近頃、一部の作家たちの間に、日本の作者はもっと「大人の文学」をつくるようにならなければならない、という提唱がなされている。この頃一般人の興味関心は文学から離れつつある。その理由を、今日の作家は文学青年の趣向に追随して、その作品の中で人間はいかに生きてゆくべきかという生きかたを示さず、小説の書きかたに工夫をこらしているからであると見る評論家(小林秀雄氏)作家(林房雄氏)たちによって、「大人の文学」論がいわれているのである。
従来、ごく文壇的なひととして生存して来ている小林、林氏などによってこのことがいわれはじめているのは面白い。一般に、近頃の小説はつまらないという声の高いのがとりも直さず文学に対する関心がうすれたとばかりいえるかどうか。つまらない、という上は、読者が何か文学から求めているものがほかにあり、しかもそれが満たされていないところから湧く声である。
さながら文学青年によって今日の作家は害されているようにいわれているが、文学青年と一括されて語られている若い人々としてみれば、そもそも俺たちを産んだのは誰だと、ききかえしたいものもあるであろうとも思われる。なぜなら、きのうまで、文学青年と呼ばれる人々はいわば彼等作家たちのまわりに集まり動いて作家たちの身辺を飾るそれぞれの花環を構成していたのであるから。その生きた花環の大小が文壇における作家の重みを暗に語るものでなかったとはいえないのである。
「大人の文学」をつくるために、林氏は自分たちのように真面目な一群の作家が、すべからく率先して指導的地位にある官吏、軍人、実業家が今日彼等の中心問題としていることを文壇の中心問題として根気よく提唱しなければならないといっているのである。
複雑な生活経験によって豊富にされた大人が、なお十分の魅力を感じつつ読めるような作品が一つでも多く書かれなければならないということについては誰しも異存のあろうはずはないのである。しかし、私としては、この提唱に関して大変興味を刺戟されている一つの点がある。それは、「大人の文学」の提唱がされている一方に、同じ作家たちによって文学の大衆化のことが盛んに語られ、今日の読者大衆の文化的な水準というものはひどく低いのであるから、作家はそれを念頭において書くものをやさしく書かねばいかん、変に凝った、分りにくいスタイルでやっと身を保っているような書き方をやっていたのではいけない、作家はこれまでのように特別な高い文学山頂にだけ止っていてはいけないといわれているのであるが、こういう内容と傾向とでいわれている文学の大衆化の方向と、一方でいわれている「大人の文学」の問題の現実的性質とは、今日の活社会の中で、互にどんな関係をもっているか。この点こそ、今日の文化、文学の動きに注目をしているすべての者が知りたいと思うところである。
「大人の文学」と同時に「文学の大衆化」とを今日盛んに唱えている作家たちは、その二つの問題をそれぞれ切りはなしていったり、または一時にこの二つの問題をただ並列的にあのこと、このことという風にだけもち出して語っているのである。
今新しい声で「大人の文学」といわれているけれども、これまでにしろ、子供の文学ではなかったのだから、二つの問題が今日のような形で提唱されていることは、即ち提唱している作家たちの考えの中で「大人」というものの概念と「大衆」と呼ばれている一般人についての概念が何か違う内容で感じられていることがおのずと明らかなのである。
一般の読者及びいわれるところの「大人」の世界で、失礼ながらたとえば林房雄氏が真面目な文学者と見られているかどうかということは問わないとして林氏自身、自分たちのような真面目な文学者が、その中心問題をもって一致結合しなければならないといっている「大人」というのは、官吏、軍人、実業家といっても、ただの小役人や何かではない。おびただしいそういう連中の形作る底のひろい三角形の頂点の部分、「情熱と信念」とをもって今日動いている一部の指導的な連中と、大衆を指導すべき真面目な一部の文学者である自分たちとが結合すべしというのである。
こういう「大人」がこの社会について考えるその考えと観察とで、作家は大衆的に書け、といわれているのであるが、この場合大衆は、そういう一群の「大人」な官吏、軍人、実業家達及び彼等と膝を交えて大人並に腹のある遊興も出来る一群の作家に指導される文化水準の低い、何故浪花節が悪趣味なのかも分らない、偉い官吏、軍人、実業家ではない人間の大群として考えられているのである。
作家は大衆の心を語るひと、大衆の生活の喜びと悲しみと希望とを謳ってくれる人として、作家は知識人のうちでもある特殊な地位を与えられていたはずであった。大臣の名は知らない人でも、蘆花や漱石の名を知っていたわけはここにあった。
