて、伸子を見た。
「どうして?……まあここにお坐りなさい」
 背中に腕をまわして、彼女は伸子を、ぴったり自分のそばに腰かけさせた。
「なぜできませんでした」
「本当は昨夜する筈だったのですけれど、あまりおそくまで佃さんと話したので、つい駄目。今朝は阪部夫人におよばれだったので、時間がございませんでした。……今日は何か話を口で申しますから、それをなおして下さいませんか」
「勿論それでかまいません……けれども」
 ミス・プラットは、伸子の背中から手を離さず、却って愈々いよいよじっと、情をこめて、自分の方に圧しつけるようにしながら云った。
「あなたは、この頃少し、いそがしすぎるのではありませんか? いろいろなことで……」
 伸子は、ミス・プラットの声に、真実な憂慮があるのを感じた。
「落着いておりません?」
「そういうわけではないけれども……」
 伸子は、この間から溜っていたことを、自然に話し出した。
「私は、先達せんだってから、佃さんと私のことについて、御心配いただいていることは知っておりました。……いつぞや私をお呼びになったのも、そのことに関係がありましたのでしょう?」
 ミス・プラットは、彼女独特の重々しさで、Yes と云った。
「そうだったのです――あなたは感じが早い方ですね……」
 伸子は、信頼に満たされて云った。
「有難う、すっかりお話ができて嬉しゅうございます。あの時はね、私の心持も定っていませんでしたし……それに、ああいう工合でそんなことを云い出すのは、私いやだったのです」
「……けれども、いつか時が来れば、そして必要なら、あなたはきっと、私に相談して下さるだろう、とは思っていましたよ。私が、及ばずながらあなたの幸福を、心から願っていることは、知っていて下さるのですものね」
 伸子は黙り込んだ。彼女達の並んで坐っている前方の白壁には、外の雪明りが映っていた。雪解けが速いので、どんどん立ち昇る水蒸気の揺れが、明るく白い中にも見えた。伸子は困ったあげく、無技巧な一本調子で云った。
「――私は佃さんを愛しています」
「……そうでしょう」
「……私どもは婚約をいたしました」
「婚約を?」
 穏やかであったミス・プラットは、その時思わず伸子が目をそらしたほど、驚愕の色を現した。伸子は悲しい気がした。自分が佃と婚約したというのは、そんな不快な、愕きを与えることなのであろうか。ミス・プラットは、やがて気を鎮めて、彼女に詫びた。
「御免なさい。あまり突然だったので……本当に思いがけないことです……あなたが……」
 永い沈黙が来た。ミス・プラットは暫くして、感動のあまり涙ぐんだように呟いた。
「あなたは本当に若い! 可愛い人です。私はどうかして一生幸福なあなたを見たいと思いますよ」
 彼女は、伸子を自分の胸に抱いて、額を接吻した。
 伸子は魂にしみとおるような痛さで、自分が初めて受けた祝詞ともいうべき、これらの言葉の性質を感じた。これは普通の婚約者が受ける祝福ではない。傷み、あわれみ、歎息する響きがあるではないか。伸子は、ある場合には、更にこの上、冷笑や軽蔑の加わることさえも、覚悟しなければならないのを悟った。
 ミス・プラットは訊ねた。
「あなたのお父様は、佃さんを御承知ですか」
「知っております」
「云ってお上げになりましたか? そのこと」
「すぐ書きました、詳しく。――それに、ずっと前からも、自分の心持は知らせてありますから……」
 ミス・プラットは、頻りに、佃が何か為にするところがあるのではないか、と危ぶんだ。伸子には、何よりそれが辛く、彼のためにすまなく思った。彼が若し金持の息子なら、彼の名が紳士録に載っていたら、誰がそんなことを云うだろう。たとい、その男が、実際はだましてなぐさむ気でしかなかったとしても、世間は黙っているだろう。佃はその点、弁明さえ信じられ難い立場にいるとは!
 伸子は、自分が卑められるように、苦痛を感じた。彼女は、頑固らしく云った。
「ね、ミス・プラット。あの人を愛しているのは私です。あの人を信じているのも私です。私は皆が、どんなにちやほやする人だって、愛さないものは愛さない、信じられなければ信じません。けれども、私が愛し、私が信じたら少くとも私に、その心持があるあいだ動かせません」
 伸子は、日暮れ近くまで、ミス・プラットのところにいた。彼女は、内心を吐露した一種の軽やかさと同時に、自分らの結びつきに対するやや憂鬱な感傷に満されて帰った。


 日曜日、――伸子はミス・プラットと、市の繁華な場所にあるミセス・チャアチルの茶に招かれた。ミス・プラットは、
「面白いものですよ、紐育ではいつでも、最新な生活様式や流行で皆が暮しているように云うでしょう。ところが、そういう都会の真中に、ヴィクトリアン・エイジの破片が、ちゃんと、ミセス・チャアチルという名を持って生きています。一度行って見ましょう、あなたが窒息しないうちに、きっと連れ出してあげますよ」
 そう云って伸子をつれて行ったのだ。伸子は、興味をもって、しかし実に窮屈に、二時間そこで過した。彼女は、珍しい紋章学の話を、家柄の自慢とともに、ウールの靴下をはいて、薪をストオヴに焚いているミセス・チャアチルから聞いた。
 五時過に、二人はC大学の集会所へ廻った。Y・M・C・A主催の、コスモポリタン倶楽部の日曜晩餐会があった。世界各国から留学している学生の大多数が会員で、新世界主義を理想とする討論や研究、講演があった。その前に、大広間に幾列にも並べられたテーブルで、簡単な食事をするのだ。
 伸子は、規定通り、入口で渡された紙に、自分の名と国籍を書いて、胸にピンで止めた。今日はよそに大して面白い催しもないと見え、盛会であった。絶間なく扉が開いて、いろいろな国の男女が参集する。伸子は、ミス・プラットと、広間の煖炉の傍に坐った。伸子は、出入口に向って席を占め、それとなく人の出入りに気をつけた。昨日の夕方から、彼女は佃と会わなかった。今夜は彼も来る筈だ。伸子が、大して気もないのに来たのは、彼に会いたいからだとさえ云えた。
 大方待ちくたびれかけた時、伸子は思いがけなく、期待したとはまるで反対の方角に、佃の姿を認めた。彼は、奥の男子控室のすぐ前で、玄関の方に向いて立ち、比律賓フィリピンの青年と話している。話しながら、彼もちょいちょい外を気にしている様子であった。青年と別れ、彼は、癖のある歩き方で伸子の方へ来た。彼はまだ、伸子が、一団の人のかげになって、ついそこの椅子にいるとは知らなかった。だんだん近よって、佃がその人むれの向う側を、自分を認めないまま通り過ぎようとした刹那、伸子は我知らず左手で、ミス・プラットの膝に触った。
「ミス・プラット」
 声が唇を洩れたと一緒に、伸子は自分の失策に心づいた。何という馬鹿だ! ミス・プラットはもう前から佃を知っていたではないか。彼を見た瞬間、なぜか伸子は、改めてはっきり、
「ミス・プラット、あれが佃さんです」
と、告げ知らせたい烈しい衝動を感じた。考える暇なく、ミス・プラット、と呼びかけたのだ。しかし告げてどうしようと云うのだったろう。永年支那で伝道していたという婦人と話していたミス・プラットは、その間にゆっくり頭を廻らして答えた。
「何ですか? 佐々さん」
 呼びかけと、彼女の応答とに間があったので、伸子はやっと愚かな混乱から救われた。
「ああ御免下さい。人違いだったのです」
 余興に、ポウランドの青年が熱情的なポロネイズを弾奏して、会は終った。
 九時少し過ぎたばかりであった。ミス・プラットは、佃と伸子に、自分の家に来るようにと、頻りに勧めた。彼女はもう一人、仏語を教えている白耳義ベルギー婦人と一緒であった。
「よろしかったらどうか来て下さいな。久しぶりで、日本の緑茶のおもてなし致しますよ。ね、いいでしょう?」
 伸子は、あまり云われるので断れなくなった。彼らは四人で、ミス・プラットのアパアトメントへ行った。
 母夫人は留守であった。彼女が独りで茶器を揃え始めたので、伸子も食堂へ出て行った。
「お手伝いいたしましょう、このお湯をかけますの?」
 伸子は電熱機のスイッチを捻った。外から帰ったばかりですぐ用を始めたせいか、ミス・プラットは少し、せかせかしていた。彼女は菓子を鉢に盛り、客間へ運んで行った。
 戻ると、
「どう? もう沸いたでしょう?」
と、湯沸しに触った。かけて三分も経っていなかった。
「まだかけたばかりですもの、もう少し待たなけりゃ駄目でしょう」
 ミス・プラットは、なお、てのひらでアルミニウムの光った湯沸しの胴にさわりながら云った。
「かなり熱くなっていますよ」
「外側だけでしょう」
「ようござんすよ、もう!」
 伸子は笑った。
「大変せっかちでいらっしゃること! 私、丁度よくして持って参りますから、あちらで待っていらっしゃるとようございます。わかっていますから」
 彼女は、いつも物判りのよく、泰然としているミス・プラットが、湯ぐらいのことでせかつくのを、愛らしく面白く感じた。けれども、ミス・プラットは理窟なく、もう湯は沸いたと主張した。
「いいんですよ、確かにわきましたよ。――御覧なさい、音がしていますよ、おろしましょう」
 彼女の、声や眼にある強情さが、ふと伸子を警戒させた。それは、早く彼方に行って皆と一緒になりたい、という、子供らしい気ぜわしさではなく、一徹な、何かに反抗するような頑張りであった。
「では消しましょう」
と、彼女はスイッチを切って客間へ運んだ。
 湯は勿論なま沸きで、まずいまずい茶が出た。ミス・プラットもさすがに苦笑した。
「佐々さんに負けましたね。夏向きの茶が出てしまって……」
 伸子は、漠然、あたりに妙な雰囲気の醸されてゆくのを感じ、居心地よくなかった。ミス・プラットは、絶えず話題を提供するのだが、不自然なところがあった。彼女は、誰にともなく、ぼんやり話してすむところを、故意に佃を焦点とした。いちいち、
「佃さんはどうお思いになります」
または、
「あなたの御意見をおきかせ下さい」
 佃は迷惑らしく、はきはきした返事をしなかった。しかもミス・プラットは繰り返し迫って、調子をかえようとしない。
 彼女が、
「佃さん、あなたの御専門は何でしたか、いつぞや伺ったんでしょうけれども、つい失念して……」
と云った時、佃は神経の焦立った様子を制そうともしないで、突き放すように答えた。
「別に面白くもないものです」
 伸子が間から口を入れた。
「彼の専門は古代言語学なのです、特にイラン語の……」
 そして座をとりなすように云った。
「いつかよろしかったら、御一緒に美術館へでも行って見ましょう、佃さんを説明役にして。――きっと面白いでしょう」
 すると、ミス・プラットは自分の言葉で伸子を後に控えさせるようにした。
「私は佃さん御自身からいろいろと伺いたいのですよ。――それで……どんな目的で研究していらっしゃるのです?」
 座談ではない。詰問めいていた。伸子は、なぜ今夜に限ってミス・プラットが変なのか、解らなかった。はらはらしている伸子の注目の前で、佃は腕組みをし、ますます不活溌なねた風で答えた。
「研究のための研究です」
「……失礼ですが、私、それは遁辞だと思います。勿論、真の研究が功利的なものでないのは知っていますが、研究のためにする研究なら、なおさら、そこにはっきりした御自分の、学問上の目標がおありでしょう? それが伺いたいのですよ――犬でさえ土を掘るのは、何か嗅ぎつけている証拠です」
「――失礼ですが、今晩、私は議論する気分になりません。――またいつかゆっくりした時に」
「あら、私どもはちっとも議論などしてはいませんよ、ただ真面目な話、ありふれたことをほんのちょいと本気で話しているのじゃありませんか」
 ミス・プラットは、伸子をぞっとさせる笑顔で、傍の二人を顧みた。誰も、それに応じて微笑できなかった。彼女と佃との間に戦端の開かれたのは明瞭だ。伸子は初めて、ミス・プラットが、この話をしたさに、佃ぐるみ自分の家に誘って来たことを諒解した。
「まあ、では、私は不幸にもあなたの御専門について理解できないとして――これだけは伺えるでしょう? あなたが一人の人間として、人生にどんな目あてを持っていらっしゃるか……」
 さっきから、じっと三人を眺めながら、当惑して坐っていた白耳義婦人が、この時口を出した。
「ミス・プラット、もうよろしいでしょう? あまり問題が――」
「いいのですよ、心配なさらなくたって――」
 ミス・プラットは、佃を正面から見据え、上体をぐっと椅子の上で立てたまま、きめつけるように云った。
「私は自分の申すことをわきまえているのですから。――佃さん、沈黙も場合によっては、いつも黄金というわけにはいきませんよ」
「…………」
「佐々さんは」
 伸子は、予想もしなかった自分の名が引き合いに出されたので、眼を瞠った。
「もう自分の仕事や人生に、ある目標を立てていらっしゃいます。あなたは何もおっしゃることがないのですか? おっしゃれませんか」
 伸子は、いたたまれないようになった。彼女は、佃の態度に対する歯痒さと、それをわざわざこのようにして、他人と自分との前に暴露させるミス・プラットの冷やかな画策とに、むらむらとした。ミス・プラットが、こうでもしたらと、伸子のためを思って、佃の赤裸な姿をさらさせようとしているのは、伸子によく判った。「人前で器量を下げるような男!」ミス・プラットは、自分がそう思って愛想づかしをすると思うのだろうか。
 執拗に黙っている佃に向って、ミス・プラットは平手打ちを与えるように云った。
「おっしゃられないのは、あなたの人格が空虚な証拠です。――理想も熱情も、思想もありはしないのです! あなたはそれで伸子さんに」
「――ミス・プラット!」
 ミス・プラットは蒼くなった伸子を見た。――彼女は神経的な身じろぎをして、口をつぐんだ。


 ミス・プラットの好意を、伸子は次第に重荷に感じた。ミス・プラットのやり方には、何か、伸子が素直になれないものがあった。次の稽古の日、日曜の夜のことについては互に一言も云わなかった。が、ミス・プラットはふと、
「このあいだの晩、コスモポリタン倶楽部で、私心づいたことがあったのですよ」
と、云い出した。伸子は、帳面の上に両手を置き、弱ってミス・プラットを見た。
「食卓についた時、佃さんがあなたと私とに椅子をなおしてくれたでしょう? あのとき、彼のなおしかたが、あなたに対してと私に対してとは違っていたのですよ――気がつきましたか?」
 伸子は、頭を振った。
「いいえ」
「私に対しては丁寧で、いささかも非難できない様子でした。けれどもあなたにはずっとぞんざいに、片手でしましたよ」
 ミス・プラットのところへ行くと、何か、これに類した話が出た。これまで一番楽しかった時間が、さっぱりしないものになった。ミス・プラットが、佃によい感じを持たないという以上の自分に対する偏愛が、伸子には苦しかった。女らしく行き届いた残酷さで、佃の細かいあらまで云われると、伸子は却って反抗心に燃やされた。
 紐育市から仏蘭西フランスへ出征していた兵士の凱旋当日であった。
 寄宿舎は早朝から、ほとんど空になった。伸子は近頃、そういうことにあまり興味が持てず、寄宿舎にとって未曾有な朝の静寂を楽しみながら、部屋に残っていた。窓から見下す街路も人気なく、日曜の朝のような感じであった。伸子は、編み下げのままの髪の先を指に巻きつけながら、窓際に佇んで、祝日らしい戸外の景色を眺めていた。すると背後で、扉をたたく音がした。とっさに、佃が来た知らせかと思い、彼女は困却した。十一時頃から彼らは、ハドソン河を彼方むこうに渡って、ながい散歩をしようと約束していた。扉の方に歩きながら、伸子は、
「お入りなさい、――どなた」
と、声をかけた。
「いらしたのね」
 扉をあけて現れたのは、高崎であった。
「まあ珍しいこと! どうぞ」
 高崎は、研究が家政学であったし、ある亜米利加アメリカ人の家庭に暮していたりする関係上、平生親しく往来するというあいだでもなかった。
「よく早くお出かけになってね」
「ええ。私このくらい普通ですわ――ついそばを通ったんで、およりして見ましたの」
 直子は、伸子のすすめるままに外套の襟を開いて椅子にかけた。
「――外套なんぞ、脱いでおしまいになった方がいいわ」
「ええ、でも――そうもお邪魔していられないから……」
 小柄だが、たっぷりした黒い髪や、濃い眉、意志的な大きい口元など印象づよく、美しいところさえある顔で室内を見廻したり、伸子の健康をほめたりして世間話を始めたが、直子の様子には、何だか楽々しないところがあった。何か心の中には、考えてきたことがあって、それを切り出す前置きのためだけに、実際の興味は大してないことを喋っている、そんなところがあった。不安定な相互の心の状態で数分たつと、直子は、
「実はね」
と、本論に入った。
「今日およりしたのは、久しくお目にかからなかったこともあるし、それに少し、私の老婆心をきいて戴こうと思って上ったんですよ」
「そうお、有難う。――どんなことなの?」
「たいしたことじゃないんですけれどね……」
 直子はその時、感情の動揺をまぎらそうとするように、手をあげて、一寸帽子をなおしながら云った。
「あなた――佃さんと大変お親しくなすっていらっしゃるんですって? この頃」
「そうよ」
「それについて――あなたもきっと御承知でしょうけれど、一年ばかり前、私大変佃さんに、いろいろ御厄介になっていたことがあるんですよ。勿論金銭上のことや何かではありませんけれどね、学課の手伝いをしていただいたり、仕事を紹介していただいたりして……」
 直子は、云い出してしまうと、彼女のしっかりした気象をあらわして、よどみなく進んだ。
「本当にこちらへ来てから、やっとお近づきになっただけのお友達ですけれど、年もとっていらっしゃるので、私叔父さんにでも頼るような気がしましてね。――かなり永いおつき合いでしたから、私は、佃さんが人からかれこれ云われなさっても、決して下等な方ではないのは知っています。アパアトの部屋で、夜おそくまで二人ぎりでいたって、それはちゃんとしたものでした。それは私、誰の前でも、公明正大に云って上げられるんですよ」
 伸子は、聞いていて、ほほえましい心持がした。求めもしないのに佃に与えられた信用状を、喜んだこともあろう。直子が佃の行状を保証することで、間接には自分の潔白さをも力説するのが、伸子に、自ら微笑をもたらしたのであった。伸子は、優しく相手の言葉を承認した。
「そんなことについて、私何とか思ったことはなくてよ」
 直子は、輝きのでた眼で伸子を見た。
「あなたはそうですとも。わかっていますわ。ただ当時、ずいぶん迷惑な噂をたてられたのでね、私自分にやましいところは一点もないけれども、佃さんにもお気の毒だし、自分も困るから、一先ずおつき合いをお断りしたんですよ――お話しようと思ったのはね、佃さんには、私、今だって好意を持っていますが、あの人は友達以上に入ってはいけまい、と云うことなの……あなたがよ――きっと幸福に行きませんよ」
「そう? なぜ」
「なぜって……私そう思うんですもの」
「どんな根拠で?」
 直子は、自信ありげに答えた。
「あれだけ御交際しましたもの、少しは解っていますわ、決してわるい方ではありません、けれどもね――私はどうしてもそう思うのです」
 伸子は、云った。
「あなたがそうおっしゃるのも、私には解る気がしてよ。あの人の性質のうちにあるものがね。――そうでしょう? それはよく判っているのです。――私何もかも分らない程のぼせきっているわけじゃないんですもの。――でも、あなたどうお思いになって? 私には一つの信仰があるのよ。――愛は人間を変えると思うのです」
 直子は、急に、漠然として掴みえない眼付で伸子を見た。
「……そういうことも、そりゃあるかもしれないけれど」
「私はきっとあると思うの。つまり、境遇や何かのために下積みになっていたいいものが、順当な光で育ちだすというわけね」
「……佃さんはご親切だし……それは私だって、あの方の幸福は願っていますわ」
 伸子は熱心に云った。
「私は、それに、ただ元気で快活で交際上手な薔薇色の青年は、どうしても好きになれないのよ。人間の苦しさも抜けて来た人でなくてはつまらないわ。暗いところ、悲しいところ、そこも知っているが、立派な明るさ、晴れ晴れしさ、そこも判る。……佃さんは今、暗い方が周囲にありすぎるという状態でしょう? 私、あの人がそこを抜けて、だんだんしっかりした高い明るさを持つ。それをまるで期待しているわけなの」
「…………」
 直子は、そういうところへくると、伸子の心持が見当つかないらしかった。彼女は溜息をついてぼんやり頷いた。
「でも、なぜ私のところへ、こうやって、佃さんは駄目だって云う方ばかり、きて下さるんでしょう……あのひとの方も、こんななのかしら」
 伸子は呟いた。
 直子はやがて、自分の云うだけのことは云ったという実際家らしさで、袋や手套てぶくろをかきよせた。
「とにかく、私いつかっから、思っていたことを聞いていただいて、さっぱりしたわ。用いて下さろうと下さるまいと、やはり申してしまわないうちはね」
 直子は片手の手套をはめ終ると、
「とんだお邪魔を致しました。ではまたいずれね」
と、伸子の手をとった。
「そう?」
 伸子は、何だか変で、間の抜けた返事をした。直子は、しゃんしゃんした足どりで廊下へ出た。
「左様なら」
「さようなら」
 直子は、自分の良心的任務を果した、という信念にみちている風で、右手に袋を抱え、左手を振って、廊下を遠のいて行く。――角を曲るまでその後姿を見送って、扉をしめると同時に、伸子は、何ということなく、力無い歪んだ微笑を口のあたりに浮べた。
 二週間たたないうち、伸子はもう一つ、不意な訪問を、不意な人から受けた。
 ある午後、一枚の名刺が渡された。田中寅彦という、伸子の父の友人の子息であった。彼女は、その青年とは初対面であった。伸子は、広間へ降りて行った。彼は、アルコウヴで待っていた。いかつい、ややぞんざいな調子で初対面の挨拶をすますと、彼はいきなり怒ったように訊ねた。
「きのうある処で、あなたが佃君と婚約をするとかしたとかいう噂をきいたが、事実ですか?」
 何用かと思っていた伸子は、驚いて青年を視た。皮膚の浅黒い、東洋人的に眉の吊り上ったこの青年が、そのことに何のかかわりがあるのだろう。伸子は、不快を感じ、冷やかに答えた。
「何かあなたに関係おありになりますの?」
「関係なんぞあるもんですか。私はただ、自分の親父とあなたのお父さんとが友達だという縁だけで来たんです――解っているのに注意をして上げないのは悪いと思って。――佃君は偽善者ですよ」
 伸子は、正面からじっと田中を見つめた。
「なぜそうお想いになりますの?」
「そう思うのではない、そうなのです!」

 これらの訪問者以上、伸子の神経を疲らせるのは、佃の、再び懐疑的になった感情であった。グラント将軍の墳墓のまわりを歩きながら話した夜の、熱の籠った確乎たる彼はどこかへ消失した。佃は却って、前より恐ろしく感傷的になった。伸子は、外界から来る不安や不愉快さを、彼との対座で忘れ、互に勇気づけようとした。
「ね、本当に私どもは好い生活をしましょう、自分達さえ動じずにやって行けば、何がきたって安心よ。ね、助け合ってよくしあう生活をしましょうね」
 佃は、喰いつくように伸子を見守った。そして、沈鬱極まる調子で呟く。
「どうかそうしたいものです。しかし……分らない……時が万事を証明するでしょう。それまでは Great big“IF”です」
「――どうして? 私どもはもう決心したのじゃないの? 決心したら決心し甲斐のあるようにやって行くだけじゃありませんか。卑怯よ、今更そんな……」
 彼らは互に片時も離れられないように、ますます執着を深めつつ、絶え間なく、そういうこじれた熱情の衝突から涙を流し合った。
 復活祭が過ぎ、北方の気が遠くなるような五月が来た。樹々は一斉に新緑に包まれ、溢れる日光を受けて歓びおののいた。空気にも、朝も、昼も、夜も鼻翼をくすぐる若葉の香がみちた。郊外の林間では、腐った去年の落葉の下から、いろいろな野花が咲きだした。夕暮、眠いもやがその上をこめると、沼地で、シュワア、シュワア、シュワア、シュワア、馬の毛の弓で胡弓をこするような、小動物の合奏が起った。ツチョツチョツ、チュル……行々子よしきりさえずる。自然は夜じゅう、気ぜわしい春のざわめきを聴いた。
 伸子は、初夏の波に押されるように、自分達の運命にたいして性急になってきた。彼女は、よく夜通し眠らなかった。
 伸子は、大学の永い夏期休暇が始まるとすぐ、佃と一緒に、ある湖畔の避暑地へ出発した。彼女はその計画に不賛成であったミス・プラットや寄宿舎の監督等との、一切の交渉を、非難を覚悟して絶った。

 伸子たちは、十月近くまで湖畔にいた。都会へ帰ると、彼らは、自分たちの結婚を知人のあいだに通知した。彼女にとって記憶すべきその日は、秋の細雨が市街をぬらしていた。彼らは、晩餐に、ブロウドウエイのある料理店へ行った。彼らは言葉すくなに、食卓の上の飾電燈の輝きを見守っていた。すると、伸子のすぐ背後の仕切りの向う側で、無遠慮な男の日本語がはっきり聞えた。
「おい、佐々伸子が結婚したってさ」
 別のしわがれた声が応えた。
「へえ、……一体どんな奴だい」
ちんくしゃんさ。――佃とか何とか云うアメリカごろとくっついたのさ!」
 ――伸子は、高く酒を啜る音を聞いた。



 雨夜で、壁に行燈あんどん形の電燈のついている玄関は陰気であった。古びた天井が低くかぶさるようで、薄い絹の靴下一重の下に、畳がつめたくかたく触った。どうしたのか誰一人でてこない。屏風箱の置いてある狭い板敷へ来かかると、ひょいと突き当りの曇硝子の戸から、女中の不用意な顔があらわれた。四人、父を先立てて来るのを認めると、びっくりし抜いたようだ。
「まあ!」
 挨拶もせず、いきなり奥へ駈けこんだ。さらさらと爪先をするような聴きなれた母の跫音がした。伸子は、母が床についているとばかり思いこんでいたので、その軽い速い熱心な足どりを聞きつけると、自分が帰ったときいて、亢奮のあまり立ってきたのではないかと、ぎょっとした。伸子は、急いで厚い扉を開けようとした。向う側からも急にハンドルをガチャガチャ云わせ、戸が開かれた。女中とかさなり合うようにして、多計代がでてきた。
「まあどうしたえ、伸ちゃん!」
 感に迫った顔なので、伸子も言葉がでなくなり、母の手を執った。
「大丈夫なの? 起きていらしって」
「ああもう大丈夫なの。――さぞ寒かっただろうね、……それでもまあよく無事で」
 伸子は、
「さあお床へ行きましょう」
と、お召のどてらを羽織っている母の背中に手をまわした。
「もういくらでもゆっくり話せるんだから」
 母は、伸子が軽く押すのをこばむように、足に力を入れた。
「本当に大丈夫なの、心配しないでも。――大抵起きているのだから」
「――だって――」
 伸子は、疑問を感じて母の顔を見た。母は少しやつれ、髪を引っつめにしている。伸子は、小声で訊いた。
「赤ちゃんは?」
 母は、微かに間の悪そうな表情で、
「いいえ、それがね」
と、低いなりにしっかり云いかけたが、
「いずれあとですっかり話すよ」
と囁くと、急に晴れ晴れ声を張り上げて、下の娘を呼んだ。
「つや子ちゃん、つや子ちゃん、どこにいるの、お待ちかねのお姉ちゃまがお帰りですよ」
 そして、先へ立って、父や弟達もいる部屋の戸をあけた。
「おかしな子だこと、今朝からあんなに大騒ぎをして待っていたのに。――火のそばへ行くといいわ。生憎雨降りでねえ、今日は」
 伸子は、自分の生れた家へ、一年ぶりで帰ってきたのであった。彼女は、座敷や廊下を歩きながらなぜだか親類へ客にでもきたような、一種のそぐわなさを感じた。伸子は、煖炉わきの長椅子にかけた。相対したもう一脚の方に父、弟が並んでいた。久しぶりで会った懐しさは、互の胸に流れ合っていた。が、さて何から切り出そう? 伸子は笑いながら、
「どうした?」
と弟に云った。
「ふ、ふ、ふ」
 わずかの間に青年らしさの加わった彼は、間が悪そうに、はにかみ笑いをした。
 父は、着物を着換えに去った。母は、テーブルの横に坐って、食事の指図をしている。母の後の壁には、鮎の額が懸っている。その絵も、部屋の隅に積んであるビスケットの罐の工合も、昨年の九月すがすがしいある朝、あわただしく眺めて出発した時のままのようだ。それだのに、人と人との間には、やはり、口に云い尽せない多事な一年の月日が横わっているのを、伸子は感じた。
 大体、伸子の帰朝は、彼女自身にとってさえ突然な出来事であった。彼女はその年の内に帰ろうなどとは、夢想もしていなかった。彼女はつい十月の終りに、佃と結婚したばかりであった。大学に近い質素なアパアトメントで、新しい生活が、やっと始まったところであった。結婚に関して、両親との間に頻繁な書簡の往復があった。その中に紛れこんだような一通の手紙が、伸子を驚かした。父から、母が来る十二月中に出産の予定であること、かねて重症の糖尿病があるため、医師も経過については決して楽観していないこと、この際伸子が彼らの手元にいないのを遺憾とすること、などを告げて来たのであった。伸子は、当惑した。彼女は両親を愛していた。彼らが自分を求めるのを、とても冷然としりぞけることはできなかった。同時に、佃との生活に十分未練があった。佃は、今、C大学を去ることは不可能な状態であった。もし帰るとすれば、伸子は独りで帰らなければならないのであった。
 彼女は、いろいろ考えた末、到頭帰国することにした。自分と佃との別れは、これが最後となるのではない。けれども、母の命を誰が予言できるだろう。
 伸子は、無理をして船室をとった。十二月の荒い太平洋を横切って進みながら、彼女は自分を待っているだろう母と、外国へ遺して来た佃のこととを思いつづけた。淋しい航海であった。日本へ近づくにつれ、不幸が待っていはしまいかという不安が募った。横浜に入港する二日前、伸子は入港時間を知らせかたがた、安否を問い合せる無線電信を打った。
 丁度その夜、船では舞踏会があった。十時過ぎ、伸子は、サロンの手すりから、下で舞踏する人々を見下していた。船は盛に揺れた。音楽の間にドドドウとふなべりを打つ重い濤音とともに、ギギギと船全体を軋ませ、ぐうっと右にロールした。踊り手達は華奢きゃしゃな靴の踵の上で辷った。ずるずる辷りながら、女達は、覚えず対手の男に捉まった。男は脚を踏張って対手を支え、踊りを忘れてどよめいた。不意なその辷りが余興で、そのたびに崩れるような笑い声、陽気な女の叫び、拍手が人々のうちからどっと起った。船内の広間は暖かで華やかで、亢奮している。その浮々した歓楽と、外の暗い冬の海の咆哮ほうこうとを対照して、伸子は鋭く感じた。
 一人のボオイが、その室の入口に現れた。手に紙切を持っていた。夕刻から、返電を心待ちにしていた伸子は、その方へ注意をひかれた。ボオイは暫く踊る人群れの間を縫い、やがて元来たところから外へ出た。手に紙片を持ったままだ。伸子は手すりにそった低い椅子の一つから立ち上り、大階段の上まで出て見た。両腕をぶらさげ、歩調に合せて呑気にその腕を、体の前で振りながら階段を登って来たボオイは、そこに佇んでいる伸子を見ると、職業的にかたちを改めた。
「佐々さんでいらっしゃいますか」
「――電報?」
「ただいま受信いたしましたそうです」
「どうも有難う」
 伸子は、直ぐそれを開き、立ったまま読んだ。「ハハアンザンアンシンアレ」――母安産安心あれ――。伸子は、自分の耳に、急に強く、空虚に、舞踏曲が響いて来るように感じた。二週間前にこれさえ来たのだったら! しかし、伸子は自分の感情を克服した。
 母の顔を見るまで、伸子はその電報の打たれた日に、弟か妹かが生れたもの、と信じていたのであった。
 やつれこそ見えるが、勿論母の様子は、一昨日新たな子を迎えた人ではなかった。そして、また、なぜ彼女は、伸子がそのためばかりに、弾んだ呼吸も聞えるだろう程せきこんで帰ってきたのに、ああ軽く、何気なく云い紛らしてしまったのだろう。伸子は家じゅうの空気に、急に帰って来た者を整わない準備で迎えるざわめきばかりを感じた。母には、何のために伸子が今頃帰ったか、解っているのだろうか。――
 伸子は、膝の上に抱き上げていた妹を下した。彼女は、外に洩されない不満の吐息を深く内に吸いこみつつ云った。
「さあ――そろそろ着物着換えようかしら……」
 彼女は立ち上り、外套にくるまったままでいる自分を見廻した。
「これじゃあくつろがないし、何だか変だから。――私の着物はどこ?」


「何しろ私が寝ていたから、どうも手の廻らないことと云ったら、お話のほかだよ」
 多計代は、テーブルに両手をついて立ち上った。
「さっき温めて置くように云ったのだけれど、どんな有様だか」
 伸子が出発する頃は普請中であった部屋部屋が、すっかり今は住み馴らされていた。母の居間は手綺麗な四畳半になっていた。低い茶室好みの襖が二人の背後で閉まると、伸子は、
「ねえ、どうしたの、いったい」
と云い出した。
「何だか行き違いがあるようね」
 炬燵こたつの火加減をなおすのにうつむいたまま、多計代は答えた。
「ああ。――実はお前が、こんなに急に帰ろうとは思っていなかったのでね」
「どうして?」
 伸子は意外なことをきくと思った。
「あの手紙を戴くとすぐ電報を出したのに、着かなかったの」
「私は父様がそんなことを云っておやりになったなんてこと、ついこの間までちっとも知らなかったのさ。――けれども、今度こそ覚悟したよ。予定より俄に早くなったので、いざという時、産婆さえ来ていないと云う始末だったもの」
「いつだったの?」
「十一月の二十八日――一月早かったわけだね」
「…………」
 伸子は何も知らず、その日、サンフランシスコに着いていた。
 多計代は、黙っている伸子をしげしげ見ながら云った。
「でもまあ、伸ちゃんもよく元通りになれたね、あっちで病気をしたと聞いた時の私の心持ったらなかったよ。あの時は、こちらでも、家じゅう枕を並べている有様でねえ」
 多計代は、一寸言葉を途切らせた。
「それにお前……追々話して、お前の考えも聞かなければならないが、ひどい心配をしたよ」
 伸子は、顔をあからめた。
「遠くていろいろはっきりしなかったから」
「それもそうだし、第一佃さんという人のことは、父様から一寸伺って知っているだけじゃあないか。それもああいう人のいい方のおっしゃることだから当にはならず、妙なことを聞くしさ。――どっちみち帰ったら判ると思って、本当に、私は待ちかねたよ」
 母の調子は慈愛深く、恨みながら許している暖かさがこもっていた。伸子は、初めて自分が想像していたとは全く違う意味で待たれていたのを知った。何だか家の気分が、自分の心持としっくりしなかった理由が氷解した。それと同時に、いままで、幾分神経的な鋭さで緊張していた伸子は、親の温情が湯のように自分を囲むのを感じた。多計代は、娘に対するというより、むしろ年下の若い女に好意ある揶揄やゆをするという風に、笑いを含んで云った。
「――それでよく感心に、一人で帰る気になれたね」
「だって大変だと思ったし……」
 伸子は、母に面と向って、佃の名を口に出すことを変に極りわるく感じ、省略して云った。
「今はどうせ大学を離れられなかったから」
「一人で却ってよかったよ、いろいろ相談しなければならないからね、家としても重大な問題だから。父様はああいう方だからお前には何にもおっしゃるまいが、大変だったのさ、私ばかり――内と外でね」
 多計代は、伸子が脱ぐ薄いブラウズや可愛いレース飾りのついた細々したものを、いちいち手にとって眺めた。
「女のものは何処へ行っても綺麗だね、これは何と云うもの?」
 彼女は、出発の時、自分も一緒に手伝ってトランクにつめてやったものを、伸子が身につけていたのを認め、懐しそうに云った。
「おや、まだそれを持っていたの?」
「相変らず……着物なんぞ一向拵えなかったのよ」
「私の上げた短冊はどうなったろう」
「あるわ」
 多計代は、伸子が出かけるという朝「かなし子よまさきくてあれ海遠くわけへだつとも母見まもれり」という歌を一首、餞別としてくれたのであった。
「奥様」
 女中がそのとき、襖の外から母を呼んだ。
「そろそろ御飯のお支度ができました」
「行こうじゃないか」
「ええ。――でも赤ちゃんを見たいわ、前に」
「ねんねだろうよ」
 母は先に立って、廊下を一曲りした座敷の唐紙を開けた。電燈を一隅によせて、薄暗く覆いのしてある下で、看護婦が洗濯物をたたんでいた。小さい枕屏風にかこまれて、針さしのようにふくれ上った赤い蒲団がある。伸子は、抜き足をして近より、膝をついて、すやすや睡っている嬰児の顔を見た。小さくて、母似か父似かさえ判らず、妹という感じが適切にしなかった。彼女は、背後からかぶさるように中腰になって覗きこんでいる母に、顔だけ仰向けてささやいた。
「名、何ていうの」
「ゆき子としたのだけれど」
「お乳くさいのね」
 皆のいるところに戻ると、父が機嫌よく冗談を云った。
「やっとお出ましだね、大分内証話があったと見えるな」
 伸子は次第にくつろぎと楽しさが心や体にしみこむのを感じた。


 金属の何かを、小さい槌ででも叩いているらしい、澄み渡ったカン、カンカンカンという連続的な音で、だんだん伸子は眼を醒した。人の手先が細かに動いて発するその音には濃やかさがあり、その音のために却って朝の閑寂が増すようであった。伸子は、響の工合で、外は晴れているのを知った。
 今頃は、佃が何をしている時分だろう。一夜明けた今朝は、自分の帰って来た意識が鮮やかに迫って彼女は淋しい心持がした。
 母は、食事部屋のテーブルで手紙を書いていた。
「お早う」
「どうしたい、よく眠れて?」
 多計代は筆を置いて、硯を片よせながら云った。
「久しぶりだねえ、こんなにして御飯一緒にたべるのは。昼間は淋しいくらいだよ、皆留守になってしまうからね。――何をたべるかい」
「母様は何をあがるの」
「私はパンよ、この頃」
「じゃあ私もそうするわ」
 伸子は昨夜、母と床を並べて寝た。彼女達は真暗な中でいろいろ話した。今朝も、母の話題は無限らしかった。伸子も胸一杯あることはあるのだ。けれども、それらはどれも母の経験外のものだ。まして、
「ねえ母様、あの人今、どうしているでしょうね」
 などと云えようか! 一番云いたいことを控えているため、伸子は窮屈であった。多計代は、久しぶりで話対手を取り戻した悦びで、伸子のそういう感情に無頓着に、さも愉快そうに云った。
可笑おかしいじゃないか、父様ったら今朝しきりに、伸子が昨夜何を話したっておききなさるんだよ」
「そうお、父様を仲間はずれにしたからよ、きっと。――何ておっしゃって、それで」
「何って、話したことをまた話して上げたの」
「満足なさった?」
「特別に私と寝たいって、お前が云ったろう。だもんで何か――お前が身持にでもなったのかと思ったっておっしゃるのさ」
 多計代は、そう云いながら、何と突拍子もない笑い話でないか、という風に笑った。
 伸子は妙な苦々しさを感じた。もし、実際自分がそういう体であったら、このように、そんなことはあり得ないと思いこんでいるような母は、どんな顔をするであろう。彼女は、母の微妙な言葉の抑揚から、はっきり、自分の結婚がどうとられているかを理解した。昨日船まで出迎えに来てくれた父が、そわついて、人目をはばかるようにしていたのと思い合せ、伸子は厭な心持がした。
「本当に世間なんて厭なものさ、お前のことが知れると、津村の奥さんなんか、ふだん足踏みもしたことないのに早速やって来てさ、それ見たことかと云わんばかりのことを云うしね。会わなければ会わないで、なおさら変に思われるから、大きなおなかを抱えて、苦しいのを堪えて、いちいち会う思いったらなかったよ」
「あの娘は我まま者ですからって、泰然としていて下さればいいのよ」
 多計代は、伸子がそう云っただけで、自分の受けた苦痛に対して感謝しないのが、不満らしかった。むっとした調子で云った。
「それはお前は遠くにいるんだし、すき勝手をして有頂天になっていたんだから、泰然とでも何とでもできるだろうが、私どもはそう簡単には行きませんよ。これだけにしていれば、少しは体面ということもあるからね」
 伸子は、両親の心遣いをおろそかに思っている訳ではなかったが、そういう風に云われては心外という心持がした。
「いろいろ御心配をかけたのは本当に悪うございました。けれども、私は母様をないがしろにしてああしたのではなかったのよ。ほかにしかたがなかったから――」
「そうは思えないね。すきな者なら好きでいいから、もう少し、私どもの顔を立ててくれる方法もあったろうじゃあないか。第一、私は一度も会ったこともない人だし――それに――」
 多計代は深い疑いを声に現して云った。
「その佃という男が私には疑問だよ。――私ばかりじゃない、皆疑問をもっている」
 伸子はもういつの間にか、佃は「さん」づけにする価値のない者、と心にきめたように、佃、佃と呼び捨てる母の口調が、悲しく可笑しかった。
「どうして? 細かく申上げたじゃあないの」
 母は、鋭く伸子を見た。
「そうさ、お前は正直に云ってよこしたろう。けれどもそれはお前の見た――見たと思う佃さんだろう? 佃さんがお前に話して聞かせたこと、だろう? それが間違いないその人の全部かい?」
 伸子は、烈しい母の言葉を受け留めるように答えた。
「あの人は私に嘘はつかなくてよ」
「どうかそうであるように祈るよ。一生のことだからね。――私だって、お前の愛する者はそのまま信じたいさ、お前が愛するように愛しても上げたいさ、できることならね。けれども、疑いがある以上、私はその疑いがすっかり晴れるまでは信じませんよ。――私の性質だから。――これまでだっていつも、私一人が憎まれものになって、いろいろあぶないところを切りぬけてきたのだ」
 伸子は、きっぱりした母の語気に一種の圧迫を感じた。彼女が自分の意力で、今度のことまで、壊せば壊せそうに信じているらしいのが、伸子を不安にした。伸子は、反問した。
「母様には何が一番疑問なの?――若し説明できる事ならした方がいいわ。何故と云うと……」
 伸子は、予期していたものに愈々ぶつかったのを感じた。
「今度のことは私、遊びではないの。万一、母様と私との意見が違っても、私の決心は変らないの。だからできるだけ解り合いましょうね」
 多計代は、紅茶をさして、一口飲んだ。
「……いつかは話さなければならないことだからそれもよかろう――皆はお前が騙されていると云っているよ」
「あの人は、自分に何もないことを、初めから隠してはいなくてよ」
「隠さないということで、お前の子供らしい歓心を買っているのさ」
「まさか!」
「じゃあなぜ、ちゃんとした紳士らしく、お前が何と云っても、一先ずは帰って来てだね、私どもの承諾を得てからにしないのだえ。――相当な親がついているから、どっちに転んでも損はないと思えばこそ、お前をつかまえたのだろう?」
 伸子は、母の手をとって、自分の手の中へ押しつけた。
「それは思い違いよ。絶対に。それにこういう事柄は、一方だけのものじゃない、私だって、責任は半分あるのよ。第一、母様のように考えたら堪らないわ。私なんぞ、そのために騙そうと思うようなもの、何も持ってやしないじゃありませんか」
「……ものには程度があってね、零に比べれば一でも、ある部になりますよ」
 多計代は、手をとられたまま、気を許さず、じろじろ伸子の顔や髪を眺めていたが、やがて、
「だがまさか、大学にいるというのは嘘じゃあるまいね」
と云った。
「え?」
「いいえね、佃というのは、洗濯屋だって云った人があるからさ」
 伸子は、深い憤りを感じながら、これには真面目に対手されず、
「何とも分らなくってよ」
と答えた。
「若しかすると親類じゅうの洗濯ものを買いしめる魂胆かもしれなくてよ」


 伸子は、自分が変って帰って来たのを感じた。伸子の心と生活の中には佃というものが加わった。
 両親の方でも何かさっぱりしないものがあって、元の伸子に対するような心持になり切れない。そういう日が続いた。
 日が経つにつれ、佃に対して多計代の感情が落着かず、混雑しているのも、前後の事情に照せば無理ないと、伸子にも思えるようになって来た。伸子が手紙で云ってよこしたこと、佐々が話すこと、それらは、新聞だのその他から彼女の耳に入る噂とは、全然性質が反対なものであった。自分の目で佃を見たことのない多計代が、そのどれについて彼を判断してよいか分らず、彼女に知れているのは良人の好人物さや伸子の世間見ずで、一本気な点ばかりであって見れば、つい、一番どうとも想像し易い佃を、不信と悪意とで考える方に傾くのも、一応止むを得ない勢いであったろう。
 けれども、伸子にして見れば、母が、娘の周囲に現れる男と云えば、きっと悪党ででもあるかのように、没常識な警戒心を抱くのが恐ろしかった。佃が貧しく、社会的背景も持たないため、多計代は一層、彼女の疑惑を深めるのだと思うと、伸子は公憤を覚えた。
 再び伸子が手許にかえったことは、彼女にとって勿論悦びなのであった。差し向いになると、伸子が留守であったあいだの寂しさや苦労を、話さずにはいられないらしかった。話せばどうしても佃のことに触れずにはいない。佃の名が出ると、多計代は平静を失った。
 父が会社に出勤した後の永い昼間が、伸子にはかなり重荷となるのであった。
「伸ちゃん」
 多計代が居間から伸子を呼ぶ。伸子はたいてい、自分の部屋にいた。母の憚りない呼び声が、ぼんやり彼女に迷惑な心持を与える。が、伸子は直ぐ立って行き、そして、母の居間の唐紙をあけた。
「何御用」
 多計代は、膝の上に染物の色本をくり拡げていた。彼女は明るい障子の方に本を近づけ、しきりに色を見わけながら云った。
「喜久屋が来たんだがね」
「何をお染めになるの」
山繭やままゆが一反あるから、羽織にでもしようかと思って――どうも近頃はもとと違って、染草が悪いのか、気に入った色がすくないねえ」
 多計代はやがて、思い出したように伸子に訊ねた。
「そう云えば、お前の持って行った紫友禅の着物はどうなったえ」
「あるわ」
「もうあれも着られまいね、いい模様だが――」
 なお、色本に半ば気を奪われつつ、
「どうする積りだえ、着物だって少しはどうにかしなくちゃあなるまい」
「よくてよ、……いらないわ」
「いらないったって、そうもゆくまい。……じゃあ、まあこれにでもして置こうか」
 多計代は、女中に白地の反物と色本とを渡し、箪笥をしめながら、次第に考えが拡がってゆく口調で呟いた。
「――一体、佃さんのお国はどんなところなんだろうね」
「さあ……なぜ? まだ行ってみないから私も判らないわ」
「だってさ、妙なお国風だね、とにかくこうやってお前が帰ってきたら、一応何とか御挨拶があって然るべきだろうと思うね。――それとも何かい、佃さんは親御に云ってやらないのかい?」
「そんなことなくてよ」
 多計代は、自尊心を傷けられたような皮肉さで云った。
「――嫁の親から御挨拶申上げるまで、黙っていらっしゃるというわけだろうか」
「何と云って来ていいのか、見当がつかないから黙っているんでしょう。当人が帰ってでも来れば、きっとちゃんとするでしょう」
 伸子は仕方がないから、呑気らしく云った。それが多計代を不快にした。彼女は、
「お前がた同士は、それでもよかろう、どうせ万事普通と違うのだから――」
 パタンと環を鳴らして箪笥をしめた。
「けれども、私はこの間から考えているんだが、人並はずれたことが必ず正しいこととは定っていないからね。奇ばかりてらうのははたの迷惑だよ」
「奇なんぞ衒っていやしないわ。ただ母様と私と性質も違うし、ものの考えようも違うというだけじゃないの」
「じゃあお前は一から十まで自分のすることは正しいと信じているのかえ」
 予想もつかないことから、こういう感情的な議論になることが多かった。伸子も初めは、いつも節度を保とうと努めた。けれども、多計代の熾烈な、対手を容赦しない性格は、最後には伸子をも、むきにさせずに置かなかった。むきになると、伸子も母同様、屈しない激しい生れつきをあらわすのであった。
 一月下旬のある日のことであった。
 小さなことから、また話が激してきた。伸子はほとんど困惑して云った。
「私が帰ってから、同じことばっかり繰り返しているようなもんだわ。――もうやめましょうよ、ね。……私、母様のお志はよく判っています。けれども――こういう風に話すのはやめましょうよ」
 すると多計代は上気した頬で突っかかるように、
「お前も変ったね――もとは決してこうではなかった」
と云った。
「お互にどこまでも、意見を交換するだけの真心と純粋さを持っていた。それがお前の身上だった。誰の感化だか知らないが、新しい態度だね……」
 伸子は胸のどこかを小突かれたように、感情が燃え立つのを感じた。多計代は、女ばかりが――或は娘に対して母ばかりが心得ている本能で、いつもこういう風にうまく、伸子の急処に毒針を突き立てた。そして、対手を猛々しくする。しかし、その日は、伸子もやっと自分を制して答えた。
「私は狡くて避けるんじゃないのよ。ただ、議論のための議論のようなことはしますまいと云うの」
「それが勝手だと云うんです――自分はさんざん好き放題をして、親の顔に泥を塗る。しかしお前は冷静でいろと、そんな註文ができる義理かえ、抑々そもそも苦しい思いをして、何のために外国へまでやったのか、少しは私の身になっても考えて見るがいい」
 涙をこぼし、口惜しそうにその涙を拭く多計代の、年のやつれの現れた指つきを見ると、このようなことで云い争う母娘のみじめさが、伸子の心にこたえた。彼女は、向い合って腰かけていたのを立って、母の膝の下に、絨毯の上に坐った。そして、なだめるように、自分を理解させようとするように云った。
「ね、母様、それじゃ一つ佃という人間を離れて見てちょうだい。どっか母様の知っていらっしゃる人の中で、私が愛してもいいとお思いなさるような人があること? これまで私の囲りにあらわれた人と、一人でも自由に交渉させていいとお思いになったことがあって? ないでしょう。どんな人だって、その人が私と深い交渉を持ちそうになると、母様の目には価値ない者となってしまうんですもの」
「……大変な悪婆あくばばですまないね」
 ふいとわきを向きそうになる手をつかまえ、伸子は、
「そんな意味じゃなく、さ!」
と云った。
「母様は大体、公平に云って、一種の理想家すぎるのよ、私のこととなると。――ね? 私の仕事とか成功とかについて、どんなに御自分が沢山の希望をかけていらっしゃるか――それは考えて下されば分るでしょう? 母様は、ある点で御自分の生活ではできなかったことを、私にさせたいと思っていらっしゃるのよ、ね? そうでしょう?」
「それはそういうところもあるだろう」
 多計代は、これに対しては、憤りもできないという風に答えた。
「大いにあるのよ。母様には、恋愛なんかから超越して、ひとり高く浄しというような、私を見ているのが趣味なようなところがあるのよ」
「何も独りでいろと云いやしません。いい人さえあれば、お前を啓発してくれる人がありさえすれば、いつだって私はよろこんで迎えますよ」
「……結婚する気持が――多分母様とは違うのよ」
「それはおっしゃるまでもなくわかっているよ」
 辛辣な調子に戻りながら、多計代は口を挾んだ。
「お前の考えはボルシェビキだ」
「――普通、娘さんはお嫁に行って落着いて、良人と同化して、最も現在の社会に安定な生活を得ようとするのが目的でしょう? だから同じ階級、同じ伝統をもった家、または少しか或は沢山、運命が許すだけ成り上ることを条件とする――違うというのはここなの……私は自分が育ったようにして育ち、自分が見てきたようなものばかり見てきた。その親達も母様達とそっくりだというような男には、ちっとも興味を感じない。それどころか不安よ。だから私が牽きつけられるときは、いつでもきっとその点だけでも何か違ったところがあるものだということになってしまうの。――お分りになる?……だから、佃がよい、わるいは抜きにしたって、この点で、どうせ母様は満足おできなさらないだろうと思うわ。私は野蛮人だから、生活だって何だって、自分の手で自分の欲しいのを掴んで見なければ承知しないたちなのよ……」
 伸子は黙った。多計代も黙っている。二人は永いことそうやって、煖炉の低い焔が、時々ひら、ひら、燃え上って、あたりをぼんやり赤く照す夕闇の中にいた。


