日は輝けり

宮本百合子




        一

 K商店の若い者達の部屋は、今夜も相変らず賑やかである。まぶしいほど明るい電燈の下に、輝やいた幾つもの顔が、彼等同志の符牒のようになっているあだ名や略語を使って、しきりに噂の花を咲かせている。
 けれども、変幅対と呼ばれている二人の若者は、いつもの通り、隅の方へ机を引き寄せて、一人は手紙を書き一人は拡げた紙一杯に、三角や円を描き散らしていた。「三角形BCEト、三角形DCFトノ外切円ノ交点ヲGトシ…………」
 崩れるような笑声が、広い部屋中の空気を震動させて、彼のまとまりかけた考えと共に、狭い窓から、広い外へ飛び出してしまった。若者は苦々しそうに舌打をして、上気のぼせた耳をおさえながら鉛筆を投げ出すと、立って向うの隅にいるもう一人の処へ行った。
 彼は杵築きづき庸之助という本名で、木綿さんというあだ名を持っている。人間は黒木綿の着物と、白木綿の兵児帯へこおびで、どんなときでも充分だという主義を持っていて、夏冬共その通り実行していたからなのである。ときには滑稽だとほかいいようのないほど、馬鹿正直な、生一本な彼は、他の若い者の仲間からはずれた挙動ばかりしている。冗談も云わず、ろくに笑いもしない。徹頭徹尾謹厳だといわれたがっているように見られた庸之助は、或る意味の嫉視しっしと侮蔑から変物扱いにされていたのである。武士道の遵奉者であった。
「浩さん! 手紙か?」彼は仲間の上に身をかがめた。
「うん。もう君はお止めなのかい? まだいつもより早いんじゃあないか!」
「駄目だよ。奴等の騒で考えも何もめちゃめちゃだ。何があんなにおかしいんだ。娘っ子のように暇さえあれば、ゲラゲラ、ゲラゲラ、笑ってばかりいやがる」
 庸之助は、浩に対してよりも、もっと当つけらしい口調で云った。一つ二つの顔が振向いた。そしてもう一層の大笑いが、壁をゆするようにして起った。彼の口小言を嘲笑したのはいうまでもない。
「あれだ! 見ろ※(感嘆符二つ、1-8-75)
「まあ君、そんなに怒ったって駄目だよ。宿直へでも行ったら好いじゃあないか、あすこならお爺さん一人で静かなもんだよ」
「なに好いよ。今夜は……誰れ? お父さんかい?」
「ああ手間ばっかりかかってね」
「姉さんのことでも云ってやるのかい。同胞きょうだいがあると、お互に三人分も四人分も心配しなけりゃあならないねえ。結句僕のように独りっきりだと、そんな心配は要らないで、さっぱりとしている。まあ書き給え、僕は湯にでも行って来ようや!」
 浩は、片手で耳をおおうようにしながら、小学の子供の書く通りに、一字一字に粒のそろった、面の正しい字を書き出した。のろのろと筆を動かしてゆくうちに、彼の心持は次第に陰鬱になってきた。不幸な運命の、第一の遭遇者である彼の父、孝之進の、黒い眼鏡をかけたやつ[#「うかんむり/婁」、101-1]れた姿。優しい老母。気の毒な姉。
 家柄からいえば、孝之進は名門の出である。けれども、若いときから、生活の苦味ばかりを味わってきた。ちょうど彼が出世の第一歩を踏み出そうとしたときに起った、政治上、社会上の大津浪が、家老という地位をも、先祖伝来の家禄をも、さらって行ってしまったので、彼の一生はもうそのときから、すべて番狂わせになった。文部省の属吏をめられてから、村長を勤めたことがあるというだけの履歴は、内障眼そこひで社会的の仕事から退かなければならなくなってからの、彼等一家の生活を保障するには、何の役にも立たなかった。
 世間並みの立身を望んで焦るには、孝之進は年をとりすぎたし、また不治の眼疾をどうすることも出来なかった。で、求めて得られなかったあらゆる栄誉、名望、目の醒めるような出世を、ひたすら息子の浩にのみ期待した。けれども、完全に順序だった教育をするほどの資力がないので、思いあまった孝之進は、或る知己に頼んで、浩を、ガラスや鉄材の輸入を専らにしているK商店に入れてもらった。五年前、まだ十四だった浩は、独りで上京し、自分で自分を処理して行かなければならない生活に入った。学費から食料までK商店で持って、或る職業教育を授ける学校に通わせてくれる代り、卒業すれば幾年か、忠実な事務員として報恩的に働くべき条件が、附随していたのである。
 三年四年。小さいときから、いろいろなことに接してきた浩の心のうちには、さまざまな変化があった。善いことも、悪いことも、ごたまぜに、ただ彼が選ぶにまかされたような状態のうちにあって、彼の先天的の自重心、年のわりには鋭かった内省が、多少の動揺はもちろんあったが、彼を希望していた道に進ませて行った。そして、自分からいえばあまり喜ばれない心持の多かったときでも、周囲の者、特にたくさんの上役からは、いつでも正直な善い子供、若い者として認められていた。比較的、無口で落付いていることや、すべての服装が商店に育つ若い者にありがちな、一種の型から脱していたことなどが、彼をどこか他の者とは違った頭をもっているらしく思わせたということもある。もう五十を越している取締りなどは、「お前は、偉くなろうと思えば、きっとなれるたちだ。うんと勉強をし、吉村さんのように主人が洋行させてくれるかもしれない」と激励するほどまでに、彼を可愛がっていた。従って、一日に一度、山の手の住宅から出かけてくるだけの主人も、店の若い者の中では、浩を一番有望な者だと思っていた。それに特別な関係――自分等で育てて一人前にしてやろうとするものが、かなり見どころある人間になってくるのを見る、先輩たちの心持――が、浩に対する信用とも、好意ともなって、表われてきたのである。
 が、青年となった浩には、ただK商店の忠実な一使用人というだけでは、満足出来ない何か或るものがその衷心に起った。毎日をさしたる苦労もないかわり、また跳り上るほど大きな歓びもなく、馴れた事務を無感激にとっているだけで、自分の生活を全部とするには、不安な頼りない心持があった。彼の生れつき強い読書慾は、心に不満のあった彼を文学で癒すように導いた。浩は十七になった年から、盛に読み出した。僅かな時間をいて図書館に通った。そして、ほんとに自分を育てて行く力というものを、自分自身のうちに発見すると同時に、すべてにおいて「自分」の自由でない毎日の生活が、ますます満足出来なかった。彼は決して贅沢ぜいたくなことはのぞまないが、もう少し静寂な時間と、自分独りの時間が欲しかった。けれども浩はよく働いた。真面目に上役の命令に服した。若し考えることを望むなら、それより先に食べる方を安全にしておく必要がある。それ故、目下生活状態を変えることは、不可能であった。まだ十九の、この春学校を出たばかりの者に、十五円ずつ支給してくれる位置は、そうどこにでも転がっていないことは解っていたのだ。いろいろ先のこと、また現在のことを考えると、浩は、絵葉書の集めっくらをしたり、気どった――浩には少しもよいとは思えない――先のムックリ図々しく持ち上った靴などを鳴らしていられなかった。店でくれる黒い事務服の古くなったのを、彼は外出しないときは着ることにしていた。僅かの時間を出来るだけ、利用しようと努めた。それが、変り者と呼ばれる原因である。が、彼はそんなことに頓着するほどの余裕がなかった。制せられない知識慾――押えられる場合が多いにつれて、反動的に強くなりまさってくる――は、ときどき彼に苦しい思いさえさせたのである。
 浩が、暇を惜しんで勉強するとか、月給の中から、ほんの僅かずつでも、国許の両親へ送っているということなどは、彼がくすぐったいように感じる賞め言葉を、ますます増させる材料になった。何ぞというと、引き合いに出される。それも、他の多くの若い者の励ましのためだと余りはっきり解っているときなどは、彼は嬉しいどころか、かえって不愉快になりなりした。が、ともかく一族の中では、どのくらい幸運な部に属する自分か分らないと思って、彼は一生懸命に自分のほんとの道をひらくべき努力をつづけた。けれども、ときには彼の心も情けないと感じることがあるくらい、好意のかせが体中に、ドッシリと重く重く懸っていたのである。
 浩の一族は、実際幸福に見離されたように見えた。多勢生れた同胞きょうだいも、皆早く死んで自分と遺ったただ一人の姉のお咲も決して楽な生活はしていない。嫁入先は、相当に名誉のあった仏師だったのだそうだが、当主――お咲の良人――恭二は見るから生存に堪えられなそうな人であった。かえって隠居の仁三郎の方が、若々しく見えるくらい衰えている。もとから貧乏なのだが、お咲が十六のとき、娘の婚期ばかり気にやんでいた母親が、自分の身分と引きくらべて何の苦情なく、嫁入らせてしまったのである。この縁を取り逃したらもう二度とはない好機らしく思われたのであった。翌年咲二が生れてこのかた、お咲の全生命は子供に向って傾注され、生活のあらゆる悩ましい思いは、子供に対する愛情でそのときどきに焼却せられながら、どうやら今日まで過ぎて来たのである。派手な、明るい世間から見れば、ざらにある、否それより惨めな家に、相当に調ととのった容貌を持ち、心も優しい姉が、埋もれきった生活をしているのを見るのは、浩にとって辛かった。情ない心持がした。が、或る尊さも感じていた。体の隅から隅まで、いじらしさで一杯になっているように見える彼女の、たださえよくはなかった健康状態が、このごろはかなり悪い。どうしても只ごとでないらしいのは、彼女を知る者すべてにとって、憂うべきことである。病気になられるには全く貧乏すぎる。
 姉さんにも、自分等にとっても辛すぎる。可哀そうすぎる……。
 浩は「案じられ申候」という字を見詰めながら心の中につぶやいたのである。
 何物かに引きずられるように、思いつづけていた彼の心は、突然起った幾つもの叫び声に、もとへ引き戻された。
「うまいうまい! なかなか上手だ!」
「ネ、これなら……ホラそっくりだろう!」
「帰ってくると、また火の玉のようになって怒るぜ!」
「かまうもんかい! そうすると、見ろそっくりこのままの面になるからハハハハハ」
「フフフフフフフ」
 振り向くと、笑いながらかたまっている顔が、石鹸のあぶくを掻きまわしたように見える間から、今いつの間にか作られたと見える一つの滑稽な人形がのぞいている。
 くくり枕へ半紙を巻きつけた所には、まがうかたもない庸之助の似顔が、半面は、彼がふだん怒ったときにする通り、眉の元に一本太い盛り上りが出来、目を釣り上げ、意気張ってにらまえている。半面は、メソメソと涙や鼻汁をたらして泣いて、その真中には、どっちつかずの低い鼻が、痙攣けいれんを起したような形で付いていた。庸之助の帽子をかぶり、黒い風呂敷の着物を着せられたその奇妙な顔は、浩を見ながら、
「どうしたら好かろうなあ……」
と歎息しているように見える。浩は苦笑した。おかしかった。が、心のどこかが淋しかった。賑やかなうちに妙に自分が、「独りだ」とはっきり感じられたのであった。

        二

 お咲の体工合の悪いのは、昨日今日のことではない。じき体が疲れるとか、根気がなくなったとかいうことは、今更驚くほどでもないけれども、いつからとなくついた腰のいたみが、この頃激しくなるばかりであった。上気せのような熱が出たりするようになると、お咲は起きているさえようようなのが、浩にもよく分った。心を引き締めて、自分を疲らせたり、苦しませたりするものに、対抗して行くだけの気力が、姉の体からは抜けてしまったらしい。ちょうど亀裂ひびだらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっとっているのを見るような心持がした。実際お咲にとっては、小さいなりに一家の主婦という位置が、負いきれない重荷となってきたのである。
 人のいない二階の隅で、部屋中に輝やいている夕陽の光りと、チラチラ、チラチラ、と波のように動いている黒い葉影などを眺めながら、お咲は悲しい思いに耽った。若し自分が死ぬとなれば、否でも応でも遺して行かなければならない息子の咲二のことを思うと、胸が一杯になった。ようよう今年の春から小学に通うようになりはなっても、何だか他人に可愛がられない子を、独り置いてかなければならないのかと思うと、死ぬにも死なれない気がした。一足、一足何か深い底の知れないところへ、ずり落ちかかっているようで、お咲は気が気でなかった。
「咲ちゃん、母さんが死んじゃったらどう?」
 訳の分らない顔つきをしている息子を、傍に引きよせながら、お咲は淋しく訊ねた。そして、ひそかに期待していた通りに、
「死んじゃあいや※(感嘆符二つ、1-8-75)
と、はっきり一口に云われると、滅入っていた心も引き立って、「ほんとうにねえ。今死んじゃあいられないわ」と思いなおすのが常であった。小さい手鏡の中に荒れた生え際などを写しながら、
「まあずいぶん眼が窪みましたねえ。こんなになっちゃった……。死病っていうものは、はたから見ると、一目で分るものですってねえ。ほんとにそうなんでしょうか? あなたどうお思いなすって?」
と云ったりした。
「私なんかもう生きるのも死ぬのも子のためばかりなんですものねえ、咲ちゃんのことを思うと、ちょっとでも、もう死んだ方がましだと思ったりしたことが、こわくなるくらいよ」
 浩が買って来た人参を飲んだり、評判の名灸に通ったりしても、ジリジリと病気は悪い方へ進んで行った。普通なら大病人扱いにされそうに※[#「うかんむり/婁」、106-14]れたお咲が、せくせくしながら働いているのを見ると、浩は僅かばかりの雪を掌にのせて、輝く日光の下で解かすまい解かすまいとしながら立たせられているような心持になった。目に見えて姉の体は、細く細くなって行く。けれども自分の力ではどうにもならない。大きな力が、勝手気ままに姉の体を動かして行くのを、止めたとてとても力が足りない。ただ涙をこぼしたり思い悩んだりするほかしようのない自分等が、浩には辛かった。激しい波浪と闘いながら、辛うじてつかまり合っているような自分達のうちから、また一人さらわれて行くということを、考えてさえゾッとしずにはおられなかった。自分と年のあまり違わないただ一人の姉、女性という、同情の上に憧憬的な敬慕を加えて感じている者の上に、死を予想するのは堪らない。彼は死なせたくなかった。ほんとうに生きていて欲しかった。出来るだけ姉に力をつけながら、浩はつくづく自分がふがいないというように感じたりしたのである。
 家の中を歩くのさえ大儀になってからはお咲も、もう死ぬときがきたと感じた。
「死ななけりゃあならないんだろうか?」
 お咲は、誰にともなく訊ねた。
「私が死ぬ? 今?」
 動けなくなる前に、せめて咲二の平常着ふだんぎだけでも、まとめたいと、お咲は妙にがらん洞になったような心持を感じながら、鍵裂きを繕ったり、腰上げをなおしたりした。学校へも一度は是非行って、よくお願いもしておきたいと思っていると、或る日、先生の方から咲二に、呼び出しの手紙を持たせてよこした。一月に一度か二度は、きっと学校に呼ばれて、お咲は、人並みでない咲二について、親の身になれば情ない、いろいろの小言を聞かなければならなかったのである。

 四月の第一日。R小学校の運動場には、新入学の児童が多勢、立ったり歩いたりしていた。最後に教室から出されて、小砂利を敷きつめた広場の一隅に並ばされた一群の中には、紺がすりの着物を着た咲二が混っていた。付き添ってきた母親達の傍に二列に立ちどまらせると、「皆さん! 右と左を知っていますか? お箸を持つのはどっちでしょう?」と先生が笑いながら訊ねた。
「先生僕知ってます!」
「僕も!」
「僕も知ってます※(感嘆符二つ、1-8-75)
 元気な声が、蜂の巣を掻き立てたように叫んだ。咲二も何時の間にか知っていた。お咲は有難かった。
「それじゃあ、今先生が右向けえ右! と云いますから、そうしたら皆さん右を向いて御覧なさい。さあよしか、右向けえ、右!」
 子供達は機械のように、体中で右向けをした。たくさんの足の下で、崩れる小石のザクザクという音、楽しげな笑声が、明るい四月の太陽の下でおどった。
 けれども! 咲二だけは動かない。
 お咲は目の前で、青い空と光る地面とが、ごちゃ混ぜになったような気がした。頭がひとりでに下った。
 振返って、この様子を見た先生は、意外な顔をして訊ねた。
「なぜ右を向かないの?」
「僕右向きたくない!」
 母親達の中から、ささやきが小波のように起った。「面白いお子さんですこと」と云う一つの声が、とがめるようにお咲の耳を撃った。
 先生は体をこごめて何か云った。そして、「好い子だからね」と云いながら、頭を撫でて、両手で右を向かせた。先生の顔には、始終微笑が漂っていた。手やわらかであった。が、屈んでいた体を持ち上げた彼の眼――詰問するように母親達の群へ投げた眼差し――を見た瞬間、お咲は直覚的に或ることを感じた。
「もう憎まれてしまった!」
「あれが始まりだったのだ」とお咲は思い廻らした。
「何もお前ばかり悪いんじゃあないわねえ」いない咲二を慰めるようにつぶやいた彼女は涙を拭いた。
 翌日は大変暑かった。が押してお咲は出かけた。毎度の苦情――注意が散漫だとか、従順でないとかいうこと――が、並べられた。そして注意しろと幾度も幾度も繰返された。
 妙に念を入れた、複雑な表情をして云った気をつけろ、注意をしろという言葉の中から、彼女は何か心にうなずいた。帰途に買った一ダースの靴下を持って、あくる日遠いところを先生の家まで行って、とっくりと咲二のことを頼んできたのである。なぜ早く気が付かなかったろうというような軽い悔みをさえ感じた。
 二日つづけて、暑い中を歩いたことは、お咲の体に悪かった。帰宅するとまもなく、彼女は激しい悪寒さむけに襲われ、ついで高い熱が出た。開けている下瞼の方から、大波のように真黒いものが押しよせて来て暫くの間は、何も、見えも聞えも、しないようになった。押えられ押えられしていた病魔が、一どきに彼女をさいなみにかかったのである。
 浩が驚いて駈けつけたときには、お咲は熱と疲労のために、病的な眠りに落ちていた。
 熱の火照ほてりで珍らしく冴えた頬をして、髪を引きつめのまま仰向きに寝ているお咲の顔は、急に子供に戻ったように見える。荒れた肌、調子を取っている鼻翼の顫動、夢に誘われるように、微かな微笑が乾いた唇の隅に現われたり、消えたりした。浩は、陰気な火かげで、かつて見たことのなかったほど活動している彼女の表情を見守った。彼女の持っている、すべての美くしい魂が、この貧しくきたない部屋の中で、燃え輝やいているように彼は感じた。紫色の陰をもって、丸く小さく盛り上っている瞼のかげで、いとしい、しおらしい姉の心はささやいているようであった。
「ほんとうに、可哀そうな私共! 私達の気の毒な一族……。けれども、今私が死ななけりゃあならないということを、誰が知っているの?」
 あやしむような、魅惑的な微笑が、彼女の唇に浮んで、また消えた。

