『文芸評論』出版について

宮本百合子




 ここに集められている宮本顕治の諸評論は、凡そ一九二九年頃から一九三二年三月頃まで、ほぼ三年間に書かれたものである。執筆された当時から今日までには僅か五年足らずの年月しか経ていないのであるが、その間には此等の諸論策の筆者自身の身辺に重畳せる波瀾を生ぜしめた左翼運動の急激な画期的な動きがあり、同時に、プロレタリア文学の現状というものも、此等の論文を書かしめた時代とは全く異った相貌に置かれている。
 今日の読者のために、極めて簡単な日本プロレタリア文学運動の歴史の推移を語るならば、大体左の如く観られるであろうと思う。
 第一期一九一七―一八年頃から同二五―二六年。
(雑誌『種蒔く人』の発刊、『文芸戦線』の誕生、日本プロレタリア文芸連盟の結成等。)
 第二期一九二六年後半から同二七年後半まで。
(アナーキストとの分離、マルクス主義的転換に関する論争激甚を極めたる時代、一面、福本主義的政治理論の文芸理論の領域における移入の時代、日本プロレタリア芸術連盟の分裂、労農芸術家連盟の結成、同連盟の分裂、前衛芸術家同盟の結成等。)
 第三期一九二八年初めから一九三二年三月頃まで。
(左翼芸術運動における理論的統一のための論争、芸術理論の質的高揚と転化、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)の結成、日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成、ナップの改組、「コップ」並びにその参加団体に加えられたる大規模の破壊。)
 第四期一九三二年後半から一九三四年三月頃まで。
(プロレタリア文化・芸術団体建直しのための努力、左翼芸術理論における一進展として社会主義的レアリズムの提唱、「コップ」並びにその参加団体の解散。)
 第五期一九三四年後半より今日に至る。
 ここに収められた諸論文は、即ち、日本プロレタリア文学運動が、当時の社会における客観的・主観的な事情によって理論的に最も高揚し、組織的にも整備せんとした第三期に属す時代において書かれたものであった。各論文は、当時の文学的動向に対して常に緊要と認められた問題にふれているばかりでなく、プロレタリア文学の若き一人の支持者として「『敗北』の文学」(一九二九年)を書き、又「過渡時代の道標」(一九三〇年)を書いた筆者自身が、かかる急速な左翼文化・文芸運動の波の裡にあって、強固な一階級人として発育して行った過程をも亦窺わせるのである。それやこれやを合わせ考えれば、この評論集はその長所においても欠点においても、今日の読者にとっては既に日本のプロレタリア文学史の上の一古典となっていると思われる。例えば、初期の左翼芸術理論に深甚なる影響を及ぼしたプレハーノフやデボーリンの理論は、一九三二年以来高められた国際的な哲学・芸術理論から検討によってその理論における一部の誤謬が認められているのであるが、筆者は既に当時それらの成果を十分摂取して、既往の評論中に認められるプレハーノフ、デボーリンの理論的影響を自己批判し、述作の上にそれを示すことが不可能な事情におかれていたのであった。
 社会主義的リアリズムの問題の提起は、我が国左翼文学理論に実質上大なる前進を可能ならしめた。蔵原惟人、この著の筆者などの諸論中に、方向においては正しく而も哲学と芸術との特殊性における分別においては明徹を欠いて示されていた世界観と創作方法との相関関係に就ての点、政治の優位性と芸術の特殊性との具体的・現実的究明等に関する諸問題の理解は、今日、数歩の前進を示している。又、最近二三年来の社会情勢の変化とそれに応ずる文化・文学の動向は、左翼文学の活動の形態を、これらの評論が執筆された時代におけるがままの姿で行うことを不可能ならしめている。
 然しながら、そのような今日の到達点の内容こそ、実に積極的に評価され、批判されなければならぬ過去のこれらの努力の集積の上に展開されたものであることは、言うまでもない。芸術価値評価の規準についての論究、社会民主主義文学派の動向に対する注目の必要、文学における大衆性の課題、文学における同伴者性の究明等は、それぞれの時代の文学批評の分野において常に絶えざる関心を刺戟される急所である。特に、最近世界情勢の必然から文化・文学におけるヒューマニズムの運動が擡頭しつつある折から、批評文学にとって以上の諸要点は更に益々その錯綜した具体的諸関係の中で闡明される必要がある。この一冊の評論集の内容が、今日の新しい社会と文学との情勢の中で熟読、批判、発展せしめられることこそ願わしく、出版の意義もそこにあると思うのである。
〔一九三七月二月〕





底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸評論」(宮本顕治著、六芸社)の前書き
   1937(昭和12)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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