 空が晴れ渡って、風が、椿つばきの艶ある葉をゆるがして吹いた。
 山吹がもしゃもしゃ茂り、小枝の折れ、落葉など、雑然とかさなりあっている手入れされたことのない庭の隅に、杜若かきつばたがぞっくり揃った芽を出していた。青々したその芽生えのところだけは、特別日光がたまるかと思うほど、明るく美しく見えた。――暖かい。……眼を細め、その強い緑色の中にある明暗を眺めているうちに、不思議な烈しい感覚が伸子の全身を流れた。伸子は、喉につっかけてくるようなときめきを感じながら、力一杯のびをした。彼女は、拳固を握ったまま、その腕をぐるりぐるりと振りまわした。腕が白く光って震えた。
 風がまた渡った。――真竹の藪がさやさやと鳴った。離れの縁側で、保が熱心に何かやっている。近よりながら伸子は、
「何やってるの」
と、声をかけた。
「――来たの」
 あどけない生毛うぶげの渦巻のある横顔を見せ、保は、覗きこんでいる箱から目もはなさない。
「なあに」
 伸子は弟の肩越しに首をのばした。それは二尺に三尺ぐらいの苗箱であった。細かい細かい黒土を見事にふるいならしたところに、四分ほどに延びた芽生えが、弱々しく、ひょろり、ひょろりと並んでいる。
「何の芽生え?……少し貧弱みたいね、いいの、それで」
 保は、はじめて、
「ちっとも好かあないさ」
と、当惑そうな表情で伸子を顧みた。
「シクラメンの実生みしょうなんか、専門家だってそう楽々じゃあないのさ。だから僕なんか下手なのあたりまえなんだけれど……悲観しちゃうなあ」
 伸子は、笑いだした。
「でも感心に、生えたじゃないの。――だんだん大きくなるんでしょう?」
「――解らないさ、そりゃあ腐り易いんだもの。芽をだすに都合よく暖めると、すぐ泥にかびが生えちゃうし。――困ったことに、ほらこういうの、ね、変に勢いがないでしょう」
 保は、箱の隅の凋れた一本の芽を指さした。
「なぜこうなるか原因が判らないの。泥や何か、本に書いてある通りにしたんだけれど」
 保は十四歳であった。彼は冬じゅう、この箱を縁側に持ちこんで火鉢を入れたり、硝子の蓋をしたりして、発芽を楽しんでいたのであった。
 思いがけず相手ができたので、保は盛にシクラメン培養のむずかしさを説明しはじめた。これは生えても数年後でなければ花を持たないこと、温度と湿度の調節が蘭栽培に劣らず困難なこと。彼は、暇さえあると抱えて歩いている園芸の本からよくも覚えこんだ知識を、雄弁に、しかし、ところどころで子供らしくごちゃごちゃにしながら話すのだ。
「ね、だから温室なしじゃあできないのあたりまえさ。――こないだなんか僕の知らないうち、犬が足を突っ込んで、根こぎにしたりするんだもの」
 伸子は愛情から、短い受け答えをした。けれども、正直に云うと、伸子は保の云うことを、半分も聴きしめてはいないのであった。彼女の心持は朝から均衡を失っていた。注意が散漫になって苦しいので、部屋を出てきたのであったが、三月下旬の庭の生動する雰囲気のうちでは、かえって彼女の内にわだかまっている重い、激しい、同時にものうい心持がつのるようだ。
 伸子は、離れを、ぐるりと風呂場の裏へ廻った。石炭殻がザクリ、ザクリと大きな音を立てた。
「だれだい」
「私」
 ガラリと窓が開き、つや子が、
「お姉ちゃまあ」
と目を覗かせたそばに多計代の縞の羽織が見えた。
「保さんは?」
「フレイムのところでしきりに悲観しているわ、シクラメンが腐るって――」
 つや子が、
「ね、お母ちゃま、いいでしょう? 大丈夫僕もういいのよ、ねえ、お母ちゃま!」
と云うのが聞えた。つや子は、兄ばかりの中にいて、自分のことを、僕、僕と云うのであった。
「駄目ですよ、また細谷さんを呼ぶようになりますよ」
「――なに駄々こねてるの」
「外へ出たいって云うのさ、まだ起きて二日にしきゃならないのに、外へなんか出るとまたすぐごほん、ごほんになってしまうのに――しようのない喘息やさん」
 伸子は、ぶらぶらそこから女中部屋の横へ出た。障子が麗らかに開け放され、すぐ窓際に、女中が向い合いで縫物をしていた。二人ともうつむいて、焦茶地に黒く細かいかすりの銘仙男物の着物と羽織を縫っている。それを見ると、伸子は制している感情が、その衣類に向ってほとばしるような動揺を感じた。佃の着物であった。彼の帰る支度にそうやっていそいで縫っている。――伸子は女達に気づかれないように、客間の庭へ去った。――
 去年の十二月に帰って来て以来、三月になるまで、時に伸子は、佃に会いたく涙の出るようなことがあった。しかしどんなに騒いだところで、彼の仕事が一段落つかなければ帰れないのだという諦めが、一種の支えになっていた。ところがいよいよ、佃は四月早々帰朝することにきまった。特に三月十九日、彼を載せた船がシアトルを出てから、伸子は圧搾されて来た待ち遠しさで、潰れそうに感じだした。彼が横浜に着くまでの毎日が、恐るべき無聊ぶりょう、期待のあまりの、精神的不活溌のうちに過ぎた。もし小遣いでもたっぷりあって、彼を賑やかに迎える支度でもできたら、伸子は大分助かったに違いなかった。けれども、彼女には金などちっともなかった。佃の旅費に、伸子は自分の力でとった金のほか、相当な額を両親に出させていた。
「私いろいろ買いたいものがあるのよ、お金頂戴」
などと、それ故、云える状態ではなかったのであった。第一、佐々の家で、佃が数日中に帰るということを悦んでいるものは、一人もなかった。夜など、両親が何かひそひそ話しているところへ、何心なく伸子が入って行く。彼らは急に黙り、
「何か用かえ」
と訊かれた。そういう時、両親は、親というより夫婦として強く伸子に感じられ、悲しく疎外された感情が彼女をおそう。自然に現す道が塞がれたこの待ち遠しさで、伸子が独りいて佃を思うと、病的な熱さが心を苦しめるのであった。
 やっと二日になった。その日は日曜日であった。
 眼がさめると伸子は、ああもう今日一日だ! と思った。今日一日……今日一日……その一日が何と自分を疲らすであろう!……伸子は人に顔を見られたり、口をきいたりするのがいやであった。このまま寝ているところへ、佃が急に入って来てくれたら、どんなに嬉しかろう。
 憂鬱なくらいの気分で、伸子は食事部屋へ出て行った。テーブルの上に一人前の食器が出ている。傍で多計代がカステラを切っていた。
「――お客さま?」
「たてつづけさ。――お休みでもこれだから、家にいらしちゃ何にもなりゃしないね……」
「そうそう」
と、多計代は急に、自分の前にある菓子折の包紙や水引をかきのけた。
「電報が来ていたよ」
「電報?」
「船からだろう。今そこにあったのに……」
 伸子は俄に動悸を感じ、一緒になってその辺を探した。今になって変事でもあったのでは堪らない。
「名があったこと?」
「さあどうだったか……」
 その落着きようが、伸子には不自然に思え、不愉快であった。電報は時事漫画の下から出て来た。発信人ツクダという文字を見て、伸子は幾分安心した。
 二カゴゴニウコウとある。
「二日――二日って云えば今日だわね」
「そうさ」
「変だわね……二日午後入港とあるんだけれど……」
 時計を見、伸子は一どにあわただしい困惑した心持になった。午後というだけでは、午後一時なのか六時なのかさえ判明しない。
「私、訊いて見るわ」
 伸子は、電話をかける間も心配なようにして、郵船会社に問い合せた。若い事務員が、ぞんざいに、
「今日入港します」
と答えた。
「何時頃? 夕方ですか」
「いいや、早いですよ、もう港外にいるでしょう。お迎えなら早くいらっしゃらないと駄目ですよ」
 伸子は、妙な顔をして電話口から戻った。
「――やはり今日なんですって……」
「何だい、その顔は」
 多計代は、突っ立っている伸子を見上げて苦笑した。
「ぼんやりしていちゃあいけない、行くなら行くで、父様に申上げるなりなんなりおしな」
 部屋で着物を着換えながら、伸子は不意打ちの気がした。如何に不意打ちにしろ、あれほど待っていた彼が一分でも早く着くなら、飛び立つほど嬉しい筈なのに――。いざとなって見ると、伸子は空想していたような歓喜が感じられないで、意外な思いがした。彼が到頭帰って来る――しかし見ないうちは心にある彼、その彼が帰って来るというのさえ、変に信じられぬ。伸子は、十五年昔のあの夏の暁方の光景を思い出した。五年ぶりで父が英国から帰朝するというので、八つの伸子は夜眠らなかった。その朝、吊ランプの下に鏡台を出して髪を結っている母の後で、団扇うちわで蚊を追いながら、まるで口をきかない母が平常と違って、こわかった覚えがある。――伸子は今、その朝の、母の複雑な、妻としての感情が理解された。
 桜木町行の電車はすいていた。彼らと向い合って、外国商会に勤めているらしい中年の道楽者らしい男と、三十二三の夫人、あと数人の男が乗り合せているばかりであった。電車はタタ、カタタと揺れて、暖かい日光にかがやいている、東京と横浜とのあいだをつなぐ雑然とした風景のあいだを疾駆する。
 佐々は、ポケットから小さいノオトを出して見ていた。暫くして伸子は訊いた。
「何時?」
「――さあ、まだ二時ぐらいなものだろう」
 彼は、時計を出した。
「ほう、十分過ぎている……案外かかったね」
 佐々は、人さし指を頁の間に挾んで持ったノオトで軽く外套にくるまれた膝を叩きながら窓外を眺めていたが、不意に伸子の方へ体を捩じ向け、低く情愛深くささやいた。
「――あまり亢奮しちゃあいけませんよ、人が見ているから……」
 彼はもとの位置に体を戻しながら、やや高い声でつけ加えた。
「同情すべきさ、お前に上気のぼせられては参るからね」
「いや……父様」
 彼らは桜木町からくるまに乗った。乱暴な港の俥夫は胸をのめらせ、支那の苦力クーリーのように叫びながら駆け出した。
 コレア丸は丁度、岸壁に横づけになったばかりであった。
 ガングボードをとりつけるところで、コレア丸から乗り出した水夫が大声で合図を叫ぶ。それに答えつつ、数人の男が石畳の上で、車輪付階段を押している。それを待ち切れず、感動的な、せっかちな、はたの思惑などかまっていない求め合いの混雑が、そこ、ここで起っていた。伸子は父の腕を執り、どんどん人波を分けて進んだ。眼では絶えず上甲板の欄干にそうてびっしりと並んだ顔の列の中に、佃を見出そうとしながら。
 顔はいかにも沢山だ。それがかさなり合い、帽子や外套の色にまぎれて、とても一つ一つ、近眼の彼女には見分けられない。そのうち、迎えに出た方、出られた方、互に相手を見つけたと見え、嬉しそうにオーイ、オーイと叫んで帽子を振る男や、紋付の羽織でこちらから辞儀をする婦人がある。船が大きいので、並んだ船客の顔は小さく、とりこめられたように見えた。伸子は悲しくなり、
「お見えになって? お見えになって?」
と、度々父に訊いた。
「――こんなごたごたの中にいちゃあ、向うからも見にくい、少しすいたところへ出よう」
 彼らは、前へ前へと押す人なだれをよけて、税関の倉庫近く立った。視ていると、上甲板から短い段を降りて、船首の中甲板へ出て来る一人の男がある。黒い外套――山高帽。伸子は覚えず体ごと右手をあげ、頭の上で熱心に振り動かしながら、父に告げた。
「わかってよ、父様! あすこ、あの黒いの」
 彼も帽子をって、彼らに向い、ゆるやかに大きく打ち振った。更に強く、更に心をこめて手を振りながら、伸子は感動でぞっとし、涙を浮べた。


 自動車が、石垣について坂の角を曲った。父と佃との間に挾まって揺られながら、伸子は家が近づくにつれ、深まる懸念を感じた。
 初対面の佃と母とは、互にどんな印象を与え合うであろうか。伸子は、つまらないことだが、佃の顔色が冴えないのも、少し心配であった。彼が話下手で、自分からのびやかに話題を提供するたちでないのも心配であった。
 玄関に、母の指図で、改った顔の書生や女中が並んで出迎えた。佐々は、帽子を女中に渡しながら、ぎごちない空気を払うように気軽く云った。
「何年ぶりです、靴をぬがされるのは。――君なんぞはもう、足から風邪を引く方だな。日本ではまだまだこの厄介はのかない」
 佃は、固くなって、にこりともせず答えた。
「いいや、かまいません」
 先に式台へ上っていた伸子は、彼の心に向って合図のスイッチでも押すように力を入れ、「楽に! 自然に!」と願った。衣服を改めた多計代が、客間の入口に近い椅子の前に、彼らを迎えるために立っていた。伸子は真先に、
「ただ今」
と挨拶した。そして、佃を母に紹介した。佐々が傍からそれを扶けた。
「妻です。――佃君、――佃君には先も話した通り、いろいろお世話になりましたよ」
「左様だそうでございますね」
 多計代は、大柄な体に重々しく威厳を保った様子で応答した。
「この度はまことに思いがけない御縁でおめにかかることになりました」
 佃は、そういう多計代の改った応待ぶりを適当に受け切れず、ちぐはぐに、言葉足らず窮屈そうに答えた。
「お父様には大変お世話になりました。……どうぞよろしく」
「まあかけ給え。……いや、草臥くたびれたことでしょう」
 佐々は、妻に云いかけた。
「佃君は大分船に弱いそうで、半分以上寝て来られたんだそうだ」
「まあ、それはそれは」
 当人から何か言葉を期待するように、多計代は佃の方を見た。佃は、椅子の左右に肘をのせ、その手を胸の前方で組み、多計代を見て頷くようにしながら、
「もう大丈夫でございます」
と云った。
 伸子は、父の椅子の背にもたれて立ち、この心理的対面のなりゆきを眺めた。母が佃に対してどう出てよいものか迷っていたのは、入って来た時、彼女が立っていた様子で判っていた。佃を尊敬し、ある間隔を置いてものを云うべきか、または、伸子の配偶として、砕けて楽に取扱ってよい人間か。彼女はそれをこれら二度の短い応待で試みたらしく思われた。彼女は既に、舌で云えば厭な味のように、何かそぐわないものを佃から感じたのではあるまいか。――さもなければ、なぜああ時々、綺麗な白足袋の爪先を、焦立たしそうに動かす必要があろう。伸子は、自分に不安を与える真白い生ものの耳のようなその方を見ないようにして、父に云った。
「父様、お召かえになってはいかが? 本当に有難うございました。――今日はね」
 伸子は弾まない空気を引き立てるように佃に説明した。
「私が大寝坊をしたところへ電報が来たのよ。だから慌てたと云ったらないの。父様だって不意の召集よ、ね」
「ああ。――しかし日曜で結構だった。――他の日は無茶に忙しくてね。君なんぞも当分、よほど気をつけないと神経衰弱にかかりますよ。外国は一般に規則だっているが、こちらは生活のシステムも、プリンシプルもあったものじゃあない。盲滅法、ごたごたです。――まあ家にかえった積りで、暫くのんびりし給え」
「有難うございます。いろいろ御面倒になります……」
 風呂場に佃を案内して伸子が戻ると、多計代は、客間の入口に立って、亢奮した顔付で良人と低声に何か話していた。
 佐々は伸子と入れ違いに書斎に去った。多計代はそこで伸子をつかまえ、警告するように云った。
「佃さんという人はいつもあんな顔色なのかえ?――ただの色じゃないよ、あれは」
 伸子は、あまり自分の予想が当ったので、思わず無邪気に笑い出した。
「船に酔いつづけていたからよ、可哀想に――勿論『林檎のような頬ぺた』は、いつだってしていないけれど」
「――永く外国にいた人というのはあんなもんなんだろうかね……変だね何だか――挨拶も人なみにできないようでさ」
「母様があまり堂々挨拶なさるから面喰ったのよ」
 佃が手や顔を洗って来、果物や紅茶がテーブルに出たとき、伸子は、
「みんないらっしゃい。お茶!」
と弟妹たちを呼んだ。三人一どに来た。伸子は、
「和一郎さん、保さん、つや子ちゃん」
と順ぐり佃に紹介した。佃は、おかっぱではにかんでいるつや子に、優しく笑って、
「いらっしゃい」
と両手を差し出した。
「さあ行ってだっこしておいただきなさい」
 皆が笑いながら見るので、つや子は、ますます極りわるく、佃の方に行こうとはせず、
「お姉ちゃま」
と伸子にからみついた。幼いつや子が佃の膝に行くか行かないか、冗談のような真剣な注意で皆が見守っているのを感じ、彼女は、つや子が佃になついて欲しかった。
「どうしたの? つや子ちゃん、だっこして御覧なさい。――そーら、お姉ちゃまごと動き出したぞ……」
 伸子は、小猿のようにからみついたつや子を膝にのせたまま、佃の方へいざり出した。つや子は急に、ぎっしり両手で伸子の頸にしがみついた。そして、息もせず、体じゅうをこわばらせ、足を畳に踏張って抵抗した。肩に顔を伏せているので見えはしないが、いずれ真赤に汗ばんで、わっと泣き出す一歩手前に相違ない。伸子は動くのをやめた。
「――じゃ、おやめ! 今日はおあずけ」
「この子は妙な子でしてね、つい去年あたりまで豆腐はこわがる、真綿はこわがる、親父の私まで厭がったので閉口しましたよ」
 すると、つや子が、皆に背を向けて、伸子に抱かれたまましさいらしく、
「キャンムシも」
と小声でつけ足した。初めて心からの大笑いになった。キャンムシは、神主のつや子語であった。
 十時頃女中が、
「お床はどう致したらよろしゅうございましょう」
と訊きに来た。
「さあ……」
 多計代は伸子を見た。
「お前の部屋でいいんだろう」
「いいわ」
「じゃあ、いつものように――」
「あの、おかけものや何かはどれに致しますのでしょうか」
 多計代は、彼女の場所から動かず、当然それは伸子のすべきことだという風に答えた。
「さあ――何かあるだろう……伸ちゃん、お前行って見てやらないじゃあ判りませんよ」
 伸子は、黙って女中の先に立ち納戸なんどに行った。戸棚をあけさせた。
「それ……その縞のと八丈の」
 女中に夜具を運び出させ、伸子は洗面所に行った。電燈をつけ、鏡にうつる自分の顔を見守りながら手のひらで髪を撫で上げ、彼女は、寂しいような滅入ったような心持を感じた。これが、あんなに待ちわびた彼を迎えた心持であろうか。囲りに人が多すぎ、気疲れがし、伸子は有頂天な悦びよりもむしろ憂鬱を感じた。彼女は電気を消した。そして洗面所を出た。その時、彼方の部屋の扉が開く音が大きくした。体を半分廊下へ出し、うつむいて上靴スリッパーを穿こうとしている佃の姿が伸子のところから見えた。
「和一郎、一緒に行ってお上げ」
「いいえ、一人でわかります――さっきも参りましたから……え? 大丈夫です……」
 佃は、まるで伸子がそこに立っているのや、彼女の心にある欲望を透視しているように、まっすぐ暗い廊下をこちらに向って歩いてきた。伸子は、一瞬間前のしょぼくない自分を忘れた。彼女は嬉しくてたまらない悪戯いたずら小僧のように笑いを殺し、あたりの暗闇まで一緒に脈打って感じられる程胸をどきつかせながら、そっと隅の本棚の側にかくれて立った。


 一週間ばかり後、伸子は佃と、彼の故郷の田舎へ帰った。十日余滞在した。伸子にとっては楽しさと遠慮との混り合った旅行であった。佃の老年の父や兄夫婦や弟など、肉親ではあるが、久しく別れていて、全然未知な生活をして来た佃、また伸子に対して心遣いするのがわかった。菜の花盛りで、金色の花が高く高く咲き連なり、遠い白山山脈に照り映えた。古い村落には、狭い街道を挾んで黒板塀の家が並んでいた。浄土真宗が非常に盛で、村の寺は倶楽部クラブまたは集会所であった。家々には素晴らしい仏壇が飾ってあった。その大小が家の格を支配するということであった。
「この辺じゃあみな、こんなものを大切にしていますのじゃ」
 伸子は珍しく思って、きんを打った観音開きの扉や内部の欄間に親鸞上人の一代記を赤や水色にいろどりした浮彫で刻みつけてあるのを眺めた。炉のそだ火に当っている老人は、寝所に入る前、必ず仏壇に行った。燈明をあげ、肩衣をつけ、歎異鈔たんにしょうに類したものを唱した。そして口のうちで、
「南無、南無、南無」
と弱々しく称名しながら戻って来る。焚火でくすぶった天井の大たるきからは籾俵が吊下っていた。黙って焔をふく焚火を眺めている者達の、大きく重なり合った影法師が板敷を這い、板戸の上で揺れながら延びたり縮んだりする。生活全体が、その仏壇のように古風な伝統にみちていた。
 彼女達が帰った時、東京ではもう桜も木蓮も散り、楓が若葉を拡げはじめていた。
 伸子は、ある日、片手で着物の裾をつまみながら、如露じょろで部屋の前に水撒きをしていた。
 天気つづきの上、彼女の部屋のまわりは、建増しの時地肌を荒されたので、乾きようがひどかった。雨に打たれることのない庇の下など、土は黄粉きなこのようにポクポクであった。いくらでも水を吸った。さっさと如露を動かすと、水滴がひろがって土に落ちるとき、軟かい清らかな粒の揃った音がした。すがすがしい土の香が立つ。伸子は段々あとじさりながら、一心に撒いていた。
 障子が開いて、佃が顔を出した。彼は、しばらく黙って伸子のすることを見ていたが、
「それはじきすむの」
と云った。
「じきよ。――でも――やめたっていいのよ」
「――お茶が欲しいんだが」
「じゃあ一寸待って、すぐ行くわ」
「ここで飲みたいんだがな」
 伸子は如露の水を切って、敷居際に立っている佃を見上げた。
「――あちらへ行きましょうじゃないの、ね?」
「…………」
 佃は、沈黙で不服を表した。
「お昼に出たっきりだから、すこし行って喋って来ましょうよ。あっちでもきっとお茶を上りたい頃よ」
「行ったっていいけれども――永くなるんで」
「いやな方! なんとかかとか、いつでも駄々ばっかりこねて」
 伸子は、冗談に本気を混えて叱った。
「することもないのに、いそがしいなんて口実は通して上げないことよ!」
 佃はまだ定った職業はなかった。旅行から帰って後、伸子は二間続きの六畳に二つ机を置いた。彼はその前に窮屈に膝を曲げて坐り、履歴書を書いたり、あちらからのノオトを、漠然と整理したりしているのであった。初め、伸子一人の勉強部屋として作られたそれらの部屋は、縁側つづきだが離れのような工合になっていた。蔵前の広縁と二階の裏階子はしごとで、他の部屋部屋から遮断されていた。袋のようなたった一つの出入口を閉め切ると、前の庭を見晴すだけで、一日人に会わずに暮せた。伸子が佃と t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te-※(グレーブアクセント付きA小文字)-t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te でいるには、それ故、大層都合のよい構造なのであった。しかし、実際そこで彼と暮すようになって見ると、伸子はその特典を痛しかゆしに感じた。なぜなら、佃はたださえ引こもりであった。伸子がこまごま彼のために小間使いをすると、佃は仕方ない時しか部屋を出ない――例えば三度の食事時とか、かわやへ行く時とか、電話とか、父がかえった時とか――。
 田舎へ立つ前、こういうことがあった。やはり、彼が部屋で茶を飲みたいと云った時であった。伸子は何心なく、
「じゃあ持って来て上げるわ」
と云って、食事部屋へ行った。母が女中と夕飯の支度の打ち合せをしていた。彼女は伸子を見ると、
「何だい」と尋ねた。
「お茶」
「――お湯があるかしら」
 多計代は、手をのばして鉄瓶にさわった。
「ああ丁度いい塩梅だよ」
 伸子が茶碗を揃える間に、彼女は自分で急須を調えた。
「おいしい蒸羊羹むしようかんがあるよ、あれでも切ろうかねえ」
 ゆったり茶を注ぐ母の態度には、伸子と一緒に茶を飲むことを楽しむ様子がありあり見えた。伸子は三つ茶碗を並べたまま部屋へ佃を迎えに行った。
「いらっしゃいよ、母様がその積りなんで私困るわ」
 しきりに進めたが、佃は到頭動かなかった。伸子は、已むを得ず戻って、母に嘘をついた。
「今一寸手がはなせないんですって。これだけいただいて行くわ……私はすぐ来るから待ってらして頂戴ね」
 母は、悪意もなく皮肉に云った。
「それはそれは。――宿屋暮しのようで御不自由なことだね」
 母に後を向け、小さな盆に湯呑をのせていた伸子は、自分達二人がはずかしいような、大きな家の隅っこにいじけてかたまっているような、いやな心持がした。部屋まで数間の廊下、伸子の感情は複雑に動いた。
 ――そういう経験もあり、彼女は、如露を元の場所に戻し、バケツをとり上げながら、佃に云った。
「私足がよごれたからお風呂場へ廻って行くことよ、先に行ってて頂戴」
 伸子は、裏から風呂場へ入った。彼女はタタキで足を洗いながら、時々耳を澄して、自分達の部屋の襖が開くかどうか注意した。ことりともしない。伸子は足を拭いてから、蔵前へ来て声をかけた。
「どうなすって?」
「いますよ」
 その返事で、伸子は襖を自分からあけた。
「――さあ、もういいのよ」
 佃は、まだ庭に向った敷居際に佇んだまま、顔だけ伸子の方へ向けた。彼の額に陰鬱な横皺が現れていた。迷惑げな、解っていてくれる筈じゃあないか、という訴えが読めた。伸子はその前に近づいて、低い真面目な調子で云った。
「ね、一つ家にいて、御飯の時しか顔を出さないというようなの、何だかよくなくてよ。一緒に暮す以上、打ちとけなければ、ね。だから来て頂戴――O村の家でこんなことないでしょう?」
 彼は、伸子に対する義務だという心持を示した声で答えた。
「では行きます」


 極く微妙な、神経的な不調和が、だんだん家じゅうにはびこりはじめた。伸子は自分もそれを神経で感じた。
 夕飯の時、彼女は元したように料理の手伝いをした。その間、佃は部屋にいる。テーブルの支度ができると、伸子は、
「みんないらっしゃい!」
と呼んだ。彼女の若々しい声は遠くまで響いた。裏庭にいた保も、和一郎も、つや子は勿論、
「御飯、御飯」
と叫んで、どたどた馳けてくる。伸子も、手を洗って食卓に就いた。父や母も箸をとるばかりになっているのに、佃一人が揃わない。つや子は、
「お母ちゃま、もう食べていい?」
と訊いた。伸子は気がもめた。そこへ、正面の戸をあけ、佃が、皆に向って軽く頭を下げながら入って来る。――時間で云えばほんの一分か二分の待ち合せであった。が、一番人目をきたい貴婦人は最後に、皆揃った舞踏場へ姿を現す通り、その場の気分に、何か際立つものが生じた。彼だけ変に別者――お客として目立つような、その瞬間、ああ彼がいる、ということをぼんやりではあるが、皆が新たに感じなおすことを、伸子は感じるのであった。伸子は、
「――どうなすって? おそかったわね」
と云った。彼から、お待ち遠でした、と云わせたいと思った。
「みんなお待ちかねよ」
 佃は、二つの膝をかためるようにして座蒲団の上に坐り、テーブルの上を狭く見、不明瞭に、
「そう……一寸」
 そして、父母の方だけ向いて挨拶した。
「失礼いたしました」
「いや。――どうですね、山崎さんの都合をきき合せましたか。今日倶楽部で偶然会ったから、また改めて話して置きましたよ」
 ……次第に食事は賑やかになった。仕舞い頃には、伸子を除いた誰もが、初めの一寸した心持の引懸りは忘れてしまった。しかし、このようなことは一度ですまなかった。次の日、一日いてまた次の日、その次の日、どういう都合か同じことが起った。じき消える淡い感じが、度かさなるにつれ明瞭になり、伸子にとって一種悩ましい予感のようになって来た。食事時になると、多計代はおさえつけた苛立たしさで云った。
「佃さんには早めにお云いよ、いつまでもお客様みたいに皆を待たせないで」
「そうしましょう」
「――一体外国の大学なんかは、ひどく気さくな青年らしい気風だって云うじゃないか。あの人だって、ここへ来てお前の手伝いぐらいしてもよさそうなものだね、――二人の時でもこうなのかい?」
 伸子はエプロンの紐を解きながら、酸いような笑いで口元を歪めた。
「そうでもないわ」
「じゃ、いいようなもんだけれど……」
 多計代は、それ以上云わず、テーブルの花の工合をなおし始めた。古くなりかけた矢車草の葉をもぎ、少し上体を反らせるようにして枝ぶりを見る。花いじりは手先だけのことで、母の胸に云いたいことが詰っているのを、伸子は直覚した。多計代はそれきり何も云わなかった。
 数日で四月が終ろうという日、伸子は従妹達とある友人の宅に招待された。曇っていたが、艶のある灰色の空に、ねっとり濃い地上の青葉が美しい日であった。四時頃、伸子が支度をしに洗面所に行くと、佃は、一緒に部屋を出て来て、広縁の隅につくりつけた本棚の片づけを始めた。その本棚は家族共同のもので、本と云っても碌なのは一冊もなかった。古雑誌の仕舞いどころであった。幾年間かの婦人雑誌類が無秩序につめこまれ、それが崩れて、片方の硝子戸が開かないようになったことを、多計代が何かのついでにふと話した。伸子は、今彼のしようとすることを見て驚き、
「決して、あなたにしてお貰いする積りで云ったんじゃあないのよ」
と、止めた。
「放って置いていいのよ、そんなことは。本当に必要なら、誰かにさせればいいんですもの」
「――したっていいでしょう? 少しでも皆のためになれば結構だもの」
「――気晴しになさるんならいいけれど……」
 伸子は、梳きかけの髪を片手に握った、そのかげから佃を見た。彼はぴたりと本棚に向って板の間に胡坐あぐらを組み、もう戸をあけて、塵だらけの古雑誌を引出しては分類しだした。その後つきに、彼の心持を察するに馴れた伸子の眼を、捕えて離さないあるものがあった。危く、
「不機嫌?」
と訊きかけた。が、やめた。若し彼が不機嫌だとしたら、自分は友塚へ行くのを中止にするだろうか? 否。鏡の前に戻りながら、伸子は、いつの間にかこういう風に働くようになった自分の感情を省みて、憫笑びんしょうした。――鏡の面に顔を近づけて白粉をつけている伸子の頭のうちを、考えが静かに重く進行した。そして、伸子は、こういう一見けちな簡単そうな心の煩いで、自分だけでない、結婚している多くの女が、気を重くされ、不活溌になっているのを感じた。
 支度ができ上ると、伸子は自分で自分の気を引き立て、気軽く彼に、
「行って参ります」
と挨拶した。彼女は、帯や着物をきしませながら、あぐらをかいている佃の上にこごみかかって頬を触れた。
「今夜は父様もお留守だから、ゆっくり母様と話でもしていらっしゃい」
 夜に入って、細雨が降り始めた。九時頃になると、家のことを思い、落着けなくなった伸子は、俥を命じて貰った。晩春のしとしと雨で、俥の中は湿っぽく、生暖かいいきれと幌の匂いとがした。それに、登りの坂が多く、手間どった。帰って見ると、玄関にはまだ靴が見えなかった。
「父様は?」
「まだお帰り遊ばしません」
 奥へ歩きながら、伸子は、どうか母と佃とが睦じく話しこんでいる光景に出会いたいものだ、と思った。戸をあける拍子に、愉快そうな二人の顔が自分に振り向き、
「おや、お帰り!――今お前の悪くちを云っていたところだよ」
とでも云われたら、どんなに楽しいことであろう! 本当に、どんなに楽しいことであろう! 暗い廊下で、伸子はひとりでに微笑しかけた。しかしその暖かい想像は忽ちかじかんだ。――人間は、自分が棲息する家の空気に対して、獣が巣の安全、或は近づいた危険を本能的に嗅ぎ分けると同じような直覚を持っている。伸子は部屋部屋の鎮まりかえった調子、何処からか流れ出て、廊下にさえ感じられる冷やかさに、用心を感じた。伸子は静かに扉をあけた。
「ただいま」
 佃はそこにいなかった。弟達もいなかった。夜気のうちに母一人であった。伸子は、我知らず捜し求めるように室内を見廻した。
「雨になって困ったろう?」
 多計代は、雑誌を伏せ、時計を見た。
「いいえ、俥をいただいて来たから……父様まだだってね」
「――今夜はきっと遅かろうよ、例によって焼物の御連中だから……」
 彼女は、沈着な観察的な視線で、コートの紐を解いたなりで坐っている伸子を見た。
「着物でも着換えておいで」
 伸子は素直に立った。急ぎ足で、彼女は自分の部屋の襖をあけた。佃は机の前にいた。
「ただいま」
「お帰り」
 彼は、入って来た伸子に背を向けて坐ったまま、首も廻さず答えた。――これも自然ではない。何があったのだろう。――伸子は、母と佃との間に不快が流れているのを察した。伸子は、岩乗がんじょうな、無愛想な、自分の力では押すも引くもできない崖に、左右から挾み込まれたような困惑を感じた。
 伸子は、着かえてからまた母のところへ行って見た。多計代は、彼女の来るのを待ちかねていたらしく、いきなり制し切れない率直さで云った。
「佃さんという人はよほどどうかしているね」
 この間から母の心に溜っていたものが、いよいよ溢れ出した。
「そうお――何かあったの」
 多計代は、伸子をじっと眺めた。
「あっちで聞いて来ただろう?」
「いいえ」
「……こうなのさ……」
 話しかけながらも、多計代はさもいとわしそうな顔をした。
「――こんなことを繰返して話したりするのも大人気ないようで、本当に不愉快だがね……まあ初めから云わなければ解らないことだから。――お前が出かけて間もなく、あの人も独りで淋しかろうと思って、お茶に呼んだのさ。丁度保やつや子はいないし、いい折だからと思ってね、私はいろいろ二人きりで話す積りだったんだよ。お前も知っている通り、私にはまだあの人というものが、しっくり腹に入っていないし、これまでしんみり話す機会もなかったしね――私の心持では、まあ隔意なくお前というものに対しての意見も交換したかったのさ、口の先だけでお母さまお母さまと呼ばれるばかりで、妙に他人行儀な気持を両方で持っていては堪らないからね」
「そうだわ」
「私は馬鹿正直だから、きっと佃さんもそう感じて、真率な心持になってくれるだろうと期待したんだが――それが間違いさ」
 多計代の顔に新たな腹立ちが甦った。彼女はぽっと耳朶みみたぶまで赧くした。
「――駄目だよ! あの人は」
「どうして?」
「どうしてってお前……あの人はまるで冷淡だよ……ちっとも感激というもんがない人だ。どんな無学な者だって、こちらが真心を打ちわって話せば本気になって来るのに、あの人ったら何ていうのか――後じさりするばかりなんだもの。ただ自分は、お前のためにはどんなにでも尽す積りだ、自分は犠牲になる覚悟をしている、という一点張りなんだもの。――何も私はいきなりあの人に犠牲になって貰おうなんぞというのじゃありゃしない。気違いじゃあるまいし。――お前の身も立つように、またあの人も工合よく暮させたい、それには、と思って話し合おうとするのに、――問題にならないじゃないか」
 母の気象と佃の性質と、両方知っている伸子には、これらの不満がよく理解された。母が、これほど自分は衷心から話しているのに! と、熱した心のやり場がなくて歯痒ゆがる心持は同情された。それかと云って、伸子には、決して佃が悪いとばかり思えなかった。彼女は中立的に、
「あのひと口下手だから……」
と云った。
「それに、私について話すと云ったって――誰しも一寸困るじゃあないの、何をどうするって云う、具体的な問題が今ある訳じゃないんだし……」
 容赦ない母の一種の熱弁に狩り立てられて、捕えどころない抽象的な追求に対し、佃がしきりに、またこれも、彼一流の激昂性で、犠牲とか努力とか云ったであろうのを思うと、伸子は何だか情ない気持がした。
「――……それはまあ、そうみたいなんだがね――あれは――もう夕飯時分だったろう、あの人のところへ電話がかかってきたのさ。大分長く喋っていたから、私もよせばよかったのに、つい何心なく、どこからですって訊いたのさ。浅草の親戚です、というのだろう? ちっともそんな親戚のことなんか聞かなかったし、大層下町だと思ったもんだから、おやおや妙なところにいらっしゃるんですね、と云ってしまったんだよ。すると、あの人はひどくむっとしたらしい様子でね、顔色まで変えて『お母さまは、私が何か変なことでもしているとお思いになるんですか』って云うじゃあないか! 私にはさっぱり訳が分らないじゃないか。それでも何しろ、ただ事でない顔つきだから、よくよく考えて見たらお前、――何かひどく邪推をして……」
 伸子は、眉根のあたりを引搾ひきしぼられるように感じ、ききながら傍を向いて、頬杖をついた。
「……私は、そんな考えかたをするのはあなたの恥辱ですよ、と云ったがね……」
 再び伸子が部屋に戻った時、彼はまだ机の右にも左にも本を拡げて、その間に坐っていた。
 彼の強情そうな盆の窪は、彼女に向って云うように見えた。「私は何を聞いて来たか知っています。あなたは私を理解してくれるだろう?……が、思いたいように思いなさい。私は弁解しません」
 母から聞いたことを、再び口に出すことは堪え難いし、部屋にその心持のままいるのも切ないし、彼女は蔵前の廊下へ出て、腕組みをし、体を左右にゆすりながら、そこを行ったり来たりした。高い天井から十燭の電燈が下の板の間を照していた。正面に土蔵の網戸が見えた。拭きこんだ廊下は足袋の裏に滑らかに堅かった。こんなにもすべっこかったか、と驚かれる夜の板の間であった。伸子は、寂しいので、益々体を揺り動かして歩いた。


 風呂場は湯気で濛々もうもうとしていた。伸子は、裾を端折って、大盥おおだらいの中でつや子の体を洗ってやっていた。溶けた石鹸の香いや、水蒸気の熱い湿っぽさが、衣服を透していやな気持がした。つや子は大きなスポンジに湯をふくませ、両手で搾って、自分のおなかへ上から湯をかけながら、はしゃいで笑った。
「お姉ちゃま、見てよ、見てよ、おぽちょ(臍)にお湯がしみるわよ。ほらほら」
 多計代は、浴槽に浸っていた。ふざけ過ぎるつや子に、時々、
「そう騒いじゃ駄目ですよ」
と云いながら、伸子にぼつぼつ話す。佃の批評であった。先夜伸子の留守中、不快ないきさつがあってから、彼女は、彼に対する遠慮や最後の敬意を失ったように見えた。彼女が佃に向って、または彼について話す時には、定って軽侮や恩恵の意識のまじった、特別な調子ができた。彼女は、今も鬢櫛びんぐしで、濡れたおくれ毛をかきあげながら云った。
「まあいずれにせよ、人間というものは万全な者はないからね、互に許し合うとしても……私はあの人を見て、ますます疑問に思うようになったよ――三十――幾つかい? 五か六だろう――とにかくその年まで純潔でいたなんて――何だか」
 伸子は、
「そっち向いて、そっち向いて」
とつや子に背なかを向けさせた。そして、苦々しげに云った。
「そんな話……今やめましょうよ」
 多計代は上り湯を汲み出して、顔を洗いながら、手拭の合間から乱れた声で云った。
「――考えて見ると、お前も全く女らしい人だね、好いとなるとめくらだもの――二人いるところを見ても、痛々しいくらいお前の方が余計愛しているのが解るよ……それでよければ何よりだがね――」
 暫くして、彼女はまた独言のように呟いた。
「いつまで私がついていられるわけでもなし――まあ若し一緒に悪くなるならなるで、お前がそれだけのものだったと、諦めるばかりさ」
 大体佐々の家庭生活と、佃の性質との間には、相容れない多くのものがあった。佐々の家は、伸子の父親の代になってから、外にも内にもやや物質的な繁栄を来した。勃興時代とも云うべき家庭の空気は、精力的で、排他的で、征服的で、あまり智的でない原始生命が充実していた。皆がよく喋り、よく喰い、眠る。佃一人が屡々腸を害し、皆ほど強大な食慾を持たない、という一事でさえ、彼がこの家庭にあっては、異分子であることを際立たすようであった。
 家庭の雰囲気の代表として生きて、動いているような多計代は、佃が恐るべき敵でもなく、しかし同化もせず、どこまでも、その異分子のままにあることが、神経に障ってならぬらしかった。彼女は次第に苛立ち、伸子に露骨な意地悪い言葉を浴びせた。日暮れ方、伸子は部屋にでもいると、
「こんなに急がしいのに何しているんだろう――お姉さまを呼んどいで――つや子さん」
と云う母の声がした。
「お姉ちゃま、および――」
「はい、はい」
 出てゆく伸子を、立って待っていて、多計代は、
「どんな用事があるのか知らないけれど、少しはこっちも手伝うもんだよ」
と云った。
「人一人が殖えれば、台所だってそれだけいそがしいんだから、そうお客様になられちゃ困るよ」
 独りであった時のように、単純に、
「いやな母様! ちっとも忙しくなんぞない癖に」
とは云えない。母は、伸子を奪った佃に向ってのむしゃくしゃ、彼に自分を奪わせた伸子に対する寂しさを、ぶちまけているのだ。伸子が、テーブルの上など片づけるのを、多計代は眺めながら、
「一体、毎日何をしているんだい、佃さんは」
などと云った。
「本当に大学へ行けるようになるのかい?」
「来週からですって……」
「――じゃあまあいいけれど――人に訊かれても、何処へも出ていません、じゃ困るからね、あの年で……お前からよくお礼を云うようにお云いよ――お父様、あのお忙しい中を、この間だってわざわざ津村さんの家までいらしったんだよ、そのために……」
 佃は、大学へ通うようになった。津村博士の研究室へ客員のようにして。やがて彼の専門の講師にでもなるのであろうが、それで生活は立たない。彼は、在米中知り合った人々に就職口の紹介を頼んだ。そのための訪問になど、彼は安心して伸子の部屋に納っている気にもなれず、毎日昼間は外出した。夕方、佐々と前後して帰宅した。劇務に追われて一日を過した老齢の佐々より、佃の方が、疲れた疲れたと訴えた。伸子は、それを侘しく感じた。
 夕飯後、彼はしばらくは一座に連なる。が、しばらくすると、きっと、
「私は失礼します――少ししなければならないことがありますから……」
と断って、独り土蔵前の部屋に引取った。佐々の家で、規則立った勉強をするのは勿論楽ではなかった。主人が読書家でなかったから、夕飯後から眠るまでの時間、家庭の内には陽気な混雑があるばかりであった。佃の、皆にまじって遊んでいられない心持、それは伸子に理解された。けれども彼はどうしてか毎晩、黙って立って行ってもよさそうなのに、きっと、ぎごちなく、
「私は失礼します」
と切口上で述べた。それはまるで、自分だけは、これでも重大なことを控えているのだ、と宣言するようであった。彼が一人、皆に背を向けて扉をガラガラと開け、出て、閉め終るまで、呑気に喋くっていた連中は、何だか咎められたような重苦しさを感じ、一寸黙りこむ。――その微妙な数秒間の間隙が、伸子に切ない思いをさせた。そこで彼女は、
「ね」
と、真先にその気まずい沈黙を自分から破った。
「一寸皆おききなさい、この話知っている?」
 ある時巡査が、一人のこそこそ泥棒を捕まえました。交番に引張って来て、さんざんなぐってから、訊くことには、
「貴様よくもこんな恥知らずなことをした。馬鹿! 良心はどうした」
「何ですい? 旦那?」
「リョウシンはどうしたというんだ、人間は誰でも良心を持っているからこそ、悪事のできんのを知らんか、馬鹿!」
「へえ――どうも……何です、わっしの両親は十年前地震で潰れて死にやした」
「なあんだ! ハッハッハッ」
 ハッハッハ。一緒に笑いながら、本当にくだらぬ駄洒落だ、本当にくだらぬ自分だ、と、伸子はこせこせ心遣いをする自分に腹が立った。伸子には、佃はああやって安心して、皆と喋っていられない心持だが、部屋の机の上にのっているのは、決して大した仕事ではない。イラン語の詩の古臭い翻訳を書きなおすか、下書きを敷いて、墨汁の罐に筆を出し入れしつつ、更に一通の履歴書を書いているだろうことが分っていた。


 彼らをかこむ感情の渦巻が複雑で、強くて、伸子は日毎に苦しくなって来た。彼女の性質は単純で熱烈であったから、母から来る刺戟、佃から来る刺戟、各々に全心で反応した。あっちへつかって跳ねかえり、こっちへぶつかって跳ねかえり――伸子は落着いて仕事でもしたくなって来た。佃が帰朝して以来、ちっとも整理されない感動や経験が心の中にごたごた湧きかえっている。彼女はある日彼に云った。
「――私少し落着いて勉強したくなってきたわ」
「いいでしょう、おやりなさい」
「引越ししなけりゃならないわ、――でも」
「…………」
 佃は疑わしげな、不安な顔付で伸子を眺めた。
「ああ、違うのよ、机だけ引越すのよ――ここ、お互に出入りが邪魔だから、元の部屋へ行きたいと思うの」
 すると、佃は暫く黙っていたが、伸子の手をとり、訊きかえした。
「本当に勉強のためだけですか?」
「もちろんよ」
 しかし、伸子はそのせつな、心の底の何処かを、微小な棒ふらのような疑問が閃き過ぎるのを感じた。――本当にそれだけかしらん?……伸子は一層快活そうに断言した。
「もちろん、だから手伝って下さる?」
「ああ、手伝って上げますとも」
 もう二人ともセルを着ていた。彼らは伸子が、祖父譲りで使っている樫の机の両端をかいて、庭づたいに、客間の横手へ運んだ。
「暗すぎませんか」
「――でもいいでしょう? ここ……」
 客間と玄関だけが、昔、茶人の建てた時のままの建築で遺っている。その一部である古風な小庭に面したその部屋は、長年の塵をかぶって柱さえ破れていた。伸子は、新たに掃除した古畳の上に据えた机に向い、佃は、あががまちに腰かけ――
「その松の下へふきとうが出るのよ、春」
「――おや」
「なあに」
蜥蜴とかげ[#「蜥蜴」は底本では「蜥蝪」]
 初夏の日が庭の苔に落ち、刷毛目はけめついた羽目の白壁を照すのを眺めつつ、彼らはしゃべった。
 幼年時代の思い出が、この部屋に坐っていると、伸子の心に次々に甦って来た。
 夏、独りで遊んでいた時、飛石に置いてある四角い瓦のようなものを何心なくめくった。下にこんもり、ぽくぽく乾いた土が盛り上っていて、驚いたことには、そこに御飯つぶのようなものが沢山あった。蟻があわてて駈け廻って、その御飯粒をくわえ、サワサワ音が聞えそうに、足を動かして逃げ出した。
 思いがけない光景に、伸子はびっくりした。が、見ているうちに面白さが募り、彼女は、竹の棒で、もう一つ瓦を引くり返して見た。そこは空っぽだ。もう一つ。あった! あった! 御飯粒みたいな物を見る瞬間の官能的なセンセーションを享楽しつつ、暑さの中を次から次へ、瓦をめくって歩いた。
 伸子はその蟻の卵を懐しく思い出した。わくわくした少女の心持が、再び経験されない透明な激しさであったように思われる。
 紙はひろげられていても、そのような精神状態で、伸子は現在の入り組んだ感情を、どう整理する手段も見出せなかった。現在は、実生活の上で彼女の手に余っていると同じに、伸子の力量以上の素材だ。
 なんぞというと口論となって巻き上るけわしい渦巻を避けて、佃は土蔵前の部屋に、伸子はその小部屋に、多計代は真中の食事部屋にと三方に別れて数日暮した。
「――いるのかえ?」
 ある午後、多計代が、低い襖に束髪をこごめて、伸子の部屋へ入って来た。
「――案外いい風が入るんだね、ここは……」
「下見窓のせいね」
 多計代は、よその家へでも来たように、その辺見廻していたが、
「佃、夕方帰るのかえ」
「そうでしょう、別に何とも云っていなかったから……」
「そんならいそがないけれど……」
 語調を更え、やがて彼女は、
「私もこの間からいろいろ考えたがね」
と云った。
「…………」
「――おやおや、まるでひとのことみたいな顔だね」
 伸子は勢い、
「何なの」
と、云わずにいられなくなった。
「何、御迷惑なら云わないだっていいけれどもね」
「いやあね、何なのよ」
「お前がたのことさ、いずれ。――あのひと、長男じゃないっていう話だったね」
 伸子は怪訝けげんに思い、
「ええ、なぜ?」
と、母の面を見た。
「じゃあ他家へ入れるわけだね」
「さあ……」
「そうじゃないか、後継者があれば、二男からは自由じゃないか。――実はね、いろいろお父様とも御相談したんだが、どうせお前、離れられないんなら、いっそ佃を養子にしたらどうかと思うんだがね」
 伸子は、
「――どうして?……」
と、目を瞠った。
「――変じゃないの、家にはちゃんと和一郎だって保だっているのに」
「それはそうさ、家のためじゃないよ、何もこんなこと――お前達のために考えたことにきまってるじゃないか」
 伸子には、母の云う意味がはっきり飲みこめなかった。飲みこめないながら、彼女は本能的に強い警戒を感じ、
「私達のためって――私達は私達でやって行けてよ」
と云った。多計代は、はがゆそうに、
「だから、お前は世間知らずだと云うんだよ」
と、きめつけた。
「第一、考えて御覧、学校のことだって、お父様の紹介や何かがあったからこそ、ああやって津村さんも直ぐ引受けて下すったんじゃないか。それでなく誰が素性も知れず、背景もない佃に、そんな好意をしめすものか」
 伸子は、十のものなら、大きな声でこれは十だよ、十だからそのつもりでお受取り、と繰り返し云ってからでなければ、十の親切を与えられないような母の性格を情なく感じた。あまりその声が大きいのでつい、ええ何だ! と思ってしまう。今も、苦々しい気持で、伸子は母の言葉に沈黙で答えた。
「世間に対してだって、佐々姓を名乗れば、どこの誰だか知れもしない佃でいるより、どんなに重味が増すか知れやしない。そうでもしたら、ちっとはあのひとの値打ちも出るだろう」
 伸子は、むらむらとし、
「そんな値うちなんぞ、つかなくたっていいわ」
 荒っぽく云った。
「佃は佃で結構よ――人間の値うちなんて――そんなことで左右されないものよ」
「お前は今目がくらんでいるからね、さぞ立派な佃に見えるだろうが」
 多計代は、刺すように、ゆっくり云った。
「そうでもしなければ、少し極りのわるい御仁体ごじんていだよ」
「極りのわるい人なら人でいいのよ。そんな――養子にするなんて……」
 佃と自分に与えられた屈辱の感じで、伸子は顔が赧くなるようであった。彼女は、幾らか心を鎮め、母に説明するように云った。
「母様は、ちっとも私の心持がわかっていらっしゃらないのよ。あんなに云ったじゃありませんか、母様たちとは根本的に目的の違う生活をする積りだって――それに、佐々なんて、大きい目から見たら、やっぱり何処の誰だか判りもしない名の一つよ。佐々が通用する中だけ、母様なんか動いていらっしゃるからだけれど……」
「どうせ、そりゃ私は狭い生活しか知らないよ。だがね、事実が、今度の場合だって証明しているよ」
「――そうならなお、私いやよ」
「まあ、あのひとによく話して御覧」
 多計代は、皮肉に笑った。
「お前はいやでも、佃はいいと云うだろう」
 その事について、伸子は佃に一言も話さなかった。
 数日経った夜、佃もそこに居合せた縁側で、多計代が突然、その問題を再び取り上げた。
「どうだい――この間の話、勿論佃さんにもしたんだろうね」
 伸子は不機嫌に、
「しないわ」
と答えた。
「…………」
 佃が傍から訊いた。
「何です?」
「――……」
 すると、多計代が、
「いろいろ将来のことについてね、私達がいつまでついていられるものでもないから、お父さんとも相談したことがあるんですが――仕様がないじゃないか、伸ちゃん」
 伸子は、さすがに母も、いきなりは云い出せずにいるのに、好意を感じた。彼女は、
「だから、もういいことよ」
と云った。
「いいですみますか」
 庭を月が照していた。八つ手や梧桐きりの広い葉の面が、濡れたように光った。反対の側の樹陰、枝の奥は異様に暗く、庭がいつになく迫る力を持って見えた。膝を抱えてそれを眺めながら、伸子は母と佃との問答を、熱心に聴いた。佃は勿論断るに定っている。断るに定っている――
「そういうのが、私どもの考えなんですがね――」
 やがて多計代が一段落で、佃の返答を求めた。
もっとも、伸子はあなたも御存じの通りの性質だから、まるで恥辱でも受けるようにお腹立ちですがね」
 伸子は、耳を裏向けにするような集注で、佃の言葉を期待した。
「――……」
「どうです、私どもはあなたのためにだって、決して悪いとは思いません」
「――考えて見ていずれ御返事いたします」
 伸子は、くるりと後を向き、
「そんなこと――考えないだってもうわかっていてよ」
と、叫ぶように云った。
「あなた、そんな積りおありになりゃしないんじゃないの」
 黙っている佃を見つつ、多計代が云った。
「お前は引っこんでおいで――佃さんは佃さんの意見がおありだろう」
 伸子は、皮肉そうに落着いた母の言葉で、絶望的な不安を覚えた。多計代は我知らずあっちにこづき、こっちにこづきした佃を、今度は伸子ぐるみ、一層しっかり自分の手の下に結びつけてしまおう、としているのだ。伸子は万一そんなことになったら最後だと思った。何とかして自分を離すまいとする母の愛より、伸子は、生存の根柢を脅かされるような恐怖を感じた。佃が、即座に、一言の許に――伸子が予期していたように、その問題を笑殺してしまわなかったことは、彼女にとって深い不安であった。
 佃が立って行く。踵にくっついて行って、伸子は、
「ね、あなた、本当に考える必要のある問題なの」
と、立ったまま背の高い彼の顔を見上げた。
「私――いやよ」
「…………」
「私どもの生活というものは絶対に無くなってしまうことよ、もしそんなことしたら」
「だから考えて見ます、と云ったでしょう?」
「礼儀上の挨拶? じゃあ」
「…………」
「ね、本当によ。私にだけ早くきかして。どっち? 勿論いや、ね」
「さあ……しかし――もしそれがあなたの幸福になるんなら、私は――どうせ捧げた体です」

十一


 本心の明らかでない、その癖変に対手の感謝を強いるような佃の返答は、伸子の心を暗くした。
 彼の曖昧な返事は、佃に対する母の辛辣な批評を自ら思い起させ、伸子を不安で苦しめた。彼女は、どうせ捧げた体です、と云うような佃の言葉の厭味を感ぜず、そのまま受取るほど幼稚でなかった。同時に、恐ろしくて、それを彼の偽善的な云い廻しだとも思い得ない。しかも、彼女の理性は、その返事が、非常に複雑な性質のもので、言外に、彼は養子になることを大して迷惑と感じてもいない――それどころか、或はなってもよいのに、ただ伸子の思惑を憚って、漠然とした言葉で答えたと思えなくはないことを、告げ知らす。――
 伸子は、第一、母の期待通りの返事を佃がしたことが、残念であった。母は、それ見ろと、内心思わずにはいられないであろう。それ見ろと思うことは、取りも直さず、佃が、彼女の予言通り処世術に悪がしこい男で、利用するために伸子を結婚まで引きずって来た、と云う推測を承認することになる。伸子は、二人の愛のため、これは思うに堪えなかった。佃の名誉のため、自分の名誉のため、母のため、人間の心に潜む真の愛の純潔のため、伸子はどうしても、この問題は成就させまいと決心した。
 たださえ人を信じ得ず、時々自分の疑惑が実現するのを見て、一種の誇りさえ抱いている多計代は、更にその裏通りの人生観を強めてしまうだろう。佃が、万々一(実に万々一、と渾身こんしんの力をこめて伸子は思うのであった)自分との結婚に不純な勘定を加えていたとしたら、この世でそれは、そう易々のさばれないことを知られなければならない。伸子は、このように親と衝突し、周囲に反抗してまで、まともなものにしようと努力する愛が、単に佃が自分の愚かさにつけこんで、愛するよう努力するように仕向けている結果だと、どうして思い得よう!
 その晩、伸子は病的に切ない心持になって、佃さえ颯爽さっそうとした態度であってくれたら、と思い、泣いた。生活において自分が孤独である、という心持が彼女を泣かせた。