        三

 お咲の病気は、皆が予期していたより大病であった。手後れと、無理な働きをしたのが、一層重くさせていた。骨盤結核という病名で、お咲は神田のS病院に入院して手術を受けたのである。
 このことを知らされた国許の親達は、非常に驚いた。まさかこれほどまでになろうとは、誰も思っていなかったので、暫くは何をどうして好いやら、途方に暮れたような様子であった。
 孝之進は、娘の病気などには、少しも乱されないように、強いて心を励ました。死ぬのではあるまいかという不安。どうかしてなおしてやりたいものだという心持などが、追い払ってもしつこくつきまとって心から離れなかった。八人も生れた子はありながら、その中の六人まで連れて行ってしまった死神が、今また大切な一人をねらっていると思うと、年をとり、心の弱くなった孝之進は堪らなかった。いろいろな心痛で、とかく心が打ち負かされそうになっても、彼は老妻のおらくなどには、一言も洩さなかった。人間一人二人の死は、さほど悲しむべきものと考えないように教育された若いときの記憶習慣が、孝之進の心に、何かにつけて堪え難い矛盾を感じさせた。仏壇の前に端坐して、祈念をこらしている妻の姿などを、まじまじと眺めながら、彼は「女子おなごは楽なものじゃ」と思った。女は泣くもの歎くものと昔から許されていることも、口先ではあなどっているものの、衷心ではほんとに美しいこともある。涙を浮べながらでも笑わずに済まない男の意地――たといそれは孝之進が自分ぎめの考えではあったにしろ――はずいぶんと辛いものであった。娘が病気になってから、おらくは、以前よりはっきりと、地獄、極楽の夢を見るようになった。
 或るときは一家睦まじく一つの蓮の上に安坐していることもあり、また或るときは、お咲だけが、蓮から辷り落ちて、這い上ろうとしながら、とうとう、下のどこか暗い方へ落ちて行ってしまったところなどを見た。生きるのも死ぬのも因縁ごと、如来様ばかりが御承知でいらっしゃると観じている彼女は、怨むべき何物も持たない。精進を益々固く守り、彼女にとっては唯一の財宝である菩提樹ぼだいじゅの実の数珠が、終日その手からはなれなかった。
「南無阿彌陀仏、阿彌陀様!」
 おらくの瞼は自ずと合った。
「若し生きますものなら、どうぞお助け下さいませ。また若しお迎え下さいますものならば、どうぞ極楽往生の出来ますように……」
 サラサラ、サラサラと好い音をたてて数珠を爪繰つまぐりながら、おらくは涙をこぼした。
「私のこのばばの力で何ごとが出来ましょう……?」
 その間にも、お咲の弱りきった体のすぐ上のところまで、しばしば死が迫ってきた。今か、今かとまで思われたことも一度や、二度ではなかった。けれども、いつも、もう一息というところで、彼女の若さが踏み止まった。一週間も危篤な状態を持ちつづけると、もうほんのほんの少しずつ生きる望みが湧いてきた。そして、急にどういうことはないと云われるまで、皆は自分等まで一緒に死にかかっているような心持でいたのである。風に煽おられて、今にも消えそうに、大きく小さく揺らめいたり、またたいたりしていた蝋燭の焔が、危くも持ちなおした通りに、快方に向くと彼女のまわりは、にわかにパッと明るくなった。安心と歓喜と、愛情の強いほとばしりで、お咲の病床に向って、楽しげに突進して行くように浩は感じた。当面の死から逃れ得たことは、彼女の生命が永久的に保証されたかのような安心をさえ与えたのであった。運がよかったということが口々に繰返され、医者まで、「全く好い塩梅でしたなあ!」と、自分等の技術に対してよりも、むしろ何か無形の力に対して感歎しているらしいのを見ると、浩も、「ほんとに危ういことだった」としみじみ感じない訳には行かなかった。そして、あれほど生かそうとする力と死なそうとする力が、互に接近し、優劣なく見えていたときに、ほんの機勢はずみといいたいほどの力が加わったために、彼女が今日こうやっていられるのだと思うと、何だか恐ろしかった。自分が一生送る間に――もちろん一生といったところで、その長さを予定することは出来ないが――今度のような、微妙な力の働きを感じて、心を動かされることがどのくらい多いのだろうかと思うと、もっとせっせと、根柢のある心の修練を積んでおかなければ、不安な心持もしたのである。姉の発病以来、浩は自分の心があまり思いがけない作用を起すことに我ながら驚ろかされている。
 或ることに対して、ふだんこう自分はするだろうと思っていたこととはまるで反対に、或は同じ種類ではあっても、考えもしなかった強度で、いざというとき心が動いて行く。ふだん思っていることは、もちろん単に予想にすぎないのだから、絶対にそうなければならぬものではないが、あまり動じ過ぎたと思うことはしばしば感じられた。むやみにびっくりし、感歎し、悲しみ、歓び、たとい僅かの間ではあっても、ほとんどその感情に自分全体を委せてしまうようなことのあるのは、嬉しいことではなかった。いかにも軽浮な若者らしいことも苦々しかったのである。
 単に浩にとってばかりでなく、お咲の病気は家中の者の心に、大変有難い目醒めを与えた。散り散りバラバラになっていた幾人もが、彼女のために一かたまりになって働くというのは、今まで感じられなかった互の位置とか力量とかを認め合う機会ともなり、かなり純な同情をお咲に持つことも出来させて来た。いろいろな苦労はあっても、皆の心は割合に穏やかに保たれていたのである。
 その晩は大変蒸暑かった。星一つない空から地面の隅々まで、重苦しく水気を含んだ空気が一杯に澱んで、街路樹の葉が、物懶ものうそうに黙している。
 かなり長い路を、病院から帰ってきた浩は、もういい加減疲れていた。小道を曲って、K商店の通用門を押した。厚い板戸がバネをきしませながら開くと、賑やかな笑声が、ドーッと一時に耳をった。明るい中で立ったりいたりするたくさんの人かげが、硝子越しに見える。外界からの刺戟にも、内面からの動揺にも、絶えず緊張し通して一日を送った彼は、せめて寝る前僅かでも、静寂な、落付きのある居場所を見出したかった。
 陽気すぎる中に入れきれずに暫く立っていた浩は、やがて思いなおして、一歩入り口に足を踏み込もうとした瞬間、隅の暗がりから、不意に彼の袴を引いたものがある。
「浩君! ちょっと……」
 彼をもとの往来に誘い出したのは、庸之助であった。街燈の下まで来ると、彼は立ち止まった。はばかるようにキョロキョロと周囲を見まわしてから、一枚の地方新聞を浩の前に突出すと、往き来するものが、浩のそばへよらないように、彼の体の近くを行きつ戻りつしはじめた。
 何から何まであまり不意だったので、訳の分らなかった浩は、云われるままに新聞を見ると、庸之助のつけたらしい、爪や涙のあとのある部分には、読者の興味を、さほど期待しないような活字と標題みだしで――郡役所の官金費消事件が載せられていた。
「――郡!……?」
 浩の脳裡を雷のように一条のものが走った。皆解った。庸之助の父親はここの郡書記をしているのであった。果して、拘引された者の一人として、杵築好親という名が、並べてある。浩は何だか変な心持になった。それは悲しいのでも、恐ろしいのでもない。苦甘いような感情が一杯になって、庸之助に何と云ったら好いのか、解らなかった。彼は新聞をもとのように畳みながら、だまっていた。
「見たか?」
「うん!」
「どうしたら好かろう……」
 二人はそろそろと歩き出した。
 正直そうな、四角い――目や鼻が几帳面に、あまりキッチリ定規で引いたようについていて、どこにも表情のない――庸之助の顔は、青ざめて引き歪んでいる。例の紺木綿の着物の衿に顎を入れて、体中で苦しんでいるらしい姿を見ると、大きな声で唄うように字を読みながら植えて行く、植字小僧のことを、浩は思い浮べた。
「杵築、杵築……好、好親!」と平気に、何事もなく植えられたのだ。変な感じは、一層強く彼の心に拡がったのである。
「親父は何にしろ、あまり敵を作るからね……」
 庸之助は、僅かずつ前へ動いて行く足の先を見ながら、独言するように云った。
「ああいう役所にいて、頭の下らない者は損だよ。今度のことも、いずれ平常から親父を憎んでいる奴がこのときこそと思って、企らみやがったのだと思うがなあ……。皆世の中が腐敗したからなんだ。親父のように硬骨な者は、出来るだけすっこませようとばっかりしやがる!」
 常から、現代の種々な思想、事物に反感を持って、攻撃ばかりしている庸之助は、今度のことに持論を一層堅たくしたらしく見えた。彼が「今」に生きている人間であるのを忘れたように、この事件のかげに潜んでいることを罵倒した。
「君は僕の親がそんな破廉恥な所業をすると思うかい? え?」
 庸之助は、浩が当の相手のように、意気まいて、つめよりながら鋭く訊ねた。
「僕の親父はそんな人間だと思うかよ!」
「そんなことはあるまいとは思うが、僕には分らない」
「なぜ分らないんだ?」憤りで声が太くなった。
「なぜ分らないんだ? 君には、悪いことをしそうな人間と、善いことをしそうな人間とが分らないのか? かりにも僕の親が、僅かな金、いいか金のためにだよ、祖先の名を恥かしめるような行為をするかというんだ! 貧乏したって武士は武士だ、そうじゃあないかい、馬鹿な!」
 興奮してきた庸之助の眼からは、大きな涙がこぼれた。啜泣すすりなきを押えようと努める喰いしばった口元、しかめた額、こわばった頬などが、動く灯かげをうけて、痛ましくも醜く見えた。彼の胸は、八裂やつざきにされそうに辛かった。
 世の中の「悪」といわれるような誘惑や機会は、たといそれがいかほど巧妙に装い、組み立てられて来ようとも、信頼すべき父親と自分の、さむらいの血の流れている心は、僅かでも惑わせないものだという、平常の信念に対して、このように恥辱な事件に父の名が並べられるというのは! あんまりひどすぎる。彼は大地が、その足の下で揺ぐように感じた。口惜しい、恥かしい、名状しがたい激情が、正直な彼の心を力まかせに掻きむしった。あてどのない憎しみで燃え立って庸之助は、
「うせやがれ! 畜生※(感嘆符二つ、1-8-75)
と叫んだ。往来の者が皆この奇怪な若者に注意した。そして或る者は嘲笑い、或る者は同情し、恐れた若い女達は、ひそかに彼の方をぬすみ見ながら、小走りに駆ぬけて行った。
 ずいぶん長い間歩いていつもの部屋に帰るまで、浩はほとんど一言も口を利かなかった。どうしても口を開かせない重いものが、彼の心じゅうを圧しつけていたのである。
 その晩彼は、いろいろなことを考え耽った。
「或る方へ或る方へと向って押して行く力に抵抗して、体をそらせ、足を力一杯踏張って負けまい負けまいとしながらいざというときに、ほとんど不可抗的な力で、最後の際まで突飛ばされる心持を、或る時日と順序をもって、こういう事件を起す人々は感じないだろうか? 悪そのものに、興味を持っているのでない者は、踏みこたえよろよろとする膝節が、ガックリ力抜けするまでに、どのくらい体中の力を振り搾るか分らない。けれども現われた結果は、なるようにしかならなかったのである」
 浩は、自分の内心に起る、実にしばしば起る、強みと弱みの争闘――自分という人間が、その長所に対して持っている自信と、その弱点に関する自意識との争――がもたらす大きな大きな苦痛を思うと、また、自分が或るときは非常に善い人間であるが、或るときはもうもう実に卑小な人間にもなるということを思うと、とかく踏みとどまりきれずに、どうにもならない際まで行ってしまう世間多数の人間を、「あいつは馬鹿だ!」とか、「思慮が浅いから、そうなるに定まっているのさ!」などと、一口には云いきれなかった。お互の長所を認めて、尊重し合って行くことは立派だ。けれどもまた、互に許し合い助け合って行きたい弱点も各自が持っているのだと思うと、浩は涙がこぼれた。
 庸之助が仲間の目を盗んで、あの記事の出ている新聞を隠そうとして、畳んで懐に入れてみたり、机の中に押し込んだり、それでも気が済まぬらしく、鞄まで持ち出して、部屋の隅でゴトゴトやっているのをみると、浩はオイオイ泣きたいような心持になった。
「君はきっと、出来るんなら、日本中の新聞を焼き尽してでもしまいたいんだろう? なあ庸さん!」
 庸之助の父のような位置にあり、境遇にある人が、今度のような事件に、全く無関係であり得ようと、浩には思えなかった。

        四

 薄紙を剥ぐように、というのは、お咲の恢復に、よく適した形容であった。全く気の付かないほど少しずつ彼女はなおってきた。血色もだんだんによくなり、腕に力もついてくると、彼女の全身には、恢復期の何ともいえず活気のある生の力が充満し始めた。そして、哀れなほど、若い母親として送った二十はたち前のしぼんでしまった感情が、またその胸によみがえったのである。
 寝台の上に坐っているお咲の目には、開け放した窓を通じて、はてもない青空が見渡せた。かすかな風につれて窮まりもなく変って行く雲の形、あかるい日の光を全身にあびて、あんなにも嬉しそうに笑いさざめいている木々の葉、その下にずらりと頭をそろえている瓦屋根。
「ア! 烏が飛んできた! 猫が居眠りをしている……。まああそこに生えているのは、何という草なんだろう? おかしいこと、あんな高い屋根の上に――、ずいぶん呑気そうだわねえ……」
 子供のように、微笑みながら、先の屋根に、キラキラしながら、そよいでいるペンペン草を眺めていると、夏の眠い微風が、静かに彼女の顔を撫でて通った。彼女の耳は、風に運ばれてきたいろいろな音響――かすかな楽隊、電車のベル、荷車のカタカタいう音、足音、笑声――をはっきり聞きとった。と、同時に、
「あ……私は助かった、ほんとに助かった※(感嘆符二つ、1-8-75)
という感じが、気の遠くなるような薫香をもって、痛いほど強く彼女の心をうった。
「ほんとに私は助かった。こうやって生きていられる!」思わず嬉し涙がこぼれた。魂の隅から隅まで、美しい愛情で輝き渡って。誰にでもよくしてあげなければすまない心持になり、彼女は歓喜の頂点で、啜泣いたのである。
 この不意な、彼女自身も思いがけないとき、目の眩むほどの勢で起ってくる感激は、珍らしいことではなかった。食事の箸を取ろうとした瞬間に、二本の箸を持っている手の力が抜けるほど、心を動かされたこともある。軟かい飯粒を、一粒一粒つまみあげて、静かに味わって喜ぶほど、彼女のうちにはこまやかな、芳醇ほうじゅんな情緒がみなぎっていたのである。
「私ほんとうに今まで浩さんに、済まないことばっかりしてきたわねえ。どうぞ悪く思わないで頂戴」
 二人は向い合っていた。
「なぜです? そんなことあ何んでもないじゃあありませんか、お互っこだもの……」
「そりゃああなたはそう思っていてくれるけれど……でも何だわね、あなたが親切にしてくれるほど、私は親切じゃあなかったのは、ほんとうよ」
 口をこうとする浩をさえぎって、お咲はつづけた。
「姉なんだから、そのくらいしてもらうのは当り前だと思っていたんだけれど、この頃は何だか今まで、皆にすまないことばかりしていたような気がしてたまらないのよ。ずいぶん怨んだり――そりゃあまさか口には出さなくってもね――したことだってあるのを、皆がこうやって私一人のために尽してくれるのを思うと……(涙がとめどなく落ちて、言葉を押し殺してしまった)ほんとに有難いの。私が悪かったことを勘弁して欲しいのよ浩さん、私もできるだけ親切にするわこれから……。貧乏すると心が悪い方へばかり行くわねえ」
 浩は大変嬉しかった。姉と一緒に涙をこぼしながら、一言、一言を心の底から聞きしめた。独りで堪えなければならない苦痛で、堅たくなったような胸を、やさしく慰撫されるのを感じた。彼が折々夢想する通り、身も心も捧げ尽してしまいたいほど、尊い立派な心を所有する女性のようにも思われる。彼の年がもっているいろいろな感情が燃え立って、どんな苦労も厭わないというほどの感激が、努力するに一層勇ましく彼を励ましたのであった。
 お咲のこの涙のこぼれるやさしい心持は、彼女の周囲のすべての心を和らげた。私立のとかく三等の患者などに対して、一種の態度を持つ癖のついている病院内の者まで、お咲に対して圧迫するような口は利けなかった。皆が彼女に好意を持ち、「五号の患者さんは、何て心がやさしいんでしょうねえ」などと看護婦が噂するほどであった。が、一日一日とかさんで行く費用が、家族の頭を苦しめる問題であった。金策のため、孝之進の出京はますます必要になってきたのである。
 手紙ばかり、いくら度々よこされても、孝之進は上京する決心が着かなかった。金のできるあてもない。それをただ体ばかり運んでいっても仕方がないと思っていたのである。――藩の近習として、家老の父を持ち、ああいう生活をしていたこの自分が、今、娘の療治に使う金さえ持たないということを考えると、憤りもされない心持がした。どうにもならない時世が、あのときとこのときとの間に、手を拡げていることを孝之進は感じた。が、事態は終に彼を動かしてしまった。あるだけの金を掻き集めて、孝之進は上京したのである。
 東京に行ったところで、何一つ自分を喜ばせるものはないのだと、思いきめて来てみると、先ず第一停車場に出迎に来ていた浩を見たときから、それはまるで反対になってしまった。
 あんなにちっぽけな、瘠せた小伜せがれであった浩が、自分より大きな、ガッシリと頼もしげな若者になっているのを、むさぼるように見ると、
「オー」
という唸り声が口を突いて出た。
「生意気そうな若者になりおったなあ」
 肩を叩きながら、彼は泣き笑いした。
 彼の一挙一動はひどく浩の心を刺戟した。身のこなしに老年の衰えが明かになって来た彼、少くとも浩の記憶に遺っていた面影よりは、五年の月日があまり年をよらせ過ぎたように見える彼に対して、浩は痛ましい感にうたれた。そして浩がさとった通り、孝之進は健康な息子に会うことも、生きられた――ほんとうに、もうすんでのところで、してやられるところだった危い命を取り止めた――娘に話すことがどのくらい嬉しかったか分らないのである。けれども、金のことになると――。孝之進の頭はめちゃめちゃになった。堪らなかった。そして歯と歯の間で、彼はいまいましげに唸るのであった。
 電車が! 自動車が吠えて行く。走る車、敷石道を行く人の足音。犬がじゃれ、子供が泣き、屋根樋に雀が騒ぐ……。自転車が蹴立てて通る塵埃じんあいを透して、都会の太陽が、赤味を帯びて照っている。
 正午ひる少し過ぎの、まぶしい町を孝之進は臆病に歩いて行った。何も彼も賑やかすぎ、激しすぎた。目が不自由なため、絶えず危険の予感に襲われている彼は、往来を何かが唸って駆け抜けると、どんなに隅の方へよっていても、のめってかれそうな不安を感じた。すがる者もない彼は、脇に抱えた縞木綿の風呂敷包みをしっかりと持って、探り足で歩いた。国から持ってきた「狙仙」の軸を金に代えようとして行くのである。鈍い足取りで動く彼の姿は、トットッ、トットッと流れて行く川面に、ただ一つ漂っている空俵のように見えた。
「これはどんなものだろうな?」
 孝之進は、自分で包から出した「狙仙」を、番頭と並んで坐っている主人に見せた。
「さあ、どれちょっと拝見を……」
 利にさとい主人は、絵を見る振りをして、孝之進の服装みなりその他に、鋭い目を投げた。そして何の興味も引かれないらしい、冷かな表情を浮べながら、
真物ほんものじゃあございませんねえ……」
と云った。ならべてある僅かの骨董などを、ぼんやり見ていた孝之進は、さほど失望も感じなかった。
「そうかな? 頼んだ人は(彼はちょっとためらった)真物に違いないと云っておったんだが……」
「ハハハハ。そりゃあどうも……。こう申しちゃ何でございますが、贋物にせものにしてもずいぶんひどい方で。へへへへ」
 それから主人は、孝之進がうんざりするほど、贋だという証拠を並べたてた。
「が、せっかくでございますから、十円で宜しきゃ頂いときましょう。それもまあ、狙仙だからのことで……」
 孝之進は、主人が列挙したような欠点――例えば、子猿の爪の先を狙仙はこう書かなかったとか、眼玉がどっちによりすぎているとかいう――を、一つ一つ真偽の区別をつけるほど、鑑賞眼に発達していない。(若し主人のいうことが事実としたら)それに、また持って歩いて、どうするという気になれないほど、体も疲れている。「一層いっそ売……」けれども、考えてみればかりにも家老の家柄で、代々遺して来たものに、偽物のあることは、まあ無い方が確かだろうとも思われる。うっかり口車になど乗せられて堪るものかと感じた。で、彼は売るのをやめて、帰ろうとまで思ったが、差し迫っては十円あってもよほど助かる。彼はとうとう決心をした。そして、皺だらけな札と引きかえに、家代々伝わってきた「子猿之図」を永久に手離してしまったのである。

        五

「ホーラ見ろ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 庸之助は飛び上った。
 若し万一、かの記事通りの恥ずべき行為があったなら、親子もろとも、枕を並べて切腹するほかないとまで思いつめて、事実を訊ねてやった返事として、父自身で書いたこの、この手紙を貰ったのだと思うと、五日の間あれほどまでに苦しんだ煩悶が、驚歎せずにはいられない速さで、彼の心から消えてしまった。激しい嬉しさで、彼はどうして好いか解らなかった。ひとりでに大きな声が、
「ホーラ見ろ! 僕の思った通り、きっかりその通りじゃあないか! 見ろやい※(感嘆符二つ、1-8-75)
と叫んで、じっとしていられない二つの手が、無意識に持った手紙をくちゃくちゃにまるめた。書面のあちらこちらに散在している「公明正大」という四字が、天から地まで一杯に拡がって、仁丹の広告のように、パッと現われたり消えたりしているのを彼は感じた。
「さすがは父さんだ。偉い! 見上げたものだ。なにね、そりゃ始めっからキットこうなんだとは思っていたんだが、ちっとばかり心配だったんでね、父さん! ハハハハハ」
 満足するほど、独りで泣いたり笑ったりしたあげく、融けそうな微笑を浮べながら、庸之助は部屋に戻ってきて、何か書きものをしている浩のところへ、真直に進んで行った。肩に手をかけた。
「オイ! よかったよ!」
 弾んだ声が唇を離れると同時に、肩に乗せていた彼の手の先には、無意識に力が入って、握っていたペンから、飛沫しぶきになってインクが飛び散るほど、浩の体をゆりこくった。
「う?」
「よかったよ君! もうすっかり解った。何でもなかったんだよ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 笑み崩れた庸之助の顔が、「あのことだよあのことだよ」と囁やいた。
「え? ほんとうかい? ほんとうに何でもなかったんかい? そーうかい! そりゃあほんとによかったねえ君! ほんとうによかった!」
 極度の喜びで興奮して、ほとんど狂暴に近い表情をしている庸之助の顔を、一目見た浩の顔にもまたそれに近いほどの嬉しさが表われた。
「よかったねえ。おめでたかったねえ……」
 浩は、庸之助の肩を優しく叩きながら、感動した声でいったのである。
「情けないが事実に違いないと思ったのに……。そうだったのか! ほんとうに何よりだ。嬉しいだろう? 君! 結構なことだったなあ!」
 庸之助は、翌日から浩の目には、いじらしく見えるほど、元気よく、一生懸命にすべてのことにつとめた。店の仕事はもちろん、自習している数学や英語にでも、今までの倍ほどの努力を惜しまない。そして、わざわざ浩を捕えては、「あのとき、君は分らないって云ったねえ」と、そのつど新しい喜びに打たれるらしい声で繰返しては、愉快げに笑った。
 けれども、事件はまるで反対の方に進行していたのであった。有力な弁護があったりして、一旦帰宅を許されていた好親は、ちょうど好い工合にそのとき、息子からの手紙を受取り、返事をった。が、それが東京へ着いたか着かぬに、彼の最も信用していた男が、予審でうっかり一言、口を滑らしたがために、好親の運命は、最も悪い方に定まってしまった。予審、公判、宣告、すべては順序よくサッサと運ばれ、彼は二年の苦役を課されたのである。
 庸之助の「信頼すべき父親」の一生に、最後の打撃が与えられた日の翌日は、祭日であった。
 浩は朝早く店を出て、十時過になって帰って来た。一歩、部屋の中にふみ込んだとき、浩は自分を迎えた数多あまたの顔に、一種の動揺が表われているのを直覚した。ざわめいた、落着きのない空気が彼の周囲を取り囲んだ。浩は、何か求めるように部屋中を見まわして、「どうかしたのかい?」と云おうとした刹那、その機先を制して、興奮した声で奥の方から、
「庸さんが帰っちゃったよ。親父が、牢屋へぶちこまれたんだとさ!」
と叫んだ者がある。訳の分らない笑い声が起った。そして誰も誰もが、変幅対の相棒を失った彼――何ぞといっては庸之助の味方になっていた彼――が、どんなにびっくりもし、失望もすることかというような、好奇心に満ちた目をそばだてた。けれども、皆は少しがっかりした。彼等の期待していた通りに場面は展開されなかったのである。浩は庸之助のことなどに無関心であるかと思うほど、平然としていた。「そんなことが、なんだい?」と云っているように見える。少なくとも、若い者達の予期を全然裏切った態度に見えた。が、彼の衷心はまるで反対であった。複雑な感動で極度に緊張した彼の頭は、悲哀とか、驚愕とか、箇々別々に感情を切りはなして意識する余裕を持たなかった。心のどこかに、大穴がポッカリ明いたようでもある。体中に強いおもしを加えられているようで、息苦しかった。目の奥で天井と床が一かたまりに見えるほど混乱しながら、傍で見れば、茫然と無感動らしい挙動で、浩は今まで庸之助の使っていた机上に、並べられてある遺留品を眺めていた。使いかけの赤、黒のインク壺、硯、その他塵紙ちりがみや古雑誌のゴタゴタしている真中に、黒く足跡のついた上草履が、誰かのいたずらで、きっちり並べられてある。指紋まで見えそうに写っている足跡を見ると、浩は急に、年中湿って冷たかった、膏性あぶらしょうの庸之助の手の感触を思い出した。その思い出が、急に焼けつくほどの愛情を燃え立たせた。彼の心に、はっきりと淋しさが辷り込んで来た。涙がおのずと湧いた。
「とうとうこうなったなあ……。あの人も好い人だったのに!」
 自分の机に坐って、あて途もなくあるものに、手を触れて心をまぎらそうとしていた彼は、鉄の文鎮ぶんちんの下に、一本の封書を発見した。ハッと思って、一度目はほとんど意味も分らずに読んだ。二度三度、浩は一行ほか書いてない庸之助の置手紙を離そうともしなかった。それは端々の震えた字――読み難いほど画の乱れたよろけた字――で、「もう二度とは会わない。親切を謝す。Y生」と、弓形ゆみなりに曲ってただ一行ほか書かれてはいなかったが、浩にとっては、それ等の言葉から三行も四行もの意味がよみとれたのである。
「木綿さん」というかわり、もう庸之助には、「火の子」という綽名あだなが付いていた。赤い着物の子で、それ自身もいつ、火事を起すか解らない危険性を帯びているからというのであった。
 平常からずいぶん反感は持ちながら、さほどの腹癒せもできずにいた者達は、庸之助の不幸をほんとに小気味よくほか思っていないことは、浩に不快なやがては、恐しいという感じを起させた。抵抗力のないものに対して、どこまでも、自分等の力を振りまわし、威張り、縮み上らせたがっているらしいのが、いやであった。雇人が勤勉であることを希望しながら、一種の雇人根性を当然なものとして扱いつけている、店の先輩達は、庸之助が去るときまで持続した、忠実な態度を、そのまま無邪気にうけ入れられないらしかった。こうなると、彼が正直で、よく働く若い者であったという、普通ならば、めらるべき経歴まで、悪罵の種にほか、なろうともしなかった。甲が三つだけ彼を悪く云うと、乙は五つまで、丙は十までと、どんづまりまで悪いだらけにしなければ、気が済まないらしく見える。そして、今まで店内で起った種々の不祥事件――たとえば、ちょっとした金銭の行違いや、顧客とくい先の失敗とかいうこと――は皆、庸之助のせいにされた。何の罪もない彼を、寄ってたかって罵倒するのを、幾分か肯定し、援助するような表情をして黙って聞きすてて置く者などを見ると、浩はなぐりつけたいほど、腹が立った。ひどいと思った。けれども、口で云うほど内心では庸之助に対して、好意も悪意も、さほど強くは感じていないことが次第に解って来た。
「あん畜生が、どうこうしやがった」
などと、平常は慎しまなければならない言葉も、或る程度までは思う存分ぶちまけられ、庸之助という主題に、関してだけは、下等な戯言たわことも批評も、かなり黙許されているような店中の空気が、平坦な生活に倦怠している若い彼等を、十分興奮させているのが、浩には分り出した。すべてが興味中心で動いて行く。面白半分である。そして或る者は、幾分庸之助に同情を持ちながら、大勢に反した行為をするだけの勇気を持たないで済まないように思いながら、皆の中に混って心ならずも、嘲笑したり、罵ったりしているのも見られた。浩は庸之助に強い強い同情を燃やしながら、また一方には、仲間の者達にも、哀憐あいれんの勝った好意を持っていたのである。

