最近悦ばれているものから

宮本百合子




 私は、最近米国の所謂文壇が、どんな作品を歓迎し称讚しているかは知らない。が、ほんの一寸でも触れて見た知識階級、又は文芸愛好者とも云うべき人々の間で、悦ばれていた二三の作家を思い出して見よう。
 そう思って自分の読み度いと思う本のリストを繰って見ると、其の大半は欧州の作家である。“The Four Horseman of Apocalypse.”を書いて俄に注目の焦点と成った西班牙スペインのブラスコ・イバンツを始め、松村みね子氏によって翻訳された「人馬の花嫁」の作者、ロード・ダンサニー其他、H. G. Wells, John Galsworthy, Kipling, Anatole France, Maurice Maeterlinck. 等と云う作者は、皆、英国、仏蘭西、白耳義ベルギーの人々である。
 斯様に外国の作家を尊重する現象は直に自国の優秀な作品を持たないと云う事には成るまい。嘗て米国は Stevenson や Allan Poe を産んだのだ。けれども今 Kipling に匹敵する作家としては O. Henry と数え始めて二三と続ける事は出来ない。毎月毎月彼那あんなにも沢山出る雑誌に、彼那にも沢山の作品が載りながら結局は、紙屑を拵えているのかと思う。いくら彼方此方の大学で一生懸命に「短篇小説作法」を講義していても、講義し切れないものがあるのだから恐ろしい。真個ほんとにひとのことではないと思う。さて、此から私の書き並べて行こうとする本の中で真個に読んだのは極小部分である。其れ等の本を近いうちに読んで見たいと思っているのであるから、此処に其名を書くことは、貴方も御読みになりますか、と云う心持である。其れ故決して批評でもなければ、推薦でもない。まして芸術的価値を云々することなどは思いもよらない。一種の作品目録なのである。その便宜の為にも、曖昧な片仮名はやめて、英語は英語のままにして行った方がよかろうと思う。

 先ず本国の愛蘭アイルランドより却って米国に於て早く認められて今は一部の偶像のように成っている Lord Dunsany に就て書こう。彼の経歴は厨川白村氏の印象記の中に委しく書かれているからやめて作品に移る。
 彼は全く白村氏の書かれた通り新しい浪漫主義者であろう。故国の政治的状態に就て話そうとはせずに、昔ながらの伝説と神秘の詩に抱かれながら、「今」を超えて生活をする愛蘭農民の永遠を語るのが彼である。彼の素晴らしい空想は、何時でもすきな時に私共を引攫って驚異の国の神、悪魔に、スフィンクスに引合わせる。彼の二重瞼の大きな眼は明るい太陽の真下でも、体中に油を塗りつけた宝玉商の Thengobrind が「死人のダイヤモンド」を盗もうとして耳のような眼玉を輝かせた蜘蛛の魔物の膝元に忍び寄る姿を見るだろう。
 真個に彼は、奇怪な美を持っている。彼の書く寓話は地上のものではないようにさえ見えるのである。
 けれども、其なら彼はその耽美の塔に立て籠って、夕栄の雲のような夢幻に陶酔していると云うのだろうか、私は単純に、夢の宮殿を捧げて仕舞えない心持がする。夢で美を見るのと、醒めて美を見ると違うのに彼はおきているのだ。起きていて、心が彼方まで貫いているのだと思う。其は彼の作に漲っている深い力強い意向を考えれば解るのだろうと思う。彼の空想の豊饒さの裡には、蒼ざめた果敢はかなさや、愚痴や只甘い歎息は左様ならを云われている。