 その後折々多計代が、
「どうなったえ」
と云った。
「駄目よ――無かった話にして頂戴」
 そして、伸子は佃にせっついた。
「早くはっきりした返事、しておしまいになった方がよくてよ。本当に断った方がいいんだから、分っているじゃないの」
 伸子がいない時、いる時でも、多計代は何かの機会で佃を捕えると、返答を求めた。
「あなた、あれ程、伸子のためなら何でもすると云っていらっしゃるんだから、まさか前言をむようなことはなさらないでしょうね。――ちゃんと、外国からよこした手紙だってあるんだし……」
 佃は総毛立ったような顔色と眼付とで、
「私の真心は、きっと、今に判って下さるでしょう」
と震えんばかりに云った。
「私は、何でも堪えます」
 しかし、佐々の養子に成る、成らぬ、否とも、応ともそれは明言しなかった。佃はなぜか、その点になると、非常な用心と頑固とで、自分の意志を明さなかった。次第に業を煮やし、多計代は伸子の顔さえ見ると、そのことを云うようになった。ある日、伸子は苦しみに堪えられなくなったので、到頭、「何とおっしゃっても駄目」
と、宣言してしまった。
「たとい、佃がきいても、私がいやです。佃がどんな動機からにしろ、承知してご覧なさい。後で、決してそれを愉快にお思いになれはしない。私、そんな皆の生活の浄らかさを濁すようなこと、決していや!」
 事実そう展開すれば、伸子の云う通りに彼女の感情は動くであろうのに、多計代は擲られたように激した。涙をこぼしつつ云った。
「全く――全く親の心子知らずだ。――そんなに親を苦しめて何がいい。嫁に行けば、もう他家の人で、私が死んだらもうそれっきりだ。野たれ死をして、この上恥をかかさないがいい!」
 伸子も泣きながら云った。
「ねえ母様、杉苗だって大きくなれば別に離れて育つでしょう? その通りよ、人間の生活も――ね、何年か後に、きっと母様は、私がこんなに強情に云い張ったよさがお分りになってよ。私だって訳なく強情は張らないつもりよ」
 傍にいた弟や妹は、一人立ち一人立ちして、部屋を出て行くのであった。
 母は、その間にも、法律上佃を入籍させる準備をしていた。伸子はちっとも知らなかったが、机の前にいると、
「お呼びでございます」
と女中が来た。
「なあに」
 多計代は、おこって、何も手につかない風で坐っていたが、
「佃という人は、恐ろしい男だね」
と云った。
「どうして」
「どうしてってお前、あの人はちゃんと、養子になれないのを自分で知ってかかっているじゃないか」
 伸子は訳が分らず、黙りこんだ。
「この間父様が、会で井田さんにお会いなすったんだとさ、それで、佃を入籍させるについて、いろいろ相談しておおきになったら、昨日、戸主は養子縁組が、法律上出来ないことになっているって、返事があったよ」
 佃は、岡本の二男であったが、遠縁の佃の名跡みょうせきを継いでいたのであった。
「本当にね、つい忘れていたわ」
「まあまあお前はそれでさぞ安心だろうが、私達こそいい面の皮さ、佃さん腹んなかで、さぞ可笑しくておいでだろう」
「まさか。あのひともそれは気がつかなかったのよ」
「そうだろうか――怪しいもんだ。しかしまあ、流石さすが十五年アメリカを流れて来た人だけあって、上手うまいものさ、いやですと一言、はっきり云ってしまえば、もうここに息子顔をしてはいられなくなるのを、ちゃんと知っている」
「ああ、ああ」
 伸子はわざと大きな声で歎息した。
「可哀そうに! あのひと、悪口云われるために生れたようなものね」
 やっと笑いながら、
「人生れて、伸子の夫と成るなかれ、だわ」
 戸籍の事情で、多計代の感情は一変した。彼女は、佃にやましい打算がないのなら、その証拠に、一日も早く佐々の家を出ろと云った。
「お前もいやだろうが、私もずいぶん今日まで我慢して来たんだからね、直ぐ明日にも別になって貰おう」
 娘をいよいよ手許から奪い去られるという絶望を、多計代は涙と悪罵とででも現すしか、やり場を見出せないように見えた。彼女の誇強い気質は、自分の悲しみを弱々しく認められ、同情されるに堪えないのだ。猛々しく熱情で自らを燃し尽そうとするように罵るのであった。
「そりゃもう、お前にはいるほど邪魔な親だろうが、まだつや子が小さいからね、もう少し生かして置いて貰おう。そうやって、私の寿命の縮むのを視ているのは、さぞ面白かろうよ」
 ああ。ああ。伸子は何と云って自分の内の親愛を云い表してよいか判らず、泣いた。彼女は少女時代から、母とは普通の親娘と違う情熱で結ばれて来た。互に強い愛と憎とを持ちつづけて来た。母は女性として、伸子にとって、ある時は全き母であり、ある時は友達であり、ある時には競争者であった。とにかく、母は伸子に向って、存在のあらゆる角度を、生のまま、強烈に打ちつけて生きて来たのであった。伸子にとっても、母は全力を要する生存の対照であった――自分と母との性格の差を自覚し、生活態度を批判し、一言に云えば、彼女の模型でない一女性としての自分を形造って行くためには、伸子は、生半可の力を費したのではない。普通、娘が母親に抱く懐しさ、休安と、正反対の生活燃焼の、異様な閃光せんこうが二人の間にあった。今その門を経て次の生活期に移ろうとする時、伸子の魂を満す、この苦しい、この輝いた、追想の蝟集いしゅうを、何と母に告げよう。そしてまた、伸子は涙のすきに思うのであった。何と自分たち母娘の愛は並はずれであろう、離れると云えばこのように全力的に傷け合い、はたき合い、つまりはその勢いで離れなければ、離れることも出来ないほど深く愛し合っていると云う有様は。――
 より情熱的でない、平和的な佐々は、妻と娘とのこのような心的格闘に、手の下しようがなかった。彼は一方に妻をなだめ慰め、一方伸子に、心から歎息して訴えた。
「いつも家庭のトラブルをひき起すのはお前だよ、なぜもっとテンダア・ハアトになれないかい、愛を受け入れなさい。――平和に暮そう……え? 自分も人も苦しめる主義なんぞ捨てちまえ」
 伸子は辛うじて、
「主義なんぞじゃないのよ、父様」
と、云い難い悲しみで答えるだけであった。佐々も、心痛から、単純な事務家らしい怒りかたで、遂には、
「さあ出て行け! お前が親を捨てるなら、俺も子を一人捨てた。さあ、永久に出て行け!」
と叫ぶのであった。



 彼らは引越した。家は、吉祥寺前の医者の煉瓦塀と、葉茶屋の羽目との間の狭い路地の奥にあった。両親の家まで、吉祥寺をぬけると十五分ばかりで行けた。
 彼らが移ったのは、八月の暑い盛りであった。伸子は、家さがしに毎日歩きすぎたので、熱を出し、床についていた。引越しの日も、彼女は寝床の上から、庭づたいに俥夫が本箱を運びだすのを眺めた。
 それが行ってしまってから、伸子は、床の上に立って、すこしふらつきながら着物をなおした。母は、独り、二階の縁側で長椅子にいた。じっと団扇を胸のところにあて、軒さきから繁った梧桐の青い葉の照りの下に、沈んだように横わっている。伸子は裏階子から登ってゆき、黙ってそのそばに佇んだ。母も黙っている。よほどたってから、多計代は、娘の方を見ずに訊いた。
「もういいのかえ?」
「大抵いいらしいわ」
 二人はそれぎり、また言葉をとぎらした。そうやっていてはきりがないので、伸子は、
「――じゃあ……」
と云った。多計代の顔に、引歪むような苦しげな表情があらわれた。それを見ると、伸子は自分も胸板を剥がれるような苦痛をおぼえた。
「……行ってまいります」
 とてもほかのわかれの挨拶は出なかった。明らかに、今は涙を制しかねている母を、伸子は二目と見ていられなかった。彼女の、咳払いとも何か云おうとする前ぶれともとれるむせび声を後にし、どしどし階段を降りた。足に力を入れ、一歩一歩降りるとき自分の目からも涙がこぼれた。下に降りきると、暫く堪え難い心持で、彼女は手摺の柱に頭をすりつけて泣いた。別に暮すのは当然で、その上みんなが希望したことだのに、不思議なものだ。自分の育った家をいざ去るということは、このように悲しく辛く真実別離の感が魂を貫いた。古びた家の柱などが急に目を覚し、出て行こうとする自分を、愕いて見守っているようにさえ感じる。伸子は今を境に自分がここで過した幼年、少女時代の思い出のすべてが、家と倶に後に遺るのを感じた。自分は独り去る。しかし思い出はいつまでも、当時の新鮮さ、多様さで、この家に生きつづけ住みつづけるであろう。左様なら! 不思議な、明るい、暗い子供時代の生活よ、すべて左様なら。
 その家は西向きで、崖のとっぽさきに立っていた。午後になると、西日が小箱の口のように、たった一方に開いた縁側からさしこんで来た。力一杯に、西日は部屋の壁際まで照りつけるのだが、それだけ風もよく通ると見え、伸子は大して暑くも感じなかった。こんな小っぽけな家、こんな西日、伸子は珍しい心持で、暑くないキラキラした夏の斜光を浴びて坐っていた。大体、その年は、貸家払底が極度に達していた。彼らは、貧しいポケットから払える最高を払って、やっとその不健康な住居を手に入れたのであった。
 引越しのごたごたも鎮まり、佃は毎朝、大学へか、さもなければ、その頃就職した私立大学へ出かけた。八時頃。それから夕方四時半か五時まで、伸子はたった一人で暮すのであった。永い明るい夏の日が何とゆるゆるたつことか。
 ある午後、伸子は八畳と六畳との境の開け放した襖によりかかり、ウクレリーを弾いていた。
 例によって、西日は、もう畳三分の一ぐらいのところまで、まばゆく躍りこんでいる。粗末な譜本を膝の前にひろげ、あぐらを組み、伸子は譜と首っぴきで、フラットの多い民謡を稽古していた。
 Hao, hae, haae ……ハオ、ハエ、ハアエ……、ボロンボロンボロンと三重音のリフレインをつけるわけなのだが、伸子の指は、とても、譜本の插画に、頸から大花環をかけてウクレリーを弾いているハワイ青年のそれのようには動かない。一つぐらいきっと、かんどころがずった。或は押しがむらで、肝腎の音が鳴らない。伸子は、頭で拍子をとりつつ、一二三、一二三、何遍となくやりなおした。毎日口を利く対手もなく暮すと、伸子はそうやって、せめて楽器に合せてでも自分の声を出したいのであった。
 ハオ、ハエ、ハアエ……
 何と下手なことだろう。三味線のひける人は、きっとたちまち上達するに違いない。熱心にやりながら、伸子の頭はこのようなことを考える。そればかりか、彼女はいつの間にか、隣家の物音をことごとく聞いていた。二軒長屋のような構造で、伸子の住居と隣家とは、羽目板一枚でぴったりついていた。まだ顔を合せたことはないが、その家には中国人一家が、日本人の家族と暮していた。男の子に(中国人の)湯を使わせているらしく、バシャバシャ水の音がした。
「坊ちゃん! さ、いいお子、ね」
 日本の、家事をとり扱っている女の声が表面は優しく、しかし腹では焦々いらいらしているらしい情なさで聞える。何とか、遠慮がちな中国語で、母親が息子に云いきかせるのも聞えてくる。伸子は、自分の掻き鳴らす楽器の音の単調さを意識した。あの中国語もいやにおとなし過ぎる――いよいよ燦き射りつける西日につれ、伸子は目的のわからない憂愁に捕われた。――捕われたと云っては当らない、西日があまりきついので、伸子の内心から憂愁が蒸発するとでも云うようだ。
 別に家も持ち、佃は職業を得、先ずこれで自分らの生活が予定通りはじまっているというわけだが――伸子は、しかし、何だかその生活に、自分を馴らしてしまうことができずにいるのであった。例えばある一つの晩餐会がここにある。料理は勿論、金縁の献立通りに燕尾服の給仕によって運ばれている。招かれぬ客もいないし、主賓が欠けているわけでもない。乾盃から卓上演説まで、すべて遺漏なくプログラム通り運ばれている。しかも、始めから終りまでその席に連なり、プログラムの予定通りの進行の証人となっているうち、その会合全体のうちに、自分が何の趣味も意味も感ぜず、突然変な不安にうながされて周囲を眺めまわすような場合がある。はたの誰一人、自分の感じるような屈託は持っていないと云う発見で、彼は自分を慰め得るであろうか。逆に、ますます自分のその場にそぐわない感じを強めるのであろう。
 伸子もそれなのであった。細君という席が、彼女にぴったりしないのであった。どうぴったりせぬかと云う原因を一口に云うのは困難だし、不可能なことであった。それは奥深いところにあるだろうし、繊細な気持のニュアンスなのだから。ただ一つだけ伸子に分っていたことは、生活が廻転する幅の狭さ、重さ、若々しい柔軟性の欠乏であった。これからこそ自分達の生活だ。さあ、私の愛する人よ、多くの希望をもって生活に踏み出すと、いつの間にか生活の方が、牧場の柵かなどのように自分達をとりまき、伸子はそのうちに、夫というどこやら嵩張って動かぬ者と、鼻をつき合せてしまったように感じるのであった。
 佃は、そのようなことはちっとも感じないらしかった。前晩寝床の上で背中を丸め「軍は潰走かいそうした。我等は勝利を得、敵将五人を捕虜とし云々」と下読みしておいた初等のラテン読本を持って出勤して行く、帰ってくる。遅疑なく明日の朝も出勤するであろう。彼に、伸子は自分の感情を訴えるきっかけを見出せなかった。それに、彼女は、自分達の経てきた感情生活を時々顧みた。互に知り合ってから今日まで、彼らに波瀾がありすぎた。周囲と戦いつつ互の愛を見失うまいとする熱中、彼も守り自分を守る努力、いつもそれらのため、伸子の心は緊張しつづけ、刺戟されつづけであった。それらが無くなったので、自分は張合ぬけがしたのであろうか? 平和に処す法を忘れたアマゾンに、自分はなったのであろうか。伸子は、そのように考える時もある。しかしその考えは、目前にある生活とそぐわない感じを、消す役には立たない……。
 伸子は、ウクレリーを袋にしまって立ち上った。


 伸子は、台所口に錠をかけて外へ出た。表の大通りでは、電車がやかましい軋りを立てて、埃の中を走った。吉祥寺山門前のいしだたみのところでは、三人の少女が唄に合せてまり[#「毬を」は底本では「毯を」]ついて脚の下を潜らせていた。伸子は、鐘楼のそばを、裏通りへ抜けた。斜にもう一筋、ごたごたした大通りを横切って、静かな屋敷町に出た。彼女は散歩がてら、母やつや子に会うつもりなのであった。
 門の修繕で、左官が入っていた。木の船の漆喰を、詰らなそうに小僧が掻きまぜていた。つや子は、書生の手につかまりながら、気をとられてそれを見ていた。伸子は遠くからその恰好を見、思わず笑った。書生がそれを見つけ、つや子に何か云った。つや子は、ひょいと顔をあげて、往来をゆっくり来る伸子を認めると、
「やあ、お姉ちゃまあ」
と、とびついて来た。
「お母ちゃまは?」
「いらしってよ。おねえちゃま、なぜもっと早くいらっしゃらないの、こないだ、じき来るって云ったのに」
「うん……」
 伸子は、つや子を助けて、こもや板切れの間をまたいで通った。つや子は、伸子の袂の先を引っかついで歩きながら、じろじろ姉の手元を見て笑った。
「はあ、見つけたな、おずるさん」
「うん、僕ちゃんとわかったの、だって、この間おっしゃったでしょう?」
「――でもこれは違ってよ」
 伸子は、とぼけて云った。
「ただの古新聞」
「うそう! わかってよ、ちゃんと見えるわよ、コドモノクニよ」
 玄関に女下駄が揃えてあったので、伸子は木戸から庭へ廻った。西洋間の窓のアスパラガスの鉢植の蔭に、客の小ぢんまりした束髪の後つきが見えた。七月、佃を佐々に入籍させるさせないということで両親と衝突した時、伸子は、あの窓のところに立って汗と涙とを流した。伸子は、その時の自分の激しい言葉をはっきり思い出した。あれはもう過ぎたこと、生活は違った容貌を持っていま流れている、そういう感じが強く伸子をうった。
 つや子とゴミかくしをしていると、客を送り出した母が、窓から首を出して伸子を呼んだ。
「二階へおいでな」
 登って行くと、二間ずっと通して襖をあけ放ち、広い方に緋の毛氈もうせんを敷いてあった。大きな盆に、絵筆や筆洗絵具皿などをのせてある。多計代は、毛氈の上で唐紙をっていた。伸子は、その光景を見ると、
「おや」
と云った。
「絵のお稽古? 泉さんがいよいよきて下さるようになったの?」
「ああ。何だのかだのと例によって、なかなか捗取はかどらなかったのだけれど、やっとね。今日で二度目さ。この年で始めたんじゃあ、どうせ本ものになりっこはないから、せめて色紙ぐらい間誤つかないようになれば大出来としないじゃあね」
 絵でも習おうと思い始めた母の心持を、伸子はいとしく感じた。
「それで結構ですとも! 打ちこんで稽古するものができただけで万歳よ、――どれ? この前のは……一番初めの……」
「何しろ、何年も絵筆なんぞ持たなかったから、からきしさ。小蘋しょうひんさんの頃からずっとやっていたら、どうしてこれだって今頃は、小何とかだよ」
 多計代は、自分の気焔に興じたように、晴れやかに大笑いした。屈託ない笑いであった。伸子は、絵の稽古がこんなに心に影響するものかと、一寸刺戟を感じた。伸子は以前から、母が和歌でも本気でやればよいと思って勧めたこともあった。その方に却って縁がなく、絵になった。学校時代の若い時、野口小蘋に好意のある指導をされた、それが因縁になっているのだ。多計代は、大色紙ぐらいの唐紙に竹をかいたのを見せた。
「どうだい」
 そして、自分もわきから覗きこんだ。
「こうと頭では分っているつもりでも、いざとなると、筆が何とも云うことをきかないでね」
「ハハハ。まるで十年も二十年もおやりになったようね、ハハハ、筆がいうことをきかない、は虫がよすぎるわ」
「またひやかす! どうせお前は偉いよ。――それは冗談だがね」
 多計代は、泉さんの絵を出して見せ、それについて二三批評した。
「どう思うかい? 気魄が無さすぎるだろう。私は玄人になりすぎて、かじかんだようなのは嫌いさ」
 伸子は、違い棚の下に、見なれない螺鈿らでんの中国の小箪笥が置いてあるのを見つけた。大胆な柘榴ざくろの実の図案だが、象眼した貝の色が、深味もあり厚みもあって、素晴らしく立派であった。
「いいのね、いつお買いになったの」
 多計代は、竹の清書でもするのか、片手を毛氈について、筆に墨をふくませながら、
「え」
と生返事をした。
「どれ? ああ、それかい、綺麗だろう? 例によって父様のどらさ。私の絵具箪笥にしろって、下すったの」
 伸子には、夜、父がわざと知らん顔で、その大包みを部屋に運ばせて入って来た様子が、見えるようであった。
「相変らずフェイスフル・ハズバンドね……親切にして上げないとばちが当るわ」
「……私も近頃はそう思うよ」
 多計代は、首を曲げて、自分の描いた細竹の枝を眺めながら、ゆっくり云った。
「近頃は全くいい父様さ、私もお気の毒だと思うようになった……相変らず癇癪はひどいけれどね……」
「もとからいい夫じゃないの」
「若い頃の気むずかしかったことと云ったら! 伸ちゃんなんか知らないさ。……だけれども、まああれで、父様もごく純な人だったから持って来たのだね。それでなかったらお前……今になって、いろいろ男の人を見ると、つくづくそう思うよ……佃なんかとは比べものにならない純粋さがあったよ、確かに」
 だんだん形になって来る絵を眺めながら聞いていた伸子は、女らしく自分の夫自慢をする母の調子の朗かさに愉快を感じた。だがほんのぽっちり、極くぽっちり、侘しくないこともない。――伸子は、自分が姉になって、妹の罪のない夫自慢をきいているようないたわり心になった。
「……まあ何ね、父様があれだけ愛していらっしゃることが確かだから、母様もいろいろ強そうにしていらっしゃれるようなものね。土台が大丈夫だから、安心してその上で跳ねられる……そうじゃあないこと?」
「さあね……そんなものかね」
 階下で、二人は茶をのんだ。空也の話をしていると、どうかして喉がいらつき、伸子は顔をしかめて咳払いをした。すると茶飲茶碗を口のそばへ持って行きかけていた多計代が、手を止め、じろりと伸子を見た。
「おや、そっくりだこと!」
 伸子は、無邪気な気持で訊きかえした。
「なにが?」
「咳払いがさ、お前の。佃もそんな、おつう気取ったような咳払いをするよ」
 伸子は、渋い、辛うじての薄笑いで唇を歪めた。
「……いやあだ、偶然よ」
「そうじゃあないよ、そっくりだよ、だって……」
 伸子は、いとわしそうに、しかし穏やかに云った。
「そういちいち神経質に検査しないで頂戴よ、私は何の気なしにするんだから」
 伸子は、和一郎がこの頃凝っている写真の、静物印画を一枚貰って帰った。

 夕飯の時、伸子は佃に話した。
「今日はね、おひるっから動坂へ出かけたのよ、そして一つ、新しい発見をしてきたわ」
 佃は、興味もなさそうに、
「へえ」
と云った。
「なんです」
「母様についてよ、少し違った考えかたになったの。これまで、私子供の時からの癖で、母様の云ったりしたりなさることを、あまり重大にとりすぎていたのかもしれないと思うのよ」
 伸子は、今日印象を得て来た母の心の単純さ正直さを説明した。
「だから、いろんなものが――優しさでも、意地わるでも、その時々によって連絡なく、率直に無技巧に出るのね、きっと。どうしてやろうとか、こうしてやろうとか云うような計画的なものはないのよ、そうお思いなさらないこと?」
 伸子は、動坂から帰る途々みちみちそれらのことを考え、平和にいたる道を見つけたような心持を感じた。母との交渉は、彼女にとって絶えざる重荷であったが、そこに理解を単純にする一見地が出来たようで、伸子は清らかささえ感じたのであった。佃もそう分れば、気の持ち方も違うだろうと、伸子は楽しい期待をもってそれを話し出したのであった。けれども、彼は、無感動の状態から出なかった。彼は、小楊枝こようじを使いつつ、額の上に皺をよせ、斜に伸子を見上げて答えた。
「僕は批評しませんよ」
「批評ではなくよ、見かたよ。どうせ私どもは一生無関係にはなれないんだから、なるたけ賢い理解を持つ方がいいと思うの。お互のために……好意のある、けれども、うわてな心の持ちかたね……」
「――まあ、分る時が来れば分りましょう」
 そう云いながら、彼は、顔に一種特別な――あまり高貴でない表情を浮べて、指の節を一本ずつぽきぽき折り鳴らした。伸子は、眼をそらし切ないような顔をした。佃が、一般に、人間的興味のある活々した話題を好まないのが、伸子に不満なのであったが、それにも増し、彼が、気のない、一寸面倒くさい時、ぽきぽき指頭の平たい、無骨な指の節を鳴らすのが、伸子には厭なのであった。彼は、近頃それを始めた。その骨の鳴る音をきくと、伸子は気が滅入った。
 (恐ろしい。彼も指をぽきぽき折る。カレーニンも、冷淡な、いやな顔をして机の前で指を鳴らした。彼はカレーニン的なのだろうか? では?)
 伸子は、今も衝動的に、「やめて」と云おうとして片手をのばした。が、訳の分らないものに制せられて黙った。彼はもう一度るだろうか。――伸子は、自分に対してよそよそしい、暗い、苦痛を待つような気持で、彼の手元を見守った。しかし、彼はそれに心づかず立ち上った。そして、机の前で、勤め先から持って来た風呂敷包みを解き出した。
 伸子は、母のところで見た中国の小箪笥のことを思い出して、云った。
「蝶貝でも随分いい色のあるものね、絵具箱にするんだって、まるで大きなオパールをめこんだようなのを見てきてよ――今日」
「ふうむ、よっぽどするだろうね」
「――そうね。……ほら、よく水色っぽいのや薄い桃色みたいなのあるでしょう? そんなのとはまるで違って複雑なの、光りかたが。……焔みたいだったわ」
 けれども佃は、それの話題に関係なく、机の上の鉛筆やペンを片よせ、やや唐突に云った。
「あれを見て置いてくれた?」
「ええ」
「どう?」
 伸子は、
「そうね」
と云った。
「持って来るわ、とにかく」
 佃は、彼の専門に関する小著書の下拵えをしていた。通俗的な、ペルシャ文学概論であった。伸子は、丁度その目的にかなった素人読者の代表として、選ばれたのであった。伸子は、二寸ほど厚い原稿を、自分の机のひきだしから持って来た。佃は、自分の仕事に対する、親しみの現れた手つきで、ぱらぱら頁をひるがえした。
「何か苦情がある?」
 伸子は、彼の気をくじく気はなかった。佃が、重い筆を働かして、それだけの仕事をしたのは、彼女も悦びと感じているのであった。
「苦情は大げさだけれど、もう少しどうにかした方がいいと思うところはあるわ」
「どこ?」
「紙が挾んでありゃあしないこと? 説明が足りないのよ、ところどころ。まるで予備知識のないものが読むと、物足りないの。それに何というか、材料の底まで、たっぷり筆が届いていないようなところがあるような気がするんだけれど……」
 佃は、弁疎的に云った。
「そりゃあ、小説のようなものとは違いますよ。面白いものじゃあないにきまっている。――何しろ片手間にやる仕事だから……材料を整理するだけだって、容易じゃあない」
「そうよ、だからなおさら、いいものに仕上げなくてはね」
 伸子は、劬りつつ、奥から閃くもののあるのを自覚して云った。
「仕事から云えば、学校の先生よりこの方があなたの本道なんだから、云いわけをしないですむようなものに仕上げなけりゃあいけないわ」
 彼らは、原稿について、暫く話した。昨日の午後、今朝と、それを読みながら感じたのだが、伸子は、それを書いたのが夫だからと云って、自分がいささかも寛大な批評者となれないのを知った。かえって、慾が加わるせいか、敏感で、気むずかしくなった。凡庸な小冊子の著者によくあるように、常套語を平気で数多く使ったり、まわりくどくて、明快な思想も感情もない文に出会うと、伸子は悲しみと腹立たしさを一緒くたに感じた。
「駄目、駄目、これはなあに?」
 礼儀も何もはね飛ばした癇癪を破裂させないために、伸子は、それが下書きだということや、夫の初めての試みだということを、絶えず念頭に置く必要があった。同時に、彼女は、自身に対して疑いをもった。心の優しい人というものは、こういうことに対してこんな気持は持たないだろうか。自分が見栄坊で偏狭なせいで、かような、いわば特殊な文学的感覚の欠乏を、これほど苦にやむのだろうか。――
 佃にも、いろいろ理窟があるので、彼らは数度、重苦しい沈黙におちいった。一区切すんだ時、伸子はほっとして云った。
「ああ、やっとすんだ! 頑張りの寄り合だから大変だ」
 彼女は、手をのばして、赤インクの栓をした。
「さ、ちょっと息ぬきに喋らない?」
「しゃべってもいいが――動坂で十分楽しんで来たでしょう」
「楽しんでなんか来やしないわ、別に。あなたとほかの者とは違うじゃあないの――何か珍しいこと無かった?」
「さあ……。じゃあこうしよう」
 佃は、いい思いつきだというように云った。
「どうせ、喋っているんなら、喋りながらこれをつけましょう、ね?……頭を使うことでもないからいいでしょう?」
 彼は、机の上から、下積みの茶表紙の小帳面を引き出した。伸子は、それを見るとふざけたように、
「ふあ――」
と、閉口した。
閻魔帳えんまちょう?」
 伸子は、冗談の下に本心を現して云った。
「楽しみたい、ああよし、小遣帳――洒落しゃれにもならないわね」
 佃は、落着いて小遣帳に日づけを記入しながら、じぶくる伸子に教訓するように云った。
「何年もあとで見ると、その頃の生活が分って面白いものになりますよ。今日は――と、パン十五銭……多賀君の送別会費三円。君の方は?」
 伸子は、興ざめながら答えた。
「――つや子にコドモノクニを買って行ってやっただけ」
 伸子の部屋は、北向きの三畳で、曇硝子の障子が二枚たっていた。上一枚は透徹すきとおる硝子で、葉茶屋の土蔵だの、穢いトタン塀のてっぺん、自分の家の古びた庇などが、いつも同じ光線の中に見えた。そこから、空は見えなかった。曇硝子の上に、前に住んでいた子供の、太い鉛筆の、終りになるほど大きい、乱暴ないたずら書があった。5×82÷1.1+000


 彼らの家には、訪問客というものがなかった。
 高等教育を、日本で受けなかったせいであろう。佃に友達と呼ぶ者はほとんどなかった。
 佃は、夜よく近所へ散歩に出た。伸子もついて出た。彼らはまき檜葉ひば類を少しずつ買った。それらを、西日のさす崖ぶちや、むき出しな格子の左右に植えた。その辺は、遠くに小石川台の梢を望むぎりで、立てこんだ各々の家には、木らしい木の生える余地も無かった。槇は路地の中で、青々と、子供の目をひくらしかった。午後、小学校のひけ頃になると、男の子たちが、その二本の、四尺たらずの槇の周囲に、いつとなく集った。
「おい、何だい、この樹」
「松だよ」
「違いますよ、松じゃあねえよっと。松の葉は触るとちくちくするよ」
 ひっそりしたかと思うと、いきなり一人が叫んだ。
「あら! あら! わあるいの」
 するともう一つの、ひそひそ声が臆病らしく云った。
「叱られるよ」
 佃が家にいると、伸子は悩ましい思いをした。彼は、そんな声を聞きつけると、大人対手のように険しい顔つきになった。そっと下駄を下げて来て庭へ廻し、板塀についている切戸へ忍びよった。彼は音を立てずに掛金をはずすと、突然姿を現し、物も云わずに子供達に向って近づいて行った。ひそひそしていた連中は一目散に逃げ出す。狭い路地に入り乱れて響く跫音が、子供の本気な恐怖を語った。度重なると、滑稽を越えて、伸子は変に寥しい、浅間しいような気がした。
「仕方がないのね、珍しいからよ。――庭へ入れた方がいいわ」
 佃は亢奮しつつ、神経質な焦立ちで、
「折角ひとが植えたものを、むしるなんて怪しからん。僕はなかへは入れませんよ、けっして」
 伸子は、彼の、頑固な所有慾というようなものを感じるのであった。
 散歩に出て伸子が買いたがるのは植木より本であった。古本屋をよく見た。何か目につくと、彼女はそれをぬき出し、
「これ」
と夫に示した。佃は、その本を手にとって、あっちこっち返して見て、訊きかえした。
「是非なくてはならないもの」
 その調子が、伸子をしょんぼりさせた。彼女はあきらめて本を元のところに返した。
「――じゃあ又にするわ」
 伸子は、買っても、買わないと同じように、さっぱりしないのを知っていた。彼女は、夫婦として暮して見ると、佃が、もとからたっぷりしない暮しを経験していながら、馴れて大胆に快活に、それを支配することを知らないのを意外に感じた。
 伸子は、大概家にいた。本を読んだり、崖下に井戸がある、その井戸端で、長屋の女達が喋るのを聴いたりしていた。永く一日が過ぎる。彼女は、佃が帰るのを待ち切った。彼女は、堤を切ったように話したがり、彼にも喋って貰いたがった。けれども、佃は、伸子が面白がることを、あまり面白いとは感じないらしかった。あまり身を入れて聞かなかった。気が乗って彼の話すのは、多く勤め先の出来事、同僚の噂であった。佃は、低い、これはお前にだけ話すのだが、と云う意味を示した声で云った。
「今日、幹事のところへ用があって二三度行ったら、堤君が、私に小さい声で、幹事に何か御用ですか、と訊いた」
「ふうむ、それで?」
「私は、ええちょっと相談がありますと云っただけだが――皆気の毒に神経質だ。私なんか幹事だろうが誰だろうが、平気で行って話すから、きっと皆、意外に思っているんでしょう」
 佃は、それが得意でなくもない。――
「ゴーゴリね」
と笑うが、心のうちで伸子は、夫もその中で、明かに小勤人の一役を受持っているのを感じ、彼がそれを不平ともしないことに哀愁を感じた。
 秋が進んだ。庭に、月がさした。その月の光は崖下の櫛比しっぴした屋根屋根を照し、終夜、床下で虫が鳴いた。霜が下りるようになってから、まだ暗い午前六時頃、寒く凍った道路を、工場へ出かける人々の朴歯ほうばの音が、伸子の寝ている枕に響いて来た。
 伸子は、だんだん自分の心に切ない渣滓おりが溜って来るのを感じた。彼女は毎日絶え間なく飢えていた。それらは、誇るに足るほど高い程度のものではなかったにしろ、内的に育つ盛りの若い伸子にとって、食物と同じに必要な芸術的雰囲気の欠乏が、深く彼女を苦しめた。佃は、長年アメリカの女の生活を見馴れていたから、寝たいだけ伸子を眠らせた。日常の買物も自分で厭わずした。台所さえ伸子一人でぽつねんとしないでよかった。しかし、眠り足りたスポンジのような頭脳で、貪り読み、感じ考えたとしても、それを共に語るに誰がいよう! 佃は、近頃のように生活がきまってしまうと、ちょいちょいしたこれまでの精神上の荷物を、どこへかおろしてしまったように見えた。――彼の文学は、数年前の貯蔵であるシエクスピア、ベーコン問題から進まず、雑誌さえ、恐らく一冊以上目を通すことはなかった。彼は、それでも本能的に教師らしいところがあって、うまく伸子の突撃をかわす手練はある。――これは何と異様な孤独だろう。伸子は恐ろしい絶望的な寂寥せきりょうに打たれて、激しく泣き出すことがあった。
「ああ、なぜこんなに寂しいの? 寂しいの?……もう少し、どうにかしましょうよ」
 佃は、当惑し、眉をひそめ、伸子を抱いて背を撫でながら、なだめるように顔をよせて、繰り返し繰り返し囁いた。
「そんなに泣くもんじゃありません、ね、今によくなる。――今に馴れます」
 その馴れるということこそ、何より伸子がこわがっているのであった。人間が、飼われた獣と同じように、やがてはどんな境遇にでも馴れるという事実は、悲しく恐ろしい。自分も、今にやはり、この生活に馴れてしまうのだろうか? そして、幾年か経つうちには、趣味も、情熱も失い、最初成ろうと目ざしていた者とは似ても似つかない者になって、そうなってしまったのさえ知らず、一生を終るのだろうか? 伸子は、目に見えないうちにすぎ去る生活を惜しみ、不安に襲われた。――
 三月になってから、ある日、動坂へ行った。親戚の子供が来あわせて賑やかであった。皆を集めて、和一郎が写真をとった。それがすむと、和一郎は伸子だけを、また別に迎えに来た。
「今日は光線の工合がいいから、姉さんだけでもう一枚とらない?」
「そうね」
 伸子は、元来よそゆきになって、商売人に写真をうつされることが嫌いであった。彼女は、弟にすすめられると、近頃自分がどんなに見えるか、と好奇心をもった。
「じゃあ、とって貰おうかしら……でも、ぼやぼや幽霊みたいなのはいやよ」
「大丈夫さ! こんな天気にしくじるなんて、決してありゃあしないさ」
 伸子は、弟と連立って客間の庭に廻った。そして、木犀もくせいの前に立った。
 数日後行くと、それが現像できていた。
「丁度乾かしたところよ、もういいだろう」
 伸子は、一緒に和一郎の仕事部屋へ行ってみた。洗濯場の奥を区切り、薬品を沢山並べた小窓のところに、印画が乾かしてあった。
「まあ何枚もあるのね、皆あの時の?」
「ううん、あとでつや子と大学の御殿へ遊びに行った時のもある。――こないだのだけじゃあ、まだフィルムがあまってたもんだから」
「どれ……拝見」
「これが大学でったの」
 つや子が、兄とふざけて、笑いながらこちらを向いて来るところを、不意に撮ったと見え、手脚の動きが律動的で美しく見えた。
「これがこないだの。元ちゃんが少し動いたんでぼやけちゃった。――姉さん一人の方がいいや」
「そう?」
 伸子は、セピアにやきつけた一枚を渡された。印画としては綺麗に仕上っていた。けれども、最初の一瞥で、伸子はその写真が、自分に相違ないのに、すらりと承知できかねる変な感じを受けた。自分と思っていたのとはどこか違うものが、正面を向いて両手を束ねた顔にみなぎっていた。こんな太い縦の陰翳が、二本も、もとから自分の眉の上にあっただろうか。老けた、複雑な、険しい顔つきであった。それだのに、口許ばかり、穏やかに穏やかにと、取繕われたような微笑があって、醜い顔であった。
「私の顔本当にこんな?」
 ききたいぐらいであった。
 伸子はつくづく自分の顔を眺めた。
 いつまでも黙っているのを、和一郎は、写真に不満なのだと思ったらしい。彼は弁解的に云った。
「もう少し、全体濃くてもよかったな、この次、またやきなおして上げましょうね」
「これで結構よ、有難う」
 伸子は、写真を、もう一遍見なおしながら、云った。
「よく――はっきり撮れているわ」


 高台の濃やかな青葉とそれを透す日光の美しい気候が来た。崖ぶちの、彼らの家で、生活は相変らず単調であった。生活は狭く無表情に廻転している。伸子は、不可抗力にその調子に巻きこまれていながら、いつまでも不本意で、抵抗を失えなかった。伸子の気分が平和なのは、二人が別にこれという話もせず、笑いもせず、ぼんやり縁側に腰をかけて、樹でも見ている時であった。丁度、二匹の犬が、日向で前脚をのばし、その上に顎をのせて、うつらうつらしている時のように。けれども、その眠ったような平穏は、いつも永続きしなかった。先ず、伸子が自分達の有様に、云いようない物足りなさを感じ出すのが常であった。これが二年前、あのような熱情で生活し始めた男女の有様であろうか。
 よき結婚生活という、あの時分の標題は、もちろん全然無くなりきっていたわけではない。伸子が、自分の感じる不安について彼に話せば、彼はたちどころに、その表題を再びとり出した。それで彼女を安心させようとした。しかし、それとても、近頃は何と疑わしいものになって来ただろう。伸子は、夫が、言葉でする愛の誓で、愛す愛すとだけ云えば万事解決する、と思っているのが味気なかった。愛しても、食物はいるように、愛しても、伸子には活溌な生存がいるのであった。毎日の細かいことでは、互の心持について、まるでやり放しでとり合わず、伸子がやり切れなくなって涙をこぼすと、急に熱烈に、これほど愛している心が通じないかと訴えられる。――伸子は、途方に暮れて云うしかなかった。
「ね、こういうことは、言葉に現せない毎日毎日の感じから来るのよ……あなたのはまるで、一旦自分は愛していると思い込んだら、頑固に思い込む程度の強さを、愛の強さだと勘違いしていらっしゃるようね」
「ああ、そんな皮肉を云う! じゃあそう思っていらっしゃい」
 それ故、犬のようにただ並んでいるのが侘しくなり、
「ねえ」
と呼びかけはしても、彼女は大抵あとの言葉を云わずじまいにした。佃はそれを怪しもうともしない。――これが、平和な家庭生活というものであろうか。
 伸子は、沼に浸っているような生活気分に、たえ難くなって来た。
 外の世界は五月だ。明るい溌剌とした五月だ。自分の心もかつてはこのようでなかったか?
 初夏の空気が充満して来るにつれ、旅行に出たい渇望が募った。出かけると云っても、伸子に心当りは、一箇所しかなかった。それは、祖母が一人住居ずまいしている東北の田舎だ。そこなら、佃も承知するに違いなかった。彼女は、仕事をしたいという理由で、佃の承諾を得た。
 農繁期なので、東北本線の急行はすいていた。
 伸子は、日のさし込まない側の、居心地よい場所をとることができた。汽車に乗りたての騒然とした気持のうちに、ごみごみして不潔な大都会の外郭を抜け去り、追々田舎が車窓の外に開けて来ると、伸子は、名状し難い広々とした快さ、落着きが、心にみて来るのを感じた。田畑の上を、電信柱や人や森が、スイ、スイ、来ては飛び去る。伸子は、それにも子供らしい愉快を感じた。程よい動揺や規則的な車輪の響が、彼女の神経を鎮めたのだが、伸子の心には何かそれ以上、うれしさがあった。うれしさ、悦ばしさ。ただ違った景色を眺めつつ旅行するだけの楽しさではなかった。自分の体を圧えつけていたものが、やっととれた、アア! と、初めて周囲をのびのび見廻した刹那の爽やかさなのであった。伸子は貪るようにその心持を味った。このこだわりなさ! こんな自由の豊富さ! この、力が漲って来る洋々とした心持。――
 沿線の風景は、伸子にとって、子供の時から知己であった。列車は那須野ヶ原にさしかかった。一面若葉をつけた矮樹林わいじゅりんの間を、汽車は走った。それらは、緑の波のように、列車の左右で泡立ち戦いだ。大気の澄んだ地平線の彼方には、日光の山々が、いただきの雪を燦かせて、聳え立っている。若し人があたりにいなければ、心をこめて両腕をこの山々に向って延したいほど感動を覚えた。彼女は、再び自分に還る生活を感じ、勇しくび駈ける馬に立ちりでもしているように、しっかり、窓に向って両脚で突っ立って、遠い遠い山巓さんてんを眺めていると、車体の揺れと自然との交感が音波のように錯綜して、伸子の全身に音楽的リズムがこみ上げて来た。
 シュッ、シュッ、カ、カ、
(しかし、彼の山々は――)、いきなり、畳句リフレインが記憶の底から浮み出て、その後にとびついた。
 シュッ、シュッ、カ、カ、――しかし彼の山々は――
 シュッ、シュッ、カ、カ、――しかし彼の山々は――
 ――彼の山々は――

 伸子は、自分の亢奮に驚いた。自分はこのように野原や山々へのノスタルジアにかかっていたのだろうか? そして、また何と貪慾に、自分は自分の自由を享楽していることであろう。伸子には、夫をつれて来て、この悦びや鮮やかな自然の印象を分ちたい気持が起らなかった。彼女の気持は逆であった。彼女は、この山々を、この矮樹林を、自分だけで眺められるからこそ、嬉しいのであった。傍から誰にも妨げられず、心全面で眺め、味い、感覚する、この快さこそ、実に彼女に、久しく失っていた自由の蘇生を感じさせるものなのであった。


 家じゅうに鏡はたった一つあるきりであった。水銀にひびの入った古い掛鏡が、流しの横の柱に懸っていた。田舎へ来てから、伸子は毎朝顔を洗う時、気をつけてその鏡を覗いた。日により、或は光線によって、起きぬけの額がすらりと晴れて見えると、伸子はその日一日、正しい心で暮せる瑞相ずいそうのような喜びを感じた。何の工合か、陰翳が濃く現れていると、暫く陰気になった。彼女はそこを幾度もこすって、もう一生このしわは、つききりなのだろうかと思った。
 祖母は女中と、おとよさんと云う、もとは他人だが今は遠い親類のようになった婦人と、三人で暮していた。伸子は毎日野天に出て、祖母と二人で庭樹の刈込みをした。ひいらぎや生垣の檜葉などが、春の芽をがむしゃらに延していた。冬越ししてもさもさになった野馬の毛を刈るように、それらに手を入れるのだ。木鋏で刈りながら、伸子は祖母といろいろなことを話した。
「これからはなかなかいそがしいごんだ。茶はつまなけりゃならないし……なじょなわけか、茶を拵える男が年々減って、銭を出してもはあ来てがないから、来年はもう、茶は製しないかも知れない」
「楽しみでもないんならおやめの方がいいわ、どうせ、手間をかけるだけたくさんもとれないんでしょう」
 縁側にぺしゃんと坐って、胡桃くるみをむいているおとよさんが口を出した。
「御隠居さん、そりゃお気をおもみなさるんでね、はたでお気の毒でございますの」
「呑気に遊ばせよ、もうおばあ様なんか、いろいろの楽しみだけを仕事になさっていいお年よ」
 祖母は少し太い小枝を挾み当て、弱々しい腕に力を入れやっとはさんで、答えた。
空家あきやのようにしては置かれまいっちぇ」
「――東京へいらしちまえばいいわ、何も世話なんかなさらないですむから……いい御隠居所になってよ、小ぢんまりした。――今度私と一緒にいらっしゃい」
「……ふむ」
 祖母は考えながら、おとよさんに経木きょうぎ鍔広帽つばひろぼうを出させた。
「日がてりつけて禿はげがあついごんだ。――お前たち、二人で住めばよかろ」
 伸子は離れて、自分の刈った楓の枝ぶりを眺めた。
「どこへ? 御隠居へ?」
「そうよ、そしたら家賃なぞ、馬鹿馬鹿しく出さないでよかろうちぇ、おれが住むよりその方がやくに立つになあ」
「そんなこと駄目よ、おばあさまのために建てたんですもの……」
「おれが住まわせろと云ったらよかろう?」
 伸子は、陽気に笑いながら云った。
「有難いけれどお断りするわ。叱られるとこわいから」
「……おれのような田舎婆が行ったら、さぞ笑われっぺなあ。――ほんにおれなんぞお国風で、稼ぐことばかり教えられ、字も書けないで、今になってからはあ口惜くやしいことよ」
 祖母は茶の間に、人に会いに引っ込んだ。おとよさんは縁側に腰かけている伸子に云った。
「本当に御隠居さんも、あちらへ御一緒におなりなさるとようございますのにね。……なかなかその気におなりなさらないんですものね。あなた、よく勧めておあげなさいませよ。あなたのおっしゃることは不思議におききになりますもの」
「……今度もたのまれて来たのよ、おつれしろって……」
 おとよさんは語勢をつよめて、
「是非そうなさいませ」
と云った。
「――それは、私がこうやってご厄介になっておりますうちは、およばずながらどんなお世話でもしますが……私も……」
 彼女は少し顔つきをかえ、笊の中を見た。
「いつまでこうしておられますか分りませんし」
 彼女は中年まで小学校の教員をしていた。それから結婚し、その夫に二年前死別したのであった。
「何かお話があるの?」
「え……少し……いろいろ私も先々のことを考えますもんですから――」
 暫くして、おとよさんは伸子に訊いた。
「もうどのくらいいらっしゃるお積りですか」
「そうね」
 伸子は足をぶらぶらふりながら元気ない笑顔をした。
「当なしよ、帰りたくなるまでいるわ」
 おとよさんは、ちらりと女らしい偸見ぬすみみで伸子を見た。
「……佃さんが何でもよくおわかりですから、伸子さんはお仕合せですわ」
「…………」
「……よくお独りでいらっしゃいますことね、男の方だのに。お手紙参りますか」
 五日ばかり前、彼は、伸子が満足するだけ逗留すればよいこと、彼は彼の愛が理解される時を楽しみにいくらでも待つ、と云ってよこした。この手紙を受取った時、伸子は嬉しいより腹立たしく、淋しかった。彼は、むろん伸子が仕事など出来ず、遠いところで彼に心をとらわれて暮していることを知りつつ、それには一言も触れず、自分の堅忍を体裁よく示していた。伸子はそれっきり、細かい手紙も書かないのであった。
 それから二三日後のある晩のことであった。低い生垣の外から、
「伸子さん、伸子さん」
 甲高かんだかに呼ぶ女の声がした。
「そこにいらっしゃるの、伸子さんじゃありませんですか」
 伸子はその時、東京から送ってよこした新聞を皆に読んで聞かせていた。外は暗く、頭の上に電燈があるので、伸子の方からは誰も見えなかった。
「どなた」
たれだごんだ? 今頃」
 祖母が外をすかしながら呟いた。
「私、飛田です。そちらへ廻ってようございましょう」
「――どうぞ」
 飛田は三保という名で、東京の会社員と結婚しているこの村の人であった。伸子と親しい間柄ではなく、寧ろすきでない部であった。いつこっちに来たのだろう、なぜ訪ねてきたのだろう。一人だと思った三保が、中の口で下駄をぬぎながら誰かに云う声がした。
「さあ、お前もお上りよ、なぜ? 大丈夫よ!」
 伸子は立って見た。式台に上りかけた三保のうしろに、地味な女が二人、暗い中でたたずんでいた。そして、ひどく遠慮し、もう夜が更けているから、このままお暇すると云った。とにかく三人あがることになった。二人の女は、三保の妹とその友達で、三十近い人々であった。三保はけばけばした大島の着物をき、さわがしい調子で挨拶した。
「私ね、昨晩おそく来ましたんですよ。今日はこの人達と一日喋って、さっき大神宮様の方へ散歩に出ると、玉が間の抜けた顔をして、伸子さんが来ていらっしゃる、って云うんでしょう。頓馬とんまねえ、早くそう云えば何を置いても上ったのに、じゃあ是非これからお目にかかって来るって、あがりましたのよ、本当に田舎の人ったら、気が利きませんね、頭がないったら、ありゃあしませんわ、で、あなたはいつ? いつおいでになりましてすの」
「そうね、もう十日ほどになるかしら」
 伸子は三保の弁舌に後退あとじさりするような気がした。
「いずれなにか、お書きになっていらっしゃるんでしょう?」
「いいえ、どうして! のらくらよ」
「私もふだんはいそがしゅうござんしてね、お父様が有難いことに、私のしたいことは何でもしろ、と云って下さるんで、この間じゅうはお習字をやっておりますし、お花の稽古はする、家のことはする、間には赤ちゃんまで拵えなけりゃあならないんですもの、ハハハハハ、大いそがしですわ、ハハハハハ」
 丸髷まるまげに結って、内気らしく黙っていた三保の妹が苦笑いをして、
「まあ」
と云った。
「だってそうじゃあないの? ねえ――なかなか飛田が放しちゃくれませんわ」
 三保のヒステリックなのが誰の目にもついた。彼女は、何かにかれたように、白粉を濃くつけた顔の上に眼を光らせて、一人喋った。二人の同伴者があがるまいとした理由や、迷惑そうに坐ってちょいちょい伸子を見たり、三保を見たりしていた理由がわかった。気が変になりかけているのかと、伸子は少し不安を感じた。
「――この頃はずっと御丈夫?」
「いいえ、あなた、ひどい目にあいましてね」
 三保は婦人科の病で手術を受け、退院するとすぐこちらに来たのだと云った。
「お父様といると、ね、ほら、どうしたってあなた――」
 伸子は、三保の気持がどうかしていて、何を云っても性的なことの方にひきつけるので、黙り込んだ。二人の連れもそれが気遣いらしく、
「――そろそろ失礼しましょうよ」
としきりにすすめた。
「またひるま、ゆっくり上ってお話するとしてね、御隠居様ももうおやすみの時刻でしょうから」
「そうしましょう……伸子さんはいつまでこちらです」
 伸子はおとよさんに答えたと同じ返事をした。三保は、
「まあ! あんなことおっしゃって!」
と叫んだ。
「旦那様を放って置いて、そんなことおっしゃる奥様がありますか……一人で置いちゃ第一あぶないじゃありませんか。よく辛抱なさること、うちなんか」
「さあ行きましょうよ、姉さん」
 門の方へ出てまでも、三保の盛に喋る声がした。やや暫くして、祖母がさもげんなりしたように云った。
「何だべ、あの女!」
 伸子はその調子の滑稽さにつられて笑い出した。――が、普通夫婦と云うものは、本当に三保が云ったようなものなのだろうか。そういう疑念が伸子の心に生じた。彼女は、自分達夫婦が別々に旅行することについて、三保の云うような危険は、全然感じることさえ知らなかった。
 伸子は寝ながらもそれを考え、自分に不安や嫉妬を起させない佃の性格を却って物足らず感じた。佃の身持の堅さは、人間の面白さ、愛らしさなどに魅せられることの少いところから来ているように思われたのであった。