        六

 庸之助が去って、三日になり四日になった。ああして行きはしたものの、会わないで別れたことでもあり、葉書ぐらい寄こすだろうと、心待ちに待っていた浩は、その望みもそろそろ断念しなければならなくなった。興奮し通していた心持が、次第に落着くに従って、彼は、ほんとうの衷心から涙の滲み出るような思い出や、考えに耽り始めた。
 それは、ちょうどその月の決算にほど近い日であった。或る一人が不意に、庸之助の扱かっていた帳簿を、一応検べる必要を云い出した。庸之助のいた時分は、かなり彼を信用していたはずの者まで、今までそのことに不念だったのを、取り返しのならぬことをしたような表情を浮べて、昼の休みをつぶして、数字、一字一字から、説明書まで検べて行った。何か面白い発見でもするように、大声で庸之助の書いた金額を代帳に引きくらべて読み上げるのを聞きながら浩は、妙な心持がした。辱かしめを受けているような、また安心と不安の入混った心持になっていた。
「庸さんには、絶対にそんな心配は無用だ!」
 浩はそれだけで満足していたかった。けれども、それを許さない、自分自身の心の経験を持っていたのである。
 限られた僅かばかりの金で、自分が望んで望んでいた本を買う。これと、これとを買いたいのに、持っている金では一銭足りないというとき――ほんとに持っている人から見れば、金銭という感じを起させられないほど僅かな一銭――、自分の心のうちには、実に言葉で表わせないほどの心持が起る。「文字」を尊重している彼は、著者がそれを完成するまでに注いだ心血を思うと、よほど法外だとでも思ったときのほか、価切ねぎるということが出来なかった。古本屋――彼は新本を買うだけの余力を持たない。――に対しては、或る点からいえば馬鹿正直だともいえるけれども、彼の心は、或る人の本を見ると、真直ぐにそれを書いた人自身に対する尊敬となり同情となったのであった。で、彼は、そのどうしても手離さなければならない一冊の本を持って、一面理智の監視する前で、漠然とその足りない一銭の湧いて来ることや、主人がまけましょうと云うのを期待して見たりする。
 たった一銭、どこかの家の、火鉢の引き出しにさえ転っていそうな一銭が足りないばかりに、こんなにも欲しいものを見捨てて行かなければならないのか?「下らないなあ、定まっていることを、なぜそうまごまごしているのか?」冷たい笑いが、自分自身のうちから発せられるのを感じながらも、彼は欲しいという心持を押えられない。
「本の万引をするつもりかい?」
 浩は、思わず赤面して、不思議そうな顔をしている小僧にそれを返し、一冊だけを買って帰って来る。
 そんなことは、余裕のある生活をしている人には、恐らくただ馬鹿な、意志の弱いこととしてほか思えないだろうということは、浩自身も知っている。けれどもしばしばこういう心の経験をしている彼は、ほんの出来心で、反物などの万引をする女の心持がよく解った。さいわい自分は、思いきれるし、また対照となっているものが、それだけほか求めても得られないものではないから、自分自身ほか感じられない、内心の苦痛だけですむが……庸之助が、この店としてはとがめずには済まされないことをしているとは、思うだけでも浩は辛かった。が、嬉しいことに、彼の不安は単に杞憂に過ぎなかった。帳簿には、一厘一毛、疑問な点さえもなかったのである。
 けれども、頭を集めて調べていた連中の中からは、
「なあんだ! 何でもなかったじゃないかい!」
という不満そうな、つぶやきが起った。上役の者までが、意外そうな――少くもただ安心したというだけではない――表情を浮べて、「偉い時間ひま潰しをやったなあ」と云いながら、帳簿を伏せるのを見た浩は、思わず愕然とした。ほんとうにゾッとした。
「彼が正直であったのが、皆は不平なのだ! 若し、一ヵ処でも掛け先を、ごまかしてでもいたら、どんなにしゃぐつもりだったのだ!」
 憤り――友愛に強められ、燃え立った憤り――が、彼の胸一杯になった。何か云わずにはおられない感情が、喉元に込み上げた。けれども言葉が見つからなかった。何と云って好いか分らなくなって、彼はフイと、部屋を出てしまった。
 それからやや暫く、仲間の一人が彼を捜しに来るまで、浩は彼の「隠れ家」と呼んでいる石段で、種々な考えに沈んでいた。(K商店の二棟の建物を、接続している廊下の外に、六段ほど苔に包まれた石段がついていた。日光が、建物に遮られて、直射したことがないので、石段から拡がっている二坪ほどの地面には、一杯苔がついて、陰気ではなかったが、外のどこよりも落付いていた。浩はそこに腰をかけては考えるべきことを考えた。隠れ家というのが、自ずとそこを呼ぶ名になっていたのである。)彼は、どんな人に対してでも、善人だとか悪人だとかいう断定は下されないものだと思った。「まして、或る人のすることは、悪いに定まっているなどと思ってはすまない。互に許し合って行かなければいけない……けれども」彼は、憤りとか、憎しみとか、抵抗とかいうことを、全然、自分の心から除去してしまうことはとうてい不可能であった。「何か一つ過失をした者の前に、我々は決して、尊大に完全そうにかまえてはいけない。自分でもいつ、するか分らないじゃあないか?」浩は「お互に人間なのだから、出来るだけ愛しあって、仲よくして行かなければいけない」と思っている。そして、弱い者の前に、強がっている者を見ると腹が立つ。特殊な自分の権利を勢一杯利用してそういう特典を持たない者に誇ろうとする者に対して憤りを感じる。
 けれども、もっともっと自分が努めて、心を練り、善くし、賢くしたら、腹を立てることも、憎むこともなくなる――例えば、Aという金持の男と、Gという貧乏のどん底にいる男がある。Aが、何の働きもせずに、それでいて立派な生活をしているのを、いくら働いても食うだけのことも出来ないGが、「ああ羨しいなあ」と思い、やがては、狂的な嫉妬で、Aを殺してしまう。金を欲しいのでもない。GにはただAの面を見るとしゃくに触るという心だけが強かったのである。Aの家族は悲しむ。Gを憎む。出来るだけ酷刑に処してもらいたいと思う。が、死刑にされても、まだ足らなく思う。こういうときに、Gの心持も、Aの家族の心持も、どちらも肯定され、理智的ばかりでなく、ほんとうの心から、両方ながら憎む念などはない――というようになるはずなのかもしれないとも思った。がそれは大変むずかしいことだ。
「すべて好い……」という言葉を思い浮べて、彼は涙をこぼした。

        七

 ちょうどこのとき、東京駅には、下関発の急行列車が到着した。彼等の頭を押し潰されそうに、重苦しく陰気な通路から、吐き出されたたくさんの旅客の中に混って、庸之助の姿が見えた。小さい鞄を一つ下げ、落着かない目で周囲を見まわしていた彼は、やがて飛び出すように雑沓するうちを、かき分けてどこかへ行ってしまった。都会の中央の、この忙がしいうちで、何の奇もない、田舎者丸出しの一青年の彼に、注意を引かれた者は、ただの一人もなかった。
 庸之助は、あの日に東京を立つと、ほとんど夢中で故郷の小さい町まで運ばれて行った。そして、停車場へつくとすぐその足で、かねて見知り越しであり、今度の父親の事件に関係した某弁護士を訪ねた。職業から来る、おもおもしいまた、幾分傲慢のようにも思われる弁護士の前に、息をつめて立っている庸之助の、煤煙や塵によごれ、不眠で疲れきり、青黒くあぶらの浮いた顔は、非常に憔悴しょうすいして見えた。
 弁護士は、一通り形式的な同情を表してから、事件の説明にかかった。彼の言に依れば、今度の事件の陰には、もっとたくさんの小事件が伏在していて、三年前に、郡役所の増築のあった頃から胚胎していたものであったそうだ。町長、町会議員の選挙の時々に、行われていたいろいろな術策なども、法律上からいえば、立派に一つ一つの罪状となっていたのである。父親の行為からいえば、二年の刑期はむしろ軽いと云わねばならぬ。
「それが私の腕一杯でもあったし、また法律上の許す範囲では恐らくこれが限度だったのでしょう」
 最後に弁護士が、落付いた口吻こうふんで、云いおわったとき、庸之助は、大きな力でぶちのめされたような気がした。土気色な顔をし、手足を氷のようにして、うなだれている彼の唇は、ビリビリと痙攣していた。
「分りました。有難う、実に……」
 こわばった舌で、辛うじてこれだけ云うと、彼は早速いとまをつげた。
 どこをどう歩いているのか解らずに、ただやたらに足を動かしていた彼は、しばしば「冤罪えんざいだ! 実に恐ろしい冤罪だ!」とつぶやいた。けれども、何か心の中で、ヒソヒソと、それを否定している響があった。
「冤罪だ? お前の父親が?」
 通る者の誰も誰もが、自分の顔を見ては、微かながら、侮蔑的な注目を与えて行き過ぎるのを彼は感じた。
「お前かい? 息子というのは……」
 どの目もどの目も咎める。身の置場のないというような不安が、始めて庸之助の心に強く強く湧いたのである。永住の地と思い定めて帰った故郷も、やはり今の自分を安らかに、落付かせてはくれぬ。狭量な、無智な批評の焦点となろうよりは――。どんな人間でもかくまう穴や、小道の多い東京へまた戻る決心をした。
 もう再び踏まぬかもしれぬ土地と離れるときに、せめて父親にでも会って行きたかった。監獄の門まで行ったことさえあった。が、考えて見れば、「公明正大」とあんなに書いてよこした彼が、赤衣を着、鎖につながれた姿を見ることは、また見せることは互に、何という辛いことか、たとい冤罪にしろ(庸之助は冤罪という字を見ると、心がグーッと圧しつぶされた。)余り苦しすぎる。恐ろしい。とうとう面会を断念して彼は、僅かでも二人の間に、「何がほんとだか解らないもの」を置きたかったのである。
 東京へ一足踏み込むと同時に、すべてを諦めてどこかの職工にでもなろうと思って来た、彼の心は動かされた。名誉心、功名心を刺戟するあらゆる事物が、年若い彼を苦しめ、さいなんだ。自分よりもっともっと学問のない、力のない者まで、社会の表面で相当に活動しているのを見ると、今更自分をさほどまでに見下げることも、躊躇ちゅうちょされた。たといのろのろとではあっても、周囲の若い者達が出世の道をはかどらせているうちに、自分一人わざと取り残される必要もなく思えた。
 木賃宿に近いほど、下等な旅館の中二階で、昼飯がわりの焼薯やきいもを、ボツボツ食べながら、庸之助は身の振り方に迷っていたのである。
 けれども父親の上京などで、せわしい日を送っている浩は、庸之助が浅草の一隅で、そんな風にしていようとは、もちろん知ろうはずもなかったし、考えられもしないことであった。彼は、病院と父親のいる小石川の家との間を、いろいろな用件で往復していたのである。
 このごろになっては、もうお咲も、良くなるだけよくなりきってしまったような容態であった。重く考えている浩にも、彼女の顔色や髪の艶などは、以前よりも健康らしくなったことは否めない事実である。こうなってからまで病院の世話になっているのは、金持のすることだという皆の思いが、やがてお咲自身にも退院を思い立たせた。医者も止めはしなかった。これから先の治療は、彼等が工面し、掻き集めて出す費用に匹敵するほど、現われた効果がないので、ちょうど孝之進の目が、どうせは盲目になると定まってからは、無理でない程度の読み書きを許された通りの心持なり事の成り行きなりが、お咲の上にも繰返されたのである。退院したとはいっても、一月に一週間ずつ入院して注射を受けなければならない条件つきであった。それ故、その毎月に一回ずつの入院費の支出に就ても、彼等はまた工夫しなければならない。自分のためにせずとも好い借金をさせたり、相談をさせたりすることに、すっかり気がひけて、家中の者に気がねしているお咲を見るのが浩には辛かった。この金目のかかる病人一人を抱えて、家の者は一人として、そのような言葉を口にこそ出さなかったけれども、互の顔が合うたびに、目と目が言葉にしないこういう心持をつぶやき合った。――家中がどんなに、湿っぽく暗くなっているか解らない、これというのも皆あれのおかげだ。浩は金が欲しいと思った。二十円でもまとまった金があれば、今の皆の心がどんなに引き立てられるかしれないし、また姉にしろ、身を削るような涙をこぼさずとも済む。金があったらなあと、はっきりつぶやきそうにまで、ほんとうに強く彼は思った。けれども十五円ほか月に貰わない――それもようよう今年の四月から――で、貯蓄などは出来ないのに、二十円はおろか五円だって、右から左へ動く金は持っていない。今までだとて浩はもちろん、決して豊かな若者ではなかった。けれども金には――ただ本を買う場合を除いて――すべてのときかなり、さっぱりしていた。が、年を取り、衰えきったような父親が、苦しそうな思案に暮れているのを見ると、また、姉が啜泣きながら、「こんなに辛い思いをかけたり、自分でもするくらいなら、私ちょっとも癒りたくなんぞなかったわ」と云っているのを見ると、浩の心は乱された。どうにかしたいと思った。店で、帳簿に何万何千という金額を幾通りも幾通りも記入していると、浩には余り多過ぎて、平常ああやって通用している金なのだとは思えないような気がした。
 苦しい思いで埋まったような毎日を送りながら、浩はフト思いついて、万朝に短篇の小説を投書した。腕試しということもあるが、賞金を一層彼は望んでいたのである。けれども、結果は反対になってしまった。掲載され、金を送られてみると、彼にとっては、待ちに待っていた十円よりも、掲載されたということの方が倍も倍も嬉しかった。彼は興奮した。以前から、単に趣味というよりは、もっと喰差さった愛情、畏敬を持って文学に接していた彼は、このことで彼の境遇としてはかなり大きな励ましを得たのであった。
 十円。持った瞬間彼の頭のうちには、買いたい本がずらりと並んでおいでおいでをした。けれどもすぐその晩、浩は、お咲の手にそっくり渡して来てしまった。
 その次にお咲や孝之進などに会ったとき、浩は足の裏がムズムズするような気がした。「あの自分にとっては、忘れ難い十円を皆のために手離したのだ。よかった。けれども……?」彼は誰か何かそれに就いて云い出しはすまいかと思った。そして、心のどこかで待っていた。が、帰るまで終に一言も、それが云い出されなかったときには、安心したような物足りないような心持が、一杯になっていたのであった。
 浩の十円は、役には立ったに違いないが、孝之進の苦労を軽めることはもちろん出来ない。彼は窮した。そして終に高瀬という、先代からの知己で、浩の身の上も心配していてくれる家に、月十円ずつの出費を頼みに出かけた。
 主人夫婦は非常に同情した。丁寧に相談に乗って、
「どうにかしてはあげたいが、何にしろ月十円ずつ、限りなくということは、なかなか難かしいことだから」という言葉が繰返された結果、或る一つの案が出された。それは、孝之進のいる村の、Mという物持ちの先代が、企業の資本としていくばくかの金を、高瀬から借用したままになっているから、それを返済させるように骨を折ってくれれば、互に借りるとか貸すとかいう心持なしで、相当な費用を出してあげられるというのであった。その金額は大きかったが、現在のM家の経済状態では何でもないことであった。成功する望みが、孝之進の目にさえ明かなものであった。

        八

 それから間のない或る日のことである。
 商品の新荷が到着したばかりのK商店は大混雑をしていた。裏の空地で多勢の人足が荷を動かす掛声、地響、荷車のきしり。倉庫へ運び込む一騒動さわぎ、帳簿との引合せなどで、店員は大抵表や裏に出払っている。好奇心に馳られて、太い長いボールトで押しつぶされそうになるのも知らないで、覗いているたくさんの子供や子守を追いはらうだけでさえ一役であったのだ。
 浩は平常の通り自分の机の前に腰かけて、帳簿を整理していた。外界から来る雑駁ざっぱくな刺戟と、内心のかなりにまとまっている落着きが、皮膚の表面で混乱しているような心持になりながら、彼は指の先を汚して――浩はペン軸のごくの下部を握るので人指し指の先と中指の第一の関節をめちゃめちゃに汚す癖を持っている――せっせと数字を書き込んでいると、突然大きな音を立てて電話が鳴った。彼は頭を上げた。
「誰かいないかな?」目でたずねたけれど、自分を措いて誰も見えないので、浩はいつもの癖通り左の耳に受話機を取りあげた。
「モシ、モシ、あなたはK商店ですか?」
 太い声が、最初のモシ、モシと云うのに、非常に抑揚をつけ、区切りを切って呼びかけた。Sという大きな会社の庶務から、取締りに出て欲しいと云うのであった。Sというのは、平常店とはほとんど関係のない会社なので、解せない顔をして出て行った取締りは、かなり長く何か話していたが、やがて帰りしなに浩の傍を通りながら、「杵築のことを訊いて来たよ」と一口云って、そのまま行ってしまった。
「杵築のこと?」あまりいきなりだったので訳の分らなかった浩は、暫く考えているうちに、就職のことについて問い合わせがあったのだということが解った。
「就職? それじゃあ東京に出て来たと見えるなあ。Sの事務に入ろうとしているのだ!」
 そう思うと同時に、彼は取締りが何と云ったかということが非常に不安になって来た。庸之助が自分の一生に見切りをつけてしまい得なかったということが、一面非常に嬉しかったと共に、何だか痛ましいような気もした。
 自分で自分をどう処置して好いか解らないほど、強い激しい、内心の動揺や争闘に苦しみぬくとき、浩はあまり辛いと、ただの一秒でも好いから、何も思いも感じもしなくなってみたいと、冗談でなく思う。何一つ音のしない、物のないところに、目をつぶって坐っていたくなる。けれどもそれならばといって、続々起って来る疑問や感激や思想の変化に伴って来る一種の不安定さなどを、回避しようかといえば、そうではない。彼の衷心では努力、ただ努力と絶叫している。「どんなに辛くても辛棒しろ。じッと踏みこたえて前へ進め。努力、お前を改善するのは努力だけだぞ! しっかりしろ我が若者!」極度な静寂を求める心の一面には、高々とこう叫ばれる。「そうだ! ほんとうにしっかりしろ、我が心※(感嘆符二つ、1-8-75)」彼は感激して涙をこぼす。ますます努める。彼の心は苦しむ。いよいよ苦しんで突き通るべきいろいろのものにぶつかる。
 それ故、彼はどのような苦痛――外面的にも内面的にも――が現われようが、それに負けて引き下る自分を予想し得ない。従って彼は何事も諦めきれない。失敗した人が、どうせ駄目なことは第三者の目から見れば明白なのに、「新規蒔きなおし」に遣りだす心持はよく分る。ネロが、短剣を胸に擬してまでも自分が今こうやって死ななければならないことを諦められなかった心持を思うと、浩は、男らしくないとか卑怯だとかいうことを通り越して、ひしひしと自分に直接な共鳴を感じるのであった。それ故、庸之助がまた上京し、Sへ勤めようとすることは彼に充分同情出来た。
「それに、あの人は、何も自分自身を見捨てる理由はないのだ。どうぞうまく、まとまれば好いがなあ……」
浩は、庸之助の体を、高く高く両手に捧げて、ドシドシと大きな広い公平な道を歩いて行きたいような心持がした。けれども、庸之助が働かなければならない普通の世間では、庸之助の父親は「罪人」――浩は、「罪人」と云うとき、例えば「あいつは一度牢へ入って来たんだとさ」と云うとき、一種異った表情を大抵の人は現わすことを、認めている。――で、庸之助のような「罪人の息子」は自分等の仲間に入れて置かれないように考えられている。
 多勢子供達が遊んでいる。「鬼ごっこするから、お――いで。鬼ごっこするからお――いで!」歌いながら、手を組み合って、仲間を集めているところへ、弱いおとなしい子が来かかって、入れて欲しそうな顔をする。歌っていた子達がそれと見ると、急に丸くなって「ねっきりはっきり、これっきり、あとから来る者入れないぞ」と叫びながらまとまってしまう。けものにされた子供は、そんな仲間を憎まないだけ心が善くなるか、それ等を向うに廻して勝つだけ、悪くも強くもなるかしなければならないようになって来る。
 庸之助の現在の位置は、そうではあるまいかと、浩は思った。大きな会社とか商店とかいう、希望者の多いところでは、彼一人断わるということに何の痛痒つうようも感じないのだ。世間多数の人々を対手にして行くには、対手になる人がちょっとでも不安や不愉快に思うものを、たといそれがどんなに些細なことでも、保持して行くことは、会社として商店として不得策なことは、彼にもよく分っている。「取締りの人は、彼を弁護し、或は賞揚して置いたかもしれない。けれども突然彼が辞した理由を説明すれば、万事は定まってしまう。ほんとにもう何も云うことはないというほど、きっぱり定まってしまうのである。」彼は、妙に悲しいような、大きな愛情と大きな反感にもつれた心持に打たれたのであった。
 それから二度ほど、めいめい違った会社や商店から、庸之助に就ての間合わせが来た。それが若い者の仲間に知れわたると、まるで彼が生きているということからが、既に自分等に対して僭越であるような、冷笑ひやかし罵詈ののしりが、彼の名に向って浴せかけられたのである。
 浩は、非常に不安であった。この東京の中に、次第に悲境に沈みつつある? 自分の親しい友達がいる。自分の目からのがれていると思うだけで、非常に心が平らかではなくなった。始終心の隅に、彼の名と姿がいろいろな想像を加えられて重く横たわっていたのである。