 Lord Dunsany に次で、現今米国の知識階級に悦ばれているのは、John Galsworthy や H. G. Wells などであろう。
 二人はまるで異った傾向を持っているらしい。誰でも知っている通り H.G.Wells は科学小説とでも云うべきものを独特な天地にしているに対して、Galsworthy の方は、面倒な理屈は抜きで、読む者をどしどしと惹つけて行くような筆致を持っている。H. G. Wells は知らない、が Galsworthy は、彼の体付の通り、どちらかと云うと、細づくりな、輪廓の柔かい、上品と落付きと一種の物懶さをまぜたような気分を持っているような心持がする。余り沢山読んでいないので分らないけれども、一寸した短篇ながら、“The Juryman”の主人公の心持は、可成かなり作者自身の生活に対する頷きを現わしているものではないだろうか。
 彼はちっとも人間を拵えない。英雄的な性格でもなければ、さりとて傑人的な性格でもない、極くありふれた英国の相当に教養を授けられた人々の間に起る事を、平静な、息をはずませない筆で描いて行くのである。
 皆が相当によい心を持っている。が、誰も非常な熱意に燃えて革命を起す人々ではない。我々の胸の中に納まっている種々な希望や意向などの囁きに耳を傾けながら、或る程度まで其等の実行出来難い今日をありのまま受取って穏かな日常生活を続ける一群が、彼の友達らしく見えるのである。

 彼のものを読むと、なにしろすっきりしていると思わずにはいられない。手入れの行届いたモーニングを着て、細身のケーンを持ちながら、日影のちらつく歩道の樹蔭を静かに行くのが彼の作品の後姿である。
 去年の夏頃米国に来遊して間もなく“Saint's Progress”と云う四百頁余の長篇が出版されて六月から八月までに四版を重ねた。
 その他に今解っている作品集は
 “The Man of Property.”
 “The Country House.”
 “Fraternity.”
 “The Dark Flower.”
 “Five Tales.”
 “Villa Rubien, and Other Stories.”
 “The Island Pharisees.”
 “The Patrician.”
 “Beyond.”
 “The Little Man, and Other Stories.”
 “The Inn of Tranquility.”
 “Memories.”
 此等の他に三冊の脚本集がある。脚本としては
 “The Silver Box.”
 “The Eldest Son.”
 “The Little Dream.”
 “The Mob.”
 “A Bit O'Love.”
 そのほか五六の作があるが、私があちらにいたうちに、彼の作品が上場されたと云うことは聞かなかった。
 脚本の事で思い出すが、つい先頃紐育ニューヨークで上場して非常な称讚を受けた Maeterlinck の“The Betrothal”が Alexander Teixeira de Mattos. と云う人の英訳で出版された。
 あれは素晴らしいものであった。真個に又もう一度見たいものの一つである。插画も何もなしで、彼程夢幻的な美が具体的に感じられるかどうかは疑問だけれども、よい本だと思う。丁度今、紐育のメトロポリタン オペラ ハウスで「青い鳥」を上演しているので、余計に心を引かれる。さぞよいだろう。
 つい間近に成った民衆座の同じものが、かなりよく出来たというのは悦しい。

 Romain Rolland の近作“Colas Breugnon”が出版された。
 此は、戦争中に書かれたものだそうだが、上梓されたのはつい近頃の事である。まだ読まないので解らないが、彼の傑作である「ジャン・クリストフ」完成後、反動的な mood の要求によりて此の、明快な、希望と生活力に満ちた大工と指物を業とする五十男の物語りが書かれたのだと云っている。
 主人公は、作者の故郷である Burgundy の村民で、生粋の職人である。
 自然のあらゆる美を愛し、酒を愛し仕事をしんから悦ぶ彼は、自分の哲学を持って生の隅から隅までを愛する男である。彼は失望や倦怠と云う事を知らない。どんな苦痛や困難に打ち叩かれても、決して参ったとは云えなく生れついている。
 “How many glorious things there are on this round ball, things which smile at you, And taste sweet. Life is good, by the Lord.”
 そして村に流行した疫病で、妻には死なれ、愛する孫娘は瀕死に陥っても尚彼は、そのさかんな目覚ましい生活力のままに生を肯定し希望を鼓舞して行くのである。
〔一九二〇年二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「時事新報」
   1920(大正9)年2月17〜19号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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