 おとよさんはよく小一里ある町まで買物に出た。彼女はその度、伸子に用を訊いた。伸子は男物の単衣ひとえを買って貰った。それを仕立てさせて佃に送った。祖母はおとよさんが出かけると、
「――買物ばかりじゃなかろ、また新町へよる気なごんだ」
 ひそひそ声で、話対手かたがた一緒に縫物をしている近所の老婆に云った。
「そうよしか。……でもおとよさん、ほんとに若く見えるない、三十ちょいと出たぐらいで通るものなし、……又いい旦那様がすぐ見つかることよ」
 祖母は、老年で震える指先に針を持ってめどを通しながら、年とった女の底意地わるさで、
「俺がおとよさんだったら、四十越してむかさるなんぞ厭だなあ、今の者は年とっても一人でおられないかしらて……」
「ほんによ、……フフフフ」
 伸子は、おとよさんが行先に不安を感じて、養老保険でもかけるように、結婚しようと焦っているのがはがゆくもあり、哀れでもあった。それを、目引き袖引きする、無知な年とった女どもにかこまれている彼女の境遇に同情を持った。彼女は祖母に、
「おばあさまは何としたってあのひと、一生仕合せに暮させることできやしないんだから、五月蠅うるさくかれこれおっしゃらない方がいいわ、誰だって仕合せを見つけているんだからね」
 すると、祖母は妙にひねくれて述懐し始めた。
「――おれなんぞ、本当に不仕合せな生れとでも云うんだろうなあ、若い時は若い時でお前のお祖父さんが事業事業で貧乏するし、年とりゃ年とったで、息子にまできらわれるし……お前に会うだけがおれあ楽しみなごんだ」
 そう云って、彼女は涙をこぼした。
 おとよさんは、伸子と下手な五目並べなどしながら、身の上の不安を訴えた。彼女は新町にも、従って町への買物にも、ほどなく出かけなくなった。後で、彼女は、縁談が持ち上っていた歯科医とあって、自分から断って来たことを話した。――伸子は、女性の生活の様々な、しかし一様に思うようには行っていない標本を眺めているように感じた。祖母にしろ、おとよさんにしろ、みんな暮したいようには暮していない。それでも生きつづけてはいる。どんよりとうごめきながら暮している。伸子は自分が、生活の不満に降参しないのを頼もしく思った。彼女らを見ていると、伸子は、しんからこう云う生活をしたくなく思い、邪魔は除け、根気よく人生にぶつかって、こうと思う生活を開こうという熱意が湧くのを感じた。幾代かの家族の中に、せめて一人ぐらい、愉快に一生を回想できる女があってもよいではないか?
 六月の中旬に、和一郎が徴兵適齢で、検査を受けに来た。彼らは、そう沢山はない仲よい姉弟の一組であった。伸子は、久しぶりで彼と数日田舎で暮せるのがよろこびであった。和一郎は、近年肋膜を患ったので、乙種か、丙種かもしれなかった。それ故この滞在は、なお心軽やかであった。祖母の箪笥のひきだしに、古い風月の菓子箱があった。昔の写真がしまってあった。伸子の、生れて百日目というのだの、少し大きくなって、和一郎が天鵞絨びろうどの水兵帽をかぶって乳母に支えられている横に、伸子が姉らしく澄して立っているのだの。祖母は、ほくほくして、今は大きくなった彼らに見せた。
「おや、こんなのがあったかしら……この時分じゃなくて、ほらよく人攫ひとさらいが来るって、こわがったの。――吉さんを送って行ったかえり、坂の角から、あなたをおんぶして、夢中で家まで駈けて帰ったことがあったじゃないの」
「本当ね、滑稽だな。だがあの時は本気でこわかった、姉さん、まるで一生懸命なんだもの」
「今度は、和一郎が姉さんをおんぶしてやらにゃなるまい」
「――こんなでかいの? 参っちゃうなあ」
「ハハハハ」
 祖母がいないと、彼らはもっと打明け話をした。和一郎は、恋愛模索時代であった。憧憬、不安、熱情が、時々激しく彼の精神をゆすぶるらしかった。彼は、自分の細かい心理状態や、予備校の学生仲間にある、特殊な、彼自身の趣味とは全然合わない恋愛病的雰囲気などについて、信頼に満ちた穏やかさと、若々しい正直さとをもって話した。伸子にとって、話題は自分達と違う世界に属することなので、深い興味を感じた。が、それより彼女の心を動かしたのは、和一郎が、今も子供時代からの結びついた気持を失わず、自分だけには直截に、幾分頼りにさえ思うらしく、そんなことも話してくれる心根であった。伸子は、その信用を、むしろ力にあまって感じた。
 和一郎は、桜ン坊の種を、口から出すと、海に小石を投げるように、庭に遠く放りながら云った。
「……姉さんなんか、僕達みたいじゃないんだろうな、きっと」
「そう云うことについて? ちゃんと解ったり落着いたりしていると云うの?」
「うん」
「――結婚しているから?」
「そうばかりでもないけれど」
「若し、結婚しているからそうだろうと思うんだったら、間違いだわ……結婚は結論じゃないもの、出された試験問題、それもなかなかてごわいの……」
 伸子は、我知らず暗示的な微笑を浮べた。和一郎は、眩しいような複雑な表情をした。
「――妙なもんだな。僕、クラスの奴の気持なんか、一言喋らせりゃ大抵解っちゃうんだけど――全くお嬢さんには参るなあ、妙に手応えがなくて、ふわふわで、直ぐ目から水は出すし……」
 伸子は、和一郎の表現に愛情を感じた。
「色どりの派手な空気見たい?」
「まあそうね――それに友達同士の話なんか、僕閉口しちゃうさ、そばで聞いていると……他愛なくて……心配になっちゃう」
 間を置いて、伸子は訊いた。
「あのお嬢さん――よく写真なんか撮ってあげてた――あのひとどうした? やっぱり遊んでいる?」
「ああ、あのひとはよくない」
 和一郎は、淡白な調子で、はっきり答えた。
「――せん鞦韆ぶらんこしに来ていたんでしょう? 僕、何だかよくない性質がありそうな気がしたもんだから――姉さん、どう思う? 上目で人を視るなんか、陰性で、僕嫌いさ」
 伸子は、センチメンタルであった彼が、いつか生存適応者らしく足許の確かさを持ち始めたと思った。
「……なかなかしっかりしているのね、私より偉い」
「そんなことないさ」
「本当!――生れつきで仕方ないが、私みたいにたちまち空想するのもよしあしだ」
 伸子は、ぽつりぽつり、独言のようにつけ足した。
「私だっても見えるのは見えるんだけれど、何かのめぐり合せで好きになると、『それはそうだが』と思うのね、嫌いなところなんぞ消える筈だと思い込むのね……ところが消えなんかしない、実際になって見ると。それでがっかりするくらいなら、あなたみたいに、初めっから蜃気楼しんきろうなんか見ないようなたちの方が、かえっていいかもしれない」
 床に入ってから、和一郎は伸子も知っているある娘について、彼女の意見を訊いた。伸子はなぜともなく、彼の興味が今はその少女にあることを覚った。彼女は、少し返事に困った。彼女の印象によると、その令嬢は、さっき和一郎が話した、派手な色どりの空気ばかりみたいな少女でない代り、鮮やかな、愛らしいところもない、つまり、平凡すぎる生れつきに思えていたのだ。隣室に電燈をつけてあるので、薄明りが境の欄間から天井にだけさしていた。
「どうって……ごくあたりまえじゃあないこと……だけれど私、自分がそれでいい加減いやな思いをさせられたから、かれこれ云うのいやだ」
 それにつけても伸子は考えた。自分と佃との交渉が始まってから、何と沢山、アンティ佃の言葉をきかされたことだろう。云う人々の目的は、自分に佃を断念させたいためであったろうが、事実はそうならなかった。逆に作用した。彼女は万一和一郎に恋愛問題が起ったら、せめて自分だけは、本当に何等かの言葉が彼から求められるまで、よき沈黙を守りたいと思った。この弟はどんな恋愛をし、どんな結婚をするであろう。成人している彼は、姉の恋愛や結婚生活を何と感じて、見ているであろうか。伸子はふと好奇心を覚え、半ば笑いながら、
「若しあなた結婚するとしたらどんな人がいい?」
と訊いて見た。
「さあ――分らないな。僕たちの心持、そういう実際問題までまだ行ってないな」
「まあ、急ぐべからずだ」
「うむ」
 和一郎は真面目に返事した。
「僕もそう思ってる」
 やがて、彼は少し工合わるそうに、しかし、深い興味をもっているらしく云った。
「佃さんなんか、どんな気持で結婚したんだろうな」
「ほんとうにね」
 あるデリケートな感情から、伸子はそれ以上云わなかったが、それこそ、彼女の心にある問いの一部分であった。佃は、どんな心持で結婚し、その結婚生活を導いて行くつもりなのであろう。伸子には、それがしっかり掴めなかった。例えば、こうやって、自分を田舎へよこして置いてくれる彼の心持にしろ、彼は、伸子になら何をされてもよいほど溺愛できあいしているから、放っているのであろうか。または、したいことをさせて置けば、やがては飽きてかえって来るさ、と余裕をもっているからなのであろうか。伸子は、そのどちらもが混り合った心なのだと思うのだが、そういう工合に彼女を扱って、彼は、さてどんな生活に二人で達そうと思っているのであろうか。窮極へ行くと、いつも伸子は分らなくなった。口にこそ明かに云えないが、彼女は、自分の達したいと思う生活の核心になるものは感じていた。彼にそれがあるとすれば、感じほど速いものはない。どこからか、必ず、まっすぐ伸子の心にも通じて来て、彼女の失望を救わないと云うことはあるまい。
 その証拠には、(伸子は考える、考える)彼が、自分を愛すなどとは唯一言も云わないうち、自分は、彼が愛すのを感じたではないか。――
 自分ら二人をわらうように、伸子は、またこうも、この頃は思う折があった。――これらは、みんな自分が勝手に考え、勝手に苦しんでいるだけのことなのだ。彼には、何も複雑なことはないのだ。全く――彼が自分でいう通り、彼には何も無いのだ
 幻滅の痛みを、ますます自分に思い知らそうとするように、伸子は、もっと、もっとたくさん、自分と彼について侮蔑的なことを考えた。しかし、彼女はよく知っている。自分の心はそれを本気にはしていないこと、そして、万一他人がその半分のことでもを彼について自分の耳に囁いたら、そいつと絶交するであろうことを。打とうが蹴ろうが、彼はもう彼女の一部であった。自分に痛みと苦しみとを感ずることなしに、伸子は、彼を小づくこと一つ、できはしないのであった。
 ややしばらく経って、伸子はふと和一郎の声をきいたように思った。とうに眠ったと思っていたのに。――伸子は、そっと、
「起きてたの」
と声をかけて見た。和一郎は返事せず、ムニャムニャわけのわからない言葉を呟いた。寝言だ。伸子は暗闇の中で、自分に向って笑った。彼は眠りながら、舌で乳を吸うような音を立てる癖があった。なごんだ心持で耳を傾けていると、和一郎は急にはっきり、
「あ――」
と、長く引っ張って溜息をついた。伸子は反射的に片肱つき、起き上って彼の顔をのぞき込んだ。夢中にしては溜息に実感がこもりすぎていた。眠ることは、それでも眠っていた。彼はもう一度ああと短い吐息をつくと、今度は低い迫った調子で、
「ああ、僕苦しいなあ――僕苦しいなあ」
 そう云いながら、彼は胸の上に載せている両手の指先を、細かく、扇ぐように動かした。計らず、彼の若い霊の裂け目を見たように感じ、伸子は愛と痛みとを感じた。彼女はそっと、目をさまさないように片方ずつ、胸からおろしてやった。大きな、暖かい、重たい手であった。彼は、何も知らず眠りつづけた。
 和一郎が帰ってしまうと、森閑とした生活が戻って来た。伸子は里心づいた。夕方、村に、焦臭きなくさい靄が低くこめる。山裾の町の電燈が、点々と燦き出すのを、広い耕地越しに縁側に立って眺める。東京の街々を包んでいるだろう雑沓、押し合い、けたたましく交通機関が右往左往する光景を想うと、そこに温かい人間の息と、生活のひしめきのあるのを感じ、伸子は、今直ぐにでも俥を呼ばせたいようになった。彼女は、雨戸が閉り、すっかり夜になりきるまで、ひどく落着きを失った心持になって苦しむのであった。十燭の電燈が、黒びかりのする茶の間の板戸をテラテラ輝かすと、田舎の眠たい、永い宵が伸子を鎮めた。祖母、おとよさん、女中、めいめいの影を振り返りもせず、静かに糸を巻いたり、針の錆を落したりしている。彼らの上には、チクタク、チクタク……。
 生命の流れのせきとして充実した感じが、しばしば伸子を動かした。夫は、このような夜、彼の机に向って、一人何をしているであろうか。彼のところにも、この静寂がありそうな気がした。
 伸子は、大きい小さい幾多の反動を経験したのち、だんだん、佃は佃として生きる場所があるのだ、と思うようになって来た。世界には、無数の、何でもない男というのがある。その一人で彼があったとして、何の悪いことがあろう。自分が、彼から期待したものを得られないと云ったって、それは、自分が悪いのではないか。伸子は、小さい自分の灯の下で考えた。彼自身が、現在の生活に満足しているとしたら、それを妨げる権利が自分に与えられているだろうか。自分のオリジナリティーの欠乏にも苦しまず、日本へペルシャ研究のための本を集める仲立ちとして、彼が存在することも、或は意味のないことではないかも知れない。彼は、伸子に突つき動かされなければ、彼の立身の希望と、日常の習慣と、堅忍の美徳の中にあって、幸福なのであろう。――
 動坂の家で、多計代の激情や、伸子の激しく彼をゆすぶる情に攻め立てられた佃を思うと、伸子は変な気がした。彼は全く困ったであろう。急に違った仲間に入ってきて、前後から吠え立てられた、小胆な一匹の犬のように。
 けれども、これから、伸子はどう自分を始末して暮して行ったらよいのだろう。彼の幸福の種類は伸子のいるものではなかった。夫が満足して、その幸福を食うのをそばから眺め、自分は食わず、微笑んでいるべきなのであろうか? 伸子は食いたい人間であった。きびしく空腹を感じる人間であった。食わずにはいられない人間であった。伸子は、自分は自分で、彼の横で、欲しいものを見出すか、拵えるかしなければならない立場に置かれた女であることを、知ったのであった。頼めば、夫は彼の分をわけてくれるだろう。しかし、伸子にそれは食えなかった。彼女は、もっと清潔なものを欲した。
 伸子は、これまで自分の心にあったさまざまの思い違い、子供らしい夢想、あれがたった二年前と思えないほど若く、稚く、夢中であった自分の信頼などを思って泣いた。けれども、泣きつつ、人生の結局のいつわりなさというようなものが朧気おぼろげながら感じられ、伸子は新しい勇気を得た。消えるものはどしどし消えろ。のこるものならおのずから遺る。No sentimentalism. ――しかし、これまで自分が強いても描こうとしていた夫というものと、これは別れだ。
 彼女は、一つ、夫をお客に置いても窮屈でないだけ広く、さっぱりした心の宮を建てたい、と思うようになった。自分に本当の生きる力があるならば、どうしてそれが建てられないと断言できよう! そして、自分の矛盾に自分で憫笑しながらも、伸子は、そうやってやって行くうちには、佃とて木の根っこではない、いつかは少しずつ変るまいものでもないと、希望を抱きなおすのであった。自分が雄々しくなろうとする決心、それが無駄でないという信念も、結局は最後に来るその芥子粒けしつぶほどの望みによって、全体命づけられることを、伸子はいなめなかった。
 伸子は、佃のところへ手紙を出した。彼女は帰りたくなったこと、彼が留守でも家へ入れるようにして置いて欲しいことを知らした。佃から、伸子が帰ろうとしていた日には、夜外出するから、その翌々日にするようにと云って来た。台所の入口で、受取るなりそれらの文句を読み終ると、伸子は、体の内部からせきあふれたひとりでの勢いのようなもので、そのハガキをやぶいた。彼女は、もう帰ると定めた日を、翌々日まで延したりするのは厭であった。


 その夏、伸子は久しぶりで短い小説を一つ書いた。春から計画していた長いものは、内部的に不足なものがあって遂にできずじまいであった。結婚してから、仕事ができないことが絶えず彼女の気を重くしていた。それが、田舎に行っているうちに、幾分心のもちかたが変り、とにかく集注して四五十枚のものが書けた。出来栄より、書けたというそのことが、伸子にとっては一つの吉祥であった。仕事ができるということは、自分や自分の周囲の生活に対して、曲りなりにも一つの精神的足場の持てる証拠ではなかろうか? その足場が持てさえすれば、自分が田舎で、歎きと勇気とのもつれ合った感激の中に思い定めたこれからの生活法――心持の上では、夫にたよらず自力で立とうということも、まんざら見込みないこととも思われない。――伸子は、自分の心持がそこへ来るまでの、渾沌と動揺した気持を書いたのであった。その作品は、文学的にはたいして重きを置かれていない、ある政治雑誌の附録に載せられた。
 掲載号を送ってよこした日であった。伸子は、活字になった自分のものを読みかえしながら、机の前で考えにふけっていた。すると、表の格子戸が開いた。伸子は独りっきりでいる昼間、がらりと格子の音がすると、あたりの空気を衝き動かされるような不安を感じた。そのようにして来るのは、乞食声を出す、押強い物売りか何かにきまっていた。障子をあけかけたが、土間に立っている者を認めると、
「なあんだ!」
と、現金に声まで変えて、伸子は嬉しそうに立ち上った。
「いやなひと! 誰かと思ったじゃあないの」
 和一郎であった。
「今日は。――ちょっと本当のお客の真似をして見たのさ」
「おあがんなさい」
「……有難う……」
 伸子は、彼の躊躇するらしい様子をいぶかった。
「なぜ? いそぐの? それともオウトバイが心配?」
「そりゃあいいけれどね、今日は迎えに来たのよ」
「……――でもいいじゃあないの」
 和一郎は上ったが、落着かなかった。彼は、
「いそがしい? 来られない?」
と訊いた。
「――行かれないことはないけれど……何か用なの?」
 彼女は、呼びつけられるのはすきでなかった。たとい、その日出かける気でいても、不意に誰かを迎えによこされ、今直ぐ来いと云われると、気が渋るのであった。
「お母さんが、話があるんだって」
 話があるというのは多計代の慣用手段なので、云う和一郎も、聞く伸子も、思わず一種の可笑しさを感じて笑った。
「そりゃあ、話があるにはきまっているけれどさ」
「今日は、でも少しむきよ」
「何なの」
 和一郎は、云いにくそうに、不器用に云った。
「姉さんが今度書いたもの、それを読んで、文句があるんだって」
「ふうむ」
 伸子は、心の中でひととおり考え、一箇所だけ、それかと思うところを思いあてた。それは、主人公の女の夫に対して、女の母が、ある反感、敵意に似たものをもっていると云う僅かの部分であった。若し母が何か云おうとするなら、恐らくそこ以外にはあるまい。
「じゃあ行こう」
 伸子は立って支度をした。彼女は、早くこじれないうち、互にさっぱりするのが肝要と思った。心持の上で、迷惑を受けずにはすまされまい父や、和一郎も気の毒であった。伸子は短いノオトと鍵を隣りに頼んで出た。
 多計代は、気軽く平常ふだん通りな伸子を見ると、
「――おいでなさい」
と、わだかまりのある調子で迎えた。
「今日は」
 母は、自分でせず、女中を呼んで茶を入れさせた。
「そこいらに、長崎のカステラがあったようだが……よかったらお上り」
 伸子は、母が、深く考えた結果ある不愉快を抱いているのではなく、感情的にむしゃくしゃし、そのむしゃくしゃを、自分から棄てまいと、重々しくしているのを感じた。
「何かお話があるんだって?」
「……もうわかっているだろう」
「……和一郎がちょっと話したけれど、細かくはわからないわ……何もまだ伺わないんだもの」
「――自分の書いたものだから、お前にはもちろんわかっているだろうが、今度のはいったい、どう云うつもりで書いたのかい」
 伸子は、気まずさを我慢して、丁寧にモウティブの説明をした。しかし多計代は、それを皆までしんみり聞きしめず、
「そりゃあ、お前の理窟はどうでもつくだろうがね」
と云った。
「――理窟ではない、私の本当の心持よ」
「実はね、昨夜、沢谷さんが夕飯に来て、お前の今度書いたものを読んだかと訊くから、ちっとも知らないと云うと、奥さんのことが書いてありますよ、と云うんだろう。どうせ碌なことじゃあるまいと思いながら、直ぐ買わせにやって読んで見ると――私は、なにも活字にまでして、お前に赤恥を掻かされなければならないようなことをした覚えはないよ」
 伸子は不愉快になり、同情的な気分を失った。彼女は、自分の心を第三者として観る習慣のない母が、問題は、たといたった二字の形容詞にすぎないとしても、自分をあまり芳ばしくない心の状態で書かれたと思ったら、事実であれば一層いやに思うのは無理ないとさえ思った。それ故、その厭わしさとしても、伸子がその作を書いた衷心の事情が分れば、ある諒解が得られるだろうと、多くの口数を利いたのであった。けれども、母の言葉で、伸子は索寞とした気持になって来た。知識階級の青年らしくもない沢谷の態度も、いやであった。母の、それに動かされ方もいやであった。伸子は、黙りこんで冷えた茶をすすった。
「……そりゃあ私はお前の親だから、私さえ踏台になっていればお前がよくなる、とでも云うんなら、どんな目も辛抱しますよ。土足にかけられても、喜びます。けれども、恐らくそんなことはあるまい――たださえ、どんな工合だろうと世間から目をつけているのに、何も、それ見ろ、と思われるようなことを、自分から書かなくってもいいだろう」
 彼女は、女らしい毒々しさでつけ足した。
「それとも、何かい、お前の得にでもなるようなことがあるのかい」
 伸子は、相手が母でなかったら、何と云ったか知れない勢いで、
「おやめなさい」
とさえぎった。
「そういうものの云いようをし始めたら、しようがないじゃあありませんか」
 多計代は、伸子の顔を見、幾分弱く云い張った。
「……だってそうじゃあないか」
 彼女は、それから長く、亢奮した心のめりはりに引摺ひきずられながら、伸子が佃との関係で彼女にかけた苦労を思い知るべきだということや、伸子の芸術が、目に見えて堕落し始めたというようなことを攻撃した。伸子は、議論がましいそれらの言葉から、真心を打つものを受けられず、喰い違った気持で帰った。
 六日後、動坂からまた迎えが来た。土曜日であった。今晩は、是非佃と二人で来てくれという口上であった。先日伸子が呼ばれた時、多計代は、いずれ、佃を呼んで話さなければならないが、と云った。用事はそのことなのであった。伸子は、自分が書いたものによって惹き起されたいざこざに、佃を巻き込むのは真に厭であった。気の毒でもあるし、ここだけは自分の世界と思う心の中へ、どたどた多くの者に踏み込まれるのが辛かった。佃は、もちろん読んだに違いないのだが、それについて彼女には、一言も云わなかった。
 動坂へ行くと、二人はいきなり二階に通された。絵の稽古の赤毛氈あかもうせんなどすっかり片づけ、隅の螺鈿らでんの小箪笥だけが、遠い燈火にきらめいていた。母が上って来て、床の間の前に、一つだけ離して置いてある座蒲団の上に坐った。伸子は、まわりから圧しつけるような扱い方に対して、反撥を感じずにいられなくなった。世間話を一つ二つして、多計代は、
「わざわざあなたまでお呼びしたのは、ほかのことじゃあありませんが」
という風に切り出した。
「この間は、何だかぐずぐずで伸子を帰してしまいましたが、私は、あれからずっと考えつづけて、夜も碌に眠らない程だったのです。いずれ、伸子からおききでしたろうが、あなたからも、意見をおききしたいと思いましてね」
「お迎えだったから佃も上ったんだけれど、これは、母様と私だけが話してすむことと思うわ、佃は、関係のない人でしょう」
「そうは思えないね……佃さん、あなたもお読みでしたろう……どうお考えです?」
 伸子は、夫が答える顔を見ていられず、暗い廊下の葭戸よしどの方を眺めた。
「……私は、御承知の通り、このひとの書くものには、絶対の自由を認めておりますから……」
 伸子は、自分に有利な弁明だのに、なぜか、この寛大らしい返答から真実を感じず、夫のずるさのようなものを感じた。滑っこい、解ったような解らないようなこの答えかたは、時によって、伸子自身にも向けられる夫の遁辞となることを彼女は感じ、坐っている場所が沈んで行くように思った。何を書こうと、彼女の自由です――その自由を私は認めている。それ故、書いたものは飽くまでも書いたもの。そこに、どんな苦しみや涙があろうとも、それは、自分や互の生活に全然かかわりない彼女の書いたもの――ほう、何と胸に浸み徹る、冷たい寛容さ! 伸子が、このような思いをつづけている間に、多計代は話を進めた。
「――それはそうでしょうが……私はこの間から考えて、どうも伸子が今度あれを書いたのには、訳がありそうに――まあそこまで行かないにしろ、何か感化がありそうに思われて来ました――そうじゃありますまいかね、公平に云って」
 佃がけげんそうに訊きかえした。
「どういう意味ででしょうか」
 多計代は、佃に答えず、伸子に向って云いかけた。
「ね、そうじゃあないかい、伸子、よく良心に手をあてて反省して御覧――お前も、いやしくも文字を書く人ならそのくらいは分るだろう」
 伸子は、既にこれらの押問答に、云いがたい嫌悪を感じた。不快な、何だか心の底に触れない、殆ど不必要と思われる言葉をぐんぐんつみ上げて行って、結局何をどうしようとするのだろう。
「つまり、どういうことをおっしゃるの?」
 多計代は、激しい眼つきで伸子を見た。
「云えというなら云ってもよいがね――あまり佃さんにお耳ざわりがよくあるまい」
「何なの」
「――一言で云えばこうさ、あれは、全部ではなくても、私についてのところは、どうもお前が佃さんに、暗々にでもそそのかされて書いたとしか思われないのさ」
「…………」
「どうだい?」
「…………」
 多計代は、いずまいをなおした。
「これは、もっとも私だけの意見ではない――皆もそう云っているんだが……」
「――――」
 夜の広い畳の上に、明るさ、皆の口をつぐんだ沈黙が、皎々こうこうと漲った。伸子の心の中もその通りであった。彼女は悲しくも、腹立たしくもなかった。その程度を越して、髄まできずつけられた感情で冴えかえった。
 多計代は、
「黙っていちゃあ分らないよ」
と云った。こわばってしまったようで、伸子は口がきけなかった。
「……私の考え違いだったらあやまりますがね」
 暫くして、伸子はかすれたような声で咳払いし、夫に云った。
「……あなた、あっちへいらしって頂戴」
 母が佃にあやまれるわけはない。佃が、自分の夫となったというだけの因縁で、このような屈辱を堪えるわけはない、と伸子は思った。
「いらっしゃい」
 佃は、腕組みをしたまま、
「うむ」
とうなった。彼が不決断でいるうちに、多計代が、
「話もすまないのに、お前の勝手でそんなことはさせられません」
と、云った。
「――でも母様は、後へ引けないかたでしょう?」
「引くわけがないから引かないのです、――お前のように自分が悪いと思わない者はない!」
 激情的な意地っ張りで、多計代は伸子に謝れ、謝れと強いた。これから一切、家庭に関するらしいことは書かないと誓えと迫った。それは伸子にとって、不可能なことであった。今、かりに気やすめの謝りや誓いをしても、それは、いつか必ず破れることだ。また、伸子には、自分が、母の強調する意味で悪いとも考えられなかった。気の毒なことと悪いこととはおのずから別に思えた。それに、多計代の方から乱暴に与えた数々の言葉に対して、母の云うことだからと折れる度量は、伸子には持てなかった。
「では、どうしても自分の云うことをまげないと云うんだね」
「――お座なりを云っても仕方がない……」
「じゃあ仕様がない、お前と私とは根本的に相いれないのだ。――そういうわけなら」
 多計代は、改めて決定的に宣告した。
「以来、出入りしないことにして貰いましょう。その方がお互のためだし、佃さんもいいでしょうから……」
 彼女は、終りの方をやっと云って、顎や唇を震わしながら顔をそむけた。その打挫うちくじけた横顔を見ているうちに、伸子は、母が哀れになって来た。彼女には、母がそんなことまで云い出したのは、決して永続的な考えからでなく、当人こそ思慮の結果と思うだろうが、実は強烈な感情の刺戟を好む、激し易い性質から出たこととしか思われなかった。これでもか、これでもか、と押して来た自然の勢いで、或は予期せず、そんな断定的なことまで口にしたのではなかろうか。母には本当に、自分の云うことの意味が解っているのだろうか。伸子は、自分が、謂わば勘当されるということより(これはなぜかちっとも実感に訴えて来なかった)母の、自身の激越性を制御できないような姿を見ることの方が堪えがたかった。彼女を不幸な人と思う気さえした。伸子は、優しく、
「まあ、そう一飛びにお考えにならないでもいいわ」
と云った。多計代は、それを辱しめのように感じたらしく、涙をはらはらこぼした。
「私にとてもそんなことは出来まいと高をくくっておいでだろう。――私には覚悟というものはあるからね。そう見くびっては貰いますまい。一旦云い出したからには、……会いたくて、死にそうになったって、願って来てくれとは云いません」
 空虚のような静寂が拡がった。すると、いきなり、佃が儀式張って畳に手をつき、母に挨拶した。
「――ではやむを得ませんから……どうぞお体をお大切に……」
 伸子には、すべてが信じられず、わざとらしく、変に感じられた。何でもないはずのことを、行きがかりで、仰々しく、悲壮らしく振舞っているような落着かなさ。同時に何とも云えずがらんどうな、火の消えたような気持。――伸子は坐り込んだまま、この妙な心持に沈んでいた。母は母で、両腕でしっかり自分の胸を抱き込むようにしながら、じっと前方を見据えて動かない。――
 佃が立ちかけて、伸子を促した。
「じゃあ……失礼しましょうか……だいぶ夜も更けたから――」
 伸子は、佃のわざと低めた声や、いかにも自分のものというように彼女を見る眼つきが、何かうるさかった。形の上では突き放されながら、却って母の心持と相通じるような、錯倒した感情が生れた。
 二階を降りようとして、伸子は階子口でよろけた。佃は、痛いほど彼女の腕を捉えて支えた。


 目を醒すと、佃は起きて、縁側にいた。秋らしい朝で、乾いた梧桐の葉が、空の高いところで鳴る音がした。伸子は、体じゅう非常にだるかった。――床から体を持ち上げるはりが抜けていた。彼女は寝たまま、高台の方の秋空を眺めた。実に澄んでいる。こんな空を、これまで見たことがあっただろうか。寝ている部屋を通して、その碧い空から、清々すがすがしい力ある九月の風が吹いて来た。無碍むげな、それ故、ひとしお魂にしみる哀感で、伸子は思わず眼をつぶった。
 昨夜、一時頃帰って来てから今朝まで、伸子は殆ど物を云わなかった。寝しなに、佃が着物を着換えながら云った。
「あああ、――まあ仕方がない、人間は二つの神には仕えられないから」
「……あなただって私の神じゃない」
 床に入っても寝つかれず、異様な寥しさであった。伸子が、夫である佃と、自分達二人の生活に対して抱いている気持が、若し母に分っていたら、ああは云えなかったであろう。伸子は、勝手から打ち明けずにこそいるが、母が嫉妬し憤るようなものは、何一つ持ってはいはしないのだ……目が醒めても、そのように思いながらいつとなしに寝入った夜前やぜんの淋しい心持が消えなかった。瞼から日の光がさすと一緒に、その淋しさが、ひときわ心の底にしみ入るようであった。
「――起きた?」
 佃が来て、寝ている伸子の額にさわった。
「工合がわるい?」
「大丈夫」
「医者呼びますか」
「いいのよ、本当に。……一寸へばっただけ」
 一日伸子はよこたわっていた。
 二日三日と経つうち、伸子は恢復した。気持の上で、新しい一つの添えものを持って恢復した。それは、これまでにないさっぱりした気持、軽やかな気持に、不断の淋しさが加わったもので、田舎から帰って後ずっとある彼女の、自分でしゃんと立って行こうとする欲望と真面目に結びついたものであった。伸子は、次の小さな仕事に着手した。自分の精神を引締めてくれる点、この外見不幸らしいことも感謝してよい気がし、伸子はしんみりとした元気があった。彼らは、その夜以来、動坂のドの字も口に出さなかった。
 月が変って直ぐのある日のことであった。伸子は思いがけず、玄関に和一郎の声をききつけた。伸子は、元気な彼の顔を見ると、思わず自分も男の子のように、
「やあ」
と、よろこびの声をあげた。
「どうした?」
「姉さんもどうした?」
「この通りよ」
 和一郎は、伸子の顔や、勉強のために散らかっているあたりの様子を見廻し、
「じゃあ結構ね」
と、はじめて坐った。二人は三時間ばかり、とりとめなく愉快に雑談した。和一郎は、やっと来年の春、ある専門学校へ入る気になったと話した。
「――どんな奴だって、中学を出たばっかりにすぐ悦んで、上の学校の試験なんぞ受けるんじゃあないと思うな。第一、何が自分の好きな仕事か、大抵は分らないし、気持だって適当じゃあないもの――」
 帰りがけ、向うをむいて靴をはきながら、和一郎はさりげなく云った。
「ゆうべ、お母さんが僕に、この頃ちっとも姉さんのところへ行かないようだね、っておっしゃった」
 月半ばに、伸子は、思いがけずおとよさんの訪問を受けた。祖母がいよいよ隠居所へ来たので、その伴がてら上京したのであった。
「御隠居さんも是非いらっしゃりたいっておっしゃいましたけれど、今日はまだお疲れだし致しますからね――」
 おとよさんは、物を云いながら、しげしげ伸子を見ていたが、急に、
「私、そうやって御元気にしていらっしゃるのを見ると、却ってお可哀そうで」
 善良な、小皺の多い顔をさっと赧らめ、袂のかげで泣きだした。
「何でもよくおわかりの方々だのに、本当に、どうしてね。――私お話を伺って、何とも云えない気が致しましたよ」
 伸子は、おとよさんの一途な歎きに、済まない極りわるい思いをした。彼女は、おとよさんを慰めるように、笑いさえ浮べて云った。
「大丈夫よ、あなたにまでそんなに涙なんか出されると、私困るわ。今に何とかなるから安心して頂戴」
「どうぞね、あなた、実の親子でいらっしゃって、そんなことってあるもんでございますか」
 おとよさんは真心をこめて云った。
「それは、奥様から御覧になれば、佃さんにもいろいろ御不足はありましょうが、そのためにあなたまでね……御気性のしっかり遊ばした方ですから、御無理もないかもしれませんけれど……」
 母は、おとよさんになど、衝突の原因を、実際あったとは違った風に説明しているらしかった。伸子は、
「佃は無関係だのに、巻添えをくったのよ」
と説明した。
「私の書いたものがお気に障ったの」
 なか一日置いて、つや子が書生と遊びに来た。保が花壇の花を持って来た。弟妹達が、これまでよりずっと頻繁に来るようになった。伸子はその陰に母の心持を感じた。彼らがかえると、彼女はきっと、こんなようにきくだろう。
「どうだい、姉さんいらしたかい、面白かったかい?」
 保は保らしく、つや子はつや子で女の子らしく、それに答えるだろう。すると、母はまた、重ねて訊くに違いない。
「姉さん何をしていたかい?」
 最後に偶然そうに、しかし特別な関心で、
「佃さんはいたかい?」
 或は、
「どうしていたかい」
 などと訊くのではあるまいか。相手が無心だから、彼女は詳細に触れられず、いくら訊ねてもきき足りなく思うのではあるまいか。弟や妹が帰ったあと、伸子はよくそんな情景を空想した。
 佃はつや子や保の来るのがうるさいらしかった。つや子が彼の頸にからまって、
「ね、一緒に遊びましょうよ、お姉ちゃまと二人じゃつまんないから、よう」
と甘えたりすると、彼は体を堅くしたまま拒絶した。
「今僕はいそがしいから駄目です」
 勤めから帰って見ると彼らがいる。彼は人に飽きて来たのだから無理もないが、恐怖した顔つきで彼から離れる子供の姿を見るに忍びず、伸子は夫に云った。
「あなたいろいろしゃくに障るのももっともだけれど、子供は知らないんだから、今まで通りだと思ってるのよ。――あのとき堂々云っておやりになる方がよかったわ、ちびにやつ当りするより」
 すると佃は、自分にかけられた冤罪えんざいに驚いたと云うように、
「いつかそんなことしましたか」
と反問した。
「ね、私、あなたが動坂の連中、家へ入れないっておっしゃったって仕方ないと思っているのよ。でも許している以上――」
 佃は彼として正当な感情さえ公然とは主張せず、例えば、あなた怒ったでしょう、と云えば、いや、と云うのであった。伸子はその時の状態を、彼のために解剖し、夫が自身の心持を正面から認めずにいられないようにした。佃は同意も否定もせず、終りまで伸子に云わせ、やがて怨むように云った。
「それはみんな君がそうだと思っていることです。僕の真心とは違うからそれだけ断っておきます」
「じゃああなたの気持はどんななの。ね、どう違うの?」
「――私が上手に話せないのを知っているでしょう。いつか分ってくれると思っています。本当に私を愛してくれる人には分らなくちゃあならない筈です」
 伸子はこんなとき、思わず力を入れて自分の額をぎゅうぎゅう擦った。「さあ、可哀そうな奴! また皺をふやすな」彼女はそんなとき口笛をふきたい気になった。だが、それは鳴らなかった。


 十一月に入ると、さまざまな原因から、伸子は時々、心の平静を失うようになった。
 動坂とのいきさつは、あれぎり、弟や妹やまれには祖母が来るぎりで、一向変化しなかった。九月から、まる二月経ったばかりなのだから、それはむしろ当然であったが、伸子に辛く思われたのは、十二月が近づいたという予想であった。日本の家族的な習慣で、どこでもそうであるように、十二月の大晦日おおみそかは、伸子の両親の家でも、一年中で一番賑やかな日であった。いつからそうなのか思い出せない頃から、伸子がこの祝い日には女主人役であった。皆が忙しく働いている間に、伸子は花や蝋燭の灯や贈物やらでテーブルを飾った。閉め切って置いた部屋の扉を、
「さあ! お入り下さい」
 開けた時の嬉しさ! 子供らしい瑞々しさは、いつも、彼女を有頂天にした。家中が彼女とともに喜んだ。その単純な楽しみを、今年は家じゅうが持てない。大晦日は滅入ったものになるだろう。伸子は、いっそ親や弟妹が東京にいなければよい、さもなければ自分達が東京にいたくないと思った。
 そういうある日、伸子は庭の隅で一本の菊をいじっていた。泥鉢の、夜店の菊ではあったが、純白の花は十一月らしい芳香を放った。しぼんだ花を鋏でっていると、路地に俥のベルが聞えた。伸子は板塀の切戸をあけて見た。祖母が俥から降りた。伸子は、
「おばあさま、こっち、こっち」
と手招きをした。そして、俥夫に云った。
「かえりはこちらでお送りするから、帰ってよろしい」
 祖母は珍しそうに、
「ほう、こんなところに木戸があるのか」
と、見廻しながら、草履をふんで庭へ入った。
「今日は買物を少ししようかと思って出たが、はあ、俺にゃ分らないからやめにして、茶をよばれに来たごんだ」
 伸子は笑った。祖母は、俥を命じさせるとき、きっと、伸子のところに来たいとは云わず、本郷通りへ呉服ものを見に行くからとでも云ったのだろう。その、せずとよい云いわけを、彼女は伸子のところに来てまで云うのだ。
「お茶ぐらいはいくらでもさし上げてよ。――きょうは一つ、菊見の真似でもしましょうか」
 伸子は、縁側に、座蒲団や茶を出させた。
 そして、祖母をかけさせ、自分もそばで、さも宏大な花壇でも眺めるふりをしながら、
「――さて、いい眺めじゃのう、見渡す限り千本白菊の真盛りだ」
 祖母はおいしそうに深く煙草を吸い込み、さて吸殻をはたきながらくすくす笑ってからかった。
「……俺の眼がなじょになったか、菊は一本しか見えないごんだよ」
「――駄目よ、おばあさまったら。もっとあるつもりよ! もっとあるつもりよ!」
 そばから、きよが、白い瀬戸ものの大きな義歯をがたつかせて、愛想笑いをした。
「奥様の面白いことをおっしゃいますこと、ほほほほ」
 二言目には奥様奥様と呼ばれるたびに、伸子は、体のどこかを、鄭重ていちょうに指の先で引っ張られるような、工合のわるい気がするのであった。祖母は上機嫌で、国技館の菊人形の噂をした。彼女は、やがて、足先が冷えると云って、家に上った。
「――俺も若い頃にゃあ、どんなおなごにもまけなかったが、こうなっては死ぬばかりだなあ――針のめど通すに縫うほどかかるごんだ」
 皆が、八十の祝いを、来年の正月早々しようと云ってくれるが、無駄なついえだと云った。
「そんなことぐらいしてお貰いになって結構よ、みんなだってよろこぶわ、是非なさいませ、私も何かお祝いしてよ」
「有難いことはことだが……」
 祖母は、あちらへ立って行ったきよに聞かすまいと、あたりに眼を配っておろおろささやき声になった。
「……お前ら、今みたいな役たいもないことしていちゃ、おれ、そげなことして貰っても、一向詰らないごんだ。――お前来られまいちぇ」
 伸子は困った。彼女はあいまいにうなった。
「うむ……」
「なじょなわけか知らないが、やくたいもないごんだなあ」
 きよは、平常話相手のないせいで、祖母が来ると、よく喋って相手をした。自分には男の子がなく娘ばかりだとか、それゆえ、
「何の役にも立ちませんのよ、くれてやったものでございますから」
とか。祖母はそれに答えて、自分は三人息子がいたのに、たった伸子の父一人になったとか、孫が他の娘のもまぜて何人あるとか話した。彼女は、
「孫は大勢あるが、これが子供のうちから馴染んでいるせいか、一番めんごいことよ」
と、伸子を見た。
「もう死ぬ死ぬと思いながら、やがて曾孫ひこまで見るかも知れないなあ……」
 祖母は楽しそうに干菓子をたべながら、何か考えていたが、真面目な顔つきになって呟いた。
「……お前、見たとこ倒れで、丈夫でないかしらて……」
「なぜ? 丈夫よ」
「何して子ができなかろ」
 昔ものらしい遠慮なさで、祖母は続けた。
「今の若いものは、嫁入むかさるとすぐ子を産むじゃないか」
「いやあね、どうでもいいわ、そんなこと」
「弱かあるまいかと思うからさ……そう云えば佃さんは顔色がいつもよくないな、佃さんが子種なしであろうかしらて」
 伸子は本気になって、
「やめて頂戴、そんな話」
と遮った。彼女はいやで、涙が出そうであった。子の話は、いつ、だれにされるのもいやであった。まして祖母のように、まるで飼牛か何かのように話されては堪らない。いそいで話題をかえようとすると、きよがそばから、一種の笑いを湛えながら、ずっと祖母の方へ頸をのばし、耳の遠い人に物でも云うように、大きな声で云った。
「御隠居様、御心配なさることございませんよ、もうじきお目出度でございますよ――はい」
 そして、伸子の方に、いやに心得ているという風な笑いを含んだ横眼を使った。何といやな婆! 厭がるのを知っていながら。――きよが、そんなことを予言めかしく囁いた意味が、伸子によくわかった。彼女は女のさとさで伸子のきまりが半月も遅れていることを知っている、と仄めかしたのだ。祖母は、ただ漫然と、
「そうかなあ」
と答えた。
 伸子は、祖母が頭巾をかぶり、俥に乗って帰ってからも、不愉快な心持から自由になることができなかった。きよが云うまでもなく、伸子はもう十分、自分の体の小さい変調に神経質になっているところであった。数日来、折々動物が感じるだろうような不安が彼女を襲った。伸子は、母親になるということが、既に恐ろしかったし、この、生活に疑問だらけの時、その生活に自分をばくす権利を持っているかも知れない子供を持ったら、どうなるであろう。
 次第に薄暗がりの濃くなる柱にもたれ、伸子はいろいろ考え、沈んだ。自分の心の奥深くさぐって見ると、結婚する時、佃に念を押した一つの約束――自分は決して母になりたくないという――も、微妙な女の性の直覚とでもいうものが働いていたのかとさえ思われた。伸子が理性で附けた理由は、自分の仕事であった。けれども、今、自分の心をじっとさせないこの嫌悪と不安は、そんな主知的なものではなかった。もっと本能的だ。何か本能が、不安を絶叫している。若し夫として佃を敬愛していても、このような暗澹とした恐怖を覚えるであろうか。佃を夫とする刹那、自分の裡にある女性が、彼を父としては承認できない者だと見抜き、拒絶したのかもしれない。そして、あのような警戒を敷いたのではあるまいか。その人の子を持つことは厭だ。けれども夫にはする。……
 複雑な感情から、伸子はその夜二人きりになった時、夫にそっと訊いた。
「ね、あなた子供欲しくおありなさらない?」
 佃は指を櫛のようにして頭を掻いてはスーと毛をき、抜けた毛を眺めながら大きな声で答えた。
「子供なんぞうるさくて仕様がありません」
 そして、
「大分抜けるな」
 両手で頭を掻き、ふけを自分のあぐらの上へ落した。



 上野には博覧会が開催され、英国皇儲こうちょが来遊されるという、ことの多い三月下旬であった。
 うらうらと体も心も包むような光線が、縁側一杯に部屋の中まで射し込んでいた。
 じき七十になる佃の老父は、
「同じ日本国中でも違うもんじゃのう。……私があっちを立つ宵は吹雪じゃったに――東京は、はやすっかり春じゃ」
 眩ゆそうにその日ざしを眺めつつ云った。
「……今日は特別ね、……」
 伸子は真正面から日を受けている顔を伏せるようにし、そばの老人を顧みた。
「――まあ、お髯の光ること」
 老人は自分から胸元を見下し、指を拡げて裏から白髯はくぜんしごいた。長い白髯は春の光の中で、支那素麺そうめんのように清らかに輝いた。
「何でお洗いになりますの?」
「玉子の白味で洗えと云われてな、伸したては珍しいもんじゃで根よくやったが、私のように出歩きの好きな者はどむならん――髯も日に焼けます、すぐ又、しょむない色になってしまいおる。……」
 ……長閑のどかだ。……伸子は、自分の祖父と日向ぼっこでもしているようないい気持であった。
 襖をあけて佃が入って来た。
「一寸電話をかけて来ます」
「ほう」
「何か用はありませんか」
「さて――どうでわが身も、後でどこぞへ出んならんと思うとるさかいに……」
 伸子は、佃の着こんだ厚い黒マントや、毛糸の襟巻を見て笑った。
「――あついことよ、それじゃ、外は」
「そんなことはありません。――じゃ一寸行って来ます」
 日当りのよい部屋から来ると、暫くは物もよく見えない陰の四畳半で、伸子が洗濯物をしまっているところへ、佃が手間をとって戻って来た。老人は、独り八畳の方で新聞を読んでいた。その方へ行かず、彼は、
「ただ今」
と云いながら、伸子の後に立った。
「おそかったわね、郵便局?」
「――いつものことだのに、若い者が計算をぐずぐずしているから」
「電話だけじゃなかったの?……」
 伸子は振り向いて夫を見た。彼の顔が、何かぼんやり、感情を現しているように見えた。
「どうして?――只今をしていらっしゃいな」
 佃はぐるり、ぐるり、自分の首の方を廻して襟巻をぬぎ、
「――会社に電話をかけて来ました」
と云った。伸子の父の会社という意味であった。
「何か御用だったの?」
「――金曜日の夕方から親父と一緒に上りますが、御都合はどうか、伺って見たんです」
 伸子は不意打ちを喰ったような変な顔をした。
「そしたら?」
「多分いいとは思うが、確かな返事は明日するから、また電話をかけて見てくれろとおっしゃった」
「――――」
 父の性質で、そうしか返事できなかったのが、伸子に察せられた。
 それにしても、なぜ電話をかける前に、ひとこと相談してくれなかっただろう。家を持って初めて滞在に来た老父に、去年の秋以来の、佐々との不快ないきさつを知らせたくない佃の心持は、伸子によくわかった。尋常に、妻の両親にも会わせて帰したいのは、自然なことであった。けれども、佃は、去年往来を絶ったまま、何の諒解もなく今日まで来ていた。祖母の、理窟ぬきに懸命な心遣いに動かされて、伸子だけ、春から、たまに出入りし始めた。歪んだ関係であった。和解のできていないところへ、だしぬけに電話一通の、しかも押しつけがましい気もしないではない前触れだけで、老人を連れて行こうとする佃の態度には、欠けているもののあるのが感じられた。
 鍵の手になった縁側の彼方では、老人が背中を日に暖めながら、二人の声を無心に聴いている。伸子は云いたいことの半分も口に出しかねた。
「私に云ってからにして下さるとよかったわね……それだけじゃあすまなくてよ」
 彼は、黙って伸子と眼を見合せていたが、やがて、
「まあいい」
 断念したように云った。
「明日またかけて見りゃわかるでしょう」
 そして、座敷へ去った。父子の話声がした。
「今日は一つ上野へ出かけましょうか」
「偉い人なこっちゃろうな、しかしいつと云うて、すいた時はあるまいから――」
 老人は乾いた咳をした。
「……伸子さんはもうおいきたのか?」
「まだです……あんまり好きでないんでしょう」
「おいきたらいいだろう。折角天気もこんなじゃし……」
 伸子は一緒に、博覧会見物に出かけた。青山御所の土手に蒲公英たんぽぽが咲き、濠端の桜が八分通りの見ごろであった。電車に、揃いの花簪はなかんざしと手拭をつけた田舎の見物人が乗り合せた。
 会場で、老人は、各県から集った材木や農産物に、深い興味を覚えるらしかった。
「同じ農業と云うても、近頃は私の若かった頃とは万事ころりと違うな。稲の種類も、こんなに今はたくさんになったが、眼目は何かと云うと、早う、たくさん収穫しようと皆が狙いおる。――早う、たくさんれる種類ほど、味ないな、どうも……」
 古風な毛皮帽をいただき二重廻しを着た白髯の老人と、ゆっくり、材木の間や赤リボンのついたびんづめの麦粒の見本などを眺めて歩くのは、伸子に珍しい楽しい感じであった。けれども、佃は気をせき、老父や伸子の先に立って歩き、ともすると一人離れた。はぐれまいとするので、彼ら二人もひとりでにいそぐようになった。佃が、
「ここも見ますか?――彼方と同じようだな」
と云って立ち止りかけると、老父は遠慮そうに、
「もうええにしよう、なんぼ見ても、まあ、大同小異と云うもんじゃろ」
などと、自分もすどおりに通り過ぎた。
「なるたけなら、第二会場の方も今日見てしまいたいと思いますからね」
 伸子は、老人が気を張って足を早めたり、見たいかも知れないのに、強いてつまらないものと定めてそのまま過ぎたりするのを見ると、気の毒でたまらなかった。土産話にもなるように、ゆっくり、満足に、見物させたかった。彼女は杖がわりの洋傘を持ちなおし、佃のあとに跟いて人波をかき分けようとする老人に云った。
「私どもは、ゆっくり行きましょうよ、迷児になっても大丈夫よ……いそぐとお疲れになるから」
 池の端で、彼らは万国街に入った。舞台には、椰子の生えた海辺の背景が置かれ、その前に裸体へ草の腰蓑だけをつけた女が二人現れていた。黒い剽悍ひょうかんそうな縮毛ちぢれげの頭に花環飾りをのせ、胸にも同じような花飾りを吊っている。傍に腰かけた黒人の男の音楽者が、白ズボンの片脚でドタドタ床を鳴らしつつ、バンジョーとウクレリーで、南洋的な、官能的な音楽を奏す。それに合せ、女達は並んで手を叩いたり、足ぶみしたり、腕を動かしたりしながら、ぶるぶる、うねうね体中の筋肉を顫わせた。三十越して見える肥った方の女の体は、特別人間離れしてよく動き、腰蓑の上につき出ただぶだぶの腹などは、遠くからでさえ、上へ下へ、右、左へ、音楽につれてくねくり廻るのが見えた。舞台の端に「エジプト筋肉顫動せんどうダンス」と書いた札が出ていた。
「変な踊りじゃのう――」
 伸子は笑った。野卑だが、得意になって、腹など妙に動かして見せるところ、子供らしい感じで伸子はおかしかった。
 佃は、黙って見ていたが、やがて、苦々しげに呟いた。
「――下劣だ」
 舞台の上の裸の女達は数百人の見物に面しても、故郷の海辺にいると同じに、呑気で、野生であるらしく見えた。歌を二言三言唄いながら仲間同士ふざけるかと思うと、急に自分の商売を思い出したように本気に、熱心に、腹や腰をくねらせた。
 彼らは、七時頃疲れて家へ帰ってきた。


 羽織を着換えただけで、伸子は台所を始めた。
 食器を洗っていると門が開き、誰かが台所の横窓の下にくるけはいがした。
「今晩は――」
 伸子は曇硝子の障子をあけて、外を覗いた。片明りで女の横顔が見えた。
「今晩は」
「あの、お向うの山下でございますが――先程佐々さんからお電話でございました。お留守でございましたからそう申上げましたら、お帰りんなったら直ぐあちらへ掛けるように、とおっしゃってでございました」
 少女は、なるほど、山下の女中であった。
「まあ、そう、どうも有難うございました。おいそがしいところを度々、御苦労さま」
 ――この取次は、伸子にとって、不意なようで不意でなかった。朝、佃から、会社へ電話をかけた事を告げられた時から、彼女は予期していた。何とか動坂から云ってくるに違いない。今日中でなければ、きっと明日。重苦しい感情を伴って、博覧会場を歩きながらも、考えていたのであった。
 伸子は、
「動坂から電話がかかったんですって」
と云いながら八畳へ行って見た。老父と夫との間に、東京地図が拡がっていた。頭をさしよせて何処か郊外の部分を説明していたらしい佃は、一箇処を指で押えたまま、顔をもたげた。
「……?」
「さっき。――帰ったら直ぐかけろと云うんですって……」
 彼は空々しく、何気なく答えた。
「――かけて来たらいいでしょう? それなら」
 伸子はその声をきいたら、変にいやな心持になった。
 老父が眼鏡をはずしながら、二人を見較べた。
「何ごとじゃろ、今頃」
「さあ……」
 伸子は下駄をはきながら、佃が何とか面倒そうに一口説明し、直ぐ地図に戻って行くのを聞いた。
 電話には多計代が出た。伸子が思った通りの用向きであった。
「父様がおかえりになって初めて話を伺ったようなわけでね、是非話したいことがあるから、今から来てくれないかい」
 伸子は電話口で当惑した。
「もうおそいし、今日は博覧会のお伴をしてくたびれているから、明日じゃあいけないかしら」
 彼方では、電話の傍に父もいるらしい様子で、伸子の云うことを繰り返す母の声がした。
「それでもいいけれどね、明日私はお悔みに行くところがあるんで、都合がわるいし、金曜日と云えば――そうだったろう?――もう日もないしするから、その前に、すべき話はしてしまわないと、お前も迷惑だろうと思うから……」
「――じゃあ上りましょう……少しおそくなるけれども」
 伸子は、淋しい暗い裏通りを、一またぎで自分の家へ戻ってきた。襖をあけると直ぐ、老人が真面目に不安そうに訊ねた。
「何事でした? 御病人か?」
 伸子は、とっさの思案がつかず、
「いいえ、そうじゃありませんでしたけれど……ただいま」
 彼女は軽く老人の前に手をつき、頭を下げた。そして、二人のうち、いずれへともつかず云った。
「……私、これから動坂へ行って来なければならないんだけれど……」
 佃は、万事事情を承知している者の不自然な冷淡さで、
「そう」
と云った。
「そんなら、寒くないようにしていらっしゃい」
「――御苦労なこっちゃのう、今頃から……」
 伸子は老人が、心の中では、何事だろうと深くいぶかっているのを感じた。彼は、遠慮から、それを口に出さないだけなのだ。伸子は、それを知らないふりで出かけるのを、辛く感じた。
「……帰るのがきっとおそくなりますから、どうぞお先へおよっていらして下さい」
 伸子は、自分達の部屋へ来、衣桁いこうにかけて置いた羽織に再び手を通した。戸棚から毛織のコートを出した。手袋をはめてしまうまで、伸子はわざと時間をかけるようにして夫を心待ちした。老人を、謂わばごまかして行くことも、くたびれているのにまた電車で一人ぼっち行かなければならないことも、その先にある用件も、彼女をしょげさせた。彼女は、きっと佃がこちらの部屋に来て、出かけるまえに、一言或は一目、彼女を励ましてくれるだろう、と期待していたのであった。襟巻をするばかりになって、伸子は部屋の真中に立ちよどんだ。佃は、老父に内証話をすると思われない用心からか、いくら待っても来る様子がなかった。伸子は、
「一寸」
と、高く夫を呼んだ。
「――電車の切符はどこ?」
 彼女の願い通りに夫はこちらへ来ず、八畳にいたまま答えた。
「外套の、いつものポケットにあるでしょう」
 外套は玄関の折釘に下っている。伸子はしかたなく玄関に出た。
「――じゃあ行って参ります」
「何時頃帰る?」
「今時分から行くんですもの……でも帰っては来てよ、どんなに晩くなっても」