 往来は混んでいた。今出たばかりの――行きの電車に追いつこうとして駈け出した浩は、とある本屋の傍まで来かかると、つい今まで自分のすぐのところで鈴を鳴らしていた夕刊売が、急にあわてた様子で身をよけたのに、フト注意を引かれた。足が鈍った。思わず振返った。そして何かから遁れるように両手で人波を掻きわけ掻きわけ、急いで行く後姿――どの売子もする通りに、社の名が染め抜きになっている印袢纏しるしばんてんを着て、籠を斜にかけた後姿――を眺めた。浩は、彼の驚きの原因を求めようとして周囲を見まわした。が、せわしい夕暮時に、何の特徴もない売子に、注意を引かれたのは、自分一人ぎりだと解ると、一層あの若者の挙動が怪しまれた。暫く立ちどまっていた彼は、やがて我ながら好奇心の強いのに、少し驚ろかされ気味になって、また歩き出そうとした。実際五六歩足を運びながらも、なぜだか心が引かれた。何だか自然と足が止まって、無意識に見返ったとき! ほんとうにその瞬間、チラッと見えて、隠れたあの若者の顔が、ほんの一瞥をくれただけではあったが、彼には見覚えがあった。忘れられない顔であった。
「杵築君だ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 浩は、張りきっていたつるが切れたような勢で駈け出した。今あの顔が見えたと思ったところへ来たとき、彼の姿はもうそこには見えなかった。
 人溜りのうちを彼は捜した。が、見えない。見つからない。人に聞こうにも何となし気が臆した。彼は力抜けのした様子で、立ちよどんでいると、さっきからその様子を見ていた年寄が、
「今の夕刊売かね? そんならホラ、そこの角を曲って行きましたよ」と教えてくれた。
 東京の大通りのかげには、よく思いがけないほど狭く、ごちゃごちゃと穢い通りがある。その通りもその一種で、細く暗い道一杯に、えた臭いが漂っていた。ぼんやりした明りにすかして見ると、一ヵ処窪んだ、どこかの裏口らしいところに、むこうを向いた一つの影が立っている。
「あれだ!」
 またげられては大変だというおそれで、心が一杯になった浩は、恥も外聞も忘れて、四這いになるほど体をかがめ、どんなに昼見たら穢いか分らない道の片側にぴったり身を引きそばめて、息を殺して一歩、一歩と動いて行った。変則な緊張で彼はほとんど不愉快なほど、奇妙に興奮していた。視点がはちきれそうな鼓動と一緒に近づいたり遠のいたりするようにも感じられた。
 そして、ついに手が届きそうな近くまで来たとき、浩は一飛びに飛んで、庸之助の着物の端を、どこという見さかいもなく掴んだ。驚愕の衝動が、彼の手のうちに感じられた。このとき、そのままそこに坐りこんでしまいたいほどの安心と、憎しみに近いほどの、強い強い愛情とで、浩の胸は震えた。片手で着物を捉えながら、彼は庸之助の手を捜した。そして握ると同時に「痩せたなあ!」という思いが、彼の心を貫いて走り、涙が一しずくポタリと、瞼から溢れた。同時に彼の緊張しきった感情が、少しは緩められた。が、「何と云ったら好いのか!」彼には言葉が分らない。同じように体を堅くしながら、無言のまま二人は立っていた。
 都会の雑音が、彼等の頭上に渦巻き返っている。黒い犬が二人を嗅いで通り過ぎた。

        九

 果して浩が予想し、案じていた通りのことが、痛ましい事実となって、庸之助の上に現われていた。或る意味においては、庸之助は、浩の思っていたよりも、もう一層下ったところまで行っていたのである。
 彼はもうすっかり夕刊売子になっていた。言葉から態度から、特有な見栄まで、もうすっかり自分のものにしているのを見て、浩は言葉に云えない感にうたれた。庸之助は、半ば愚弄と侮蔑の意味であり、半ばは友情から、浩のことを「坊っちゃん、坊ちゃん」と呼んだ。浩は、冷汗を掻いた。
「坊ちゃんお前はいい男だね。だが利口じゃあないよ。俺みたいな人間に、こびりついて友達だなんぞと云っていると世間並みな出世は出来ゃしねえ。何にしろ俺は、懲役人の息子だからねフフフフ。生かして置かれるんだけでももったいないんだろうさ」
 彼は、浩が一生懸命になって、力をつけようが、励まそうが、始めから耳をかそうともしなかった。
「努力も忍耐も結構だろうさ、が、俺のことじゃあねえよ。浮き上ろう浮き上ろうとする頭を、ちょいと出ると押し込み押し込みされちゃあ、どんな強情な奴だって、往生するほかないじゃあないかい? もう少し年をとると、お前も俺の心持が解って来る。利口なようでもお前の学問は本の上だ、可愛がられた者の利口だ、なあ坊ちゃん」
 庸之助のすべては、浩に一種の圧迫を感じさせた。たった二つほか年の違わないなどということは、二人の間では、もう問題でなくなったらしい。浩は、彼がほんの僅かの間に、こんなに心が変るほどのいろいろな経験を得て来たのかと思うと、善い悪いなどは抜きにして、各自のいろいろな生活ということが、強く感じられた。庸之助に会ったとき、浩はきっと陰気な沈んだ心持になった。彼に同情はしていても、彼に職業を与えるなどということは自分の力では出来ない。彼からいえば、「俺のような者は、理想なんかより、飯一杯の方へ頭が下る」と云う通り、自分の思っていてどうにもならない同情などは、迷惑ではあろうとも、何の足しにもならないのは、浩にだって解っていた。けれども浩としては、それならばといって、さっさと引返せない友愛がある。ときどき、仲間の者などと、妙な手真似や符牒で、自分を前へ置きながら、自分の悪口らしいことを云っている庸之助を見ると、浩は、非常に不愉快になって、もう二度と来まいと思う。自分の未練さや、執拗さが物笑いの種にされると思うと堪らなくなった。けれどもまた彼のいる傍を通ると、つい立ちどまって一言でも二言でも話して行かなければ気がすまないものが、その次までに心に湧き出して来る。そして、庸之助がこうなって来れば来るほど、彼のうけたあまり非実際的だった道徳教育――彼をして抽象的な善の理想ばかりあまり多く持たせ、一人の人間として生存している間に必然的に起って来る、善とはいわれない事件に関して、悪の中から善の方へ自分及び他の周囲を見なおす気持を持っていないようにさせた教育――によって、一旦善の理想が破れると、直ちに世界中自分まで引きくるめて「悪ばかり」のものにしてしまった心持が、いとおしく感じられた。彼は真正直な人間である。また或る点からいえば、非常に単純でもある。善悪がピッタリ貼りついている世の中を、善と悪とを半々に持った人間が動いているのだとは思えないのだろうということは、浩にも分った。善は天で悪は地獄と庸之助には思われている――善をあまり有難く見すぎ、悪をあまりおとしめすぎていた。「あんな奴がなんだい!」と見ぬ敵を軽んじていたところが、いざ立合って見れば、自分の知っている術よりも遙かに巧妙な術を持っている。どうしようと思う間もなく、おとなしく降参してしまう……。浩はどうしても庸之助を憎めなかった。彼が、今までの生活をすべて忘れようとしている努力、或るときには装うていることがはっきり分る粗暴などを見ると、浩は、彼の衷心の苦痛を考えて涙ぐんだ。互の境遇が変ると、互の間を結びつける友愛が深ければ深いほど、辛いものだと浩はしみじみ感じていたのであった。
 浩が文学を、懸命にしていることは、K商店の年寄り株にとって不安の種であった。少しでも成功しそうに見えることは、よけい心配をまさせた。文学者という妙な者に、自分等の施したいろいろな恩義を忘れて成りはしないだろうかということ、仲間の「とかく心の動き易い若い者達」が、釣られて、「妙な目をして考えこんだり」「訳の分らない独り言を書きつけて、夢中になったり」するようになりはしないかということが問題になった。で、年寄の取締りは、「そんな年中貧乏して、洋行出来る望みもない文学とやらは止せ止せ」とおりおり云った。けれども、文学ということも、どういうことなのか、あまりはっきりは解らない――ただ見ようとせないでも、自然と目に入るほど、そこここでかれこれ云われている遊蕩文学とやらいうことほか知れていない――で云いながらでも彼等の顔には幾分臆病な表情と、「俺達の云うことだから聞け」という、持前の押しつけがましさが漂っていた。
 それ故、結局浩はやはり従来の通り、書けるだけ書き、読めるだけ読む態度を、急に改める必要も起らなかった。それに、このごろ盛に頭をもたげて来る成金に、刺戟せられて我も我もと未来の大金持を夢想している他の若い者は、頼まれても浩のように古本漁りをしたり、ウンウン云って二枚三枚賞め手もないものを書こうと、思う者さえなかったのである。
 或る晩、高瀬へ行った帰途、浩は庸之助の所へよった。まだわりに早かったのだけれども、彼の籠は、浩が来て間もなく空になってしまった。
「もうお前も帰るだろう?」
 庸之助は、銅貨の溜った籠の底を、ジャラジャラいわせながら、浩に聞いた。
「うん、帰る」
「俺の家へ来て見ないか? ここからじきだぜ」
「そうだなあ……。行っても好いけど、もう今夜はおそいや、また今度にしよう! ね?」
「駄目だよ、今度だって、そんなにいつも早く俺の体が空かねえよ。来て見なよ、すぐだからさ、いやかい? そうじゃなかろう、来いってばよ」
 庸之助もしきりにすすめるし、浩も一度ぐらい彼のいるところを見るのも悪くはないと思った。で、浩は無邪気に彼と並んで歩き出した。広い通りを曲っては、先に庸之助を捉えたような裏道へ入り、また表通りに出ては、二人はかなり歩いた。
「じきだって、かなり遠いじゃあないか?」
「そりゃそうさ。坊っちゃんの考えることたあ、何でも違うよ」
 庸之助は、ニヤニヤ快さそうな微笑を浮べて、チラリと浩の顔を見た。そしてまた黙って何を云っても返事をしないで歩きつづけた。裏通りで、解らないが、恐らく町名が異ったろうと思う頃、庸之助は人の家の間の、もっともっと穢くせまい小道にれ込んだ。浩はそろそろどこへ行くのだか、こうやって庸之助に引き廻されているのがいやになった。馬鹿馬鹿しい心持がして、軽々しく物好きに動かされたことを、我ながら不愉快に思っていると、少しも歩調を緩めないで歩いていた庸之助は、とある一軒の長屋のような小家の前に、ピッタリ足を止めた。暗いなかに、垂れたような軒の下には、建附の悪そうなぼろ格子が半分ほどいて見える。
 庸之助は、格子に手をかけて、ガタピシいわせると、その物音で、障子をあけて中から出て来たのは、年頃ははっきり分らないが、何にしろ二十代の女であった。きっと赤坊を裸身で抱いた、みすぼらしい宿の女房でも出るだろうと予想していた浩は、つい「オヤオヤ」と思った。ぞんざいな髪形をして、荒い着物の上に細い紐のようなものを巻いている。変だなあと思っていると、女は「オヤ、今晩は。えらいお見かぎりだったねえ……」と云って、「まあお上りなさいよ」と庸之助の肩を叩いた。この瞬間、浩はハッと或ることを思いついた。庸之助に対して、彼は蒸返るような憎しみを感じると同時に、また一方強い好奇心が動かされた。彼はちょっと庸之助の方を見た。そしてその平気な顔を見ると、屈辱と憤怒と羞恥が一塊まりになって、彼の胸のうちで爆発した。浩は、「僕は帰る」と叫ぶや否や、一目散に勝手を知らない道をかけ出した。一歩足を出したとき、彼は自分の手を捉えた者のあるのを感じた。が無意識で拳骨を振りまわした。何か柔かいものがぶつかったような気がした。
 彼は無我夢中で明るい通りに出るまで馳けた。そして、明るい街燈が両側を照らす道を、安心して、のびやかに歩いているたくさんの人を見たとき、浩はいたたまれないような恥かしさに迫られた。
 店へ帰ってからも、浩は落着けなかった。床に入って、目を瞑ると、彼は庸之助が悪魔のような形相をして自分に向って来るような幻を見た。友情も何も踏みにじってしまうほど庸之助が憎く、また恐ろしかった。
「世の中だ。試みられた」と彼は心のうちでつぶやいた。
「あんなに試みられなければならない自分か?」
 浩の目前めさきには、高瀬の一部屋の様子がフト現われた。平和な部屋、花、額、たくさんの笑顔、軽い足音。皆が嬉しそうに喋り、微笑みいつくしみ合っている……。浩は、堪らなく情ないような、悲しいような感情に苦しめられた。訳の分らない憂鬱が、心の隅から隅まで拡がって来た。浩は夜着をかぶったなかで、オイオイと子供のように声をあげて泣いた。

        十

 限られた日数と金の続く間に、あれもこれもと、孝之進は毎日毎日、纏りなくせわしい日を送った。M家の金のこともあるので、出来るだけ早く帰国したいと心は焦りながら、今夜浩の世話になっているK商店を訪ねて、おそくも明日の夜行で立ちたいと、彼が決心したのは、予定より五日も後れていた。
 平常、高瀬などでも浩のことは賞めこそすれ、悪いなどとは爪の先ほども云ったことがないので、孝之進は心ひそかにKの取締りからも、同様な賞讃を期待して出かけて行った。応接間に通されて、取締りが面会した。
「浩さんもなかなかよく尽していてくれるので、私共もめっけものだと思って喜んでおります」
 最初は、普通、若い者にきっと与えられる通りの賞め言葉が続いた。「正直だとか、品行が正しいとか云うのは、俺の子なら、何も驚くことではない」と孝之進は思った。一体彼は、昔から家老という代々の家柄は、たとい自分の代でその職にはつかなくなったとしてもどこかひらの士とは違ったところがなければならないと思っていた。が、貧乏なときでも、病気のときでも、それは別に奇蹟を現わすほどの力もないらしく見えたまま今日まで過ぎて来たのだ。けれども、浩を賞めぬ者のないということ。「それそこだ! そこが争われぬものだて」と彼は思ったのである。孝之進は、「いいえそんなことは、ちょっともありません」という返事を聞きたいばかりに、「それでも何か注意すべきことがあれば」聞かして欲しいと折返して頼んだ。そして、全く彼の心を動顛させる事実として、浩が文学を勉強していること、庸之助とつき合っていることを聞かされたのであった。孝之進は、取締りの云うことは一々もっともだと思った。この順で行けば鰻上りに出世して、近い内には社会に枢要な位置を得る人物――直接政府の官省から、招待状などの来るような者――になれるだろうと思っていた彼の希望は、根柢から覆がえってしまったように感じた。彼の目の前には、はてもないガラン洞の口がいきなり開いた。体中の力が、毛穴から一時に抜けてしまったようで、孝之進は、暫く何とも云えなかった。だんだん心が落付いて来るにつれて、自分の愛しているものが、自分の苦労も知らずに勝手気儘にふるまっているのを見る失望が、やがては憎いというような感情に変じて来た。その非常に複雑な激情に血を湧き立たせながら、彼は浩を自分のところへ呼んでもらった。「戯作者。罪人の息子。この馬鹿奴!」断片的に、単語が頭の中に浮いたり沈んだりした。
 暫く睨みつけてから、孝之進は、浩に、
「勘当する! 二度と顔を見せるな!」
と、ぶつけるような声で云った。非常に興奮している孝之進に口添えをして、取締りは、彼の憤りの理由を説明した。
「杵築にお前が親しくしていることを云ったものでね」
 そのとき、取締りの顔には、「云わないでも俺はちゃんと知っているぞ」という監督者でなければ分らないような満足した、幾分誇らしげな表情が現われた。そして、孝之進の憤りがあまり激しいので、「こうまで怒ろうとは思わなかったが」というふうに彼の方を眺めた。浩は一言も弁解もせず、反駁もしなかった。彼には、とりまとめ得ないほど、動揺している老父の感情を、この上掻き乱すに忍びなかったのである。それに、いくら弁解しても、互に理解し合えない或るものが横わっていることをも、彼は考えたのである。
 取締りが席をはずしてから、孝之進は浩に繰返し繰返しその心得違いをさとした。彼は、いやしくも家老の家に生れたものが、罪人の息子――夕刊売と親しくし、つまらない小説などに凝っていることは恥辱だと思え。もう決して致しませんと誓言しろと云って涙をこぼした。浩は、口では強い言葉を出しながら、その奥では哀願しているような父親の姿を見ると、辛い思いで胸が一杯になって来た。
「お父さんの考えていらっしゃるほど、文学というものはいやしいものではありません。どうぞ心配しないで下さい!」
「それではやめないと云うのか?」
 浩は迷った。「止めないのはもちろんのことではある。が、父親にそう云ったらどのくらい、たとい考え違いであっても、悲しむか分らない。それなら、止めますと云うか!」彼の本心が承知しなかった。一時逃れのごまかしをすることは、互のために真の意味で何にもならぬ。自分を偽ることは堪えられない。こういうときに、「止めます」と云いきる人の例はたくさん知っている。
 けれども……。浩はキッパリと、
「止められません!」と云った。
「止められん?」
「ええ止められませんお父さん! あなたの心持はよく解ります。けれども……けれども書くことも、読むことも止めてしまったら、何に励まされて、辛いことや苦しいことを堪えて行くんでしょう? ねえお父さん! あなたも辛いだろうが、僕だって決して楽じゃあないんです!」
 浩はポロポロと涙をこぼした。父親に対しての愛情と、芸術的良心が、一致しない奔流となって、彼の体中に渦巻いた。
 息子の決然とした態度に、孝之進の心は、たじろぎ、よろめいた。大きな大きな絶望が、真暗な谷底へ、一気に彼を蹴落したのである。説明のつかない涙が、とめどもなくこぼれた。親子二人が、卓子テーブルを挾んで、男泣きに泣いているとき、すぐ傍の若い者達の部屋では、幾度ともなく、笑声が崩れては響いた。浩は、無言のまま強い緊張で、後頭から頸筋にかけての筋肉が、重く強直してしまったような心持でいた。
「二度と顔を見ぬ」
 孝之進は、帰りしなにまた繰返した。そしてトボトボと帰途に就いた。浩は夜道を独りやるに忍びないので、幾度送って行くと云っても、孝之進はきかなかった。
「貴様のような奴に送られんでもよい!」
 けれども、彼がK商店の門を出て停留所まで来る間に、振返って見ると、一つの人影が、幾らかの間隔をおいて自分について来るのを発見した。浩だということはすぐ分った。けれども孝之進は知らない振をして、じきに来た電車に乗ってしまった。が、いざ自分が乗ろうとしたとき、浩の影がお辞儀をしたらしく見えたことが、非常に孝之進の心を掻き乱した。駈け戻って、叱り過ぎたと云いたいような心持が強く起った。が、そうするだけの勇気が、彼にはなかった。
「可哀そうなお父さん! ほんとに可哀そうなお父さん! あなたの心持は分っています。よく! けれども、あなたの思っていらっしゃる偉い人には、私はならないでしょう!」
 大きい音を立てながら、馳け去る電車のかげを追いながら浩はつぶやいた。
 居眠っているような姿で、思い沈んだまま孝之進は小石川のはてまで、運ばれて行った。停留場のすぐ傍から、家までの道路は、瓦斯ガスだか、水道だかの工事で、そこここ掘返されていた。低く、暗く灯っているランプの明りなどでは、視力の弱っている孝之進に、平らな地面と、泥や砂利などのゴタゴタ盛上っているところとの見境いが、はっきり解ろうはずがない。まして、心が疲れ、望みを失ったようになっている今、その混雑した路を、巧く通り抜けることは、非常に困難なことである。孝之進は、ちょうど盲人の通りに、上半身を心持後へそらせ、杖がわりに持っている洋傘こうもりで、前方を探り探りたどって行った。ところへ後から追いついた一台の自転車が、彼に突かかりそうに近よってから、耳元で威すように激しくベルを鳴らしたてた。あまり急だったので、孝之進は少しくあわてた。そして避けようと一歩傍へ踏み出した途端、彼の歯の下駄はフト、おそろしく堅く、でこぼこな何かの塊りにふみかけた。平均を失った体と一緒に、足の下の塊りもゆすれる。ますます調子の取れなくなった孝之進の体は、二三度前後に、大きく揺れると、ハッと思う間もなく仰向きのまま、たたきつけられたように倒れてしまったのである。その瞬間孝之進は、後頭部と腰が痲※(「やまいだれ+(鼾−干−自)」、第4水準2-81-55)するような心持がした。グラグラとして真黒になった心の前で、ちょうど覗き眼鏡の種紙が、カタリといってかえる通りに、今まで自分の前一杯にあった、幅の広い何物かが、微かにカタリ……と音を立てて、届かない向うにかえったように感じた。