この四五年の急に動く世相は、大多数の人々の日常生活を脅かして、経済的な不安とともに文化的な面で貧しくさせて来ている。そのことは純文学の単行本の売れゆきのわるさ、その対策の推移を見てもはっきりしていると思う。小説の単行本が売れないといわれて来てから、出版屋は一昨年あたり、いわゆる豪華版というものの濫発をやった。高くて綺麗な本でなけりゃこの頃は売れません。つまり、本の内容からは何も大して期待しない、金のある人だけがこの頃は本を買い、自分たちの日常の不安からもこの世の中のことが本当に知りたいような人々はその逆に金がないという有様になって来た。物価があがる。雑誌を買っていた金は、高くなった洋服の月賦にまわさねばならない。小説を買って、カフェーのマダムをめぐる四人の男の情痴の世界を読むよりは、今日「大衆」の真面目な「大人」の心配は、子供をどうして育てるかにかかっているであろう。
文部省の教育方針が本当にかわれば、中学へ息子をやるにさえ、家庭の資産状態が調べられなければならない。数年前デパートの女店員は家庭を助けたが、今は家庭が中流で両親そろい月給で生計を助ける必要のないものというのが採用試験の条件である。「大人」に憂いが深いばかりか大人になりつつある若い男女の心も、訴えに満ちている。世の中は何故こうなったのだろうか、という問いが体に満ちているのである。
作家がもし大衆の心の描きてならば、この生々しい、生活によって発せられている「何故」という二字をとって、作品の中に生きかたを知らしてくれるはずであった。
ところがある作家たちは、今日直接それを書こうといわず、別な範囲の「大人」の中心問題を大衆に分るように描こうと提唱しているのだが、それならばその「大人」の世界はどんな姿をもっているのであろうか。このことは一つの簡単な質問とその答えとで明らかにすることが出来る。官吏、軍人、実業家の大頭の連中が、待合にゆくのが遊蕩であると考える俗人を
横光利一氏などが中心に十円会という会があるそうである。明治の初期、戯作者気質ののこっていた通人気どりの文士たちならば、ざっくばらんに「食おうかい」とでも呼んだであろうし、明治末葉から大正にかけての作家連であったらば、十円をつかって遊びながらも文化人、芸術家としてこの人生の発展のために彼等の負うている責任の重く遠いことの自覚を加えて、重遠会とでも名をつけたかもしれない。現代の少壮と目されている作家等が、むきだしに十円会と金だかだけの呼び名で一定のレベルの経済生活と文壇生活とをしているグループの会を呼んでいるのは実に面白いと思う。
十円の金は十円の金で、どうでも使える。死金にもなり、悪銭にもなり、
特に、この三十歳を越して四十との間にさしかかっている作家たち、十円会あたりの人々が主として今日「大人の文学」を唱えている事実は一層私たちに人生的観察の心をおこさせるのである。これらの人々の日常が、ブルジョア的環境にありながら、実質は小市民的であって、謂われている大人(官吏、軍人、実業家)の大頭の世界の中に織込まれてはいない。彼等の支配的、高等的政策にはあずかっていない。そのことが、「大人の文学」を提唱させる心理の奥に作用している。文化、文学を発展させる自主的な精神力の喪失、経済事情の今日の小市民層らしい逼迫などが、微妙にからみあっているのである。小説を書く人より、小説に書かれる人の心の動きとも見えるではないか。
漱石やその後のある時期まで、作家の社会性の弱さは、むしろ彼等の芸術家的自尊心、文化、文学の独善的な価値評価に現れていた。例えば漱石にしろ、文学のことがききたければ、そちらから出向いてくれと時の宰相に対しても腹で思っている作家的気魄があった。そして、彼の芸術も、彼のその気魄も、根底には当時の日本の社会の歴史がインテリゲンツィアの心に反映している積極性と同時に、芸術についての観念的な理解を抱かせていたことは知り得なかった。
今日にあっては「大人」という一つのごく日常生活の中でわかっているはずの観念でさえ、「大人の文学」を提唱する作家たちのような内容づけと、大衆自身が自分たちの生活と年齢との中で実際感じている大人の実体との間に、前述のように質の全く違う理解を生じるに至っている。
少年、青年時代は、人の一生を見てもある点模倣がつよい。一国の文化、文学についてもそれはいい得るであろう。日本の文学が、独自的な芸術をもつべきであり、もち得る時期に入っているということの主張も、「大人の文学」の提唱のうちにこめられていると思う。しかしながら、そのことは、直ちに官吏、軍人、実業家の中心問題を文学の中心問題とすることでないのは明瞭である。今日いわれている「大人の文学」の提唱に、こういうごく素朴な、政治と文学との混同が顕著であることは注目に価する。老藤村が、文化勲章の制定に感激しつつ、いまだ文学が一般の人、特に政治家に分っていないこと、そのためにこのよろこびが些かほがらかならざることに遺憾の心をのべているのは味わうべきところであった。文化勲章は従軍徽章でないのである。藤村が、文学者の中に文学を理解しない者を発生させている時代的文化の貧困について語らなかったのは、あるいは一つの礼譲からであったろうか。
〔一九三七年二月〕