 伸子が動坂の家を出たのは、十二時であった。俥を命じてくれた。店が閉り、家並みが左右で急に低くなったように思われる深夜の電車道の上を、ゆっくり駈けながら、彼女は俥夫とたまに口をきいた。
 動坂から赤坂まで、俥では長い道中だ。彼女は揺られて行くうちに昼間の疲労が出て、眼を瞑りたくなった。次に目をあけた時、俥は牛込見附にかかっているらしく、松――松――行っても行っても太い松の幹ばかりであった。提灯がまたたく。ゴム輪が、プッ! プッ! かすかに小砂利を飛ばす。……
 がくがく体を揺られながら、伸子は、いろいろ両親の云ったこと、その他を思いかえしているのであった。
 佐々の両親の云い分は尤もであった。佃が、もう先の長くもない父親に、落胆させまいとするのは無理もないが、これまでの事はどうするか。一旦足ぶみしなかった以上、何とかけじめをつけるべきであろう。自分の都合によって、電話一つでどうにもなると思うのは間違っていよう、と云うのであった。その点は伸子も同感であった。
 佃が隠して電話さえかけなかったら、彼女も、何とか少しは彼の威厳も傷けない行動をとらせることができたのだ。今でも、伸子には、なぜ夫が自分に黙ってそんなことをしたか、心持が理解出来ず、居心地わるかった。
「今度のことに限らず、佃さんのすることは正々堂々としていないよ――、古いことを云い出すようだが、引越しの時にしろ、なぜ、いつもお前をお先棒に使うのだろう。――あの時だって、私どもはずいぶん不愉快だった。佃さん、自分じゃ出入りしないが、必要とあればいつもお前を先に立てて、こちらを利用するじゃないの――私どもは、お前が、今夜だってそうやって、お人好しに遙々はるばるよこされて来るのを見れば、厭だと云えやしないじゃないか」
 引越しの時、と云うのはこういう訳だ。片町の、あの西日の壁まで差し込む家に、彼らは二月まで暮したが、ある日、よろず案内で、赤坂の便利な位置に、やすくて手頃な貸家のあるのを見つけた。佃の勤め先に近くもあったので、伸子らは直ぐ見に行った。電車から一町あまりしか離れていないが、静かな裏通りの垣に蔓がからんでいる古い家であった。随分ぼろ家であった。でも、狭い空地には楓や薔薇が生えていて、どこやら落着いた趣もあったので、借りることにきめた。引越しの手伝い、大工など急に入用になった。夜、
「どうしましょうね」
 伸子が夫に相談した。
「トラックいるでしょう?」
「さあ――ただ馴染なじみのないところへ行っても、たかくとるばっかりだろうし――動坂に出入りの、あるでしょう」
「そりゃあるわ」
「一つ、それをきいて見ていただいたらどうだろう、電話で」
「今夜?」
「早い方がいいでしょう」
 佃は近所の自働電話まで、伸子を連れて行った。佃は電話箱の外に待っていた。伸子が、
「ああ、母様? 今日、急にいい家が見つかったの」
 そんな調子で、運送屋その他のことを頼んだ。動坂では、とにかく伸子の頼みを皆承知してくれた。彼女が電話を切って出ると、佃が、
「どうでした」
と云いながらよって来た。
「いいって」
 佃は満足そうに、
「――君がかけた方がいい、だから……」
と云った。
 そのことを、云うのであった。が、伸子には、自分があの時「いいって」と答えた、満足の心持をはっきり思い出せるので、悪いのは佃だけと思えなかった。伸子がしゃんとしていたら、動坂へなんぞ頼むのはやめましょう、と云っただろう。それだけ佃の信用は救われただろうのに、伸子も同じようにずぼらで、いい気であったから、少し工合わるいなと思いつつ、持ち込んでしまったのだ。伸子は、母にその事を云われた時、愧しく、自分に腹立たしく感じながら、
「私も悪かったんだわ、それは……」
と云った。
「私が、いけないって、云うべきだったんだから」
「そりゃそうさ。だが、お前と佃さんとは十五も年が違うんだし、男なんだからね、一人前の。外であの人のすることを、一々お前が自分の責任にはしきれないから云うのさ」
 俥は、そのとき、伸子の重くのろい自己反省にふさわしく、ゆっくりゆっくり、御所傍の暗い坂を登っていた。伸子は、心持に渋さの足らぬ、理想では颯爽さっそうとした生活態度を心がけつつ、実際事に当ると兎角ぐやぐやな自分を明らかに見た気がし、陰鬱であった。佃もぐうたら、自分もぐうたら。似た者夫婦。伸子は、自分らに忿然ふんぜんとした気になって、そんなことを考えつづけた。
 がくん。急に梶棒が下り、伸子は、正気にかえった。俥夫に心づけをやって、門の鍵を下した。門燈と格子の外の灯が点いているだけで、家じゅう、隣近所、寝鎮まったけはいが、夜半の暗さの中に漲っている。伸子は、音を立てないように玄関へ上り、外からの薄明りでコートを脱いだ。さっと一条、右手の襖の隙から光がさした。佃が目を醒したらしい。伸子は、そろりと後手で、襖をしめ、夜具の裾を廻って夫の枕のそばに坐った。ささやき声で、
「ただ今」
 佃は、一眠り熟睡した挙句の、暖かそうな頬の色を枕に横えていた。
「おかえり……どうだった?」
「――あなた明日おいそがしい?」
「なぜです」
「動坂ね、私の考えた通りの意見なの。あの電話だけでは、押しつけられるようで厭だって云う――折角お父さんをお呼びするんなら、その前に一度あなたに会って、さっぱりして置きたいって云うわけなの――あなた明日一寸いらっしゃらない? 私と」
 佃は低く、傷けられたように、
「私にあやまれとおっしゃるんですか」
と、上瞼を釣らすようにして伸子を視上げた。老人を起すまいと、顔を苦しいくらい下げて、小さい声を出している伸子は、力一杯頭を振り、眉をしかめた。
「違うわ、あやまれなんて云うんじゃないのよ、ただ会って口を利いて、お互に――まあ、さっぱりしようって云うだけなのよ。その方が自然だわ、実際。喧嘩別れみたいにして半年以上いたのに、いきなり顔を合せたんじゃ、あなただって自然に喋れないでしょう」
 伸子は夫の耳に唇をつけて囁いた。
「あなたの心持、あっちだって解っているのよ」
 佃は、白い枕の上に仰向き、黙って天井を見ていたが、やがて上を向いたまま唇も動かさず云った。
「そうすれば君が幸福になると云うんなら、行きますよ、私は何でもする」
 伸子は、喉へものをつかえさせたような表情になって、夫の仰向いた顔を見下した。苦しき昏迷が彼女を襲った。佃は、何と変な癖、或は考えかたをするのであろう。一昨年の夏、動坂にいた頃、彼を養子にするとか、しないとか、ひどく揉めたことがあった。あの時も、佃の返事は、伸子に対しても、伸子の両親に対しても、その「私は何でもする、伸子の幸福になることなら何でもします」一点張りであった。伸子はそれをどんなにか苦しんだ。
「ね、あなたのそんな態度、ちっともすべてをよくしてやしないのよ。私の幸福は、あなたが勇ましく拒絶して下さることよ」
 彼は、それに対して、
「ああ、そんなに泣かないで下さい、私はこんなに君を愛しているのだから、伸子! 伸子!」
 一晩じゅう愛を誓い、伸子を撫で、しかし、彼は決して、明朝直ぐ両親に確答を与えることはしなかった。そのことで、伸子はヒステリーを起すほど苦しんだ。養子問題はこのうちうやむやに消滅した。当時の混乱した心の苦痛が今甦って来て、伸子は、また同じことが始まったかと恐ろしくなった。彼女は、
「私の幸福って――妙ね、何だか」
と、切なく、皮肉な吐息を洩した。
「そんなこと抜きでも、あたりまえじゃないの――つまり、あなたとして一足飛びのことなすったから、順序を踏みなおすと云うだけじゃあないの」
「…………」
 佃は不興げに上を向いたままであった。
「いやならいらっしゃらないだって、もちろん私平気よ」
 伸子は熱心に囁いた。
「あやまる必要なんか、決してありゃしなくてよ、あなたに。動坂がそもそも滅茶を云ったんだから。――お父さんにすっかりお話して、行くのなんか、やめましょうよ、じゃあ。ね? 却って立派かもしれない、その方が……」
 佃はやはり沈黙して、天井を見ている。
「ね、そっちばかり見ていずにさ……なぜ黙っていらっしゃるのよ」
「だから――君が望むんなら行きます、と云っているでしょう」
「そんなの、いや」
「どうして」
「だって――あなた、あんな風に電話かけたっきりで、すらりと運ぶと思っていらしったの? それで、はいと承知すると、思っていらしった?――正直に云って」
「…………」
 帰途、俥の上で思いつづけて来た自分らに対する叱責、佃の、いつも伸子を苦しめるその妙な心持の持ってゆきかた、それらを二重に悲憤する気持で、伸子は云った。
「本当を云えばそうじゃないでしょう? それなら、いずれしなければならないことじゃないの。私の幸福のためにするんじゃない、実際のゆきがかり上、必要だからするのよ。それでまた、いいんですもの――いやに恩になんか、きせっこなし」
「――君が行けと云うから、私はそれに従うだけです」
「私、行って下さいと云いやしなくてよ、御自分が折れて出るの癪なら、動坂へなんか、行くのやめてしまいなさいって、云っているのよ。お父さんに体裁のいいところを見せて、安心させたいなら、仕方がない、行く。どっちかじゃないの。御自分はどっちがいいのよ、本当に!」
「…………」
「――あなた、本当に変だわ」
 伸子は苦い汁のような涙を滲ませた。
「もう少し率直だってよかないの。へまをするよりよっぽどいやだ」
「行きますよ、だから」
「行く、行かないなんか、どうだっていいわ、そう云うの私腹が立つのよ。あなたみたいに、何でも誰かのためにしなけりゃ気のすまない人、めずらしい」
 翌朝、老人にお早うと云う時、伸子は極りわるく、平気にしているのに努力がいった。老人の智慧で、老父はいつも通り穏やかであった。けれども、眼ざとい年寄りが、物音で目を醒し、納戸一つ隔てたばかりの彼方の部屋で、伸子がいろいろ云ったり泣いたりしたのを聴かなかった筈はない。
 その日、動坂へ行く行かないについて、伸子はもう何も云わなかった。一時過ぎると、佃が、
「――今日、動坂へ一寸行って来なければならないことになりましたから、一人で明治神宮へでも行ってくれませんか」
と云い出した。
「ほほう――矢張り誰ぞ悪かったのか」
「お母さんが一寸――大したことじゃあないんです」
「それなら結構じゃ。――弁慶橋はじきじゃったのう――あの辺なら、若い頃よくぶらついたもんじゃで分っとる、あすこいら見物して来るさかい、心配せいで、ゆるりと行っておいで」
「じゃあ」
 佃は伸子を促した。
「髪はもうそれでいいの」
 動坂に彼らは夕方までいた。佐々も帰って、居合せた。伸子にとっては、辛い陪席であった。円テーブルを中央にして、大きな安楽椅子に佐々、向い合って母、佃はその間に坐って、ぽつぽつ話が交されたのだが、かたわらから聞いている伸子には、三人の心持が融合しないのばかり感じられた。佐々は、天性面倒な論議や衝突は嫌いであった。どうせ縁がある以上、円滑に納めて行く意向だ。それ故、穏やかな常識的な言葉しか洩さない。――多計代は、もちろん結局妥協するしかないのを知っているが、夫――佐々の微温的態度もはがゆし、佃のさっくりしない心持も不快、自分が本気になれない焦立たしさもわだかまっていて、ともすると小競合こぜりあいが、佃との間に再燃しそうになった。
「多計代もこの機会に、将来円満にやって行くようにしたいと云いますし、どうか私もそうしたいと思うので」
「お母様が、そう思いかえして下されば幸いです」
「私は、何も自分が悪いとは思っていないんですから、思いかえしたわけではありませんよ」
 多計代は、腹立たしげに云うのであった。
「あなたがお父さんといらっしゃりたいと云うから、それなら、何とかお話があって然るべきだと思って来て頂いたわけです」
 佐々が、双方をとりなすように言葉を挾んだ。
「まあ、互に家族となった以上、できるだけ誤解のないように、平和に暮さなくちゃならんのだから――論判してはきりがない」
 丁度、焦点の合わないレンズで映す活動写真を見ているような切なさであった。三つの心が、近より近より、やっと一つ影像になりきれそうになると、ぶるぶる輪郭が震え始め、また、ぼーっと散って、三重にぼやけてしまう。
 対談は愉快な諒解によってではなく、言葉の循環に倦怠して、打ち切られた形であった。
 佃の老父は、初め通り金曜日の晩食に招かれることになった。
 往きも伸子は快活でなかったが、帰途は一層気が重かった。総てのことが晴れやかでないという感じが、深く伸子の心を圧えつけた。佃、自分、佐々の両親とのいきさつでは、衝突しても和解しても結局何にもよくならない気のするのは、なぜであろうか。ふっ切れたところが、一つもない。善も悪も、のび切らず、伸子に解釈のつかぬ曖昧なものに覆われている。老父はまだ帰っていなかった。佃は平常着ふだんぎに着かえ、さも、のうのうしたように自分の机の前の椅子に体をなげ下した。彼は、体中で伸びをしながら、うしろの伸子に云った。
「やれやれ、これでやっとすんだ。――私が死んだ母親のことを云ったら、お父さんは泣いていらしったね、お母さんは泣かれなかったが……お父さんはたしかに涙をこぼしていられた」
 彼はそれを、ゆっくり思い出して、みずから後味を楽しむように云った。その特別の調子が最初伸子の注意をひき、次いで恐怖をよび起した。
「――――」
 伸子は何か云おうとして口を開きかけたが、そのまま黙って息を吸い込んだ。彼は、では、しんではそんなに冷静に、効果を見守る余裕をもって、あれをやったのであったか。――佃は、自分が五つのとき生みの母に死なれたこと、その限りない淋しさを、伸子の両親を愛し彼らからもまた愛されることによってみたそうと、どんなにか楽しんでいたのに、円満にゆかず、こんな遺憾なことはないと、自身あのように涙にむせんで云ったのに。――そうであったのか。……伸子は、大声あげて笑ってやりたかった。同時に佃を打ちのめしたかった。荒々しい自棄が、彼女を吹きまくった。佐々も伸子も、その哀れっぽい述懐にうまく引きこまれた。多計代さえ、それからは少し調子が和んで、ずるずるに、「では」と云うようなところで落着いたのであった。


 伸子は老人や夫と一緒に、大抵毎日、どこか見物に出歩いた。泉岳寺へも行った。博物館のように大きな硝子張りの棚があって、古びた義士の衣類、筆跡など陳列してある。
 大石内蔵之助使用の扇などを眺めている最中、伸子は、「こうしていていいのか」と、鋭い疑問を自分に感じ、気が遠くなるような苦しさを覚えた。佃は、先達て、佐々から帰って自分の云った言葉が、どんなに伸子の心に致命的なものであったか、全く心づかないらしかった。伸子は、あれから、一層明らかに佃と自分との生活の裂目を感じ通しで、不安が続いた。深いところから湧く「こうしていていいのか」と云う疑いは、空中に囁かれる声のように、屡々、思いがけぬところで、彼女の心を掴んだ。それを感じると、二つ三つ息をする間、伸子は自分がいる場所、していることの知覚を失うような内面の緊張に捕われた。
 独りでいると、その疑問はなお大声で叫んだ。直ぐ返答を要求して、伸子を攻めたてた。伸子の理性は、それに対する答えを出していた。けれども、まるで逆な力があって、自分に向ってさえも、それを言明させまいとする。――しかし、伸子は、佃の妻として生きることの恐怖を新たにした。彼女は、こういう状態が一生つづくと思うのさえ、恐ろしかった。
 晩春らしく、埃っぽい風の吹く午後であった。雨戸のしまった隣りの家の軒下に、何か小さい赤いきれが乾してある。暖かく、乾いた風が吹くごとに、細い竹竿ごとその赤いきれが動いた。そこの小庭と軒先だけ日かげで、ひっそりしていた。机に頬杖をついてその様子を眺めながら、伸子は決断のつかない苦しい思いに耽っていた。佃も老人も、めいめいの出先におもむいて、家には彼女一人であった。
「御免なさい――おいでですか」
 思いがけず横田が来た。
「まあ珍しいかた、――どうぞ」
 横田は、どこか変った男であった。彼の妹が、伸子の父の会社に勤めていた青年と結婚した。ある時、その夫婦が、兄である横田をつれて来て、紹介した。駒込に暮していた時分のことであったが、それから、ごくたまに、数時間立ちよって喋って行った。彼自身の話によると、いろいろ語学ができるので、つい創作より翻訳をするのでいけない、と云う境遇にいるのであった。彼は玄関の隅にイムバネスをぬぎながら、耳が少し遠いので首を曲げ、丸い背をかがめるようにして伸子に訊いた。
「お一人ですか? 佃さんは?」
「今日は一寸出かけたの、でもじきかえるでしょう」
「休みでしょう、まだ」
「ええ。近いうちに学校へ宮様がいらっしゃるんですって、その相談よ」
「ああ」
 横田は大きくうなずき、
「そうですか」
 なお幾度も自分自身に合点をした。彼の癖であった。彼はしきりに伸子の机の方へ目をやった。
「近頃なにかお書きですか」
「何にも――あなたは? おいそがしいの」
「下らないことにいつも追いまわされてね、どうも」
「翻訳――面白いものをしていらっしゃる?」
「――別に、大して面白いって云うものでもありません。……そりゃあ、ただ読んでいりゃ面白くも楽しくもあるけれど、訳さなくちゃあならないとなると、ぞっとしませんね」
 彼の体格に比べると、どこやら弱い笑声を立てた。
「今、なに」
「即興詩人です……私は、あれの原本を、第一版で持っているんだが……面倒くさいんでね、独逸語のと対照してやっています……」
「あの人の自叙伝と云うの――面白いでしょうね、およみになって?」
「ああ、――何とか云うのがありましたね」
 彼は傍机に、丸善の包紙のまま、一冊の本が載っているのを見つけた。
「何です、あれは」
 伸子は笑った。
「目が早いのね」
 雑談の末、彼は、
「どうです、家をお持ちなさると、仕事をするのがなかなか困難でしょう」
と云い出した。
「――男のひとは、どう?」
「さあ、どうだかな、私は経験がないからわかりませんね、だが――もちろん負担が殖える点はわるいが、概して落着けるらしいですね」
 そして、横田は、例の癖で独り幾度もうなずいた。
「それは、ちゃんと奥さんが、独身時代よりよく世話をしてあげるからでしょう? 気持のゆとりもできるわけね――女の人の方は、立場が何と云っても逆だから」
「いけませんか? どうも」
 伸子は、変に自分の言葉に責任を感じた。
「断言はできなくてよ、絶対に駄目だなんていう。――けれども、何て云うか、男の人は夫になったって、どこまでも、その人で通るでしょう。細君は何だか、生れつき以外に、細君的属性とでも云うものが要求されるみたいね。細君業は、女の適応性を極端に発達させる点で、危険じゃないかしら?……『私』というものがなくたって立ちゆくんだからこわいでしょう?」
 冗談めかして云いつつ、伸子は、心にひろく女性の寂しさというものを感じた。
「――難かしいもんだな」
「――誰でも一応むずかしいとは知っているけれども、実際になると、いよいよ複雑ね。だから独身がいいって云うわけかもしれないけれども――仕事のために、リーベもしないなんて、そんなぎごちないの、私にはできないわ。――男女に関らず、まあ当人にとって自然な、自由な生活をしている人は少いのじゃあなくて? 勇気がいるもの」
「そう――そうです、窮屈だからな、特に日本ではね……全くそうです」
 そんなことを話しているところへ、佃が帰って来た。伸子は玄関へ出た。
「横田さんが来ていらっしゃってよ」
「ああそう」
 佃は、まっすぐ横田のいる部屋に入って行った。
「いらっしゃい」
「やあ――お留守に上っていました。いかがです? おいそがしいらしいですね」
 佃は、深く椅子にかけ、上体を捩って片肱をかけ、椅子の背を抱えこむような恰好をした。
「いやどうも――相変らず貧乏暇なしでせています――あなたはよく肥っておいでですね」
 新しい茶を持って入って来た伸子には、その言葉が何だか角々して、相手を傷けるように感じられた。
「――じゃあ、あなたや私は得な性分でいいわけね……」
 横田は声を出さず、はあと口を開いて上を向き、笑うような顔をした。つぎ穂ない沈黙が生じた。用談でも切り出さなければ、納まりがつかないようであった。横田は顔を顰めながら、懐をさぐって、原稿紙の畳んだのをとり出した。
「――若しお暇があったら、一寸お訊きして見ようと思ったんですがね――これ……」
「なんです――希臘ギリシャ語ですか」
「こんな風なことだろうと、見当はつけているんですが、どうも曖昧だから」
「詩らしいですね――何かに引用してあるんですか」
 横田は伸子を顧み、
「どうも西洋の学者は、何ぞと云うと直ぐ羅典ラテンや希臘をかつぎ出すから厄介です」
と笑った。
「おいそぎですか」
「いや、いそぎません」
「じゃあお預りして置きます」
 また話が途切れ、居心地わるくなった。横田は、
「どうぞよろしく」
と程なく帰った。
 見送って再び部屋に戻った。佃は横田の置いて行った紙片を手にとり、立ったまま見ていたが、ふんと云うような表情で、手近い本棚にのせた。伸子は何だか厭な気がした。
「大丈夫? そんなところへ置いて」
「大丈夫ですよ」
 佃は伸子がそんな注意を払うのさえ不快らしく、云った。
「いつ頃から来ていたの?」
「なぜ?」
 わざとらしい訊きかえしが、殆どひとりでに伸子の唇を辷り出た。
「なぜって――また君の邪魔をしたと思うからですよ、下らないことっきゃ話もないのに」
 ――伸子は皮肉な顔をして、肩をゆすった。彼女は意地わるい心持になった。佃は、彼女の友達が来ても、恐らく唯の一度もと云ってよいくらい、愉快な対手となった例がなかった。彼が席に現れると来た人は帰り支度をする。女の人でも、それは同じであった。今も、彼は明らかに心穏やかでないのだ――不思議な、伸子に責任はない理由で、それをまともに表さず、親切らしいお為ごかしの云いかたを、又してもする。彼女はいきなりつきとばすように、
「ちっとも邪魔じゃなかってよ、面白くてよかったわ」
と憎らしく口答えした。佃は、反感を沈黙に表して、着物を着換えに行った。伸子は、愛情からでなく、腹立たしさ、厭さ、憎らしさ、それらの感情で対手から離れられず、自分も佃の後をいて行った。本当は横田に対して、彼女の心持はもっと複雑なのであった。彼がしきりに机の方ばかり気にするのや、妙にききたがりのようなところがあるのなど、彼女は好きではなかった。それでも、夫のそう云う口の利きかたが、伸子の平静を奪った。伸子がいるのを知りながら、知らないように洋服をぬぎ、それを衣裳箪笥にかけている佃の、強情そうに太い耳のうしろの骨を見ていると、彼女は、盲目的に衝動がこみ上げて来るのを感じた。ああこの平気そうな様子! いじめて、いじめて、本音を吐くまで参らせられたら、どんなにすっとするだろう。こんなすました彼でない彼、こんなぬらりくらりした彼でない彼、その彼が見たい! その彼が欲しい!――しぶとく、叩きのめされてもここは退かないぞ。猛々しい情熱で、伸子は心がくらんだ。相搏つ烈しい二つの力を自分の中に感じ、裂けそうであった。どこかで、熱心に、止めた方がいい、さあ、あっちに行こうと勧めるものがある。それを見向きもせず、手を振り払って、ひたむきに、ひたむきに、喧嘩したがり、喰ってかかりたがっているもう一つのもの。自分も彼も粉々にし、ざま見ろと叫びたいほどの暴々あらあらしさ。――佃は着換えをすますと、彼一流の利口さで、口も利かず、振りかえりもせず、静かに納戸を去った。伸子は、急に名状し難い空虚を感じた。自分と彼とに対する悲しみが彼女を圧倒した。伸子は、そこに立ったまま、すすりないた。

 ほどなく、佃の老父が帰宅した。
 伸子は台所へはいり、魚を煮はじめた。火気でむしむしする狭い厨房ちゅうぼうの空気は、苦しい伸子の心をとり巻いて、ますます彼女を苦しめた。
 伸子には、今、別な悲しみがあった。若しこれが、一年前のいがみ合いであったら、自分はこのように、嫌悪と暗さに満ちた心で、しかも頑固に独りを守って、ひねくれていたであろうか。伸子は、佃の言葉を素直に受けられなかった自分の心持のせいだけにでも、きっと彼に謝らずにはいなかった。夫のところへ忍びより、
「御免、御免」
 朗らかに挙手の礼でもしたであろう。その後、彼らは少くも、喧嘩の前よりさっぱりした心地になれた。
 伸子は今も、自分の太々しさは十分知っていた。自分が、鬱積している苦しさから、直接の原因以上に、ひどく刺戟されたことも解っていた。
 けれども、彼女はどうしても、元のように、佃のそのような心持を話し、また詫びたりする気になれなかった。自分が彼のところへ行って、そのことを話せば、佃は、如何にも伸子が自己省察をし、後悔するのが当然で、彼もそれを予期していたかのように、彼女の告白を聴くだろう。そして、自身の心には一つの鞭をも加えず、さながら汚れなき小羊のように、彼女に祝福を与えるに違いない。
 それを思うと、伸子はむらむらとした。偽善的な佃の心のポーズが、伸子を窒息させるようであった。
 鍋の下に揺れるガスの焔を見つめ、考え沈んでいた伸子は、自分ら二人の男女の生活の恐ろしさで体が震えるようになった。
 自分の前に、次第に広く拡がって来た道は何であろう。一人の女が、人間でなくなろうとする道ではないか。彼女が、生活におけるこのような苦痛、切なさ、はがゆさから、たといどんな外形上の我儘をしようと、棄鉢な悪たれ女になり下ろうとも、佃は依然として、見たところ非の打ちどころない、寛大な、忍耐強い夫の役割を演じつづけるだろう。
 伸子は絶望と恐怖とで涙をこぼした。永い、しずかな、地にもぐり込みたいようにそれは悲しい涙であった。


 英国皇儲の来遊は一般的な好意を呼び起していた。馬場先に大きな歓迎門ができた。夜はアーク燈の光で、ぞろぞろ通る人間も、おほりの松の枝ぶりも、いつもと違うように見えた。佃の老父はその賑わいを見物してから、田舎の生活に役だつ、実用的な手土産をもって帰国した。
 窓をあけ放して置くと、夜気とともに、春の土のにおいや若葉の匂いが、明るい部屋に流れ込んだ。
 老人が去ったあと、宵は長く感じられた。佃は、そういう夜、部屋の真中にあぐらをかいて、外国から来た書籍包みを開いていた。伸子はそばで、解きすてられた紐や紙を始末していた。界隈がしずかなので、彼女がたたむ厚い包紙の、ゴワゴワいう音ばかり耳立った。
「――あちらの机に送り状があるから、とって来てください」
 伸子はそれをとって来た。彼は一旦テーブルにつみ上げた本を、一冊ずつその送り状とてらし合せ始めた。伸子はじっとその様子を見ていたが、
「――ねえ」
と声をかけた。彼女はこの呼びかけを、なみなみならぬ心持でしたのであったが、佃は手許の仕事に気をとられ、うっかりした調子で答えた。
「何ですか」
「相談があるの」
「なんです」
「ねえ……夫婦の生活というものはこういう形しかないもの?」
「さあ……、どう云う意味で云うのか知らないが、そうでしょう」
「もっと自由じゃいけないのかしらん」
 佃は本を手にとり上げながら、警戒するように伸子の顔を見た。
「なぜ?――何か違った形が必要なんですか」
「私――当分私ども別々に暮して見たらどうかと、この間から思っているの」
「私はちっともそんなことは必要だと思いません」
 斬りすてるような語勢であった。
「だから御相談なのよ、お父さんがお帰りになってから、ゆっくり相談していただきたいと思っていたの」
 以前から、別々に生活して見るのもよいのではあるまいか、と思ったのは屡々であった。最近、彼女には、そうでもして見るしか新生活のひらけようなく感じられて来た。自分たち夫婦の、生活態度の違いを、抽象的に批評したり主張したり、そんなことで実生活が寸毫すんごうも変化しないことを、伸子は経験で知った。佃は生活のあいてとして、そういう種類の人ではなかった。彼は、独特な消極さで、強い生き手であった。
 生活を一緒にしていて心持を影響されまいなどと云うのは、できない相談であった。
 せん、田舎で考えたように、彼には彼の生きる場処がこの世にあるという考えも、一緒に暮していては、その平和的な微温さを保っていられなかった。
 一人の人間として、自分がじ卑しむ行為をも、それが夫だというばかりに共犯者になることは、伸子に堪え難かった。彼の考えかた、彼の生きかたに釣り込まれまいとして、いきおい、伸子は批評的になった。批評的になった瞬間、彼女は残酷なほど露骨に、一箇の、自分とは正反対の方角に生きようとしている男を見た。
 その男は夫だ。彼と自分との間に、欲情の交換はある。しかし、美しい恋心と、よく生きようとする張り合い、それがあればこそ生きる望みは、みたされる見込みがない。――伸子は、それでやって行けないのであった。まして、佃の誠意にさえ信用を失った今、夫であり妻である約束、それが何の権威であろう。夫婦だからと云って、無理やりひとまとめの形を繕わず、一人一人それぞれに生きるところを生かしつつ生活したら、彼も自分も、自然になれるのではあるまいか。伸子は夫の反対は覚悟で、相談を持ち出したのであった。
「――もちろんそれは変則よ。けれどね、病気になれば、私ども転地もするし、病院へも入るでしょう? 結婚生活が病気なのよ、私どものところでは」
 佃は、不快な話が出るといつも現す二本の横皺を、深く額によせた。
「私にはわかりません――それは、初めっから幾度も云ってある通り、君は自由です。あくまで自由なんだから、どうでも、好きになすったらいいでしょう――私にそんなことはできません」
 伸子は自分の考えを説明した。彼女は、別々に生活すると云っても、動坂へは行かないつもりであること、経済的には佃に厄介をかけないつもりなことを話した。
「本気で、めいめいが自分の心に正直な生活をしはじめたら、この、変に嘘だらけのような暮しかたの、とにかく一部分だけでも、さっぱりすると思うのです。そうお思いにならない? 私どもは、本当によくないごまかし暮しをしているのよ」
 佃は頬桁でも打たれたような眼をして、伸子を見据えた。
「我々が、どんな罪を犯しています? すくなくとも私は、神にいつ呼び出されてもいい、潔白な心持で君を愛しているし、生活している」
「でも……私が嘘だらけの生活と云うのはね、こういう点なの。一つの例を云えば、私どもは……」
 自分の云おうとすることにおびえたように、伸子は思わず躊躇した。が、直ぐ早口に続けた。
「私どもは――もう永いこと腹の中で衝突していてよ、もちろん、あなたはそれをご存じだわ。でも、まるで、こうやって私が切り出すまで、知らんふりじゃあないの? なぜ? 私はね、そういうあなたが――厭で――……憎らしいの。そう感じながら、私はまた私で、近頃は何だか正直に、あなたにそんなことが云えない――こじれているの。そんなにもたもたしながら、綺麗な顔をして、旦那様、奥様になってすましているのは、私恥しいのよ、全く」
 佃はもう本などかまわず、腕組みをし、微かに唇を震わしながら、圧しつけるような声で云った。
「――私が、こんなに真心をかけて愛しているのに苦しめるのは全く気の毒です。――しかし、別に暮すなんて云うことは絶対にできない」
 夫の口から、すらすら真心とか愛とか云う言葉が出るのを、伸子は、間のわるい疑わしい心持で聞いた。彼女は、
「なぜ絶対にできないの?」
と云った。
「夫婦は夫婦なのよ、ただ生活法だけ、二人の書生にかえってやりなおして見るのよ」
「できません! 考えて御覧なさい、かりにも教壇に立って教える者が、こんなことで、どうして人に顔向けができます?――折角、理想的な結婚だと思われているのに」
「それは変だわ」
 伸子は熱心に、夫の言葉を否定した。
「私はそうは思わないわ。第一、私どもは、どう人に思われたい、というために生活していやしない。また、顔向けができないなんて云うのは、かえって、このまま二人で、なり下ってこそよ。若し本当に、私どものつながりにちょんびりでも理想的なものがあるなら、それこそ、形なんかに拘泥しないで、生活の内容を進めて行けるだろうと思うわ。――ね、私ども本当にほかの夫婦みたいに、とぐろ巻いて暮すために生きてやしないのよ」
 永い沈黙の後、佃は、伸子が意外に感じた平静さで、むしろ彼女をいたわるように反問した。
「――じゃあ君は、暫くでも別に暮したら、二人の間がきっとよくなると云う信念がありますか」
「…………」
 それはある、と伸子には答えられなかった。佃のいう意味では、よくなるかもしれず――悪くなるかもしれない。けれども、それがめいめいを天性のままにかえすのだとしたら、つまり、よいことになるのではあるまいか。結婚生活の習俗だか、蒙昧もうまいだか、ごたごたしたものの大掃除だ。このつながりから一生自由になれないと思うばかりでさえ、佃に反感が起り、憎悪を感じるような立場は、互のために堪え得ないのであった。
 佃の意見は、全然逆であった。不調和があればあるほど、厭なところがあればあるほど、一緒に生活しなければならない。近くにいて、互に日夜ただし合い、矯正し合ってこそ夫婦だ、と云うのであった。
 夫がそう云うのをきくと、伸子は胸の中が熱くなるように感じた。顔色をかえ、彼女は掴みかかるような眼で彼を見た。
「あなたは、じゃあ、いつか一度でも、私が伺うことに、淡白に、男らしく、返答して下すったことがあって? 自分の間違いを、内心でだけででも、正直にお認めんなったことがあって?」
 伸子は彼を見据えて、瞬きもしない眼から、ほろほろ涙をこぼした。
「そういうところが、我々の生活の地獄よ。あなたは、私が腹を立てて、つい失礼なことを云ったり、したりしちまうまで、冷淡だったり、ずるかったりなさる。あとで、私がそのことを謝ると、本当の理窟まで私が引っこめでもしたように、御自分の方はそれなりけりじゃないの。あなたのは言葉だけよ――言葉だけです。それで、本気な生活ができると思っていらっしゃるの?」
 伸子は袂で自分の顔を拭いた。
「……私は馬鹿だから、いつも、今度こそは、今度こそは、と思っていたけれど、もう、いや!」
 佃は眉を寄せ、頭を、さも痛ましいと云う風に振りながら云った。
「――私の真心をどうか信じて下さい」
「信じられないの。……信じられなくなったの、このごろ」
「ああそうだろう、そうでなくてそんな……」
 一時間にも感じられた数分の後、佃は改めて初めの問題に立ちかえった。
「では――どうしても、別に暮したいと思いますか?」
 声のうちに閃くものを感じ、伸子は本能的にはっとした。彼女は濡れた瞳で夫を見上げた。蒼白い、疲れた表情で彼は顔をそむけ、伸子の返答を待っている。伸子は、自分の一言が何か運命的な反響を、夫の裡から引き出そうとしているのをはっきり感じた。
「――その方がよくはないかと思うの」
 泥濘ぬかるみを歩くような重さで伸子は云った。それをきくと、佃は椅子の上で、それでよし、と云う風な身じろぎをした。
「――じゃあ仕方がない――一緒に生活できないんなら……別れましょう」
「…………」
 籐椅子の肱かけのところに頬杖をついて、黙りこくっている伸子の顔を、今度は佃の方が覗きこむようにして続けた。
「ね、そうしましょう、そうするしか仕方がないでしょう。――私はすべてをすてて田舎へ引込みます。――実に、実に残念だが止むを得ない」
 伸子は不可抗な力に釣られて、自分の心が一歩ふみ出すのを感じた。
「それとこれとは別問題よ」
「どうして? どうして別問題です? 私には全部です。――だから君になんぞわからないと云うんだ。こんなことを云い出すくらいなら、なぜ、なぜ」
 佃は伸子の手をいきなりつかまえると、自分の手も一緒くたに持ちそえ、髪を滅茶滅茶にかきむしりつつ、烈しくすすりなき始めた。
「初めっから、ずっと友達のままでいなかったんだ」


 涙でびしょびしょになった、夫の歪んで蒼白な顔、溺死人のように、額に引っかぶった髪。声。それを思い出すと、伸子は二三日たったあとでも、ひとりでにぞっとした。そして、落着かない、変な気がした。恐ろしい真実を瞥見べっけんしたようにも思われ、芝居と思わない芝居を見せられたようでもあり――佃に、この懐疑の責任はあった。伸子は、男は女より、誠意をもってしか涙はこぼれないものと思いこんでいた。それを、彼が、いつぞや動坂の親達に示した感傷劇の涙で、伸子に強い感銘を与えてしまった。
 翌朝、佃が、伸子の起きないうち、机の上のコップにさして行ってくれた季節はずれの桜草の花、その花からも、伸子はそれに似た感じを受けた。その桜草は、裏の竹垣の下に先住の人が忘れて行った根から、ささやかな薄桃色の花を開いたものだ。伸子は、自分に向って何だか表情しているような可憐かれんな花を、見るのもいや、どけてしまってもすまない、二半な心持で、永いこと眺めた。
 とにかく、伸子は金しばりのような佃の掴みグラスプを全身に感じた。根本は何であれ、彼は自分を放したくない、占有から解きたくないのだ。
 伸子は、彼の切ないであろう気持も、通じていない訳ではなかった。二人が結婚してから、彼ばかりいい目を見ているどころか、普通から見れば、伸子はずいぶん、我ままな女房であった。彼を一人残して旅行に出た。寝坊であった。伸子には、そういう日常の些細な自由をさえ、妻となれば大特権のように貼紙つきで与えられるという云い難い憂鬱、夫が、それらさえ与えておけば、不満を云うべきものもないように、他を省みない魂の孤独さがあった。これは勘定の外にするとしても、彼が、結婚について周囲から受けた批評は我慢ならないことが多かった。佃は、最初から愛なくて伸子を騙し、自分の社会的地位を作ろうとしたように云われた。彼としては、今、伸子と別居し、世間に家庭生活の破綻を示し、従って自分に加えられた評言を事実で裏書きするようなことは、全く苦痛であろう。結婚生活を形においてだけでも成功させ、それ見ろ、と冷評をくつがえしてやりたい――ほんものの愛のあったことを後からでも思い知らしてやりたい。
 悲しいことに伸子の感じるのは、彼の、その、ほんものの愛があると思い知らせたい、という二次的な意欲であった。太陽のように捕え得ず、しかも、四時明るく、暖かく、ふれる心を生かす愛そのものの流露より、伸子と自分で形造った生活の組織を、中折れさせまい、ものにしようとする、中年の男の実際的な固執ばかりが、金梃かなてこのように感じられるのであった。伸子に疑なく感じられる彼の真情はこれだけであった。
 伸子は、折があると、うやむやに終った話を復活させた。……いろいろの方面から。
「――私どもは、自分たちというものを間違えて考えているんじゃないかしら。あなた、私のためにだけ生きているとおっしゃるけれど、お互にそんな生活力の弱い者同士? 私は、初めっから云うように、生活そのものを愛しているのよ。――もし、あなたがそんな気の弱い、生存力の稀薄な人なら、あんなに若いうちから苦労して、自分の路はつけて来られなかっただろうと思ってよ。あなたは、やっぱり、自分を強く守って生きるたちのかたなのよ。それを、不自然で、また不必要なほど、私のため、私のため、と云って下さるからいけないんじゃあないかしら。生れつき通りになりましょうよ。ね、そうしたらきっとさっぱりしてよ。二人の間も晴れ晴れしてよ。あなたはあなたとして、十分生きる権利を、正面から主張なさればいいのよ」
 佃の返事はきまっていた。
「どうにでもお考えなさい。私の本性はこれきりだ。――私の覚悟は、もう結婚する時からきまっている。その決心を、自分がいいと思った時に実行するだけです」
 決心というのは、死ぬとか、すべてを放棄して田舎に引込む、とかいう意味なのであった。このような言葉も、伸子は、どこまで本気にすべきか判らず、黙りこむしかなかった。本当かと思うとこわかった。この心理的かみ合いは、どちらかが死ぬまで、では続くのか、――しかし、おどかされているのかと思うと、伸子は、にっこり笑って片足引き、お辞儀をし、
「そうお、ではどうぞ」
と云って見たいようであった。――
 七月になった。
 佃は、勤め先から、関西へ出張することになった。短い旅行のために入用なものが、ちっとも揃っていなかった。互の間が不穏な、底鳴りのしている有様ではあったが、そのため却って、みっともない旅行はさせにくい気がした。伸子は、ある日僅かの金を持って、来合せた保と三越に出かけた。暑いが、さっぱりした風に吹かれて三越の赤い旗が、愉快に蒼空にひるがえっていた。
 一時間ばかりで買物がすんだ。
「どうする? これから動坂へかえる?」
「僕どうでもいいや」
「また赤坂へ帰るとおそくなるだろうから――じゃあ少し銀座でも歩こうか」
 保はひどく嬉しそうに、大にこにこで合点した。
 彼らは資生堂でアイスクリームソーダを飲んだ。伸子はストロウを二本とって保に渡し、自分も同じだけのストロウをコップにさした。
「やって御覧なさい、この頃はやる飲み方。――一本の方を吹いてよく泡を立てながら、もう一本の方で飲むの」
 保は、何の気なく、
「ふうむ」
 二本一度に唇へ当てがおうとしたが、
「やあ! 怪しいぞ、怪しいぞ」
と手を放した。
「すまないが、僕、よく分らないから、姉ちゃんちょっと先へやって見せてよ」
「何でもないわ、ほら」
 伸子は、コップから溢れるほど、ソーダの泡を立てて見せた。
「本当?」
 保は、少年らしい真面目さで覗いたが、泡が立っている時には、もう一本のストロウを黄色の液体が昇って行かないのを発見すると、本懐そうに体を揺って、ふきだした。
「ほうら! だから僕、変だと思ったのさ、息を二つに分けて使うなんて――」
 伸子も笑い出した。
「でも、すぐ変だと思った? 私は本当にやって見ちゃったわ」
「いつ?」
「ずっとせん、西洋のお爺さんにかつがれたの」
 保が上野行に乗るのを見送ってから、伸子はライオンの前から電車に乗った。早い午後で、車内は空いていた。伸子は包みを膝の上にのせ、開け放した窓から濠端ほりばたの景色を眺めた。夏らしく、透き徹った明るい西空であった。重い、石垣の面と色、芝生、鬱蒼と緑濃い老松などが、ひろやかに曲折した水と照り映えて、如何にも日本的な美しさに充ちて見えた。伸子の、さっきからの名残りで、表にだけ明るさの漂う、沈んだ心持に、この眺めは快適であった。
 向う側に、一人女のひとがかけていた。三十七八の品よい夫人で、もののいい黒っぽい服装、やわらかそうな髪の毛から下駄の爪先まで、落着いて素直な感じであった。膝の横にある洋傘も黒であった。内輪ななりから、身だしなみのよさや生来の寛容さが、一目の中に輝いていた。ゆったり正面を向き、やっぱり窓外を見ていた夫人は、伸子が見たのに心づいたらしく、ごく自然に彼女の方を見た。計らず眼が合った。それが何とも云えず朗らかな温かい見かたであった。――瞳が微かな茶色で輝いているのまで懐しく目に止った。
 時々その夫人を眺めるうちに、伸子は、一種異様な心持になって来た。その夫人の心の状態がいいのが、伸子にひたひたと感じられた。そして、奇妙にも、自分がそばによって行って、その豊かな手に自分の手を当て、ひとこと、
「ね、私……」
と囁きさえすれば、この頃の心の苦しさ全部が、たちどころに対手に通じそうに思われて来た。そして、奇蹟的に、自分の行詰った、切ない境遇が展かれそうでならない心持がする。……
 伸子がなおなお見るので、夫人の方も、彼女にやや特別な注意を払い始めた。茶色がかった瞳が、乱れない朗らかさで、時々彼女の額や頬にふれた。伸子は、視線で撫でられるという文字通りの感覚をおぼえた。いま席から立ち上ろうか、いま立とうか、苦しく胸がどきついた。そんなことは、恐らく自分にできないことを、伸子は知っている癖に、夫人から注意をひき放すことができなかった。ロシアの小説に、よく汽車でいきなり隣りの人を捕えて男が身上話を始めるところがある。半信半疑で読んでいた。そういう男の、哀れな、胸いっぱいの心持、それがこの気持なのだと、伸子は思った。
 自分の降りる場所へ来た時、伸子は、ほっとした。歩道へ出ても、なお、心持の揺れがのこっていた。彼女は、自身の驚きを振り返って見るような心持で、停っている電車の窓を見上げた。カーキ色の軍服の背中で、夫人は見えなかった。

「――手紙下さること? 動坂の方へ」
「さあ……そんな暇があるかどうか……私の手紙なんぞつまらないでしょう」
 翌々日、佃は旅行に出発した。伸子は動坂へ行った。


 そんなことを云って立ったが、佃は、時々伸子へ便りをよこした。景色を、自分で写生したハガキが多かった。簡単に、その日の天気のよし悪しなどだけ、書いてある。彼は、自分が旅行している間に伸子の感情が推移することを、期待しているらしかった。実際、伸子も、毎日相剋そうこくの状態で佃と狭く暮しているよりは、精神に余裕ができた。動坂の家は、暑中休暇で、がら空きであった。多計代は子供づれて、田舎へ避暑していた。のこっているのは、父と伸子だけであった。それも伸子に休安を与えた。
 ある朝、風通りよい畳廊下のところで、伸子は、浴衣地や海苔のりの罐などを、大きなバスケットにつめていた。昼頃の汽車で書生が田舎へ行く。それに持たせてやる品々であった。佃のところから来たハガキが、そばに散っていた。今朝のは、奈良からであった。眼ばかり大きい大きい鹿と、鳥居が描いてあった。
「昨日寸暇を利用して、奈良を俥で一巡しました。春日神社の森の中は、別天地のように涼しかった。鹿がやさしい顔で幾匹もよって来ました。こんな優しい動物なら足の痛くなるようなこともあるまい」
 伸子はその文句を読んで、苦笑した。
 保と三越へ行った日、帰って見ると左足に鼻緒ずれができていた。素人療治をしているうちにこじれて、伸子は、この頃毎日病院へ通っているのであった。鹿がほそい脚の先を自分のように繃帯され、のたりのたり歩く恰好を空想すると、一寸滑稽であった。が、荷作りの合間にもう一度読みなおすと、伸子は何だか、単純におかしがれなかった。こんな優しい動物なら云々。伸子が優しくないという心があるのであろう。彼らしい感じかただ、と、伸子は思った。優しさなどというものも、彼にすれば、愛と同じに消耗しない固形物のような存在に思われるのであろうか。
 伸子は着物を着換え、病院へゆく支度をした。俥に乗りかけていると、あわただしく、廊下を女中が駈けて来た。
「ああ、一寸! お電話でございます」
「どなた?」
「柚木さんとおっしゃいました」
 伸子は急いで電話口へ戻った。柚木さんと云うのは、伸子の師とも云うべき、老博士に違いなかった。彼女は、動坂へ来るつい前日、長い手紙を出した。彼女は、昨日今日生理的に持ち堪えきれず、譫言うわごとに出そうになった内心の苦しさ、自由な生活への憧れを、その手紙へ吐露したのであった。
 先方は夫人であった。
「もしもし、伸子さんでいらっしゃいますか、あのう、宅の代理でございますが、お手紙は確かに拝見致したそうでございます」
 伸子は夫人に対し、ある極りわるさを感じた。彼女は無器用に礼を述べた。
「それでね、早速御返事申上げるところでしたが、丁度興津へ参っておりましたもんで、失礼致しました。――あなた、明日やはりそちらにおいでですか」
「はあ、当分こちらにおりますが」
 もし伸子が在宅なら、面談したいから、柚木先生自身、伸子のところに来て下さろうと云う言伝ことづてであった。伸子は恐縮した気持になった。彼女は、今は足の工合が悪くて駄目だが、早晩、自分で上ろうと思っている旨を云って辞した。
「でも、どうせ小石川についでがあって出ますのだそうですから……」
 では、どうぞと、伸子は電話を切った。
 病院は、月曜日で、特別混雑していた。控室は暑苦しくていられなかった。廊下の突き当りに一つ窓があった。そこから、裏庭の汽罐室や、その周囲の空地が見下せた。そこを、岡持を下げた若い出前持が通ったり、二の腕まで出した元気好い看護婦が時々姿を見せた。看護婦は上草履のまま、石炭殻の上を、ひょいひょいと飛び越えて斜向うの別棟の入口へ姿を消す。白い広い裾の下に赤いスリッパアの先が見えるのなど、病院らしい美しさがなくもない。そんな光景を伸子は永い間見ていた。やっと控室の人ごみの中から、左手に帳簿を持ち、伸子の馴染の看護婦が出て来た。
「――どうもおまち遠さまでした。どうぞ」
 髯の薄い、いつもものぐさい風で患者を扱うので、伸子が嫌いな医者が、その日は当番であった。彼は伸子の挨拶に、
「や」
と鼻の先で答え、ちょいと人差指を動かした。繃帯をとけと云う合図であった。彼は指の先で、一二ヵ所、患部を押した。
「きのうの通り」
 看護婦が、平手で、石膏せっこうの型でも作るように、べたべた伸子の足いっぱい膏薬を塗りこんだ。それをやっている間に、白いカアテンで仕切った隣りの区切りの中へ、眼と鼻と口のところだけ、穴をくり抜いた、顔じゅう繃帯の男が呼び込まれた。
 伸子は陰気な表情で、厄介な荷物のようになる足先を見守っていた。彼女のうちに、その間にもこびりついて離れないある錯綜した感情があった。明日、柚木先生が来て下さる――来て下さる――それに対して、自分には、恐縮と厚意を有難く、重く感じる心持しか起らないのが、出がけ電話を切った時から、伸子のこだわりになっているのであった。
 柚木先生へ送った手紙に、伸子は、佃と結婚してから、自分以外の者に打ちあけられるそれが最初の、不満と疑惑とを、包むところなく書いた。数年来心に溜っていた勢いが、先生を少なからず動かしただろうことは、伸子に推察された。先生は、彼女がのるかるかの瀬戸際にいるのを知り、その危機を最も適当に処置する、具体的な相談相手になってやろうと、明日来て下さるに違いないのであった。自分の様子はどうであろうか。伸子は、我ながら自分の精神が不活溌なのに、愕きを感じた。電話を聞いた時、彼女は、この機会を力綱に、一つ潔く、率直に、自分の計画を実行しようという、頼もしい勇気を感じるどころか、却って、後じさりする怯懦きょうだな自身を感じた。先生の訪問によって、事態が一変しそうな不安、まだ、そこまでは決定的でありたくない未練。遂には同じ結果になるにしろ、先生の言葉に従ってしたことだと、後でその意識に苦しみそうな自分の性分。理窟から云えば、抑々それならなぜ、何の責任もない柚木先生にそんな手紙を出したか、ということになった。書きながら、泣いて自分の苦しみと憧れとを訴えずにいられなかった心持、それも、伸子は自分を偽っていたのではなかった。心が、燃えて、燃えて、我慢できずにそれを命じたのだ。それかと云って、現在の、この踏んぎりのつかない、無いとわかりきっている筈だのに、何か大切なものを見失うのではあるまいかと、今更遅疑する心の状態も、嘘ではない。動かせない本心の両端なのであった。
 翌朝、約束の時間に先生が見えると、伸子は、いよいよ愚かな気後きおくれを感じた。いっそ、病気にでもなってしまいたい気がした。片方の足を厚ぼったく繃帯し、そのように萎れている伸子が惨めな有様に見えたのだろう、先生は、老年で幾分しわがれたが、生彩のある音声で、ねんごろに彼女の健康を尋ねた。
「うるさいものです、宅の家内なぞも、矢張りそれに類似のもので永く困却しました。……ところで、あのお手紙は細かく拝見しましたが……何ですか……佃さんは、どこかへ……御旅行ですか」
 伸子はぶきっちょうに、必要な答をした。
「ああそうですか……」
 先生は安楽椅子の奥によりかかるようにし、考えながら、右手の指で軽く、既に白い髭を撫でた。
「お手紙で、実は意外に驚きましたようなわけです。御母堂は初めっからなかなか御心配で、いろいろお話もありましたが、あなたも御婦人である以上、一度は家庭の人となられるのも結構だろうと申していた次第ですが……御両親にはもうお話しですか」
「……まだでございます」
 云い終るや、伸子は何とも云えない極りわるさに襲われた。彼女は、自分が答えた瞬間に、それが先生にとって案外なものであったこと、同時に、先生の心のうちで、この問題がすっかり初めの重さを失ってしまったことを、直覚したのであった。伸子は、自分のぐうたらな態度のせいで、先生が自身の親切心まで愚弄されたように感じられたら、それこそすまないと思った。彼女は謝罪するように云った。
「本当に筋違いのことで、先生に御心配おかけ申すべきことでないのは、よく承知しておりましたのですけれど……」
「いや、決してそんな御遠慮には及びません。力の及ぶことは何なりお役に立ちましょうが」
 最初とは、明らかに変った微かな気軽ささえ含んで、
「では、何ですな、まだはっきりこうと、実際の計画はお立てでないんですな」
 伸子は、意気地なさを、座に堪えないほど自覚しつつ、ありのまま答えるしかなかった。
「手紙で申上げましたようにしようと、考えてはおりますのです。とても今までのままでは、やっては行けませんから」
「しかし、このまま、ずっとお別れになりきり、と云うわけでもないですな」
「……どうなりますか」
 柚木先生は、
「いや」
と、伸子の方にこごんでいた背を延しながら、云った。
「伺って安心しました。お手紙の様子では大分お苦しみのようだし、御悧発でも御婦人だから、万一ひょっと何事かあってはと、老婆心を起したのですが――そのくらい考える余地をお持ちなら、大丈夫です」
 伸子にとって、これらの言葉は苦しさを増すばかりであった。気でばかり思いつめ、結局実行し得ない優柔不断を、ていよく指摘されたとしか感じられず、情なかった。けれども、柚木先生は、そのような伸子の心持を、まるで心づかないように、次第に快活に話し進めた。
「……あなたの御決心はなかなか健気けなげですが、お若いし、御婦人の身で独立の生活を営もうと云うのは、事実容易ならんことです。御当人はしっかりしておられても、俗世間というものはうるさいものでしてね……御熟考なさるが肝要です。さいわい、立派な御両親がお揃いだから私も安心だが」
 そんな、世馴れた人なら誰でも云うことを、先生からききたくはないのだ。と云う声が激しく自分の内に起るのを、伸子は感じた。それなら、何と云われたいのだろう? あんな佃みたいな奴は、今直ぐ、たった今棄ててしまえ、と云って欲しいのだろうか? それとも、飛んでもないことだ、一生従順な、盲目な妻で過せと、どやしつけられでもしたいのだろうか。結局、自分の心が先生にそうしか云わせないのを知りつつ、伸子は、何か天啓的な一言、心境に大変動を捲き起す霹靂へきれき的な一言を渇き求めた。
「こういうことは、複雑だし、一生の問題ですから、考えて損と云うことは決してない。一朝一夕にはきまらんものです。……また、では、何か私でお役に立つことでもできましたら、御遠慮なくおっしゃい。及ばずながらお力になりましょう」
 絽の羽織を勢いよくねて俥に乗った先生の、きちょうめんな、
「どうぞ御母堂にもよろしく」
と云う挨拶に、丁寧に頭を下げると、伸子は、急に悲しくて堪らなくなって来た。先生の好意も、自分のよい生活に入りたい熱望も、自分から出たずるずるべったりで、取りかえしつかなく滅茶にしてしまった気がした。伸子は、この問題では、もう二度と先生を煩わせなくなったのを感じた。


 七月下旬になって、佃から、帰京する通知があった。この夏は、伸子が動坂にいたので、妻や子供達の留守の毎晩を、佐々は、比較的無聊ぶりょうを感じずに過してきた。彼は二十六日に帰るという佃のハガキを見ると、云った。
「……さて、それでは私は十日ばかりKへ行って来ようかな。お前も、すぐ赤坂へ帰らなけりゃあなるまい」
 伸子は、父の足許で、低い足台フットストールに腰かけ、団扇で蚊遣かやりの煙を、あっちに煽いだりこっちへ靡かせたりしながら、ぼんやり答えた。
「そうね……帰らなけりゃあいけないかしら」
「まだ病院へは、毎日行かなけりゃあならんのかい」
「その方はもう大分いいの、大抵なおりかけ」
「その方はいい、か。じゃあ、他にどっか悪いところがありますか? 貧乏病なら、私が癒してやろうか」
「違うわ」
 父娘は声を揃えて笑った。ふと伸子は寂しそうに呟いた。
「私も、父様と一緒に行っちまおうかしら」
「Kへか? しかし私の方はまだこれでなかなかいつ行けるかわからんよ」
 伸子は、赤坂へ帰るのが、どうもいやであった。部屋部屋の様子や、その裡でまた繰り返される日常生活を想うと、圧せられるような気がした。自分を放さない鉄の機械の間へ、挾まりに戻るようにさえ思われた。佃の着く朝は病院へ行く日なので、伸子は赤坂に戻らないことにきめた。佃は、信州の方を廻って十時過上野に着く予定なのであった。
「こうおし、じゃあ。鈴木がどうせ暇だから、停車場まで迎えに出して、こちらへ来て貰うようにすればいい。夕飯を皆でたべてから、後はお前達二人の都合にすればよかろう」
 例刻に病院から帰ると、玄関の沓脱石くつぬぎいしに、黒革の半靴が、きっちり揃えてあった。伸子には、この艶々した黒靴が、妙に人格を持っているように感じられた。伸子は、感情をもって、自分の草履をその傍に脱いだ。
「おかえり遊ばせ。――佃さんがおいででございます」
 客間へまっすぐ行った。佃はそこにいず、食事部屋の出窓に腰かけていた。上着をぬぎ、カラアをとったワイシャツの姿で、さかんに扇風機に当っていた。彼は伸子を見ると、組んでいた片脚を下して、ついさっき別れて帰った人のように、
「ただ今」
と云った。
「足はどう」
 頸の辺がめっきり日に焼けた彼は、顔に、あらたまった、探るような表情を浮べた。伸子も、同じ真面目な様子で、黙って夫に片手をさし出した。
「暑かったでしょう? あっちは」
「ああ、大阪はずいぶん暑かった。宿屋はよかったけれど」
 伸子は彼の横に並んで腰かけた。佃は、頭を反らせるようにし、しげしげ伸子を見守りながら、低い調子で訊いた。
「どうです?」
 彼女の心はどんな工合かと云う意味なのを、伸子は直ぐ飲みこんだ。伸子は、いちどきにこみ上げてくる情愛と、激しく彼を反撥するものとを感じた。伸子は当惑し、首を曲げて、どちらにでもとれるように唇をまげた。
「――今夜一緒に帰りましょう」
 伸子がはかばかしく返事をしないので、佃は彼女を抱え込むようにして顔を近づけながら、繰り返した。
「ね、帰るでしょう?」
 即答ができないので、伸子は、つけ元気で彼の手を執って、引き立てた。
「――とにかく、まあお風呂でも浴びていらっしゃいな――さっぱりなさらないでしょう?」
 浴衣を出して、佃を風呂場へやった。伸子はその間に、自分も着かえをし、さっぱりと髪に刷毛までかけて来た彼と、向い合って、矢車草の大盛花のある客間で、冷たいものを飲んだ。伸子は、簡単に、彼の留守中あったことなどを話した。が、彼女は、その間じゅう、自分が佃に対して変ったものになったという意識で攻められた。もと、二十日も旅行して来た彼を、自分はどんな大喜びで歓迎しただろう。彼女は、喜んで、喋って喋って、うるさいほどつきまとわずにはいられなかった。姿の見えないところから、彼女の声をきいただけで、もう嬉しさで有頂天な伸子の心が見徹せただろうほど、単純で、混りけなかった。今、自分がそうでないのが、伸子自身、よくわかって悲しいほどであった。分裂したようで心が統一して働かず、夫の、親しい者のような、あかの他人のような顔を見ると、安心して可愛がられてよいのか、憎んでよいのか、決心のつかない気まずさに捕われた。佃も同様の感じで、本当の調子になれないのを、伸子は心づいた。奇怪なことに、彼の顔を見ず、窓のそとの青葉でも眺めながら喋ると、話はなだらかにいった。ふと眼がかち合うと、疑いに満ち、相対峙あいたいじして譲らない二つの心が、稲妻のように閃き、角力すまおうとするのを、互に鋭く感じる。そんな瞬間、言葉は空虚に感じられて恥しい。二人は自然黙りがちになった。佃は、歎息するように呟いた。
「――旅行でもして来たら、君の心持もそのあいだに変るかと、楽しみにしていたんだが……何にもならなかった」
「ね」
 泣き出しそうになって、伸子が云った。
「自分だっていやよ、こんなの――本当にいや!……でも、どうにも仕方がない。――あなた、御自分にわかる? あなたが、どんなに可愛くて、憎らしい、憎らしい人だか」
 伸子は「にくらしーい」と、節のつくほど力をこめて云って、涙を落した。
 三時頃、親戚に泊りがけで行っていた祖母が帰って来た。程なく父も帰った。彼らはやっと救われた。父はアイスクリームの瓶を、伸子に振って見せた。
「ほーら! いいだろう? 佃君歓迎の意を表してね」
 椅子から立って、挨拶した佃に向って、彼は愛嬌よくつづけた。
「ホテルででも晩食をやろうかと思ったが、考えて見ると、君はずっと洋食攻めだったろうと思ってね。まあ今夜は一つ、あぐらでくつろいだ方が却ってよかろう」
 食卓で、父と佃とはいろいろの関西の都会について話した。祖母は、息子や孫夫婦にかこまれて、至極満悦に見えた。彼女は突然、
「あなた、御影へおいでんなったかい?」
などと佃に訊いた。
「あすこはいいところだない。知ってる者があって、五十日も厄介になっていたが、つい近くに、えー、何ちゅう名だったか――なかに髪結の店まである温泉があってない――省三、お前覚えないごんだか?」
「温泉と云えば……お父様、近くでどこかいい温泉は御承知ありませんか」
 食事が終る頃に、佃が訊ねた。
「ありふれたところでは、箱根や伊豆だが」
 佐々は奥羽地方の温泉を、二三挙げた。
「おでかけですか?」
 佃は曖昧に答えた。
「ええ……考えて来たことがあるもんで……もし、貧乏書生の懐にかなうところでもありましたら、ちょっと出かけようかと思います」
 雑談だと思って聞いていた伸子は、思わず注意をこらして佃を見た。佃は、どこまでも、顔さえ父の方にだけ向け、父との話にして云った。
「どうせ旅行しついでですから、十日ばかり行けたら行きたいと思って来たのです」
「ほほう! それはいい計画だ。君の体にだって有益ですよ、是非いらっしゃい。温泉はいい」
 父一流の耳学問の広さで、温泉による天然療法の価値を論じた。
 伸子は、思いがけなさや、佃がなぜ、直接自分に云ってくれないかと云う疑問など感じたが、次第次第にそれらを忘れて、嬉しくなって来た。伸子は性来、旅行ずきであった。結婚する前は、おとよさんと、範囲は狭いが、よく出かけた。温泉も一つ二つは知っていた。佃と生活するようになってからは、彼の職業の関係と気質から、三日四日の小旅行もしなかった。夏、佃の生家へ行ったぎりであった。そんなのは、大勢の家族のうちにはいり、違った周囲で、東京にいると同じ生活の反復にすぎなかった。
 本当に温泉へ行くと云うなら、それは伸子にとって、初めての旅行らしい旅行なのであった。宿屋に二人ぎりで暮すこと、それも彼女の空想を輝かせた。父の云いぐさではないが、山々や、温泉の空気や、晴れやかな朝の目覚めが活溌にする細胞の作用で、二人の苦情が、ちょっと喧嘩すれば綺麗に忘られるような奇蹟でも起ったら、何と素晴らしいことだろう。どんなに仕合せなことであろう! 佃も同じ考えなのだろうと、伸子はおどろきと悦びとをもって推定した。彼女は心を打ち開いた調子で、アイスクリームをたべている夫に云った。
「――本当なの? そのお話」
「行きますか?」
「ええ、行ってよ!」
「じゃあ、早速電報で問い合せて見ましょう」
 佃は、事務的な口調でききかえした。
「しかし――もう行っていいですか、病院はやめていいかどうか」
 伸子は、それで中止されては大変という勢いでさえぎった。
「もちろん大丈夫よ。でも、明日念のためによく伺ってくるわ。――大丈夫にきまっているから行きましょうよ、ね、やめないでね」