        十一

 退院してからお咲の工合もあまりよくない上に、孝之進まで、あの夜転んだのが元で、どことなく体を悪くしてしまったことは、彼等にとってかえすがえすもの痛手であった。ほとんど敷き通しにしてあるお咲の床の傍に、もう一つ床を並べて、何ということはなしただ眠ってばかりいる孝之進の様子に家中は、ひそかに眉をひそめた。ようようお咲を、それも血の出るような思いをして、やっと出したばかりだのにすぐまたお代りに出られては、とうていやり切れなかったのである。
 翌日、そのことを電話で知らされたときには、浩も半分病人のようであった。昨夜の睡眠不足、精神過労に加えて、二三日前からの風邪で、体中に熱っぽいけだるさが、はびこっていた。電車に乗っている間中彼は鈍痛を感じる頭のしんで、考えに沈みつづけていた。
 浩が行ったとき、孝之進は二階で眠っていた。仰向けに、ユサリともせず寝ている彼の、口の周囲や目のあたりに、気のせいかもしれないが、昨夜まではなかった皺がふえているように見えて、浩の心はかるく臆した。足音を忍ばせて、傍にマジマジと横わっているお咲の枕元に坐って頭を下げると、彼女はいきなり、
「なぜお父さんを怒らせなんかしたの? あなたは!……。御覧なさいよ!」
と咎めるように囁いた。沈黙している彼を捕えて、半ば絶望的な感情から起る、執拗な意地悪さで、お咲は長いこと、彼を責めたり、憤ったりした。
 かなりよく眠っていた孝之進は、聞えないようで妙に耳につく彼女の話声に、うすうすと眠りからさめた。が、起き立ての子供のように、意識の統一のつかない彼は、ぼんやりとしていると、一人の若い者が裾の方に来てお辞儀をした。半分目を瞑って、後頭部の鈍痛を味うように感じていた彼は、
「誰れだ?」
とはっきり云ったつもりで声をかけた。けれども、浩の耳には、そち、こちに散らばっている一言一言を拾い集めて云ったように、
「だ、れ、だ?」とほか聞えなかった。情けない心持が、サアッと体中に流れた。
「お父さん? 工合はどんなです? 頭が痛みますか?」
「お父さん? ああ浩、お前だったかい!」
 どんよりしていた孝之進の顔が一時、明るくなって、またもとの陰気さに戻った。大笑いになりそうな嬉しさを感じて擡げた頭を、またもとの通り枕に落しながら、孝之進は、
「帰れ帰れ!」
と云いすてて、寝がえりを打った。お咲の詰問するような眼差しが鋭く浩を射た。彼は、妙に縺れ合って、どれが、どの色とも分らない感情が込み上げて来るのを感じた。恥かしいのでも、恐ろしいのでもない。まして憎らしいのではないけれども、心の平調が乱れた。落着きが、一時自分から去ってしまったような気がした。涙ぐみながら、だまって坐っていた彼は、やがて「お大切になさい」と云って立ち上った。
 下へ降りて来て見ると、長火鉢の前で、何か土鍋で煮ていた年寄は、黙って立っている浩を、見上げながら、「時を見て、またゆるりとお話しなさるがいいよ。若いときは、誰でもねえ……」と、慰めるとも追懐するともつかない表情を浮べた。
 その後、浩は一日に一度ぐらいずつきっと父親の見舞いに来た。が、二階には行かないで、持って来た果物だの菓子だのを年寄や、また時としてはお咲に頼んで帰った。孝之進は、浩が来たらしい声が下から聞えて来ると、耳を澄ませて、何事も洩らさず聞きとるに努力していた。「もうそろそろ来そうなものだ」と思っていると、格子の鈴が鳴る。帰るらしい挨拶の聞えるときや、一日心待ちに待って来られないときなどには、訳の分らない淋しさが湧いてきいきいした。けれども、彼はただの一度も浩のことを口に出しては訊かなかったし、来ているのが解っても、上れと云わなかった。「そこが武士の意地」なのであるらしかった。そのくせ、浩が持って来た果物などを食べるとき、お咲が一緒に泣き出してしまうような涙をこぼした。
 浩は、父親に「帰れ」と云われた息子として、自分に妙な同情や臆測が加えられているのを感じて、彼はこそばゆいような気がした。が、彼はそんなことを気にして、怒ったり笑ったりしてはいられなかった。どうかして、薬代だけは自分の力ですませたいと、彼は心をなやましていたのである。国へ送る分だけを、取っておけば済むとも思ったけれども、母親のことを考えると、それもならない気がした。また十円かと思うと、浩は苦笑しながらも涙がこぼれた。
 自分一人こうして病人でいるさえ、気が引けて、気が引けて堪らないお咲は、逗留したまま、また父親に床につかれたことは、年寄達に対して、身も世もあられない思いがした。病気も幾分かぶり返し気味で、神経質になっている彼女は、あれやこれや思いつづけると、このまま馳け出して、どこかへ体ごとぶつかりたいほど気が焦立った。
「何をどうしたか分らないけれど、こんなに弱るほど、この年のお父さんをいじめなくたって好さそうなものだのに……。そりゃあ、転んだからということだってあるけれど、ただちょっとつまずいたぐらいで、どうしてこれほどこたえるものか、あれが憎い、ほんとうに親不孝だったらありゃあしない!」お咲は口惜し涙をこぼした。はかどって癒ってくれない、自分自身の体に対しての怨みと、浩及び、無形な何物かに対しての腹立たしさに、彼女はブルブルした。このごろのように、苦労が一倍多かったり、病気が悪くなって来ると、恢復期に彼女の心に起ったような、優しい潤いのある心持は、すっかりどうかなってしまって、不安な焦躁もがきと、倦怠だるさが心一杯に拡がった。あまり丈夫そうにピンピンしている者を見ると、「ちっとは病気もするが好い」という気がして、浩などに対する腹立たしさも、後で考えてみれば、彼の健康に対しての嫉妬が混っていたのだと、我ながら恥かしいような心持になることもあった。
「お父さんがまたお医者にかかっている……」
 いくらかずつ遣り遣りして、仕舞いにはどうしたら好いかと思う医者への払いなどを考え出すと、今日こそは、ちゃんと順序を立てて考えましょうと始めこそ思っていても、だんだんいろいろなことで頭が乱れて、きっと泣いてしまうのが落ちであった。
 けれども、孝之進は、始めの様子に似げなく少し工合がよくなるとドンドンなおって行った。また無理でもなおらせずにはおられなくもあったのだけれど、とにもかくにも、医者が、疲れが一時に出たのと、リョウマチがついたのと転んだのと一緒になったのだといった診断が、ほんとらしくあった。皆が気にやんでいた中風のようにもならずに済んだことが、何よりであった。床を離れて、二三日してから孝之進は足試しに、電車に乗らずに行ける高瀬まで出かけてみた。足の方は何でもなかったが、妙な一つの現象を発見した。それは彼が高瀬の主婦に乞われるままに、お咲の所番地を書こうとしたときである。「――区――町――」孝之進は、すかすような容子で、几帳面な字を書き出した。このとき、フト彼は浩のことを思い出した。彼の目が三白なことが頭に浮んだ。三白の子は昔なら、生かして置けないといったものだと思うと、不意に手頸の力がぬけて書いていた字の下に、細く太い汚点をつけた。考える方に妙に体中の力が吸い取られて、手の方がだるいようになると一緒に、ガクンと骨がれたように、感じたのである。孝之進は、思わずハッとした。が別にどうしようもない。何も思わないようにして、書きあげてはしまったものの底の底まで気が滅入った。彼はそこいら中、ガタガタになって、死んで行く自分の姿をまのあたり見せつけられたようで、非常に厭な気持がした。
 一二度外出をしてから、孝之進は早速帰国の仕度をした。そしてようよう汽車賃ほか遺らない中から、薬代を払おうとして、きっと浩が済ませたに違いない受取りを出されたとき、彼は思わずも溜息をいた。心のうちではどこまでも自分をいたわってくれる息子に対しての感謝で一杯になっていたが、彼の装い得る最大限の平然さをもって、「そうか」と云ったまま、さっさと受取を懐へ押し込んでしまった。翌朝彼は起きぬけに帰国の途に着いた。

        十二

 国へかえるとすぐ、孝之進はM家の金の談判を始めた。けれどもなかなからちが明かない。東京の商業学校を卒業して来て、西洋風の机に向い、西洋風な帳面と字で、一家の経済を切りまわしている若い主婦を始め、主人まで、出来るだけ孝之進をはぐらかしにかかっているように見えた。主人は何ぞというと、「時世というものは面白いもんですね、何にしろあなたがこういう用事で家へ来なさるんだから……」と云った。これが孝之進の気にグッと触った。二三度はこの言葉を聞くと、そこそこに座を立ってしまったが、相手の策略がだんだん飲みこめると、孝之進もその手には乗らなかった。が、何にしろちょっとしたことまで東京の高瀬へ問い合わせては返事を待ってしなければならないようなことが起って来るので、手間ばかりかかって、一向進まない。お咲の方からは、それとなし、金の催促の手紙を寄こすので、孝之進は、とうとう門先にある桐の大木を売ることにした。これはかつてお咲の嫁入りのとき、箪笥たんすでも作ろうなどと云われたこともあったもので、穢ない茅屋根を被い隠すようにして、毎年紫の品の好い花が一杯に咲いた。松だの杉だのばかり多い村中で、孝之進の家の目標めじるしのようになっていたのを、今伐り倒すことは、不如意な暮し向きを公然発表するようで気も引けた。けれども背に腹はかえられぬところから、孝之進はかねて見知り越しの材木屋を呼んで価踏みをさせた。商売となれば、遠慮はない。材木屋はいろいろな難癖をつけて、一抱えもある桐を、二十円で買ってしまった。
 久し振りで東京へ行ったことだから、息子のこと、娘のことをあれこれ聞くのを、楽しみにしていたおらくは、浩のことを云い出すと、「あんな馬鹿のことなんぞ訊くな」と云われるのが心外であった。そしてそればかりではなく、東京のことを訊かれるのを厭っている様子が彼女に不審を起させた。心配になった。で三晩かかって孝之進に見つからないように心を配りながら、お咲のところへ手紙を出した。太い、にじんだ平仮名ばかりで、ところどころへ涙の汚点を作りながら、「わたくしのしんぱいおすいもじくだされたく候」と繰返し繰返し書いてやったのである。返事は浩からすぐに来た。三間もある手紙をおらくは嬉し泣きに泣きながら読み終った。息子の親切な言葉が彼女の心を和げて、何も本を読んだりものを書いたりすることなら、おじいさんも、そんなに怒りなさらないでもよさそうなものだにと思った。彼女にとっては、息子が庸之助と親しくしているのは、後生のために大変好いことだとほか思えなかった。が若いうちから孝之進に絶対的な権利を認めているおらくは、「女には分らない男同志のこと」に口を出して何か云おうなどとは、さらさら思わなかった。ただ、一日も早く孝之進の怒りのとけるように、如来様にお縋り申すほかなかったのであった。それに、孝之進も帰って来てから、どうも工合がよくなくて、腰についたリョーマチだという痛みが次第に募って、朝起きたばかりには、サアといって立てないほどになった。物忘れも激しくなった。前にも増して陰気になって、一日中おらくにものを云わないことさえある。彼女は、おじいさんも信心がないからこうなのだと思って、折々は少しお説教でも伺ったらと勧めた。孝之進自身もこのごろのように心が淋しくて、苦しいことばかりあると、そう思わぬでもないが、どんなときにでもジッと歯を喰いしばって堪らえて来たのを、今更仏いじりで終ってしまいたくはなかった。それにもう帰る頃はほとんどとけていた、浩に対しての憤りを、今も持ち続けて行こうとする、辛い意地から、一層心が穏やかでないことを、彼は自分でも知っているので、こればかりは仏の力でも紛れそうに思われなかった。けれどもおらくは、裏へなど長く出ていて、何心なく奥へ行ってみると、何か涙をこぼしながら一生懸命に見ていた孝之進が、あわてて持ったものをかくしながら、空咳をするのなどをしばしば発見した。浩の手紙を見ていなさるなと彼女は悟ったが、それについては一言も云わなかった。そしてただ涙をこぼした。猫の額ほどの菜園の土を掘りながら、今頃はまたおじいさんが読んでいなさるころだと思うと、おらくは出来るだけ長く戸外そとにいた。時には用事がなくても孝之進の心を汲んで彼女は外へ出てブラブラと菜園を見まわったり、納屋の傍に寄りかかってお念仏をしたりしながら、彼女自身も何だか嬉しいような心持を感じていたのである。
 父親から、どうやら金を送ってくれたので、お咲はずいぶん助かった。有難いと思った。が、病気はどうしても悪い。このまま進んで行けば、また入院するほかなりかねないので、年寄達は気をみ出した。お咲自身も気が気でないと同時に、永病人に有勝な、我がままや邪推が出て来て、病み倦きた者と、看病疲れのした者との間にはとかく、不調和な空気が漲りたがった。浩はどうかして、一週間でも十日でも海岸へなり姉をやってみたいと思った。けれどもそれというのもすぐ金の入用な話で、彼の腕では及びもつかないことである。それかといって、誰かから出してもらって、ハラハラしながらする養生などは、結局何の役にも立たない。彼は、このごろしきりに金という問題に苦しめられる自分の頭をいとおしむような心持になった。もちろん彼とても、金を全然卑しむべきものだとは思っていない。けれども、自分の労力に相当するより以上の報酬を夢想して見たりすることはいやであった。どんなに困っても、友達から借りることなどはできないたちである。よく新聞などにある詐欺に、かける人間も、またかかる人間も、望むところはただ一つなのだと思うと、浩はお互に可愛いところがあるというような気持になったりした。
 このごろではもうお咲も、浩に厭な顔ばかりを見せている元気もなくなった。一人でも親身に自分のことを心配してくれる人が有難く思われた。年寄達や夫だっていざとなればどうだか分らないというような心持もしたし、だんだん訳を聞いて見れば、あの夜のことも、浩ばかり悪いわけでもない。仕舞いには、
「おとっさんの考えるような出世は、今の世の中で出来ようはずはないわ。大学を出た立派な人だって始めは、ずいぶんやすくて働くんだっていうもの。浩さんなんかたった十九で十五円じゃ年からいったってねえ。それに学問のしようから違うんですもの……」
などと暗に彼に力をつけたりした。彼は自分と父親の間を周囲のものがいろいろなふうに考えているということに驚かされた。年寄は年寄達で、彼等が若かった時代に見聞きした通りの事件に近いものとして推察しているし、お咲はお咲で、父親が彼の出世の、のろいのを怒っていると思っている。彼は、傍からいろいろ云われて、仕舞いには、ほんとうに自分が考え、望んでいることは何なのか分らないようになってしまう。若い者達が無理でなく思われた。今の場合とは違うかもしれないが、一生の職業を定めるときなどに、あれが好い、これが好いとあまり智慧をつけられ過ぎた結果、とまどって方々喰いかじりのまま一生を過してしまう人などさえある。「各自は、各自の進むべき道はただ一本ほか持たない。それを一旦見出したら決して迷わずに進め、どしどし進め。岩があったら踏み越え、川があったら歩渉かちわたれ。倒れるなら、行けるところまで行ってから倒れろ!」彼は、一人の若者が、勇ましく両手を拡げ、足音を踏みとどろかせ、胸を張って、嶮しい山路、荒涼たる原野を、まっすぐに、まっすぐに、どこまでも、どこまでも突き進んで行く姿を想像して涙をこぼした。勇ましく力を張りきらせて暮して行こうと思いながら、理智でいえば卑小な感情にたとい一時的ではあってもほとんど心全体うちのめされたようになることのある自分を思うと、(彼は昔の学者やその他の偉かった人のように感情を殺すことはのぞまない。人間の感ずべきあらゆる情緒、情操を尊重している。真の人間となろうには、それ等のあらゆるものに共鳴し、あらゆるもののなかから、何ものかを発見して行くべきだとは思っている。が、ときどきほんとに小っぽけなこと、たとえば自分の仲間達が、自分に無理解な冷評を加えるときなど、超然としているつもりでも、内心はガタガタすることがあると、それは堪えようとする虚栄心で、一層心が苦しむ。憎んじゃあいけないと思っても憎む。憤っちゃあいけないと思っても怒る。或る程度までは、人間の本性として許すべきいろいろな感情も、度を越すと、浩には自分自身にとっては卑小に感じられるのであった。)雨が降っても、暴風が荒れまわっても、雲のかげには常に燦然さんぜんと輝いている太陽が、尊く思われた。自分等がこうやってあくせくして、喧嘩をしてみたり個人個人お互には何の怨みもないものを、大きな鉄砲玉で殺し合ってみたりしている上には、太陽が昨日も今日も同じに輝きわたっている。彼は何事をも肯定している。憎まない。すべての人間に同様の微笑を向けている。浩は、「すべて好い……」という言葉を具体化したらこういうものになると思った。
「太陽のような心を、ちょんびりでも持っていたらなあ!」としみじみ思う。と彼は祈りたい心持になる。そういうとき彼は何か自分を愛撫し、激励し、叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)して下さる「気」があることを感じた。太陽そのものでもなく、今までのたくさん人格化された神という名称で呼ばれるものでもない。ただ「気」である。音もなく、薫香かおりもなく、まして形はなく、ただ感じ得る者のみが感じる「気」なのである。彼はその「気」の霊感の前には飽くまでも謙譲であり得た。涙をこぼしながら、どうぞ自分が、ほんとうの一人の人間として善くなりますようにと祈った。そしてどんな苦しいときでも、男らしく辛抱して、遣れる最上を致しますと心のうちにささやくと、疲れた心も奮い立った。進軍の角笛が、高く、高く鳴り響く。心も体も、しゃんとして働ける。
 浩は元来、仏教も基督教も信じてはいない。無宗教者であるともいえる。けれども、彼の衷心の宗教心は非常に強い。強いだけ、それを全然満足させ得るものを彼の考えでは見出せなかった。けれどもいつとはなしに、彼の感激を得るようになってから、強いて自分を何々信者として期待しなくなった。十分自分を慰め、励まし、同時に心から悔い改めさせるものが、あればそれでよいと思った。人々が一定の宗教に入るのも、この感激を得るためではないのだろうか? 彼は、彼にとって絶対な感激の本源を認めて安心出来たのである。

        十三

 浩はこのごろになって、しきりに庸之助と自分との関係を考えるような心持になっていた。それはもちろん、あの晩ああいうことがあったのが原因になってはいるが、父親を見たり、姉を見たりして、各自の生活の型ということを感じて来たのにもよるのである。
 浩は普通にいわれる親友というのは、大嫌いである。互に知っていたところで、何にもならないことまで打ち明け合う。遠慮なく打ちあけ合うということは大切な、ほんとに行けば嬉しいことではあるがそれが、義務のようになってくると、浩には堪らない。そして、相談し、進み合って行くのならまだ好いけれども、あの男のことに就いて、自分は他の誰よりも委しい事情を知っているということが、たとい漠然としていても感じられて来ると、悪い。親友というものは、かくあるべきものと、定義を下されて、教育されて来たのだから、とかくその定義として挙げられてある条件を欠くまいとする。互に親友がっているのは大嫌いであった。それ故、庸之助に対して、一度も彼は親友だと云ったりしたことも、思ったことさえもなかった。が、「このごろの自分の心持を考えてみると、少し安心できない節々があった。庸之助の生活――彼自身の境遇から来る、必然的な生活条件を持って、彼にほか解せない、絶対的な彼の生活――というものを、考えていながら、考えないと同じようなことを、感じてはいなかったかということなのである。何んだか今まで自分が、彼を他動的に、彼の生活の型から脱しさせようと焦っていたのではなかったかなどとも思った。はっきり、彼の苦労の形式と、自分の苦労の形式とは違ったものでよい。ただ互に苦しい思いをしているのだということを認めて、堪える心を励まし合って行けば好いということを、感じていればよいのだが。それが疑わしい。きっと自分は、庸之助のいろいろなことが、自分の理想からみると、あまりかけ離れたもののように思っていたのだ」浩は、彼自身が折々感じている、迷惑な同情を、庸之助にもかけていたような心持がした。庸之助の前へ出ると、自分の人格全部が試みられているような不安を感じていたことも考えられた。そして、或るときは、庸之助は、自分の試みのために現われて来た者ではないのかと思ったりしたことも、すまない気がしたのである。何も特別なことは要らない。ただ自然に、正直であれば好いのだと、思うと、かなり久しく会わなかった彼にも、よけい会いたかった。けれども、二三日前から、お咲の帰国の話が出ているので、心に思いながら、わざわざ出かけて行く暇がなかったのである。
 退院してから、お咲はあまり工合がよくないので、同じなら入費のかからない、また気苦労のない国元でゆっくり、養生した方が好いと云うのである。好意ずくの発案ではあるが、浩はただ単純にそれだけのこととは感じられなかった。もとより、考えなく口には出せなかったが、養生に帰国という名義が、永久の帰国の端緒となりはしまいかと案じられた。お咲が離別ということをどのくらい怖がっているかということは、浩によく分っている。嫁に来るとき、黒光りのする懐剣を、ピッタリ膝元にさしつけて、孝之進が、「帰されるようなことをしでかしたら、これで死骸になって来い。自分で死なれなかったら、いつでも俺が殺してやる!」と、睨みつけたときには、もうほんとうに身の毛のよだつほど怖ろしかった、とお咲はよく話していた。そして、父親の気性を知っているお咲は、それが決して嘘ではないと思ったので、こうして今日まで、ただ諦め一つで堪えて来たのも、一つはその耳底について離れない、こえのためでもある。荷物の中にも持っては来たが、その懐剣は、おらくの注意でまた取りかえされた。そういうものを持っていると、魔がさすと云うのである。そして、もう一年も前にどこかへ売られてしまったことだけは、お咲は知らなかった。どんなところにいても不幸から離れられない自分だと、思っているお咲はちょっとも、今の生活からのがれたくはなかった。出戻りとかいう名をせられることが、恐ろしかったのである。病気になった始めから、ただその一事をどのくらい気にんでいるかを知っている浩は、よけい心配した。けれども若し、自分が云い出したばかりに、そうまでは思っていなかった年寄達に、ほんにそうだなどと思い出されることがあってはいけない、やはり彼は口をつぐんでいるほかなかった。
 話はかなり進行した。それにつれて、咲二も体が弱いから、ちょうど早生れなのを幸い、来年の四月頃まで、一緒に田舎で、のんきにさせて置いた方が好かろうということになった。
 子供に別れて、独り帰国することには、気ののらなかったお咲も、息子を連れてというのに心を動かされた。その上、今通っている学校は、名高いには違いないが、好い家の子ばかり行くので、何かの振合――たとえば、何やかやの寄附だとやら、いうことだけでも、身にあまることだのに、ないないにはずいぶん御機嫌伺いが行われているので――月謝ばかりですむものではない。それこれもあるので、退かせたいと思わないでもなかったので、大変好いしおだとも思った。久し振りで、のびのびとるだけも眠てみたいなどとも感じて、行こうと思ったり、また思いなおしたりして、決定するまでにはずいぶん暇がかかったのである。誰に相談しても、「自分で行った方がよいと思うならば」というくらいなので、彼女は、自分で自分の気持を知るに苦しんだりした。
 孝之進はそのことに異議はなかった。が、ちょうどそのとき、M家のことに就いて、また一つ新らしい事件が起って、その奔走にせわしかったので、都合の返事もつい、のびのびになっていた。事件というのは、今度村民がM家を相手どって、訴訟を起したのである。耕地整理を口実にして、M家の先代が――今年は八十に手の届く老人で隠居をしている――官有地の払下げを請願して、成功した幾段歩かの田畑を、着服してしまったというのである。折々、物議の種とならないこともなかったのだけれども、村役場や、小学校などに少なからず寄附したりしていたので、そのままになっていたのを、M老人と個人的な衝突をした者が、腹立ち紛れにというようなことが起因おこりであった。一体M老人はすべてに遣り手すぎた。一代にとにかくあれだけの資産を堅めたかげには、多大の犠牲が払われている。威光に恐れて、すくんではいるものの、いざとなれば反旗を翻す連中がずいぶんいるので、事件はますます拡大してしまったのである。利も入れず、高瀬の金を借りぱなしにしていることまで、彼等の攻撃材料になって、訴訟の一部として取り扱ったなら、都合よく運ぶと云われて、孝之進は、原告側の主脳者に、自分が委任されたこと全部を、またまかせることにしたのである。それこれでお咲の帰国は、次第にのびていた。が、さあ明日行くというときになって、年寄達もお咲もその他周囲の多くの者が、或る一つのことを感じ出した。それは最初この話が出たときに、浩が得たと、全く等しいものであった。けれども皆だまっていた。ほんとうに皆だまっていた。「早くよくなってお帰り」とか、「今度会うときには、さぞ達者らしくなっているだろう」とか云いながらも、変な心持がしていた。浩はその中に立って、自分の周囲に、「云っちゃあいけないんだろう? え?」というささやきが飛び合うているように感じた。それに拘らず、永年の習慣で、人達は、非常に自然らしい技巧で、手際よく表面を、円滑にしていた。
 出発の日は陰気な、いやにドンヨリした天気であった。浩が午後七時の列車で立つ姉達を送りに停車場へかけつけたときは、もうよほど時間が迫ったので、何事も落付いて話す余裕がなかった。もう何年も旅という声さえ聞かなかったお咲は、息子の手をしっかり握りながら、かなりまごまごして、はたの者の云うことなどは、よくも耳に止まらぬらしかった。天井も床も一緒くたに掻き廻すような騒々しさに、彼女は全くのぼせ上っていた。けれども、心の底にはいつでも涙がこぼれそうな悲しさがあった。なけなしの懐から、空気枕だの菓子などを買って来た浩に対しても、疲れていながら、わざわざ送って来てくれた良人に対しても、彼女は、もうお別れだという心持をしみじみと感じた。「私はもう死にに帰るのかもしれない」というように、皆の顔を眺めているお咲を見ると、見送りに来た者も、妙に滅入った心持になって、ただ帰国するものを送るというより以上に、何か重たいものが、のしかかって来る気がした。恭二などが、いろいろ咲二に優しい言葉をかけたり、お咲をいたわったりしているのを見ても、浩はほんとうに、もう帰るとか帰らないとかいうことを、問題にもならなくしてしまう予感が、この別れ際に彼女に各自の愛情を注がせているのではないかということさえ考えた。そして、強いて皆が、安心そうに、全快し帰京することなどを話しているのを見ると、幾分腹立たしいような心持がした。あらゆる予感、予覚というものを、かなり強く信じている浩は、せめて自分だけでも、こぼしたい涙をこぼしきってしまいたかった。がそれも出来ない。普通の通りに、別れの言葉をのべて、注意を与え、ほとんど無意識に出るほど口についている、よろしくを加えた。無事な中でも、最も無難な行程を選んで、すべてがそれはそれは穏やかな様子で済んでしまった。窓からのり出しているお咲の顔が、列車の動揺につれて揺すれながら、名残惜しそうに停車場の方を見送っていた。

 この夕方も、庸之助は平常の通り、――交叉点で夕刊を売っていた。
「アー夕刊は一銭! 報知やまとの夕刊は一銭!」
 今止まったばかりの電車の窓々に気を配りながら、彼は叫んで、鈴を出来るだけ勢よく鳴らした。
「夕刊は一銭、アー報知やまとの……」
 車掌台に近い一つの窓から、一時に二本の手が銅貨を差し出すのを見つけた庸之助は、大急ぎでかけよって、後ればせに来た一人の仲間を、腕で突飛ばしながら新聞を渡した。妙に魚臭い二つの銭を籠の底へ投げ込むと、彼はちょっと手を突込んで掻きまわしながら、
「チェッ、これっちかい!」
と、いまいましそうに舌打ちをした。もう小一時間立っている割に今夜は溜らない。気が揉めた。一枚でも多く売らなければ、明日の飯に困る彼は、勢い、一生懸命にならずにいられなかった。動き出した電車を追っかける彼の腰の周囲では、六つも一つなぎにした鈴が、ジャラン、ジャランと耳の痛いほど、響きわたった。電車が混むにつれて、買いても多くなって来る。庸之助は平常の通り醜いほど興奮して、後から後からと止まる車台の間を、鼠のように馳けまわって、自分と同じ側にいる十四ほどの夕刊売りには、一枚でも売らせない算段をした。耳と眼を病的に働かせて、どんな小声の呼かけでも、奥の方に出せずにいる手でも見落すまいとしていたのである。自動車が通り荷車が動いている間に、彼は危険などということは、念頭にも置かなかった。ところが、ちょうど彼が人を満載して動けずにいる車台の下で、今新聞を渡したときである。次の車のどこかで夕刊を呼ぶ声が聞えた。
「オイ、夕刊売りはいないのか?」
 彼はまっしぐらに馳け出そうとした、途端、一台のくるまが行く手を遮ぎった。ハット思う間に、俥夫の気転で衝突は免がれた。けれども、客はもう他の売り子に取られてしまった。
「畜生! 気をつけやがれ!」
 俥夫が罵倒するにつれて、「間抜けな野郎だなあ」と笑った乗っている男の大きな腹が、庸之助の目の前で、戦を挑むように、ふくれたりしぼんだりした。
 気が立っていた庸之助は、このかさねがさねの侮辱にムッとした。
「何だと? 今何んてった! 畜生もう一ぺん繰返して見やがれ!」
と叫ぶや否や、突然梶棒を俥夫ぐるみ、力一杯突き飛ばした。
 ヨロヨロとなって、危く踏みこたえた俥夫は、また二言三言悪口を吐いた。客も「何が出来るものか!」というように、負けずに愚弄するのを見ると、庸之助の病的な憤怒が絶頂に達した。激情で盲目になった彼は、もう口で喧嘩をしている余裕がなくなった。握りかためた両手の拳固が、二人の男の頬桁ほほげたに、噛みつくように飛んで行った。生活に疲れていた庸之助の頭は、全く常軌を逸してしまった。真黒になって、手あたり次第擲ったり蹴ったりしたのである。忽ち人が黒山のようになる。或る者が交番へ走る。巡査が来たッ! と云う声が群集の中から起ると、今まで同等な敵として、庸之助を、同じくらい夢中になって撲ったり、突飛ばしたりしていた俥夫は、サット手を引いた。鑑札を調べるとき、「おまわり」は彼等にどのくらい勢力を持っているかということをよく知っていたのである。
 で、攻撃の態度を変えて、ひたすら防禦しているように、庸之助の降らす拳固を、腕で支えたり、「まあ、まあ」と云いながら後じさりをしたりした。で、巡査が来たときは、さも「悪い奴」らしく、庸之助がしずめにかかる俥夫を狂気のように撲っていたのである。
「コラコラ、一体何事じゃ?」
 佩剣はいけんを、特にガチャガチャいわせて、近よりざま、振り上げた庸之助の手を掴んだ。俥夫は汗を拭き拭き、出来るだけ上手に弁明し始めた。
わっちがへい、このお客さんをのっけて……」
 片手で指さしながら、振り向くともうそこには、さっきまでいたはずの、客の影も形もない。
「オヤ、いねえや……」
 見物人が、崩れるように笑いどよめいた。俥夫が喧嘩しているうちに、客は只乗りをして逃げてしまったのであった。
 とうとうすぐ傍の交番へ引かれて、軒先に燈っている赤い小さい電燈を見た瞬間、どこかへ行っていた庸之助の正気が、フーッと戻って来た。
「俺は一体何をしたのだ? 馬鹿な!」
 庸之助は、もうジッとしていられないほどの心持になった。彼が口癖のように云い云いした、「良心の呵責」が一どきに込み上って来たのである。
 巡査は酒を飲んでいるかと訊ねた。飲んだと答えはしたものの、実際は飲んでいなかった。けれどもどうにかして、こんな下らない、恥かしい自分の位置の弁護となる理由を探したかったのである。傍にいた年寄が、酒の上のことだからとしきりに、庇ってやった。そして「お互に若いときというものは、とかく気が荒いものでなあ」などと、巡査に巧く勧めた。ちょっと見物の手前、訓戒めいたことを喋って、そのまま、巡査は庸之助を許してやったのであった。
 町はますます賑やかに、華やかになって来た。敷石道を、水を流したように輝やかせているいろいろの電燈。明滅するイルミネーション。楽隊。警笛。動きに動いている辻に立って庸之助は、呆然としている。ただ開けているだけの彼の目の前を、幾人もの通行人、電車が通り過ぎた。そして、或る一人の若者が、自分の顔をこするようにして通りかかったとき、庸之助は思わずハッとして反動的に面をそむけた。
「浩だッ!」サアッと瀧のような冷汗が、体中からにじみ出すのを感じた。彼は恐る恐る頭を回して眼の隅から、今行き過ぎようとする若者の後姿をうかがった。いかにもよく似ている。そっくりその儘である。けれども浩ではなかった。若し彼なら、これほど近くにいる自分を見ないで通り過ぎることは、絶対にないからである。そう思うと、何ともいえない安心が庸之助の心に湧き上った。そして、今まで気付かなかった秋の夜風が、ひやひやと気味悪く濡れた肌にしみわたった。彼はホッとして、額を拭きに手を上げたとき、そのとき、その瞬間! ようよう落付いた彼の頭に、電光のように閃いたものがある。それは浩が、常に云い云いした「強く生きろ!」という言葉であった。
「強く生きろ! 強く生きろ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 庸之助は、今日までこんなにも悪く悪くと進んで来たにも拘らず、未だ自分を悪くなりきらせない何物かがあることを感じた。彼の言葉を思い出した瞬間、いかほど内心の或る物が動揺しただろう。彼はいても立ってもいられなくなった。「こうしてはいられない。どうにかしなければならない。」彼の目前には、体中に日光を輝かせて、勇ましく働いている浩が、両手をあげて自分をさし招いているのがまざまざと見えた。「こうしてはいられない!」彼はもう、目にも届かない、暗い深い谷底へと、ずるずる転落する自分を見離すことは出来ない心持になった。どうにかせずにはすまされない心持――。庸之助はそれが「希望」であることを覚ったのであった。
「希望!」
 父親の入獄以来、自分には絶対に関係ないと思っていた「希望。」
「ああ! 俺にはまだ希望があったのだ※(感嘆符二つ、1-8-75) 希望が!」庸之助はこわばっていた心が、端からトロトロとけて来るのを感じた。名状しがたい涙がこぼれ出したのである。

        十四

 庸之助にとっては、どうしても偶然とは思えないこのことのために、一旦影を隠していた彼の「善の理想」がまた頭を擡げ出したのである。
「俺は一生これで終る人間ではない!」とは、もちろんただ思っただけで終ってしまうかもしれないが、庸之助には心強かった。どうしてもすべてが天の配剤だという気がして急に明るい広い、道が開けたのを感じたのである。
 天が自分に幸すると思うと、光輝ある考えになって来た彼は、また立志伝中の一人として自分を予想し、努力し始めた。彼は全く熱中して、善い自分を現わすことに心ごと打ちこんで掛ったのである。ちょうど、先に彼が、猫を被って、世間体をごまかしている者達を、アッと云わせてやるほど、どこまでも悪太わるぶとくなれと覚悟したときの通りの、強い熱心をもって、今度はまるで反対の方へ進み始めたのである。
 この変化は、浩との友情を、またもとの純なものにした。「坊っちゃん、坊っちゃん」と馬鹿にしていた浩――もちろん庸之助は浩の言葉に動かされたことも、一度二度ではなかった。けれども強いて尊び、互に打ちとけ合おうとはしなかった。一人の人間に対してでも特別な情誼を持っていることは、自分が悪太くなりぬくに妨げとなると、感じていたのである。――のことも、無理しない感情で考えることが出来た。死刑囚がいざ殺されるというときになって、頸に繩を巻かれても、彼の心には何か生に対しての希望がある。たとい漠然とはしていても何か今ここで断たれっきりの生命ではないことを感じている。それでなければジッと繩を巻かれていられるものではあるまいなどと、かつて浩が語ったときには、未練だとか、きもが小さいとか、嘲笑あざわらったけれども、このごろはそうでもあろうという気がして来た。そして、浩はいい友達であったということも感じて来たのである。
 思いがけない庸之助から、葉書を貰ったとき、浩は快い驚きにうたれた。どうぞ暇だったら話しに来てくれなどと、見なれた字で書かれてあるのを見ると、彼はそのまま、うっちゃって置けない心持がした。まるですべての態度が一変した彼を見たばかりには、浩は自分が信じられないほどの嬉しさで一杯になった。妙な隔たりのない、先通りの友情が恢復したことは、二人にとってほんとに喜ばしいことであった。
「実は僕も気が気でないようだったよ」
と云ったとき、今の安心でのびのびとした心から、涙が滲み出るのを浩は感じさえしたほどであった。
 二人の立ち話しは以前にも増してしばしばになり、また互のためになった。二人の住むまるで異った生活から得たいろいろの話材が、各自を益し合ったのである。
 一度心が善を求めて来出すと、庸之助はこの日常の自分の生活が堪らなく呪わしくなって来た。到るところに醜いものがある。卑劣な感情がある。互に悪い深みへ深みへと誘い合って落ちて行こうとするような周囲の状態を見ると、庸之助は浩が羨しくなった。下等な争論や憎しみのない世界へ住みたい。この世間は穢れているという、彼の意見がまた心を占領し、あくまで奮闘して社会の改良者となるべき未来を想像したのであった。

 お咲は国へ帰ると、もうすっかり気がのびのびとなった。境遇の変化が非常に彼女の心を慰めて、毎日毎日思い出の中に、体ごととけこんだような日ばかりが続いたのである。
 子供時代の思い出――貧しい、父親のこわいなかで、矢のように早く通り過ぎてしまいはしたものの、さすがに今回想すれば、自然と涙の出るような追憶が、眺める一本の樹木、一条の小川からも湧き返って来るのである。
 垣根の「うつぎ」の芽を摘んでは、胡桃くるみあえにして食べたこと、川へ雑魚ざこすくいに行って、下駄や鍋を流してしまったこと。赤坊だった浩を守りしながら、つい遊びほうけて、どこへか置去りにしてしまったこと。お咲は目の前に、小さい小さい桃割――いつも根がつよくしまりすぎて、結いたてには、頭が下らないような気のしいしいした――に結って、黄色い着物を着せられていた自分が、泣きながらあっちの木の根から、こっちの木の根へと、紐ごと寝かせて置いたはずの浩を捜して歩いている姿が、まざまざと浮み上った。そして思いがけない、桜の木の下に、大きな目をあけて、拳をしゃぶっている浩を見つけたとき! 今でさえも、「ああ嬉しかったなあ!」と思うほど、恐らく一生の中に二度とはあるまい嬉しさであった。
 孝之進は近所へ出かけ、おらくは裏の菜園の手入れをしている。家中が、物音一つしない静けさである。手ふさげに、ほどきものをしながらお咲はほんとに安心した心持になっていた。咲二をねかしつけるときよく唄った唄が何となく口を洩れるくらい、彼女は心の「しん」が楽しんでいたのである。昔お江戸が繁盛の時分、流行はやった数え唄を、伯母さんからおらくが教わったものだ。お咲を始め、死んだたくさんが、この唄でねせつけられたのである、それをまた彼女が咲二を眠らせるに唄う。家庭的な思い出の深いものであった。十ある歌詞うたを彼女はたった三つ、それも飛び飛びにほか覚えていなかった。
  五つとの――よの――え。
  猪うたんと勘平が――勘平が――
  ねらいすました二つだま
  放そうかいな――のな。

  七つとの――よの――え。
  生酔なまよいのふりをした由良之助――由良之助――
  主人の逮夜たいや蛸肴たこざかな
  はさもうかいな――のな。

  十うとの――よの――え。
  とうとかたきを討ち納め――討ち納め――
  主人の墓所にめいめいと
  手向きょうかいな――のな。

 お咲は何心なく、手を延してさっきまですぐ傍に寝ころんでいた咲二に触ろうとした。けれども、いつの間にかいなくなっている。彼女一人の影坊師が、煤けた障子に写っている。
「オヤ。またいない! 一体まあどこへ……」
 彼女は、フト或ることを思い出した。そして急に陰気な表情を浮べながら、そこから草履を引っかけて、外に出て行った。
 裏へ廻って見ると、柿の木と納屋との間に挾まった咲二の、小さい後姿が見える。彼女は抜き足をして近よった。咲二は、人さし指を釘のように曲げて、納屋の外壁をほじくっては爪の間につまって来る、赤茶色の泥を食べているのである。さもうまそうに、ビシャビシャ舌なめずりをしているのを見ると、お咲は、頭から冷水を浴せられたような気がした。周囲を見廻して、まあ見ている者のなかっただけ、何より有難かったと思いながら、もう足音を隠そうともせずに、息子のそばによって行った。
 彼は、思いがけず母に来られて、少しはびっくりしたらしかった。が、もうすっかり彼女の愛に信頼しているように、泣きも、逃げかくれもせず、仰向いてお咲の眼の中をながめた。
 彼女は、あわててオドオドしながら、息子の手をグングン引っぱって家へ連れ込んだ。障子のあらいざらいをしめきってから。
「どうしてそんなことをするの? 咲ちゃん!」
と、始めて口を切った。
「なぜそんなものを食べるの? お菓子をあげるからお止めと、あれほど云ったじゃあないの? 何がおいしいんだろうねえ」
 咲二が壁土をたべる癖の起ったのは、いつごろからだか誰も、はっきり知るものはなかった。が、ともかくお咲が見つけたのだけでも、今度で四度目である。一番最初には、茶の間の隅で、何だかしきりに食べている彼の口のまわりが、泥だらけになっているのから、気のつき出したことであった。
 何だか並みでないところのある息子を、どうぞ一人前に成人出来るようにと、全力を尽しているお咲は、どんなに情けないか分らなかった。恥かしくって人にも聞かされない。行燈あんどんの油をなめるものがあったという話を思い出すと、たまらなかったのである。
「何という情けないことだろうねえ。咲ちゃん! お前はどうして母さんが、こんなにいけないと云うのに聞き分けないの?(お咲は急に声をひそめて、彼の耳の辺でささやいた。)壁を食べるなんていうのは、お乞食こもだってしませんよ。どうぞ止めて頂戴、ね? 母さんこうやってたのむわ」お咲は泣きながら、咲二の前にひざまずいて、両手を合わせた。けれども彼はけろんとしていた。お咲は突っかかって来る悲しみを、押えきれないで、ごみくさい咲二の足につかまって泣き伏してしまった。それでも咲二は、涙を浮べさえしない。ただぼんやりと、近くの停車場から聞えて来る汽笛の音に聞き惚れていた。
 浩は、ただ一度、小石川からまた聞きに姉の様子を聞いたぎりなので、心もとなく思っていただけで、咲二が壁土を食べる癖などを知ろうはずはなかった。父親の工合もあまりよくないところへ、お咲親子が行ったので、おらくが、どのくらい家計の遣りくりに心をなやましているかが思いやられた。小石川へ行って僅かでも、お咲親子がこちらにいれば当然かかるべき費用の幾分かを、国許へ送ってもらおうかとも思ったが、それも云い出しかねて、彼は血の出るような倹約を始めた。出来るだけ水を浴びて、湯に行かないこと。本や紙をほとんど絶対に買わないこと。ときどきはほんとうに涙をこぼしながら、彼はせいぜい切りつめた生活をした。それでも、一月の末に現われて来るものは、ごくごく僅かであった。息子から来る、三円六拾三銭などという為替を見て、孝之進始めお咲まで口が利けないような、心持にうたれることもあった。孝之進はもう憎いどころではなかった。心のうちでは有難いとも、かたじけない可愛いとも思ったが、一旦「勘当した」と明言したことに対して、彼は自分の方から一本の手紙も出すことは出来ない。遣りたくて、むずむずしても意地が承知しなかったのである。そのかわり、浩からの便りは、たとい一片の端書でも、彼は目で読むというより、むしろ心全体で含味するというほどであった。紙の表から裏まで、繰返し繰返しとっくりと見る。考える。批評して「なかなか生意気なことを書きおるわい」と思うと、我ながらまごつくくらい涙がやたらにこぼれる。そして誰が何とも云いもしないのを、「年をとると、とかく目が霞む、目が霞む」と、自分に弁解していたのであった。
 浩の方でも、このごろになっては父親がどんな心持でいるかというのを、すっかりさとっていた。孝之進あてにした手紙でも、為替でも、皆滞りなく受取られるのを思うと、嬉しいながら、妙に頼りない心持がした。どうにかして、もう僅かばかりらしい余生を、せめて楽にでも送らせて上げたいと、しみじみ感じた。けれども、自分の最善を尽したより以上のことを、望むことはとうてい出来ない。特別の報酬を得る目的で、夜業などをすることさえあった。

        十五

 どんなに案じようが歎げこうが、咲二の奇癖はつのって行くばかりである。度重るうちには、自然と他人にも見つかって、噂が噂を産んだ。そして、平常孝之進が、幾分尊大なところから、あまり好意を持っていない者などは、畜生のようだなどとまで云った。お咲にとっては、それが何より辛かった。子供の行末のために、解けない呪咀じゅそが懸けられるような気がした。また時にはほんとに、誰か呪釘でも打っているのではあるまいかと、人知れず鎮守の森やお稲荷さんの樹木などを一々見てまわったりさえした。が、もちろんそんなはずはない。咲二が可哀そうなのと、悪口を黙って堪えていなければならない口惜しさに、お咲はジッとしていられないほどに心をなやました。心配しぬいた揚句、皆はとうとう「かげの禁厭まじない」――むしの禁厭――をさせることにした。禁厭使いの婆は七十を越して、腰が二重になっている。白い着物に、はげちょろけの緋の袴、死んだような髪をお下げにしている、この上なく厭な彼女の姿は咲二を異常に恐れさせた。
「お祖母ちゃんの、鐘から出て来たお化けだよーッ! 僕いや、母さん! 僕こわいよーッ!」(咲二は、おらくが一日に度々鳴らす仏壇の鐘の音を、この上なく厭がっていた。そして実際、彼の異様な神経は、その音響から自分の想像している化物の姿を見るようでもあった。)
 始めて禁厭をするとき、彼は、手足をじたばたさせ、気違いのようになって抵抗した。で、何にしろ家中の大人がかかって彼を押えつける。そのうちに、いかなときでも自分の嫌いなことをかつてしたことのない母親――お咲――の混っているのを見ると、彼は争う力もないほどがっかりもし、恐ろしくもなった。殺されそうな声で泣き叫びながらもがくのを、情ないやら、腹立たしいやらで、ごっちゃになった孝之進が、
「誰もこわいことはせぬ。静かにしないか! 馬鹿な奴じゃ!」
と叱りつけながら、帯際をとって、彼の膝元に引き据えようとして、一生懸命に力を入れた。
 水をたたえた鉢、硯と筆、杉箸、手拭などが用意され、一かたまりになってごたごたしている者達の前で、禁厭使いはわざとらしく落着いて咲二の静まるのを待っていた。
「強いかげがいると、私の顔を見ただけで、なああんた、もうそういう風にあばれるでな。かげがいやがるもんと見えますなあ」
「おじいさんの病気もかげのせいかもしれませんな、おいくつになんなさいます? え? 六十六かいな。そんならかげ六十と云うているからもう六年前にかげは消えたはずですがなあ」
 長い間泣き放題にさせられて、幾分か疲れたとき、咲二はむりやりに、禁厭女の前に坐らされた。
 皆の注目の焦点になって老婆はいよいよもったいぶった。彼女は一同に辞儀をしてから杉箸を割り、一本をとって水の面に何か書いた。天照皇太神宮を中央に十五体の神の名を書くはずなのだけれども「もう年をとると何でも面倒になるし、字は忘れるし。御免なさりませよ」と心のうちで弁解して何か解らないものを、ごちょごちょと書くように手を動かした。咲二の手をその水で洗わせ、すっかり拭いてから、右の掌に六つ字を重ねて真黒に書きつけた。
「ホラこうするとかげが出ますぞ。指の先からでも足の先からでも、顔からでも、頭からでも、白い細いかげが、さわさわ、さわさわと這い出しますぞ」
 何だか思いこんだような調子で云う禁厭使の声が、泣くのをやめて、好奇心と恐怖の半ばした心持でいた咲二の心を撃った。「指や顔からむしが出る!」彼はまたたまらなく気味を悪がった。そして云われる通りに指の先を見ていた。そうすると全く、陽炎かげろうのような虫が上げた指の爪の間からフラフラ、フラフラと立ち上った。
「出た! 出ましたよ、まあ!」
 大人達も幾分意外だというような顔が、咲二の指の先をながめた。
「術、術でありますよ。術というものは、恐しい利益りやくのあるもんでなあ。ほれね、出ますだろう? なかなかふんだんに出ますわなあ」
 咲二は息もつけなかった、婆が鬼のように見えた。こわくてこわくて、済むや否や転びそうになって、逃げ出したまま、永いこと家へ入らなかった。戸棚をあけでもしたら、さっきの婆がまた飛び出して来そうな気がしたのである。
 その日一日咲二はどうにかなってしまったようにおとなしかった。壁土を食べるのも見つけられなかった。それ故、家の者達はもう利いたのだと思った。うすうす馬鹿にしていたのがもったいなかったとさえ思わせた。どうにかして、自分の寿命を縮めてもいいから、咲二を人並みにしたいと腐心しているお咲は、天にも昇る心地がした。これでなおってくれれば、何という有難いことだかと、あのきたなく、いくらか臭くもあるらしい婆が神様より尊く思えた。ヤレヤレと心から思った。そしてその晩は、傍に寝ている咲二がうなされて泣き出すのも知らずに熟睡した。自分の体の工合まで、はっきりと引き立ったようにまで感じられたのである。
 二日三日と禁厭がされるうちに、咲二はこの一日に一度の攻め苦は、とうてい不可抗的のものであると、観念した。禁厭が始まるごとに、彼は一種の軽い幻覚状態に陥り出した。が、誰も知らなかった。十の指の先からは、集めたら、どのくらいになるか分らないほど、たくさんの「かげ」が、さわさわ、さわさわと出た。
 四日目の日は、眩ゆいほど好いお天気であった。今日でお仕舞いというので、すべてが念入りに行われた。
 いつもの通り、十の指の先から、かげが湧き出した。けれども、どうしたことか! 今日は今までよりも倍も倍もたくさんのかげが、透き通る細い蚯蚓みみずのような形をして、ほんとうにさわさわ、さわさわと音まで立てるほど、同じようにまがりくねって後から後からと湧いて来るのを、咲二は見た。恐れで心が寒くなった。ところへ、「ホラ! 御覧なされ。今日は頭の地からも出て来ますわな。ホラ!」という禁厭使いの声を聞くと同時に、咲二は自分の体の中から、千も万もの細い細い糸が、絶え間なくスルスル、スルスルと引き出されているような感じを得た。彼は体の「なかみ」がスーッと空っぽになったと思った。そのとき、咲二の目の前には真白で大きく太った、目も口も鼻もないものが、ニョキッと現われてブクブク、ブクブクと際限もなく大きくなって行った。彼はほとんど無意識に「かげが出る。かげが出る……母さん」とつぶやいた。彼の眼は開いたなり、もう何も見えなかった。張りつめ張りつめていた彼の神経は、最後の恐怖に堪えられないで、とうとう絶たれてしまったのであった。