 正面には清澄な空気をつんざいて、噴火山が濃い小豆あずき色に聳え立っていた。頂の煙が、揺がず立ち昇っている。煙草畑、矮樹林わいじゅりん、そうかと思うと、また煙草畑。勾配が急になるにつれ、左右に青木ヶ原の爽快な地平線の眺めが、数十里の彼方まで拡がった。伸子らの自動車は、底力のこもった爆音をたてながら、ひた押しに登って行く。午前五時の露っぽい空気を裂いて疾走するので、太陽は上っているが、伸子の頬や唇がひやひやで、こわばるようであった。
 橋を一つ渡る。くの字形に崖に挾まれた急坂を登りきると、行手に古風な温泉町が現れた。坂沿いの両側に、宿屋と土産物を売る店とが軒を連ねていた。道の真中に白く湯気の立つ溝があり、高く湯の香があたりに漂っていた。自動車が軒下をすれすれに通り過ぎる、どの宿屋でも、もう寝ている客など一人も無く、活気づいていた。からりと明け放した手摺てすりに浴衣を干して、部屋にはいっぱい朝日がさしこんでいるところ。着いたばかりの客が洋傘を顎の下にかって、彼らの自動車を目送する様子。土産物屋の店頭に、粗末な赤や緑で塗った刳物くりものが並んでいる。それも田舎っぽく、陽気な湯町の朝景色であった。伸子は気のりがして、部屋の無いことも大して苦にしなかった。その年は、夏休みじゅう特別なこみかたで、伸子らが着いた時でさえ、吉田屋の店先には、二十人ばかり溢れた新来者がいる有様であった。彼らは一晩、吉田屋の番頭の家で過した。吉田屋の筋向うにある土産物屋の一つで、表で商いをし、二階をそうやって夏場の溢れ客のために使っていた。岡持を下げた吉田屋の若い者が、朱塗の膳など運ぶのが見えた。彼女らは、そこにさえ場所がなく、店の直ぐ裏の座敷に置かれた。納戸の暗いところに、桃色の兵児帯へこおびが見えた。夜、こちらの電燈を消したら、店の灯で、刳物の茄子なすの影が障子に映った。
 やっと明いた部屋も、本来は小林区しょうりんくの役宅の一部であった。
「でもいいことよ、却って静かでいいわ、山家やまが住居で……」
 八畳と六畳とある。八畳の方が彼らの室になった。六畳は見晴しがある代り、直ぐ堤下が道路で、絶えず通る浴客から部屋の内部が見透しであった。八畳の方は、細長い空地越しに役宅の主屋と向い合い、左手は熊笹の茂った断崖であった。そこに、田舎の温泉場らしく湯のかけいが通っていた。熊笹の間には、龍胆りんどうの花が山気に濡れながら咲いていた。――
 高原的な緑木のざわめき、軽快な空気。自動車で来る路々も、伸子はほとんど官能的な解放を味った。自然には、人間を元気づける元素が、特別多いようであった。伸子は、ひとりでに活溌になりたい欲望を強く感じた。彼女は、自分で注意深く、その快活さの量が増すのを、計っているようなところがあった。だんだん、だんだん、この元気が溢れたら、夫と自分との間に横たわるいろいろな塵が、或は流されてしまうかもしれない。……もう少し……もう少し……。彼女が佃に、
「ね、そんな詰らなそうな顔してないで、これでもしましょう、ね」
とトランプを出す時、または、
「ちょっと! こんな花があってよ」
と呼びかける時、伸子は大抵、内心で、その快活メートルの下降を予想している時であった。けれども、佃は、伸子のそんな誘いには、温泉場へ来ても家にいるとき同様、なかなかのって来なかった。爪をりながら、伸子の云ったこととは違う返答、
「――到頭今年の夏は何もできなかったなあ」
などと呟いた。
「何か予定がおありんなったの?」
「自分の時間と云うものは夏休みしかないんだから、むろん、したいことはいくらもありましたよ」
 散歩して、見晴し台へ行って見ると、射的場の前に、若者が群って笑い興じていた。自然石の涼台に晴れやかな様子で一組の夫婦が前の広場で追っかけっこしている子供を見ている。ぞろぞろ、伸子らの前後を通りぬけて、芝生の間の径を、遠い遊園地の方へ行く人々。皆が心軽げで、自然のひろさと、そこに小さい人間の雑沓ざっとうを、気やすく楽しんでいるように見えた。伸子も、そういう人々に混って歩いていると、心が、単純に悦ぼう、悦ぼうと弾むのを覚えた。そして実際、彼女は射的場でキルク玉を打ち放つほど罪ない心持にもなるのであったが、それはやはり一時のことにすぎなかった。
 部屋にかえって夫とさし向いになると、気重さが彼女に迫ってきた。大勢の人中にいる方が凌ぎよい。戸外の明るさの中にあっても、彼らは互に今溶けあったいい心持でいるかと思うと、忽ち離れ離れになった互を感じ、寂しい切ない思いを感じ合った。何とも云えない焦々しさが、そのようなとき、伸子を苦しめた。彼女ははしゃいだり、佃に意地わるい小言を云ったりした。

 ある朝、風呂から出て来ると、佃が縁側に出て庭に立っている女中と話していた。
「じゃ、日帰りできるね」
「ええゆっくりでございますよ、少し早めにお出かけんなれば」
「――どういう風に行くのかね、ここからだと――殺生石せっしょうせきの横から上るのかしら」
「そうです。あそこにちょっと急なところがございますが、直ぐ本道へ出ます――大勢さんおいでですから、そこまでいらっしゃれば、自然と頂上までお登れなさいますですよ」
「どこ?」
「折角来たんだから那須へ登りたいと思って」
 朝飯を食べながら佃は伸子に云った。
「君はどうせ駄目でしょう――待っていてくれますか」
「そうね――待ってたっていいけれど……」
 一日ぽつねんとしていることを思うと、気が進まなかった。
「何里あるの――行けたら私も行きたいわ」
「上下三里ばかりだそうだが、ずっと登りつづけだから――どうかな――」
「行くわ、じゃあ。ぽっつりここにいるより行った方がまし」
 佃は迷惑そうであったが、伸子は膳を下げに来た女中に草履とゆわいつけの紐を頼んだ。
 起きた時分には靄があったが、八時過ぎると素晴らしい天気になった。樹間の山道から本道へ出た登山路はすっかり開けていた。女連れや子供づれの湯治客が、暢気のんきに熊笹の間を縫って行くばかりではない。二間半ほどの道の一方によせて、トロッコの軌道が敷けていた。
「まあ、ずっと上まであるのね、何が通るんでしょう」
 十五ばかりの少年をつれ、中歯を穿いた男が、伸子らの横を歩いていたが、
「よく開けたもんですなあ。このトロッコで硫黄を麓の工場まで降すんです――よほどの産額になるらしいですよ」
と、それをききつけて云った。
 登るにつれて、背の高い樹木が減った。日光が暑くなったので、伸子は洋傘をさした。笹の繁った山腹、キラキラ碧い夏空の下で、たった一点赤い自分の洋傘の色は、どんなに活々美しく見えるだろう。伸子は、子供らしい物珍しさで亢奮した。風景も、湯本までの自動車から眺めたより、この辺はずっと雄大であった。紆曲うねりの緩やかな笹山が、目路めじを遮る何ものもなく、波うちつづく。遙か遙か下界に、八月の熱気でぼーっと、水色がかった真珠色に霞んだ地平が見晴せた。道の工合で前に行く人の姿は見えず、時々話声だけ聞える。その人声が、山路の明るい静寂の深さを感じさせた。
 彼らは大丸という、山の裾の温泉で昼飯を食べた。どんどん、川になって流れる野天の温泉の巌の間に、大勢の男女が裸で入っていた。絵のような光景であった。
 そこからあたりの景色が一変し、火山道になった。笹のところどころに、真白くさらされた枯木の骨が無残に中折したまま、ぎざぎざ突立っていた。路端の僅かな平地に、硫黄採取人夫の掘立小舎があったりして、いかにも工業山の雰囲気であった。伸子は大丸を出る時、娘づれの親切な紳士に貰った杖を突いて、手間どって登った。やっと頂上が見えた。その前にもう一つ急な攀上よじのぼりがある。伸子は汗だくだくになって、その手前で立ち止った。
「ちょっと休ませて!」
 佃も、大丸に着く前から上着を脱いでしまっていた。それでもびっしょり汗が滲んだ。
「日かげがないからひどいのよ、あ、涼しい風!」
 いい心持で風に当っているうちに、伸子はだんだん、噴火の音が気になり出した。硫黄運びのトロッコも、頂上近くでは山腹の彼方側を下りると見え、登山道の上にも下にも、人間の姿がなかった。焼土ばかりのところを、蜒々えんえんただ一筋の細道が三斗小舎の方角に消えている淋しい行手。下の遠い山並。それらはじっと午後二時の太陽に照りつけられている。石ころの転がる音もしないところへ、巨大なふいごうを吹くような、噴火口の唸りだけが聴える。音は強くも弱くもならず、のそのそしていると、ハタとその唸りが止んで、山じゅう爆発でもしそうな恐怖を伸子に与えた。
「行きましょうじゃあないの」
「うむ」
 道の嶮しさ、自然から受ける威圧。二人は黙って、一気に坂をえた。
「やっと来た! よく我慢しましたね。私は、きっと中途で引きかえすことになるんだろうと覚悟していた」
「登りかければどうにかして登るわ」
 噴火口は、頂上の横穴のようなところにあった。灼熱した硫黄が、燃え立つラバとなってそこから流れ出している。その焔色の周囲に、冷却した部分が、世にも鮮やかな黄色の鐘乳石のように凝固している。限りない盛夏の碧空、その硫黄の色、強烈な配色であった。硫黄採りの男が数十人、ある不安に黙りこませられたように、真面目に働いているのが、荒涼として長い山の斜面に見えた。
 往きの半分の時間もかからず、彼らは峠の小休茶屋まで還った。
「あら、店をしまったのね、休みたかったのに」
「天気がわるくなったからでしょう、まあ、ずっと帰ろう」
 霧が深くこめて来て、自分達が降りて来たばかりの山巓を振り返っても、もう見えなくなった。
「下は雨でしょうか」
「さあ……風があるから大丈夫だと思うが」
 下りの勢いで、歩調を揃えとんとん下りてくるうちに、ポツリと顔に当るものがあった。
「……降り出してよ」
「夕立でしょう」
 ポツリ、ポツリ、だんだん雨粒が繁くなって来た。伸子は赤い傘をひろげた。
 高い山を覆う雨は、一町ぐらいで上と下との雨量がまるで違った。半分ばかり下りて来ると、もうその辺は大雨であった。赭土道が泥濘になっていた。雷が鳴り、笹の中から亡霊的に突立っている白い死木に稲妻がひろく閃く。伸子はぞっとした。
「この方が早く歩けていい」
 佃は伸子の腕を自分の腕にかけさせた。
「もうじきだから、大丸で雨やどりして行きましょうね」
 伸子の紅い日傘など、何の役にも立たなかった。透綾すきやの着物が肌まで濡れ徹った。水を吸い込んだ草履が重くふやけ、ビシャッ、ビシャッと、伸子の足の下で泥を跳ね上げた。
「やまなくてよ、これは――雲がどこも切れていないんですもの――本当に、ちょっと大丸によって行きましょう」
「…………」
 佃は歩調を速めた。伸子は小走りになって彼に調子を合せながら、また云った。
「雷が、私閉口よ、全く。――おいや? よるの」
「大丈夫ですよ、雷は遠いもの」
「……でも、私本当にちょっとやすみたいのよ、気持が悪いから」
 大丸へ曲る林の横に出た。伸子は、佃の腕を引いて立ち止った。
「どうしてもいや?」
「まっすぐ行きましょう、ね、休んだってつまらない」
「混んでいるから?」
 佃は曖昧に鼻を鳴らした。
「とにかく――さ、歩きましょう」
 こんなに体まで濡れ透ったのに、なぜ大丸で雨宿りぐらいしてはいけないのか、伸子に夫の心持が分らなかった。彼女は、わけも云わず無理にそうされるので、なお不満であった。金の持ち合せがないのではなかった。……
 大丸を過ぎると、先が白く重吹しぶいて見えないほどの大雷雨であった。山じゅうの笹を横なぐりにしてどっと吹き降るので、傘がパラシウトのように風を孕んで、伸子を体ごと吊り上げそうにした。ある角でひょいと石に爪先を取られたはずみに、伸子は惰力で、はっと思う間に両膝ついて転んだ。腕をつないでいた佃も、釣られて中心を失った。立ち直ろうとして、彼は伸子の背中に片足突きかけて飛び越し、辛うじて膝をつかずにすんだ。
 伸子は一里半の山路をずぶ濡れで下った。

 山には秋が早く来て、夏の終りらしい豪雨がその日から屡々あった。
「ほう! こりゃあしどい!」
 合羽かっぱをかぶって、番頭が飛び込んで来た。
「――……どうも近年にない荒れでございますね、全く番頭泣かせです」
 下の川が水嵩を増し、凄じい響で流れた。昼頃から雨を衝いて、頻りに人声が右往左往した。縁側の雨戸のすきから覗くと、蓑をつけた人足が瀬の勢いで上から流れてくる石をよけに働いていた。
 大雨に暗く降りこめられるのも、伸子にとっては変ったおもむきであった。雨戸一重うらの崖で、熊笹に雨の飛沫しぶく音がした。量の殖えた温泉がごくごくむせんで筧を走る音。雨の中に、湯の香がいつもより強くただよった。子供の時分、夏の嵐を踏台に乗って、無双窓から熱心に眺めた伸子は、懐しくそんなことを思い出したりした。
 佃はそのような一日、物懶げに財布を出して、机のところで銭勘定をしたり、昼寝をしたりした。伸子は、
「何かして遊びましょうよ」
と夫をうながした。
「折角楽しみに来たんだから、まあできるだけ愉快にした方がいいわ」
 すると、佃は咎めるような眼付で伸子を眺め、ききかえした。
「――ただ楽しむためにだけ、来たんですか」
 思わず眼が喰い合った。伸子は鈍い恐怖めいたものを心臓に感じた。
「どうして?――ちがうの?」
「私は、あなたの足のためにいいだろうと思ったから来たんです」
 伸子は、自分達の間に危いながら燃えていた蝋燭の灯が、フッと吹き消されたような寂しい心持がした。
「それで、こないだも、大丸へよったりしちゃいけなかったの?」
 佃は、しかし黙り込んで、それには答えなかった。
 そのような感情の齟齬そごが、帰るまで、遂に彼らの間から消えなかった。七日いて、彼らは謂わば喧嘩別れのように、佃は東京へ、伸子はKへと、別々に立った。
 佃の黒い制服の肩を窓から見せ、汽車が動いた。自分の乗っている汽車も動いて、互に反対の方へ行く。――伸子は、再び帰ることのないところへ向って動き出したような心持であった。



 広い蚊帳の中で、寝ながら伸子は、ぽつり、ぽつり、母と話していた。あたりには、涼しい田舎の夏の闇があった。
「――だからこれで、夫婦なんていうものはむずかしいものさね……」
 ゆっくりした多計代の声が、高い天井の方からのように響いた。
「性質が違いすぎてもいけないし、さりとて、勝気同士では丸く行かないのはあたりまえだし。――お前なんぞは、はたで見ていると、どうしても自分より弱い、卑屈なようなところのある者を選ぶかたむきだね」
 伸子は枕の上で仰向き、眼をあいたまま、組合せた手を頭の下にやっていた。
「――そうかしら――私、自分が弱いと思ってよ、例えば佃とのことにしろね、私が、もっと図太く腹を据え切って、あのひとをコントロウルできれば、状態は変るのよ。――あのひとは芯の極く強い――何か、とにかく私の手には負えないところがあるわ」
「そりゃ世間を見ているもの、……お前をどう動かすくらいのことは、ちゃんと心得ているさ」
「私には、底の知れている体裁のいいものを、表面でやりとりして置いて、その間に、ぐんぐんこちらをのして行くというようなことができないんでね。真正面でない心の関係は、私に持ち切れない。それなら、一刀両断な処置をするかといえば、またそうもできず……勝気などころじゃないわ」
「人によって違うもんだね」
 多計代は、俄に力をこめた声を出した。
「私なんかだったら、一思いに、思い切っちゃうね、自分を真から愛してくれもしないような者に引きずられて行くなんて、考えただけだって堪らないことだ」
 伸子には、佃に、自分に対する微塵の愛もないとは思えなかった。彼としての関心は、――少くとも男が自分の妻になっている女に対して抱くだけの心持は伸子に対してもあった。――それが判っていて、自分がその人情にやすんじられないから、伸子は悲しく苦しいのであった。
「だって――それじゃあ自分の心持はどうするの、相手が本当に愛さない、それなら、って自分の愛が急に消え切る? そう都合よく片づかないから、切ない思いをするんじゃあないの。つまり云えば誰だって相手の愛を苦しむんじゃあなくて、自分の心にある愛を苦しむ方が多いんだわ」
「じゃあお前――まだ佃を愛しているの?」
 隙間風のような寂しさが伸子の心を通った。世間の、一度結婚してそれが破れ、親の家に戻った娘が一人残さず経験するだろう憂愁の源が、母親の単純な質問の中にあった。
 伸子は、ほどたってから云った。
「私にはね、どうしても、普通の結婚生活がやって行けないからって、残っている好意や愛まで打殺さなけりゃならないわけは決してない気がするの。何もこれまでの夫婦がそうだったからって、真似をするには及ばないんですものね、組立てるにだって、ほぐすにだって、めいめいのやり方ってものがあっていいわ」
「佃という人にそんなことは解らないよ、――初めっからお前――目的が違うんだもの」
「それならそれでいいのよ、私と生活して何かいいことがあったんなら、私それで満足よ。だから、別々になればどうこうと自棄やけみたいなことを云ってさえくれなければね。――私自棄ほど嫌いなものはないわ、世の中に自分がそんな外道人間を一人作るのかと思うと、ぞっとして、勇気も何も失ってしまうのよ」
「…………」
 かすかに、多計代の起き上るけはいが闇の中でした。伸子は、頭を母の方に向けた。
「なんなの?」
「いいえね、少し涼しすぎるようだから羽根蒲団をかけようかと思って――お前はどう? それでいいかい?」
 伸子は、麻の小夜着こよぎをかけた胸をたたいた。
「大丈夫よ」
 多計代は、
「田舎はこれだけ違うんだねえ」
 年よりらしく呟きながら、また寝た様子だったが、いきなり思い出したように声高く云った。
「なあに、どっちみち心配するこたあありゃしないよ」
「なにが?」
「あのひとの云うことさ」
「どういう意味で?」
「だってわかっているじゃあないか。死になんぞする人ではありませんよ。そんな若々しい馬鹿ではないよ」
「――そう高はくくれないわ」
「じゃあ、見ていて御覧!」
 多計代は、嬉しそうな、挑むような声を出した。
「もし本当にそんな人だったら、私はあのひとを見あげるよ。どんなにでもして私の不明を謝そう」
 ――伸子は、いやな心持になって黙った。つい本気になっていろいろ話した自分の浅墓さが不快になった。一人の人間の、生き死にを、このようにして話すのは恐ろしいことだ。伸子は、小夜着を顎の下まで引きあげて寝がえりをうった。多計代は、伸子が眠たくなったのだと思ったらしく、
「――そろそろ寝ようかね」
欠伸あくびまじりに呟いた。
「空気がいいせいと見えて、こっちへ来たら不眠なんぞすっかり忘れたようになってしまったよ」
「…………」
「じゃあ、おやすみ」
「――おやすみなさい」
 十分もしないうちに、母の苦のなさそうな平らかな寝息が聞え始めた。多計代は、伸子が久しぶりで自分と数日暮していることで満足しきっているように見えた。伸子がどんな心持で来ていようとも。伸子は、目をあいたなり、ただ一つの細い寝息をじっと聴いていた。その音に引かれ、洪水のような周囲の闇や先刻からの渋い気持が、規則正しくさしたり退いたりするようだ。彼女は、そっと寝床を出た。蚊帳の裾が、涼しい籐の敷物の上に落ちて重い音を立てた。
 廊下を行くと、燐光のような月の光が、閉め連ねた障子の面に照っていた。伸子は、雨戸に切りはめた硝子窓に、顔を押しつけて外を見た。庭じゅうに月がさしている。その中を歩いたら髪に燦く液体がねばりつきもしそうな光波につつまれ、円い躑躅つつじ檜葉ひばがくっきりと黒い影をしたがえて鎮まりかえっている。樹や芝生が夢幻的に、生あるもののように思えた。この月夜には、人間の霊魂も遠くたやすく伝わりそうだ。何百里も離れたところで、妻である女とその母とが、あんな会話をした。それがこの夜、もし佃の魂へ響いて行ったら、彼はどんな心地に打たれるであろう。
 伸子はむきになって、二三度、力いっぱい月光の漲る硝子の面をこすった。雨戸を抜け、月光の浸った夜気の中へうかみ出して行く魂の波動を、いそいでごちゃまぜにして、遮り止めようとでもするように。


 十月になって、伸子は東京へ帰った。一月半ばかり前、佃と那須へ行くに同じ線を北に向った時分と、風景はすっかり違った。一面秋であった。
 上野の構内に列車が入ると、赤帽を呼ぶために、伸子は早くから窓をあけ、プラットフォームを見ていた。発車する汽車が向う側に入っていて、その方の見送りや貨物の積込みやで雑沓する中に、数人の出迎え人が、今停車しようとするこちらの客車一つ一つに注目して佇んでいた。その群の中に、伸子は思いがけない横顔を認めた気がした。佃そっくりの、外套を着て山高をかぶった男が、人待ち顔に立っている。彼女の着く時間は手紙で知らしてあった。伸子は、体じゅう、ぽっと熱くなったほど感情を動かされた。彼が来てくれたのだろうか? 彼だろうか? 彼が来てくれるとは思いがけない! 伸子は一層窓からのり出した。彼女は、その佃らしい横顔に向って、合図のつもりで手を振った。が、伸子の目的の人の注意は引かず、赤帽が、まだ惰力で辷っている列車の窓下に駈けつけて来た。
「何箇です? これだけですか」
 伸子は、声の届かないところに佇んでいる、その人影を見失うまいとその方に気をとられながら、トランクを渡した。
「何番?」
「二十八番」
 足早に、伸子はその人が立っている柱のところまで進んだ。いよいよ夫かと思った時、ひどく動悸がし、口をしゃんと結んでいられないほどであった。礼の言葉をもどかしく制し、一直線に三尺ばかりの距離まで来て、改めてその顔を見なおすと彼女は、変な、泣笑いのような皺を口に漂わし、ふいとわきにれた。
 佃ではなかった。――
 改札口まで、今度はゆっくりコンクリートの上を歩きながら、伸子は、あんなに迎えられて帰る人は、何という幸福だろうとしみじみ思った。考えてみれば、夫が迎えに出ていてくれようなどと空想したのが、そもそも間違いであった。彼は、伸子が東京からどこへか行ったり帰ったりする時、決してステイションまででも、来たことはない人であった。その上、歓んで迎えてくれと要求もされない心持であった。去年の初夏、同じ田舎から、同じようにして帰って来た。その時と感情は全然違っていた。それは、伸子によくわかっていた。今度、伸子が帰って来たのは、どうして夫婦の関係を立てなおそうかと思うより、その関係を、最も合理的にかえるには、どうしたらよかろうという考えに押されてであった。互の運命に対する恐れも深くあった。特に佃の側に対して。どんなに救いがたいものとなってはいても、伸子は、夫との絆にまだ愛があった。他人にその始末をつけてもらおうとは、絶対に思えなかった。せめて自分達の意志と、後に悔ない必然とで、破れるものなら破りたい。そういう心持なのであった。そんなはずはないと心得ていながら、俥の梶棒があがる時、伸子はもう一遍、水のまかれた日光のささない三和土たたきの上で、小荷物運搬の手押車をよけよけかたまっているまだら[#ルビの「まだら」はママ]な群集の中を物色した。佃そっくりの横顔を持った男は、もうその辺に見えなかった。
 伸子が帰って間もなく、二日休みの日があった。
 伸子は、縁側に座蒲団を持ち出していた。秋晴であった。つくばいの横に、先住の人の置いて行った薔薇が、小さい鮭肉色サモンカラアの花を、二輪つけていた。薔薇の木の後は古い竹垣で、その裏に、更に古びた隣家の羽目が高く見えた。羽目は黒いが、永年の風雨に荒廃し、黒さも薄墨色にぼんやりしたところへ、緑っぽく細かいかびが、蛾のはねの粉を撒いたように滲みついていた。その背景の地色の前に黄がかった二輪の薔薇は、鮮かに美しく見えた。艶ある濃い臙脂えんじほそい枝の線、夜の霧に蝕まれはじめた葉の色。荒廃した黒い羽目に、これより優れた飾りはなく、秋の薔薇の花にとってもこの調和に優る周囲はないと、思われた。
 伸子は、快感をもって一隅の詩情を味った。世の中の美しい人達は、なぜこのような裾模様を着ようと、思いつかないのであろう。立派な衣裳と云うのは、このように、計らず印象にのこされる自然の完成した美を、とり入れたものではあるまいか。
 すると、その時、あちら向きになって、一本の松の樹の下を掃いていた佃が、伸子の方を顧みた。
「どうです? 面白い?」
「これ」
 伸子は、薔薇から目を放し、さっきから片手に持ったなりでいた本をあげた。
「――冒険物語よ……春浪みたいな書き出しだわ」
「でも、古い人でしょう、その著者は……」
「古いことは古いらしいわね――」
 伸子は、緒言のところをひるがえした。
「四世紀頃ですって」
「ふうむ……」
 佃は、それはそれで打ち切り、十坪ばかりの庭の庭石の真央まんなかに立って、あちらこちらを見まわした。彼は何か見つけ、不興げな表情でつくばいのそばへ行った。
「仕様がないな――またこんな足跡をつけている」
 彼は、スリッパアの古いのをはいた片足で、ぺたぺたと一箇所を踏みつけた。
「とよ! とよ!」
 木戸から、とよが首をのばして、
「お呼びになりましたか」
と云った。
「――お前今朝、下駄でここを踏んだかい?」
「……さあ」
 とよは、縁側にいる伸子の方にながしめをし、困却したように、佃の踏んでいる場所へ目を落した。
「めちゃめちゃに歩かないでくれ、私ばかり、一生懸命に掃除しているんじゃないか」
「はい」
「――花鋏をもって来てくれ」
 鋏を受取りながらも、佃は念を入れて、足跡のことを繰り返した。伸子は、そばにいて、妙な極り悪さを感じた。自分達夫婦の、さっぱりしないいきさつの飛沫とばちりを、女中が受けているように思えた。
 花鋏で、佃は、折れて枯れたまま下っていた松の小枝を剪ってから、薔薇の下のところへ来た。八つ手の下を潜って、横手から、彼は、咲かずに萎れた蕾をみ始めた。伸子は黙って見ていた。佃は、だんだん鋏を入れ、伸子が、さっきから心をひかれて眺めていた、二輪の、半開の花をも剪ろうとした。
「あ、それはやめて下さらない。綺麗だから」
「こうやって置いてもじき駄目になりますよ。剪ってさしたらいいでしょう」
「でも、剪っちゃ、まわりの様子が違ってしまうから――いいんでしょう? そうして置いたって」
 佃は、捕えたその枝を放さず、云った。
「永く花を置くと幹が痛むから剪ろうと思うだけですよ」
 伸子は、言葉に出すと気障きざなようで、その二輪の黄がかった鮭肉色の薔薇が、その背景あってこそどのように風情に富んでいるか説明できなかった。
「本当に、そうやって咲いているといいのに!」
「じゃあ止めましょう――do as you please.」
 ふてた顔で再び八つ手の下を潜って出てきながら呟いた。
「――こんな花! もっともっと綺麗だった時には見る人もなかった」
 この木いっぱいに薔薇が花をつけていた頃、三十日も前になるだろう、彼女は田舎にいて、夜毎に耳だつ広い虫の音と、黄色くなって来る庭の芝を見て暮していた。その間の気持や、今自分達二人が、透明に秋陽のさす庭で、薔薇を剪る剪らぬと云い縺れている心持。烈しく愛し合っていた筈の二つの心が連絡を失い、ただ、離れ切れない消極の力だけにかれて、互に牽きつ牽かれつしている状態が、切なく伸子に迫った。これから何年か経った後のある秋晴の日、偶然今日の些細なこの情景が、記憶の底から浮び上ることがあったら、縁側にこうやって坐っていた自分、庭にいる佃の姿、美しかった二輪の薔薇は、何を自分に語るだろう。
 翌朝、黎明に、伸子は硝子戸から庭をすかして見た。薔薇は露に濡れ、うなだれながら、色鮮かに、昨日と変らず咲いている。その無心な鮮かさ、浄らかさが、異様に伸子の心をいたませた。彼女は眼をそらすようにして通り過ぎた。


 夜の八時。スミルノフが、ハフィズの詩を音読していた。後について、佃が抑揚を注意しながら、一節ずつ読んで行く。――喉音の多い、単調な二つの男の声は、あたりの空気を重く感じさせた。
 スミルノフが低い声で何か云うのに対して、佃が、せわしなく、重ねて、
「yes. yes.」
と答える声も聞えた。――総てそれらは悩ましい。伸子は、部屋の中を、あちらこちら動き出した。
 帰っていくらも経っていないのに、伸子は、数日来、一種情熱の足りない自己嫌悪に陥っていた。
 今度かえって、伸子は、夫がもう自分をなみの女として扱えなくなったのを知った。持てあまし、要点が捕えられず、恐れるべきなのか、憐れむべきなのか、とにかく触らぬ神にたたりなし、そう、きめた風に感じられた。田舎にいた間のことについては、伸子の方のことも訊かないと同時に、佃は自分の方の生活についても一切話さなかった。
「帰ってさえ来れば、いつでもウェルカム・ホームですよ。ベイビ」
 しかし、本当の嬰児あかごのように、無垢ではない。伸子は女で、彼の妻であった。彼らの間では、夫婦関係も、自然さを失っていた。家族主義的な希望もなければ、原始的な慾望の燃え上りから生ずる浄らかな力も欠けた。佃の、何だか恩恵的な、ある時にはそういう行為さえ、伸子のためと云いたげな感情を感じるのは、伸子にとって苦しく、屈辱であった。彼女は、ひとりでに満ち溢れて来る自分の、若い、溌剌として愛撫されたい慾望さえ、そんな時は憎く、口惜しく、悲しかった。二度と還らない若さにまで、不合理な恥辱を感じさせる夫を恨んで泣いた。二人の関係が、悪いのだ、間違ってしまっているのだ。伸子には、そうとしか思えなかった。一人一人離れて見れば、大して悪い者でもなく、惨酷なものでもない人間同士も、ある関係の下に置かれると、別人になる。――何よりそこを正すべきなのは彼女自身知りすぎていた。
 田舎から帰る決心をした時、伸子は、自分が佃のことを考えていると思っていた。最上の解決を得たい、徒らに生活を破りたくない、よい動機で、帰るように思った。ところが、自重するばかりではないらしい不決断で、毎日を消している自分を顧みると、伸子はこうやって歩きまわらずにいられなくなるのだ。
 佃は、彼一流の忍耐と狡さから、形式上、昨日のことは昨日のことと、しようとしているのは明らかであった。これで行くなら、まあそれでよい、そう云う考え。自分は自分で、知らず知らずそこにつけ込んでいるのではないかという気がして来た。彼を攻めつつ、結局、勇気の足りない自分を預けているのではないか。
 伸子は、よくあるように、ほかに新たな恋人ができたので、やっと境遇を更えた、しかし、ある男の妻である点では以前の反覆に過ぎない、男から男へ移ったというだけのような生活法には、疑いがあった。彼女は、佃と誰かを比較して、結婚生活がいやというのではなかった。相互の性格によっていろいろ生じる不都合と、ならびに、結婚生活のしきたりとでも云うか、一般男女間に通用している生活内容の感じかた、生かしかたに、納得ゆかぬ数々を見出しているのであった。佃は、伸子にとって最初の夫であった。そして、恐らく最後の夫となるらしかった。伸子自身、もっと違った女に生れかわるか、或は一般の性生活の常識が、ある点変化でもして、もっと無理なく、ならなければ。つまり、伸子にとって、佃と夫婦生活がやって行けないのは、ただ対手が佃だからと云うだけの理由ではないのであった。面倒に云えば、佃という男、自分と彼との結合生活に導き入れられた、彼女に辛抱ならぬ中流的な精神や感情の不活溌さ、貧弱な偽善、結局は恩給証と引きかえになるのが楽しみらしいいわゆる仕事の態度、それらと、とてもうまく調子を合せて行けない自分を見出したということになるのであった。それ故、伸子は佃に対して、混りけのない一面の気の毒さがあった。彼だけこの世でそういう生活を欲し、無批判なのではないから。彼女は、自分の欲するそのものが彼にもいると信じて、彼に結びついた、がむしゃらな熱情を詫びることはできた。しかし、一人の人として伸子は疚しさなく、自分の主張を実行する心のよりどころがあるのであった。
 それだのになぜぐずぐずせずにはいられないのだろう? 愛の故か? ただ数年間夫婦として暮した習慣によってであろうか。また、人間は悲しい生物で、藁しべ一本ほどでも互に好意が残っているうちは、せめてはそれをかたみとして互にわけ、別々に生きるということのできない愚かなものなのだろうか。心理的に暴力が加わらなければ――例えば誰か一人の男が現れて、自分を佃から奪い去ってでもくれなければ、自身の処理がつきかねるのだろうか。
 底の底を割って見れば、自分の働き一つで生きて行こうとする将来へのたじろぎが微塵もない、とは伸子に思えなかった。佃がこの微妙な弱さを気づかないとも考えられない。彼が、腹では、伸子がいくらいきり立っても、なにいざとなって見ろ、と見とおしつつ、ベイビ、ベイビと甘やかす生活――。伸子は堪え難い何ものかから身を防ぐように、両肩をすぼめた。
 不意に、さじが紅茶皿にぶつかる乱暴な音がした。向うの部屋では、いつか音読が止んだ。飲物を運ぶ足音がした。――もう済んだか。伸子はこの部屋にいるのが厭で堪らない心持がした。夫と口を利くのが苦痛であった。どっか、暗い、人のいない隅っこに早くもぐりこんでしまいたい。世の中が変ってしまうまで寝通したい。……襖が軋んで開いた。板の間を踏んで来る音がする。伸子は咄嗟に、部屋の外の濡縁の方を見た。「隠れたい!」心臓がその思いで獣のように鼓動した。この衝動はしかし、伸子自身にさえ突拍子なかった。なぜ? 身動きする間もなく襖が開いた。伸子は、自分にびっくりした顔をそのまま、入って来た佃に向けた。
 佃は何かけげんそうに、椅子の背を掴まえて突立ったままでいる伸子を見た。彼は手に浅い箱を持っていた。伸子は喉の乾いたような声で、
「なにか御用」
と自分から訊いた。
「――ミスタ・スミルノフがこれを下さいましたよ……」
 佃は、何か異常な空気をいだという風に伸子を上下に眺めた。
「――来ませんか。こっちへ」
 伸子は背につかまったまま、横からその椅子にかけた。
「――私変なの、今夜。――失礼するわ。よろしく、どうぞ」
 彼は箱を伸子の膝にのせて去った。それはペルシャなつめの砂糖づけの箱であった。


 十二月に入ったある晩であった。
 伸子は女中部屋に坐っていた。
 三尺ほど離れて、とよが、血色よく胸の張ったルノアルの田舎女めいた姿で、せっせと毛糸をまいていた。壁に新聞附録の美人画がはりつけてあり、赤い襟が揮発油で洗って窓の上にかけてある。伸子は心持よく手を動かしていた。小さい時分、母の前に坐って糸を巻く手伝いをした。伸子は、しんなしに綺麗に巻いていっぱいいろいろな色をとりまぜ入れてあった小町糸の箱を思い出した。それがくすの用箪笥に入っていた。抽斗ひきだしをあける時、ぷーんと樟の香がする。母はいくつぐらいであったろう。彼女はどこか和やかな心持でさえあった。
「とよや、いつもはどうしていたの。一人でできたの?」
「普通の糸なら引っぱってかたく巻いても平気でございますから、一人でできますんですけれど」
 とよは伸子が飽きたと感違いをし、急に手を急がせた。
「いいのよ、ゆっくりで。私も面白いから――これからも云えば手伝ってよ」
「有難うございます……」
 とよは何か、微かに表情をした。伸子はそれを感じ、笑いに紛らして云った。
「――もっとも、私みたいに家にいつかない人を当にはできないね」
 四オンスめの糸が五六本、細いわくになって伸子の手頸に絡みついている時、佃が部屋から呼ぶ声がした。とよはあわてて頭を下げながらいざりよって、毛糸をとりのけた。
 佃は机の前にいた。
「何御用?」
「――一寸」
「何なの」
 伸子は机の横に立って夫を見た。佃は脚に毛布を巻きつけている体を椅子の上で反すようにして、伸子をじっと眺めた。眉をよせ、額を皺にし、悲痛な眼付でなおも見ながら、垂れている伸子の手を執った。伸子は彼のそういう表情が何となく居苦しかった。
「何なの、御用は」
「――今夜は少し真面目な話があります」
 伸子は佃の執っている手を引込めた。
「じゃあちょっと待って頂戴ね」
 伸子は隣室へ椅子をとりに行った。行きながら、楽しみなような、見当のつかない不安なような気がした。何を彼は云おうとするのであろう。
「少しそっちにやって――そう、有難う」
 伸子は斜に彼と相対する位置に椅子を置いた。
 佃はやや暫く、沈黙したまま腕組みしていたが、やがてかたわらから、四つに畳んだ懐紙をとり出した。彼はそれを伸子に渡した。
「――いやだろうが見て下さい――そんなものが昨夜出た」
 伸子は、開いて見た。ぞーっとした。一度伏せ、更に見なおした。紙の間に、くろずみかかった桃色の、花弁が破れた大輪朝顔の押花のような血痕がついていた。
「いつなの? 昨夜?」
「風呂を出てから――ここへ来ると変にむせるようになったから、それに唾をとろうとしたらそんなものが出た」
「今日は?」
「何ともない」
 伸子は紙を机の上に戻した。
「変ね――とにかく安静にしていなければいけないわ――なぜ黙っていらしったの。塩水がいいのよ、直ぐそのとき飲むと……」
 佃はまた、伸子の手をとった。
「――私は永い間、ずいぶん体を無理して来たから、きっと永いことはないと思っていました。日本へ帰ったら、きっとどうかなるだろうと思っていたのに、よく今日までちました。――君も、ずいぶん苦しんでいるのは知っているが、せめて私の生きている間は――そう長くもないのだから、一緒に生活して欲しいと思ったので、いろいろ云ったが――もうとめる権利がなくなった。――どうか――自由にして下さい。私はもう、決して引き止めませんよ」
 伸子は、見たものからはある程度動かされていた。けれども、佃の云うことは、感傷的すぎて聴えた。考えていると、彼はますます、伸子を手ごと自分の方に引きよせながら、訴えるように云った。
「――本当に遠慮はいりません。こういうことになれば、私は、君からああいう話が出ていなくたって、自分のそばに置こうとは思わないから……ね」
 伸子はなお、黙っていた。佃は長く伸子をみつめていたが、やがて、
「――ああ」
と吐息をつき、椅子の背にもたれた。彼は感慨に堪えぬように頭を揺った。
「到頭来たか……」
 伸子には佃の云うことが、何かぴったり来なかった。病気は病気で別問題という気が、ひどくはっきりした、病気になったから去ってもよい――彼の提議には、何か矛盾した、悲壮感に駆られた気ぜわしさがあるように、伸子は感じた。
「――だって――そうせっついて考えるには及ばないじゃないの。第一、病気だって何なのか、まだきまりもしないのに――」
 伸子は、却って彼を云いなだめようとするような余裕ある心持で、笑いさえ浮べた。
「あとであなたの思い違いだったって騒ぐようなことになったらどうなさること?」
「そんなことは決してない――私にはよくわかっています」
「考えて御覧なさい」
 伸子はいつの間にか、佃の腕を着物ごと抑えつけた。
「かりに女中だって、病気の主人を置いて出られるものではなくてよ。――できないことはおっしゃらない方がいいのよ」
「できないことじゃあない」
「どうして? あなたは本当に、私が悦んで云う通りにすると思っていらっしゃる? とにかく、まだ何も仰々しく云う時ではないわ。――明日津山さんをお呼びしましょう」
 これは不思議な感情であった。時には殺してしまいたいと思う佃、この関係から逃れたい、逃れられたらどんなに嬉しいかと思っている伸子の心に、次第次第に悲しい歓びとでもいうようなものがさしよせて来た。彼女は静かに云った。
「――何が仕合せになるかわからなくてよ。……私どもはこの頃、ひどい貧乏人だからね――心が――だから、何だって役に立てようと思えば立つかもしれなくてよ」
 佃の病気が生活の目標を変え、従って二人の心持にも変化が起り、互の生活にはからず新生面が開けまいものでもない気が、ふっと伸子にはした。少くとも、病気を癒そうという共通の目的が二人にさずかる。――
 かえって、活を入れられたような心持で、伸子は椅子をずらした。
「大したことでないにはきまっているけれど、もう横におなりなさい」
 佃はすっかりしおれ、伸子の云うなりになって床についた。
「さあ、元気を出して! 昔の人みたいな考え方は駄目よ。もしそうなら水野さんのお弟子にならなけりゃ」
 水野というのは、紐育で知り合いになった高等工業の教授であった。染色研究に来ているうち、肺を冒され、ひどい喀血をした。彼はすぐハドソン河向うの療養所に入り、一年模範的な休養をして、すっかり固めた。十月中旬市に帰って来た時、伸子も初めて紹介された。その時、彼はひさびさで日本語を話す愉快さと、一つの事業をなしとげた人間の計りしれない満足とをもって、一晩じゅう、自分の病気と最新の手当、経過などを彼らに話して聞かせた。
 その時の話の中から覚えるともなく覚えていた注意によって、伸子は佃の床の中に湯たんぽを入れ、火鉢を部屋から出した。そんなことをしながら、彼女は、水野が、
「庭にラズベリーの繁みがありましてね、雪が積ると駒鳥ロビンが遊びに来い来いしましたよ」
と、いかにもその光景に慰安されたらしく、追懐して話した調子を思い出した。


 伸子は自分の机にかえって、津山へやる手紙を書いた。
「一昨夜、血液の混った痰が出たと云うので大層気にしております。何卒なにとぞ一度御来診下さい」
 彼女は、
「とよ」
と呼んだ。
「これを、明日の朝九時に学校へ届けて御返事をいただいて来て頂戴、間違いなくよ」
 津山は佃と同じ学校の校医であった。
 翌朝早いと思って、伸子もその夜は早寝にした。佃はいい工合に熟睡して、伸子が入って行ったのも知らず、かすかにいびきをかいていた。
 横になって見ると、伸子は、自分が極めて平静なつもりにも拘らず、底では亢奮しているのを知った。夫を落胆させまい心持があったと見え、何だか病気もわからなそうに云ったが、伸子はそれがコンサムプションであろうことは殆ど疑いなかった。彼が二十代に痔瘻じろうを患ったことのあるのを聞いていた。始終腸に苦情があった。彼の生国は県別にして一番、そういう患者の多数なところであった。しかし、そう激烈ではなさそうだし、彼はもう四十になっているのだから急変はあるまい。断片的な知識で、伸子は大体の結論をつけた。
 それにしても、なぜ自分がこのことを突然の不幸と感じないのだろうか。伸子は怪しんだ。暗闇に横わり、こうして彼の寝息を聴いている。――騒ぎ立てるほど特殊な驚きも、急激な歎きも伝わって来ない。同時に、あれほど執念深く互の間にある確執が、今夜だけにしろ、すっかり消えたようなのに伸子は気づいた。中和した状態であった。――彼が、夫婦という関係をとりのぞいても、人として、健康な自分の助力が入用になったせいだろうか。
 Pity……pity akin to love……
 線香花火のようにそれらの文句がいたり消えたりした。伸子は、彼が事実をかくしていた一日の間の心持などを考え、しんとした気持になった。
 伸子は、寝がえりした。佃もこちらを向いて眠っているらしい。彼のはく息が二つの床の中間で自分の息とまじるのを、伸子は寒い夜気の中で感じた。その感じは異常に鋭い意識を伸子に呼び醒した。伸子は思わず息をつめ、愕きを感じつつ、闇の中で目をみはった。彼女は、永いこと無意識につめていた息をはき出すと、次の吸いこみを自然にそっちを向いたままではできなくなった。伸子はできるだけそろそろ蒲団の中で仰向きに向きなおった。伸子は、自分に対し皮肉な心持になった。
 朝になって、伸子は夢を見た。
 佃が血を出したと云うので、自分が医者に電話をかけているところだ。どこの電話か、受話機を握っている手のひらの感触と、送話口の光ったニッケルだけが、はっきり見えている。そばに、そこの女中が縞の着物を着て立っている。自分は無智な女中に、佃が血を出したと云うのをきかれるのがいやで、送話口へのび上り、懸命に、
「佃が blood を出しました」
と云った。
 それぎりで目が醒めた。醒めた後までも、その blood と気をつけて発音した舌の感じが、変に現実的に残っていて、伸子は悲しい心持がした。
 津山は一時前に見えた。佃は細かに、容態を説明した。すっかり医師と患者という態度であった。
「それは御心配でしょう。しかし、長い時間にわたって声を出す職業――お互のようにね――よくやられますよ。結核でなくとも。それに何です、X光線ででも見れば、十人のうち七八人までは痕跡を持っているものですからな。つまり無意識の中にかかって、無意識の中に治ってしまっているのです。人間はこれで、なかなかうまくできていますよ」
 彼は、血色のよい、しかし神経質らしい手つきで、聴診器を出した。
「どれ――ちょっと拝見しましょうか」
 佃は本気な顔つきで、シャツを脱いで胸部を出した。どこにも病気などなさそうに、胸郭の広い厚い胸であった。
「――しっかりした骨格ですね」
 医師は、精神療法として、佃の皮膚の指先をふれながら云った。
「ほら、あなたの皮膚はこうやって見ると、十分脂肪もあるし、血色もいいし、弾力もありましょう。どうして、本ものとなったらこうは行きません」
「大きい息をして。小さい息をして」
「大きいのをもう一つ」
 伸子はそばで見ていて、そのとき、夫がしんから哀れになった。津山に命じられる通り、彼は真心こめ、眉を上げ、大きい息を吸う。気をつけて小さく息をする。伸子は、彼がこんなに真剣で全心的なのを、どんな場合にも見たことがなかった。彼も生きたいのだ。それでこそ正直だ。伸子は、鼻のしんが酸っぱく、しみるようになって来た。手洗いを用意して戻ると、もう佃は着物を着かけていた。
「いかがです」
 アルコオルの香のする脱脂綿の小片で、聴診器を目立たぬように拭きながら、津山が答えた。
「別に私は異常を認めませんね、一寸――ほんの一寸、左の方に雑音があるような気もしますが、そのくらいのことは、一時的に誰しもありがちのことですから」
 佃は、今朝から自身を非常にいたわり、声さえ力を入れて出さなかった。彼は、津山の診断だけでも勢いづいた。
「――有難う。――色のついたものなんか出たんで、すっかりびっくりしてしまいました」
「そうですね、素人の方は。しかし却ってその方が安心ですよ、早く気をつけるから……」
 伸子は、お手洗いを、と云おうとして、思いついた。
「恐れ入りますけれど、おついでに私も一度御覧いただいて置きましょうかしら」
 伸子はどこにも異常なかった。津山は、明日K病院の呼吸器専門の人と、また来ると云って帰った。
「御覧なさい! 私の云う通りでしょう」
 伸子は医者を送り出して来て、云った。
「――いや、しかしまだわかりません。専門家が見ないうちは」
「いやね」
と伸子は笑った。
「ヒステリーのお嬢さん! 重くないとお気に入らないの?」
 しかし、その夜寝ようとして、夜具を引上げた拍子に、佃はまた少量の血液を出した。彼は精神感動の方が強くて、真蒼になり、氷のような四肢を震わせた。


 日曜日に、伸子は動坂へ行った。
 門に自動車が止っていた。伸子は玄関で訊いた。
「お客様?」
「須田のお嬢様がたがいらっしゃっていらっしゃいます」
「父様は?」
「お客様でございます」
「ああ別なの」
 煖炉のそばに、須田の三人の子供と、三人の伸子の弟妹、母とがいた。彼らは、前ぶれなしに入って行った伸子を見ると、一どきに、それぞれの声で、
「わーッ」
と歓声をあげた。
「こんちは。丁度よかってね。私達一時間ばかり前来たところよ」
「おあつらえむきだったね、さっき電話でもかけて見ようって、云っていたところだったよ」
「そう。――暫く」
 伸子は手袋をぬぎながら、従妹たちに挨拶した。
「久しぶりね。この前、準ちゃんの御結婚のとき会ったきりね」
「だって伸ちゃん、ちっとも来て下さらないんですもの」
 わりこんで腰かけると、カアテンの仕切から、つや子がこっくりしたいい黄色の毛糸のスウェータアを着て出て来た。
「お姉ちゃま、泊る? 今夜」
「さあ――。つやちゃん今日はおしゃれね、どうしたの? そのスウェータア」
「鈴ちゃんが編んで下すったの」
「いい色だね、子供にはそんな色もいいと見えるね」
「つや子は髪が黒いからなお似合う、つやちゃんは何をお礼するの?」
 つや子は考えていたが、きまり悪そうに、
「僕も編んだげるわ」
と答えた。すると、保が、頓狂にふりむいた。
「え? 君が編む? つや子の編んだ袋ね、僕見たけど、まるで貧弱ったらないの。赤くて、小ちゃくて、穴だらけよ」
 皆がふき出した。高い窓から霜げたゆずりはの梢が見えるのが、冬の日曜らしくのどかであった。
 伸子は、三十分ばかりして、母に訊いた。
「私父様に伺うことがあって来たんだけれど――お客様ながいの?」
「そうだね」
 多計代は時計を眺めた。
「おや、もう二時間あまりになるね、もう直きだろう、何か会社の方の関係らしいから。泊ってったっていいんだろう、今日は。そうおしよ」
 伸子は蒸しずしをたべながら、
「今日はとても駄目よ、御病人だから」
と云った。
「へえ」
 多計代は意外そうに訊いた。
「佃さんかえ?」
「こないだから寝ているの」
 事もなげに、多計代は呟いた。
「また例のおなかだろう。相変らず弱いねえ」
「おなかじゃあないのよ、今度は。――」
 そこへ、父が入って来た。
「やあ。来たね」
 伸子達は、揃ってぞっくり立ち上った。
「今日は」
「こんにちは、伯父様」
「こんちは!」
 父はおどけて、眼鏡を鼻の先にずるこかせた。
「こりゃ大変だ! うちの子が倍になったぞ。どれがどれだか見分けがつかない」
 騒ぎが鎮まってから、伸子は父に訊いた。
「父様、いつだったか、いい寝台のカタログを見ていらっしゃったことがあったわね、あれ今でもあること?」
「さあ――探せば勿論あるが――買いますか」
「一つ欲しいと思うの」
 彼は煖炉の火をほげながら、
「一つ?」
とききかえした。
「――どうせ買うなら二つがいいだろう? 健康的ですよ――うちも、頑固婆さんさえ承知してくれれば寝台にするんだが」
 伸子は来た用事をきめたく、冗談にのらずに続けた。
「佃が少し工合がわるいんでね、畳の上に寝ていられると歩くに気がねだから、一つだけさし当り買いたいのです。――どこ? デスクの中?」
 伸子の後について、父もデスクのところに来た。
「そこじゃああるまい、そっちの綴込みの中だろう。Bのところを見て御覧」
 彼らはカタログを見つけ出し、子供連がダイアモンドをしているそばを抜け、煖炉の前にさし向いに坐った。父は心配そうに見えた。
「どうしたんだね、一体、ずっと悪いのか」
 伸子は腹案を立てて来た通り、軽く答えた。
「無理をしたと見えて喉の奥をわるくしたのよ。一学期ぐらい休養すればいいんですって」
 母が、むこうから、見徹すような表情で自分の云うことを聞いているのを、伸子は感じた。
「そりゃいかん、医者は誰か信用のある人を頼んだかい」
「父様ご存じでしょう。Kの芹沢さんという人」
 伸子はカタログをしらべ、店へ電話をかけた。月曜に届けるということであった。佃は、三度目の精密な診察で、初め怪しかった通り、左に軽微な浸潤のあることが明かになったのであった。けれども、伸子は、万已むを得なくなるまで、彼の病状の詳細は両親に告げない積りであった。そろそろかえろうとしていると、女中が呼びに来た。
「奥様が、一寸お炬燵こたつへいらしって下さいましって」
 伸子は、用向が直覚され、いやであった。しぶしぶ襖をあけると、多計代は炬燵にあたったなり首だけ振り向けた。
時雨しぐれてきたね、何だか。――あっちじゃ、がやがやして困るから、一寸話したいと思って」
 伸子は膝を入れた。
「佃の病気についてだがね。――本当に大丈夫なのかい」
「なにが?」
「――単純に喉なんかじゃあるまい?」
「なぜ?」
「いつか来た時の顔色は、どうもただじゃあないと思っていたもの」
 伸子は、母に幾分の安心を与える義務を感じて、
「――いずれにしろ、ひどい心配なことはないのよ。――私がこんなにぴんぴんしているんだから、大丈夫な証拠じゃあないの。ただ、寒さに向う時候だから大事をとるのよ」
と云った。
「お前のぴんぴんは当にならないがね――何しろ困ったものだ――それで何かい、本当に一学期ぐらいで元通りになるのかい?」
「多分ね」
 伸子は暗い顔で笑った。
「そりゃ人間だから分りゃしないけれど」
「しかし、もし佃が結核ででもあるんなら、それを黙って結婚するなんて、罪悪だね」
「かりにそうとしたって、前からあったんじゃあないでしょう。そう考えるのは酷よ」
「お前だって、折角健康なのに――何をするんだって体が資本だよ。国の父さんのところへは云ってやったかい?」
「そんな必要はないのよ、まだ」
「だっていろいろ……」
 金のことであるのが伸子に推察された。
「本当に大丈夫なの、――」
 伸子は炬燵蒲団をはねた。
「じゃあ今日は失礼するわ、いろいろ有難う」
「そうかい」
 多計代は未練らしく自分も立ちかけた。
「本当に気をつけなけりゃいけないよ。お前まで変なものを背負しょい込んだら、家じゃお断りだよ」
 部屋を出がけに、彼女は皮肉に呟いた。
「――まああの人にすれば、却って都合がいいというもんだろう。こうなると、出ろと云っても出られるお前じゃないんだから……」
 伸子は母が憎々しく、しかし真実を云い当てたのを感じた。