        十六

 ただ癒してやりたいばかりで何事もした家中の者は、皆失望し、やがては絶望した。魂が抜けたようになって陰気にジッとしたまま、折々爪の間を見ては、「かげが出る……かげが出る、母さん!」とつぶやく咲二の姿をながめると、お咲は狂気のように歎いた。
「俺は始めから、あんな禁厭のような、まやかしものは役に立たんと云っておったのだが……」
 うっかり、孝之進が洩したこういう言葉の端から、今までかつて一度もなかった浅間しい、親子喧嘩などまでしばしば起った。
「御自分だって一緒になって、泣いてこわがる咲二を押えつけたり叱ったりなさったのに、今になると私ばかりせめるなんて、あんまりですわ。誰だって皆悪かったのよ。父さんだってあのときは、癒るかもしれないとお思いなすったんでしょう? 私だって――私だって、ただよくして、よくして遣りたいばっかりだったんだわ」お咲は声を上げて泣き伏した。
 見ている孝之進の目にも、思わず涙が浮んだ。「泣いたって始まらん」と思いながら、云うままにならない涙が容赦なくこぼれ落ちた。
「まあまあお前、そうお泣きでないよ。ね、決して誰を恨むものじゃあ、ありません。皆前世からの因縁事なのだからね。ああ、ああそうだとも、皆因縁ごとだよ。もうこうなった上は、ただよく諦めることが肝心だよ、ね。お咲。一旦きっぱり諦めがついてさえしまえば、どんなことでもそうは苦労にならないものさ。ねお諦め、さ泣くのをやめてね」
 おらくは、泣き沈んでいる娘の肩を、震える手で優しく撫でながら、無意識のうちに数珠をつまぐった。
 こういう気の毒な場面が、一日に幾度となく繰返された。お咲は、東京の良人のところへ何と詫びを云ってやって好いか分らなかった。良人に済まないのはもとより、お咲は息子に対しても、何と云ってあやまって好いか分らないことをしたという苦しみにせめぬかれた。「どうぞ堪忍かんにんして頂戴、咲ちゃん!」朝起きると、夜寝る迄時をかまわず、彼女は息子の前にお辞儀をしては、涙をこぼした。そして、自分があんなに癒してやろうと思った誠意から、ほんとうにただ一つの真心から、こういう結果を引き起したということが、一層彼女の苦労を増させたのである。
「これというのも私共が貧乏なばっかりに起ったことだ。立派なお医者様にかけられる身分なら、誰が大事な独り息子を、禁厭まじなってもらいなどするものか! 貧乏だと思って皆が、じめるからこんなことになってしまったんじゃあないか!」
 精神過労が、彼女の病気を悪い方へ悪い方へと進め、終日発熱したままで過ぎるようになると、感情はますます興奮して、ヒステリー的になった。咲二のことを云い出すと、誰彼の見境いなく、「あなたもあれをいじめて下さったんでしょう」とか「おかげさまで、あれもとうとう気違いになりましたよ!」などと云っては、喧嘩を持ちかけた。
 咲二が変になって、三日とならないうちに、お咲はまるで見違えるほど、やつ[#「うかんむり/婁」、179-7]れた。不眠症にかかって、眠りの足りない青い顔に、目玉ばかり光らせている彼女の頭は、次第に平調を破って来た。幾千もの豆太鼓を耳のうちで鳴らしているようで、人の声が何か一重距てた彼方に聞え、石炭殻を一杯つめたように感じる頭を、ちょっとでもゆすると、ガサガサと一つ一つになったたくさんのものが、彼方の隅から此方の隅まで、ドドドドーッところがりまわる気持がした。五つか六つの子のように、オイオイ泣くかと思うと、直ぐ止めてきょとんとしながら、咲二と並んで、のんきそうに空をながめていたりした。
 その朝は、おそろしい上天気であった。深い朝露――霜にはまだならない、あのたくさんな露――でキラキラ光り輝やいている、屋根から木立から落葉まで、ほとんど一睡もしなかったお咲の心には、あまり刺戟が強過ぎた。彼女は呆然瞳をせばめて、もやのかかった彼方を眺めていると、不意にどこからか咲二が来て耳元で「かげが! かげが※(感嘆符二つ、1-8-75)」と叫んだ。彼は平常になく腰を折るほどに力を入れて、歌うように調子をとってどなったのである。お咲は、ハッと気がはっきりした。そして咲二の顔を見、声を聞いたとき、彼女の心のうちには、彼の日の記憶――咲二が昏倒したときの場面――が、スルスル、スルスルと繰拡げられた。名状しがたい感情の大浪が、ドブーンとうなりを立てて打ちかかって来た、その刹那、彼女は急にお腹の下の方から、真赤に燃えさかっている火の玉が、グングン、グングンとこみ上げて来るのを感じた。熱い! 熱い! 体が焦げそうだ! 苦しい。火の玉が上って来るに連れて、体中が、ちぎれちぎれに裂けてしまいそうだ。息がつまる。あ! 胸の下まで来た! 中頃まで……。お咲は苦しまぎれに夢中になって、その恐ろしい火の玉を吐き出そうとした。胸をかきさばいたり、喉に指を突込んでかきまわしたりした。体中であばれまわった。が、玉はずんずん上って来る。グングン、グングン火を燃やしながら上って来る。ああ苦しい、あ! 死にそうだ! お咲は両手で口中を掻きまわしたが、とうとう火の玉が喉までこみあげてしまった。息がつまる! 体中燃え立つ!……。お咲は気が違ってしまったのである。
 咲二のこと、次でお咲の容態を一時に知らされた浩は、どうしてもほんとにされなかった。それほど僅かの日数の間に人一人が気違いになるということは信じられなかった。彼は小石川へ聞きに行った。そこにもまた浩の得たと全く同様な驚愕と憂慮が漲っていた。突然に起って来たあまり不幸過ぎる事件は、皆の心に疑念を起させて、もう一度こちらから、孝之進に訊き正しのような手紙を発送させたのである。
 出来るだけくわしくと、なおなおがきの付いた手紙を受取ったとき、孝之進はお咲を入れて置く部屋の準備にせわしかった。家族以外の者さえ見ると、荒れ騒ぐ彼女を、一番奥の一間に監禁しようとしていたのである。部屋中の器物を皆持ち出して、踏台をあちらこちら持ち運びながら、彼は釘、鋲などと、どんな小さいものでも、およそ表面の突起となっている物という物を抜き取った。武器になりそうなもの――若しかすれば彼女自身に向って振うかもしれない――を、細心な注意を用いて、取りのぞいた。
 お咲をそこに入れて、四枚の仕切りになっている板戸の前に、自分の床を持って来て番をするつもりなのである。戸にはうちの見える一尺ほどの無双が付いていた。老人の力で、それらの仕事を三日もかかって仕上げると、孝之進はさり気なく、娘をその部屋に連れ込んだ。そしてあちらから明けないように、板戸に心張棒をかったとき、愛する者の棺に釘をうつときのような哀愁が、彼の心を押し包んだ。
「さて俺がここで番をするかな」
 戯談じょうだんのように軽く云おうとしながら、口を動かすと、さも悲しみ疲れているらしい重い、弱々しい声が洩れた。咲二を縁で遊ばせていたおらくは、悲しそうに頭を振って数珠を揉んだ。
 東京へ返事を遣るに就いても、彼はずいぶん頭を悩ました。浩へ手紙を出すにはこの上好い機会はない。ついいそがしいのにとりまぎれたようにしてやれば……。孝之進は散々、迷いぬいた末とうとう最初の思いつきを決行した。きわめて何でもない心持でいるつもりでありながら、「浩殿」と書くときに、妙な感じが心に起った。筆が思うように動かないで、やや画の不明な幾行もの字の終りに、「浩」というのばかり丁寧に念を入れて書かれたように見えていた。

 秋もだんだん末になって来た。肌寒い或る晩、机に向っている浩の目には、ちょうど窓前の空地にたった一本ある桜の若木が眺められた。青く動かない空の前に、黒く浮いている葉が、折々風の渡る毎に、微かな音をカサカサと立て、今散ろうとする小さい朽葉が、名残を惜しむように、クルクル、クルクルと細い葉柄一本に支えた体中で、舞っているのなどが見えた。
 鉛筆を握ったまま、ぼんやりと葉の運動を見ていた浩は、そのときフト、頭の傍の電燈の方から、何か小さいものが、ちょうど塵のように落ちて来たのを見つけた。古手帳のやや黄ばんだ紙の上に、音でないほどかすかな音――何か落ちるということの素早い連想ばかりで感じられるような――を立てて来たのは、一匹の小さな小さな虫であった。
 体全体の長さが、鯨尺の一分にも足りない、針の元ぐらいの頭に、ようようこれが眼かしらんと思われるものが二つついている。見れば見るほど、小さいながら、調った、美しいというに近いほどの体形をしている。けれども、どうかしてもうすっかり衰えきって、三対あったらしい脚も、二本は中途から折れて、胴の傍に短かく根元がついている。すべてが、実にこまかく、きゃしゃにまとまっている。まるで生きていられることさえ疑われるほどである。が、羽根が見えない。紙の上に目を摺りこむようにして見ると、虫は仰向けになって、落ちて来たらしい。細い体に敷かれて、半透明な羽根が僅かばかり覗いていた。
 暫くの間虫は脚一つ動かさず、非常に静かにしていたが、やがて急に、真中の一対の脚を高く振りかざしながら、ごく狭い範囲――拇指を押しつけたくらい――の中を、頭を中心にしてぐるぐる、ぐるぐると動きまわった。
 実にかすかな、小さい運動ではあるが、虫にとっては大変に辛いらしい。細い体中をこわばらせ、ほとんどもがくように動く、浩は少しびっくりした。そして、多大の興味をもって観ているうちに、更に驚くべきことを発見したのである。この名も知れない一匹の小虫は、二つに裂けて見える胴体の最終部から、目にも見えないような卵を生みつけていたのである。
 毛筋ほどの脚を延ばしきり、体をしょくの柄のように反らせ、この小虫にとっては、恐らく無上の苦痛を堪えながら、完全に責任を果そうと努力しているらしい様子を見ると、浩は一種の厳粛な感動にうたれた。
 暫く静かにしていた虫は、また急に痙攣的に体中を震わすと、少し位置をかえて鎮まる。見れば薄茶色の、ペン先で作った点ほどの卵が、そこに遺っている。今にも捨てられてしまうかもしれない一片の古紙の上に、小虫は全精力をそそぎ尽してしまうほどの努力をもって、大切な子孫を遺そうとしているのである。すぐ捨てられるかもしれない紙の上に……。浩は「大自然の意志」が、あまり歴然と今自分の、この目前に示されているようで正視するに堪えない心持になった。悲壮な、また恐ろしい有様である。
 小虫も、もうじき死ぬのだろう。卵もすぐ紙ぐるみ、何のこともなく捨てられないとは、決していえない。けれども、今こうして小虫は、それらの一つも考えず、自然の命ずるがままに、勇ましい従順さで任務を果そうとしている。
 言葉にまとまらない雑多の感情が、あとからあとからと彼の心に迫って来た。浩は何だか、この一匹の小虫の前に――或る時は彼等の存在することにさえ頓着なく過してしまい勝なこの小虫の前に――自ずと頭の下る心持がしたのである。
 各自の子孫に対して持つ精神過程は、すべての生物が全く同一なのだ――たとい自意識のあるないの差はあっても――と思うと、浩はあらゆるそのときの親というものがいとおしいように感ぜられた。「親馬鹿」になるはずだと思われた。ならずにはいられないように、命ぜられているのだと、或る点まではいえる。浩は何だか妙な心持がした。善種学を人間が考える根本の心持が、痛切に感じられると同時に、どうせ結局は生活の敗残者とならねばならないように見える、体力にも智力にも適者となる素質の乏しい人までが、自分自身ようようよろめきよろめき歩きながらも、親という位置にほとんど無意識に立っている心持が可哀そうになった。
 すべてが大自然の意志である。日が輝やき、月が沈むのと何の差もなく、人が死に、生れ、苦しみするのを自然は見ている。が、決してそうであるのが無慈悲なのではない。求めたずねて得ようとすれば、自然はそれを肯定していると同時に、あるがまま、なるがままにまかせた心で、安穏にしていたとて、何の咎めも与えないのだ。偉いものだ、素晴らしいものだと彼は、つくづく感じたのであった。

 国元の父親から来た手紙を見たとき、浩は、小虫を見たときに感じたと全く同じな、一種の心持、全く説明の許されない一種の感にうたれたのである。悲しいというより恐ろしかった。すべては涙をこぼせる程度の状態ではなかった。まだやっと七つの咲二が、恐れ恐れている禁厭まじないを、観念した心持で掛けられる様子。お咲の狂乱した姿、おらくの念仏。父親が、不快なときに立てるあの陰鬱な足音……。
 不幸の底に沈んだ二組の親子の有様が、彼の目にきて動いた。何ともいえず痛ましいことだ。極端な悲しみが、彼の涙を凍てつかせて、肉体的の痛みを、眉と眉の間に感じたほどであった。
「誰がこれを起す原因となったのか?
 誰が咎められるのか?」
 浩は、うめくようにつぶやいた。
「姉さんは、お母さんに愛された。この上もなく可愛がられた。咲二は家中の者に心配されたのだ……」
「それっきりか?」
 彼は、何か訊ねるように狭い廊下の白壁を見廻した。五燭の電気に照らされて、ぼやけた彼方の方から、「それっきりか? それっきりか?」という合唱が迫って来るような気がした。が、それっきりである、まったく。彼は、おらくがただの一度もお咲をきびしく叱ったのを見たことがないと同様に、叱られている咲二を見たことがない。
「ただ愛情があっただけで?」
 浩は寒い心持になって、歯を喰いしばった。
「ただ愛情があっただけで!」
 彼のたよりない紙片の上にまで、卵を遺させた、「大自然の意志」が、二組のこの親と子を、静かに眺めているのを、浩は感じたのである。
 彼の母親は、まだ十六だったお咲を、可愛いばかりに、恭二が若く、また近親であるということをも考えずに嫁入らせた。そのとき、もう既に、咲二がすべての点に不幸な子として現わるべき胚種が、下されていたのである。けれども、誰もそのことは考えずに、咲二が変則な精神作用を持って出て来たことを、偶然のように、また有り得べからざることのように、驚き、かつ悲しんだのであった。
 お咲は、咲二を人の物笑いにさせたくなかった。どうぞ立派な人、せめては人並みにだけさせたいばかりに、禁厭にすがった。命より大切な子を、とんだことにした心痛のあまり自分まで物狂おしくなる。「自然は彼女等に、母親の愛情――その子のためには、何ものをも顧りみない熱情――をあまりに強く与えてくれすぎた」浩は堪えられない心持がした。二人の狂人を今日いだすまでには、もう幾年も前から、目にこそ見えね準備されていたのである。
 彼は全く辛かった。不幸すぎた。
「けれども、俺は立ちどまることは出来ない! あくまでも進まなければならないのだ。勇ましく、しっかりと、お前は男だ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 涙が、いくら押えようとしてもこぼれた。遣るだけは、岩にかじりついても遣り通さずにはいられない彼の心が、励ましであり、苦しみであった。
 自分の前途において、出会わなければならないどんな運命も、臆病に回避しようとは思わぬ。けれども……。
 自分に期待されている――家を継ぐべき者として、そのことは当然なこととして、他の周囲からは考えられている――と思うと、浩はこわくなってしまった。どこまで責任を持てば好いのか?