 重いスープ皿を載せた盆を持ち、伸子はそっと唐紙をあけた。
 一切炭火が入らないので、室内の空気は清らかで、すがすがしかった。硝子戸越しの麗らかな日光が寝台の金具に燦いていた。
「いい気持ね、ここは。――頭がすーっとするようよ」
 返事がない。――伸子はしまったと思って、首をすくめた。佃は眠っていると見える。
 伸子は俄に忍足になって、枕許に近よった。音を立てないように傍の小卓に盆を下し、枕の上を覗いた。彼は眠っているのではなかった。仰向いて天井を眺めている。唇を引締め、上瞼を引きつらすような眼つきで、一点を凝視している。何かと思い、伸子は自分も一寸天井を仰ぎ見た。
「どうなすって」
「…………」
「眠っていらしったの?」
 佃は、のろのろ眼球を伸子の顔の上に動かし、悲痛なような、訴えるような眼差しで、元気に立っている伸子を眺めた。
「――眠ってなんかいたんじゃありません」
 非難を含んだ語勢に、伸子は初めて、佃が、彼女から見えなかった側の手に小型聖書を持っていたのに気づいた。伸子は、それを見ると、説明しがたい不快を感じた。夫が床についてからもう数回彼女はこんな情景を目撃した。その度に、同じ新しい鋭い全身的な不快が伸子の胸に湧いた。慢性腎臓炎にかかっても、佃はやはり聖書を片手に、このような表情をするであろうか? 日本へかえってからは、平常聖書など読まず日を送っていた佃が、床についてから、自分を最も不幸な境遇に陥った者らしく取扱って、陰惨に聖書をひねくるのが、伸子には、惨めなような、恥かしいような堪らない心持なのであった。伸子は、自分の感情を制し、何も見なかったようにスープをすすめた。
「さ、熱いうちに召上れな。冷えたら、クックがクックだから仕方がなくなっちまってよ」
 佃は、伸子の明るさを撥ねかえすような眼付で、寝台の上に起きなおった。黙って匙をとった。義務のようにスープを吸いながら、白眼のはっきりした神経質な視線を時々あげて傍の伸子を見た。
 伸子は、何か自分が理由の分らない詰問でも受けているように窮屈を感じた。
「どうなすったの?――工合がよくないの?」
「いいや」
「――じゃあ気を引立てて召しあがれ、ね。あなたなんぞもう恢復期よ。何も滅入る必要なんかないのに。――平気でいる方がいいのよ」
「――有難う……おいしかった」
 佃は皿をかえし、サーヴィエットで口のあたりをふき、云った。
「気の毒です。……君は健康だし」
「どうして」
「こんなだから――私が」
「病気のこと?」
 佃は、返事の代り太い吐息をついた。
「――そりゃ誰だって病気より健康の方がいいわ、でもお互になったら仕方がないし、最もよく治すようにするだけよ。そりゃかまわないけれど――何ていうか……」
 伸子は、皮肉にならないように云った。
「気の持ち方とでもいうか――なぜこういう病気、他の内臓の病気を扱うように扱わないんでしょう。――危険がない程度なら、却って頭がよくなっていいくらいに、ぐんと思ってしまう方がいいのよ」
「――とにかく、幸福な人間はならない病気だ」
 今度は伸子がどんより、恐怖をもっておもむろに彼を見下した。……これは一つの暗い啓示であった。伸子は夫の病気は病気と思っていた。佃は単純にそうは思っていなかった。伸子が生活に落着けないで彼を苦しめるからだ、と云うのだ。――
 皿を抱えたまま、伸子はじっと立っていた。彼女は、ここまで来ても遁路にげみちのなかったのを知らされたような沈着を心に感じた。病気に、心と心との撃ち合う音のない争いをやめさせる力は、なかった。
 夫が今は病気だから、ひとりでにいたわり助けているが、つきつめたところへ行けば矢張り彼を受け入れているのではない。同じように、佃も内心では絶えず伸子をこのように攻めているのか。
 伸子は、暗澹あんたんとした心持で台所へ行き、黙って女中に空のスープ皿を渡した。
 何心なくしゃべりながら、佃の枕の工合をなおしたりしている瞬間、伸子は不意にこのことを思い出すことがあった。心が眼をみはって、気軽そうに物を云っている二人の心底の恐ろしい暗さを照した。――伸子は急に苦しくなって、唇がすくむのを覚えた。自分が佃に行届いた看護をしようとするのも愛からではない。自分が冷酷でありたくない――つまりは自己満足のためだ。伸子にそうささやくものさえあった。自分がもっと生一本な人間であったら、このような仁者ぶりは蹴とばしたろう。
 全く自然にやりかけていた自分の単純な行為まで、変に偽善的なところがあるように思われ、伸子は苦々しく痛む心で、いそいでやりかけのことを片づけてしまう。佃にそれが、伸子のむら気、面倒くさがりとしかとれないのがよくわかった。伸子は悲しかった。自分が佃でも、憎らしく感じるだろう――これは切ないことであった。
 ある宵、伸子は暫く自分の部屋に入っていた。気がつくと、家じゅうひどくしんとしている。彼女はちょっと耳をそばだてて見た。自分の部屋だけ残して、周囲が消え失せたような静けさだ。伸子は、不安に襲われた。体で椅子を押しのけ、立って隣りの唐紙をあけた。スタンドが灯っていた。寝台ベッドの蒲団は、内に横わっている人間の体なりにもり上っている。何の変りもない。――伸子は、何のためにそんな不安に掴まれたか、おかしくなった。寝台ベッドの裾の方の壁に、大きい自分の影法師を映しながら、伸子は部屋に入った。が、夫の様子を見ると、言葉がふさがれた。
 彼が聖書を読む――どういう心からであろうと、それをとやかくいう権利が自分にないのは、伸子にわかっていた。明るく読もうと、感傷をそそるように読もうと。しかし、世の中には、神経にこたえるやりかたと云うものがある。例えば同じ物を食うにしても、見ていると腹が立って来るような食いかたというのがある。この聖書で、佃は、何を自分に思い知らそうとするのか。
 伸子は、佃の顔を見下した。彼は、伸子に見下されていることも、その視線には、足踏みするように強い感情がこもっていることも恐らく感じているのに、睫毛一本動かさなかった。強情な凝視を足下の壁から離さない。伸子は次第に辛抱しきれなくなった。彼女は低い、ひしゃげたような声で云った。
「それをこっちへ頂戴――お願いだから……」
 彼女はそう云いながら手をのばした。
「…………」
 佃は、蒲団から出して聖書をもっている手の拇指がまむしになるほど力を入れてそれを持ちなおした。伸子は荒々しい心持を制せられなくなった。
「――頂戴」
 彼はよこすまいとする。
「頂戴」
 ああ、自分は何をしようとするのか。佃の体に悪い。恐ろしいことになるかもしれない。恐ろしいことになればいいのだ、一思いに! 一思いに! 佃は蒼白な顔で伸子を睨み据えたまま、手を上げたり下げたり、渡すまいとする。伸子はそれを本気で追いまわした。追いまわすうちに、伸子は、自分らがこわくなり、涙をぼたぼたこぼした。
「頂戴って云うのに! くださりさえすりゃ何もありゃしないじゃないの!」
 奪いとった聖書を伸子は、寝台の下にたたきこんだ。彼らは二人とも泣いた。


 二月下旬に、佃の健康は、学校へ出勤しないこと、朝おそくまで寝台ベッドにいること、夜外出できないことぐらいで、殆ど平常に復した。
 冬枯の庭はいつか潤い、こまかに木の枝などを眺めると、仄かな艶や芽のふくらみが優しい早春を感じさせる日であった。
 佃は、井戸の横で、木戸の繕いをしていた。厚く着ぶくれ、スキーにでもかぶるような毛糸帽を耳まで引っかぶった彼の様子は五十ぐらいの年よりに見えた。
「――そんなに力を出していいの? 私が打ちつけて上げましょうか」
「何、大丈夫です、このくらい。――ちょっと針金を持って来て」
 伸子は、納戸へ行きかけた。
「ああそれから時計を見て下さい、机の上にある」
 伸子は、針金の束と、針金切りの鋏をもって戻った。
「一時十分前よ」
「もう? じゃ支度しなくちゃ」
 佃は、いそいで仕事をしまいかけた。
「――どこかへいらっしゃるんだったの?」
「ええ、君も支度して下さい」
「出しぬけね」
 伸子は、とよを顧みて笑った。
「そんなら早くおっしゃればそのようにしているのに。おしゃれで二時間もかかったらどうなること?」
 伸子が着換えをしている部屋へ、佃も手を洗って来た。
「和服にしよう」
「そうお――和服って、いつものっきゃあなくってよ――一体どこなの、行くところは」
「いいんです、このまま行ったってかまわないところなんだ」
「どこ」
「行けばわかります」
「動坂」
「いいや」
「――知らずに行くのでいいところなの? 面白いところ?」
「さあ――多分そうだろうとは思うんだが」
 夫のために、足袋や何か揃えさせながら、伸子は、頭の中でこれから自分たちの行きそうなところを方々さがした。
「ね、頭字だけ云って、当てるから」
「行けば判りますよ」
 こんなことは、彼らが結婚して以来、初めてのことであった。佃は興にのることなど、楽しい不意打ちであいてを悦ばせる計画をするということなどない人であった。よそへ行っても、予定の時間に帰ることを忘れない人が、珍しいことだ。
 彼らは近所から電車に乗った。
「――本郷……さかな町。二枚」
 肴町……。伸子は、佃の隣りに腰かけ、眼をしばたたくようにして考えた。彼らの交友範囲は狭かった。二人で訪ねて行くところなど、決して思い出せないほどはない。肴町――伸子は覚えず、
「ああ、わかった」
と、口に出した。
「わかってよ」
 佃は、正面を向き、外套の下で腕組みしたまま訊きかえした。
「どこ?」
「でも、やっぱり確かじゃあないわね……阪部さんかと思ったんだけれど……東京に来ていらっしゃるんでしょう、あの方、今――どっか――大学正門あたりなんじゃあなかったかしら、宿が……」
 佃は、どっちにでも取れるように笑った。
「じゃあそうしてお置きなさい」
 阪部は、地方の大学に植物学の教鞭をとっている彼らの親しい友人の一人であった。上京すれば会わないことのない間柄であった。
 案の定、佃は、大学正門前へ来ると立ち上った。
「降りましょう」
 そして、果物屋の横をまっすぐに入った。ある西洋料理店の前に、白服、白前垂に大きな料理帽をかぶった料理番が立って、ぼんやり彼らを眺めた。少し先の社の前に風船屋が出ていた。伸子は、穏やかな午後の往来を、複雑な心持で歩いた。夫婦とは、或は人間の生活とは、何と妙なものであろう。この間の晩あのように泣いた二人がこうして連れ立って歩く――前ぶれなしに、阪部訪問になど自分を連れ出す気になった夫の気持が、伸子には、ある思いやりを起させた。
 本郷台を、小石川の方へ下る坂の右側に、御下宿、と書いた中古の看板をかけた門があった。佃はそこを入った。裾を端折って通りすがった女中に、彼は声をかけた。
「おいでですか、阪部君」
「はあ、どうぞお通り下さい」
 女中は、伸子を観察しながら、スリッパアを二足揃えた。佃は、案内を待たず、どんどん自分で中庭をまわった廊下を進んだ。
「まあ! いつの間にかいらっしゃったことがあるのね」
 その声を合図のように、廊下が鍵のてに曲る角の柱の下へ、阪部が姿を現した。
「やあ」
「よくいらしったね、さあどうぞ」
 阪部の部屋は、窓から坂の下の樹木や屋根の見晴らせる、静かなところであった。伸子は、その窓に腰をかけた。
「割合いいお部屋ね、あまり下宿らしくなくって」
「――昔、私がまだ書生の時分からの知り合いでね、ここの親爺は大の阪部党ですよ」
 阪部は自分で茶を入れながら、佃に訊いた。
「どうだね、ずーっと順調かね」
「うむ。もう自分じゃあ何ともないようだが、三月いっぱい我慢しましょう。――しかし気になってね」
「はははは。勤人根性という奴があってね、出るべき時に休んでは、休みも休みにならないというわけか――まあ、休める時にうんと休んで、潜勢力を貯えることだね」
 伸子は、阪部にだけはどんな口も利けた。
「ね、阪部さん、今日はどんな素晴らしいことがあるの?」
「どうして」
「だって――二人でしめし合せていらしったんでしょう?」
「これは弱ったね、はははは、何か、では特別な趣向でも凝らすんだったが、もう間に合わない――晩の御馳走で勘弁して下さい」
 阪部は、二重瞼の、眼尻に小皺のある眼で、しげしげと伸子を眺めた。
「――あなたは相変らず元気ですね」
 伸子は、肩を落すようにして、唇を曲げた。阪部は、彼女の感情を見抜いたように直ぐ押しかぶせて、
「いや、元気なのが本当だ」
と云った。
「すべて、生きているものは元気なのが自然だ。真の元気は、見ようによって、一種聖なる天の力の反映みたいなものですよ」
 去年の夏、丁度佃が関西方面に旅行中のことであった。伸子が動坂の家から病院通いをしていたころ阪部が上京した。彼は赤坂の家の留守番から二人の消息をきき、動坂へ訪ねて来た。伸子は、父親にも紹介し、三人で夕飯を食べた。その時、彼らは、主として、C大学にいた頃のことを話し合って興じた。
 伸子は、
「あなたもあの頃は、今のように大家じゃなかってよ」
と笑いながら云った。
「一生懸命だったわね。ほら、あのかびだらけの林檎りんごを大事にしていらしたこと!」
「ふむ」
 阪部は、顕微鏡を覗きつけた真直な平らかな視線でややしばらく伸子の顔を見ていたが、突然云った。
「――あなた――こんなことを伺うのは失礼かもしれんが――幸福ですか?」
 伸子は、いきなり苦しい胸の真中を、すぱりと射られたように感じた。けれども、彼女はある恥かしさから笑いながら云った。
「――そんならしい細胞の変化が現れていること?」
「……あなたに無駄なことはなかろう、――結構だ。まあやれるだけやることだ」
 矢張り、笑いながらだが、伸子は思わず涙を泛べた。彼女にこんな風なことを、こんな工合に云った人はなかった。
 伸子は今阪部に会って、再びその時の心持を思い出した。
「――今年は雪が降らないと云えば――」
 阪部は、日本服で別人のように見える背を丸めて、机の下から厚い紙挾みを引き出した。
「今度はこれを印刷することも一つの用で来たんだが」
 伸子は、菓子鉢や茶器を片よせた。
「専門的に云い出すと、また面倒くさいことになるんですがね、つまり、要点は写真が説明しているだけだ。――先ず、これが――何と云うかね、序論かね」
 それは、桜に似た一本の樹の写真であった。真直に幹を延し、左右ゆったり枝を張り、花をつけている。伸子らは黙って眺めた。
「次は、これ」
「嵐のあと? 電線が切れているし、家は倒れているし」
 阪部とでも、話すよりはきき役の佃が訊ねた。
「どこ? 満州辺らしいね」
「ああ北満州ね。ひどい有様でしょう。毎年ある期間季節風が吹く、それはこんな勢いだということを示したもの」
 次のは、幾本もの大木の梢が皆一方へねじまげられ、片側は丸坊主に枯れたようになっている写真。
「――関係がわかりますか?」
 伸子は面白くなってきた。彼女は、熱心に見較べ、
「ええ、判った! 判った!」
と叫んだ。
「それから」
 六枚の写真は、毎年の季節風のため、満州のある地方の樹木が発達を阻止され、一定の法則をもって変化する。畸形きけいになる。その経過の研究なのであった。
「――これは、ずっと先に集めて置いた材料でしょう?」
「――十年近くなるかね」
「……しかし、同じ研究でも君のはいいね。僕の方はやりきれない。何しろ事実材料をディッギング・アウト(掘り出す)するのだからね」
「日本じゃ駄目かね」
「――貧乏暇なしさ、食わなけりゃならないからね」
 写真をまた繰り返し眺めていた伸子が云った。
「――食べなけりゃならないのは誰だって同じよ。十人のうち九人九分までそうだわ」
「そうです」
 佃は、不意な伸子の言葉で、感情を害したらしく云った。
「しかし、僕の研究では、教師にもなれないからね」
「自分の専門で教師をしたって君、楽じゃあないよ。いつでも、自分の力以下の学生対手でやって行くのは。――それにやっぱり本当のラバラトリー・ウォークは別さ。――却って、別のことを講義して本職は本職でこつこつやる方が純粋な楽しみがあるかもしれん」
「――時間がないね、実に」
「何時間です?」
「十一時間」
「それならまだよろしい――」
「――僕の方の仕事なんぞは、一言見つけるに、一日どころか三日四日かかっても駄目なことがあるんだからね」
 伸子は、専門如何に拘らず、熱のこもった仕事ぶりに刺戟される性であった。阪部の、とにかくものして行く努力を見たばかりの時、夫の自身の仕事についての愚痴が、彼女の仕事魂とでも云うようなものにさわった。
「まるで、それでは仕事のできないの、阪部さんの責任みたいね……」
 そこへ、伸子さえ予期しなかった工合に、こんぐらかった夫婦の鬱積が絡まった。
「だから、私の云う通りになさるといいのよ。そうすれば、学校は研究の云いわけ、研究は学校の云いわけ、と云うような面倒なことにならなくていいわ」
「全く面倒だね、はははは」
 阪部がとりなすように笑い出した。
「何です? 伸子さんの云う通りと云うのは」
 伸子は、表面明るい快活さで、すらりと云った。
「私がいい提議をしたのよ。もう旦那様、奥様で、なに一つ碌なこともしない癖にていさいだけ意義あるように構えているのは沢山になったから、元の書生にかえりましょう、って。いいでしょう? そして二人で、本当に自分の力を活かして遣れるとこまでやって見れば結構だわ、ね……」
 軽く切り出したのが重々しくなり、伸子は悲しげな顔をした。彼女は、自分にこんな話をさせようと佃がここへつれて来たのでないのはよくわかっていた。ここに夫がいなかったら、彼の顔、彼の声、ぼきぼき節を鳴らす手の指が見えなかったら、恐らく自分はこんなことは云い出さなかったろう。伸子には、特にそれが苦しい心持を起させた。彼女は、むっつり黙りこんだ。
 佃が、溜息と一緒に、
「――なかなかむずかしい」
と云った。
「我々は互に仕事があるからね、どうも」
 阪部は、そろそろ日のかげって来た部屋の火鉢に火をついだ。
「――それだけなら、初めっから諒解し合っていることなんだから割に造作なかろう、もっと、こりゃ根だね。――根が大事だよ」
 阪部は、しばらく考え続けた。
「また植物をかつぎ出すが、何だね、ある草や木が生きていられる、――最も自然ないい状態においてだね――場所というのはきまっているね。地面の上でさえあればいいというわけにはどうも行かんらしい――ある草は、北緯何度の地帯でしか生存できない。或は、赤道附近でしか生きられない。人工で温室に入れたり他の方法を用いたりして枯れないだけには保てないこともないさ。けれども、悲しいことには、そうされて生きる植物は実らない――繁殖できない。――ここが恐ろしい点だよ。人間も、どんな境遇にだって、ある程度までなら生理学上の命だけは失わずに生きられよう。が、地味が本ものでないと実らない。理想論だが、何だね、能うべくんば、人間互にその本ものの地味を作り、また与えたいもんだと僕は思うな。こういう話になったから率直に云うが――まあ、君らも――強いて一つの小さい、体に合わない植木鉢の中で揉み合っていなければならないこともなかろうさ」
 佃が歯の間から呟いた。
「理想はそうだろう――しかし私にはできません――そういうもんじゃない」
「何が――伸子さんの云われるようなことかい?」
「そうです」
「……翔びたい鳥を精いっぱい翔ばせて見るのもいい気持だろうと私は思うなあ」
 伸子は、阪部が明かに自分に好意を持ち、荷担しているのを感じた。彼女の感情が動いた。好意は嬉しかったが、阪部にいい気持そうにそんなことを云われているのが苦痛になった。
「いいことよ。議論で決定することではないのよ。とんだ巻き添えにお会わせしちゃったこと」
 彼らは五時まで話した。
「折角だから夕飯をどこかで食べよう」
「まだ夜おそくなれないから、今日は失敬します。家へ来てくれ給え、家ならいつまででもいい」
 廊下へ出ると、阪部が立ち止った。
「ああ一寸待ち給え、あげるものがある」
 阪部は下駄を廻してくれと云って、中庭へ下りた。戻って来た時、彼の手頸三四寸、水につかった部分だけ、冷たそうに真赤になっていた。
「なに」
「東京では珍しいものです、毬藻まりも
 玄関の板敷に立って、彼は帳場から出させた紙でそのビロードでこしらえたような丸い藻を包み伸子に渡した。


 縁側に手をついて、伸子は背の高い硝子壜の中を覗いていた。壜の水に阪部のくれた毬藻が沈んでいた。
「――何だかこれ色がわるくなってきたようね、一向浮き上らないじゃあないの」
「そうですか」
「そんなにいつまでも栄養が内にあるもんでしょうか?」
「さあ……」
 間を置いて、伸子がたずねた。
「阪部さん南洋へいつお立ちんなるの?」
「まだ一二ヵ月あるんでしょう、まだすっかりきまったわけでもないんだろうから」
 伸子は、水をとりかえた硝子壜を日向へ置いた。
「……あなた、阪部さんをどうお思いになること」
 佃は、伸子の真意を読もうとするような用心深い表情をした。
「あなたの思う通りでは、どう?」
「さあ、相変らずあの男でしょう」
「あなたの心持、変らない? せんと」
 佃は、案外そうな、咎めるような眼付でききかえした。
「どうしてです?」
 伸子は、先日阪部を二人で訪問してから、友情の一部に変化が生じかけているのを感じていた。彼女には、それが三人のために遺憾であった。一半は自分の責任であるという感情もあった。彼女は佃にぶちまけて、あるなら不快を洩して欲しかったのであった。
「本当に今まで通りなの」
「そうでないわけがないでしょう」

 四月の新学期から、佃は出勤し始めた。
 初めて出かける朝、去年の暮頃のままの服装で彼が靴をはく後に立って見送りつつ、伸子は感に打たれた。佃にとっても、伸子にとっても、彼の病気は一時的なしかもただの病気でしかなかった。病気だけよくなった。元の彼になった。見馴れた制服を着た元のままの彼に。その姿を見ると、自分の胸に底潮のような悲しみと嫌悪の湧き起る彼に……。
「行っていらっしゃい」
 頭を下げたが、彼女は直ぐその場から勢いよく立てなかった。
 夫に対する愛と憎の輾転反側てんてんはんそくが伸子の心にまた力を盛りかえした。彼女はどこにいても苦しかった。それ故どこにか心の休憩所を欲して動きまわる。
 伸子は、動坂へ屡々行き、泊った。
 ある日、佃から動坂にいる伸子へ電話がかかって来た。
「明日帰られませんか、一寸――阪部君が二十八日に愈々立つと云ってきたから、御飯でも一緒にしたいと思う」
 翌日、彼らは三人で夕食をたべに出かけた。すっかり初夏であった。夜空に、街路樹が軟らかな若葉をそよがせていた。彼らは、先日やや気まずく別れたわだかまりなどを忘れ、愉快にしゃべったり散歩したりした。伸子はその夜は赤坂へ戻った。
 朝になると、昨夜は星が綺麗に見えていたのに、小糠雨こぬかあめが降っていた。その中に、とよが、傘もささず、池を覗いていた。
「どうしたの?」
「金魚が一匹妙なんでございます」
「どんなに?」
「今朝起きて見ますと、一匹やっとおよぐようなのを、皆が後からせッせと追いまわしておりますから、弱ったのを助けて游がせてやるのかと思ったら、いじめておりますんです」
 とよは、
「ほらまた! っ! っ!」
と水の上で手を叩いた。
「なぜいじめるんだよ、可哀そうに」
 伸子も手伝って、弱っている金魚だけ別にしようと、たもをさがしたが見当らなかった。
「こういうものは妙だね。こないだ夜、一匹犬が自動車にかれてキャンキャン鳴きながら逃げるのを、矢張り多勢ほかの犬が追っかけて咬みついたのを見たよ」
 そんなことをしているうちに、伸子は、この間じゅう縁側に置いてあった筈の硝子壜が見えないのに気づいた。
「おや、あの壜どうした」
「どの壜でございます」
「あの、青いまんまるい――ほら、この間私が鋏で散髪してやった、円い藻の入っていたの」
 三月ほど経つうちに、毬藻はだんだん青々した初めの色を失い、水を透して見ると、球状の周囲に、ホヤホヤ水あかのようなものが認められるようになった。この前、動坂から帰った時、伸子は、
「これはいけない、枯れ出した。一つ散髪をやって見よう」
と、とよに手伝わせ、藻の表面の老廃物を丁寧につんだ。
「これでございましたかしら」
 とよがやがて、叱られる覚悟という風で、空っぽの、乾き切った壜を持ち出して来た。
「無いの? 藻は」
「こないだ、旦那様が溝にこれをおあけんなっていらっしゃいましたけれど――お棄てになりましたんでしょうか」
 伸子は黙って、暫くとよが雨空を鈍く反射させながら手に持っている空の硝子壜を見ていた。
「もういい。じゃあ」
 とよが、詫びを云いそうにした。とよの責任でないのは分っていた。伸子は急いで顔洗いに去った。
 ――伸子はあの毬藻が好きであった。珍しいその藻の生活状態を、阪部から説明されたからばかりでなく、形も色も愛らしいものであった。佃が誰かから貰ったものだったら、そうむざむざ棄てなかったろう。伸子はそう思うと惜しい気がし、命ある毬藻が哀れにさえ感じられた。昨夜彼はそんなことは一言も云わなかった。伸子が阪部に、毬藻の怪しくなって来たことを話していたのに。
 二時過、伸子は家を出て丸善へ行った。昨夜、阪部が、今日丸善へ参考書を註文しに行くと云う話が出た。
「丸善――私も何か見に行きたいな」
 すると、佃が云った。
「行くなら、こないだ送って貰った中に返すのがあるからとりに来いと、杉君に云って下さい」
 出かけるまで毬藻のことが伸子の心にこだわっていた。彼がわざと棄てたとはっきり分るのが実にいやであった。彼女は暫く躊躇した。けれども考えているうちに、彼女は拘泥している自分が腹立たしくなって来た。彼女はとよに、
「おかえりになったら、丸善で阪部さんに何かあげるものを見つけてから、動坂へ行ったと申上げておくれ」
と云って出た。
 丸善の二階へ昇って行って見ると、阪部はもう数冊の本を選び出し、番頭と何か話しているところであった。伸子は先ず夫の伝言を果した。阪部は植物学を通俗的に書いたいい本を伸子に示した。
「――こういう風な書き方は、我々大いに学ぶ必要があると思うが、どうです」
「植物の生活」ファブルが子供のために書いた著作にどこか似た文章であった。伸子は、別な棚で自分の欲しいものを見たが無かった。阪部が航海中読むようにと一冊の本を買い、一時間ほどで丸善を出た。
 朝からの小糠雨はまだやまなかった。全市が一枚の濡れた大外套のようだ。それから、湿っぽいねばつく靄が立って、遠方の高い建築物をぼやかして見せた。傘を拡げたなり高くかかげて、向うから来る人と衝突するのを避けながら、阪部が、
「さて、どうします」
と伸子にたずねた。
「いやなお天気ね――これでは歩く気もしないわね」
「どちらへ帰ります」
「私? 今日は動坂」
「ではお茶でも飲んでお別れしようか」
 彼らは、ある家族的喫茶店へ入った。阪部はいつも話好きだが、その日は特に話題が尽きなかった。彼がいつか書きたいと思っている、さっきの植物学のような本のこと、今度の南洋旅行で、附属的な収穫としたいある人類学上の興味ある計画について。伸子が阪部と話していつも面白いと思うのは、彼が一種綜合的な天質を発露させて植物学に携わっている点であった。彼が変形菌のことを話せば、必ずそれはどこかで今日の生きている人間の社会生活と関係を持つ結論に達した。顕微鏡的報告に終らなかった。そこに彼の話の活々さと魅力があった。喋っているうちに、ぱっと、店内の電燈がついた。大理石のテーブルや、鏡をはめこんだ柱が、俄に夜の銀座らしく輝き出した。
「――さあ、そろそろ動き出しましょうか」
「ああ大分今日はしゃべりましたね」
 阪部は時計を見た。
「何時? 四時すぎたでしょう」
「二十分です」
 彼は勘定をしながら、考えていたが、
「どうです、どうせ食べなければならんものだから、夕飯を近所ですませませんか」
 伸子は、
「そうね」
と云ったが、
「――こうなさいな。もしあなたが明日立つのに一人ぽっちであがるのお厭だったら、動坂へいらっしゃい、今日は父も帰る日だから丁度いいわ」
 阪部は、伸子の心持を理解したらしく、
「――成程」
と云った。
「佐々さんにお目にかかるのも愉快だな、ではそう願おうか――突然でかまいませんか」
「いいでしょう。――よそへ行くよりよくてよ」
 伸子は、動坂の家へ電話をかけた。
 途中で、何かの話の端につけ、阪部は、
「――今日のことは――まあ云わん方がよかろうな」
独語ひとりごとのように云った。
「何のこと」
「いや、この間の様子でも、佃君は一種の病人ですよ、精神的に――。だから、病人には病人を扱う心掛が必要だろうと思う。つまり、聞かせる必要のないことまで聞かせるに及ぶまいというのです」
「――……」
 それは不愉快な注意であった。伸子は、阪部からそのような言葉は予期しなかった。

 阪部の言葉は印象濃く、数日経った後まで彼女を滅入らせた。阪部との遠慮ないつき合いを、伸子は数年来安心して楽しんで来た。彼と話すことは面白く、刺戟された。彼も、伸子のやんちゃや知識慾やを、楽しんでいたらしかった。親しい年の差の多い叔父姪のようないきさつで、極めて自然に彼が好きなのに、何だか警戒的にならざるを得なくなった。毬藻をくれた者と、それを棄てた者との、男の本能が、呑気に甘たれていた自分を挾んで暗黙のうちに対抗したのかと思うと、伸子は侘しく感じた。自分は、どっちにつく者でもないのに……。
 妙に寒い日が続いた。伸子は腸の工合を悪くしたので、なお元気がなかった。仕事がちっともできず、彼女は、単衣の上から母の羽織を借着などし、家の中をうろついて暮した。
 ある日伸子は珍しく、今日こそ、と意気ごんだ気持で床を出た。彼女は、紺絣の元禄袖の着物で、どたどた食堂に行った。珍しく両親がテーブルに向っていた。
「――お早うございます」
 云いかける伸子に向って持った新聞と一緒に手を振り、多計代が空虚になったような声で云った。
「えらいことができたもんだね」
 見ると、父も別の一枚を読みながら、いつにない表情でいる。伸子は、その肩越しに紙面を覗き込んだ。三段ぬきの大見出しが瞳に映ると、伸子は、頸から鳥肌立つような打撃を受けた。彼女は、そこに坐ってもう一枚を拡げ、一気に読んだ。読む字はわかるのだが、字面から来るものが多すぎ、理性から溢れるという心持であった。ある尊敬されていた文学者がある夫人と自殺した事件が報道されているのだ。伸子は読みなおしながら、何とも云えぬ悲しみと畏怖で震えるようになってきた。口が利けなくなり、彼女はやっと物を云い出した両親を置いて部屋を出た。
 ×氏は、四十歳をよほど越した上流出身の、教養と才能と同時に人間的敏感さを多分に持った芸術家であった。理想家で、愛妻を失ってから二人の児の父とし、孤独を守って生活していた。作品の詩趣と、その特殊な境遇がいろいろの方面に若い女性の崇拝者を作ったが、伸子はそういう側からでなく、反対に、更に偉大な人及び芸術家として自分を完成させるため、彼が激しく行っているらしい内面的争闘にひどく心をひかれていた。最近書かれた長篇が、伸子に多くそういう点での暗示を与えていた。彼女の理解した×氏は、この一二年間に、必ず運命的な転向を芸術上生活上にしなければならない時間に迫っていたのだ。そこを、ぐんと! そしたら彼は第二の天から、第一の天へ昇り得るであろう。伸子はその時をどんなに心待ちにしていたであろう。伸子は、芸術家の運命、特色ある性格と環境とのみ合いを、よそごとと思えぬ年齢になっていた。彼女は、待っていた。そして見て。――
 その期待のただ中に、今日の報道がもたらされた。全然、夢想もしない形で。彼は飛んだ。上へか? 下へか? 伸子が全心に感じ得ることは、その疑問に対する理智的な返事ではなくて、彼はそうした。彼は偽りを云う人でない。そういう恐ろしい確認ばかりであった。事件には人を沈黙さす誠実の威力があり、超人力の何ものかがある。それが伸子に苦しい。ひどく苦しかった。自分という、現在揺れている弱い存在の根にまで響が伝わった。
 伸子は、食事ができなかった。一日、感動に漂って一人坐っていた。その夜、努力したが眠れなかった。涙が出る以上の緊張が精神を掴んだ。
 告別式が翌日の午前にあった。伸子は、父とそれにつらなった。白布の敷かれた上を祭壇の前まで進み、おびただしい白花に覆われた裡の一枚の写真で再び故人の温容に接すると、きのう新聞を見た時と同じ、それ以上の苦しさが新たに彼女をしめつけた。「彼は飛んだ。上へか? 下へか?」涙がこみあげて来た。外側の関係からみれば、彼女はそのように泣くほど故人と近い者ではなかった。式に列している親族の前に、伸子はきまりわるかったがその涙を制することができなかった。



 電車が九段坂とお濠との間の狭い軌道を、のろのろブレーキをかけて下り始めた。三分の一ばかり進んだ時、前方から、手に赤旗を持った男が小走りに駈けて来た。運転手に向って何か叫んだ。運転手は、いそぎ両手で更に強くブレーキを締めた。電車はいやな軋みを立てながら、勾配の急な坂路に不安定な位置に停った。
「何だ、どうしたんだ」
 車掌が、下りて行った。数人の男が、ざわめいて窓から無理に前方を覗こうとした。
「爆破作業のため、三十分停車いたしまアす」
「――なあんだ」
と、気色ばんだ男達は当がはずれたように席に復した。
 車内は、一時しんとした。やがてぽつぽつ話声が起った。関東に大震災があってから一ヵ月あまり経っていたが、東京人は、まだ当時の亢奮からすっかり回復していなかった。人は、寄り集ると火の手の工合だの逃路の相談などをせずにいられなかった余勢で、お喋りになっていた。
 まとまりない雑談が、見も知らぬ乗客同士の間に交され始めたが、中で一きわ高いしゃがれ声が伸子の注意をひいた。その男は、明日公判のある甘粕の行為を、日本男子の亀鑑だと極力賞揚しているのであった。ひどく挑戦的な憎々しい調子で、さかんに社会主義者はどしどし殺しちまえと云っていた。露骨なわざとらしさを不快に感じるのは、伸子ばかりでないらしかった。彼女の前にいた若者は、無視しようとしても耳に入る文句にいらいらし、靴の爪先をばたばたやっていたが、遂にくるりと窓の方を向いて濠を見下しながら、トラヴァトウレを口笛で吹き出した。晴れた十月の午後の日光が、神田の平らな焼跡一帯を照していた。
「――ちぇっ」
 やがて立っている伸子の背後で、舌打をする音がした。
「たまんねえな、根が生えちゃうぜ」
 伸子は時計を見た。もう三十分は十分経っていた。
「ドカンて云わないうちゃあ何分経とうが立往生だよ。下りちゃおうよ、何でもありゃしねえや、たった三町場ぐれえ」
 その後の空いた席に、彼女は腰かけた。後の高い煉瓦崖にじりじり反射する秋日和で、日除け扉を下したそちら側はむっとする。隣りに、ネクタイなしでソフトカラアによごれた夏服をつけた薄禿の男がいた。左の手に手帳を持ち、短い鉛筆の先をなめては、文章の推敲すいこうをしていた。講談本でも読むように節をつけて繰り返し自分の書いた文をよんだ。
「一度肉体死スルヤ、其霊魂ハ、遊行ゆぎょうシテ――遊行シテ……と」
 そこで行きつまり、更に初めから、「ヒトタビ、ニクタイシスルヤ」飽きず反覆している。――反動主義の男は、相手がないのでいつか静かになった。
 いきなり、ドドーンと地を震わせて爆音がとどろいた。電車の窓硝子が一どきにビリリとした。
「やったな」
 待ちくたびれ、ぼんやりしていた乗客は、俄に活気づいて窓外を見た。半分焼け遺り、孤独に突立っていた煉瓦の大建築の残骸の横から、濛と黄色っぽい大きな煙が昇った。続いてもう一つ爆音。悠々と立昇った煙が、まだ棚びいている前の煙と重々しく合した。煙が散ると、もう、さっきの高い建物は跡かた無くなっていた。空の広さ、日の燦きが異様にはっきり感じられた。雄大な寥しい光景であった。
 ふと、女の泣きながら物を云う声が伸子を驚かした。気がつくと、彼女の隣りに、三十五六のやつれた女房が包みを抱えて腰かけていた。ドドーンと爆音がした瞬間、その女はいたたまれないようにきょろつき、誰にという当もなく、
「ここにいて大丈夫でしょうか、ね、大丈夫なんでしょうか」
と口走った。その声が、泣きながら唇を吸いこんでしゃべるように響くのであった。
「――皆さんがいらっしゃるから大丈夫なんでしょうが……」
 しかし、ドドーンと土煙が彼方にあがると、彼女は再び怯えて自制を失った。
「ああ、本当に大丈夫なんでしょうか」
 伸子は、自分まで悲しいような惨めな気がした。
「大丈夫ですよ。あれは工兵がしているんだから――安心なさい」
 なお二十分以上待ち、電車はやっと走り出した。
 伸子は動坂へ古雑誌と衣類を貰いに出かける途中であった。彼女は直接震災に遭わなかった。けれども、廃墟になったような大都会の光景が、強く彼女の心をった。反動的な生活力が市民のすべてを捕えた。彼女は、今まで失っていた生存感の凝集を感じ、数人の女性と震災罹災者慰問の仕事に携わったりしていたのであった。

 結婚してから四年間、彼女の生活は内面的に、夫との組み打ちの連続であった。ひどい機関の音ばかりする工場に四年働いた人間は、きっと鼓膜が変になって、普通の物音など聞えないようになってしまうだろう。伸子の精神状態も全く危機にあった。次第に緊張し張り切って来る心の苦痛で彼女は一種の偏執狂モノメニアになりかけであった。一人静かにいる時、彼女は、この生活がいつまで続くかという恐怖の塊りであった。もう涙など落ちず、冷静と云えるほど落着いて、どうしてここから逃げ出そう、本当に、彼は自分で云うよう、じきに死ぬだろうか、死ぬとたいへん自然に片づいてよい――そのように考える。執念深く、一日じゅう飽きず、そのようなことを思いつづけた。その癖、逃げるなら逃げる実行方法を計画するかと云えば、伸子の精神からは、健全な意志が腐れ落ちたような有様であった。彼女に決心というものは殆ど何一つできなかった。ただ思う、思う。彼女は夢のうちでさえ、そのように思い悩んでいるままの自分をみた。
 その夏、伸子は、佃に連れられて彼の故郷に行っていた。二階を自分の部屋にしていたが、そこは二階と云ってもちゃんとした部屋ではなく、いわば屋根裏の物置であった。広い板の床の上に畳を五枚敷き並べ、彼女はその隅に机を置いて暮した。三尺に一間の小窓があり、そこから大樫の木の梢が見えた。その樫の木に終日油蝉が鳴いた。一面の青田で、日中は一ふきの風も動かぬ、もーっと水蒸気のかかった八月の暑さを、その蝉の声は更に堪え難くした。伸子は流れる汗を濡手拭にふきつつ、病的な根気でその日その日を送っていたのであった。
 はからず、震災は伸子を、そのような意志喪失からひどい力でたたき出した。驚きが、先ず彼女をしっかりその足の上に立ち上らせた。次いで、普遍的な生活の建てなおしの意気が、彼女の心でも火をおこすふいごうとなった。――九月七日に、動坂から赤坂まで徒歩で帰った。途中、九段まで来て、来た方を顧みた時、荒涼とした焼跡の東京が面をあげて伸子に迫った。その感動を、彼女は忘れることができなかった。
 その秋、伸子は実感をもって生命の能量カパシティーを知りなおした。


 十月のある朝、飯をしまうと、佃が、
「そこいらで壁に貼る紙を買って来てくれませんか」
と云った。
 赤坂の家は、地震の時ところどころの壁が落ちた。そのまま月がかわったのであった。
「素人じゃ無理でしょう、今になおしに来てよ」
「やってしまいましょう――いつ来るか分らないんだから」
 伸子は、佃が指図した色の紙と糊とを通りへ出て買って来た。あぶなっかしい経師屋が始まった。畳の上に新聞紙をひろげ、伸子が糊をつけた紙をつまんで渡すと、椅子にのった佃が壁に貼りつける。午前と午からじゅうその仕事をした。伸子は常からそういう仕事はじき厭になる性分であった。
「もう今日はこれだけにして置かない?」
 彼女は一二度区切りに来た時云った。佃は、先、庭へセメントの池を拵えた時もそうであったが、働きを程々でやめるということのできない人であった。やりだすと、自分も傍の人間もうんざりしきるまで頑張ってやる。その時もその伝であった。すると、敷石を靴で来る跫音がした。伸子は糊刷毛のりばけを手に持ったまま耳を澄した。
「――御免なさい」
 伸子は、その声を聞くと、糊をといてある丸盆を飛び越えて玄関へ出た。
「姉さんいる?」
「いるとも!」
「やあ――今日は」
 和一郎が来たのであった。和一郎は九月一日に小田原から鎌倉へ行き、五日まで生死不明であった。中旬になって、やっと軍艦で帰京した。赤坂へはそれから初めてであった。
「――大変なのね、上ってもいい?」
「さあさあ、いいとも――和一郎さんが来たのよ」
と、伸子は働いている夫に声をかけた。和一郎は、伸子の後について、いっぱいとり散らした新聞紙をよけ、爪先立って奥の座敷へ入って来た。
「今日は――」
「いらっしゃい」
 佃は、和一郎に背中を向けて椅子の上に立ったまんま、一言あいさつしたぎりであった。――伸子は感じたものがあり、和一郎を隣りの部屋につれ込んだ。
「お茶が入ってよ、いらっしゃらない?」
「私はいりません」
 時々夫の様子を見に行っては、伸子は和一郎と久しぶりでいろいろしゃべった。何ということなく話はつきず、彼が訪ねてくれたのは嬉しい。佃が壁貼りをやめて、せめて、茶の一杯も仲間に入って飲んでくれたらどんなに和一郎も自分もくつろげるだろうかと、伸子は残念に思った。佃が働いているという意識が彼女の楽しさを曇らした。やがて佃は、脇の下へ紙の巻いたのを挾み、上に糊盆をのせた踏台を持って、彼らのいる六畳へ入って来た。
「ちょっとどいて下さい。ついでにここもやってしまいたいから」
「――本当にもうおやめにしてゆっくりしましょうよ、ね? 折角和一郎も来たんだから」
 伸子にすれば、今日一日壁から風が入るくらい平気なのであった。けれども佃は、自分で茶盆などを片よせて、新聞をひろげ始めた。
 仕方なく、彼らは、
「さあ、逃げだし逃げだし」
と、今度は茶の間へ行った。和一郎は椅子にかけている。境の障子をあけて話しながら、伸子は台所で働きだした。弟が無事であった心祝いのつもりが彼女にはあるのであった。
「何か註文ないこと? 今日は少し御馳走してもいいわ」
「素敵だな――何でもいいや」
「玄米でげっそりしていたんでしょ」
「うん、もう平気。――僕ね、一緒に食べさえすりゃいいんだから、あまり姉さん心配しない方がいいや。一人で大変だもん」
「何にしよう、この辺ちっともおいしいものなんぞないのよ」
 ところへ、佃が入って来た。が今度は改めて断りもなく、彼は片端からどしどし黄色い壁を落しだした。和一郎は黙って立ち、八畳へ行ったが、そこも畳に新聞が敷き散らされていたので、彼はやむなく椅子を縁側へ出したらしい。台所と茶の間の境の敷居の上に佇んで、佃の喧嘩ごしな様子を見上げ、伸子は夫の気持を推察するに苦しんだ。佃は、和一郎にまでやつ当りするどんな理由を持っているのだろう。伸子は不本意であった。
「ここは私いつか自分でするから今日はやめて下さらない? 家じゅう、御飯たべるところもなくなってしまうから」
「御飯なんかまだ食べませんよ」
 彼女は思わずむっとしたが、和一郎に聞かせたくなく、きっと踏台に乗って立っている佃のズボンのポケットのところを引っぱった。
「なんです?」
 伸子は、夫の耳に仰向き、小声で、
「ね私、今日和一郎にゆっくり御飯をたべさせてやりたいのよ。帰って初めて来てくれたんだから。――お願い、ね?」
 佃は躊躇する気色だったが、再びくるりと壁に向って立ちなおった。そして伸子のささやきに答える代り、高く聞えよがしに独言した。
「――いつも食べるばっかりに来たって何にもなりゃしない!」
 伸子はやっとこらえた。憎悪と涙が心に溢れた。彼が反感から、――伸子が佃より弟をちやほやすることに対する反感か、或は和一郎の気がねをしない親しさを曲解した反感からか、わざと部屋部屋を引きちらかし、和一郎と彼女に落着く場所も失わせるのだと感じずにいられないようになった。和一郎までなぜそのように扱わなければならないのか。佃の背中を睨みつけ立っていると、やや荒々しい跫音で和一郎が八畳から出て来た。
「僕帰る」
 伸子は、喉がつまったようで返事が出なかった。
「…………」
「飯なんぞいるもんか!」
 和一郎は帽子かけから帽子をとってかぶり、靴をはき始めた。伸子の前には和一郎がこごんでいる。直ぐ左の柱はずれに、踏台に踏みひろがった、佃の二本の脚が見えた。伸子は、どうしてくれる、といきなりその脚を払って引っくりかえしてやりたい激情を覚えた。靴をはき終り、和一郎は伸子を見て、
「左様なら」
と云った。もうそれは七時近くであった。実に堪え難く、彼女はやっと云った。
「またね、じゃあ。――御免なさい」
 格子が彼の後にしまると、伸子は涙が出て仕方なかった。和一郎がもしか金を持っていなかったらと思うと伸子はなお堪らない心持になった。彼女は踏台から佃を無理やり引きずり下した。彼女は熱し云い争った。佃はそうなると、例によって、
「そんな気じゃあなかった」
の一手で伸子が疲れきるまで己を守った。
 ――その時のことを後から思い出すと、伸子は佃の心の寂しさ、自分の寥しさが心に迫るのを感じた。伸子は自分の悲しみや、怒りが間違いであったとは思わなかった。ただ自分の気持の一重底に流れているもの、それが寥しい。それは、いつの間にか自分には夫の佃より、再び血族の父や弟の方が可愛く大切になっているという、新たな自覚であった。
 四年前、彼らの恋愛の初め、結婚しようとする時、どんなに自分が両親その他に反抗したか追懐がはっきり伸子の心に浮んだ。彼女はその頃、血に伝わるいろいろな伝統に形と精神とで反抗し、自分だけは別種な、もっと自由な、もっと確乎とした生存になりたいという大望を抱いていた。だんだん結婚という接木が不成功であることの証明された今、また自ら血が血をよんで自分は血族のうちに牽きつけられようとするのであろうか。本能の不思議な力。しかし、伸子には努力して出て来たところへ再び舞い戻らない信念はあった。蛇はどんなに傷いてももう去年のぬけ殻へ、二度と入って行くことはできない。……


 年がかわった。
 四月に入ってから、ある日、伸子は楢崎の書斎でしゃべっていた。書斎の窓から田端の高台が見晴された。数日来風が強く、やっとその日いだ日光と風景であった。
「眺めが変ったことね、この前上った時分から見ると――」
「そうでしょうとも、もうすっかり春ですよ」
 佐保子は正面の椅子から立ち上った。そして伸子に横顔を向け、硝子の外を覗いた。
「木蓮どうしちゃったかしら――この間じゅう、あちらの部屋に坐っているとそれは綺麗でしたよ、早く来れば見られたのに」
 束ね髪だが、こめかみのところで鬢の毛が張り出し、古典的な横顔に美しい趣を添えていた。ややあり、伸子が云った。
「――でもあなたは一種の力をもっていらっしゃるのね」
「ほ、ほ、ほ」
 佐保子は特徴ある笑声を立てながら、また元の場所へ戻って来た。
「大変なことになったのね」
「でも、そう思うわ、とにかくあなたのところへは、ぐうたらな気持のまんまでは上れないようなところがあるわ」
「窮屈なのよ、世間知らずだから。私それは間抜けなんだもの」
 佐保子は伸子より十幾歳か年長で、文学上の先輩であった。女学校の四五年時分から伸子は彼女の制作に親しんでいた。自分がこれから進もうとする道に既に踏み出している先達、そういう意味で尊敬と刺戟を感じつつ数年経た。ところが偶然の機会から交際が始まった。互のよいところで鼓舞し、仕事で励み合うという種類の友愛がかもされた。佐保子が永年の間いろいろの困難や苦痛と黙って闘いつつ、たゆまず芸術をみがいて行こうとする努力の姿は、伸子にとって少なからず薬であった。結婚してから生活ががたがたになり、何にもできないとき心がぐちで漲っても、伸子は佐保子にそれをとても訴え得なかった。佐保子はもっと辛さを知っているかもしれぬ。それをあのようにしっかり堪えてやって行くではないか。そう思うのであった。
 話のつづきで、部分的にそういう心持を告げると、佐保子は、
「あなたなんか買いかぶるのよ」
と、しんみり笑った。
「――でもね、今は私ある程度まで生活というものを客観的に見て落着けるようになったけれど、こうなるまでには昔持っていたよいものもたくさん失ったわ。――人間というものは一つ得るためには何か他の一つを犠牲にしなければならないものなのね」
 佐保子は、その頃ロシアの貴族出身で、十九世紀末欧州で最も尊敬された女流数学者、並に作家であったある女性の伝記を翻訳していた。
「どうなすって、翻訳――おすみになって?」
「ああ、もうじき出ますよ、出たら是非読んで下さい。私がソーニヤを愛さずにいられないわけがわかりますよ。本当に我らの女性という気がしてよ」
 扉をノックする音がした。
「はい、お入り」
 若い女中が、伸子に挨拶し、取次いだ。
「吉見さんがいらっしゃいました」
「まあ」
 佐保子は椅子の上で体を揺るようにし、伸子を顧みた。
「珍しい人が見えたこと、今日はいい日ね、好きなお客さんばかりあって。――伸子さん、かまわないでしょう?」
「――――」
 吉見という人が女か男かさえ見当つかず、伸子はぼんやり、
「どうぞ」
といった。
「じゃあ、こちらへ。そしておいしくお茶を入れて来て下さい」
 女中が扉をしめて去ると、佐保子は、やや蒼白い皮膚の下から悦びが照り出すような表情で、伸子に説明した。
「私の古い古いお友達なのよ、一寸変ったところがあるけれども、それは心が清い人、率直で。――やっぱり一年に何度というくらいしか来てくれないけれど、あなたにもきっといいお友達ですよ」
 直ぐ階段に跫音がした。ノック。扉が開き、好奇心と期待とを佐保子の言葉から感じた伸子の前に一人の女が現れた。
「こんにちは」
「今も悪くちを云っていたところよ、あなたが稀にしか来てくれないって」
「あなたの方がもっとひどいじゃありませんか、こないだ来てくれたのが初めてだもの」
 二人の話しぶりには、伸子と佐保子との間にある気分と異ったものがあり、伸子は思わず微笑して、問答する彼女達を見守った。
「御紹介しましょう、佐々伸子さん、こちらは吉見素子さん、お父さんのすねかじりのいい身分の人ですよ」
 素子は、
「変な紹介だな」
と云い、苦笑した。
「これでも食うだけは自分でどうにかしていますよ」
「――××××の編輯へんしゅうをしていなさるのよ」
 伸子は、思わず素子の顔を見た。我儘っ子らしい、感情家で勝気なところがあるらしい素子の第一印象と、彼女が一度だか見たことのあるその時代にすてられたようなある団体の機関雑誌とは、およそかけはなれたものに感じられた。素子はてれたように、
「いやんなっちゃうな」
と、赧くなって笑った。伸子も笑い出した。赧くなった素子の棗形なつめがたの小麦色のきめの滑らかな顔付に、ひどく稚い純な魅力を感じた。
「――あれ、全くつまらない雑誌ね」
「ええ。金をかけないんだから、とてもいいものはできないんです、つぶした方がいいんだけれど……」
 大阪鮨をたべながら、佐保子が云った。
「私ね、そりゃ出不精で不忠実な友人なんだけど、この間ふと吉見さんの家を訪ねたのよ。そしたら、この人は、大きな大きな実に堂々たる机の上に山ほど物をつみ上げて、ほんのこれぽっちの」
 両手で、五六寸の幅を拵えた。
「隙間で何かしているんですもの。――滑稽な人ね、あの落着く二階へあんな立派な調度があれば、私だったらそりゃ勉強して見せるわ」
「二階を借りてらっしゃるの?」
「――――」
 素子が口を開かない先、佐保子が教えた。
「いいえ、ちゃんと一軒占領しているのよ、自分は二階へ納まって下に夫婦を置いていなさるの」
「いいのね、羨ましいくらいだわ」
「御覧なさい、伸子さんでさえそう云うでしょ。何と弁解したって、いい身分なのですよ」
 素子が着物や帯、細々した紐などをある趣味で選び、身につけていることが一目でわかった。このような服装のできる、そして専門は露西亜ロシア文学の、独りで一軒の家の主人となって自由に暮していられる女性の生活が、伸子にはひどく悠々独立的なものに想像された。
 五時頃、佐保子が、
「伸子さん、ゆっくりできるんでしょう」
と訊いた。
「ええ、今日はすっかり楽しむ積りなの」
「では、皆で自笑軒へでも行きましょう、父さんの都合を一寸訊いて見て」
 先へ出かけることになり、三人は、昔風な植木屋などの未だ残っている夕暮の田端の通りを、茶料理までぶらぶら歩いた。途中、ある寺を通り抜けた。素子が、
「ここを雪の朝通ったことがありますよ、あなたのところへ泊った朝早く」
と辺りを見まわした。
「そうそう、いい雪見をしたって、――五時頃じゃなかったの? 私びっくりしましたよ、あまり早くかえってしまうんだもの」
 自笑軒で、奥の茶室に通された。伸子は地震後は初めてであった。壁などところどころ痛んではいたが、隅に貼りまぜの小屏風などを置いた部屋の様子は悪くなかった。三十分ほど遅れて、楢崎も来た。
「もう暗くて見えないかな、多分この庭の奥に何か祭ってあった筈だが――」
 大観(多分)が月の好い晩ここの家で酔い、興にのって低い白土塀に墨絵の竹を描いたとかいう庭が彼方にあった。
 酒を飲む人がないので食事はじきすんだ。殆どあっけないくらいであった。
「ただむしゃむしゃ食うのは何だか不風流で手持無沙汰なもんだな」
「いやに、また、はかどらせるんですね」
 皆笑った。
 帰り、玄関から暗い門までの飛石を、女中が先に立ちぼんぼりで足元を照した。
 また田端の通りを、今度は停留場の方まで四人一列になって歩いた。人通りがなく、少しの風が出て、呉服屋ののぼりがはためいていた。伸子は万世橋まで素子と一緒の電車で行った。伸子は赤坂へ、素子は牛込に帰った。


 十日あまり、伸子はいい季節なのに拘らず、引籠って暮した。楢崎へ遊びに行った前日、一通り書き上げた小説を書きなおしていたのだが、伸子は仕事の快感をあまり楽しめなかった。書き足りない気持、心全体が流露し切っていない意識、――従って、自分の本当の内的な発育の上には大して意味のない作品という気が書き終ると強く遺った。伸子は、その小説で、ほんの端っぽを掠め、技巧的に曖昧に自分の結婚生活の内部に触れた。書き上げて見ると、伸子はいろいろ自分の虚栄心や綺麗ごと好きな弱い根性やに心づいた。細君として実際自分が泥濘でぼたぼたやっている間は、とても素直に自身陥っている泥の穢さ、自分の馬鹿さなど自分に向っても承認し得ない、女らしい小さい意地が突張るのを感じたのであった。
 一蹴りきつく地面を蹴って、海に躍り入るように仕事の内に飛び込み、頭から足からもまれ洗われ、すっきり更新した自分になりたい慾望が、かえって伸子の内に激しく募った。心が離れきっている佃と殆ど形だけ夫婦らしくしているのも、伸子は、つまり自分の卑怯さからだと明かに感じるようになった。これまで彼女は自分のそのように不決断な気持を、愛すべき未練や、彼を最小限に傷けてすむ方法を見出したいと思う幾分の好意に原因しているように思わぬでもなかった。今考えると、しかしそれも、主我的なものを含んでいると思われた。つまり、自分はできるだけ気楽に、妥当な理由をつけ、彼からも他の周囲からも、あまり悪い子と思われないで目的を達したいという、虫のよい魂胆があったのではなかったろうか? 佃が自分にとってどのように不満な夫であるかを説明するより、伸子自身先ず、私はもう彼が愛せない、どうしても妻であるのは厭だ、と宣明する勇気だけが必要なのだ。どんなにすかされても、忠実な彼の妻として生涯を過せないのである以上、そしてそれを自分で評価し信じている以上、なぜ、憎まれても、エゴイストと云われても泰然たる覚悟をしないか。――自分の内に、佃の受けるだろう同情(世俗的なものとわかり、本当の価値は認めない癖に)に対する嫉妬があるらしく、それを思うと伸子は我を卑んだ。
 ふらりとそこへ素子が、訪ねて来た。伸子は意外な、嬉しさを感じた。先夜、近いうちに行きましょう、訪ねましょうと別れたのであったが、素子が約束を、そう早く果そうとは思っていなかった。
「――やっぱり先を越されたわね」
「不精なんですね、あなたも……」
「ひどいの」
 上りながら、素子が、
「いそがしいんですか」
と訊いた。
「もう暇よ」
「少し出ませんか。もしよかったら散歩に誘おうと思って来たんだけれど」
 伸子は素子に待って貰い、支度をして家を出た。日傘なしでは眩しいくらい快晴であった。二人は昼飯前であったので、初め銀座に行った。軽い食事をすませ、素子が用事のあるK新聞によってから、帝国ホテルの横を通って日比谷公園に入った。
「日比谷は珍しいわ。何年来ないかしら……」
 素子がびっくりしたように聞きとがめた。
「――そんなに出ないんですか?」
「こんなところ、一人でてくてく歩いたって仕様がないようなもんじゃないの」
 内幸町から入る門の附近には、まだバラックが大通りの樹蔭に軒を並べていた。食物ばかり売る店が続いていた。「一寸一杯酒肴アリ」立看板がある。汁粉雑煮、ワンタン屋、汚水を流す溝や不完全な炊事場から蒸れ臭い不健全な臭気が、ほこりで白っぽくなった春の並木道に漂っていた。伸子がよく子供の時分、大きなリボンをつけて遊びに来た瓢箪池ひょうたんいけのわきに出た。葉の青々した篠懸すずかけの下に池に向って空いたベンチが一つあった。いい加減歩いた彼女らはそこにかけた。
「もう傘なしじゃ無理だなあ、あついでしょう」
 素子は持っていた雑誌で扇を使うようにした。
「でもいい気持だわ、――鴨がまるで愉快そうよ、御覧なさい」
 バラックがあるせいか、日曜でもないのにあたりは割合人出であった。青菜色の労働服や法被姿はっぴすがたの男が多かった。彼らは煙草を吸ったり、新聞を見たりしながら、池の周囲のベンチ、鉄柵の上なぞに休んでいる。地震の時、水禽みずとりをあさって食べてしまったという話の池には、今日水がなみなみと漣立っていた。キラキラ日光が揺れる。水面に二羽の鴨が盛に游泳していた。彼らは時々、急に卵色のみずかきが見えるほど伸び上って威勢よく羽搏きした。水がバシャバシャ散る。水のしぶきの上に、瞬間低い小さい虹がぼんやり立った。無心な、熱っぽい、美しい様子であった。
 直ぐそばに印半纏しるしばんてんの男がいたが、伸子はくつろいだいい心持でいろいろ素子と話した。多くの場合、伸子が切り出す廻り合せになった。チェホフのこと、西鶴のこと、金槐集のこと。金槐集は最近に読み、亢奮が鮮かによみがえったので、伸子は熱心にそれについてしゃべっていたが、突然妙な顔をして言葉をとぎらせた。
「一寸――私さっきから間違えていやしなかって?」
「名ですか?」
「タメトモって云いやしなかったこと? 一度か二度――」
 素子は、はははと笑い出した。
「何だか変だと思った!」
「皮肉やね、黙ってにやにやしているなんて法はないわ」
 自分も笑い出したが、伸子はきまりわるく感じ、少し赧くなった。
「――本当に、あなたが云ったんで、ああそうかと思ったんですよ、どっちみち話はわかるからいいじゃありませんか、名なんぞ」
 思い出すと、二人でこの失策を笑い笑い、彼女らはそのベンチに二時間ばかりいた。
「あなたはどう? 私はね、散歩しても同じ路を往きも帰りも通るのが大嫌いですよ、どうにかして別の路を歩かないじゃあ気がすまない」
 桜田門の方へ抜ける道を歩きながら、素子がそう云った。そんな好みのはっきりしているところ、いかにも素子らしく、伸子は面白いと思った。
 桜田門で電車を待ったが、なかなか来ない。間もなく日比谷の交叉点に故障があることがわかった。西日が、からりと打ち開いた広場を照し、停留場に待っている人物の輪郭が小さく見える。そこから、濠を伝って彼女達は三宅坂まで歩いた。柳の下を歩いていた間、日比谷の方から追抜く電車は一台も来なかった。
 伸子はその散歩でも、少なからず元気づけられた自分を感じた。


 伸子はある日動坂へ行った。母は留守であった。彼女はそれを知ると、庭木戸から隠居所の縁側に廻った。針箱が出ているが、祖母の姿はその辺に見えなかった。
「お祖母さま」
 二声ばかり呼ぶと、台所から祖母が、
「誰だあ、つや子か、あがれ」
と云いながら出て来た。針箱の前に、もう上りこんでいる伸子を見出すと、彼女は一寸亢奮し、
「お前かしゅア」
と笑った。
「いつ来た? おっかさんあいにく出かけたごんだ」
「今日はお祖母さまに用があったの」
「さあ、おしき」
 祖母は、自分の喜の字の祝のとき貰った厚い緞子どんすの座蒲団を火鉢の向う側に置いた。
「おら、きのう須田から帰って来たばかりだごんだ。――あすこでもはあ、これからじょにして行くか困ったもんだなあ、考えておら昨夜睡れなかったごんだ」
 祖母の二番娘、伸子の叔母が須田の細君であったが、地震のとき圧死した。あと総領の女学校を出たばかりの娘が世話を焼いているのであった。
「――仕方ないから、家政婦でも置くのね」
 祖母はそれに答えず、楽の茶飲茶碗を両手の間に捧げるように持ち、一口啜り、
「おら、地震この方、たださえ耄碌もうろくしていたのがなおさら耄碌したごんだ。お静には死なれるし、保科は死ぬし……何しておらのような在り甲斐なしがいつまでも死なないかと思う」
 去年の九月、祖母は東京で、目のあたり血をわけた娘や弟の死を経験したのだ。伸子は、哀れに感じて述懐を聞いた。
「そろそろ時候もよくなったから、お祖母さまKでゆっくりしにいらっしたらどう?」
「そうよなあ、見に行かなけりゃ草屋にして置くなあ」
「私近くに行きたいから、一緒にいらっしゃらない?」
 意外そうに、祖母は伸子を見た。
「ほんとうか? お前が行くならおらも行きたいごんだ」
「私もいいわ。お祖母さまも、いつがよくて」
「今日でなければ、おらいつでもいいが――」
 祖母は、急に年よりらしい気ぜわしさで煙管をはたきながら、聞いた。
「――家の方はなじょにする?――佃さんにお訊きしたのか、お前」
「それはいいのよ」
 伸子は祖母の心配を遮るため、簡単に軽く答えた。
「私、来月早々立ちたいから、じゃ、お祖母様そのお積りでいらして頂戴」
 頸に力を入れ、しっかり合点しつつ、満足そうに祖母は、
「よし」
と答えた。
 母の帰るのを待たず、伸子は家を出た。停留場のわきにメリンス屋があり、店頭に正札つきの友禅を吊って売っている中に、一つ目についた柄があった。価もやすい、思い立って、伸子はそれを一丈切らせた。彼女は遠くから華やかな臙脂えんじの模様を見ているうち、田舎の家では、夜具の肩当も座蒲団も、何もかも茶と黒ずくめの色彩なのを思い起したのであった。
 佃が、伸子より少し前に帰宅していた。彼は、顔を見るとすぐ、
「動坂へ行ったんだって?」
と訊いた。
「ええ」
「電話でもかかったの」
「いいえ、そうじゃなかったけど――誘いに行ったのよ、お祖母さまを」
「――へえ……」
「私またKへ行きたいから誘いに行ったの」
 佃は厭な顔をして黙り、こちら向いていた顔を机の方にねじった。行ってもよくて? 或は、ね、いいでしょう? と自分が云うのを待っている夫の期待を感じたが、伸子は意識して沈黙をまもった。伸子の心には、捨身になった結果生じた余裕のようなものがあるのであった。
 暫くして、佃が露骨に喧嘩っぽい調子で詰問した。
「――気を換えに行くんですか、それとも別れるために行くんですか――こちらにも都合があるから聞かせて下さい」
 語気は激しいようであったが、それを本気の本気で佃が云っているのではないことを伸子は直覚した。これまで、いつも自分が間抜けに佃の云う言葉を最大限に受け、その場で結着をつけようとしたため失敗ばかりした。伸子はそれに気づき、妙な笑いを浮べながら逆に訊いた。
「あなたはどうお思いになるの?」
 佃は、自分からはどちらにも見当をつける冒険を敢てしきれず、憎しみをこめて横目で伸子をにらんだ。その顔を見ると恐怖の代り、彼女自身をおどろかして、切れ切れな軽い意地悪なわらいが勃発した。彼女は毒々しいところのある優しい声でゆっくり云った。
「――憎らしい?」
 佃は体のどこかを突き刺されたような恐ろしい表情をした。夫の苦しみが伸子の魂にりついた。ああ、彼は苦しいのだ、苦しいのだ。しかし、伸子は夫と自分とを刻む苦痛に酔ったようになって、口許に凍った微笑を漂わせながら、さも好いことでも告げるように、一言一言はっきり、
「私も憎らしくって憎らしくって堪らないのよ、あなたが……食われているような心持」
と囁いた。むせ返るように、佃に対する憎悪と自己嫌悪がこみあげて来た。伸子は目の前が暗くなるような心持で部屋を去った。
 七日か八日にKに出発する予定であった。佃は例の如く毎日学校へ出てゆき、夕刻かえると、見ぬようにして必ずそれとなく部屋の様子をうかがった。伸子が旅行の支度を今日はしたか、どんなにしたか、と思って、彼は帰って来るのであろう。だんだん日は近づくのに、何一つせぬ彼女を待切れなくなった彼は、ある日、
「本当に行くんなら支度をしたらいいでしょう」
と、気を引くように云った。佃がさりげなく、しかし荷物はどんなかと思いながら我家に帰る気持を感じるだけで、伸子は既にいい加減参っているのであった。彼女には、仰々しく支度するだけの元気がなかった。伸子はおこったように、
「騒ぐほどのものはいらないのよ、私のことだから」
と、ぶっきら棒に答えた。ぼんやりと主婦がいなくなることを知った女中が、教育のある物わかりのよい女であったに拘らず、何だか落着かなそうに、心の不安を隠して働いているのも伸子には辛かった。一つの家庭が潰れようとする前の圧迫的な解体的な雰囲気。――
 愈々明日立つ筈という前日、伸子は十時ごろ目を覚した。彼女は床の上に起きなおったまま、暫く空になっているもう一つの床や硝子から見える狭い庭、竹垣などを眺めていた。隣りの細君がその言葉だけはっきり、
「またこの頃じゃ小紋流行ですね」
としゃべっている、高い粗野な声、朝の畳のひっそりした感触などが、異様に鮮かな重みをもって伸子の心に写った。すべて見馴れているものだ。すべてを最後に見るという気がした。この畳の上で朝目を覚した時「ああまだここにいるのか」と云い難い苦悩を感じたのは幾度であったろう。生活は不思議なものだと伸子は思った。そこが自分の苦しんだところだというばかりに、先ず家からさえ去り難い思いをさせられる。何でもない竹垣の根元の万年青おもとなどが印象の真正面に立った。――伸子は、夫のいない時、一人静かに家を出て行くつもりなのであった。本当に! 自分の持って生れたよいところ、わるいところ、全存在を傾けつくして愛し憎んだ佃であって見れば、ふと思い出した石ころ一つにもつながって、彼がある時こう云った声、ああ自分を視た眼付が思い出せようではないか。佃もそれと同様に、自分の細かいことまで思い出すであろうと思うと、伸子は、一瞬に互の五年の生活がたたまって自分にのしかかってくるような息苦しさを感じた。
 紅茶とトウストを食べると、伸子はテーブルを立ちながら女中を呼んだ。
「一寸――納戸にある鞄ね、あれを出して掃除して頂戴」
「お立ちでございますか?」
「ああ。今日から動坂へ行っていないと都合がわるいから」
 縁側へスウト・ケイスを出し艶布巾をかける。傍で、伸子は机の上から日記その他必要の文房具をまとめた。ほんの着換えの袷、セルなどをつめた上に、原稿紙をのせた。
「お荷物はこれだけでよろしいんでございますか」
「――もっといれば云ってよこすわ、送ってくれるわね」
「ええそりゃ――」
 云い難そうにしながら彼女はたずねた。
「たいていいつ頃お帰りになりますでしょう」
「帰らなかったら困る?」
と云って、伸子はふざけるように一寸笑った。
 俥を呼ばせた。荷物だけ乗せて動坂へやった。スウト・ケイスが小さいので、俥にそれを幾重にも括りつけた細引の方が目立つようであった。
 佃が帰らないうちに出かけてしまうことはさすがに躊躇された。伸子は悲しく揺れる心で三時過まで愚図愚図していた。が、やがて彼があの声と眼とをもって、これまでの毎日通り格子を開けて来るだろうと思うと、彼女は急に家を出る気になった。
「じゃ、どうぞ気をつけてね」
 表通りへ出るまで、左右生垣つづきの横通りが二町ばかりあった。そこを帛紗包ふくさづつみを抱えて歩きながら、伸子は背後が気になり、我知らず急ぎ足になる厭な気持を経験した。通りはずっとまっすぐ、彼方の大通りまで直角に続いていた。伸子らの家も在る長方形の一区画を凹形に囲んでいるのであった。佃が勤め先から帰る路はきまっていた。凹形の右の道をずっと来て煙草屋の角を左へ、今伸子が歩いている横通りへ曲って来るのだ。いつも人通りすくない細道であったから、彼が角を曲れば、遠くからでも伸子の後姿は見えるわけであった。何かの都合で彼がいつもより三十分早く戻り、あの角を曲った拍子に自分を見はしまいか。後から速足で来たり、口笛をふいたりしはしまいか。――佃は今日、伸子がいずれにせよ出かけることは承知であった。それだのに、なぜこんなに逃げる者の感情が自分につよいのか。自分に反抗し、努めて苦しいくらいゆっくり小砂利を敷いた道を歩きながら、伸子は、人にも話せない感情だと思い、苦い涙が眼に浮んだ。


 田舎に着いた日、その地方は五月の嵐っぽい天候であった。俥に乗って市から村へ通じる寂しい一本道にかかると、荒い幅広い風が幾里も先の山脈からその一筋道に吹き下した。幌がドーッと一陣風を孕むと、俥夫は梶棒に体全体の重量をかけ、しがみついて立ちよどむ。そういう瞬間、伸子は夕暮の正面に一本ぼんやり白く横わる道と、黒い嵐雲の捲き立つ空が山際のところでだけ物凄く藍色に光っているのを、まじまじと見た。情熱的な暗い不安な空模様が、彼女の心の状態の反映のようであった。
 祖母は、毎日竹藪をこいだり、納屋へ入ったりして働き廻った。そして、いろいろ見えないものを発見し、家じゅうの騒ぎを惹き起した。
「ちょっと畑さ行って与次郎がいたらよんで来てくんろ」
 与次郎が縁側に廻ると、祖母は炉ぶちで煙管をはたきながら、
「お前、茶壺しらねえか? 島根にいた頃、出入りの大工で茶人がいて、これへ茶入れとくと湿けることがないと云ってくれたんで、おら大事にしていたに無いごんだ」
「御隠居様、あれは古田さんにお売りなさったんじゃありませんか」
 祖母は意外に、口をとがらし、
「俺がかあ?」
と、呆れた。
「何して俺がそんなことすべっちぇ!」
「――困るなあ」
 与次郎は伸子に当惑した笑顔を向けた。
「本当に御隠居様がお売りんなりました。古田の隠居が、こりゃいい茶壺だと云ったら、東京さ持って行くわけにも行くめからって、譲ってやんなすった。――五円札とひきかえに私が届けたんだから、間違いございません」
「そうか――俺そげえに耄碌したべえか――俺ほんとに売った覚えなんぞ無えことよしか……」
 与次郎は自分が疑われているのを知り、少し荒っぽく、
「じゃあ、私が使いに行ったんですから、五円いただいて行って取返して来ましょう」
「……そうさなあ……」
 与次郎が、うやむやに畑へかえると、後で、祖母は机のところまで伸子を追いかけて来た。
ら、ほんにやんだ(厭だ)ごんだ。――耄碌したにつけ込んで、何するか知れたこってねえ。こないださがした銅鍋だって、俺が山本へ売ったちゅうごんだよ」
と訴えるのであった。
「お祖母さま。耄碌は年のせいで仕方ないんだから安心して耄碌しちまった方がいいのよ。耄碌なさりながら、時々いやにはっきりなさるから、却って面倒なのよ」
「ふむ……。――だが、伸子、お前何じょに考える? 本当に俺が売ったべか」
 伸子は、心が平らな時には、はははと思わず笑って、
「私にわかろう筈ないじゃあないの。念のためそれじゃ先方へおききなさいよ」
と云った。自分の思いだけで十分神経がたかぶっている時、しつこくしつこく云い出されると、伸子は怒りつけるのであった。
「お祖母さま、少しは空でも眺めてぼんやりしている工夫をなさい」
 伸子は六畳の隅に、古本箱を脚にし上に紫檀の机をかぶせて、テーブルを拵えた。廊下の外は庭、その奥は畑であった。障子についている小障子をあけると、庭と畑とを区切っている低い草堤と勢いよい梅の並木の一部分が眺められた。光線が斜に射す午後、その狭い並木、くさむらの風景は、荒廃した園の趣と初夏の緑の活々した輝きとを相交え美しかった。
 伸子の心持は、陰鬱で敏感で、しんががらんと寂しかった。せん、佃を恨んだり自分を鞭打ったりしてここにいた時分は、心がむらむらしていたから、周囲の自然など、そう深く自分に浸み透っては来なかった。今の伸子の心は、病的に澄み沈潜していた。田舎の天地を孜々ししとして推移させて行く自然の力と、自分と佃とを支配した生存の力とを結びつけ、身に沁みて感じた。自分という一人の女性のうちにあるいろいろな欲望や本能。何でもかでもぱっと薔薇色に燃え立たせ陰影のさす余裕さえ与えなかった二十歳の情熱――情慾もそこでは朗らかな力であった。佃が三十五歳で、永い放浪の後、疲労と休安の欲望をもって現れた。その疲れた相貌さえ、愕いたり、身を献げたり、涙を流したり、何かに熱中したがっていた伸子の若々しい生命への刺戟であった。伸子は自分の情熱に陶酔しつつ、あらいざらいの力で佃を我ものにした。伸子の生命の奥の情熱がそれで燃え尽き、二人の生活にほんのり温味を保つ程度のおきになれば無事であったろう。佃教授並に夫人――倹約や貯蓄や恩給が夫婦のたのしみで睦じく四十になり五十になり、墓穴まで行けたであろう。ところが伸子の情熱は佃一人につかい切れなかった。彼女の生命は北海道の牛の乳で養われた細胞と同じように豊富で、旺盛で、貪慾であった。生活の上で彼女が求めるのは、夫である佃が求めるような、消耗することも吸収することも尠い「我らの安穏」が、生存の標語モットーのような態度ではなかった。彼女は、地面に墜ちる影法師でさえ二人寄れば二つになるものを、男と女と二人よれば、二人寄っただけ多く、広く、深く日々新たな人生を暮して行かぬ法はないと信じた。――
 源にさかのぼればつまり一つの熱情が、愛と現れ憎みと現れる恐しい生々した心の潮、また、自分の本質に烈しく自由や独立を愛してやまない本能のあること、そしてそれは、人との交渉において実に深くはまりこむ、信じやすく受け入れやすい自分の性質に対して自然が与えた唯一の意味深い杖であることなど、伸子は、永く静かに明けては暮れる田舎の一日一日の間に考え知って行った。恋愛や結婚生活の明るく暗い種々雑多な情感を全心的に味わせてくれた人として、たとい結果は破壊に終ったとしても、佃は自分にとって決して行きずりの人ではなかった。考えようによっては、どんな女性でも一度は捕われずにはいまい結婚生活の夢想から、かなり完全に解放させてくれた点でだけでも、感謝すべきなのかもしれない。……
 いろいろに往来する心持――佃に対して伸子はわりに和らいだ気持であった。共に苦しみ過した時を共に思い出し、それをともに弔いたいような心持になるときさえあった。最後に、せめて一本互の思い出のためによい手紙を送りたい。伸子はある晩、追懐の感動にいっぱいになって机に向った。紙をべ、ペンを執った。が、最初の一字を書こうとして気がつくと、何事であろう、いつの間にか感情の扉はぴたりと閉ってしまっている。何から書くのか、何を書いても、下らない、索漠とした空虚な言葉としか響かないように感じられた。佃に対する小さな感謝、真心からのわかれの言葉、文字に書くとそれらは皆、嘘のような、わざとらしい感じを相手に与えそうなおそればかり感じられた。逆に嘗て自分が佃に向って云った数々の憎らしい言葉、毒々しい言葉が、次から次へ驚くべき現実性をもって甦って来た。それに報いて答えた彼の冷淡そうな皮肉、醜い自暴自棄の言葉が、その時の顔つき目つきと一緒にこの鼓膜に今聞くようにまざまざ響いて来る。――伸子は夜の燈の下で、恐怖をもって言葉の生きていることを感じた。人間によって云われた言葉は、きっと云われただけには生きる。憤りにまかせ、怨みにまかせ、互の云い合った言葉が、今は互を裂く威力をあらわしているのではないか?
 ――伸子は一字も書き得なかった書簡箋を、思い沈みながら丁寧に細かく引き裂いた。彼女は椅子をずらせ、紙屑籠の真上から、ぱらぱらぱらぱらとその白い紙片をすて、庭へ出た。大きい月のまわりに更に大きいかさがかかって、芝は湿っぽい夜の匂いを漂わせていた。遠くの隅の黒く見える這松の傍から、湯を貰って帰る婆さんの姿が現れた。
「ええ月だなし」
「…………」
「――おやすみなんしょ」
「おやすみなさい」
 伸子が無愛想にしていると、横を通りすがりながら、古い雌象のようなその婆さんは、わざとらしく瞼を細め、
「ええ謡があることよしか、遠くはなれて会いたい時は、月が鏡になればよい」
 彼女は、濡れた手拭をまるめて持った手で、伸子にちょっかいを出すようなばかげた恰好をした。


 伸子の楽しみは、素子からの手紙であった。田舎へ立つ前、伸子の必要から、一緒に鎌倉へ行った。活動写真を見て置く要があった。それも素子がつきあった。共に暮しているのが祖母では、鍋釜の話しかできず、そうでない話対手のように往復していた手紙が、伸子にとってだんだん生活上必要なものとなって来た。時々胸いっぱいになるいろいろな感情や考えを、佃とのことにつき、また他のことにつき伸子は前後かまわず、大きい紙や小さい紙に書きつけて素子に送った。素子からは、また一々それについて彼女の意見を云ってよこした。素子は、初め伸子が感じたように感情家ではあるが、底に落着きというか、世の中を知っているというか、実際的な一種の均衡を保っている女性であった。伸子が性急に感動したり、思索したりするのを、彼女は好意と滑稽とを感じつつ、愛のある皮肉で応答してよこした。
「あなたなんか、全く世間知らずなんだと思う。今日の手紙だって、あの伝で佃氏についても夢想したのだと思いました。私に感心なんかするのは馬鹿ですよ。さんざん買いかぶられた挙句、どかんと幻滅したりされるのは誰しも御免です」
 また、
「私も馬鹿だが、あなたも馬鹿ですね。しかも変な手のこんだ馬鹿だ。自分の馬鹿さをいやに堂々と云い現す腕がある」
 全くそうだと思い、繰り返し繰り返し素子の手紙を読み、伸子は愉快に笑った。その日の気分によって素子は細かい粒の揃った丸っこい字を丹念に書くかと思うと、駄々っ子のように、手紙の末に行くほど大きな字を乱暴に書きなぐってよこすこともある。表面大層心得たらしくあるが、彼女のしんは情に脆い、親切な、正直者であることなど、伸子は愛をもって洞察する。――素子に会えた偶然を、伸子は真心で悦ぶようになった。伸子の、がらんと空虚に銷沈しょうちんしがちな心に生気をふきこむのは、素子との新たな結びつきであった。
 ある夕、伸子は縁側に祖母といた。祖母は長椅子に横わり、伸子は踏台を持ち出してその傍に腰かけた。彼らは、昼過、最近雇った女中の給料について喧嘩して、仲なおりしたところであった。昼飯がすんだ時、女中が急に入用ができたから給金を欲しいと頼んだ。その日は二十五日であった。十五円という世話人への約束で雇ったのに、祖母は、そうは云ったが人数もすくないのだから女中には十三円の割でやると、急にけちなことを考えついた。伸子はそれはよくないと云い、他愛なく腹を立てた。却って後睦じく、祖母は珍しくのびのび昔の話など伸子に聞かせた。古いこと、高山という家に婆さんがいた。祖父が、参事司補になったというのを耳が遠くきき違え、「三里四方というお役かのし」と訝しげに訊いた。訊かれたこちらの隠居もまたつんぼなので、真面目くさって、「さようであります」と返事していたという話など、七十九の祖母は自分よりもっと年上で、けた二人のばあ様問答をおかしがり興にのって「さようであります」と兵卒のような口調を真似て伸子を笑わせた。夕飯に呼びに来ながら女中が二通手紙を伸子に渡した。下の一つが、日本封筒で、素子がいつも使うのにそっくりであった。しかし、朝一つ受取ったので、彼女からと思えず、怪しみ、裏をかえして見た。矢張り素子から来たのであった。今朝のと同じ日の、夕方の日附であった。
「二十八日に私の仕事が多分一段落つくのです。暫く暇になると思ったら、急にそちらへ行って見たくなりました。邪魔ではいけないから、悪かったら遠慮なく、直ぐ返事を下さい。行ってよい都合なら大抵二十八日の一時に立ちます」
 伸子は、歩き歩き読んでいたが、思いがけぬ嬉しさで胸が苦しいようになった。のぼせ、直ぐにいらっしゃいと電報を打とうかと思ったが、ともかくも自分を落着け、食卓についた。亢奮しつつ彼女は祖母に告げた。
「ね、お祖母さま、素敵よ、二十八日に吉見さんが来るんですって」
「ふうん。――何も食物がなくて困るな」
「そんなことかまやしなくてよ。不便なのは解っているんだから」
 陽気に箸を取ったが、ふっと伸子はみこんだ飯が喉でつかえるほど情がせきあげて来るのを感じた。今自分をこれほど捕える喜びのつよさにつれ、五年の間自分がどんなに嬉しさというものに飢え暮して来たか、哀れに恐ろしいほどはっきり思いめぐらされて来たのであった。友達でさえ、これだけあたたかい悦びはもたらしてくれる。なぜ佃が、たった一度でも、何かで思い出すのも嬉しく誇らしい悦びを自分に与えてくれることができなかったろう。尤もこの田舎の家へ彼が来ることは、動坂に拒まれていた。けれども、彼にもし心さえあれば、五年のうちの何かの機会、何かの場所に、ささやかなしかし忘られぬ喜びを結びつけてくれられただろう。悦ばせやすい、そして悦びたがってがつがつしているような自分を――全く考えると寧ろ不思議というくらいなものであった。しんから嬉しかったこと、佃の暖かい心を身にひきそえて覚えたことは何かないか、まさか一つもない筈はあるまい。皆無というのは恐ろし過ぎ、伸子は記憶の中をあわただしく掻きさがした。思い出すのは、自分の真心を信じさせようと熱心に佃を説きつけている自分、絶望を負けん気で覆い紛らそうと力んでいる自分、さもなければ、暗い焔のような男と女のことなどばかりであった。記憶にのこっているほどの場面場面は、どれも頬を流れた涙、やけつくような胸の中を流れた涙の苦々しさを伴って浮んだ。その癖いつも生活の主になって動き求め※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいていたのは自分だ。――
 机に戻り、素子へ返事のハガキを書き、出させ、なおそれらのことごとを思いつづけると、伸子は顫えるような悲しみを覚えた。佃と生活できないと決心してから、伸子は、自分の精神と肉体とで得た経験をいたずらにしまいとかたく覚悟していた。ただの不幸や失敗には終らせまい覚悟であった。何かを、その上から生れさせよう! それ故どちらかと云えば理性的に心が働いて、時代や性の問題を背景とし自分が生活し経て来た道を通観したり解剖したりしようとする傾きであった。しかし、素子のこだわりない心からあふれた温かさで伸子の感情はそのせきを切った。彼女は、二十から二十五までの、若い、どんな情熱でもどんな歓喜でも純に火のように受けられた時代を空しく貧弱に過してしまったこと、そして、それらの年は一生に再び還って来ないことを痛感したのであった。生活を惜しむ心が髪の毛の端にまで満ちた。佃と自分との腑甲斐なさを心で罵りながら、伸子は永い間静かに声のないすすりなきをつづけた。泣きながら、泣くことによっていくらかずつその苦しみを和げられながら、伸子は考えた。世の中に自分のような心を持つ女は一人しかないのであろうか。自分の得たいと願う生活の歓びは、この世にあっていけないほどぜいたく極まったものであったのであろうか。――神よ、神よ。そして、自分は誰からも愛して貰えないほど、度はずれな女なのであろうかと。


 素子が来る日、伸子は待ちかねて停車場へ迎えに出た。午後からひどい雷雨があった。家を出る時はこやみであったが、まちから帰るころ丁度また烈しくでもなって、俥が出なければ、伸子は市で泊るしかあるまいと思い、小さな櫛など持って出た。去年の夏、村の俥夫の家へ雷が落ちた。彼はその時びっくりしたあまり病気した。それから雷雨がひどいと、その俥夫は足がすくんで動けないのだ。市からはそういう天候だと、村まで有名な風当りの強い街道を冒して来る俥夫などは一人もなかった。
 帰途には幸い風だけになった。真暗な夜道の八方を吹き廻す風の荒々しい、唸りだけ聞える。素子が幾分不安そうに前の俥の中から、
「――ひどいな――よっぽどあるんですか、まだ」
という声がした。
「もうあと三分の一」
 ゆっくり力を入れ大きい声で明晰に返事したのに、風に吹き散らされ素子へ届かなかった。
「え?」
ときき返す声がしたが、伸子はもう黙って揺られていた。
 翌朝、東縁の雨戸をあけると、素子は、
「ほう! こんないい景色のところだったんですか」
と、驚きを新たにした。
「二度びっくりね、昨夜、実はどんなところへ来たことかと少し辟易へきえきしていたんだけれど」
 雷光と雨に洗われた後の清いひろやかな北国の空、遠く魅力ある連峰、左手に展望される丘陵の上の可愛い森、活々した美が伸子をも見惚れさせた。
「空気が何だか違うでしょう? ずいぶん爽やかでつよいようでしょう」
「F県にこんなところがあるとは思わなかった!」
「――私関西――京都ぐらいまでしか知らないけれど、あの辺の景色よりこっちの方がよっぽど好きよ。あなたは?」
「あっちは平凡ですよ――平凡な美しさだ」
 祖母が出て来、しきりに、
「よく来て下すったない、田舎で何のおもてなしもできなくて恥かしいごんだ」
と繰り返した。伸子は、
「八十になってもまだああいう技巧は忘れないのね」
と素子に囁き、大笑いした。
 黒っぽい紺地に緑や茶で古風な粗い格子縞のある膝掛が一枚、戸棚にあった。伸子はそれを庭の芝生に拡げた。二人はその上に腹這いにころがった。素子が膝掛の房の間から出ている草を抜き、自分の細いパイプの先にさし、吹矢のような遊びを発明した。
「どれ、かして御覧なさい。私なんか、もっともっと飛ばせるわ」
 草は軽すぎて、却って遠くに飛ばなかった。
「ああ、変にしていたんで肩が痛くなった」
 やがて素子は仰向きになり、両手を組合せて額にかざしながら、じっと地平線を眺めた。香ばしい草や日の匂いがあたりに漂っている、……平和な楽しい信頼に満ちた感情が伸子の胸にあった。彼女は先達せんだって鎌倉へ行ったとき、ホテルの傍の砂の小高いところに二人矢張りこのようにして日を浴びていた気持を思い出した。彼女は素子の傍にいると、拠りどころのあるような居心地よさ、落着き、悪い意味の女らしさから来る窮屈を脱したいい心持がするのであった。これは伸子に全然新しい感情であった。
 死んだ祖父が使った遠目鏡を出してかけ、彼女たちは雲を覗いたり、山を覗いたりした。青々とした美しい山肌がその遠目鏡で見ると、樹木がまばらで野猪の皮膚のようであった。――喋り出す。真面目な話、呑気な話、思い出の話、種はつきず、伸子は素子のこれまでの生活について偽りのない話を聴いた。楢崎から二人で送った寄書の返事のハガキが来た。それに、
「今頃きっと吉見さんはそちらだろうと思っていました。どうです、私の天眼通は偉いものでしょう」
とある。二人で読み、笑った。素子は三日いて帰京した。
 素子が立つ前に横わっていた長椅子がそのまま、羽根蒲団をのせて部屋の隅にある。夜、境の唐紙をあけ放し、机のある方の部屋は明るく次の間は暗い間をぶらぶら行きつ戻りつしながら、伸子はいつの間にか再び自分を貫いて、活溌な生活慾が流れだしているのを感じた。自覚しないうちに全身がその流れに領せられたかのようであった。一週間前、素子が来るという通知を受取った晩自分を眠らせなかった殆ど肉体的な痛みのような悲しさが、却って生活慾の目覚めを知らす前兆であったかの観があった。新しい生活をしたい、違った暮しを見出したい、そう思いつめ求めていたとき、それらのものはどこにあるかさえ知れなかった。知らないうちに、時期が来た。ある朝ふと目を醒し、人が俄にしみじみと天地の春を感じるように、気がついて見まわすと、もういつか自分のまわりを流れているのは過去の潮ではない。――そう云う気持が深く伸子を動かした。
 翌日、伸子はしっかりと更に一段覚悟のきまった心持で、佃に手紙を書き出した。情誼ある手紙を書きたいと思うと、和らいだ気分はいつぞやの夜の通り、すらりと溢れ出さず、変に整然とした丁寧な言葉の文ができた。気に入らず幾度も破き、諦めて遂に彼女は簡単に要点だけ書くことにした。今度田舎へ来たのはこれをけじめとして互に別の生活に入りたいためであること、東京にいてそれを実行することも、彼に云うこともできなかった弱さを許して欲しいこと。
「このことは最初から私にだけ必要で、あなたにはちっとも必要の認められなかったことです。恐らく今でもそれはそうだろうと思います。けれどもどうぞ今度はおきき入れ下さい。そしてどうか互に憎み合わずにすむ関係になりたいと心から願います」
 彼女は、書き終ってからも暫く二枚の書簡箋を眺めていた。感動しているのか、平気なのか自分ではっきりしない心の状態であった。伸子は念を入れてそれを揃え、畳み、封筒に入れ、自分で持ってポストへ入れに出かけた。
 帰途上を仰ぎ見ると、空いっぱい夕焼であった。笹雲が彩り多く天の高みに浮いていた。稲妻が時々閃く。桑畑も杉の防風林も、はては遠い山脈まで耀かがやきにうっとり溶けこんでいた。空気は透明でそよりともしない。体も心も自然にまかせて空を仰いでいると、ああ、やっとこれで重荷が下りたという心持がひしひしと迫り、伸子は、あたりの静けさ、広さ、美しさと遠くにいる素子とを一緒にだきしめ共によろこんで欲しいように感じた。東京へ行きたい……。彼女は歩き出した。東京へ行きたい……。行きたい。行きたい。テムポが次第に速くなり、伸子はだんだん矢も楯も堪らなくなって来た。素子が帰る時、伸子は成ろうことなら一緒に行きたいくらいであった。彼女はそれを、佃に対して自分がちゃんと立場も明かにしていないのを考えて堪えた。今、とにかく一段落ついた。東京へ二三日行っても一ヵ月の忍耐が無駄になることはあるまい。――伸子は、素子が今忙しい時ではないかと、日を繰って見た。東京へ行くとしても、彼女は人の出入の多い、いつ佃の来るかもしれぬ動坂へ行くのは厭であった。彼女は、素子のところへ行く積りであった。そして、誰にも会わず、都会の賑やかさと素子の皮肉なしかし快い鼓舞だけを吸いこんで来よう。
 伸子は勢いづいて歩いたが、急に、自分が一枚も単衣を持って来ていないことに思い当った。袷で六月東京は歩けない。妙案が浮んだ。彼女はいそいで家へ戻り、箪笥から藍縞あいじまの袷を出し、畑の向うに住んでいる、月が鏡になればよいという俗謡をうたって聞かせた婆さんのところへ持って行った。彼女はせきこんで頼んだ。
「これの裏をみんなはがして、裾と襟をくけて頂戴。四日の朝までに。――単衣にするんだから」
 それは染めなおしで、裏は白く、滑稽なのだが、伸子は羽織を着るから平気と思った。


 動坂の家へ知らせない積りが、東京へ来る汽車中、思いがけない人に会ったため変更した。素子の家の近所の自働電話で、伸子は母を呼び出した。昨夕東京に帰ったことを告げると、
「へえ……」
と、母は疑わしいような不快に亢奮の籠った声を出した。
「妙なことがあるよ――佃は赤坂にいないよ」
 それはどういう意味なのか伸子には判断がつかなかった。
「私赤坂へ行かないから知らないわ」
「どこにいるんです?」
「吉見さんのところ」
「――とにかく佃は赤坂にいないよ」
 多計代は、脅かすようにまたそれを繰り返した。
「Kからお前がいつ帰るかって電報を打ってよこしたよ」
 持ってまわり、意味ありげな口ぶりだったので、伸子は直接法に要点にふれた。
「――汽車の中でジョンストンさんに会ったら、是非お会いしたいから明日動坂へ上りますって。私も行くから、その時いろいろ伺うわ」
 母は考えていたが、きっぱり、
「今直ぐおいで」
と云った。双方の電話口で暫く無言がつづいた。伸子は、じゃあ行きますと云って電話を切った。
 タクシーに揺られながら、伸子は、では佃がKへ行ったのか、と考えた。手紙を見て、昨日、彼は前日伸子が立った後へ行ったのだろう。もちろん伸子は、あの手紙だけで万事解決するとは思っていなかった。佃が文面を二三度繰り返して読み、伸子が本気なのを知り、立つ決心をした時の心持が彼女によく察せられた。彼は七分の不安と三分の自信をもって出かけただろう。なぜなら、伸子が別になりたいと云い出したのはもう二年も昔のことであった。彼女は鎌倉に暫く家をもって暮したりまでしたが、結局、彼の涙や当座の熱に負けて来た。今度は少し頑固であろうが、こっちもそれだけ強硬に根気づよくとりかかればよい。そういう、佃の夫としての習慣的な態度が明らかに見え、伸子はうんざりし腹立たしく、彼に対して抱いていたある程度までの公平さまで失うような気がした。今までの自分とはもう違うのだという冷やかな反抗的な心持さえ頭をもたげた。
 父と母が、難かしい顔をして坐っている中へ伸子は入って行った。行くのを拒んであるKへ佃が無断で出かけた。伸子はいつ帰るというわけの分らない電報が来たのに、当人の居処はわからない。いろいろごたごた畳まり、しかも底に何事が伏在しているのか予測がつかないところから、両親は居心地わるい迷惑さで、ひどく不機嫌なのであった。その感情は伸子に理解できるのだが、何だか佃の側に立ち、自分をとっちめたり、あやまらせたりしたいような彼らの心持が伸子を傷けた。夫婦間のごたごたが夫婦の間だけに止まらず周囲に波及し、厭わしい心の陰翳をそれに連れて見せ合わなければならない。自分の責と思ったが、伸子は、夫を愛してもいけないと云い、嫌ってもいけないと云うらしい親心の微妙な作用を皮肉に情なく感じた。
 佃に送った手紙のことを話すと、親達は沈黙した。やがて多計代が、
「――一生の大事だから、熟考した上でないといけないね。――お前がそんな感情家で、一生孤独な生活ができるとは思われないし」
と、初めてしんみり云った。
「それは自分も知っているの。――考えるだけはもう一年も二年も、もっと永く考えていたわ。でもね、私はもう理窟ぬきにやりきれなくなっているの。魚が水のない場所に生きていられない――それを、魚がわるいっていう人はないでしょう?――人も同じ場合があると思うわ」
「いずれ、明日でも会うだろうが、よく考えた方がいいね――結局、まあ、その方がいいことになるかもしれないが……」
 本当に勇気のある人は温和だ。自分にも、どうかその温和の百分の一を授かり、佃と最後の会見をしたい。伸子はそう思いながら床についた。
 翌朝早く佃から電話で、伸子は起された。
「赤坂からお電話」
という声をきくと、瞼がまだ開ききらない先、いやな心持が胸をかすめるのを感じた。気持を整える余裕を得るため、着物をなおし、板の間へ出て行った。
「もしもし」
 いきなり、
「もしもし、いつ帰ります?」
と、急性な、喉の乾きついたような佃の声が鼓膜を刺戟した。
「――今日ジョンストンさんがいらっしゃるの、お茶に。――それがすんでから――」
「いそがしいんですか」
「――……」
「そんなにいそがしいなら、いつでもすきな時に帰っていらっしゃい」
 ガチャンと受話機をかけた音がした。
 伸子は眠りなおしもできず、そのまま起きた。一時間も経たないうち、また、赤坂から電話が来た。
「もしもし、伸子さんですか」
 今度は佃でなく、佃の親しい友人の織田の低い平らな声であった。何と云ってよいか判らず黙っていた。
「いつ頃帰りますか」
「多分八時頃になるでしょうと思うけれど――あなた――そこにいらっしゃるの?」
「ええ、昨夜泊ったんです――ではどうぞ」
 しりきれとんぼにぽつんと電話が切れた。佃と織田と二人の男が、「じゃ今度は俺がかけてきてやろう」などと落着かず立って話している部屋の光景を思うと異様に物々しかった。伸子ははずかしく思った。


 赤坂へ行ったのは九時過であった。
 表の角から、人っ子一人通らない早寝の暗い横通りを歩いて行くと、竹垣の透間から佃の部屋の灯が煌々と往来まで洩れていた。単衣の肩が薄寒いように感じつつそれを眺め、伸子は暗い格子をあけた。佃が弦の切れたような勢いでとび出して来た。
「伸子?」
「――ただいま」
 彼は、伸子が下駄をぬぐのを待ちきれないように両手を執り、ぐんぐんつき当りの燈火のない部屋へ彼女をつれこんだ。伸子は、暗闇でまごつき、椅子につき当り、それにつかまった。佃はなお手をはなさず、片腕に彼女を抱えるようにしながら一つの椅子をずらしそれにかけると、狂気のような力で彼女を抱き締めた。彼は、
「Do you still love me?」
と云うなり、子供のように声をあげて泣きだした。彼は泣きながら伸子の頬に自分の頬をすりつけた。手を撫で、肩を撫で、髪を撫で、顫える大きい掌で圧し潰すように彼女の体じゅうを撫で廻した。――伸子は、じっと動かず、なすがままにされた。彼の重い頭が、彼女の胸の上にずっしりもたれかかっていた。とめどない涙が生暖かく着物を滲み通すのを感じながら、伸子は彼の頭を抱き、静かに悲しみをもってその髪を撫でた。眼が闇に馴れ、嗚咽するごとに夫の肩が波打つのが暗い裡に見えた。茫然とそれを見据え、伸子は自分に駭き、ぞっとしながら心で囁いた。
「――ああ私は泣いていない……泣いていない……」
 夫と共にわっと泣き出さない自分に駭き恐れつつ、伸子は夢中で彼の頭を撫でた。彼女も、俄に悪寒と嘔気はきけを感じ身震いが出たほど、切なく、苦しく悲しいのであった。けれども、どうしても涙は出ない。二人がこのように苦しまねばならないこと、しかも死んだ愛は再び甦らず、これらすべてさえもう直ぐ嘗てあったことにそうとしているという絶望的な意識、それらは伸子に呼吸の止るような苦悩を与えるのであった。
「ああ……」
 伸子は一層深く胸に近く佃の頭を抱きよせ、彼の髪の上に自分の頬を休ませた。
「――私の愛した人! あのように可愛く、いとしくあった人――互の間にどれほど涙が流されたことであろう!……」
 一言も口が利けず、涙も出ず、そのため胸が切なさで硬直し伸子は気を失いそうになった。彼女は眼をつむりよろめいた。佃はあわてて彼女を支え、横わらせた。
 佃は官能の嵐で、伸子の心を引きさらい、また自分の中へ取り戻そうとするようであった。伸子は初め拒絶した。が、終りに、烈しく泣きつつ自分から荒々しい悲しみで彼の抱擁の下に身を投げた。彼女は自らを傷ける底知れぬ苦しさと、動乱する官能の火花との間に漂いながら、最後という字が、大きく大きく物を云いそうに、自分たち悲しき男女の体の上に書かれているのを知った。
 翌日、佃は勤めに出なかった。
「私は、Kへ出かける時、来週まで欠勤届を出して置いたのです。三日かかったら、どっちかに決定すると思ったから」
 伸子は、夫が今度は全力的なのを感じた。全力を出したら彼女を思い返させ得るという確信の下に。
 それは、一種の監禁であった。その日は曇って蒸し暑かったが、障子を閉めきり、狭い本箱の前の畳の上に膝をつき合せて、一日中対座した。食事の時だけ立った。その食事も、伸子は止むなく坐らされ、よく一人で考えていた隅で所詮は一つの返答をね廻している間に、佃が自分で用意するのであった。食べ終る。また彼は或は優しく、或は恐ろしく切り出すのであった。
「――こんなに頼んでも思い返してくれないんですか。――私にだって欠点はあったのだろうから、きっとこれからなおすと云っているのに。それでも君は一緒に生活しないというのか」
 伸子は、元気なく彼を見上げ、訊いた。
「――欠点をなおすからって――じゃああなたはどこが悪かったの?」
「そんなこと分るもんですか!」
 彼は決然肩をそびやかすようにして答えるのであった。
「私は自分が悪かったとは思わない。しかし君がそういうからそんなこともあるなら、なおそうと云うのじゃないか」
 伸子は、溜息をつき、云った。
「だからね、もう水掛論のようなことはやめにしましょう、ね。悪いと云えば二人がわるいのよ、喧嘩両成敗よ。――ただ、せめて少し物の分る人間らしく、もっと傷け合うことだけはやめたいわ」
 暫く黙っていた後、佃は考え深そうに云った。
「仕事をする女でも、楢崎さんなんか、ああやって立派にしている――君だってそうできるんじゃないかなあ。それに、織田とも云ったんだが、そういう苦しみは皆我々が十五年前に通って来たものだ」
 伸子は、苦笑で唇を歪めた。
「――あなたは楢崎氏?――第一、どうしてあなたは私が何でも仕事仕事というだけで生きていられるとお思いになるのかしら。まるで変だわ――私はへぼ小説を書くより前、女に生れて来ているのよ、しかもまるで女なのに――……」
「それならば、さ」
 彼は伸子の手の甲を、子供をあやすように撫でつつ説服するように云った。
「どうして、こんなに愛している私のとこから去ろうとするの? え? 私はもうどうせ永く生きる体ではない。せめて死ぬまで私の傍にいるだけでよい、いて下さい、ね?」
 涙をためた眼で伸子を見守っていたが、彼女が黙っていると、佃は、毒々しい顔付になった。そして、強迫するように云った。
「――私はKで皆あなたの日記を読んで来ました」
 ――留守の机のまわりを、彼が動揺する感情でせわしくあちこちかき探しただろう。何かこの当のない掻き立てられた不安に結びつける憎みの石、気休めの石、何かは見つかるまいかと焦立った彼の心が感じられた。日記を、彼女は机の上に出しっ放して来た。それには素子に対し傾倒した自分の感情などが細かく書いてあるのだった。
「…………」
 佃はごうを煮やし、もう一つ弾丸を放った。
「――戸棚をあけたら、ごたごたの中から、君が動坂へやった手紙が出た。那須から。――あんな手紙を書く人とは思わなかった。実に意外だった」
 暑さ、苦しさ。伸子は頭がぼっとなるようだった。再び夜が来た。彼は死のうとする蛾のようにまた伸子の上に両腕を拡げようとした。
「ああ、どうするのよ! どうしようというのよ、私を!」
 おいおい泣き出し、止らず、泣きじゃくりながら伸子は気を失った。
 同じような恐ろしい二日目、伸子の神経はすっかり疲労し始めた。夕方になって、彼女はおがむように佃に云った。
「ね、気が変になるまでお互に疲らしたって同じことよ。――いざという手おくれになってそんなにあなたなさるなら、なぜもっとずーっと前に、私の本気を認めて下さらなかったのでしょう。どんなに苦しがったって離れられないさ、と高をくくっていらしって……」
「女はどうか知らないが一旦結婚して男はとても一人でいられるもんじゃありませんよ――肉体的な意味でなしに――」
「――それはそうでしょう。――……でもあなたに本当に入用なのは細君である一人の女なのよ。私が細君だから離せないように思うだけなのよ。あながち伸子に限ったことではないのよ。伸子だから、というのでは決してないわ――……」
 噛みつくように伸子を睨まえ、佃は、
「じゃ、どうしてもいやだというんですね」
と念を押した。伸子は、こっくりと合点した。
「どうしても?」
「――ええ。――どうしても……」
「それでいい! その返事が聞きたかったのだ!」
 猛々しく彼は立ち上った。そして、机の上から紙とペンをとって来た。
「さあ、すっかりきまったから荷物の覚え書を作りましょう」
 白い書簡箋の中央に横線をひき、上にT、下にNと頭字を書いた。
「それではと、――机――いるでしょう? 椅子は僕も気の毒だが三脚だけ貰って置きます。それから箪笥と」
 佃は真蒼であった。頬がげっそりこけて見えた。ペンを持つ人差指に気味悪いほど力を入れ、書くのを、伸子は放心したように見守った。荷物を分ける……荷物を引きとる……心が破れたのに荷物がのこる……何と醜いいやな引き次ぎであろう。伸子は浅間しく、この瞬間それら家具類が一どきに消えて無くなればよい、恥知らず! と思った。
「ね、書かないだってよくってよ、私何にもいらないわ。――本と焼物だけあれば……」
 佃はからりとペンを投げすて、
「ああ、親父が知ったら、さぞ……」
と頭をかきむしり泣き始めた。伸子には少しそれが芝居じみて感じられた。親の力が何かの役に立つ自分らの間であろうか――それにも拘らず彼女の瞼から冷たい涙が溢れ、するする頬を伝わって膝の上に滴り落ちた。
 佃は、よろめくように歩いて、納戸から針金切の鋏をもって来た。そして、縁側に出、隅に作りつけてあった小鳥籠の前にしゃがんだ。紅雀や十姉妹じゅうしまつが彼の姿に向って羽搏いた。じっと眺めていたが、
「ああもうこんなものにも用はない!」
と呟きつつ、鋏で網を剪り始めた。バリリ、バリリ、片端から網がめくれ上るのが、伸子の坐っているところから見えた。小鳥どもは、俄な変動に驚き、片隅により集り、悲しげに騒ぎ立てた。大きい穴ができると、佃は、はたはた網の後を叩いた。つぶてのようについと一羽の十姉妹が破れ目から庭へ飛び去った。続いて紅雀、残った十姉妹。あるものはすぐ縁側の下の沈丁花じんちょうげのこんもりした枝に止った。あるものは、もっと遠い梅の梢まで翔び、急に放たれた空気の広さと自由さを信じ得ないようにチッチッと啼いた。すると、何を思ったのか、一羽の十姉妹が、縁側までふっと戻って来た。頭を傾け、傾け、破られた網の口を見ていたが、ちょいと跳んでまた元の籠に入ってしまった。佃も伸子も、鳥の動作にいつか気を奪われ眺めていたが、彼は意外に十姉妹の戻ったのを見ると、いきなり砕けそうに伸子の手を掴んだ。
「ああ、ああ、鳥でさえ帰って来るのに――……君は……君は……」
 苦々しい心が湧き、伸子は目を逸した。飼鳥になっては堪らない。そういう心持がした。伸子の視線の行手に夕方の空が見えた。都会の卵色の濁った夕空の前に庭の松が黒く見えた。非常に鮮やかにくっきり、松葉の一本一本が黒く見えた。





底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
   1952(昭和27)年2月発行
初出:「改造」
   1924(大正13)年9月号〜1926(大正15)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:もりみつじゅんじ、地田尚
2011年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「糸+垂」、U+7D9E    6-9


●図書カード