        十七

 自分等のごく僅かな家族の中から、二人まで発狂者を出したことは、浩に或る深い疑惑を起させたのである。幾代か前の祖先で、気の違った人はなかっただろうかということが、非常に考えられ不安でならなかった。父親には、病的な精神欠陥がないというだけでは、恐ろしく微妙な遺伝の証明にはならぬ。たくさん生れた同胞達はらからが、皆早死にをしたのも、そんなことが原因になっているのではあるまいかとも考えられる。浩はほんとうに恐ろしかった。
「若し万一そういうことがあれば、どうすれば好い? 俺は不安だ! 考えると堪らない!」
 けれども、浩は働かなければならない。その日の来るまで、彼の仕事をしつづけて行かなければならないのである。今ここで臆測してみたところで、解ろうはずのことでない、その万一の遺伝が現われるかもしれぬ日を怖れて、それまでの、どのくらいかの時間を空費することは彼には出来なかった。また、一方からいえば、万一遺伝されているかもしれぬと同様の万一さで、自分が除外例の者となっているかもしれない。きっとそうでないとは、誰が断言出来よう? それほどどちらも万一のことなら、出来るだけ明るい方面を見て進むべきであるのは、考えとしては解っている。けれども、気が狂ってしまった自分の姿を想像すると、静まったはずの心もとかく乱された。苦しくならずにおられなかったのである。
 今まで無意識に過ぎていたいろいろの精神作用――例えば人なみより強いと思われる想像力が突拍子もない幻影を見ること、ゴム風船を危かしくてふくらがせないような心持――が、皆病的ではないのかと案じられ始める。今にも微細な頭の機関が、コトリと調子を脱してしまいはすまいかと思われたりして、暫くの間浩は、非常に神経過敏にされていた。夜も、急に不安に襲われて飛び起きたきり、眠られないようなことさえあったけれども、日常の、厭でも応でも頭脳を秩序立てさせる事務が、いつとはなし自然にそれ等のことを恢復させた。
 日を経るままに、かなり冷静に考えられて来るようになると、或る程度まで、精神的の訓練を積んでいれば、多少の遺伝的精神欠陥も、補って行けるものであることが解って来た。
「生れた以上は、生きている以上は、その間だけ雄々しく過さねばならぬ。辛かろうが、悲しかろうが俺は堪える!」
 浩は、このごろしばしばの「気」を感じた。感激の涙に洗われては、彼の心が引き立てられた。そして、ほんとうに自分の運命を知って、立派に遣るだけのことは遣りとげた男として、自分のことを想うと、すべての苦痛を堪えるに十分な勇気が強く内心に燃え立ったのである。
 それから四五日立った或る晩、浩は外出したついでに、庸之助に会うつもりで――交叉点へ行ってみた。いつもいる辺へ行ってみたが姿がない。あちらこちら捜しても見当らないうちに、時間もおそくなりして、そのときは已むを得ず帰って来たものの、彼は妙に心配であった。病気なのじゃああるまいかと思ってみたり、何か電車のまちがいがあったのではないかとまで思った。けれども、訊いてみるところもなく、自分の暇もないので、思いながら二三日費して、或る晩また行ってみた。そのときはもう、見えないどころではなく、株でも譲られたらしい一人の老人が、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と小さく叫びながら、淋しげに動きもせず鈴を鳴らしていた。
 失望しながら浩はその爺に訊いてみたが、解らない。
「お前さん、今時の若い者が……クフン、クフン、いつまで夕刊売りをしていますかい。大方どこぞの職人にでもなったでしょうよ」
 喘息だと見えて、喉をゼイゼイ云わせながら、気のなさそうに答えると、爺さんはまた不機嫌らしく、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と力なく叫びながら鈴を鳴らし始めた。賑やかな街の真中に、寒さに震えながら立ちすくんだようにしている爺さんは、まるで、瀕死のさぎが、目を瞑り汚れた羽毛をけば立てて、一本脚で立っているように見えた。
 浩は手持不沙汰にその様子をながめながら、考えた。
「職工になることはあり得べきことである。それもいい。けれども、自分に無断で姿を隠す必要がどこにあるだろう?」
 何か嬉しくない事件でも起ったのだろうということが、推察された。がどうしても仕方がない。爺さんに礼を云って歩きながらも、浩は気が気でないような心持がした。若し誰も知らないところでわずらって、そのまま死んででもしまったらと思うと、自ずと涙ぐまれた。雨が降る晩などは、濡れそぼけて行倒れとなっている庸之助を夢にまで見ながら、また先のように思いがけない機会が、思いがけないところで彼に引き合わせてくれることを、心願いにしていたのである。
 けれども、庸之助と、浩との間には、そのとき既に偶然の機会も力の及ばない距離が出来ていた。二度目に浩が、索ねて行った時分には、彼は北海道の鯡場にしんば行きの人足の一人となって、親分に連れられ、他の仲間と一緒に、もう雪の降った北のはずれへ旅立ってしまった後であったのである。
 あの日「天の配剤によって」自分の心の中に希望を見出した庸之助は、今まで自分から進んで同化しようとしていた周囲に、急に反感を持ち、恥辱と憎しみを感じ始めたのであった。(庸之助は、俥夫と喧嘩をしたことから、交番に引かれたことまで、すべて天の配剤であると信じ、あの事件の代名詞として天の配剤を用いた。)善くなろう善くなろうとしている庸之助にとって、厭わしい、醜悪なこととほか感じられないすべてのことが、彼の周囲に渦巻いている。あらゆる下等な誘惑が、互の拒もうともせぬ間に漲りわたっている。
 庸之助はこの間に在って、独り自分の所領を守るべく努力したのである。けれどもそれは非常に困難なことである。彼等――庸之助からいえば「下劣な奴等」――の群は、今までおとなしく仲間になっているように見せかけて、急に寝返りを打った庸之助に対して、小面憎い感を免かれない。
「フン、貴様がそう出りゃ、こっちもまた出ようもあらあ」という反感が皆の心を占領して、庸之助が、真面目になればなるほど、総がかりの迫害が募って来た。一度、全身をあげて、彼等の仲間の一員となっていた庸之助の内心には、たといいかほど抑圧していようとも、どんな欲求があり、誘惑があるかということは、彼等にはよく解っている。こうすれば、こう感じるということを、千も万も承知でいながら、チクリチクリと苛なんでは、苦しむ彼をなぶり者にしていたのである。
 けれども庸之助は、ブルブルしながらも辛抱をした。そういううちにあっても、揺がない自分を保つことが、真実の修養なのだというのが、彼の確信であった。
 ところが或る晩、ショボショボ雨の降るときであった。
 妙に骨を刺す風と、身にしみ入る雨水の冷たさで、体中かじかむほどになって、腹を減らしながら庸之助は、帰りたくもない合宿所へ戻って来た。
 油障紙を明けると、濁った灯の光に照らされて、脱ぎ散らした草鞋わらじや下駄で一杯になっている土間を越して、多勢が車座になって、酒を飲んでいるのが見えた。
「悪いときに帰って来た!」
 庸之助は、つとめて皆の注意を引かないように、隅の方で足を拭くと、そこそこに膳に向った。寒さで好い加減冷えている彼は、冷たい飯を食べると、歯の根が合わないほどになった。頭の下の方が、強直して来るような気さえして、ボッとする酒の香いが、しみじみとこたえた。絶対に禁酒してから、まだ一ト月ともならない彼の味覚は、はっきりその快い酔際の味を覚えている。が、おくびにもそんな気振けぶりは見せなかった。彼等に知られるのが厭で、装うた無頓着さが、彼の態度を忽ち、ぎごちなくした。
 カチカチな干物をほごしていると、今まで何も知らないようにしていた仲間の一人が、
「オイ、一杯よかろう?」
と突然猪口ちょくをさしつけた。多勢の酔った声が、呑め呑めとわめいた。
「いやいらない」
「まあそんなに意地を張らなくたっていいやな!」
「飲みてえって、顔に書いてあらあ! ハハハハ!」
「ハハハハハハ、偉いよ!」
 面白そうに嘲笑う者達を、庸之助は鋭く睨み返した。
「何で飲むもんかい!」
 彼は、鼻について堪らない酒の薫りを強いてまぎらせながら、さっさと飯をしまった。そして隅の方へよって、揉みくちゃになって放ってある新聞を見始めた。けれども、実は見る振りをしたのである。字をたどりながら、彼の頭は、酒の香いと、味と、どうしたらこれに勝てるかということで一杯になっていたのである。皆が、自分の心の奥を見透しているのが知れれば知れるほど、庸之助はそうでないらしく見せたかった。今飲む酒は、単に自分を酒に負けただけに止めて置かないことを知っている彼は、どんなにしても辛抱し通さなければならなかったのである。
「けれどもまた何という高い香いだろう!」
 鼻を通り喉を過ぎ、胸の辺で吸い込んだ香いのかたまりが、熱くなって動きまわった。ムズムズ不安が心を乱す。負けてはならぬぞ。負けては大変だぞ! と思えば思うほど、無性むしょうに飲みたくなる。チラリと仲間の方を偸み見ながら、彼はゴクリと喉を鳴らした。
 それが不幸にも、彼等の目に止まった。
「へ! あの面!」
「こわがっていやがらあ!」
 賤しい笑い声がどよめいた。猪口や徳利とくりがガチャガチャ鳴った。
「まだ降参しねえんかい? わるく強情だなあ」
「怨めしいような面あしてやがるわ!」
「ここまでお出で、甘酒進上だ! へへへへへ」
「どうせ飲むんじゃあねえか? その面あ何だい!」
「喉から手が出そうだあな、馬鹿!」
「かまうない※(感嘆符二つ、1-8-75)
 庸之助は怒鳴った。
「かまうない! 畜生※(感嘆符二つ、1-8-75)
 けれども、もう危いと彼は直覚した。もう危ない。わざと目の前に出された猪口の中で、黄色く光っている液体に向って、制御しきれない勢で、心がころげて行くのを感じた。ちょうど止め度を失った車輪が、急傾斜な坂道をころがり出した通りに。
 庸之助はいても立ってもいられない心持になって、いずまいをなおしたとき、よろよろする一人が猪口と徳利を持って彼の前に進んで来た。
 突出した両手のなかで、猪口の縁と、徳利の口がカチカチとぶつかり合う。コクン、コクン酒が猪口に流れ出す! 庸之助は我にもあらず突立ち上った。顔をのめり出させて、凝視する眼が、貪婪どんらんに輝やいて酒の表面に吸い寄せられていた。極度の緊張と激昂とで、庸之助は傍でガヤガヤ騒ぐ物音などは、耳にも入らなかったのである。
「飲め!」
 彼はボタボタ雫をたらしながら、庸之助の口の辺へ猪口をさしつけた。痛いほど高い、高い香りがギーンと頭へ響く。
「飲めったら!」
※(感嘆符二つ、1-8-75)
 庸之助は、いきなり相手の体に突掛かった。そして徳利に手をかけるや否や、満身の力をこめて、撲りつけた。徳利に触れた瞬間彼の衷心には、破れかぶれな、いっそ一息に煽ってやれというような思いが猛然と湧いていた。けれども次の瞬間、彼の手が無意識に振り上って、堅い手応えを感じた刹那、飽くことを知らぬ残忍性、気の違う憎しみが、暴風のように彼の心に巻き起ったのである。
 皆の立ち騒ぐ音に混って、上ずった庸之助の叫び声が物凄く響いた。器物の壊れる音。叫び。揺れる灯かげに、よろばいながら動くたくさんの人かげ。
 庸之助は、ますます狂暴になった。手にさわるものを、ひっつかんでは投げつけ、投げ倒し、阿修羅のように荒れまわった彼は、何か一つのものを力一杯撲りつけたとき、酒にまじって、生暖かい、せるような生臭いものが、顔にとびかかって来たのを感じた。
「血※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 彼は、思わずたゆたって、よろけた。
「血! 人殺し! 人殺し※(疑問符感嘆符、1-8-77)
 彼は身震いを一つすると一緒に、前後も見ずに裸足はだしのまま、戸外おもてへ飛び出してしまった。
 霧雨のする闇路を、庸之助は一散に馳けた。

 それから彼が、鯡場にしんばの人足となるまでのことなどはもちろん、浩はこの騒ぎさえも知らなかった。
 苗字もなく、生きているのさえうんざりした者達の集っている、暗い罪悪にまみれている世界では、そのようなことは何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼等のいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、すべてが、しっくり落付いていたのである。

        十八

 それから暫く立っての或る日、浩は父親が卒倒したという知らせを受けた。
 後から後からと押しよせて来る不幸な出来ごと――自分の若さと健康、希望を持って励んでいる者にさえ、堪えがたく思わせるほどの悲しい事件――がどのくらい父親の老いた、疲れきってすぐ欠けそうにもろくなった心に打撃を与えたかということは、思いやるに十分であった。めきめきと衰えて行くらしい様子を考えると、全くゾッとした。今若し彼に万一のことがあったら一家はどうなるか? 自分の腕で老母とお咲親子を扶養して行かれないのは、こわいほど明白なことである。それかといって、どこに、何といってすがりつけるか? 浩はそれ等の限りないことに考え及ぶと、ただ小さい、力弱い自分ばかりが悔まれるのである。自分の年はどうにもしようがないのだとは思いながら、せめて三十近くにもなっていたら、どのくらいすべてが工合よく行ったか分らないのにという心持さえした。
 けれども、それ等はただ思うだけのことで、彼はやはりK商店の事務机の前に、勤勉でなければならなかったのである。それが彼の最上である。が、浩が要求する最上の標準に比べて、現在自分が実現することを許されている最上は、何という低い、小量のものであったろう! どんな人にとっても、ほんとうに世の中はただ楽しいものではない。光輝あるものではない。辛い。
 時には独り、全く独りで奮闘するのに堪えられないようになる。
「けれどもお前は男だ! しっかりしろ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 浩は、無音無形の、彼の守りに励まされては、涙を呑みこみ、足を踏みしめて、彼の道を進もうと努力していたのである。
 孝之進の健康は、浩の想像したより悪かった。彼はもうすっかり、永年の積り積った苦労に打ち負かされてしまったのである。
 お咲の部屋の、無双窓の下に敷いた床から離れることは、ほとんど出来ないようになった孝之進は、急に七十を越したように見える。すべての精神活動が鈍って、ただまじまじと一日中を送っている彼の仕事といえば、折々、枕の下に隠して置く浩からの手紙――もちろん時には、拡げたまま、布団の上に忘れて置くこともあるが――を偸み読みすることと、大きな大きないびきをかいて、眠ることとであった。眠っている間に見た夢と、現在の事実とが混同して、目が覚めたばかりには、妙に調和のとれない心持になどなった。
 M家の金のことなどは、もう思い出しても見なかった。考えて、気を揉んでも、体の自由は利かず、どうせなるようにほかならぬという心持もした。何もかも気がなくなった。自分の命に対しても、彼は愛情も憎しみも感じないようになってしまったのである。
 今も孝之進は、人気のないのを幸、例の通り手紙をとり出した。そして、昨日読まなかった分から、一通とり出した。それは浩が、おらくあてに書きながら、孝之進にもよめるように、いつもの大きな字で、父親の体を案じていること、自分の力の弱いことを気の毒に思うことを述べたものであった。一字、一字に浩の衷心から湧き出した優しい慰撫が漲っている。心のうちで、出来るだけくさしながら読んで行っても、孝之進の目にはしきりに涙が浮んだ。
 頭をガクンガクンさせながら、「もっともだ、もっともだ」と呟いては涙をこぼしていた孝之進は、フト今までひそまり返って物音一つしなかった隣室で、お咲の身じろぐ音を聞きつけると、急に気がついて、こごんだ体を引き起しながら、あちこちを見まわした。猫の子にさえも、泣顔などは見せたくなかった彼は、好いあんばいに、誰もいず、また来もしなかったのに少しホッとした心持になった。自分で自分をごまかす空咳を、二つ三つした。そして何心なく振向いて見ると、思いがけず無双の間から、瞳が二つ、キラキラと自分を見ているのに、すっかり驚ろかされた。お咲がこちらを覗いていたのである。
 日光にあたらないのと、病気とで、暗い中から僅か見える彼女の顔は凄い美しさがあった。全く瞬きをしないような光った二つの目は気味悪い。
 先刻さっきからの様子を見ていたな! と直覚的に思いながら、孝之進は少し狼狽した口調で云った。
「どうした? 呼ぶか?」
(用事のときには、おらくを呼ぶことになっていた。)
「お父さん。咲二は? 何しているの、呼んで頂戴な?」
 孝之進は、ちょっと顔を曇らせた。そして片手で手紙を枕の下に突込みながら、片手を振り振りなるたけお咲の方は見ないようにして、
「うんよしよし。あっちへ行っておれ」
と優しい声音で云った。
「またうんよしなの? お父さん! どうして咲二にそう会わせて下さらないの? え? ね、どうぞ――ほんとにちょっとで好いんだから、一目で好いのよ」
「ああよし、よし、待っておいで、今に会わせてやる。今に……。な、いくらでも会わせてやる」
「今に、今にって、私もう何度おたのみするんだか知れやしないじゃあないの? ひどいわあんまり!」
 急激に発作して、発狂したお咲は、このごろになっては、次第に精神が鎮まるにつれて、一日の中には、かなり度々正気に戻るようになって来た。
 フト夢からさめたように気が付いた瞬間、彼女は暫く自分がどこにどうしているのやら、まるで解らなかった。けれども、次第に正気でいる時間が長くなり、いつとはなく、ほとんど正調に復した頭脳になって来ると、自分の今までのことが、ちぐはぐながら思いやることが出来た。
 そうなって来ると、お咲には、その無一物な暗い、陰気な一部屋の生活が全く堪らないものに感じられて来た。息子が恋しくなって来た。の命にかけていとおしい咲二の顔を一目でも見たい。
「お母さん!」
という呼び声に飢えている。
 お咲は今まで何度両親に頼んだか分らない。哀訴し、涙をこぼしても、まだ病気が本復しないと思っている彼等はどうしても、咲二を会わせない。それどころかかえって、彼女の目にふれないようにと、心を配っている。「気違いが、自分で気違いだと知っておれば、ほんとうの気違いではないのだ」ということは確かではあるが、お咲に対しては、惨めすぎる。
 会わされなければ、会わされないだけ、お咲の愛情はますます熱度を加えて行くとともに、病的になって来たのであった。
「咲ちゃんや!」
 愛すべき息子の名を思っただけで、彼女の目前には、瞬く間に、彼の全体が浮み上った。
 彼が抱かれたときの膝の重み、腕のからみついた感じ。ほこりまびれに、乾き切った髪の毛の臭いや、彼特有の柿の通りな肌のにおいなどが、苦しいほどの愛情を、そそり立てた。
 ちょっとでも咲二の声が聞えると、飢えきった動物の通り、喘いだり、息をつめたりして耳をすませた上、畳に耳をぴったり貼りつけてまで、僅かな余韻も聞き逃すまいとする。
 閉っている無双窓を、差しているピンの先で、みみずの這うほど僅かずつ、時間をかまわずこじあけて、顔中に縦に赤い縞の出来るのもかまわずに、息子の様子を、偸み見ようとする。
 戸をこじっているとき、唇をかみしめ、かみしめ、外を覗いているとき、彼女の心の中には、ちょうど囚人が、爪の間にかくせるほどのやすりで、鉄窓のボールトをすり切ろうとしているときの通りの、寸分異わない熱心さ――常識で判断出来ない忍耐と、努力、想像の許されないほどの巧妙な手段を発見すること――をもって、全身の精力を傾注することを惜しまなかったのである。もちろん惜しい惜しくないは、問題にもならなかったのである。
 それ故、自分の鍾愛しょうあいの者に、自由に接近し愛撫し得る、位置にある者すべてに、彼女は病的な嫉妬を感じた。激情が心を荒れまわって、誰彼の区別なく罵った。
「どうしても会わせないの? どうしても?」
 血が燃え上るような憤怒で、彼女は夢中になった。戸を両手や体でガタガタと揺ったり、蹴ったりした。散々荒れまわった末、疲れきって暫く呆然としている彼女の心が、また落付いて来ると、前と同様な苦悩が、お咲の心を掻き乱し、悶えさせたのである。
 お咲は泣きながら、無双から差しこむ、日光の黄色い中に跳ねまわっているちりの群を見ながら考えた。
「私はどうすれば好いのだろう? 一生この中で暮さなければならないのか、一生! 一生この中で?」
 彼女は恐ろしさに震えた。
「云うことはとりあげられず、咲二にも会われず、口もきかれず、この苦しい思いをつづけながら、何のために、生きていなけりゃあならないのか?
 咲ちゃん、お前は母さんがこんなにも思っているのが解る? 可愛いお前をみすみす人にとられて、母さんはどうして生きていられよう! たった一人で、幾日も、幾日も、一年も二年も、死ぬまでも気違いだと思われて生きているなんて!」
 お咲の目前には、この上なく恐ろしい、悲しい、身の毛のよだつような幻が現われた。生きながら半身土埋めにされて、野鳥や獣に肉を喰われて、泣き喚めいている者。足の先から血が通わなくなり、死に腐って来る。けれどもまだ気は確かなまま、もがき、泣き叫び、逃げようとしても、どうにもならないむごたらしい死様を、自分もしなければならないのだと、彼女は、思った。
「生き身を、こんなところにとじ込められ、正気なものを気違いあつかいにされてどうして生きていられよう。この苦しい恐ろしさをいつまで堪えなけりゃならないのか、あ! こわい! ほんとうにこわい! 咲ちゃんや※(感嘆符二つ、1-8-75) お前!」
 彼女は子供のように、大きな声をあげて泣きながら、名状しがたい恐怖に、怯えた。この暗い部屋! この情けない苦悩! これから先、どのくらいつづくか分らない、ながあいながあい一生※(感嘆符二つ、1-8-75) 恐るべき時間が無限に、彼女の前に拡がっているのを感じた。そして考えた。
「どんなに長いか判らない一生……。一生の間……?」
 不意に或る一つの非常にはっきりした考えが、彼女を馳け出させそうな勢で浮み上った。
「死ぬ※(感嘆符二つ、1-8-75) 私は……」
 大声で叫んで、体ごと跳ね上ったようにお咲は感じた。けれども実際には、かえって、傷ついた獣のように、冷たく臭い畳の上に、彼女は息もつかず突伏していたのであった。
 何かの形と字を、木版摺りにした、気鎮めの禁厭の紙が、彼女の乱れた髪を見下すように、鴨居かもいにヒラヒラしていた。
 おらくは、平常の通り、お咲の食事の給仕をしていた。玉子をかけた一膳の御飯を、いつまでもかかって、めるように食べている娘の前に、彼女は、ぼんやりと、坐っていた。引きつめたびんが、めっきり薄くなったのや、淡い日差しが、淋しく漂っている頸元などを目に写るがままに見ていたおらくは、フト、お咲の懐から、何か繩のようなものが、三寸ほど下っているのを見つけた。
「オヤ! 何だろう?」
 それとなく、気をつけて見ていたおらくは、暫くすると、ほとんど気付かれないほど、顔色をかえた。彼女は、
「まあ髪が大層こわれたなあ……」
と云いながら立ち上った。そしてきわめて自然にお咲の後へ廻って、片手が髪に触るや否や、電光のような速さで、もう一方の手が、下っていた紐のようなものの端をつかんだ。
「アッ!」お咲は低い驚きの声をあげた。そして、それを渡すまいとして、母の手にすがった。が、おらくは全体の力をこめて、紐を手のうちに手繰たぐり込んだ。
 二人は、全く無言で、奪い合った。暗い一かたまりが、あっちにゆれ、こっちに倒れながら部屋中を動き廻った。暫くして、動くのが止んだ。お咲の啜泣きが起った。とうとう紐は、おらくの手にとられたのであった。
 おらくは、息を切らせ、手を震わせながら、そのかなり長い妙なものを明らかに見た。それは、思わず彼女が、「ああ如来様、南無阿彌陀仏!」と叫んだほど、驚くべきものだった。お咲の下に着ている単衣の襟と、片方のおくみが裂かれて、かたいかたい三組の繩によられていたのである。「ああすんでのことであった」彼女は何とも云えない安心に心を撫でられるように感じた。そして泣き伏している、娘の肩をやさしくだきながら、
「こんなことは、決して考えてはなりませんぞ。よくなるときには、だまっていても、如来様がなおして下さる。早まったことは、決しておしでないよ。ああほんに……」
とつぶやいて、頬に貼りついた、髪を掻き上げてやった。お咲の啜泣きに混って、孝之進の寝言が、高く聞えていた。
 お咲の最初の試みは、かようにして失敗した。けれども、この失敗したということが、一層彼女の死に対する狂的な渇仰かつごうを燃え立たせたのである。
「死ねば何にも判らなくなる」
 それだけが非常に彼女の、闘いつかれた心を誘惑したのであった。彼女は、一日中「どうしたら死ねるか?」ということを考えていた。
「どうしたら死ねる?」
 天井や戸や窓を見まわした。けれども、人一人を死なすには、それ等はあまり扁平な形すぎる。終に彼女は自分の体までしらべ始めた。
「どうにかして、死ねないものだろうか?」
あっちこっち触っていた手先が、フト髪に触った。
 その冷かに、滑っこい感じが、第一に彼女の注意を引いた。次いでその量、その……長さ! に思い至ったとき。
 彼女は満足らしい微笑を洩した。そして、さっさと手早く、何の躊躇もなく、櫛を抜いた。ピンを取った。背中に散った髪を、一まとめにして、指の先でくるくるとよりをかけた。それからその端を持って、一杯に頸に巻きつけた。彼女は目を半眼にして、そろそろ、そろそろと力を入れて、締め始めた。
 愉快な軽い圧……。ややそれよりも重苦しい圧……少し強い圧……かなり強い……圧。
 お咲は顔が赤く、熱くなってきたのを感じた。
 頭の方へ皆血が上って、顔中の血管が一本あまさず一杯パンパンになったようで、こわばる心持がする。耳がガンガンいう。息がつまって来た。心臓が破れそうに鼓動する、目が堅くなる……。
 お咲はなかば夢中で、ゼイゼイしながら、手に力をこめた。
「もう一息!」
と、思った瞬間、
「お母さん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 咲二の――夢寐むびにも忘られない咲二の声が彼女の耳元で叫んだ。
「お母さん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 ハッとして手がゆるむと同時に、甘い、すがすがしい空気が、鼻や口から一時に流れこんだ。思わず大きな、深い溜息が出た。けれども、熱く火照って霞んだ彼女の眼に写るものは、相も変らぬ暗い四方と、落ちた髪道具、細く消え入りそうな自分の膝ばかりであった。
 彼女はこれから後、幾度も幾度もいろいろな方法で、自殺を企てた。が、いざという際にいつも失敗した。
 彼女のうちにあって、まだ彼女を死なせたくない何物かが、ほんとのもう一息というときに、強い力で彼女の心を引き戻したのである。
 咲二の叫び声となり、良人の顔となり、或るときは、
「もう少し辛抱すれば、きっと幸になる! きっとなるに違いない!」
という、はっきりとした感じとなって、彼女をまた、ふらふらと生の境域に誘い込んだ。
 こうして彼女は病的な死の渇仰と、生に対する衷心の絶ち切れない執着とに苛まれたのである。
 堪えられない焦躁と煩悶が心一杯に漲り渡った。極度の精神過労で、全く統一力を失ったお咲は、部屋の隅の柱に、ゴツンゴツンと大きな音を立てて頭をぶっつけながら、あてどもなくつぶやき通した。
「どうしたら死ねるだろう? どうしたら……」
 彼女の※[#「うかんむり/婁」、202-18]れきった顔には、痴呆性の表情がそろそろと被いかかり始めたのであった。
 目に見えぬ隅々から、初冬が拡がり出した都会で、浩の生活は相変らず辛かった。寒さが、日一日と加わって来る故郷の僻村で、生と死との間に彷徨ほうこうして、苦しみ悩んでいる三つの魂、病み疲れ、なすことを知らぬ老父、姉、甥。すべては不幸である。浩は、僅かに生え遺った樹木も、一本一本と枯死して行く生活の廃墟に独り立つような心持がする。
「ただ独り立てる者※(感嘆符二つ、1-8-75)
 浩は無限の感に打たれた。淋しい。辛い。けれども、悲壮な歓喜が彼の心を奮い立たせたのである。
 目もはるかな荒寥こうりょうたる曠野の土は、ひろびろと窮りない天空の下に、開拓、建設の鍬が、勇ましく雄々しく振われることを待っているように感じられた。
「鍬をとれ! 勇ましく! 我が若者よ※(感嘆符二つ、1-8-75)
 偉大な手が、やさしく彼の肩をたたきながら囁いた。





底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
   1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月1日公開
2009年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について